カテゴリー「文学・言語」の920件の記事

2017.11.08

「ら(ra)抜き」か「ar抜き」か

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 イッターを眺めていたら、「ら抜き言葉」は実は「ar抜き言葉」だという説が流れてきました。まるで大発見のように騒ぎになっている。
 二松学舎大学の島田泰子教授の発表の画像(上)が騒ぎの発端のようですね。
 実はそういう説は最近出てきたわけではありません。私は、もう20年くらい前に東京外国語大学の井上史雄先生の本で読んだ覚えがあります。
 つまりこういうことですね。

書かれる(kakareru)→書ける(kakeru)

 というような可能表現の変化と同様に

見られる(mirareru)→見れる(mireru)

 というような過程を通じて、いわゆる「ら抜き言葉」ができたと(つまり言葉の乱れとかではない)。
 これはいかにも外国語大学の言語学の先生たちらしい発想です。音素で見ている。
 (旧)国語学者にとっての最小単位は「文字」なので、「ら抜き」という発想になった。私もどちらかというとこちら側の人間です。
 つまりワタクシとしてはですね、「ar抜き」というのは、なんだかしっくり来ないわけです。生活感として(笑)。音素とかローマ字表記とか絶対考えてないし感じてない。語頭ならまだしも語中の、それも二つの仮名をまたいでの音素の連続はなあ…。
 たしかに結果としてそうなっていますが、仕組みというかプロセスとしては、もうちょっと原始的というか、庶民的なのではないかと思うわけです(笑)。
 ずいぶん前になりますが、私はこちらに可能動詞の発生について書いています。「書き+得る=書ける」説ですね。
 ら抜き言葉はそれに引かれて、「見れる」とか「食べれる」とかになったと。つまり、「書く→書ける」のように、終止形の語尾の最後の音をエ段にして「る」につなげた(見る→見れる、食べる→食べれる)という説であります。
 こっちの方がずっと身近な感じがしませんか?
 実際のところ、これに限らず日本語の文法や音韻については、言語学と日本語学(旧国語学)で全然違うことやっていて、相変わらず相手を認めないようなところがあるんですよね。ま、もしかするとどっちも正しい、あるいはどっちも間違っているのかもしれませんが。
 それにしても「ra」と「ar」じゃ、裏返しというか逆さまですよね(笑)。なんとも面白い。
 

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2017.10.12

人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!【わたなべ】ナベツナ伝説で全国へ (NHK)

Th__20171013_92148 覧になってくださった皆様、ありがとうございました。
 実に面白かったですね。私も知らないことがたくさんありまして、大変勉強になりました。
 17日(火)0時10分、つまり16日(月)深夜24時10分から再放送がありますので、今回見逃した方はぜひ御覧ください。
 ワタナベ氏は水軍(海賊?)でしたので、その移動力は凄まじいものがありました。そのあたりのワタナベパワーが上手に紹介されていましたね。
 私の職場がある富士吉田市は、たしかにワタナベさんが異様にたくさんいます。そのへんに昔から興味があって、いろいろこのブログにも書いていたからでしょうか、5月にNHKのディレクターさんから連絡がきまして、それで学校を巻き込んでの収録ということになりました。
 ちょうど、その時、TBSさんからもオファーがあって、例のギャラクシー賞をいただいた水曜日のダウンタウン「先生モノマネ」の話が進んでいた最中でしたので、ほとんど並行してテレビの全国放送の現場に立ち会うという幸運に恵まれました。
 で、水曜日のダウンタウンの時もいろいろな学校さんから電話やメールが来て、どうすると番組に出られるんですかという質問をいただきました。おそらくこちらから何か働きかけたと思ったのでしょう。
 いや、本当のところ、全くこちらからのアクションはありませんでした。偶然、向こうからの話が重なっただけです。
 今までテレビやラジオ出演の話がいくつかありましたが、考えてみると、そのいずれもこのブログの情報がきっかけになっています。
 今やSNSの時代で、ブログなんかほとんど誰もやっていない古臭いメディアになってしまった感もあります。しかし、完全にオープンでGoogle検索に引っかかる(すなわちずっとアクティヴな状態で保存されている)という意味で、ブログは今も発信力、影響力のあるメディアなのです。
 バカみたいに毎日書き続けてきてよかったなと、今日も思いました。
 実は今日は別のメディアでの発信もあったんです。それについては時機が来たら紹介しますね。
 面白いのは、今年、こういうオファーがとても多いということです。今までとは明らかに違う。そのおかげさまで、またいろいろな方々とご縁をいただき、それがまた新たなご縁につながるという、爆発的なエネルギーが生み出されています。
 反面、あんまり目立つことするな、本職をちゃんとしろとのお声も。全くそのとおりであります(苦笑)。

