カテゴリー「教育」の333件の記事

2010.02.04

茜色の富士

↓クリック!
04_18_28_06 日は久しぶりに、4月開校の中学の真新しい校舎に入りました。もうほとんど完成です。
 本当に素晴らしい環境です。建物や設備の素晴らしさは、これはもう私でも驚くほどです。実にぜいたく。そして、それ以上に全ての教室から眺められる富士山と富士吉田の街の風景には、長年住んだ者でも感動させられますね。
 この写真は3階の多目的教室から撮ったものです。ちょうど夕日が差して、富士山が茜色に染まろうとしていました。
 本来ならば、この教室にフジファブリックの志村正彦くんを連れてきて、そして、このイメージで歌を作ってもらう予定でした。彼が亡くなってしまったのは、その話をしようと思っていた二日前のことでした。
 まさにこの角度から見る富士山は、志村くんにとって、本当に懐かしい心の風景です。右に月江寺の森、手前に彼もよく遊んだという月江寺の池。この池は「鳴琴泉」という音楽的で風雅な名前も持っています。少年時代の志村くんは、いったいこの泉が奏でるどんな音楽を聴いていたのでしょうか…。
 そんな土地への思い、そして、音楽との出会いのあった中学時代への思い、それを歌にしてほしかった…。
 今は本校の駐車場になっていますが、池の手前には古い旅館がありました。太宰治が何度か逗留した宿です。あの「富嶽百景」の名シーンの舞台です。今日も月夜富士がきれいでした。
 私がなにげなく、本当に偶然に太宰の墓参りをしたのが、志村くんが亡くなる前日の12月23日。その日の記事を読むと、私はなにかを予感していたことがわかります。「太宰、いろいろ訴えかけてきましたよ。鳥肌立ちまくり」…たしかに体験したことのない感覚が私を襲っていました。しかし、その時はこんなことになるとも夢にも思いませんでした。地霊で志村くんと結ばれた太宰が、何かを知らせたのかもしれません。
 このようなことになってしまったのは、本当に残念でなりませんが、その場所で教育に携わることになる者として、いったい若者たちに何を伝えていけばいいのか、私も改めて考えさせていただく機会をいただきました。
 志村くんが心から愛した富士吉田。富士吉田ももっと彼を愛さねばならない、と思いました。私もこの街を、そしてこの街の子どもたちを、もっと愛さなくてはなりません。
 ちょっと頑張り過ぎてしまった彼は、今、大好きな富士吉田の街に帰ってきて、心優しい家族と、いつもの機材に囲まれながら、ゆっくり自分のペースで曲作りをしています。とっても穏やかな心持ちで…。安心しました。

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2010.01.29

なんすかこれ!?

↓クリック!!
0004 ンター古文の恋路大将もひどかったけど、こっちはもっとひどいかも。
 某私立大学の医学部を受験した生徒からこんな画像が送られてきました。生物の問題です。
 なんすかこれ!(笑)文章の半分以上が空欄じゃないっすか!?なんかリアルに奮闘した跡が見えますが、結局なんの話だったか分からなかったとのこと。そりゃそうだ。
 彼女、帰ってから知り合いのお医者さんに解いてもらったところ、現役のお医者さんもお手上げだったそうです。
 まあ、これはさすがに笑っちゃうレベルの珍問ですね。センターの古文がロト6なら、こっちは「ナンクロ」ですよ。いったい、どういう力を見ようとしているのでしょうか。
 皆さん、まず問題文を声に出して読んでみてください。数字はちゃんと数字で読むんですよ。「生物のイチ間に見られる二の違いをサンといい…」というふうに。笑わないで最後まで読めた人は合格です(笑)。
 ええと、ちなみにワタクシでしたら、こんな感じで解答しそうです。これじゃダメでしょうか?
「生物の男女間に見られる種々の違いをすれ違いといい、すれ違いには肉体間の違いによって現れる肉体間すれ違いと、思想や性格のすれ違いによって現れる精神間すれ違いとがある。肉体間すれ違いは男女間に根源的原因のある解決しないすれ違いであり、精神間すれ違いは男女間に根源的原因のない解決するすれ違いである…」
 これも正解でしょう(笑)。
20100130_84510 実はこの大学の生物の問題、毎年こんな感じなんですよ。ちょっとこちらもご覧下さい。これも私なりに考えてみましたが、「ヒトではズボンのチャックが破損すると、内部にあるパンツが露出され、恋人友人を介して町にある警察消防報道へと露出が伝えられる…」くらいしか考えられません(笑)。しかし、それで行くと、後半のつじつまが合わなくなっちゃうんですよね。これはかなり高度な国語力というか文学力を要する問題です(笑)。
 これは国語の教材として使えますね。さっそくそういうことが好きな男子生徒が「デスメタル」尽くしで文章化してました。こういうの上手な生徒いるんだよなあ。
20100130_84052_2 最後に数年前のこちらの問題も見てみてください。これなんか最強ですよ。とにかく、最初にやったように数字は数字のまま読んでみてください。
 これってはっきり言って手抜きでしょう。なんかのテキストをテキトーに(いや、パズル風に)虫食いにしただけでしょう。
 もし、そうでないと言うなら、ぜひその意図をお聞きしたい。
 ちなみに他の教科は比較的フツーの問題です。なぜに生物だけ…。
 いやあ、受験生は大変ですわ。お疲れさん。

