カテゴリー「モノ・コト論」の895件の記事

2018.04.21

【討論】属国からの脱出はありうるか?

 日は東京で仕事。それが終わってからある会合に出席し、藤井厳喜さんにお会いしました。藤井さんは優れた国際政治アナリスト。今日は仲小路彰について少し情報を提供させていただきました。
 定期的に過去・現状の分析、そして未来の予想をし、個人や企業にその情報を提供しているという意味では、現代の仲小路彰とも言える方です。
 藤井さんも今日のお話の中で、「いい加減な憲法なんだから、いい加減に改正してもいい」と、独特の表現で現憲法の問題点を指摘しておられました。
 日本国憲法が、GHQによって「日本をアメリカの属国にするために」作れられたというのは、もう説明をする必要のない事実です。
 しかしその憲法をありがたく戴いているのが現状の日本です。改正や自主憲法制定の話をすると、すぐに右翼とか言われる。大日本帝国憲法の復活なんてもってのほか。
 私は独自の「国譲り理論」から、いわゆる保守派の方々とはかなり違った憲法観を持っているのですが、かと言って護憲派というわけではありません。というか、思考停止した護憲派の方々を軽蔑さえしています。一方、ちゃんと思考して未来的な理想としての現憲法を守ろうとする方々とは話ができます。
 逆も言えます。改憲派の中にも思考停止している人がいて困ることがあります。
 さて、この討論に参加しておられる方々はどうでしょうか。
 藤井厳喜さんもおっしゃっていましたが、大幅な改憲や自主憲法となると、各条文を一つ一つ考えなければならないわけで、九条のみならずそれぞれ侃々諤々になり、いったい完成までに何百年かかることやら。
 つまり言語の限界なんですよ。コトを窮めてモノに至る。
 私は聖徳太子の十七条憲法を復活させればいいと思っています(笑)。
 そうそう、世界中の現行憲法で、一字一句変更が加えられていないという意味で最も古いのは、実は日本国憲法なんですよね。誇りと言えば誇りですよ。日本人が言葉にこだわらない、言語による契約を信用していないことの証明です。
 そして、天皇の存在こそが「モノ」性の象徴なのであります。終戦後、こうして天皇制が存続しただけで、じゅうぶん「コンスティテューション」が保証されたでしょう。
 属国とか主権国家とか、そういう言葉にもあんまりこだわらなくていいいのではないでしょうか。悩みだけが増えてしまいますよ。

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2018.04.14

薬師丸ひろ子 『Woman"Wの悲劇"より』

 日は東京にてラモーの練習がありました。プロに特別レッスンをしていただき、本当に音の裏側にある「物語」の豊かさに感動いたしました。それこそ私は書き残された「音符」を再現するだけで、その背後や行間にある本質を表現できていない。
 当たり前ですが、そこがプロとアマチュアの違いでしょうね。今日はそれを痛感。ただ、こうして教えていただけるだけでも幸せなことであります。
 さてさて、今日の記事は昨日の続きとなります。
 ユーミンが他者に提供した曲の中でも、ご自身で最も高く評価している「神曲」がこれ。
 いやたしかに神がかってますよ。それこそ、音符の組み合わせの妙により、今まで地球上になかったクオリアが生まれ、それが時代を超えて残ることになっている。すごいですね。
 ユーミンも語っているように、この奇跡が生まれたのには、薬師丸ひろ子という稀代の歌手の存在が深く関わっています。あの声、歌唱力、そしてお人柄がユーミンの才能を刺激した。作詞の松本隆さんもそんなことを言っていましたっけ。
 そういう意味でも、やはり関係性の中に縁起している音楽と言えましょう。
 さあ、今さら私が語るべきではないかもしれませんが、この曲のコード進行のすごさは本当にすごい(笑)。すごいとしか言いようがありません。
 これは創造なのか、それとも発見なのか。いや、全ての創造は発見なのかもしれませんね。
 特にサビに入る前とサビのコード進行。転調とも言えますよね。まさかのB♭m7(9)。
 9thが生む浮遊感というのは、よく言われることですけれども、なんというか、マイナーへの転調として捉えると、基本的には落ちてるわけですよ。そこに非和声音の9度のいわゆる「倚音」で薬師丸ひろ子に歌わせてしまったユーミン、そしてそれを完璧に、さらに純粋に歌ってしまった薬師丸ひろ子という、なんとも奇跡的な組み合わせによって、この宇宙にそれこそ浮遊していたクオリアを「発見」してしまったわけですよ。
 おそらくこの地球上に初めて召喚されたクオリアでしょう。もちろん、ジャズなどではこういう展開もありましたが、歌として、歌詞とも関係しあってのこのクオリア、ニュアンス、ムード、イメージは初めてでしょう。
 松任谷正隆さんが荒井由実に惚れた一因が、この「ここでこのコードか」だったと言います。なるほど、これは専門であればあるほど驚きますよね。
 この動画、比較的最近の薬師丸ひろ子さんですが、本当に素晴らしいですね。昔、すなわち30年前はさほど興味がわかなかった。今は正直興味ありありです(笑)。

