カテゴリー「モノ・コト論」の664件の記事

2012.02.08

悲観は楽観の母

0048 「観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
 昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
 昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
 私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
 人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
 なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
 五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
 私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
 いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
 どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
 悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
 いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
 そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
 だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
 実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
 「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
 そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
 そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
 前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
 そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。

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2012.02.07

『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書)

20120208_91529 「山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。
 五木寛之さんですから仏教の話だと思ったのです。私は登山家ではなくそちらに近い人間なので(苦笑)。
 なるほどねえ。我々日本人はすでに登頂してしまったのでしょうかね。そしてその山はなんという山だったのでしょう。なぜ、私たちはみんなでその頂を目指してしまったのでしょうか。
 なるほど、「山の醍醐味は『下山』にある」か。ゆとりをもって、周りを見回すことができると。そして頂点に集中していたものが拡散していくという発想も理解できます。もちろん、そこから新しい山を目指すという可能性の行為ととらえるというのも分かります。
 ただ、この本を読んで、私が救われたかというと微妙です。それは私という読者の特殊性のゆえだと思いますから、筆者を責められません。
 一つは、登山家でない私には「下山」が決してゆとりのあるものではなかったということです。私の数少ない「下山」経験からすると、それは苦痛でしかなかったのです。
 まずウチの裏山である「富士山」。こいつの「下山」はいつも最悪です。下山するんだったら、ずっと登っていたいくらい私は嫌いです。なにしろ足が痛い。膝がガクガク。そして、足の先、足の裏に激痛。ま、単にシロウトだからでしょう。でも、いやなものはいや。
 その他の山でも「下り」はどうも好きではありません。なにせ、私のつまらない根性には、「せっかく登ったのに下りちゃうのもったいないな」と感じられるからです。「またあの俗世間に還るのか」という落胆にも似た虚無感があるのも事実です。
 おそらくそれもまた登山のプロからするとなんとも稚拙な精神性の賜物であるのでしょう。残念であります。だから、この本の比喩としての「下山」にいちいち納得できなかったのです。
 理想論としては分かります。うまい発想の転換だなとも思いました。しかし、この先、とりあえず下界に下りなければならないこと、そしてその下界がその後どうなっているか分からないこと、さらに今登った山にはもう登ってはいけないと暗に言われていること、かと言って次に登るべき山の姿すら見えないこと、もっと言えば、次なる山があるのかどうかも分からないことも事実なのです。
 この登山と下山を自己の人生の比喩として読むと、これまた「下山を楽しめ」と言われてもなかなか難しいですよね。もう一山登る元気がないという人もいるでしょう。それから若者はまだ一山すら登っていないのに、いきなり下山かよ!?でしょうしね。
 私はこう思います。やはり下山の苦しみは下山の苦しみであると。また、下山の楽しみに下山の楽しみにすぎないと。下山という行為自体に意味や価値を見出しても、それだけではダメなような気がするんです。
 はたして今登った山の価値はなんだったのか、それをじっくり考え反芻しながらの道筋であるべきとも思います。決して「登った山が間違っていた」ではありません。
 もう次の山には登れないかもしれないのです。いや、山に登る必要もないのかもしれません。ただみんなで一つの山に登ったことは事実なのですから、そこに最大の意味と価値を探すべきでしょう。
 それは、それこそ仏教的な「上山(入山)」と「下山」の関係と同じだと言えるかもしれません。私もたった一泊の修行の真似事を何回かやらせていただいていますが、たったそれだけでも、下山のすがすがしさや達成感と、そこに必ず寄り添う一抹の不安や寂しさを、いつも感じています。その相矛盾する感覚こそが、私は「下山の思想」であると思います。
 すなわち、実際の登山であっても、お寺に関することでも、山に上るというのは「現実から離れる」という意味合いが大きいと思います。そして実際に客観的俯瞰的に自己や社会の現実を再確認し、そして再び下っていくわけじゃないですか。
 ということは、歴史的に私たち日本が果たした「登山」というのもまたそういう意味合いのものだったかもしれないわけです。つまり幻想への逃避であったと。
 そして、今そこを下りて現実に帰還せんとしている。その一種の不安こそが、現代の「うつ」や倦怠感そのものなのではないか。それは「重力に逆らわず落下する」感覚とでも言うのでしょうか。
 無理やり私の仏教的「モノ・コト論」に引き寄せるなら、登山は自然(重力)への反発という意味で「コト」になり、下山は自然(重力)に対する従順という意味で「モノ」になります。そうすると、我々が感じている「下山の憂い」こそが、いわゆる「もののあはれ」であることが分かりますよね。
 そこに気づくことが実は第一であって、そこからさあどうしようかというのが、仏教の、いや我々人類の大きな課題です。
 すなわち、私たちは戦中、戦後と、大変な修行を課せられたのです。ある意味両極端な修行を。さらに総決算とも言えるあの震災や原発事故がありました。それが終わり、今現実に還ろうとしている。
 修行を終えた私たち自身は、明らかに登山(上山)前とは違っています。当然その目には下界は以前と違って見えることでしょう。
 この修行の成果を発揮するのはこれからです。「下山」は未来への覚悟をするステージです。
 結局は五木さんと同じような結論になりますけれども、これが私なりの「下山の思想」ということになるでしょうか。

