カテゴリー「文学・言語」の899件の記事

2017.03.16

演劇実験室◎万有引力 『身毒丸』 (作=寺山修司、演出・音楽=J・A・シーザー)

Th_cfddcf_50fa38ac36de415bbc2d741a6 異的な体験でした。寺山修司の「身毒丸」。万有引力の舞台を堪能してきました。
 堪能では軽すぎる。作品とともに生きて死んだという感覚。本当に脳ミソがひっくり返り、人生が裏返しになりました。
 今回の舞台でも歌い手として非常に重要な役を務められた竹林加寿子さんとの不思議なご縁から、トントン拍子にことが進み、今日の観劇と相成りました。家族4人+寺山とは因縁深い(?)姉と5人での衝撃体験。
 う〜ん、言葉にならないというのは、まさにこのことですね。つまり、「コト」ではなく「モノ」世界なのです。まさに見世物、物語、物怪。
 姉の影響もあって、高校時代あたりから今に至るまで、なんだかんだ私の人生に大きな影響を与え続けてきた寺山修司。私が今、歌詠みの端くれとしてなんとかやっていけているのも、まさに寺山のおかげですし、私の短歌の師匠である笹公人さんも寺山に心酔し続けてきた方。全く不思議なご縁です。
 と言いつつ、恥ずかしながら、実は寺山作品を舞台で観るのは初めてでした。これははまりますね。中二と高二の娘二人もすっかりはまってしまいましたし、家内はやはり北東北出身ということで、私たちよりもより深い根源的なところで共感してしまったようです。姉は寺山熱がウン十年ぶりに再燃したようですし。
 それほどすごいパワー、エネルギーだったのです。寺山は言葉を操る天才ですが、結果として、その言葉たちは吹っ飛んでしまう。「コトを極めてモノに至る」そのものですよ。
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 コトが吹っ飛ぶから、自分も単なるモノになってしまう。異形という判断、あるいは定義も単なる常識的な「コト」ですから、しまいには、舞台上の「モノ」が正常で、こちら側(観客たち)が異常であるという感覚にもなってしまう。最後客電が点いた時、本当にそう思いましたよ。
 私たちが大人になって身につけてしまった「コト」というある種の安定規格を揺さぶる、前近代的(プリミティヴ)な、そして幼児体験的な「モノ」。
 もちろん、それを現出させるJ・A・シーザーさんの演出、さらには彼の「モノの音」たる音楽。いやあ、本当にすごい人だ。寺山も納得でしょう。
 …と思っていたら、なななんと、終演後の打ち上げ(反省会?)で、竹林さんからシーザーさんを紹介していただき、お話させていただき、握手までしていただきました!なんという幸運でしょう(涙)。
 当然、昨年某所で発見した寺山版「HAIR」のシナリオをお見せしました。ぜひ「初演(!)」しましょうと。もしこれが実現したら、大変なことになりますよ。1969年当時ボツになった、あの過激なシナリオが21世紀に舞台化される。
 私自身も何かに突き動かされているような気がします。それを確認するのに充分すぎるほどの衝撃的爆発的なエネルギーを感じる舞台でした。
 シーザーさん、万有引力の皆さん、そして寺山修司さん、本当にありがとう。人生は面白い。

追伸 こちらもぜひお読みください…J・A・シーザー&ヒロイン蜂谷眞未インタビュー

万有引力公式

竹林加寿子さん公式

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2017.03.12

脚立 vs コタツ(プロレス)

 WBCが盛り上がりすぎまして、楽しみにしていた「プロレス総選挙」が月曜日になってしまいました。
 とは言え、ウチはテレ朝が映らないので、WBCもラジオで観戦(聴戦)。プロレス総選挙も結果だけネットで確認という形になりました(苦笑)。
 結果は、まあ上位は予想通りと言えば予想通り、1位がアントニオ猪木、2位がジャイアント馬場、3位が初代タイガーマスク。それ以下は正直予想が外れました。ま、テレ朝だから新日本系に偏るのはしかたない。いや、そういう意味ではけっこうバランス良かったかな。飯伏幸太が入ってないのは解せないけど。
 さて、そんなガチなランキングが出た今日(明日か)、私はあえてこの最強レスラー、いやベストバウトを紹介します。プロレスという世界の奥深さ、幅広さ、ある意味でのアホくささ、そして哲学的な次元の高さ。
 こういうプロレスが発達するところが、いかにも日本的ですよね。まあ、とにかく観てください。感動間違いなし(笑)。

