カテゴリー「モノ・コト論」の1000件の記事

2024.02.14

文字を持たない選択をした縄文人

20240216-111709 日、西湖畔の龍宮洞穴でばったり会った方とまさかの再会。もう面白すぎて笑っちゃいます。時代がそういうふうになっているんですよね。旧暦元旦を過ぎてますますその傾向は強まるでしょう。

 今日は某所で合宿です。テーマは縄文。今日は直接的に縄文のお話をしませんでしたが、地下水脈では完全につながっているお話をたっぷりさせていただきました。皆さん、目からウロコが落ちまくったことと思います。

 ここではその一部、縄文と「文字」の関係についてちょっと書きます。

 日本は漢字が入ってくる以前には(西洋的な意味での)文字はありませんでした。それを未開だとか、低次元だとか思う人もいらっしゃるでしょう。

 昔の人もそうでした。江戸後期以降、特に蘭学が流入してきた際、日本には古代文字がなかったということにコンプレックスを感じた一部「知識人」が、国学を発達させると同時に「神代文字」を「発見」してゆきました。

 その「発見」は(多くの古史古伝と同様)ほとんど「捏造」なのですが、まあそれほどの焦りがあったことは事実で、その気持ちは私も共感するところであります。

 私は、たとえば地元の宮下文書について肯定的に言及しているように、そのやむにやまれぬ「捏造」自体は「歴史的事実」なので、いわゆるアカデミズム側のごとく一笑に付すとか、無視するとか、そういう姿勢は取りたくないと思っています。

 ただ、最近(いや江戸時代からずっとか)の一部オカルト(スピリチュアル)界におけるブームのように、たとえばですね、カタカムナは縄文人が使っていた「文字」であるというような主張をされると、さすがにドン引きしてしまうのです。

 はっきり言います。それは縄文人に対して失礼です!

 なぜなら、彼らは戦略的な意味で「文字を持たない」選択をしたのです。そして、だからこそ1万5千年以上その「文化」を持続させえたのです。

 世界史を俯瞰してみてください。文字を持った「文明」は例外なく千年持たず滅亡しています。少なくとも戦争を起こし文化を破壊していますね。

 文字の発明と使用は人類の特徴です。つまり、この日本列島においても、いつでも文字を発明し使用するチャンスはありましたし、実際それを試みた縄文人もいたことでしょう。

 しかし、文字なる「事の端」が、「事(意識)」自身ではなく、あくまでも「端」であって、つまり抽象化、捨象されたものであり、あるいは四捨五入された世界であって、そこには必ず発信者と受容者の解釈が入ってしまうため、文字を使えば使うほど、「真事(まこと)」から離れていってしまうこと、そしてしまいには分裂、分断を生んでしまうということを、縄文人はよくわかっていたのです。

 だから、「文字を持たない」選択をした。

 これは大変高度な思考です。劣等感を抱くなんてもってのほかで、逆です、誇りに思っていいことなのです。だから、先述の「カタカムナ」の件を失礼だと言ったわけです。

 もちろん、文字ではなく(あえて言えば)「デザイン」というものはありました。一つ一つの記号がそれ自体単独で、あるいは単純な組み合わせで、宇宙や神とつながるという機能を持っていた。そういうものはたしかに残っています。

 近代西洋的な考えで文字を考案し、それを並べて文章を作るという、まあ現代日本人にとっては当たり前のこと(たとえば私もこうして語って、騙っている)が、実は当たり前ではなく、分断や戦争を生むきっかけになっているということを思い出さねばなりません。

 さて、そういう「文字に対する不信感」を持った日本人が、現代に至るまで、どういう独特な文化を創造してきたか。それは私のセミナーや合宿に参加するとわかると思います。出口王仁三郎の耀わんはその文化・芸術の至高点でしょうね。