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2012.01.25

三路スイッチ・四路スイッチ…そして脱電力のお話

 日の技術の時間は「3路スイッチ(三路回路)」についてのお勉強。
 皆さんのお宅にもあるのではないでしょうか。階段の上と下で電気をつけたり消したりできるスイッチ。
 ウチの階段にもありますね。ウチのは四路です。つまり、三カ所でつけ消しができるタイプ。
 これっていったいどういう回路になってるんでしょうか。今日は技術の先生がそれを生徒に考えさせました。皆さんも考えてみてください。答えは下にあります。
 四路になるとちょっと難しいですよね。というか、四路スイッチを発明した人は偉い!誰なんだろうか。私は四路は考えてもわからず、答えを見てしまいました。
 技術の先生とも話したんですが、今どきの子どもたちは、たとえばこのようなスイッチがどういう仕組みになっているかなんて、ほとんど考えませんね。
 世の中の機械のほとんどがブラックボックス化していまして、そういう仕組みというものを考えなくても生活することができるようになりましたし、たとえ興味を持ったとしてもそれを確かめる術がないというのも事実です。
 私の子ども時代なんか、まあなんでもかんでも分解してましたからね。それって、つまり「中身はどうなってるんだろう?」とか「どういう仕組みでこうなるんだろう?」とか、そういう興味にかられて、居ても立ってもいられなくなっていたということですよね。
 そして、当時の機械はそれを許す作りでしたね。分解可能でした。今の機械は分解できないようにできていますね。つまり、作った側も修理するつもりがないということでしょう。壊れたら捨てて買い換えると。
 大人がそういう世の中を作ってしまったおかげで、今の子どもたちは「想像力」を失ってしまいました。ウチの学校では、いろいろな意味で「想像力」を育てたいと考えていますので、その一環としてのこの技術の授業です。というか、大人である(すなわち昔の子どもだった)私たち教師の「遊び」という意味合いも多分にありますが(笑)。
 「遊び」には危険も伴います。リスクがなければ「遊び」は成立しません。「遊び」の本質の一つは「危険への挑戦」「未知への挑戦」「想定外への対処」です。そのための最大の武器が「想像力」なのだと思います。
 そうそう、その技術の時間では、「短絡」や「感電」も経験させていましたよ。
 まあそういう「危険」に伴う責任が製造者側に課せられるようになっていますしね、どうしても作る側もそういうリスクを避ける方向に行っちゃいますよね。
 今、いろいろな意味で、「電気」が注目されていますが、考えてみると「電気」自体が得体の知れないものになってしまっています。いや、本来得たいの知れない「モノ」であるはずなのに、ブラックボックスの中でしっかりコントロールできている「コト」であると、我々は勘違いしているのです。
 原発事故なんか、まさにその結末であり、ある意味「もののけ」たる電気、あるいは原子力(核力)、つまり自然の反乱、反撃とも言えなくもありません。
 だいたいですね、この電力社会というのが幻想の産物なんですよ。私も含めて、そこのところに想像力が及ばず、こういう社会に依存して安住してしまった。
 この期に及んで、電気自動車やオール電化とか言っている私たちって…。世の中の自動車が全部電気自動車になったら、いったいどれだけ電力使用量が増えるか。そんなことすら想像できない私たちって(ちなみに原発を新設せずに電気自動車に要する電力を全て火力発電所で補うとすると、肝心の温暖化の問題、化石燃料枯渇の問題も単純には解決しなくなる)。
 今の私たちの使用電力量を半分にするとなると、なにか大変な、ある種原始的な生活に戻るような気がしてしまいますが、実際には1970年代に戻るだけです。あの高度経済成長期の「電力生活」に戻るだけです。
 いや、今では省電力化の技術が進んでいますから、あの頃よりもずっとぜいたくな「電力生活」ができるでしょう。
 そういう意味では、今必要なのは「脱原発」ではなくて、もっと根本的な「脱電力」なんですよね。いや、「脱電力」というよりも「脱過剰電力使用社会」と言った方が正確かな。
 もちろん、一つには私たちの省電力生活化も大事ですけれども、今の電気の垂れ流し状態からの転換を図るために、私のいつも言っている「蓄電」技術の進歩も大切です。大型キャパシタの研究開発に期待します。日本の工業界、逆転の最後の切り札は「蓄電」にあります!
 さて、話がだいぶ逸れたので、最初の問いに戻りましょう。三路スイッチの回路図できましたか?四路をゼロから考えられたとしたら、あなたは天才です!
 では、答えです。

