カテゴリー「歴史・宗教」の1846件の記事

2018.08.18

私の中に神がいて、神の中に私がいる。

Th_img_2334 にちがずれていますが、気にしないでくださいね。今日は17日のことを書きます。17日は濃かったので、何日かにわたります。
 そうそう、実は17日は私の54回目の誕生日だったんです。正直言って今までの誕生日の中で、最も楽しく、最も充実した日となりました。皆様のおかげです。ありがとうございました。
 さてさて、17日はまず田沢湖へ向かいました。途中までは雨が降り、寒々としていましたが、最後には青空が広がり、温かい太陽の光が注ぎ始めました。
 その時感じたこと。寒さや暖かさを感じる自分の中に、なるほど自然(モノ)がいるなと。雨やお日様が、自分の中にいるから、こうして感じることができるのだと。
 田沢湖は今日も青かった。しかし、それもまた、田沢湖が青いのではなく、田沢湖の中に青があるのです。
Th__20180819_120801 そして、そんなことを思いながら、御座石神社を参拝した時、御神鏡に自分の姿が映っていることに気づいたのです。
 なるほど、神の中にも私がいた!
 この相互的な入れ子構造こそ、昨日の「ボーダーレス」そのものですよね。なるほど。たとえば砂漠の一神教のような、神と人間との対立的な関係ではなく、仏教の「一切衆生悉有仏性」のように、全ての存在の中に神がいて、神の中に全ての存在があるというのが本当なのかもしれません。
 雨が止み、霧が晴れた田沢湖は、たしかに空の青や山の緑を映し、さらに青く見えたのでした。
 素晴らしい誕生日プレゼントですね。ありがとうございました。


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2018.08.17

西馬音内盆踊りに見るボーダーレス

Th_img_2375 16日夕方はみんなで鎌鼬美術館を訪れました。今回のメンバーの中には、ダンサーとフォトグラファーもおりましたので、また格別な訪問となりました。
 夕食は向かいにある「格山」さんで、おいしいおそばをいただきました。メンバーにはおそば関係者もおります。これまた格別な時間となりました。ありがとうございました。
 鎌鼬美術館も格山も、国際的とも言える素晴らしい展開を見せています。そこに関わった人々の思いが、あの世とこの世でコラボしているのだと、つくづく感じました。ご縁とはそういうものなのでしょう。
 さて、あの世とこの世といえば、夜に鑑賞した西馬音内盆踊りですね。雨のため残念ながら街並みの中ではなく、体育館での披露となってしまいましたが、逆にそのような機会はなかなかないので、明るいところで間近に鑑賞することができました。
 そこで感じたことは、「ボーダーレス」です。昨日紹介した薬師堂もそうでしたが、とにかく東北には近代的な意味での枠組みや分類が通用しない。だから面白いし、快感なのです。
 西馬音内盆踊りでは、死者と生者、男性と女性、大人と子ども、玄人と素人、聖と俗が渾然一体となっています。もちろん、踊る者と見る者の境目も希薄になっていく。
 そうした渾然の中に、「むすび」がある。すなわち、融合と創造があるわけですね。
 よく知られているように、歌垣を起源とすると考えられる盆踊りでは、男女の関係、性の営みにおいても非日常的な面を持っており、実際そこで新しい生命が生まれることもありました。
 祭はそのような、日常と非日常、ハレとケを結ぶ時空であり、そこに生命の力強さ、すなわち神の本質が体現されてきたのです。
 もちろん観光化の問題もあります。こうして「鑑賞」の対象となってしまった盆踊りが、はたして本来のエネルギーを持ち得ているのか疑問でありますが、しかし、一方で、すっかり西洋近代的な価値観によって世の中を分析、分節して生きている都会人たちが、こうして祭を「鑑賞」することによって、本来のなにモノかを思い出す機会になっているとも言えましょう。それもまた生命力の一部なのかもしれません。


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2018.08.16

成就院薬師堂(秋田県角館市)

