カテゴリー「文学・言語」の1000件の記事

2022.05.18

みうらじゅん×山田五郎 『仏像トーク』

 

 

 岡市の実家におります。そういえば山田五郎さんのご両親は静岡市の出身でしたね。

 ご本人の生まれは東京ですが、少年青年期を大阪で過ごされたので関西弁は流暢です。みうらじゅんさんは京都市の出身ということで、この対談は関西弁で始まりますが、最後の方はお二人とも東京弁(標準語)になっているのが面白かった。

 お二人は、私にとって「独自研究」の師匠であります。昨年みうらじゅん賞を獲った竹倉史人さんもそうですが、「独自研究」とアカデミズムのバランスというのは難しい。

 対談前半の関西弁パートは「独自研究」というより「自分語り」が全開ですが、後半の仏像に関する「独自研究」に至ると、そこはアカデミズムへの挑戦的な意味合いも出てくるので、標準語モードになっていくのでしょう。

 私は残念ながら母語が標準語なので(どこの方言も話せないので)、話の次元(レイヤー)によって言語を使い分けることができず面白くありません。幼少期までは宇宙語話せましたけどね(笑)。

 この対談を見て聴いて思ったんですけど、文系の学問って全部「独自研究」でいいんじゃないですかね。暴論でしょうか。

 結局のところ、文化に普遍的な意味や価値やシステムを見出すことって無理でしょう。それぞれの時代のそれぞれの人間が関わっているわけですから。そして、それらをそれぞれの時代のそれぞれの人間が研究するわけですから。

 その固定化されない「ゆるさ」こそが、文化の人間の生命力そのものなのではないでしょうか。

 それにしてもこのトーク面白かった。元気をもらいました。

 そう、仏像って最終的に人を元気にするものなんじゃないでしょうかね。

| | コメント (0)

2022.05.17

マカロニえんぴつ 『星が泳ぐ』

 日の「島唄」に続き、山梨発の音楽を一つ。

 宮沢和史さん、藤巻亮太くん、志村正彦くんと、叙情的な歌詞と旋律が印象的な山梨のソングメーカーたち。やはり、独特の自然環境と風土、生活文化が反映しているのでしょう。

 今日紹介するマカロニえんぴつのリーダーはっとりくんは、鹿児島生まれだそうですが、育ちは幼少期から高校時代まで山梨。彼もまた独特な感性を持っているように感じます。

 特に志村くんへのリスペクトは大きいようで、曲作りだけでなくその歌唱にも影響を感じます。

 さて、この最新曲「星が泳ぐ」は、現在放映中のアニメ「サマータイムレンダ」のオープニング曲となっています。「サマータイムレンダ」は和歌山の離島を舞台にしたSFホラー(なのかな)。日本的な風景と文化の中に潜む見えない「影」がテーマということで、特に「影」の濃い山梨発の音楽がぴったりマッチしています。

 なんとなくクセにてなる曲ですよね。シンプルですが、ちょっとしたベースの半音進行が明るさの中に「影」を感じさせます。

 やっぱりJ-Rockって世界的に得意な進化を遂げちゃいましたね。つまり「和歌」や「私小説」の文化、日本文学の正当進化型がそこにあるということです。もっと言うと日本の目に見えない「宗教性」の発現でもあると。

 ですから、アニメと一緒に世界に出ていくのです。40年後にはきっとこれが世界の大きな潮流になると信じています。

| | コメント (0)

