カテゴリー「文学・言語」の949件の記事

2018.04.18

アインシュタインの教育論

Th_unknown はアインシュタイン自身が語った言葉ではありません。原典はこうなっています。

 教育を次のように定義した人の機知は、けっして誤っていなかったのです。すなわち、「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に、残っているものである」と。

 つまり引用の形をとっているのです。しかし、それを誰が言ったのかは不明であり、もしかるすとアインシュタイン自身の修辞法だった可能性もあります。つまり、自身が考えた言葉なのかもしれない。
 いずれにせよ、アインシュタインの教育観がこの言葉で表現されているのは間違いありません。非常に深い言葉ですね。特に私たち教育者としては。
 学校で習ったことなんて、やっぱり忘れちゃうんだよな…というある種の虚しさもありますが、一方で、そうした確かに何かを残すことができる、たとえ意図せずとも…という意味で少し嬉しくなったりもする。
 違う言い方をすれば、私たち教師が教えようとしたことはほとんど忘れ、生徒が自ら知りたがったり、面白がったりしたことは、主体性のもとに記憶されるということでしょう。
 ワタクシの「モノ・コト論」で言うなら、意識化され、データ化された「コト」は忘れてしまう可能性が高いけれども、無意識の体験であったり、言語化されない「モノ」は血肉となって残る可能性があるということですよね。
 なるほど教育の本質を捉えた言葉であると思います。学ぶ立場としての自分自身の体験的にも、これはかなり真実に近いと直感します。たしかに忘れたけれど何かが残っている。残るということは意味があるということ。
 そして学校というシステムへの懐疑の表現としても面白いですよね。私たち教員は常にこれを意識せねばなりません。
 学校で習ったことをすべて覚えていたら、きっとアインシュタインは世紀の大発見をすることはなかったでしょう。

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2018.03.29

是非初心不可忘

Th_51nry78lul 日は下の娘の人生にとって、とても大きな節目の日でした。
 人間国宝の能楽師野村四郎先生に入門したのです。
 ここに至る過程もいちいち不思議なことばかりでした。すなわち運命であったのでしょう。
 まさか自分の娘がそちらの道に進むとは夢にも思いませんでしたし、人間国宝の弟子になるなどとは夢にだに思いませんでした。
 これから大変厳しい道を歩んでいかねばなりません。私も一緒に勉強させていただきます。
 今日も野村先生は本当に深い話をいろいろしてくださりました。一つ一つのお話がそれぞれ胸に響きましたが、そのお話のベースにあったのは、先生の「勉強熱心」さです。
 芸の道を極めていながら、謙虚、素直、勉強熱心。本当にすごいと感じました。

 是非初心不可忘

 先生が娘のために書いてくれた言葉です。言うまでもなく世阿弥の言葉ですね。
 私たちは「初心忘るべからず」と覚えていますが、実は「是非初心不可忘 時々初心不可忘 老後初心不可忘」という三つの「初心忘るべからず」があるのです。
 そのうちの、「是非初心不可忘」は特に重要だといいます。「是非」とは「ぜひとも」の意味ではなく、「良いことと悪いこと」「正しいことと間違ったこと」という本来の意味です。
 すなわち、何が正しいのか、何が間違っているのか、まだ答えが出ていない時の姿勢、すなわち初心を忘れてはいけないということです。
 私もそうですが、「先生」と言われるようになると、何か答えを知っているかのごとく勘違いをしたり、他の意見を取り入れられなくなったりしがちです。そうした「分かったふり」を戒める言葉とも言えましょう。
 なるほど野村先生は、今もまさにそうして精進しておられる。分からないことは、気づいたこと、疑問に思ったことは、徹底的に調べる。その専門家のところに行って教えてもらう。真理に対して謙虚であり、素直であられる。
 なるほどこれが超一流かと気づかせていただきました。本当にありがとうございました。どうぞ、これからもよろしくお願い申し上げます。私も素直に勉強させていただきます。

Amazon 狂言の家に生まれた能役者


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2018.03.27

『50mm』 高城剛 写真/文 (晋遊舎ムック)