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2010.01.26

今年の4月は「来春」か「今春」か

↓写真は志村くんゆかりの忠霊塔の「春」
O0800053510163967887 ほど、ご意見番(ウチの父親)から電話があり、「昨日の記事には間違いがある!『来春開校の中学…』ではなく『今春…』と書くべきだ!」と強く叱られました。「そんな先生が中学生に国語を教えているとなると、親から苦情が来る!」とまで言われました(笑)。
 父親が言うに、「辞書に『来春=来年の春』『今春=今年の春』と書いてある!」とのこと。たしかにそうです。
 しかし、ちょっと皆さん、考えてみて下さい。1月である今、3ヶ月後に来る春を「今春」と言うのには、ちょっと抵抗がありませんか?
 ない…?なるほど、そういう人もいるかもしれません。それもわかります。なぜなら、やはり辞書的に正しいし、新聞やテレビなどのマスコミも当然辞書に従っているため、実際にそのような表現を目に耳にすることが多いからです。
 では、完全に私の間違いかと言いますと、そうとも言いきれません。
 父が辞書と言った、その辞書は当然現代の国語辞典です。たしかにほとんど全ての辞書に上記のような記述があるようです。しかし、事情は辞書ほどに明解、いや明快ではありません。
 たとえば、こんなふうに、私の感覚や使い方の肩を持つこともできます。
 まず、もっと古い辞書を引っ張ってきましょう。17世紀初頭の「日葡辞書」です。

『来春「Raixun (ライシュン)。キタル ハル〈以下ポルトガル語の訳〉今度の春。文書語』

 そう、来たる春が来春なのです。next springということです。今、季節はどう考えても冬ですから、今年の4月は(次に)来たる春に間違いないことになります。
 考えてみると、本来「今〜」とか「来〜」とかいう熟語の「今」や「来」には、「今年の」とか「来年の」とかいう意味はありません。
 「今週」「来週」、「今月」「来月」、「今年」「来年」、「今学期」「来学期」などと言う時の「今」と「来」は、「(話し手が)今いる時間的範囲(期間)の」と「今いる時間的範囲(期間)が終了したのち来たるべき次の時間的範囲(期間)の」という意味です。
 ついでに言うと、一つ前のスパンを表すのは「昨」ですね(「昨〜」が使われない場合もありますが)。
 そうした本来の「今」「来」の使い方からすると、「今春」とは「今身を置いている春」、「来春」とは「今身を置いている春の次に来る春」ということになり、たしかに「今年の春」「来年の春」と同義になります。
 ただ、この解釈ですと、「春」に身を置いている時にしか、この表現はできないことになりますね。夏や秋や冬には使えない表現ということになります。
 しかし、どうも事情はもう少し複雑なようです。たとえばプロ野球で、ある年のペナントレースが終了し、その結果を振り返るのに、「今季」と言いますし、次のシリーズに向けて「来季に期待しましょう」などと言います。
 つまり、それらの「時間的範囲(期間・節)」が連続していない場合もあるわけですね。シーズンオフがはさまれたり、別の「節」が挿入されたり。その場合には、「今」「来」のニュアンスが少し変わってきます。
 すなわち、その「節」が連続しておらず、間に違う「節」がある場合、その違う「節」に身を置いている際には、「今〜」の「今」は「直近の過去の〜」ということになり、「来〜」の「来」は「直近の未来の〜」ということになるわけです。
 季節もそういうことになりますから、今の解釈に従って、「今季」「来季」と同じ感覚で「今春」「来春」と言ったとしたら、私の「来春」の解釈で間違っていないことになります。今、冬で、その「直近の未来の春」ですからね。
 では、なぜ、「今春」「来春」の場合には、辞書に「今年の春」「来年の春」といった異様な解釈が載っているのでしょう。
 もうお分かりかと思いますが、これには旧暦から新暦に移行した際の複雑な事情が絡んでいるのです。
 お正月を新春と言いますよね。つまり、旧暦では、1月1日はほぼ「春」でした。「ほぼ」と言ったのは、立春よりも早く年が明けることもけっこうあるからです。それでも、感覚としてはだいたい「立春」の頃が「元旦」でした。
 そうすると、旧暦のもとでは、「来春=直近の未来の春」はすなわち、ほとんど全て「来年の春」となるわけですね。「今春=直近の過去の春」は「今年の春」です。
 と、そんな事情もあって、旧暦下では私の解釈も父の解釈も正しいし、同じことになってしまうんですね。
 ところが、明治以降、かなり無理をして新暦を導入した結果、まあ、暦はめちゃくちゃなことになってしまいました。「暦の上では」という表現とか、「お盆」なんか「旧盆(旧暦7月15日)」「新暦7月15日盆」「月遅れ盆(新暦8月15日)」とか…もう本当に訳がわからん状態です。
 この「来春」「今春」問題もまた、そうした弊害の一つと言えるでしょう。
 辞書というのは、実は孫引きに孫引きを重ねて成立してきています。今の辞書の原形は明治時代の辞書たちです。大槻文彦の「言海」や、山田美妙の「日本大辞書」、上田万年の「大日本国語辞典」などですね。そのあたりを参照してみないと分かりませんが、江戸や明治初期の暦の感覚のまま「今春=今年の春」「来春=来年の春」と書いてしまった可能性は高いと思います。そして、それを孫引きして、論理矛盾に気づくこともなく、また、本来の「今〜」や「来〜」の意味を無視して現在に至る…と。
 というわけで、たしかに辞書的には私の「来春」の使い方は間違っているかもしれませんが、語誌的に、また日本人の感覚的に考えて、立春前である昨日、あのような表現をしたのは、あながち間違いでないと思います。
 ま、ここは私が素直に間違いを認めましょうか。親子ゲンカになるのも面倒なので。直しておきます。「来春(この春)」と(笑)。
 ただ、「そんな先生がうんぬん」の発言は撤回してもらいたいですね(お互いかなり頑固でして…苦笑)。

PS いつか書きたい「時間」に関する論理矛盾(謎)を挙げておきます。
 正午は午前12時か、午後12時か、それとも午後0時か…。
 日曜は週の始めなのに、なぜ「週末」に含まれるのか…。
 電車ホームの告知板の「こんど」と「次」とは…。

