カテゴリー「文学・言語」の258件の記事

2008.05.14

「Love or Money」のお話

Ai 「」か「金(カネ)」か。
 妙な問いですね。この問いはだいたい恋愛とか結婚とかのシチュエーションで登場するものです。本来はそういう場合、たとえば女性だったら、「彼」か「金」かと問うべきです。つまり、「彼」を愛するべきか、「金」を愛するべきかで悩むのが本当なんです。
 で、「彼」か「金」かという問いの、一般的な答は「金」です。それは普通に考えて、あなたの「愛」に答えてくれる可能性は、圧倒的に「金」の方が高いからです。なんの保証もない「彼」に見返りを期待するより、社会が担保してくれている「金」に見返りを求める方が得策です。
 「金」は「神」だと考えるとよくわかります。その虚構性や契約性、そして悪魔性においても、両者はとてもよく似ていますよね。信じる者は救われるわけです。あの、紙切れや金属の円盤に価値があると思い込み続け、そして、ある意味それに魂を売って(入信して=システムに参入して)、その恩恵(愛)を受けるべく仕事する(修行する)わけです。
 それに比べると「彼」は多少頼りない存在です。「彼」もあなたと同じく、「彼女」か「金」か考えているからです。彼もあなたと同様、あくまでも受容者であって、「神」のような与える者にはなかなかなれないのです。
 というわけで、私たちは「神」の「愛」にすがるように、「金」の「愛」に依存して毎日を生活しています。しかし、それは先ほど書いたように、あくまでも契約(システム)上のことであって、いつそれがスーパーインフレを起こすか、実は分かりません。突然価値を失って、愛を与えてくれなくなってしまうかもしれないんですね。「神」や「金」の「愛」は、保険や年金みたいなものでして、システムが破綻して、全てがご破算になる可能性もまたあるのです。
Kane たぶん「金」が「愛」を大安売りしたのがバブルで、それが破綻してしまったのが現在の不景気なんでしょうね。バブルとその崩壊は、「神」の世界でもよくあることです。そんな時、「金」や「神」は突然「悪魔」に変ったような気がします。ま、実は変ったのは自分たちなんですけどね。
 で、我々は、我々が作ったシステムの不備や負の可能性、そして自分が気分屋であることをよく知っているので、実はそのシステムに没入できないものなんです。だから、たまには「彼」や「彼女」を信じてみたくなる。あるいは依存してみたくなる。「彼」や「彼女」の「愛」を享受できる可能性はたしかに少ないのですが、ある種の幻想や夢を抱かせてくれるし、人間自体はシステムではなくて実在なので、完全なる破綻というのはないような予感がするからです。
 恋愛は基本的に1対1の実在どうしの関係、究極はそこに他者や社会のシステムが入りこむ余地がないわけですから、自分の意志でどうにかなるような気がするんですね。世間が相手だと自分の意志ではどうにもできないことばかりです。ま、そんな恋愛も所詮フィクション、幻想であって、世の中以上にままならないことがほとんどなわけですが(笑)。
 さて、それでは本当の「愛」というのはどこにあるかと言いますと、これはワタクシ的には「完全なる贈与」にしかないと思うんですね。愛とは、見返りを期待しない贈与。実在を賭すことができる贈与、つまり命をかけられるか、というなんだか俗っぽい結論になってしまうのです。
 で、実際にはそれは自己に対してか、あるいは半分自己である自らの子どもぐらいにしか与えられない。まあせいぜい孫くらいまででしょうか。あるいは逆方向に半分自分である親とかでしょうかね。そのあたりまでしか及ばない。あとは、みんな他人です(遺伝子的には人類皆兄弟ですけど)。
 そうなんです。他人には「愛」は与えられないんです。他人へは「親切」しか与えられない。だから現実的には「愛」は負けても「親切」は勝つという表現が生まれる。他人へは完全なる贈与はありえないのです。おわかりになりますか?
 そうすると、「彼」や「彼女」も通常は他人ですからね、本当は恋愛というのは「親切」ベースでなければならないはずです。だから、冒頭の問いに対する私の訂正もまた誤りなのでした。本当は、「彼」に親切にすべきか、「金」を信じるべきか、ですね(笑)。
 さて、いろいろと戯言を述べてきましたが、この記事の本当の目的は自分の考えを披瀝することではなくて、ある文章をおススメすることなのでした。
 今では教材にもなっている次の文章、経済学者の岩井克人さんが、数年前に朝日新聞のコラムに書いたものです。『宝島』で有名なスティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編と、自らの「貨幣論」を結びつけて面白いエッセイに仕上げていますね。これを読んで感動する生徒も多いのですが、皆さんはどう感じますか?
 私はちょっと違和感を覚えます。小瓶に住む悪魔は貨幣の悪魔性とは無関係だし、彼がハイパーインフレーションと読む部分は、私にはマイナス利子の比喩と読めますし、結末も「愛(倫理)」が「金(貨幣)」に勝ったというより、人の幸福は他者の命の犠牲によっているというメッセージに読めるんですが。
 ああ、そうか、そういう意味では、これはアル中のおっちゃんの「愛」の物語なのか!なるほど(笑)。
 まあ、とにかく時間のある方は読んでみて下さい。『瓶の妖鬼』はいい物語です。

