カテゴリー「モノ・コト論」の1000件の記事

2023.11.21

Re:Hackshun【目せまゆき&成田山幽輔】安倍さんは、あの解散をどう考える?(チョコレートプラネット チャンネル)

 倍昭恵さんが、ザ・ニュースペーパーの福本ヒデさんと一緒に撮った写真をアップしていました。

 福本さんも安倍晋三さんのモノマネをやっておられましたが、やはりニセ安倍晋三と言えばビスケッティ佐竹さんでしょう。

 あの事件後も、昭恵さんは佐竹さんを応援し、できるかぎり晋三さんのモノマネを続けてほしいと伝えたとのこと。私もぜひ彼にはニセ安倍晋三を続けてもらいたい。

 世阿弥の言う「ものまね」は「モノを招く」という意味だと解釈しています。モノとは「霊」のこと。そういう意味で、ものまね芸人さんはとても重要なお役目を担っているのです。特に故人を招霊する方々は。レッツゴーよしまささんもそうですよね。

 そして思い出したのがこの動画。久しぶりに観ましたが、また涙を流して笑わせていただきました。去年の5月、初めてこの動画を観た時の涙とはまた違った意味の涙でした。

 ちなみに、この動画での佐竹さんの完璧なアドリブもすごいのですが、チョコプラのお二人が真似た、ひろゆきと成田さんがまた最高(最低w)。

 これぞプロの芸ですね。いろいろな意味で。まあ、プロが自分たちのネタで笑っちゃうのは反則ですが(笑)。

 

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2023.11.18

在原業平の墓(滋賀県高島市マキノ町在原)

Th_img_3833 の日は滋賀県の高島市マキノ町にて合宿セミナー。古民家をリノベーションした素晴らしい宿にてたっぷり皆さんと交流いたしました。

 やはり「場」は大切ですよねえ。自然環境も素晴らしく、雪が降り、月が雲間から現れ、花が咲き、まさに雪月花の幽境でありました。

 ここには在原業平の墓と伝承される石塔が存在します。今日の私の5時間にわたる講演の中にも、重要人物として現れました在原業平朝臣…あの時(40年前)は彼を恨みましたが、今では大感謝です。

 そして、こういう偶然で、お墓参りをし、感謝を申し上げることができました。まあ、宇宙から見れば40年なんてあっという間なんでしょうね。

 セミナーの合間に一人でお墓を訪ねてみました(実際には19日の朝)。冷めたことを書けば、山村、寒村にありがちな、コンプレックスの反動としての「大げさな物語」であることは間違いないのですが、それをもって学術的に「偽モノ」「噴飯モノ」としてしまうのは、まさに唯物論的な愚かな態度です。

 ずっとそれを真剣に信じてきた人々の意識、命、魂を無視した歴史観には、この世の本質に迫る力が欠如しているのです。

 私が研究している、宮下文書や出口王仁三郎、そして仲小路彰など、まさにそういう人たちから無視され、バカにさえされてきたモノ、ヒトですね。

Th_img_3831 そういう意味で、この石塔(五輪塔?)に対面した際、不思議と富士山麓明見の里や、秋田の某地、その他ご縁があって訪れた山村、寒村ともつながった感覚がありました。

 静かに、深く、忘れ去られた「コト=意識」。

 そう、コトにはモノは宿りませんが、モノにはコトは宿るのでした。そして、忘却という最高の保存方法。手つかず(解釈が関与しない)という完璧な伝承。必要なコトは、モノの中に忘れ去られ、必要な時にこうして現れるのです(私にとっては40年の忘却がありました)。

 顕在的なコト(カタ)にはめられ固定化した現代社会、現代人。いよいよそれを突き破って潜在的なモノ(とそこに保存されたコト)の復権の時代が来るのでしょう。今日のセミナーも結局そういう話なのでした。

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2023.10.25

廣松渉の「世界の共同主観的存在構造」

Th_81ivqeuh6tl_ac_uf10001000_ql80_ 日はお昼は練馬にて仲小路彰に縁の深い先輩方とミーティング。いよいよ本気で頑張らねば。

 夜は赤坂にて講演。昼間からの流れということもあって仲小路彰や出口王仁三郎についていろいろと語らせていただきました。いつものように何も用意せずの講演でしたが、自分でも感心するくらい(笑)勉強になりました。

 経営者の方々が多かったのですが、皆さん感じるところがあったようです。王仁三郎と仲小路に感謝です。

 さて、移動中に見たのがこの動画。廣松渉さんの哲学です。廣松渉さんには、ワタクシの「モノ・コト論」構築にあたり、いろいろ示唆を与えていただきました。特に若い頃、「もの・こと・ことば」には多大な影響を受けました。

 

 

