カテゴリー「文学・言語」の903件の記事

2017.04.20

ボリティカル・コレクトネス?

Th_images 野綾子さんが「大人の言葉遣い わからぬ幼稚」というコラムを書いておられました。いわゆるポリティカル・コレクトネスに対する懐疑を主張されていました。
 言葉尻をとらえて、そして場合によっては謝罪させることが普通になる社会が、いかに幼稚なのものであるか、心の奥底を表現できない世界がいかに硬直化したものとなるかを述べておられました。
 曽野さん、2月だったかの南アに関するエッセイなど、それこそ「政治的」にはちょっと不用意だったかなという言説もありましたが、今回の「言葉狩り」に関する考えには全面的に賛成します。いちおう言葉を専門にしている立場としてです。
 「ポリティカル」な世界は、私に言わせてもらえば「コト」世界ですね。法律における言語はそういう性質のものです。あえて言うなら数字、数式に近づけようとしています。ぶれや余白のない絶対言語に近い世界。
 一方、私たちが使う「言葉」は、まさに「コトの端」であり、せいぜいそうした絶対世界の端っこをかじるくらい、そのほとんどは曖昧模糊とした、しかし豊かな「モノ」世界が広がっています。
 それを、差別だとかいう過剰な「忖度」によって制限することに、私も反対です。
 学校現場なんか、本当に最近は堅苦しくなってきています。愛情と信頼に根ざしたコミュニケーションの中には、あえての「悪い言葉」もたくさん存在します。活字にしてしまって、第三者が見れば、とんでもない「いじめ」や「虐待」と取られかねない言葉も日常的に行き交っています。
 もちろん、そこにはお互いの関係性があり、そこに至る文脈があり、言語的な意味論を超えた「創造的忖度」があり、肉体的表情もあります。そんな「コト」にはまらない「モノ」があるからこそ、私たちは教育をすることができます。
 また、それら「モノ」世界を含む可能性を秘めているのが、まさに言葉の力であり魅力であるわけで、それをまるで法律用語のように、堅苦しく縛ってしまうのは、結局人間の「心」をも縛ってしまう結果になると思います。
 英語では「〜マン」という言い方はやめて、「〜パーソン」というようになっていますよね。女性もいるからということでしょう。日本語の「看護師」などと一緒です。
 笑い話ですが、それでは「スーパーマン」も「ウルトラマン」も「アンパンマン」もダメなのかということになってしまいますね。
 スチュワーデスも今はダメですが、スチュワードという言い方もあったわけで、それはそれでいいような気がするんですが。同様に保母と保父でもいいようにも思います。
 なんでも平等、非差別ということになっていくと、結局極端な共産主義国のような「言いたいことが言えない国」「きれいごとだけしか許されない国」になってしまう可能性があります。こわいですよね。
 言葉は生き物です。生き物を人間の都合で縛る、制限するということがどういうことか考えておきたいところです。
 もちろん、逆に全て自由にというわけにもいかないのは言うまでもありません。野放しではなく、自分の「飼い言葉」として、それなりのしつけをしなければなりませんね。お互いに。
 ちなみに、内田樹さんも「政治的に正しいこと」は正しいのか?でポリティカル・コレクトネスに対して鋭い指摘をしています。ぜひご一読を。

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2017.04.18

追悼 渡部昇一さん

Th_41xw782ar2l 語学者にして保守派論客の重鎮、渡部昇一さんがお亡くなりになりました。
 「知的生活の方法」を読んだ高校生の頃から、言語、文化、思想、歴史観、いろいろな面で大きな影響を受けてきました。最近もネット番組等でお元気なお姿を拝見していたので、突然の訃報に驚いています。
 最も最近の動画がこれでした。渋沢栄一を紹介する渡部さん。渡部さんがご自身の人生を振り返るように、渋沢について語っています。
 私も昨年、仲小路彰研究の関係から、渋沢栄一記念財団の会員になりまして、遅ればせながら渋沢の偉業を知り、その人生訓を学ぶことになっております。
 そんな中、尊敬する渡部昇一先生が分かりやすく渋沢栄一を紹介するとあって、続編も楽しみにしておりました。完結編もおそらく収録済みと思われます。渡部さんが最後に渋沢を語ったというのは、本当にいろいろな意味において象徴的であったのかもしれません。
 ご冥福をお祈りします。

