カテゴリー「「物語(モノ・コト)論」「萌え(オタク)論」」の398件の記事

2009.01.05

『病める舞姫』 土方巽 (白水社)

Yamerumaihime たまた続きです。意図せずそうなっていきますね。というか、視点がそういうふうになっているんで、何に接しても同じように見えるのでしょう。
 文明に対する文化の抵抗。まさに土方巽はその象徴的存在でした。いや、いまだにそういう存在でしょう。
 彼の文章がまた、見事に「もののけ」してるんですよね。憎いくらいです。これはなかなか真似できない。「コトノハ」をして「モノノケ」ならしめるんですから。一見文明の利器を使っているようで、そこから生まれるものは実は文化そのもの。まあ、不謹慎かもしれませんが、旅客機を使って摩天楼を灰燼に帰すようなものですね。
 しかし、この言語以前の言語はなんなんだろう。御存知ない方のために、本当にパッとめくったところを引用してみましょうか。

 『夏の畳の上や縁側で寝て起きた人は、使いものにならないように背たけの伸びた人になっていたのか、くるりくるりと裏返る小さな黄ばんだ手や、涎を啜らせる夏風が、人の顔に触ったりしていた。ふと目を転ずると、汗をかいていた花がただの色になりかかったりしていた。女におおっぴらに畳の上に引っくり返って寝られてしまうと、ああもう御仕舞いだという真から恐ろしい昼間が忘れられない。黒い足形をつけた、あの下駄が懐かしい。私はよく万力に指を挟まれて血豆を作っていた。そうした夏座敷を大人が妙におとなしい踵をつけて歩いていることもあった。目も鼻も眉もずれてしまった人や、眼鏡の蔓が溶けかかっている人が私の夏休みの記憶の中に鮮やかに浮かんでくる。鏡を足で押しながら私には、土間の片隅で言うこともなくなった人のように卵の値段を聞き出している声も聞こえてくるのだ。何の話をしていたのか、妙な湿り気を残して大人が消えていくのをよく見かけた。声を売りに歩いている人が近づいて来る。まるで絵のようにしか話せないが、風鈴も彼岸でひとつ現世でひとつと、音を使い分けてちりんちりんと鳴っていた。そんな音の透間に挟まれたように薄く寝ている人の表情は、僅かばかりある空気の隙間にも挟まっているようだった。炎天下を犬も隙間のように歩いている』

 どうでしょうか。これでも結構イメージしやすい部分ですね、ここは。いったいどのような創造のプロセスを経てこのような詩的表現が生まれるのでしょうか。これはもう、近代的、文明的な意味など一切拒絶する、真に原始的な表象世界ですね。
 文法的には実に正しいし、文明的なルールから外れることはないんです。だからこそ恐ろしいテロ行為になりうる。
 あの、機械翻訳による奇っ怪な日本語とは本質を異にしていますね。ふつう、こういうナンセンスな…あえてナンセンスと言いますが…文章を意図的に(文明的に)書こうとするとですね、もっと単純な「○○が○○した」という文章になりやすいものです。
 しかし、土方のこの文章の特徴は、豊かな形容や比喩にあるわけでして、つまり、主語や述語の○○が出てくるまで、淀みなくイメージの連鎖が書きつづられるんですよね。これはもう、ある種の意図や創作を超えています。明らかにアプリオリな心象というものが存在するとしか思えません。
 私は、その、本来私たちは言葉にできない、つまり文明的な道具では表現しきれない「モノ」こそが、「文化」だと思うわけです。
976hijikata18 そういう意味で興味深いのは、この土方の文章(心象風景のスケッチ)を読んで(見て、聞いて、感じて)、より彼の中に存する「モノ」に近づくことができるのは、ウチのカミさんなんですよね。そう、同じ郷土に生まれ、ある意味あの土地の(まるで飯詰のような)呪縛から逃れられない者どうしの共感というか共鳴というか。
 一方、ある程度土方と同時代を生きたとはいえ、ずいぶんと違う環境(高度成長期の東京)で「ものごころ」を付けてしまった私は、彼との間に確かな紐帯を持ち得ないんです。残念ながら、私と土方をつなげるモノ、いやコトは、文明的な日本語、いやさらに進んで標準語(共通語)という利器しかない。
 異文化理解などときれいごとを言ったところで、どうにもならない。理解しきれないから異文化なのだと、いつも私は言っています。それはこういうことなんです。異文化理解という、ある意味無意味で(笑)、かなり暴力的な発想こそが、文明的な偽善のようにも思えてきますね。
 昨日の本の中で、小林さんは、文化の相対化ということについても語っていました。それはわかります。お互いの違いを理解し尊重するということですね。でも、実際、私はこうして同じ日本で、同じ時代の空気を吸ったはずの一人の男の文化すら理解できない。違いがあることは理解できますが、違いは理解できない。そして、尊重なんていう高慢な接し方もできません。
 ただ、ただ、私はこの「モノ」に畏怖を感じます。単純な憧れや、ものすごい遠くの記憶に対する郷愁も感じないとは言いませんが、しかし、それ以前に正直怖い。自分が信用し、駆使しているはずの日本語が、どうしてここまでおどろおどろしく、なまめかしく、そうエロチックにもだえるのか。自分が操っていた、すなわちコト化して馴致していたはずのコトノハが、私の知らないところで成長して、私のコントロールし得ない生き物になっている。これは本当に恐ろしいことです。
 私がアメリカなら、いろいろな文明的武器を使って、この生き物を攻撃するでしょうね。抹殺するでしょう。あるいは完全無視をきめこむでしょう。しかし、私はどうしてもこの生き物と対峙していたいと、強く思ってしまうのです。あわよくば白旗を揚げてもいいとも思っています。
 この感覚は、土方の舞踏そのものにも言えることです。我々が歴史上、あるいは生物進化上一生懸命に飼い馴らしてきたはずの「身体」が、勝手に蠢き出す。文明的な形式や美学や科学的トレーニングなどを、いとも簡単にぶっ壊して、体は体でありながら、しかし自分の体ではない状態。意識という「コト」を上回る身体という「モノ」の意志が、そこに生き生きと息づいているのです。
 私と土方巽との出会い(再会と言っていいのでしょうか)は、ちょうど1年ほど前のことになります。それはそれはあまりに突然の彼の出来でした。それからと言うもの、土方の魂は、それこそ意識や身体の存在すら超えて、私を翻弄し続けています。
 これはもしかすると、私の文明的な胡散臭さに対する、土方からの攻撃なのかもしれません。土方こそ胡散臭い存在だと思っているふしもあった私は、今その胡散臭さと思われていたモノからのすさまじい攻撃を受けて、自らの胡散臭さを露呈され、そして降参寸前の状態にまで追いつめられているのでした。

松岡正剛の千夜千冊「病める舞姫」

Amazon 病める舞姫

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.01.04

『不安な時代、そして文明の衰退』 小林道憲 (NHKブックス)

