カテゴリー「モノ・コト論」の994件の記事

2020.07.24

『人生で大切なことはオカルトとプロレスが教えてくれた』 大槻ケンヂ・山口敏太郎 (角川学芸出版)

Th_518qaxt0owl 日からの流れでこの本をおススメしますね。

 いやあ、この本、めっちゃ面白いですよ。そして納得。さらに救われた。

 昭和41年生まれ、オカルトとプロレス大好きなお二人の対談。同世代、同趣味、共通体験者として大いに楽しませていただきました。

 昨日の「ノストラダムス」についても当然触れられています。

 ノストラダムスは「メメントモリ」(死を思え)という考え方を俺らに叩き込んでこれましたよね。

 という大槻さんの言葉に完全に同意いたします。小学生の私にとっても、ノストラダムス体験は、ある種の宗教的な通過儀礼でした。

 あと、昨日紹介した映画「ノストラダムスの大予言」についても大槻さんが語っています。それを読んで分かったのですが、昨日紹介した動画って、ノーカット・バージョンなんですね!やばい、そうだったのか(笑)。

 この本全体を通して語られる「人生で大切なこと」とは、すなわち「変なモノ、理解できないモノ、怪しいモノ、嘘というモノを切り捨てず愛する」ということですよね。

 たしかに90年代、平成になってからは、そういう「モノ」を許さない「コト」社会になってしまい、実に面白くなくなってしまった。その後の揺り戻しで多少は良くなったとは言えども、やはり変な現実(コト)主義がはびこっているような気がしますね。

 当時の少年たちは、みんな「オカルト」と「プロレス」の洗礼を受けて大人になり、今の社会を支えています。しかし、結果として「コト」社会になってしまい、「モノ(ノケ)」が排除されるようになってしまったのはどうしてなのでしょう。

 やはり、みんな「大人」になってしまったのでしょうか。その点、私はいまだに中二病どころか(幼稚園の)年中病です(笑)。だから、自分の中では宇宙から来た地球を救うヒーローのつもりで、毎日現実と戦っているのです。

 と言いつつ、仕事柄もありますし、いちおうこの世でフツーに生きていかねばならないので、それなりに客観的に自分を観ているところもある。それこそが、たしかにオカルトとプロレスから学んだ生き方なのかもしれませんが。

 この本には、当然、出口王仁三郎も出てきます。山口さんが王仁三郎と宮崎滔天の関係について面白い情報を書いてくれていますが、こちらに書いたように、宮崎滔天の長男宮崎龍介と王仁三郎は深い関係があります。宮崎滔天から王仁三郎に依頼があったのかもしれませんね。

 この本、面白く笑える記述がたくさんあったのですが、一番笑ったのは、ザ・ドリフターズの「いい湯だな」は「いいユダヤ」だという話(笑)。ドリフターズという名前自体が「失われた10支族」を象徴していると。

 さらにその話の続きで、「最近のウイルスも…歯磨けよ、手洗えよ…カトちゃんがリスクヘッジしてた」、「人工ウイルスが一番熱い」というくだりは、最近の状況からしてちょっと笑えない良くできた「陰謀論」ですね〜。

 プロレスとオカルトを通じて、相手や相手の考えを叩きつぶさないことをみんなが学んだ…(大槻)

 なるほど、そこに「和(にぎ)」や「言向け和(やわ)す」の精神が息づいているのですね。いい時代に生まれ育って良かった。

Amazon 人生で大切なことはオカルトとプロレスが教えてくれた

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2020.07.19

今年は冷夏か(神風吹く?)