 東大の哲学ですので、仲小路彰の系列でもありますね。カント的な世界観を凌駕していこうとする点でも共通点はあります。というか、近現代の哲学者は皆それですよね。

 廣松さんというと左翼というイメージを持つ方が多いと思いますが、彼は仲小路と同様、そこを通過してその限界を知り、第3の立場を構築しようと奮闘した人だと私は思っています。

 「世界の共同主観的存在構造」というのは、先日紹介した出口さんの「われわれとしての自己」にもつながるような気がします。

 今日皆さんにお話した「雛型」「世界を自分ごととしてとらえる」という私の作法(理論ではない)も、そうした自己脱却的、自他不二的な境地を目指したものです。

 それができるようになることこそが、「大峠を越える」ことであると信じています。

 あまり読書をしない、すなわち先人の知恵に学ばないワタクシでありますが、こうして難解な本をわかりやすく解説してくれる動画には心から感謝します。

Amazon 世界の共同主観的存在構造

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2023.08.22

映画『君たちはどう生きるか』 宮崎 駿 監督作品

Th_kimitachi 女が観に行きたいというので、事前情報なしで私も鑑賞いたしました。

 結論から言うと「よく分からなかったけど、すげぇな」でした。

 ジブリ作品には元々あまり興味がなく、家族が観ているのを横目で盗み見する程度でしたが、そんな私でもこの作品は「集大成」的には感じました。

 もっとはっきり言ってしまうと、宮崎駿監督というカリスマの最後の仕事に、考え得る最大の才能と時間とお金がかけられたのだから、それはすごいのは当たり前という感じでした。

 冒頭の火事のシーンだけで、世界の美術史に残るであろう「絵」の連続を見せられた感じがして、正直圧倒されました。西洋と東洋の両美術的世界を統合・融合する日本的美術の世界、ここに極まれりです。

 背景の西洋的リアリズム描写と、キャラクターを中心とした東洋的リアリズム描写の同居という、本来は不自然きわまりないはずの画面が、どうしてここまで自然に感じられるのかという驚き。

 東西は、主に「輪郭線の有無」と「色彩の平板化の度合い」で峻別されるのですが、それを自然に同居させてしまうのは、日本独特の文化であり、浮世絵や漫画、アニメに慣らされた私たちにとってはそれこそ自然なことなのかもしれません。

 それはすなわち、日本人の脳内リアルが、意識(コト・カタ)と無意識(モノ・マナ)の総体とそのバランスであるということなのですが、それがストーリーにおいても実現しているのが興味深かった。

 つまり、「分かる」と「分からない」がそのままの形で放置されることが「リアル」になっていたわけです。「モノガタリ」の本質は実はそこにあり、だからこそ「モノ」を「カタる」と称した。

 そういう意味で、私はこの作品を「よく分からなかったけど、すげぇな」と評し、だからこそ見終わったあとに不快にはならなかったのです。

 これは新しい日本の神話なのかもしれませんね。ある意味そういう陳腐な感想しか出てこない。やっぱり宮崎駿をすごかったということか(なんだか悔しいけれど…笑)。

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2023.08.15

『顕神の夢〜霊性の表現者 超越的なもののおとずれ』 足利市立美術館

Th_img_2864 本の神話的エロスの美術的表現が結集。

 足利市立美術館で開催されている「顕神の夢〜霊性の表現者 超越的なもののおとずれ」に行ってきました。

 鎌田東二さん監修ということで、入り口の正面にはいきなり出口王仁三郎の耀わんが鎮座。そして、出口なおのお筆先やら王仁三郎の書画が並びます。

 しかしそれはあくまでも(出口による)入口であって、その先にはさらにディープな「もの(何か)」の世界が広がっていました。

 岡本天明、金井南龍から円空、村山槐多、関根正二、横尾龍彦、黒須信雄、さらには宮沢賢治、草間彌生、岡本太郎、横尾忠則まで。

 霊界から直接ヴィジョンを受信した天才たちの、圧倒的な「現実との葛藤、格闘」の連続にすっかりやられてしまいました。

 現界と霊界、どちらがフィクションなのか。これからの時代はどちらが優勢になっていくのか。芸術とは何か。アートとは何か。

 会場の最初に提示された王仁三郎の言葉「芸術は宗教の母」。王仁三郎の言う「芸術」とは自然(モノ)と言い換えることができます。「宗教」は「コト」です。モノはコトの母なのです。

 そして、私たち人間は神々の「分霊(わけみたま)」として、神々のオーダー(みこと)を受けて「ミコトモチ」とならなければならない。それこそが「命(いのち・オーダー・みこと)」の本質であります。

 素晴らしい企画でした。終戦の日に来られて良かった。17日までです。お時間のある方はぜひ。このあとは、福岡久留米市美術館、愛媛久万美術館、愛知藤井達吉現代美術館を巡回します。

