悲観は楽観の母
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。
Amazon 幸福論
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)

「下山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。

センター試験も終わり、高校生は国立二次対策、そして私大の一般入試の対策に入りました。ここからがある意味私の腕の見せ所…かな。
なんだか忙しくて(人と会って話をする機会が多くて)、今年はとっても遅いレビューになってしまいました。
今日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
今日はめずらしく「ためしてガッテン」を観ました。テーマは「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」。
先日、こんなニュース(ネタ)を見つけて、しばし考え込んでしまいました。
だいたいが、我々生物の根源的な仕事は、遺伝子をコピーし続けることであり、そういう意味でも、もしかすると、これは宗教としてふさわしいのかもしれない、なんて思われてくるわけです。
なんとも仕事がドタバタしているので、ゆったりとしたおススメを。
しかし、そうした日常的な「意識」から「意識的」に離れるために、「意識」を捨てる「坐禅(座禅)」をすることは面白いものです。
そこなんですよ、今までの禅が限界として抱えていた問題は。つまり、禅は「自他不二」や「縁起」を感得するためのものでありながら、個の問題として語られすぎ、またそういうメソッドとして発達しすぎたのです。
最近のコメント