Th_-20200721-111823 た予言が当たりそうです。ある意味大外れですが(笑)。

 今年は冷夏になるかも、という記事が出ていました。なんでも1993年の大冷夏以来の低温状況なのだとか。

 てか、1993年ってそんな大冷夏でしたっけ。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というか、まあ一昨日の夕ご飯も思い出せないのが人間です。

 昨年の夏はやたら暑かった記憶だけありますが、実は7月中旬まではけっこう梅雨寒でした。梅雨明けしたあと猛暑。それがちょうど「来年のオリンピック」の期間にあたっていたから、みんな心配したんです。

 ちなみに一昨年は梅雨がはっきりせず、7月8月ずっと猛暑でした。「再来年のオリンピック」大丈夫か?っていう話でした。

 そんな時、私はこんな記事を書いているんですね。忘れてました(笑)。

辻田真佐憲 『東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか?』

 ここで私は、こんなたわけたことを言っています。

 案外ですね、「神風」が吹くかもしれませんよ。つまり冷夏になる。ホントにありそうだから、日本という国は恐ろしい(笑)。
 昨日、ある政治家秘書の方から、「先生、出番ですよ!」と言われました。五輪に関する話です。もしかして、私のお役目は「神風」すなわち「涼風」を吹かせることなのかもしれませんね。

 そして、どうも今年は「神風」が吹くらしい。私が吹かせたのかもしれない(笑)。いや、実はこの「2020年冷夏説」は、ずっといろいろなところで主張(予言)してきたのです。

 しかし!笑えるのは、それが当たったとしても、五輪がなくなってしまうというところまでは正直予知できなかったところです。おいおい、一番大事なところじゃないか!w

 いやいや、人事については予知できないが、天命については予知できるということかもしれません。「未来の記憶」の性質ってそういうモノなのかもしれません。

 と言いつつ、結局梅雨明けに猛暑になる可能性もありますから予断は禁物です。ちなみに24日(空しい)スポーツの日が開会式で、8月9日が閉会式の予定だったのですよね。それまでに梅雨が明けるかどうか。

 いえいえ、実はもっと大きなスケールで私の予言は当たるかもしれない(?)。すなわち、2021年の東京オリンピックも開催されず、2032年(以降)に改めて開催され、その年が冷夏になるかもしれないのです。というか、それ以前に地球は寒冷化しているかもしれません。

 ただ、もし今年が冷夏だったら、「オリンピックやってたら最高だったのにな」ということにはなるでしょう。その時は、みんなで空しく笑いましょう。人間なんてちっぽけな存在だなあと。

 ちなみに、上掲の2年前の記事に次のように書きました。

 軍隊文化を最も引きずっている、いやそれを死守してきた甲子園も、自然の猛威という「神」の力によって修正を迫られている

 これもまたある意味当たったけれども、ある意味「死守」も続いていると言えるでしょうね。いずれにせよ、自然の猛威という「神」は、かなりお怒りのようです。「神風」も人間の都合の良いようには吹かないということでしょう。

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2020.07.17

キース・ジャレット・トリオ 『オール・ザ・シングス・ユー・アー』

Keith Jarrett Trio - All The Things You Are

 

 ッハのコラール前奏曲と同じだな、と気づいたので紹介しておきます。

 私も大好きというか崇拝し、何度も生で聴いたというか参拝したキース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ジャック・デジョネットのトリオ「Standards」。

 彼らの試みは、たしかにバッハのコラール前奏曲に近いかもしれない。誰もが知っているスタンダードのメロディーを素材にして、全く新しい世界を構築したわけですから。

 昨日の記事でいうモノとコトの関係で言うなら、この曲なんかいい例ですよね。私も大阪城ホールで生で聴いた記憶がありますが、このイントロのピアノ・ソロ(インプロヴィゼーション)の部分は、最初は全く何が始まっているのか分からない。調性も拍子も分からない。雲や霧の合間から光が差し、風景が次第に見え始めるように、あのスタンダードのコードやメロディーが浮かび上がってくる。

 この快感は、それこそ宗教的な「何か」に近い気がします。イントロのインプロヴィゼーションからテーマに入った瞬間の、あの快感ですよ。

 トランスクリプションがありましたので、参考にどうぞ。まあ楽譜にするとつまらなくなるという一面もあるのですが。

 そして、このトリオはその後、またテーマからだんだんと遠ざかっていく。すなわち複雑な変奏とアンサンブルによって、私たちは再びモノ世界にいざなうのですね。

 そしてそして、ドラム・ソロまで行って、最後にまたテーマが戻ってくるあの瞬間の恍惚。すごいなあ…音楽って。

 音楽のこういう「回帰性」や「モノとコトの関係性」の中に、宗教や人生や幸福のヒントがあるような気がするのですが。

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2020.07.16

バッハ 『「来ませ、聖霊、主なる神」に基づくファンタジア BWV 651』

J.S. Bach - BWV 651 - Fantasia super: Komm, heiliger Geist

 

