カテゴリー「モノ・コト論」の878件の記事

2017.10.15

私にとっての歴史とは…

 MXテレビで西部邁先生が吠えたとの情報をいただき、さっそくYouTubeで探したらありました。
 うん、たしかに面白い。日曜日の真っ昼間に地上波でこういう言説が聞けるなんて。まだまだテレビも捨てたものじゃない。ま、MXが特殊なんですけどね。
 それでも、どうでしょう。いつもワイドショーばかり見て聞いている人たちが、こういう硬派な言説を耳にすると、どう感じるんでしょうか。
 慣れていないから、全然耳に入ってこないという人もいるでしょう。それもあり得ます。
 人によっては、なんだか生理的に拒否反応を示すかもしれない。特に核廃絶なんかとんでもない!という話なんか。
 しかし、私たちが賢い大衆であるためには、こういう言葉にも耳をしっかり傾けなければなりません。もちろん、西部先生の考えに完全に賛同せよと言っているのではありませんよ。
 堀潤さんはかなり冷静に対処していますが、それは堀さんだからであって、たとえばいくらハッタリの得意なワタクシであっても、もし西部先生と討論したら、一気に押し潰されておしまいでしょうね。
 そう、西部先生みたいな昭和の論客って、「コト」の権化みたいなものなんですよ。だからコト勝負では絶対かなわない。当たり前です。知識(コト)の量が違いすぎますから。
 ただ、押し潰されながらも、どこか反論したい、できないけれども違う意見を言いたい、そんな自分もいます。現実主義者ではなく、あくまでも理想主義者でいたい。夢想家、お花畑と言われるかもしれないけれども。
 そうでないと、私たちは、いつまでも過去と現在にとらわれた思考しかでないと思うのです。そこには進化はありません。深化はあるかもしれませんが、未来に飛翔することは難しいような気がします。
 昨日紹介した、高城剛さんとの対話は、そういう意味では完全に「モノ」世界であって、つまり「物語」であって、だからこそ、伝わる部分と伝わらない部分とがあると思いますし、それこそ全く科学的でない妄想にすぎないと言われてもしかたありません。
 しかし、たとえば過去の歴史についても、私は仲小路彰の言うとおり、未来の視点から眺めたいのです。
 この前もどこかに書きましたが、私にとっての「歴史学」は、事実(コト)として何があったかよりも、その時生きた人間たちが、(その時の)未来に対して何を妄想したかを知る作業なのです。
 大東亜戦争についても、あの時はみんなが真剣に日本の未来、アジアの未来、世界の未来を妄想したのです。いろいろな妄想が絡み合って、一つの事実に収斂していった。その一つの事実だけを見るのは間違いです。
 未来からの視点とはそういう意味です。そういう意味で私は、さまざまな神話(近代以降に生まれたものも含む)にも興味がありますし、いわゆる偽史にも、あるいはフィクションたる文学や映画にも興味がある。
 そこには、それぞれ生きた人間の未来への妄想があるからです。それが庶民の、程度の低い妄想であっても。
 西部先生の言説には、そういう生きた人間の妄想、それも「良き妄想」があまり感じられません。「悪しき妄想」は時々出てきますけれど。
 まあ、たしかに今までの歴史は、「悪しき妄想」が「良き妄想」に勝つことが多かったと言えますが。
 それでも「良き妄想」の勝利を確信する私は、きっとはたから見ると、とってもリベラルな人間なのでしょうね。いや、宇宙人だから気にしなくていいのか、そんな分類(笑)。
 まあそれは冗談として、私にとっての歴史とは「その時生きていた人たちが、その時の未来に何を妄想したか」ということなのです。そして、歴史学とは、その妄想を収集、調査、研究することなのでした。

