カテゴリー「モノ・コト論」の1000件の記事

2021.01.16

『江戸の妖怪革命』 香川雅信 (角川ソフィア文庫)

Th_51uuenykcdl_sx353_bo1204203200_ あ、昨日「特攻」と書いた共通テストが始まりました。ウチの次女はしっかり玉砕して帰ってきました(苦笑)。

 センター試験時代はよく問題評(批判)をやっていましたが、直接の現場を離れてしまった今、そこまでの根性がありません。ただ、いちおう全部は解いてみました。

 記述式が採用されなかった点も含めて、基本的な構造はセンター試験、いやその前の共通一次試験と何ら変りはありませんが、設問にはそれらしく今風なものも散見されました。

 文章として興味深かった(すなわち高校生も取り組みやすかった)のは、第1問評論の香川雅信さんの「江戸の妖怪革命」の序章でしょう。こちらでぜひお読みください。

 ワタクシの「モノ・コト論」とは少し違う解釈ですが、共通している部分も多かった。

 近世中期から妖怪のフィクション化(キャラクター化)が始まり、実は近代になって再び中世的なリアリズムを取り戻したというのは、よく分かります。

 近代は心霊の時代、現代はスピリチュアルの時代ですからね。私もどっぷりそこに浸かっている。そして、その中心には「私」がいるというのが面白い。

 この本の全編を読んだわけではありませんから、細かいことは分かりませんが、おそらく現代日本の妖怪ウォッチやポケモン、そして鬼滅の刃につながっているような論考になっているのではないかと推測されます。

 私は独自の「モノ・コト論」から、「もののけ」のモノ(無意識・不随意・他者)と「ことば」のコト(意識・随意・自己)を対比させて、妖怪の変遷を捉えており、もののけがいくらキャラ化して(名付けられ、デザインされ、図鑑化されて)愛すべきコトになっても、膨大無限なモノ世界からどんどん「わからないモノ」は供給されて、言葉にはならない「モノ」の気配たる「もののけ」がなくなることはないと考えています。

 新型コロナウイルスもそういう「もののけ」の一つとして健在であり、こうして共通テストという型にはまったコト世界を見事に揺さぶっているのでした。

 そして、香川さんの言うように、そんな「もののけ」を退治することができず、対峙するしかない私たちもまた、「私」に潜む新たな、しかし実は昔からずっと同居している「妖怪」と対峙せざるをえなくなっているわけです。

 さあ、いつになったら、私たちは新型コロナを因果理解の中でコントロールすることができるようになるのでしょうか。しばらく妖怪の跳梁跋扈は続きそうな予感がします。

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2021.01.04

『ゴジラ』 本多猪四郎監督作品

Th_81bi3hduc8l_sx300_ 知のウイルスのおかげで、世の中が大変なことになっております。

 平和ボケした現代日本人にとっては、久しぶりの「モノ」体験です。もちろん10年前の大地震や大津波、そして原発事故もそういう体験ではありましたが、こうして外国から侵攻されるのは本当に久しぶりのことです。

 世の中では「鬼滅の刃」が大ヒットしていますね。あれも「モノ」と戦うお話です。そして「モノ(鬼)」の方にもいろいろ事情があって、そこへの共感も含めて、非常に日本的な、すなわち勧善懲悪では片付けられないモノガタリとなっています。

 そういうモノガタリで思い出されるのが「ゴジラ」です。それも初代。思うところあって、ウン十年ぶりに見直しみました。

 驚くべきは、この映画が戦後9年で製作されているということです。

 米ソ冷戦下の水爆実験がもたらしたゴジラの日本上陸。あっという間に東京は元の焼け野原に戻ってしまいます。

 唯一の被爆国、そして敗戦国、事実上のアメリカの属国としての日本において、このような寓話によって戦争批判、核兵器批判、大国批判、科学批判が行われたことに、今さらながら感銘を受けます。

 日本のモノガタリでは、善と悪、加害者と被害者、強者と弱者が判然としないことが多い。あえてそうしていることが多いわけですが、このゴジラもその点、非常に複雑な様相を呈していますね。

 それは先の大戦や、現在のコロナ騒動にも重ね合わせることが可能です。当事者にとっては明らかな「敵」であっても、歴史になるとそう単純な構造で説明つかなくなります。それが、のちの騒動を生む原因にもなるわけですが。