2022.05.16

THE BOOM 『島唄』

Th_-20220517-73402 日は沖縄返還から50年の日でした。

 沖縄と山梨、遠く離れ、特に深い関係はないかのように思われますが、実はそうでもないのです。

 まず、50年前の沖縄返還に際しては、山中湖に蟄居していた仲小路彰が大きな影響を与えています。

 仲小路と佐藤は五高時代の同級生。総理となった佐藤はことあるごとに山中湖へ通い、仲小路から重要な情報・アイデアを授けられました。

 この写真は山中湖での貴重な二人の写真です。

 佐藤のノーベル平和賞は非核三原則と沖縄返還が主たるその受賞理由でしたが、その裏には(密約部分も含めて)仲小路の助言があったのでした。

 そうした助言の具体的な内容については現在研究中です。

 さて、時代は移り、返還から20年経った1992年、発表されたのがTHE BOOMの「島唄」です。

 作詞・作曲の宮沢和史さんは山梨県甲府市出身。

 発表当初は、現地の人たちには「なんちゃって沖縄音楽」と揶揄され批判されましたが、今では本土の人たちにとっても、沖縄の人たちにとっても大切な歌の一つになりました。

 この曲の画期的というか巧みなのは、さまざまな音楽的要素が融合・和合しているところです。

 メロディーで言えば、沖縄音階と、本土のヨナ抜き音階と、西洋音階が絶妙にミックスされています。また和音で言えば、冒頭ではノンコード、そして続いてディミニッシュを効果的に使い、またサビではいわゆるカノン進行をベタに使う。それこそ沖縄と本土とヨーロッパ(アメリカ)を見事に組み合わせたと言えましょう。

 そしてそこに乗る歌詞ですね。いや、歌詞が先にあって、そこにそれぞれの「国」の音楽が乗ったのでしょう。たしかに見事です。「和」を基調とする日本らしい音楽なのです。

 

| | コメント (0)

2022.05.12

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その10・完)

Th_images_20220513080001本脱出と蒙古進軍

 王仁三郎の表情は、どの写真を見ても明るい。極端に云うなら、いつも、得意絶頂の顔である。

 だが、王仁三郎が心の底から最も痛快さを味わったのは、大正十三年の蒙古入りのときではなかろうか。

 このとき、王仁三郎は、第一次弾圧事件による保釈中の身であったが、ひそかに日本を脱出、奉天に赴いた。そこには、蒙古軍の将軍盧占魁が待っていた。張作霖の了解の下で、日月地星の大本の神旗をひるがえし、蒙古に向って進軍する。

 盧の軍隊には掠奪暴行を禁じ、王仁三郎らは武器を持たず、米塩を与えながら、宣教と医療をつづける。蒙古人たちは、救世主の再来として歓迎してくれた。

 果てしもない曠野を行く大本の神旗――それは演技ではなかった。宗教上の必要とともに、「『狭い日本にゃ住みあきた』というような、貧乏と縄張りと天皇と警察の日本を離れて『広い満蒙に進出』し、アジアの精神的統一をはかりたいというような「『大陸浪人』式の夢」(乾・小口・佐木・松島共著『教祖』)もあったであろう。

 取り巻きにわずらわされることなく、そうした夢を現実の曠野の上に踏みしめて行く。

 そのとき、彼ははじめて、自分自身が無限に自由になって行くのを感じたであろう。風雲児であることの実感を、しみじみ噛みしめたことであろう。

 だが、それも四カ月間のことであった。盧の西北自治軍の評判が上るにつれ、張作霖は心変りし、パインタラに於て盧軍を討ち、盧以下三百人を銃殺。王仁三郎も、足枷をはめられ銃殺寸前まで行ってから、日本領事館に救出された。

 他愛のない夢ともいえる。このとき、王仁三郎は、すでに五十四歳。

 そういう他愛なさが、最後まで失われなかったのも、人間王仁三郎の魅力であろう。

 晩年は、黄・青・赤と思い切った色を使って型紙破りの茶碗を焼くのをたのしみにしていた。その茶碗を少しでも人がほめると、やってしまう。「あんたには、いちばんいいのをあげるで」と云って。

 雀や魚をとらえるのが得意であり、沢蟹をとらえて口の中で歩かせながら、そのまま噛み砕いてしまったりした男。童心と見るのも、演出と見るのも、自由である。とにかく、人間くさい男、人一倍人間くさく生れた男に思える。

 大本教徒には不満ではあろうが、教義についての門外漢であるわたしは、作家として理解できる限りの人間像の秘密を追ってみた。

 そして、世間的には怪物であるかも知れぬが、怪物という言葉の持つ非情さとはおよそ程遠い人物をそこに見たのである。

(完)

 

 いかがでしたか。城山三郎による出口王仁三郎伝。気宇壮大な人物像と人生を短くまとめるのは難しいと思いますが、文学者ならではの視点で上手に「予告編」を作ってくれましたね。

