カテゴリー「歴史・宗教」の1000件の記事

2020.07.10

フジファブリック 『モノノケハカランダ』

 

 日は志村正彦くんの40回目のお誕生日。

 彼の同級生の子どもたちがウチの幼稚園に通っていたりして、もし彼が生きていたら…などといろいろ考えてしまいます。

 志村くんのすごさ、志村楽曲の素晴らしさについては何度もこのブログで語ってきましたが、まだまだ日々新しい発見があり、そういう意味では彼は今でも生きていて、私たちにいろいろな影響を与え続けていると言えます。

 地元でご縁のあった者として、これからもずっと彼のことを愛し続けたいと思います。

 さて、ここのところの「コトを窮めてモノに至る」話の続きです。志村正彦というモノノケが遺した最高のモノノケソングは、やはりこれでしょう。その名も「モノノケハカランダ」。

 この曲については、彼が亡くなって少したった頃、10年前の節分の日に面白い記事を書いています。

心の鬼…モノノケハカランダ

 今日はその記事を自分でも読み返しながら、この永遠のモノノケソングを聴き直してみたいと思います。

 昨日のイチローに並ぶ天才ですね。志村くんは。日本が誇る天才ですよ。

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2020.07.09

『イチロー・インタビューズ 激闘の軌跡 2000-2019』 石田雄太 (文藝春秋)

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 れも間違いなくロゴスではなく「レンマ」だよなあ。

 コトを窮めてモノに至る。これをスポーツの中で体現して見せてくれたイチロー。彼の言葉は禅僧のそれのようだと、何度か書いてきました。その集大成。読み応えあり。

 第1章で、自らを評して「理屈で話を進めていくタイプ…理屈で理解させてくれないと、消化不良になってしまう」と語っています。

 しかし、そうした細部へのこだわり(コト)が、結果として総体(モノ)を理屈ではなく瞬時に捉え、コントロールするきっかけになっている。意識が無意識を生む。

 まさに職人、何かを「モノにした」人間ですね。そして、最終的に「モノになった」。

 うん、日本語は面白い。日本人は面白い。

 メジャーという「世界」の「総体」だからこそ、日本という「細部」が際立って見えましたね。イチローのそうした歴史的、文化的功績は多大です。

 「僕の言葉にウソはない」。言葉それ自体は元々フィクションですが、それがこれだけ集積して絡み合うと、そこに真理が立ち上がってくるから興味深い。

 しかし、私たち、イチロー自身でない人間にとっては、決してイチローの体感、体得した真理には到達できません。予感までです。だから、「ウソはない」という言葉を否定することは絶対にできないわけですね。

 そう、真理、つまり「まコト」は結局他者たる非我たる「モノ」だというのが、お釈迦様の究極の気づきであったわけで、そんな点からも、イチローレベルの賢者らの言が、どこか禅問答チックになるのは当然だと首肯されるのでした。

 ベースボールが輸入され、軍隊文化とともに日本化、日本的組織化、職人技化された「野球」が、その故郷に帰って大旋風を起こし、その風景を変えてしまったというのは、世界史上の様々な文化が輸入され、日本化され、そして逆輸出されていくに違いないという、仲小路彰が総体として捉えた日本の歴史的存在意義を象徴しています。

 そして、やっぱり「野球」は面白い。奇跡のスポーツ、いや文化です。何度も書いた記憶がありますが、この宇宙に、サッカーやバレーボールやテニスや格闘技に似たスポーツは、それこそ星の数ほどありますが、野球のような、様々な意味で不公平で不均等かつ、確率論的に絶妙なゲーム性を持つスポーツは、実はありません。宇宙人の私が言うのですから、間違いありません(笑)。

 うん、やっぱりこの本もまた、私のバイブルですね。

Amazon イチロー・インタビューズ

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2020.07.08

『レンマ学』 中沢新一 (講談社)

Th_31ccxdwlsxl_sx357_bo1204203200_ い頃、仲小路彰に影響を受けている中沢新一さん。細野晴臣さんらと山中湖に仲小路を訪ねていったこともありました(入院中で会えなかった)。