 の演奏を聴いた時、あれ?これなんだっけ?と思いました。あまりに残響が多いため、最初テンポもリズムもわからず、ただ「音響の総体」に包まれたような感覚でした。

 ペダルにコラールの旋律が出てきて、ようやく「ああ、あれか!」と気づきました(曲名などは出てきませんでしたが)。

 そこでもう一段上の気づきがあったのです。なるほど、これがバッハの意図か!と。

 当時はほとんどの人がこれを教会で初めて聴いたわけですよね。この豊かすぎる音響の中で初めて。

 パイプオルガン自体が、まるで現代のシンセサイザーのように多様な倍音を調合することによって「音響」を作り出す楽器です。そこに加えてこの教会の過度な残響。録音では捕らえきれない倍音の反響もあるでしょう。

 当時の聴衆、すなわち信者さんたちは、その未知のモノに一瞬包まれ、まさに天上に導かれるような感覚に陥ったに違いありません。そこに、よく知ったるコラールの旋律…もちろん記憶としての歌詞も再生されるに違いない…という既知のコトが、光の向こうから現れ、そうして天地人がつながる。

 多くのコラール前奏曲やコラール幻想曲が、そのような構造と機能を持っていたのでしょう。

 バッハ自身は、そこを一つのエンターテインメントと考えていたのかもしれません。自他にとっての。つまり、いかに登場するコラールを予感させないかという挑戦、クイズとしての楽しみですね。

 バッハがこれを作曲している時の、あるいは前の、脳みその中を覗いてみたいと思いますね。AIには難しい作業でしょうから。

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2020.07.11

『サバイバルファミリー』 矢口史靖監督作品

 

 「ラサイト 半地下の家族」が、次女の言うとおりイマイチな作品だったので、違う「家族もの」を観てみました。

 矢口作品は、「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」で、けっこう私の心をつかんでいました。先日紹介した「Shall we ダンス?」の周防正行監督と同様、というか時代性でしょうかね、ちょっとマイナーな分野に素材を求めつつ、そこに人間模様や成長を描くというパターンでした。

 この「サバイバルファミリー」は、ちょっとコンセプトの違う映画ですが、しかし矢口監督らしいユーモアやペーソスが満載で楽しめました。

 基本的に、この映画にリアリズムを求めてはいけませんね。なんで蓄電池も使えなくなるのか、とか。野暮です。

 しかし、面白いことに、コロナ禍に襲われた今この作品を観ると、そこに異様なほどのリアリズムを感じざるを得ないのです。

 全く想定外のことが起きた時に、人はどう行動するのか。パニックになった時にこそ、個人も、家族も、社会も、その本質が現れ、その本質に気づかされる。

 この映画で、水や食糧が急に高値になるあたり、このたびのマスクの高騰にもつながりますし、都会の脆弱さへの気づき、田舎への回帰という現象も、今まさに起きています。

 電気が使えないということは、なかなか想像できませんよね、日本人には。しかし、考えてみると、世界中にまだ電気の通っていない所はたくさんあります。そこでの自分を想像すれば、このおとぎ話は決して夢物語ではないということが分かるでしょう。

 そう考えていくと、蓄電池が使えないというのは、長期的に見れば当然起こりうることであって、それを象徴的に描いていると思えば、別に矛盾や無理はありません。

 ちなみにウチでは、すでにここ数年、冷蔵庫が壊れ、ボイラーが壊れ、ガスコンロが壊れ、テレビが壊れ、トイレも不調だったりして、けっこうサバイバルファミリーしています(笑)。

