カテゴリー「モノ・コト論」の868件の記事

2017.07.25

無門関 『雲門話堕』…正眼寺の松

Th_img_1040 眼夏期講座二日目、山川宗玄老大師による提唱は、無門関三十九則「雲門話堕」。
 本当に自分の痛いところを突かれたようで、逆に快感でさえありました(笑)。
 原文や訳はこちらが分かりやすいのでぜひお読みください。
 要は、受け売り、パクリ、知ったかぶりはダメということですね。まさに私のブログなんか「話堕」そのものです(苦笑)。
 言葉にしてしまった途端、それも他人の言葉であればなおさら、「嘘」になってしまうわけですね。
 今日、織物関係の知り合いたちと飲んだのですが、ちょうどそんな話になりました。今の子どもたちはスマホからの情報によって、まるで自分が経験したり、自分が調べたりした気になってしまう。これは良くないと。
 たしかにそうですが、一方でそうした抽象的な情報を具体的に「読みとる」という、ある種高度な情報処理能力を身につけているとも言えますよね。
 そこが難しいところですが、私は人間の知性、感性の次元上昇に期待したいと思います…なんて、「話堕」な自分を弁護しているだけですね(笑)。
 それから、山川老師風に言うと「そこじゃ!」という、指導者の絶妙のタイミングですね。というか、そのタイミングを、それこそ理屈でなく分かる人でないと教育者にはなれないと。
 これも耳が痛い話ですなあ。
 コトよりモノ、これこそ禅の奥義だと再確認できた体験でした。「もののあはれ」とは「モノのアッパレ」なんですよね。
 提唱が終わり、感慨にふけりながらふとお庭を見ると、そこには「正眼寺の松」がありました。上の写真です。ああ、ずいぶんと大きくなったなと思いました。まさに「黙して語る」松であります。余計なことを語らず、黙々と自然体で生きる松。
 その「正眼寺の松」については、ぜひ次の動画をご覧ください。青木ケ原樹海の赤松林とも通ずる「強さ」がありますね。


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2017.07.23

妹尾大さん講演 「創造的な働き方」の考察

Th_images_2 工大教授の妹尾大先生の講演をお寺で聴くという、実に不思議な体験。
 妹尾さんは経営工学の若手研究家。現代的な経営学と古典的な修行道場という、一見「場」違いな関係の中に、興味深い「禅味」が浮かび上がりました。
 考えてみると、禅宗の修行道場というのは、完璧にシステマチックに動いている場所であり、それも数百年間の智慧の終結としてのシステム。まさに最大効率の経営を目指したものだとも言えましょう。
 いろいろ心に残ったことがあるのですが、いくつか思い出したものだけ記します。
 今回の研修のテーマ「黙して語る」に関連して、「暗黙知」と「形式知」という言葉が出てきました。
 これはワタクシ流に言いますと「モノ」と「コト」というのと同じですね。「暗黙知」とは、言語化されない(コト化されない)実感、意識化されない身体的な知ということになりますか。
 それが禅で言う「不立文字」であり、「教外別伝」とも言えます。「今ここ」であり、たとえば言語化された過去などは、「屑」すぎない。
 全て「コト(言語・記録・記憶・形式)」などは、時空を超えるがために、いらぬ煩悩、妄想ともなりえます。禅はそれを強く戒めます。
 しかし、面白いのは、何度かこのブログにも書いたとおり、そうした「モノ」性の維持のために、「コト」を利用することがあるということです。
 禅の修行の作法などはその最たるもの。極度に厳格な形式にはまる、それも意味を飛び越えて、ある種の強制によって、その枠組にはまることによって自由を得るというパラドックス。
 私がよく言う「コトを窮めてモノに至る」というやつですね。
 妹尾さんの話に「過去の成功体験を捨てる」「過去の成功体験から逃れる」という内容がありました。この過去(コト)という妄想(もうぞう)から逃れるのは、たしかに禅の目標とするところですね。
 そういう意味で、最近の消費傾向、興味志向が、「みんなが持っているもの」よりも「誰も持っていないもの」に移行しているという話は興味深かったですね。
 流行とは情報であり、それはどう考えても「過去」のコトです。誰かが着ていたとか、どこかで流行っていたというのは、ほんの1分前でも過去の情報にすぎません。それに影響を受けていた時代が終わり、今ここの実感、ひらめき、あるいは未来的な期待というモノが重視されるようになってきた。
 そういう「モノ」を作るのがうまいのが、たとえばアップルであったりするわけです。スティーヴ・ジョブズが禅狂いだったのは、なんとも運命的、象徴的ですね。
 イノヴェーションが「新結合」であるというのも、モノ性、すなわち「他者性」「他力」「縁起」を象徴しているようで面白かった。
 一人のカリスマ経営者が垂範してきた時代が終わり、多くの凡夫たちがそうした指導者に刺激されることによってレベルアップし、「現場」が有機的なそれこそ「現・場」になっていく、そんな近未来像を想像させる講演でした。
 この講演を、普通の大学やらホールやらで聴いても、自分としてはこういう理解はでなかっただろうなあ。やっぱり「場」は大切なのか。環境というモノ(外部)によって縁起する「我」。素晴らしい禅体験でした。
 もちろん、実生活において、たとえば学校経営、あるいは各種団体やイベントの運営などにおいても、非常に参考になる内容の講演でした。ありがとうございました。

