カテゴリー「モノ・コト論」の862件の記事

2017.06.06

福来博士記念館

Th_img_0591 修旅行二日目は白川郷と高山散策。高山では念願の場所に行くことができました。今までも何回かチャンスがあったのですが、場所が分からなかったり、閉まっていたりだったところです。
 その名は「福来博士記念館」。福来友吉は知る人ぞ知る人物ですよね。日本のオカルト界では神のような存在です。
 戦前の心霊ブームを導いた元東大助教授、高野山大学教授。かの映画「リング」の伊熊助教授のモデルになった人。というか「リング」自体が福来らの「千里眼事件」をモデルにしています。
 この記念館にも「貞子」さんに関する展示が…。そう「リング」の貞子のモデルは悲劇の超能力者御船千鶴子だと言われていますが、事件の関係者には高橋貞子という超能力者もいるんです。
 さて、この記念館、高山市の反対に合いながらも、福来の遺志を継ぐ山本健造さんらによって建てられたもの。城山公園の入り口近く、オシャレな喫茶店の横に静かに鎮座しております。
 なんとなく町の公民館のような感じで、たった一部屋に福来博士や千里眼事件などに関する資料がパネル展示されております(こちら参照)。
Th_img_0624 もちろん誰もおらず、私一人で拝観。椅子に座ってゆっくり(鎖でつながれた)山本さんの興味深い著書なども読ませていただきました。
 この福来友吉の超心理学実験、かの筧克彦も同席したということで、ここで宮下文書や出口王仁三郎、そして貞明皇后との関係も出てくるわけでして、まあ戦前の日本のスーパーオカルトぶりには感動さえしてしまうわけであります。
 というか、それが本来の日本であったわけで、戦後、そういう「モノ」を排除されてしまった日本が異常なのではないかと、最近のワタクシは思うのです。アブナイとかトンデモとか言われてもめげませんぞ(笑)。この世はコトよりモノが本体ですから。
 というわけで、高山に行ったおりにはぜひ訪れてみて下さい。飛騨の国は元来霊的な土地ですが、その中でも異彩を放っております。ここで一人佇んで何も感じないとしたら…あなたは日本人ではないかもしれません(笑)。

飛騨福来心理学研究所
福来記念・山本資料館

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2017.05.24

能役者 野村四郎 「遥かなり芸の道」

 日までの「昭和11年」つながりもあって、この動画を紹介いたします。この動画にもちょっと登場している、四郎先生の弟子、私の教え子でもある女流能楽師からの紹介してもらいました。
 人間国宝の能楽師野村四郎先生は昭和11年のお生まれです。
戦前戦中の動乱期に少年時代を送り、そのためでしょうか、狂言師の家に生まれながら、人間の影の部分を表現する能に惹かれていったと言います。
 そして、稽古の話も興味深いですね。鉄拳つきの厳しいスパルタよりも、「芸は盗め」の何も教えてくれない稽古の方がずっと厳しかったと。これこそ日本文化の真髄であり、私の言うところの「コト」より「モノ」。言葉よりも実体験というのにもつながるでしょう。
 「今に見ておれ!」これは今の日本の若者に足りないものですね。今日も職員室で話したんですよ。本当にそういう「悔しさをバネに」みたいなのがないなあと。
 ある部活で高校生に顧問が怒って「もういい、来るな」と言ったら、本当に次の日から来なくなる…こういうことは本当に日常的にありますし、場合によっては親でさえ、そういう子どもたちの反応に賛同してしまう。昔じゃ考えられませんよ。
 極端な話、昔だったら私も「死にたい」という生徒がいたら、「おお、死ねるもんなら今ここで死んでみろ!」と言っちゃいましたが(笑)、今だったらとても笑い事になりません。新聞ネタですよ。
 言葉って、その表面的な意味だけでなく、その裏側に人の心を包み込んでいるものじゃないですか。こちらがそれを包んで発したつもりでも、相手はそれを全く「忖度」せず、表面的な意味で反応してしまう。日本人の劣化ですよ。
 師匠なのに何も教えてくれないなんていうのも、ある意味めちゃくちゃブラックじゃないですか(笑)。そういう世界はこれからどうなっていくのでしょうね。
 杉並の大宮八幡宮での薪能、私も何回か拝見しました(こちら参照)。四郎先生のおっしゃる通り、その役者がその場、空気、自然と一体化し、本当に素晴らしい時空間を作り上げていました。意味が分かる、分からないではなくて、「感じる」。これもまた「コト」よりも「モノ」ということでしょう。
 世阿弥が行ったように、能の本質は「ものまね」。「モノ」を招くということですね。
 そして、最後の次世代へのメッセージ。私も心に深く刻ませていただきました。

