カテゴリー「文学・言語」の980件の記事

2018.10.12

Power FemaleーMother Earth/神聖なる女性

Th_img_2770 人であるマシュー・エリクソンの写真展「Power FemaleーMother Earth/神聖なる女性」。本当に素晴らしい展覧会、いや「天」覧会でした。21世紀のアートが宇宙に発信されました。
 写真の歴史と可能性、絵画との接点と相違点、天地人の調和、女性の神聖…本当にいろいろなことを感じさせてくれる素晴らしい作品群でした。
 僭越ながら、多くの皆様の前で、そこで感じたことを言葉に変換してお話させていただきました。私が私の言葉を弄すれば弄するほど、それはアートから離れていってしまう。まさにアートとは言語を超えた存在であることを知らされました。
Th_img_2793 しかし、あえて引用させていただいた仲小路彰の文章は、そのままアートでしたね。天才の言葉は言葉を超えます。朗読させていただきながら感動してしまいました。
 ただ、トークの寸前に降りてきた「かげ」という言葉は、自分においても大きな発見であり、その「場」を表現するのにふさわしかったかなと思います。
 「かげ」…日本語では、「光」「影」「姿」、そして「おかげさま」という四つの意味がある。それがマシューの作品には全て含まれている…。
Th_img_2765 そして、私のエレクトリック・ヴァイオリンの即興演奏に合わせた、マシューの奥様アムリッタ朝子さんの即興舞の美しさ。それはまさに「女性の神聖」そのものでした。あの奇跡的な「場」で共演させていただき光栄です。
 たしかに世界が変わりつつあります。今日も不思議な出会いがいくつもありました。人と人のご縁は、全てこの地球のためにあり、宇宙に開かれており、神聖なるお役目のためだと思いました。
Th_img_2762 これはトークのお礼にといただいたマシューの作品「クリスタル・ジャズ」です。
 まさに私たちの世界はジャズの名手たちの奏でる音楽のように、自由であり、他者との関係性の中で豊かであり、陰陽があり、色彩がある。
 これからも友人たちと、この地球が平和であるために、できることをしっかりやっていきたいと思います。ありがとうございました。

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2018.10.06

『大正天皇』原武史(朝日文庫)

Th_41uwic3gryl_sy346_ 々大正天皇のお墓参りをしております。なぜか分かりませんが、ふと思い立ってお参りすると、必ずなにか不思議なことが我が身に起きます。
 もともとは出口王仁三郎を通じて大正天皇に興味を持ちました。王仁三郎は一説では有栖川宮熾仁親王のご落胤とも言われております。
 大正天皇は有栖川宮威仁親王を心から信頼し敬慕していました。結果、有栖川宮家は断絶するわけですが、大正天皇はその祭祀をのちの高松宮に託すことになります。
 その高松宮のブレーンだったのが仲小路彰ということで、私の半生におけるキーパーソンは全てリンクすることになります。
 まあ、それはごく個人的なことであって、そこになんの意味があるかはよく分かりません。しかし、その不思議なリンクを考える上で、大正天皇というのはどうしても外せない存在です。
 一般には病弱でちょっと頭も…というとんでもない評価をされてしまっている大正天皇ですが、10年前こちらにも書いたとおり、大正天皇は素晴らしい漢詩人でありました。そこ一つをとっても、とても暗愚の方とは言えません。
 ある意味、時代が強制的に大正天皇を追いやり、まさに暗愚な時代というべき昭和の初期が到来することになります。明治維新150年の今年、大きな流れの中で見ますと、大正天皇は軍事を嫌い平和的世界を切望した方だったことが分かってきます。
 そんな心優しきお人柄をしっかり描写、紹介してくれているのがこの本です。今、考えるべきは、いったい何が、誰が、大正天皇を日本の歴史から追いやったのか、大正天皇が高松宮さまに託した思いはなんだったのか、そして高松宮家も断絶してしまった今、その大正天皇の想起した「国体」はどこにあるのか、ということでありましょう。
 ちなみに大正天皇のお后さま、節子皇后については、同じ原さんの「皇后考」に詳しく書かれています。そちらもおススメです。