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2010.01.20

『YOUNG YAKUZA』 ジャン=ピエール・リモザン監督作品

1002_wide_docyu さに隠れた名作。日本では公開されませんし、DVDも発売されないでしょう。ですから、今のうち観ておいてください。
 北野武監督と蓮實重彦さんの対談作品などでも有名なフランスの映画監督ジャン=ピエール・リモザンによる2008年作品です。ウワサには聞いていましたが、これはたしかにいいですね。
 稲川会碑文谷一家熊谷組の「日常」を撮ったこの作品。ドキュメンタリーのようで、ドラマのよう、ノンフィクションのようでフィクョンのよう…実に異彩を放つ名作になりましたね。
 まさに虚実皮膜の間。まるでプロレスの世界観のようです。いや、結局、ちょっと前にも書きましたように、こういうヤクザ界やプロレス界、そして芸能界など、本来の「物語」世界はこういうものなのでしょう。
 2007年度カンヌ映画祭 ドキュメンタリー部門に出品されたこの作品。聞くところによると、この作品、熊谷正敏組長自ら撮影を提案したとか。たしかに、組長カッコよすぎます。絵になる男。目力、言葉力、そしてたたずまいが半端ではない。
 他の組員たちも、途中まるで役者さんのように見えてきます。それほど自然でありながら、しかし、ちゃんとストーリーが感じられる。
 かちんこも使って、ある程度のシナリオも組んで撮られたということですが、そのある意味美しすぎる各シーンが、まさに北野映画を思わせます。暴力の裏にある「優しさ」「愛」「切なさ」「悲哀」…やっぱり北野映画ですよね。
 一般の仁侠映画や北野作品のような暴力シーンは皆無です。静かに淡々と「日常」が綴られていく。「非日常」はお見せできませんということでしょうか。
 その結果、この作品における熊谷組長は、まさに「教育者」として映ります。いや、我々現代人が忘れてしまった大切な「モノ」を伝える伝道師のようでもあります。非常に正しいことを語り、そして「愛」に満ちている。たとえこれが多少のフィクションを含んでいるとしても、しかし、たしかに感動的であるのは事実です。
 カトリック信者である組長が教会の神父さんを訪ねるシーンや、三社祭を颯爽と闊歩する姿には、どこか宗教的な香りさえしてきます。
 ヤクザ世界の必要悪的な有用性については、今までも何度も語ってきました。私は単純なヤクザファンではありませんが、ヤクザ的世界の絶対的な必要性については認めています。
 我々庶民が悪をなさないための抑制力であり、外敵から日本を護る防波堤であり、また資本主義における理不尽な富の偏在を再分配する役割を担うことは否めないと思います。それを弱体化してしまった私たちが、どんな危険にさらされているか、誰しもが肌で感じているはずです。
 組長のみならず、いろいろな人の口から様々な名言を聞くことができます。ノンフィクションとしても面白い。フィクションとしても面白い。
 なるほど、「美の国は道徳の世界より広大である」か。

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2010.01.19

『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』 津田大介 (洋泉社新書)

86248482 バマ大統領がTwitterに初投稿というニュースが。
 私はいまだツイッターには参加していません。見るだけです。やってみればその面白さや可能性がわかるかもしれませんが、とりあえず旧メディアであるこの「古典的ブログ」という形式が自分には向いているような気がします。
 基本的につぶやきを公開することにまだ抵抗があるんですね。ある意味まとめあがっていない思考の断片を披瀝する価値がいまいち分からないのです。
 この本を読めば、それがどんなにクリエイティヴな世界であるか、だいたい想像できます。しかし、これは私の性格の問題だと思うのですが、しっかり構成、校正されていない「言葉」が、勝手に解釈されて、勝手に成長していくのが、ちょっと怖いような気もするのです。
 似たようなものに、mixiのボイスというのがありますが、あれこそどうも苦手な世界です。日本人のつぶやきはどうしても「愚痴」になりがちで、それを読まされる方としては、正直不快になるだけです。
 もちろん、そんな負のつぶやきばかりではありませんが、ああやって「文字」にして「言葉」にしてしまうことによって、ちょっとした不快の萌芽が実体化してしまうと思うんです。それって、ストレス解消になるんでしょうか。それとも誰かにかまってもらいたいだけなんでしょうか。いずれにしても、自分にとってもあんまりいいことではないような気がするのですが。
 ちなみに今の時点の私のマイミクのボイスを見てみると、約9割がマイナスな感情の吐露になっております(苦笑)。これはSNSという「社会」、クローズドで基本実生活に根ざしたコミュニティーの、ある種の「気持ち悪さ」ですね。実に不毛な感じがします。さすがにツイッターはこんな感じじゃないだろうな。
 まあそれでも、こうしたブログの記事や、mixiの日記みたいに、構成や校正をしなければならない場には、いろいろな「他者性=公共性」が介在するので、その人自身のリアルな露骨さというか、ある意味肉体性なんでしょうかね、そういうモノはたしかに希薄になります。
 インターネットというのは、不特定多数の脳ミソの共有です。今まではそういう感じだったわけですが、いよいよツイッターのように「リアルタイム」性を獲得して、結果として「理性」以前の「感情」や「感覚(今何を見ているとか、食べているとか、どこにいるとかも含む)」を共有できるようになってきたわけです。これは究極の世界一体化ですよ。
 そうすると、さっき懸念した、素材としての洗練されていない「言葉」が、勝手に誰かによって編集されていくことも、究極の他力だと思えば許せるような気がしてきますか。しかし、その結果がどうなるのかなんて、誰も考えていませんし、分かりませんよね。ただ、なんとなくですが、私はその先にあるのが、いいことばかりではないような気がします。予感として。
 まあ、言語化する時点で「感情」や「感覚」の編集がなされているわけですし、考えようによっては、あの字数制限は編集を要求するものだとも言えますがね。ただ、その編集度の低さは否めないと思います。
 そんなツイッターやボイスの持つ、リアルタイム性と無責任性(ゆるさ)と、それから文字数の制限がもたらすある種の韻文性からして、これを「和歌」や「短歌」や「俳句」の世界と比べる向きもあります。この本でも最後の勝間和代さんとの対談の中で、そんな話が出てきます。
 ちょっとそれは違うような気もしますけれど、しかしたしかに、これらの「つぶやき」が、音声言語と文字言語の中間態であるというのは事実でしょうし、タイムライン上で流れるように消えていくが、しかし検索も可能という、今までにない言語メディアであるというのも興味深いところです。
 書き言葉、特にネット上の言葉の面倒なところは、基本「永遠に残る」ということです。そこからBBSなどでは面倒なケンカが起きたりするわけですよね。文字によって、我々の思想や感情は時を超えて残ることになり、それが良い結果と悪い結果両方を産むことになっているわけです。音声言語であれば時の流れにまかせて洗い流すこともできたのが、書き言葉ではそれが難しくなる。
 それを、上手に流していくところに、ツイッターの魅力があるのでしょうね。
 というわけで、私は学校現場でこのツイッターをうまく利用できないか考えているのです。しかし、なかなかいいアイデアが浮かばない。ちょっと考えられるのは、まあ、基本閉鎖的な学校生活をゆるく実況中継することで、より公共性を持たせたり、あるいは単純に、保護者の方へリアルタイムでありながらかつプライバシーがある程度保護された情報を伝えるという使い方が考えられますね。
 4月開校の中学で活用できないか、今後もいろいろと考えていきたいと思います。まずは自分がちゃんと参加してみないといけませんね。

