カテゴリー「文学・言語」の895件の記事

2017.02.21

仲小路彰 『夢殿の幻〜聖徳太子の救世悲願』より「甲斐の黒駒」

Th_20101004100221 和の天才、いや人類史上最大の天才の一人と言ってもよい、歴史哲学者の仲小路彰。今、その思考と活動の全貌が明らかになろうとしています。いや、知れば知るほどその深さ、広さに全貌が見えなくなってしまうというのが正しいかもしれません。
 群盲象を撫ず。もうどうしようもないほどのスケールですので、群盲の数を無限に増やして、なんとか全体像を輪郭だけでも把握しなければなりません。
 とにかく感じるのは、一部の少数の人が、自分の立場だけで彼を解釈すると、大きな間違いを起こすということです。あまりにその言説が多様なので、ある意味都合の良いところだけを取り上げて、一つのストーリーを作ることができる。これは仲小路彰研究の陥穽であると思います。
 さて、膨大な仲小路の著作物の中でも、ひときわ強力な光芒を放っているのが「聖人伝シリーズ」です。
 釈迦、孔子、ソクラテス、イエス・キリスト、マホメット、聖徳太子という六聖人の未来的本質を示した戯曲調の文章群です。
 中でも白眉は、そうした世界の聖人の思想を融合した聖徳太子について書かれた「夢殿の幻」。これについては、以前こちらで少し紹介しましたが、このたび改めて読んでみました。
 その中で、富士山麓に住む者として、特別な感慨を覚えた部分があります。今日はそれを活字化して紹介いたします。
 山中湖畔に住み、富士山を未来の地球平和の象徴として観じていた仲小路彰ならではの内容です。地元に濃厚に残る徐福伝説などにも触れながらの、実に味わい深い文章となっております。弥勒の世という言葉も出てきますね。また、須弥山(シュメール)と富士山を重ね合わせているところも、仲小路彰らしいと言えましょう。
 では、どうぞお読みください。

