カテゴリー「教育」の530件の記事

2012.02.04

嘘も方便(三車火宅の譬え)

写真は柴又帝釈天の胴羽目です。名作「三車火宅の図」。
Img_1816555_64367758_8 日は中学校の一般入試でした。
 今回も国語の問題の本文を掲載しましょう。何度も書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。それにはいろいろな理由があるのですが、やはり最大の理由は「入試は一期一会」だということでしょう。
 合否とは別に、受験生(小学生)の人生にとって何か意味を残したいからです。
 今回は「うそ」をテーマにしてみました。私もこれまで存分嘘をついてきた人間です。偉そうなことは言えないはずですが、いや、だからこそ言えるというのもあるかな、とにかく自分自身の反省や勉強も兼ねて、「嘘も方便」のもとになったと思われる、法華経の中の「三車火宅の譬え」を取りあげてみました。
 もちろん実際の問題には、傍線部や空欄などがあるわけですが、ここでは原文のみ紹介します。最後にはこの文章に基づいた作文を書いてもらいました。皆さんそれぞれ素晴らしい文章を書いてくれまして、職員一同感動しました。
 では、今日も縦書きでどうぞ。昨日の漱石の文と比較しないでくださいね(笑)。


    うそ

 「うそをついてはいけません」
 「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」
 みなさんは、大人によくそう言われてきたのではないでしょうか。もしかすると、これからも言われるかもしれませんし、将来は自分がそのように言う立場になるかもしれません。
 では、世の中に「うそ」は全くない方がいいのでしょうか。
 もし、「うそ」ということばを辞書にあるとおり「事実でないこと」だと定義すると、国語の教科書にのっている物語や、いつも見ているテレビドラマやアニメは「うそ」だということになります。
 それからまだ起きていない未来について言うこと、たとえばテレビの朝の占いや天気予報、さらには「君はがんばればきっと総理大臣になれるよ」などという励ましのことばまでもが、正確に言えばみんな「うそ」ということになってしまいます。
 そう考えると、すべての「うそ」をなくすのも、なんとなくさびしいような気がしてきます。
 では、どうして「うそをついてはいけません」とか「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」とか言ったり言われたりするのでしょう。
 ここでヒントになるのは、「うそつきはどろぼうのはじまり」と対照的な意味を持つ、「うそも方便」ということわざです。いったいどんな意味なのでしょう。さっそく辞書をひいてみましょう。
 うそも方便=場合によってはうそも手段として必要である意
 辞書に「うそは必要」としっかり書いてあるのは驚きですね。しかし、ここで「ああ、なんだ。うそってついてもいいんだ」と思ったとしたら大まちがいです。もう一度よく辞書の説明を読んでみてください。
 「場合によっては…」
 そう、ここが大切なのです。この「場合によっては…」の「場合」がなんなのか考えなければ、このことわざの本当の意味はわかりません。
 この「うそも方便」の「方便」ということばは、実は仏教用語です。簡単に言いますと、「仏様が人間を救う方法」という意味です。つまり、「うそも方便」とは「うそも仏様が人間を救う方法のひとつである」というのがもともとの意味なのです。
 えっ? うそが人を救う? 疑問に思いますよね。では、一つのたとえ話をもとにじっくり考えてみましょう。
 あるお経のなかに、「三車火宅さんしゃかたくたとえ」という話があります。次のような内容です。

 昔々あるところに子だくさんの長者がいました。
 ある日長者がでかけている間に、家で火事が起きてしまいました。家の中では子どもたちが留守番をしながら遊んでいます。子どもたちは遊びに夢中で火事に気づいていません。
 「早く逃げなさい!」
 急いで帰ってきた長者は、子どもたちに大声で呼びかけますが、だれも気づきません。
 すっかり困ってしまった長者は、ここで大切なことに気づくと同時に、一つの方法を思いつきます。無理やりこちらに来させようとしてもだめだ、自分の意志で行動させなければ。
 「みんな、こっちに君たちがほしがっていた立派な車があるよ」
 するとどうでしょう。子どもたちはわれ先にと走ってきました。するとそこには思っていたよりもさらに立派な車が用意されていたのです。子どもたちはそれに乗って無事火事から逃げることができました。