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2010.01.17

K教授と恋路大将にやられた!?(2010 センター試験 国語)

↓これは源氏
10050895784 ったく今も昔も罪な男というのはいるものです。
 センターやってみましたよ。ここ数年、毎年のようにセンター試験国語のレビューを書いてきましたが、今年はあまり積極的に書く気がしません。
 なぜなら、私の嫌いな「恋路ゆかしき大将」が出たからです。嫌いだというのは、別に作品として難解だとか、ストーリーが嫌いだとかではありません。単に主人公たる「恋路大将」が憎いからです(笑)。そのへんについては、最後に語るとして…。
 それ以上に憎いのは、問題作成委員のK教授です。なんすか、この問題は。
 実はこの作品のこの部分、以前読んだことがあったんですね。記憶に残っていました。あれ?珍しく知っている文章が出た!と思ったら、河合塾の模擬試験で出ていたようで、いわゆる黒本の2007年版にありました。
 私の担当するクラスでは、以前書いたように、センター試験を100年分以上やります(もちろん模試の問題も含めてですよ)ので、生徒も記憶にあったようです。しかし、やったという記憶があるからできるというわけではないのが古文の恐ろしいところです。
 とにかく今回の古文は平均点低いと思いますよ。
 問題としては河合塾の模試の方がずっとまともでした。いや、できなかったからセンターを逆恨みして言ってるんじゃありませんよ。いちおうできました、全部。ただし、休憩込みで半日かかりました、古文だけで。
 ここではっきり言っておきます。これを20分で読解して、理解した上で問題に答えられる受験生はいません。断言します。いや、何十万人の中にはいるかもしれませんが、それはそれで心配になってしまうくらい異常な才能を持っている人物でしょう。現代に適応しているかどうか、確認した方がいいでしょう。
 高校の国語の先生にもいません。できたふりして解説とかしてても、実際何の資料も(もちろん解答も)なく20分で完璧にできた方はいらっしゃらないでしょう。予備校さんも、しれっとしたコメントなど出していますが、間違いなく注釈書を引っ張り出してきて、ようやく自信を持って解答例を出しているはずです。
 そのへんのことを、もっとみんなはっきり言った方がいい。変なプライドとか、世間体なんて忘れて、ちゃんと言わなきゃ。私は恥も外聞もはじめからありませんから、言います。
 いったい、この問題を20分で解かせて、どんな知識や能力を測ろうとしているのでしょうか。それも国語200点中の50点分ですからね。
 今回の現代文や漢文の問題は、一定の知識と集中力があって、いわゆる情報処理(それを国語と言って良いかは微妙ですが)をきちんとすれば解答にたどりつける問題がほとんどだったので、まあ良しとしましょう。
 しかし、もう1回言います。この古文はひどい。一時期の「古文は勉強するな。テキトーにマークしろ!」が復活しちゃいますよ。
 実際、いちおう勉強したクラスと、スポーツなどに忙しく「テキトーにマークしろ」と指導したクラスと、平均点はほとんどかわりませんでした。なんなんだ、いったい。勉強するなっていうことですか?いや、反対にスポーツなんてもってのほか、もっともっと勉強しろってことですか?それともロト6の的中率を上げろってことですか?
 私もかなり古文に関してはマニアックな方です。特に和歌に関しては、高校時代なんか、好きな人に和歌贈ってたくらいですから(笑)。それでも半日かかってまだよく分からない問題があるんですよ。その和歌をなんと6首も解釈させる問題がある。いったい、現代において、中世(実質上は中古)の和歌を解する意味はどこにあるのでしょう。文化の継承とか温故知新とかいうレベルを完全に逸脱しています。
 いや、そんな教師が進学クラスを教えていていいのか!?とおっしゃる方がいらしても、全然かまいません。私は「はい、そうです」としか言えませんし。
 冒頭の言葉を繰り返します。まったく今も昔も罪な男というのはいるものです。
 今の罪な男とは、この問題を作ったK教授です(仮名)。あんた!笠間書院の全集なしで、いきなりこの本文を読んで、自分が作ったこの問題を初めて見て、20分で解けますか?あなた中世文学の専門家でしょう?それでも無理だと、私は断言しますよ。
 こういうことをはっきり言わなきゃダメです。
 K教授、今度お会いしましょう。そして、私が作ったセンター(風)古文をぜひ20分で解いてもらいたい。そうすれば、あなた(方)がどんなことを、罪とがのない純粋に一生懸命頑張っている受験生に課している、いや科しているかお分かりになるでしょう。
 さてさて、すこしクールダウンして、昔の罪な男は誰かと言いますと、まさに「恋路大将」さんです。ただあなたの罪は罪なき罪です。あなたは光源氏の劣化コピーってとこですかね。
 あなたはイケメンすぎた。二の宮の姫君を結局ゲットした上に、絶世の美女である梅津女君にまで愛される…。ううむ、こっちもやっぱり許せん!w
 ああ、すっきりした。
 ちなみに、向かい側では、ある意味ワタクシ以上に化学の先生がお怒りになっております。いったいどんな力を見ようとしている問題なのかわからない!と。そして、これは一言で言えば「いじめ」であると。
 あ〜あ、これじゃ、教育の世界から「いじめ」はなくならないはずですわ。