 足利市立美術館公式

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2023.07.02

和紙というモノ

Th_img_2682 日は午後から富山県射水市でトークショーでした。これまた多くの皆様にご来場いただき感謝です。

 午前中、泊めてくださった立山の友人と一旦別れ、別の立山の友人と合流。どこへ行くかも告げられず促されるままに彼の車に。車は立山の懐へと向かいます。

 昔ながらの土蔵が並ぶ集落にそのアトリエはありました。

 川原製作所

 先方も誰を連れてくるか知らなかったようで、私という人間をちょっと不審そうな目で追います。それはそうですよね。怪しすぎる。

 そして時とともに、和紙と茶碗…お互いのモノ(物・霊)を通じていつのまにか響き合っていたように思います。

 そんな時こそコトバは無力。本当にうまく話せない自分がいてびっくりしました。

 まさにひょんなことから、伝統的な和紙の世界を継ぎ、そして未来に投げる役についた若者。まちがいなく神様に選ばれたのでしょう。

 昨日の話ではありませんが、やはり彼にはエゴがなかった。だから純粋に師のソウルを受け取れた。なるほど。

 ただ技術的なコトをコピーしているだけではダメ。モノ(ソウル)を招いて一体化せねば。

 それが世阿弥の言う「ものまね(招霊)」なのでしょう。

 自然と人の調和。生活と芸術の調和。民芸以前の芸術。

 そのセンスの良さはおそらく天与のモノでしょう。驚きました。

 陶芸家の奥様が、かなり近いところで出口王仁三郎とつながっていたことにもびっくり。完全なるお導きですね。

Th_22031 そして和紙工芸作家、後藤清吉郎…ウチの先祖がたどりついた静岡に、こんな人がいたとは知りませんでした。不勉強を恥じるばかりです。

 後藤は大分県の出身ですが、富士宮を拠点に全国の和紙を研究し、自らも工芸家として魅力的な作品を多数残しています。そのうちのいくつかを川原さんがお持ちで拝見させていただきました。たしかに非常にハイセンスなデザイン、かつ濃厚な内容でした。

 静岡で民芸というと芹沢銈介が真っ先に頭に浮かびますが、ある意味それ以上の人物がいたのですね。

 お話しながら私も気づいたのですが、ウチの家系も和紙に関わっていたのでした。和紙に関わる仕事(輸出用茶箱の蘭字ラベル)に携わっており、埼玉の小川町から横浜、そして静岡へと移ってきたのでした。う〜ん、ここで和紙が来たかあ…という感じです。

 これから面白い展開がありそうです。モノは人と人を出会わせます。紙は神、そしてモノ(霊)なのでした。

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2023.07.01

エゴ(こと)を捨てソウル(もの)に帰れ!

Th_img_2672 日は金沢にてトークショー。九州やニューヨークも含めて多くの方々においでいただき恐縮です。

 燃料と称して、金沢駅到着後すぐに加賀鳶を一杯ひっかけまして、講演中も差し入れの高龍神社のお神酒をちびちびいただきました(笑)。

 いやいや、私にとっての日本酒はまさにお神酒であり、未来からの情報ダウンロード速度を加速する、すなわち左脳(理性)を抑え、右脳(霊感)を研ぎ澄ますための触媒なのです!

 さて、懇親会のあと、富山の立山に移動しまして、久しぶりに会う友人の別宅に宿泊させていただきました。

 今回北陸ツアーをするタイミングで、本当に十数年ぶりに彼から連絡がありまして、不思議なご縁を感じた次第です。

 彼の師匠であるキース・ヒルのことを中心に、まあ興味深い話をたくさん聞くことができました。

Th_img_2677 そんな中、特に心に残ったのは音楽や楽器制作において、エゴを捨ててソウルを重視しなければならないというキースの言葉でした。

 これ、ワタクシの専門分野「モノ・コト論」に勝手に引き付けますと、「コトよりモノ」ということになりますね。コトは自己であり、自我であり、自意識です。モノとは他者であり、宇宙であり、非意識です。

 ソウルは霊であり、古く日本では「霊」を「もの」と訓んでいたのも偶然ではないでしょう。また、大陸の体系化された(楽譜のある)音楽が入ってくる以前の日本古来の音楽のことを「もののね」と称していたのもまた示唆的ですね。

 私の講演やセミナーで盛んに言っていることの一つに、「日本人は言葉を信用していなかった。コトは意識、コトノハは意識の端っこ(上っ面)。だから、言葉より絵を好み、絵草紙や漫画を発展させた。言葉で語り尽くすことは最初から諦めていて、結果、17文字や31文字で充分とした」というようなことがあります。