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2017.10.11

ポケモンマスター=仏陀?w

Th_satosi うでもいいけれど、どうでもよくない話?
 遅ればせながらではありますが…最近、ポケモンGOがマイブームであります。娘たちとワイワイやっております。
 私はただただ黙々とポケモンをゲットするだけで、あんまりバトルはいたしません。平和主義者です(笑)。
 それでも楽しいですね。待ち時間も苦ではなくなったし。大人が仕事終わりに何も考えないでポケGOに興ずることが、ストレス解消になっているとの学術研究もありましたっけ。
 今や世界中を巻き込んでの大ブーム。バトルではあるけれども、相手のポケモンを取り合うようなシステムではないし、負けても「薬」などで復活できる。つまり死なないわけですね。
 これはバトル(=戦争)の常識を覆しています。基本はあくまでも、自己のレベルを上げていくことが目的のゲームです。
 で、私や娘たちも何か特別な目的をもってポケGOをやっているわけではありません。まあ、やはりレベルが上がっていくこと、図鑑が埋まっていくこと、ポケモンが強くなっていくことが楽しみというだけです。
 そう考えますと、ポケGOの世界観は仏教的とも言えます。それぞれがバトル(切磋琢磨)しながら、自らのレベルアップを図る。ポケモンの方も、愛情込めて育てられ、生命を大切にされながら成長していく。
 その人間側の究極の目標が、「めざせポケモンマスター」という歌にも象徴されるように、「マスター」であります。
 しかし、多くのポケモンファンも気づいているとおり、その「ポケモンマスター」とはなんなのかという定義がはっきりしません。しかし、みんながそこを目指して頑張っている…。
 そう、そんな、定義不可能な究極の目標点があるのも、仏教に似ている。すなわち「ブッダ」。悟りマスターというか、真理マスターとしての「ブッダ(仏陀)」。
 私も仏教を少しかじっている人間ですが、やはり目標は「悟り」であり「仏陀」になることです。しかし、では、それにどうなれば、どうすればなれるのかというのは、ある意味誰もわからない。
 コト(言語・定義)化できないが、しかし存在しているという確信のあのモノこそが、究極の真理(すなわち揺らぎない「真」のコト=「まこと」)なのです。
 そういうゴールなきゴールを持つゲームが、こうして日本発で世界中に広まっているのは、実によろしいことだと感じています。
 私も、いつかポケモンマスターになれるのでしょうか。
 あっそうそう、モンスター(MONSTER)と「もの」は同源なんですよ。すなわちモンスター=もののけ。ついでに言うとマネー(MONEY)も(こちらの記事参照)。
 

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2017.10.10

キース・ジャレット 『パリ・コンサート』

Keith Jarrett ‎– Paris Concert
Th_71z58tvzfl_sl1500__2 1988年10月17日のライヴですから、今から29年前になるんですね。
 なんか突然聴きたくなったんです。で、冒頭から泣いてしまった。こんな素晴らしいアルバムだったのか。
 無性に楽譜を見たくなって調べたら、下の動画がありました(冒頭だけですが)。便利な時代ですね。

 バロック音楽、特にバッハ好きにはたまらない一品ですよね。この頃のキースは実際バッハにはまっていました。このパリ・コンサートの前後に、平均律全曲やゴルトベルク変奏曲を録音しています。
 作曲技法的にバッハに寄せているところもありますが、そういう次元ではなくて、精神というか、意識というか、そうした一段高い、いわば音楽の天井の部分で、キースとバッハは共鳴しています。
 さて、このアルバム全体を未聴の方はぜひ「体験」してみてください。

 冒頭のバロック的インプロヴィゼーション(おそらく半即興)から、キースの音楽の根底にあるのであろう、バロックよりもっと古いタイプの即興音楽、すなわち固定低音上に展開する激しい民族的音楽も素晴らしい。
 そして訪れる静寂。しかし固執低音の呪縛からは抜けきれない。まるで、古代が近代を拒否するかのように。
 しかし、いつしかまたバロック風な、一つのモチーフの変形と重層が多様な和声を発見していくような音楽に落ち着く。
 さらに古典派的に展開していくが、再び究極のオスティナートである固定(固執)低音が侵入してくる。近代への不安や懐疑が表現され、しまいにはある時間帯には「ファ」だけになってしまう。それははたして音楽と言えるのか。
 しかし、そうした原始の地平から生命が生まれ出るかのように素粒子は激しく振動しはじめる。
 なるほど宇宙の生命、存在とは振動であった。音楽はそういうモノなのです。
 そうか、コトは振動していないけれど、モノは振動しているのか。だから、古くは音楽のことを「もののね」と言ったのだしょう。
 まるで地球誕生の瞬間を見るかのような音楽。そしてなぜか美しい孤独が現れて、長大なインプロヴィゼーションは終わります。
 バッハを出発点として、時間を自由に行き来し(結果としてバッハは折り返し点となっている)、音楽の、人類の歴史を聴かせてくれる、とんでもない楽曲ですね。
 続く2曲は、キースの「今」ですね。ジャズやブルースが、音楽史の上にどのように配置されるのか。このアルバムは明らかにしてくれているような気がします。
 私たちは何から解放されて、何から逃れられないのでしょうかね。解放されても縛られても、なぜか淋しいのが人間なのでありました。