 そうした複雑な利害関係の中に、ヒューマニズムを織り込むところが、日本的モノガタリの良いところであり、また一方で、ある種の美徳主義や根性主義、犠牲賛美主義につながっていることも確かです。

 この「ゴジラ」にあっても、芹沢博士の決断はゴジラの運命とともに一つの哀話として私たちの心を打つものになっています。

 平和と戦争、科学と自然、経済と道徳…あらゆる矛盾が、個人の哀話に回収されてしまい、またそれを「散華の美学」のように受け止めてしまう日本人の心性は、それ自体実は非常な弱点でもあると感じます。

Th_250pxgojira_1954_japanese_poster その点、仲小路彰は、そうしたお涙頂戴的なものではなく、もっと未来的な明るい解決策を提示してくれています。

 水爆についても仲小路は、もちろんその破壊的、悪魔的な力を忌避しつつ、その反面にある「太陽のエネルギー」「融合のエネルギー」といったプラスの側面についても多く語ってくれています。

 芹沢博士の苦悩は、おそらくその当時の多くの科学者の苦悩そのものだったのでしょう。その時代に、仲小路が湯川秀樹をはじめとする多くの科学者に送ったメッセージは、きっと彼らを勇気づけたことでしょう。

 さて、映画「ゴジラ」 の話に戻りますが、あらゆる面で、その後のゴジラシリーズ(最近で言えばシン・ゴジラも含む)には到達しえない次元での名作ですね。

 私のように、少年時代単なる怪獣対決ものとして楽しんでいた世代が、こうして大人になってそのルーツをたどり、最も大切なことに気づかされるわけですから、もちろんその後のシリーズにも大きな価値はあると思いますが。

 やはり、何事も「初代」がすごいのですね。それはそうです。無から有を生んだのですから。

 本多猪四郎はもちろん、円谷英二、伊福部昭の仕事ぶりも素晴らしい。宝田明、平田昭彦、そして志村喬ら俳優陣の、内面を表現する演技も見ものです。

Amazon ゴジラ

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2020.12.27

『生き方は星空が教えてくれる』 木内鶴彦 (サンマーク文庫)

Th_51gmb48t47l_sx349_bo1204203200_ 日の「グレート・コンジャンクション」を園児たちに観せていた時に、ふと思い出したのが木内鶴彦さんのことでした。

 コメット・ハンターとして、臨死体験者として、自然環境活動家として有名な木内さんのこの本は、まさに「今」、皆さんに読んでいただきたいメッセージ満載です。

 宇宙的視点から鳥瞰した時に見える「未来の記憶」に関しても、私なんかよりずっと具体的に体験されている木内さんのお話は実に面白いし、納得がいく。

 少し前に私が苦言を呈した「進化論」についても、木内さんは明確に否定しています。適者生存、弱肉強食ではなく、あくまでも地球環境のバランスを守るために私たち生命は存在し、その姿を変えてきたのです。

 私の「モノ・コト論」に結びつく部分も多くありました。宇宙意識、膨大な意識というのは、ある意味人間にとっては「無意識」にあたりますから「モノ」ですね。逆に人間の意識は「コト」です。

 自他(他・自)不二、モノ・コト不二、宇宙・生命不二…全ての本質はそこにあります。

 そういう宇宙的視点から地球を眺めますと、新型コロナウイルスの意味や価値もはっきり分かるというものです。

 本来生命の頂点にあるべき、知性と創造性を持った人類が(カネに向かって)暴走しているため、バランスを取り戻すためにウイルスは登場しているのでしょう。

 たしかに良く言われるように、ウイルスは私たち宿主を全滅させようとするわけがありませんよね。私たちの行動と思考を制限するだけで、本来は共存していこうとしているはずです。ですから敵ではない。

 それにしても、木内さんの「臨死体験」は本当にすごいですね。時空を超えた旅は、それこそ出口王仁三郎の高熊山での霊的体験ととても似ています。木内さんは数時間だったのですが、王仁三郎は1週間ですからね。あの膨大な霊界物語にも書ききれず、耀わんにその情報を刻んだと言われています。

 仲小路彰も生きながらにして時空を超えて様々な事象を体験していたようです。核心部分では、木内さんも王仁三郎も仲小路も全く同じことを言っていますし、同じような未来を予測していますし、私たち人間に同じような課題を与えています。

