カテゴリー「モノ・コト論」の912件の記事

2018.09.27

ガンマ波(悟り)と音楽

Th__20180928_141812 TOCANAに「瞑想中のチベット仏教僧の脳波を調べてみたら大変なことになっていた! 瞑想が脳にもたらす7つの効能を徹底解説!」という記事があり、興味深く読みました。
 これってちょっと分かるんですよね。とても高僧のようにはいきませんが、最近坐禅中に時々「ゾーン」に入ることができるようになったんです。実に気持ち良い状態です。
 そうそう、先週、現代日本を代表する作曲家のお一人である権代敦彦さんとお会いしまして、短い時間ではありましたが、実に興味深いお話をさせていただきました。
 その中で座禅に関する体験をお話しさせてただきました。ゾーンに入った時は、「無」ではなく「音楽」がそこにあると。私はそこに音楽があることは分かるのですが、それをダウンロードできない。おそらく権代さんはダウンロードできるのでしょう。一流の作曲家とはそういうものです。
 その「無」ではないモノが「空」であるとも言えるわけですね。私の修行がもっと進んで、もっと自分が「空」になって器になれば、きっとそこに音楽がダウンロードできるのでしょうね。
 そうしますと、ガンマ波とはまさに「空」の状態を表す波であることがわかります。悟りというのものが、科学的に解明される、あるいは音楽の本質が科学的に分かる時が近づいているのかもしれません。
 高次元の波動なのでしょうか。それがもうすぐそこにあることは予感しています。未来の地球人のために、私は瞑想と音楽を通じて、そこへアクセスする努力をしていこうと思います。
 権代さんとの話の中にも出てきました。言語を超えるのだと。我々人類が自ら発明し、自らを縛り付けてきた言語。それを超越しないと、次の時代は訪れません。
 それは言語を否定したり無視したりすることとは違います。いつも言う通り、「コトを窮めてモノに至る」という方法しかないのです。