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 先日知人から次のような内容の電子メールを受け取りました。
 「子供の頃、スティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編を読んで強い印象を受けた記憶がある。岩波文庫で最近復刊された『南海千一夜物語』に収録されている。『貨幣論』の立場から読み解くと、面白いのではないかと思うがいかが」
 スティーヴンスンとはあの『宝島』の作者です。私は急いで『南海千一夜物語』を注文して『瓶の妖鬼』を読んでみました。私も強い印象を受けました。今回は、その理由を話してみたいと思います。
 それは、ハワイ人のケアウェとその妻コクアの物語です。
 ケアウェはまだ独身であった時、50ドルで一つの小瓶を買います。それは中に恐ろしい顔をした小鬼が済む不思議な小瓶で、持ち主の願う事は永遠の命以外ならなんでも叶えてくれるというのです。ケアウェには、花が咲き乱れる庭に囲まれた王宮のような家を持つ夢がありました。その夢はたったの50ドルで直ちに実現されてしまったのです。
 もちろん、小瓶は呪われています。それを持ったまま死ぬと、持ち主の魂はその中の小鬼によって地獄に引きずり降ろされてしまうんです。難を逃れるには、ケアウェは生きている間にその小瓶を他人に買った価格よりも安く売らなければ売り手の元に戻ってきてしまいます。タダで譲ってもやはり戻ってきてしまうのです。
 小瓶の最初の持ち主であったアビシニアの王様は、悪魔に数百万ドルも支払ったといいます。だが人から人へ売り渡された数百年の間にその価値は大幅に下がり、ケアウェが買い取った時には50ドルにまで下がっていたのです。ケアウェは小瓶を友人のロパカに売り渡します。
 ある日、ケアウェはコクアという娘と出会います。二人は即座にお互いを好きになるのです。だがじきに、ケアウェは自分が不治の伝染病におかされていることを知ります。病をうつさずにコクアとの愛を貫く道はただ一つ。小瓶に病気を取り去ってもらうことです。だが小瓶は既にロパカの元を離れ、何人もの手を渡っていました。ようやく小瓶を探し当てると、その持ち主はなんと人から2セントで買ったという。ケアウェは泣く泣く小瓶を1セントで買い取ります。地獄へ堕ちる決心をしたのです。ハワイでは1セント以下の効果はありません。小瓶は死ぬまで誰にも渡せないのです。
 私は9年前に『貨幣論』という本を出版しました。小鬼の住む小瓶とは、知人が示唆してくれたように、まさに「貨幣」の象徴として読むことができるのです。
 人はみな貨幣を欲しがります。貨幣を持てば、どのような商品でも手に入れることが出来るからです。
 だが、貨幣の実体は、何の価値もない単なる紙切れや金属片でしかありません。その紙切れや金属片が1万円や1ドルの価値を持つのは、他人がそれを1万円や1ドルの価値として受け取ってくれるからにすぎません。そしてその他人が受け取ってくれるのも、さらに他人が受け取ってくれるからにすぎないのです。それゆえ、誰も貨幣を受け取ってくれないと人々が思い始めれば、実際に誰も貨幣を受け取らなくなってしまいます。ハイパーインフレーションと呼ばれる現象がそれです。その時、貨幣は急速に価値を失い、最終的にはその実体である単なる紙切れや金属片に戻ってしまうのです。
 そのことを極端な形で表しているのが小瓶です。それは一見すると、どのような願いでも叶えてくれる素晴らしいものに見えます。だが、その実体は地獄なのです。誰かが買ってくれなければ、持ち主の魂は小鬼によって地獄に引きずり込まれてしまいます。しかも、人から人へと売り渡される度に価格が下がるこの小瓶には、ハイパーインフレーションが始めから仕込まれているのです。誰かの魂が必ず地獄に堕ちるのです。そして、その運命がケアウェに降りかかったのでした。
 だが、話はまだ終わりません。この物語にはさらに、貨幣の論理を超越する論理が語られているのです。
 コクアは幸せなはずの結婚生活なのに、ケアウェが絶望しているのに気がつきます。その理由を知ると、聡明な彼女はフランス領タヒチでは1セントより小額の1サンチーム硬貨が流通していることを思い出し、ケアウェとともに移り住みます。
 しかし、タヒチでは誰も小瓶を買ってくれません。そこでコクアは意を決し、人を介してケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買い取ってしまうのです。だが、ケアウェはすぐにそのことを察します。今度はケアウェが、人を介してコクアから内証で小瓶を買い取る決心をするのです。
 貨幣を手に持つ人間にとって、他人はすべて自分のための手段に過ぎません。自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどのような人間であっても構わないのです。
 すべての人間がすべての人間にとっての手段となってしまう世界―それは、まさに地獄です。そして、そのことを単なる比喩ではなくしてしまうのが小瓶です。その持ち主にとって、すべて他人は自分の魂を地獄に堕とさないための手段でしかありません。いや誰か他人の魂を地獄に堕とさなければ、自分の魂が地獄に堕ちてしまいます。道理で小鬼は恐ろしい顔をしているはずです。
 だが、コクアとケアウェがそれぞれの相手に内証で相手から小瓶を買おうとした時、貨幣の論理が逆転します。二人は共に、相手を自分の手段とするのではなく、逆に自分を相手の手段としようとしたのです。本来何ものとも交換しえない絶対的な価値であるべき自分の魂を犠牲にして、相手の魂を救おうとしたのです。
 ここに、魂の交換が成立したことになります。だがそれは、同じ貨幣の価値をもつモノ同士の交換ではありません。二人がそれぞれ、何ものとも交換しえない絶対的な価値を一方的に相手に与えることによって、結果的に成立した交換なのです。それは、貨幣的な交換を超越したまさに倫理的な交換であるのです。
 そして、この交換には別名があります。「愛」という別名です。
 もちろん奇跡が起こります。
 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買い取ったアル中の水夫長が、お酒欲しさにそれをケアウェに売り渡すことを拒否してしまうのです。
 二人が末永く幸せに暮らしたことは言うまでもありません。

Amazon 南海千一夜物語

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2008.05.13

「おかえりなさいませ、ご主人様」の不思議

Fig200501305 〜、本格メイドカフェメイド教室(?)には行ったことはありますが、実はホンモノのメイド喫茶には行ったことがありません。ですから、「おかえりなさいませ、ご主人様」などと言われたことはありません。もちろんウチに帰ってきても、妻も二人の娘もそんなこと言うわけありません(「言え」と言えばギャグで言ってくれるでしょうけど、むなしいのでやめときます)。
 さて、そんなメイド喫茶での常套句「おかえりなさいませ、ご主人様」でありますが、これって不思議じゃないですか?いや、別にメイド喫茶じゃなくてもいいんですよ。とにかく「ただいま」「おかえり」の「おかえり」です。
 今日授業中、ウチのメイド…ではなくてギャルどもと漢文の問題を解いてる時、なんだかまた話が脱線して、挨拶の話になったんですね。それでふと気づいたんです。

 「おかえり」「おかえりなさい」「おかえりなさいませ」
 これって命令形じゃん!?
 帰ってきた人に「帰れ!」って言ってるってこと?

 私四十ウン年生きてきまして、もうおそらく何万回も言ったり言われたりしてきたんでしょうけど、今まで気づきませんでした。
 たとえば「おやすみなさい」。これは命令形の尊敬表現として不自然ではないですよね、状況的に。もうそろそろ寝なさいということですね。お互いにそう言い合っても変ではない。
 しかし、帰ってきた人に対して、「帰れ」とはどういうことでしょう。「なんだよ、もう家に帰ってきたのかよ。さっさと会社に(学校に)帰れや!」ってことでしょうか(笑)。
 メイドカフェ風に言いますと、「なんだよ、このキモヲタ!さっさとジュースでも飲んでおウチに帰ってゲームでもしてろや!」っていうことしょうか(冗談ですよ)。
 まあ、「おはよう」とか「こんにちは」とか「さようなら」とか「ただいま」とか「Hello」とか、とにかく挨拶語というのは、本来の意味を失った形式的なものになるんですけど、それでも今挙げたものたちなんか、語源に遡ればそれぞれ「なるほどね」と納得できます。しかし、「お帰りなさい」は納得できないぞ。どういうわけでしょう。
 似たような命令形の尊敬表現では、「いらっしゃいませ」というのがありますね。これも似たような矛盾をはらんでいるんですけど、でもちょっと違うような気もする。基本、店の前を通過する人たちに「いらっしゃい、いらっしゃい(お店に入れ)!」と言って呼びかけるわけじゃないですか。それで実際店に入ってきた時に「いらっしゃい(ませ)」と言う。家で客人を迎える時も、基本玄関先で「いらっしゃい(ませ)」と言うわけですよね。そうすると、「Come in!」的なニュアンスで、「さあさあ、どうぞ中までいらっしゃい」という意味で使っているともとれます。店でも入り口から店の奥へ誘う感じがあるとも言えますよね。
1123580060 それに比べると「おかえりなさい(ませ)」というのは、やっぱり異質です。たしかに玄関が開いた音を聞いて「おかえり!」と言う時もあります。それを「いらっしゃい」と同じように考えることも可能ですけれど、我々はもちろんそんな意識をもってこの言葉を使っているわけではありません。
 歴史的に見ますと、どうも江戸時代にはこの表現があったようです。明治の初期の小説にもけっこう多くサンプルを拾うことができそうです。古いものを読んでいると、時々「今、おかえり」みたいなのも見かけます。これは「今、帰ったんですね?」的なニュアンスで分かる気がします。また、「おかえりなさい」の「なさい」を「なされ」の音便ととらえるのではなく、「なさる」の連用形「なさり」の音便と考えて、「お帰りなさりましたね」的に考えると、なんとなく納得できます。
 しかし、「おかえりなさいませ」と「ませ」まで付きますと、これはもう命令としか考えられなくなります。あるいは「ませ」を已然形と考え、すなわち係り結びの係り部分の欠落と考える…こりゃあ、無理だな(笑)。
 あと、出かける人に対して「お早くお帰り(なさい)」みたいな挨拶というのも実在しますね。これは完全に命令表現です。そういう願望があるからで、実現してほしいことだからです。しかし、帰宅時の「おかえりなさいませ」はそういうことではない…。
 う〜ん、なんだか分からなくなってきたぞ。「おかえり」の意味の他の表現、古語や方言なんかを調べてみても面白いでしょうね。あるいはこういう不思議な命令表現がほかにもあるかもしれない。まあ、もちろんちゃんと調べて論文書いてる人もいるでしょうけど。
 英語ではどうなんでしょうね。「ただいま」は「Hi, I'm home [back].」らしいけど、本当にそういうふうに言うんでしょうか。で、それに対する「おかえり」は、辞書にはただ「Hello!」と書いてある。実際のところどうなのか、今日ALTに聞いてみます。
 というわけで、かなり気になり始めたので、私なりに研究し、いずれ「メイド喫茶における挨拶語に関する一考察」という論文を書きます(笑)。