日本人のおなまえっ 公式

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2017.10.02

アウフヘーベン

Th_2017100200000078mai0002view たちの世代にとっては懐かしい言葉でもあります。アウフヘーベン。
 止揚とか揚棄とか漢語に直しても意味が取りにくい。でも、なんとなく、相反するものを高次元で統一するというイメージがあるのではないでしょうか。
 小池百合子さんが、この「アウフヘーベン」を連発したのが、なんとも象徴的ではありました。前原さんまで、「これらは合流、解党ではない、アウフヘーベンだ」と言い出した(笑)。
 流行語大賞の候補になりそうですね。
 ただ、実際の哲学用語としてのアウフヘーベンは、「止揚」「揚棄」という漢字にも示されているように、止めたり、棄てたりという、ある種マイナスイメージの行為を内包しています。
 誰かが書いていましたが、「花は枯れて散るけれども、花の本質は実(種)に残る」というようなイメージですね。
 これは実は私や仲小路彰の解釈する、日本神話の「国譲り」の作法に似ています。負けて勝つと言ってもよい。
 はたして、そういう意味で、小池さんや前原さんがこの言葉を使っているのか。それは分かりませんが、ただ一つ言えるのは、小池さんがやっぱり仲小路彰の影響を、父親を通じてという意味で間接的であれ、しっかりと受けているということです。
 仲小路彰はヘーゲルの研究をしていましたから、当然アウフヘーベンをよく理解しています。いや、そのアウフヘーベンという言葉を、日本の神話哲学との間で、それこそアウフヘーベンして、21世紀の未来像を描いていました。
 そうそう、小池さんが何かの会見かインタビューかで、未来学者のハーマン・カーンの名前を出していましたね。それもまた仲小路彰の未来学の影響を感じさせました。
 ちなみに、皆さんとっくにお忘れだと思いますが、安倍首相は4年前にハーマン・カーン賞を受賞しているんですよね。
 というわけで、これは安倍vs小池とか、小池vs立憲民主党とか、保守vs革新とかいう矮小化された対立構造と、そのアウフヘーベンではなく、もっともっと深い意味でのアウフヘーベンを目指さなければならない選挙であることを、私は再度言いたいと思います。
 では、なにをどうアウフヘーベンするのか。こちらの記事が参考になるかもしれません。
 

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2017.09.18

第19回 かりんの会 朗読会

20170918_120243_2 楽三昧の3連休最終日。昨日、一昨日の経験と思索が活きた演奏ができたかな。
 今日は河口湖円形ホールにて、朗読の伴奏をさせていただきました。
 こういう活動は、なんだかんだで30年近くやっており、いつのまにか自分の音楽活動の軸の一つになっています。
 あらためて私の音楽活動の軸というのを申し上げますと、