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2018.09.17

『カメラを止めるな!』 上田慎一郎 脚本・監督作品

Th_320 度でも言います!傑作です!傑作です!本当に本当に面白かったし、泣けてしかたなかった。
 私の周りのマニアたちからも「すごい!絶対観て!」と盛んに言われていましたが、なかなか時間がなく、今日になってしまいました。密かに映画監督を目指している下の娘(高1)と、静岡は清水町まで行って観てきました。
 下の娘と私は、けっこうな映画マニアで、メジャー作からB級作まで、けっこうたくさん観ている方だと思いますが、正直言ってこの作品は私たちの人生の中のベスト3に入りますね。お見事!
 いろいろなことを感じながら鑑賞し、そして終了後はそれを言語化するように努めました。いろいろ気がついたことがありますので、とりあえず忘れないうちにメモしておきます。
 まず、この映画が超低予算で作られたということ。それがプラスに働くことがあるということを再確認しました。低予算を逆手にとって、いわゆるB級作品をあえて作るということはよくありますし、私自身、学校で映像作品を作る時、それを意識することがあります。
 この作品にもそういうスタンスは見え隠れしますが、基本はそうではなく、あえて言うなら舞台演劇のやり方、すなわち、限られたスタッフが一人ひとりの熱量を最大にして、その熱というか、愛というか、個性というか、それがにじみ出るような作り方をしている。
 考えてみると、前半の超長回しは舞台の芝居風だとも言えます。リハーサルのしかたなど想像するに、ほとんど舞台演劇のそれだったのではないかと想像されます。
 そうそう、私もあのブレブレのワンカットを観ながら自然と思ったのは、監督さんもおっしゃるとおり、「人生ワンカット」ですよね。人生は永遠なる長回し。カメラは止められない。カメラを止めたら死んでしまうので、まさに「カメラを止めるな!」ですよね(笑)。
 そう考えた時、もう一つキーワードになるのは、アクシデントとアドリブです。想定どおり、シナリオどおりいかないことこそが人生の本質であり、しかし、それによって、より豊かな何モノかが生まれる。それこそが感動だったりするわけです。
 そこをテーマにして、ある意味完璧にシナリオ化したところに、まずは感心しました。パラドックスですよね。シナリオとアドリブ。ワタクシの哲学でいうところの「コト」と「モノ」ですよ。
 前半の「モノ(不随意)」による不自然さを、後半の普通のカット割りのある「コト(言語)」で解説していくという、見事なシナリオです。
 そういう逆説を含めて、いろいろな重層構造があるのも、この作品の魅力です。特に視点の重層性。多層性。お気づきのとおり、カメラの「目」はエンディングのメイキング映像も含めて3台ある。さらにスクリーンを観ている私たちの目というカメラがあるわけですから、全体としては4重構造になっている。
 そして、それぞれの目に、それぞれの「愛」があるから、それが愛のアンサンブル、重奏を生んでいる。そう、映画愛、人間愛ですよ。こんなにも切ないほどの愛が輻輳している映画が、かつてあったでしょうか。
 また、ある意味、私たちが享受している「作品」には、裏に必ずアナザーストーリーズがあるという普遍性を表現しているとも言えます。
 作り手にしか分からない、分からなかった、そうした産みの苦しみを、こうしてさり気なく作品化してしまったことに、驚きすらおぼえます。そして、それが作り手にとっても、受け手にとっても全く不快でなかったという奇跡。
 ホラーであり、コメディであり、ドキュメンタリーであり、家族の物語であり、主人公たちの冒険と成長の物語であり…。本当に深く厚い作品です。それが超低予算で可能だという、それこそパラドックスを映画界につきつけてくれましたね。
 そうそう、最後に、ゾンビ映画として考えると、一番怖かったゾンビは、ずばり「カメラ」ですね。止まらない。どこまでも追いかけてくる。死なない。
 お見事としか言いようがありません。またすぐに観にいきます。何度でも観ます。監督さんはじめ、スタッフ、キャストの皆さん、本当にありがとう。映画は素晴らしい。人生は素晴らしい。人間は素晴らしい!
 
カメラを止めるな!公式

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2018.08.17

西馬音内盆踊りに見るボーダーレス

Th_img_2375 16日夕方はみんなで鎌鼬美術館を訪れました。今回のメンバーの中には、ダンサーとフォトグラファーもおりましたので、また格別な訪問となりました。
 夕食は向かいにある「格山」さんで、おいしいおそばをいただきました。メンバーにはおそば関係者もおります。これまた格別な時間となりました。ありがとうございました。
 鎌鼬美術館も格山も、国際的とも言える素晴らしい展開を見せています。そこに関わった人々の思いが、あの世とこの世でコラボしているのだと、つくづく感じました。ご縁とはそういうものなのでしょう。
 さて、あの世とこの世といえば、夜に鑑賞した西馬音内盆踊りですね。雨のため残念ながら街並みの中ではなく、体育館での披露となってしまいましたが、逆にそのような機会はなかなかないので、明るいところで間近に鑑賞することができました。
 そこで感じたことは、「ボーダーレス」です。昨日紹介した薬師堂もそうでしたが、とにかく東北には近代的な意味での枠組みや分類が通用しない。だから面白いし、快感なのです。
 西馬音内盆踊りでは、死者と生者、男性と女性、大人と子ども、玄人と素人、聖と俗が渾然一体となっています。もちろん、踊る者と見る者の境目も希薄になっていく。
 そうした渾然の中に、「むすび」がある。すなわち、融合と創造があるわけですね。
 よく知られているように、歌垣を起源とすると考えられる盆踊りでは、男女の関係、性の営みにおいても非日常的な面を持っており、実際そこで新しい生命が生まれることもありました。
 祭はそのような、日常と非日常、ハレとケを結ぶ時空であり、そこに生命の力強さ、すなわち神の本質が体現されてきたのです。
 もちろん観光化の問題もあります。こうして「鑑賞」の対象となってしまった盆踊りが、はたして本来のエネルギーを持ち得ているのか疑問でありますが、しかし、一方で、すっかり西洋近代的な価値観によって世の中を分析、分節して生きている都会人たちが、こうして祭を「鑑賞」することによって、本来のなにモノかを思い出す機会になっているとも言えましょう。それもまた生命力の一部なのかもしれません。