 お話は以上です。どうですか。この話の中で、長者は「うそ」を言っていますね。それも二重のうそをついています。
 まず、「立派な車があるからこっちに来なさい」というのは、その時思いついたことであり、本当なら「火事だからこっちに逃げなさい」と言うべきところです。本当のことを言っていないのでこれは「うそ」だと言えます。
 そして、実際に子どもたちが来てみたら、自分たちがほしがっていたものよりももっと立派な車があったわけですから、やはり本当のことを言っていません。それも正確に言えば「うそ」だということになりますね。
 もし、全ての「うそ」をいけないことだとするなら、この話は、子どもをだましたとんでもない悪い長者の話ということになります。しかし、みなさんもそうは思わなかったでしょう。
 そうです。これこそが「場合によって」の「場合」なのです。
 つまり、「相手のためになる」場合には、「うそ」が必要になることもあるのですね。
 では、この「三車火宅の譬え」において、どんなふうに「うそ」が「相手のためになっている」のでしょうか。よく考えてみてください。二重のうそには、二重の「相手のため」があることが分かってくるはずです。
 まず最初の意味での「うそ」、つまり「立派な車があるからこっちにに来なさい」というのは、火事から子どもたちの命を救うための「うそ」です。これはまちがいなく「相手のため」のうそですね。「うそ」を言わなかったら、子どもたちは死んでしまったにちがいないからです。
 また、もう一つのうそ、実際にはそれ以上の立派な車があるのに、「君たちがほしがっていた立派な車」と言ってしまった部分はどうでしょう。これはちょっと難しいかもしれません。
 子どもたちを火事場から離れさせるのに、長者は最初「早く逃げろ!」という強制的なことばを使いました。その時、子どもたちは反応しませんでしたね。しかし、車のことを言うと、自ら喜んで走ってきました。つまり、「うそ」のおかげで、子どもたちは自分から進んで行動することができたのです。
 実はそのように自分から行動できた子どもたちを見て、長者(実はお釈迦様なのです)が、ごほうびとしてより立派な車を用意したのです。
 分かりましたか。「相手のためになるうそ」が存在することが。
 逆に言うと、「相手のためになる」場合以外の「うそ」は許されないということです。
 たとえば、相手をだまして自分だけが得をするための「うそ」だとか、相手が傷つく「うそ」だとか、自分を守るためだけの「うそ」は絶対についてはいけないのです。
 私たちはついついそういううそをついてしまうものです。方便となる「うそ」をつくのは難しい。お釈迦様レベルなら可能かもしれませんが、私たち凡人にはなかなかできません。だから、つい簡単な方の「うそ」をついてしまうのです。
 こう考えてきますと、物語やドラマ、そして励ましのことばなどが、まさに「方便」であって、一般的には「うそ」だと言われない理由も分かってきます。そして、それらを作り出したり、使ったりすることが、いかに難しいか、そして責任重大かということも分かってくるのではないでしょうか。