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2018.04.11

「利他の心」…ザ・リーダー 稲盛和夫

 場の先輩に「致知」を借りて読んでおります。表紙は稲盛和夫さん。特集「利他の生きる」。年齢的に否応なくリーダー的な立場にならざるを得ないようになってきた私にとって、稲盛さんは最高の知恵を与えてくれる人です。
 今までも稲盛さんには勝手な親近感を持ってきました。この動画でも「やきもの」という言葉を何度も使っていますが、私の中では霊的な意味でも、また実業的な意味でも稲盛さんは出口王仁三郎につながっていると思っています。
 そのあたりについては、8年前、稲盛さんがJALの再建をまかされた時、稲盛和夫と出口王仁三郎という記事に比較的詳しく書きました。
 その記事では「モノ」と「コト」とという言葉を使っていろいろ書いていますね。今になってみますと、それは谷口雅春さんの言うところの「實相」と「肉体」ということだと分かります。
 そう、肉体というのは目に見える認識できる「コト」なのです。モノではない。そして、實相とは、そういう認識できるコトとコトとの間に縁起している「モノ」のことです。
 この前も物理学者の方と話しましたが、たとえば宇宙空間において点在する星は「コト」であり、それが宇宙の実体ではなくて、それらの関係性、目に見えない関係性の方こそが本体なのではないかと。
 音楽で考えるとよく分かります。ドミソの和音で言うなら、それぞれの三つの音は「コト」です。周波数として認識できますね。しかし、それらが組み合わさって生まれる「雰囲気」、たとえば明るいとか元気とか、そういう関係性によって生まれるニュアンス、ムードというモノの方こそが、音楽の本質であり本体であることは、誰しも分かることでしょう。
 そういう「實相」の大切さに気づくと、肉体にこだわることはなくなります。すなわち自己ではなく他者の方に本質があることがわかり、また他者によって自己が形成されている、すなわち自己には実体はなくて縁起しているだけだということに気づくことになるわけで、そうなると、当然人生は利他的になっていきます。
 経営も人生の一部ですから、神道的にも仏教的にも「實相」を理解している稲盛さんの経営哲学が「利他の心」を原点とするのは、当然といえば当然と言えるでしょう。
 それにしても、こうした経営哲学が中国で大人気というのは、これは悪いことではありませんね。コトを窮めてモノに至る。カネを通じてコトを窮めたからこそ分かるのでしょうね。
 今一番お会いしたい人の一人が、稲盛和夫さんです。
 