 そう、出口王仁三郎は本当にいくつもの「入口」を私たちに提供してくれるのです。本編はその先、それぞれの方々の人生に投影されて現出します。

 私もそんな体験をしている一人。最近、羽賀ヒカルさんと対談でその一端をお話しましたので、どうぞご覧ください。

 

| | コメント (0)

2022.05.11

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その9)

Th_0049(文中のM氏については、過去記事「柳原白蓮と出口王仁三郎」をお読みください)

像だった女性関係

 彼についての虚像の中で最も大きなものは、女性関係である。

 弾圧事件で逮捕後、梅毒と噂されたり、彼の居室はダブル・ベッドが寝乱れたままで春画が置かれていたなどと流布されたのは、すべて、でっち上げであった。王仁三郎の虚像を、弾圧当局がたくみに利用したのだ。

 王仁三郎の周辺に、いつも美女数多(?)がいたことは事実である。四六版三百頁の本を二日で口述したり、一夜三百首といった勢いで書きまくる彼には、常時、秘書が必要であった。特殊な関係に陥る危険を避けるためには、一人でなく、三人四人と控えさせた。

 ただ、彼は早朝などの面会客に素裸で美女たちを引き連れて会ったりした。晩年になっても、彼は往々一物を人前で隠さなかった。

 性がタブー視されている陰湿な風土では、それがかえって信徒の心をとらえる。天衣無縫な感じであるが、別の人たちの眼には演技過剰であり、別種の憶測を生むことになった。

 虚像に輪をかけたのが、隠し子事件である。王仁三郎の親分肌を見こんだ共産党員のM氏(後に転向)が、妻に去られて非合法活動ができず、生れたばかりの女児の養育を王仁三郎にたのんだ。

 王仁三郎は、それを自分の子供ということにして、教団幹部の一人に預けたのだ。終戦後M氏が迎えに来るまで、教団内部においても、隠し子説は信じられていた。

 家庭生活は決して幸福なものとは云えなかったようである。だいいち、多勢の人が毎日出入りする家の中にあっては"家庭"と呼ばれる生活を営みようがなかった。

 ナオの在世中は、ナオと王仁三郎は度々はげしい衝突をくり返した。ナオの没後には、教団運営の全責任が王仁三郎にかかり、彼はほとんど家庭に落着けなくなる。

 彼の超人的な多種多面にわたる活動。もし彼が超人でないとすれば、その皺よせがいちばんひどかったのが、家庭生活である。そして、働き盛りの王仁三郎には、むしろ、意識的に家庭生活を無視する傾向があった。それもまた、非凡さの一つのあらわれと感じて。

  家のこと妻にまかせて世のために尽すは夫の誠なりけり

  家のうち始めまもりて背の君の心いやさむ妻ぞかしこき

  家の内ゆたかに平和にをさまるも妻の心の梶ひとつながる

 王仁三郎の歌集の中の「五倫五常」の分類の中にある歌であるが、あまりにも一方通行的で、祖父の遺言を連想させるものがある。「母が、父と夫婦らしい幸福を味わったのは、若いころ、父といっしょに荷車をひいて、柴刈りにいっていた頃と、晩年、未決から帰ってからしばらくの、父の周囲に人垣の去った、夫婦きりの暮しの時であったでしょう」

 と、娘も見ている。

 子供運にも恵まれなかった。男の子は全部育たず、この長女に迎えた婿は、弾圧事件のショックで精神障害を起し、以後、世間的には癈人の生活に入る。

 家庭を無視してきた王仁三郎も、この衝撃だけには耐え切れなかった。娘が、婿とともに家を去って療養地に向う日、

「父は二階に上り、私の姿が見えなくなるまで、あっちへいったり、こっちへいったりして、しまいには泣いておられた」

 弾圧も、一つの法難として淡々として受け流そうとしていた王仁三郎ではあったが、このときばかりは、無法そのものの弾圧当局に対して、またその命令者に対して、やり切れない憤怒を感じたにちがいない。

(その10に続く)

| | コメント (0)

2022.05.10

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その8)

Th_seishisama分肌と抱擁力

 宗教関係だけでなく、また国内だけに限られたものでなかった。「万教同根」を説く教義の関係もあって、各国の新興宗教団体と提携し、さらに、大本が中心になって、北京に世界宗教連合会もつくった。(こうしたことも、おそらく既成教団の反感を買ったにちがいない)第一次大本弾圧事件の無罪判決を聞いて、二十カ国の人々によって、王仁三郎をたたえる「賛美集」が発刊されたりもした。