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2012.02.03

夏目漱石 『素人と黒人(くろうと)』

20100526201449 「士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである」
 今日もまた他人のふんどしです。
 中学高校の仕事をしていますので、小学6年生のために問題を作ったりする一方、大学入試の文章も読まねばなりません。まさに受験シーズンですなあ。この時期は忙しいけれど楽しい。私は普通の国語の先生と言うより受験国語の先生なので。
 今日は昨年の早稲田大学の問題を生徒と一緒に解きました。最近の早稲田の問題は昔に比べると「良問」になっている気がします。単に自分が慣れてきただけかもしれませんが。
 で、その現代文の本文の一つが漱石のエッセイでした。大正13年(1914年)東京朝日新聞に掲載されたものだそうです。
 これがなかなか面白い「漱石節」だったので、思い切って抜粋されていた分すべてを紹介します。
 まあ簡単に言えばいわゆる「玄人」をけちょんけちょんにやっつける文章ですね。こんな口調でここまで言うなんて、いったい漱石に何があったのか、何がこれを書かせたのか、興味のあるところです。
 しかし、ここに書かれていることは、古今東西・硬軟聖俗すべてに普遍的なことであるような気がしますから、単なる個人攻撃、あるいは感情論ではないということですね。そのあたりが漱石らしいところです。
 そして、漱石らしいと言えば、最後の段落でしょうかね。うまいこと逃げているとも言えるし、皮肉がきいているとも言えます。
 なんか、そのあたりは自分の書く文章にも似ているな…いやいや、私が漱石の影響を受けていると感じました。私もよく使う技であります(笑)。
 ところで、どうして漱石は「しろうと」は「白人」ではなく「素人」と書いているのに、「くろうと」は「玄人」ではなく「黒人」としたのでしょうか。
 おかげで、「素人と黒人」でググると大変なことになります(笑)。ぜったいに検索しないようにしましょう。
 漱石のいたずらでしょうかね(苦笑)。
 いや、実際、明治時代には「しろうと」は「素人」という表記しかなく、「くろうと」は「黒人」が一般的であったようです。「玄人」は案外新しい表記らしい。おそらく「黒人」が「黒色人種」の意味として一般化すると同時に、それとの差別化を図って「玄」という字をなんらかの理由で使うようになったのでしょう。
 それまでは「黒人(こくじん)」というと、「しろうと」の反対で「遊女」のことを指しました。
 ちなみに「素人」という漢字は中世から近世にかけて既に一般的でした。
 では縦書きでどうぞ。ルビもつけちゃえ! 面白いのでぜひお読みください。