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2018.03.17

キース・ジャレット・トリオ 『アフター・ザ・フォール』

Th_918luzbodl_sl1200_ 日は我が校のジャズバンド部の感謝祭が行われました。6年間お世話になったウチの娘もいよいよ卒業ということで、最後の演奏をしました。
 あっという間の6年間でしたが、まさに人生を変える経験をさせていただき、私としても感謝感謝であります。
 卒業後は東京女子大学にて国際関係などを学ぶ予定ですが、あくまでも未来の夢はプロのベーシストになることです。大学時代には、今までもお世話になっていた先生のレッスンを受けるとともに、大学生ならではの自由な音楽活動をして、いろいろ学んでもらいたいと思っています。
 まさか娘がベースを、そしてジャズをやるとは思いもしませんでした。すすめたことは一度もありませんでしたからね。出会いとは不思議なものです。
 おかげさまで、私も従来好きだったジャズを、また違った視点、聴点で受容することができました。
 最近毎日聴いている、このキース・ジャレットのアルバムも、きっと6年前に聴いていたら、今ほど豊かな感動を得られなかったかもしれません。
 5年前、彼らトリオの日本最終ライヴをジャズ部の生徒たちと聴きに行きました。その時のことはこちらに書いてあります。私にとってもとんでもない日でした。音楽が結ぶ不思議なご縁。
 残念ながらこの歴史的なトリオの演奏はもう生で聴くことはできなくなってしまいましたが、20年前の伝説の録音が先月発売になりました。それがこのアルバムです。
 慢性疲労症候群から復活して初めてのトリオ・ライヴ。あの神がかったピアノ・ソロ録音の次に録音されたトリオ・ライヴ。
 ソロ・アルバムでは、自らが神の化身となって自らを癒し、そして、今度は仲間が彼を癒した。その癒しは、ある種の興奮と瞑想という形で、私たち前に立ち現れています。
 先日、天才物理学者と宇宙論で盛り上がりましたが、その中心には常に音楽が存在していました。そう、コトとコトの間の関係性に立ち現れるモノ、それこそが「空」であると。
 一つ一つの音は、ある意味点でしかないけれども、それが二つ、三つ、四つと重なるごとに、私たちに感情や感動を呼び起こす「何か」が立ち現れる。
 実は宇宙の構造もそうなのではないかと。天体という物質どうしの間に関係性があるように、もしかすると、情報どうしも互いに影響を与えあっているかもしれない。もちろん波動どうしも。
 そして、その、私たちが感知できるコト、たとえば音楽で言えば、一つ一つの音が音楽自身なのではなく、その音たちの関係性こそが、音楽本体なのではないかと。
 つまり、宇宙も、何もないとされている空間、時間にこそ、実は本体があるのではないか…。
 クラシック音楽、すなわち極度にシステム化され、単純化された(とあえて言います)音楽は、宇宙の根源的な法則や調和を象徴します。
 それに対して、多くのテンション(コードもリズムも)を含むジャズは、人間と神との関係を表現しているように感じます。
 もう一方の極致たる、たとえば謡曲などを聴いていますと、それはシステム化されていない、数値化されない関係性の連続です。しかし、ノイズではない。それはすなわち、人間をも含む(地球上の)自然の有り様を表現しているようにも感じます。
 このように実に多様な世界の象徴となりうる音楽というのは、まことに素晴らしい神からの贈り物です。
 ここに歌(言葉)が加わってきますと、さらに複雑な関係性の中の、実に多様な情感が生み出されます。不思議ですし、感動的ですね。
 このアルバムでの三人の生み出す世界は、それこそ人間と神の美しき関係性を象徴していますし、一方では、人間の身勝手さ、粗雑さをも表現しているように思えます。
 ジャズの面白いところは、西洋近代の音楽システムや工業化された楽器の上に立ちながら、神に反抗するかのように、複雑さ、一回性に挑戦しているところですね。
 神様の大きな手のひらの上で、思いっきり人間が遊んでいるような、そんな感動があります。何もないはずのところに、複数の点が生まれ、それらの関係性の中に縁起するモノ。無であり有であるのが、すなわち「空」なのです。
 よく No Music No Life と申しますが、実は宇宙の生命は音楽そのものであるとも言えるので、当然と言えば当然なのですね。
 音楽よ、生命よ、本当にありがとう。

Amazon アフター・ザ・フォール

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2018.02.28

【討論】サヨクの本質-共産主義は本当に死んだか?