2 、合宿中です。いちおうセンター2週間前の仕上げの合宿のはずなんですが、ウチのギャルども、なんだかよく喰うし笑うし卓球で盛り上がるし、とても受験生とは思えませんね(笑)。さすがです。こういう調子なら大丈夫でしょう。もちろん勉強するときはものすごい集中力です。こういうふうにけじめのついている時は、いい結果が出るものです。
 さて、私はと言いますと、こんな本を読んでみました。また昨日の続きのような話になってしまいます。どうも今年は正月からそういう流れがありますね。今年のテーマはこれなのかもしれません。
 しかしずいぶんと暗いタイトルですね。これが書かれたのが、2001年。あの同時多発テロがあった直後です。いったい21世紀はどんな歴史が紡がれるのか、たしかにあの頃はちょっと悲観的な空気が流れていましたっけ。
 それで私たちはその答というか、とりあえず起きてしまったことの説明を求めて、いろいろな言葉を発しましたね。一番わかりやすく、私も当座それで満足したのが、いわゆるキリスト教文明とイスラム教文明の対立という構図でした。
 今となっては、それはあまりに短絡的で単純化された答だったわけですが、しかし、たしかにあの時は「不安」の中で「安心」を得るということがまず第一に必要なことでしたので、それは十分に意味のあるものでした。
 いつも言うとおり、我々は自分の外部にある「モノ」を、内部に「コト」として取り込みたいという願望、本能を持っています。「モノ」は言わば「もののけ」、つまり未知や不随意を表す語です。「コト」は既知や随意を表します。
 私たちはあの「モノすごい」光景に意味を与え、「こういうコトがあった」というふうに納得したかったんですね。そして、今あれからずいぶんと時間が経って、ある程度固定化された歴史的な出来事になりつつあります。
 で、小林さんはあの頃、ああいう言説が呪文のように唱えられていたその時に、このように言っています。
「〈文明の衝突〉として理解してしまうと、事態を見誤ってしまうであろう」
 つまり、ハンチントンの考え方を、文明と文化、文明と政治の区別を無視した粗雑なものとして退けているのです。
 私も基本的には小林さんの意見に同意したいと思っています。ですから、細かい点についてはそれこそこの本を読んでいただければいいと思いますし、感想などはいつものように他の優れたレビューにおまかせするといたしましょう。
 せっかくですから、私は私だけが語れることを語りますね(それこそいつものことですけど)。
 私の捉える文化と文明の違いについてです。私はそこは実にシンプルに分別しているんです。
 文化はculture、文明はcivilization…そう書くと、なんだよくある話じゃないか、cultureは耕すことで、civilizationは市民化・秩序化だろ、と言われると思いますが、実は、その通りです(笑)。
 ただ、私はそれを両方とも人間の営為と捉えるのではなく、自然と人間という対立として見ているのです。そう、「モノ・コト論」的発想ですよ。えっ?文化こそ人間の活動じゃないかって?
 そうなんです。なにしろ文化活動とも言いますし、だいいちが人間は文化的な動物だと定義されますし、憲法でも文化的に生きることを保証されていますよね。
 ところが、ちょっと発想を変えてみるんですね。そうすると、実は文化というのは人間が主体じゃないということがわかるんです。あくまで人間は耕し手、あるいはメディアなんです。
 どういうことかと申しますと、そうですねえ、例えば文化の代表格である、衣食住なんかで考えるとわかりやすいかもしれない。衣も食も住も、みんな自然環境の特徴、その土地のアイデンティティーみたいなものが、人間の生活を媒体として現れたものじゃないですか。つまり、文化とは自然の一形態に過ぎないと考えているんです。
 では一方の文明はどうかといいますと、これは人間が、人間や自然を自らの思い通りに、自らの統治がしやすいように、形式化、秩序化、システム化することです。すなわち、こちらは人工であり、人為であるわけですね。
 ですから、この本でも、あるいはどこでも言われていることですが、世界中がアメリカ化するということは、それはまさに文明化だと思うんです。その土地の食材を無視してマクドナルドがあることを考えればよく分かりますよね。
 ですから、実は例の同時多発テロについては、私の意見はちょっと小林さんのそれと似て非なるものかもしれません。小林さんはアメリカの一極支配に対するイスラム原理主義側の反抗だとして、やはり画一化しようとする文明に対してローカルな文化が食いついたというような感じで論じています。ワタクシ的な観点からしますと、人間(コト)に対する自然(モノ)の反抗だとも言えるんですね。
 ある意味これは極論というか、暴論にも聞こえるかもしれません。しかし、世界中のほとんど全ての人が、そうした世界のアメリカ文明化には違和感を覚えているわけで、その違和感の出所というのは、これはその土地土地の生活(衣食住、言語、芸術ほか)感であることは間違いないと思うんです。つまり、我々はそうした土地土地の自然風土の叫びを、自らをメディアとして表現しようとしているわけですね。その表現方法…倫理的に正しいかどうかは別として…の一つがあのテロ行為だったと思います。そして、それに対抗したアメリカの報復戦争はもちろん文明(人間・コト)の表現であったと。
 お分かりになりましたでしょうか。私は私たちが自ら創造していると思っている「文化」というものは、まさしく自然に属する「モノ」であって、決して「コト」ではないと考えています。
 ただ、宗教は文化か文明かという問題。これは難しいですね。自然風土が宗教の生みの親ではありますが、あるところから人間の脳内でのフィクション部分が増えていって、文明的な普遍性、一様性を追求しがちですからね。そうすると、今回のテロや、その他の宗教戦争は「文明vs文明」「人間vs人間」とも言えなくもない…。もうちょっと考えてみます。

Amazon 不安な時代、そして文明の衰退

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.27

『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字 〈下〉』 山田真哉 (光文社新書)

33403437 日のつづき。こちらも1時間ほどで読了しました。〈上〉では単位時間当たりの単価が高いと感じたのですが、こちらでは損をした気がしませんでした。それだけ内容が良かったということです。
 これぞすなわち、「会計は科学、ビジネスは非科学」ということなのかもしれませんね。数字的には同価値になるはずが、心理的な面では全く違う価値を持つわけです。
 昨日も書きましたけれど、数字というのはあくまで抽象的なもの、すなわち無限に多様なモノから、指を折って数えられるデジットなコトを抽出したものです。だからこそ便利であり、危険であり、有用であり、役立たずなわけです。
 この本では、そうした特殊言語としての数字への関わり方が詳しく分かりやすく解説されていまして、たしかに上巻と相互に補い合い、結果として世の中の多様性、多面性を表現していると感じました。ですから、いわゆるビジネス書や宗教書のようには完結しません。ある意味一つの結論が出ず、納得はするけれどすっきりはしないかもしれませんね。でも、それがこのシリーズの特徴でしょうし、「文学」たる所以だと思いますよ。
 私はいちおう教師ですが、よく「教師はダメだ」というようなことを言いますし、「学校教育」の無力さや危険性についても語ります。それと同様に、会計士である山田さんは、最終的に会計を否定しているように感じられます。しかし、そのような姿勢は決して自己否定ではなく、それこそ世の多様性と自己の他律性を証明するものであり、原理主義に陥らない一つの方策でありましょう。
 で、私も強く共感したのですが、原理主義に陥らないための最初の方法が、1の次の2でして、つまり二分法ですね。そして、それをさらに2→3→…としていく。そういう発想法と判断と行動をとっていくことが、まあ、大人になるということでしょうし、社会性を身につけるということでしょうし、私たち教師が学校で教えるべきことだと思いますね。
 昨日も書きましたとおり、私たちは「コト(フィクション・抽象)」によって安心を得たいと思っています。恣意的、即答的、固定的、画一的なコトに寄りかかっていたいと願望します。それがカネであったり、カミであったりするわけですね。あるいは数字。しかし、実際には、確率が不確定性を証明してしまったり、仏教の教えが不確実性を証明してしまったり、あるいは世界の金融市場が突然崩壊してしまったりして、我々は「モノ」の本質に対峙させられます。
 そんな時にどれだけ柔軟に発想し判断できるか。それこそが我々に(ビジネスに)必要なことなのでしょう。この本では結論的にそういうことを語っているのだと思いました。私の言い方とはずいぶん違いますけどね。
 しかし、多様性の中にある真理ということで、きっと、いろいろな読者がいろいろな次元で共感したのではないでしょうか。どんな仕事をしている人でも、あるいは仕事をしていない人もですね、数字とは関わっていかねばなりません。お金がないと生きられませんし。そういうまさに普遍的に抽象的な「数字」を扱って、その対岸にある普遍的な多様性という真理を証明した名著であると思います。
 こういう、本当は難しいこと、「モノの本質が無常である」という真理(マコト)を、分かりやすく説明するのは難しいと思いますが、筆者はさすが文学部の出身ですね、実に上手に、より具体的に、そして無理せず自分のフィールドで表現してくれました。高校生にもぜひ読んでもらいたい良き教材とも言えるでしょう。