 良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えていた。詩人の詩、書家の書といえば、本職という意味から見て、これほど立派なものはないはずである。それを嫌う上人の見地は、黒人の臭みをにくむ純粋でナイーブな素人の品格から出ている。心の純なるところ、気の精なるあたり、そこにれ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。腹の空しい癖に腕でき廻している悪辣がない。器用のようでその実は大人らしい雅気に充ちた厭味いやみがない。だから素人は拙を隠す技巧を有しないだけでも黒人よりもしだといわなければならない。自己には真面目に表現の要求があるということが、芸術の本体を構成する第一の資格である。既にこの資格を頭のうちに認めながら、なおかつ黒人の特色をうらやむのは、君子の品性を与えられている癖に、手練手管てれんてくだの修業をしなければ一人前でないと悲観するようなものである。  ここで、更に新しい所から黒人と素人を比較して見ようと思う。あるものを観察する場合に、ず第一にわが眼に入るのはその輪郭である。次にはその局部である。次には局部のまた局部である。観察や研究の時間が長ければ長いほど、段々細かい所が眼に入って来る、ますます小さい点に気が付いて来る。これはすべての物に対する我々の態度であって、ほとんど例外を許さないほど応用の広い自然の順序と見ても差支さしつかえない。だから芸術の研究もまたこの階段を追って進んで行くに違いない。いわゆる黒人というものはこの道を素人より先へ通り越したものである。そうしてそこに彼等の自負が潜んでいるらしい。彼等の素人に対する軽蔑の念も亦そこからいて出るらしい。けれどもそれは彼等が彼等の径路を誤解して評価づけた結果に過ぎないと、自分は断言してはばからない。彼等の径路は単に大から小に移りつつ進んだのである。浅い所から深い所に達しつつあるのでもなければ、上部から内部に立体的に突き込んで行きつつあるのでもない。大通りを見つくしたから裏通りを見る、裏通りを歩き終ったから、横丁や露地を一つ一つのぞいているという順序なら、たとい泥板どろいたの上を一軒一軒数えて廻っても、研究の性質に変化の来るはずがない。それを低い平面から高い平面に移された様に思うのは、いわゆる黒人のイリュージョンで、平凡な黒人は皆このイリュージョンに酔わされているのである。単にこれだけなら彼等の芸術に及ぼす害毒はさほど大したものでないかも知れない。けれども彼等はこの甘いイリュージョンにあざむかれて、大事なものは何処どこかへ振り落して気が付かずにいるのである。  観察が輪郭に始まって漸々ぜんぜん局部に移っていくという意味を別の言葉で現すと、観察が輪郭を離れてしまうという事に帰着する。離れるのは忘れる方面へ一歩近寄るのと同然である。しかもその局部に注ぐ熱心が強ければ強いほど輪郭の観念は頭を去る訳である。だから黒人は局部に明るい癖に大体を眼中に置かない変人に化けて来る。そうして彼等の得意にやってのける改良とか工夫というものはことごとく部分的である。そうしてその部分的の改良なり工夫なりがごうも全体に響いて居ない場合が多い。大きな眼で見ると何の為にあんな所に苦心して喜んでいるのか気が知れない小刀細工をするのである。素人は馬鹿馬鹿しいと思っても、先が黒人だと遠慮して何もいわない。すると黒人はますます増長してただ細かく細かくと切り込んで行く。それで自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高い立場から見下すとこれは進歩でなくって、堕落である。根本義を棚へ上げて置いて、末節にばかり齷齪あくせくする自分の態度に気がついたら黒人自身もしか認めなければなるまい。  素人はもとより部分的の研究なり観察に欠けている。その代り大きな輪郭に対しての第一印象は、この輪郭のなかで金魚のようにあぶあぶ浮いている黒人よりは鮮やかに把捉はそく出来る。黒人のように細かい鋭さは得られないかも知れないが、ある芸術全体を一眼に握る力において、糜爛びらんした黒人のひとみよりもたしかに溌剌としている。富士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである。  ある芸術の門をもぐる刹那に、この危険は既にその芸術家の頭に落ちかかっている。虚心に門を潜ってさえそうである。与えられた輪郭を是認して、これは破れないものだと観念した以上、彼の仕事の自由は到底毫釐ごうりの間をうろついているにすぎない。だから在来の型や法則を土台にして成立している保守的の芸術になると、個人の自由はほとんど殺されている。その覚悟でなければ這入はいる訳に行かない。能でもおどりでも守旧派の絵画でもみんなそうである。こういう芸術になると、当初から輪郭は神聖にして犯すべからずという約束の下に成立するのだから、その中に活動する芸術家は、たとえ輪郭を忘れないでも、忘れたと同じ結果に陥って、ただ五十歩百歩の間で己の自由をみせようと苦心するだけである。素人の眼は、この方面においても、一目の下に芸術の全景を受け入れるという意味から見て、黒人に優っている。  こうなると俗にいう黒人と素人の位置が自然転倒しなければならない。素人が偉くって黒人が詰まらない。一寸ちょっと聞くと不可解なパラドックスではあるが、そういう見地から一般の歴史を眺めて見ると、これはむしろ当然のようでもある。昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、その人は黒人でなくって素人でなければならない。人の立てた門を潜るのでなくって、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。

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2012.01.26

秋入学?