 称右翼、他称左翼のワタクシとしては、とにかく面白かった。いろいろツッコミどころもあるけれども、大方において間違いのない歴史観であると思います。
 間違いはないのですが、それが総体ではありません。世の中に見えていない部分が多すぎる。もちろん私も知らないことばかり。
 出口王仁三郎や仲小路彰を研究していると、本当に世界の、いや宇宙の大きな流れというのは、右左という世界では語りきれないことを知らされます。
 私、冗談で、「左右」が抱えているものは「エロ」だなんて言ってきましたが(我々が左右の手で大事に抱えているものとは…!?)、案外これって冗談ではなくて本質を突いているのかもしれない。
 いわゆる左翼においては、嫉妬心という自己卑下が暴力性と結びついていますし、いわゆる右翼においては、拡張した自己愛が暴力性と結びついています。
 人間の暴力性こそ、エロチシズムですよ。
 それらは、正直言って、両方とも宇宙の摂理から外れている。残念ながら、です。
 そこを乗り越えんとしたのが、おそらくはお釈迦様であったのだと思います。宗教ではありませんよ。宗教は、美化されたエロチシズムの物語に過ぎませんから。
 この討論を聴いていて、自分の中の両方のエロチシズムが、それこそ左右の手の中で暴れだして困りましたが(笑)、今はもう宇宙から地球人のドタバタを俯瞰できるようになっています。
 エロチシズムというのは、男女問わず人類に共通したモノだと考えられがちですが、その概念は男が作り出したコトです。
 結果として、男はそのエロチシズム(暴力性)の虜になってしまっている。だから、エロ対エロはケンカになる。しまいには戦争になる。「本当に死んだか?」なんて確かめたくなる。
 面白くも可笑しい男のサガであります。
 だからこそ、仲小路彰は21世紀は女性性の時代と言ったのでしょう。また、王仁三郎は変性女子を名乗ったのでしょう。

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2018.02.13

自動車が本当に「自動」になる日

Th_nvidiaam24 日、AI研究の最先端を行く学者さんとお話する機会がありました。いろいろなお話をしたのですが、一番盛り上がったのは自動運転について。
 私たちシロウトは、いわゆる職人技という部分に関しては、AIは人間には敵わないだろうと思いがちですが、実際は全く逆なようですね。
 とにかく私たちが時間をかけて勉強を重ね習得してきたコトこそAIが得意なのであると。なるほど、考えてみればそのとおりでしょう。
 一方で、技術ではない、そうですねえ、あえて言えば知恵のようなモノ。たとえば想定外の事態に瞬時に対応するようなセンスというのは、なかなかAIには難しい。まあ、私たちが想定外だと感じるモノのほとんどは、過去のビッグデータに含まれる既知のコトなんだそうですけど。なるほど。
 車の運転というのは、道路というインフラや交通ルールのデザインさえしっかりすれば、かなり規則的なコトであり、そういう意味では、AIの最も得意とする分野の一つです。
 逆に言うと、現在私たちが半分カンにまかせて、けっこう死と隣り合わせで行なっている「運転」を、そのままAIに任せると、これはけっこう大変。それこそカンに頼るようなモノ性が高いからです。
 ですから、完全自動運転、つまりレベル5の自動運転を可能にするためには、インフラ、ルールのリ・デザインが非常に重要となるでしょう。
 私たちが今まで当たり前だと思ってきたこと、あるいはずいぶん効率化したと思ってきたことの中には、実は大きなムダがあったりする。それを最先端のテクノロジーが簡単に軽減してくれるというのが、これからの世の中の大きな変革のあり方になります。
 私も自分で自動車を運転して、いろいろなところに移動しています。通勤にも使っていますし、東京や横浜との行き来にも自動車を使いますから、年間にしますと、2万キロ以上車で移動していることになります。平均速度を40キロで計算しても、実に500時間を運転に費やしていることになります。
 私は運転という「スポーツ」自体が好きで、それをすることによってストレス解消をしている部分もありますから、決してムダな時間とは言い切れません。また、かつてはゆっくり音楽を聴いたり、あるいは最近ではネット動画の討論番組をまとめて聴いたりもしているので、それはそれなりに有意義な時間を使っているとも言えます。
 まあ、自動車とは言うのもの、全然自動ではなく、ほとんど手動ですし、オートマによってオートマ化したのはギアチェンジだけですよね。かなりの部分で自分のエネルギーを運転につぎ込んでいる。
 しかし、これが全て自動運転になったら、500時間の自由な時間、より有意義に使える時間が確保できるということです。
 本を読んだり、映画を観たり、楽器の練習をしたり。ま、日常の自由時間と同じく、ムダにゲームをしたり、食べたり飲んだりして昼寝したりするだけになるかもしれませんが(笑)。
 そっか、たしかに今の「手動運転」には「寝てはいけない」という最強の条件があるので、案外有意義な時間を創出しているのかもしれませんな。
 強制的に睡眠を妨げる、命がけで眠気と戦うという意味では、今の手動運転には大きな意味があるのかもしれませんね。
 そんな笑い話的な昔話が語られるようになるのは、そんなに遠い未来のことではないと考えます。少子高齢化、人口減少が避けられない日本は、そしてある程度道路が整備され、また国土が狭い日本は、実はこの部分で世界の先駆けとなるべきなのではないでしょうか。
 もちろん、個人レベルでのムダの排除だけではなく、物流という巨大産業にも革命が起きます。いくら世の中がデジタル化、情報化しても、残念ながら物質をどこかに伝送することはできないので、おそらくあと千年は物流の業界はなくならないでしょう。
 自動運転が実用化すると、たしかに現在の物流関係、あるいは交通関係の運転手さんたちの職は失われるでしょう。しかし、それは時代の流れの中での必然であり、その人たちにはまた違った、ある意味もっと楽な仕事をしてもらうことになるでしょう。
 自動車、列車、飛行機、ドローンなどによる物流が自動化することによる経済効果は非常に大きい。人件費は言うまでもなく、渋滞などによるさまざまなムダも劇的に軽減し、結果として私たちは豊かになることでしょう。
 国家レベルでのイノベーションに期待します。