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2017.07.20

祝! ギャラクシー賞受賞

Th_img_0367 当に嬉しい限りです!我が中学校を舞台とした水曜日のダウンタウン「先生のモノマネプロがやったら死ぬほど子供にウケる説」が放送批評懇談会のギャラクシー賞月間賞を獲得いたしました!
 正直獲れたらいいなあと期待していたのですが、そんな妄想が実現してしまいました。Yahooニュースのトップにも『ダウンタウン「神回」に賞』というタイトルで上がっていてビックリ&エキサイト。

「水曜日のダウンタウン」神回“先生モノマネ”がギャラクシー賞月間賞受賞

 ADさんやエハラさんら、いろいろな方から電話やメッセージをいただき祝福していただきました。とはいえ、もちろんこれは番組に与えられる賞です。芸人さんやスタッフの栄誉であります。私は心から祝意と賛意を贈りたいと思います。おめでとうごさいます。
 収録当日のことはこちらに、放送日のことはこちらに書きました。そこに書いてあることが全てであり、様々な「プロ」の方々が本校の良さを上手に引き出してくれたことに間違いはありません。
 生徒たちにとっても最高の思い出、学習の場となりました。そこに加えてギャラクシー賞…こんな幸運、幸福はありませんね。本当にご縁に感謝です。
 もしワタクシが今回の神回受賞に貢献したことがあるとしたら、まあ(勇気をもって)「オファーを受けた」ことでしょうかね(笑)。中間テストの二日前でしたが、「生徒にとってテストは何度もあるけれど、こんな機会は一生に一回あるのが奇跡」と考えての判断でした。
 放送をご覧になってない方はこちらからどうぞ。

