カテゴリー「モノ・コト論」の919件の記事

2018.12.10

窮して変じ、変じて通ず。

20181211_160534 このところ、重い案件に関わってきました。疲れていないといえばウソになりますが、いろいろな気づきをいただいたという意味では、悪いことばかりではありませんでした。
 そう、「重い」による想定外のモノがいくつかあったのです。
 まず家内の方の親族に不幸がありました。とはいえ、結果としては大往生であり、語弊をおそれず言うなら、ある意味とても幸福な時間を提供してくれた。
 それから、まるでこちらのストレスを肩代わりしてくれたかのように、冷蔵庫とボイラーが故障しました。しかし、それもいつの間にか直っていた。不思議としか言いようがありません。
 あと、「重い」とバランスを取るためか、「軽い」ことに関して、自分の才能が爆発しました(笑)。普段では絶対にできない作品がポンポン生まれる。びっくりしました。
 そして、なんと言っても、自分が信じてきたことが生かされた、というか、生きていたのだなと実感できたことが大きかった。
 人間、やはり窮しないと変じないものなのですね。変ずるというか、生まれるというか。内在していたモノが生まれる。そして、変ずると通ず。
 結果論的に言うならば、「窮すると通ずる」ということです。困ると結果として何かが通じる。滞っていたコトに穴があき、新しいモノが噴出したり見えたりする。
 「窮して変じ、変じて通ず」とは、美濃は伊深の正眼寺元住職、昭和の名僧梶浦逸外老師の言葉です。こちらにも書きましたとおり、川上哲治さんもこの言葉を老師から聞かされたと言います。
 そう考えると、窮することも悪いことではないと。逆に窮している時こそチャンスだとも言えます。おそらく自分が変ずるチャンスでもありましょうし、自分を取り巻く環境が変ずるチャンスでもあるのでしょう。
 よく私も言うのですが、「今日はいろいろと平穏無事に終わった」ということは、昨日の自分と何ら変わっていない、成長していない証なので喜ぶべきことではないのです。
 「今日は大変だったなあ。なんとか乗り切った」という日こそ、昨日と違う自分になっているのです。
 そうしますと、いろいろなモノに感謝できます。このたびも本当にいろいろな方々に感謝しております。

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2018.11.22

御札(ふだ)とお札(さつ)

Th_149dd5 都の旅でも両方に出会いました。というか、お札で御札を買ってる人をたくさん見かけました(笑)。
 と書いてみて、なるほど「御札」は「おふだ」、「お札」は「おさつ」ですね。
 「札」という漢字はもともと単に「木片」を表す字です。すなわち「さつ」は木片ということです。
 木片にはよく字が書かれます。紙がない時代は木片に書きました。木簡とか。
 で、文字を書いたので、「文板(ふみいた)」と言われ、それがなまって「ふだ」となりました。
 大昔は文字も神聖なものでしたから、文字の書かれた木片、すなわち「ふだ」も神聖なものとされました。それが「御札」となって現代でも神聖なものとして扱われているわけです。
 「お札」の方はどうでしょう。今では「紙幣」のことを「さつ」と言いますが、最も古くは「手紙」や「書状」のことを「さつ」と言いました。
 兌換紙幣が登場するのは江戸時代でしょうか。金札とか銀札とか米札とか。その頃から「さつ」が「紙幣」を表すようになったようです。
 その頃にはすでに貨幣経済が一般化し、庶民にとっても「おカネ」は重要なものとなっていました。ある意味神仏よりもありがたいものになってきたんですね。
 そういう意味では、「御札」よりも「お札」がありだかい時代になったとも言える。皆さんはどうですか。「御札」と「お札」、どっちがほしいですか(笑)。
 最初に書いたように、「お札」で「御札」を買うわけですから、そこでは「御札」の方が「お札」よりも価値が高いということになりますよね。
 しかし、それは神社仏閣という非日常空間の話であって、日常的には「御札」よりも「お札」をもらった方が嬉しいでしょう。「御札」の束より「札束」の方がいい!?
 つまり、よく言われるようにですね、おカネ(マネー)が現代の神になったのです。紙が神になるのは、「御札」の時代からあったけれども、現代では仮想通貨のように紙すらない。
 データが神になったというのは、実は昔に戻ったとも言える。そう、もともと神は実体のないモノだったのです。神像ができたのは仏像の影響です。
 ちなみに「マネー」の語源は「モンスター」の語源と重なり、それは「モノノケ」の「モノ」とも重なってきます。面白いですね。
 「マネー」という「モノ(霊)」が世界に広がり、ある意味一神教による征服が完成しつつあります。そうなった時、王仁三郎が喝破した「一神即多神即汎神」が実現するのかもしれません。
 「御札」も「お札」もなくなる日。それが「みろくの世」が到来する日なのかもしれませんね。そういう予感がします。
 そうそう、ちょっと違う視点ではありますが、「御札」と「お札」についてホリエモンがいいこと言ってます。ぜひお読みください