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2018.01.21

追悼 西部邁さん

Th_2018012100000512san0007view 西部さん、本当に死んでしまったらダメですよ!全然かっこよくないですよ!
 10月22日に死ぬつもりだったけれど、選挙のこともあって死に損なったみたいなこと言ってましたよね。その時、ああこの人は病んでしまったなと思いました。それでもどこかでずっと死に損なってくれることを期待していた。
 そういう意味で裏切られた気がします。悔しいというか、虚しいというか。
 言論は虚しい…最近自虐的によくおっしゃっていましたね。たしかに言論を虚しいですよ。コトは究極的に虚無ですから。でも、肉体としての人間の存在はモノじゃないですか。なのにモノを虚しくしてどうするんですか。
 嫌いではないけれども尊敬をしていたわけでもない。ちょうど西部さんが死のうと思っていた頃に、こんな記事を書いていました。西部さんに反論したいと。
 三島の時代はとっくに終わっています。ごめんなさい、あえて言わせていただきます。かっこよくないです。
 昭和保守は終わりましたね。自死しました。自裁しました。
 いや、終わらせてくれたのでしょうか…。
 昨日ちょうど私は「ホシュ」は「ホシュ」でも「保守」ではなくて「捕手」、みたいなことを書きました。ふざけているように感じられますが本気ですよ。
 左翼から保守へ転向して、そして自ら命を絶つ…そういう時代ごと全部終わりにするつもりだったのか。それとももっと個人的な決断なのか。
 死者に対して失礼と知りながら、あんまり悔しいので書かせいただきます。やっぱりコトにこだわりすぎた。西洋の言葉遊びをしすぎた。そういう意味では、全然保守ではなかった。そういうことでしょう。
 数年前にこちらでも、私はちょっとした批判を書いていました。それこそ庶民の独言レベルですけれども。
 実はここ数日、西部さんの出演している動画をいくつか見ていたんです。お風呂でウトウトしながら話を聴いていた。軽い調子で今日の自裁を予感させてるようなこと言っていましたが、あんまり軽い調子なので、ああこの人は結局死なないなと思っていました。そんな矢先、私のある種の期待を裏切る行動に出るとは。

 多摩川、丸子橋のあたりと言えば、私が少年時代を送った場所。そして、丸子橋と言えば、5年ほど前に牧伸二さんが同じく78歳で自裁した場所です。
 西部邁さんと牧伸二さん。お二人とも78歳になって何に「やんなんちゃった」んでしょうか…。
 ご冥福をお祈りするしかありません。日本は、日本人はまだまだ頑張りますよ。あちらで見ていて下さい。