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2017.05.17

ものまね芸人さんから学ぶ神事

 日はご縁がありまして、ものまね芸人の方々とお話する機会がありました。
 神奈月さん、ホリさん、エハラマサヒロさん、ミラクルひかるさん、みかんさんという、超実力派の大御所の皆さんです。
 いろいろなお話ができて、本当に勉強になったのですが、中でも憑依系(?)であるミラクルさんに私の「ものまね=招霊」説をお伝えできたことは嬉しかった。
 それを脇で聞いていたホリさんが、「そうですよね、ものまねは日本書紀なんかにもそのルーツが書いてある」とおっしゃっておりました。
 そう、「ものまね」という言葉は出てきませんが、記紀に登場する「隼人舞」は、まさに招霊して「ものまね」をする種類の舞です。
 つまり、もともと「ものまね」とは神事であって、だからこそ多くの舞が今でも神社で奉納されているわけです。
 ちみなに記紀の時代から、そのような神事としての「招霊(ものまね)」をする人を「俳優」と呼んでいました。「はいゆう」ではなく「わざをき」と読みます(こちらの記事参照)。
 「わざ」というのは、神霊の力のことです。「ことわざ(諺)」や「わざはひ(災)」の「わざ」もそういう意味です。良い意味でも悪い意味でも、人知を超えた力ということです。
 そして「をき」は「をく」という動詞の連用形。「をく」を漢字で書くと「招く」であり、意味もまんま招くです。ですから、「俳優」も「招霊する者」という意味なんですよね。
 ついでにいいますと、「をかし」という古語の語源は「招く」です。「招きたい」、つまり「常に手元に置いておきたい」、現代風に言いますと、録画しておきたいとか、フィギュアとして所有したいとか、そんなニュアンスです。
 ということは、たとえば俳優さんが物真似をして、それを私たちが「面白おかしい」と思うのは、千数百年前の理屈のとおりだということですね。
 それにしても、超一流のものまね芸人さんの皆さんは、ホントすごすぎました。日本古来の伝統文化を継承する、それこそ神人に見えましたね。心から尊敬いたします。皆さん、見事に招霊していました。
 上の動画は京田辺市に伝承する「大住隼人舞」です。あえて九州のものではなく、京都に伝来したものを紹介しておきましょう。というのは、田辺の月読神社は、能楽の宝生流と深く結びついているからです。ここでまた観阿弥・世阿弥の「ものまね」論とつながります。
 そのあたりについては、またじっくり書きましょう。

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ものまね芸人さんから学ぶ神事

 日はご縁がありまして、ものまね芸人の方々とお話する機会がありました。
 神奈月さん、ホリさん、エハラマサヒロさん、ミラクルひかるさん、みかんさんという、超実力派の大御所の皆さんです。
 いろいろなお話ができて、本当に勉強になったのですが、中でも憑依系(?)であるミラクルさんに私の「ものまね=招霊」説をお伝えできたことは嬉しかった。
 それを脇で聞いていたホリさんが、「そうですよね、ものまねは日本書紀なんかにもそのルーツが書いてある」とおっしゃっておりました。
 そう、「ものまね」という言葉は出てきませんが、記紀に登場する「隼人舞」は、まさに招霊して「ものまね」をする種類の舞です。
 つまり、もともと「ものまね」とは神事であって、だからこそ多くの舞が今でも神社で奉納されているわけです。
 ちみなに記紀の時代から、そのような神事としての「招霊(ものまね)」をする人を「俳優」と呼んでいました。「はいゆう」ではなく「わざをき」と読みます(こちらの記事参照)。
 「わざ」というのは、神霊の力のことです。「ことわざ(諺)」や「わざはひ(災)」の「わざ」もそういう意味です。良い意味でも悪い意味でも、人知を超えた力ということです。
 そして「をき」は「をく」という動詞の連用形。「をく」を漢字で書くと「招く」であり、意味もまんま招くです。ですから、「俳優」も「招霊する者」という意味なんですよね。
 ついでにいいますと、「をかし」という古語の語源は「招く」です。「招きたい」、つまり「常に手元に置いておきたい」、現代風に言いますと、録画しておきたいとか、フィギュアとして所有したいとか、そんなニュアンスです。
 ということは、たとえば俳優さんが物真似をして、それを私たちが「面白おかしい」と思うのは、千数百年前の理屈のとおりだということですね。
 それにしても、超一流のものまね芸人さんの皆さんは、ホントすごすぎました。日本古来の伝統文化を継承する、それこそ神人に見えましたね。心から尊敬いたします。皆さん、見事に招霊していました。
 上の動画は京田辺市に伝承する「大住隼人舞」です。あえて九州のものではなく、京都に伝来したものを紹介しておきましょう。というのは、田辺の月読神社は、能楽の宝生流と深く結びついているからです。ここでまた観阿弥・世阿弥の「ものまね」論とつながります。
 そのあたりについては、またじっくり書きましょう。