Amazon パリ・コンサート

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2017.09.16

富士学苑中学・高等学校ジャズバンド部 第15回記念リサイタル

Th__20170917_0_22_28 かげさまを持ちまして、大盛況のうちに無事終了することができました。
 今回は第15回記念ということで、キューバ出身の気鋭のトランペット奏者ルイス・バジェさんをお迎えしてのコンサート。ジャズバンド部OB・OGも多数参加しての華やかなステージとなりました。
 いつも思うことですし、いつも書いてきたことですが、毎年違うメンバーになる学校の部活動バンドで、常にハイレベルをキープし、また、それぞれのメンバー一人一人の個性を活かした演奏を続けてきたことに感嘆せずにはいられません。まずは、それを実現してきた顧問の大森先生に敬意を表したいと思います。
 今年は派手なソリストはいませんが、安定したリズム隊の上に、高音もよく鳴る力強いトランペット隊、音程も正確なトロンボーン隊、チームワークの見事なサックス隊がバランス良く乗り、全体として安心して聴くことのできるバンドの音になっていました。
 そのため、広いジャンルにわたるそれぞれの楽曲をじっくり聞かせることができていたと思います。私は今回、ステージ横スクリーン用のカメラマンを仰せつかっていたので、特にそう感じたのかもしれません。なにしろ曲の構成などを予測しながらカメラを振らねばならなかったので(笑)。
 目はカメラ越しの生徒たちをとらえていたわけですが、そのおかげで、最大のステージに臨む生徒たちの細かい心の動きを感じることもできました。
 ちょうど開演前にある指導者の方と話す機会があったんです。中高生の音楽がなぜ感動を呼ぶかと。逆に言うと、なぜ大学生のビッグバンドがああなってしまうのかと(失礼)。
 野球で考えると分かりやすいですね。大学野球って、プロ野球、高校野球と比べると、どうしても魅力に欠けるじゃないですか。それと同じです。
 やはり、中高生という純粋かつ悩み多き年頃、異様なほどに吸収力があり成長が著しい年頃の、その彼らの心の動きが演奏に表れるということでしょうね。
 世阿弥の「初心忘るべからず」の「初心」とは、そういうことなのだろうという話になりました。単なる初心者の心持ちということではない。
 ワタクシごとですが、6年間ベーシストとしてお世話になった上の娘にとっても(いちおう)最後のステージということもあって、特別に感慨深いものともなりました。これからもベースを弾き続けるという娘が、これから高校を卒業してはたしてその「初心」を忘れないでいられるか。
 今日ですね、実はリサイタルが始まる前に、ひょんなことからEXILEの山本世界さんにお会いしてお話を聞く機会があったんです。まったく不思議なご縁ですよね。
 世界さんの話はまさに世阿弥の芸論そのままでした。形にはまらずいかにはみ出すか(序破急)、いかにその場のイメージを生み出すか(ものまね…モノを招く)、過去の結果にこだわらないから常に新しい(初心忘るべからず)。
 さすがだと思いました。その謙虚な姿勢とともに、なるほど若いけれどももうすでに超一流だなと思いました。
 そこなんですよね。高校生くらいまでは、無心に無欲にそこに到達している。まさに私の言うところの「モノ」優位の状況です。それが大学生くらいになると、型や理屈や自我という「コト」にとらわれてしまって、スポーツにせよ音楽にせよ、生命としての創造性を失ってしまう。
 逆に、そういう人生における不可避な逆境をやすやすと乗り越えてしまうのが天才であり、超一流になっていく才能というものでしょう。
 実際、OB・OGの中には、卒業後葛藤している者もたくさんいると思います。高校時代は良かったと思い出迷子になってしまっている人もいるかもしれません。そこで終わりにするのも一つの人生であり、そこを乗り越えようともがくのも一つの人生です。
 いずれにせよ、この「初心」の自分という強敵と、今度は一人の大人として対峙して戦っていくんだなと、それぞれの顔をアップで捉えながら考えていました。もちろん娘もです。
 そういう戦いにやすやすと勝っているという意味で、やはりルイス・バジェさんの音楽はすごかった。上に書いたことととのつながりで言えば、それこそ「生きている」、「今生まれている」音楽でした。それはテクニックに裏打ちされているものではありますが、かといってテクニックが主役ではありません。やはり、その「初心」の表れなのでしょう。
 禅宗の学校であるウチの学校風に言えば、「音楽になりきる」ということなのでしょうね。自分が音楽と一体になって、ある意味楽器という「音楽のうつわ」になって、純粋なメディア(媒体)になっている。そういうことでしょう。
 さてさて、12人の高校3年生の皆さん、お疲れ様でした。そして、これからもぜひそれぞれのスタンスで音楽を楽しんで下さい。とにかく楽器を続けてほしい。いろいろなことを教えてくれた楽器さんのためにも、ぜひ一生をかけて恩返ししてほしい。自分の経験からもそのようなはなむけの言葉を贈りたいと思います。
 最高のコンサートをありがとうございました。