201201192216066fb 大がいきなりぶち上げた「秋入学」構想。野田首相も賛意を表したとの報道がありました。早慶も基本的に同調する姿勢を見せました。
 正直全く理解できません。あえて「全く」と言いましょう。あえて売国行為だ!と言いましょう。あえて極論を述べさせていただきましょう。
 国の最高学府の頂点に立つべき東京大学がこういうことを言い始めたら、もうおしまいですよ。本当に頭がいい人たちというのは困ります。
 そこまでして優秀な留学生がほしいのでしょうか。外国人に頼らなければ東大の復権はありえないのでしょうか。誰のための国立大学なのでしょうか。
 外に頼る前に中身をなんとかしようと考えないのでしょうか。いや、もちろん考えているとは思いますが、それをなんで先にアピールしないのでしょうか。がっかりです。
 たしかに日本の受験文化は特殊であり、国際化とは正反対の価値観にあるとも言えます。
 前も書きましたとおり、この極寒の季節に人生を決する入試を行うのは、たしかに変なことです。どう考えてもおかしい。
 センター試験に雪の影響があること一つとっても、絶対に地域による不平等が生じていますよね。インフルエンザが猛威をふるう最盛期でもあります。もっといい季節に最高の条件で受験させるべきです。
 しかし、しかし、それが崩れなかった理由には、とっても根深い文化的な側面があります。
 厳しい冬を乗り越えて、そして春の萌す頃に合格が決まり、桜咲く頃に入学する。まさに人生の縮図のような体験をするのが、日本文化としての受験です。
 それがたしかに国際的な価値観からするとナンセンスだというのも十分理解できますけれども、やはり日本人が、理論や理屈や科学的見地や経済性をも無視してきた「文化」には、それなりの意味、言葉にはできないかもしれないけれども、もっと深いところでの意義があったのだと信じます。それをいとも簡単に崩すのはどうかと。
 いや、それ以前に、このたびは入試の季節は変えずに入学だけ秋にするところから始めようとしていますよね。それ自体とっても不自然なことです。人生の重要な半年間をどうするんですか。今挙げれられているようなアイデアのためだったら、とんでもないムダな中途半端な期間となってしまいます。最近増えている推薦入試やAO入試で合格してしまうと約1年無駄になりますよ。
 最終的には全てが欧米流になって、秋入学、秋入試、秋卒業、秋入社のようになれば良いと考えているのかもしれませんが、たとえそうだとしても、あまりに自己中心的というか、独善的というか、唐突というか…。
 そうして論議を巻き起こそうとしているというのも分かりますがね。しかし、もう少し「頭の良い」アピールの仕方というのがあるでしょう。がっかりしました。そこに私学の雄や首相までも迎合するこの国の情けなさたるや。
 秋入学文化への社会全体への移行ということになれば、これは国家の大計とすべき重要問題です。一大学の思いつきのような発言に惑わされることなく、国民全体で本質的な論議をしなければなりません。
 個人的に私は「国際化」のブームは去ったと思っています。グローバリゼーションという名の「顔の見えない」専制、中央集権化が進めば進むほど、再び「顔の見える」ローカルの時代が来ると予感しています。
 そういう時代を迎えるからこそ、今は私たちは自国のアイデンティティを守るべきだと考えています。
 時代遅れ、頭の硬い保守と言われようとかまいません。実際には時代の先の先を読み、柔軟に発想していると自負しているからです。


