カテゴリー「文学・言語」の971件の記事

2018.07.23

不機嫌は怠惰の一種である(ゲーテ)

Th_200pxgoethe_stieler_1828 は先生にしては珍しく?あんまり不機嫌にならない方です。生徒にも「そういえばいつも上機嫌だ」と言われます。
 生徒というのは先生の「不機嫌」に対して非常に敏感です。ほとんど動物的なカンでそれを察知し、自分に被害が及ばないようにします。空気を読むわけですね。まあ、それだけ不機嫌になる先生か多いということです。
 ゲーテは名作「若きヴァルテルの悩み」の中で、ヴェルテルに「不機嫌は怠惰の一種です」と言わせています。高校時代、この言葉に出会ってからというもの、私はこの言葉を座右の銘としてきました。
 では、現在の私があまり不機嫌にならないのは、私が怠惰ではなく勤勉なのかというと、どうもそうでもないようです。
 つまり努力して機嫌よくしているわけではない。たぶん生まれつきの性格なんだと思います。あえて言えば、不機嫌になることによって得るものが全くないと思っているのかもしれない。不機嫌は他人も自分も不幸にします。
 学校の先生は、「不機嫌」を武器にしているところがある。その最たるものが「体罰」であって、ようやく最近それがダメということになりました。
 ですから、かつて私が教員になりたてのころ、まず身につけなければならなかったのは、「不機嫌なフリをする」ということでした。先輩方がそれを実にうまくやっているように見えたからです。
 ある意味自分の主義に反していたわけで、なんとも言えない居心地の悪さも感じていましたが、反面、テクニックとしてうまくいくようになると、なんとなく自分も先生らしくなったんだなと思っていたのも事実です。
 今はもうほとんどそういう無理はしなくなりました。やっぱり自分に合っていないからです。不機嫌になる教師を否定したり、見下したりするわけでありません。やはり単純に自分の性分に合わないテクニックだということです。
 ゲーテは先程の文章のあと、さらに深い、厳しいことをヴェルテルに語らせています。

 不機嫌は、むしろ、自分のくだらなさに対するひそかな憤懣ではありませんか? 愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている、自己不満ではありませんか?

 さすがゲーテですね。完全同意します。人間の煩悩の中でも特に強く面倒な「嫉妬」と結びつけている。
 私も実のところ、「小さな不機嫌」はあります。そして、それが「嫉妬」に基づいていることも知っています。まだまだ修行しなければなりませんね。

Amazon 若きウェルテルの悩み

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2018.07.21

「全」=まこと

Th_img_2136 日から正眼夏期講座。64回目を迎えるこの伝統的な行事も、この異常な猛暑のおかげで会場の変更を余儀なくされました。
 すなわち、本堂で行われていた、講演や座禅は、冷房の効いた短大の講堂で行うことととなりました。これは、命を大切にする仏教としては全く正しい判断ですね。
 快適では修行にならないと言う人もいるかもしれませんが、そういう根性主義の時代はとうに終わっています。
 そうそう、禅堂での修行も、明治維新以降軍隊文化の影響を受け、ある意味非常に暴力的になったとききます。学校で起きてきた、いじめや体罰の問題も同様ですね。
 さて、今日一番心に残ったのは、滝田栄さんのご講演でした。演劇人として本当にその世界を極めた方が、今、仏道を極めようとしている。そして、その基本的な姿勢は、難しい理屈ではなく、仏教が持っている不思議な力を体験するというもの。
 正直、これは私と話が合うなと思いました(笑)。超能力的にもなりかねないので、ひょっとするとオカルト?と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、いやいや仏教ってそういうものでしょう、本来。
 まあ、そこを勘違いしちゃったのがオウムや、その他密教系の新興宗教の一部ということになると思います。
 しかし、たしかに滝田さんのおっしゃるように、奇跡的なこと、たとえば病気が治癒するということは普通にあります。
 最近私がはまっているモノも、実は薬師如来に関係した病気治療器具です(アヤシイでしょ)。これについては、今いろいろ大きな流れが起きているので、時期が来たらここで堂々と紹介します。
 そのモノについても、ぜひ滝田さんに知ってもらいたいですね。連絡してみましょう。
 ところで、滝田さんのお話の中に、「禅」は「全」という言葉がありました。「全」という字は、上が「人」、その下の三盆の横線は「過去、現在、未来」。それを一本の縦棒が貫いていると。その貫くモノことが仏法なのでしょう。
 もちろんそれは方便であり、実際には上は「入」という字ですし、「王」は「工」と同じだとか。しかし、そんな理屈は抜きとして、やはり「まったき」モノとしての「法」というのは存在しますし、それが人のもとで時空を超えるモノであるのは確かです。モノというより、唯一のコト、すなわち「まこと」なのです。