 第四章 甲斐の黒駒

 朝に夕におよそ十年の間、休むことなく太子の愛馬、甲斐の黒駒は、おだやかに広がる飛鳥野をわが主太子をお乗せして、いともまめやかに蹄の音も高く、元気にかけめぐった。
 ある時は春のやわらかな微風のように、花々の間を黒々と毛並を光らせながら走りゆき、ある時は、すさまじい雷光の下をとどろきわたるいかずちにも負けず、その速さを競った。
 冴えわたる秋の月光をあびながら、もの思いにしずまれる太子を、いささかも揺がさぬようにしずかに足を運び、また吉野おろしに道も白く、いてつく上を決してすべらぬ、たしかな足どりでま冬の朝をかけすぎた。
 道のほとりの人々は、いつも太子を拝すると同じく、その黒駒を何よりも親しく送り迎えして、折々のさまざまな好物を馬にささげることもつねであった。
 太子のいますところ馬はあり、馬のいななきが高らかにひびけば、尊い太子のお姿が、人々の眼に何よりも喜ばしげに映じ出された。
 かくもけなげに忠実にお仕えする黒駒を太子はこよなく愛されて、もし季節の変り目に何か馬に異常があり、食のすすまぬ時があれば、太子はそれこそわが身の病い以上に案じられ、その回癒を切に祈られた。
 夜にあっても、時には厩戸を見廻わられ、いかにも御名にふさわしい馬への深い因縁の愛情を示された。
 かくて愛馬は太子のあつい信仰のままに、さながら霊の翼ある天馬と化して、空をしのぎ、雲を分けて天翔りゆくかと思われるほどに成長した。
 いかなる時にも黒駒は、太子をしたって高らかにいななき、そのひづめをひびかせて、太子をお待ちしていた。
 夢殿の夜は、まことに静かで、かなりへだたった厩戸の音が、かすかにひびいて来ることもしばしばである。
 ふと太子は、さえさえとした月光の中に、黒駒のつややかなたて髪と、そのつぶらな眼があさやかに光っているのを見られる。
 太子は軽やかに馬上の人となられー「さあ、行け」と凛然としたお声をかけられる。馬は、いかにもうれしげにその首を動かし、耳を立てて一散に走りゆく。たれもお供する者もない。大和三山は黒々とまなかいにあって、みるみる小さく去ってゆく。
 もはや地上を走るのではなく、さながら天上を風のように天翔ける如くである。山を越え、森をすぎて、河は白々と流れる大和の山河を一瞬にかけ去って、今やはたしもない海の上を雲とともに飛んでゆく。
 長い海浜に打ちよせる波は、白い糸となって連なり、星々は天上の音楽を奏でるかとま近にきらめく。
 はるか彼方には、かぐろくも山脈がさまざまな陰影をもってそびえ立ち、その大いなる自然は、いかにもわが国のたぐいない美の世界を展開している。
 まことに、これこそ地上の楽園であり、そのままが寂光の浄土であると、太子は讃美せられる。ー黒駒よ、汝の故郷はどこか、甲斐の国は、ーいかにも黒駒はそれを知るように、ひたすらに東北への道をひたかけりゆく。
 まさにその時、とうていこの世ならぬ荘厳な須弥山さながらの姿をもって、わがあこがれの富士の霊峰が、あのように鮮やかに鎮もっているのを、太子は展望される。
 しかも東の空は、ようやくほのかに曙の光を予兆するかと白みはじめる。ただ蒼茫たる未生の海原も、たちまち多彩な光のまんだらを現じはじめる。その光は、まさしく霊峰の上にかがやき、永遠の雪は神秘な赤に燃えはじめる。
 天も地も富士によって一つに結ばれ、一切は、その神の峰によって、目さめゆく。まことに天地の別れし時を再びここに相結ぶ、この一刻である。
 その麓には、ほの白く富士川はめぐり、それをさかのぼる所、わが黒駒の故郷の損するのか、今こそ一きわ高く愛馬はいななく。わが故郷はここにありと、心をこめて叫ぶごとく ‥ ‥
 これぞ神のいます聖なる峰か、美しく木花咲耶姫の舞い舞う万古の雪をいただく、白き峰か ‥ ‥
 ようやく山をめぐる霧は限りなく開け、その間に点々と光る首飾りの宝玉の如き湖のつらなり、あれこそが常世の神と称せられる神の姿か、緑なす森の中に生れし神の蚕と云われるものか、これを祭れば老いたるものも若さにかえり、いかに貧しきものも、幸ある恵みをうけるとされる信仰であるか ‥ ‥
 けれど常世とはどこであろうか。それはもと黄泉国とされたものではなかったか。そは死の国であり、死とは何であるか。ここに死を越えるものへのあこがれとして、不老不死への悲願がある。
 さればこそ、かつて、かの大陸の秦始皇は不老不死の妙薬を求めて、徐福らを東海の神仙の島に送ったとのことが司馬遷の「史記」に見られる。
 ついに彼らは帰らなかったが、あるいは、このあたり絹と光る湖のほとりに安住したのであろうか。
 この神の山の麓にこそ、わが夢に見た浄土の地か、常世とは、不死の国、そは弥陀が極楽浄土とされた仏国土か、さらにこの富士のあたりこそ次に来る末世の後の弥勒の世の現ずる地なるか、やがて果てしなき戦乱の世に、ここにこそ果してとこしへの平和の訪れるあたりか、まさしく富士への信仰は弥勒の信仰とともにあるのか。
 弥陀が念じられた須弥山とは、まさしくここ富士の峰か、我もまた徐福の如く、この山麓に、わが愛する黒駒を心ゆくままに走らせて寂光土をここに現ぜんかなーと太子は、明けゆく秀麗な大自然の中を御夢とともに限りなくかけめぐられたのである。

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2017.02.14

論客面談 『橋下徹 vs 森達也・ケビン・クローン・古谷経衡』

 校生の「国語表現」の授業で使った教材。昨日の「橋下×羽鳥」内「論客面談」。
 ディベートの勉強をしているわけですが、その教材としてはなかなかいいですよ。橋下さんの討論技術は高い。もちろんそれは「ずるい」とも言えるわけですが、高校生くらいならこういう戦闘能力に興味を持ってもらいたいと思っています。
 橋下さんは誰が相手でも、「政治」という「現実」を振りかざして、「理想」すなわち「正論」を掲げる皆さんをいなしていく。つまり、相手の正論を正論だと認めつつ、その「理想」が持つ矛盾、すなわち「現実的(現在的)無理」を理由として反撃していく。
 結果噛み合うわけはないけれども、現実の観客(視聴者)には、橋下有利で終わったかのような印象を与えることに成功しています。
 これはある意味プロレス的な勝ち方であるとも言えましょう。本当にどちらが強いかというケンカとは違う。自分の立場を充分に理解した戦い方です。
 まあ、こんな番組のこんなコーナーを喜んで(?)引き受ける理由があるということですよ。お見事ですね。
 個人的には橋下さんの政策や各種発言には異論もありますが、こういうプロレス的な力は素直に敬意を表したいと思います。
 プロレスと言えば、森達也さんはプロレスの取材もいくつかしていますね。その内容にもプロレスファンとして賛否両論有るんですが、やはり森さんも自分の立ち位置の置き方は上手だと思いますよ。世間の常識を敵に回すというか、あえて裏側から弱者を支援するというか、その手法には徹底が見られます。私は嫌いではありません。
 そういうことも含めて、生徒たちが何かを学んでくれればと思います。
 ケビンや古谷さんはまだ若いので、森さんのような独特の立ち位置があまり感じられませんね。本人たちなりには頑張ってそれを確立しようとしていますが、まだ大衆の思考の域を超えていません。
 