堀江貴文さんが語る「みんな『お金』のことを勘違いしていないか?」

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2018.11.16

田中英道 『日本らしさの基礎を築いた聖徳太子(その2)』

 中先生は「和」を「やはらぎ」と訓んでいます。仲小路彰は「にぎ」と訓んでいます。どちらが正しいかは難しいところですが、少なくとも「ワ」と読んでいた可能性は低い。和語で訓読したはずです。
 日本には文字がなかった。それは劣っていたという意味ではなく、逆に文字という情報次元を超えた高度な科学を持っていたというのにも納得します。
 少し話がそれるようですが、最近音楽の世界がレコードやCDからダウンロードへ、そしてしまいにはストリームへと変化してきているじゃないですか。アナログにせよデジタルにせよ、そのデータを所有するというのは文字によって情報を記録して所有するのと同じことです。それがストリームになりつつある。
 つまり所有しなくなったということです。そして、かつてのように情報というか音楽そのものが向こうからやってくるようになったということです。それはある意味古代の口承文化に戻るということです。私はそうとらえています。
 近代西洋的価値観、すなわちワタクシの言うところの「コト」文明から、かつての日本がそうであったであろう「モノ」文明に再び戻りつつあるのではないでしょうか。そんな話も年末に出る某雑誌のインタビューで語っています。どうぞお楽しみに。

Amazon 聖徳太子 本当は何がすごいのか

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2018.10.25

『「違うこと」をしないこと』 吉本ばなな (角川書店)

Th_71x2fgve7ul ウトソーシングシリーズ。一番最近、私(宇宙人教頭)の頭の中の情報を代わりに発信してくれたのは、吉本ばななさん。
 昨日も紹介したCS60つながり…まだ直接つながっていませんが、高次元ではすでにつながっている?…とも言えますが、元をたどれば高城剛さんとのラジオ対談に行き着きます。
 この本に書かれている、ばななさんの生き方哲学、本当にたくさん共感できます。
 「些細な違和感」、「なんかいやだなという直感」…こういうモノを「違うこと」と言うのだと思います。そう、日本語としては「違うこと」と「コト」という言葉でも表現されますが、宇宙人的には、それこそが不随意、不如意、外部を表す「モノ」だと思うんですよね。
 あとで「あれはああだったんだ」と解釈、得心すると「コト」になる。だから、その時は「モノ」でしかないのです。言葉(コトの端)では表現できないモノ。
 そういう「モノ」をテキトーにごまかして生きるのではなく、ちゃんと拒否したり、回避したりする。これって、実はとっても「他力」だと思います。
 すなわち、向こうから流れてくるモノをしっかり峻別して、受け止めるのか、やりすごすのか、パンチして破壊するのか、そういう判断をいいかげんにしないということですね。
 そこで重要なのは、たしかに「直感」であったりします。実は「直感」という時点で、すでに自己ではないんですね。神様か仏様か何かわからないけれども、だれかが教えてくれているのでしょう。
 そうそう、それで、ばななさんが私の何を引用してくれているかというと、時間は未来から過去へと流れているという話です。「すごく感動したんです」なんて、とんでもない。こちらこそ感激です。ありがとうございます。
 この本を読んで、つくづく思ったのは、やはり吉本隆明さんの娘さんだなあということです。こちらに紹介しました吉本隆明さんの出口王仁三郎評、本当に大好きです。
 王仁三郎の霊界物語と一緒です。ばななさんも、本来コト(言語)で表せないモノを語ること、すなわち「物語すること」を、この世でのお仕事にされているのですね。素晴らしいと思います。