Th_511fbxftxel_sx377_bo1204203200_ すが高城さん。これまたやられましたな。
 不定期刊の雑誌を刊行です。実にデカイ。デカイ雑誌。そして写真は全て50mmレンズで撮影したもの。さらに紙はアドニスラフ。久々に「質感」を体験した。
 ご自身、Kindleが最強とおっしゃっていましたが、そんなご自身からも一本取っちゃった感がありますね。
 なんというか、彼は本当に思考が柔軟なんですよ。たとえば私たち凡人だと、もう紙の本の時代は終わり!と言ってしまったら、紙の本はノスタルジーの対象でしかなくなってしまうじゃないですか。
 それをこういう形で(デカイ!)、一瞬にして未来的なものにしてしまう。ご自身はアマノジャクとおっしゃりますが、決して裏をかいたり、奇をてらったりしているわけではない。ちゃんと意味がある。
 近過去に新しい意味を加えて、超未来的に仕上げてしまう。ずるい。ずるいほどに賢い。
 なるほど、ディスプレイの時代だからこそ、そこに収まりきらない「質感」というのがある。
 ちょうど昨日、私もLPジャケットをデジタル的に再現できないかなと考えていたところなんです。30cm角の正方形の音楽デバイス作ったら売れるんじゃないかと(売れないか…笑)。スピーカーも内蔵してるんですよ。で、ジャケットを眺めるていで持って音楽を聴く。
 そうすると、またジャケット・デザインという文化が復活するんじゃないかと。あの頃は、音楽と美術、そして歌詞カードや解説といった文学が協働してたじゃないですか。それをやりたいんですよね。
 ところで、この雑誌の表紙の写真ですが、新宿でご自身がご自身を撮ったものだと思います。
 というのは、この30分前、私、高城さんと一緒だったんですよ。今から撮りに行くって言って別れた。ちなみにその時、大切なカメラを忘れてったんです。もちろん数秒で気づいて戻ってきましたが(笑)。
 あのあと、こんなカッコイイ写真を撮るなんて。ホント、フットワーク軽いし、切り替えも早いなあ。男として憧れますよ。
 そうだ、さっきの巨大音楽デバイスの話、高城さんにしてみよう。
 あっそうそう、Kindleと言えば、高城さんとワタクシの宇宙人対談がありがたいことに大変好評でして、その全編を収載したKindle本がもうすぐ出るとのことです。うれしいかぎりです。
 対談をお聴きになっていない方は、ぜひこちらからどうぞ。ぶっ飛んでますよ(笑)。

Amazon 高城剛 写真/文『50mm』THE TAKASHIRO PICTURE NEWS

 
 

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2018.03.04

Adobe Scan

Th__20180305_135535 場上、いろいろな文書が送られてきて、それが机上に山積みになったあげく、下位層が忘れられたり、上位層が捨てられたりして、かなり仕事に障害が生じています。
 というのが、もう10年くらい続いております。整理整頓のダメさに関しては、本当に絶対的に自信があるのですが、これはもう性分というか、しかたないと諦めています。
 私の場合、父も母も大変几帳面だったので、きっとその反動というか、反転でこうなってしまったのだと思います。ちなみに姉も私に劣らずの猛者です(笑)。
 しかし、世の中が進展して、テクノロジーのおかげで、私たちのような人種でもなんとか混乱をきたさず生活できるようになってきました。
 つまり、スキャンですね。紙データをデジタルデータ化する。
 ちょっと前に買ったなんかも、かなり優れたツールです。その早さ、きれいさ、便利さはお値段を遥かに超えた価値と言えましょう。
 とはいえ、いちいちスキャナに挿入したり、Macを立ち上げたりするのも面倒な時があります。というか、実際はほとんどの場合そんな感じなんですよね。
 そんな時、これまた大変重宝しているのが、Adobe Scand です。
 iPhoneのカメラでテキトーにカシャッとやると、いろいろ補正してくれた上に、OCRでテキスト化されたPDFファイルにしてくれる。
 同じようなアプリはずいぶん前からありましたが、OCRの精度など、やはりさすがアドビと感じるほどに優れています。
 特に、私なんか国語のセンセーですから、縦書きの文書(入試問題など)をスキャンしておくことが多いものですから、縦書き文書の文字認識の精度の高い、このAdobe Scanは最高のツールとなります。
 皆さんもぜひ縦書きの文書で試してみてください。これで無料なんですから驚きです。
 これからの時代、こうしたテクノロジーを駆使できるか、というかAIも含めたテクノロジーに積極的に助けてもらえる人が、いろいろと有利になってくるでしょうね。
 特に学校の先生は保守的、いや世間知らずですので、もうすでに普通の社会からすると50年くらい遅れてますよ。困ったものです。

Adobe Scan公式

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2018.02.28

【討論】サヨクの本質-共産主義は本当に死んだか?

