カテゴリー「モノ・コト論」の847件の記事

2017.01.26

加瀬英明×馬渕睦夫『日本らしい国づくり』〜 日本の神道と世界の宗教

 12月の生放送の時、大変感銘を受けましたこの番組が配信されまして、皆さんと共有できるようになりました。
 私たちがほとんど無意識のうちに一体化している「かんながらのみち」を、このように分かりやすく解説してくださることは、大変貴重なことです。
 個人的には、ワタクシの「モノ・コト論」を通じて一連の話を聴くのも面白かった。すなわち「コト」という論理、分析、言語よりも、「モノ」という不随意、自然、調和を上位に置いているのが、日本の神道であり、その象徴が天皇の存在であるわけです。
 では、なぜ神様を「みこと」というのかというと、これは仏教とも関係してきます。「みこと」とは「美こと」あるいは「御こと」であって、本体はあくまで「こと」。いわば絶対的な真実です。
 世の中には絶対的な真実は一つしかない、と悟ったのはお釈迦様です。では、その真実は何かというと、「絶対的なものはない」ということです。すなわち、「こと」という日本語はもともと絶対(孤立系)を表し、「もの」は相対(複雑系)を表した。
 で、日本の「神」というのは、もともと「モノ」であったわけですね。それがたとえば、「物の怪」とか「物悲しい」とか「〜もん」という語尾を伴う表現につながったりしています。つまり、「なんとなく」「何か」というような、不随意な他者性ですね。そうした自己を超えたところにある存在のことを「モノ」と言ったわけです。
 そうした「モノ」に対する敬意、畏怖というのが、日本の自然信仰の基本です。ちょうど、この番組でも紹介されている南洋の「マナ」とも通じますね。もちろん、言語的にも「モノ」と「マナ」は同源だと推測されます。
 そうした、他者性というか、自己の補集合全体に自分が生かされているということだけは、絶対的な真理であるわけで、それが、お釈迦様のいう「絶対的なコトはない」という悟りとも同じであるということです。
 この番組でも語られているように、一神教では、その「コト」を特定の「個」に設定してしまったため、対立や矛盾が生じてきたのでしょう。
 そんなわけで、私たちのこうした「無意識」の強靭さ、深さですね、そう、いつも書いているように、無意識や忘却が最強なんですよ。大切な「モノ」は「コトあげ」せずに、無意識の古層に保存してしまう。これが日本の「国譲り」の作法です。「コトあげ」しないというのは、解釈しないということです。他者そのモノをそのまま伝えていく、いや伝えていくという意識化さえもいらない。これが最強日本です。
 もちろん、そうした無意識保存にも時代的な危機があったりしますから、その時は伏流水が湧き出すように意識化される。今は、ちょっとそういう時期のようです。天皇陛下の譲位問題もそのうちの一つでしょう。
 加瀬さんと馬渕さんにも、そういう意識化のお役目がおありのようですね。一度ゆっくりお話してみたいところです。

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2017.01.06

キャラメルマシーン(お笑いマジック)

 えと、これまた昨日の続きですね。言うまでもなく、お笑いというのは「普通」ではだめで、いわば「異常」「異能」「障害」「犯罪」をギリギリのところでプラスに転ずる、人間ならではの非常に高度な文化です。
 だから、私は学校で「コント部(仮)」を勝手に作って、一般の教育現場ではもしかすると「いじめ」や「差別」の対象になりかねないギリギリの個性をプラスに転ずるよう尽力しております(なんて言うとカッコイイけど、実際は自分も含めて「変」を楽しんでいるだけ)。
 そんなわけで、この年末年始もたくさんお笑い番組を観ましたが、やっぱり先程書いたギリギリの線でしたよ。特にそれを痛感したのは、BS朝日の「お笑い演芸館 年越し10時間スペシャル!総勢60組が漫才・コントで大爆笑の初笑い」でしたね。
 「お笑い演芸館」は地上波とは違い、しっかり時間をとってネタを見せてくれるので、とても勉強になりますし、芸人さんの実力も見えてしまう。
 今回は総集編的な構成でしたので、いろいろ「笑い」という文化を総括しながら、ゆっくり観させていただきました。
 繰り返しになりますが、どの芸人さんも、「異常」「異能」「障害」「犯罪」をギリギリのところで笑いに転換してくれていました。
 プロレスなんかもそうですが、そうした「異能」「異形」的な「モノ」を見せる、すなわち「見世物」というのが、この現実社会には絶対に必要です。もちろん、そこにはヤクザさんも関わってきますね。大多数の「普通」「正常」の側のためのアジール。
 今回のこの特番、とにかく10時間もあったので、その中のどれを紹介するか非常に迷いましたが、思い切って意外なところで、お笑いマジックの「キャラメルマシーン」さんを紹介しましょう。
 マジックという非現実、そしてフィクションの中に、「モノ」的な笑いが重なり、独特の世界を作り上げていて、私はけっこうハマってしまいましたね。
 マジックというのは、ある意味では予定調和に陥りがちです。そこに不調和な(異常な)お笑い要素が入ってくる。その違和感というか、妙なバランスいうか、快感というか、そんな魅力がありますね。
 他にもお笑いマジックの方々は大勢いますが、その不調和さという意味でキャラメルマシーンは絶妙だと思います。では、どうぞお楽しみ下さい。