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2018.07.18

田野大輔 『私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由』

人はいとも簡単にファシズムになびく
Th__20180719_114012 近、動画または他人の記事紹介ブログになってますね‥と言われました。
 いや、それでいいと思うんです。このブログを始めた14年前は、まだまだ動画共有文化もありませんでしたし、ツイッターような共有アイテムもなかった。
 今、メディアの環境は大きく変わりました。ネットメディアは「紹介」「共有」の方向性で成熟しつつあります。そんな時代ですから、私のつまらぬ文章をいやいや読んでもらうよりも、よくできた動画や記事などを読んでもらう方がお互いのためです。
 ただ一つ言えるのは、この地味なブログのスタイルは変えたくないということです。最近のブロガーの皆さんは、とにかく「今」読んでもらうことに執心しているようですが、私はとにかくデータとして残して、100年後でもいいから読んでもらおうと思っているんです。
 おっと、関係ない話が長くなってしまった。今日はこの記事を紹介します。
 今月末に公立の校長先生方を前に講演をしなくてはならなくなり、自分なりの戦後教育論を復習しております。昨日の安冨歩さんの動画も、その流れの中で見つけたものです。戦後の学校教育は実は軍国主義、軍隊文化を継承・保存する役割を果たしていた、という視点ですね。
 で、そんな軍国主義、軍隊文化、ファシズムの象徴であるナチズムを、大学生に疑似体験させている大学の先生がいるということで、この記事を紹介します。

私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由

 甲南大学文学部教授、田野大輔さん。非常に面白い授業ですねえ。これはちょっとやってみたいかも。私、たぶん総督役うまいですよ(笑)。優れた教員というのは、優れた扇動家でなければならないし、優れた洗脳家でなければならないわけです。
 そうそう、ちょっと話がそれますが、あるクラスでの雑談の中で、「この学校で一番コワい先生って誰?」という話になり、全員に書いてもらったんですよ。
 そうしたら9割が強面の体育の先生とか、部活の厳しい先生とかの名前を挙げたんですが、数人私の名前を書いた。私は全く怒らないし、不機嫌にもならないことで有名な?センセーなので、これはきっとふざけているのだろうと思って確認したところ、異口同音にこう言ってのけました。

 「違う意味でコワい!」

 たしかに!と他の生徒たち、そして私までもが納得してしまった(笑)。なんでも、私が語る話がぶっ飛びすぎていて本当か嘘か分からないし、いつのまにか洗脳させてそうでコワいのだとか。な〜るほど、そのとおりだ(笑)。
 というわけで、私もこういう授業やったらうまいと思います。いやいや、軍隊的な厳しさは苦手ですから、ちょっと違った方法で同じ効果を上げることができるかもしれません。
 こういうことをしっかり体験しておくというのは、若い人たちにとっては非常に重要なことですね。そして、客観的にその時の自分を分析し、そう簡単にだまされないようにする。
 ふむ、契約、制服、マーク、スローガン、集団行動、大声、糾弾、反復…けっこう、普通に学校の日常でやっていることですよ。危ないよなあ。歌も加えるといいんじゃないかな。
 あと、今日はウチの高校の文化祭があったんですけど、このクソ暑い日に体育館にすし詰めにして、みんなでお祭り騒ぎすると、不思議とですね、熱中症になるヤツが出ないんですよ。食中毒もいっしょ。
 とっても雑で乱暴な考え方ですが、やっぱり気合とか愛情とか感動とかって、抵抗力、免疫力を高めるんですかね…なんていう、非科学的な「根性論」こそ、宗教とも絡んだ軍国主義、軍隊文化そのものだったりします。
 こうして観察していると、本当に学校というところは異常なところだと思いますね。今後も研究を重ねていきます。そして、日本の教育を変えますよ。