 追記 ある意味もっとすごい国語(?)の問題はこちら

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2010.01.16

「自分」とは…

↓わおっ!いきなりフロイトかよ。
20100117_131644 日は忙しかったなあ…。新しい中学校の一般入試と高校3年生のセンター試験とが重なりました。
 今年はセンター試験の問題がネット上で公開されるのが遅くなりましたので、国語の問題を解くのを明日にさせていただきます。この眠さでこの文は読めない…フロイトという文字が目に入るだけで無意識的に夢判断の態勢に入ってしまう(笑)。また、解いてみてからテキトーにレビュー書きます(面白かったら)。
 まあセンターの国語の問題を作る作成委員の先生方は大変でしょうね。文を選ぶだけでも大変です。お疲れさまです。ご自分で書けばいいのに。評論も小説も古文も漢文も(笑)。
 で、実際のところ私は自分で書きます。この前、推薦入試の時にも宣言しましたように、私はその「選文」の面倒を避けるためもあり、また、せっかくですので、受験生にもお土産を持って帰ってもらうという意味も含めて、問題の本文は自分で書きます。そして、ここにも公開いたします。
 今回の文は「自分」という題で書いてみました。やっぱり小学生にはちょっと難しいかな?では、どうぞ。実際には空欄やら傍線やらルビやら、そして問題(作文含む)がありますが、それらはカットして掲載します。では、どうぞ。

    自分

 あなたは自分とは何者だと思っているでしょうか。
 「あなたは何者ですか?」と聞かれれば、「○○○○」と名前で答えることもできるでしょう。
 また、○○小学校六年○組○番と答えるかもしれません。あるいは、日本人だと答える人もいるでしょうし、男だとか女だとか、そういう答え方をする人もいるかもしれません。
 しかし、よく考えてみると、こういう答は、自分で考え出したものではないことに気づきます。名前もたいがい親がつけてくれたものですし、小学校も自分で決めたわけではないでしょう。クラスや出席番号ももちろんです。日本人であることも、男であることも女であることも自分で決めたことではないはずです。
 そうすると、私たちが「自分」だと思っているものは、全く自分ではないということになってきます。他人の意思や世の中の勝手なルールによって、名づけられ分類されているに過ぎないとも考えられます。
 そして、そういうことが、年齢を重ねるごとにどんどん増えていく。毎日毎日、いろいろな「名づけ」や「分類」を、どんどん背負っていく。私たちは、こういうことを、「大人になる」とか「社会人になる」とか「一人前になる」とか言うようです。
 では、私たちは、昨日より今日、今日より明日と、どんどん「自分」ではなくなっていくのかというと、そんなことはありません。逆に、「自分」を「自分」だと思って疑わなくなってくるのではないでしょうか。
 あなたも、赤ん坊の時には、「自分」を「自分」だとは思わなかったことでしょう。自分の名前もよく分からなかったかもしれません。でも、今はどうでしょう。「自分」を「自分以外の誰か」だとは思いませんね。
 小学校に入ってからのことを考えてみましょうか。六年生になった今、一年生や二年生の時のことを思い出してみると、やっぱり今の方が、「自分」を意識して生活しているのではないでしょうか。
 私もそうでした。ちょっとはずかしい話ですが、私は幼いころ、自分を宇宙人だと思っていました。今こうして○○家の息子として日本で生活しているけれど、それは仮の姿で、本当は地球を救うために違う星からやって来たのだと、本気で信じていました。たぶん、テレビのヒーロー物の影響でしょうね。
 しかし、小学校も高学年になると、そんなばかなことを考えるのはやめて、人から見た「自分」、人が名づけて分類した「自分」こそが、本当の「自分」であるということにしてしまいました。そういう意識はなかったとしても、結果としてそういうふうに変わっていきました。
 私もその時、「大人になる」ことを選んだのでしょう。もちろん、それで良かったと思いますし、周りの人たちもおそらくそういう道を選ぶのでしょうから、後悔したり反省したりする必要はありません。しかし、そうやって「自分」が作られていったと思うと、案外面白いものです。
 「自分」が他人によってどんどん作られていく。そうして、自分でも、そんな「自分」にどこか安心を得たり、自信を持ったりする。考えてみれば不思議なことですね。
 でも、私たちは本当にそれで満足しているのかというと、実はちょっと違ったりします。
 皆さんも、親や先生の言いなりになるのがいやな時がありませんか? 私にはたくさんありました。いやなのだけれども、じゃあ全部自分で「自分」を作れるのかというか、そんなことはない。そんな矛盾に苦しんで、暴れたくなった時もありました。まあ、暴れたところで、「自分」は全然生まれそうになかったのですが。
 人に決めてもらう「自分」の居心地の良さと悪さ。たしかに両方ありました。どのようにそのつじつまを合わせていくのか。これが、中学時代の難しさであるとも言えますね。
 そして、それは難しいからこそ面白い、やりがいのあることだったりします。ゲームなどもそうでしょう。簡単すぎるとつまらない。でも、最初は無理だと思っていたことをクリアしていく喜びと達成感は、何ものにも代え難いものですね。
 これから、皆さんは、そうやって「自分」という難しいものとつきあっていかなければなりません。そして、おおかた「自分」は他者によって作られているわけですから、「自分」とつきあうということは、「他者」や「社会」とつきあうということでもあります。また、逆の立場になって、他人の「自分」を作っていくこともますます増えるでしょう。それはそれで責任重大かもしれません。「あいつは○○なやつだ」などと、簡単に言えないのかもしれません。
 ただ、これらの困難は、私たちが生きているかぎりどうにも避けられそうにありません。皆さんはいよいよ、そうした困難なステージに主役として立つわけです。どうせなら、逃げることなく楽しみながらクリアしていきたいですね。みんなで協力しあって。
 そして、最後に大切なことを確認しておきましょう。ついつい忘れがちなことです。
 現代日本に生活する私たちは、「自分を自分だと思う自由」を手にしている。
 どうでしょう。あまりに当たり前すぎて、私たちはそのことを忘れてしまっているではないでしょうか。
 その大切なことを思い出すのに、わざわざ世界史や日本史を振り返るまでもありません。今の世界をしっかり見回してみるだけで、これが保障されていないところがけっこうあることに気づくことができるでしょう。
 私たちが「自分」とつきあっていく原点は、実はこんなことに気づくところにあるのかもしれません。

