カテゴリー「文学・言語」の1000件の記事

2021.04.03

和歌の予言力

 日は次女の引っ越しで東京は上野へ。寛永寺のすぐ南にアパートを借りることになりまして、その素晴らしい環境にただただ羨ましくてしかたないワタクシでありました(笑)。

 さて、本当にまさかの上野住まいになった次女、そしてまさかの出戻り(?)で今年度も富士山麓の自宅でリモート大学生をやることになった長女。

 さらに私もまさかの…そう、いろいろと変化がありました。変わらないのはカミさんだけですな。まさに相変わらずです(笑)。

 で、いろいろと予想外なことが多い最近の我が家ですが、昨年の年賀状になんとなくその予兆というか、予言めいたことが書いてあることに気づきました。

 あの時は、本当に時間がなかったので、テキトーに30分くらいで四首の和歌を作って年賀状にしてしまったのですが、そういうテキトーなというか、火事場のクソ力的な創造力って、多分に他者性が強く、その結果期せずして予言的になることがあるんですよね。なにしろ過去の記憶とかによらないので。

 ちょっと他人事のように読み直してみましょうか。

2020_20210404153301

 私(隆之法師)の歌。これは実は八雲琴のことを詠んだものなのですが、実はここのところ、その糸、絹絃に関するちょっとした(大それた)企画に携わっていまして、これがとっても面白いことになりそうなのです。まさに富士山にて天地(世界)を揺るがす画期的な動きをあるかもしれません。乞うご期待。

 家内(珍彦母陽子)はいつも通りなので、まあいいや(笑)。相変わらず歌を歌っています。

 長女(紗季内侍)は、武蔵野の大学の寮を出ることになったのは大当たりです。その後、どういうわけか、インターネットという大海において音声配信などやるようになりまして、人々と交流するようになりました。大当たりですな。

 そして、次女(琴少納言)。「忍の岡」すなわち「忍ヶ岡」は上野の旧地名。この歌では辛いことを我慢する意味を掛けています。まさに伝統芸能の継承を志して上野に行くことになりましたから、これは的中も的中。おそろしや、和歌の力、言霊の力。

 最近、短歌を作っていないので、久しぶりに頑張ってみます。作るというより降ろせるようにしなくちゃ。

| | コメント (0)

2021.04.01

『日本習合論』 内田樹 (ミシマ社)

Th_41rifxmlql の本のクライマックスに登場する、次の一節こそ、この本で内田さんがおっしゃりたかった「可能性」でしょう。

 「氷炭相容れず」というほどに隔たったものを「水波の隔て」に過ぎないと見立てること、遠いものを近づけ、異質なもののうちの共生可能性を見出すこと、僕はそれが「できる」というところに日本人の可能性があると思っています。

 先日の鈴木孝夫先生の「日本の感性が世界を変える」に深くつながる本。そして、三島由紀夫と東大全共闘の話もでてきます。

 内田先生のいう「習合」「雑種」「ハイブリッド」等は、ワタクシのモノ・コト論ではもちろん「モノ」に属し、作られた「純粋」や「純血」は「コト」に属しますね。

 「これからはコトよりモノの時代」という、一般論とは一見逆に感じられる私のスローガンも、こうして解釈すれば多少は理解されることでしょう。

 私の言説は内田先生に比べるとかなり乱暴で粗悪ですが、言いたいことは完全に一致していると感じました。私は日本語のモノ、コト、トキを通して、いつか日本論、日本人論、日本文化論を書いてみたいと思います。

 「モノ」という言葉が持つそうした深い性質、論理では説明できない性質は、「物語」「物の怪」「物寂しさ」「もののあはれ」さらには「〜なんだもん(の)」に至るまで、私たちのよく知る日本語に生きています。

 さらに言えば、物部氏が信仰した「大物主」にも、そしてその神が象徴する「和魂(にぎみたま)」ともつながってきます。また、その物部氏を倒してしまった聖徳太子が憲法の第一条に置かざるを得なかった「和」に、そのエッセンスが凝縮しているとも言えます。そして、それが「習合」の起点とも言える。