Amazon 「違うこと」をしないこと

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2018.10.24

CS60の世界(プロモーション・ビデオ)

 日紹介した未来医療のアイテム(デバイス)、CS60。我が家でも毎日のように大活躍。いろいろな方に奇跡を体験していただいております。
 なにしろ、昨日書いたように、これは「モノ」なので、「コト」たる現代科学ではなかなか説明できない部分があり(最先端をゆく科学者の方は皆さん「ありえる」と言いますが)、そう簡単には紹介できないなと思っていましたが、昨日の本のように発明者自身が発信を始められましたので、私もいよいよここに明らかにしていきます。
 今日ご覧いただきたいのは、そのCS60の素晴らしいPV。私の知っているCS60の世界が、見事に表現されています。
 なぜ、こんなに素晴らしいビデオになったのか。それは、製作者ご自身もその奇跡を体験なさったからです。その感動と驚きがなければ、このような作品にはならなかったでしょう。
 その方を導いたものは、不思議なネットワークです。高次元のネットワークが彼を呼んだのでしょう。ちなみにその方は、ここ数日このブログに登場した天才たちと一緒に仕事をしております。
 私が皆様にお伝えしたいことを、こうして天才が代わって表現してくれる。これまた究極のアウトソーシングですね。
 どうぞ御覧ください。

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2018.10.23

『120歳時代の生き方』 高橋呑舟・西村光久 (徳間書店)

Th_51t75ldp9l_sx338_bo1204203200_ 日からしばらく「アウトソーシング」特集です。
 昨年から、テレビやラジオ、インターネットなどに登場させていただくことが多く、そのおかげさまで、私が人生の中で考えてきたこと、実感してきたことを多くの方に知っていただく機会が激増しました。
 たとえばこのプログでの発信のような「自力」の影響力なんか、たかがしれているわけですが、こうして影響力のある方々が、ある意味私の代わりに発信してくださる、つまり「他力」は実に強力です。
 やはり自我にこだわりすぎない方がいいですね。
 さて、他力ということでいえば、私はこの本で紹介されているCS60という不思議な器具に出会って、それを痛感させられています。
 たしかに私がそれを手に持って動かしているが、そこには間違いなく「他者」のエネルギーが存在しています。それは私流の言い方をすれば、「コト(自我)」ではなく「モノ(他者)」ですね。
 「もの」という日本語の歴史を振り返ってみれば、「もののけ」や「ものいみ」、「もののあはれ」などの例を挙げるまでもなく、まさに人知を超えたエネルギーが存在するのは間違いありません。
 それを「超科学」と言うこともできるでしょう。ものすごく古くてものすごく新しい。CS60については、私は未来医療というい言い方もしています。
 かつて特殊なシャーマン的存在にのみ与えられていた能力…それを「神の手」と呼んでもよいでしょう…が、テクノロジーによって万人に与えられたとしたら、これは人類史上、大変な革命となります。
 私はこのCS60には間違いなくそのような可能性があると信じています。
 こちらに暗に書いたように、この未来医療を高城剛さんに紹介したのは、実は私です。彼がそれを気に入り発信してくれたことで、その革命は大きく前進したと思います。まさにアウトソーシングは「ご縁」そのものですね。
 ちなみに、究極のアウトソーシングということでは、この本に私のある「発見」が掲載されております。「ユニークな教頭先生」が発見したのは、CS60が「薬師如来の薬壷」であるということ。
 私がブログの以下の記事に書いた内容を引用してくださっています。ありがたいことです。

薬師如来が持っている薬壺は?