 今もこうして言語で表現していますが、元々私もこれで何かを完璧に伝えようなどとは思っておりませんし、だいいち、これらは自動書記なので、読み返すことも校正することも記憶することもありません。

 逆に行間に垣間見えるであろう「モノ」的雰囲気を味わっていただきたいだけなのです。講演も結局同じです。通り過ぎる音楽や映画や物語を楽しむように聞いていただければ本望です。

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2023.06.07

『ものがわかるということ』 養老孟司 (祥伝社)

Th_81rv8ljvhtl めて私は養老先生の影響を強く受けているなと感じました。

 自分で考えついたと思ったことが、実は養老先生の本に書いてあったことだったということがよくあります。

 この本も、ある意味自分が書いたのではと思うほど(笑)納得いく部分が多すぎました。

 先生の言う脳化、都市化はワタクシの言うところの「コト化」であり、自然は「モノ」です。

 同じような世界観を違う言葉で表現しているのでしょう。

 そういう意味で、私は変な読み方をしてしまったのですが、このタイトル「ものがわかるということ」にも「もの」と「こと」が出てきているように、本文でも先生は無意識のうちにしっかり「もの」と「こと」を使い分けていました。

 はっきり言ってしまうと「もの」は「わからない」ということなので、このタイトルは矛盾しているようですが、ちゃんと本文ではそのことにも触れています。

 面白かったのは「文武両道」の解釈です。これは目からウロコでしたね。

 今学校では、部活動は外部委託みたいな話が流行っていますが、体育系はもちろん文化系も「身体」の学習ですから、それが学校からなくなったら、まさに脳化、都市化し、生徒は死にますね。

 というわけで、秋に全国規模の先生方の研修で講演する予定ですが、ちょっと先生のお考えも紹介させていただきます。

 そう言えば最近、養老先生と成田悠輔さんの対談動画が出ましたね。お二人の異才(もののけ)の話、とても面白い。

 

Amazon ものがわかるということ

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2023.05.24

『基礎科学としての情報〜エントロピーと生命、超次元複雑性と生成AIの未来と私達』 Dr.苫米地

 

 日の「神奈川大学 情報学部開設記念シンポジウム 2023」での苫米地英人さんの講演の様子がアップされました。

 昨日までの流れで言うと、トンデモに見える(失礼)苫米地さんこそ向こう側の本質(モノ)をよく理解されており、その言語化(コト化)には当然限界があるので、私たち凡夫には怪しく見えてしまうのでした。

 もちろん、彼自身それをビジネス的に売りにしているところもあると思いますが(笑)。

 この講演での話、私のセミナーでの話に非常に近いですね。ただ頭の良さがあまりに違うので、表現方法はかなり違っています。それはしかたないことですし、それぞれにお役目があるのでしょう。

 仏教に興味を持っているところも似ていますし、時間が未来から流れてくるという考えもほとんど同じです。

 また、エントロピーが増大する物理空間と、減少する知識(意識)空間の両方合わせて「宇宙」であり、それが物質と意識、モノとコト、現象と存在、星と生命の相互関係であると、私も考えています(感じています)。

 それを明らかにするのがAIの役目であり、また登場理由(人間からすると発明理由)に違いありません。

 おそらく高城剛さんと同様、苫米地さんも私と同郷(同星)なのでしょう。お会いして懐かしい未来の話ができる日を楽しみにしております。

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2023.05.14

Style2030 賢者が映す未来〜竹倉史人 (BS-TBS)

Th_4902_32155_ep3 「偶を読む」の著者であり、友人でもある人類学者(独立研究者)竹倉史人さんが出演した番組を観ました。

 一昨年、昨年と富士山の麓に来ていただき、濃〜い合宿などいたしました。また、東京でも何度か飲む機会がありました。楽しすぎるんですよ、彼と話していると。

 けっこう同じ感覚で生きているのですが、私は彼のような勇気がないので(笑)なるべく目立たないようにしています。

 その点、竹倉さんは本当に批判を恐れず表舞台で頑張っておられますね。頼もしい!

 ある意味彼の嫌う「常識」とか、あるいはここでも語っている「存在」とは、ワタクシ的には「コト」世界であり、その補集合たる「モノ」世界、すなわち「現象」「変化」「非常識」こそ、感動や発見や驚きの源泉であるのです。

 「コト」しか認めないアカデミックな世界、いやいや「〜らしさ」を強要してくるこの現代社会において、私たちは本当に行きづらいですね。とはいえ、だからこそ「戦う」面白さを体験できているのかもしれませんから、まあ感謝ですね。

 こちらこちらでしばらく観ることができます。皆さんもぜひご覧ください。

 そして、こちらのグラレコもわかりやすくていいですね。グラフィックは言語よりも「モノ」的ですから。 

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