 今までは、そうした宇宙的視点による地球観や人生観は「トンデモ」扱いされてきましたが、来年からは全く様相が変わるでしょうね。

 新しい時代の始まり、新しい人生の始まりに際して、皆さんもぜひこの本を読んでみてください。違和感なく共感するに違いありません。

 近いうちに木内さんにもお会いしたいと思います。未来の情報を共有できることを楽しみにしています。

 

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2020.12.22

『異界探訪 パワースポットの最深部に異界への扉があった』 町田宗鳳 (山と渓谷社)

Th_51x7aabw2yl_sx337_bo1204203200_ 近の出会いには全く無駄がありません。そして、全て完璧なタイミング。

 今日もそんな出会いがありました。いつかお会いしたいと思っていた町田宗鳳師とお話をする機会を得ました。

 大徳寺で20年修行したのち渡米、ハーバード大学で神学修士、ペンシルバニア大学で哲学博士となり、その後世界や日本の大学で教鞭をとるとともに、世界各地を旅し、命懸けのとんでもない経験を積み重ねてきた謎の(笑)僧侶です。

 いちおう比較宗教学がご専門で、現在も広島大学名誉教授なのですが、縁あって富士山麓に無宗派の「ありがとう寺」を建立し、それこそ謎のご活躍をされています。

 私の母校の特任教授でもあって、今日はその母校で行われた講演会に飛び入りで参加いたしました。ちょうど仕事で母校に行く用事がありましたのも有り難い偶然、いや必然でした。

 初対面ながら、勝手に私は共鳴する波動を感じまして、いろいろお話をさせていただきました。まだまだ入口の部分しかお話していないので、近く「ありがとう寺」に参拝させていただき、お酒など酌み交わしながらマニアック談義に花を咲かそうとお約束いたしました。

 今日の講演のテーマは「文明論としての『イワンの馬鹿』」。その内容は、まさに今の私の問題意識にぴったり。思いっきり背中を押していただきました。ありがとうございます。

 さてさて、町田先生は本当に多岐にわたるご著書を書かれているのですが、比較的最近出たこの「異界探訪」がまた、私の今の感性にぴったりの内容です。いわゆるスピ系のパワースポット本とは完全に一線を画しております。

 私は普通にこういう話をうんうんと聞ける(読める)のですが、一般の方はどうでしょうね。ご本人も書かれているように、フィクションとして読んだ方がすんなり入ってくるのではないでしょうか。

 そう、世の中のリアル、ノンフィクションが、実はフィクションなのですよ。昨日の冬至をもって、そういうフィクションの時代は終わり、今までフィクションとか、トンデモとか言われていた世界がリアル、ノンフィクションになっていく。間違いなくそうなります。

 そういう意味では、今日からは町田先生やワタクシの時代が始まるのです(笑)。いや、マジで。

 この本でも、異次元からのメッセージを受け取る話が中心になっていますし、それがちっぽけな人間の自我、意識を越えた「無意識」や「マナ」からの情報であることがはっきりと書かれています。つまり、私の言う「モノ」ですね(もちろん「モノ」と「マナ」は同源です)。

 かなりぶっ飛んだ人生を送られている町田先生ですが、そんな先生をびっくりさせるような情報を持って、なるべく早い時期に「ありがとう寺」にうかがおうと思っております。楽しみです。

 町田先生、ご縁を取り持ってくださった先生、そして異次元のネットワークに心より感謝します。ありがとうございます。

異界探訪

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2020.12.17

『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論』 小林よしのり (SPA!コミックス)

51syzdyuurl_sy346_ 日「2」が出るということで、遅ればせながら読んでみました。

 一昨日ご登場願った宮沢孝幸先生も高く評価している、小林よしのりさんの「コロナ論」。「コロナ恐るべからず」論の尖峰と言ってもいいでしょうか。過剰反応するな、科学的に正しい対処をせよ、インフォデミックを起こすな…。

 まったく恐ろしいモノで、私も半分はこのコロナ論に大賛成ですが、半分はやはり何かを恐れている。様々な情報が飛び交う現代だからこその「余計わからない」があって、なかなか自分が安定しない。

 つまり、モノ(未知の何か)に対して、コト(情報)が無力などころか、コトどうしが新たなモノを生み出してしまっている状況は、非常に興味深くもあります。

 日頃「モノ・コト論」を構築している私ですが、こうして自分の中のモノとコトのせめぎあいを観察することは稀です。モノノケの生命力…それは実は宇宙の誕生にも関係しますが…に改めて感動さえしているところです。