 称右翼、他称左翼のワタクシとしては、とにかく面白かった。いろいろツッコミどころもあるけれども、大方において間違いのない歴史観であると思います。
 間違いはないのですが、それが総体ではありません。世の中に見えていない部分が多すぎる。もちろん私も知らないことばかり。
 出口王仁三郎や仲小路彰を研究していると、本当に世界の、いや宇宙の大きな流れというのは、右左という世界では語りきれないことを知らされます。
 私、冗談で、「左右」が抱えているものは「エロ」だなんて言ってきましたが(我々が左右の手で大事に抱えているものとは…!?)、案外これって冗談ではなくて本質を突いているのかもしれない。
 いわゆる左翼においては、嫉妬心という自己卑下が暴力性と結びついていますし、いわゆる右翼においては、拡張した自己愛が暴力性と結びついています。
 人間の暴力性こそ、エロチシズムですよ。
 それらは、正直言って、両方とも宇宙の摂理から外れている。残念ながら、です。
 そこを乗り越えんとしたのが、おそらくはお釈迦様であったのだと思います。宗教ではありませんよ。宗教は、美化されたエロチシズムの物語に過ぎませんから。
 この討論を聴いていて、自分の中の両方のエロチシズムが、それこそ左右の手の中で暴れだして困りましたが(笑)、今はもう宇宙から地球人のドタバタを俯瞰できるようになっています。
 エロチシズムというのは、男女問わず人類に共通したモノだと考えられがちですが、その概念は男が作り出したコトです。
 結果として、男はそのエロチシズム(暴力性)の虜になってしまっている。だから、エロ対エロはケンカになる。しまいには戦争になる。「本当に死んだか?」なんて確かめたくなる。
 面白くも可笑しい男のサガであります。
 だからこそ、仲小路彰は21世紀は女性性の時代と言ったのでしょう。また、王仁三郎は変性女子を名乗ったのでしょう。

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2018.02.20

金嬉老事件から50年…寺山修司版「HAIR」

Th_unknown せずして昨日の記事の続きになりますね。
 今日は金嬉老事件から50年目の日です。私、当時3歳だったんですけれど、なんとなく覚えてるんですね。
 劇場型犯罪のはしり。きっと、テレビで観たんでしょう。
 単なる殺人事件が、犯人の「演劇」によって、いつのまにか差別や人権の問題にすり替えられた、なんとも時代を象徴する事件でした。未来を予言するとも言える。
 そういう意味では現代においても、そうした傾向は続いています。被害者よりも加害者の人権が守られ、それどころか加害者がヒーローになってしまう。
 さてさて、昨日の続きという意味では、この画像を観ていただきたい。これは、仲小路彰邸にて見つかった、ミュージカル「ヘアー」の初期稿の一部です。
 この字を見て、誰の字かピンとくる人はかなりのマニア。ちなみにJ・A・シーザーさんはもちろん分かりましたよ。
 そう、寺山修司です。実は日本初のロックミュージカルとなった日本語版「HAIR」は、当初寺山修司が脚本を書いたのです。
 しかし、それはボツとなり、結局、川添象郎さんの直訳版になった。そのへんの事情については、寺山自身が「ヘアー」白書に書いています。そこに見えない力に妨害されたというようなことが書いてあるんですが、寺山の脚本をボツにしたのは、仲小路彰だと私は考えています。
 ま、そのへんのことについては、いずれ詳しく書きましょう。今日は、とりあえず、その一部をご覧いただきたいと思います。そう、金嬉老事件が何度か出てくるんですよ。
 金嬉老事件は1968年2月20日に起きました。HAIRが上演されたのは1969年12月。寺山版の脚本はおそらく1968年中に出来上がっていたと思われます。
 人種差別、人権問題に劇場型と来れば、これは寺山が注目して当然です。本家HAIRもアメリカにおけるそういう問題を扱った作品ですから、日本語版に翻案するにあたって、寺山らしい仕掛けを施すのも理解できますね。

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 ここに出てくる「寸又峡」とは、金嬉老が立てこもったふじみや旅館のある場所ですね。永ちゃんは矢沢永吉ではなくて、佐藤栄作総理。
 次の部分には、金嬉老自身の名前が出てきます。ちなみに片桐操は1965年に起きた少年ライフル魔事件の主役です。

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 たしかに、この過激さでは上演は難しかったでしょう。特に仲小路彰はこういうの大嫌いですからね。寺山が影の大物の力を暗示していますとおり、影の大物が川添浩史を通じてダメ出ししたというのが本当のところでしょう。
 さて、この寺山版「HAIR」は上演されるのでしょうか。今だからこそしたいですね。やりますよ。