 この本を読みながら、私自身がずっと考えてきた、いや感じてきた何か(=モノ)がはっきりとコト化されたような気がしました。おそらくはそれこそが内田さんの「物語」そのものの機能であるのでしょう。

 実に楽しかった。私もぜひ「頭がでかい」人間になりいモノです(このモノも他者性を表していますね)。

Amazon 日本集合論

 

| | コメント (0)

2021.03.30

『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』 鈴木孝夫 (新潮選書)

Th_41k1wdaipyl 年2月に、私の心の師匠、鈴木孝夫大明神が帰幽されました。

 大明神と称させていただくのは、まさに偉大な底ぬけに明るい神であったからです。

 最後の単行本となったこの本を読むにつけ、私の世界観、地球観、生命観、人生観が、大明神さまの影響を強く受けていることに改めて気づかされます。

 私が大明神を勝手に師と仰ぐのには理由があります。そう、一度家内とともに富士山麓の我が村にて酒席を共にさせていただいたことがあるのです。

Th_img_5698 その夢のような時間のことは、本当に忘れられません。まだ髪の毛のあった頃の私の(笑)、その表情を見れば、それがいかに素晴らしかったかお分かりになると思います。

 この本に述べられている言語論、文明論、日本論を、それこそ滔々と溢れ出る泉のごとく語られた大明神。そのコトタマを全身で浴びた私たち。

 思えば、この奇跡的な邂逅の直後から、本当に信じられないような人生の展開が訪れました。まさに神託を受けたごとくです。

 その当時にはその名さえも知らなかった仲小路彰に出会ったのは10年以上あとのことですが、考えてみると、鈴木孝夫大明神の師はかの井筒俊彦。おそらくは井筒氏はイスラーム学者として仲小路彰をよく知っていたと思われます。

 この本で述べられている内容は、たしかに仲小路彰の思想、哲学に非常に近いと言えます。まさに学統という遺伝子のごとき連関を感じずにはいられません。

 そうした大明神さまの思想に触れていたからこそ、私も仲小路の世界にすんなり入っていけたのだと思います。そういう意味でも感謝しかありません。

 私も、大明神さまの遺志のほんの一部でも嗣ぐことができるよう、ますます精進したいと思います。

 さて、この本、本当に全国民の教科書にしたいくらい素晴らしい内容です。そのエッセンスが皆様に伝わりますよう、「結語」の部分を抜粋引用させていただきます。

 このコトタマたちに感じるところがありましたら、ぜひこの本を購入してお読みください。これから私たち日本人がどのように世界に貢献してゆけばよいか、本当に分かりやすく説明されています。ぜひ。ぜひ。

(以下引用)

一、近時のあまりにも急激な人口増を主な原因とする、あらゆる資源の不足と地球環境の劣化のために、人類は産業革命以来これまでたゆまず続けてきた右肩上がりの経済発展を、最早これ以上続けることは不可能となっている。もし無理してこのまま発展を続行すれば、人類社会は収集のつかない大混乱に早晩陥ることは確実である。

二、従ってこのような破局を回避するために人類は、文明の進む方向をできるだけ早く逆転させる必要がある。人類は今や経済の更なる一層の発展拡大ではなく、むしろ縮小後退を目指すべき段階に来ている。比喩的に言うならば、人類はまさに「下山の時代」を迎えたのである。

三、一つの閉鎖系である宇宙船地球号内で人類がこれまで行ってきた、他の生物との協調を欠く自己中心的な活動は、地上にその悪影響を吸収できるフロンティア、つまりゆとりがある間は、弊害があまり顕在化しなかったが、あらゆる意味でのフロンティアが消滅している現在、すべてが一触即発の危機的状態にある。