Th_2017022000010000battlen0001view そう、DDTでは先月、「こたつ」が人間相手に勝利し、アイアンマンヘビーメタル級チャンピオンになりました。3月20日のさいたまスーパーアリーナ大会でも、王者としてリングに(4本足で)立つことになっています。
 こういうのを真剣にやり、楽しめるのが、本当の「文化」だと思いますよ。私は大好きです。レッスルはレッスルですから。
 ちなみに日本語学的に言いますと、キャタツとコタツはちょっと語源的にかぶっているんですよね。それについては、またいつか書きましょう。3月20日以降かな。

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2017.03.01

『日本を揺るがせた怪物たち』 田原総一朗 (KADOKAWA)

Th_51hjabrz5tl やぁ面白かった!昭和の怪物たちのエネルギーにやられました。
 で、結局、田原総一朗もまた怪物の一人であったということを確認。現役バリバリの怪物ですね。
 取り上げられている怪物たち。まずは政界…田中角栄、中曽根康弘、竹下登、小泉純一郎、岸信介。続いて財界…松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、稲盛和夫。最後が文化人…大島渚、野坂昭如、石原慎太郎。
 こうした怪物たちと対等に、いや場合によってはその怪物を裏で操る存在として田原さんの体験談集ですから、それは面白いはずです。
 これだけ大物揃いとなると、私自身もある程度の知識や先入観がありますが、それを一つ一つ、生々しく否定されたような、いや否定ではないな、さらに強化されたというような感じです。
 う〜ん、誰が一番印象に残ったかなあ…難しいなあ。みんなすごい。
 今の世の中では許されないような、いわば清濁併せ呑む迫力がありますよね。今の政治家も財界人も文化人も、スケールが小さくなってしまったなあと。
 まあ、昨日今日のニュースも見ても、実につまらないネタで盛り上がっているマスコミや世間が悪いんでしょうね。残念な時代になってしまいました。
 さてさて、上に挙げた怪物たちですが、そのほとんど全てが、私の研究している仲小路彰に関係しています。実際、彼らかの書簡もたくさんあるし(先日も石原慎太郎からの書簡を見つけました)、ある種の名簿類には上掲の人物の名がほとんど記載されています。
 田原さんもまあすごいけれど、実際裏で彼らを操っていた仲小路彰のすごさを改めて痛感する次第であります。
 中には仲小路に徹底的に嫌われた人もいます。それはそれでまたすごいのかもしれませんね。
 また、彼ら怪物たちは、自身が怪物であるからこそでしょうが、ある種の信仰心を持っているように感じます。そのあたりについては、また後日書きますね。仲小路彰と各宗教団体の関係についても、いずれ知られることとなるでしょう。
 宗教と言えば、田原総一朗さんと、かの幸福の科学の大川隆法との「対話」が面白いですよ。続きを観たい方は、数珠つなぎでどうぞ。

Amazon 日本を揺るがせた怪物たち

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2017.02.28

未在

Th_91usrqntzol 日は高校の卒業式。私も司会として、思い入れ深い3年生を送り出しました。
 毎年、本校の名誉校長であられる山川宗玄老大師さまの有り難い戒辞に感動するのですが、今年は「未在」という言葉が強く心に残りました(昨年はこちら)。
 「未在」というと、私も昨年観たプロフェッショナル仕事の流儀の石原仁司さんを思い出します。京都の日本料理屋さん「未在」。石原さん独自の茶懐石は、世界的にも高く評価されています。一生に一度は行きたい店。
 あの番組でも紹介されていましたが、「未在」とは禅の修行には終わりがないという意味です。
 今日、老師は「まだまだ」という言葉で表現されていました。なるほど、「まだまだ」ですね。
 「未在…いまだ(ここに)あらず」。もういいだろうとか、やっと目標達成したとか、そう思った瞬間に人生の修行は終わってしまうということです。
 「未在」という禅語、もともとは宋の白雲守端が出した公案「白雲未在」だそうです。ですから、白雲は自分自身をまだまだと言ったわけですね。弟子からすれば、充分に悟った存在であった師にそう言われて、自分自身の修行を省みたということでしょう。
 私が言うなら、「山口未在」…そんなの当たり前じゃないか!。全然、禅語ではありませんし、公案でもありませんね(笑)。