三路スイッチ回路図。

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四路スイッチ回路図。

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2012.01.17

南方熊楠 『土宜法竜宛書簡』より〜「モノ・コト論」

20061013235545 ンター試験も終わり、高校生は国立二次対策、そして私大の一般入試の対策に入りました。ここからがある意味私の腕の見せ所…かな。
 あっそうそう、おととい紹介した今年のセンターの小説問題、ウチの中学2年生に解かせてみました。もちろんなんの対策もせずに。あえて言えば、ウチは出口汪先生の論理エンジンをやってるので、かなり論理的読解力はあると思いますが。
 結果は、当然ながらピンからキリ。ちゃんと選択肢を部分部分にわけ、それぞれ○△╳をつけている生徒もいれば、ロト6式に5分で終わっちゃってるのもいました。しかし、結果としてはみんなあんまり大差ない点になってしまいました。現役の高校生(受験生)ともあまり変わらない現実(苦笑)。
 ちなみに最高点は39点二人でした。立派ですね。
 つまりそういう試験なのであります。センターの国語の小説なんて。
 さて、今日はまた違った意味で「難しい」早稲田の国語のお話。というか、別に早稲田大学の問題についてうんぬんするわけではありません。極私的な動機です。
 私の「モノ・コト論」、なかなか賛同者が現れない(すなわちアヤシイ)わけですけど、実は一見似たようなことを言っている過去の偉人がいるんです。
 その文章が2008年の早稲田の文化構想学部の試験に出ていたんです。実はそれについては、当時、こちらの記事で紹介しています。
 今日はその中から、南方熊楠自身の書簡の部分を紹介します。この書簡の前に、この書簡の内容を紹介している中沢新一さんの「森のバロック」の一部が載っているんですが、それは著作権の問題もあるので割愛。熊楠の方だけ紹介します。たぶん本文は歴史的仮名遣いだと思われますが、ここはテストの本文と同様に現代仮名遣いにしておきます。
 


 電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を暖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界とまじわりて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事ということにはそれそれ因果のあることと知らる。その事の条理を知りたきことなり。今の学者、ただ箇々のこの心この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。
 科学のみで今日まで知られたところでは、輪廻ということはたしかにあるごときも、科学のさわること能わざる心界に輪廻行わるるや否やという問いには、実に答えに苦しむ。何となれば、小生今日悪念を生じたりとて明日別にこれがために懊悩せず。多くは忘れ終わるものなり。されば物界に生ずる、これこれの水をこれこれの温度にたけば、これこれの蒸気を生じてこれこれの大いさの物を動かすというとは異なり、心界に生ずる現象はあるいはつねに報あらぬものにやとも思わる。これをきわむるには、小生一人の心できわむるよりほか仕方ないが、右に申すごとく、心界中のみには輪廻ということは、たしかに小生には見えぬ。
 すなわち石が墜ちて瓶にあたれば、石が因となりて瓶を破るように、今日小生善を思いたればとて、別に思うただけの報を思うものにあらず。また悪念を起こせりとて、別に後日これがため悪事を念うということもなく、ただ一座なりのようにも思う。ただ心界に感ずる因縁応報というは、心界が物界に接して作用(事)を生ぜし上のことで始めてあらわるるものと思う。すなわち小生が人の物ぬすむは、小生の心が手をつかいて物をぬすむという作用を現出するなり。その返報としては、あるいは小生が人(小生より見れば物)でどやさるること等あるべし。この物心両界が事を結成してのち始めてその果を心に感じ、したがってその感じがまた後々の事の因となりなり。

 熊楠の「事は心と物がまじわるところに生まれる」という基本的な考え方は、私の「モノ・コト論」とは一見似ていますが、実は非なるものです。
 つまり、私は「心」というか、人間の「認知」こそが「事」そのものであるととらえているんです。目に映り、心に感じた時点で「物」は「事」になるということです。
 今年のセンター評論で言えば、「私」が認知している世界も全て「私(コト)」の一部であり、その他補集合は全て「他者(モノ)」であるということになります。
 だからどうなんだと言われると困ってしまうわけですけど、とにかくそれがお釈迦様が悟った、この世の中の唯一真理(マコト)であるということです。
 そして、その「モノ」と「コト」という言葉の意味と、それに基づく世界の構造を語誌的に証明しようとしているのが、私の「モノ・コト論」だということですね。
 熊楠の書簡の後半部分は、ある意味、あの当時のオカルトブームを想起させますね。そして、因縁応報(因果応報)については、ちょっと考えが浅い気がします(笑)。悪念を抱いた報いが、必ずしもすぐに「罰」として現れるはずありません。もっと超時的、超世代的に応報するものです。

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2012.01.14

相変わらず選択肢の日本語に難あり。(2012 センター試験 国語…評論)