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2017.02.09

その八重垣を…

Th_2017020900050146yom0004view 倍首相夫妻がトランプ大統領との会談のためアメリカに向けて出発しました。
 この歴史的一大事にあたりまして、昭恵夫人にメッセージを送らせていただきました。
 昨夜、昭恵さんがFacebookにて「人との垣根が全て取っ払われ」というようなことをつぶやかれていました。そのお言葉と、昨年の天皇誕生日の日の「望」年会で昭恵さんとお話した内容から、ある種の直観を得たのです。
 詳しくは国家機密なので書けませんけれども(笑)、出口王仁三郎の以下の名文を参考として添付いたしました。
 今年はスサノヲの年となります。トランプさんも間違いなくスサノヲの系統ですね。ですから、この王仁三郎の「八重垣」に関する解釈は、非常に深い意味を持つと思います。八重垣をつくり、その八重垣をどうするのか…。
 皆さんもぜひ味わってお読みください。そして、何かを読み取ってください。この文は大本の機関誌『明光』昭和10年12月号に掲載された「歌まつり」の一部です。

(以下引用)

…素盞嗚尊(すさのをのみこと)が出雲の簸(ひ)の川の川上で八岐(やまた)の大蛇(おろち)を退治されて、ほっと一息おつきなされた。その時に、お祝いとして詠まれた歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌であります。

 このお歌の意味は、言霊(ことたま)によって解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国には八重垣(やえがき)が築かれ、そして八雲(やくも)が立ち昇っている。「八雲」というのは「いやくも」ということである──。それで、この「いやくも」をすっかりはらわねばならぬし、また、この垣も払わねばならぬ。

 今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持ってゆこうと思えば、「税関」という八重垣ができている。「つまごみに」というのは──日本の国は「秀妻(ほつま)の国」というのである──日本の国もまた一緒になって八重垣をつくっているということであって、これは世界万民が一つになって、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣は取り払われないのであり、「八雲」を払い、「八重垣」を取り払って、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。

 これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになっているその神さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣(みづがき)」という意味になり、外から悪魔が入れない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫雲がたなびいている意味にもなるし、また、真っ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味にもなるのであります。

 それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだ残っているのであります。
 内外を問わず悪い「その八重垣を」今度は取り払わねばならぬということを残して、「を」の字でおさまっているのであります。