 私の話を聞けば、江戸末期以降の間違った「言霊」論、そして「大和魂」論も完全な形で是正されるでしょう。皆様とご縁のあることを願います。

 ちなみに、カタカムナ自体は最も新しい新作神代文字です。多くの神代文字がそうであるように48文字で五十音図を作っている時点で、その時代性が現れてしまっており、日本語学的には古代文字として認められません(かと言ってカタカムナ自体に価値がないとは思っていません)。私はそこは譲れませんね、神代文字研究家として。

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2024.01.12

スコット・ロスのレッスン

 

 の動画は泣けました。38歳で亡くなった夭折の天才、スコット・ロスの貴重なレッスン映像。

 かなり痩せていて、彼の死期が迫っていることがわかります。エイズでした。

 このレッスンでは、バロック音楽に限らず、音楽全般に対しての鋭い指摘が多々なされていますね。

20240113-90312 彼のいう「分析」は、決して左脳的なそれではなく、左脳的に機能化されいる「楽譜」から、その背後にある「本体」を右脳的に感得することを言うのでしょう。

 ワタクシの愚説に対応させると、「コト(言語・音符・記号)」は、あくまでも「モノ(本体・世界・宇宙)」の一部であって、その四捨五入された低次なメッセージに囚われると感動も学びも何もないということです。

 物理学的にいうと、意識を通過した「粒子(コト)」は、あくまで主観・主体の視点という窓から見える捨象された世界でしかなく、その補集合たる「波(モノ)」世界が無限に広がっているということ。そして、私たちはその窓から見える限定的で擬似的な世界から、その背後に無限に広がる「本体」を想像しなければならないということです。

 音楽に当てはめれば、作曲者はその本体世界を楽譜という非常に限定された箱に閉じ込めなければならず、それを開封して原型に戻すのが演奏者の仕事だということ。そして、またそれを受け取る聴衆もまた(彼の言う)「分析的」に音の粒を受け取って波に返すという作業をしなければならないということです。

 こうした複雑性こそ、芸術の真骨頂であり、多様性であり、豊かさであるわけです。

 その演奏家としての仕事を見事にこなしたスコット・ロス。だから、彼の音楽は奇をてらうわけではなく、しかし、まるでその瞬間にその作品が未来からやってきたかのように、私たちの心に深く広く染み込むのでありました。

 彼が亡くなって数年後、間接的にですが彼と縁ができました。そのことはこちらに書いています。

 猫と火山を愛したスコット・ロスにシンパシーを感じながら、彼が未来に投げたボールを、シロウトながら受け取って音楽に携わっていきたいと思います。

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2024.01.11

AIは「愛」か

11_20240112094801  日は「正解探し」という、笑いのネタとしての画像生成AIの作品を紹介しましたが、今日はAIさんの名誉回復というか、すごいなあと思わせる作品も紹介しましょう。

 もちろんここから手を入れて、さらに「作品化」していくこともできるわけですが、とりあえず「撮って出し」ならぬ「作って出し」です。というか、ちょっとしたpromptで20秒かからず4つずつ作品を生成してしまうAIは、たしかに人間を超えています。

 入力した文章は日本語だとこんな感じ。使ったAIはMidjourney

「ショートヘアーの日本の20代女性。彼女は憂いを秘めた表情をしている。彼女は日本家屋の中に立っている」

 これをDeepLで英訳して放り込みます。日本語でも可ですが、細かいニュアンスは伝わりづらく、やはり英語の方が精度が高くなります。

 何回か同じ文章で試しましたが、毎回違う画像が生成されます。

13  というか、この人だれなのでしょう(笑)。それにしてもとてもリアルというか、作品性、芸術性もありますよね。

 これらもツッコミ入れようと思えば入れられますが、それなりの完成度です。きっと来年の今頃にはもっとすごいことになっていることでしょう。

 いや、AIは過去のデータの組み合わせしかできませんので、その組み合わせの数が増え、処理時間が短くなっていくと、もしかするとどんどん画一化したイメージに収束していってしまうかもしれません。

 たとえば「日本の20代の女性」の顔が、こうして平均化されてくるように。実際、Midjourneyもヴァージョンアップするごと、洗練されすぎて面白みはなくなってきている。初期は写真的ではなく絵画的で、ある意味それはアーティスティックでしたし、ホラーになることも多くあったものの(笑)、意外な画像が生成される面白さはありました。