20120117_101845 んだか忙しくて(人と会って話をする機会が多くて)、今年はとっても遅いレビューになってしまいました。
 センター試験と私の距離も、以前に比べると少し遠くなったような気がします。ですから、正直センターを解くことが優先事項とはなりません。まあ、中学の仕事が中心ですから仕方ありませんね。なんとなく寂しいような気もします。
 しかし!昨年もこんなふうにに吠えまくっていますからね、今年も期待されてこちらを訪問してくださった方が多数いらっしゃるようです。何か少しは書かねば。
 そうそう、昨年の記事には実にありがたいコメントがたくさん付いたのですが、あの最後の「某」さん、お元気でしょうか?まあ「二度とここを覗くことはない。読む価値なし!」と断言していますから、ご挨拶しても意味ありませんが(笑)。
 ということで、今日は評論について(問題はこちら)。う〜む、今年はあんまり噛みつき所がないなあ。つまり、まあまあ良問だったということです。丁寧に読み込み、抽象的な言葉を感覚に落とし込んでいけば満点取れるでしょう。
 本文は人間の自己意識、「私」の特異性に関する内容。これは、まんま私の「モノ・コト論」なので理解しやすかった。そう、この「モノ・コト論」を身につけてしまうと、いろいろな文章や世の中の面倒な仕組みなどが理解しやすくなりますよ。
 つまり、自己意識=コトであり、その他全てがモノだという考え方です。前半で言えば、「個体」がコトで「環境」がモノ。
 で、お釈迦様のように真理をつきつめていくと、その「コト」がですね、筆者の木村さんがおっしゃるとおり、内部(領域)を失っていって、しまいには「点」になってしまう。そうすると点自身が境界線になるとも言えるし、境界線がなくなるとも言える。それが自他不二ですね。
 ま、これを読みながらこんなことを考えているのは「モノ・コト教」の教組、私だけでしょうが(笑)。いや、この本文のように小難しい言葉で表現されている「コト」は実はとってもシンプルな「モノ」なんですよね。
 まあ、それはいいとして、一つ苦言を呈するとすれば、昨年と同様に、選択肢の日本語がへんちくりんで混乱するというのがありましたね。
 たとえばこのブログなんか、まあ全く推敲せず(再読すらせず)に書き散らしていますから、それこそ誤字脱字やら論理的なねじれとか当たり前にありますけどね、しかし、こっちは何十万人もの人生がかかっているセンター試験ですからね。
 問2の選択肢全体のことです。五つの選択肢全てが、「ある個体にとって、〜に加え、〜もまた環境の一部となること」という形になってますね。
 この問題は筆者独自の考え「(自然など一般的な環境だけでなく)他の個体も環境の一部」を把握させる意図があるわけですが、選択肢の「〜に加え」が多義的であるために、ちょっと最初勘違いをしてしまいました。
 つまり、私は最初「〜に加え」を単純に「答=○+△」の「+」だと思ってしまったわけです。お分かりになりますか?だから、○の部分に「自然」が出てくる選択肢4と5をはじめ排除してしまったわけです。だって、正答の根本的な条件に反しているから。
 しかし、他の選択肢があまりにも変だったので昨年の記憶が蘇ったのでしょうね。待てよ、この「〜に加え」は「(○だけでなく)」、あるいは「(○なみならず)」という意味であり、傍線部Aの中には直接含まれない成分なのか、傍線部Aの言外、すなわち傍線部以前に述べられていた内容を受けているのか、とやっと気づきました。それまでに数分かかったのでは。
 昨年も結局、あの選択肢の日本語が曖昧であって、いろいろ解釈ができてしまう文だったわけですよね。結果として分かればいいじゃん!とも言えましょうが、やはり大規模な客観テストなんですから、あらゆる読者(受験者)の視点で文を推敲、校正するべきでありましょう。
 相変わらずこんな日本語を読まされる受験生は大変であります。木村さんの文も、もう少し分かりやすく書けるのでは。書き直してみようかな。
 明日は小説などについて。


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2012.01.13

想像力と倫理

20120114_75327 日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
 氏の環境倫理学の本は何冊か読んだことがあります。何が書いてあったか全く覚えていないので(笑)、このブログに書いたであろう記事で思い出そうと思ったのですが、検索してみたらありませんでした。
 あっそうか、たしか高校入試の問題で使ったので、それで記事にしなかったんだ。記事見ると何が出るか分かっちゃいますからね。たしかにこれは倫理的に許されませんな。
 その代わりに「子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える」という本の記事が出てきました。これもまた読んだことすら覚えておらず、またこんな記事を書いたことも全く覚えていないという、非常に情けない事実(苦笑)。やはりこのブログは個人的な備忘録としても機能しておりますな。
 さてさて、今日の加藤さんのお話、原発問題を哲学で斬る!ということで、なかなか興味深い内容でした(哲学というより倫理学でしたけど)。しばらくはこちらで見られますのでぜひどうぞ。13日分の後半の方です。
 このムービーに採用されなかった「確率」と「期待値」の話も面白かったですよ。科学の限界の一端を示す話だと思いました。
 すなわち…「1/1万×1/1万=1/1億」という確率計算から原発は安全だと言われてきた。しかし、それぞれの1/1万は独立事象に関することである。しかし独立事象というのは理論上のことであり、現実にはありえない。特に地震や津波による原発事故の場合、それぞれのシステムが「独立」であることはありえない…と。
 また…「10年に1回、10億円の損害」と「100年に1回、100億円の損害」というのは、期待値的には同じだが、我々の生活感、倫理観からすると全く違う…と。
 この話を聴きながら再確認しましたね。数学が象徴するように、科学は人間の想像力(感情)を排除するところから始まるんだなと。
 つまり、基本的に顔が見えないんですよ、人間の。ここのところ何回か書いてきたと思いますが、私たちは相手の顔が見えないと倫理を失います。
 たとえば、今回ですね、こういう事故が起きて、自分や自分の子どもが被曝すると、これだけ大きな騒ぎになる。これは当然です。
 しかし、加藤さんも言うとおり、核廃棄物が自然状態に還るには10万年かかるわけで、じゃあ、それに対しては我々は「感情的」「倫理的」になるかというと、まったくならないわけですね。
 ずばり言ってしまうと、私なんかも、自分の娘たちの将来、娘たちが住む世界の状態を心配できますが、その娘たちの子ども、すなわち孫のこととなると、途端に無関心になり、あるいは悪人にすらなってしまいます。とても10万年後のことなんか想像できませんよね。
 これは大きな人間の欠陥です。加藤さんの言う「世代間責任」「世代間倫理」が欠落しているんですね。特に、カネ、経済性が優先されると、その傾向は強まります。
 では、どうすればその「想像力」を持つことができるのか、あるいは鍛えることができるのか。
 私はそこに必要なのは、感情や想像力、個人の顔を排除する「科学」ではなく、それらを統合する「宗教」だと思っています。「宗教」という名で呼ぶと、我々は経験科学的に(笑)具体的な宗教を思い浮かべてしまうので、本当はその言葉は使いたくないんですけどね。
 ホントしつこくて申し訳ありませんが、私の「モノ・コト論」的に言いますと、科学は「コト」の権化ですから、そっちではなくて「モノ」的世界に生きよということです。「物語」世界とも言っていいでしょう。
 実は人間の脳ミソはそちらの世界に対応するようにできているんですが、今、我々はそちら側をほとんど使っていないようです。コト的な世界、言語によって分析、分節する機能ばかり使っている。数字や言葉やカネはそちら側に麻薬的に働きます。
 もちろん、そちらも必要なのですが、バランスが悪いんですよ、他の動物と比べても。
 実は「倫理」「道徳」「モラル」「良心」というのは、言語の領域、科学の領域で生まれ育つものではありません。教育界ではその逆のことをずっと教えてきちゃいましたね。人間は言語や数字で考えられるから動物より優れていると。間違ってましたね。
 まずは、顔が見える者どうしの「思いやり」、そして、次に今ここにいない顔見知りへの「思いやり」、さらに顔を知らないけれども、確実に存在している無数の他者に対する「思いやり」…こうして我々は「想像力」を鍛えていかなければならないのです。
 難しいですね。我々教師の責任も重大です。教科書を教えながら、科学や論理や言語を教えながら、その補集合(モノ世界)の存在に気づかせなければならないわけですから。
 厳しい道のりが想像されますが、一歩一歩進むしかありません。