 そんな中沢さんの「レンマ学」と、ワタクシの「モノ・コト論」を並べるのもどうかと思いますが、不思議なモノでして、結果として仲小路彰の周囲をグルっと回って、コツンと出会ったという感じがします。

 もちろん、仲小路だけではありません。仏教や出口王仁三郎、そして富士山や山梨といった、ちょっと「なまよみ」なフィールドに迷い込んだ私が出会うべき先達が中沢さんだったのかもしれません。

 詳細はこの本を読んでいただくしかない。それこそ「全体」を一瞬で捉えて表現するような「レンマ的知性」も、展開して分析して並べる「ロゴス的知性」も持ち合わせていない私には、そう言うしかありません。

 ただ、時代がたしかに縁起をベースとする「レンマ的知性」を必要としているのは間違いありませんね。

 ワタクシ流に言えば、「コト」の時代は終わって「モノ」の時代が到来しようとしてる、いやそういう時代に回帰しようとしている、ということでしょう。

そう、古来日本語では、「ロゴス」のことを「コト」と言い、「レンマ」のことを「モノ」と言ったのです。「ことのは」の「コト」と「もののけ」の「モノ」。

 分析できない、意識化できない、言語化できないが、たしかにそこに「ある」「いる」感覚、徹底した他者性が「モノ」の本質です。自我が無になり、その無と有が一体化して「空」となる。そんなふうに、私はとらえています(間違っているかもしれませんが)。

 昨年でしたか、仲小路彰のことを中沢さんにお伝えしました。ご興味を持っていただいた、というか懐かしく思い出してくださったようですが、その後展開はありません。

 ただ、このコロナ禍の中で、ますます「レンマ学」が重要になってくるであろうことは間違いなく、その先達ともいえる仲小路彰の、独特な「グローバリズム」「未来学」も注目をされる時がようやく来たように感じます。

 また、ここ数日書いてきた音楽や言語における「モノ・コト論」も、この「レンマ学」の中でよりサイエンティフィックに語られています。

 けっこう読み応えのある大著ですが、それこそ脳みその「レンマ」的領域が刺激される快感が得られますので、ぜひご一読を。やはり「コトを窮めてモノに至る」なのだなあ。

Amazon レンマ学

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2020.07.06

『倍音〜音・ことば・身体の文化誌』 中村明一 (春秋社)

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 八、倍音つながりで、この本です。

 この本、本当に素晴らしい。共感するところがたくさんあります。

 冒頭の「はじめに」より。

 人間は、その歴史の中で、「目に見えないもの」を克服することによって前進してきました。

(中略)

 ところが、です。非常に身近なものであるにも関わらず、多くの人々が完全にはその存在に気づいておらず、またほとんど利用することができないものが残されています。

 それが「倍音」です。

 書き出しからして私好み。つまり「モノ狂い」(笑)。いや、冗談ではなく、「目に見えないモノ」「耳に聞こえないモノ」に対する異様な執着というのは、私も一緒ですから。

 著者の中村さんも、海山さんと同じくらい面白い経歴の持ち主。大学で応用化学を学び、ジミヘンや武満徹、そして横山勝也の尺八に衝撃を受け、弟子入りして尺八演奏家になり、バークリーでジャズや作曲を学んで最優等で卒業。

 横山勝也師に弟子入りした時の文章が良い。

 素晴らしい曲と演奏でした。美しいメロディーがあるわけでもない。当然のことながらハーモニーもない。周期的なリズムもない。それはいわゆる西洋的な「名曲」「名演奏」の概念を超えた、言葉にできないものでした。

 「コト葉にできないモノ」…やはり、音楽というジャンルにおいて、モノがコトを呑み込む様子を目の当たり、耳の当たりにしてきたに違いありません。

 私も東西の音楽を共に楽しんでおり、決して両者に優劣をつけるつもりはありませんが、少なくとも広さ、大きさに明らかな違いがあります。

 その象徴が、まさに「倍音」の扱い方にあるわけです。

 特に、整数次倍音よりも非整数次倍音とのつきあい方ですね。日本人は世界でもかなり独特です。

 そんなところから、中村さんの考察は、音楽を超えて、ことば、そして文化にまで及んでおり、それがもしかすると、ちょっとした「トンデモ」感を醸してしまっているのかもしれませんが、私からすると、まさに倍音の領域(高次元)でそれらは結びついており、全く不自然な感じはしません。