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2008.05.08

○○始まったな…

Cut_nayami の微妙な萌えキャラは総務省のホームページから無断転用しております。総務省さん許してね。「え〜?勝手に使わないでよ」と困った顔をしている彼女、「電波りようこ」という名前だそうです。
 で、こういう意外なことが起きた時、ネット上ではいろんな人たちが「総務省始まったな」と言います。これは面白い表現ですね。一般には「総務省終わったな」の逆説的表現だととらえられますが、実は一概にそうとも言えない場合もあるんですね。つまり、本当に「始まった」という意味で使われることもあるというわけです。
 つまり、このイラストを見て、「おいおい、総務省とあろうものがこんな萌え系のキャラを使うなんて、ああ、もう総務省も終わりだ。日本も落ちたもんだな」と真剣に思った人が揶揄として「始まったな」と言う場合と、「うお〜!萌え〜。総務省さんもこんなことするんだ。りようこちゃんも萌えだけど、総務省も萌えだなあ。いやあ日本に生まれてよかった」(笑)という意味で「始まったな」と言う場合があるということですね。
 修辞法としての反語や逆説というのは、実はこのように解釈が難しいのです。日常の会話でも解釈に迷うことはよくありますし、古文を読んでいたりすると、そんなことばっかりです。これは一つの婉曲表現であり、朧化法であります。
 こんな例もあります。例の秋田県羽後町の「スティックポスター」に関して、こんなふうな表現がされています。発展的な用法です。
 「秋田で最も始まっている羽後町始まり過ぎ」
 これをどう解釈すべきか…なかなか難しい国語の問題ですね。中間テストに出そうかな(笑)。ある意味この文章だけでは答を出すのは困難です。いわゆる文脈が必要になります。また、表現者の立場や心情によって解釈が変わってくる場合があります。いろいろと考えてみてください。面白いですよ。
 ちなみに、今「北京オリンピック始まったな」と言った人に対して、「えっ?まだ始まってませんよ」なんて言うのは愚の骨頂です。KYです(笑)。
 ところで、今気がついたんですけど、こうした逆説的揶揄表現には一つのルールがありますね。すなわち、悪いイメージのものに対して良いイメージの言葉を使って表現することはありますが、その逆はないということです。つまり、「終わったな」という意味で「始まったな」とは言うけれども、「始まったな」という意味で「終わったな」とは言わないんですね。
 ちょっと卑近な例になりますが、美女や美男子に対して不細工とは言わないけれど、不細工に対しては美女とか美男子とか言いますよね(笑)。私なんかよくハンサムとかイケメンとか言われますよ…ハハハ。
  まあ、基本揶揄とか皮肉とか罵倒とか嘲笑なわけですから、当然のルールといえば当然のルールですな。難しいことじゃないか。
 そうそう、これは敬語の使用についても言える現象ですよ。敵や見下すべき存在に対して、「御前」とか「貴様」とか言うじゃないですか。「てめえ(手前)」とかもそうかな。「おまえ何様だ?」とかも。そして、結果として敬意の逓減と言われる現象につながっていきます。
 その逆ってありえませんよねえ。ま、謙遜という形で自分を卑下する場合はありますが。でも、とっても細い女の人が、メタボなおばさんを前にして「私最近太っちゃって…」とか言うと、反感買いまくりますけどね(すなわち、自分を卑下するのではなく、相手を卑下してしまう…笑)。言葉は難しいっすね。
 あっそうだ、感嘆詞的な用法としては、すばらしいものに対して、「チョーやべえ」とか「まじ死ぬ」とか「ありえねー」とか言いますね。そういうのは古文の時代からたくさんあります。
 というわけで、今回の「総務省始まったな」はどっちなんでしょうね。総務省さんとしては、始まらせたんでしょうか。ま、自ら終わらせる人もいないでしょうけど。ただ、KYな人が始まらせようとして終わらせてしまうことも往々にしてありますので。
 電波利用のページということで、アマチュア無線の方々が対象になるでしょうから、やっぱり狙ったんでしょうか。まずは総務省さんに聞いてみましょうか、始まらせようとしたのか。
 いや、ちょっと待てよ。電波利用子(りようこ)…う〜む、冷静に考えるとこのネーミング…やっぱり、「始まったな」(笑)。

総務省

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2008.05.02

アンサンブル・ラルバ 『ソプラノとリュートで紡ぐ 中世の愛の歌』

542ga 士吉田パプテスト教会で行われたヨーロッパ中世音楽のコンサートに行ってまいりました。
 歌とサンフォニーは夏山美加恵さん、リュートはルネ・ジェニス=フォルジャさん。
 セフェルディックやトルバドゥールの歌といった、11世紀から13世紀にかけてのイベリア半島の音楽を中心とする大変渋いプログラムでしたが、会場は満員大盛況。私のような古楽人でもなかなか生で聴く機会のないジャンルでしたから、一般の方はどのような印象を持たれたのでしょうね。きっと不思議な感じがしたのではないでしょうか。いわゆるヨーロッパのクラシック音楽のイメージを抱いて会場にいらした方々は、あの非和声的、旋法的、即興的、詩的な世界は、全くの新しい体験だったのでは。
 当時のイベリア半島には、イスラムやユダヤの文化が多く流入し、中世キリスト教音楽と、現地の民俗音楽が混ざり合う、大変に個性的な音楽や詩、そして言語が発達していました。近代的なそれらに統合される前の一種カオスの状況とも言えますね。そこに立ち現れるエネルギーはどこかアジア的でもあります。ああ、そうか、その頃はまだ、「西洋」は確立してなかったんだよなあ。西洋以前、西洋はまだ世界の一地域に過ぎなかったわけでして。
Nm 今日演奏された曲、そして楽器は、明らかに西アジアを発祥としています。リュートと称された復元楽器はほとんどウードですし、歌われる旋律にもアラブ音階が多く混入していました。私は当時のヨーロッパ語についてはほとんど分かりませんけれど、歌われた詩における言葉もかなり古い形なのだと思われます。いちおう私、古い日本語を専門していますから想像はつきます。1000年前の日本語はつまり平安のそれですからね。語彙、文法だけでなく、音韻的にもとんでもなく今と違います。
 そのへんの復元について、どのように行われているのか、夏山さんにいろいろとうかがいたかったのですが、終演後子どもが早く帰りたがっていたので、充分な時間が取れませんでした。残念。
 そうそう、お客さんから「楽譜が残っていないのに、どうやって当時の音楽を復元するのか」というするどい質問が飛んでいましたね。夏山さんは「企業秘密」とおっしゃっていましたが、まあそのへんの事情については私はよくわかります。そして、その企業秘密の部分こそが、いわゆるクラシック的な発想とは違う古楽的な部分であると思いますし、その現代性とも、またその自己撞着性とも言えると思いますね。そうしたファンタジックなところや、フィクショナルなところが面白いんですよね。
Rgf 西アジアで生まれた音楽が、かたやシルクロードを通って東の果て日本(わかりやく言えば正倉院)にたどりつき、かたや西進してイベリア半島にたどりついた。そこでしばらく醸されたのちに、16世紀に両者はグルッと回って(裏側を回ったわけではありませんけど)九州で出会うわけですよね。う〜む。
 そんなことに思いを馳せながら今日の演奏を聴きますと、普段我々が接している近代ヨーロッパ音楽がいかに特殊なものであるか、再び確認されるのでした。それはまるで共通語としての英語のように世界を席巻しておりますね。英語だけが言葉ではありません。それと同様に音楽も実に多様であるわけです。
 英語が機能的で便利であるのと同じように、近代西洋音楽は「便利」で「共有しやすい」、つまり近代合理主義的価値は高いわけですし、実際その特長を活かして我々は高度な作品を構築したのですが、違った価値基準からすれば、それ以上の言葉や音楽は無数にありますね。私たちがそうした別の価値に気づくよう努力しなければなりません。夏山さんもおっしゃっていました。そのために活動しているのだと。
 あと、「詩=言葉が先」ということに関して。これは日本の歌(和歌)の世界も全く同じです。テキストは残っているけれども、旋律は記録されていません。記録する必要がなかったと言うよりも、記録できなかったわけですね。毎回違っていたわけですから。古い日本語では楽器の音色のことを「もののね」と言いました。歌詞は「コト」として言の葉で固定されましたが、メロディーは常に更新されては消えていく「モノ」であったわけです。そして、コトからモノが発するという、我々の一般的な活動(コト化)と逆のエネルギーの流れこそが、芸術の本質であります。
 今までも何度も書いてきましたので、繰り返しになりますが、「モノ」を「カタル(コト化)」して「コト(作品)」が生まれ、それを受容した人から新たな「モノ」が生まれる、そうした循環がすなわち芸術の生命力であり、人間の生命力であるのです。
 と、こんなふうにいろいろなことを考えさせてくれるいい演奏会でした。私の音楽的後半生のテーマがまた明らかになったような気がしました。ありがとうございました。