 昨日のも、変にリアルなので「笑い」につながってしまうのですね。まじめな顔して抜けてるというか。その辺は難しいところでしょう。

12  人間と違ってAIは未来的な情報は取り扱えません。妄想できないということですね。そこは生命と非生命の違いであって、その意味でAIが人間を超える可能性はゼロです。

 生命の宇宙的な存在目的は「エントロピーの減少」にあります。非生命がもれなく「エントロピーの増大」から逃れられないのに対し、生命は意志の力によって、それに対抗することができます。

 その点、AIはちりぢりになった過去の情報を集積し、擬似的に「エントロピーの減少」を実現することができます。しかし、それはあくまでも擬似的なもの。

 人間は、未来の情報すら「修理固成」することができるのです。それこそが「ことたま(事霊)」です。

 近代社会、特に「学校」では、過去の情報の固成が重視されてきました(その最たるものが大学入試)。しかし、それは本来の生命の仕事(為ゴト)ではないことが、AIの登場でバレてしまいました。

 つまり、今まで私たちが苦労し、そして苦労させてきた「コト」は、機械がやってくれることがわかったのです。AIは私たちを救ってくれる存在です。すなわち「愛(AI)」なのです。

 間違った仕事から解放された人間は、未来の情報だけ取り扱えばよい。それこそが本来の創造性、想像性であり、学校が「educate(導く)」すべきことなのでした。

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2023.11.21

Re:Hackshun【目せまゆき&成田山幽輔】安倍さんは、あの解散をどう考える?(チョコレートプラネット チャンネル)

 倍昭恵さんが、ザ・ニュースペーパーの福本ヒデさんと一緒に撮った写真をアップしていました。

 福本さんも安倍晋三さんのモノマネをやっておられましたが、やはりニセ安倍晋三と言えばビスケッティ佐竹さんでしょう。

 あの事件後も、昭恵さんは佐竹さんを応援し、できるかぎり晋三さんのモノマネを続けてほしいと伝えたとのこと。私もぜひ彼にはニセ安倍晋三を続けてもらいたい。

 世阿弥の言う「ものまね」は「モノを招く」という意味だと解釈しています。モノとは「霊」のこと。そういう意味で、ものまね芸人さんはとても重要なお役目を担っているのです。特に故人を招霊する方々は。レッツゴーよしまささんもそうですよね。

 そして思い出したのがこの動画。久しぶりに観ましたが、また涙を流して笑わせていただきました。去年の5月、初めてこの動画を観た時の涙とはまた違った意味の涙でした。

 ちなみに、この動画での佐竹さんの完璧なアドリブもすごいのですが、チョコプラのお二人が真似た、ひろゆきと成田さんがまた最高(最低w)。

 これぞプロの芸ですね。いろいろな意味で。まあ、プロが自分たちのネタで笑っちゃうのは反則ですが(笑)。

 

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2023.11.18

在原業平の墓(滋賀県高島市マキノ町在原)

Th_img_3833 の日は滋賀県の高島市マキノ町にて合宿セミナー。古民家をリノベーションした素晴らしい宿にてたっぷり皆さんと交流いたしました。

 やはり「場」は大切ですよねえ。自然環境も素晴らしく、雪が降り、月が雲間から現れ、花が咲き、まさに雪月花の幽境でありました。

 ここには在原業平の墓と伝承される石塔が存在します。今日の私の5時間にわたる講演の中にも、重要人物として現れました在原業平朝臣…あの時(40年前)は彼を恨みましたが、今では大感謝です。

 そして、こういう偶然で、お墓参りをし、感謝を申し上げることができました。まあ、宇宙から見れば40年なんてあっという間なんでしょうね。

 セミナーの合間に一人でお墓を訪ねてみました(実際には19日の朝)。冷めたことを書けば、山村、寒村にありがちな、コンプレックスの反動としての「大げさな物語」であることは間違いないのですが、それをもって学術的に「偽モノ」「噴飯モノ」としてしまうのは、まさに唯物論的な愚かな態度です。