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2010.01.15

祝!『1-click Award』最優秀賞…おそるべし西裏パワー

505841773o ょっとまだ情報が不足しているのですが、本人の報告によりますと、私の教え子が、リクルート主催のウェブコンテンツ&広告アイデアコンクールである(と思う)1-click Awardのプランニング部門で最優秀賞を獲ったとのことです。
 公式サイトを見る限り、私でもわかるほどそうそうたるクリエイターの皆さんが審査員なのですが、その方々による審査会全会一致で彼女が最優秀に選ばれたとのこと。
 いやはや、天才だとは思っていたけれど、ここまでとは…。
 ちなみに彼女の作品、「いつのまにか日記」という作品なのですが、いったいぜんたい、何が「いつのまにか」なのか、どういうふうに「いつのまにか」なのか、どんな「日記」なのか、あるいは全然「日記」でないのか、全くわかりません(笑)。
 このプランニング部門では、企画書を作って提出し、第1次審査を通ると審査員さんたちの前で実際にプレゼンをやるという流れだったようです。
 11月の終わりに、彼女から「1次通りました!」との連絡があり、実はもうその時点でとんでもない高いレベルのとんでもない数の応募の中のベスト5に選ばれていたわけで、私もかなり興奮したんです。で、12月のはじめにそのプレゼンがあるということを聞き、ちょうど私も新しい中学のプレゼンをガツンとやっていた時期でしたので、「魂を動かすプレゼンをせよ!」「心の感動は一時的だが、魂の感動は相手の行動に変化を起こす」という言葉を送りました。
 なんて、これ思いっきり受け売りでして、出口王仁三郎のひ孫にして、いつも私の心の支えになってくださっている出口光さんのお言葉であります。
 結果として、私の「企画書」と「プレゼン」である新しい中学も無事多くの生徒さんを迎えてスタートできそうですし、彼女も見事最優秀賞を獲得したということで、本当に本当にありがたく思っています。直接お礼申し上げていませんので、ここで伏して御礼申し上げます。
 まあ、それにしても、彼女にはずいぶんとしてやられますわ。いつかもちょっと書いた記憶がありますが、彼女は、最初ある公立高校に通っていたんですね。しかし、そこの「個性を全く無視する教育(当時)」に押しつぶされ、ドロップアウトしてしまいました。
 その後、縁あって私のクラスでやり直すことになったわけですね。そして「個性を必要以上に伸ばす教育(当時〜現在)」に接し、その後はとんとん拍子、日芸の放送にちゃっかり合格し、やることなすこと全部うまく行き、人に恵まれ、多少周囲を振り回しつつ利用しつつ、某広告会社にすんなり内定を決め、そしてまた今回の偉業です。
 なんて、こんなふうに書くとまるで私の手柄みたいですね。本人に怒られてしまいます。実際、彼女、最近「私ははったりではない」宣言をしてますからね。最初は私のキャッチフレーズである「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を見事に継承している(いや、私は最後の一つに関しては全然ダメ。彼女はそこにも才能がある!)と思ったんですけど、最近は「私は先生とは違います!」と言う…いや、そのようにハッキリは言いませんが、そういう空気が出ているんですよね。
 まあ、正直認めましょう。お前の才能なめてた!本物であると認める!くやしいけど(何が?w)。実際、才能もあり、そして実は地道に積極的に努力しているのを知っていますから、なんでもテキトーな私とは全然違います。
 今回も、プロの方々をも差し置いて最優秀賞を獲ってしまったとのこと。おそるべしだな。
 で、結局、その受賞作品がどのようなものかさぱーり分かりませんが、とりあえず「おめでとう!」と言っておきます。そのうち公式サイトで正式な発表があり、本人のインタビュー映像などが観られるようになるでしょう。得意のトーク(?)で笑わせてくれる(あるいは泣かせてくれる)ことを期待します。
 最後に一つ。本人にもちょうどフジのライヴの帰りに言ったことがあるんですが、彼女フジファブリックの志村正彦くんに似た空気と才能を持ってるんですよ。
 実は、彼女の生まれ育った地域というのが、富士吉田のいわゆる「西裏」というところでして、ここは独特の「地霊」が宿るところなんです。
 たとえば、太宰治の富嶽百景のあの名文(こちらの記事で紹介しました)が生まれたその場所であり、そして、昨年末夭折したフジファブリックの志村正彦くんが生まれ育った地域でもあります。ここは本当に不思議なところです。今は「昭和レトロ」の遺跡群として有名なところですが、それ以前に、人間と自然と神仏の欲望(?)が渦巻く独特な空気を持つ地域なんです。こちらのサイトでその一端に触れてみてください。
 彼女も志村くんも、そういう空気(霊気)をたっぷり吸い込んで、そしてその地霊を踏みしめて育ったんでしょうね。だからでしょう、なんかとんでもない「天才」の香りがする。
 なんて、ちょっとほめすぎかな。いや、今後の活躍にも期待しますよ。そして、いつか、もし独立でもしたら、小間使いとしてでも使ってくれ!オレも教員退職後はクリエイティヴな仕事したいんで(笑)。
 ま、そんなこと以前に、まさにその土地に開校する新しい中学校で、天才たちを創造していきたいと思います!がんばるぞ〜!