アンサンブル・ラルバ公式(視聴も可…ぜひお聴きください)

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2008.04.28

『正則 ニューナショナル 第三リードル獨案内』 森修一 訳著 (大阪書房)

3reader の前の「哲学の東北」にも、南方熊楠はものすごく英語が上手だったという話がありました。明治の知識人はけっこう外国語得意でしたよね。いったいどういう勉強をしていたんでしょう。今の日本の英語教育はなんだか迷走していますけど、あの頃はどうだったんでしょうね。
 と思っていたら、今日あるクラスの生徒が「ひいおじいちゃんが使ってたテキストが見つかった」ということで、何冊かの古い本を貸してくれました。そのうちの一冊がこれです。
 これはリーダーのテキストの虎の巻ですね。先生用のようです。今の教科書ガイドのように生徒も使ったんでしょうか。当時の学生や先生たちがどのように英語を学習していたかよく分かる貴重な資料です。
Catmouse_2 ちょっと右の写真をクリックしてみてください。ネコとネズミの会話ですね。ご覧のように、本文の上にカタカナで発音が、下には訳が載っています。そして訳の下には漢数字で訳す順番が書いてあります。まるで漢文の書き下しですよね。
 発音のカタカナをよく見ると今の感覚とはちょっと違うものもあって興味深い。「t」を「ツ」に半濁音の○をつけて表したり、独自のルールがあるようです。ただ、カタカナをそのまま読めばいいわけではありません。時々、「生徒に発音の練習をさせよ」みたいな注記がありますから、やはりカタカナ英語ではダメだという感覚があったんでしょうね。でも、こうしてカナで発音を示すのは悪いことではありせまんね。当時のルビ文化と同じで、私はそこに積極的な意義を認めます。
 日本語訳がそれこそ漢文訓読調(文語文)で面白いですね。このシーンは会話ですのでまだ分かり易い。ほかのところではまず日本語が難しくて生徒たちは面食らってましたよ。時々「意訳」が載ってるんですけど、それでもまだ難しい。我々は、英語を漢文訓読調に訳したものの意訳をさらに現代語訳しなくてはならないわけです。面白いですねえ。
 そして、なんといっても漢文の返り点のような漢数字の存在ですね。これは今の英語教育的観点からしますと、どうなんでしょうね。私はけっこう目からウロコでしたよ。漢文もそうなんですけど、とにかくこうして語順を日本語調にしながら解釈していくと、いつのまにか外国語の文法的構造がわかるようになるんですよね。遠回りのようですが、実は効率的な学習方法のような気もします。
 昔の人は、漢文や英語をこのようにしてとにかく多読して、そしていつのまにか白文でも理解できるようになっていったんでしょうね。発音はできなくとも意味がわかる、すなわちリーディングとライティングを先に完璧にして、そして必要があればスピーキングやリスニングに移行したんでしょう。今の外国語教育は逆のケースが多い。とにかく会話から入りたがる。もちろん、国際関係の状況が今と昔とでは全く違うわけですから、一概にどちらがいいとは言えませんけどね。でも、なんか私たちが忘れている大切な智恵がそこにあるような気もします。
Newwords あと、面白かったのは、新しい単語の学習の部分ですね。左の写真をクリックしてみてください。ご覧のように、新しい単語のスペリングが同時に発音記号になっているんです。いろいろな記号や異字体を使ってスペルと発音を有機的に関係づけて学習させてますね。この発想は私の中にはありませんでした。なるほどなあ、と思いました。もしかすると、ネイティヴの感覚に近いのかもしれませんね。無意識的でしょうけれど、つづりと発音の関係はこのように把握されているのかもしれない。これは学校教育の現場で復活させてもいいのでは。
 途中、国語教師に対するアドバイスも載っています。英語と国語、今よりももっと上手に連携していたみたいですね。なるほど。
Sanjutu この本のほかに、数学(算術)のテキストもありました。「受験問答叢書 新撰算術問答」という本です。これもなかなか興味深い内容でした。「算術とは何か」「数とは何か」というところからスタートして、四則計算、小数、分数、比例、歩合、利率といった内容に進んでいきます。最後には当時の高等学校や師範学校、陸軍士官学校や海軍兵学校の入試問題が載っていまして、それを見ますと、今の数学の試験とは違って、生活に根ざしたより実用的な問題が課されているのがわかります。今の数学はずいぶんと抽象的な世界になっているんだなあと思いました。それがいいのか悪いのか、なんとも言えません。
Oshibana さて、この算術のテキストを繰っていたら、とっても素敵なものを見つけました。押し花です。きっと若かりしひいおじいちゃんが、勉強の合間に野の花を摘んできて、なんからの気持ちをこめて押し花にしたものでしょう。なんかジーンとしちゃいました。明治のロマンですね。今の若い男で、こういうシャレたことする人いませんよね。私はそこに本当の「日本男児らしさ」を感じましたね。おそらくこの名もない花、百年ぶりくらいに陽の光を浴びたのではないでしょうか。美しいなあ。豊かだなあ。ちょっとうらやましくも思いました。

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2008.04.26

『哲学の東北』 中沢新一 (青土社)