 

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2016.10.31

「しまった」と「しめた」

 日の続きとなります。
 昨日お会いした山川宗玄老師が引用された昭和の名僧梶浦逸外老師のもう一つのお言葉が「悪いことが起きたらしめたと思え」です。これも簡単に言うと「ピンチはチャンス」ですね。
 これについては、以前私もこちらに『「しまった」と思いそうになったら「しめた」に言い換える』と言い換えて少し書かせていただきました。
 今日は日本語の面から、そのことについて少し書き加えたいと思います。
 私が「しまった→しめた」ということを説明する時、比喩的には「ドアが閉まった」ではなく「ドアを閉めた」ということをイメージします。
 自分の意思で「閉めた」のだというふうに変換するということですね。
 もちろん語源的には両者は全く違う血筋の言葉です。「しまった」は「仕舞った」ですし、「しめた」は「占めた」です。
 つまり、「仕舞った」は「〜してしまった」という完了の意味であり、もう少しつっこんで言うと、「自分の意思に反して物事が進行した」というニュアンスになります。
 一方の「占めた」は、その字のとおり、その場を占領したという意味で、「自分の意思の通りに物事が進行した」というニュアンスになります。
 つまり、「閉まった」と「閉めた」と同様に、自分の意思かどうかという次元において、意味が対照的になっているわけですね。
 もう少し正確に言うと、「しまった→しめた」は、受動的なモノを能動的なコトに変換するとでも言いましょうか。モノは不随意、コトは随意を表わす言葉ですから、そういうことになりますね。
 いずれにせよ、私たちの捉え方一つで、現象は全く反対の意味を持つようになるわけで、それは非常に禅的な哲学であるとも言えますし、日本的な発想の作法であるとも言えます。
 その変換をするのとしないのとでは、結果がまるっきり逆になるのは事実ですから、やはり、その作法を、ある意味技術として持っていることは大切なことではないかと思います。
 昨日の山川老師のインタビューの中でも「しか」が「も」に変わった瞬間のお話がありましたね。よく言われることでもありますが、コップの中の飲み物でも、あるいは時間でも、「あと〜しか残っていない」と捉えるか、「あと〜も残っている」と捉えるかでずいぶん世界は違って見えてきますね。
 こういう働きを「ことたま」と言うのでしょう。
 逸外老師の葬儀にあたり、笹川良一さんが友人代表の弔辞を述べました。川上哲治さん、星野仙一さん、笹川さん、そして我が校の創設者との交友など、ジャンルを超えた器の大きい名僧でありました。

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2016.10.26

『古事記 完全講義』 竹田恒泰 (学研)