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2010.01.13

稲盛和夫と出口王仁三郎

Biz1001132308048n1 盛和夫さんが日本航空の新しい最高経営責任者(CEO)になりましたね。はたして「日本の翼」は復活するのか。
 「経営の神」と言われる稲盛さんですが、彼の経営観には多分に本物の宗教色があります。
 私は、稲盛さんの考え方ややり方が好きですね。なぜなら、ワタクシ的には彼は「出口王仁三郎」の霊的世界を現界において体現していると思うからです。
 御本人はあまり意識されていないかもしれませんが、彼にはそうした霊脈が感じられます。私は最初、彼の「臨済宗妙心寺派円福寺にて得度」という経歴に注目しました。私も今、臨済宗系の学校で禅の勉強をさせてもらっているからです。しかし、のちある方からいろいろと示唆に富む情報をいただきまして、調べてみましたらたしかに王仁三郎の息吹を受け継いでいるように感じられるようになりました。
 稲盛さんは、昭和19年の末、12歳の時に結核の初期症状である肺湿潤に冒され、死の恐怖と闘っていました。その時、隣の奥さんが「読んでごらん」と言って渡してくれたのが、かの『生命の実相』でした。稲盛少年はこの本を読んで、自分の中で革命が起こるのを感じました。稲盛さんの現在の経営観、世界観は、ある意味この瞬間に出来上がったとも言えます。
 『生命の実相』は言うまでもなく、「生長の家」創立者谷口雅春の著書です。そして、谷口雅春(正春)は王仁三郎の霊界物語の筆記者の一人ですね。谷口にも、また現在の「生長の家」にも、王仁三郎の影響は実に色濃く表れています。
 昭和19年と言えば、王仁三郎が京都で、のちに「ようわん」と呼ばれる焼き物(楽焼)を祈りを込めて(ある意味狂ったように)焼いていた時期にあたりますね。
 そして昭和30年、不思議なことに、鹿児島で生まれ育った稲盛さんは、吸い寄せられるように京都に向かいます。碍子製造会社に就職するのです。そして、ニューセラミック(焼き物)の研究に携わり、のちに「京都セラミツク(京セラ)」を創業し、世界的な企業に成長させました。
 つまり、稲盛さんには、思想的(宗教的)にも、実業的にも、王仁三郎の魂が流れ込んでいるのです。
 「大本」の関係者の話によると、どうもこれは単なるこじつけではないようです。彼の著書などを読んでみると、宗派を超えた独特の宗教観、世界観を感じます。まさに出口王仁三郎(大本)の「万教同根」、谷口(生長の家)の「万教帰一」ですね。
 さて、そんな稲盛さんですが、今回CEOという仕事を通じて、きっと世界をつなぐ「日本の翼」の傷を癒してくれることでしょう。単なるお金の問題ではないのです。社員の幸福、利用者の幸福、日本の幸福、世界の幸福を見据えてのお仕事をしてくれることでしょう。
 昨日のプロレス界の話もそうなんですよね。「カミ」と「カネ」の関係。これはなかなか難しいのです。「神」が「金」をコントロールできているうちはいいのです。
 稲盛さんはもちろん、松下幸之助さんや船井幸雄さんなんかもそうですね。みんな宗教的な勉強をちゃんとしている。「カネ」という悪神の働きもよく分かっているのでしょう。
Ai そう考えると、王仁三郎の「金神」観というのも面白く感じられますね。もともと最強の祟り神である「艮の金神」を善神に転換する発想は、そのまま、貨幣経済、市場経済における「金」という「神」の両面性とその可能性を示唆しています。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、現在は「モノ」より「コト」、つまり、目に見えない不随意な「モノ」よりも、目に見える随意な「コト」に偏りすぎているんですよね。いつも書いているように、見えない価値を見える数値に換える「カネ」は、「コト」の権化みたいなものです。それが威張りすぎているのが現代というわけですね。人間の脳内のフィクションが調子に乗っているというか。
 そんなわけで、私はこれからの教育には、ある程度宗教的なものが必要だと考えています。もちろん、私は特定の宗派に属しているわけでもなく、まさに「万教同根」を信じて、「万教帰一」を目指し、いや、王仁三郎の理想、「宗教のない世界」の実現を夢見ている者ですから、変に偏った宗教教育をしようだなんて考えていませんよ。ただ、やっぱり若いうちに、そういう「目に見えない」「教科書に載っていない」世界があるということをしっかり「体感」させてあげたいとは思います。
 これからは「コト」より「モノ」の時代です。もちろん、ここで言う「モノ」は「物質」とか「商品」とかいう意味ではありませんよ。世間では、これからは「物質文明」ではなく「精神文明」の時代だという意味で、「モノ」より「コト」と言われていますが、私はあえてワタクシ的観点から「コト」より「モノ」と宣言させてもらいます。平たく言うと、「カネ」より「カミ」、「自己」より「他者」ということでしょうかね。
 結局は双方のバランスの問題、主従の問題なのでしょう。王仁三郎の言う「霊主体従」ですね。
 とにかく、その辺りをよく理解しておられる稲盛和夫さんの手腕に期待いたしましょう。

稲盛和夫公式

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2010.01.09

「自然」は「不自然」?

