カテゴリー「モノ・コト論」の890件の記事

2018.02.13

自動車が本当に「自動」になる日

Th_nvidiaam24 日、AI研究の最先端を行く学者さんとお話する機会がありました。いろいろなお話をしたのですが、一番盛り上がったのは自動運転について。
 私たちシロウトは、いわゆる職人技という部分に関しては、AIは人間には敵わないだろうと思いがちですが、実際は全く逆なようですね。
 とにかく私たちが時間をかけて勉強を重ね習得してきたコトこそAIが得意なのであると。なるほど、考えてみればそのとおりでしょう。
 一方で、技術ではない、そうですねえ、あえて言えば知恵のようなモノ。たとえば想定外の事態に瞬時に対応するようなセンスというのは、なかなかAIには難しい。まあ、私たちが想定外だと感じるモノのほとんどは、過去のビッグデータに含まれる既知のコトなんだそうですけど。なるほど。
 車の運転というのは、道路というインフラや交通ルールのデザインさえしっかりすれば、かなり規則的なコトであり、そういう意味では、AIの最も得意とする分野の一つです。
 逆に言うと、現在私たちが半分カンにまかせて、けっこう死と隣り合わせで行なっている「運転」を、そのままAIに任せると、これはけっこう大変。それこそカンに頼るようなモノ性が高いからです。
 ですから、完全自動運転、つまりレベル5の自動運転を可能にするためには、インフラ、ルールのリ・デザインが非常に重要となるでしょう。
 私たちが今まで当たり前だと思ってきたこと、あるいはずいぶん効率化したと思ってきたことの中には、実は大きなムダがあったりする。それを最先端のテクノロジーが簡単に軽減してくれるというのが、これからの世の中の大きな変革のあり方になります。
 私も自分で自動車を運転して、いろいろなところに移動しています。通勤にも使っていますし、東京や横浜との行き来にも自動車を使いますから、年間にしますと、2万キロ以上車で移動していることになります。平均速度を40キロで計算しても、実に500時間を運転に費やしていることになります。
 私は運転という「スポーツ」自体が好きで、それをすることによってストレス解消をしている部分もありますから、決してムダな時間とは言い切れません。また、かつてはゆっくり音楽を聴いたり、あるいは最近ではネット動画の討論番組をまとめて聴いたりもしているので、それはそれなりに有意義な時間を使っているとも言えます。
 まあ、自動車とは言うのもの、全然自動ではなく、ほとんど手動ですし、オートマによってオートマ化したのはギアチェンジだけですよね。かなりの部分で自分のエネルギーを運転につぎ込んでいる。
 しかし、これが全て自動運転になったら、500時間の自由な時間、より有意義に使える時間が確保できるということです。
 本を読んだり、映画を観たり、楽器の練習をしたり。ま、日常の自由時間と同じく、ムダにゲームをしたり、食べたり飲んだりして昼寝したりするだけになるかもしれませんが(笑)。
 そっか、たしかに今の「手動運転」には「寝てはいけない」という最強の条件があるので、案外有意義な時間を創出しているのかもしれませんな。
 強制的に睡眠を妨げる、命がけで眠気と戦うという意味では、今の手動運転には大きな意味があるのかもしれませんね。
 そんな笑い話的な昔話が語られるようになるのは、そんなに遠い未来のことではないと考えます。少子高齢化、人口減少が避けられない日本は、そしてある程度道路が整備され、また国土が狭い日本は、実はこの部分で世界の先駆けとなるべきなのではないでしょうか。
 もちろん、個人レベルでのムダの排除だけではなく、物流という巨大産業にも革命が起きます。いくら世の中がデジタル化、情報化しても、残念ながら物質をどこかに伝送することはできないので、おそらくあと千年は物流の業界はなくならないでしょう。
 自動運転が実用化すると、たしかに現在の物流関係、あるいは交通関係の運転手さんたちの職は失われるでしょう。しかし、それは時代の流れの中での必然であり、その人たちにはまた違った、ある意味もっと楽な仕事をしてもらうことになるでしょう。
 自動車、列車、飛行機、ドローンなどによる物流が自動化することによる経済効果は非常に大きい。人件費は言うまでもなく、渋滞などによるさまざまなムダも劇的に軽減し、結果として私たちは豊かになることでしょう。
 国家レベルでのイノベーションに期待します。