 それでも、特に不便も不満もないウチのファミリーは、かなり想定外の災害に強い方だと思います。まさに生き残るしぶとさを持っているのではないかと自負しています。

 心配してくれる方々もいますが、そう、この映画の時任三郎ファミリーのように、この状況を楽しめればいいんじゃないでしょうかね。

 なんとかなるモノです。想定外の「モノ」には、過去の知識(コト)で対処するのではなく、未来可能性的な「モノ」で処するのが良いのではないでしょうか。

 そうすると、小日向文世さん演ずるダメダメ(と言われる)お父さんこそ、サバイバル能力に長けていたのかもしれません。無責任な「俺についてこい」的勢いが最強だったりして(笑)。

 ところで、エンディングテーマのフォスターの名曲「Hard Times Come Again No More」がいいですね。ミッキー吉野さんの編曲がお見事。歌はゴダイゴのドラマー、トミー・スナイダーさんの娘さん、SHANTIさんです。



 

 

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2020.07.10

フジファブリック 『モノノケハカランダ』

 

 日は志村正彦くんの40回目のお誕生日。

 彼の同級生の子どもたちがウチの幼稚園に通っていたりして、もし彼が生きていたら…などといろいろ考えてしまいます。

 志村くんのすごさ、志村楽曲の素晴らしさについては何度もこのブログで語ってきましたが、まだまだ日々新しい発見があり、そういう意味では彼は今でも生きていて、私たちにいろいろな影響を与え続けていると言えます。

 地元でご縁のあった者として、これからもずっと彼のことを愛し続けたいと思います。

 さて、ここのところの「コトを窮めてモノに至る」話の続きです。志村正彦というモノノケが遺した最高のモノノケソングは、やはりこれでしょう。その名も「モノノケハカランダ」。

 この曲については、彼が亡くなって少したった頃、10年前の節分の日に面白い記事を書いています。

心の鬼…モノノケハカランダ

 今日はその記事を自分でも読み返しながら、この永遠のモノノケソングを聴き直してみたいと思います。

 昨日のイチローに並ぶ天才ですね。志村くんは。日本が誇る天才ですよ。

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2020.07.09

『イチロー・インタビューズ 激闘の軌跡 2000-2019』 石田雄太 (文藝春秋)

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 れも間違いなくロゴスではなく「レンマ」だよなあ。

 コトを窮めてモノに至る。これをスポーツの中で体現して見せてくれたイチロー。彼の言葉は禅僧のそれのようだと、何度か書いてきました。その集大成。読み応えあり。

 第1章で、自らを評して「理屈で話を進めていくタイプ…理屈で理解させてくれないと、消化不良になってしまう」と語っています。

 しかし、そうした細部へのこだわり(コト)が、結果として総体(モノ)を理屈ではなく瞬時に捉え、コントロールするきっかけになっている。意識が無意識を生む。

 まさに職人、何かを「モノにした」人間ですね。そして、最終的に「モノになった」。

 うん、日本語は面白い。日本人は面白い。

 メジャーという「世界」の「総体」だからこそ、日本という「細部」が際立って見えましたね。イチローのそうした歴史的、文化的功績は多大です。

 「僕の言葉にウソはない」。言葉それ自体は元々フィクションですが、それがこれだけ集積して絡み合うと、そこに真理が立ち上がってくるから興味深い。

 しかし、私たち、イチロー自身でない人間にとっては、決してイチローの体感、体得した真理には到達できません。予感までです。だから、「ウソはない」という言葉を否定することは絶対にできないわけですね。

 そう、真理、つまり「まコト」は結局他者たる非我たる「モノ」だというのが、お釈迦様の究極の気づきであったわけで、そんな点からも、イチローレベルの賢者らの言が、どこか禅問答チックになるのは当然だと首肯されるのでした。

 ベースボールが輸入され、軍隊文化とともに日本化、日本的組織化、職人技化された「野球」が、その故郷に帰って大旋風を起こし、その風景を変えてしまったというのは、世界史上の様々な文化が輸入され、日本化され、そして逆輸出されていくに違いないという、仲小路彰が総体として捉えた日本の歴史的存在意義を象徴しています。

 そして、やっぱり「野球」は面白い。奇跡のスポーツ、いや文化です。何度も書いた記憶がありますが、この宇宙に、サッカーやバレーボールやテニスや格闘技に似たスポーツは、それこそ星の数ほどありますが、野球のような、様々な意味で不公平で不均等かつ、確率論的に絶妙なゲーム性を持つスポーツは、実はありません。宇宙人の私が言うのですから、間違いありません(笑)。