 ずっとそれを真剣に信じてきた人々の意識、命、魂を無視した歴史観には、この世の本質に迫る力が欠如しているのです。

 私が研究している、宮下文書や出口王仁三郎、そして仲小路彰など、まさにそういう人たちから無視され、バカにさえされてきたモノ、ヒトですね。

Th_img_3831 そういう意味で、この石塔(五輪塔?)に対面した際、不思議と富士山麓明見の里や、秋田の某地、その他ご縁があって訪れた山村、寒村ともつながった感覚がありました。

 静かに、深く、忘れ去られた「コト=意識」。

 そう、コトにはモノは宿りませんが、モノにはコトは宿るのでした。そして、忘却という最高の保存方法。手つかず(解釈が関与しない)という完璧な伝承。必要なコトは、モノの中に忘れ去られ、必要な時にこうして現れるのです(私にとっては40年の忘却がありました)。

 顕在的なコト(カタ)にはめられ固定化した現代社会、現代人。いよいよそれを突き破って潜在的なモノ(とそこに保存されたコト)の復権の時代が来るのでしょう。今日のセミナーも結局そういう話なのでした。

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2023.10.25

廣松渉の「世界の共同主観的存在構造」

Th_81ivqeuh6tl_ac_uf10001000_ql80_ 日はお昼は練馬にて仲小路彰に縁の深い先輩方とミーティング。いよいよ本気で頑張らねば。

 夜は赤坂にて講演。昼間からの流れということもあって仲小路彰や出口王仁三郎についていろいろと語らせていただきました。いつものように何も用意せずの講演でしたが、自分でも感心するくらい(笑)勉強になりました。

 経営者の方々が多かったのですが、皆さん感じるところがあったようです。王仁三郎と仲小路に感謝です。

 さて、移動中に見たのがこの動画。廣松渉さんの哲学です。廣松渉さんには、ワタクシの「モノ・コト論」構築にあたり、いろいろ示唆を与えていただきました。特に若い頃、「もの・こと・ことば」には多大な影響を受けました。

 

 

 東大の哲学ですので、仲小路彰の系列でもありますね。カント的な世界観を凌駕していこうとする点でも共通点はあります。というか、近現代の哲学者は皆それですよね。

 廣松さんというと左翼というイメージを持つ方が多いと思いますが、彼は仲小路と同様、そこを通過してその限界を知り、第3の立場を構築しようと奮闘した人だと私は思っています。

 「世界の共同主観的存在構造」というのは、先日紹介した出口さんの「われわれとしての自己」にもつながるような気がします。

 今日皆さんにお話した「雛型」「世界を自分ごととしてとらえる」という私の作法(理論ではない)も、そうした自己脱却的、自他不二的な境地を目指したものです。

 それができるようになることこそが、「大峠を越える」ことであると信じています。

 あまり読書をしない、すなわち先人の知恵に学ばないワタクシでありますが、こうして難解な本をわかりやすく解説してくれる動画には心から感謝します。

Amazon 世界の共同主観的存在構造

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2023.08.22

映画『君たちはどう生きるか』 宮崎 駿 監督作品

Th_kimitachi 女が観に行きたいというので、事前情報なしで私も鑑賞いたしました。

 結論から言うと「よく分からなかったけど、すげぇな」でした。

 ジブリ作品には元々あまり興味がなく、家族が観ているのを横目で盗み見する程度でしたが、そんな私でもこの作品は「集大成」的には感じました。

 もっとはっきり言ってしまうと、宮崎駿監督というカリスマの最後の仕事に、考え得る最大の才能と時間とお金がかけられたのだから、それはすごいのは当たり前という感じでした。

 冒頭の火事のシーンだけで、世界の美術史に残るであろう「絵」の連続を見せられた感じがして、正直圧倒されました。西洋と東洋の両美術的世界を統合・融合する日本的美術の世界、ここに極まれりです。