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2018.08.16

成就院薬師堂(秋田県角館市)

 16日は東北(主に秋田)マジカル・ミステリー・ツアーの1日目。仲間たちを空港と新幹線の駅でピックアップし、計画では田沢湖に行くことになっていたのですが、天気がいまいちなので、急遽予定変更して角館へ。
 角館では、武家屋敷の雰囲気を味わいながら、昼食に比内鶏の親子丼や稲庭うどんをいただきました。今大人気の秋田犬「武家丸」にも会うことでき、そうこうしているうちに天候も回復傾向。前日までの暑さが嘘のように、まるで秋のような過ごしやすさとなりました。
Th_img_2324 さて、今回集まってくださった仲間たちに共通しているあるモノがありまして、その関係で成就院薬師堂を訪れました。
 昨日の田んぼの中のタワーマンションや、単線でカーブだらけで無人駅、踏切もあり、熊と衝突することもある秋田新幹線など、東北というのは、都会的、すなわち西洋近代的な価値観からすると、なんともボーダーがはっきりしていないといいますか、様々なモノが渾然一体となって共存しているところが面白い。
 ここ成就院薬師堂も、本尊は薬師瑠璃光如来でありながら、なぜか大きく立派な鳥居があり、そして堂内には参拝要領として「二拍 合掌 礼」とある。
Th__20180819_111400 ここはいったい寺なのか、神社なのか。いや、そんなコトはどうでもどうでもよいのです。庶民にとっては、ご利益さえあれば、それが仏であろうと神であろうと、はたまたキリストであろうと、正直どうでもよいのです。尊い「とでっこ」であれば名前やジャンルなどどうでもよい。
 そうした前近代的な日本人の本質が見え隠れするところが、東北の面白さであります。

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2018.08.01

白井聡・國分功一郎 『日本人から思考を奪う「国体の正体」とは何か』

Th__20180802_90604 日の講演で「150年戦争」論を少し披瀝しました。日本は何と戦ってきたのか。そして勝ったのか、負けたのか。
 明治維新以来150年の見えない敵との戦いは今年終結します。折り返し地点は昭和17年から18年。まさに大東亜戦争の負け始め。
 そして昭和20年の「敗戦」。仲小路彰は「勝利」したと言いました。だから「終戦」であると。その本当の意味は、そこからの70数年、つまり戦後日本の戦いを視野に入れないと分かりません。ただ単に大東亜戦争の目的を達成したから勝利というのでは、あまりに都合が良すぎる。
 戦争が終わって、日本人は兵士であることをやめたかと思いきや、とんでもない。今度は企業戦士となって欧米と対等以上に戦いました。
 しかし、その戦いにも「負け始め」が訪れます。それがいつだったのか、バブル崩壊なのか、いや、もう少ししないと分からないでしょう。俯瞰しないと。
 つまり、私たち日本人は、この150年間において、少なくとも二度負けているのです。その無謀な戦いを支えたのは、根性論であり、精神論であり、滅私奉公であり、そして「国体」でした。
 …と、これは私の勝手な妄想であり、多くの方々の賛同は得られないと思いますが。
 しかし、この白井聡さんと 國分功一郎さんの対談では、多少似た論が展開されていると感じました。もちろん細かい部分では、私はとても彼らには敵わないわけですが、全体としては共感できる部分が多くありました。