1 古楽器アンサンブルによるバロック音楽演奏
2 歌謡曲バンドによる昭和歌謡演奏
3 即興演奏による朗読伴奏

 であります。演奏頻度はやはり1,2,3という順番になりますかね。ですから、今日のような活動はあまり多くはない。年に2回くらいです。
 今日は、地元の村の方々を中心に結成されている「かりんの会」の19回目の朗読会。こちらも大変長く活動されている団体です。
 一昨日は15回、昨日は200回、今日は19回…なるほど、皆さん立派に継続的に活動されていますね。私はいつも乗っかるだけ。
 さて、この3番の活動の楽しみは、やはり「即興」ということでしょう。いちおう1回だけ打ち合わせはしましたが、リハもほとんどなし。その場の雰囲気で音楽や効果音を入れていきます。
 今日は四つの楽器を演奏しました。すなわち、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、八雲琴です。
 音楽と言っても、朗読を妨げることのないように、多くはオープニングとエンディング、そして場面転換の時しか入れません。
 効果音は、たとえば今日は、ワインが爆発する音、大蛇が追いかけてくる音など。その他、ヴァイオリン属の楽器では、車の音や飛行機の音、サイレン、人が話す声、猫や犬や牛や馬の鳴き声など、幽霊の出そうな音など、けっこういろいろな音を出すことができるんです。
 今日は合計で9作の作品の朗読のお手伝いをしました。内容はいちおう読んで把握していましたが、細かいところは忘れているので、ライヴで聞きながらその世界に没入し、ここだ!というところで楽器を奏でるという形です。
 人によっては、そんな危なっかしいことをして失敗したらどうするの?というお思いになることでしょう。
 しかし、面白いもので、集中していると、それこそ「ものまね(モノを招く)」状態になり、自分でも気持ちよく朗読の手助けができるのです。
 おかげさまで、話者の皆さんにも、聴衆の皆さんにも、大変喜んでいただきました。というか、とりたてて「伴奏が良かった!」と言われないところが自分としては大成功(?)。
 映画にせよ、演劇にせよ、テレビドラマにせよ、「音楽が良かった」というのは、二次的な感想であるべきですよね。
 もちろん即興ですし、絶対音感もないワタクシとしては、今となってはどんな曲を演奏したのか覚えていませんし、復元することは100%無理です。
 そういう流れて消えてゆく一回性の音楽というのも、それはそれで楽譜と繰り返し練習の音楽とは違って、実にいいものではないですか。
 私はけっこう好きです。
 そして、そして、超一流の演奏家はですね、楽譜と繰り返し練習をしても、「今、生まれて消えてゆく」音楽を表現できるのですよ。それができるかできないかで、超一流とそれ以外との区別ができるのでした。ダンスもしかり。朗読もしかり。時間芸術はそういうものなんですね。


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2017.09.01

宇宙人同志との再会・対話

Th_img_1439 縁あって高城剛さんとお会いし、じっくりお話をさせていただきました。
 3時間すぎても話題が尽きずタイムアップ。科学、宗教、教育、文学、音楽、医学、食、健康、歴史、霊界、言語…あらゆる分野にわたる壮大なる、しかし、何モノか一つに収斂する対話でした。
 その内容は、おそらく普通の人が聞いても全く理解できないのではないでしょうか(笑)。
 根本的にはですね、私たちは「同窓生」だったという話。53年ぶりの再会だったという話。
 お互い53歳なのにですよ。
 つまりですね、私たちはこの地球に生まれる前に一緒にいたということです。そして、1日だけ私が早く地球に来て、翌日高城さんが来たということ。
 もう、余計に分かりませんよね(笑)。
 ま、簡単にいえば、私たちは宇宙人だということです。そして、同じミッションを持ってこの地球にやってきた。すなわち「宇宙人同志」
 今まではそれぞれ別々の人生を歩んできましたが、いよいよ再会してこれからは一緒に何かをやっていくということです。
 おいおい、先生!大丈夫?
 そんな声が聞こえてきそうですが、しかたありません。本当のことなので。
 ま、濃密な会話の内容はここではとても開陳できませんが、そのうちに時機がくれば社会現象として現れてくるでしょう。
 一つ言うなら、私たちの「意志」は過去は全く相手にせず、未来だけを見ているということです。時間は当然のことながら、未来から過去へ向かって流れている。
 それからどうも同窓生は全部で20人くらいいたらしいので、ほかの人達ともこれからどんどん再会していくだろうということ。これは面白いことになりましたね。
 それにしても、本当に想像していた以上に波動が合いました。そして、高城さん、素晴らしい。賢い。解き放たれている。謙虚。かっこいい。
 某ホテルのラウンジで異常に盛り上がる宇宙人二人を、金曜日の夜の赤坂に繰り出していた地球人たちは、実に不思議そうな顔をして見ておりました(笑)。
 これから、大きな進展があると思いますので、そのたびに経過報告できる部分はしていきます。お楽しみに。