Amazon 「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い

楽天ブックス 「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.12.26

『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉』 山田真哉 (光文社新書)

33403400 書きにあるように1時間で読めてしまう本なので、単位時間あたりの単価はずいぶん高い本だと思いました(笑)。
 あと、筆者の出世作『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』の記事では、タイトルの勝利みたいなこと書きましたが、こちらはどうでしょうね。一瞬、いやかなりの時間タイトルの意味がつかみきれないのは、これはやはり戦略的なものなのでしょうか。そう、主語がわかりにくいんですよね。結論的には「客」なわけですけど、ちょっと文脈がないと無理ですよね、真意をつかむの。まあ普通に読んでしまうと「バイト」が主語だと思ってしまう。
 これがまさに日本語の特徴ですけれど、「?」と思わせて手に取らせて読ませるという手法は、ちょっと詐欺的にも感じられます。
 …と、そのへんもそれこそ計算済みなのかもしれませんね。つまり、この本では、そういう文学的、詐欺的、うそっぽい話がたくさん出てくるからです。つまり、数字のマジックというやつです。いかに我々が数字という言語にだまされ、振り回されているか。
 ですから、内容的には以前読んだ『データの罠 世論はこうしてつくられる』や、『行動経済学 経済は「感情」で動いている』に近いものがありました。
 つまり、これは数字リテラシーの本だということです。ま、極論してしまえば、経営も会計も経済も、みんな気分で動いている、あるいは気分を動かしてなんぼであるということで、そういう意味としては、これはまさに文学であるということでしょう。
 数字はたしかに言語の一部としてとらえることもできます。しかし、筆者も語るように数字にはいわゆる言葉とは違った側面もありますね。そこに人は魅かれ、そして服するわけです。そう、私の「モノ・コト論」で言えば、不確実な「モノ」をですね、ある程度確実な「コト」もどきとして提示してくれのが数字なんです。本来捉えがたい「モノ」をあたかもそれらしく象って見せる。
 ですから、私は数字のことをいつも神様だと思っています。実在しないけれども、概念としてはある。それもかなり普遍的な概念としてそこにあって、我々人間の些末な感情や事情にかかわらず、そこに厳然としてあるかのように振る舞う数字。これは神に似ていますね。
 それが、人間の欲望と結託して悪神化したのが「カネ(マネー)」です…と私は考えています。実際の宗教でもそうですけれど、我々が「モノ(もののけ)」の恐怖から逃れるために作ったフィクション(コト)が、いつのまにか主人である人間よりも強くなってしまって、我々を振り回すようになってしまったんたですね。今の世界不況を見れば、その悪神の主人、いやその悪神のしもべたちの愚かさかよくわかります。
 いつかも書いたとおり、資本主義経済や自由市場経済というのには、根本的な欠陥があると思います。それは人の心を堕落させるという点です。いかに人をだましてもうけるか。いかに人をだまして損させるか。いかに法律にひっかからないようにギリギリのワルをするか。あるいはそういうことをしている自分たちを客観的に観察しないようにするか。自分たちのやっていることがいかに善であると自己洗脳するか。特に、グローバル化が進んで相手の顔が見えないようになると、その傾向はどんどん進みます。
 だから、私はいわゆる会計や、筆者の語る「数字がうまくなる」というものにも積極的に興味を持てないんですね。いや、今こういうシステムの中に生きているわけですから、そういうテクニックも身につけないと人さまにも迷惑をかける事態になるというのもわかります。でも、なんていうかなあ、自分が得するということは、誰かが損するということ、そういう単純な事実に目をつぶりたくはないんです。そりゃあ、わかりますよ、みんなが得をして幸せになるのが最終目標だという理想も。でも、人間だけでなく自然界全体のことを考えれば、やっぱりプラスマイナスゼロっていうのが、本当の会計学なんじゃないでしょうか。
 タウリン1000mgとか、9割が泣いたとか、1980円とか、そういうことを恥ずかしげもなく言って、いやそれがギャグやお笑いだったらいいんですけど、大まじめな顔してまじめな人をだまそうするのは、あるいはそういう精神が称揚されるような世の中は、やっぱり変だと思うんですよね。
 なんて偉そうなこと言ってますけど、実は私も仕事上そういうことばかりをしています(笑)。いわゆる演出による煽動や先導ですよ。損をさせるのではなく、得をさせるためと称してね。ですから、たとえばこの本なんかも、そういう演出の一つとして生徒にぜひ読ませたいとも思うのでした。ただ、難しいですねえ。だまされない方法を学ぶということは、だます方法を学ぶということにもなりますので…。
 ま、プロレスみたいにお互いが上手にだましだまされて楽しければ、それは文化になるのかもしれませんけど、ガチのだまし合いはケンカや戦争の種にしかなりませんね。