 身近にも尺八の優れた奏者がいますが、彼らに共通しているのは、西洋音楽もかなり深く理解し愛していることです。他の楽器の奏者よりも、それは顕著であり、結果として、東西を融合したり、さらにジャンルレスな音楽に向かったりしているように見えます。

 それこそ、日本人らしい思考、志向、嗜好であって、その全体像を説明するのに、たしかに「倍音」は良い例になると私も感じていました。最近も物理学者とその話をして盛り上がりました。

 昨日も書きましたが、それこそが「和」なのでしょう。今日は中国育ちの二人の若者と日本語の勉強をする機会があったのですが、そこで、中国語の「和」の話が出ました。日常的に「〜と〜」の「と(and)」という意味で使われるとのこと。

 なるほど、「和」は平等、水平的な意味を持つ文字ですね。優劣や高低や前後なく、自然に並び存する感じがします。

 日本語として「なごむ」「にぎ」「にき」「にこ(にこ)」「あえる」「たす」「やわす」「やわらぐ」などと読むようになったのもうなずけますね。

 さて、「倍音」、それも「非整数次倍音」とのつきあい方については、私はまだまだこれから楽しみをたくさん残しています。若い時は「整数次」という「コト」にこだわってきましたが、後半生は「非整数次」という「モノ」をじっくりたしなみたいと思っています。

 そんな私にとって、この本はバイブルですね。

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2020.06.27

寺内克久 『青緑の澄性』〜音楽の「ことたま」

 

 晴らしい作品を作っていただきながら、すっかり紹介と御礼が遅くなってしまいました。

 ようやく紹介するタイミングがやってきました。ここのところの「ことたま」シリーズ、昨日「最終兵器」が登場してしまいましたが、さらに一歩進んだ「番外編」。ここでの「番外」とは、さらに高次元であるということ。

 我が家でお預かりしている出口王仁三郎の耀わん「十和田」のイメージを、寺内克久さんに「音楽」にしていただきました。

 寺内克久さんは独自の音楽理論「不定調性論」を構築され、音楽教育に、楽曲制作に活躍されている音楽家です。このたび、不思議なご縁で知り合った友人が間に入ってくれまして、このような素晴らしい創造のきっかけを提供することになりました。

 耀わんという、宇宙の「ことたま」を凝縮した、だからこそ、分からない向きには全く分からないモノから、いかにコトを展開して見せる(聴かせる)か。そのとんでもない難題を、おそらく世界で初めて実現してくださった寺内さんに、改めて敬意と感謝を捧げたいと思います。

 なにしろ、何の説明もなく、いきなり写真だけ送られたわけですからね(笑)。それは大変ですが、しかし逆に言えば、なんらの先入観(他者が展開したコト)もないからこそ、いきなりモノからコトを紡ぎ出すことができたのかもしれません。

 その証明として、寺内さんの制作メモを読んでいただきたい。なるほどと納得するコトばかりです。

 そして、それを「モノのね」たる音楽で表現できるのだから、本当にすごいと思います。音楽は「一瞬で全体」である「モノ」を、歌や楽器などの「コト(琴)」を通じて、一度時間軸上に展開して、そして、私たちの脳内で再び「一瞬で全体」である「モノ」に帰すという、古代から人類が獲得していた「高次元へのアクセスツール」です。

 時間軸上で展開されるコトとしては、もちろん言語もありますが、日本古来の「歌」の伝統のように、あるは王仁三郎がリズムと節を重要視したように、音楽は言語よりもより抽象的で普遍的な「意味」の統合(総合)を可能とします。

 結果として、私たちの意識(コト)に働きかけ、未来志向のエネルギーを喚起します。それがまさに「音楽のことたま」ということになります。

 高城剛さんとも、これから人類が高次元にアクセスしていくために「音楽」が最重要だという話をしました。もっと、地球人に音楽をふるまわなければと。

 寺内さんの「不定調性論」は、「不定」であるところが実に「モノ」的でありつつ、それが西洋近代の音階という「コト」の上に展開されているところが実に面白い。私のこだわる「コトを窮めてモノに至る」という感覚に近い。