Amazon 大正天皇

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2018.09.26

親指シフト on 文春オンライン

Th_img_5a96af91aacdd0c2480fcd6191bd は親指シフターです。今日はどういうわけか、そんな親指シフターが喜ぶ記事が文春オンラインに三つも並びました。
 なんでも今日はワープロの日(40年前の今日、東芝が日本初の日本語ワープロを630万円で売り出した)だとか。で、おそらく文春の編集部にも親指シフターがいるのでしょう、プチ特集を組んでくれたようです。
 そもそも親指シフトと言っても分からない人がほとんどでしょう。スマホなどのフリップ入力のことを「親指入力」と言いますので、それのことだと思っている人もいるかも。
 親指シフトとは、今や極少数派になった日本語入力方法です。詳細はこちらをご参照ください。
 かつての富士通のワープロOASYSを使っていた人たちの中には、いまだに親指シフト以外の入力方法は考えられないという人もそこそこいるのではないでしょうか。私もその一人。かな入力やローマ字入力はほとんどやったことありません!
 何が良いのか、なぜやめられないのかは、それこそ文春オンラインの記事を読んでみてください。

根強い人気なぜ? 「親指シフト」販売店に聞いてみた

直木賞作家・姫野カオルコが「親指シフト」を愛用する理由は「日本語のリズム」

“親指シフター”作家・高橋源一郎の「生活」と「意見」

 そう、まさに「文化」なんですよね。文化はそう簡単に捨てられませんよ。
 ある意味、私の人生もその文化のおかげで、こうして充実しているとも言えます。親指シフトによって紡ぎ出された文章たちが、いろいろなご縁を作ってくれました。創造性、生産性抜群ですよ。
 そうそう、最近、親指シフトを習得して大活躍している若者に会いましたよ。るってぃさんです。彼とはいろいろ話が合うんですが、まさかの親指シフターだったので、ますます意気投合しました。
 彼は親指シフトを習得することによって自信を得たと言います。次の動画を観てください。

 そう、実は1週間あれば親指シフターになって、99%の人に優越できるんです。そして、実利も多い。上の記事にもあったとおり、指でしゃべるというか、指で音楽を奏でるというか、そういう感覚で文章を書けるようになるんですね。
 ちなみに私は今、MacBook Proを使っていますが、もちろん親指シフト入力しています。ようやく karabiner-elements 単体で親指シフト入力できるようになったんですよね。
 正直、Macと親指シフトの組み合わせは最強のクリエイティブ・アイテムですよ。それ以外だと、私の生命力はガクンと落ちてしまいます(笑)。
 というわけで、人生を変えたいという皆さん!だまされたと思って、1週間本気で親指シフトを練習してみてください!

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2018.09.25

新潮45休刊!?

Th_post_24888n 然の休刊宣言に驚きました。
 最近の社会の傾向ですが、なにかあると、辞任とか休業とか休刊とか、そういう責任の取り方が多いですよね。
 それでいいのかなあとも思います。
 結果として、小川榮太郎さんや新潮45を批判、攻撃した人たちが正しかったという結論になってしまいました。
 そんなに短時間で正答が出るような単純な話ではないと思うのですが。以前よくあったように、別の雑誌と全面戦争的に識者が言論で戦う、それを読者ら一般市民が観戦しつつ、議論自体も深まり社会の認識も深まるという、そういう道が、こうして簡単に閉ざされしてしまうことに危惧をおぼえます。
 それはすなわち、市民の感情、特に好悪の感情や、薄っぺらい正義感、そして安っぽい嫉妬心などが集合体となって…つまりそれこそ暴力だと思うのですか…倫理観や制度が醸成されていってしまう。
 昭和の言論の内容が正しかったかどうか知りませんが、ただそのプロセスやそこから生まれる文化、あるいは変な言い方ですが愛や友情というものには、シンパシーをいだきます。
 ところで、私が知っている新潮45は、けっこう怪しい雑誌ですよ。エログロというか、未解決事件とか猟奇事件、あるいは赤裸々な性の世界などを扱い、なんというか、カストリっぽいところがあって、それはそれで面白かったし、誰も文句言いませんでしたよね。
 私も何度か書いていると記憶していますが、人権、平等を声高に表現するばかりに、結果として逆差別、不平等を生むことは往々にしてあります。
 最近よく言われる「不寛容な社会」も、ある意味自己に対する寛容を権利として主張しすぎたばかりに、結果それを認めない、あるいは意識していない人への不寛容を生んだのではないかと思います。
 SNSなどが発達して、(ワタクシも含めて)不勉強かつ感情的な庶民が自由に無責任にその思いを発信したり、誰かの思いに乗っかったりできるようになりました。その弊害を見るにつけ、人類はここでも修行をさせられているのだなと感じます。
 ある種の自由を得ると、そこには新たな苦悩(不自由)が待っているのでありました。しかし、それはあくまで修行です。長い目で見れば悪いことではないとも思うのであります。