 16日は東北(主に秋田)マジカル・ミステリー・ツアーの1日目。仲間たちを空港と新幹線の駅でピックアップし、計画では田沢湖に行くことになっていたのですが、天気がいまいちなので、急遽予定変更して角館へ。
 角館では、武家屋敷の雰囲気を味わいながら、昼食に比内鶏の親子丼や稲庭うどんをいただきました。今大人気の秋田犬「武家丸」にも会うことでき、そうこうしているうちに天候も回復傾向。前日までの暑さが嘘のように、まるで秋のような過ごしやすさとなりました。
Th_img_2324 さて、今回集まってくださった仲間たちに共通しているあるモノがありまして、その関係で成就院薬師堂を訪れました。
 昨日の田んぼの中のタワーマンションや、単線でカーブだらけで無人駅、踏切もあり、熊と衝突することもある秋田新幹線など、東北というのは、都会的、すなわち西洋近代的な価値観からすると、なんともボーダーがはっきりしていないといいますか、様々なモノが渾然一体となって共存しているところが面白い。
 ここ成就院薬師堂も、本尊は薬師瑠璃光如来でありながら、なぜか大きく立派な鳥居があり、そして堂内には参拝要領として「二拍 合掌 礼」とある。
Th__20180819_111400 ここはいったい寺なのか、神社なのか。いや、そんなコトはどうでもどうでもよいのです。庶民にとっては、ご利益さえあれば、それが仏であろうと神であろうと、はたまたキリストであろうと、正直どうでもよいのです。尊い「とでっこ」であれば名前やジャンルなどどうでもよい。
 そうした前近代的な日本人の本質が見え隠れするところが、東北の面白さであります。

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2018.08.13

討論 『もし大東亜戦争の開戦が無かったら」

 後の日本にとっての「夏」は、戦争の反省の季節でした。
 もちろん戦争は悲惨ですが、いつまでその戦後は続き、私たちは反省をし続けなければならないのでしょう。
 というような皆さんの意見もよ〜く分かります。私も感情的にはそういう気がします。
 しかし、一方で、やはり忘れてはならない、二度と過ちを繰り返してはいないという方々の意見ももっともだと思います。
 正直双方ともセンチメンタリズムに基づくもので、そこが私にはいかにも日本的に映るのであります。
 いつも書いているように、たとえば靖国の御魂も私たちと同様に十人十色。勝手に「英霊」と十把一絡げにするのは間違っています。心を無にして靖国をお参りすれば、それこそ様々な声が聞こえてくるはずです。
 さて、そんな夏。平成最後の夏。そして、150年戦争最後の夏。いよいよこの夏の意味も来年あたりから大きく変わってくるものと思われます。
 変な話で恐縮ですが、その「最後の夏」がこれだけ暑く、甲子園の、すなわち高校生の野球を通じた軍隊文化ノスタルジーまでもが灼熱地獄となっているのは、これは偶然ではないと思っています。本当にこれで終わるのかもしれません。
 さて、そんな折、タイムリーな討論企画。「もし大東亜戦争開戦がなかったら」。たしかに漠然としたテーマであり、また歴史に「もし」は認められないとするなら、根本的に無理のあるテーマでありますが、だからこそ、保守派の皆さんの、歴史でなはい「物語」が全開していくことになっています。
 ちょうど、先日、国際関係論を学んでいる娘が、同様のテーマを大学のゼミかなにかで提起したようです。まあ、私がさしむけたわけですが(笑)。そこではいったいどういう議論になったのでしょう。あんまり盛り上がらなかったとの報告だけ受けていますが。
 よく「あの戦争は間違っていた」と言う人がいますが、では、はっきり言って避けられたのか。開戦しないでいたらどうなっていたのか。日本は日本でいられたのだろうか。
 また、「あの戦争に勝っていたら」という妄想も広がりますが、そうすると、今ここは大日本帝国ですか?
 結果としては、歴史は全て必然です。まるで、ほんの七十数年前の、祖父の時代の日本人が、今の我々よりも愚かだったような言い方だけは、私は許したくありません。
 一方で、人類の歴史を俯瞰して分かるとおり、大方の面においては、私たちは確実に進化してきており、戦争のみらなず命を奪われる機会というのは、ぐんと減っていると思います。
 また、あとからいろいろ言うのは、後出しジャンケンのようなもので、あの時グーを出したから負けたんだ、パーを出していればというのと同じです。
 そう、歴史というか、私たちの「今ここ」の生活のほとんどは、ジャンケンのような運を天にまかせるような選択の連続でもあるのです。常に相手のあること、縁の中で自身が生起してくるものであり、ある意味常に賭けをしているようなものです。
 ここのところいろいろなところで言っていますが、歴史を見る時に、「こういう選択をしたからこうなった」という因果関係で捉えるのではなく、その時の選択者がどのような未来を想定したのかという、逆因果で捉えるのことが大切です。
 なぜなら、「今ここ」の自分自身がそうやって生きているからです。その集合体をのちに過去から現在という、ある意味フィクションである時間軸の上に並べ直したのが、「歴史」という記録です。
 さてさて、そういう視点をもって、この討論を聞きしますと、なるほど保守派の皆さんの思考の限界というのが見えてきますね。大変面白いことです。
 当たり前ですが、さまざまな側面から「開戦がなかったら」と突き詰めていくと、「開戦しかなかった」ということが分かるでしょう。もちろん、その後の作戦ミスや、情報戦での敗北は、相手のある中での縁起ですから、やはり間違いだとは言えないでしょう。