四、現在我々が享受している生活の豊かさ、便利さ、快適さ、その結果としての長寿社会の到来、そしてそれを支えてきた、食料を始めとするあらゆる物資の増産、経済の拡大、科学技術の進歩のすべては、人類だけの限られた立場から言えば、善であり歓迎すべきことと言える。

 しかしこれらは皆、我々が美しいと思うこの現在の世界、まだ辛うじていくらかは残っている貴重な原生林や、素晴らしい何千万種といる貴重な動植物、空を舞う大型の鷲や鷹、そして海中の美しい魚の群れまでが、恐ろしいスピードで地球上から永遠に姿を消してゆくことと引き換えに人類が手に入れたものであることを知れば、手放しでは喜べない。このことは遅かれ早かれ人類の生存基盤そのものまでが崩れ落ちることを意味するからだ。この美しい地球を今のままの形で子孫に残したいという願望と、人間の限りのない欲望の追求とは両立し得ないことが、今では誰の目にも明らかとなってしまったのである。

五、言うまでもなく現在の人類の在り方、人々の目指す目標に最も強い影響力をもつ文明は、西欧文明、とりわけアメリカ文明である。ところがこれらの文明は極めて強固な人間中心主義的な世界観に基づく、極めて不寛容な排他(折伏)性を本質とする一神教的正確の強いものである。このような性格の欧米の文明が牽引車となって、二〇世紀の人類社会は未曾有の発展を遂げたが、同時に世界は刻一刻と深刻さを増す破壊的な生態学的混乱に加えて、欧米を主役とする植民地獲得競争と様々な対立するイデオロギーに基づく凄惨な抗争の絶えない動乱激動の時代でもあった。

六、一九世紀半ばまでは世界最長の「外国との不戦期間」を誇る辺境の小国であった我が日本も、欧米諸国の強烈な砲艦外交により「国際」社会に引きずり出された結果、イギリスとロシアの演じる中央アジアの覇権をめぐるグレートゲームの片棒を担がされてしまい、当の日本人自身も驚き戸惑うほどの、戦争をこととする並の欧米型国家になることを余儀なくされたのである。

七、このように日本は中華文明の国として優に千年を超す歴史を持つ国から、西欧型文明国家へのパラダイム・シフトを、明治維新という形の無血革命によって成し遂げ、ついで恵まれた地政学的な諸条件と欧米列強間の様々な対立抗争のおかげで、大東亜戦争に大敗北したにもかかわらず、西欧型の、それも経済技術超大国の一員とまでなって現在に至っている。

八、ところがこの日本は「生きとし生けるもの」との共感を未だ保持する唯一の文明国であり、宗教的にも日本人の圧倒的多数は、一神教の持つ執拗な他者攻撃性を本質的に欠く、神道や仏教的な世界観を失わずにもっている。したがってうわべは強力な西欧型の近代的国家でありながら、文化的には対立抗争を好まぬ柔らかな心性、「和をもって貴しとなす」の伝統を、日本はまだ完全には失っていないのである。

九、私はこの文明論で、いま述べたような性格を持った日本という大国が、現在大きく言って二つの、解決のめどさえ立たない大問題ー環境破壊と宗教対立ーに直面している人類社会が、今後進むべき正しい道を示すことのできる資質と、二世紀半にわたる鎖国の江戸時代の豊富な経験を持つ、教導者の立場に立っているのだということ主張している。江戸時代は、対外戦争がなく、持続可能で公害の伴わない太陽エネルギーのみに依存し、無駄なしかも処理に困る廃棄物を一切出さない、理想に近い循環社会であった。

 そして日本が自らの文明の特性を進んで広く世界に知らせ広めることは、要らぬお節介でも軽率な勇み足でもなく、今や大国となった日本がこれまで世界の諸文明から受けた数え切れない恩恵に、日本として初めて報いる、お返しをすることでもあると考えている。

 

Amazon 日本の感性が世界を変える

| | コメント (0)