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2017.07.09

青山繁晴 『妬みの産物、陰謀論とリアルポリティクスの違い』

 日の討論に続いて観た動画。共感したので紹介しておきます。
 陰謀論、陰謀説に対する私の基本的な姿勢は、こちらこちらに書いたとおりです。否定はしない。嫌いではない。いや結構好き(笑)。しかし、与しない。
 非常にストレートに言えば、陰謀論というのは「単純化」です。実際の人間社会、いや自然界は非常に複雑であり、しかし一方で宇宙の仕組み的に言えば、もしかすると単純なのかもしれない。
 そうした矛盾した「実感」を物語化したのが「陰謀論」だと思います。ですから、人間の脳という小宇宙の中では、もしかすると真実なのかもしれない。
 陰謀論を生み出す要因の一つに、個人的なルサンチマンや恐怖、あるいは妬みというモノがある。そこがある意味リアルですよね。歴史を動かすのは最後は個人的感情ですから。
 前掲の秦さんの本に、陰謀論の主役の一人として仲小路彰の名が出てきます。
 仲小路に対する評価としては、ある意味正しいとも言える。伊藤隆先生も似たような評価をし「アブナイ」とおっしゃっていました。
 つまり、従来の歴史学の限界がそこにあるわけですね。逆に言えば実証的な歴史学や、青山さんの言うリアルポリティクスが、ギリギリのところで「物語」の巨大化を防いでいるとも言えます。
 そうして、私たちはバランスを取って生きており、社会を形成し、歴史を紡いでいくわけです。
 それにしても、たしかに世の中の陰謀論はなかなか消えません。というか、陰謀論ありきで、そこから逆算して現実が動いていくこともある。
 さらに言えば、「いい陰謀論」もあるわけですね。誰かが見えないところでこの世の中を良くしようとしていると。そう、宗教がそうなんです。神の存在とは、まさに「いい陰謀論」なのです。
 そして、その「いい陰謀論」と「悪い陰謀論」の両方を感知し、総体としてこの宇宙や自分の脳内を観察できるようになったのが、たとえば出口王仁三郎や仲小路彰のような大天才なのではないでしょうか。
 そう言えば、今日の「そこまで言って委員会」は面白かったですね。まさに各新聞社がそれぞれの「陰謀論」に従って動いているように見えました。もちろん「いい」&「悪い」両陰謀論です。
 昨日の討論でのメディア論にも全く同じことが言えますね。仮想敵というのこそ身近な陰謀論の主役です。

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2017.06.29

バッハの無伴奏チェロ組曲@『真夏の夜のジャズ』

Th_51qm33j85nl_sx385_ のおじいちゃん先生が、高校生の時映画館で観て衝撃を受けたという「真夏の夜のジャズ」。そのDVDをお借りいたしました。
 実は私は初めて観ました。うん、たしかにあの当時の日本の高校生にとっては、いろんな意味でショックでしょうね。ニューポート・ジャズ・フェスティバルは1958年開催。このドキュメンタリー映画が日本で公開されたのは1960年でしょうか。私は生まれていません。
 セロニアス・モンクをはじめ、チャック・ベリーやルイ・アームストロングなど、往年の名プレイヤーの演奏の間に、当時の風景や人びとの営みが挟まれ、いかにも日本とは違う、違いすぎるアメリカの香りが漂ってきます。

 そんな中で、私が一番感動したのは、28分すぎからのバッハの無伴奏チェロ組曲第1番プレリュードです。
 ジャズの中に挿入された静謐なバッハ。その映像とともにこの映画の中で特異な時空を形成しています。
 演奏しているのは、チコ・ハミルトン・クインテットのベーシスト、ネイサン・ガーシュマンだとのこと。
 いや、普通にチェリストとしてすごいじゃないですか。いいバッハですね。途中、タバコに火をつけるために演奏を中断するところがカッコイイ。
 なるほど、たしかにこの時代、ジャズとバッハは案外近い関係にあったかもしれない。相補関係ともいえるし、相似関係ともいえる。
 映画として、出色の名シーンです。編集の妙。当時のドキュメンタリー映画って、こういう方向で芸術性を追究していましたよね。私、けっこう好きです、こういう、世界の再構成。
 人間の記憶というかイメージに近い。すなわち、脳にとってのリアルということです。夢に近いと言ってもいい。科学的事実(コト)とは違う真実。ジャズやバッハなど、音楽はその先にある「モノ」です。古い日本語「もののね」とは、そういう意味でしょう。
 うん、なるほど。だから「真夏の夜の夢」ならぬ「真夏の夜のジャズ」なんですね。