Amazon 食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉

楽天ブックス 食い逃げされてもバイトは雇うな


不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.12

『東京物語』 小津安二郎監督作品

1 津の誕生日にして命日。昨年は「浮草」を紹介しました。今年はとうとう「東京物語」です。たぶん100回目くらいでしょう。今、ビデオで見終わったところです。
 しかし、いざ記事として書こうとすると、胸が締めつけられるような心持ちになって筆が進みません。10年前なら、それぞれのシーンについて、いくらでも書くことができたでしょうね。どうしたんだろう。まったく語れない。かわりに涙が湧いて出てくる。
 かえすがえす、すごい作品です。これは日本の、いや世界の遺産ですね。世界一の映画です。「もののあはれ」の物語。この映画を観ずして、そしてこの映画に共感せずして、日本人として、人間として、いかに死ねましょうか。本気でそう思いました。
 おそらく自分もこの歳になって、この物語世界を、鑑賞するのではなく追体験するようになってきたんでしょうね。私の両親もこの映画の老夫婦と同じくらいの年齢になりましたし、自分の社会的立場もちょうどあんな感じ。子ども(孫)もあんな年頃ですし。
 時が過ぎていく。その時とともに皆離れていく。心も体も離れていく。無常です。まさに「モノ」の本質を固定し語った「物語」です。これは仏典ですね。聖書ではない。永遠の命なんてウソはつきません。誰もが美しい心を持つなんていう、そんな偽善的なことを言いません。
 しかし、どこか救いもある。皆がそういう世界に生きているという安心なのでしょうか。諦観から生じる安定なのでしょうか。「あはれ」は「ああ」という単なる嘆息ではありません。「あっぱれ」でもあるのです。
 それにしても、完璧な脚本、演出、造形、映像。動かしようがない名作ですね。最後の「懐中時計」から漁船のエンジン音につながる、あの音響効果もお見事ですね。全ては時と共に淡々と過ぎていきます。
 小津本人はあんまり好きではなかったとか。湿っぽくなってしまったと反省したようですね。たしかにスラップスティックス出身の小津としては、ややメランコリックすぎたかもしれません。
 しかし、そういう特殊な作品だからこその輝き、あるいは闇というものがあるのだと信じます。
 そういう意味では、マスターがなくなって、コントラストのつぶれたコピーしか存在しないのも、結果として奏功しているかもしれませんね。あのアングル、遠近感、そして明暗。まるでフェルメールのようにフィクショナルでリアルです。
 フィクショナルでリアルと言えば、やっぱり72歳の主役を演じた笠智衆ですね。あの時48歳だそうです。その他の役者さんたちもすごすぎる。
 もう、これは観ていただくしかないでしょう。いろいろな年齢で何度も観て味わうべき作品です。
 最後にちょっと蛇足を。2年続けてやかんの話です。
 このビデオ、カミさんと鼻水垂らしながら観てたんですが、観終わってカミさんは、「私も原節子みたいなお嫁さんにならなくちゃ」と言って台所に立ちました。と、その時、ウチのやかんの把っ手が壊れたんです。ずいぶん長く使っていたやかんでした。私は「なおる、なおる。なおるよ。なおるさ」と言いましたが、結局無理ということで、やかんさんは天寿を全うしました。
 カミさんは、「このまま、捨てられないな。こんな汚いのをゴミに出せない」と言って、金たわしでゴシゴシ磨きはじめました。死んで初めて磨かれるやかん。映画では大坂志郎が「墓にふとんは着せられず」と言っていましたが、やかんは磨きをかけられました。なんだか、カミさんが杉村春子みたいに見えました(笑)。

Amazon 東京物語

東京物語

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.12.11

『プニッとやみつき にゃウンド肉球』 (エポック社)

Img55610402 んだかとんでもなく忙しいので、今日は非常に軽めに行きます。今、とってもほしいものです。
 ウチには黒猫が3匹おりますので、都合12個(?)のリアル肉球があるわけですが、それらはそんなにしょっちゅうプニプニするわけにもいきませんし、外に持ち歩くわけにはいきませんよね。でも、携帯できるなら携帯して、そして癒されたい…
 そんな時、とっても重宝しそうなのがコレです。
 まあ、これはいわゆる「萌え」の対象というわけですね。で、私の「萌え」の定義は「國文學」に書きましたように、基本「所有欲」でありますからして、このような製品が生まれ、そして人気を博すというのはごもっともなことであります。
 なんでも、こだわりの素材&設計により、非常にリアルに肉球感を出しているとのこと。肉球部分はTPE(熱可塑性エラストマー)を使用し、周辺の短毛の生えた部分は同社がシルバニアシリーズで培ったフロッキー加工を施しているとか。
 そこまでこだわるなら、押した時の猫の鳴き声とやらもリアル猫の鳴き声をサンプリングしたものかと言いますと、なぜかそこはヴァーチャルというかフィクショナルでして、あの初音ミクの声優さん、リアル藤田咲さん(?)の声をサンプリングしたものだそうです。
 ま、そのへんが、絶妙なさじ加減ということでしょうかね。完全なリアルを目指すと、逆にリアル感に欠けるというパラドックスが生じるんです。リアル感、特に愛すべきものへのリアル感というのは、その当事者の主観によって形成されるものなので、人それぞれの萌えスポットはどんどん狭まってしまい、ちょっと的が外れただけで、非萌え(萎え)になってしまう。ですから、わざと、リアリズムから距離感を保って、万人がある程度満足する作品を提供するというのは得策です。
 日本ではそういう、西洋的なものとは違った、別のリアリズムが発達しました。皆さん御存知の通りです。それが例えば西洋で印象派を生むきっかけになったりしましたね。つまり、人それぞれのこだわりや愛情の部分を、逆説的に利用して、妄想的、想像的にフィクションのすき間を埋めるという方法です。フィクションからリアルを喚起させる。これは昨日の「能」なんかにも言えます。もちろんプロレスにも。
 おっと、また理屈っぽくなってしまった。そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、これが今ほしいのです。で、この「ほしい」、「こちらに招きたい」、「所有したい」というのが「萌え(=をかし)」であると、私は実感的にも日本語学的にも文化史的にも信じているわけであります。
2 そうだなあ、一番ほしいのは、やっぱり黒猫飼いとしてのこだわりで、黒猫の黒肉球バージョンでしょうか。
 ちなみに、ガチャガチャに入っているのはフロッキー加工をしていない廉価版ということです。

にゃウンド肉球 公式

Amazon にゃウンド肉球レアセット

今話題!やみつき触感!ネコボイスが鳴る!にゃウンド肉球


不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.10

『観世寿夫 世阿弥を読む』 観世寿夫・荻原達子編 (平凡社ライブラリー)

1 初にお断りしておきますが、最後は「プロレス論」に発展しますので、あしからず。
 昨日のバレエの天才から、今日は能の天才のお言葉。
 少し前に初めてテレビで拝見し、こちらの記事で紹介した、昭和の世阿弥観世寿夫さん。彼の膨大な著述のダイジェスト版です。非常に深く面白く、そこらじゅうに付箋をし、線を引きまくりました。
 まずなんと言っても印象に残ったのは、何度も繰りかえされる「無心の位」についての記述。

『あらゆるものを通して覚え込んだ上で、表現意識から離れて、自然に流れるごとく演じていける状態に身を置くこと、それは単なる「無」ではなく、すべての「有」を包含したところの「無」でなくてはならないのです』
『簡単に言ってしまえば、自意識を離れるということだ』
『何もない無からはじまり、あらゆる修業を重ねて自分の芸を確立した後に、ふたたび自己を放擲する』

 これらは、先日書いた道元の「仏道を習ふといふは自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」に通じますね。あるいは「色即是空・空即是色」、いや、「空即是色・色即是空」でしょうか。世阿弥は曹洞宗の僧侶について禅を学んでいましたから、当然と言えば当然です。
 昨日の岩田守弘さんも「考えたら踊りではなくなる」というようなことを言っていましたね。バレエと能とでは、時間と空間、そして重力の扱い方が全く異なりますが、しかし、究極のところではかなり共通していると感じました。
 ワタクシ流に申しますと、それこそが「ものにする」ということになりましょうか。そうそう、世阿弥の「物学(ものまね)論」は、私の「モノ・コト論」に非常に有用なのですが、まだまだ勉強しなくてはならないし、それこそ「ものになっていない」ので、またいつか書きたいと思います。とりあえず、風姿花伝の原典をちゃんと読み直してからですね。
 音楽の話も面白かった。特に、西洋の音楽と比べてのところは、よく考えてみたい内容でした。