日本人から思考を奪う「国体の正体」とは何か

 「国体」という概念自体が、もちろん明治以降に生まれたものです。教育勅語で明示され、その後国体明徴運動が起こり、国家として「国体の本義」まで発表されました。
 今の人たちにとって「国体」とは「国民体育大会」にほらならないのですが、それは笑い話ではなく、その「体育」の中に見事に戦前、戦中の文化が残っているという話も、少しですが昨日させていただきました。
 「国体」という、本義を明徴しなければ何が何やら分からないモノに支配され、結果として平和を築いてきたと同時に戦争もしてきた日本。なんとも不思議としか言いようのない歴史を持つ日本が、これから世界においてどういう価値を発揮していくのか。それは仲小路彰が示してくれています。そして、私はそれが正しくそのとおりになると信じています。

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2018.07.22

松の木の下に松は生えぬ

Th_img_2154 眼夏期講座二日目。
 山川宗玄老大師の提唱は無門関第四十則。言語を超えるにはどうすればよいか。言語を超えるために言語を使ってはいけない。蹴倒する勇気、智慧がなければなりません。
 今回の講座のテーマは「葛藤を蹴倒(しゅうとう)す」でした。まさに、快刀乱麻を断つ、その快刀とはなんなのか、どう手に入れればいいのかを、体験的に学んだ気がします。
 言語というコトは、違う言い方をすれば「容れ物」「枠」。そこに安住するのではなく、そこから軽やかに解放されるというのは、たしかに理想的な生き方ですね。
 そこに重ねた教育論も心に残りました。結局、子どもや弟子を自分の容れ物に入れていい気になっていてはいけないということですね。
 老師がある人から聞いたとして、「松の木の下には松は生えない」というお話をされました。どんな植物も、親木のすぐ下に落ちた種は育たないと。たしかにそうです。親の木は成長しないように毒を出すこともあるのだとか。
 可愛い子には旅をさせよというのと同じですね。護りすぎてはいけない。可愛がりすぎてはいけない。
 教育者として深く考えさせられました。正眼寺の奇跡の松との対比も興味深かった。
 午前中の音楽演奏では、今の若い作曲家の、それこそ古い容れ物からおしゃれに飛び出した編曲術を堪能することができました。
 そして午後の白洲信哉さんの講演。なにしろ父方の祖父母は白洲次郎・正子。母方の祖父は小林秀雄というのだから、まあ驚きです。日本の不完全の美、あるいは日常で使われることによって生まれる味わいについての文化論は非常に面白かった。
 それもまた西洋の容れ物からは余裕ではみ出ていますし、実際、瓶や徳利からは、内容物が染み出してきています。それがまた素晴らしいというのが、日本の美学。お隣の白磁の話とのコントラストには笑ってしまいした。
 ところで、最後に老師の口から出た言葉には驚きました。なんと、あのロスチャイルドが正眼寺を訪ねていた。もちろん梶浦逸外老師を頼って来た。全てを手に入れた大富豪が、「死」について学ぼうとし、わざわざ伊深まで来たのだといいます。正眼寺恐るべし。梶浦逸外畏るべし。

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2018.07.21

「全」=まこと

Th_img_2136 日から正眼夏期講座。64回目を迎えるこの伝統的な行事も、この異常な猛暑のおかげで会場の変更を余儀なくされました。
 すなわち、本堂で行われていた、講演や座禅は、冷房の効いた短大の講堂で行うことととなりました。これは、命を大切にする仏教としては全く正しい判断ですね。
 快適では修行にならないと言う人もいるかもしれませんが、そういう根性主義の時代はとうに終わっています。
 そうそう、禅堂での修行も、明治維新以降軍隊文化の影響を受け、ある意味非常に暴力的になったとききます。学校で起きてきた、いじめや体罰の問題も同様ですね。
 さて、今日一番心に残ったのは、滝田栄さんのご講演でした。演劇人として本当にその世界を極めた方が、今、仏道を極めようとしている。そして、その基本的な姿勢は、難しい理屈ではなく、仏教が持っている不思議な力を体験するというもの。
 正直、これは私と話が合うなと思いました(笑)。超能力的にもなりかねないので、ひょっとするとオカルト?と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、いやいや仏教ってそういうものでしょう、本来。
 まあ、そこを勘違いしちゃったのがオウムや、その他密教系の新興宗教の一部ということになると思います。
 しかし、たしかに滝田さんのおっしゃるように、奇跡的なこと、たとえば病気が治癒するということは普通にあります。
 最近私がはまっているモノも、実は薬師如来に関係した病気治療器具です(アヤシイでしょ)。これについては、今いろいろ大きな流れが起きているので、時期が来たらここで堂々と紹介します。
 そのモノについても、ぜひ滝田さんに知ってもらいたいですね。連絡してみましょう。
 ところで、滝田さんのお話の中に、「禅」は「全」という言葉がありました。「全」という字は、上が「人」、その下の三盆の横線は「過去、現在、未来」。それを一本の縦棒が貫いていると。その貫くモノことが仏法なのでしょう。
 もちろんそれは方便であり、実際には上は「入」という字ですし、「王」は「工」と同じだとか。しかし、そんな理屈は抜きとして、やはり「まったき」モノとしての「法」というのは存在しますし、それが人のもとで時空を超えるモノであるのは確かです。モノというより、唯一のコト、すなわち「まこと」なのです。