Amazon 真夏の夜のジャズ

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2017.06.27

菩薩の心

Th_img_0846 日は恒例の塩山向嶽寺接心。中学2年生を連れての宿泊座禅研修です。
 この素晴らしい修行道場(非公開寺院)で座禅させていただくのも8回目となります。
 美しく清らかな環境の中での座禅は格別。毎回自分や世界に対する発見があります。本当にありがたいご縁です。
 また、管長猊下直々のご法話も毎年大変勉強になることばかり。中学生相手に優しく易しくお話くださり、私にとってもまたちょうど「いい加減」のご垂言となります。
 今年のご法話で印象に残ったのは、「菩薩の心」でした。一言で言うなら「自分より相手」「自分より他者」を優先する心。
 一般に「菩薩のような人」とは善良で優しい人のことを指す言葉ですが、「菩薩の心」となると、もう少し深みがあるような気がします。
 相手の喜びや苦しみを自分のことのように感じるというのも難しいけれども、菩薩心はそれよりもさらに高い次元です。そう、「自分のことのように」というような自我もないわけですから、自分を一度通過するような過程も踏まず、ストレートに相手と一体化する、いや、相手と一体化というと彼我の二元になってしまいますから、自他不二、無我というか…いやそこにも「自」や「我」という字(概念)があるからだめですね、やはり「空」なんでしょうか、そういう最高の悟りの境地にならないといけません。
Th_img_0840 もちろん、ワタクシのような俗人がそのような境地に至ることは無理ですが、しかし、そういう目標というか理想があるのは悪いことではないと思います。
 今日の管長さまのお話にも目標という言葉が何度も出てきました。その目標達成のために「型」にはまってみなさいと。なるほど、型とは「自我」にとっては他人が作り出した「モノ」。そこにどっぷりはまることによって、すわなち他者の経験的カタ(=コト)を利用して、自我を去る経験をするわけですね。
 管長さまのおっしゃるように、だいたい人間の発達、進化を妨げるのは「自我」です。それを捨て去らざるを得ない状況を作るのが、たとえば禅におけるあの窮屈極まりなく、理不尽極まりない「型」なのです。
 しかし、私たちの自我もなかなか強情ですから、そのカタからはみ出てしまうモノがある。それこそが、その人の自我のエッセンス、いわば「個性」というものでしょう。
 教育活動として考えても、こうして型に生徒をはめてみて気づくその生徒たちの個性というのがある。なんでも自由にしたところで、個性なんか一つも現れてきやしない。そのあたりを戦後の一部の教育は誤ってしまったのでしょう。
 そして、「型」にはまりきった時、完全に自我は消え去ります。それが座禅の目的です。もちろんそこまで行ける人は少ないでしょうが、目標、理想、もっとわかりやすく言えば「予感」を抱くことは大切なことですね。


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2017.06.06

福来博士記念館

Th_img_0591 修旅行二日目は白川郷と高山散策。高山では念願の場所に行くことができました。今までも何回かチャンスがあったのですが、場所が分からなかったり、閉まっていたりだったところです。
 その名は「福来博士記念館」。福来友吉は知る人ぞ知る人物ですよね。日本のオカルト界では神のような存在です。
 戦前の心霊ブームを導いた元東大助教授、高野山大学教授。かの映画「リング」の伊熊助教授のモデルになった人。というか「リング」自体が福来らの「千里眼事件」をモデルにしています。
 この記念館にも「貞子」さんに関する展示が…。そう「リング」の貞子のモデルは悲劇の超能力者御船千鶴子だと言われていますが、事件の関係者には高橋貞子という超能力者もいるんです。
 さて、この記念館、高山市の反対に合いながらも、福来の遺志を継ぐ山本健造さんらによって建てられたもの。城山公園の入り口近く、オシャレな喫茶店の横に静かに鎮座しております。
 なんとなく町の公民館のような感じで、たった一部屋に福来博士や千里眼事件などに関する資料がパネル展示されております(こちら参照)。
Th_img_0624 もちろん誰もおらず、私一人で拝観。椅子に座ってゆっくり(鎖でつながれた)山本さんの興味深い著書なども読ませていただきました。
 この福来友吉の超心理学実験、かの筧克彦も同席したということで、ここで宮下文書や出口王仁三郎、そして貞明皇后との関係も出てくるわけでして、まあ戦前の日本のスーパーオカルトぶりには感動さえしてしまうわけであります。
 というか、それが本来の日本であったわけで、戦後、そういう「モノ」を排除されてしまった日本が異常なのではないかと、最近のワタクシは思うのです。アブナイとかトンデモとか言われてもめげませんぞ(笑)。この世はコトよりモノが本体ですから。
 というわけで、高山に行ったおりにはぜひ訪れてみて下さい。飛騨の国は元来霊的な土地ですが、その中でも異彩を放っております。ここで一人佇んで何も感じないとしたら…あなたは日本人ではないかもしれません(笑)。