『能のリズム−。これは精しく書きはじめたらきりがない。日本語というものを考えるうえにもこんなに面白いものはない。だがまあ、リズム論議はまたの機会にして、ただ、声は出したときが終わるとき、という話だけにとどめておこう。声は出したときが終わるとき。そうなのだ。声は出すまでが問題なのである。出してしまったらもう決着は着いてしまったのだ。声の意味も声の調子も、声となって出るまでこそが大切なのである。楽器の音も同じだ。鼓なら鼓は、ポ、と音が出てしまったときはその音の終わったときだ。音として外に出るまでが、その音の生命だ。間も、音の大小も、すべて音になるまでが問題。だからカケ声や打つべき体内の準備こそがリズムをつくる。ここがヨーロッパ風感覚とまったく正反対のところである。音を出してからその音がはじまるのではないのだ。音が出たときは終わっている、これは日本のリズム感覚の最大特徴であろう。能は如実に、しかもたいへん論理的に、このリズム感覚を音楽として構成しているのである』

 これは実に興味深いですね。西洋楽器を(&いちおう邦楽器も)やる人間としては、実に重い文章。なんとなくですが、よく解る(笑)。ちょっと私は寿夫さんのようにうまく言葉にはできないけれど、よ〜く解ります。いやあ、もっともっとリズムについて、日本語について、語ってほしかったなあ。いちばんいいところが「またの機会」になってしまっている…残念。
 しかし、この対比は、音楽や言語だけでなく、もちろん舞や踊りにも言えるし、あるいは絵画や造形作品、現代の歌などにも言えることでしょう。どうも私たちは、私たちオリジナルな日本固有の感覚、表面に出ない部分、出す前の何か、をとらえる感覚を忘れてしまっているようです。うむ、私もちょっと西洋かぶれしすぎたかもしれない…。
 それから、すみません、私はどうしても能とプロレスを結びつけたくなってしまうんです。「面(おもて)」に関する記述は、ほとんど覆面レスラーのマスクに通じるものがありましたし、「からだが見えすぎるというダメを出される」という部分では、肉体表現における「邪魔な肉体」という、これはいかにも禅的な感じですが、これってプロレスでもよくあることだと思いました。彼らプロレスラーは、ある意味肉体の見世物であるべきなのですが、それが最前面に出てしまっては一流にはなれません。肉体自身や、肉体が見せる動きだけでは、私たちはプロレス的満足を得られないんですね。そこが難しいところですし、最近のレスラーたちの問題点でもあります。
 最後に全てのプロレスラーの皆さんに、観世寿夫の次の言葉を贈ります。ちなみに( )内が原文です。これは決してパロディーでも戯れ言でもありません。私は大まじめです。

『リング(能舞台)は観客の中へ押し出した立方体の空間ですが、その中に立つレスラー(演者)は、目に見えない力によって無限に前後左右から引っ張られた中に立っていて、その無限大に通した力を内面の息のつめひらきやからだの動きによって、集約したり開放したりする、それが表現されている(謡われている)ストーリー(詞章)なり旋律なりリズムなりと一体化して何らかの訴えを感じさせるわけです。ですから私にとってからだの表現する"美"とは、ほんの僅かのかすかな動作でも、大きく飛び上がるような力動感に溢れた動作でも、それがその人間のからだの動きというものの範囲にとどまるのではなく、無限に広がる空間を支配して何ものかを訴えるところにあります。一足出る動きにも、指一本動かすにも、頭の先から手の先まで、また呼吸及び神経の働きまで、内的な要素を含めすべての器官が作用して、ある集中にいたったとき、観る人になにがしかの感動を与える、そこに肉体を通しての美があると思うのです』

Amazon 観世寿夫 世阿弥を読む

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.08

『悩む力』 姜尚中 (集英社新書)

08720444 れているというのでいちおう読んでみました。あっという間に読める本です。売れる本というのは大概1時間くらいで読めるものが多い。これは当然でしょう。いくらいい内容でも読むのに難渋するようじゃ、評判はよくなりません。
 姜尚中さんと言えば、爆問学問「愛の政治学」での穏やかな語り口が印象に残っています。彼は在日ということもあって、充分「悩む」環境に恵まれていたのでしょう。そして、それを乗り越えて現在の境地になったというのは、よくわかるところです。
 それが、この本に頻繁に登場する夏目漱石と重なるところがあるのでしょう。そう、実はこの本、ほとんど漱石本なんですよ。これは驚きました。いちおうマックス・ウェーバーも出てきますけど、ほんの脇役といった感じです。
 で、漱石作品に登場する男って、ほら、みんなダメ男じゃないですか。そこに現代に通ずる「悩む力」を見ているんですね。たしかに、その明治のダメ男は当時の現実の男を象徴している部分もあると思うんですけど、いや、普通じゃないな、ちょっと異様な境遇と心理ですよ。そう、やっぱり漱石自身なんだと思います。すなわち、姜さんは単純に漱石の「悩む力」を持ち上げているんです。それはまたすなわち姜さん自身の「悩む力」だとも言えます。
 なるほど「悩む力」はちょっとかっこいい。でも、なんていうかなあ、その「悩み」をどう乗り越えるかという部分が大切だと思うんですけど、そこんとこはあんまり書かれていない。悩むことを肯定してくれているのは分かるんですけど、それをどう乗り越えていくかが知りたいという人には直接的に答えていない。まあ、書名が「悩む力」であって、「悩みを乗り越える力」ではありませんから、これでいいのかもしれません。
 悩みはみんなあるでしょう。特に「青春」と言われる(言われた)時に悩まない人がいたら、ちょっと心配ですね。そして、その悩みと付き合う中で人間として育っていくというのは、これはもう当たり前すぎる事実です。みんな悩んで大きくなった。
 しかし、最近の若者(生徒たち)を見ていますと、その「悩みとのつきあい方」が下手なやつが増えてきているような気がします。世で言われる現代的な犯罪や病が、それを象徴しているのではないでしょうか。学校という現場でも、とにかくそういうケアの仕事が圧倒的に増えています。
 なんなんでしょうねえ。昔はちょっと違う方向に「悩み」の発散がありましたね。仮想敵国というか、先生とか、大人とか、社会とか、組織とか、なんか実体はよくわからないけれど敵みたいなのがあって、それに対して反抗したり、暴れたり、闘ったりしてましたけどね。今は平和すぎるんでしょうか、敵が妄想の中にもいない。いや、妄想にすら収まらないほど、よりつかみどころがないんでしょうか。言語化されてないのかなあ。とにかく、悩みとその対処が外に向かうのではなくて、ある意味内側に向かってしまう。そしてある極点で(案外その極点が日常的に現れるんですが)爆縮して、ひきこもったり、自傷したり、ひどい場合は自殺したり、あるいは爆発して無差別殺人に走ったり。
 おそらく「悩む」という行為は孤独なんですよ。その孤独と闘う力が弱くなっているのは事実でしょうね。みんな妙にさびしがり屋さんです。そして、妄想力も必要かなあ。敵を想定することで、自己を安定させるという手法ですよ。
 よく、私は人に「悩みがなさそう」と言われます。たしかに、それほど大きな悩みやストレスはありません。このブログを読んでもわかるとおり、気分や機嫌に大きな波がありません。それは自分でも認めます。では、それは「悩む力」がないということなのか、というと、ちょっと異論があり…ませんね(笑)。
 私もそれなりに青春時代にはけっこう悩みました。それこそ文学者にでもなろうかというくらい(イタいくらい)悩みました。でも、そんなのホントに自意識の自意識による自意識のための悩みであって、さっさと自分を諦めてしまえば、さっさと消えてしまう程度の悩みだったんですね。
 違う言い方をすると、私は「悩み」を「喜び」に変える力は持っているのかもしれません。「悩み」は不随意(モノ)から生じ、そして、自分を変化させ、成長させるのは、不随意しかないと信じているのです。だから、悩みは佳きパートナーであり、ティーチャーであります。何ごとも思いのままでは、今までの自分の範囲内ということですからね。「もの思い」こそ、明日への活力であります。
 で、自分について悩むのはやめた、というか、いわゆる「悩む」必要がなくなってですね、世の中について悩むことが多くなったんです。この壮大な(?)悩みには、それほど「力」はいらないんですよ。それは自己内部の力ではなくて、世の中自体にその力があるからです。ですから、ある意味「悩む力」がない。
 漱石のように行雲流水の境地に至ったわけでもありません。それは理想ですが、いまだ世の中を捨て切れないし、見捨て切れない。で、世の中について悩むためには、いわゆる悩んでいる場合ではないのです。もっと明るく前向きに立ち向かっていかないと、どうも世の中は変えられそうにないのです。
 なんて、ずいぶんとデッカイことを言ってしまいましたね。とにかくこの本、なんか「青春」臭ぷんぷんで、ちょっと気恥ずかしく思いました。それがおそらく姜さんの純粋な優しさであると思いますが。ちなみにワタクシ的に面白かったのは、最終章の『老いて「最強」たれ』でした。