P10406063 ッポン(ラバーカップ)を知らないカミさんが生まれ育った地域の風景です(「知らない」というより「必要ない」か…)。
 まさに日本の原風景。美しい棚田と里山、そして茅葺き屋根…ですが、今日は(も)カミさんに対して、少しいじわるな内容になるかな?
 今日、今年4月開校する中学校の初めての入試が行われました。準備をしてきた者として、実に感無量な一日でした。私たちの教育方針を理解していただき、予想より多くの子どもたちが入学を希望してくれたことに、まずは正直安心しましたし、さあこれからだという身の引きしまるような気持ちもありました。
 今までずいぶんと長く教員生活を送ってまいりましたが、このような充実感と緊張感(+疲労感?)を感じたのは初めてです。いずれにせよ、本当にありがたいことですし、私は特別な幸せ者だと思います。一つの学校の創立に関われるのですから。受験してくれた皆さん、そして親御さん、また学校スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。
 以前、こちらにも書きましたように、本校の国語の入試問題は、オリジナルの文章を使います。つまり、せっかく受験してくれる子どもさんのために、メッセージ性のある文章を私自身が書きます。それをもとにシンプルな語句の問題と、情報処理的な問題、そして作文を課します。
 今日はその文章を紹介します。はたして私のメッセージは小学生に伝わったでしょうか。

    自然

 「自然」と書いてなんと読むでしょう。
 そう、「しぜん」ですね。
 そんなこと当たり前です。でも、実はこれがちょっと考え方を変えると、当たり前でなくなります。
 「自」はなんと読みますか? 
 「じ」ですよね。
 さっきは当たり前に「自然」を「しぜん」と読みました。「然」は「ぜん」に違いありませんから、この場合「自」を「し」と読んでいることになります。ところが、「自」だけでは、異口同音に「じ」だと答えます。
 「自然」以外に、「自」を「し」と読む例は、実を言うとないのです。だから、「自然」を「しぜん」と読むのは、ある意味「不自然」だということになります。
 このように、私たちの常識(それはたいがい学校で習うことなのですが)を疑ってみたり、その「不自然」な点に気づいたりすることが、「勉強」や「学問」の面白さを知る原点となるのです。
 ちなみに、仏教の用語としては、「自然」は「じねん」と読みます。「天然」のように、「然」を「ねん」と読むことは日常的にありますから、こちらの方が「しぜん」より「自然」かもしれませんね。
 皆さんもよく知っている「だるまさん」こと達磨大師の言葉にこういうものがあります。
 「結果自然成(けっかじねんになる)」
 一般には、「努力していれば、それ相応の結果が出るものだ」という意味だと言われています。なるほど、私たちはそう信じているからこそ、勉強にしてもスポーツにしても習い事にしても、日々がんばれるのですね。
 しかし、もともとの意味を考えてみますと、「結果」というのは、「果実を結ぶ」、すなわち「実がなる」ということですから、「結果は人間の意思を超えて、自然に出るものである」とも解釈できそうです。だるまさんは、座禅を通して「自分を捨てる」考えをきわめた人ですので、そういう意味でこの言葉を使ったのかもしれません。
 私はこの「結果自然成」という言葉が好きです。どちらの意味でとらえるとしても、全ての「結果」には意味があって、自分や世の中にとって最良なものであるのだと考えられるからです。そうだとすれば、いろいろな「結果」を素直に受け入れることができますね。
 さて、もう一つ、「自然」についての常識を覆してみましょう。
 みなさんは東京に行ったことがありますか? おそらく全員が「はい」と答えるでしょう。
 では、東京と山梨、どちらが「自然」に恵まれているでしょうか。
 そんなことは言うまでもない、山梨に決まってるでしょ。みんなそう考えますね。しかし、本当にそうなのでしょうか。実はこの答も、少し視点を変えるとちょっとあやしくなってくるのです。
 話を分かりやすくするために、私の経験を話させてください。
 私は毎年春と夏に、親戚のいる東北地方のある県に行きます。
 皆さんもテレビか何かで見たことがあるかもしれませんが、東北地方では、一面に美しい水田がひろがり、そして、その向こうにこれまた美しい里山の続く風景が、いたるところに見られます。
 私は最初この風景を見た時、なんとすばらしい自然なのだろうと思いました。
 その感想はある意味では正しかったと思いますが、しかし、あのきれいに区画された田んぼや、整然と杉の木が植林されている山々が、はたして「手付かず」の「自然」なのか、ある時そう考えはじめたら、ちょっと分からなくなってしまいました。少なくとも「多様」な「自然」とは言えないような気がしてきたのです。
 一面の稲穂ということは、そこには「イネ」という植物しかないことになりますね。水田では、雑草や虫はいろいろな農薬によって殺されてしまっています。同じことは杉だけが立ち並ぶ山にも言えます。
 あまりに画一的で単調な「不自然」さが、そこにはあるのです。
 逆に、東京には案外多様な自然が残っているのを知っていますか?
 東京には昔からたくさんの人が住んでいました。そのため、墓地やお寺、神社などがたくさんあります。そういうところは、手入れはされますが、なかなか簡単に木を切ったり、薬品をまいたりはできず、多様な雑木林が残ったり、樹齢何百年の古木が残ったりしているものです。東京の都心部にも、実はかなりの程度「手付かず」の「自然」が残っているのです。
 このように、私たちは視点を変えることによって、違う風景を見ることができるようになります。こういう話を聞くと、次に東京に行った時、電車の窓から見える風景が変わって見えるようになると思います。また、山梨の自然も今までと違った風に見えてくるかもしれません。
 先ほども書いたように、こうした視点の転換こそ、勉強や研究の面白さなのです。
 私たちには、「新発見」をすることは難しいかもしれませんが、「再発見」することはいくらでもできるのです。

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