 さて、出版から4ヶ月が経った今、この本の内容はどのように評価すべきでしょうか。

 ある種の予言書として捉えるならば、やはり半分は当たり、半分ははずれたということになるのでしょうか。

 いや、この本の評価すべきところは、コロナ禍をしっかり日本文化論に落とし込んでいるところでしょう。その部分の内容に関しては揺らぎなく正しいと思います。

 もちろん小林よしのり流の物言い、表現方法に抵抗をおぼえる方もいらっしゃると思いますが、本人も言っているとおり、「愛国」の気持ちがあるからこそのそれらです。

 今までのゴーマニズム宣言もそうでしたが、決して左右の構図には収まりきらないんですね。愛は湧き上がるモノですから、思想というコトを凌駕していくのは当たり前です。

 新型コロナとのつきあいもそろそろ1年となろうとしています。モノがコトとなり、コトがモノとなる日々。そろそろその全体像を俯瞰しながら、自分と世界の本質を見極めてみてもいいのではないでしょうか。

 そのために、この本は大変良い参考書となるでしょう。明日出る「2」の内容も楽しみです。

ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論

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2020.12.12

『素粒子の心 細胞の心 アリの心』 望月清文 (水曜社)

心が語る生命進化の真相

Th_41s2l2pxa8l_sx339_bo1204203200_ 「進化論」の話の続きです。

 この本は実に面白い。非常に共感します。

 この本ほど、私の「モノ・コト・トキ論」に重ねて読めるものはありません。そういう意味でバイブルでもあります。

 時空や因果律にとらわれる自然科学に異を唱え、「心」や「意志」、そして「共通感覚」や「統合力」を重視して、それこそ私たちの本能的な「共通感覚」に訴える内容は、まるで上質なミステリーを読むかのような高揚感を私たちに与えてくれます。

 細かいことは、とにかく読んでいただくとして、このような本を書かれた望月清文さんという方自身にも興味をそそられますね。

 望月姓からも想像されるとおり、山梨県出身。KDDで光ファイバーの研究などをされたのち、「人間研究」「生命研究」「心の研究」に進まれたとのこと。素晴らしいですね。

 主題からは離れますが、個人的に興味のあった、日本語とタミル語の関係について、独自の「言葉と五感」の視点からその類似性に言及している部分は実にエキサイティングでした。

 日本語とタミル語、時空を超えるというと、あの「アガスティアの葉」を思い出さずにはいられませんね。あれも「共通感覚」の産物なのかもしれません。

 ということで、やはり進化論も、あるいは(神による)創造論も間違っているのではないでしょうか。ワタクシ流に言うなら「ことたま(意志の力)」こそが、私たち自身のデザインをしているのかもしれません。

 そう、生命(意志)あるところでは、時間は未来から過去に向かって流れるのです。

Amazon 素粒子の心 細胞の心 アリの心

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2020.12.11

Wi-Fiは頭に悪い?

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 構新聞があえて「これは虚構ではありません」とツイートした記事。たしかに虚構新聞にありそうな文章ですね(笑)。

 Wi-Fi電磁波で学力低下を懸念、市議ら意見交換会

 特に佐賀県と秋田県のくだりは笑えない…いや笑えます。

 ウチの学校も、今学期ようやく全教室にWi-Fiの電波が飛ぶようになりました。はたして期末テストの結果やいかに。

 ちなみにこれも笑えないのですが、そうやってお金をかけて電波は飛ぶようになったのですが、誰も使っていないのが実情です。

 教育界は異様なほどに保守的、いや時代遅れであって、いまだにスマホやタブレット、インターネットに懐疑的な教員も多くいます。

 最近私がいろいろなところで暴露しているとおり、学校のルールや授業のあり方、イベントのやり方など、全ての活動は「先生が管理しやすい」を目的として構築されてきたものであり、それを崩すことは非常に難しいのです。

 逆に言えば、生徒の学びの質などというものは、ずっと後回しになっているということ。困ったものです。

 先生たちは自分たちの価値観や伝統的なシステムを無反省に是としており、それが問題だなどとは露ほども思いません。だいたい、そうした牢獄の中で気分よく生徒を演じてきたから、あえて学校に戻るために先生になるわけですからね。私も最初はそうでした。