Th_710lntfaszl 縁があって、今日から富士河口湖町にて古事記講座の講師を務めることとなりました(毎週水曜日夜、全5回)。
 第1回は無事終了。いかにもワタクシらしい脱線しまくりの1時間でしたが、まあ楽しんでいただけたかかとは思います。
 せっかくですので、普通の本には書いてない内容を話そうと思いまして、特にここ富士山と古事記の関係(意識的に富士山が書かれていない)、宮下文書のこと、得意の「モノ・コト論」からの解釈などをベラベラと話しました。
 これからも独自の「国譲り理論」など、かなりユニークな内容にしていくつもりです。
 さてさて、それで「普通の本」と言いますか、普通の古事記の勉強をしたい方のための参考書として、限定2冊を紹介いたしました。
 まず、一昨年このブログでも紹介した『オールカラーでわかりやすい! 古事記・日本書記』。これは本当にいいですよ。
 そして、この本。明治天皇の玄孫でいらっしゃる竹田恒泰さんの講義録。
 もちろん私の講義とは全然レベルや内容が違うわけですが、しかし、面白さ(笑い)の面では、もしかしてドッコイドッコイ?(笑)。いや、そちらでも負けてるのかもしれませんね。
 まあ実に痛快な講義となっています。テレビやネット番組で観る竹田さんそのままという感じ。
 ちなみに、こちらに書いたごとく、竹田さんと一度飲む機会がありましたが、本当に物腰柔らかでお上品な方でしたよ。知られているキャラとは大違い。さすがロイヤルな血が流れている。
 というわけで、ロイヤルからはかけ離れたワタクシの古事記「不完全講義」は、はたしてどちらの方向にぶっ飛んでいってしまうのか、自分でもちょっと楽しみです。

Amazon 古事記完全講義

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2016.10.13

ロバート秋山×のんある気分 【Making of the TV commercial】

Th__20161014_132238 日の続きですよ。能の天才、世阿弥と観世寿夫。この二人と肩を並べる「ものまね」師。すなわち現代の「モノ(他者)を招く」達人の一人。ロバートの秋山竜次です。
 冗談抜きで、彼は天才ですね。彼の天才性を意識させてくれたのは、ウチの姉です。演劇をいちおうプロとしてやっていた姉ですので、舞台の「俳優(わざおぎ)」に対する評価はかなり厳しい。そんな姉が、最近追っかけいる芸人さんが秋山です。
 つい最近には、とうとう「Yoko Fuchigami」とツーショット撮って送ってきました(笑)。まあそのくらいハマっているのです。
 で、私も影響を受けて、またコント部の顧問として、ロバートの動画などをよく観るようになりました。また、ご多分にもれず「クリエイーターズ・ファイル」を一通り観てみたりしました。
 うん、やっぱり、これは「モノマネ(物招)」ですね。完全に憑依されている。いや、させている。それも物理的には実在の人物ではないが、しかし我々の意識の中には確実に実在している、そう、あえて言えば、西洋的リアリズムではなく東洋的なリアリズムの中に実在している人物を。
 だから、具体的な誰かをリサーチしたり、職業を研究したりはしない。雰囲気。ニセの現実の方がリアルだったりするのはよくあることです。記憶がだいたいそうですよね。
 そういう意味で、他の天才たちもそうなんですけど、幼少期の記憶、特に遊びの記憶が、のちの偉業につながることが多い。秋山もそうなんでしょう。
 面白いですね。そして、その憑依的アドリブに一般人が巻き込まれることによって生じる「?」的な時差や心理的距離が、その架空の実在人物のカリスマ性を顕す結果となっている。前代未聞のすごい芸ですよ。
 考えてみると、ロバート自体が、秋山と他の二人のある種の「隔絶」が笑いの根幹になっていますよね。もう少しはっきり言うと、秋山と馬場の格差を山本が上手に解説するというか。ネタとしては、秋山と馬場が変な人で、一般人の山本がそこに巻き込まれているように見えますが、実際はそうじゃないんですよ。
 というわけで、実在と非実在の混濁という意味で面白かったのが、このサントリーとのコラボですね。これは実に新しい表現の世界ですよ。しまいには現実の自分まで巻き込んでしまう(笑)。
 これは、コントでもない、CMでもない、ハプニング(市街劇)でもない。なんなんだろう。
 なるほど、こういう現実と非現実の混濁という意味では、寺山修司に影響を受けた姉が、この秋山に惚れるのも分かる気がしてきますね。
 いや、もしかして、現代の世阿弥なのか?!