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2017.09.01

宇宙人同志との再会・対話

Th_img_1439 縁あって高城剛さんとお会いし、じっくりお話をさせていただきました。
 3時間すぎても話題が尽きずタイムアップ。科学、宗教、教育、文学、音楽、医学、食、健康、歴史、霊界、言語…あらゆる分野にわたる壮大なる、しかし、何モノか一つに収斂する対話でした。
 その内容は、おそらく普通の人が聞いても全く理解できないのではないでしょうか(笑)。
 根本的にはですね、私たちは「同窓生」だったという話。53年ぶりの再会だったという話。
 お互い53歳なのにですよ。
 つまりですね、私たちはこの地球に生まれる前に一緒にいたということです。そして、1日だけ私が早く地球に来て、翌日高城さんが来たということ。
 もう、余計に分かりませんよね(笑)。
 ま、簡単にいえば、私たちは宇宙人だということです。そして、同じミッションを持ってこの地球にやってきた。すなわち「宇宙人同志」
 今まではそれぞれ別々の人生を歩んできましたが、いよいよ再会してこれからは一緒に何かをやっていくということです。
 おいおい、先生!大丈夫?
 そんな声が聞こえてきそうですが、しかたありません。本当のことなので。
 ま、濃密な会話の内容はここではとても開陳できませんが、そのうちに時機がくれば社会現象として現れてくるでしょう。
 一つ言うなら、私たちの「意志」は過去は全く相手にせず、未来だけを見ているということです。時間は当然のことながら、未来から過去へ向かって流れている。
 それからどうも同窓生は全部で20人くらいいたらしいので、ほかの人達ともこれからどんどん再会していくだろうということ。これは面白いことになりましたね。
 それにしても、本当に想像していた以上に波動が合いました。そして、高城さん、素晴らしい。賢い。解き放たれている。謙虚。かっこいい。
 某ホテルのラウンジで異常に盛り上がる宇宙人二人を、金曜日の夜の赤坂に繰り出していた地球人たちは、実に不思議そうな顔をして見ておりました(笑)。
 これから、大きな進展があると思いますので、そのたびに経過報告できる部分はしていきます。お楽しみに。

高城未来研究所

Amazon 高城剛

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2017.08.31

めざせポケモンマスター -20th Anniversary-

 ういうわけか今頃になって我が家でポケモンGOブームが起きています(笑)。
 20年も人気が衰えず、それどころか今や世界的な人気を誇るポケモン。
 私も娘たちに感化されて、なんとなく興味を持つようになりました。昨年ポケモンGOが始まった時には、こんなことを書いています。
 私がポケット・モンスターに興味を持つ一つの理由は、それが「モンスター」だからです。
 こちらの記事をご覧ください。モンスターは「モノ」だということです。昨日の話で言えば「暗黙知」ということになります。
 「モノ」に触れることは、私たちが高次元につながるための一つの方法であり、訓練であります。特にポケモンGOになって、インターネットで世界とつながり、そしてARで現実界とつながり、ますます「モノ」と「コト」の交流が盛んになってきています。
 それについては、また書くとしまして、このたびポケモン20周年を祝って制作された『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』のオープニングテーマである、「めざせポケモンマスター -20th Anniversary-」をお聴きいただきたいと思います。
 もともと非の打ち所がない神曲ですが、この最新アレンジ版は最高にかっこいいですね。特にベースラインに萌えます(燃えます)。