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2018.01.17

天災は忘れた頃にやってくる…阪神淡路大震災から23年

Th_mig 年も1月17日がやってきました。
 23年前の今朝、あの兵庫県南部地震が発生しました。直下型M7,3、最大震度は7。
 テレビに映し出されたあの光景は忘れられません。地震でお亡くなりになった方々のご冥福をあらためてお祈りいたします。
 1995年は大変な年でした。1月に震災、3月に地下鉄サリン事件。言うまでもなく、1995年は終戦から50年という特別な年だったのですが、前半にあまりに大きなことがあったため、なんとなくその印象は薄くなってしまいました。そういえばテレサ・テンさんも前半に亡くなりましたね。函館ハイジャック事件も6月でしたっけ。
 そして、偶然と言われれば偶然なのですが、阪神淡路大震災も東日本大震災も、非自民政権時代に発生しています。
 村山政権は自社さ連立政権ではありますが、なにしろ社会党党首が総理大臣でしたからね。本来の自民的なモノからは大きくかけ離れていたことは事実です。
 今、モノと書きましたが、自民党はモノを鎮める「まつりごと」を重視しており、自社さ政権、また民主党政権の時はそれが疎かになってしまったとも言えましょう。
 それこそ唯物論的には、まったく非科学的な因果関係でありますが、私はどうしても唯物論者にはなりきれません。
 特に、先述したように1995年が終戦から50年という節目の年だったというのに、そうしたモノ(たとえば「霊」)をしっかり祀らなかったというのが問題だったのではないでしょうか。
 もちろん村山富市さんは今も昔も靖國神社を参拝しません。最近も安倍さんの靖国参拝を「売国行為」と批判していましたね(苦笑するしかありません)。
 もうお気づきかとも思いますけれども、実は東日本大震災の起きた2011年は真珠湾攻撃、すなわち大東亜戦争(太平洋戦争)開戦から70年の年でした。言うまでもなく、民主党政権時代であり、モノ(霊)に対する「まつりごと」は疎かになっておりました。
 私は自民党の全てを肯定する立場では、もちろんありません。しかし、モノを祀る仕事は天皇だけにまかせておいていいものではありません。
 そういう「まつりごと」を、国民の統合のもとにしっかり行っておれば大難は小難となる、小難は無難となるというのが、日本の歴史そのものであったと思います。
 はたして、今の日本はどうでしょうか。自民党はどうでしょうか。そういう視点で世の中や人間や自然を見ることも大切であると信じます。
 「天災は忘れた頃にやってくる」という時の「忘れる」対象とは、天災そのものではなくて、もしかするとそういう大切な「モノ」のことなのかもしれません。


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2017.12.30

コクヨ 超静音シュレッダー

Th_51aaiohwkdl_sl1000_ 籍、書類の電子化関係でもう一つ。
 スキャナiX500にオマケでついてきたシュレッダーです。
 オマケにしてはずいぶん立派なものでした。定価15000円ですからねえ。
 必要とは思いながらも、自分ではなかなか買わないものです。
 シュレッダーっていつごろから登場したのか気になったので調べてみました。はあ、そうだったんだ〜。なんと発明は1907年といいますから、100年以上前なんですね。
 もともとshredderというと、キャベツの千切り機のことだったとか。なるほど。まあたしかに書類の千切りだし(笑)。
 日本で普及しはじめたのは、明光商会のMSシュレッダーが発売された1960年台からとのこと。
 たしかに学校にも明光商会のMSシュレッダーがあります。
 昔は学校でもやばい?書類は焼却炉でガンガン燃してたんですよね。それが、ダイオキシンだかなんだかが問題になって、世の中から焼却炉が消えてしまい、シュレッダーの活躍の場が格段に増えました。
 それで、小型のもの、パーソナルなものが普及しはじめました。デスク4つに1台とかね。
 この製品ももちろんパーソナルユースをターゲットにしたものです。だから静かを売りにしている。オフィスで個人的にゴミ箱代わりに使うということでしょうか。書類を捨てる時に、昔であれば丸めてポイしたように、サッとシュレッダーに挿入するというわけです。
 ところで、書類はまあいいとして、皆さん、裁断して破壊してしまった書籍はどのようにしているのでしょうか。たぶん廃棄するのでしょうが。別に千切りにする必要はありませんが、なんとなくゴミ箱にバサッというのは、それもまた抵抗があるような気がします。
 焼却炉があれば、供養するような気持ちもこめて荼毘に付すことができるんですがね。本って、いろいろな意味で、情報(コト)の詰まったモノなので処分が難しいですね。バラしちゃったら古本屋にも売れませんし。
 今日のニュースで、紙の本の販売数が大幅に減った、それもいわゆるコミックの売れ行きが大きく下がったと伝えられました。
 平安時代以来の、紙の本文化はいよいよ終焉を迎えるのでしょうか。それとも反撃があるのか。
 一足先にデジタル化が進んだ音楽の世界では、再びLPレコードやカセットテープがブームになりつつあります。
 紙の本も、もちろんなくなることはないでしょう。
 私も電子書籍と紙の本、今購入するのは半分半分くらいです。やっぱり不便な点もあるんですよね。
 10年以上前にどこかに書いた記憶があるのですが、いわゆる紙の本でペラペラ、パラパラというのを再現する、リアルに数百枚の極薄ディスプレイを搭載した電子ブック端末が発明されないかぎり、紙の本はなくなりませんね。