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2012.01.25

三路スイッチ・四路スイッチ…そして脱電力のお話

 日の技術の時間は「3路スイッチ(三路回路)」についてのお勉強。
 皆さんのお宅にもあるのではないでしょうか。階段の上と下で電気をつけたり消したりできるスイッチ。
 ウチの階段にもありますね。ウチのは四路です。つまり、三カ所でつけ消しができるタイプ。
 これっていったいどういう回路になってるんでしょうか。今日は技術の先生がそれを生徒に考えさせました。皆さんも考えてみてください。答えは下にあります。
 四路になるとちょっと難しいですよね。というか、四路スイッチを発明した人は偉い!誰なんだろうか。私は四路は考えてもわからず、答えを見てしまいました。
 技術の先生とも話したんですが、今どきの子どもたちは、たとえばこのようなスイッチがどういう仕組みになっているかなんて、ほとんど考えませんね。
 世の中の機械のほとんどがブラックボックス化していまして、そういう仕組みというものを考えなくても生活することができるようになりましたし、たとえ興味を持ったとしてもそれを確かめる術がないというのも事実です。
 私の子ども時代なんか、まあなんでもかんでも分解してましたからね。それって、つまり「中身はどうなってるんだろう?」とか「どういう仕組みでこうなるんだろう?」とか、そういう興味にかられて、居ても立ってもいられなくなっていたということですよね。
 そして、当時の機械はそれを許す作りでしたね。分解可能でした。今の機械は分解できないようにできていますね。つまり、作った側も修理するつもりがないということでしょう。壊れたら捨てて買い換えると。
 大人がそういう世の中を作ってしまったおかげで、今の子どもたちは「想像力」を失ってしまいました。ウチの学校では、いろいろな意味で「想像力」を育てたいと考えていますので、その一環としてのこの技術の授業です。というか、大人である(すなわち昔の子どもだった)私たち教師の「遊び」という意味合いも多分にありますが(笑)。
 「遊び」には危険も伴います。リスクがなければ「遊び」は成立しません。「遊び」の本質の一つは「危険への挑戦」「未知への挑戦」「想定外への対処」です。そのための最大の武器が「想像力」なのだと思います。
 そうそう、その技術の時間では、「短絡」や「感電」も経験させていましたよ。
 まあそういう「危険」に伴う責任が製造者側に課せられるようになっていますしね、どうしても作る側もそういうリスクを避ける方向に行っちゃいますよね。
 今、いろいろな意味で、「電気」が注目されていますが、考えてみると「電気」自体が得体の知れないものになってしまっています。いや、本来得たいの知れない「モノ」であるはずなのに、ブラックボックスの中でしっかりコントロールできている「コト」であると、我々は勘違いしているのです。
 原発事故なんか、まさにその結末であり、ある意味「もののけ」たる電気、あるいは原子力(核力)、つまり自然の反乱、反撃とも言えなくもありません。
 だいたいですね、この電力社会というのが幻想の産物なんですよ。私も含めて、そこのところに想像力が及ばず、こういう社会に依存して安住してしまった。
 この期に及んで、電気自動車やオール電化とか言っている私たちって…。世の中の自動車が全部電気自動車になったら、いったいどれだけ電力使用量が増えるか。そんなことすら想像できない私たちって(ちなみに原発を新設せずに電気自動車に要する電力を全て火力発電所で補うとすると、肝心の温暖化の問題、化石燃料枯渇の問題も単純には解決しなくなる)。
 今の私たちの使用電力量を半分にするとなると、なにか大変な、ある種原始的な生活に戻るような気がしてしまいますが、実際には1970年代に戻るだけです。あの高度経済成長期の「電力生活」に戻るだけです。
 いや、今では省電力化の技術が進んでいますから、あの頃よりもずっとぜいたくな「電力生活」ができるでしょう。
 そういう意味では、今必要なのは「脱原発」ではなくて、もっと根本的な「脱電力」なんですよね。いや、「脱電力」というよりも「脱過剰電力使用社会」と言った方が正確かな。
 もちろん、一つには私たちの省電力生活化も大事ですけれども、今の電気の垂れ流し状態からの転換を図るために、私のいつも言っている「蓄電」技術の進歩も大切です。大型キャパシタの研究開発に期待します。日本の工業界、逆転の最後の切り札は「蓄電」にあります!
 さて、話がだいぶ逸れたので、最初の問いに戻りましょう。三路スイッチの回路図できましたか?四路をゼロから考えられたとしたら、あなたは天才です!
 では、答えです。

三路スイッチ回路図。

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四路スイッチ回路図。

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2012.01.24

カタカナ社名の語源を楽しむ。

Epsn0013 、国語の授業で「仮名」についてやっております。古文の導入として、まずは日本の文字文化の歴史を学んでいるとでも言いましょうか。私は語学畑の人間なので、どうしてもこういうアプローチになりますね。
 その中で、カタカナの歴史とイメージの変遷の話をしました。その教材(?)の一つが、みんながよく知っているカタカナ表記の会社名の語源です。
 カタカナ社名と言うと、たとえば「パナソニック」なんかも入ってきてしまいますが、今回は「本来漢字標記だったのものをあえてカタカナにした」例を挙げてみました。
 ブリジストンが「石橋」だなんていうのも、今回はオマケで話すだけにしました。地元サンリオの「山梨王」も俗説として教えました。
 けっこう生徒も楽しんでいましたが、おそらくは皆さんにとってもちょっとした「雑学」「トリビア」「話のネタ」になるのではないでしょうか。
 戦前、戦中、戦後とカタカナの地位は大きく変化しました。そのあたりの事情については、授業では話しましたけれども、ここでは割愛させていただきます。
 では、一覧にして御覧いただきましょう。ちなみに山梨限定の会社名もあるので、そのあたりはご容赦ください(笑)。また、一部には「準俗説」や「未確認情報」も含まれていますので、あしからず。順不同。思いつくままに。やっぱり創業者の苗字が多いですね。