 うん、やっぱりこの本もまた、私のバイブルですね。

Amazon イチロー・インタビューズ

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2020.07.08

『レンマ学』 中沢新一 (講談社)

Th_31ccxdwlsxl_sx357_bo1204203200_ い頃、仲小路彰に影響を受けている中沢新一さん。細野晴臣さんらと山中湖に仲小路を訪ねていったこともありました(入院中で会えなかった)。

 そんな中沢さんの「レンマ学」と、ワタクシの「モノ・コト論」を並べるのもどうかと思いますが、不思議なモノでして、結果として仲小路彰の周囲をグルっと回って、コツンと出会ったという感じがします。

 もちろん、仲小路だけではありません。仏教や出口王仁三郎、そして富士山や山梨といった、ちょっと「なまよみ」なフィールドに迷い込んだ私が出会うべき先達が中沢さんだったのかもしれません。

 詳細はこの本を読んでいただくしかない。それこそ「全体」を一瞬で捉えて表現するような「レンマ的知性」も、展開して分析して並べる「ロゴス的知性」も持ち合わせていない私には、そう言うしかありません。

 ただ、時代がたしかに縁起をベースとする「レンマ的知性」を必要としているのは間違いありませんね。

 ワタクシ流に言えば、「コト」の時代は終わって「モノ」の時代が到来しようとしてる、いやそういう時代に回帰しようとしている、ということでしょう。

そう、古来日本語では、「ロゴス」のことを「コト」と言い、「レンマ」のことを「モノ」と言ったのです。「ことのは」の「コト」と「もののけ」の「モノ」。

 分析できない、意識化できない、言語化できないが、たしかにそこに「ある」「いる」感覚、徹底した他者性が「モノ」の本質です。自我が無になり、その無と有が一体化して「空」となる。そんなふうに、私はとらえています(間違っているかもしれませんが)。

 昨年でしたか、仲小路彰のことを中沢さんにお伝えしました。ご興味を持っていただいた、というか懐かしく思い出してくださったようですが、その後展開はありません。

 ただ、このコロナ禍の中で、ますます「レンマ学」が重要になってくるであろうことは間違いなく、その先達ともいえる仲小路彰の、独特な「グローバリズム」「未来学」も注目をされる時がようやく来たように感じます。

 また、ここ数日書いてきた音楽や言語における「モノ・コト論」も、この「レンマ学」の中でよりサイエンティフィックに語られています。

 けっこう読み応えのある大著ですが、それこそ脳みその「レンマ」的領域が刺激される快感が得られますので、ぜひご一読を。やはり「コトを窮めてモノに至る」なのだなあ。

Amazon レンマ学

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2020.07.06

『倍音〜音・ことば・身体の文化誌』 中村明一 (春秋社)

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 八、倍音つながりで、この本です。

 この本、本当に素晴らしい。共感するところがたくさんあります。

 冒頭の「はじめに」より。

 人間は、その歴史の中で、「目に見えないもの」を克服することによって前進してきました。

(中略)

 ところが、です。非常に身近なものであるにも関わらず、多くの人々が完全にはその存在に気づいておらず、またほとんど利用することができないものが残されています。

 それが「倍音」です。

 書き出しからして私好み。つまり「モノ狂い」(笑)。いや、冗談ではなく、「目に見えないモノ」「耳に聞こえないモノ」に対する異様な執着というのは、私も一緒ですから。

 著者の中村さんも、海山さんと同じくらい面白い経歴の持ち主。大学で応用化学を学び、ジミヘンや武満徹、そして横山勝也の尺八に衝撃を受け、弟子入りして尺八演奏家になり、バークリーでジャズや作曲を学んで最優等で卒業。

 横山勝也師に弟子入りした時の文章が良い。

 素晴らしい曲と演奏でした。美しいメロディーがあるわけでもない。当然のことながらハーモニーもない。周期的なリズムもない。それはいわゆる西洋的な「名曲」「名演奏」の概念を超えた、言葉にできないものでした。