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2018.01.21

追悼 西部邁さん

Th_2018012100000512san0007view 西部さん、本当に死んでしまったらダメですよ!全然かっこよくないですよ!
 10月22日に死ぬつもりだったけれど、選挙のこともあって死に損なったみたいなこと言ってましたよね。その時、ああこの人は病んでしまったなと思いました。それでもどこかでずっと死に損なってくれることを期待していた。
 そういう意味で裏切られた気がします。悔しいというか、虚しいというか。
 言論は虚しい…最近自虐的によくおっしゃっていましたね。たしかに言論を虚しいですよ。コトは究極的に虚無ですから。でも、肉体としての人間の存在はモノじゃないですか。なのにモノを虚しくしてどうするんですか。
 嫌いではないけれども尊敬をしていたわけでもない。ちょうど西部さんが死のうと思っていた頃に、こんな記事を書いていました。西部さんに反論したいと。
 三島の時代はとっくに終わっています。ごめんなさい、あえて言わせていただきます。かっこよくないです。
 昭和保守は終わりましたね。自死しました。自裁しました。
 いや、終わらせてくれたのでしょうか…。
 昨日ちょうど私は「ホシュ」は「ホシュ」でも「保守」ではなくて「捕手」、みたいなことを書きました。ふざけているように感じられますが本気ですよ。
 左翼から保守へ転向して、そして自ら命を絶つ…そういう時代ごと全部終わりにするつもりだったのか。それとももっと個人的な決断なのか。
 死者に対して失礼と知りながら、あんまり悔しいので書かせいただきます。やっぱりコトにこだわりすぎた。西洋の言葉遊びをしすぎた。そういう意味では、全然保守ではなかった。そういうことでしょう。
 数年前にこちらでも、私はちょっとした批判を書いていました。それこそ庶民の独言レベルですけれども。
 実はここ数日、西部さんの出演している動画をいくつか見ていたんです。お風呂でウトウトしながら話を聴いていた。軽い調子で今日の自裁を予感させてるようなこと言っていましたが、あんまり軽い調子なので、ああこの人は結局死なないなと思っていました。そんな矢先、私のある種の期待を裏切る行動に出るとは。

 多摩川、丸子橋のあたりと言えば、私が少年時代を送った場所。そして、丸子橋と言えば、5年ほど前に牧伸二さんが同じく78歳で自裁した場所です。
 西部邁さんと牧伸二さん。お二人とも78歳になって何に「やんなんちゃった」んでしょうか…。
 ご冥福をお祈りするしかありません。日本は、日本人はまだまだ頑張りますよ。あちらで見ていて下さい。

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2018.01.17

天災は忘れた頃にやってくる…阪神淡路大震災から23年

Th_mig 年も1月17日がやってきました。
 23年前の今朝、あの兵庫県南部地震が発生しました。直下型M7,3、最大震度は7。
 テレビに映し出されたあの光景は忘れられません。地震でお亡くなりになった方々のご冥福をあらためてお祈りいたします。
 1995年は大変な年でした。1月に震災、3月に地下鉄サリン事件。言うまでもなく、1995年は終戦から50年という特別な年だったのですが、前半にあまりに大きなことがあったため、なんとなくその印象は薄くなってしまいました。そういえばテレサ・テンさんも前半に亡くなりましたね。函館ハイジャック事件も6月でしたっけ。
 そして、偶然と言われれば偶然なのですが、阪神淡路大震災も東日本大震災も、非自民政権時代に発生しています。
 村山政権は自社さ連立政権ではありますが、なにしろ社会党党首が総理大臣でしたからね。本来の自民的なモノからは大きくかけ離れていたことは事実です。
 今、モノと書きましたが、自民党はモノを鎮める「まつりごと」を重視しており、自社さ政権、また民主党政権の時はそれが疎かになってしまったとも言えましょう。
 それこそ唯物論的には、まったく非科学的な因果関係でありますが、私はどうしても唯物論者にはなりきれません。
 特に、先述したように1995年が終戦から50年という節目の年だったというのに、そうしたモノ(たとえば「霊」)をしっかり祀らなかったというのが問題だったのではないでしょうか。
 もちろん村山富市さんは今も昔も靖國神社を参拝しません。最近も安倍さんの靖国参拝を「売国行為」と批判していましたね(苦笑するしかありません)。
 もうお気づきかとも思いますけれども、実は東日本大震災の起きた2011年は真珠湾攻撃、すなわち大東亜戦争(太平洋戦争)開戦から70年の年でした。言うまでもなく、民主党政権時代であり、モノ(霊)に対する「まつりごと」は疎かになっておりました。
 私は自民党の全てを肯定する立場では、もちろんありません。しかし、モノを祀る仕事は天皇だけにまかせておいていいものではありません。
 そういう「まつりごと」を、国民の統合のもとにしっかり行っておれば大難は小難となる、小難は無難となるというのが、日本の歴史そのものであったと思います。
 はたして、今の日本はどうでしょうか。自民党はどうでしょうか。そういう視点で世の中や人間や自然を見ることも大切であると信じます。
 「天災は忘れた頃にやってくる」という時の「忘れる」対象とは、天災そのものではなくて、もしかするとそういう大切な「モノ」のことなのかもしれません。