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2017.01.30

「コク」の語源

Th_photo_main ッポロビールから「コクと香り」を向上させた「麦とホップ」が発売されるとのニュースがありました。
 また、同じサッポロビールですが、コンビニとのコラボで季節限定「至福のコク」を発売中ですね。
 こういう時の「コク」ってなんなんでしょうか。たしかにあるけれども、説明するのは難しいですね。
 コクとキレなんていう表現もよくあります。昨日の「獺祭」なんか、どちらかというと「キレ」というイメージです。こうした微妙な味覚は日本人独特とも言えます。決して科学的には証明できない「うまみ」の一つ。
 さて、そんな「コク」の正体とは別に、その「コク」という言葉自体について考えてみましょう。
 実際、私たちは「コク」というようにカタカナで書きますが、これって外来語なんでしょうか。
 いちおう言葉の専門家のはしくれとして調べてみましたところ、ふむ、諸説なるんですね。和語の「濃し」から「濃く」となったという俗説も、なんとなくありえそうですが、形容詞の連用形が名詞化するというのは「多くの人」「近くの家」とか言う時の「多く」「近く」など少数しかなく、特に単独で主語として立つのは「多くが賛成した」の「多く」くらいしかありません(「詳しくはお会いした時に」とか「正しくは〜だ」とか「細かくは知らない」などについては別に説明が必要なので割愛)。
 同じ味覚の形容詞が名詞化した例としては、「酸し」の終止形が名詞化した「すし(寿司)」、「辛し」の名詞化した「からし(辛子)」などがありますが、「濃し」が「こく」になるのはちょっと無理があるような気がします。
 そうしますと、もうひとつの可能性として挙げられている、中国語の「酷」がそのまま日本語化したという説の方が有力のような気がしてきます。
 えっ?「酷」?と思われると思いますが、もともと「酷」という漢字は「むごい」という意味ではなく、酒偏であるのことからも分かるとおり、「お酒が発酵する」「穀物が熟す」という意味があるんですよね。
 まさにお酒の発酵が進んで味に深みが増しているイメージです。そうすると、ビールの「コク」というのは、まさに麦とホップの発酵、熟成の度合いが高いということを意味するわけで、なんとなく納得できます。
 しかし、「酷と切れ」「至福の酷」ですと、なんだかとってもアブナイことになってしまうので(笑)、「コクとキレ」「至福のコク」と書くようになったと。
 まあ、「酷」という漢字も「酷似する」なんていうときは、そんなに悪いイメージではありませんね。
 それにしても、考えてみると、「酷」と「切れ」というのは、どちらかというと正反対の概念で、なんか両立しないような気もしてきます。
 それを両立するからすごいのかもしれませんが。味わい深いけれど、さっぱりもしているということでしょうか。うむ、日本の飲食文化は本当に深いですね。まさに「酷」な状況なのでしょう。

日本屈指の職人が語る「コク」とは?公開中!

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2017.01.20

オバマ大統領 シッティング with ベンチ・等身大フィギュア

Th_41bvwhurf0l 本時間の明日、トランプさんが大統領に就任します。
 まじめな話、それによって世界が大きく動き始めると思いますが、その話はトランプさんの就任後にすることとしまて、今日はオバマさんについて。
 オバマさんの大統領としての業績については、もちろん賛否両論あります。私が改めて言うまでもなく、その賛否は表裏であって、どんなリーダーも必ずその両面の評価を担わなければなりません。
 というわけで、今日はそんな堅い話ではなく、全く違った次元(?)からのオバマさんの評価です。
 皆さん、こちらをご覧ください。オバマ大統領の等身大フィギュアつきベンチです(笑)。
 そのレビュー(評価)を読んでいただきたいのです。これぞ、別次元からのオバマ評(笑)。
 今日はただそれだけです。ふざけるな!と言われそうですが、まじめな賛美や批判をされるより、「まあ、ごくろうさまでした」という感じで緩くお別れの挨拶をしましょうかということです。
 しっかし、時々あるこうしたアマゾンの面白レビュー合戦(ほとんど大喜利)は読んでいて楽しいですね。そういえば去年の今頃2900万円の腕時計のレビューを紹介しましたっけ。
 上記オバマのページにある「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」もぜひご覧ください。
 ちなみにオバマ・ベンチは売り切れということです。次はトランプさんの何かが発売され、優れたレビューが投稿されることでしょう。私も書き込んでみようかな(笑)。

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2017.01.15

2017 センター試験国語(その2…古典)