Amazon 愛と欲望のナチズム

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2018.07.12

石井裕 『独創・協創・競創の未来:タンジブル・ビットからラディカル・アトムズへ』

 〜む、本当に素晴らしい!ワクワクします。
 ずうずうしく言わせていただきますと、時間、未来、現在、過去に関する考え方が、ワタクシと石井先生は一緒ですね。
 テクノロジーの寿命は1年、ニーズの寿命は10年、ヴィジョンは100年。自分が死んでからも残る。
 テクノロジーが未来を切り拓くのではなく、未来のヴィジョンがニーズとテクノロジーを生む。
 だからこそ、私たちはテクノロジーに近視眼になるのではなく、ある意味アホくさいほどの夢、ヴィジョンを描くことですね。
 そして、アート、サイエンス、デザイン、テクノロジーをアウフヘーベンして、総体としてのスパイラルを生み出すこと。
 プレゼンのしかたも含めて、非常に勉強になりましたね。
 タンジブル・ビッツで一躍有名になり、MITの最先端に生き残っている日本人、石井裕さん。かっこいいですねえ。
 MITのあり方に象徴されていますが、やっぱりアートって大切ですね。世界に対して疑問を抱くことがアートの本質。そこからしかイノベーションは生まれない。人類の歴史とはまさにアートの歴史であったわけです。
Th__20180713_113020 未来視力‥いい言葉ですね。そこに富士山があるのも素晴らしい!
 やはり時間は未来から流れてきていて、だからこそ未来に原因を創って今結果を出す。ぜったいにそうですよね。
 いかに壮大な妄想をし続けるか。それこそが重要です。あきらめたら終わり。
 温故知新という言葉に対する解釈も私と同じでした。過去の人たちが、私たちの今を超えたはるか未来に何を妄想したのか。それを知ることは実は楽しいことです。

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2018.07.09

追悼 加藤剛さん‥ドラマ 夏目漱石「こころ」

 た残念な知らせが入ってきました。加藤剛さんがお亡くなりになったとのこと。
 少し特殊からもしれませんが、私にとっての加藤剛さんは、夏目漱石の「こころ」のイメージです。
 加藤さんは「こころ」の朗読をし、舞台やドラマで「先生」を演じてきました。おそらくライフワークの一つと考えていたのだと思います。
 その朗読の録音、舞台やドラマのビデオを持っていますが、そのどれもたしかに素晴らしい。あの深遠なる漱石世界をよく理解し(理解しようとし)、ご自身の中で大変高い次元に昇華していると感じました。
 特にテレビ東京の名作ドラマでの熱演は、その集大成だと感じていました。最近その動画がアップされました。ぜひ皆さんも、加藤さんの名演技をご堪能ください。あまり知られていない作品だと思います。
 私もご冥福をお祈りしながら、このドラマを観て、あらためて「生」と「死」について考えてみたいと思います。

 いくつかの「こころ」の映画、ドラマの中で、最も原作に近く、違和感の少ないのはこの作品です。大山勝美さんの演出、加藤剛さん高橋恵子さん、そして若手女優、俳優たちも素晴らしい。音楽もいいですね。これってペルトかなんかでしょうか。それともオリジナル?