 ちょっと興奮しすぎて脱線してしまったので、本題に戻りましょう。Wi-Fiなどの電波の影響です。

 そう、私、実はWi-Fiを整備するんだったら、楽天の5Gの基地局を学校の屋上に設置したらどうかとまで考えていたのですよ。5Gこそ悪者になっていますよね。

 新型コロナと同様で、とにかく新しい、そして目に見えないモノに対しては、異常なほどに警戒心を抱くのが人間です。しかし、それが一般的になっていくと慣れてしまう。歴史が証明しているとおりです。

 これは実は慣れだけではなく、人間の順応ということもあるのですよ。免疫力がつく。これはある意味進化だとも言えます。

 昨日の「反新化論」の話ではありませんが、人間は必要だと思ったモノに対しては、自らを進化させて受容していくのです。まさに「意志」が進化を促している。食品添加物などもそう。

 ですから、使われていない電波が飛んでいる教室というのも、実は意味があったりするわけです(ホンマかいな)。

 いやいや、ちゃんと活用しましょうよ、先生方。

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2020.12.08

鈴木大拙館(金沢市)

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 行の自由散策時間に、金沢在住の友人が案内してくれました。

 いやあ、本当に素晴らしかった。今年最大級の感動。奇しくも今日はお釈迦様がお悟りを開いた日。

 鈴木大拙館、絶対に行くべき場所です。このような「場」が市内の中心部に、さり気なくあるところこそ、金沢という街の魅力であり、すごいところです。

 この1ヶ月で2回金沢を訪れる機会がありましたが、本当に文化の香り漂う良い街ですね。

 鈴木大拙に関しては、私が説明するまでもありませんね。個人的には、昭和12年に山中湖で開催された(らしい)「世界教育会議」で、大拙が講演したことが最近わかりました。

 大拙の功績は、伝統的な「禅」を世界の哲学・思想のステージに一気に引き入れたことでしょう。保守的で硬直化していた禅の世界を一つ上の次元に解放したとも言えます。

 そんな大拙の思想を見事に現代に表現し、継承しているのが、この鈴木大拙館。

 金沢に縁のある谷口吉生による実に見事なデザイン。正直、どんな禅堂よりも現代人を三昧境に導いてくれると感じました。

 様々なデザインが私たちの心の次元上昇を助けることには、今までもずっと注目し続けてきましたが、ここまですんなりと無駄なく実現しているデザインには初めて出会いました。

 もちろん、それは総合的なデザインです。建物だけではありません。借景、水鏡、そして自然の変化をも計算に入れたデザインです。

 いや、計算ではないな。計算できない、まさに「もののあはれ(不随意・不如意への嘆息)」ですね。

 今日も実に見事な時と場がデザインされていました。夕暮時、雨上がり、本多の森公園の見事な紅葉。特に方丈の屋根に降った雨が少しずつ水鏡に落ち、そのたびに規則的な、かつ不規則な波紋が拡がり、重なり、それが時の流れと交差する、あのデザインはまさに「禅」の世界そのものと感じました。

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 ただそれを眺めるだけで、何時間も座禅するのと同様かそれ以上の感覚を味わうことができました。

 自分は止まっていて、自然が動いているのか、はたまた自然は動じず、自分が動いているのか。デザインとは常に相対的なものであることを悟りました。

 おそらく、鈴木大拙館は、どんな季節、どんな日、どんな時にも、最高のデザインを示してくれるでしょう。すなわち、私たちの心のデザインも、ここにいれば常に最高なのです。そして、それこそが本当のアートなのでありましょう。

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 こんなす素晴らしい時と場が、世界中の街にあるといいですね。心からそう思いました。

 これから何度でも訪れることでしょう。皆さんもぜひ。

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2020.12.01

『古事記の宇宙』 竹内睦泰 (青林堂ビジュアル)