036bh 日の続きです。今日はセンター試験の古典について少し書きましょう。
 写真は新井白石。そう、まず漢文が新井白石だったことに驚きました。日本漢文がセンター本試で出るのは初めてだとか。たしかに記憶がありません。
 江戸時代は平安時代以来の第二の「日本漢文」黄金期でした。新井白石も多くの漢文や漢詩を残しています。言うまでもなく、当時の日本人がお手本にした「漢文」は、唐宋時代のそれでしたから、当時としては500年から1000年前の「古文」なわけですよね。つまり「擬古文」ということになります。
 そう、古文の方も「木草物語」という江戸の擬古文でした。これはラッキーなことです。生徒たちにも、聞いたことのない作品が出たら、それは江戸の擬古文だからラッキーと思えと教えていました。
 漢文にせよ、古文にせよ、擬古文はあくまで擬古文です。文法、語彙的に擬古ということであって、全体的な文章表現は基本「出版物」なんですよね。
 たとえば源氏物語のような「ホンモノ」は出版されたわけではなく、すなわち非常に狭い読者層(たとえば宮中の貴族)を対象として書かれているので、まあ内輪話なわけですよ。だから、現代人の私たちにすんなり分かるわけはない。
 その点、江戸はすでに一般大衆を対象とした「出版文化」がありましたから、あくまでそういう潜在意識のもとに表現されている。だから、私たち「一般大衆」にはうんと分かりやすいわけです。
 だから私は、古文の問題は中世の仏教説話か江戸の擬古文を出せと吠えてきたわけです。いきなり源氏とか出すなよと。
 もちろん教養として「ホンモノ」を読むことは重要だと思いますが、あくまでも先生がいて講義してもらったり、注釈書を手元に置いておかなければ読解は無理なんですよ。それをいきなり初見で源氏物語の一節を読め、それもあの量をたった20分で完璧に理解して、問題まで解け、和歌もちゃんと読み取れって、そりゃ無理ですよ。
 そういう意味で、今回の古典の出典はGJでした。実際読みやすかったと思います、両方とも。ただし、問題はそれなりの知識と根性が必要ということで、ちょうどいい難度の問題だったのではと思います。
 新井白石の漢文の作文力とういのもそこそこでして、たとえば頼山陽なんかと比べると、まだまだ甘いというか、そうちょうど現代の高校生レベルという感じです(あくまで語彙や文法レベルでの話ですが)。
 そうそう、変わり者の国語のセンセーであるワタクシは、よく古作文や漢作文をやるんですよ。短文を作らせる。今風なネタで。そういう「作文」力をつけると、英作文ができると読解もできるようになるのと同じで、古典の読解力も確実にアップするんですよね。
 イップットばかりでなくアウトプットするのです。私は短歌(和歌)をやっているので、古文についてはしょっちゅう擬古しております。漢文は授業で(ふざけた)漢作文をやってウケを狙っています(笑)。でも、それができるようになると、生徒もそうなんですが、いちいち書き下しにして(つまりクソ難しい日本の古文に直して)読まなくてよい、つまり、漢文を(古い)中国語として、英語を読むように読めるようになるんです(発音はできませんが)。そうすると読解が早いし正確になる。どうぞお試しあれ。
 それにしても日本人ってすごいですよね。本国中国の人は全然「漢文」読めませんよ。中国の古文ですからね。今の中国語とは全く違うし。論語なんか全然読めませんよ。もちろん作文もできない。なのに、日本人はできてしまう。ヨーロッパで言えば、高校生がラテン語読んだり書いたりしてるようなものですからね。
 それから、今回も私は、全体のはじめに古文に取りかかりました。裏技とも言えますが、まず試験開始の3分で古文の問一と問二を本文を読まないでやっちゃうんですね。つまり語彙と文法という暗記事項で20点取ってしまう。
 あとで時間があったら本文を読んで点数を加算します。そのかわり、20分から3分を引いた17分を現代文の「情報分析」に割り当てるんです。具体的には、評論にせよ、小説にせよ、本文と選択肢の照合に時間をかけて、雰囲気で答えないようにするわけですね。そうすると最近は良問が多いので、間違いなく現代文で100点取れますし、実際は17分も余計にかかりませんので、結果として、漢文も含めて70分弱で150点キープできるのです。
 そして、余った時間で古文の本文をちゃんと読んで読解問題の点数を加算していく。結果として、今回は時間内で満点が取れました。実際は180も取れば充分すぎるくらいなのです。国語の場合は。もっとリアルなことを言うと、生徒であれば160取れば万々歳。それ以上の点は、神様仏様からのごほうびだと思っていいのです。
 こういう戦略的な作戦でほしい点を確実に取るということも大切です。戦いに当たっては、それがたとえ勉強であれ、スポーツであれ、戦争であれ、須らく戦略的であるべきです。なんでも正面突破の玉砕精神ではダメだったと、歴史は教えてくれますよね。情報戦で負けたことがある日本人は前轍を踏んではいけませぬ。
 というわけで、今回のセンター試験国語は、非常に公平な、良識的な、良心的な問題であったと思います。しっかり勉強して知識を身につけ、また技術や戦略を学んできた人はちゃんと点が取れたであろうということです。
 ウチの学校でも、私の言うことをちゃんと聞いていた生徒は、それなりに点を取れたはずですよ。
 ちなみに全国の平均点は昨年より10点くらい下がるでしょう。最後は戦略の差となったと思います。

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2017.01.14

2017 センター試験国語(その1…現代文)