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2018.07.17

安冨歩 「なぜ『優秀』な人が集まって愚かな暴走をするのか?」

Th_yasutomi550x413 日、東松山市長選で残念ながら敗北してしまった、女性装の東大教授、安冨歩さん。
 一見イロモノのように見えてしまいますが、なかなか面白い人ですし、基本的な発想において私との共通点が多いので、私はけっこう好きです。
 彼の女性装が単なる性的な意味での趣味ではなく、彼自身の人生そのもの、いや日本という国のあり方に関わるものであるということは、次のインタビュー記事をお読みいただくとよく分かります。

なぜ日本の男は苦しいのか? 女性装の東大教授が明かす、この国の「病理の正体」

 戦後の軍国主義(靖国主義)が続き、誤った「男らしさ」「女らしさ」が唱えられ、そして男たちは「ホモマゾ」「立場主義」 に陥っていく。これは全く私の戦後教育論と同じですね。というか、実際、学校現場ってずっとそうだったんだもん。
 いろいろと共感する安富さんの面白い講演があるので、ぜひ御覧ください。これもまた、私の「モノ・コト論」と全く同じ。
 記号化できる(語り得る)「コト」と、記号化できない(語り得ない)「モノ」。近代西洋は「コト」ばかり追究し、結果として、モノ性を内在して当たり前の自己の大部分を否定することになってしまった。

 仲小路彰を研究すると、彼自身も含めて多くのエリートたちが、なぜ戦前、戦中、あのような言説に走り、そして実際行動してしまったのか、とっても興味が湧いてきます。
 そして、なぜ戦後、あまりにも見事に変節したのか。いや、変節したかのように見えて、なぜ日本社会全体としては何も変わらなかったのか。すごく興味があります。
 そして、安富さん、見事な歌下手であります(笑)。ぜひ一度お会いしてお話うかがってみたいですね。
 

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2018.07.15

勝ち抜き歌下手合戦(タモリ倶楽部)

 日は河口湖でバンド演奏。まあ、このバンドは自他ともに認めるドタバタおやじバンドでして、正直いろいろな意味で笑える演奏をいたします。
 まあ、お客さんは楽しそうですから、それはそれでいいのかと。それにしてもよくあの演奏で歌えるな、ボーカリスト(カミさん)。
 しかし!今日偶然発見したこの番組を観て、もしかしてこのバンドすげえんじゃね?と思ったのです。なにしろ、ここで採り上げられた歌下手ならぬ演奏下手の響きが、まさに我々のバンドのそれにそっくりだったからです(笑)。
 いやあ、そうか。上手いはゴールがあるが、下手には無限の可能性があると。そして、プロの皆さんが忘れてしまったロックのソウルがそこにはある!…のか?ww
 それにしてもこの番組面白すぎます。さすがだなあ、タモリさん。そして、出演者の皆さんもすごい。まじめに、しかし最大限にふざけて論じているところが見事。
 いろんなシャレたコメントに、思わず吹き出しつつ感心してしまいましたが、特にタモリさんの「雅楽」発言は素晴らしすぎ。
 音楽の本質に迫るところですよ。西洋近代音楽が整理しすぎてしまった、つまり可能性を摘んでしまった、音楽の本質、そして豊かさがそこにある。音楽に限らず、私たちがコト化を進めた結果忘れてしまったモノの魅力を思い出させてくれました。
 日本で古く音楽のことを「もののね」と呼んでいたことは偶然ではないでしょう。これからはモノの音の復権、復活の時代になるのかもしれませんね。そうしますと、我々のバンドはその最先端を行っている、それも無意識で行っているという最強ユニットということになるのかもしれません(笑)。
 ああ、いろいろ楽しい一日でした。音楽はやめられませんね。