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2016.08.24

石丸幹二&つのだたかし 『武満徹のうた』

Th_51abudd4fl_sx355_ 日の都留音楽祭でお世話になった、つのだたかさんから直接購入させていただきました。
 これは素晴らしいアルバムですね。ぐっと来ました。
 このアルバムの話になったのは、実は、つのださんに美空ひばりの「さくらの唄」を、リュート・ソングとして歌いたいと、カミさんと一緒に頼んだのきっかけでした。
 日本にもこんなに素晴らしい歌曲があるということを、西洋古楽を専門としている歌手の皆さんに知ってもらいたいというのが趣旨でした。
 すると、「ちょうどこういうのを出したところだった」とのことで、このアルバムをすすめてくれたのです。なるほど、武満徹という、素晴らしい歌曲の作曲家がいたか!たしかに。
 やはり、これは「日本のリュート・ソング」というコンセプトだそうです。そうですよね。歌詞も谷川俊太郎や荒木一郎、そして武満自身ですから。日本語を大切にしつつ、最も美しいメロディーを追い求めた武満。
 そう、今日ちょうど、「昭和の偉人」シリーズの三木たかしと宮川泰の回を観たんです。彼らの、天才的かつ職人的な仕事ぶりに家族で感激いたしました。
 なるほど、武満も同時期の作曲家ですよね。まあ、昭和のメロディー・メーカーたちはすごかった。彼らがほとんど全ての可能性を発掘してまったのでしょうか、平成になったからのメロディーはなんとなく貧弱な印象があります。
 詩、曲、歌、演奏、それぞれ分業するのが、もしかすると音楽の本来の姿なのかもしれませんね。今や、ボーカロイドまで登場し、シロウトでもその全てを担当することができるようになってしまいました。
 まさに音楽の大衆化。大衆化によって、その質は残念ながら低下してしまったと言えるでしょう。
 このアルバムは、言うまでもなく、それぞれの分野の職人芸が見事に融合された作品です。
 編曲は、つのださん自身と、息子さんでジャズ・ベーシストとして大活躍の角田隆太さん。隆太さんは、演奏でも1曲参加しています。
 今日観た「宮川泰」でも、宮川彬良さんが父についていろいろ語っていましたけれど、つのだ親子も見事その才能を受け継いでいるようですね。ま、角田家自体、もともととんでもない才能の家系ですからね(つのだたかしさんのお兄さんにはつのだじろうさんが、弟にはつのだ☆ひろさんがいらっしゃいます!)。
 おっと、肝心の石丸幹二さんについて書くのを忘れていた(笑)。
 いやあ、石丸幹二さん、本当にお上手ですね。今や俳優として有名になってしまった感さえありますが、もともとは劇団四季の重鎮ですからね。歌と演技、両方達者なのは当たり前といえば当たり前です。
 いや、その歌手と役者という二つの仕事の世界が、実に有機的につながっている感じがしますね。考えてみれば、歌手も俳優も、何かを憑依させてナンボという意味では、モノ(他者)を招く「ものまね」ということになりますよね。
 まあ、作曲家や演奏家もそうでしょう、本来は。武満さんにせよ、三木さんにせよ、宮川さんにせよ、つのださん親子にせよ、下ろしてきているに違いありません。
 さて、日本の「歌曲」といえば、今ちょっと研究中の仲小路彰もまた、多くの歌曲を作詩作曲した人物でした。ほとんどそれは知られていませんが、おそらく数百曲の作品を残しているのではないでしょうか。
 彼が山中湖に疎開していた時、名ソプラノ歌手三浦環、そして名ピアニスト原智恵子が、彼の曲を演奏して楽しんでいたという記録が残っています。
 また、村人たちとオペラなどを演奏したという言い伝えも残っているのです。その時には、彼自身も歌ったとも聞きました。
 今まで、いわゆる「日本の歌曲」にはそれほど詳しくありませんでしたが、この世界もなかなか広く深いものがありそうで、俄然興味が湧いてきました。
 仲小路彰や、いわゆる歌謡曲も含めまして、つのださんらの協力を得て、「新しい日本の歌曲」として復活させ、世界に発信することができればと思います。