Amazon 未在
 

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2017.02.21

仲小路彰 『夢殿の幻〜聖徳太子の救世悲願』より「甲斐の黒駒」

Th_20101004100221 和の天才、いや人類史上最大の天才の一人と言ってもよい、歴史哲学者の仲小路彰。今、その思考と活動の全貌が明らかになろうとしています。いや、知れば知るほどその深さ、広さに全貌が見えなくなってしまうというのが正しいかもしれません。
 群盲象を撫ず。もうどうしようもないほどのスケールですので、群盲の数を無限に増やして、なんとか全体像を輪郭だけでも把握しなければなりません。
 とにかく感じるのは、一部の少数の人が、自分の立場だけで彼を解釈すると、大きな間違いを起こすということです。あまりにその言説が多様なので、ある意味都合の良いところだけを取り上げて、一つのストーリーを作ることができる。これは仲小路彰研究の陥穽であると思います。
 さて、膨大な仲小路の著作物の中でも、ひときわ強力な光芒を放っているのが「聖人伝シリーズ」です。
 釈迦、孔子、ソクラテス、イエス・キリスト、マホメット、聖徳太子という六聖人の未来的本質を示した戯曲調の文章群です。
 中でも白眉は、そうした世界の聖人の思想を融合した聖徳太子について書かれた「夢殿の幻」。これについては、以前こちらで少し紹介しましたが、このたび改めて読んでみました。
 その中で、富士山麓に住む者として、特別な感慨を覚えた部分があります。今日はそれを活字化して紹介いたします。
 山中湖畔に住み、富士山を未来の地球平和の象徴として観じていた仲小路彰ならではの内容です。地元に濃厚に残る徐福伝説などにも触れながらの、実に味わい深い文章となっております。弥勒の世という言葉も出てきますね。また、須弥山(シュメール)と富士山を重ね合わせているところも、仲小路彰らしいと言えましょう。
 では、どうぞお読みください。