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2017.05.16

結縁尊縁随縁

Th_2017051600000074san0002view 日、中曽根康弘元首相の「白寿」を祝う会が開かれたとのこと。
 総理大臣という重責を長期間担ったということだけでも、大変なストレスがあったでしょう。さらに引退後も政治力学の隠然たる中心点の一つとして、多くのご苦労があったと思いますが、このようなご長寿で、さらに健康、聡明でいらっしゃることに対し、純粋に尊敬の念をいだきます。
 今年の憲法記念日に中曽根さん作詞の憲法改正の歌を紹介しました。そこにも書いたとおり、憲法改正に対して、私は中曽根さんとは相容れないところがあるのですが、しかし、まさに白寿に至っても衰えない深い「祈り」の力にも、純粋に心を打たれます。
 そう、この会で中曽根さん自身が「この国をよりよくして未来へとつないでいく。それこそ人生の深い祈りにも似た願いだ。その強い思いを持って、最後のご奉公に励み、自らの天命を全うする所存だ」とおっしゃったんですね。
 「人生の深い祈りにも似た願い」…この言葉は重いですね。そして「未来」「天命」。こうした言葉を、私もついつい格好つけて使ってしまいますが、中曽根さんの半分しか生きていない、それも市井の輩とは、その深みが違いすぎますね。
 さらにいい言葉だなと思ったのは、「結縁尊縁随縁」です。「縁を結び、縁を尊び、縁に随う」…これは私もかなり分かってきました。縁によって生かされているというのは、まあ仏教の教えの根本の一つではありますが、それもまた、百年生きた、いや職業渡世の中で修行された中曽根さんがおっしゃると、やはり理屈ではなく体験の重さ、深さというものを感じさせますね。
 まずは縁を結ぶ。そこにはということもあるでしょう。それらも含めて全てを尊ぶ。結果として、「随う」という他者性(モノ性)に到達する。
 総理大臣をされた方でも百年かかるわけですから、私は最低でも二百年くらい生きないとなあ。それを30そこらで悟ったお釈迦様はやっぱり特別な天才ということにもなるでしょう。
 ところで、あくまでも「自主憲法制定」を志とする中曽根さん、安倍総理のあの「加憲的改正論」に対して、心の中ではどのように評価しているのでしょうか。
 

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2017.04.20

ボリティカル・コレクトネス?