Amazon 武満徹のうた

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2016.08.05

『大怪獣モノ』 河崎実監督作品

 ン・ゴジラがブームを巻き起こす中、あえてこのB級映画を観るために2時間かけて小田原に行ってきました(ちなみに監督自身「シン・ゴジラに便乗した」と公言しております)。
 同行したのはB級映画監督を目指す中二(中二病)の次女。そんな娘も大満足すぎる素晴らしい作品でした!
 いやはや、ホント、我が家のための作品のようでしたよ(笑)。そういう意味でも予想以上。
 なにしろ、娘は7年前のキャンプ場プロレスで、主演の飯伏幸太くんと一緒に焼きそば食べた仲ですし、6年前にはこんなふうに準主演の鈴木みのるちゃんに「来いよ」と言われたこともありますからね、まあその二人が出ているというだけでも、我が家としては観なければならない作品なのであります。
 さらに驚いたのは、映画が始まってすぐに「モノノケ」「艮」「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」「鬼(モノ)」などなど、このブログではおなじみのワードというか、今朝も家族でそれらについて語り合っていたばかりです(どんな家族じゃw)。
 ご存知のとおり、私は出口王仁三郎の研究家ですし、「モノ・コト論」をライフワークにしておりますので。
 ついでに言えば、冒頭モノが現れたところで、プラカードを持って怪獣保護(自然保護?)を訴える左翼的な集団が、いとも簡単にモノに食われてしまい、自衛隊員?が「大変だ!だけど、なんかすっきりした…」というあたりも、ちょっと我が家(特にカミさん)っぽい(笑)。
 そして、父親たるワタクシ個人のことを言いますと…河崎実監督ファン歴30年なんですよ。こちらにちょっと書いた「地球防衛少女イコちゃん」のビデオ持ってます(笑)。
 まあ、そんなこんなで、この映画は我が家のために河崎さんが作ってくれたと勝手に思っています(笑)。それにしても、くだらなすぎて素晴らしい。オチも河崎監督らしいし。なるほどマムシ(アラシ・フルハシ)最強ってことですよね。
 途中超マニアックな映画ネタもあったり、日本特撮界への自虐ネタがあったり、また日本の防衛に対する揶揄があったりと、政治色が強いと言われるシン・ゴジラなんかよりずっと高度な文化、教養が必要な作品であったとも言えます。
 プロレス関係者はだいたい分かったんですけど、実は私もこの人誰?何の人?という友情出演者がけっこういました。まだまだ勉強不足ですね。
 意外だったのは、思ったより飯伏選手が棒読みではなかったことかな。勝手に完全なる棒読みを期待しちゃっていた。そういう意味では謎のシャワーシーンも、勝手に妄想していたほどではなかったかも(笑)。
 家に帰ってきたら、カミさんが「私も観たい!」と叫んでいるので、たぶんもう一回家族で観に行くと思います。
 ちなみに、今回最もシュールだったのは…150人収容の映画館で、観客は私たち親子を含めて4人。うち一人、私の斜め前でポップコーンを抱えていたおっちゃんは、ほぼ最初から最後までイビキをかいて寝ていました。その空気がなんとも。そこまで含めて見事なB級作品でした。やっぱり映画は映画館で観るべきだと思いましたよ(笑)。
 ぜひ皆さんも劇場へGO!あっ、そうそう、ワタクシ的なツボは音楽、特にあのロッキーのテーマのパロディでしたな(笑)。

大怪獣モノ公式

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2016.08.04

『日本人の99%が知らない戦後洗脳史』 苫米地英人 (コグニティブリサーチラボ株式会社)