高城未来研究所

Amazon 高城剛

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2017.08.30

追悼 中村雄二郎さん

Th_as20170830004252_comml 学者の中村雄二郎さんがお亡くなりになりました。
 「述語集」には、大学時代からお世話になりました。難しい本を読む(読んでいるフリをする?)快感を教えてくれた人です。
 「臨床の知とは何か」は入試問題にもよく取り上げられていましたので、教員になってから読みました。やっぱり難しかったけれども、ちょうど「モノ・コト論」をやり始めていた頃だったので、暗黙知と形式知をモノとコトにあてはめて考えるきっかけを与えてもらいました。
 そう、私はモノとコトでは、モノの方を重視するのですが、そのモノを暗黙知と言い換えると、「述語集」おおける、中村さんの次の言葉は重要な示唆を与えてくれます。
 

〈暗黙知〉とはどういう内容をもっているか、彼(マイケル・ポラニー)の挙げている例によれば、われわれが或る人の顔を知っているとする。ということは、他の無数の人の顔と区別してそれを認知できるということである。ところが、それでいて、われわれはふつう、その顔を他から区別してどのように認知するかを、語ることができない。写真による犯人のモンタージュのような方法はあっても、その場合でも犯人の人相を同定するには、語りうる以上のことをそれに先立ってわれわれが知っていなければ不可能なのである。同じような知の在り方は、ひとの顔からその人の気分を認知するとき、また、病気の症候、岩石の標本、動植物などの識別についても言える。
 この知の在り方は、ゲシュタルト心理学の考えと一脈通じるところがあるけれど、ここではとくに経験の能動的形成あるいは統合に重点が置かれる。科学上の発見、芸術上の創造、名医の診断技術などの技芸的な能力は、みな、この暗黙知に拠っている。

 中村さんは西洋哲学の専門家でありながら、やはりどこか日本的な感性を持っていらっしゃった。ご本人の意識は別として、上掲の暗黙知論などは、私のモノ論と非常に近いところがあり、そこを重視している点において、あるいは、暗黙知を形式知に変換することを奨励していない(たぶん)点において、やはり日本的だと感じます。
 お亡くなりになってしまったのは残念ですが、これを機に再び「難解な本」に挑戦してみようかと思います。
 感謝の意もこめつつ、ご冥福をお祈りします。