飛騨福来心理学研究所
福来記念・山本資料館

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2017.05.24

能役者 野村四郎 「遥かなり芸の道」

 日までの「昭和11年」つながりもあって、この動画を紹介いたします。この動画にもちょっと登場している、四郎先生の弟子、私の教え子でもある女流能楽師からの紹介してもらいました。
 人間国宝の能楽師野村四郎先生は昭和11年のお生まれです。
戦前戦中の動乱期に少年時代を送り、そのためでしょうか、狂言師の家に生まれながら、人間の影の部分を表現する能に惹かれていったと言います。
 そして、稽古の話も興味深いですね。鉄拳つきの厳しいスパルタよりも、「芸は盗め」の何も教えてくれない稽古の方がずっと厳しかったと。これこそ日本文化の真髄であり、私の言うところの「コト」より「モノ」。言葉よりも実体験というのにもつながるでしょう。
 「今に見ておれ!」これは今の日本の若者に足りないものですね。今日も職員室で話したんですよ。本当にそういう「悔しさをバネに」みたいなのがないなあと。
 ある部活で高校生に顧問が怒って「もういい、来るな」と言ったら、本当に次の日から来なくなる…こういうことは本当に日常的にありますし、場合によっては親でさえ、そういう子どもたちの反応に賛同してしまう。昔じゃ考えられませんよ。
 極端な話、昔だったら私も「死にたい」という生徒がいたら、「おお、死ねるもんなら今ここで死んでみろ!」と言っちゃいましたが(笑)、今だったらとても笑い事になりません。新聞ネタですよ。
 言葉って、その表面的な意味だけでなく、その裏側に人の心を包み込んでいるものじゃないですか。こちらがそれを包んで発したつもりでも、相手はそれを全く「忖度」せず、表面的な意味で反応してしまう。日本人の劣化ですよ。
 師匠なのに何も教えてくれないなんていうのも、ある意味めちゃくちゃブラックじゃないですか(笑)。そういう世界はこれからどうなっていくのでしょうね。
 杉並の大宮八幡宮での薪能、私も何回か拝見しました(こちら参照)。四郎先生のおっしゃる通り、その役者がその場、空気、自然と一体化し、本当に素晴らしい時空間を作り上げていました。意味が分かる、分からないではなくて、「感じる」。これもまた「コト」よりも「モノ」ということでしょう。
 世阿弥が行ったように、能の本質は「ものまね」。「モノ」を招くということですね。
 そして、最後の次世代へのメッセージ。私も心に深く刻ませていただきました。