Amazon 新潮45 2018年10月号

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2018.09.21

小川榮太郎氏が語る「二・二六事件」

 だ今、なにかとお騒がせ中の小川榮太郎さん。彼とウチとは決して遠くない関係なのですが、まあ、あれは批判されてもしかたないですね。特集もちゃんと全部読みましたし、彼の反論ビデオも観ましたが、正論にしてもやはり言い方というものがある。文学的批評というのもありだと思いますが、やはり「感情的」になっているところが分かる文章はいけない。残念です。
 もちろん批判する側も非常に感情的で気持ち悪い。いずれにせよ、日本の論壇はこんなレベルなのかという絶望感があります。
 さて、そんな小川さんですが、歴史、特に昭和史に関する論評はバランスがよく好感が持てます。ここで語られている二・二六事件論もなるほどと思わせるところがあります
 やはり小川さんは文学者であり、歴史としての事実だけでなく、たとえば青年将校の「精神」を評価していますね。結局のところ、この事件が多くの文学や映画に描かれているのは、そういう一面があるからです。
 近代の社会科学としての歴史学は、ある意味唯物論的であり、精神、意識の部分を捨象して成り立っています。そこに異論を投じるのは、たしかに文学者の役目であり、またいわゆる保守論壇の役割であるかもしれません。
 しかし、そこに過度な同情や敵愾心を盛り込んでしまうと、今回の騒動のようなことが起きてしまう。そこが文学や保守の弱点でもありましょう。

Amazon 一気に読める「戦争」の昭和史

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2018.09.09

第20回 かりんの会 朗読会

Th_img_2526 日は河口湖円形ホールにて地元の朗読の会をお手伝い。朗読に即興で音楽や効果音をつける役割です。
 いろいろな音楽活動をしておりますが、ある意味このお仕事が一番やりがいがあります。
 特に今回は本番寸前まで朗読の内容もわからず、リハーサルも基本なしでいきなりの本番だったからです。
 一度だけ朗読を聞かせていただき、そこでイメージしたものを、本番で実際に音にする。これはなかなか集中を強いられる作業であります。
 全く練習しなくてよいというメリットはあるのですが、その分本番が大変。当たり前のことですが、ある意味その緊張感というか、集中している感じが自分では好きですし、今日もそうでしたが、ありがたいことにこういうスタイルの方が、お客様や共演者に好評だったりする(つまりちゃんと練習を要するジャンルだと不評)。
 私は絶対音感がないので、たとえば浮かんだメロディーをその場で楽器で演奏することはできません。では、どうやって音楽を奏でるかというと、とりあえず最初の音を出して、そこからは勝手に音楽が動き出すままに演奏するのです。
 そういう意味では全く自我がない状態であり、自分はただ楽器を通じて音を具現化する、まさにメディア(ミーディアム)の役割しかしていません。
 音を出すタイミングなども、朗読を聞きながら、考えるのではなく感じてやっていますので、逆に言うと、二度と同じ演奏はできないんですね。それがまた面白い。再現性ゼロです。
 今日もそういう瞬間が何度かありましたが、朗読する方と波長があって、お互いに盛り上がる時があります。これはなんとも言えない体験です。
 さて、昨年は4種類の楽器を弾き分けましたけれど、今年はシンプルにヴィオラだけにしました。そのヴィオラで、音楽だけでなく、人が怒っている声、津波の音、鐘の音、心臓の鼓動、救急車のサイレンなども表現しました。どちらかというと、そういう擬音が得意なんですよね。宴会芸で鍛えられているので(笑)。
 いやあ、それにしても、今日朗読された作品、みんな良かったなあ。途中何回か泣いてしまいました。本当に。言葉の持つ力ってすごいなあ。
 音楽と言葉の関係、今とっても興味のある分野です。
 来月には東京で即興演奏をする機会があります。ダンスとの共演。楽しみです。またそれは告知したいと思います。

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2018.08.29

『なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか』 立川談慶 (日本実業出版社)