Amazon 臨床の知とは何か

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2017.08.25

「シンギュラリティ」はあり得るのか

Th_51gbi8kiigl_sx348_bo1204203200_ 昨日の話の続きでしょうか。私の得意なモノ・コト論と高次元論に結びつけて、「シンギュラリティ」について少し考えてみましょう。
 最近よく聞く言葉「シンギュラリティ」。AIが人間の知能を超えることによって起きる事象のことです。2045年がその特異点だとも言われ、近未来に対する期待と不安からか、多くの書籍が店頭に並んでいますね。
 AIが人類を救うという論もあれば、AIが人類を滅亡させるという論もあり、まさに両極端。いつの時代にも近未来予想はそういう傾向を持ちます。
 しかし、少し冷静に考えれば、今までの歴史がそうであったように、どんな新しい技術革新にもその功罪があって、私たちは、それをうまいことバランスを取りながら、なんとか自分たちの制御範囲内におさめてきたことに気づきます。
 おそらくはAIも同じような状況になるだろうと、私は楽観視しています。
 ただ、今までの技術というものは、身体の拡張としてのそれがほとんどであり、たとえばコンピュータでさえも、せいぜい我々の脳みその記憶倉庫や単純な四則計算分野の拡張程度のものでした。
 つまり、物質次元と情報次元レベルでの拡張にすぎなかったということです。
 では、AIはどうでしょう。
 私はAIもその次元を超えるものではないと考えています。すなわち、物質、情報よりも上位次元にある意識の領域までは、AIは入り込めないと判断しているのです。
 意識とは、意志、感情、祈り、直感というようなものです。なんとなくわかりますよね。それらをあえて言葉(情報)として表すこともできますが、実際私たちの脳の中では、言語を介さずに表出、処理されています。
 私はそれを「モノ」と呼び、いわゆる物質や情報は「コト」と呼んでいるんです。
 西洋近代化以降の日本語の辞書では、「物質=もの」、「情報=こと」と書かれているため、私の解釈と矛盾し、混乱をきたすことが多いのですが、あくまで私は古来の日本語の「もの」と「こと」を研究した結果として、自らのモノ・コト論を構築していますので、そこのところどうかご理解いただきたい。
 つまり、「もののあはれ」とか「物悲しい」とか「〜なんだもの」とか「もののけ」と言った時の「もの」は、物質化、情報化されない、ある意味不随意的な存在(「なんとなく」「なんだかわからないが」的な認識)だということです。
 逆に、言語化(コトの葉化)できる事象、物質が「こと」であると。
Th_511ektzyihl_sx309_bo1204203200_ で、話をAIに戻しますが、いくらAIがビッグデータを収集して、経験的確率的に最良の判断を下したとしても、それはあくまでも「データ」であって、まさに「コト」そのものでしかありません。
 過去そのものとも言えますね。日本語では過去の事象を「こと」と言います。ですから、古事記は「ふることふみ」なのです。
 逆に未来は「もの」ということになります。面白いことに過去の助動詞は「き」、未来の助動詞は「む」であり、「こと」と「もの」同様、kとmの音から成っています。これも偶然ではありません。
 AIは「コト」しか扱わないので、絶対に「モノ」の領域には踏み込めません。未来予測をしているように見えても、それはあくまで、「こうだったからこうする」でしかなく、「こうなりたい」とか「こうあるべき」というような意志ではありません。
 そう考えてみると、生物の進化というのは面白いですね。ダーウィンの進化論を思いっきり否定してしまいますが、私は進化は意志によって起こると考えています。たとえば、「寒いから毛が生えてほしい」とか、「食べられたくないから葉っぱと同じデザインになりたい」とか(笑)。
 つまり、意識という上位次元が、物質という下位次元に影響を与えたわけです。そして、人間はその意識次元への接触能力が、他の生物よりも高かったため、驚異的なスピードと質の進化を遂げたと。
 あくまで私の考えですよ。全然、現代科学的ではありませんが、もしかすると100年後には科学的になっているかもしれません。
 ま、それはいいとして、とにかく(現在考えられている)AIは意識領域にまでは踏み込めないので、どう考えてもシンギュラリティは起きないのです。
 AIはあくまでも記述できる言語の世界でしかありません。人間の心の大部分は言語化できません。モノ・コト論的に結論するなら、AIはあくまでコト、人間の心はモノであるということです。