Amazon 悩む力

楽天ブックス 悩む力


不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.02

『数学ガール 上』 結城浩 (著),日坂水柯 (イラスト)  (メディアファクトリー)

Img55854901 学の先生にお借りしました。この前は化学の先生にこちらの萌え系を借りましたっけ。とうとう「萌え」は数学の牙城にまで迫ってきました。こっちは mathematical girls だ。
 というか、もともと数学って思いっきり妄想世界ですし、ある種自分の理想のスタイルやデザインを追求する性質のものですから、案外私の定義する「萌え=をかし」観と近しい関係にあるんですよ。疑似的な永遠性を得ているわけですからね。
 それで、たとえばペレリマンのような天才数学者はあっちの世界へ行ってしまった。究極の萌え感情は、ほとんど宗教と化しますので。
 そう、「理系の人々」ではありませんが、実は不随意な「モノ」よりも、不変な「コト」を求める理系さんは、本来的にオタク傾向があるわけです。
 一方、文系は「もののあはれ」に走っちゃうわけですね。それもまたある種のオタク傾向でありまして(国語のセンセイである私を見ればわかる)、結局すべての人間はオタクという極点に収束する…なんちゃって。
 ま、それは半分冗談、半分本気としまして、この数学ガール。数学の先生曰く、数学の部分はなかなかしっかりしているとのこと。それも、専門の世界においては基本的なことばかりらしい。私にとっては初めて知ることが多く(もちろん解らないのがほとんどでしたが)けっこう楽しめました。
 実はですねえ、高校数学でとんでもないコンプレックスを持ってしまった私は、ある時期までは完全に数学アレルギーになっていたんですけど、面白いもので、この本あたりから、その世界に興味を持つようになったんですよ。一種の憧れのようなものもあるんじゃないでしょうか。相変わらず数式などは全く理解できないのですが、なんというか、それを取り巻く人間たちの人間模様でしょうかね、数学という究極のフィクションが照らし出すリアルな人間像とでも言うのでしょうか、そういうものにとても興味を持つようになりました。
 その後、「博士の愛した数式」あたりで、数学の美しさが文学や映画になったりしてブームになりました。なるほどそういう切り口からも数学の魅力を伝えることはできる。
 で、このコミックはどうか。数学と青春…いったいどういう展開なのだろうか。結論から言いますと、一見この三角関係はですね、別に「数学」を介さなくても成り立つというか、それがスポーツであっても、アニメであっても、とにかく恋の媒介としては、まあなんでもいいわけですよ。そこに数学を持ってきたからちょっと新しい。けれども、これは数学である必然性はないな、と思ったのです。
 しかし、なんとなくある瞬間、あっ、これは数学の不条理と残酷さでなければダメなのかも!と気づきました。
 冒頭に出てくる「なぜ素数に1が含まれないか」という疑問に対して提示される、「素因数分解の一意性」。こういう定理や、その定理より前に存在している(存在せしめられている)公理というものの、恣意性やある意味での社会性やそれに伴う暴力性。これって案外美しいものじゃないなと(テトラちゃんも「そんな勝手な定義」と言っています)。
 「一意性」は数学においてとっても重要なことらしいのですが、ま、ちょっとこじつけですけど、それって例えば「配偶者は1名に限る」というような法律につながるものですし、あるいはそれ以前に「恋愛の対象は特定の1名が望ましい」という不文律にもつながるように思います。
 「定義は有用でなければならない」とありましたが、それはまさに社会的有用性ですよね。個人で勝手な定義を作るのは自由だが、それに全ての他者に対して有用性がないとダメだというわけです。
 ですから、そんな、個人的にはかなり強引な足かせの中で、我々は明確な解答を求められ、そしてそのルールの中でその正しさを証明していかなければならない。そういう社会性が私たちに倫理を求めるのです。だから恋は難しくなり、文学の題材になっていく。
 ある意味、数学というのは、宇宙規模での社会性です。少なくとも地球レベルではありますし、どうも宇宙でも通用しそうです。そんな厳しい公理や定理の中で、彼らの淡い恋の三角形(いや帯によると「3人が描く単位円の軌跡」)はどうなっていくんでしょうか(ちなみに数学の先生によりますと、単位円の軌跡はどうなるもクソもないそうですが…たしかにそうですね…笑)。

Amazon 数学ガール

楽天ブックス 数学ガール(上)

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.11.30

『新しい文化「フィギュア」の出現 ~プラモデルから美少女へ~』 (NHK ETV特集)