Tohoku 沢新一さんも、私と同じモノを東北に感じているんですね。やはり何かあるんです。あそこには。
 「東北の哲学」でなくて「哲学の東北」。これもよくわかります。艮ですよ。鬼門。出口王仁三郎も言います。日本は世界の艮(東北)だと。そこになにかが幽閉されている。それは…。
 私もどういうわけか東北に惹かれていました。若い時にも何回か足を運んでいます。そこには啄木や賢治寺山太宰がいました。彼らの言葉を通じて知った東北はなぜか我々都会人よりずっとオシャレでした。この本でいうアヴァンギャルドというヤツでしょう。
 しかし、矛盾も深く感じていました。彼の記した言葉と、実際に東北の人たちが語る言葉、あるいは村々に記された言葉とのとんでもない(!)乖離。いったい何が起きているのだ。
 その後、棟方志功や土方巽に出会い、そして縁あって東北の女を嫁にして、そうして違った意味で東北に通うようになってようやく分かりました。ああ、ここは「モノ」の国だと。「コト」の国ではない。懐かしい物の怪の国だ。
 「モノ」の国だからこそ、そこに現れる「コト」はみんなウソくさい。ウソであることをはばからない。それがエロティシズムであり、フィクションであり、ユーモアであり、いかがわしさであり。まるで人間の活動が全て見世物であるように輝いている。
 賢治や啄木や太宰や寺山や土方の言葉が特別なのは、そうか、単に外国語だからだ。カミさんはそれをいとも簡単に私に教えてくれました。なんだ、それだけのことか。あれは全部ウソだから輝いていたのか。だからタモリの寺山はあまりにそれらしくて面白いのか。
 この本でも、そうした言葉の問題が取り上げられています。東北があいさつとことわざの世界だというには大賛成です。あいさつしかない。それはよくわかります。私なんか東北にいるとしゃべりすぎてしまいます。彼らがしゃべる時は、それはフィクションとしての作品を生む時です。そうそう、あの時の皆さんの武勇伝大会は面白かったなあ。どこまでが本当かわからない、本当の物語を聞いたような気がしましたっけ。
1 中沢さんと対談者たちは言います。異質の「もの」どうしが結びつくエロティックな力。それはロゴスでもコスモスでもない。贈与の力。イマジネールからリアルへ。客観の方へ。物の方へ。コミュニケーションとしての言語ではない。モノとしての言語。嘘こそが存在の様式。
 唯物論的な物言いはあんまり好きではないのですが、しかし、やはり「モノ」がベースであるような気がするのです。「コト」は我々の意識であり、だからこそ存在はフィクションであると。「モノ」という大地に咲く「コト」という花だから美しい。本書にもありましたが、まさに仏教を象徴する蓮の華ですよね。
 土方巽のよき理解者であり、よき継承者であり、よき体現者である森繁哉さんとの対談が刺激的でした。「物」と一体化するんではなく、「物」は他者のままにしておかねばならないと。接続はするけれども一体化はしない。できない。私たちの肉体からしてそうだと。舞踏の基本姿勢ですね。
 思い通りにならないことの素晴らしさでしょうね。あっそうか。「ものにする」という言葉、あるいは「ものになる」という言葉、なんとなく自分の「モノ・コト論」とは矛盾しているような気がしていたんですが、そんなことなかったんだ。一体化ではなく、あくまでも外部の他者と接続するという意味なんだ。そうすると「仕事は体で覚えるな」「習熟するな」という言葉の意味もよくわかるというものです。
 やはり東北(艮)には、近代が忌み嫌った「モノ」が幽閉されていました。だから懐かしく恐ろしいのですね。大物忌神社はその総本宮なんですね。私の後半生は間違いなく「東北」とともにあるでしょう。東北というブラックホールに吸い取られて良かったなあ。
 
Amazon 哲学の東北 幻冬舎文庫版

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2008.04.23

『図解<出口式>論理力ノート』 出口汪 (PHP研究所)

56965625 日はある意味での出口王仁三郎の後継者を紹介しました。今日はまさに正統的な後継者の本です。これは素晴らしい。今、カミさんが「痛快!」と言いながら読んでます(というか図を見ています)。自分も含めて世の奥様方に読んで(見て)いただきたい、と申しております。賛成です(笑)。
 それにしても、まったく不思議なものですね。職場では出口汪さんの「論理エンジン」を教材にしていますし、汪さんのいとこである出口光さんの天命本に癒され励まされ、汪さんのお父さん出口和明さんの残した名著「大地の母」に興奮しつつ難渋し(膨大な量なので)、そして和明さんのおじいちゃんである王仁三郎の耀盌を毎日拝する…。はたから見ますと、私が出口教の信者に見えることでしょう。まあ、私は彼らの生徒みたいなものですよ。学ぶことがたくさんあります。「モノ」と「コト」の総合された、その先の世界を学べるんですね。
 私の「モノ・コト論」を読んでおられる方には、論理とはまさに「コト」であり、私はどちらかというとそれを否定し、「モノ」の復権を目指しているように感じられるでしょう。
 汪さんはその「論理」を身につけることを強くすすめます。「コト」の権化である「言葉」を正しく使うことこそ大切だと説きます。それだけ見ますと、私とは意見が真っ向から衝突しているように感じられるでしょう。なのになぜ私は彼に共感するのか。
 彼のすごいところは、「論理=言葉=コト」を武器に受験やビジネスのリングで勝つことだけを目指しているのではないというところです。
 彼はこの本の冒頭でこう述べています。
 「論理は他者意識から生まれる」「恋愛によって他者の存在を知り、受験によって自立の覚悟ができる」「論理に習熟した人間は、やがて論理など意識しなくなる」「真の国際語は論理である」
 つまり、彼の目指すところは、もっと先の「モノ」なんです。「コト」を通過したのちの「モノ」世界。それはなんなのか。あるいは悟りというものなのかもしれませんね。あるいはデカルト的に言うところの、分析の先の総合、知性の先の理性という世界なのかもしれません。あるいは不立文字の境地かもしれない。言語の集合体でありながら、言語以前の言語に帰っている、王仁三郎の「霊界物語」の世界かもしれない。
 いずれにしても、そこには調和や協調、人間の脳ミソのレベルを超えたところの(一見無秩序、渾沌に見える)秩序世界、ミクロとマクロの統合したような世界が開けているような気がします。あのペレリマンがポアンカレ予想の証明の先に見た「モノ」。彼がこの社会から姿をくらまし、全く語らなくなったというのは象徴的です。
 彼らとは実際レベルが違いすぎるんですけれど、実は私もそんなところを目指しているんです。こうして毎日書き散らしているうちに、何か全体像のようなものが立ち上がってくることを期待してるんです。もちろんなかなかそうは行かないわけですが。
 やっぱり、コトはモノの一部なんだと思います(反対のことを言っている有名な方もいますけど)。論理の習得や、いわゆる勉強や、修行という「コト」が結局前提になってるんですね。人間が、目指すべきところに到達するためには、どうしても通過しなければならないコトがあるわけです。
 今、カミさんが娘を叱ってました。「無理!」とか「意味不明!」とか言うなって。まったくです。最近、小学校ではみんなそう言うらしい。高校生ももちろんそうです。すぐに「無理!」「意味わかんね!」って言う。口癖になってるんです。
 で、汪さんも書いてますが、そういう言葉を使っているとそういう脳ミソになってしまう。そういう人間になってしまう。そうすると、「超やべえ」とか「ムカツク」とか「キモい」とか、そんなことしか言えなくなっちゃうんですね。まさにそこには自分の感覚というものしかありません。他者意識や思いやりや譲歩や尊敬なんてものはありませんね。
 それって原始人ですよねえ。言語以前の言語(笑)。我々は人間界から畜生界に行こうとしているのかもしれませんね。論理(コト)を使いこなせるのが人間なんでしょう。そして、その先の世界こそが天界なのかもしれません。できれば私はそっちを目指したいし、生徒や子どもたちにもそっちを見てもらいたいですね。その第一歩として、この本は素晴らしい導入になると思いますよ。