 あっそういえば、私は松本梨香さんによる生「めざせポケモンマスター」聴いたことあるんだ。こちらです。当たり前ですが、めちゃくちゃ上手でしたよ。

Amazon めざせポケモンマスター -20th Anniversary-

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2017.08.30

追悼 中村雄二郎さん

Th_as20170830004252_comml 学者の中村雄二郎さんがお亡くなりになりました。
 「述語集」には、大学時代からお世話になりました。難しい本を読む(読んでいるフリをする?)快感を教えてくれた人です。
 「臨床の知とは何か」は入試問題にもよく取り上げられていましたので、教員になってから読みました。やっぱり難しかったけれども、ちょうど「モノ・コト論」をやり始めていた頃だったので、暗黙知と形式知をモノとコトにあてはめて考えるきっかけを与えてもらいました。
 そう、私はモノとコトでは、モノの方を重視するのですが、そのモノを暗黙知と言い換えると、「述語集」おおける、中村さんの次の言葉は重要な示唆を与えてくれます。
 

〈暗黙知〉とはどういう内容をもっているか、彼(マイケル・ポラニー)の挙げている例によれば、われわれが或る人の顔を知っているとする。ということは、他の無数の人の顔と区別してそれを認知できるということである。ところが、それでいて、われわれはふつう、その顔を他から区別してどのように認知するかを、語ることができない。写真による犯人のモンタージュのような方法はあっても、その場合でも犯人の人相を同定するには、語りうる以上のことをそれに先立ってわれわれが知っていなければ不可能なのである。同じような知の在り方は、ひとの顔からその人の気分を認知するとき、また、病気の症候、岩石の標本、動植物などの識別についても言える。
 この知の在り方は、ゲシュタルト心理学の考えと一脈通じるところがあるけれど、ここではとくに経験の能動的形成あるいは統合に重点が置かれる。科学上の発見、芸術上の創造、名医の診断技術などの技芸的な能力は、みな、この暗黙知に拠っている。

 中村さんは西洋哲学の専門家でありながら、やはりどこか日本的な感性を持っていらっしゃった。ご本人の意識は別として、上掲の暗黙知論などは、私のモノ論と非常に近いところがあり、そこを重視している点において、あるいは、暗黙知を形式知に変換することを奨励していない(たぶん)点において、やはり日本的だと感じます。
 お亡くなりになってしまったのは残念ですが、これを機に再び「難解な本」に挑戦してみようかと思います。
 感謝の意もこめつつ、ご冥福をお祈りします。

Amazon 臨床の知とは何か

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2017.08.26

吉田の火祭り 2017

Th_img_1395 吉田の諏訪神社の例大祭である「すすき祭り」の前夜祭である「吉田の火祭り」。今年は土曜日ということもあって、大変な賑わいでした。特に外国人の多さには驚きましたね。
 今までも何度もこの「火祭り」については言及してきました。
 富士山の鎮火祭であり、諏訪の御柱祭の派生型であり、お盆の送り火の拡大版でもある「火祭り」。なかなか面白い行事です。
 何度も書いてきたように、この祭はあくまで諏訪神社が主体。その証拠に、浅間神社の神様(木花咲耶姫)が諏訪神社の神様(建御名方神)のところへ「あ・そ・ぼ!」と訪れ、いろいろ相談したのちに、同じ車(神輿)に乗って街に繰り出していくのですから。
 出雲の和魂が三輪山、そして伊勢を通って、この富士山に到達したのが、浅間神社の祭神木花咲耶姫です。一方、出雲の荒魂が日本海側を通って諏訪におさまり、そこから南下して富士山に到達したのが、諏訪神社の祭神建御名方神です。
 出雲で別れた両魂が富士山(不二山)で一つになるという壮大な物語に気づいている人は誰もいません。
 しかし、面白いのは、その車(神明神輿)の後ろから、保護者たる真っ赤な富士山がついてくることですね。すなわち御山神輿。これには何が乗っているのか、正直よくわかっていないのですが、まあ間違いなく古来の富士山の神様である国常立命でしょうね。浅間大神(あさまおおかみ)と言ってもいい。
 そう、若い二人の年一回のデートを、父親が心配して後ろからついていくという感じなんですよね(笑)。
 それがとっても面白い。
Th_img_1400 それから今年はちょっとまた別に面白いことがありました。コノハナサクヤがタケミナカタのところに迎えに行って相談をする、その相談が例年より長引いたんですよね。
 そうしたら、人間界で喧嘩が起きた。いろいろな法被を着た、地元の男衆(氏子・セコ)のグループ(講)があるんですが、そのうちのあるグループの若いのと、あるグループの若いのが一瞬つかみ合いの喧嘩になりそうになった。
 もちろん先輩が止めに入って、お互いに代表(長老)が詫びを入れてすぐに手打ちになって笑顔に戻りました。
 おお、喧嘩は祭の華だなとも思いましたが、もっと高い次元で言いますと(昨日の話で言えばモノの次元)、喧嘩が手打ちになった、すなわち荒魂が和魂でおさめられたその時に、神様どうしの相談も終わって、さあお出かけしましょう(出輿)という段になった。
 ああ、なるほどなあと思いました。祭って、神様の世界で起きているモノを、人間たちが象徴的にコト化しているんだなと。
 神様と人間の関係を垣間見たような気がして、本当に感動しました。
Th_img_1406 神明神輿と御山神輿が、浅間神社と諏訪神社の結界に作られた「高天原」におさまり、宮司さんの祝詞が終わった瞬間に、さあっと涼しい風が天から吹いてきて、皆さん驚いていました。
 ふむ、祝詞という情報(コト)が神という意識(モノ)世界に影響を与え、それがまた風という物質(コト)世界に影響を与えるのですね。
 そう、ふだんはモノ世界の方がコト世界よりも上位次元なので、下から上へは影響を与えられませんが、神事や音楽という特殊な手段を通じますと、下から上へもアクセスできるというわけです。
 すごいですね、この世界は。