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2017.04.07

「忖度」とは…

Th_o0412042413757107253 ちおう日本語を専門にしている者として一言。
 「忖度」…今年の流行語大賞でしょうかね(笑)。皆さんはこの言葉を使ったことがありましたか?
 私は時々使っていました。他の言葉と同様、いつか誰かが使っていたのを真似したんでしょうね。
 その時の私の理解、すなわち使っていた時の理解としては、「推量の同義語」でした。
 日本国語大辞典の用例を見てみましょう。

*東京新繁昌記〔1874〜76〕〈服部誠一〉初・人力車「盖し人の行く所を忖度(〈注〉ハカル)して而して何れの帰りと唱ふ者は」

*文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉二・四「他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず」

*浮雲〔1887〜89〕〈二葉亭四迷〉一・一一「文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが」

*近代絵画〔1954〜58〕〈小林秀雄〉ピカソ「ピカソの真意を忖度(ソンタク)しようとすると」

 最初の例は、まさに「推量」ですよね。別に「人の心の中」という特定はありません。そして、福沢、二葉亭、小林の例では、それぞれ「他人の心を」「文三の感情、思想を」「ピカソの真意を」という目的語がくっついている。
 そう、やはり「忖度」はもともと「推量」でしかなく、日国も含む現在の辞書的な意味「他人の心中やその考えなどを推しはかること」というのは、ちょっと行き過ぎな気がするんですね。せいぜい「(他人の心中やその考えなどを)」とカッコ書きすべきだと思います。
 では、流行語大賞になりそうな、今の世で使われている、つまり森友学園問題において使われている「忖度」はどうでしょうか。
 「自分より偉い人に気を遣って(無言のうちに)便宜を図ること」という、さらに限定的な意味に、あるいは悪い意味になってしまっていないでしょうか。
 もちろん、先ほどの日国の文例がそうであるように、実際の言葉の意味というのは、時代ともに変化し、そして往々にして限定的になっていくものですが、このたびの「忖度」に関しては、かなり行き過ぎのような気がしてなりません。
 まあ、いずれにせよ、「言挙げせぬ」「コト化しない」という「モノ」文化の日本では、相手の心中を読んだり、言葉なしに阿吽の呼吸で事を進めたり、空気を読んだり、以心伝心と言ったり、そういうモノがコトよりも重視されますよね。そんな中、「忖度」くんが新たな意味を持つようになったということでしょう。
 「忖度」くんの心中を「忖度」するに、ちょっと申し訳ないような気がしますが…。
 今回、誰が「忖度」という言葉を言い始めたんでしたっけ?責任は重大ですよ(笑)。
 それにしても、「忖度」という熟語、漢字の読みの問題としても難しいですよね。漢検準一級レベルかな。
 「忖」という字は、日本では「忖度」以外使いませんよね。「度」を「たく」と読むのはどうでしょうか。これもほとんどありません。
 ちなみに室町の辞書には「忖度 シュント 推量義也」とあります。呉音で「じゅんど」と読んでいたのでしょう。そして、意味は単に「推量」とのことです。

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2017.04.06

統合失調=統合しすぎ

Th_koyoshio1129 いぶん前に読んで面白い!これだ!と思ったのですが、今まで忘れていました。そして、なぜか今日急に思い出した。

「霊がいるなら、“大腸菌の霊”が見えないのはおかしい」苫米地英人が語る、スピリチュアルと統合失調(康芳夫対談)