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2008.04.11

源氏物語に学ぶ「通奏低音奏法」その2

Dftf 今日は、チェンバロ&ヴァイオリン製作家の卵がウチに遊びにいらっしゃったので、いろいろと話をうかがいました。そこで思い出したものがあったので記しておきます。
 以前、源氏物語に学ぶ「通奏低音奏法」という記事を書きました。平安のセクスィー部長光源氏さんによるチェンバロ奏法指南です。あそこのシーンでチェンバロ(和琴)の名手として挙げられている当時の内大臣こと「頭中将」が、さらに出世して太政大臣になっていたころ(巻名では若菜上)、彼の息子の柏木(衛門督)が和琴を弾くシーンがあるんです。お父さん秘蔵の名器で通奏低音パート(?)を担当します。今日はまず我流(無手勝流)の訳を載せましょう。本文は最後に。


 朱雀院の御病気が、まだ完治なさらないことから、楽人などはお召しになりません。御笛など、太政大臣がその方面はお整えになって、
 「世の中に、この御賀よりまた素晴らしく美しさを尽くすような催しはないでしょう」
 とおっしゃって、優れた楽器や奏者の限りをかねてから熟慮し準備なさっていたので、忍びやかに音楽のお遊びが催されます。
 とりどりに演奏申し上げる中で、和琴は、かの太政大臣が第一にご秘蔵になっていた御琴です。この楽器の名人が、愛情を注ぎ込んで弾き馴らしていらっしゃる音が全く並ぶものがないほどなので、他の人は音を出しにくくなさるので、衛門督が固く辞退しているのを無理に催促なさると、本当にとても素晴らしく、ほとんど父に負けないように弾きます。
 「何ごとでも、名人の後嗣と言っても、このようには継げないものですよ」と、感心しあっぱれだと人々はお思いになります。
 メロディーに従って楽譜の残っている曲や、演奏すべき音が決まっている中国伝来の曲などは、かえってどう演奏すればよいか尋ね知る方法がはっきりしていますが、心にまかせて、ただ弾き合わせるアルペジオに、すべての楽器の音が調えられている様子は、本当に素晴らしく、不思議なまでに響きます。
 父大臣は、琴の緒をとても緩く張って、たいそう低くチューニングし、響きを多く合わせて弾き鳴らしなさります。息子の方は、たいそう軽やかに昇り立つような音で、親しみやすく明るい調子なのを、「まったくこのようにお上手とは知りませんでした」と、親王たちも驚きなさります。


 どうでしょう。息子の柏木もなかなかやるようですね。お父さんに負けず、そしてお父さんのコピーに陥らずオリジナリティー溢れる演奏をしたようです。特に、楽譜通りでなく、他の楽器の音を自らの響きにおさめてまとめるアルペジオでの即興演奏は素晴らしかったと。これはまさにチェンバロやリュート、テオルボなどの撥弦楽器による通奏低音奏法の理想ですね。
 あと面白いのは調律法でしょうか。頭中将は低めにチューニングしたようですね。テンションを下げるとたしかに響きは豊かになります。
 そうそう、いきなり現代に話が飛びますが、最近復活したX-JAPANも半音下げチューニングしてましたね、たしか。あれはバロック・チューニングを意識したのだと聞いたことがあります。ホントかな。ちなみにBUMP OF CHICKENもほとんど全て半音下げですね。今度5月に彼らのライヴに行く予定なので確かめてきます。彼らも古楽的な要素を持ったバンドですからね。案外、我々古楽人のスタイルが現代ロックに影響を与えてるんですよ。
 洋楽ではヴァン・ヘイレンが有名でしょうか。ジャズでも誰かいたような…。結構いるんですよね。独特の響きを出したい時は頭中将流が手っ取り早いというわけです。
 というわけで、あいかわらず「古今東西・硬軟聖俗」めちゃくちゃな内容になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。では、最後にいちおう本文を載せときます。

 朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、楽人などは召さず。御笛など、太政大臣の、その方は整へたまひて、
 「世の中に、この御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ」
 とのたまひて、すぐれたる音の限りを、かねてより思しまうけたりければ、忍びやかに御遊びあり。
 とりどりにたてまつる中に、和琴は、かの大臣の第一に秘したまひける御琴なり。さるものの上手の、心をとどめて弾き馴らしたまへる音、いと並びなきを、異人は掻きたてにくくしたまへば、衛門督の固く否ぶるを責めたまへば、げにいとおもしろく、をさをさ劣るまじく弾く。
 「何ごとも、上手の嗣といひながら、かくしもえ継がぬわざぞかし」と、心にくくあはれに人びと思す。調べに従ひて、跡ある手ども、定まれる唐土の伝へどもは、なかなか尋ね知るべき方あらはなるを、心にまかせて、ただ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。
 父大臣は、琴の緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き多く合はせてぞ掻き鳴らしたまふ。これは、いとわららかに昇る音の、なつかしく愛敬づきたるを、「いとかうしもは聞こえざりしを」と、親王たちも驚きたまふ。

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2008.04.04

「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」


 今日は久々に授業でJ-POPの歌詞をやりました。いかに現代の歌詞の世界が日本の伝統的な文学、特に「もののあはれ」の伝統を継いでいるかいうことです。生徒たちも新しい発見があったのでは。
 いくつかの人と作品を採り上げました、そのうちの一つがフジファブリックの「茜色の夕日」です。来月の富士吉田凱旋ライヴの宣伝もかねて生徒に読んで聴いてもらいました。
 さて、この何気ないが実に切ない曲の歌詞。これは見事に「もののあはれ」の本質を教えてくれます(マジで)。
Akanel 冒頭からハッと気づかされます。「茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました」…これは散文なら「思い出したことがありました」となるところでしょう。それをいきなり「思い出すものがありました」としたところが、志村正彦くんの天才的なところです。詩人なところです。
 そう、私の「モノ・コト論」では「もの」は不随意、漠然、未知、無常、すなわち固定されていない、自分の意識でコントロールされていない状態を表す語でした。それに対して生じる虚しさや無力感、あるいは逆に驚きや感謝、畏怖などを表したのが「もののあはれ」ということですね。つまり、日本の文学に通底する「思い通りにならないことに対するため息」が「もののあはれ」という解釈です。
 で、今私は「思い通りにならないこと」…と「もの」を説明するのに「こと」という言葉を使いましたよね。これこそが、この「茜色の夕日」のテーマだと思うんです。
 さあ、歌詞をご覧下さい。「思い出すものがありました」と、ふと誘発的に思い出された情景や感情は最初ははっきりしません。言葉に、説明になりません。これは私たちも普通に体験することです。自分の意志とは関係なくふと思い出してしまうことってありますよね。
 それを自分で確認していくんです。志村くんもたくさん確認しています。それが「…歩いたこと」であったり、「…笑っていたこと」であったり、「…悲しいこと」であったり。そのあとたくさんたくさん確認して「こと」にしていってますね。
 つまり、確認していくと、それは全て過去の「こと」であって、つまり動かせない「こと」になっているということです。茜色の夕日によって誘発された過去の記憶、それは志村くんにとって、実に切ない、辛い、でもなんか懐かしいことなんですね。どの「…こと」を見ても、思い通りにならなかったことや、なんとなく不本意なことばかりです。その動かせない過去の「こと」全体が、実は「思い通りにならない」という「もの」の本質を構成しているわけです。
 つまり、「もの」は「こと」を内包している、そういう物事の本質を感じさせるんですね。冒頭で「もの」でくくっておいて、その中の「こと」を開陳していく。動かせない「こと」が「もの思い」の原因になっている。過去が動かせない変えられないこと自体が「もののあはれ」の本質になっていると。どこかの有名な哲学者さんは「もの」は「こと」の一部であるみたいなことを言っていましたが、間違いですね(笑)。
 西欧人は一般に不随意を悪として、思い通りにならないことを不快なこととしてとらえ、それをいろいろなワザで乗り越えようとします。日本人はそういう行為を否定しました。「わざわい」という言葉がありますよね。これは「わざはひ」、すなわち人間の仕業の度が過ぎて、よけいに苦しむ状態です(ちなみにその反対が「さいわい(さきはひ)」です)。
 日本人は不随意な「もの」に美を感じ取った。それをどんどん歌にしてきたんです。それが日本文学です。志村くんもしっかりそういう伝統の上に歌を作っていますね。そう、「無責任」でいいんだよ…。身を任せるのが日本人です。
 で、この歌詞の素晴らしいところは、一つだけいい意味での「もののあはれ」が入っていることです。いい意味でのため息があるんですよ。どこでしょう。
 それはサビの部分です。「東京の空の…見えないこともないんだな」のところですね。これは予想を裏切られてはいますけれど、しかし、ちょっと得したというか、救われたというような感じですよね。このコントラストといいますか、スパイスといいますか、とってもよく効いてますね。
 志村くんはそれほど気にせず自然に作っているに違いありません。そこが詩人たるゆえんでしょう。私はしょせんエセ評論家にすぎません。しかし、今日も生徒にたくさん言いましたけれど、作者本人の意思を超えて様々な解釈の可能性があり、それを受け入れて、そして作者の手を離れて勝手に成長していくのが優れた芸術作品の本質であると思います。
 また、こうして解釈してから、彼の作ったメロディーを聴き、彼の歌声を聴きますと、また違った感じがしますよね。生徒もそれを体験したようです。そして、その体験こそが本来国語の授業で教えるべきことだと思うんです。
 「茜色の夕日」…東京から夕日の沈む西の方、すなわちふるさとの富士吉田を眺めていて、いろいろ思い出しちゃったんだろうなあ。私も両国国技館で聴いた時そんなことを思ってしまって泣いてしまいましたよ。短い夏…ここに住んでいればわかりますね。生徒たちもそういう意味でも共感したのでは。
 …と、生徒に興味を持ってもらったおかげか、たくさんゲットしてしまったチケットがさばけそうです(笑)。やっぱりプロモートというのは大切ですなあ。評論家の仕事というのは実に重要なのでありました。