Th_51oust2n6kl_sx349_bo1204203200_ 日の話の続きなりましょうか。「学校」という異様空間の中での優等生が本当に優等なのか。それとも与太郎にこそ生きる力があるのか。
 実はこの問いに対する正解を、多くの先生たちは経験的に知っています。
 もちろん、優等生こそ優等…なのではなく、与太郎こそ可愛げがあり、生きる力を持っていて、なんだかんだ社会に出るとうまくやっていっている。
 逆の心配も常に消えません。すなわち、優等生がダメになるという経験則です。
 ですから、私も含めて、心ある(?)先生たちは、優等生を見つけると、それを崩しにかかります。それこそが仕事だとも言えます。
 今日もたまたま卒業生姉弟とその親御さんが遊びに来たのですが、その卒業生は二人とも、特に弟くんは「学校」的には手がかかりましたが、まあ、大人になったらそれなりにちゃんとやっていけるでしょうというタイプでした。
 そういう目利きをした先生たちは口を揃えて「大丈夫ですよ」と言いましたが、母親は心配でしかたなかったし、今も心配だと、今日は笑っていました。
 立川談慶さん、実は先日、私学の研修で講演されたのです。その話がとても面白かったので、御本人おススメのこの本を読んでみたというわけです。
 うん、たしかに!ということがたくさん書いてありました。談慶さん、山梨の私立の進学校を出て慶応大学に入り、ワコールに就職したという、まあそれだけ見れば、まあ優等生の部類に入るでしょう。
 しかし、そこから会社をやめて、立川談志に入門する。すっかり与太郎になってしまいました(笑)。ある意味、ボケとツッコミの両方を経験、理解している人ならではの、とってもためになる本でした。
 そうそう、ボケとツッコミって、素人のワタクシからすると、ボケがバカでツッコミが賢いのかと思っていたら、逆なんですね。うん、たしかに、ボケは社会の常識から自由で、ツッコミはそこに縛られている。だから、ツッコミの方がバカだと。キンコン西野さんもそう言っているそうです。
 そうした視点の転換を促すのが落語であり、またこの本であると思います。
 談慶さんの言葉を使えば、「敏」と「鈍」のアウフヘーベンでしょうか。二項対立、二元論ではなく、それらをアウフヘーベンするのが落語であり、日本人の知恵であったと。
 ディズニーランドに行くか、家で静かに写経するかで迷ったら、「ディズニーランドで写経する!」だそうです(笑)。なるほど!好きだなあ、その発想。
 時代が急速に変化していく現代、こうして古典の洗練された「型」の世界に、ある意味逆説的に真理を見出すことは、とても大切なことでしょう。それ自体が、現代と過去、新と旧といった二項対立を超えることだと思います。
 それにしても、たしかに談慶さんの話し方をうまかったなあ。あのリズム、間、微妙なずらしや、フリ、オチなど、人前でしゃべることを仕事としている者として、大変参考になりました。