2021.03.28

『三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実』 豊島圭介監督作品

Th_71gorvjojwl_sx300_ うやく観ることができました。コロナのおかげで1年以上遅くなってしまいました。

 1969年5月。私はまだ4歳。こういう空気が漂っていることも全く知らず、ウルトラセブンと怪獣のソフビを戦わせていました。

 右翼と左翼なんていう言葉はすでに死語だった時代に大学生になりました。しかし、山の中の公立大学には、この頃の残党が棲息していたりして、そこで初めて「政治の季節」というのが過去にあったということを知りました。

 では、それから40年経った今はどうか。実はどっぷりこの「政治の季節」に浸かっているのでした。

 そうは言うまでもなく、仲小路彰という天才哲学者に出会ってしまったからです。仲小路が残した三島の死についての厳しい論評を昨年紹介しましたね。

豊饒の海〜仲小路彰の三島由紀夫評

 死の1年半前、単身1000人の敵の前に堂々と乗り込んだ三島。その様子を捉えたこの貴重な映像。正直の感想は「?」でした。それは、彼の死に対するある種の落胆と似ているかもしれない。

 落胆というと失礼でしょうか。カッコ悪さに対して「傍痛し(かたはらいたし)」と感じたのです。そばで見ていて居心地が悪くなる感じ。

 戦いに臨む勇敢な男を期待していたのに、あれ?という感じになってしまった。いや、「乗り込む」まではいいのです。その後のカッコ悪さがどうも痛々しい。

 ここでも、結局、三島は「戦う」と言いつつ、「言向け和す」ことに終始し、ひたすら優しいのです。だから、ああいう和やかな笑いに満ちた時空間になってしまった。

 いや、私はそういう三島の方が好きです。カッコつけていきがった三島よりも、実は優しく空気を読みすぎる三島の方に共感します。

 本来なら、あのような空気になってしまったら、それこそ駒場900番教室で自決すべきだった。そうすれば1000人の敵に勝てたかもしれない。

 彼が近代ゴリラと揶揄されても、自らゴリラを演じ続けて教室を後にできたのは、皮肉なことに心優しき東大全共闘の1000人のおかげだったのです。だから三島の負けなのです。

 市ヶ谷には、そういう優しさがなかった。味方と思った自衛隊員がみんな冷淡な敵だった。だから、もう自決するしかなかった。では、勝ったのかというと、やはりこちらも負けです。

 いずれも「恥」をかかされたから負けです。それが三島の限界でした。それが傍痛しだということです。

 偉そうなこと言ってすみません。ただ、アフター「政治の季節」世代としては、どうにもシンパシーを抱けないのです。

 そういう意味では、いまだに生きて演劇で世の中と戦い続けている芥さんの方が魅力的に感じられました。

 この季節の総括をしなければ次の時代に歩み出せない、つまり、この季節が私たち世代の足かせになっているのですから、これからも仲小路彰を通じて、私なりに学び続けようと思います。

Amazon 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

 

| | コメント (0)

2021.03.14

武藤敬司は世阿弥を超えた!?

Th_-20210315-174927 藤官九郎と長瀬智也のタッグによるドラマ「俺の家の話」が好調です。能とプロレスと介護という、まさに「俺の家の話」なので、我が家でも毎回笑って泣いて大変です。

 ということで、昨日は能の話、今日はプロレスの話。

 いや、ワタクシならではの視点、つまり能とプロレスを同じ視点から見ての文章を書こうと思います。

 今日、我が富士吉田市が誇る世界的天才の一人、「俺の家の話」にも出演した武藤敬司(58)が、若きホープ清宮海斗(24)の挑戦を退け、GHCヘビー級王座を守りました。