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2017.05.17

ものまね芸人さんから学ぶ神事

 日はご縁がありまして、ものまね芸人の方々とお話する機会がありました。
 神奈月さん、ホリさん、エハラマサヒロさん、ミラクルひかるさん、みかんさんという、超実力派の大御所の皆さんです。
 いろいろなお話ができて、本当に勉強になったのですが、中でも憑依系(?)であるミラクルさんに私の「ものまね=招霊」説をお伝えできたことは嬉しかった。
 それを脇で聞いていたホリさんが、「そうですよね、ものまねは日本書紀なんかにもそのルーツが書いてある」とおっしゃっておりました。
 そう、「ものまね」という言葉は出てきませんが、記紀に登場する「隼人舞」は、まさに招霊して「ものまね」をする種類の舞です。
 つまり、もともと「ものまね」とは神事であって、だからこそ多くの舞が今でも神社で奉納されているわけです。
 ちみなに記紀の時代から、そのような神事としての「招霊(ものまね)」をする人を「俳優」と呼んでいました。「はいゆう」ではなく「わざをき」と読みます(こちらの記事参照)。
 「わざ」というのは、神霊の力のことです。「ことわざ(諺)」や「わざはひ(災)」の「わざ」もそういう意味です。良い意味でも悪い意味でも、人知を超えた力ということです。
 そして「をき」は「をく」という動詞の連用形。「をく」を漢字で書くと「招く」であり、意味もまんま招くです。ですから、「俳優」も「招霊する者」という意味なんですよね。
 ついでにいいますと、「をかし」という古語の語源は「招く」です。「招きたい」、つまり「常に手元に置いておきたい」、現代風に言いますと、録画しておきたいとか、フィギュアとして所有したいとか、そんなニュアンスです。
 ということは、たとえば俳優さんが物真似をして、それを私たちが「面白おかしい」と思うのは、千数百年前の理屈のとおりだということですね。
 それにしても、超一流のものまね芸人さんの皆さんは、ホントすごすぎました。日本古来の伝統文化を継承する、それこそ神人に見えましたね。心から尊敬いたします。皆さん、見事に招霊していました。
 上の動画は京田辺市に伝承する「大住隼人舞」です。あえて九州のものではなく、京都に伝来したものを紹介しておきましょう。というのは、田辺の月読神社は、能楽の宝生流と深く結びついているからです。ここでまた観阿弥・世阿弥の「ものまね」論とつながります。
 そのあたりについては、またじっくり書きましょう。

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ものまね芸人さんから学ぶ神事

 日はご縁がありまして、ものまね芸人の方々とお話する機会がありました。
 神奈月さん、ホリさん、エハラマサヒロさん、ミラクルひかるさん、みかんさんという、超実力派の大御所の皆さんです。
 いろいろなお話ができて、本当に勉強になったのですが、中でも憑依系(?)であるミラクルさんに私の「ものまね=招霊」説をお伝えできたことは嬉しかった。
 それを脇で聞いていたホリさんが、「そうですよね、ものまねは日本書紀なんかにもそのルーツが書いてある」とおっしゃっておりました。
 そう、「ものまね」という言葉は出てきませんが、記紀に登場する「隼人舞」は、まさに招霊して「ものまね」をする種類の舞です。
 つまり、もともと「ものまね」とは神事であって、だからこそ多くの舞が今でも神社で奉納されているわけです。
 ちみなに記紀の時代から、そのような神事としての「招霊(ものまね)」をする人を「俳優」と呼んでいました。「はいゆう」ではなく「わざをき」と読みます(こちらの記事参照)。
 「わざ」というのは、神霊の力のことです。「ことわざ(諺)」や「わざはひ(災)」の「わざ」もそういう意味です。良い意味でも悪い意味でも、人知を超えた力ということです。
 そして「をき」は「をく」という動詞の連用形。「をく」を漢字で書くと「招く」であり、意味もまんま招くです。ですから、「俳優」も「招霊する者」という意味なんですよね。
 ついでにいいますと、「をかし」という古語の語源は「招く」です。「招きたい」、つまり「常に手元に置いておきたい」、現代風に言いますと、録画しておきたいとか、フィギュアとして所有したいとか、そんなニュアンスです。
 ということは、たとえば俳優さんが物真似をして、それを私たちが「面白おかしい」と思うのは、千数百年前の理屈のとおりだということですね。
 それにしても、超一流のものまね芸人さんの皆さんは、ホントすごすぎました。日本古来の伝統文化を継承する、それこそ神人に見えましたね。心から尊敬いたします。皆さん、見事に招霊していました。
 上の動画は京田辺市に伝承する「大住隼人舞」です。あえて九州のものではなく、京都に伝来したものを紹介しておきましょう。というのは、田辺の月読神社は、能楽の宝生流と深く結びついているからです。ここでまた観阿弥・世阿弥の「ものまね」論とつながります。
 そのあたりについては、またじっくり書きましょう。

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