 Th_kokugo_001 日はセンター試験第1日目。今年の国語はどうだったのか。
 結論から申し上げますと、昨年より難度は上がりましたが、問題の質としては「良」であったと思います。満点が出る「正常な」試験でした。
 昨年は良問であった上に易しめで平均点がずいぶん高かった。そのためあまり文句も言えず、いざ自分の思い通りの問題になると、となぜか物足りなくなったりしました(笑…昨年のレビューはこちら)。
 で、今年もまた良問なので、あまり書くことがないんですよね。困った(笑)。
 あえて言えば、小説が「短編の全文」ではなく、長編の一部に戻ってしまったことでしょうか。そう、ずっと私は「短編の全文」を出せと言ってきたわけですよ。それを2011年の記事で強めに吠えたところ、なんと次の年から5年連続で「短編の全文」が出題された。よっしゃと思っていたら、今年は…。
 しかし、さすがによく練られていて、「長編の一部」であっても、問題としては特に問題はありませんでした(問題が問題なしって変だな)。
 世間では「おっぱい、おっぱい」で騒いでいましたが、まあ、昨年もそうなんですけど、そういう「ネタ」で盛り上がる時は、問題に問題なしということなんですよ。
 あの野上弥生子さんの小説、なんかいいですね。なんか久々に骨のある文章を読んだ気がしました。ああ、これぞ「筆力」という感じの名文ですね。そんな中での「おっぱい、おっぱい」でしたから、私としては特に違和感というか、いやらしい感はなく、やっぱり騒ぐのは「ネタ」レベルでのことだなと感じました。昨年ほどは動揺しなかったでしょう、高校生は(笑)。
 ちなみに評論は「科学批判」、すなわち近代批判の文章で、文系にとっても理系にとっても、とっつきやすいありがちな内容であったと思います(もちろん単純な二項対立ではなく重層性はありますが)。
 最後の問題2問が「適当でないもの」を選ぶ形式だったのは意外といえば意外でした。ただ、センター試験で「最も適当なもの」を選ぶ問題ばかりだと、選択肢の膨大な文章のほとんどが「ウソ」「だまし」ということになるわけで、それはそれでよくないことだとも思うのですよ。言霊的にも。
 その点、「適当でないもの」を選ぶとなると、ほとんどが「正しい」文で、間違い(ウソ)が一つということになるわけで、世の中の実態からすると、こっちの方がより「適当」かもしれない。
 「最も適当でないもの」ということも基本的にありえませんしね。そう、「最も適当」だと、いくつか「まあまあ適当」なものも混入する場合があるわけです。ん?そっちの方がリアル社会に近いか(笑)。
 小説の最後の問題も「適当でないもの」を選ぶ問題でしたね。しかし、こっちは「二つ選べ」。それでも3分の2は「ホント」なわけですから、今年の(近年の)傾向としては「適当なもの」の逆襲が始まっている、善なるものが逆襲に転じつつしるとも言えるかもしれません。
 しつこくなっちゃいますが、やっぱり気になるんですよ、自分が問題作るときにも。大まじめな受験生に対して、いかにも引っかかりそうなウソをつくっていうのが。お分かりになりますよね。
 センター試験全体で言ったら、あるいは私大の選択問題も含めれば、毎年大量のウソや、性格の悪いヒッカケが生産されているわけでして、そういう観点からも、今後の「記述化」への方向性は間違っていないような気もするわけです。
 もちろん、世の中に溢れる「ウソ」や「ヒッカケ」を見抜く力も必要ですから、そうですねえ、私が大臣になったら、「適当でないもの」を答えさせる選択問題と記述問題に出題したいですね。
 あるいは「最もテキトー」なものを選ぶとか(笑)。
 明日は古典について少し書きましょう。

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2017.01.07

「自由」と「不自由」

Th__20170108_122930 日は我が富士学苑中学の推薦入試でありました。いつものとおり(創立以来)、国語の問題は私が文章を書かせていただいております。それを公開するのもまた恒例です。今年もここにその本文を掲載させていただきます。
 昨日までのシリーズにつながるかもしれませんね。誰が何が「正しい」のか。そんな疑問も含めて、今年は「自由」というタイトルで書かせていただきました。
 ちなみに問いの最後、作文のタイトルは…「自由の国」ではやってはいけないことは何もありません。自分や他人や世界に対して何をしてもかまいません。その「自由の国」に一日だけ行くことになったとしたら、あなたは何をしますか。なるべく具体的に三百字で作文しなさい…でした。
 受験生の小学生たち、それぞれなかなか面白い答えを書いてくれました。入試問題を通じて、しっかり対話ができたような気がして感激いたしました。
 正常か異常か。自由は不自由。不自由の中の自由。画一化の中に溢れ出る「個性」。生きる力ではなく死なない力。そうした一見矛盾するような価値観の中に、教育の本質があると思っています。
 ではどうぞ(当然実際の問題では、空欄や傍線、ルビなどがあります)。