Th_51xyfgtzzyl_2 Amazonの読み放題サービスが始まりましたね。さっそく登録して読んだ、記念すべき第一冊目がこの本。
 まずはAmazonの Kindle Unlimited について。これは本当に画期的なサービスですね。特に私のような田舎者にはたまらない。我が家に和書12万冊の蔵書を誇る図書館ができたようなものです。
 また、雑読派の私にとっても実に魅力的。けっこう新しい雑誌もあったりで、情報源がここのところのネットから、再び書籍回帰するような予感がします。これはいいことです。
 そう、私の研究対象である出口王仁三郎や仲小路彰の、あの膨大な情報量、現代のネットのそれを軽く凌駕してしまう情報のソースは、ほとんどが印刷物なんですよね。雑誌を含む本と新聞。私もそこに回帰しようと思っていた矢先のこのサービス開始。今後の自分の変化が楽しみです。
 たとえばこの本に書かれている情報は、インターネットの中にはなかなかまとまった形では出てきません。やはり書籍の形(もちろん印刷物ではないいう意味では抽象的な情報なんですが)で、つまり、苫米地さんの天才的な脳ミソでまとめあげてくれた形で享受できるのは、私たちネット市民にとっては非常にありがたいことです。
 これで月980円なら安いものです。いよいよ街の本屋さんは厳しくなってしまいますね。音楽の分野では、たとえば私も利用しているGoogle Play Musicやamazonミュージックのようなサービスによって、もうすでに物質から解き放たれた抽象的世界に変化しています。
 もともと、言語も音楽も情報であり、私の「モノ・コト論」で言うと「コト」にあたりますから、逆に今まで物質(紙やプラスチック)に依存していたあり方の方が異常だったわけです。
 私たちには物質の所有欲があり、そしてそれが貨幣経済を生む原因になっていたわけですから、いよいよそこから解脱する時代を迎えたとも言えます。実際、経済においても、金から貨幣、紙幣、そして電子マネーへとコト化が進んでいますしね。
 というわけで、前置きが長くなってしまいましたが、この本の内容も、ある意味ではそこに関連しているわけです。アメリカや日本の一部の権益者が、物質所有の欲望のために、私たち日本市民をうまくだましてきたし、今もしていると。
 まったくそのとおりだと思います。しかし、前述のように、彼ら(それをユダヤだという人もいます)が自らの欲望を究極化した結果、面白いことに、私たち市民の意識の次元が上昇してまった、すなわちインターネットとグローバル経済網によって、世界同時に市民意識の抽象化(次元上昇)を成し遂げてしまったということにも注目すべきだと思います。
 私の「国譲り理論」によれば、このような被洗脳状態というのは、無意識という他者性の高いモノによって、人間や国や地球が進化していくための一つの作法である、あるいは神の経綸であると考えられます。
 ですから、変わり者の私は、この本を読んでなるほどとは思えども、一方であまり危機感は抱かないのであります。あくまで変わり者の私の個人的な感想ですがね(笑)。
 ただ、こういう事実、歴史の真実や、表面上のストーリーや文脈を知った上で、なおかつ他者まかせにするということは、意識の上に無意識を置くことにほかならず、お釈迦様の教えにも違わない良いことだと思うのです。
 いわゆる保守派の人々は、こういう事実を知ったことによって怒りさえおぼえて、自我を更に強く意識するようになります。逆にリベラルな方々は、こういう事実を知らず、あるいは知ろうともせず、ただお子ちゃまレベル(すなわち自分レベル)の理想を語って満足してしまいます。
 それではいかんのですね。私はそういう第三の心のあり方を、それこそ王仁三郎や仲小路から学んでいるのです。

Amazon 日本人の99%が知らない戦後洗脳史

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2016.07.29

飯伏幸太 vs ヨシヒコ…そして「大怪獣モノ」

 日は丸一日研修に参加いたしました。いつのまにか私も歳をとりまして、研修と言えば指導する立場、話をする立場になってしまいました。こんな人間、教師が偉そうなこと言っていいのでしょうか(笑)。
 まあ、ダメ教師でもなんだかんだ人のためにあることもあると思えば、これはこれで少しは人のためになっているのかなと。
 そして、帰宅するとすぐに近所の老人福祉施設を夫婦で訪問。歌とヴァイオリンで懐かしい歌謡曲、唱歌などを披露してきました。こちらもなっちゃってではありますが、大変喜んでいただいて、こちらとしても満足、感謝であります。
 というわけで、今日などはほとんど初対面の方々や、不特定多数の方々の前で何かをパフォーマンスするという機会が重なったのですが、こういう時、常に意識しているのは、「自分はプロレスラーである」ということです(笑)。
 いや、冗談ではなく、ある程度の型と臨機応変なアドリブ、その「場(空気)」を作ること、相手を活かすこと、いろいろとプロレスから学ぶことが多いのです。
 特に今朝、尊敬するレスラーの一人である飯伏幸太がWWE入りするのか?いや「できない(by 高木三四郎)」みたいな、実にワクワクするニュースに触れていたので、人知れず気分は飯伏幸太だったワタクシ。
 おかげで楽しく乗り切ることができましたよ。ホント、私の人生のほとんどはプロレスでできている。
 そんなわけで、今日はワタクシ的な飯伏幸太ベストバウトを紹介します。プロレスファンならご存知の一戦。相手が人形であろうと、これだけ長時間、濃密でハイレベルな戦いができる。そして、お客様を大満足させられる。とんでもない天才ですよ、飯伏は。こりゃ天下のWWEでも使い切れない人材でしょう。
 もう、地球上には彼と対等に戦える相手はいないのでは…と思ったら、最近こんな映画が公開されたんですよね。これゼッタイ観たい!「大怪獣モノ」…「モノ・コト論」的にも興味深いですな。