Th_images 野綾子さんが「大人の言葉遣い わからぬ幼稚」というコラムを書いておられました。いわゆるポリティカル・コレクトネスに対する懐疑を主張されていました。
 言葉尻をとらえて、そして場合によっては謝罪させることが普通になる社会が、いかに幼稚なのものであるか、心の奥底を表現できない世界がいかに硬直化したものとなるかを述べておられました。
 曽野さん、2月だったかの南アに関するエッセイなど、それこそ「政治的」にはちょっと不用意だったかなという言説もありましたが、今回の「言葉狩り」に関する考えには全面的に賛成します。いちおう言葉を専門にしている立場としてです。
 「ポリティカル」な世界は、私に言わせてもらえば「コト」世界ですね。法律における言語はそういう性質のものです。あえて言うなら数字、数式に近づけようとしています。ぶれや余白のない絶対言語に近い世界。
 一方、私たちが使う「言葉」は、まさに「コトの端」であり、せいぜいそうした絶対世界の端っこをかじるくらい、そのほとんどは曖昧模糊とした、しかし豊かな「モノ」世界が広がっています。
 それを、差別だとかいう過剰な「忖度」によって制限することに、私も反対です。
 学校現場なんか、本当に最近は堅苦しくなってきています。愛情と信頼に根ざしたコミュニケーションの中には、あえての「悪い言葉」もたくさん存在します。活字にしてしまって、第三者が見れば、とんでもない「いじめ」や「虐待」と取られかねない言葉も日常的に行き交っています。
 もちろん、そこにはお互いの関係性があり、そこに至る文脈があり、言語的な意味論を超えた「創造的忖度」があり、肉体的表情もあります。そんな「コト」にはまらない「モノ」があるからこそ、私たちは教育をすることができます。
 また、それら「モノ」世界を含む可能性を秘めているのが、まさに言葉の力であり魅力であるわけで、それをまるで法律用語のように、堅苦しく縛ってしまうのは、結局人間の「心」をも縛ってしまう結果になると思います。
 英語では「〜マン」という言い方はやめて、「〜パーソン」というようになっていますよね。女性もいるからということでしょう。日本語の「看護師」などと一緒です。
 笑い話ですが、それでは「スーパーマン」も「ウルトラマン」も「アンパンマン」もダメなのかということになってしまいますね。
 スチュワーデスも今はダメですが、スチュワードという言い方もあったわけで、それはそれでいいような気がするんですが。同様に保母と保父でもいいようにも思います。
 なんでも平等、非差別ということになっていくと、結局極端な共産主義国のような「言いたいことが言えない国」「きれいごとだけしか許されない国」になってしまう可能性があります。こわいですよね。
 言葉は生き物です。生き物を人間の都合で縛る、制限するということがどういうことか考えておきたいところです。
 もちろん、逆に全て自由にというわけにもいかないのは言うまでもありません。野放しではなく、自分の「飼い言葉」として、それなりのしつけをしなければなりませんね。お互いに。
 ちなみに、内田樹さんも「政治的に正しいこと」は正しいのか?でポリティカル・コレクトネスに対して鋭い指摘をしています。ぜひご一読を。

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2017.04.19

『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』 役所広司主演・成島出監督作品

Th_81aspamovyl_sl1500_ 日は山本五十六の命日でした。それにちなんで今日は2011年公開のこの映画を鑑賞いたしました。
 映画としてはまあ及第点。淡々と人間山本五十六を描いたという感じ。平成になってからの戦争映画にありがちな視点であり、また戦闘シーンのほとんどがCGということもあり、昭和の(すなわち戦争体験者たちが作った)戦争映画に比べると、どうしても軽くなってしまっていることは否めません。
 しかし、こうしてあの戦争が遠い過去の出来事になり、ある種「物語」化していくことも致し方ないところであり、また、そのような客観性、他者性をもってして発見される新事実(真事実)もあるのもたしかです。
 そういう意味では、三船敏郎版も必ず観ていただきたいと思うわけです。両方観て初めてこの映画の価値が分かるというものです。製作者は当然、前作を意識しているわけですから。
 そうした比較や補完ができるのは、歴史における「未来人」の絶対的幸福ですし、まただからこそ、そこに絶対的責任や使命も加わってくるのであります。
 大げさでなく、人類の進化とはそうした「解釈」の上に成り立っているのです。
 さて、山本五十六といえば、軍人の中でもその解釈が分かれる存在ですよね。名将か凡将か、あるいは売国奴か…。
 知識不足な私は、その判断をしかねていますし、戦争においては特によくあるように、視点の設定によって、まるっきり反対の解釈や評価をされてしまっているのかなとも思います。本当に難しい。
 この映画もなんとなくそのあたり煮え切らない感じです。親米派であり、戦争反対派であったことは確かですし、人格的にも優れていたのでしょうが、日米戦争の将としてはどうだったのか。自己の中に大きな矛盾を抱えていたわけですから、それは迷いだらけだったでしょう。
 それが歴史という記述の上において、様々な解釈を生む原因になっているのは間違いありません。きっと善良な賢人だったからこそ、ふらふらしてしまったのでしょう。だから、これからも一つの言葉で「コト」化することはできないでしょう。そういうモノなのです。
 だからこそ「物語」として魅力的だとも言えます。二・二六事件もそうです。当の本人(たとえば安藤輝三)たちが、善良で純粋な人間だからこそふらふらしている。だから評価もふらふらするし、煮え切らない。
 おそらく、記述された歴史ではない、人間の営みの重奏する本当の歴史とは、全てそういうモノなのでしょう。
 70年目の真実とは、結局そういうコトなのではないでしょうか。お釈迦様が説かれたように、世の真理(コト)はたった一つ、無常(モノ)だということです。