 苫米地英人さんと康芳夫さんの対談。平成と昭和の怪物どうしの対談ですよね。ほかの回も面白かったのですが、この「スピリチュアルと統合失調」の話は特に興味深かった。
 そう、あっこれ、自分じゃん!と思ったのです。昨日の記事もうそうですが、私はいい年して、そして学校の先生でありながら、けっこう「トンデモ」な発言をするじゃないですか。学校でも若い頃からそれが売りみたいなのところがあって、昔の教え子たちに会うと「あっ幽霊の先生だ」とか言われる(笑)。授業中そんな話ばっかりしてたんでしょうね。
 まあ、たしかにそういう話って子どもたち大好きですしね。雑談としてはおいしいネタです。そして、これは客観的に考えればですね、ある種の「権威」になりうるんですよ。
 すなわち、「反知性主義」的な尺度をもって「知性主義」的な学校という場で優位に立つというか。もっと端的に、自己批判的に言えば、学歴や学力のなさを、そうした検証不能な物語でごまかすというか。
 ワタクシ流に言えば、「コト」ではなく「モノ」で勝負するってことなんですがね。理屈では存在しないはずの共通実感の方を重視する。
 そういうことをしているうちに、そして、それを多数の他者に受け入れてもらっているうちに、なんとなくその「モノ」の方が実体で、「コト」がフィクションのようにさえ感じるようになる。自分はそういうプロセスを経て、今のようなトンデモ人間に成長したとも言えます。
 昨日の記事における、森友学園と稀勢の里を結びつけるのなんか、まさに「統合しすぎ」のいい例でしょうね。自分でもアヤシイと思いますが、しかし、どこかそういう世界観もあるんだという、変な自信もあったりする。
 でも不思議ですよね。苫米地さんの言うとおり、それは「頭がおかしい」のだと結論づけることもできるのに、なぜか、あんまり人からはそういうふうには言われないで、逆に面白がられたりますんですよね。
 ということは、やっぱり人間の脳にはそういう非科学的なモノを受け入れるプログラムがあるのだと思います。そのように進化してきたということは、やはりそこに意味がある、宇宙生命として必要だと判断されてきたのでしょう。
 最近は「スピリチュアル」という言葉がよく使われますが、古い古い日本語ではそれを「モノ」と言ったのです。ですから、万葉集あたりで「モノ」という和語には「霊」とか「鬼」という漢字が当てられているんですよね。
 さて、自分のこれからの人生、コトとモノのバランスがどのようになっていくのか、自分でも楽しみです。
 コトを窮めてモノに至る…という私の哲学すると、コトとモノも統合されていくはずです。

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2017.03.16

演劇実験室◎万有引力 『身毒丸』 (作=寺山修司、演出・音楽=J・A・シーザー)

Th_cfddcf_50fa38ac36de415bbc2d741a6 異的な体験でした。寺山修司の「身毒丸」。万有引力の舞台を堪能してきました。
 堪能では軽すぎる。作品とともに生きて死んだという感覚。本当に脳ミソがひっくり返り、人生が裏返しになりました。
 今回の舞台でも歌い手として非常に重要な役を務められた竹林加寿子さんとの不思議なご縁から、トントン拍子にことが進み、今日の観劇と相成りました。家族4人+寺山とは因縁深い(?)姉と5人での衝撃体験。
 う〜ん、言葉にならないというのは、まさにこのことですね。つまり、「コト」ではなく「モノ」世界なのです。まさに見世物、物語、物怪。
 姉の影響もあって、高校時代あたりから今に至るまで、なんだかんだ私の人生に大きな影響を与え続けてきた寺山修司。私が今、歌詠みの端くれとしてなんとかやっていけているのも、まさに寺山のおかげですし、私の短歌の師匠である笹公人さんも寺山に心酔し続けてきた方。全く不思議なご縁です。
 と言いつつ、恥ずかしながら、実は寺山作品を舞台で観るのは初めてでした。これははまりますね。中二と高二の娘二人もすっかりはまってしまいましたし、家内はやはり北東北出身ということで、私たちよりもより深い根源的なところで共感してしまったようです。姉は寺山熱がウン十年ぶりに再燃したようですし。
 それほどすごいパワー、エネルギーだったのです。寺山は言葉を操る天才ですが、結果として、その言葉たちは吹っ飛んでしまう。「コトを極めてモノに至る」そのものですよ。
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 コトが吹っ飛ぶから、自分も単なるモノになってしまう。異形という判断、あるいは定義も単なる常識的な「コト」ですから、しまいには、舞台上の「モノ」が正常で、こちら側(観客たち)が異常であるという感覚にもなってしまう。最後客電が点いた時、本当にそう思いましたよ。
 私たちが大人になって身につけてしまった「コト」というある種の安定規格を揺さぶる、前近代的(プリミティヴ)な、そして幼児体験的な「モノ」。
 もちろん、それを現出させるJ・A・シーザーさんの演出、さらには彼の「モノの音」たる音楽。いやあ、本当にすごい人だ。寺山も納得でしょう。
 …と思っていたら、なななんと、終演後の打ち上げ(反省会?)で、竹林さんからシーザーさんを紹介していただき、お話させていただき、握手までしていただきました!なんという幸運でしょう(涙)。
 当然、昨年某所で発見した寺山版「HAIR」のシナリオをお見せしました。ぜひ「初演(!)」しましょうと。もしこれが実現したら、大変なことになりますよ。1969年当時ボツになった、あの過激なシナリオが21世紀に舞台化される。
 私自身も何かに突き動かされているような気がします。それを確認するのに充分すぎるほどの衝撃的爆発的なエネルギーを感じる舞台でした。
 シーザーさん、万有引力の皆さん、そして寺山修司さん、本当にありがとう。人生は面白い。