 これはもちろん、その結果のみならず試合内容においてもプロレス界ではとんでもない快挙なわけですが、能の世界においてはどうかという話をしたいと思います。

 実はこの話、12年前に書いているんです。世阿弥の風姿花伝をプロレスに当てはめた記事。

風姿花伝より「年来稽古条々」〜プロレスと年齢その1

風姿花伝より「年来稽古条々」〜プロレスと年齢その2

 あの時は三沢さんのこともあったりして、あんな記事を書きました。三沢さんと武藤選手は同級なので、私は武藤選手のこともある程度念頭に置いて記事を書いたつもりでした。

 武藤選手も2010年にはボロボロの膝の手術で長期欠場を余儀なくされていますからね。

 そんな武藤選手が、まさか58歳でリアル・チャンピオンになり、若手をバッタバッタと、いや30分以上の長丁場の中でジワジワと攻略して、結果として圧倒的な強さを印象づけて勝利するようになるとは、夢にだに思いませんでした。

 つまり、武藤敬司は世阿弥を超えたのです(笑)。後継者に道を譲るどころか、立ちはだかっている。秘すれば花どころか、若手よりもずっと華やかな花を咲かせ続けている。

 というわけで、私の「風姿花伝プロレス訳」を再掲しておきます。いかに武藤選手がすごいか、そして、前も書きましたとおり、70歳の師匠がメインイベントで活躍してしまっている能(のみならず伝統芸能)の世界の異常さを考えていただければと思います。

 いろいろな意味で、世阿弥はこの私の訳を読んで、どんなことを思うのでしょうか。とりあえず怒らないでほしい…(苦笑)。

 

 …このくらいの年齢(四十四・五)からは、プロレスのやり方がほとんど変わるに違いない。
 たとえ世界的に認められ、プロレスを窮めていたとしても、良き後継者を持つべきである。プロレスの才能自体は衰えなくとも、やむを得ず次第に年老いていくもので、肉体的な花も、観客から見ての花も失っていくものである。
 まず特別に優れた外見の持ち主ならともかく、それなりの者であっても、素顔、素肌をさらすプロレスは、年をとってからは見られないものである。したがって、そちらの方面ではもう試合はできない。
 このくらいの年齢からは、むやみに高度な技を出すべきではない。全体にわたり、年齢に合った試合を、軽く力まず、若手の後継者に花を持たせて、相手に合わせて少なめに動くべきである。
 たとえ後継者がいない場合であっても、ますます細かい部分で体に負担がかかるような試合はすべきではない。どうしようとも、観客は花を感じない。
 もしこの頃まで消えない花があったなら、それこそが真の花であるのだろう。
 その場合は、五十近くまで消えない花を持っているレスラーであるならば、四十以前に名声を得ているに違いない。たとえ世界で認められているレスラーであっても、それなりのプロは特に自分のことを知っているだろうから、ますます後継者を育て、それだけに専念して、あらが見えるに違いない試合をするべきではないのである。このように自分のことを知る心こそ、その道の達人の心であるに違いない。

 …このころ(五十過ぎ)からは、だいたいにおいて、「しない」ということ以外には手だてはあるまい。「麒麟も老いては駑馬に劣る」と申すこともある。そうは言っても本当に窮めたレスラーならば、技は全てなくなって、どんな場面でも見どころは少ないと言っても、花は残るに違いない。
 亡き父であった者は、五十二だった五月十九日に死去したが、その月の四日、静岡県の浅間神社の御前で奉納試合を仰せつかり、その日の試合は、特に華やかで、観戦の人々は一同に賞賛したものである。おおかたその頃は、技を早々に後継者に譲って、無理のないところをごく少なめに色を添えるようにだけこなしたのだが、花はいよいよ増すように見えたものである。
 これは、本当の意味で得た花であるがゆえに、そのプロレスリングにおいては、枝葉も少なく、老い木になるまで、花は散らないで残ったのである。これは紛れもなく、老骨に残った花の証拠である

| | コメント (0)

2021.02.24

保守とリベラル、全ての多様性を奪ったSNSの功と罪【東浩紀×ホリエモン】

 