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2017.12.30

コクヨ 超静音シュレッダー

Th_51aaiohwkdl_sl1000_ 籍、書類の電子化関係でもう一つ。
 スキャナiX500にオマケでついてきたシュレッダーです。
 オマケにしてはずいぶん立派なものでした。定価15000円ですからねえ。
 必要とは思いながらも、自分ではなかなか買わないものです。
 シュレッダーっていつごろから登場したのか気になったので調べてみました。はあ、そうだったんだ〜。なんと発明は1907年といいますから、100年以上前なんですね。
 もともとshredderというと、キャベツの千切り機のことだったとか。なるほど。まあたしかに書類の千切りだし(笑)。
 日本で普及しはじめたのは、明光商会のMSシュレッダーが発売された1960年台からとのこと。
 たしかに学校にも明光商会のMSシュレッダーがあります。
 昔は学校でもやばい?書類は焼却炉でガンガン燃してたんですよね。それが、ダイオキシンだかなんだかが問題になって、世の中から焼却炉が消えてしまい、シュレッダーの活躍の場が格段に増えました。
 それで、小型のもの、パーソナルなものが普及しはじめました。デスク4つに1台とかね。
 この製品ももちろんパーソナルユースをターゲットにしたものです。だから静かを売りにしている。オフィスで個人的にゴミ箱代わりに使うということでしょうか。書類を捨てる時に、昔であれば丸めてポイしたように、サッとシュレッダーに挿入するというわけです。
 ところで、書類はまあいいとして、皆さん、裁断して破壊してしまった書籍はどのようにしているのでしょうか。たぶん廃棄するのでしょうが。別に千切りにする必要はありませんが、なんとなくゴミ箱にバサッというのは、それもまた抵抗があるような気がします。
 焼却炉があれば、供養するような気持ちもこめて荼毘に付すことができるんですがね。本って、いろいろな意味で、情報(コト)の詰まったモノなので処分が難しいですね。バラしちゃったら古本屋にも売れませんし。
 今日のニュースで、紙の本の販売数が大幅に減った、それもいわゆるコミックの売れ行きが大きく下がったと伝えられました。
 平安時代以来の、紙の本文化はいよいよ終焉を迎えるのでしょうか。それとも反撃があるのか。
 一足先にデジタル化が進んだ音楽の世界では、再びLPレコードやカセットテープがブームになりつつあります。
 紙の本も、もちろんなくなることはないでしょう。
 私も電子書籍と紙の本、今購入するのは半分半分くらいです。やっぱり不便な点もあるんですよね。
 10年以上前にどこかに書いた記憶があるのですが、いわゆる紙の本でペラペラ、パラパラというのを再現する、リアルに数百枚の極薄ディスプレイを搭載した電子ブック端末が発明されないかぎり、紙の本はなくなりませんね。

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2017.12.26

『ビジネスで差がつく 論理アタマのつくり方』 平井基之 (ダイヤモンド社)