 だが、親分肌であり抱擁力があるということは、時には弊害も生む。心にもないつき合いをし、取り巻きが生れる可能性である。

 王仁三郎の娘出口直日は、こう書いている。

「父はどんな人でも迎え入れ、たのまれれば断りきれず、どこかのよいところを育てようと努力し、どんな辛抱でもしていたようでした。性来が磊落で、冗談ばかりいっていて、何だか雲をつかむようなところがありました)(続・私の手帖)

 そして、その反面、

「父は気が弱くて、それらの人を抑えきれないで、バカげた責任までも負わされてしまったという人です。それでいて、人を責めるでなし、過ぎたことをくやむでなし……」

 取り巻きの害について、彼女が耐えかねて父に注意の手紙を送ったところ、王仁三郎はその手紙を「娘がこう云って来たよ」と、そのまま取り巻きたちに見せてしまったというエピソードが紹介される。つまり、娘の手紙にかこつけてしか苦言の云えなかった弱さがあったというわけである。

 浅野和三郎が、大正十年立て替え立て直し説を機関紙に発表するといったとき、王仁三郎は反対したが、おさえ切れなかった。その結果、大正十年には大本信徒は一大動揺に見舞われることになったが、実際には、世の立て替え立て直しは起らなかった。谷口雅春らは、それを理由に大本を去るという事態も起る。

 心にもないことが、流れの泡のように、次から次へと湧いては消える。そして、それがそのたびに、王仁三郎の身から出たことになる。

 だが、王仁三郎は、陣を退くことなく、戦線を収縮することも好まない。虚像の上に虚像が重なり、一つの怪物像がそれらしく出来上って行くのを眺めている。怪物像を否定して「小さな自分」になるよりも、誤解を浴びたまま「大きな自分」にとどまることを好んだのかも知れない。茶目気と侠客気質という老い銹びた細い柱の上に支えられて。

 にぎにぎしく人々に取り巻かれながらも、王仁三郎の心中には、いつも空洞が穴をあけていた感じである。

(その9に続く)

| | コメント (0)

2022.05.09

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その7)

Th_0518完の映画「王仁三郎一代記」

 法的には何の根拠もない大本弾圧の烽火はそうした人々の中からも燃え上ったようである。事実「出口王仁三郎一代記」は、その年の大弾圧によって、遂に未完成に終った。

 多分に王仁三郎の道楽といった感じのするそうした芝居や映画も、教義の普及宣伝にとっては、新しい強力な媒体となった。媒体として義務感でつくったものでなく、王仁三郎がいわば無償の情熱を注ぎこんだだけに、信徒にとっては迫力があった。(教団幹部も信徒も一つになって素人芝居に打ちこむ習慣は、今日まで続いている)

 自己表現欲の一つの変型であろうが、活字文化の利用についても、王仁三郎は積極的であった。

 機関誌を創刊し、ついで、それを旬刊にする。印刷所をつくり、自分も植字や組版に先頭に立って働いた。

 後には、輪転機十台を持つ当時の大新聞「大正日日」を買収。さらに「人類愛善新聞」を発刊。一時は発行部数が百万部を越えた。既存の新聞社をおびやかすに十分な数字である。

 時代に先んじてのマスコミ利用は、彼の先見性を示すものだが、同時にそれはマスコミのすべてを敵に廻すことになった。弾圧直後全国各紙がほとんど筆をそろえて大本邪教説を流したのも、取材の制限という障害のためばかりではなかったようだ。

 ぎりぎり歯ぎしりしながら生きるわけではない。超人的に動き廻りながらも、人生に"遊び"を失わない柔軟な生き方――幡随院長兵衛を夢見たこともある王仁三郎は、人を生かして使うことも心得ていた。

 入信した海軍教官で英文学者の浅野和三郎を十分に活躍させて、軍人層知識層の信者をひろげ、谷口雅春(生長の家)には雑誌編集に腕をふるわせた。世界メシヤ教主の岡田茂吉も、当時は大森の支部長として活躍していた。