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2012.01.12

藤巻亮太 『光をあつめて』

 日は宮中で歌会始の儀が行なわれました。それにちなんで、本校でも冬休みの宿題で作った短歌でプチ歌会を開きました。
 中学生は初めて短歌を作るので、お題はなしですが、「比喩表現を使う」ということだけは条件としました。
 結果としてなかなか立派な秀歌がそろい、先生たちもビックリ。私自身も、芸術にとっての比喩の重要さを再認識しました。
 あと、面白かったのは、やはり歌の内容が「もののあはれ」になるということですね。つまり、「時間」にまつわるものが多いということです。
 特にそういう指導や鑑賞をしたわけではなかったので、彼らは日本人としての自然の感性で、そのような歌を作ったのでしょう。あるいは「比喩」と「時間」の関係というのもあるかもしれません。
 いずれにせよ、「もののあはれ」=「(時の流れに代表される)不随意に対する嘆息」こそが、日本人にとっての最重要テーマだと痛感しましたね。教え、教わらなくとも、これは我々の遺伝子に受け継がれているものなのですね。
 さて、今日はレミオロメンの藤巻亮太くんの誕生日であり、また、彼の初ソロシングル「光をあつめて」の先行配信の日でありました。
 彼がバンドを離れてソロ活動を開始するということに対しては、私もまあいろいろな思いがあります。それこそ「もののあはれ」ですね。時の流れと、全てのモノの変化の一部と考えれば、別に残念に思う必要はありません。
 「もののあはれ」とはここに明記したように、決して本居宣長の言うようなボンヤリしたものでもジメジメしたものでもありません。ただ「想定外」「不随意」なだけであって、プラスの変化という側面もあるのです。
 そう、この曲の歌詞にもあるとおり、「時の無常の中に花が咲く」こともあるのです。
 生徒たちの「歌」の中には、そういうプラスの「もののあはれ」が満ちあふれていました。つまり、無常、変化というのは、破壊であると同時に再生、成長の物語の源泉でもあるわけです。
 藤巻くんの変化については、私は、まあなんとなくではありますが理解できるところもあるんですよね。あの3人の中では、唯一彼だけが持っているメンタリティーというか、スピリットがあるなと思っていたんです。
 これはある種の宗教性とも言えます。彼の遺伝子にはそういうモノが実際ありますし。私も半分そういう世界で生きていますから、彼の詩やメロディーや声や行動から、そういうモノを感じ取ってきたわけです。
 これは誤解されたくはないのですが、そのどちらが上とか下とかではなくて、とにかく違う次元で生活している人とは、なかなか「仕事」ができないのも事実です。
 誤解しないでくださいよ。ものすごく分かりやすく言ってしまえば、これは「趣味」の問題です。魂の趣味の問題なんです。それを偽って仕事をすることに疲れてしまうことは、実は誰にでもあることではないでしょうか。
 彼がここに至るまでには、いくつかのきっかけがあったと思います。バンドが10年続いてきたというのももちろん最大の理由でしょう。どんな仕事でも10年目はマンネリや商業化の完成期ですから。
 それから、こちらで紹介した「Your Song」にまつわる体験、すなわち志村正彦くんの存在と不在というのも絶対に影響していると思います。
 志村くんは、ある意味アルバム「CHRONICLE」において、バンド内ソロ活動をしてしまったのだと思います。彼が命を賭してそれをやった。藤巻くんはそれを聞き込んだんです。
 そして、その後、あの震災や原発事故がありました。これらの外的な体験、すなわち想定していなかった外からの力こそが、藤巻くんにとっての「もののあはれ」そのものであったのでしょう。
 レミオロメンはフジファブリックと違って、メンバー間の距離が非常に近い。それはそうです。幼なじみバンドなのですから。その良さと弊害という両面は当然ありますよね。藤巻くんは、バンド内ソロ活動はとてもできなかったのでしょう。
 それにしても、フジファブリックはそのフロントマンを突然失ってもバンドは活動を続け、新しい世界を切り拓きつつあり、レミオロメンはそのフロントマンがソロとしてデビューする形でバンド活動は一旦休止…とは、まさに「もののあはれ」ですね。
 そう考えると、世界の長老バンドやBUMP OF CHICKENはすごいな。逆に心配なほどです。誰かがとんでもない我慢をしてるんじゃないかと(笑)。
 さて、楽曲「光をあつめて」ですが、たしかに見事な、躊躇のない藤巻節が展開していますね。素直にいい曲だと思います。単なる幸せの共有という次元を超えたメッセージがこめられていますね。
 ピアノが小林武史さん。結局藤巻くんのスピリッチュアルな部分を理解し支えられるのは、コバタケだったということでしょうか。きれいなピアノを聴かせてくれています。ドラムがあらきゆうこさんというのはやや意外でした。オサのドラムよりも男らしい(決然としている)気が(笑)。ベースは元Syrup16gのキタダマキさん。前田くんとはずいぶんと違ういい味を出していますよ。
 たしかにこうして違うメンバーの音の上に乗る藤巻くんの声というのは、新鮮というか、こちらにも想定外の発見があるというか、とにかくこのソロプロジェクトの始動を純粋に喜びたいと思いました。
 これに伴って、治くんと前田くんもどんな活動をしていくのか、それも楽しみですね。そして、進化した3人が再び音楽を奏でる日に期待したいと思います。