Amazon なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか

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2018.08.22

安倍宗任(鳥海三郎)とニギハヤヒ

Th_250pxabe_munetou 田旅シリーズの番外編。
 実はこの旅、最初に企画してくれた方はあの方です(わかりませんよね)。御本人は残念ながら不参加になってしまいましたが、心は一緒に旅してくれたということでしたので、さっそく報告がてら近所にあるプライムミニスターのセカンドハウスにおじゃましました。
 そこで土産話&2021年以降の話をたっぷりさせていただいた中で、いつのまにか話題の中心になっていたのが、安倍宗任さん。
 ちなみに安倍総理のご先祖は安倍宗任です。安倍宗任は秋田近辺にいましたが、前九年の役で捕らえられ、のちに伊予、筑前に配流になっています。東の果てから西の果てまで流されたわけです。そして、その安倍宗任の子孫のうち、山口県長門市油谷に住み着いた一族が、安倍総理のご先祖だと言われています。
 その安倍宗任、実はこの旅で分かったことがあります。
 ウチのカミさんは旧姓「安倍」ですが、「アベ」とは読まず、すわなち「I'm not ABE」でして(笑)、「アンバイ」と読みます。
 ウチの家内の故郷は秋田県の羽後町軽井沢という山の中の集落です。鳥海山を望むその地には「安倍(アンバイ)」さんや「阿部(アベ)」さんがたくさん住んでいます。
 その集落から南側の峠を越えたところに川が流れています。子吉川。鳥海山を源流とする河川です。で、今回義弟が教えてくれたのですが、その子吉川、古くは「安倍川(アベカワ)」と呼ばれていたらしい。
 安倍川と言えば、ウチの実家のある静岡市の安倍川(今年は花火大会が中止になりましたね)、安倍川餅の安倍川が超有名ですが、なんと秋田の安倍の里の近くにもあったのです。
 考えてみると、安倍宗任は鳥海三郎とも呼ばれており、鳥海山とは切っても切れない縁があります。ただ、今までは、本家鳥海山麓の秋田山形ではなく、宮城や岩手の「鳥海」との関係ばかり言われてきた。
 しかし、それは鳥海三郎やその一族末裔が居住したから、のちにそういう地名になったのであり、やはりルーツは鳥海山であってしかるべきです。
 物部氏と安倍氏が深い関係にあることは、たとえば谷川健一さんの「白鳥伝説」にも詳しく書かれています。
Th_images そう、安倍、鳥海と言えば白鳥氏の存在を忘れてはなりません。白鳥氏も奥州安倍氏の系統です。「鳥」の字を使っているのも偶然ではないでしょう。
 そして、白鳥氏、羽後町となると、ワタクシ的大発見である、上到米の唐松神社本社。こちらの記事をお読みください。ほとんど誰も知らないホンモノの唐松神社は、鳥海山を望む形で鎮座しています。
 ちなみにパワースポットとしても有名な協和町の唐松神社。そこに残る物部文書によれば、ニギハヤヒは鳥海山に降臨したことになっています。しかし、そちら有名な唐松神社は鳥海山からはずいぶんと離れた所にあります。謎ですね。
 さてさて、結局何を言いたいかといいますと、安倍宗任は鳥海山を信仰しており、その鳥海山には物部氏の始祖であるニギハヤヒが祀られていたと。ニギハヤヒはその名から想像できるとおり、「和魂(にぎみたま)」を内包しています。
 物部氏が信仰した大和の三輪山に、出雲のオオクニヌシの和魂(にぎみたま)が祀られていたのも、もちろん偶然ではありません。
 そして、その物部の「和」を完全に理解し、物部氏の「国譲り」を受けて、その魂を永遠に残そうとしたのが、聖徳太子であり、その現実的な成果の一つが、十七条の憲法の第一条「以和為貴」なのです。
 さらに言えば、出口王仁三郎も鳥海山を特別な霊山としてとらえていました。田庭の真名井、そして石切神社とイスキリ…ここまで想像力を広げてしまうと、さすがに収拾がつかなくなってしまいましたが(笑)。
 統合失調ならぬ統合過剰なワタクシたちは、そんな話で大いに盛り上がりまして、最後には、アベ氏もアンバイ氏も、「和(にぎ)」をこの国に施すために存在し、現在の立場にあるのだと、まあ、そういう我田引水な結論に至ったわけであります(笑)。
 現在、鳥海山には「大物忌神」が祀られているとされています。「モノ」と「ニギ」との関係については、今研究中ですので、いつか書きましょう。

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2018.08.21

キリストの里公園の謎!?

Th_img_2353 足農業、残念でしたね。しかし、八郎太郎の末裔だけで(?)準優勝まで行ったのですから、これは本当に素晴らしすぎることでした。高校野球については、私は独特の視点で批判的に見ている部分もあるので、また近いうちに何か書こうと思います。
 てか、あの八郎潟のあたりって強い男をたくさん輩出しているんですよね。多くの力士、レスラーが出ている。野球でも落合博満さんがあのあたりの出身。彼らは長髄彦の末裔というウワサもあるんですよ。
 さてさて、吉田投手はマウンドで神になった。そう、マウンドというは特別な存在なのであります。マウンテンであり、塚・円墳であります。キリストが磔刑に処せられたゴルゴダの丘もある意味マウンド的存在です。
 というわけで、今回の七人旅の最後の経由地は新郷村にあるキリストの墓(&イスキリの墓)でした。54歳の誕生日の最後にキリスト&イスキリの墓参りというのもなかなかヲツであります。
 私は2年前に訪れており、その時私の解釈を詳しく書いています(こちら参照)。
 基本その考えは変わっていません。こういう「物語」に対して、あんまりホントウのコトを言ってしまうのは野暮ですけれども、まあそのホントウのコトもまた、かなり物語性が高いので、まあいいでしょう。
 さてさて、今回は違うところにツッコミを入れます。
 十和田湖にも「キリストの墓(はこちら)」という公式の青い看板がありますが、青森県、そして新郷村はこれらを本気で観光資源と考えていますね。実際、整備された「キリストの里」には金かかってるな感があります。上掲の過去記事にも書いたとおり、それは原子力行政のおかげでもあるわけですね。
Th__20180819_103325_2 で、その「キリストの里」なんですけどね、入り口のでっかい看板というかに英語が書かれているわけですよ。それがこういうふうになっている。

