カテゴリー「文学・言語」の993件の記事

2018.12.07

ナイツの漫才

 週はずっと堅苦しい文章を書いていました。ようやくそれが一段落したので、全然違う文を作りたくなっていたところに、生徒から仕事の依頼が来ました。
 もうすぐ中学校の文化祭があります。昨年まではがっつり中学校担当だったのですが、今年は高校中心になったので、少し離れたところから協力させてもらっています。
 で、今日の依頼は、私が顧問(仮)をさせてもらっているコント部(仮)の台本づくりです。今年は漫才をやりたいというので、さっそく作ってみました。
 今回参考にさせていただいたのは、ナイツのボケ漫才です。掛け合いではなく、ボケの手数で勝負する系。
 とりあえず、ナイツの漫才をいくつか見て、頭のモードをそれに合わせて、内輪ネタを含む新作を一気に書き上げました。ぜひ本番を楽しみにしていてください(笑)。
 で、今日は参考にしたナイツの漫才を皆さんにも見ていただきます。うるさいしゃべくりや、動き系が多い中、私はナイツのこのスタイルはけっこう好きですね。関東の良さだと思います。落語や漫談の空気がありますね。

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2018.12.02

権代敦彦作曲『子守歌』

Th__20181203_161534 NHKFMで聴きました。心震えるとはこういうことですね。
 附属池田小事件がきっかけで作られた曲。古典的な宗教音楽の要素もありつつ、語りと音楽の微妙な、いや壮絶なぶつかり合いと調和が、なんともすごい(ボキャブラリーを奪われる)。
 この曲のこの演奏にまつわるストーリー「レクイエムに心を動かされ・・・
“附属池田小事件”から生まれた『子守歌』」をこちらで見ることができます(10/23付の動画です〉。
 今回この放送を教えてくれたのは、先日のウリッセの帰還の時にもお会いした古楽仲間です。ウリッセでも波多野睦美さんが素晴らしい歌唱を聞かせてくれましたが、こちらの「子守歌」でも、大変清澄な、まさにこの子守歌にふさわしい天上の声を降ろしてくれました。
 そして、作曲者の権代敦彦さんとは、先日京都男二人旅をさせていただきました。あらためて、とんでもない天才とマニアックな旅をさせていただいたものだと再認識させられました。いやあ、彼は天才です。そして、今、そんな権代さんに新曲を依頼しているところでもあるのです。
 神奈川フィルハーモニー管弦楽団には知り合いも何人かいることもあり、作曲家、歌手、演奏家すべてとご縁がある特別な演奏でもありました。
 音楽が結ぶご縁は、この地上界の関係を超えています。高次元のご縁に動かされる毎日。ありがたいかぎりです。
 

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2018.12.01

ねじ…秋田弁コント「道案内」

 言シリーズ。昨日は最後に秋田弁を聴いていただきました。その秋田弁でコントをする「ねじ」。前も紹介しましたね。秋田弁でアニメの名シーンをやったりする。
 今年は金足農業が高校野球で大変なブームを起こしましたが、実はその金足農業の出身なのが、この「ねじ」。
 で、最近ワタクシ的にはけっこうツボにはまったのが、この究極の秋田弁コントです。そう、究極の外国語なんですよ。
 前、秋田のおっちゃんたちに囲まれて飲んだ時は、本当に「イングリッシュ・プリーズ」って感じでした。ホント、日本語しゃべって!って。日本語じゃないなら、せめて英語で!っていう(笑)。
 そんな異邦人感をうまく表現してくれているコントだと思います。なにしろ発音が日本語と違うもので、文字化されないんですよ(笑)。秋田の人と結婚して20年、ようやく少しリスニングができるようになってきました。
 というわけで、ねじのコント「道案内」をどうぞ。鼻濁音!そして最後はホント何言ってるのか、わかりません。カミさんに聞いてみよっと。

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2018.11.30

アナ雪『生まれてはじめて』山梨弁(甲州弁)ver.