カンタンな中1数学だけでできる!
Th_51ofbqfu9l 日の忘年会でもこの本の出版祝いをいたしました。
 著者の平井先生はカワイイ赤ちゃんとしっかりした奥様と一緒に参加してくれました。奥様は初のご出産を。そして旦那さんは初の出版を。なんともおめでたいことです。
 平井先生はワタクシの元部下。学校でも活躍していただきましたが、独立後はさらに飛躍されました。もともと理系で東大に合格し、しかし在学中は教育を学び、そして教員生活ののち再び東大に挑戦。なんと今度は文系で合格しました。それだけでもすごすぎますね。
 そうしたすごいキャリアをベースにして、今は押しも押されぬ「受験戦略家」として、受験生の指導に、そして言論活動に活躍しています。
 数学の教員としてウチで働いている時から、私も彼といろいろな話をさせていただきました。今回の処女作は、ある意味その頃のセッションが一つの実を結んだような気がして、私は勝手に嬉しく思った次第です。
 そう、私は国語の教員ですが、たとえば文学を教えることよりも、論理力を鍛えることに重きを置いてきました。その象徴が、中学で教材として使っている、出口汪先生の論理エンジンです。
 出口先生も「論理こそ世界共通語」とおっしゃっています。その最も純粋な形が数学です。国語も数学も同じ論理という一つ上の次元でとらえるという意味では、「数学は言語だ」と力説する平井先生と出口先生は同じ考え方ですね。
 当然のことながら、結果として、論理エンジンで強調されている「イコールの関係」「対立関係」「因果関係」と、この本で強調されている「同じ」「違う」「順番」は、ほぼ同じことになります。
 論理学に限らず、全ての学問、いや私たちの認識のパターンの基本は、その三つに集約されます。この本は、中1の数学という、世界中のみんなが経験する(経験した)サンプルを使って、その基本を意識させてくれるという意味で、まずは非常に有用です。
 そして、それを単なる学校の勉強や受験のレベルではなく、実生活、特にビジネスの現場にしっかり応用するべく解説されているところも素晴らしい。学校の勉強と実生活がなかなか結びつかないのが、日本の教育の問題点ですからね。
 そういう意味で、やはり「受験は戦略」であり、そこから「人生における戦略」を学ぶべきだという平井先生の考え方には、私も大いに共鳴します。実際そういう話を生徒によくしていますし。
 それらを私たちに納得させてるために、サンプルとして中1の数学を選んだのが正解でしたね。私のような数学苦手オジサンでも、さすがに中1の数学なら復習せずとも理解できます。
 さらに、平井先生の素晴らしいところは、その易しい(優しい)サンプルを、さらに読者への愛情(教え子への愛情の延長でしょう)をもって、実に易しい(優しい)文章で説明してくれていることころです。
 難しいことを易しく(優しく)語ることができる人が、本当に賢い人です。私も教育者として学ばせていただきました。
 ところで、ワタクシの難解な?「モノ・コト論」で言いますと、論理や数学は最も純粋化された「コト」ということになります。
 しかし、皆さん予感されるように、その最も人間的といえる、脳内ツールの極致であるはずの「純粋言語」が、自然界の「モノ」に直結している、すなわち「神」と直結しているところが面白い。私の言うところの「コトを窮めてモノに至る」という真理ですね。
 おそらく私たち人類はそうして「シゴト(コトを為す)」を突き詰めて、宇宙の真理に近づこうとしているのでしょう。
 数学史上の天才たち(最近では「ABC予想」を証明した望月新一さん)の多くが、理系・文系などというつまらない分類に収まりきらない人生を送っていることが象徴的ですね(そう言えばペレリマンはいまだにキノコ狩りしてるのかな?)。
 まさに理系・文系の壁を超えている平井先生の今後の活躍に期待いたします。

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2017.12.25

ネオテニーは地球を救う!?