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2018.08.11

新日本プロレスG1 CLIMAX 28 日本武道館大会2日目

20180812_102505 の雪崩式タイガードライバーには本当に度肝を抜かれました。
 今回のG1において私的に最も楽しみにしていたカードが、今日のメイン、飯伏幸太vsケニー・オメガでした。
 もちろん内容は予想を上回るものでした。結果よりも、その内容と、試合後の二人の対話に、今私の中のテーマである、「荒魂と和魂」の答えが合ったような気がしました。
 究極の荒魂は和魂になる。これからの荒魂はこうした演劇的世界で昇華され、現実社会においてはその姿を消していくでしょう。そういう予感がしました。
 昨日も書いたとおり、プロレスは単なるスポーツではありません。ある意味演劇であり、哲学であり、修行でもあります。
 フランスの哲学者、ロラン・バルトも「プロレスする世界(レッスルする世界)」で、その神話作用に注目しています。
 現実の社会、いわばリアルがどん詰まりになった時、私たちはフィクションの中に次のリアルを見ます。今日の二人の戦いは明らかに未来の光を見せてくれました。
 お互いの限界と、限界突破のポテンシャルを信頼しあっているからこそ、真正面からぶつかり合い、磨きあえる。
 試合後、ケニーが語った「負けたい思った。誰かに進化してもらいたい、私より強い相手に出てきてほしかった」という言葉に、大きなヒントがあります。勝ち負けをすでに超えています。対立する二者をアウフヘーベンしている。
 親友同士という、その「和」の中に「荒」が取り込まれた瞬間でした。
 飯伏とケニーは2012年に武道館で当たっています。その時の試合も素晴らしかったけれども、明らかに次元が違いました。
Uni_2984_2 思えば、2009年、山梨でのキャンプ場プロレスの時、二人と一緒にバーベキューしました。その時の彼らが、こうして絶頂期を迎えている新日本プロレスのG!の武道館大会でメインを張るなんて、その時は夢にも思いませんでした。
 しかし、たしかに、「この天才たちを世の中の人に知ってもらいたい」とは思っていました。具体的ではなかったけれども、私も未来に妄想していました。そんなことも含めて、今日の芸術的な試合は格別な感情を湧き起こすに充分すぎるものでした。
 さて、明日は飯伏選手と棚橋選手による決勝戦です。これもまた、さまざまな対立構図の中に語られます。しかし、私が期待しているのは、対立ではなく、二人のパーソナリティーだからこそ可能であろう、「対話」です。
 楽しみにしています。大げさでなく、地球の未来を切り開くために、頑張ってください。

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2018.08.08

どてらYMO 『RYDEEN』

 昨日、仲小路彰の文献の一つを紹介しました。政治の世界で厳然かつ暗然たる力を持っていた仲小路。
 しかし、彼が文化面、特に音楽に関しても厳然かつ暗然たる力を持っていたことはあまり知られていません。
 今日紹介するYMOというグローバルなバンドのコンセプトは、実は仲小路彰が創ったとも言えます。彼らは、仲小路の実働隊であり、キャンティのオーナーだった川添浩史(紫郎)を通じて、仲小路の「未来学原論」を読み、そこに展開する未来学、グローバリズムを、音楽によって具現化しました。
 それが世界に大きな衝撃を与えたことは言うまでもありません。
 今日紹介するのは、ご覧になった方、ご存知の方も多いであろう、「どてらYMO」です。NHKもさることながら、やっぱりスケールの大きなお三人は純粋に面白い(笑)。
 その三人が久しぶりに生で共演した貴重な映像がこれ。どてらと、すさまじいプロフェッショナルな演奏との対比がすごすぎますね。ホント、三人ともやばい。こういう演奏家、今いませんね。

 ちなみにこの妙なシチュエーションへの展開は次の動画のとおりです(笑)。いろいろやばいですなあ。

 コメント欄でも何人かが書いていますが、2020年東京オリンピックの開会式で、ぜひこの三人にどてらで演奏してほしいです!
 それが実現すれば、仲小路先生もきっと喜ばれることでしょう。いや、これは冗談でなく実現したいですね。