 言の続き。山梨弁(甲州弁)でアナ雪をどうぞ(笑)。
 どこの県でもそうですけど、同じ県内でも方言には多様性があります。この山梨弁は、まあ甲府あたりを基礎としていますね。
 富士山麓を含む郡内地方では、これらに加えて八王子方言の影響もあって「べー」を使います。
 それにしても歌も上手ですね。素晴らしいと思います。
 この「生まれてはじめて」、いろいろな方言バージョンがあって、よく分からないけれど、それぞれ聴いてみるとなんとなく笑っちゃいますね。
 まあ、考えてみれば、外国語も地球レベルでは方言です。いつかも書きましたが、カレーはかれー(辛い)という洒落、もともと「カレー」も「からい(からし)」も、インドの言葉が西と東に広がっていったもので、語源は一緒なのです。
 話は戻りますが、たしか甲州弁(山梨弁)は女の子がしゃべると最も可愛くない言葉じゃなかったかな。たしかに(笑)。
 で、たしかカワイイ上位に入っていた秋田弁。その秋田弁の「生まれてはじめて」もオマケでお聴きください。たしかにカワイイかも(笑)。

 ウチのカミさんは秋田出身のなんちゃって歌手です。たしかにどんな曲も同時通訳的に秋田弁バージョンにしちゃんだよなあ。あれは面白い(笑)。

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2018.11.29

47都道府県の方言版「だからダメって言ったでしょ」

Th_map52 に忙しくなり、更新が遅れております。
 今日の記事は昨日の続きにもなりましょうか、方言の話です。
 こんなネットの記事がありました。ツイッターで盛り上がったみたいですね。

47都道府県の「#方言でだからダメって言ったでしょ」を集めてみた

 面白いですね。私は方言を持っていない寂しい人間で、つまり標準語しか話せない。山梨に35年くらいいますが、山梨弁はいまだに不自由。ほとんどしゃべれません。
 静岡出身ですが、静岡弁はもっと苦手。家内の実家のある秋田弁に至ってはリスニングすら難しい(笑)。
 ということで、「だからダメって言ったでしょ」も本当に多種多様ですよね。ちなみに山梨弁はこうなっています。

「だからだめっつったら〜」

 まあまあこんな感じですね。「ら」は古語の「らむ」(現在推量の助動詞)の撥音便形「らん」の「ん」の無表記・無発音、あるいはウ音便形「らう」から「う」が脱落したものでしょう。
 ちなみに「ずら」は「むずらむ」から生まれたものです。前半の「むず」の連体形「むずる」については、枕草子で清少納言が下品な流行語として批判していますね(「ふと心おとりとかするものは」参照)。
 いずれにせよ、方言というのは、古い言葉、特にかつて都で使われていた言葉が、遠く地方に伝わって、都では消えてしまったけれども、その地方には残ったというものがほとんどです。
 山梨の方言、特に郡内地方の方言をそのような視点から解説した記事をかなり昔に書きました。こちらもご参照ください。

方言「〜ちょ」など、いろいろと…


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2018.11.28

垈(ぬた)〜「のたうつ」の語源

Unknown 梨県民なら読めなくてはいけない漢字「垈」。逆に言うと、山梨県民以外はほとんど誰も読めない漢字ですし、もしかすると子どもまで含めれば、山梨県民でも読めない方の方が多いかも。
 長らくパソコンの世界では「幽霊文字」と言われていたこの字。一般的な漢和辞典には載っていないこともあって、いったいなんと読むのか、どこで使うのかと物議を醸していました。
 実際、この字が使われているは山梨県だけなんですね。
 ちなみに私も大学時代に山梨県に来て、初めてこの字を見て、そして読み方を覚えました。そう、ドライブ中に出会ったんですね、この字に。そして、ローマ字標記で読み方を知ったのだと思います。
 その後、山梨県内で複数の場所でこの字を見かたので、一般的な漢字なのかと思っていました。たまたま今まで出会わなかっただけで、全国的に使われているのだと思った。
 山梨には、たとえばこのような地名があります。

大垈(甲斐市、身延町)、垈(市川三郷町)、砂垈(富士川町)、藤垈(笛吹市)、相垈(韮崎市)

Th_unknown1 私が初めて出会ったのは「藤垈」です。有名な藤垈の滝があります。ずばり「垈」という地名は、四尾連湖の近く。
 「ぬた」というのは「沼田」、すなわち湿地という意味で間違いないとは思いますが、よりリアルなのは、「猪の寝床」という意味です。我が家の近くでも、山に入りますと、ああここは猪の寝床だなと思われる泥だまりがあります。それを地元では「ぬた」と呼んでいます。
 平安時代の和歌に次のようなものがあります。