追伸 こちらもぜひお読みください…J・A・シーザー&ヒロイン蜂谷眞未インタビュー

万有引力公式

竹林加寿子さん公式

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2017.03.12

脚立 vs コタツ(プロレス)

 WBCが盛り上がりすぎまして、楽しみにしていた「プロレス総選挙」が月曜日になってしまいました。
 とは言え、ウチはテレ朝が映らないので、WBCもラジオで観戦(聴戦)。プロレス総選挙も結果だけネットで確認という形になりました(苦笑)。
 結果は、まあ上位は予想通りと言えば予想通り、1位がアントニオ猪木、2位がジャイアント馬場、3位が初代タイガーマスク。それ以下は正直予想が外れました。ま、テレ朝だから新日本系に偏るのはしかたない。いや、そういう意味ではけっこうバランス良かったかな。飯伏幸太が入ってないのは解せないけど。
 さて、そんなガチなランキングが出た今日(明日か)、私はあえてこの最強レスラー、いやベストバウトを紹介します。プロレスという世界の奥深さ、幅広さ、ある意味でのアホくささ、そして哲学的な次元の高さ。
 こういうプロレスが発達するところが、いかにも日本的ですよね。まあ、とにかく観てください。感動間違いなし(笑)。

Th_2017022000010000battlen0001view そう、DDTでは先月、「こたつ」が人間相手に勝利し、アイアンマンヘビーメタル級チャンピオンになりました。3月20日のさいたまスーパーアリーナ大会でも、王者としてリングに(4本足で)立つことになっています。
 こういうのを真剣にやり、楽しめるのが、本当の「文化」だと思いますよ。私は大好きです。レッスルはレッスルですから。
 ちなみに日本語学的に言いますと、キャタツとコタツはちょっと語源的にかぶっているんですよね。それについては、またいつか書きましょう。3月20日以降かな。

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2017.03.01

『日本を揺るがせた怪物たち』 田原総一朗 (KADOKAWA)