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2018.08.06

『広島、長崎戦跡善後処置緊急具体案」 (仲小路彰)

Th__20180808_84318 島原爆忌。今日はある研修に講師指導者として参加しておりますが、たまたま広島からいらした先生とじっくりお話する機会がありました。
 被爆地ゆえの特殊な教育事情。このたびの豪雨被害について。広島は特別な試練の上に崇高な使命を持っているように感じました。
 仲小路彰は戦後すぐに、広島・長崎両被爆地について提言を行っています。はたしてこれが誰にあてられたものか分かりませんが、結果として、平和記念公園や資料館、そして原爆ドームの保存へとつながっていったことは間違いありません。
 今日はその貴重な文書の一部を翻刻して紹介したいと思います。お読みになっていただければ、仲小路がいかに進歩的、未来的な思想を持っていたかが理解できると思います。メディア戦略や経済戦略なども含め、当時の常識とはかなりかけ離れた、しかし未来的には実際に実現したアイデアが満載です。
 なお、旧字体は新字体に直しました。

 厳秘
  広島、長崎戦跡善後処置緊急具体案
 主要目標
  第一方法
 ウラニユーム原子爆弾を広島及長崎の両都市に使用したる結果を極めて広範囲に渉る各種科学の方面より整然と調査整理して之れを詳細に何等区々たる感情を混ふる事なく大胆率直に全世界に発表すること。
 之れに依りて自ら全世界の各所に軍事的方面より又は道徳的観念より或は宗教思想等の角度より各種の議論多出すべく之等は総て之れを大乗的見地よりなすに委せて唯その究極を之れに依りて最も深刻に人類を反省せしめ、物質文明特に近代科学の飛躍的に進歩せるに比して精神文化の発達甚だしく遅れ、殊に各国家間の国際道義の低下を今後如何に為すべきか、又社会道徳の混乱頽廃せる真相を如何にして正しく進歩向上せしむるかを自ら深刻に考慮せざるを得ざらしむる事。
  第二方法
 世界の宣伝網を活用すべくその中心勢力と協力する事。
 全世界のあらゆる交通及観光会社と提携する事。
 之れを映画化して極力活用する事。
 見学及観覧の為に完備せる大設備をなす事。
  第三方法
 之等のあらゆる方法を活発且つ有意義に実現し、而も之れを我国復興の一大財源たらしむる為に国家直接の機構は之れを唯背景となすに止め、公共又は私設団体或は特設会社を創設して之れに当らしむること。
 国家は即刻撮影、上映其他の権利を之れに与へて確保せしめ、外国人及それ等の会社との交渉は尽く之れに当らしめ今後の大計画及び相互の事情をよく懇談の上少くとも第一回の撮影許可料壱千万弗以上を入手し、直ちに之れを二分し、その一は直接罹災者の救助費の一部となし、その一はあらゆる設備の費用となす事。猶世界に之等の映画を上映する場合の純益の三割以上を提供せしむる事。

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2018.08.02

辻田真佐憲 『東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか?』

20180803_84847 日は約40年ぶりに野球場のグランドに立ちました。最近野球熱が再燃しているという話は何度か書きましたが、それがなぜなのか、全く分かりません。自分でも不思議です。
 今日はグランドで高校生球児たちに話をする機会もありました。そこで、「新しい高校野球の歴史」という言葉を使わせていただきました。
 先日の校長先生方対象の講演では、「甲子園も今回の100回記念大会を期に大きく変わる」と予言?しました。
 実際、軍隊文化を最も引きずっている、いやそれを死守してきた甲子園も、自然の猛威という「神」の力によって修正を迫られているのです。
 まさに150年戦争の集結を象徴しているようですね。
 しかし、150年続いてきた頑固なその文化も、その往生際の悪さという最強最狂の捨身作戦で、最後の抵抗をしてくることでしょう。
 ある意味、その戦場となることが予想されているのが、2020年の東京オリンピックです。辻田真佐憲さんが、それを上手に記事にしてくれました。

「暑さはチャンス」なぜ東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか? 森喜朗、小池百合子、東条英機……今も昔も「竹槍精神」