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2012.01.11

究極の不安克服法…?

20120111_main01 日はめずらしく「ためしてガッテン」を観ました。テーマは「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」。
 内容の詳細はこちらでご確認ください。
 番組放送中、不安症の上の娘はずっと耳をふさいでいました(笑)。「不安」という言葉、そしてそれを「克服」しなければならないということに「ストレス」を感じるのでしょう(苦笑)。
 これってよくわかりますね。上の娘は顔も性格も私に似ているところがありまして、だからか、なんとなく毎日自分の子ども時代を思い出すんですよ。
 自分も子どもの頃には「漠然とした不安」及び「截然とした不安」を抱えていましたっけ。まあ、みんなそうなんでしょう。
 我々は大人になるにつれて、それをなんとかする技を身につけ、そして最終的には子どもに「大丈夫、大丈夫」と言えるようになるわけです。
 ただ、番組でも解説されていたとおり、その技をなかなか身につけられない大人も増えていまして、それがウツやパニック障害や適応障害、そして最近では大人の発達障害なんていうような、まあずいぶんと乱暴な「名づけ」がされて、そしてそれに対して医学的な処方がなされるというような、あまり自然ではない状況になっています。
 ちなみに今の私は、これはもう自他ともに認める「不安のない人」です。たしかにないんです。それこそ障害なのではないかというくらい、不安も恐怖もない。
 ストレスはありますよ。いやなことをしなければならないとか、そういうレベルでのストレスは人並みにあります。しかし、それが不安や恐怖につながっているかというと、全然そんなことはありません。
 で、なんで不安症だった自分がこんなふうに安心症になってしまったかというと、これはやはり「禅」のおかげであると思います。あるいは自らの「モノ・コト教」のおかげ。
 そう、番組でも小野アナが坊主ヅラかぶって説明してましたね(笑)。「座禅」がいいと。全てを受け入れて受け流すのがいいと。過去や未来に執着して苦労するより、現在を受け入れろと。
 これってまんま「禅」です。モノ・コト教的に言えば、「コト」にこだわるなということです。昨日の話にもつながりますよね。
 「コト」というのは、自分の脳内の情報のことです。「モノ」というのはその補集合、つまり他人はもちろん、動植物や物(無機物)も含めての他者全てです(自分の身体もです)。
 今の私は「コト」に対する執着というのが全然ないのです。たとえばこうして自分の「コト」を「コトのは葉」に乗せて吐き出していますが、これはまさに吐き出す行為でありまして、ある意味非常に無責任な排出作業です。すんません、汚染が拡がってますね(笑)。
 外からは、これだけ文章を書いていて、どんだけ自分の頭の中にこだわってるんだと思われそうですが、実は全く反対でして、私は自分に対するこだわり、自分の考えに対するこだわりは全くないのです。
 お釈迦様のおっしゃるとおり、我々が「自己(コト)」だと思っているものは、実は「他者(モノ)」によって縁起したものです。それを悟れば、なんの執着もなくなりますし、不安も恐怖もありません。
 もっと平たく言うと、「なんとかなるさ」「困ったら人に頼もう」「不安に思ってもいいことは何もない」という気持ちですね。あとは、「困難や想定外(ストレス)だけが自分を成長させる」「困難や想定外はあればあるほど得」というのもあるな。
 こういう境地になったのは、はやり仕事で「禅」に触れ続けてきたからでしょう。この前「雲堂」のところで書いたとおり、私は別に毎日座禅したり読経したりしてるわけじゃありませんよ。普通の生活してるだけです。しかし、折に触れて座る(座らざるを得ない)仕事をしているので、そのおかげですね。
 ジョブズもそうであったように、たまに現実から逃避することも大切なのです。そこで「客観視くん」が活発化して、新しいアイデアも浮かぶし、ある種の悟りも得られる。
 そういう意味で、ためしてガッテンの言うように、一日15分でいいので、いやいや、私のように1年に数回でもいいので、じっくり座ってみることには大きな価値があることでしょう。とりあえず、今、自分(特にダメな自分)だと思っているヤツが、全然自分ではない、つまり他者によって形成されているちっぽけな存在であることを知るだけでも、ずいぶんと楽になります。
 自分がダメだろうと立派だろうと、あんまり宇宙には影響ありませんしね(笑)。
 あと、体の健康も大切ですね。体が調子悪いと「不安」です。一番の不安の原因はそこにあったりしますよね。
 その点、私はかなり安心です。自信があります。いや、それこそ体を鍛えてるとか、検診やドックで太鼓判押されてるとか、そんなことは全くありません。
 ただ続けているのは(もう7年半になりますか)、「一日一食(夕飯のみ)」だけです。
 そうそう、今気づいたんですが、今のような境地になったのは「一日一食」始めてからかもしれません。どういう因果関係があるのか、科学的なことは全く分かりませんけれども、事実としてそうなのです。
 そうか、「不安(ストレス)」を克服する最高の方法は「一日一食」か!…なんて、全く説得力ありませんね(笑)。ためしてもガッテンできないかもしれませんな。