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2017.12.26

『ビジネスで差がつく 論理アタマのつくり方』 平井基之 (ダイヤモンド社)

カンタンな中1数学だけでできる!
Th_51ofbqfu9l 日の忘年会でもこの本の出版祝いをいたしました。
 著者の平井先生はカワイイ赤ちゃんとしっかりした奥様と一緒に参加してくれました。奥様は初のご出産を。そして旦那さんは初の出版を。なんともおめでたいことです。
 平井先生はワタクシの元部下。学校でも活躍していただきましたが、独立後はさらに飛躍されました。もともと理系で東大に合格し、しかし在学中は教育を学び、そして教員生活ののち再び東大に挑戦。なんと今度は文系で合格しました。それだけでもすごすぎますね。
 そうしたすごいキャリアをベースにして、今は押しも押されぬ「受験戦略家」として、受験生の指導に、そして言論活動に活躍しています。
 数学の教員としてウチで働いている時から、私も彼といろいろな話をさせていただきました。今回の処女作は、ある意味その頃のセッションが一つの実を結んだような気がして、私は勝手に嬉しく思った次第です。
 そう、私は国語の教員ですが、たとえば文学を教えることよりも、論理力を鍛えることに重きを置いてきました。その象徴が、中学で教材として使っている、出口汪先生の論理エンジンです。
 出口先生も「論理こそ世界共通語」とおっしゃっています。その最も純粋な形が数学です。国語も数学も同じ論理という一つ上の次元でとらえるという意味では、「数学は言語だ」と力説する平井先生と出口先生は同じ考え方ですね。
 当然のことながら、結果として、論理エンジンで強調されている「イコールの関係」「対立関係」「因果関係」と、この本で強調されている「同じ」「違う」「順番」は、ほぼ同じことになります。
 論理学に限らず、全ての学問、いや私たちの認識のパターンの基本は、その三つに集約されます。この本は、中1の数学という、世界中のみんなが経験する(経験した)サンプルを使って、その基本を意識させてくれるという意味で、まずは非常に有用です。
 そして、それを単なる学校の勉強や受験のレベルではなく、実生活、特にビジネスの現場にしっかり応用するべく解説されているところも素晴らしい。学校の勉強と実生活がなかなか結びつかないのが、日本の教育の問題点ですからね。
 そういう意味で、やはり「受験は戦略」であり、そこから「人生における戦略」を学ぶべきだという平井先生の考え方には、私も大いに共鳴します。実際そういう話を生徒によくしていますし。
 それらを私たちに納得させてるために、サンプルとして中1の数学を選んだのが正解でしたね。私のような数学苦手オジサンでも、さすがに中1の数学なら復習せずとも理解できます。
 さらに、平井先生の素晴らしいところは、その易しい(優しい)サンプルを、さらに読者への愛情(教え子への愛情の延長でしょう)をもって、実に易しい(優しい)文章で説明してくれていることころです。
 難しいことを易しく(優しく)語ることができる人が、本当に賢い人です。私も教育者として学ばせていただきました。
 ところで、ワタクシの難解な?「モノ・コト論」で言いますと、論理や数学は最も純粋化された「コト」ということになります。
 しかし、皆さん予感されるように、その最も人間的といえる、脳内ツールの極致であるはずの「純粋言語」が、自然界の「モノ」に直結している、すなわち「神」と直結しているところが面白い。私の言うところの「コトを窮めてモノに至る」という真理ですね。
 おそらく私たち人類はそうして「シゴト(コトを為す)」を突き詰めて、宇宙の真理に近づこうとしているのでしょう。
 数学史上の天才たち(最近では「ABC予想」を証明した望月新一さん)の多くが、理系・文系などというつまらない分類に収まりきらない人生を送っていることが象徴的ですね(そう言えばペレリマンはいまだにキノコ狩りしてるのかな?)。
 まさに理系・文系の壁を超えている平井先生の今後の活躍に期待いたします。

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