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2018.05.28

『日本人にとって聖なるものとは何か』 上野誠 (中公新書)

Th_71dpl3belfl 日の記事に「恩」が出てきましたよね。
 筆者は社会学者の見田宗介の著書を引用しながら、「原罪」ならぬ「原恩」という文化について語ります。

 生まれながらに背負った罪を償うために生きるのではなく、生まれながらに背負った恩に報いるために生きる

 この原恩主義が、日本の古代的思考の基底にあるのだと。なるほど、「原恩」という言葉は実にいいですね。
 これはもちろん仏教的な考え方にもつながります。生まれたこと自体が「縁」によるもの。縁に感謝するのが恩です。
 本の内容については読んでいただくとして、私が読みながら考えたことを備忘的に書いておきます。
 まず、「モリ」という言葉について。筆者も言うように、「森・杜」と「盛り」、「守り」とはたしかに結びついている気がします。少なくとも、「森(杜)」と「盛り」とは間違いなく同源です。
 木が茂っているところは「こんもり」と盛り上がっています。その大きなものが「山」ということになり、それもまた「モリ」と呼ばれ、転訛して「ムロ」になっていきます。また、そこから「ムレ」や「ムラ」と言った数(すなわちエネルギー)の多いことを指す語も生まれたと思われます。
 「守り」のモリについては、おそらくはそのエネルギー量の大きさから、孤立の反対概念として派生してきた可能性があると思います(もちろんこじつけかもしれませんが)。
 そうした多義的な「モリ」の象徴が、三輪山であり、それを仰ぐ大神神社であり、そこに祀られているのが大物主大神であり、その本質は「モノ(他者・不可知・不随意)」です。
 これはやや行き過ぎかもしれませんけれども、私としては、その「モノ」こそが宇宙そのものであり、自分を取り巻く世界全体であって、ほとんど無限大なエネルギーをもって、私たちを守っている存在であると感じます。
 すなわち「モノ」の「モ」と「モリ」の「モ」とは同じものであると。そんな気がします。
 ところで、「モリ」の形態についてですが、たとえば三輪山のような山は、大変乱暴に言ってしまうと、半円形のようなカーブを描いています。もう少し正確に言うと、正規分布曲線のような形。
Th_unknown それに対して、我が富士山はどうでしょう。いわゆる「モリ」的な曲線とは逆に湾曲した曲線、すなわち、指数関数の曲線のようなカーブを描いています。
 これは非常に珍しい。だからこそ「不二山」とも書かれるのでしょう。ここまで美しい指数関数曲線を描く山は、たしかに国内には二つとない。
 そうすると、富士山は「モリ」文化、「モリ」信仰とは違うところに位置することになります。この本でもほんの少し富士山についての言及がありますが、ちょっと物足りない気がしました。
 こちら「山部赤人の本当の気持ち」という記事に書きましたとおり、万葉集でも富士山は「モリ」系神(三貴子)を超えた存在として描写されています。
 面白いですね。正直、古代のことは分かりません。正解は永遠に出ません。しかし、この本の著者上野さんのように、万葉集を読み解くことによって、遠く離れた、しかし実はすぐ横に存在する「過去」と対話するのは、実に楽しいことでありましょう。

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