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2012.01.10

「コピー教」に思う…

Copy and Seed.
Kopimi_nietzche_zarathustra_2 日、こんなニュース(ネタ)を見つけて、しばし考え込んでしまいました。

 「ファイルコピーを神聖な行為だとする「コピー教」がスウェーデン公認宗教に

 これは笑い話のようですが、案外鋭いことを指摘しているのではないかと感じます。
 もちろん、「過剰な著作権保護は文化を衰退させる」というまっとうな意味でも鋭いと思いますよ。
 たとえば最近こんなことがありました。
 年末年始に静岡の実家に帰っておりました時、どうしても録画したい番組を見つけたんですね。で、父親に頼んでハードディスクレコーダーで録画してもらい、DVDに焼いてもらいました。
 父所有のレコーダーは、いわゆるコピーワンス時代のものでして、DVDにムーブすると本体からはデータが消えてしまうわ、当然VRモードなのでMacでは認識すらされないわ、バックアップを取ろうとしても一筋縄では行かないわ、学校で見せようとしたらプレーヤーが対応していないわ、まあいいことなんて一つもありませんでした(その辺の事情については、こちらの記事に詳しい)。
 実際のところ、こうした著作権保護のテクノロジーによって、従来認められていた教育の機会が奪われつつあります。このように、文化の創造と伝承の基礎機関である学校が大きなダメージを受けているのを見ても、「コピー教」の主張することは間違いではないとも言えましょう。
 まあ、それを「宗教」にするというのもどうかと思いますけど…しかし、考えてみると、「宗教」や「教育」という、いわゆる「啓蒙」という行為が正当化されている世界は、ある意味「コピー」の大量生産だとも言えますよね。つまり、私のやっている仕事も「コピー」であるとも言えるわけです。
M だいたいが、我々生物の根源的な仕事は、遺伝子をコピーし続けることであり、そういう意味でも、もしかすると、これは宗教としてふさわしいのかもしれない、なんて思われてくるわけです。
 ちなみに、私の「モノ・コト教」(笑)によりますと、コピーは「コト」の権化です。転変し無常である「モノ」世界に対抗する、生命の「意志」です。自然の法則(エントロピー増大則)に対するはかない抵抗です。
 で、私は「コトよりモノの時代」ということをさかんに言っておりますから、ある意味アンチコピー教ということにもなりますよね。「モノのあはれ」です。ま、それはお釈迦様の教え、仏教に近くなるわけですけれども。
 本来ですね、私たちが「神」だとか「仏」だと認識する実在というのは、そうした人知の及ばないモノであったわけで、その、私たちの「コト」の達し得ない「モノ」を一段高いステージに置いて、それでもって、ある種の「絶対性(コト性)」を持たせたものなんですね(だから日本では「ミコト」と言う)。
 ちょっと複雜になりますが、そんなわけで、私の教義(?)は「コトを窮めてモノに至る」なのであります(誰も理解してくださりませんが…苦笑)。
 おっと、自分の話はいいとして、ええと、あと「コピー」で気になるのはですね、前もどこかで書きましたでしょうか、「情報」がどんどんコピーされてですね、世の中に充満してくるとどうなるのかということです。
 つまり、いわゆる物(物質)はどんどん増えるということはないわけじゃないですか。人間が作り出した物(製品)はどんどん地球を埋め尽くしていきますが、その代わりにたとえば石油は枯渇していく。
 基本、モノ世界はエネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則で出来ているわけです。
 しかし、コト世界はどうなんでしょう。情報はエネルギーを持っていないのでしょうか。あるいはエネルギーを生み出したりしないのでしょうか。
 もし、エネルギーを持つとしたら、それが大量に生産され、あるいはコピーされていったら、どうなるのでしょうか。その辺について、実は誰も言及していないような気がするのです。
 先ほど書いたように、モノ世界の法則に対抗するのがコト(情報・データ・思念)世界だとしたら、今後起こることは、私たちが「科学」では知り得ないものになりますよね。なぜなら、科学では、情報もデータも思念も最終的には物理的な現象としてしかとらえられないからです。
 DVDをコピーすれば、メディアとしての円盤はどんどん増えていきます。これは物理的な世界での話です。では、そこに記録されている情報自体は無限に増やすことができるのか、あるいは先ほどの製品と原料の話のように、どこかで消えていく情報というのがあるのでしょうか。
 これだけ人間が増えているわけですから、何億年前よりも人間が認知する情報はどんどん増えています。一方で何かが減っているということを予感することもできるのですが、ではそれは具体的になんなのかというと、よく分かりません。
 このように、コト世界は結局のところモノ世界に、意識は無意識に、想定は想定外に、知は不可知に収斂していくので、この私の問い(悩み)は永遠に解決されないのかもしれませんね。
 それをこうして文字(言語)としてコト化している私自身、いったい何モノなのか…これは「宗教」の世界、霊的な世界、補集合の世界になっていきますね。
 う〜ん、気になる。だから私は出口王仁三郎や仏教の遺した情報に興味があるんだろうなあ。彼とお釈迦様は知っていたような気がするんですよね。彼らこそコトを窮めてモノに至ったと。
 いっそのこと、生きている限り、仕事でもプライベートでもコピーし続けて、その結果を確かめるしかないのか。あるいは「死」によって全てが「無」、いや「空」に還るのか。
 そうか、スティーブ・ジョブズも分かっていたのかもしれないな。