 先日、天才物理学者の方ともそんな話になりました。「モノ」(自然)を一度分析(コト化)して、再び統合、総合して「モノ」に帰すと、その「モノ」は前の「モノ」とは違う、高次元の自然になるのです。

 「耀わん」という行為もまさにそれ。つまり、寺内さんは、王仁三郎が再生した高次元宇宙(自然)を、さらにもう一次元上の自然に昇華したということです。

 そして、それはどんどんいわゆる言語からは遠く離れていくのでした。私たちが言語の呪縛と洗脳から解き放たれる時は近い…。

 最後に…書こうかどうか迷いましたが、僭越ながら…この「青緑の澄性」、驚くほどに私自身のピアノの即興演奏のスタイルに近くてびっくりしました。どこかでつながっていたんでしょうか。

 なるほど、私の、ピアノが弾けないのに弾けるというのは、「不定調性論」的には普通にありえることなんですね(笑)。

 寺内さん、本当にありがとうございました。ぜひ近いうちにお会いしましょう!

ミュージックスクール M-Bank

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2020.06.26

王仁三郎の言霊

 霊シリーズが続いておりますが、今日は決定版、御大、最終兵器(?)の登場です。

 かの出口王仁三郎の肉声は、今では様々なところで聴くことができます。特にこうしてネットで誰もが触れることができるようになった事実は、まさに王仁三郎の想定した未来そのものでありましょう。

 師は、おそらくこのような時が来ることを予知して、膨大な書物や短歌、書画や茶碗、そして録音や映像を残してくれたに違いありません。

 それらはデジタル化して拡散することによって、ますます力を増し、まさに「意志のエネルギー」たる「言霊」を発揮しつつあります。

 もちろん、王仁三郎自身の肉声の波動、リズム、節回しにすでにエネルギーがあるわけですが、やはりそれ以上にそこで語られる内容が私たちの意識に作用し、そして未来に原因を作ることになる。その結果、今の私たちの意識や言動が変化するわけですね。

 こうした時を超えた意識の連続体こそが「ことたま」の本質であると言えましょう。

 感激するも良し、笑って聴くも良し、今は何も感じなくとも良し、ただ一聴すれば未来の私たちに変化をもたらされます。ぜひ、そういう期待をもってお聴きあれ。

 

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2020.06.25

『未来への言霊 この世の答えはすでにある!』 舩井幸雄 (徳間書店)

Th_51dsundpr2l_sx343_bo1204203200_ 霊つながりでこの一冊。

 ここでの「言霊」は、遺言という意味も含んでいますね。舩井幸雄さんの実質的な絶筆となったこの本。

 いや、それ以上に、ここ数日で私が語った「ことたま=意識のエネルギー」という意味を強く持っています。

 経営とスピリチュアルは意外にも親和性があって、なんだかんだ江戸時代の経営術から渋沢栄一、松下幸之助や稲盛和夫、そしてこの舩井さんまで、日本の「経営」というのは、結局「人」を幸せにする方向に行くのでした。

 もちろん、それが本当の正解で、一部の西洋的な考えのように、自分さえ儲かれば良い、すなわち、他人の不幸の上に自分の幸福を構築するような考え方は、結局長続きしないのですね。

 この本で語られていることは、本当に私の考え方に一致しています。というか、なんだかんだ舩井さんの影響が強いのかもしれませんね。

 この本には「ミロクの世」という言葉が何度も出てきます。出口王仁三郎や日月神示の影響、江戸時代の富士講などの影響も見られますね。そんなところも私の趣味と一致しているわけです。

 さらに言うと、舩井さんの思想は、間接的にではありますが、仲小路彰の影響も受けています。

 また、この本で対比されている「エゴとエヴァ」、「地球の理と宇宙の理」、「この世」と「あの世」などは、私の「コトとモノ」の対比に近い部分がありますね。

 舩井幸雄さんとは今世ではお会いすることはできませんでしたが、不思議なもので、息子さんとも仲良くさせていただいていますし、幸雄さんの魂の継承者とも常に情報交換させていただいています。