Th_71aknc8lz9l 経新聞の正論に、動物行動学者の竹内久美子さんが日本人が持ち合わせる「人類最強」の性質とは…を投稿しておりました。
 最近竹内さんの本を読んでないなあ。かつてはずいぶん勇気づけられたものだが。
 というのは、竹内さん、たとえば「女は男の指を見る」のような男の指にこだわったエッセイをたくさん書いていまして、まさに「薬指が人差し指より長い」、すなわち男らしい(?)ワタクシとしては、大変いい気にさせられたのであります(笑)。
 それらの本には、「ハゲは胃がんになりにくい」とか、そういう、ワタクシに有利な言説がけっこう散りばめられていて、ようやく援軍を得たような気がしていた。
 いや、たしかにですね、ワタクシ、手だけはほめられることが多いのですよ。薬指が長いだけでなく、血管が適度に浮き出ているし、まあいちおうヴァイオリンなんかやってますから、繊細かつ器用に動いているのでしょうかね。
 男としては手だけほめられても実はあんまりうれしくなかったのですが、この本を読んで、なるほど女性は男性の指に本体のセクシーさを見出しているのだと、まあ都合よくほかのことは忘れて得心したりしていたわけです。
 で、もう一つ、竹内さんがよく語っているのが「ネオテニー」についてで、それもある意味私にも当てはまる特性でありました。というか、ワタクシに限らず日本人はみんな子供っぽいと。今回の正論もその話。
 子供っぽいことはマイナスではなく、純粋、好奇心旺盛、発想が柔軟、優しいなど、プラスの側面もあり、それを再評価すべきとのこと。
 私も全くいい年してバカみたいなこと言ってばかりで、それこそネオテニーのチャンピオンみたいな人間ですが、たしかにそれも徹底していると、それなりに価値を発揮しはじめたというか、人様にありがたがられる(めったにないと珍重される)ようになってきたとも言えます。
 もちろんご迷惑もおかけしていて、立派な常識ある大人にいろいろカバーしてもらっているのは分かるのですが、これはしかたないですね。
 そして類は友を呼ぶということでしょうね、一昨日の忘年会なんか、まあ素晴らしいネオテニー・パーティーでありましたよ。高城剛さんも少年のまんまですよね。
 10年前にオーストラリアで「姉妹校訪問…ネオテニー再確認」という記事を書いておりました。
 そこにこんなこと一節がありますね。

 考えてみますと、日本のオタク文化は、大人による子ども文化なわけで、今やそれが日本文化を支える土台にすらなっているわけです。あるいは日本の産業の基幹である職人的な手仕事的な部分というのは、以前からある意味オタク的、幼児的、自閉症的でありまして、日本文化の分析にはどうしてもそういう視点が必要なような気がしてきます。

 これなんか、竹内さんの説に近いかもしれません。
 はたして未来、日本人のネオテニー性は地球を救うのでしょうか。それとも自らを絶滅に追いやるのでしょうか。私は竹内さんと同様に前者だと思ってますよ。
 近代的な意味における「おとな」が、この地球を破壊していたのは事実です。コト(自我)に執着してモノ(他者)への共感を忘れた「おとな」の描いた利己的な夢は、もうそろそろ醒めることでしょう。

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2017.12.11

『未来への7か条』 益川敏英

Th_yoko 日も生徒とAIの話をしました。世間でもブームですね。
 夏に「シンギュラリティ」はあり得るのかに書いたとおり、私はAIが人間を超えることに懐疑的です。AIはコトであり、人間はモノであると。
 そこに書き忘れましたが、正確に言いますと、AIは人間の脳みそのある部分については、すでにはるかにそれを凌駕しています。
 少し考えれば分かるとおり、計算能力や単純記憶能力においては、どうみても人間よりも優れている。まさにコト世界ですね。
 で、「人間はモノ」という表現の中には、「人間には体がある」という意味も含まれています。いくらAIが発達しても、体の制御という面では、まあ永遠に人間のレベルには追いつかないでしょう。それはある意味、AIというよりもロボットの問題なんですがね。
 ただ、人間と…と比較するならば、当然「肉体」というモノ部分も含めての比較でなければ、アンフェアです。
 現在、最先端のAIとロボットの技術を総合しても、やはり人間の子どものように自転車を乗りこなすことはできませんし、サッカーや野球に興じることもできませんよね。
 生徒にそんな話をしていた中、少し前にノーベル物理学賞受賞者である益川敏英さんの、こんなお話が記事になっていたことを思い出しました。

ノーベル物理学賞受賞 益川教授が証言! AIが絶対に人間にかなわないもの

 益川さんは、私とは違った視点で、「AIは人間を超えられない」と言います。AIが人間に絶対敵わないもの。それは「好奇心」であると。
 なるほど、そうですね。私たち人間は、それぞれ全く異なる好奇心を持っています。その対象を選んだ理由など、誰も分かりません。私たちは各自の好奇心を神様から授けられているのです。
 もしかすると好奇心の一つとしてとらえれるかもしれませんが、「愛」というものもAIには欠けていますね。「AI」なのに「愛」がないとは、これいかに(笑)。
 先ほどの記事の中で、益川さんは「未来への7か条」を挙げてくれています。共感いたします。

< 未来への7か条 >
1:現状に満足せず、常に挑戦的な気持ちを持つ
2:科学者に対し、充分な研究環境
3:科学の発見は本筋から外れた脇道からも生まれる
4:人間の知的好奇心はAIに勝る
5:科学技術がどう使われるのか、監視する
6:純粋な若い芽が育つ環境を作る
7:「夢とロマン」を真摯に追い求めるべし