Th_51hjabrz5tl やぁ面白かった!昭和の怪物たちのエネルギーにやられました。
 で、結局、田原総一朗もまた怪物の一人であったということを確認。現役バリバリの怪物ですね。
 取り上げられている怪物たち。まずは政界…田中角栄、中曽根康弘、竹下登、小泉純一郎、岸信介。続いて財界…松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、稲盛和夫。最後が文化人…大島渚、野坂昭如、石原慎太郎。
 こうした怪物たちと対等に、いや場合によってはその怪物を裏で操る存在として田原さんの体験談集ですから、それは面白いはずです。
 これだけ大物揃いとなると、私自身もある程度の知識や先入観がありますが、それを一つ一つ、生々しく否定されたような、いや否定ではないな、さらに強化されたというような感じです。
 う〜ん、誰が一番印象に残ったかなあ…難しいなあ。みんなすごい。
 今の世の中では許されないような、いわば清濁併せ呑む迫力がありますよね。今の政治家も財界人も文化人も、スケールが小さくなってしまったなあと。
 まあ、昨日今日のニュースも見ても、実につまらないネタで盛り上がっているマスコミや世間が悪いんでしょうね。残念な時代になってしまいました。
 さてさて、上に挙げた怪物たちですが、そのほとんど全てが、私の研究している仲小路彰に関係しています。実際、彼らかの書簡もたくさんあるし(先日も石原慎太郎からの書簡を見つけました)、ある種の名簿類には上掲の人物の名がほとんど記載されています。
 田原さんもまあすごいけれど、実際裏で彼らを操っていた仲小路彰のすごさを改めて痛感する次第であります。
 中には仲小路に徹底的に嫌われた人もいます。それはそれでまたすごいのかもしれませんね。
 また、彼ら怪物たちは、自身が怪物であるからこそでしょうが、ある種の信仰心を持っているように感じます。そのあたりについては、また後日書きますね。仲小路彰と各宗教団体の関係についても、いずれ知られることとなるでしょう。
 宗教と言えば、田原総一朗さんと、かの幸福の科学の大川隆法との「対話」が面白いですよ。続きを観たい方は、数珠つなぎでどうぞ。

Amazon 日本を揺るがせた怪物たち

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2017.02.28

未在

Th_91usrqntzol 日は高校の卒業式。私も司会として、思い入れ深い3年生を送り出しました。
 毎年、本校の名誉校長であられる山川宗玄老大師さまの有り難い戒辞に感動するのですが、今年は「未在」という言葉が強く心に残りました(昨年はこちら)。
 「未在」というと、私も昨年観たプロフェッショナル仕事の流儀の石原仁司さんを思い出します。京都の日本料理屋さん「未在」。石原さん独自の茶懐石は、世界的にも高く評価されています。一生に一度は行きたい店。
 あの番組でも紹介されていましたが、「未在」とは禅の修行には終わりがないという意味です。
 今日、老師は「まだまだ」という言葉で表現されていました。なるほど、「まだまだ」ですね。
 「未在…いまだ(ここに)あらず」。もういいだろうとか、やっと目標達成したとか、そう思った瞬間に人生の修行は終わってしまうということです。
 「未在」という禅語、もともとは宋の白雲守端が出した公案「白雲未在」だそうです。ですから、白雲は自分自身をまだまだと言ったわけですね。弟子からすれば、充分に悟った存在であった師にそう言われて、自分自身の修行を省みたということでしょう。
 私が言うなら、「山口未在」…そんなの当たり前じゃないか!。全然、禅語ではありませんし、公案でもありませんね(笑)。

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2017.02.21

仲小路彰 『夢殿の幻〜聖徳太子の救世悲願』より「甲斐の黒駒」

Th_20101004100221 和の天才、いや人類史上最大の天才の一人と言ってもよい、歴史哲学者の仲小路彰。今、その思考と活動の全貌が明らかになろうとしています。いや、知れば知るほどその深さ、広さに全貌が見えなくなってしまうというのが正しいかもしれません。
 群盲象を撫ず。もうどうしようもないほどのスケールですので、群盲の数を無限に増やして、なんとか全体像を輪郭だけでも把握しなければなりません。
 とにかく感じるのは、一部の少数の人が、自分の立場だけで彼を解釈すると、大きな間違いを起こすということです。あまりにその言説が多様なので、ある意味都合の良いところだけを取り上げて、一つのストーリーを作ることができる。これは仲小路彰研究の陥穽であると思います。
 さて、膨大な仲小路の著作物の中でも、ひときわ強力な光芒を放っているのが「聖人伝シリーズ」です。
 釈迦、孔子、ソクラテス、イエス・キリスト、マホメット、聖徳太子という六聖人の未来的本質を示した戯曲調の文章群です。
 中でも白眉は、そうした世界の聖人の思想を融合した聖徳太子について書かれた「夢殿の幻」。これについては、以前こちらで少し紹介しましたが、このたび改めて読んでみました。
 その中で、富士山麓に住む者として、特別な感慨を覚えた部分があります。今日はそれを活字化して紹介いたします。
 山中湖畔に住み、富士山を未来の地球平和の象徴として観じていた仲小路彰ならではの内容です。地元に濃厚に残る徐福伝説などにも触れながらの、実に味わい深い文章となっております。弥勒の世という言葉も出てきますね。また、須弥山(シュメール)と富士山を重ね合わせているところも、仲小路彰らしいと言えましょう。
 では、どうぞお読みください。