 そんな中で、私も幸雄さんが書き遺した「言霊」によって時間の流れを逆転させ、エヴァな生き方を模索しているのです。

 経営やお金という、私たちに身近なものを通して、人間の、社会の、地球の、宇宙の真理を伝えてくれる舩井幸雄さん。今でもその「言霊」は生き続けており、そして、未来からメッセージを送り続けてくれています。

 

Amazon 未来への言霊

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2020.06.24

『言霊信仰』 豊田国夫 (八幡書店)

Th_71guudzrgkl_ac_uy218_ 昨日、昨日と「ことたま」について思いつきを書きました。

 アマゾンで検索しても分かるのですが、まあ今も昔も「言霊ブーム」ですね。

 特にスピリチュアル系の本がわんさか出てきます。本当に雰囲気なんです。それこそ軽すぎる「言霊」が跋扈しています。

 ちゃんとした「言霊」研究というのが案外ないのですが、唯一学術的な検証に耐えられるのが、豊田国夫さんのこの本です。

 初期の八幡書店さんから出ているというのは面白い。王仁三郎本の出版社ですからね。

 私はこの豊田さんの本を35年前に購入して、今まで本当にバイブルのように大切にしてきました。

 目次がここにありましたので、ぜひ御覧ください。すごいですよね。

 私の「モノ・コト論」の源流はこの本と、東辻保和さんの『もの語彙こと語彙の国語史的研究』という素晴らしい2冊の学術書です。これらは、絶対に雰囲気に流されない、スピリチュアル世界に取り込まれないためのアンカーなのです。

 それはひとえに「もの」と「こと」という日本語の重みを感じるからです。そこに日本人の、日本の、世界の、宇宙の、生命の本質がある予感がするからです。

 と言いつつ、なかなか自分の研究は進みません。特にアカデミックな世界に認められるような研究にはならない。思いっきり自己矛盾してますね。

 古くは「言」と「事」は一つであった。その言事融即の状態から、次第に「言」と「事」が分離し現在に至っているというのが、豊田さんの考え方です。結果として、結局のところスピ系でも語られてしまう「言葉の力で事象を動かす」、すなわち「成る」ではなく「為す」というある種攻撃的とも言える解釈を生んでしまった。それがかの大戦の不幸を生んだとも言えるわけですね。

 私は、「言」と「事」の「こと」への融和、統合を図るとともに、「もの」と「こと」をも高次元で融和、統合させようと考えています。「もの」と「こと」が対比されていると、そこには「とき」が生じます。つまり、「とき」を超えることを目標としているわけです。

 まあ、壮大な夢物語であり、それこそあの世に行かないと分からないのかもしれない。いや、「分かる」なんていう分離こそがダメで、そんなものを簡単に超越したところに「まこと」であったと悟るのかもしれませんね。死んで「もの」に帰ったら。

 というわけで、死ぬまでに「モノ・コト・トキ」という本を書かねば。死んだら書く意味がないので。まあ、死ぬまでにはまだまだ時間はあるので、焦らずゆっくりやっていきます。

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2020.06.23

備忘…「ことたま」と時間(2)

(昨日からの続き)

Th_maxresdefault こで、今日ふと気づいたのは、「こと」によって、時間の流れが変わるということです。

 ちょっとイメージしにくいかもしれませんが、私たちは無意識の状態だと「時間は過去から未来に向かって流れている」と感じている、というか、時間の流れを意識していないが、結果として時計を見て、そういうふうに思ってしまう。もう7時か…とか。

 しかし、あることを意識すると、時間の流れは逆転します。未来から過去に向かって流れるようになるのです。明確に言語化しなくとも、未来をイメージすると、そのイメージが未来から現在に近づいてくることになる。

 まあ、結果として、「イメージは現実化する」ということになって、従来の「言霊」解釈と同じになるようにも思えますが、「こと」の「たま」の機能としては、時間の流れを逆転させるというのが、とても重要なのです。