君こふとゐのかる藻よりね覚してあみけるぬたにやつれてぞみる

 ここでは、猪が泥の上に草を敷いて寝るように、恋しい人のことを思って悶え憔悴する様子を、「ぬた」という言葉を使って表現しています。まさにドロドロした感情ですね。
 ちなみに山梨県大月市に「黒野田(くろのだ)」という地名があります。甲州街道の宿場町でしたが、かつては「黒奴田」と標記していたことがあるのを見ると、これも元は「くろぬた」であった可能性が高いと思います。いかにも猪のいそうな山に囲まれています。
 また、富士山の東側、御殿場に「柴怒田」という地名があります。なんと読むかといいますと、「しばんた」。これも「しばぬた」であったと思われます。
 これらは「奴」という漢字を嫌った結果ですね。
 ああそうそう、「のたうつ」っていう言葉があるじゃないですか。「のたうち回る」とか。これって、もともと「ぬたうつ」だったんですよ。
 猪が、体温を下げるため、あるいは虫を払うために、草や泥に激しく体をこすりつける動作です。まさに「のたうち回る」のです。

 猪のこういう行為を「ぬたを打つ」と言います。そこから「ぬたうつ」→「のたうつ」という動詞が生まれ、「のたうち回る」になったというわけです。
 あっちこっち行ったり来たり申し訳ないのですが、平安時代にこういう和歌もあります。

恋をしてふす猪の床はまどろまでぬたうちさますよはのねざめよ

 恋に身悶えることを、猪の「ぬたうち」になぞらえる習慣があったのですね。
 それにしても、なぜ山梨だけ「ぬた」に「垈」の漢字を当てたのか。これは不思議です。この漢字、韓国では使わているのだとか。「垈地」は「敷地」という意味だそうです。泥のイメージはない。
 もしかすると、かつて朝鮮系渡来人が巨摩郡に移住してきた際、この漢字を持ち込んだのかもしれませんね。証拠はありませんが、そのくらいしか理由が考えられません。

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2018.11.22

御札(ふだ)とお札(さつ)

Th_149dd5 都の旅でも両方に出会いました。というか、お札で御札を買ってる人をたくさん見かけました(笑)。
 と書いてみて、なるほど「御札」は「おふだ」、「お札」は「おさつ」ですね。
 「札」という漢字はもともと単に「木片」を表す字です。すなわち「さつ」は木片ということです。
 木片にはよく字が書かれます。紙がない時代は木片に書きました。木簡とか。
 で、文字を書いたので、「文板(ふみいた)」と言われ、それがなまって「ふだ」となりました。
 大昔は文字も神聖なものでしたから、文字の書かれた木片、すなわち「ふだ」も神聖なものとされました。それが「御札」となって現代でも神聖なものとして扱われているわけです。
 「お札」の方はどうでしょう。今では「紙幣」のことを「さつ」と言いますが、最も古くは「手紙」や「書状」のことを「さつ」と言いました。
 兌換紙幣が登場するのは江戸時代でしょうか。金札とか銀札とか米札とか。その頃から「さつ」が「紙幣」を表すようになったようです。
 その頃にはすでに貨幣経済が一般化し、庶民にとっても「おカネ」は重要なものとなっていました。ある意味神仏よりもありがたいものになってきたんですね。
 そういう意味では、「御札」よりも「お札」がありだかい時代になったとも言える。皆さんはどうですか。「御札」と「お札」、どっちがほしいですか(笑)。
 最初に書いたように、「お札」で「御札」を買うわけですから、そこでは「御札」の方が「お札」よりも価値が高いということになりますよね。
 しかし、それは神社仏閣という非日常空間の話であって、日常的には「御札」よりも「お札」をもらった方が嬉しいでしょう。「御札」の束より「札束」の方がいい!?
 つまり、よく言われるようにですね、おカネ(マネー)が現代の神になったのです。紙が神になるのは、「御札」の時代からあったけれども、現代では仮想通貨のように紙すらない。
 データが神になったというのは、実は昔に戻ったとも言える。そう、もともと神は実体のないモノだったのです。神像ができたのは仏像の影響です。
 ちなみに「マネー」の語源は「モンスター」の語源と重なり、それは「モノノケ」の「モノ」とも重なってきます。面白いですね。
 「マネー」という「モノ(霊)」が世界に広がり、ある意味一神教による征服が完成しつつあります。そうなった時、王仁三郎が喝破した「一神即多神即汎神」が実現するのかもしれません。
 「御札」も「お札」もなくなる日。それが「みろくの世」が到来する日なのかもしれませんね。そういう予感がします。
 そうそう、ちょっと違う視点ではありますが、「御札」と「お札」についてホリエモンがいいこと言ってます。ぜひお読みください