 一人の能力では、いかに非凡であっても、成長には限度がある。企業がある程度大きくなれば、多数の人材の能力をフルに発揮させることがトップの仕事になる。

 苦労人で頭がよく、人の心を読むのがうまい。変性女子と言われるほどの柔軟さ、侠客的な親分気質――人を使うには、申し分ない性格であった。

 人を使う能力とは、云いかえれば、組織づくりの能力でもある。

 人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会・昭和神聖会・エスペラント普及会・ローマ字普及会等々、王仁三郎の組織した団体の名前は、列挙にいとまがない。

(その8に続く)

| | コメント (0)

2022.05.08

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その6)

Th_0086性男子と変性女子

 出口ナオは、教祖にまつり上げるには打ってつけの人物であった。

 貧しい酒のみの大工の子として生れ、十一歳で年季奉公。結婚した夫(大工)も酒のみで、三年間脳出血で寝こんだ後で死ぬ。残されたのが三男五女(その他に乳児のとき死んだ子が三人)。

 糸引きとボロ買いをしながら、ようやく八人の子供を女手一つで育てた。ところが、折角育てた長女も二女も家出。長男は自殺未遂後、行方不明。いちばんたよりにしていた三男は戦死というみじめな有様――艱難辛苦をなめつくして生き抜いてきた女である。それだけに、その意志の強さや生活力は信徒たちの心をとらえた。

 性格ははげしく戦闘的で、自らを変性男子(女性の形をとった男)と呼んだ。これに対し、王仁三郎は変性女子(男性の形をした女)というわけで、王仁三郎はまたその女役や女房役を実にたくみにこなした。

 王仁三郎の性格の中には、多分に女性的な柔軟な(時に弱い)ものがある。それに、祖父から受けついだしゃれっ気も加わって、彼は大本に祭典などがあるごとに、進んで、女神とか乙姫とか、女装してふるまった。神示によって王仁三郎を変性女子ときめつけたナオにしてみれば、悪い気はしないであろう。

 もちろん、王仁三郎はただナオに気に入られようとして、女装したわけではない。彼は、大本の中に、明るくおおらかな"お芝居"を持ちこむことの必要を感じたのだ。ただ、かたくなに神のお告げを伝えるだけでは、信者の心のつかめないことを。

 王仁三郎は、また、芝居が好きであった。芝居とは、自分と遊び、世間と遊ぶことである。祖父のしゃっ気にも通じる。

 芝居はまた、現実の自分を解放し、さまざまな自分の姿を演ずることである。爆発しそうな自己拡張欲を、そうした形で慰めることもできる。そして、その中で、彼の演出家としての才能も育って行く。

 大本では、王仁三郎が入ってから、次々とあちこちの無人島を買収し、そこを聖地として、教祖以下打ちそろって参拝に出かける。神学上の解釈を別とすれば、これは、教勢伸長の演出に他ならない。

 王仁三郎の芝居好きは、晩年まで続く。神聖劇や神聖歌劇を自ら演出するばかりでなく、主役として出演し、還暦を過ぎた身で布袋・弁財天・恵比寿など、「昭和の七福神」に扮したり、素盞嗚尊(すさのおのみこと)などに扮したりした。

 現在の写真を見ると、扮装もうまく、とにかく一応、役柄をこなしている。しかも、それが還暦過ぎの老人ということになると、何となく気持の悪くなる人もあろう。まるで三十台の女のようなやわらかな肉つき、下り眉、細い目、とても老人とは思えぬ精力的な顔――。

 王仁三郎と"芝居"との結びつきを知らぬ者は、酔興さを感じるよりもまず異様さを感じてしまう。

 王仁三郎は、結構、そうした芝居をたのしみ、また、自信を持っていた。その自信は二重の意味がある。役者としての自信と、そうした芝居をやらせる自分自身の力への自信である。