薬師如来の薬壺の秘密

 皆さんもぜひ体験してみてください。もちろん私のところに来ていただいてもOKです。ボランティアで施術させていただきます。
 最後に一言。私も宇宙人かもしれませんが、現代にこの薬壷を降ろした西村さんは、もっともっと宇宙人ですよ(笑)。

Amazon 120歳時代の生き方

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2018.10.22

坂本龍一 『async』

Th_81taa20kfal_sl1500_ 楽ネタが続きます。忙しいというのもあるのですが、今、おそらく私の中で何かが大きく変わりつつあって、その成就のために音楽がとても重要なファクターであることを、暗に象徴しているものと思われます。
 この坂本龍一さんの作品も、もうずいぶん前に購入して聴いていましたが、このタイミングでおススメするということに、何か意味のようなモノ(あくまで「ようなモノ」)を感じます。
 モノということでいうと、このアルバムが表現しているのは「コト」ではなく「モノ」でしょう。つまり、不確かであり、一見秩序のないモノ。
 コトは、私たち人間の脳ミソの範疇における秩序です。人間の都合で切り分けられた世界がコト。その最先端が「コトの端」すなわち「言葉」です。
 従来の音楽というのは、一番最初は「モノ」でした。日本では音楽のことを「もののね」と読んだ。それが、ここ何回か書いてきたように「楽譜」という言語で記録されるようになってから、「コト」の要素が強くなっていった。すなわち、天から降ってくるアドリブよりも、人間の力で構築された作品を何度も再現する方向に変化したのです。
 もちろん、民族音楽、世俗音楽の世界は別でした。また、それがクラシックの楽器と理論と結びついたジャズでは、再び「モノ」の要素が占める割合が増えました。
 坂本龍一さん自身の音楽も、もしかするとこうした音楽史の流れを凝縮しているのかもしれません。
 「async」…シンク、シンクロしていないということです。つまり「非コト」。
 聴けばわかるとおり、ベースというか背景には、しっかり構築された「コト」音楽がありますが、その秩序を突然乱入する「モノ」が破壊するような感じ。しかし、破壊は創造の原点です。そこに新しい何かが生まれている。
 たとえば、この曲。コト音楽の権化とも言えるバッハのような「音楽」に「ノイズ」が混入してくる。


 
 坂本龍一さんは、若かりし頃、仲小路彰の未来学原論に感銘を受け、「コスモポリス」というロック・オペラを実現しました。ちょうど仲小路彰が亡くなった年です。その貴重な動画がYouTubeに上がっていました。

 これを観る(聴く)と、まさにモノが優位な音楽という気がします。ある意味原点回帰したのか。仲小路彰は、ある意味人間の考える秩序のみでは、そこに明るい未来はないとしました。
 コスモポリスから30年以上が経ち、いよいよ本当に「コト」より「モノ」の時代、あるいは両者の融合の時代が来ているのかもしれません。