Amazon 驚愕! 日本の未来年表

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2017.12.07

『ゴッチ式トレーニング』 藤原喜明 (新紀元社)

Th_513hs8kogil_sx349_bo1204203200_ ロレスの神様(の一人)、カール・ゴッチ没後10年。
 まだまだ現役で頑張っている、ゴッチの愛弟子の一人である藤原喜明組長が伝え、語る「ゴッチ流の鍛え方」。また、アントニオ猪木さんをはじめ、ゴッチの洗礼を受けた内外のプロレスラーたちが師匠について語る、語り合う貴重な話が満載のこの本。大変興味深く読ませていただきました。
 ここでちょっとワタクシごととなりますが、実はこの本の奥書にはウチのカミさんの名前が出ております。
 う〜ん、まさか自分の嫁の名前がプロレスの神様ゴッチの本に載るとは、プロレス大好き少年(青年)だったワタクシは、まさに夢にも思わなかったなあ。人生は何が起きるか分かりません。まさに一寸先はハプニング(笑)。
 実はカミさん、ゴッチについて語ってくれた外国人レスラーの皆さんの英語を翻訳するという大役を仰せつかっていたのです。
 たしかに、毎晩毎晩、苦労しながら訳していましたっけ。私もちょっとだけアドバイスなどしましたが、ほとんど自力でやっておりました。
 いくらプロレス、格闘技大好き女とはいえ、専門用語など出てくると、さすがに困惑していました。私だって分からない。で、そういうところは、きっと編集者の方が適語に直してくれるだろうということで、なんちゃって直訳でごまかしていたんですね。
 そうしたら、結局ほとんどがそのまんま活字になってしまった。ですから、ちょっと細かく読むと変なところがあります。ごめんなさい。
 ま、それはいいとして、やっぱり昭和の天才のことになってしまいますね。外国人ですから昭和というのは変かもしれませんが、彼ら天才たち、たとえばこのカール・ゴッチやルー・テーズ、そしてビル・ロビンソンなんかは、昭和の日本で輝いたとも言えますね。
 もちろん、当時の日本が経済的に栄えており、よってプロレス界のギャラもかなり高かったから、彼らが日本に稼ぎに来ていたという側面もありますが、それと同時に、いやそれ以上に、日本のファンが、彼らのような「職人」や「努力家」、「苦労人」が好きだったし、よく理解していたという部分もありました。
 ゴッチの没後10年にあたり、日本のレスラーたちが中心となって、荒川区の回向院にお墓が建立されました。こういうところもまた日本的ですよね。
 今、再びプロレスブームが起きつつあります。この前書いたお笑いの世界と同様に、あの頃、すなわち昭和をもう一度と言うわけではありません。若い人たちは、常に新しい世界を模索し、切り開いていかなければなりません。
 しかし、だからこそ、まさに「温故知新」、かつての大物たちに学ばねばなりません。
 くり返しになりますが、当時と同じ練習をして、同じ闘いを見せるということではありません。ただ、もし彼らが現代において現役バリバリだったら、時代の要請にどう応えるのかを想像するのは大切なことだと思います。
 そういう意味で、この本に登場するゴッチの遺伝子たちが、こうして現代のリングに何かを残し、何かを語りかけ、何かを問いかけようとしていることに、心から感謝と敬意を抱かねばなりません。
 レスラーはもとより、私たち観戦する側も、もう一度原点や本質に帰ってみる必要がありますね。私は今はなんのスポーツもしていませんし、体をほとんど動かしませんが、なぜかこの本や、以前紹介した鈴木秀樹選手のビル・ロビンソン伝 キャッチ アズ キャッチ キャン入門』など、具体的な体の動かし方、つまり文字とは違う言語…肉体言語…で語られた本に、ものすごく大きな刺激を受け、そして学びました。
 プロレスに限らず、いろいろな分野で、かつての天才や職人たちの「体の動き」を紹介する本が刊行されることを期待します。
 不思議ですね。ビデオとは違う良さがあるんですよ。ポイントを抽象してあるから、シロウトでもじっくり真似てみることができます。実際に体は動かさずとも、脳内の自分の別の体を動かすことができるんですね。そこから学ぶモノは、あきらかに文字言語から学ぶコトとは大違いなのです。

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2017.11.27

『かっこいいコード進行108』 篠田元一 (リットーミュージック)