 編のタイトルは『SNS時代における「論壇とネット教養」』です。とても面白かったので共有します。

 SNSが人間をおバカにしたのは間違いありません。

 自分もこのブログやツイッターをやっております(最近はClubhouseもかじっていた)ので、ずいぶんおバカになったという自覚があります。

 反面、以前では考えられないような出会いを招いてくれたという功の部分もあります。罪ばかりではないのです。

 罪の部分は、自覚によってなんとかコントロールをすることができますから、要はそれさえできれば、ここでの論点は解決するとも言えましょう。

 では、どう自覚させるか。

 これは教育の問題につながってきます。

 実はSNS以前に、学校教育の段階ですでに「考えない」ことを強要しているのでした。生徒の側も、入試に必要な知識のみを要求し、決して深く考えるという面倒くさい時間を求めたりしません。

 つまり、SNSの罪の部分は、SNS自身の罪ではなく、SNSを登場させ流行らせた学校教育に責任があるのだと思います。

 安直な一問一答的教育(学習)がなされている限り、その解決は困難、いや絶対に不可能であると思います。

 ですから、この問題を根本的に解決するためには、やっぱり「学校をぶっ壊す」必要があるのです。

 ワタクシゴトになりますが、明日、次女が某国立大学の二次試験(の一次試験)を受験します。その世界は、いわゆる学校教育とは全く違う教育がされている世界であり、私は最近そこに古くて新しい教育システムを見るような気がしているのでした。

 正直、SNSとはかけ離れた、正反対の世界ですので。結果はどうあれ、そういう「わかる」ことの永遠にない世界を体験している娘を見ると、少しうらやましくさえ感じます。

| | コメント (0)

2021.02.22

『ユメ十夜』実相寺昭雄・松尾スズキ・天野喜孝ほか

Th_91byvgjn3kl_sx300_ 日は猫の日。猫と言えば夏目漱石…というわけではありませんが、ええと、ここのところ古いドラマや映画を観ることが多いのと、パロディとか偽物とかのネタが続き、虚実皮膜の間と言えば実相寺昭雄監督だったりもして、さらに我が校のYouTu部がいろいろなメディアから取材されたりして、短い作品をいかに魅力的に作るかとか考えていて、それでこのオムニバス作品を鑑賞することになりました(長い道のりでした)。

 これ単純に面白いですよね。唯一原作通りやってしまった大ベテラン市川崑監督の第二夜が、ある意味一番目立ってしまっている(笑)。

 ほかはベテランでありながらいつまでも少年のような実相寺昭雄監督や、いつもふざけてる人や、若くて常識に縛られない人たちが、まじめに(?)漱石をパロったので、とにかくカオスになっております。

 私は嫌いではありませんが、どうでしょう、夏目漱石を神と崇める方々にとっては苦痛というか怒りの対象でしかないのかもしれませんね。

 どれもそれぞれ面白いのですが、やはり2006年(平成18年)の2ちゃんねる文化を懐かしむという意味でも、第六夜が一番笑えましたかね。

 

 

 今日も高校生や某テレビ局のディレクターさんと話しましたが、やっぱりYouTubeの動画って全然アートを感じませんよね。テレビも(映画も?)そちらに寄せてしまったりしていて非常に残念なことになっています。

 単なるノスタルジーではなく、漱石の作品のように、また実相寺の作品のように、時代を超えて「変」なモノを作る必要があるのではないでしょうか。

 というわけで、私は死ぬまでに新作能の本をいくつか書きますよ(と宣言してみる)。

Amazon ユメ十夜

| | コメント (0)