     「自由」

 「本当の自由とは、なんだ?」
 先月行われた、富士学苑中学校の文化祭である「葵江祭」。その中で二年生が発表した演劇「夢屋」の冒頭にあったセリフです。
 みなさんは「自由」とはなんだと思いますか?
 なんとなく分かっていても、いざ説明しようとすると難しいですよね。今日はこの「自由」ということばについて考えてみましょう。
 「夢屋」という演劇の内容を、ものすごく簡単に書きますと次のようになります。

受験勉強や校則など、中学生としてのきゅうくつな生活から逃れたいと思っているユウコは、ある日、夢をかなえてくれる「夢屋」に出会って、「自由の国」に行くことになる。しかし、実際夢がかなって「自由の国」に行ってみると、そこは住みやすい所ではなかった。食べるものも着るものも、その日にすることも、全部自分で決めなければならないからだ。そして、結局ユウコも自分から進んで「不自由の国」、つまり現実に帰ってくることになる。

 さあ、みなさん、あなたが「自由の国」に行ったとしたらどう感じるでしょうか。あなたに対して、ああしなさい、こうしなさい、あれはしちゃだめ、これはしちゃだめという人はだれもいません。
 もしかすると最初のうちは「ああ、せいせいした」と感じて楽しいかもしれませんね。しかし、そういう日々が続いたとしたらどうでしょうか。
 みなさんも、夏休みなどの長い休みで、なんとなくヒマを持て余したり、早く学校に行きたいなあと思ったことはないでしょうか。
 人はいざ自由になると、いろいろ不便に感じたり、不安に思ったりするようです。
 たとえば、今日のこの試験で、なんの文章も与えられず(つまり今あなたが読んでいるこの文章がなく)、ただ真っ白な紙が配られて、「なんでも自由に書きなさい」という問題が出たとしたらどうでしょう。さっと答えられますか。原稿用紙のマス目もないのですよ。正直困りますよね。
 「問一〜しなさい。問二〜しなさい。… 問六〜について三百字以内で書きなさい。」というふうに、命令された方がずっと答えやすい。そうですよね。
 古い中国語では、「自由」という言葉は「自分勝手」「わがまま」というような悪い意味で使われていました。それが日本に入ってきたので、古い日本語でもあまりいい意味には使われてきませんでした。
 明治時代になって、それが英語の「フリー」などの訳語として採用されて、「〜からの解放」という意味、すなわち「縛られないで思い通りにできること」というような良いイメージで使われるようになりました。
 ただどうでしょう、先ほどの「真っ白な紙」のように、本当になんの縛りもないということは、実はあまり良いことではないのかもしれませんね。なにしろ全部自分で決めなければならないのですから。その証拠に、ユウコにとっての「自由の国」は「悪夢」となってしまったではないですか。
 中学生になったら、みなさんは「不自由が増えたなあ」と感じると思います。勉強も忙しくなりますし、クラブ活動でも縛られます。制服も着なくてはいけませんし、髪型も厳しく決められます。もしかすると、富士学苑中学は公立中学に比べて「不自由」なことが多いかもしれません。
 しかし、それは決してマイナスなことではないということを覚えておいてください。
 いろいろな決まりや縛りというのは、昔の人たちが「こうしておいて良かった」という知恵です。人生の先輩《ぱい》たちがみんな通ってきた「不自由」、時代が変わってもなくならない「不自由」には、ちゃんと意味があるのです。実は「不自由」は皆さんを守ってくれたり、導いてくれたりするものなのです。
 演劇の中で、夢屋はこう言いました。
 「自由とは、与えられるものではなく、自分で選ぶものなんだ」
 だれからの命令も受けず、アドバイスも受けないで、自分だけの力で全てを選ぶことは不可能です。それができるようになるには、大変な勉強や訓練や我慢《がまん》が必要でしょう。つまり、「本当の自由」を得るためには、勉強や訓練や我慢という「不自由」を通らなければならないのですね。
 富士学苑の母体になっているのは月江寺というお寺です。月江寺の住職になるには、大変な修行をしなくてはなりません。朝三時に起きてから夜寝《ね》るまで、やらなければならないこと、やってはいけないことが全部決まっています。たとえばずっと動かないで座っていたり、難しいお経を唱えたり、ゴミがないのに掃除をしたり、食べたいものが食べられなかったり、しゃべってはいけなかったり、なんの意味があるの? という「不自由」のオンパレードです。それを毎日、何年間もやるのですから大変です。
 その修行の内容はなんと何百年も前から変わっていません。そう、その変わらないたくさんの「不自由」は、最終的に自分自身を「自由自在」にコントロールできるようになるための知恵なのです。
 富士学苑中学校では、その修行を一晩だけ体験する行事もあります。どうですか? ちょっと体験してみたくなってきたのではないでしょうか。