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2017.08.25

「シンギュラリティ」はあり得るのか

Th_51gbi8kiigl_sx348_bo1204203200_ 昨日の話の続きでしょうか。私の得意なモノ・コト論と高次元論に結びつけて、「シンギュラリティ」について少し考えてみましょう。
 最近よく聞く言葉「シンギュラリティ」。AIが人間の知能を超えることによって起きる事象のことです。2045年がその特異点だとも言われ、近未来に対する期待と不安からか、多くの書籍が店頭に並んでいますね。
 AIが人類を救うという論もあれば、AIが人類を滅亡させるという論もあり、まさに両極端。いつの時代にも近未来予想はそういう傾向を持ちます。
 しかし、少し冷静に考えれば、今までの歴史がそうであったように、どんな新しい技術革新にもその功罪があって、私たちは、それをうまいことバランスを取りながら、なんとか自分たちの制御範囲内におさめてきたことに気づきます。
 おそらくはAIも同じような状況になるだろうと、私は楽観視しています。
 ただ、今までの技術というものは、身体の拡張としてのそれがほとんどであり、たとえばコンピュータでさえも、せいぜい我々の脳みその記憶倉庫や単純な四則計算分野の拡張程度のものでした。
 つまり、物質次元と情報次元レベルでの拡張にすぎなかったということです。
 では、AIはどうでしょう。
 私はAIもその次元を超えるものではないと考えています。すなわち、物質、情報よりも上位次元にある意識の領域までは、AIは入り込めないと判断しているのです。
 意識とは、意志、感情、祈り、直感というようなものです。なんとなくわかりますよね。それらをあえて言葉(情報)として表すこともできますが、実際私たちの脳の中では、言語を介さずに表出、処理されています。
 私はそれを「モノ」と呼び、いわゆる物質や情報は「コト」と呼んでいるんです。
 西洋近代化以降の日本語の辞書では、「物質=もの」、「情報=こと」と書かれているため、私の解釈と矛盾し、混乱をきたすことが多いのですが、あくまで私は古来の日本語の「もの」と「こと」を研究した結果として、自らのモノ・コト論を構築していますので、そこのところどうかご理解いただきたい。
 つまり、「もののあはれ」とか「物悲しい」とか「〜なんだもの」とか「もののけ」と言った時の「もの」は、物質化、情報化されない、ある意味不随意的な存在(「なんとなく」「なんだかわからないが」的な認識)だということです。
 逆に、言語化(コトの葉化)できる事象、物質が「こと」であると。
Th_511ektzyihl_sx309_bo1204203200_ で、話をAIに戻しますが、いくらAIがビッグデータを収集して、経験的確率的に最良の判断を下したとしても、それはあくまでも「データ」であって、まさに「コト」そのものでしかありません。
 過去そのものとも言えますね。日本語では過去の事象を「こと」と言います。ですから、古事記は「ふることふみ」なのです。
 逆に未来は「もの」ということになります。面白いことに過去の助動詞は「き」、未来の助動詞は「む」であり、「こと」と「もの」同様、kとmの音から成っています。これも偶然ではありません。
 AIは「コト」しか扱わないので、絶対に「モノ」の領域には踏み込めません。未来予測をしているように見えても、それはあくまで、「こうだったからこうする」でしかなく、「こうなりたい」とか「こうあるべき」というような意志ではありません。
 そう考えてみると、生物の進化というのは面白いですね。ダーウィンの進化論を思いっきり否定してしまいますが、私は進化は意志によって起こると考えています。たとえば、「寒いから毛が生えてほしい」とか、「食べられたくないから葉っぱと同じデザインになりたい」とか(笑)。
 つまり、意識という上位次元が、物質という下位次元に影響を与えたわけです。そして、人間はその意識次元への接触能力が、他の生物よりも高かったため、驚異的なスピードと質の進化を遂げたと。
 あくまで私の考えですよ。全然、現代科学的ではありませんが、もしかすると100年後には科学的になっているかもしれません。
 ま、それはいいとして、とにかく(現在考えられている)AIは意識領域にまでは踏み込めないので、どう考えてもシンギュラリティは起きないのです。
 AIはあくまでも記述できる言語の世界でしかありません。人間の心の大部分は言語化できません。モノ・コト論的に結論するなら、AIはあくまでコト、人間の心はモノであるということです。