Amazon async

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2018.09.27

ガンマ波(悟り)と音楽

Th__20180928_141812 TOCANAに「瞑想中のチベット仏教僧の脳波を調べてみたら大変なことになっていた! 瞑想が脳にもたらす7つの効能を徹底解説!」という記事があり、興味深く読みました。
 これってちょっと分かるんですよね。とても高僧のようにはいきませんが、最近坐禅中に時々「ゾーン」に入ることができるようになったんです。実に気持ち良い状態です。
 そうそう、先週、現代日本を代表する作曲家のお一人である権代敦彦さんとお会いしまして、短い時間ではありましたが、実に興味深いお話をさせていただきました。
 その中で座禅に関する体験をお話しさせてただきました。ゾーンに入った時は、「無」ではなく「音楽」がそこにあると。私はそこに音楽があることは分かるのですが、それをダウンロードできない。おそらく権代さんはダウンロードできるのでしょう。一流の作曲家とはそういうものです。
 その「無」ではないモノが「空」であるとも言えるわけですね。私の修行がもっと進んで、もっと自分が「空」になって器になれば、きっとそこに音楽がダウンロードできるのでしょうね。
 そうしますと、ガンマ波とはまさに「空」の状態を表す波であることがわかります。悟りというのものが、科学的に解明される、あるいは音楽の本質が科学的に分かる時が近づいているのかもしれません。
 高次元の波動なのでしょうか。それがもうすぐそこにあることは予感しています。未来の地球人のために、私は瞑想と音楽を通じて、そこへアクセスする努力をしていこうと思います。
 権代さんとの話の中にも出てきました。言語を超えるのだと。我々人類が自ら発明し、自らを縛り付けてきた言語。それを超越しないと、次の時代は訪れません。
 それは言語を否定したり無視したりすることとは違います。いつも言う通り、「コトを窮めてモノに至る」という方法しかないのです。

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2018.09.17

『カメラを止めるな!』 上田慎一郎 脚本・監督作品

Th_320 度でも言います!傑作です!傑作です!本当に本当に面白かったし、泣けてしかたなかった。
 私の周りのマニアたちからも「すごい!絶対観て!」と盛んに言われていましたが、なかなか時間がなく、今日になってしまいました。密かに映画監督を目指している下の娘(高1)と、静岡は清水町まで行って観てきました。
 下の娘と私は、けっこうな映画マニアで、メジャー作からB級作まで、けっこうたくさん観ている方だと思いますが、正直言ってこの作品は私たちの人生の中のベスト3に入りますね。お見事!
 いろいろなことを感じながら鑑賞し、そして終了後はそれを言語化するように努めました。いろいろ気がついたことがありますので、とりあえず忘れないうちにメモしておきます。
 まず、この映画が超低予算で作られたということ。それがプラスに働くことがあるということを再確認しました。低予算を逆手にとって、いわゆるB級作品をあえて作るということはよくありますし、私自身、学校で映像作品を作る時、それを意識することがあります。
 この作品にもそういうスタンスは見え隠れしますが、基本はそうではなく、あえて言うなら舞台演劇のやり方、すなわち、限られたスタッフが一人ひとりの熱量を最大にして、その熱というか、愛というか、個性というか、それがにじみ出るような作り方をしている。
 考えてみると、前半の超長回しは舞台の芝居風だとも言えます。リハーサルのしかたなど想像するに、ほとんど舞台演劇のそれだったのではないかと想像されます。
 そうそう、私もあのブレブレのワンカットを観ながら自然と思ったのは、監督さんもおっしゃるとおり、「人生ワンカット」ですよね。人生は永遠なる長回し。カメラは止められない。カメラを止めたら死んでしまうので、まさに「カメラを止めるな!」ですよね(笑)。
 そう考えた時、もう一つキーワードになるのは、アクシデントとアドリブです。想定どおり、シナリオどおりいかないことこそが人生の本質であり、しかし、それによって、より豊かな何モノかが生まれる。それこそが感動だったりするわけです。
 そこをテーマにして、ある意味完璧にシナリオ化したところに、まずは感心しました。パラドックスですよね。シナリオとアドリブ。ワタクシの哲学でいうところの「コト」と「モノ」ですよ。
 前半の「モノ(不随意)」による不自然さを、後半の普通のカット割りのある「コト(言語)」で解説していくという、見事なシナリオです。
 そういう逆説を含めて、いろいろな重層構造があるのも、この作品の魅力です。特に視点の重層性。多層性。お気づきのとおり、カメラの「目」はエンディングのメイキング映像も含めて3台ある。さらにスクリーンを観ている私たちの目というカメラがあるわけですから、全体としては4重構造になっている。
 そして、それぞれの目に、それぞれの「愛」があるから、それが愛のアンサンブル、重奏を生んでいる。そう、映画愛、人間愛ですよ。こんなにも切ないほどの愛が輻輳している映画が、かつてあったでしょうか。
 また、ある意味、私たちが享受している「作品」には、裏に必ずアナザーストーリーズがあるという普遍性を表現しているとも言えます。
 作り手にしか分からない、分からなかった、そうした産みの苦しみを、こうしてさり気なく作品化してしまったことに、驚きすらおぼえます。そして、それが作り手にとっても、受け手にとっても全く不快でなかったという奇跡。
 ホラーであり、コメディであり、ドキュメンタリーであり、家族の物語であり、主人公たちの冒険と成長の物語であり…。本当に深く厚い作品です。それが超低予算で可能だという、それこそパラドックスを映画界につきつけてくれましたね。
 そうそう、最後に、ゾンビ映画として考えると、一番怖かったゾンビは、ずばり「カメラ」ですね。止まらない。どこまでも追いかけてくる。死なない。
 お見事としか言いようがありません。またすぐに観にいきます。何度でも観ます。監督さんはじめ、スタッフ、キャストの皆さん、本当にありがとう。映画は素晴らしい。人生は素晴らしい。人間は素晴らしい!
 