転調! テンション! ツーファイブ!
Th_91nkmoguwnl 日はあらためてELO(ジェフ・リン)のコード進行を確認したというようなことを書きました。
 最近、ポピュラー音楽の作曲法について興味があります。なんででしょうね。
 上の娘がベーシストを目指しているんですが、本人は全然作曲する意思がないんです。ベースラインさえ作る気がない。おいおい、それじゃあダメだと言い聞かせるのですが、本人は作曲はパパに任せるとかなんとか言ってるんです(笑)。
 はぁ?と思いつつ、ある意味自分の若い時からの夢でもあるので、半分本気で引き受けようかと思っております。退職したら旅芸人になる予定ですので、まあ自分の将来のために勉強しておくのもいいかなと。いろいろな昭和の名曲を編曲するのにも、当然作曲の知識と技法が必要になりますし。
 そんなわけで最近買って楽しんでいるのがこれ。なるほど面白いですよ。108という煩悩と同数のちょっと洒落たコード進行が紹介されています。
 たしかにこれは煩悩といえば煩悩ですよ。そう、たとえばELOコード進行はこの108に当てはまるものも当然ありますが、やはりいかにもELOらしさというのは、だいたいこういう「よくあるパターン」からははずれています。
 当たり前の話ですよね。新鮮さ、個性というのは一般からは離れているモノです。コトにとらわれないモノ。
 もちろんコト(カタ)というのは大切であり、ちょっと前にも書いたとおり、教育においても禅の修行においても、まずは型にはめるところに専念して、そこから溢れ出るモノこそが個性であり価値であるということはよくあります。
 しかし、私の哲学でもある「コトを窮めてモノに至る」に表現されているとおり、何ゴトも窮め尽くさないと、そこに本モノは現れてこないのです。
 お釈迦様が煩悩を窮めてお悟りを開いたように、こういうマニュアル的な、一般的な、いわば俗世間の煩悩を知り尽くさないと、その先に行けないというのは面白い真実ですね。
 というわけで、最近の寝る前の楽しみは、枕元にあるで過去の名曲たちのコード進行をなぞってみることです。楽しいですよ。
 この本と連携して、リットーミュージックのサイトから音源を聴く(ダウンロードする)ことができます。それだけでも面白いですので、ぜひ聴いてみてください。そして、興味を持ったらこの本を買ってみてください。

付録ダウンロード

Amazon かっこいいコード進行108

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2017.11.23

無限の可能性

Th_img_0388 日は我が中学校の文化祭「葵江祭」が行われました。毎年のことですが、本当にこの行事を通じての生徒たちの成長には驚かされます。
 今年のテーマは「心」でした。まさに心の成長と、心の共鳴に感動する5時間でした。子どもの可能性はたしかに無限ですね。
 私はかつては「無限の可能性」という言葉があまり好きではありませんでした。可能性は最大100%だと思っていたからです。無限ではない。有限だ。
 しかし、今日はそれが間違いであったことに気づきました。
 たとえば今回、どの学年も新しい挑戦があり、それが決まった時には正直「無理だろう」と思いました。厳しいなと。
 しかし、結果は見事その挑戦を成し遂げ、まったく想定外の大成功を収めました。
 そう、私が想定していなかったという意味では、やはり可能性は「無限」だったのです。
 想定しているから、0%から100%の可能性が計れる。想定していなければ、それは0でもなく「無」ですから、なんらかの結果が出れば、それはたしかに∞%の確率で実現したということになりましょう。
 よく考えてみれば、子どもをはじめ、他人の人生にはもちろんのこと、自分の人生にも想定外のことばかり起きています。まさに未来から未知のモノが流れてくるわけで、私たちがつい語ってしまう過去の経験則(コト)としての可能性とは、全く違う次元での未来の可能性というモノがあるわけですね。
 そういう意味では、やはり自分に対しても他人に対しても「無理だ」と思った瞬間に、未来の可能性とはいうのはゼロになってしまうということです。
 当たり前といえば当たり前だけれども、つい過去のコトにとらわれて忘れがち、あるいは勝手に諦めがちな大切なモノに気づかせてくれた子どもたちに、心から感謝したいと思います。
 教育者(先生)というのは、他人に対しても、自分に対しても、社会に対しても、決して「無理だ」といわない人であるべきです。いや、先生に限らず、大人はそうであるべきなのでしょうね。

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