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2018.07.04

筧克彦の「和(にぎ)」論

Th_picture_pc_78b5ffe763971dea1ab47 日は備忘録です。
 戦前、「イヤサカ先生」とも言われた、東大法学科の名物教授にして、神道研究家でもあった筧克彦。
 この人が当時の「皇国史観」に与えた影響は多大です。本人の意志はともかくも、日本が世界と対峙していく一つのきっかけを作ったと言ってもいい。
 私の身近なところでも、彼の名前はよく出てきます。私の三大研究テーマである、宮下文書、出口王仁三郎、仲小路彰、いずれにもやはり影響が感じられます。
 実際、筧は宮下文書の研究機関であった富士文庫の顧問でしたし、王仁三郎とは因縁の中と言える貞明皇后に「惟神」の講義をしています。また、仲小路彰の蔵書の中に筧の著書がありましたし、高松宮さまにも直接講義をしていました。
 そんな筧克彦が「和魂(にぎみたま)」について書いたものを見つけましたので、その一部をここに記しておきます。
 昭和15年発行の「惟神の大道」の一部です。冒頭の大御神様とは天照大御神のことです。

 大御神様は和魂の神にして和魂により荒魂を用ひ給ふ、大御神様の荒魂は撞賢木厳之御魂天疏向津媛命と称へ奉り、和魂を実現する勇猛心の大本と坐す。和魂とは、本末を立するにより一切に其の所を与ふる有難く懐かしみ思ふ超越心にして、普く大切に(愛しく)思ふことと一致する「うつくしび」(いつくしみ)の心である。而も本末を立し所を与ふるといふ美化作用となる心である。和魂はにぎにぎしく栄ゆる魂である。にぎはひの本となる魂である。「和」は「にぎ」を表す仮字であるが、「にぎ」に在っては漢字「和」のもつ妥協とか正しきを斥ける様な意味はない。それと申すも、和魂は本来正しく直く明かく清く坐す神様の御魂の御性質であるから、妥協の意味なきは申すまでもない。外国にて「和」といふは何と申しても本来思ひ思ひの多数者が妥協して勢に従ふ義が主となり勝ちである。故に「和」の背後には程よく之を革めねばならぬといふ意義が附着して居る。然るに、和魂とは自ら期せずして本末の正しきに帰せしめ又帰入する心で、本末の正しきを立する心ともいひ得、心其の者が「天晴れ、‥‥おけ」と暖く賑やかなものである。此の和魂は其れを実現する方便として荒魂をも準備して居る。荒魂とは現魂(実現する魂)の義で、和魂の本末を立する要求を実現し一切を救済・済度する心である。又、矛盾・反対を歓迎し和魂の要求を徹底する勇猛心なりとも申される。

 面白い内容ですね。私の「荒魂・和魂」観と似ているところもある。私も無意識のうちにいろいろなところから影響を受けているのでしょう。
 ところで、こうした独特の筧の神道観、そして国家観は、もしかすると彼が諏訪の生まれであることから来ているのかもしれませんね。
 そうしますと、まさに出雲の荒魂が発動していたということでしょうか。そして、その裏には和魂がある。あの戦争もそういう視点で観ると面白いかもしれません。ちょっと考えてみます。

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2018.07.02

ちやほやの語源

Th_51plckg0jll_sx348_bo1204203200_ さん、「ちやほやされたい」ですか?
 まあ、悪い気分じゃないですよね、ちやほやされると。
 逆に「ちやほやする」立場はどうでしょう。これもそんなに悪い気はしないのでは。簡単に言えば、「ほめる」「かわいがる」わけですからね。
 ただ、「甘やかす」という意味合いもあるので、「ちやほやされていい気になる」など、マイナスの意味で使わることもあります。というか、結果として「ちやほやされる」と、いらぬ嫉妬心を買ったり、慢心に陥ったりと、あまりいいことはありませんね。
 お金と一緒で、度が過ぎると良くないというわけです。
 さて、その「ちやほやする(される」の「ちやほや」ってなんでしょうか。語源をご存知ですか?
 実はこれ、あえて漢字で書きますと、「蝶や花や」となるんです。意外ですよね。
 「蝶や花や」という文字を見て、「蝶よ花よ」という言葉を思い出す方もいらっしゃるでしょう。そう、それが正解です。
 「蝶よ花よ」という表現は明治時代以降の文献に見られます。樋口一葉の「たけくらべ」には、次のような文章があります。