カメラを止めるな!公式

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2018.08.17

西馬音内盆踊りに見るボーダーレス

Th_img_2375 16日夕方はみんなで鎌鼬美術館を訪れました。今回のメンバーの中には、ダンサーとフォトグラファーもおりましたので、また格別な訪問となりました。
 夕食は向かいにある「格山」さんで、おいしいおそばをいただきました。メンバーにはおそば関係者もおります。これまた格別な時間となりました。ありがとうございました。
 鎌鼬美術館も格山も、国際的とも言える素晴らしい展開を見せています。そこに関わった人々の思いが、あの世とこの世でコラボしているのだと、つくづく感じました。ご縁とはそういうものなのでしょう。
 さて、あの世とこの世といえば、夜に鑑賞した西馬音内盆踊りですね。雨のため残念ながら街並みの中ではなく、体育館での披露となってしまいましたが、逆にそのような機会はなかなかないので、明るいところで間近に鑑賞することができました。
 そこで感じたことは、「ボーダーレス」です。昨日紹介した薬師堂もそうでしたが、とにかく東北には近代的な意味での枠組みや分類が通用しない。だから面白いし、快感なのです。
 西馬音内盆踊りでは、死者と生者、男性と女性、大人と子ども、玄人と素人、聖と俗が渾然一体となっています。もちろん、踊る者と見る者の境目も希薄になっていく。
 そうした渾然の中に、「むすび」がある。すなわち、融合と創造があるわけですね。
 よく知られているように、歌垣を起源とすると考えられる盆踊りでは、男女の関係、性の営みにおいても非日常的な面を持っており、実際そこで新しい生命が生まれることもありました。
 祭はそのような、日常と非日常、ハレとケを結ぶ時空であり、そこに生命の力強さ、すなわち神の本質が体現されてきたのです。
 もちろん観光化の問題もあります。こうして「鑑賞」の対象となってしまった盆踊りが、はたして本来のエネルギーを持ち得ているのか疑問でありますが、しかし、一方で、すっかり西洋近代的な価値観によって世の中を分析、分節して生きている都会人たちが、こうして祭を「鑑賞」することによって、本来のなにモノかを思い出す機会になっているとも言えましょう。それもまた生命力の一部なのかもしれません。


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