 第四章 甲斐の黒駒

 朝に夕におよそ十年の間、休むことなく太子の愛馬、甲斐の黒駒は、おだやかに広がる飛鳥野をわが主太子をお乗せして、いともまめやかに蹄の音も高く、元気にかけめぐった。
 ある時は春のやわらかな微風のように、花々の間を黒々と毛並を光らせながら走りゆき、ある時は、すさまじい雷光の下をとどろきわたるいかずちにも負けず、その速さを競った。
 冴えわたる秋の月光をあびながら、もの思いにしずまれる太子を、いささかも揺がさぬようにしずかに足を運び、また吉野おろしに道も白く、いてつく上を決してすべらぬ、たしかな足どりでま冬の朝をかけすぎた。
 道のほとりの人々は、いつも太子を拝すると同じく、その黒駒を何よりも親しく送り迎えして、折々のさまざまな好物を馬にささげることもつねであった。
 太子のいますところ馬はあり、馬のいななきが高らかにひびけば、尊い太子のお姿が、人々の眼に何よりも喜ばしげに映じ出された。
 かくもけなげに忠実にお仕えする黒駒を太子はこよなく愛されて、もし季節の変り目に何か馬に異常があり、食のすすまぬ時があれば、太子はそれこそわが身の病い以上に案じられ、その回癒を切に祈られた。
 夜にあっても、時には厩戸を見廻わられ、いかにも御名にふさわしい馬への深い因縁の愛情を示された。
 かくて愛馬は太子のあつい信仰のままに、さながら霊の翼ある天馬と化して、空をしのぎ、雲を分けて天翔りゆくかと思われるほどに成長した。
 いかなる時にも黒駒は、太子をしたって高らかにいななき、そのひづめをひびかせて、太子をお待ちしていた。
 夢殿の夜は、まことに静かで、かなりへだたった厩戸の音が、かすかにひびいて来ることもしばしばである。
 ふと太子は、さえさえとした月光の中に、黒駒のつややかなたて髪と、そのつぶらな眼があさやかに光っているのを見られる。
 太子は軽やかに馬上の人となられー「さあ、行け」と凛然としたお声をかけられる。馬は、いかにもうれしげにその首を動かし、耳を立てて一散に走りゆく。たれもお供する者もない。大和三山は黒々とまなかいにあって、みるみる小さく去ってゆく。
 もはや地上を走るのではなく、さながら天上を風のように天翔ける如くである。山を越え、森をすぎて、河は白々と流れる大和の山河を一瞬にかけ去って、今やはたしもない海の上を雲とともに飛んでゆく。
 長い海浜に打ちよせる波は、白い糸となって連なり、星々は天上の音楽を奏でるかとま近にきらめく。
 はるか彼方には、かぐろくも山脈がさまざまな陰影をもってそびえ立ち、その大いなる自然は、いかにもわが国のたぐいない美の世界を展開している。
 まことに、これこそ地上の楽園であり、そのままが寂光の浄土であると、太子は讃美せられる。ー黒駒よ、汝の故郷はどこか、甲斐の国は、ーいかにも黒駒はそれを知るように、ひたすらに東北への道をひたかけりゆく。
 まさにその時、とうていこの世ならぬ荘厳な須弥山さながらの姿をもって、わがあこがれの富士の霊峰が、あのように鮮やかに鎮もっているのを、太子は展望される。
 しかも東の空は、ようやくほのかに曙の光を予兆するかと白みはじめる。ただ蒼茫たる未生の海原も、たちまち多彩な光のまんだらを現じはじめる。その光は、まさしく霊峰の上にかがやき、永遠の雪は神秘な赤に燃えはじめる。
 天も地も富士によって一つに結ばれ、一切は、その神の峰によって、目さめゆく。まことに天地の別れし時を再びここに相結ぶ、この一刻である。
 その麓には、ほの白く富士川はめぐり、それをさかのぼる所、わが黒駒の故郷の損するのか、今こそ一きわ高く愛馬はいななく。わが故郷はここにありと、心をこめて叫ぶごとく ‥ ‥
 これぞ神のいます聖なる峰か、美しく木花咲耶姫の舞い舞う万古の雪をいただく、白き峰か ‥ ‥
 ようやく山をめぐる霧は限りなく開け、その間に点々と光る首飾りの宝玉の如き湖のつらなり、あれこそが常世の神と称せられる神の姿か、緑なす森の中に生れし神の蚕と云われるものか、これを祭れば老いたるものも若さにかえり、いかに貧しきものも、幸ある恵みをうけるとされる信仰であるか ‥ ‥
 けれど常世とはどこであろうか。それはもと黄泉国とされたものではなかったか。そは死の国であり、死とは何であるか。ここに死を越えるものへのあこがれとして、不老不死への悲願がある。
 さればこそ、かつて、かの大陸の秦始皇は不老不死の妙薬を求めて、徐福らを東海の神仙の島に送ったとのことが司馬遷の「史記」に見られる。
 ついに彼らは帰らなかったが、あるいは、このあたり絹と光る湖のほとりに安住したのであろうか。
 この神の山の麓にこそ、わが夢に見た浄土の地か、常世とは、不死の国、そは弥陀が極楽浄土とされた仏国土か、さらにこの富士のあたりこそ次に来る末世の後の弥勒の世の現ずる地なるか、やがて果てしなき戦乱の世に、ここにこそ果してとこしへの平和の訪れるあたりか、まさしく富士への信仰は弥勒の信仰とともにあるのか。
 弥陀が念じられた須弥山とは、まさしくここ富士の峰か、我もまた徐福の如く、この山麓に、わが愛する黒駒を心ゆくままに走らせて寂光土をここに現ぜんかなーと太子は、明けゆく秀麗な大自然の中を御夢とともに限りなくかけめぐられたのである。