Amazon AIが神になる日――シンギュラリティーが人類を救う
 AIが人間を殺す日 車、医療、兵器に組み込まれる人工知能

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2017.08.23

ウエイン・W・ダイアー博士 スピリチュアル・インタビュー

 日の続き。自己実現、自己超越とは何か、私たちに分かりやすく説いてくれるのが、マズローの弟子の一人であるウエイン・W・ダイアー博士です。
 自己とは、エゴとは、そしてソース(源)とはなんなのか。奇跡とは、シフトとは…。
 ダイアーはさまざまな質問に、常に的確に、多くの引用や比喩を用いながら私たちに答えてくれます。
 その答えは実にシンプルです。もちろんシンプルだからといって、その実現が簡単だというわけではありません。単純なことこそ難しいというのは、私たちは経験的に学んでいます。
 そして、私たちは困難であるとすくにあきらめてしまいます。結果として、より複雑な世界で苦しむことになります。
 「シフト」は悟りに近い言葉です。複雑な世界から、よりシンプルな世界に進んだ瞬間のことを言うのかもしれません。
 このインタビューでダイアーが語っていることは、彼の贈り物のほんの一部ですが、それでも私たちは実に大きな恩恵を受けることができます。
 今日もあるクラスで生徒たちに話しましたが、ようやく科学の世界が宗教の世界に近づいてきた。
 ちょっと笑い話的に話したんですが、理系の方が文系よりもずっと遅れてると。
 生徒たちはもちろん逆だと思っている、すなわち理系の方が最先端、未来的だと思っていますから、しっかり笑ってくれました。
 考えてみて下さい。今までの科学は、せいぜい物質と情報の次元でしか思考してきませんでした。そういう意味では、すでにあったものの発見しかしてこなかった。それはまるで考古学のようなものです。
 もちろん、その発見を組み立てなおして、新たな物質を作ったり、未来を予測したりはできます。しかし、はたして、その「新しい」何かは、本当に新しいものなのでしょうか。本当にこの世に存在しなかったものなのでしょうか。やはり、発見されていなかっただけではないのか。神はすでに創造していたのではないか。
 そう考えると、文系の多くの学問や芸術というのは、古くからちゃんと意識の世界の研究をしてきたわけで、発見よりもより創造的なことをしてきたとも言えます。
 だから、文系の方が偉いんだよと、自分が理系をあきらめて文系に転向したことを含めて、半分冗談話として語りました。
 皆さんはどう考えますか。
 ダイアーの話を聴いていると、たとえばそういった理系、文系などという分け方さえもつまらないものに感じられますね。
 私は独自の「モノ・コト論」を勝手に構築して、それをもって世の中の全てを観ているのですが、なるほど、最終目標はモノとコトの統合する世界、ただありのままの存在の世界に到達することなのですね。
 これからダイアーの本を何冊か読んでみたいと思います。

Amazon ザ・シフト
 
 

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