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2018.02.16

新井紀子 『AIは大学に合格できるか』(TED)

 近、AIの専門家と意見交換する機会が多くあります。そこには実は教育の問題が大きく絡んでくるのです。
 それが一番よく分かるのが、この動画でしょう。
 一橋大学法学部在学中に数学に目覚めるというユニークな経歴をお持ちで、東大合格を目指す東ロボくんの開発者である新井紀子さん。
 AIはすでにMARCHレベルの大学に合格できる能力を持っているけれども、東大に入れないというその理由がよくわかります。
 今ちょうど東大入試国語の指導をしていますが、たしかにあれはAIには解けないだろうなと思います。あまりに文脈力、行間読解力を必要とするからです。
 しかしMARCHレベルなら合格できるとなると、ある程度の知的作業は、人工知能によって代行できるということになります。
 もちろん、それは悪いことではなく、その部分、すなわち機械でも可能な部分は機械にまかせておけばよくて、人間はそういう意味ではとっても楽に生活できることになるということでもあります。
 そして、現状では機械の苦手とする分野について、時々能力を発揮すればよい。
 これは、私たち教育者が学校で行なってきた勉強内容を見直しなさいということでもありますね。機械ができることは学ばなくてもよいというわけではありませんが、力の入れどころに関しては、今までの知識詰め込み型学習、特に一問一答クイズ的知識ばかりをはかる試験に向けての学習ではなく、もっと創造的な学習を促す方向に変えなければなりません。
 つまり、より「人間的」な勉強をしなければならないということですね。これはもちろん悪いことではありません。AIのおかげで、私たちは人間性を取り戻すきっかけを得るかもしれないのです。
 異常に保守的な日本の教育界が、はたしてそういう変化を受け入れられるのか。これこそが、日本という国の未来を占う大きな要素になってくるでしょう。
 

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2018.02.15

石橋湛山の元号廃止論

Th_tanzan_ishibashi_2 日、立正大学に通う教え子が学校に遊びにきました。彼は将来的には法華宗の僧侶になる予定です。立正大学は日蓮宗の大学ですから、卒業後別の学校でも勉強する必要があるとのこと。
 短い時間ではありましたが、法華宗と日蓮宗の教義の違いなどについて教えてもらい、大変勉強になりました。
 その立正大学で長く学長を務めたのが、山梨県出身の総理大臣経験者である石橋湛山。
 石橋総理は、たった2ヶ月ほどで病気のため辞任していますが、その裏にはどうもアメリカの策謀があったようですね。なにしろ、あの冷戦真っ只中、ソ連、中国とも仲良くしましょうと唱えたのですから、アメリカにとっては大変面倒な総理だったに違いありません。
 石橋退陣後は、副総理であった岸信介が総理になり、日本の外交政策は完全にアメリカ寄りとなっていきます。
 まあ考えようによっては、当時の自由民主党というのは、保守からリベラルまで、非常に幅広い思想集団だったということがわかりますね。今の自民党とはえらい違いです。
 湛山の父親は身延山久遠寺81世法主、日蓮宗24代管長というバリバリの日蓮信者でしたから、彼の政治信条というのには、仏教の、そして日蓮の思想が色濃く影響しています。
 今でこそ、創価学会や顕正会のおかげで(?)、日蓮というとなんとなく保守的なイメージがありますけれど、日蓮宗と言えども仏教ですから、リベラルな世界観が基礎にあります。
 さて、そんな石橋湛山、ある意味、のちの自民党の総裁らしからず、戦後すぐに靖國神社廃止論を唱えたり、元号廃止論を唱えたりしていました。すごいですよね。まるで共産党(笑)。
 湛山の元号廃止論は、彼が深く関わっていた東洋経済新報の昭和21年1月12日号に掲載されています。時代の流れと社会の状況からして、元号を廃止し全て西暦で統一すべきだという意見です。
 ちょうど今日、新元号を今年の末以降に発表するという報道がありましたね。いろいろと便利なこともあるけれども、たしかにダブルスタンダードで面倒ともいえるし、世界史的に見ればたしかに王権の象徴のような元号が、未来的に必要なのかどうか、最近はそういう議論すらありませんね。
 もちろん私は、言霊的に必要だと思っていますよ。とはいえ、本来の言霊的な機能のためには、明治以降の一世一元の制ではなく、天変地異などでも変更が可能な形に戻さねばなりませんが。

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2018.02.14

「無鉄砲」とは?