Th_51s8v059wfl 年初めに急逝された竹内先生。

 第七十三世武内宿禰を名乗り、秘密口伝を継承していたと言う竹内先生。予備校の人気日本史講師でもあり、様々なシーンでぶっ飛んだ(?)活動をなさっていました。

 当地の宮下文書について、少しお話したことがありますが、 お酒がお好きで、いつも酔っ払っているのか、それとも素面なのか分からない不思議な人でした。

 この本でも秘密口伝の一部を公開していることもあり、彼の死には裏があるとの噂も絶えません。

 ちょうど彼の死の1ヶ月前、別方向からとはいえ、やはり秘密口伝を公開していた出口恒さんもお亡くなりになっていましたので、そんな噂にも現実味があるというものです。

 私も今、ある歴史的アーカイブの公開を目論んでいますから、せいぜい消されないように気をつけなければなりませんね(笑)。

 それは冗談としても、この本で語られている「秘密口伝」の一部は実に興味深い。もちろん、宮下文書や出口王仁三郎の神話体系とも共通しているところ、補完しあっているところがありますから、、そういう意味でも面白い。

 しかし、それ以上に、古事記の読み方というか、見え方を変えてしまう独特の語り口に魅力を感じましたね。彼の文体はまさに「語り」。口伝とは物語そのものであり、おそらく彼も長老たちからこのような語り口で教えられてきたのだろうなと、勝手にではありますが想像しました。

 そう、近代的な「書き言葉」に最近ちょっと違和感があるんですよね。何か大切なモノが抜け落ちているような。

 そういう意味では、まあこのブログも「語り」文体ではありますね。そう、私はいわゆる研究論文が書けないのは、やはりコトよりもモノを重視してしまうからなのでしょう。

 では、なぜ「モノガタリ」ではなく「フルコトフミ」なのか。この謎を解くこともこれから重要ですね。

 あらためてご冥福をお祈りします。

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2020.11.29

豊饒の海〜仲小路彰の三島由紀夫評

250pxlocation_of_mare_fecunditatis 日の続きです。

 三島の遺作となった「豊饒の海」。「豊饒の海」という言葉からは、まさに豊かな生命をたたえた大海を想像しがちですが、実はこの名の由来は月にあります。

 折しもアポロが月面着陸し、「海」が実際に荒涼たる虚無であることが確かめられた、その直後のことですから、当然三島はそこに意味を見出したわけです。

 「豊饒の海(豊かの海)」は、この写真の赤丸で囲っているところ、つまり、餅をつくウサギの片方の耳にあたります。

 古来日本では一つのモノ語りとして信じられてきた「餅をつくウサギ」が、それこそ無機的な玄武岩の台地であるコトに、三島はある種の絶望を抱いたのでありましょう。

 三島とは因縁の仲であったとも言える仲小路彰は、三島自決の直後12月1日に「三島の死の象徴的意味ー彼の死の後に来るものー」という文書を発行しています。

 なかなか厳しい三島評が続くのですが、「豊饒の海」の命名については次のように書いています。

 

 そして彼の最後の作品「豊饒の海」は、かのアポロ・ロケットが到着した月面の荒涼とした天文学上の名を用いたように、彼の予見的天分は、あるいは核戦争か地球的公害の果てに来る、死の地上の終末的光景を、まざまざと感覚したことによるかも知れないのである。

 

 また、仲小路らしい未来視点的な三島評の中にも「月」が登場します。

 

 すでに明らかなように、彼の死は未来に開かれたものではなく、かすかでも未来からひびく声に応じたものでもなく、まさに亡びゆく過去なるものへの対決であり、その絶対的否定であった。

 彼の生涯はその最期の告白に見るように、一切が偽善にみちみちたものであり、彼の作品そのものも、また偽善者の文学であるとして、彼はそれ故におしげもなく捨て去ろうとしたのである。

 これを知らぬ彼への批評も讃美も非難も無視も、彼にとってはことごとく我を理解し得ぬ縁なき衆生として、孤独に苦しんだのである。

 その生活の外面的華やかさがあればあるほど、彼の真実は荒涼として月面の人の如くであった。

 さればこそ、彼はその最期の「天人五衰」に羽衣の月からの天女の悲しみになぞらえてその終曲を書くのであった。

 ここに彼の遺志として示されたものが唯物的、無神論的米ソ中心の現体制の否定として鋭い拒否をなしながら、彼自らそれとともに死んだのである。

 

 非常に貴重な評ですね。これはほとんど今まで世に出なかったものです。三島の研究者も知らないでしょう。ここに引用してものは、全体のほんの一部です。いつか全文が公開できる時が来ればと思います。

 明日は満月。そして、半影月食。あらためて影のさす「豊饒の海」を眺めてみたいと思います。

 

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