リアル「茜色の夕日」

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2008.04.02

『三島由紀夫―剣と寒紅』 福島次郎 (文藝春秋)

Img270a_thumb 先輩の先生にお借りしていたものをようやく読みました。
 三島は私にとって大きな壁であり、いまだそれを乗り越えるどころか、それに対面しようとさえしていない人物です。
 最近で言えば土方巽、美輪明宏や寺山修司、あるいは赤塚不二夫、出口王仁三郎、さらに昭和天皇と、その周辺、外堀はこのブログでもずいぶんと扱ってきました。そこから浮かび上がる三島像はそれぞれ神秘的で魅惑的ではありましたが、どういうわけかその人本人について考えたり調べたりすることもなく、いや、それ以前にその作品すらほとんど読まないという不思議な事態。近くにある三島由紀夫文学館にも、あえて足を運ばないでいます。
 しかし、そんな自分に対して不安や不満はありません。なんとなくですが、来年あたり、そうですねえ、三島の自決した年齢くらいに私もなりますので、そのあたりから自分の中の三島が起動するような気がしているんです。だから、今はあえて外堀付近から彼をちらと眺める程度にしておきます。
 それなのにいきなりこの本か、と言われそうですね。しかし、この本は私にとってはいわば安全圏なのです。彼がゲイであろうと、福島次郎と肉体関係にあろうと、あまり驚くべきことではありませんし、それが彼の生み出した芸術や思想にとって、まあ全く影響がないとは言えませんが、本質であるとも言えないと思います。
 今からちょうど10年前ですね。この本は発刊されてすぐに発禁となりました。三島の遺族から訴えられたのです。表向きは三島の書簡を無断引用したという著作権に関する訴えでしたが、もちろん実際にはその衝撃的な内容への否定と反発であったわけです。
 正直私は大変に感動しました。二人の濃厚なベッドシーンにはたしかに気恥ずかしさを感じましたけれど、それ以上に人間三島に初めて出会えたことの方が私にとっては衝撃的でした。その衝撃は私にある種の安心を与えてくれたと思います。高い壁だと思っていた三島が、なんとなく等身大というか、自分の目線と同じ存在というか、いずれにせよ、私の中で神格化されつつあり、あるいは偶像化されつつあった三島が、再び人間の血を通わせたような気がしました。
 ものすごく繊細で弱々しく、そのために意識と肉体において「耽美」の鎧を身につけずにはいられなかった人間三島の姿がそこにありました。それを浮き彫りにしたのが、たまたま同性愛という形式であったというだけでしょう。形式の違いだと思えばなんでもありません。男女の仲という通常の形式においては、あまりに普通な人間性の発露のあり方だと思います。
 ところで、本書に先日お会いした細江英公さんの名前が出てきました。もちろん、三島の裸体写真集「薔薇刑」の撮影者としてです。この「薔薇刑」はいろいろな意味で重要な作品ですよね。改めて細江さんの力…それはカメラマンとしての力とともに人間としての力でしょうか…を思い知りました。私はとんでもない人を被写体にしてしまいましたな(笑)。
 ということで、この本は三島を神格化したい人は読まない方がいいでしょう。しかし、私のようにいずれ彼を身近に感じてみたい人には非常に重要な参考文献でしょう。フィクションとして読んでもそれなりに楽しめると思います。福島さんもそこそこの筆力のある方ですので。そういう意味で面白かったのは、福島さんが自身の作品を三島に送ったのに対し、三島がそれを評した手紙ですね。三島の文学的感覚の核心に触れたように感じました。
 再刊はありえないと思いますが、比較的簡単に手に入りますので、興味がある方はご一読を。

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2008.03.19

『快楽なくして何が人生』 団鬼六 (幻冬舎新書)

34498010 読むべし。これは名著ですぞ。人生の課題図書。本当にものすごく勉強になりました。
 これはもう聖典の領域です。何事も極めると悟りの境地に至るんですね。全編通して徒然草が引用されているんですけど、この本自体がもう現代の徒然草になってますよ。
 兼好法師のみならず、あの高僧もあの高僧も、いや釈迦自身もある意味快楽を尽くした結果出家し、世の摂理を知るに至ったわけじゃないですか。私にはとうてい達することのできない境地ですね。
 本当に読みながらウンウンとうなずくこと数百回。しまいには切なくて涙が出てきました。まさに「もののあはれ」…思い通りにならないことに対する嘆息ですよ。快楽の裏に切なさあり。
 私は勉強不足でして、実は団鬼六先生の官能小説を一冊も読んでいないんです。なんでかと言われると難しいんですけど、そうですねえ、たぶんあの表紙とタイトルにひるんで、買う勇気がなかったんでしょう。
 もうその時点で私には悟りの可能性はないとも言えますね。この本に書かれている驚愕の、そして抱腹の、しかし実に切ない団先生の快楽的人生に比べたら、いかに自分がスケールの小さいつまらぬ人間であり、また私の過ごしている時間というものがなんと希薄であることか。
 この前の赤塚不二夫先生もある意味同様かもしれませんね。英雄色を好むと言えばそれまでだし、そう片づけることによって凡夫は一つの諦めを得るわけですけど、ちょっとそのあたりについては検討の余地がありそうです。
 実はここのところ、私の周りでも数件、色を好む英雄とそこに関わる女性の話が続いていたんですね。そこに共通する要素というのもはっきりあったりして、では自分はどうかななどと考えたりもしていました。まあその結論はナイショとしまして(笑)、やはりこちらにも書いたとおり、創造的な仕事をする男の基本はそういう部分にあるんではないでしょうか。
 こういうことはなかなか学校では教えられないことなんですけど、実は人生や世の中の基本であり、中心的な構造であり、ほとんどの人があからさまには表明しないがしかし本当は最も興味を持っていることなんですね。
 今日はまた実に不思議なご縁があって、太宰治にゆかりのある方とお話をする機会に恵まれました。いろいろな意味であまりに幸運なことでびっくりしてしまったんですが、ちょうどこの本を読んだあとでしたし、場所も場所だったので、太宰の斜陽にあるこの一節を思い出してしまいました。