 大入試講座で2011年の国語第四問を指導しました。いつも書いているように、本当に東大の問題を解くのは面白い。いい問題です。対策をするだけでも生徒は大きく成長します。
 で、今日取り上げた2011年の第四問ですが、今福龍太の「風聞の身体」から、アイヌの長老のカタリに関する文章でした。
 丸腰でヒグマと戦う武勇伝。私も生で聞いたことがあるカタリです。そう、もう12年も記事になるんですね、秋田の山村で長老たちの武勇伝大会に参加した時のことをこちらに書きましたっけ。
 やっぱり、秋田の山奥にはアイヌ的な文化が残っているんですね。地名なんかも完全にアイヌ系ですし、顔つきもアイヌかロシアという…。
 武勇伝というカタリは、それが嘘だろうと大げさだろうと、そんな真偽に関する野暮な考察はどうでもいいのでして、上の記事にも書きましたとおり、カタリ自身が「祭」の「場」になっているということの方が重要です。あの時は私もまた、その場に居合わせ、場を演出する「マレヒト(客人)」だったというわけですね。神事に参加していたわけだ。
 さて、こちら東大の問題のカタリですが、ここで面白かったのは「無鉄砲」という言葉です。まあ、とにか面白いので、皆さんも読んでみてください。問題は解かなくて結構です(笑)。

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 なるほど、「無鉄砲」という言葉は、面白いですね。字面どおりで解釈するなら、非武装中立(笑)。結果として無茶ということになりますね。自衛軍ぐらいは持たないとと。
 たしかに、丸腰という非武装こそが、最強の武勇伝になりますよね。国際関係、防衛においても実はそうなのかもしれないと思ってしまいました。
 本文にもある漱石の坊っちゃんの「無鉄砲」は、たしかにストレートに非武装丸腰という意味ではありませんよね。どちらかというと「有鉄砲」的なイメージ。ケンカばっかりしてる。けっこう武器持ってますよ(笑)。
 それこそ、近代的な意味においては、鉄砲を持たずに強敵に臨むことは無茶でしょう。しかし、縄文的に言うと、その逆ということもあり得る。
 日本が誇る?平和憲法の意味というのも、近代的、現代的な価値観だけでは計り知れません。なにしろ、昭和天皇のご発案なのですから。
 そのあたりについては、仲小路彰が非常に深い考察を行っています。いつか皆さんの目にも触れることになるでしょう。お楽しみに。
 さあ、「無鉄砲」の未来的な意味はどうなっていくのでしょう。

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2018.02.10

【討論】追悼・西部邁と日本

 本が足りない。なるほどそこが寂しがり屋の原点なのかもしれない。
 西部先生がお亡くなりになって、あっという間に3週間になります。
 自裁された日、私は全然かっこよくないですよ!と書きました。
 その気持ちは、正直今でも変わっていません。
 佐藤健志さんが、弟子であるからこそ直截的に、自殺は自分以外をも全て殺す行為である、と言っていますが、そのとおりだと思います。自分を消すということは、自分の肉体で感じ、記憶し、予感している世界、他者を全て抹殺することなのです。
 しかし、一方で、西部さんがお亡くなりになっても、この世はなくならないどころか、あまり大きな影響を受けていません。これはまさに、思想や批評や言論の虚しさにつながる。
 もちろん、この討論に参加されている西部さんの申し子のような方々には、大きな影響を与えていることでしょう。しかし、それも死ではなく生が影響を与えているわけですね。そこには今度は死、自裁の虚しさを感じざるを得ません。
 国家とは何か。母国とは。祖国とは。
 これもまた虚しい事実ですが、実は日本人にとっての国家観などというものは、たかだかここ150年の、それも西洋から押し付けられて、無理やり作り上げようとした思想にしかすぎませんでした。
 だから、結局、国ではなく「母」に帰っていった。母というか母性でしょうかね。だから、亡くなった奥さんに対する、まるで小さな子供のような甘えが現れてしまった。奥さんやお母さんという「女」に帰っていったのでしょうね。
 日本が足りない…それは結果的には母性に対する渇望だったのかもしれません。西洋は父性の原理、東洋特に日本は母性の原理。
 あえてそういう見方をすると、西部さんを一つの象徴とする、日本人の寂しさが分かるような気もしますね。
 仲小路彰が「21世紀は太陽の世紀」と言った意味は深い。

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