Amazon AIが神になる日――シンギュラリティーが人類を救う
 AIが人間を殺す日 車、医療、兵器に組み込まれる人工知能

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2017.08.24

武満徹 『翼』・『小さな空』

 日終了した都留音楽祭。そのクライマックスの一つ、4日目夜のクロージング・パーティーは本当に素晴らしかった。あらためて夢のような時間を過ごすことができたことに感謝です。
 宴会芸というには、あまりにぜいたくな演奏の連続でした。
 今思うと面白いのは、西洋古楽の音楽祭でありながら、なぜか日本の現代歌曲や歌謡曲の出し物が多かったことですね。
 ふだん歌謡曲バンドをやっている私としては、非常にうれしいことです。海外の超一流歌手の皆さんをはじめとして、西洋古楽やクラシックを勉強している皆さんに、日本の歌の素晴らしさ、日本語の美しさを知っていただける機会としても最高ですよね。
 特に今回は、ロベルタ・マメリによる武満徹の「翼」が最高でした。涙がどんどん湧いてきて困ってしまいました。つのだたかしさんのリュートによる伴奏。
 武満の「翼」、ご存知の方も多い思いますが、もともとは劇音楽として作詞作曲されたものを、のちに自身が無伴奏合唱曲に編曲したものです。
 ここでは、日本を代表する名アルト歌手、小川明子さんの歌唱、荘村清志さんのギターでどうぞ。本当にいい歌です。

 小川さんの歌も最高にお上手ですが、マメリのあの表現はなんだったのでしょう。ネイティブでない人が歌う日本語に、独特の魅力があるのはなんででしょうね。いつも思うのですが。逆に純粋だからでしょうか。歌謡曲でもあるじゃないですか。アグネス・チャンとか(笑)。
 非ネイティブ、純粋ということで言えば、これが究極でしょう。ボカロ。初音ミクの歌唱で「翼」を聴いてみましょう。

 マメリの「翼」のすぐあと、今度はネイティブ中のネイティブ、波多野睦美さんの神声による「アカシアの雨」が演奏されました。これがまた泣けた…。歌ってすごいなあ。
 ここではその演奏は紹介できませんが、同じつのだたかしさんとのデュオで、これもまた武満の名曲「小さな空」をお聴きいただきましょう。
 武満のすごさはこういう大衆曲もきれいに作れることですね。そして詩もいい。天才。この曲も自身の作詞です。

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2017.08.18

第31回都留音楽祭 3日目

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 留音楽祭の3日目。3日目と言えば、恒例の海外講師コンサート。
 今年は最終回ということもありまして、世界を代表する素晴らしい歌手お二人においでいただいています。まず、ソプラノのロベルタ・マメリ。そして、テノールのルーファス・ミュラー。今まで大変お世話になり、そしてそれぞれの素晴らしすぎるリサイタルに何度も感動させていただいたお二人です。
 今年はなんと、そのお二人と、そして日本を代表する歌手であるメゾ・ソプラノの波多野睦美さんの三人が共演するという、まさに夢のまた夢のコンサートが実現いたしました。いやあ、夢でも実現しそうにない組み合わせです。
 そして、それが本当に夢でもありえないような至福の時間となったのです。
 本当に初めてです。コンサート中に「このまま死ぬんじゃないか」と思ったのは。神の声を聴いたというか…いや、マメリさんにも申し上げましたが、「天国のささやき」を聴いてしまったと…そんな感じでした。
 三人とも弱音(微音)のコントロールが神がかりでした。そして、それら三神のささやきが共鳴しあい、より微細な世界へ私たちを誘う。
 ああ、なるほど、神の世界は広大かと思いきや、実は極微なんですね。ミクロがマクロ。無限小が無限大というような感じなんですね。
 歌ってすごいなあ…あらためて思いました。そして、音楽はたしかに私たち人間が高次元宇宙(神)につながる方法なのだなあと感じました。
 歌詞の世界も重要ですが、それだけとれば、それはあくまでもこの3次元的世界に刻印された情報にすぎません。しかし、それが音楽に乗ると、突然高次元の宇宙意識の世界につながるわけですから、本当に不思議ですね。
 そういう意味において、たしかに私たち人類にとって、音楽は進化への道標となるわけで、まさに「No Music No Life」ですね。
 それにしても本当に幸せな時間でした。この三人のリサイタルでありながら、大ホールは空席が多かったのは残念といえば残念ですが、逆に言うと、あのうぐいすホールの素晴らしい残響がフルに生かされたわけで、そういう意味においても、大変贅沢なコンサートであったと思います。
 生きていてよかった。大学受験に失敗して都留に来てよかった。心からそう思える瞬間の連続でした。人生とは面白いものですね。
 プログラムを載せておきます。マメリさんもおっしゃってました。パーセルの「ダイドーとイニーアス」はすごい作品だと。歌い手も特別な精神状態に追い込まれるということでした。