 第四章 甲斐の黒駒

 朝に夕におよそ十年の間、休むことなく太子の愛馬、甲斐の黒駒は、おだやかに広がる飛鳥野をわが主太子をお乗せして、いともまめやかに蹄の音も高く、元気にかけめぐった。
 ある時は春のやわらかな微風のように、花々の間を黒々と毛並を光らせながら走りゆき、ある時は、すさまじい雷光の下をとどろきわたるいかずちにも負けず、その速さを競った。
 冴えわたる秋の月光をあびながら、もの思いにしずまれる太子を、いささかも揺がさぬようにしずかに足を運び、また吉野おろしに道も白く、いてつく上を決してすべらぬ、たしかな足どりでま冬の朝をかけすぎた。
 道のほとりの人々は、いつも太子を拝すると同じく、その黒駒を何よりも親しく送り迎えして、折々のさまざまな好物を馬にささげることもつねであった。
 太子のいますところ馬はあり、馬のいななきが高らかにひびけば、尊い太子のお姿が、人々の眼に何よりも喜ばしげに映じ出された。
 かくもけなげに忠実にお仕えする黒駒を太子はこよなく愛されて、もし季節の変り目に何か馬に異常があり、食のすすまぬ時があれば、太子はそれこそわが身の病い以上に案じられ、その回癒を切に祈られた。
 夜にあっても、時には厩戸を見廻わられ、いかにも御名にふさわしい馬への深い因縁の愛情を示された。
 かくて愛馬は太子のあつい信仰のままに、さながら霊の翼ある天馬と化して、空をしのぎ、雲を分けて天翔りゆくかと思われるほどに成長した。
 いかなる時にも黒駒は、太子をしたって高らかにいななき、そのひづめをひびかせて、太子をお待ちしていた。
 夢殿の夜は、まことに静かで、かなりへだたった厩戸の音が、かすかにひびいて来ることもしばしばである。
 ふと太子は、さえさえとした月光の中に、黒駒のつややかなたて髪と、そのつぶらな眼があさやかに光っているのを見られる。
 太子は軽やかに馬上の人となられー「さあ、行け」と凛然としたお声をかけられる。馬は、いかにもうれしげにその首を動かし、耳を立てて一散に走りゆく。たれもお供する者もない。大和三山は黒々とまなかいにあって、みるみる小さく去ってゆく。
 もはや地上を走るのではなく、さながら天上を風のように天翔ける如くである。山を越え、森をすぎて、河は白々と流れる大和の山河を一瞬にかけ去って、今やはたしもない海の上を雲とともに飛んでゆく。
 長い海浜に打ちよせる波は、白い糸となって連なり、星々は天上の音楽を奏でるかとま近にきらめく。
 はるか彼方には、かぐろくも山脈がさまざまな陰影をもってそびえ立ち、その大いなる自然は、いかにもわが国のたぐいない美の世界を展開している。
 まことに、これこそ地上の楽園であり、そのままが寂光の浄土であると、太子は讃美せられる。ー黒駒よ、汝の故郷はどこか、甲斐の国は、ーいかにも黒駒はそれを知るように、ひたすらに東北への道をひたかけりゆく。
 まさにその時、とうていこの世ならぬ荘厳な須弥山さながらの姿をもって、わがあこがれの富士の霊峰が、あのように鮮やかに鎮もっているのを、太子は展望される。
 しかも東の空は、ようやくほのかに曙の光を予兆するかと白みはじめる。ただ蒼茫たる未生の海原も、たちまち多彩な光のまんだらを現じはじめる。その光は、まさしく霊峰の上にかがやき、永遠の雪は神秘な赤に燃えはじめる。
 天も地も富士によって一つに結ばれ、一切は、その神の峰によって、目さめゆく。まことに天地の別れし時を再びここに相結ぶ、この一刻である。
 その麓には、ほの白く富士川はめぐり、それをさかのぼる所、わが黒駒の故郷の損するのか、今こそ一きわ高く愛馬はいななく。わが故郷はここにありと、心をこめて叫ぶごとく ‥ ‥
 これぞ神のいます聖なる峰か、美しく木花咲耶姫の舞い舞う万古の雪をいただく、白き峰か ‥ ‥
 ようやく山をめぐる霧は限りなく開け、その間に点々と光る首飾りの宝玉の如き湖のつらなり、あれこそが常世の神と称せられる神の姿か、緑なす森の中に生れし神の蚕と云われるものか、これを祭れば老いたるものも若さにかえり、いかに貧しきものも、幸ある恵みをうけるとされる信仰であるか ‥ ‥
 けれど常世とはどこであろうか。それはもと黄泉国とされたものではなかったか。そは死の国であり、死とは何であるか。ここに死を越えるものへのあこがれとして、不老不死への悲願がある。
 さればこそ、かつて、かの大陸の秦始皇は不老不死の妙薬を求めて、徐福らを東海の神仙の島に送ったとのことが司馬遷の「史記」に見られる。
 ついに彼らは帰らなかったが、あるいは、このあたり絹と光る湖のほとりに安住したのであろうか。
 この神の山の麓にこそ、わが夢に見た浄土の地か、常世とは、不死の国、そは弥陀が極楽浄土とされた仏国土か、さらにこの富士のあたりこそ次に来る末世の後の弥勒の世の現ずる地なるか、やがて果てしなき戦乱の世に、ここにこそ果してとこしへの平和の訪れるあたりか、まさしく富士への信仰は弥勒の信仰とともにあるのか。
 弥陀が念じられた須弥山とは、まさしくここ富士の峰か、我もまた徐福の如く、この山麓に、わが愛する黒駒を心ゆくままに走らせて寂光土をここに現ぜんかなーと太子は、明けゆく秀麗な大自然の中を御夢とともに限りなくかけめぐられたのである。

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2017.02.14

論客面談 『橋下徹 vs 森達也・ケビン・クローン・古谷経衡』

 校生の「国語表現」の授業で使った教材。昨日の「橋下×羽鳥」内「論客面談」。
 ディベートの勉強をしているわけですが、その教材としてはなかなかいいですよ。橋下さんの討論技術は高い。もちろんそれは「ずるい」とも言えるわけですが、高校生くらいならこういう戦闘能力に興味を持ってもらいたいと思っています。
 橋下さんは誰が相手でも、「政治」という「現実」を振りかざして、「理想」すなわち「正論」を掲げる皆さんをいなしていく。つまり、相手の正論を正論だと認めつつ、その「理想」が持つ矛盾、すなわち「現実的(現在的)無理」を理由として反撃していく。
 結果噛み合うわけはないけれども、現実の観客(視聴者)には、橋下有利で終わったかのような印象を与えることに成功しています。
 これはある意味プロレス的な勝ち方であるとも言えましょう。本当にどちらが強いかというケンカとは違う。自分の立場を充分に理解した戦い方です。
 まあ、こんな番組のこんなコーナーを喜んで(?)引き受ける理由があるということですよ。お見事ですね。
 個人的には橋下さんの政策や各種発言には異論もありますが、こういうプロレス的な力は素直に敬意を表したいと思います。
 プロレスと言えば、森達也さんはプロレスの取材もいくつかしていますね。その内容にもプロレスファンとして賛否両論有るんですが、やはり森さんも自分の立ち位置の置き方は上手だと思いますよ。世間の常識を敵に回すというか、あえて裏側から弱者を支援するというか、その手法には徹底が見られます。私は嫌いではありません。
 そういうことも含めて、生徒たちが何かを学んでくれればと思います。
 ケビンや古谷さんはまだ若いので、森さんのような独特の立ち位置があまり感じられませんね。本人たちなりには頑張ってそれを確立しようとしていますが、まだ大衆の思考の域を超えていません。
 