 講演でもあえて話させていただいたのですが、私はそういう根性論や精神論、神風的なモノが嫌いではありません。どちらかというと、そういう物語が好きです。また、そうした世界がもしかすると合理的な世界、科学的な世界を凌駕するのではないか、高次元物理学における意識の領域で説明できるのではないかとも思っています。
 しかし、実際問題として、人の命、特に若い人たちの命が危険にさらされていることは、学校現場で働くものとして看過できません。
 なぜ五輪を酷暑の時を選んで行うのか。いろいろ事情があります。それは20世紀的な価値観にのっとるものかもしれません。いったいどの「価値」が勝つのか。
 案外ですね、「神風」が吹くかもしれませんよ。つまり冷夏になる。ホントにありそうだから、日本という国は恐ろしい(笑)。
 昨日、ある政治家秘書の方から、「先生、出番ですよ!」と言われました。五輪に関する話です。もしかして、私のお役目は「神風」すなわち「涼風」を吹かせることなのかもしれませんね。

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2018.08.01

白井聡・國分功一郎 『日本人から思考を奪う「国体の正体」とは何か』

Th__20180802_90604 日の講演で「150年戦争」論を少し披瀝しました。日本は何と戦ってきたのか。そして勝ったのか、負けたのか。
 明治維新以来150年の見えない敵との戦いは今年終結します。折り返し地点は昭和17年から18年。まさに大東亜戦争の負け始め。
 そして昭和20年の「敗戦」。仲小路彰は「勝利」したと言いました。だから「終戦」であると。その本当の意味は、そこからの70数年、つまり戦後日本の戦いを視野に入れないと分かりません。ただ単に大東亜戦争の目的を達成したから勝利というのでは、あまりに都合が良すぎる。
 戦争が終わって、日本人は兵士であることをやめたかと思いきや、とんでもない。今度は企業戦士となって欧米と対等以上に戦いました。
 しかし、その戦いにも「負け始め」が訪れます。それがいつだったのか、バブル崩壊なのか、いや、もう少ししないと分からないでしょう。俯瞰しないと。
 つまり、私たち日本人は、この150年間において、少なくとも二度負けているのです。その無謀な戦いを支えたのは、根性論であり、精神論であり、滅私奉公であり、そして「国体」でした。
 …と、これは私の勝手な妄想であり、多くの方々の賛同は得られないと思いますが。
 しかし、この白井聡さんと 國分功一郎さんの対談では、多少似た論が展開されていると感じました。もちろん細かい部分では、私はとても彼らには敵わないわけですが、全体としては共感できる部分が多くありました。

日本人から思考を奪う「国体の正体」とは何か

 「国体」という概念自体が、もちろん明治以降に生まれたものです。教育勅語で明示され、その後国体明徴運動が起こり、国家として「国体の本義」まで発表されました。
 今の人たちにとって「国体」とは「国民体育大会」にほらならないのですが、それは笑い話ではなく、その「体育」の中に見事に戦前、戦中の文化が残っているという話も、少しですが昨日させていただきました。
 「国体」という、本義を明徴しなければ何が何やら分からないモノに支配され、結果として平和を築いてきたと同時に戦争もしてきた日本。なんとも不思議としか言いようのない歴史を持つ日本が、これから世界においてどういう価値を発揮していくのか。それは仲小路彰が示してくれています。そして、私はそれが正しくそのとおりになると信じています。

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2018.07.29

落合陽一 「ユビキタスからデジタルネイチャーへ:アート・エンターテイメント・デザイン」

20180730_91348 画の紹介が続きます。そういう時代です。
 そういう時代の象徴の一人が落合陽一さん。言語によるコミュニケーションは決して次元が高いわけではなく、たとえば動画のように視覚と聴覚に直接訴えかける方がより良いという考え方もある。
 そして、その先にはさらなる情報伝達、共有手段の世界が広がっている。デジタルネイチャーの時代。
 旧世代の私たちはそれを拒否するのか、受け入れるのか。教育はどうなっていくべきなのか。いろいろ悩みがあります。
 ただ、彼の話はとっても面白いのです。私は拒否反応どころか非常に興味がわく。しかし、そちら側にいくためには、とにかく自分の常識、過去を捨て去らなければならない。悩ましくも楽しいことです。なにしろ、この歳になって、まるで子どもの時の、あの未知の世界に出会った瞬間のようなドキドキ・ワクワクを感じることができるのですから。
 こういう世界観を、はたして学校は教えることができるのでしょうか。教育は常に最先端を行かねばならないのに、実態は全く逆で旧態依然、非常に保守的なムラ社会になってしまっています。
 今、筑波大学は面白いですね。こういう人が学長補佐とかやってるんですから。大学、特に国立大学が変わらないと、その下の高校、中学、小学校、そして幼児教育は変わりませんよ。やはり、未来に原因を作っていかなければ。

 落合さんのすごいところは、最先端のテクノロジーを荘子や侘び寂びと結び付けられるところですね。スマートです。

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