Amazon 聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-

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2017.04.07

「忖度」とは…

Th_o0412042413757107253 ちおう日本語を専門にしている者として一言。
 「忖度」…今年の流行語大賞でしょうかね(笑)。皆さんはこの言葉を使ったことがありましたか?
 私は時々使っていました。他の言葉と同様、いつか誰かが使っていたのを真似したんでしょうね。
 その時の私の理解、すなわち使っていた時の理解としては、「推量の同義語」でした。
 日本国語大辞典の用例を見てみましょう。

*東京新繁昌記〔1874〜76〕〈服部誠一〉初・人力車「盖し人の行く所を忖度(〈注〉ハカル)して而して何れの帰りと唱ふ者は」

*文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉二・四「他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず」

*浮雲〔1887〜89〕〈二葉亭四迷〉一・一一「文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが」

*近代絵画〔1954〜58〕〈小林秀雄〉ピカソ「ピカソの真意を忖度(ソンタク)しようとすると」

 最初の例は、まさに「推量」ですよね。別に「人の心の中」という特定はありません。そして、福沢、二葉亭、小林の例では、それぞれ「他人の心を」「文三の感情、思想を」「ピカソの真意を」という目的語がくっついている。
 そう、やはり「忖度」はもともと「推量」でしかなく、日国も含む現在の辞書的な意味「他人の心中やその考えなどを推しはかること」というのは、ちょっと行き過ぎな気がするんですね。せいぜい「(他人の心中やその考えなどを)」とカッコ書きすべきだと思います。
 では、流行語大賞になりそうな、今の世で使われている、つまり森友学園問題において使われている「忖度」はどうでしょうか。
 「自分より偉い人に気を遣って(無言のうちに)便宜を図ること」という、さらに限定的な意味に、あるいは悪い意味になってしまっていないでしょうか。
 もちろん、先ほどの日国の文例がそうであるように、実際の言葉の意味というのは、時代ともに変化し、そして往々にして限定的になっていくものですが、このたびの「忖度」に関しては、かなり行き過ぎのような気がしてなりません。
 まあ、いずれにせよ、「言挙げせぬ」「コト化しない」という「モノ」文化の日本では、相手の心中を読んだり、言葉なしに阿吽の呼吸で事を進めたり、空気を読んだり、以心伝心と言ったり、そういうモノがコトよりも重視されますよね。そんな中、「忖度」くんが新たな意味を持つようになったということでしょう。
 「忖度」くんの心中を「忖度」するに、ちょっと申し訳ないような気がしますが…。
 今回、誰が「忖度」という言葉を言い始めたんでしたっけ?責任は重大ですよ(笑)。
 それにしても、「忖度」という熟語、漢字の読みの問題としても難しいですよね。漢検準一級レベルかな。
 「忖」という字は、日本では「忖度」以外使いませんよね。「度」を「たく」と読むのはどうでしょうか。これもほとんどありません。
 ちなみに室町の辞書には「忖度 シュント 推量義也」とあります。呉音で「じゅんど」と読んでいたのでしょう。そして、意味は単に「推量」とのことです。

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2017.04.06

統合失調=統合しすぎ

Th_koyoshio1129 いぶん前に読んで面白い!これだ!と思ったのですが、今まで忘れていました。そして、なぜか今日急に思い出した。

「霊がいるなら、“大腸菌の霊”が見えないのはおかしい」苫米地英人が語る、スピリチュアルと統合失調(康芳夫対談)