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2017.02.14

論客面談 『橋下徹 vs 森達也・ケビン・クローン・古谷経衡』

 校生の「国語表現」の授業で使った教材。昨日の「橋下×羽鳥」内「論客面談」。
 ディベートの勉強をしているわけですが、その教材としてはなかなかいいですよ。橋下さんの討論技術は高い。もちろんそれは「ずるい」とも言えるわけですが、高校生くらいならこういう戦闘能力に興味を持ってもらいたいと思っています。
 橋下さんは誰が相手でも、「政治」という「現実」を振りかざして、「理想」すなわち「正論」を掲げる皆さんをいなしていく。つまり、相手の正論を正論だと認めつつ、その「理想」が持つ矛盾、すなわち「現実的(現在的)無理」を理由として反撃していく。
 結果噛み合うわけはないけれども、現実の観客(視聴者)には、橋下有利で終わったかのような印象を与えることに成功しています。
 これはある意味プロレス的な勝ち方であるとも言えましょう。本当にどちらが強いかというケンカとは違う。自分の立場を充分に理解した戦い方です。
 まあ、こんな番組のこんなコーナーを喜んで(?)引き受ける理由があるということですよ。お見事ですね。
 個人的には橋下さんの政策や各種発言には異論もありますが、こういうプロレス的な力は素直に敬意を表したいと思います。
 プロレスと言えば、森達也さんはプロレスの取材もいくつかしていますね。その内容にもプロレスファンとして賛否両論有るんですが、やはり森さんも自分の立ち位置の置き方は上手だと思いますよ。世間の常識を敵に回すというか、あえて裏側から弱者を支援するというか、その手法には徹底が見られます。私は嫌いではありません。
 そういうことも含めて、生徒たちが何かを学んでくれればと思います。
 ケビンや古谷さんはまだ若いので、森さんのような独特の立ち位置があまり感じられませんね。本人たちなりには頑張ってそれを確立しようとしていますが、まだ大衆の思考の域を超えていません。
 

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