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2017.02.09

その八重垣を…

Th_2017020900050146yom0004view 倍首相夫妻がトランプ大統領との会談のためアメリカに向けて出発しました。
 この歴史的一大事にあたりまして、昭恵夫人にメッセージを送らせていただきました。
 昨夜、昭恵さんがFacebookにて「人との垣根が全て取っ払われ」というようなことをつぶやかれていました。そのお言葉と、昨年の天皇誕生日の日の「望」年会で昭恵さんとお話した内容から、ある種の直観を得たのです。
 詳しくは国家機密なので書けませんけれども(笑)、出口王仁三郎の以下の名文を参考として添付いたしました。
 今年はスサノヲの年となります。トランプさんも間違いなくスサノヲの系統ですね。ですから、この王仁三郎の「八重垣」に関する解釈は、非常に深い意味を持つと思います。八重垣をつくり、その八重垣をどうするのか…。
 皆さんもぜひ味わってお読みください。そして、何かを読み取ってください。この文は大本の機関誌『明光』昭和10年12月号に掲載された「歌まつり」の一部です。

(以下引用)

…素盞嗚尊(すさのをのみこと)が出雲の簸(ひ)の川の川上で八岐(やまた)の大蛇(おろち)を退治されて、ほっと一息おつきなされた。その時に、お祝いとして詠まれた歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌であります。

 このお歌の意味は、言霊(ことたま)によって解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国には八重垣(やえがき)が築かれ、そして八雲(やくも)が立ち昇っている。「八雲」というのは「いやくも」ということである──。それで、この「いやくも」をすっかりはらわねばならぬし、また、この垣も払わねばならぬ。

 今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持ってゆこうと思えば、「税関」という八重垣ができている。「つまごみに」というのは──日本の国は「秀妻(ほつま)の国」というのである──日本の国もまた一緒になって八重垣をつくっているということであって、これは世界万民が一つになって、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣は取り払われないのであり、「八雲」を払い、「八重垣」を取り払って、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。

 これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになっているその神さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣(みづがき)」という意味になり、外から悪魔が入れない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫雲がたなびいている意味にもなるし、また、真っ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味にもなるのであります。

 それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだ残っているのであります。
 内外を問わず悪い「その八重垣を」今度は取り払わねばならぬということを残して、「を」の字でおさまっているのであります。