『この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、 このごろ私にもわかつて来ました。あなたは、ご存じないでせう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教へてあげますわ、女がよい子を生むためです』

 うん、この女の言葉に象徴されているように、実は女がこの世の中を堂々と回していて、我々男はそれに乗っかってちょこまかちょこまか動いているだけとも言えるなあ。団鬼六先生のこの自叙伝でも、そういう女の魔性的な部分と、男の狭小な嫉妬心と未練が繰りかえされていましたよ。
 私のまわりの女性及び自分自身を観察してみましても、やっぱり女こそ「萌え=をかし」で生きていて、男の方が「もののあはれ」で生きているというのがわかりますね。男の坊さんが圧倒的に多いのもよくわかります。女は刹那的ですからねえ。あの変わり身の早さ、温度変化は、男には真似できません。女には悟りなんてどうでもいいんです。男はある意味悟りに逃げちゃうのかな。
 それにしても、団先生の人生はすごいなあ。今も人工透析を拒否し続けてるんでしょうか。「鬼の快楽教」の設立は実現しないんでしょうか。相模湖のW荘には今も行っているんでしょうか。こんな方が中学校の教師をやっておられたとは…なんと素晴らしいことか。生徒に自習させつつ教室で官能小説を書く先生…私もやってみようかな(笑)。そんな本人の実態を知らない、同僚であるまじめな英語の先生を嫁にもらってるし。あっそこはウチも一緒か。
 こういうスケールの大きな男が今絶滅しつつあるんじゃないですか?私思うんですよね。女はもともと生産力を持ってるんですよ。でも、女だけでは深化、進化はない。やっぱり彼女らの天性の強烈な生命力に太刀打ちできるくらいのパワーを持った男がたまに現れて、それでちょっとかき回してやらないと新しい世界は開けないんだと。天の沼矛でコオロコオロってやらんとね。
 快楽を得る者は、その裏にある切なさに耐え得る者である…そんな気がしました。はたして自分は…これはまだ分かりません。ある意味只今検証中とも言えます。まだ諦めてない…かな?

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2008.03.16

『赤塚不二夫なのだ!!』 (NHKハイビジョン特集)

Aka08
 先月、「トキワ荘の青春」を観て、そして長谷邦夫さんの書いた「漫画に愛を叫んだ男たち」を読み、ついでと言ってはなんですが、赤塚不二夫と出口王仁三郎のコラボレーションであるこちらを読んでいましたから、今日のこのハイビジョン特集は特に面白く観ることができました。
 もうとにかく内容が濃すぎて濃すぎて…。まあ赤塚自身をそのまま紹介するだけでも、それは濃くなりますよ。
 古田新太によるコスプレもまあまあ笑えた。でも、バカボンのパパのコスプレは赤塚自身が一番ですね。ちなみに私も一昨年の年賀状でやりました(41歳の春ということで)。
 みうらじゅん、しりあがり寿、喜国雅彦の3人の現役漫画家によるトークもなかなかでしたね。この中で話されていた、赤塚作品における平等性、すなわち天才もバカもみんな同列になってしまう、あるいは平等に差別されるということには、大きくうなずかせていただきました。
 ケンカやいじめや動物虐待という、今では絶対にタブーになってしまった少年期の体験こそが、彼の(あるいはその時代の大人全ての)仕事や処世術の基礎になっているということ、これにはいろいろと考えさせられました。いちおう教育者の端くれとしてね、ちょっと考えちゃいましたよ。汚いもの残酷なものを子どもたちの世界からどんどん排除していくとどうなってしまうんでしょうか。
 学者さんたちによるプロファイリングはちょっと無理があったかな。でも、その、ギャグを学問的に分析するというギャグをですね、NHKはよく理解しているのか、適度にそうしたお偉いさんを茶化して、結果として彼らを救っていました。これは素晴らしい演出だったと思いますよ。
 中でも特に無理があるなと思ったのは、町田健先生の言語学的分析ですね。「これでいいのだ!」というのが相手を包み込むような表現だとおっしゃってましたが、私はそういう印象はありません。これは全肯定、完全断定の言霊であって、周囲を納得させるというより、有無を言わせない神の言葉だと思うんですね。まあ、王仁三郎の霊界物語を言語学的に分析せよというのと同じくらい無理があるでしょうね。
 後半には長谷邦夫さんも登場しまして、当時のプロダクション形式による創作の様子が紹介されました。ここで感心したことは、赤塚不二夫の天才的なひらめき、そして技術はもちろんのこと、なんといっても彼自身が他者のアイデアをどんどん受け入れる柔軟性や包容力を持っているということですね。人の力を借りることによって自分の能力以上のものが発揮されると。
 これはまさにブッダの悟りの境地ですね。才能が溢れているのにそこに溺れず、またそれを必要以上に信じず、そしてそこにこだわらず、ある意味狭小なプライドは捨てて他力を利用するわけです。これは無我の境地でしょう。いや実際忙しすぎてそういう形態になったとも言えますが、それでもやはり才能があればあるほどこういうことを実行するのは難しいことです。
 それにしてもなあ、なんでこの時代はこんなにすごかったんでしょう。作る側も受け取る側も、そして作品もパワフルだったし、妄想力に長けてたよなあ。できれば今回タモリにも出演してもらいたかったなあ。最近のタモリは全く元気ないですから。久々にはっちゃけてもらいたかった。
 赤塚さん、もう6年も意識が戻らないんですか…辛いですね。いや、それこそ夢の中で思いっきりギャグ飛ばしてるんじゃないでしょうか。あるいは出口王仁三郎と会ってるとかね(笑)。意識を失う前の最後の言葉が「あっオッパイだ!」というのが笑えると同時に泣けました…。

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2008.03.12

縦書き文庫

 国語の教師だからでしょうかね、いや、単に日本人だからでしょう、とにかく私は縦書きが好きです。本当ならこのブログも縦書きで執筆・公開したいところです。しかし、インターネット・ブラウザ上で縦書き表示をするというのは案外困難でして、今までも先達のお知恵を拝借していろいろやってみましたが、ブログという形ではどうにもうまく行きませんでした。このような素晴らしいサービスもあるにはあるんですけどね、まだ一般ユーザーには提供されていません。残念。
 最近全くの放置状態になっている本体「不二草紙」は、縦書きが基本になっています。これはFreeway Expressというソフトを使って作っておりまして、テキスト入力したものを縦書きの画像に変換してくれる機能を利用しています。なお、そのコンテンツの中の「随想駅伝」…たすきが途絶えております(汗)…はpdfで縦書きにしています。画像の場合はファイルが大きくなりますしコピペもできません。検索にももちろんひっかかりませんね。pdfもプラグインが必要だったり、読み込みに時間がかかったりして、なんとなく不自由。両方ともきれいなのはいいのですが、手軽さに欠けます。
 そんな状況の中で、最近注目していたのが、こちら縦書き文庫さんです。基本的にHTMLによる縦書きを実現してくれていまして、ブログへの貼り付けにも対応しています。さっそく登録して使ってみましたところ、なかなか便利でしたのでここに紹介しておきます。
 本来は自分の文芸作品を公開して読んでもらったり、青空文庫収蔵の作品をブラウザ上で手軽に縦書きで読んだりすることを目