 昭和十年、王仁三郎は大江山太郎の名で自ら「原作・監督・主演」して、「出口王仁三郎一代記」の撮影にかかる。自信は、二重の意味で頂点に達したわけである。

 王仁三郎が早くから白虎隊(少年隊)など人目をひく組織をつくり、さらに青年隊の大会には白馬にまたがって閲兵するなどということをやったことにも、彼の"芝居"好き、しゃれっ気を感じずにはいられない。(白馬は、元憲兵将校である信徒がすすめてくれたものだが、それがいかにも御料馬白雪に似せているというので、王仁三郎が攻撃される口実の一つになった。後に述べるように、彼には気が弱く、人のすすめを断り切れぬところがある。親分肌のせいとも云えるが……。それに、たとえ誤解を招くとしても、それをおそれて小さくなっているよりも、少しでも大きく振舞いたいという欲求も強かったようだ。自分をいつも自分以上に大きくし、また大きく見せよう、少くとも、自分と等価の表現だけでは満足できないものが、彼にはあった。それを彼の超人的なエネルギーのせいにしてもよいし、自己拡張欲のためと考えてもよい。そして、彼がそうしたエネルギーを奔出させればさせるほど、それがそのまま大本の教勢拡張に役立っていった。発展期の組織には、何よりそういう要素が必要であったのだ)

 王仁三郎の演技は、彼等にとっては余りにも型破りであり、オーバーなものに映った。「チンコウも焚かず」式の生き方こそ宗教者の権威づけと思っていた彼等には、王仁三郎の振舞は、当てつけがましい感じさえする。王仁三郎も時には、それを意識してやっていたきらいもある。そして、いっそういまいましいのは、そうした王仁三郎の振舞がそれなりに抑圧されていた大衆の心をつかんで行ったことである。

(その7に続く)

| | コメント (0)

2022.05.07

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その5)

Th_kaisosama792x1080挙にトップマネジメント

 まず、喜三郎個人としては、弁も立ち、ユーモアもあり、人気もある。稲荷教師としてある程度、手広くやって行ける自信はあったであろう。だが、それとともに、喜三郎には、キツネツキを払い落すことばかりで潰れてしまう自分の人生といったものへの反撥もあったにちがいない。どれほど有名になろうと、稲荷おろしだけではどうしようもない。さし当っては稲荷教師としてしか行く道がないとしても、いずれは広く世間を相手に活躍できる道を選びたかったにちがいない。

 新興の教団とはいえ、正式には何ひとつ認められていない金明会の側では、稲荷教師の免状持参者を抱えることは便利である。ましてその男がとくに稲荷講を信じているのではないとあれば。

 第二に喜三郎は、出口ナオのエクセントリックな性格、それなりに教祖として創業者としてこの上ない魅力の持主であることを見抜いた。宗教団体としての成長性も期待できる。

 貧民の娘でしかなかったナオが、どうしてこれほど人の心をひきつけるのか。ナオから吸いとれる限りのものは吸いとって自分を成長させよう。その成長の秘密を身近に接して吸収しよう。

 そして、最後に、ナオについて、また金明会について納得が行けば、その発展の中に自分を投げ入れようと考えたことであろう。ひとり細々として稲荷おろしを営むよりも、のび盛りの教団の中堅幹部として迎えられることを、青年の野心が選ばぬはずがない。青年の才能も博識も弁舌も親分肌の気質も、そこではすべてが花開くことが予想された。

  足乳根の親の名迄も世にあげて身を立つるこそ子の務めなれ

  名位寿富これぞ神賦の正欲ぞ働かざれば名も富もなし

 出口ナオと結んだ後の大本のめざましい発展については、順を追って説明するまでもあるまい。

 喜三郎は、金明会入りした翌年の正月、競争者を出し抜いて、ナオの末娘すみ子と結婚した。社長の娘と結婚することによって、中堅幹部どころか、一挙にトップマネジメントに滑りこんだわけである。

 やがて、名も王仁三郎とあらためた。神示に導かれたためということだが、世間的に見て、「喜三郎」ではありふれていて安っぽい。「王仁三郎」なら、威厳もあり、高貴にひびく。事実、王仁三郎は、「三郎」と省略して、「王仁」と署名することも少くなかった。天皇の名に類似することのプラスマイナスを十分考えていたことであろうが。

(その6に続く)

| | コメント (0)

2022.05.06

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その4)