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2017.01.30

「コク」の語源

Th_photo_main ッポロビールから「コクと香り」を向上させた「麦とホップ」が発売されるとのニュースがありました。
 また、同じサッポロビールですが、コンビニとのコラボで季節限定「至福のコク」を発売中ですね。
 こういう時の「コク」ってなんなんでしょうか。たしかにあるけれども、説明するのは難しいですね。
 コクとキレなんていう表現もよくあります。昨日の「獺祭」なんか、どちらかというと「キレ」というイメージです。こうした微妙な味覚は日本人独特とも言えます。決して科学的には証明できない「うまみ」の一つ。
 さて、そんな「コク」の正体とは別に、その「コク」という言葉自体について考えてみましょう。
 実際、私たちは「コク」というようにカタカナで書きますが、これって外来語なんでしょうか。
 いちおう言葉の専門家のはしくれとして調べてみましたところ、ふむ、諸説なるんですね。和語の「濃し」から「濃く」となったという俗説も、なんとなくありえそうですが、形容詞の連用形が名詞化するというのは「多くの人」「近くの家」とか言う時の「多く」「近く」など少数しかなく、特に単独で主語として立つのは「多くが賛成した」の「多く」くらいしかありません(「詳しくはお会いした時に」とか「正しくは〜だ」とか「細かくは知らない」などについては別に説明が必要なので割愛)。
 同じ味覚の形容詞が名詞化した例としては、「酸し」の終止形が名詞化した「すし(寿司)」、「辛し」の名詞化した「からし(辛子)」などがありますが、「濃し」が「こく」になるのはちょっと無理があるような気がします。
 そうしますと、もうひとつの可能性として挙げられている、中国語の「酷」がそのまま日本語化したという説の方が有力のような気がしてきます。
 えっ?「酷」?と思われると思いますが、もともと「酷」という漢字は「むごい」という意味ではなく、酒偏であるのことからも分かるとおり、「お酒が発酵する」「穀物が熟す」という意味があるんですよね。
 まさにお酒の発酵が進んで味に深みが増しているイメージです。そうすると、ビールの「コク」というのは、まさに麦とホップの発酵、熟成の度合いが高いということを意味するわけで、なんとなく納得できます。
 しかし、「酷と切れ」「至福の酷」ですと、なんだかとってもアブナイことになってしまうので(笑)、「コクとキレ」「至福のコク」と書くようになったと。
 まあ、「酷」という漢字も「酷似する」なんていうときは、そんなに悪いイメージではありませんね。
 それにしても、考えてみると、「酷」と「切れ」というのは、どちらかというと正反対の概念で、なんか両立しないような気もしてきます。
 それを両立するからすごいのかもしれませんが。味わい深いけれど、さっぱりもしているということでしょうか。うむ、日本の飲食文化は本当に深いですね。まさに「酷」な状況なのでしょう。

日本屈指の職人が語る「コク」とは?公開中!

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2017.01.20

オバマ大統領 シッティング with ベンチ・等身大フィギュア

Th_41bvwhurf0l 本時間の明日、トランプさんが大統領に就任します。
 まじめな話、それによって世界が大きく動き始めると思いますが、その話はトランプさんの就任後にすることとしまて、今日はオバマさんについて。
 オバマさんの大統領としての業績については、もちろん賛否両論あります。私が改めて言うまでもなく、その賛否は表裏であって、どんなリーダーも必ずその両面の評価を担わなければなりません。
 というわけで、今日はそんな堅い話ではなく、全く違った次元(?)からのオバマさんの評価です。
 皆さん、こちらをご覧ください。オバマ大統領の等身大フィギュアつきベンチです(笑)。
 そのレビュー(評価)を読んでいただきたいのです。これぞ、別次元からのオバマ評(笑)。
 今日はただそれだけです。ふざけるな!と言われそうですが、まじめな賛美や批判をされるより、「まあ、ごくろうさまでした」という感じで緩くお別れの挨拶をしましょうかということです。
 しっかし、時々あるこうしたアマゾンの面白レビュー合戦(ほとんど大喜利)は読んでいて楽しいですね。そういえば去年の今頃2900万円の腕時計のレビューを紹介しましたっけ。
 上記オバマのページにある「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」もぜひご覧ください。
 ちなみにオバマ・ベンチは売り切れということです。次はトランプさんの何かが発売され、優れたレビューが投稿されることでしょう。私も書き込んでみようかな(笑)。

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2017.01.15

2017 センター試験国語(その2…古典)