何故でも振られる理由わけが有るのだもの、と顏を少し染めて笑ひながら、夫れじやあ己れも一廻りして來ようや、又後に來るよと捨て臺辭して門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、と怪しきふるへ聲に此頃此處の流行はやりぶしを言つて、今では勤めが身にしみてと口の内にくり返し、例の雪駄の音たかく浮きたつ人の中に交りて小さき身躰は忽ちに隱れつ。

 「蝶よ花よ」の原型である「花や蝶や」は、なんと平安時代の枕草子や源氏物語にも見られます。古い表現なんですね。

みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける(枕草子)
花や蝶やとかけばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ(源氏物語)

 いずれも、特別に寵愛するというニュアンスですので、現代の「蝶よ花よ」、「ちやほや」と同じ意味ですね。
 すなわち、「花や蝶や」→「蝶や花や」→「ちやほや」という変化をしたと考えられるのです。そして、「蝶よ花よ」は、感嘆の終助詞が「や」から「よ」に変化したのに伴って生まれたものと言えそうです。
 今、私たちは「ちやほや」という言葉を使う時に、「蝶」とか「花」を意識することはありませんが、もともとは、「蝶」や「花」が美しく、可愛らしく、またある意味では儚くもろい「愛すべきもの」「大切にすべきもの」だったということですよね。
 そう考えると、「ちやほや」が過剰になると「甘え」につながるというのも納得です。また、なんとなくですが、子どもや女性には使うけれども、大人の男性に対してはあんまり「ちやほや」しないような気がしますよね。なにしろ「蝶」と「花」ですから(笑)。 
 そういう意味では上の画像の選択は間違っていますね。いや、合ってるか(笑)。
 それにしても、こういう無意識の中に残る語感というのは面白いですね。

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2018.06.28

バーチャルは美徳?

Th_2018062900253093nksports0009view が英語の勉強をする中で、「virtue=美徳」という単語が出てきました。
 ここで彼女にとっては意外であろう情報を提供しました。
 「バーチャル(virtual)」は「virtue」の形容詞形である。
 日本語で「バーチャル」というと、バーチャル・リアリティのイメージが強く、結果として「リアル」の対義語のように言われますが、もともと英単語としての意味は、「実質上の」です。
 ある辞書には、こんな例文が。

Argentina came to a virtual standstill while the game was being played.
アルゼンチンは試合が行われている間,実質的な停止状態に陥りました

 なんだか、今日(から明日にかけて)のワールドカップの試合みたいですね(笑)。ま、この例文ではチームではなく国がということでしょうけれど。
 つまり、ホンモノではないけれども、本質的にはそれ同様であると認定されるというイメージです。別の辞書の例文を挙げてみます。

a virtual genius
天才といって差し支えない人
the virtual head of state
実質上の国の首長
They made us a virtual promise.
彼らは我々に約束したも同然だった.

 日本では、なんとなく「バーチャル・リアリティ」の危険性みたいなことが言われているせいか、「リアル」はよくて、「バーチャル」はダメみたいな雰囲気があります。日本のある辞典の記述です。

実体を伴わないさま。仮想的。疑似的。「―な空間」「―な体験」

 なんとなくマイナスなイメージ、危険な香りがしますよね。はっきり言ってこれは偏見です。
 もともとは、「リアル」の本質(美徳)を備えている別物を指す言葉ですから、決してマイナスなイメージばかりではありません。
 いわゆくVRも、日本では諸外国よりも、「面白いけれども、あんまり深入りするな」的な捉え方をしているように感じます。
 最先端の技術開発の世界では、まさにリアルの「virtue」をいかに再現するかに挑戦しているわけです。
 考えてみれば、テレビで遠くロシアでのワールドカップを観て感動・興奮することができるのも、そうした技術者の努力の結果ですよね。もう私たちはとっくの昔から(言葉を発明した時から)、バーチャルなリアリティの中に生きているのです。
 さてさて、今日の日本の試合、そこには「virtue」はあったのでしょうか。それはまた明日にでも。