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2016.12.26

『十字架』 重松清原作・五十嵐匠監督作品

Th_91b0ahf5vql_sl1500_ まっていた録画の一つ。思わず最後まで観てしまいました。
 吉川英治文学賞を受賞した重松清の原作を五十嵐匠監督が映画化。いじめをテーマにした作品ということで、教育現場にいるからこその抵抗があったのですが、やはりさすが重松清さん、もちろん単なる「いじめはいけない」的なテーマではなく、もっと深いところを暗く照射しつつ、結局は「生きる」ということを表現していると感じました。
 私は原作を読んでいないので、基本、映画作品として観たつもりなのですが、なんというか、そうですねえ、漱石の「こころ」の読後のような残像が残りました。
 残された者たち、その「残された」の「れ」はまさに「迷惑の受身」です。迷惑というのが不適切なら、「不本意」とでも言いましょうか。
 特に遺書に「残された」人たちの背負う「十字架」は大きい。この作品でも、「こころ」と同じように、「親友」と「好きな人」が苦悩するのです。
 しかし、「こころ」と違って救いがあるのは、その十字架を背負うのではなく、その十字架によって「生」の背中や足腰が鍛えられていく過程が描かれているところでしょう。あまりに重い荷物であるために、いつのまにか一体化し、そして普通ではないトレーニングとなっていくわけですね。
 個人的には、「好きな人」として名指しされた女性の誕生日が、「ふじしゅん」の命日であることも象徴的でした。そう、昨日の記事では、クリスマスが大正天皇祭だったじゃないですか。そして、イヴは志村忌。天皇誕生日はA級戦犯ら(たとえば私の尊敬する松井石根)の命日。
 こうして「死」と「生」が重なり、そして冬至を迎え、年も新生していく。そういう時期なのですね年末は。
 そういう意味で、この映画をこのタイミングで観たことには大きな意味がありました。
 これは「いじめ」のことだけを表現した作品ではない。「いじめ」は現代的な不本意な死の象徴であり、実は私たちは多くの歴史的な「死」という十字架と一体化して生きていかねばならないというメッセージを放った作品なのです。
 五十嵐匠監督の独特の映像感覚にも感心しました。特に、クライマックスとも言えるいくつかのシーンでの、揺れやピンぼけをも厭わないハンディカメラでの長回しは、まさに私たちが「傍観者」になりたいが、しかしなってはいけないということを訴えているようでした。
 役者陣の演技も素晴らしかった。演劇的でさえあることによって、ある部分ではリアルさを増し、ある部分ではリアルを超えた象徴的な表現になっていたと思います。
 個人的には、高校生の頃大好きだった富田靖子さんが、私と同様にしっかり歳をとって(笑)、見事な母親役を演じているところにホロッとしました。永瀬正敏さんもすごいなあ。
 映画好きの下の娘ともう一度観てみようと思います。

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2016.12.24

フジファブリック 『眠れぬ夜』

↓お預かりしている志村くんの遺品「アメスピ」
Th_img_6856 リスマスイヴ。すなわち志村正彦の命日。もう7年ですか。年月が経っても彼の遺した宝物のような作品たちは全く色あせないどころか、ますます輝きを増しているように感じます。
 今日はたまたま東京で用事があり、車で環状七号線を移動、高円寺を通過しました。その時聴いていたのがアルバム「MUSIC」。そして、向かった先は、これは偶然でありますが、板橋区「志村」。不思議な感じがしました。
 一仕事終わって富士山に帰る車中、何度か繰り返し聴いて涙してしまったのが「眠れぬ夜」です。
 彼のこの曲、そして曲中にある「さらける」という言葉については、かつてこちらに書きましたので、ぜひお読み下さい。
 まさに「眠れぬ夜」の連続の中で、天に召されてしまった志村くん。ある意味では「さらけて」しまったのかもしれません。そう考えると、この曲の歌詞は胸に深く突き刺さります。
 あらためて、彼と本当のお別れをした2009年12月28日の日の「天に帰った才能とは…志村正彦くんに学ぶ」という記事を読み返してみたいと思います。
 志村正彦は永遠です。

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