堀江貴文さんが語る「みんな『お金』のことを勘違いしていないか?」

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2018.11.18

田中英道 『日本らしさの基礎を築いた聖徳太子(その4)』

 詩に恋愛ネタがない、和歌は恋愛ばっかり…というのは確かにそう(笑)。
 ふむ、仏教が恋愛の感性を磨いたと。それはあるかもしれませんね。無常観。たしかに恋愛は、ワタクシの言うところの「モノのあはれ」(不随意へのため息)の代表ですな。思い通りにならない。
 神社(神棚)が「場」や自然、お寺(仏壇)が「人間(個人)」を祀るというのも面白い。それが両方ある、今の私たちの信仰の形は、たしかに聖徳太子が作ったと言えます。
 やはり、神道(という言葉さえありませんでしたが)が仏教を包み込んでいるのが、日本の特徴でありましょう。私は仏教は最強の思想だと思っていますし、お釈迦様は宇宙人だと思っていますが(笑)、それを意識せずとも、すでに日本は自然の中にあって無我、空、縁起を体現していたのでしょう。その姿勢こそが「あはれ」=「諦念」であったのです。

Amazon 聖徳太子 本当は何がすごいのか

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2018.11.16

田中英道 『日本らしさの基礎を築いた聖徳太子(その2)』

 中先生は「和」を「やはらぎ」と訓んでいます。仲小路彰は「にぎ」と訓んでいます。どちらが正しいかは難しいところですが、少なくとも「ワ」と読んでいた可能性は低い。和語で訓読したはずです。
 日本には文字がなかった。それは劣っていたという意味ではなく、逆に文字という情報次元を超えた高度な科学を持っていたというのにも納得します。
 少し話がそれるようですが、最近音楽の世界がレコードやCDからダウンロードへ、そしてしまいにはストリームへと変化してきているじゃないですか。アナログにせよデジタルにせよ、そのデータを所有するというのは文字によって情報を記録して所有するのと同じことです。それがストリームになりつつある。
 つまり所有しなくなったということです。そして、かつてのように情報というか音楽そのものが向こうからやってくるようになったということです。それはある意味古代の口承文化に戻るということです。私はそうとらえています。
 近代西洋的価値観、すなわちワタクシの言うところの「コト」文明から、かつての日本がそうであったであろう「モノ」文明に再び戻りつつあるのではないでしょうか。そんな話も年末に出る某雑誌のインタビューで語っています。どうぞお楽しみに。

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2018.11.13

言語道断とは

Th_7a8cef25b46f69b394b2ca6caac3e5e7 「ランプ大統領のやることは言語道断なことばかり」…政権内の高官がこんな告発文を出したとか。
 まあ普通に考えて、ここでの言語道断とは「かなりひどい」という意味でしょう。表現できないくらいひどいと。
 一般的に四字熟語としての「言語道断」は、たしかにそういう意味です。
 しかし、仏教語としての、すなわちオリジナルな意味は正反対なのでした。

「仏法の深遠な真理は言葉で説明できない」

 これが本来の意味です。禅が言葉を排除するのはこの原理によるもの。
 日蓮も「言語道断の経王、心行所滅の妙法也」と言っています。法華経は素晴らしいと。ブッダのお悟りは言葉にできないどころか、我々人間の心さえも及ばないのです。
 言語道断の「言語」は、まあ普通に「言葉」でいいと思います。あるは「言う」「語る」という行為。
 「道」は、これはroadやwayではなく、報道の「道」、唱道の「道」ですね。漢文でも「道ふ」は「いふ」と訓読します。
 言語断とも言います。つまり、「言語」も「道」も同じ意味なんですね。それら全てが「断」たれるとということです。言葉を受け付けない。言葉で説明できるようなものではない。説明しようとしてはいけない。説明できたら偽物。
 仏教の教えというのは、常にそういう矛盾を抱えています。なにしろ、たとえば「法華経」という言語で書かれたものが言語道断なんですから(笑)。
 座禅も言語道断を体験するためのものです。しゃべっていはいけないし、考えてもいけない。徹底的に言語を追い出すのです。
 ということは…もしかして、トランプさんの行いは深遠すぎて言葉で説明できないのかも?
 だから、我々凡夫には理解できないんですね(笑)。


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