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2016.07.27

聖戦と言葉

Th_2016072700000010asahi0003view 模原の事件、本当に胸が痛みます。お亡くなりになった方々とそのご家族に心よりお悔やみ申し上げます。辛いですね。
 ここのところ欧米で自爆テロなどの無差別殺人事件が多発しておりました。それも対岸の火事ではないなと思っておりましたところ、全くその背景は違うとは言え、日本でもこうした恐るべき事件が発生してしまったこと、本当に残念であり、また驚きとともに震撼しないではいられません。
 全くその背景は違うと、先ほど書いたばかりですが、あえて今日はそれらのつなぐことのできる次元で考えてみたいと思います。
 このたびの事件の犯人の名前が「聖」だというのは、なんとも皮肉でありますが、ある意味、彼の動機、また行為は「聖戦」の理論と重なる部分があると感じます。
 もちろん私は、いかなる「聖戦」も「戦」であるかぎり、その悲劇に道義的な意味を見出す者ではありません。歴史的な文脈はありえますが、やはり人道的にあってはならないものであると捉えます。
 「戦」に「聖」をつけることによって、まるで人道の上にあるサムシング・グレートの意志を我々人間が引き受けて行為するような理論は、とても受け入れられません。
 それは、たとえばこの日本の近過去における「皇戦」…これは仲小路彰も使った言葉ですが…も、理解はできますが、納得、全面肯定はできません。
 そういうスタンスであることを確認した上で、あえて申すなら、相模原の事件の犯人も、自らの「聖戦」の理論の中で「正しい」行いをしたと考えていると思われます。
 彼の理屈をここで言葉にするのも憚られるで、それは割愛しますが、もしマスコミの報道、あるいは衆議院議長に寄せた手紙の内容が彼の真意だとするならば、これはやはり「聖戦」の理論、いや理論なんていう筋の通ったものではなく、いわば「方便」、もっと本質的に言ってしまえば「言い訳」のようなものに則っているなと感じるのです。
 しかし、それを私たちは「信じられない」「自分には関係がない」とは言い切れない。私たちにもそういう「言い訳」は常に存在しています。
 たとえば、害虫は殺虫剤で駆除しても許されると思っていますね。今回の事件とそれを重ねることを不謹慎と言う方もいらっしゃるでしょう。しかし、現実に、次元は違えども発想の根本は同じなのです。そこを直視する必要があります。
 そうした思考と行動の元となる言語が、人間社会における一般性を持っているか否かで、その行為に対する人道的(それは法的でもある)評価はすっかり変わってしまいます。
 そうした人間と言語の関係性の中にある、使用者としての「恣意性」に留意するべきだと思うのです。私たちはあまりに身勝手なのです。
 ISの主張は、理屈としては理解できます。彼らの信じる世界の言語の中では、十分に理論的であり正しいものです。
 しかし、恐ろしいのは、そうした言語、言葉というもの自体が、もともと抽象(四捨五入)という機能を持っていることです。別の言い方をすれば、この混沌とした世界に、それぞれの言語において勝手に境界線を引くということです。
 その境界線を引くという機能が、結局その使用者を排他的にしたり、あるいはその境界線の内側の領域でしか思考できない「井の中の蛙」を生み出す可能性があるわけですね。
 そういう言葉の牢獄に入った人々には、外界の声は届きませんし、届いたとしても理解できません。
 今回の事件でも、犯人は自らの直感を言語化する中で、彼なりの「聖戦」を構想するようになったのでしょう。
 世界で起きているテロや、異常としか思えない凶悪犯罪の背後に、そうした言語の持つ閉鎖性、自己凝集性があることに気づかねばなりません。
 では、そこから抜け出すには、あるいは抜け出させるにはどうしたよいのか。これは難しい問題です。ブラックホールから脱出するのと同じくらい難しいのかもしれません。
 私はオウムの事件を身近で目の当たりにしてから、そのことを強く感じ、考えるようになりました。
 言葉によるある種の洗脳を解くには、言葉もってするしかないのか。だとしたら、事が起こる前にどのようそれを実現するればよいのか(事後では時間をかけてそれを実現することは可能です)。
 コンピュータのように簡単に言語(記憶)をリセットするわけにもいきません。手にしてしまった諸刃の剣を、いかに使いこなすか。教育の現場にいる者としても大変悩むところであります。
 以前もどこかで書いたとおり、カネ(貨幣)とコトバ(言語)は「コト」の代表格です。人間が脳ミソで発明した情報にすぎないはずの両者が、結局人間を、この世界を支配してしまい、私たちはいつの間にか、その中で、その下で思考、行動するようになっている。
 今、様々な「聖戦」に対面し、私たちは「コト」をどのように超越してゆくのか、「モノ(自然)」の持つ多様性、生命力に回帰するのか。

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