 「コト葉にできないモノ」…やはり、音楽というジャンルにおいて、モノがコトを呑み込む様子を目の当たり、耳の当たりにしてきたに違いありません。

 私も東西の音楽を共に楽しんでおり、決して両者に優劣をつけるつもりはありませんが、少なくとも広さ、大きさに明らかな違いがあります。

 その象徴が、まさに「倍音」の扱い方にあるわけです。

 特に、整数次倍音よりも非整数次倍音とのつきあい方ですね。日本人は世界でもかなり独特です。

 そんなところから、中村さんの考察は、音楽を超えて、ことば、そして文化にまで及んでおり、それがもしかすると、ちょっとした「トンデモ」感を醸してしまっているのかもしれませんが、私からすると、まさに倍音の領域(高次元)でそれらは結びついており、全く不自然な感じはしません。

 身近にも尺八の優れた奏者がいますが、彼らに共通しているのは、西洋音楽もかなり深く理解し愛していることです。他の楽器の奏者よりも、それは顕著であり、結果として、東西を融合したり、さらにジャンルレスな音楽に向かったりしているように見えます。

 それこそ、日本人らしい思考、志向、嗜好であって、その全体像を説明するのに、たしかに「倍音」は良い例になると私も感じていました。最近も物理学者とその話をして盛り上がりました。

 昨日も書きましたが、それこそが「和」なのでしょう。今日は中国育ちの二人の若者と日本語の勉強をする機会があったのですが、そこで、中国語の「和」の話が出ました。日常的に「〜と〜」の「と(and)」という意味で使われるとのこと。

 なるほど、「和」は平等、水平的な意味を持つ文字ですね。優劣や高低や前後なく、自然に並び存する感じがします。

 日本語として「なごむ」「にぎ」「にき」「にこ(にこ)」「あえる」「たす」「やわす」「やわらぐ」などと読むようになったのもうなずけますね。

 さて、「倍音」、それも「非整数次倍音」とのつきあい方については、私はまだまだこれから楽しみをたくさん残しています。若い時は「整数次」という「コト」にこだわってきましたが、後半生は「非整数次」という「モノ」をじっくりたしなみたいと思っています。

 そんな私にとって、この本はバイブルですね。

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2020.07.05

『海山 たけのおと』 デビット・ネプチューン監督作品

 

 日の藤圭子から、ジョン・海山・ネプチューンへ。テーマは和洋昇華と倍音。

 いや、和洋昇華は倍音のシステムそのものとも言えましょう。

 倍音というのは面白いもので、コト世界的には不協和な倍音が、モノ世界的には「音色」を作ったり、ある種の感情を惹起したりする。一見調和するコトのみ積み重ねても、ちっとも「味わい」がないから面白い。

 考えてみると、短調の感情(感傷)というのも、不調和な倍音から生じるのモノです。

 いちおう和洋両方の楽器をやってきました。和の方は言うまでもなく、洋の方も倍音の豊富な古楽やら、ディストーションのかかったロックやら、くずし字的なジャズなどを好んできた私は、その倍音世界に格別な「意味」を予感しています。

 それは人間や自然そのものの存在システムに通ずる「意味」でありましょう。学校数学のようなシンプルな美しさは、実は表層の出来事であって、「コトを窮めてモノに至る」のが宇宙の本当の摂理。実際、数学や物理の世界も、今やすっかり複雑系に取り込まれています。

 この映画の感動的なのは、まさにそうした「コト」と「モノ」によって、この世界が構成されていることに気づかされるからです。それも両者は峻別されているのではなく、すっかり一体化している。

 順序としては、次元としては、やはりコトがモノに呑まれていく感じ。それが「もののね」たる日本音楽によって見事に表現されており、それをジョン・海山・ネプチューンの生き様が象徴し、またそれを息子さんのデビットがしっかり記録している。

 非常に美しい世界だと思いましたね。こういう美しい世界の構造、システム、作法、風合いのことを「和」というのでしょう。

 海山さんは本当にジャンルレスなのですが、個人的には海山さんの尺八と弦楽四重奏の「和」が好きです。

 

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