2021.02.15

『放浪記』 成瀬巳喜男監督作品

Th_91ehtqxx5xl_sx300_ 日紹介した本の中で、宝田明さんが一つのターニングポイントになった映画として挙げてる本作。

 四半世紀ぶりに鑑賞しました。

 なるほど、それまでの宝田明さんのイメージとは違う「イヤな男」「ダメな男」を演じていて新鮮ですね。

 本にあった高峰秀子さん演ずる林芙美子との無言のシーン。ここだと特定はできませんでしたが、次第に男の嫉妬心から二人の関係が冷めていく様子を見事に演じていますよね。

 そして、そんな宝田明さんを、ある意味手荒な方法で導き出した高峰秀子さんの上手さたるや。女のしたたかさ、バカさ、可愛さを見事に演じていますね。

 それぞれの女の生き様を通じて、女の幸せとはを問い、さらにそこに男性の不幸や社会の矛盾を照応させて表現する成瀬巳喜男監督の真骨頂。

 作為なき画作りが、これほどに説得力を持つのか。今の若い表現者たちにぜひ観てもらいたいですね。

 それにしても、まあいつの時代も女は強いですね(笑)。男尊女卑とか言われる時代ではありましたが、誤解を恐れず言えば、そういう社会構造でちょうどいいくらい男は弱い生き物なのでした。

 そう考えると、今の世の中はどうなのか。林芙美子が最終的にああやって男性に伍して活躍しても、なんとなく不幸せそうに見えるのはなんででしょうね。

 そして、いつの時代も加東大介演ずる安岡のような「いい男」が損をするのか。いや、得をしたとも言えるのかもしれない…などと、いろいろ思いを巡らせて鑑賞した2時間でありました。名作。

Amazon 放浪記

 

| | コメント (0)

2021.02.06

(続)これからは音声配信の時代!?

 

 日の続きです。Clubhouseに誰も招待してくれないと書いてアップしたら、すぐに友人が招待してくれまして、さっそくClubhouseデビューしました。ありがたや。ま、ラジオのただのリスナーという意味でのデビューですが。

 少し体験してみて、やはりこれはカフェや居酒屋の延長かなと感じました。普段いろいろな意味でなかなか接することのできない方々のおしゃべりを盗み聞きする感覚というか。

 つい聞き耳立ててしまうので、やはり占有される時間がダラダラと増えそうですね。逆に言えば「ながら」が許されるので、占有されると言ってもその度合はこちら側で調整できそうでもあります。

 内容がある程度事前に企画されているとはいえ、どこに向かっていくのか、だれが乱入するのかが分からないというライヴ感があり、アーカイヴ化されないということとも相まって、そうですねえ、感覚としては、深夜放送を聞いている感じというかなあ、そんな懐かしさを覚えました。やはり、新しくて古いスタイルなのか。

 上掲動画もフル視聴しましたが、なるほど皆さん、だいたい私と同じような感覚で捉えていますね。

 いったいこれからClubhouseがどのような形で収益化を図っていくのか興味のあるところですし、ツイッターのように玉石混交、どちらかと言うと石が多い「場」になっていくのか、それとも結局意識高い系の狭い「場」になっていくのか、もっと違う形で健全に成長していくのか気になるところです。

 夜にはあるZoomサロンに参加しましたが、ちょっとワケあって、そして Clubhouse的雰囲気の延長だったからか、このたびはカメラもマイクもオフにしたまま参加しました。そうすると、やはり参加している気持ち、気分が違いますよね。意外に自分ペースで頭を働かせることができ、考えがまとまりやすかった。

 リアル対面でもそうですが、しっかり相手と目を合わせて話を聞くと、どうしてもインプット主体になってしまうんですよね。なんとなくアイデアが湧いてきても、なにか生返事、空うなづきするのも悪いような気がして、それを抑え込んでしまうことがある。

 その点、やはり音声だけのコミュニケーションだと、こちらのペースを守ることができますよね。まあZoomとかでも、下半身はパジャマだったりして、半分自分のペースだったりするわけですが(笑)。

 あと、繰り返しになりますが、やはりアーカイヴが残らないというのは重要なポイントでしょうね。ストックではなくフローの緊張感というか、希少性というか。

 期限付きのアーカイヴ(ストック)も同じような効果を生みますね。私と高城剛さんとの対談や、私と安藤美冬さんとの対談も、ある一定期間だけの公開だったために、ある意味「伝説」と言われるようになりました。これが今でもいつでも聞ける状態だったら、ちょっと違っていたのではないでしょうか。