Christ of the village park

 これはどうなんでしょう。直訳すると「村の公園のキリスト」ってことですよね(笑)。
 「キリストの里公園」という日本語の語順どおりに英語が並んでいる。「里公園のキリスト」。
 どういうことなのでしょう。
 うん、これは「おらが村のキリスト」的なニュアンスなのか、それか、キリストもこうして日本で修行し、百歳越えるまでここで暮らしたとなれば、すっかり日本人化してしまい、日本語的な語順の干渉を受け…って、それじゃあ、なんでキリストが英語しゃべるんだよ!と、ジーザス・クライスト・スーパースターと同様のツッコミ不可避ですな(笑)。
 ま、それは冗談として、日本語に英語が干渉したことは間違いないでしょう。これは実に面白いですね。
 と思ったら!なななんと、もっと恐るべきことが!
 Googleさまで「キリストの里公園 英語」で検索したら、いきなりこんなのが出てきましたよ!ww

20180822_152633

 うお〜!これはどういうことですか。Googleさままで日本語の干渉を受けているのか?それとも、実際にある「キリストの里公園」の英訳を知っていて、こういう答えを出したのか!?
 これは神がかってますね(笑)。おそるべしキリストの墓&イスキリの墓、そして日本(笑)。


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2018.07.23

不機嫌は怠惰の一種である(ゲーテ)

Th_200pxgoethe_stieler_1828 は先生にしては珍しく?あんまり不機嫌にならない方です。生徒にも「そういえばいつも上機嫌だ」と言われます。
 生徒というのは先生の「不機嫌」に対して非常に敏感です。ほとんど動物的なカンでそれを察知し、自分に被害が及ばないようにします。空気を読むわけですね。まあ、それだけ不機嫌になる先生か多いということです。
 ゲーテは名作「若きヴァルテルの悩み」の中で、ヴェルテルに「不機嫌は怠惰の一種です」と言わせています。高校時代、この言葉に出会ってからというもの、私はこの言葉を座右の銘としてきました。
 では、現在の私があまり不機嫌にならないのは、私が怠惰ではなく勤勉なのかというと、どうもそうでもないようです。
 つまり努力して機嫌よくしているわけではない。たぶん生まれつきの性格なんだと思います。あえて言えば、不機嫌になることによって得るものが全くないと思っているのかもしれない。不機嫌は他人も自分も不幸にします。
 学校の先生は、「不機嫌」を武器にしているところがある。その最たるものが「体罰」であって、ようやく最近それがダメということになりました。
 ですから、かつて私が教員になりたてのころ、まず身につけなければならなかったのは、「不機嫌なフリをする」ということでした。先輩方がそれを実にうまくやっているように見えたからです。
 ある意味自分の主義に反していたわけで、なんとも言えない居心地の悪さも感じていましたが、反面、テクニックとしてうまくいくようになると、なんとなく自分も先生らしくなったんだなと思っていたのも事実です。
 今はもうほとんどそういう無理はしなくなりました。やっぱり自分に合っていないからです。不機嫌になる教師を否定したり、見下したりするわけでありません。やはり単純に自分の性分に合わないテクニックだということです。
 ゲーテは先程の文章のあと、さらに深い、厳しいことをヴェルテルに語らせています。

 不機嫌は、むしろ、自分のくだらなさに対するひそかな憤懣ではありませんか? 愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている、自己不満ではありませんか?

 さすがゲーテですね。完全同意します。人間の煩悩の中でも特に強く面倒な「嫉妬」と結びつけている。
 私も実のところ、「小さな不機嫌」はあります。そして、それが「嫉妬」に基づいていることも知っています。まだまだ修行しなければなりませんね。

Amazon 若きウェルテルの悩み

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