 言ったこと、思ったことが全て実現するわけではないのは、それはその未来への意識のことを忘れたり、諦めたりするからです。そうすると、時間は逆流して、イメージは遠ざかってしまう。

 最近、私は「未来の記憶」という言葉をよく使いますが、その「未来の記憶」を思い出そうすることが「しごと」です。一般的な仕事も、たしかに未来に何かの価値を生産するための行為です。ちなみに「未来の記憶」を忘れてしまうのが「もの忘れ」なんですね。つまり、近未来の何かしようとして、それが何だったか忘れてしまうこと。

 「何しようとしたんだっけ?」というのは、「過去の記憶」を忘れたようにも見えますが、実際は、近過去から今にかけて「未来の記憶」を思い出そうとしたのに、それが思い出せない状態のことなのです。

 エントロピーでいうと、「もの」の場合それは増大し、「こと」のそれは減少します。「もの」時間の経過が「もののあはれ」であり、「物理」的な時間の経過です。「こと」時間の経過は、未来の「もの」が「こと」となっていき(それを「ものがたり」とも言う)、私たちに新たな「いま」を招来します。

 「こと切れる」と私たちは「もの」に帰りますので、結果としてどんどん拡散していきます。それでも、たとえば作品という「こと」を残せば、それはいつまでも生き続け、新たな生命を生むきっかけとなります。

 つまり、生命とは「ことたま」を持っていて、「ものの道理」に逆らって新たな並行宇宙を生み出す存在なのです。

 そう考えると、今まで私が構築した「モノ・コト論」の仕組みが崩れてしまう部分もあるのですが、まあ、そんなモノですよ、過去のコトなんていうのは。

 また、何かダウンロードできたらメモします。

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2020.06.22

備忘…「ことたま」と時間(1)

Th_a1rkcpsbysl 近、いろいろと降ってくることが多くて、そういうのはすぐに忘れてしまうのですが、メモするのも億劫なたちでして、けっこういろいろな大物を釣り逃しています。

 今日はちゃんとメモるぞ。

 ということで、皆さんにはほとんど興味のないことでしょう。あるいは矛盾がいろいろあると思いますが、スミマセン。自分でもよく分かっていないので。

 今日降ってきたのは「ことたま」の意味と機能についてです。

 私の「モノ・コト論」では、「ことたま」の「こと」は「言葉」という意味ではありません。実際、古い文献では「事霊」と書かれていることが多い。「言葉」も「こと」の一部ですが、あくまで「葉」「端」であって、本体、本質ではありません。

 では何か、というのが私のテーマでして、「もの」との対比によって、それが分かってくると信じているところです。

 ちなみに「もの」は物体ではなく、「もののけ」の「もの」。「〜なんだもん(の)」の「もの」。「物悲しい」の「もの」。「物狂い」の「もの」。すなわち、言語化されない、人間の脳みそでは処理しきれない、片付けられない「もの」「なにか」の総称です。

 実際、「もの」は「何か」「なんか」に翻訳できることが多い。「物悲しい」も「なんか悲しい」ですし、「食べ物」も「食べる何か」ですね。

 逆に「こと」は言語化でもあり、意識化でもあり、分析の結果であり、明確なことであったりするわけです。

 で、「たま」というのは「エネルギー」のことですから、まあ確かに「言語のエネルギー」ということもできるわけですね。しかし、本質的には「言語」に限るだけでなく、「意識のエネルギー」と言った方が正確です。

 もちろん、「意識=言語」という考えがあるのも知っていますし、言語を記号と捉えれば、その範囲はかなり広がっていくのもよく分かっています。

 しかし、一般で言われているような「言葉の持つ不思議な力」という解釈は、あまりに次元が低い。そこから、「いい言葉を使えばいいことがある」とか、「意識は現実化」するというような、スピリチュアルの人が好きそうなスローガンになってしまうと、それこそ「ことたま」がないことになってしまう。

 ちなみに写真の柳原白蓮のエッセー集「ことたま」、「もの」すごく魅力的です。彼女と出口王仁三郎の浅からぬ因縁につきましては、こちらに書きました。

(明日に続く)

 

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