1_2 NHKで放映されていた「フィギュア」観ましたか?いや、スケートの方じゃありません。その裏番組でやっていた「ETV特集」です。萌え系お人形のお話です(笑)。
 ま、フィギュア・スケートも、まさに「フィギュア」が評価されるわけであって、両者は無関係ではありません。ずっと前に書きましたけど、浅田真央ちゃんにはしっかりと萌え属性があると思いますし。ですから、あのフィギュア・スケートって純粋なスポーツではありませんよね。芸術点とかあるし。プロレスみたいなものですよ。
 接地面の抵抗を限りなく小さくして、それで非現実的な時間と空間を作り出すという意味では、アニメやゲームなどの世界に近いものがあるかもしれません。見目麗しい女性(男性)が、ああいうファッションで空中を3回転半も回らないですよ、現実世界では。
 それはいいとして、こっちのフィギュアの番組です。最近フィギュアがかなり変化した(笑)岡田斗司夫センセイが案内役となって、カリスマフィギュア造型師ボーメさんの仕事ぶりの紹介を中心に、フィギュアの魅力に迫ります。これが非常に面白く勉強になりました。なにしろ、私フィギュアを一つも持ってないし、あんまり詳しくないので、こういう番組で耳学問というか目学問するしかない。
 で、結論から言いますと、予想外で驚いたことと、予想通りだったことがありました。予想外だったのは、なんといってもボーメさんの仕事ぶり。無知な私は、フィギュア作りがこんなにも手仕事で、まさにクラフトマンシップに溢れた作業だとは知りませんでした。今までも、海洋堂の仕事は何度かテレビで紹介されていて、なんとなくは見ていましたけれど、ボーメさんの仕事はちょっと次元が違うなという感じ。これはまさに彫刻家ですね。もう、単純に外見的には芸術家でしょう。
 2次元を3次元化するというのは、一見、昨日の記事、モツレクを弦楽四重奏に編曲するというのと、逆の作業のように感じられますね。ほとんど省略はなく、付け加えていくわけですから。しかし、すでに完成されたと思われるものを、違った意味で再構成し、違った価値と魅力を創造するという意味では、同じとも言えるかもしれません。
 また、そのモデルがリアルな人間というよりは、想像上のキャラクターであるという点でも、宗教芸術に近いものがあるかもしれませんね。
 いずれにしても、ボーメさんの到達している境地は、これはもう間違いなく芸術家と称されてよいものです。あの思い入れと卓越した技術(両者はたぶん同じものなのでしょうが)は、単なる職人を超えています。それもまた、ある種の宗教心のなせるワザではないでしょうか。まさに現代のミケランジェロ。感動しました。
 で、リアル職人でもなく、リアル芸術家でもない(村上隆さんと布施英利さんは微妙かな)ゲストの皆さんのお言葉は、だいたい予想通りの内容でした。私が想像していた通りの展開。ま、私も典型的なそちら側人間ですから、当然と言えば当然か。
 いちおうゲストの皆さんの解釈を紹介します。まずは芸大の美術解剖学の先生であられる布施英利さん。「網膜に映るのは2次元なので、それを3次元と認識するのは普通に人間の営みである」と。なるほど。ある意味我々がリアルと感じている立体感や遠近感というものはフィクションであるということですな。そうすると、私の提唱する独眼流立体視の術独眼流美術鑑賞もあながち間違ってないということですか。
 荒俣宏さん。「小さいものを作るのが日本の文化の原点。たとえば幕府の禁制のおかげでそういう文化が育った。制約が芸術の契機」。これはよくわかりますね。枕草子の「何も何も小さきものはみなうつくし」って、まさに「をかし=萌え」の原点ですよね。日本は禁制の前からどうもそういうミクロ指向が強かったように思えます。さらに、荒俣さんに対する岡田さんの言葉「こだわりの競争」っていうのもあったなあ。これはオタクの原点でしょう。いい言葉です。合理主義とは一線を画す、ある種の平和主義ですね。
 村上隆さん。「ボーメさんは伝説のサーファー。私はそれを撮る写真家。サーファーは尊敬されるけど、写真家は伝えるだけ」。それにしては、村上さんもずいぶんと持ち上げられ、そして稼いでますな。写真家というより、丘サーファー(死語)じゃないかな。それでモテモテとか。アーティストって本質的にそういう胡散臭さがあってよろしい(笑)。
 山田五郎さん。「本来アート(芸術・美術)とクラフト(工芸)は別れていなかった。近代博物館がそれを分けた。美術は時代を超えた普遍性を持たねばならなくなった。ポップ・アートの出現がその境界を再び曖昧にした。アートに行くかクラフトに行くかは個人の性格」。これは実に納得。岡田さん曰く、「何が素晴らしいか言葉で説明しなくちゃならない」。それもあるよなあ。それが面倒な人、苦手な人もいるよなあ。
 詩人佐々木幹郎さん。彼の語る「ひとかた」「よりしろ」については、私もこちらに少し書きました。岡田さんの「恋愛対象になるのではなく、恋愛感情と美的センスをこめる」という解釈もまあよくわかります。「萌え」の本質問題ですね。「時間の川に流す」「記憶の層に埋没する」…これもまた、私の「萌え」論と重なる部分があります。
 そういう意味では文化人類学者の上田紀行さんの話も、なんだか私の話とずいぶんと重なってました。「永遠の一瞬を切り取る」「一瞬の中に永遠を見る」…これこそ「萌え=をかし」ですね。ワタクシ的に言うと「時間を微分して疑似的な永遠性を得る」というやつです。
 というわけで、とっても勉強になりましたが…私が最も萌えたのは海洋堂の猫ちゃんでしたね。
 あっ、あと気になったのは、なんでもフィギュアになるかというと、そうでもないということです。たとえばBLの世界とかフィギュア化されないでしょう。そういう非フィギュアジャンルを考えると、フィギュアの本質が解ってくるかもしれませんね。
不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.11.28

『トンデモ日本史の真相』 原田実 (文芸社)

と学会的偽史学講義
Ehiuy れは面白い本。いい本です。
 皆さん御存知のように、私はけっこうトンデモ世界側の人間ですよね。このブログでもそういうネタをたくさん披露してきました。だいいち、ライフワークにしているものが、なんだかんだ言って、この本で俎に上がっている「富士宮下文書」や「出口王仁三郎」に関係することだったりしますからね。私の存在自体、というか、ここに住んでいる理由自体が揺らいでしまう可能性すらありそうです。
 では、私にとってこの本こそがトンデモかというと、そんなことはなく、私は案外著者原田実さんと同じような立場であるとも言えるんです。私はこの本で取り上げられている様々なトンデモ説を、正直愛しています。それがたとえフィクションであっても、いくらトンデモであっても、噴飯ものであっても、心から愛して止まないのであります。
 そう、つまり、そういう物語を作り出し、そこに命をかけ(生活をかけ)、いつのまにか、自分のついたウソが自分の中では真実になり、トンデモ世界の住人になってしまった人間たちが愛おしいんですね。自分にもそういう要素がありながら、しかし、どこかで原田さんのように冷静な自分がいて、ブレーキをかけているからでしょうかね。多少の憧れのようなものすらあるんです。木村鷹太郎とかね(笑)。
 世の天才と言われる人たちって、みんなそういう意味であっちの世界に行っちゃってる人が多いじゃないですか。結局、自分はそこまでバカになりきれないんでしょうかね。
 原田さんは面白い経歴の持ち主です。なにしろ、最初はかの八幡書店の社員であり、そして古田武彦に師事していたわけですから。まあ、トンデモの最前線を行っていたわけですよ。それが、今やと学会の重鎮になって、こんな本まで出している。素晴らしい振幅の人生です。
 この本は、そんな経歴による原田さんの力が遺憾なく発揮されている名著だと思いますよ。まず、とりあげられているトンデモ説の質と量がともに素晴らしい。たとえば、こんな感じです。

信長暗殺の黒幕はカトリック教会?/与那国島沖に海底遺跡がある?/豊臣秀吉は美濃墨俣に一夜城を築いた?/南太平洋のバヌアツ島から縄文土器が出た?/ペトログラフには古代シュメール文字が刻まれている?/源義経はチンギスハンになった?/アインシュタインは日本が世界の盟主になると予言した?/明治天皇すり替えの陰謀を明かす写真がある?/日本の原爆開発を止めたのは昭和天皇?/日本に世界最古・最大のピラミッドがある?/松尾芭蕉は隠密だった?/明智光秀は天海僧正になった?/武田信玄は騎馬民族だった?/聖徳太子はいなかった?/聖徳太子が使っていた地球儀がある?/秦の徐福が日本に弥生文化を伝えた?/北緯34度32分は祭祀遺跡がならぶ「太陽の道」だった?/安倍晴明は美貌の貴公子だった?/ホツマツタエ(秀真伝)は記紀の原本だった?/かぐや姫は中国からやってきた?/出口王仁三郎は日本の敗戦を予言した?/失われたアークは四国剣山にある?他