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 あっ、それから、ある意味お恥ずかしい話なんですが、ルーファスさんの歌と小倉さんのフォルテピアノのおかげで、人生で初めてシューベルトっていいなあと思いました!


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2017.08.11

小野小町伝説

 朝3時に富士山を出まして、12時間かけて夕方3時に秋田に到着。さすが渋滞のピークということで、東北道は使えず初めて常磐道へ。震災の被災地を通りながら仙台へと思いましたら、こちらも茨城県内で渋滞が始まりましたので、日立のあたりで下道に降り、結局秋田県横手市までずっと一般道を走ることにしました。
 時間はかかりますが、もともと運転好きの私や、狭い車内でワイワイやったり、グーグー寝たりするのが好きな家族は全然苦ではありません。
 特に今回は初めて通る地域がほとんどだったので、いろいろ風景やら建物やらを見ながら楽しくドライブしました。
 いろいろ思うところ、感じるところがあったのですが、今日は一つだけ取り上げましょう。
 福島県の小野町。いたるところに「小野小町生誕の地」というようなことが書かれていました。
 ほう、ここにも小野小町伝説があったのか。
 まさに今から向かう秋田県県南には、最も有名な「小野小町生誕の地」があります。そう、湯沢市の小野です。なんとなくですが、小野小町と言ったら秋田という印象がありますよね。秋田美人と言ったり、新幹線がこまちだったり、お米もあきたこまちだったり。
 まあ実はこれも全く確証はなく、ある意味、福島の小野町やその他全国にある生誕地伝説と同じくらいの信憑性(の低さ)です。ただ、古今和歌集において紀貫之が小野小町を出羽国司の娘としているのは大きい。
 福島の方は、小野篁が現在の小野町を訪れ、そこで地元の美女(愛子…めづらこ)と結婚して生まれたのが小野小町という設定。
 ちなみに全国にある小野小町伝説地はこちらでご確認ください。めちゃくちゃ多いですね(笑)。
 実は、このマップに載っていない地味な伝説地が山梨県都留市にあるんです。
 都留市に小野というところがあります。山間の小さな部落です。そこに小野小町のお墓があって、毎年ちゃんとお祭をしています。お寺の関係地内にありますが、お祭は神道式です。
 小野小町の夫とも言われる小野貞樹が甲斐守だったこともあって、このような伝説地が生まれたのではないでしょうか。
 私は甲斐国に流された怪僧小野文観との関係を疑っていますが。
 もう一つ、少し前に所用で通った東京の町田市小野路にも色濃い小野小町伝説が残っています。これもいつか紹介します。
 こうしていろいろな伝説地を回りますと、昔の人々の想像力、創造力のたくましさをひしひしと感じますね。歴史においても、科学的根拠とはどうでも良い、ある種印象派的なリアリズムでいいような気がしてきます。
 あっそうそう、小野町は現代の美女(?)リカちゃんにも縁のある町なんですね。これは知りませんでした(笑)。リカちゃん50周年ということで、こちらも歴史、伝説の領域に入りました。

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