 Clubhouseでも「神回」はこれからも生まれるでしょうから、録音を有料で売るということも視野に入れてみては。そうすると全体の内容レベルも上がるような気がしますが。いや、そういう下心があると「神回」は生まれないのかも…。

 いずれにせよ、今日は「これからは音声配信の時代」を再確認した一日でありました。春からは単純作業の繰り返しをしなければならないかもしれないので、そういう時のバックグラウンド、いやいやメイングラウンドとして、音声配信にお世話になる予感がします。楽しみでもあります。

| | コメント (0)

2021.02.05

これからは音声配信の時代!?

Th_images_20210206104301 い話が続いたので、今日は新しい話を…と思ったのですが、結局古い話になりそうな予感。

 ここのところ、Clubhouse が話題になっていますね。私は招待してくれる人がいないので未体験ですが(さっそくご招待いただきました。ありがとう!)。

 話を聞いたところによると、結局「限定ライヴ」なプレミア感があるのかなと感じました。そして、それは先祖返りであるとも言える。

 ある面では動画コンテンツから音声コンテンツへ逆戻りということですし、ある面ではアーカイヴ化されない消えゆくモノの魅力であったり。

 コロナ禍の巣ごもり需要の一つとして、それまで当たり前にあった友人との他愛のないおしゃべりや、居酒屋での愚痴りや激論の代替環境という意味合いでも、やはり古くささも感じます。

 第三者というか、居酒屋の隣の席の他人が会話に乱入してきたりするのもまた、古いアクシデント的コミュニケーションのあり方とも言えますね。

 基本実名顔出しというのも、よりリアルの感覚に近い。もちろん、優れたシステムでほとんど相互の会話に遅延がないというのも、リアルに近い要素の一つです。

 これから Clubhouse がどのように発展するのか、あるいは一時のブームで終わってしまうのか、注目していきたいと思います。

 さて、こうした音声配信コンテンツやプラットフォームが復権してくるのは予想されていましたよね。実際、既存のSNSプラットフォームが音声部門を強化しています。

 言うまでもなく、音声コンテンツは、映像、動画コンテンツと違って「ながら」が可能であること、データ量が少なくてすむこと、テキストとは違って微妙なニュアンスを伝えられること、アーカイヴに残さないことによって「一回性」に価値を与えられることなど、さまざまなメリットがあります。

 結果として音声情報の占有時間は長くなります。ある意味では縛られる時間が長くなるわけですね。それは、デジタル化による「こちら側」優先の流れに反し、「あちら側」を優先することになります。

 これは私の「モノ・コト論」からすると、「モノ(不随意・他者)→コト(随意・自己)」という近代化の流れに対するカウンター、つまり「コト→モノ」というポストモダンの運動性の一つとも捉えられます。単なるノスタルジーとは違いますね。

 コロナ禍で期せずして実家に巣ごもりすることになった大学生の長女は、昨年秋から音声配信をするようになりました。なんだかよくわかりませんが収益化もしているようで、最近私にいろいろおごってくれます(笑)。

 YouTubeの時代はもう終わりつつあります。いろいろな意味で飽和状態です。これからは音声配信の時代であり、それはかなり長く、いやほぼ永遠に続くものと思われます。

 あとはプラットフォームとしてどこが勝つかということでしょうね。

 トーク、音楽、環境音、生活音…さまざまな音声コンテンツをどのように融合していくか。そして、どこまでSNS性、インタラクティヴ性を取り入れるか。他のメディアとの関係をどのレベルで結ぶのか。音声のテキスト化やアーカイヴ化をどこまで許すか。いろいろ注目すべき課題がありますね。

 このブログは完全なる「ストック」メディア。「フロー」メディアとしての音声配信にも興味があります。私も音声配信するか、それともプラットフォームを作るか、いろいろやってみようかと思います。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