Th_300px0215は空行く鳥なれや

 二十七歳のとき、父親が重い病気になった。

 弟はバクチ打ちになって家出しており、乳牛の仕事を追われた喜三郎は、山に薪を伐りに出る余裕もなく、庭にある椋の木を伐って薪にした。鬼門の方角に当る木であった。

 その後間もなく父親は死んだ、いっしょに荷車をひき、貧苦の明け暮れの中に死んで行っただけに、喜三郎は身にこたえた。

 木を伐った祟りだと口々に云われ、喜三郎は近隣のいろいろな教会に出入りし、また、毎夜十二時から三時まで産土神社参りもした。

 だが、それで解決が与えられるわけがない。いったんは神に近づこうとして、また背を向けた。

 しゃれっ気がふくらんだ。わい談が上手になり、妙な焼物を焼いて人にやったりした。

 弟がバクチ打ちということもあって、ケンカの仲裁に入ったりしている中に、ミイラとりがミイラになり、侠客気分になってくる。

 もともと弁が立ち、度胸もいい。侠客の家に養子に招かれそうにもなった。

 貧しく蔑まれてきた生活への反感――反逆精神は、手軽なところに捌け口をみつける。

 弱きをたすけ強きをくじくことで、自分の非凡な力を現そうとする。明治の幡随院長兵衛になろうと真剣に思い、一年間に九回も大きな衝突をした。

 そのあげく、弟ともども袋だたきにあい、大けがをする。祖母には、神をないがしろにした報いだと、懇々と説諭された。

 喜三郎は、「懺悔の剣に刺し貫かれて、五臓六腑をえぐらるる様な苦しさを成し」(『自叙伝』)、富士山へ行くつもりで、

  吾は空行く鳥なれや

  ………………………

  遥に高き雲に乗り

  外界の人が種々の

  喜怒哀楽にとらはれて

  身振り足ぶりするさまを

  われを忘れて眺むなり

  げに面白の人の世や

 といったユーモラスな書置きを残して家出する。(祖父の辞世と共通する精神である)

 ところが、富士に向ったはずが、翌朝、家から二キロ離れた高熊山という高台に坐っていることになる。

 旧暦二月のことであるが、彼はここで一週間、襦袢一枚のまま岩の上に坐って断食修業。『聖師伝』の説明では、「天眼通、天耳通、自他心通、宿命通の大要を心得し、過去現代未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは数百年、数千年の後までことごとく知ることが出来」るようになる。

 だが、こうして「霊界探検」をして悟りを開いたつもりの喜三郎も、村に帰れば、「キツネがついた」というわけで、体の回復するのを待って、静岡県清水にある稲荷講社の本部に行かされる。キツネツキを払い落すためである。

 講社の総長は、長沢という霊学の大家であった。勉強好きの喜三郎は、この長沢老人について、熱心に心霊学を学んだ。そして、鎮魂帰神の得業免状も得た。

 鎮魂帰神とは、両手の指を組み静坐瞑目している中に神がかりの状態となり、しゃべったり、とび上ったり、ころげ回ったりする。後でこれは大本教にとり入れられ、大道場で数十人の人がそうして飛びはねたりころげ回ったりすることによって、インテリをふくめ、多くの信者の心をとらえることになった。

 この鎮魂帰神の免状とともに、稲荷教師の免状ももらった。キツネツキを払い落しに行ったのに、逆に、キツネツキを払い落す稲荷おろしの資格を持って帰郷することになったのである。あらゆる機会を受身ではなく前向きにつかんで行こうとする姿勢がここにも出ている。

 当時、文化のおくれた山村地帯には、キツネツキの病人が多かった。急激な社会の変化に対応できぬノイローゼ状態の人々をも、すべてキツネツキという形で整理していたためでもあろう。キツネツキを払い落す稲荷教師の仕事は、職業としても成り立った。

 青年喜三郎の前には、おそらくは彼自身もそれまで思ってもみなかった生計の道が開けた。

 「艮(うしとら)の金神」を信じる金明会(後の大本教)の出口ナオと出会ったのは、こうした時である。二人の結びつきは、それぞれが神託を受けて、求め合ったことになっている。

 喜三郎の心の中に、いかなる内的(霊的)な必然性があったのか、神学上の問題については、わたしには説明する資格がない。

 問題をごく人間的に見てみると、こういうことになる。

(その5に続く)

| | コメント (0)

より以前の記事一覧