 背景の西洋的リアリズム描写と、キャラクターを中心とした東洋的リアリズム描写の同居という、本来は不自然きわまりないはずの画面が、どうしてここまで自然に感じられるのかという驚き。

 東西は、主に「輪郭線の有無」と「色彩の平板化の度合い」で峻別されるのですが、それを自然に同居させてしまうのは、日本独特の文化であり、浮世絵や漫画、アニメに慣らされた私たちにとってはそれこそ自然なことなのかもしれません。

 それはすなわち、日本人の脳内リアルが、意識(コト・カタ)と無意識(モノ・マナ)の総体とそのバランスであるということなのですが、それがストーリーにおいても実現しているのが興味深かった。

 つまり、「分かる」と「分からない」がそのままの形で放置されることが「リアル」になっていたわけです。「モノガタリ」の本質は実はそこにあり、だからこそ「モノ」を「カタる」と称した。

 そういう意味で、私はこの作品を「よく分からなかったけど、すげぇな」と評し、だからこそ見終わったあとに不快にはならなかったのです。

 これは新しい日本の神話なのかもしれませんね。ある意味そういう陳腐な感想しか出てこない。やっぱり宮崎駿をすごかったということか(なんだか悔しいけれど…笑)。

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2023.08.15

『顕神の夢〜霊性の表現者 超越的なもののおとずれ』 足利市立美術館

Th_img_2864 本の神話的エロスの美術的表現が結集。

 足利市立美術館で開催されている「顕神の夢〜霊性の表現者 超越的なもののおとずれ」に行ってきました。

 鎌田東二さん監修ということで、入り口の正面にはいきなり出口王仁三郎の耀わんが鎮座。そして、出口なおのお筆先やら王仁三郎の書画が並びます。

 しかしそれはあくまでも(出口による)入口であって、その先にはさらにディープな「もの(何か)」の世界が広がっていました。

 岡本天明、金井南龍から円空、村山槐多、関根正二、横尾龍彦、黒須信雄、さらには宮沢賢治、草間彌生、岡本太郎、横尾忠則まで。

 霊界から直接ヴィジョンを受信した天才たちの、圧倒的な「現実との葛藤、格闘」の連続にすっかりやられてしまいました。

 現界と霊界、どちらがフィクションなのか。これからの時代はどちらが優勢になっていくのか。芸術とは何か。アートとは何か。

 会場の最初に提示された王仁三郎の言葉「芸術は宗教の母」。王仁三郎の言う「芸術」とは自然(モノ)と言い換えることができます。「宗教」は「コト」です。モノはコトの母なのです。

 そして、私たち人間は神々の「分霊(わけみたま)」として、神々のオーダー(みこと)を受けて「ミコトモチ」とならなければならない。それこそが「命(いのち・オーダー・みこと)」の本質であります。

 素晴らしい企画でした。終戦の日に来られて良かった。17日までです。お時間のある方はぜひ。このあとは、福岡久留米市美術館、愛媛久万美術館、愛知藤井達吉現代美術館を巡回します。