 これらをですね、まず「巷説」として、トンデモ本風にそれらしく紹介します。そこだけ読んだ人は、それこそそのトンデモワールドにはまりかねません。そして後半、「真相」として、「巷説」を冷静に批判、否定していきます。
 やはり、あっちとこっち、トンデモ的世界とと学会的世界の両方を知り尽くした原田さんならではの演出ですよね。ある意味、あっちの世界に対して(特に武田崇元氏と古田武彦氏に対して?)かなりの嫌悪感と復讐心(?)を持っているんでしょう。この本全体から、ちょっとそういう臭いもしてきますよ。かと言って、原理主義的な感じはしないんだよなあ。そのあたりの絶妙な立ち位置がいいなあって思います。
 そう。私のトンデモに対する愛情って、プロレスに対するそれとおんなじなんですよ。フィクションだからといって、もちろん排除したくないし、野暮な理屈で否定したくない。そこに実は人間の「真実」や「真理」が読み取れるからです。すべて「事実」しか認めないというのは、なんとも味気ない生き方だと思うんですよね。いつも言うように「コトよりモノ」っていうことです。でも、フィクション自身は人間の脳内の「コト」です。その重層的、複層的な世の中の構造が面白いと、いつも思っているんです。
 この本は、そういう意味でも、いい教科書になりそうです。いや、まずはメディア・リテラシーの教科書として教室で使えそうですね。こういう愛すべきトンデモ以上に、憎むべきウソが世の中には蔓延してますんで。こういう、ツッコミどころ満載なウソは可愛く美しいとさえ思えますよ。

Amazon トンデモ日本史の真相

楽天ブックス トンデモ日本史の真相

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.11.27

『芸能花舞台 伝説の至芸 観世寿夫』 (NHK教育)

1 見の見。むむむ…なんだ、これは。自分が観世寿夫になり、観世寿夫を見ている感覚。吸い込まれているのに、こちら側にいる違和感。それもビデオをブラウン管を通じて観ている自分。ううむ、いったい観世寿夫はどこにいるのだ。そして、自分は…。
 世阿弥の再来とまで言われた天才能楽師、観世寿夫の動く姿を初めて見ました。すごい映像でした。これはもう単純に「能」とは言えないような気さえしてしまいました。土方巽の舞踏に近い。屹立し、踏み、根差し、舞う。録画であっても、テレビであっても、今ここの時間と空間が表現者に支配されている。これはおおげさでなく、本当にそう感じました。おそるべき至芸。
 この番組にも出演し、解説をなさっていた野村四郎さんのもとで勉強している教え子が、ぜひ見なさいと言うので、忘れず録画して観てみたのです。ありがとう、こんなすごいものを紹介してくれて。
 私は能にはそれほど詳しくないし、それほどたくさんの舞台を観ているわけではありませんが、この観世寿夫が稀有の天才だということはわかりました。それは、おそらく、能に限らず、他の舞台芸術にいろいろと触れてきたからだと思います。本当に時々、こういう恐ろしささえ感じる舞台というのがあるんですよね。ただ、美しいとか楽しいとか興奮するとか、そういう次元でなく。
 特に昭和の40年代の表現にはそういうものが多い。たしかに時代性というのもあると思います。当時の舞台と言えば、やはり土方巽や寺山修司らによる、実験的で、前衛的で、そして世界的に高く評価されるものが多い。それは、前衛と言っても、どこか土着的であり、つまり、それは反近代、反西洋というモードで語られるべきものでした。観世寿夫もまた、世阿弥にかえり、現代に世阿弥を連れてきた。研究しつくしてなおそこを突き抜けた。
 今の「アーティスト」たちにそんなエネルギーを持った人がいるでしょうか。残念ながら見当たりません。ただ昔が良かったというノスタルジーではありません。彼らがすごいというのは分かります。たぶん皆分かるでしょう。なら、まずは彼らを「今」に連れて来るというのはどうでしょう。
Tyi しかし、それはある意味で勇気のいることです。彼らは最近までこの世に存在しましたから、特に難しいのかもしれません。生前の彼らを知っている人たちがいますからね。それが一つの壁になりうる。
 じゃあ、観世寿夫がそうしたように、神格化され、伝説化されてしまった古人の所へ向かったらどうでしょうか。ある意味、神や仏にたてつく方が簡単かもしれません。勇気さえあれば。
 いくら古人でも、我々とどこかでつながっているのは確かなのですから、本当は自信を持って連れてきていいのかもしれません。そして、我々は彼らの知らないことをあまりにたくさん知っているのですから(その逆も言えますが)、それを彼らに教え、彼らが「今」ならどうしたか、それを純粋に学べばいいのではないでしょうか。それが、もしかすると、「離見の見」、「物学(ものまね)」、「物狂い」なのかもしれない…そんなことを思いながら、観世寿夫の「俊寛」を見ていました。
 今日紹介されていた映像は次の通りです。

仕舞「海士」1973年放送
能「俊寛」1976年放送
能「井筒」1977年放送

 ちょっと恥じらった、面をつけていない安宅の写真や、ギッシリ書き込まれた勉強ノートなども興味深かったし、白石加代子さんとの「バッコスの信女」でのディオニュソス役の迫力と存在感、すごかったなあ。とても最晩年とは思えなかった。
 四郎さんの解説にあった、寿夫さんの謡における「歌と語りのバランス」「息を引く」というのは、どういうことなのか、今度教え子に聞いてみましょう。
 観世寿夫没後30年。誰か彼のところへ行って連れてきてくれないものでしょうか。彼の死で能は終わったなんて言わないで。
 再放送がありますので、ぜひ皆様もご覧下さい。画像がなぜか乱れていたので、私ももう一度録画をしたいと思います。
 そして、ここのところ棚上げしていた、世阿弥における「モノ」論に、再び手をつけてみようかなと考えています。
 

再放送  土曜日 29日 朝 5時15分~5時59分
再再放送 日曜日 30日 夜 23時30分~24時14分

Amazon 観世寿夫 世阿弥を読む

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.11.25

『爆笑問題のニッポンの教養スペシャル 爆笑問題×早稲田大学』 (NHK)

平成の突破力~ニッポンを変えますか?~
20081125_kansou の時と同様、最強は日芸ってことですか(笑)。まあ、ある意味そうだよなあ。
 最近も日芸に行ってる教え子と話す機会があったんですけど、やっぱり異様な突破力を持ってるなと。何しろ人の力を使うのがうまい。人と関わって自分の未知の世界へ飛び込み、未知の自分をどんどん開発してしまう。ある意味「個」に対する執着がないんですよ。
 いや、今回の番組、「突破力」がテーマであったのにもかかわらず、話は「個性」の方に行ってしまってましたね。で、間接的に語られましたけど、やっぱり本当の突破力って、残念ながら「社会性」なんですよね。個を活かすためには、社会への懐柔も必要なのは当然です。というか、「個」の活動の場が「社会」しかないのですから、そのリングのルールに従わねばならないのは当り前です。
 私たちが「個」とか「自己」とか認識している存在は、実は他者と不二なものであり、お釈迦さまが言うとおり、「個」として取り上げてしまうと全て「空」になってしまうことだけは自明ですから、やっぱり昨日までの話じゃないけれど、いかに「個」を捨てて、他律的で社会的な自分を育てていくかといことじゃないでしょうかね。
 そういう意味で、太田が最後に語った、社会に対する「表現」や「