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2018.06.23

『あさき夢みし』 実相寺昭雄監督作品

Th_91obrgbmahl_sy445_ の娘と観ました。ますますマニアックになっていくな(笑)。
 ある意味全く面白くない作品でしょう。今なら絶対に作られない映画。ATGの作品はみんなそうか。
 芸術を目指したのでしょうね。古典文学を読むような、現代的な意味での退屈さや困難さがうまく表現されている映画とも言えます。
 しかし、よく観ると、見どころ聞きどころが満載でもあるのです。
 まずはもちろん実相寺昭雄的映像世界。どアップ、歪んだ構図、不思議な光の効果。それが映画的非現実世界を作り出しています。意識して観ると実に面白い。作り手の視点で観るべきでしょう。
 そして今回改めて感心したのは、大岡信の脚本の見事さですね。ストーリーはどうでもいい感じですが、一つ一つの日本語の選び方がお見事。
 もちろん平安時代の日本語ではないわけですが、現代人の理解可能なかぎりでの「疑似古語」が実に美しい。これは本当にすごい。さすが現代語、古語に通じている大岡さんです。
 それから廣瀬量平の音楽。これも「疑似古語」と同様「疑似古典音楽」ですね。うまい。実にいい。
 ちなみに笛全般で名演奏をしている上杉紅童さんですが、今、ウチの娘が野村四郎先生に弟子入りしているのは、ある意味上杉さんのおかげです。私の教え子が能を志すことを決めたとき、上杉さんが山本邦山さんを介して野村先生を紹介してくれたのです。不思議なご縁です。感謝。
 役者さんでいうと、岸田森の坊主頭がエロですね(笑)。耳もとがっていて、ちょっと私は親近感を覚えました。
 あっ、それから能といえば、観世栄夫さんがちょい役で出ています。いい味出してます。
 こういう映画は、実は海外で評価が高いんですよね。YouTubeにあったトレーラーも海外からアップされたものでした。
 独身時代よく観ていたATG作品。久しぶりにいろいろ観てみようかと思います。

Amazon あさき夢みし

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2018.06.19

生誕109年・没後70年…太宰治 『右大臣実朝』

Th_unknown 日は桜桃忌。今年は太宰治、没後70年、生誕109年にあたる年です。
 それにちなみ、今日は改めて一つ作品を読んでみようと思いました。時間もないので短編を、と思いつつ、結果としてはちょっと長めな作品を選んでしまいました。
 というのは、ここのところの地震のことを考えていた時、そういえば「右大臣実朝」には地震の話がたくさん出てきたなと、ふと思い出したからであります。
 検索してみたら、28箇所「地震」という文字がありました。そう、実朝の生きた12世紀から13世紀にかけては、関東や関西で大きな地震が相次ぎました。
 たしかな記録としては残っていませんが、地質調査の結果、1200年ごろには、今も発生が予測されている南海トラフ巨大地震も発生したと言われています。ちなみに鎌倉の大仏の大仏殿が津波で流されたのは、室町時代の明応の大地震です。
 この「右大臣実朝」は、吾妻鏡を資料として引用し、その無味乾燥な記述から、実朝の人間性を生き生きと描き出すという、太宰得意の小説制作技法をとっています。そう、太宰は原資料をたくみに翻案、換骨奪胎するテクニック、才能に異常なほど恵まれた作家です。
 正直、ちょっとずるいと思ってしまうくらい、うまい。この「右大臣実朝」もまた実にずるい作品と言いいたい。
 執筆時期がまた微妙です。昭和17年から18年。まさに明治維新から現在までの150年の、ちょうど折り返し地点。戦局も暗転していく時期ですね。
 そういう時局だからこそ、歴史物をもって人間を描くという方向に向かったとも言えます。最終的には甲府で作品を仕上げたというのも、私にとってはこの作品を身近にしている原因です。太宰には、山梨の風土が色濃く影響を与えています。
 皆さんも、ぜひこの機会にこの名作を読んでみてください。いつものことですが、内容よりも、その文章のリズム感の良さに、私は惹かれてしまいます。なんとも音楽的です。吾妻鑑と対比によって、それがまた際立っているのです。

青空文庫 右大臣実朝

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