コピー教公式
 


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2012.01.06

『雲堂』 (iPhone用坐禅アプリ)

Mzlcngilkor んとも仕事がドタバタしているので、ゆったりとしたおススメを。
 iPhone用のアプリです。あの「彼岸寺」さんが作った坐禅アプリ。
 これ、なかなかいいですよ。本格的です。坐禅が身近になりますね、きっと。
 いちおうワタクシ、エセ坊主、野狐禅いや野狸禅の修行者として、一般の方よりは坐禅に親しんでいる方だと思います。とは言っても、たとえば毎日座っているかというと、全然そんなことはありません。
 我々在家者は仕事はもちろん社会的雑務をもしなければならないので、日常生活自体が修行ということになります。そして、実はそれが一番よい修行法であったりします。
 たとえばこうして毎日ブログを書いているのも、公案と格闘しているようなものですしね。つまり、我々はいつでもどこでも仏教の修行はできるわけですし、考えようによっては、全ての生きとし生ける者が修行中であるとも言えます。
Mzlhbqfsdmt しかし、そうした日常的な「意識」から「意識的」に離れるために、「意識」を捨てる「坐禅(座禅)」をすることは面白いものです。
 ある意味最も手軽で最もお金がかからないレジャー、あるいはレクレーション(re-creation)かもしれません。
 実際に出家して雲水となったり、日曜日にお寺に参禅したり、そういう特別なことをすること自体が「意識」であり、「装置」であるわけです。
 ですから実は、坐禅というのは、それと最も遠い世界であると思われがちなインターネットやiPhoneという「装置」と、とっても親和性が高いんですよね。
 だいいち、インターネットやクラウドという「網」や「雲」は、ある意味自然に近い構造をしていますし、ある意味目に見えない「神仏」世界と似ているとも言えます。
 また、ネットによって生まれる無限の「縁」は、まさにブッダが悟り得た宇宙観であるとも言えます。このアプリにある「Around the world」機能は、本来極私的であり、個の行いであるはずの坐禅を、世界中で何人とか何回とか示すことによって、相互に「意識」の上で結びつけてしまうという、ある種禅的なパラドックスですよね。面白い。
Mzlqsfdbtcy そこなんですよ、今までの禅が限界として抱えていた問題は。つまり、禅は「自他不二」や「縁起」を感得するためのものでありながら、個の問題として語られすぎ、またそういうメソッドとして発達しすぎたのです。
 それをまるでマジックのように、現代のテクノロジーが本来の姿に戻してくれる可能性があると感じますね。
 私の禅語に(?)こういうのがあるじゃないですか。「コトを窮めてモノに至る」。コトとは「意識」そのものです。「装置」そのものです。そこを窮めていくと、いつのまにかモノ(無意識や自然)に還っていくんです。
 そういうアイテムとして、あるいはアプリケーションとして、この「雲堂」は新しいけれども古い禅のスタイルを提案してくれかもしれません。
 「application」という言葉は、本来「一点に没頭すること」という意味を持っています。まさに「執着」の装置です。それを窮めていくと、いつのまにか一点は無限に小さくなって「無」に近くなっていき、その補集合は無限に大きくなって、いつのまにか、二つは一つになり、結果「空」が生じる…。
 なんて、いかにも野狸禅らしく言葉を弄しているワタクシでありますが、そんな理屈は抜きに、この「雲堂」は普通に解説もよくできているし、音もリアル(本物をサンプリング)ですし、とっても有用なアプリです。
 さあ、皆さんもこのアプリでどんどん「意識的」に坐禅してみましょう。世界が変わる、すなわち自分が変わる…かも。それにしても「undo」とはうまい名前をつけたものですな。

雲堂

彼岸寺

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