036bh 日の続きです。今日はセンター試験の古典について少し書きましょう。
 写真は新井白石。そう、まず漢文が新井白石だったことに驚きました。日本漢文がセンター本試で出るのは初めてだとか。たしかに記憶がありません。
 江戸時代は平安時代以来の第二の「日本漢文」黄金期でした。新井白石も多くの漢文や漢詩を残しています。言うまでもなく、当時の日本人がお手本にした「漢文」は、唐宋時代のそれでしたから、当時としては500年から1000年前の「古文」なわけですよね。つまり「擬古文」ということになります。
 そう、古文の方も「木草物語」という江戸の擬古文でした。これはラッキーなことです。生徒たちにも、聞いたことのない作品が出たら、それは江戸の擬古文だからラッキーと思えと教えていました。
 漢文にせよ、古文にせよ、擬古文はあくまで擬古文です。文法、語彙的に擬古ということであって、全体的な文章表現は基本「出版物」なんですよね。
 たとえば源氏物語のような「ホンモノ」は出版されたわけではなく、すなわち非常に狭い読者層(たとえば宮中の貴族)を対象として書かれているので、まあ内輪話なわけですよ。だから、現代人の私たちにすんなり分かるわけはない。
 その点、江戸はすでに一般大衆を対象とした「出版文化」がありましたから、あくまでそういう潜在意識のもとに表現されている。だから、私たち「一般大衆」にはうんと分かりやすいわけです。
 だから私は、古文の問題は中世の仏教説話か江戸の擬古文を出せと吠えてきたわけです。いきなり源氏とか出すなよと。
 もちろん教養として「ホンモノ」を読むことは重要だと思いますが、あくまでも先生がいて講義してもらったり、注釈書を手元に置いておかなければ読解は無理なんですよ。それをいきなり初見で源氏物語の一節を読め、それもあの量をたった20分で完璧に理解して、問題まで解け、和歌もちゃんと読み取れって、そりゃ無理ですよ。
 そういう意味で、今回の古典の出典はGJでした。実際読みやすかったと思います、両方とも。ただし、問題はそれなりの知識と根性が必要ということで、ちょうどいい難度の問題だったのではと思います。
 新井白石の漢文の作文力とういのもそこそこでして、たとえば頼山陽なんかと比べると、まだまだ甘いというか、そうちょうど現代の高校生レベルという感じです(あくまで語彙や文法レベルでの話ですが)。
 そうそう、変わり者の国語のセンセーであるワタクシは、よく古作文や漢作文をやるんですよ。短文を作らせる。今風なネタで。そういう「作文」力をつけると、英作文ができると読解もできるようになるのと同じで、古典の読解力も確実にアップするんですよね。
 イップットばかりでなくアウトプットするのです。私は短歌(和歌)をやっているので、古文についてはしょっちゅう擬古しております。漢文は授業で(ふざけた)漢作文をやってウケを狙っています(笑)。でも、それができるようになると、生徒もそうなんですが、いちいち書き下しにして(つまりクソ難しい日本の古文に直して)読まなくてよい、つまり、漢文を(古い)中国語として、英語を読むように読めるようになるんです(発音はできませんが)。そうすると読解が早いし正確になる。どうぞお試しあれ。
 それにしても日本人ってすごいですよね。本国中国の人は全然「漢文」読めませんよ。中国の古文ですからね。今の中国語とは全く違うし。論語なんか全然読めませんよ。もちろん作文もできない。なのに、日本人はできてしまう。ヨーロッパで言えば、高校生がラテン語読んだり書いたりしてるようなものですからね。
 それから、今回も私は、全体のはじめに古文に取りかかりました。裏技とも言えますが、まず試験開始の3分で古文の問一と問二を本文を読まないでやっちゃうんですね。つまり語彙と文法という暗記事項で20点取ってしまう。
 あとで時間があったら本文を読んで点数を加算します。そのかわり、20分から3分を引いた17分を現代文の「情報分析」に割り当てるんです。具体的には、評論にせよ、小説にせよ、本文と選択肢の照合に時間をかけて、雰囲気で答えないようにするわけですね。そうすると最近は良問が多いので、間違いなく現代文で100点取れますし、実際は17分も余計にかかりませんので、結果として、漢文も含めて70分弱で150点キープできるのです。
 そして、余った時間で古文の本文をちゃんと読んで読解問題の点数を加算していく。結果として、今回は時間内で満点が取れました。実際は180も取れば充分すぎるくらいなのです。国語の場合は。もっとリアルなことを言うと、生徒であれば160取れば万々歳。それ以上の点は、神様仏様からのごほうびだと思っていいのです。
 こういう戦略的な作戦でほしい点を確実に取るということも大切です。戦いに当たっては、それがたとえ勉強であれ、スポーツであれ、戦争であれ、須らく戦略的であるべきです。なんでも正面突破の玉砕精神ではダメだったと、歴史は教えてくれますよね。情報戦で負けたことがある日本人は前轍を踏んではいけませぬ。
 というわけで、今回のセンター試験国語は、非常に公平な、良識的な、良心的な問題であったと思います。しっかり勉強して知識を身につけ、また技術や戦略を学んできた人はちゃんと点が取れたであろうということです。
 ウチの学校でも、私の言うことをちゃんと聞いていた生徒は、それなりに点を取れたはずですよ。
 ちなみに全国の平均点は昨年より10点くらい下がるでしょう。最後は戦略の差となったと思います。

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