 苫米地英人さんと康芳夫さんの対談。平成と昭和の怪物どうしの対談ですよね。ほかの回も面白かったのですが、この「スピリチュアルと統合失調」の話は特に興味深かった。
 そう、あっこれ、自分じゃん!と思ったのです。昨日の記事もうそうですが、私はいい年して、そして学校の先生でありながら、けっこう「トンデモ」な発言をするじゃないですか。学校でも若い頃からそれが売りみたいなのところがあって、昔の教え子たちに会うと「あっ幽霊の先生だ」とか言われる(笑)。授業中そんな話ばっかりしてたんでしょうね。
 まあ、たしかにそういう話って子どもたち大好きですしね。雑談としてはおいしいネタです。そして、これは客観的に考えればですね、ある種の「権威」になりうるんですよ。
 すなわち、「反知性主義」的な尺度をもって「知性主義」的な学校という場で優位に立つというか。もっと端的に、自己批判的に言えば、学歴や学力のなさを、そうした検証不能な物語でごまかすというか。
 ワタクシ流に言えば、「コト」ではなく「モノ」で勝負するってことなんですがね。理屈では存在しないはずの共通実感の方を重視する。
 そういうことをしているうちに、そして、それを多数の他者に受け入れてもらっているうちに、なんとなくその「モノ」の方が実体で、「コト」がフィクションのようにさえ感じるようになる。自分はそういうプロセスを経て、今のようなトンデモ人間に成長したとも言えます。
 昨日の記事における、森友学園と稀勢の里を結びつけるのなんか、まさに「統合しすぎ」のいい例でしょうね。自分でもアヤシイと思いますが、しかし、どこかそういう世界観もあるんだという、変な自信もあったりする。
 でも不思議ですよね。苫米地さんの言うとおり、それは「頭がおかしい」のだと結論づけることもできるのに、なぜか、あんまり人からはそういうふうには言われないで、逆に面白がられたりますんですよね。
 ということは、やっぱり人間の脳にはそういう非科学的なモノを受け入れるプログラムがあるのだと思います。そのように進化してきたということは、やはりそこに意味がある、宇宙生命として必要だと判断されてきたのでしょう。
 最近は「スピリチュアル」という言葉がよく使われますが、古い古い日本語ではそれを「モノ」と言ったのです。ですから、万葉集あたりで「モノ」という和語には「霊」とか「鬼」という漢字が当てられているんですよね。
 さて、自分のこれからの人生、コトとモノのバランスがどのようになっていくのか、自分でも楽しみです。
 コトを窮めてモノに至る…という私の哲学すると、コトとモノも統合されていくはずです。

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2017.04.05

報道特注(右)【辻元疑惑追及SP 後編】深い闇!

 日公開された動画。実に面白い。
 今回の森友学園問題。私も先日一方の当事者の方とお会いし、いろいろお話させていただきましたが、まあ、ある角度から見ますと、たしかにこの動画のとおりでもあります。
 「でも」と言ったのには、別の角度もいくつかあるからでして、私はそれのどちらにも偏らない、というか、その当事者の方にもお話しましたが、稀勢の里の大阪場所奇跡の優勝とも絡めてこの問題を捉えるほどの「トンデモ」なので、まあニュースやワイドショー的な「事実(ファクト)」はどうでもいいのでした。
 そう、誰も言いませんが、稀勢の里の奇跡の逆転優勝、あの瞬間、ああこの問題は終わったなと思ったのですよ。
 相撲は地鎮の神事です。ああして、大阪場所で「日本人の」横綱が一厘の仕組さながらの奇跡の大逆転を成し遂げたことの、歴史的、神話的意味を捉えねばなりません(すみません、トンデモで)。
 三月場所ということで言えば、あの平成23年(2011年)のことを思い出さねばなりませんね。あの時こちらに書いたとおり、地鎮の神事(具体的には横綱の四股踏み)が行われなかったがために、あの大震災が起きてしまいました(すみません、トンデモで…笑)。
 いや、そういう視点というのも大切なのですよ。今回の問題の土地は、それこそ「地歴」の複雑に積み重なった土地です。ある種の荒魂が表面化し、それを横綱稀勢の里が踏み固めたというストーリーも、それはそれで面白くないですか?
 奇しくも、横綱は「見えない力を感じた」と言いました。「見えない力」ということを、たとえば政治家や私のような教育者が口にすると、やれスピリチュアルだ、やれトンデモだ、非科学的打などと言われてしまいますが、真のマツリゴトを行う神人とる横綱がそういうことを言っても誰も責めないどころか、共感や感動を呼び、いい意味でニュースのタイトルになる。面白いですね。
 私は、教育者である以前に人間ですし、日本人ですので、そういう「見えない力」すなわち「モノ」を大切にしたいと思っているのです。
 今回の森友問題は「モノ」世界での出来事が、現実界、特に法律や文書などの「コト」世界に噴出してしまったものなので、まあ、皆さんいろいろはっきり言えませんよね(笑)。はっきり言うとしたら、籠池さんのように大嘘つきにならざるを得ません。
 そういう意味では、総理もあまりにもはっきりと「言挙げ」してしまったという落ち度があったのです。日本は「言挙げせぬ国」なんですよね。私もこれ以上語るのはやめます。

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