 足利市立美術館公式

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2023.07.02

和紙というモノ

Th_img_2682 日は午後から富山県射水市でトークショーでした。これまた多くの皆様にご来場いただき感謝です。

 午前中、泊めてくださった立山の友人と一旦別れ、別の立山の友人と合流。どこへ行くかも告げられず促されるままに彼の車に。車は立山の懐へと向かいます。

 昔ながらの土蔵が並ぶ集落にそのアトリエはありました。

 川原製作所

 先方も誰を連れてくるか知らなかったようで、私という人間をちょっと不審そうな目で追います。それはそうですよね。怪しすぎる。

 そして時とともに、和紙と茶碗…お互いのモノ(物・霊)を通じていつのまにか響き合っていたように思います。

 そんな時こそコトバは無力。本当にうまく話せない自分がいてびっくりしました。

 まさにひょんなことから、伝統的な和紙の世界を継ぎ、そして未来に投げる役についた若者。まちがいなく神様に選ばれたのでしょう。

 昨日の話ではありませんが、やはり彼にはエゴがなかった。だから純粋に師のソウルを受け取れた。なるほど。

 ただ技術的なコトをコピーしているだけではダメ。モノ(ソウル)を招いて一体化せねば。

 それが世阿弥の言う「ものまね(招霊)」なのでしょう。

 自然と人の調和。生活と芸術の調和。民芸以前の芸術。

 そのセンスの良さはおそらく天与のモノでしょう。驚きました。

 陶芸家の奥様が、かなり近いところで出口王仁三郎とつながっていたことにもびっくり。完全なるお導きですね。

Th_22031 そして和紙工芸作家、後藤清吉郎…ウチの先祖がたどりついた静岡に、こんな人がいたとは知りませんでした。不勉強を恥じるばかりです。

 後藤は大分県の出身ですが、富士宮を拠点に全国の和紙を研究し、自らも工芸家として魅力的な作品を多数残しています。そのうちのいくつかを川原さんがお持ちで拝見させていただきました。たしかに非常にハイセンスなデザイン、かつ濃厚な内容でした。

 静岡で民芸というと芹沢銈介が真っ先に頭に浮かびますが、ある意味それ以上の人物がいたのですね。

 お話しながら私も気づいたのですが、ウチの家系も和紙に関わっていたのでした。和紙に関わる仕事(輸出用茶箱の蘭字ラベル)に携わっており、埼玉の小川町から横浜、そして静岡へと移ってきたのでした。う〜ん、ここで和紙が来たかあ…という感じです。

 これから面白い展開がありそうです。モノは人と人を出会わせます。紙は神、そしてモノ(霊)なのでした。

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2023.07.01

エゴ(こと)を捨てソウル(もの)に帰れ!

Th_img_2672 日は金沢にてトークショー。九州やニューヨークも含めて多くの方々においでいただき恐縮です。

 燃料と称して、金沢駅到着後すぐに加賀鳶を一杯ひっかけまして、講演中も差し入れの高龍神社のお神酒をちびちびいただきました(笑)。

 いやいや、私にとっての日本酒はまさにお神酒であり、未来からの情報ダウンロード速度を加速する、すなわち左脳(理性)を抑え、右脳(霊感)を研ぎ澄ますための触媒なのです!

 さて、懇親会のあと、富山の立山に移動しまして、久しぶりに会う友人の別宅に宿泊させていただきました。

 今回北陸ツアーをするタイミングで、本当に十数年ぶりに彼から連絡がありまして、不思議なご縁を感じた次第です。

 彼の師匠であるキース・ヒルのことを中心に、まあ興味深い話をたくさん聞くことができました。

Th_img_2677 そんな中、特に心に残ったのは音楽や楽器制作において、エゴを捨ててソウルを重視しなければならないというキースの言葉でした。

 これ、ワタクシの専門分野「モノ・コト論」に勝手に引き付けますと、「コトよりモノ」ということになりますね。コトは自己であり、自我であり、自意識です。モノとは他者であり、宇宙であり、非意識です。

 ソウルは霊であり、古く日本では「霊」を「もの」と訓んでいたのも偶然ではないでしょう。また、大陸の体系化された(楽譜のある)音楽が入ってくる以前の日本古来の音楽のことを「もののね」と称していたのもまた示唆的ですね。

 私の講演やセミナーで盛んに言っていることの一つに、「日本人は言葉を信用していなかった。コトは意識、コトノハは意識の端っこ(上っ面)。だから、言葉より絵を好み、絵草紙や漫画を発展させた。言葉で語り尽くすことは最初から諦めていて、結果、17文字や31文字で充分とした」というようなことがあります。

 今もこうして言語で表現していますが、元々私もこれで何かを完璧に伝えようなどとは思っておりませんし、だいいち、これらは自動書記なので、読み返すことも校正することも記憶することもありません。

 逆に行間に垣間見えるであろう「モノ」的雰囲気を味わっていただきたいだけなのです。講演も結局同じです。通り過ぎる音楽や映画や物語を楽しむように聞いていただければ本望です。

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