ダイエー 大栄
イトーヨーカドー 伊藤羊華堂
グンゼ 郡是
コクヨ 国誉
フコク 富国
ヤマハ 山葉
ホンダ 本田
スズキ 鈴木
ニトリ 似鳥
ツルハ 鶴羽
コメリ 米利
マトモトキヨシ 松本清
ダイドー 大同
セイコー 精工(舎)
クレハ 呉羽
キャノン 観音
サントリー サン(三)鳥居
キムコ 絹子
トクホン 徳本
リンナイ 林&内藤
チノン 茅野
オムロン 御室
カネボウ 鐘紡(鐘ヶ淵紡績)
フジテレビ 富士テレビ
キッコーマン 亀甲萬
イタヤマメディコ 板山
オギノ 荻野
セイフー 青楓
カシオ 樫尾
カンコー 菅公
サンガリア 山河有り
スガキヤ 菅木屋
ゼンリン 善隣
タイトー 太東
テイジン 帝人
ナムコ 中村雅哉(Na M Company)
ミツカン 三勘
ヤオハン 八百半
リコー 理光(理研光学)
ワコール 和江
ヤマト 大和
ベイシア べ(bene)伊勢屋
シダックス 志太
ミノルタ 稔る田(の意味もかけている)

 どうですか。楽しいですね。ところで、調べている中で意外だったのは「富士通」ですね。これはある意味逆のプロセスを踏んでいる。
 「富士」の漢字は後付けなんですね。もとは「フジ」。古河の「フ」とジーメンスの「ジ」だそうです。へ〜ぇ。
 ちなみに少数派である「ひらがな」では「しまむら」は「島村」さんですね。


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2012.01.17

南方熊楠 『土宜法竜宛書簡』より〜「モノ・コト論」

20061013235545 ンター試験も終わり、高校生は国立二次対策、そして私大の一般入試の対策に入りました。ここからがある意味私の腕の見せ所…かな。
 あっそうそう、おととい紹介した今年のセンターの小説問題、ウチの中学2年生に解かせてみました。もちろんなんの対策もせずに。あえて言えば、ウチは出口汪先生の論理エンジンをやってるので、かなり論理的読解力はあると思いますが。
 結果は、当然ながらピンからキリ。ちゃんと選択肢を部分部分にわけ、それぞれ○△╳をつけている生徒もいれば、ロト6式に5分で終わっちゃってるのもいました。しかし、結果としてはみんなあんまり大差ない点になってしまいました。現役の高校生(受験生)ともあまり変わらない現実(苦笑)。
 ちなみに最高点は39点二人でした。立派ですね。
 つまりそういう試験なのであります。センターの国語の小説なんて。
 さて、今日はまた違った意味で「難しい」早稲田の国語のお話。というか、別に早稲田大学の問題についてうんぬんするわけではありません。極私的な動機です。
 私の「モノ・コト論」、なかなか賛同者が現れない(すなわちアヤシイ)わけですけど、実は一見似たようなことを言っている過去の偉人がいるんです。
 その文章が2008年の早稲田の文化構想学部の試験に出ていたんです。実はそれについては、当時、こちらの記事で紹介しています。
 今日はその中から、南方熊楠自身の書簡の部分を紹介します。この書簡の前に、この書簡の内容を紹介している中沢新一さんの「森のバロック」の一部が載っているんですが、それは著作権の問題もあるので割愛。熊楠の方だけ紹介します。たぶん本文は歴史的仮名遣いだと思われますが、ここはテストの本文と同様に現代仮名遣いにしておきます。
 


 電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を暖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界とまじわりて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事ということにはそれそれ因果のあることと知らる。その事の条理を知りたきことなり。今の学者、ただ箇々のこの心この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。
 科学のみで今日まで知られたところでは、輪廻ということはたしかにあるごときも、科学のさわること能わざる心界に輪廻行わるるや否やという問いには、実に答えに苦しむ。何となれば、小生今日悪念を生じたりとて明日別にこれがために懊悩せず。多くは忘れ終わるものなり。されば物界に生ずる、これこれの水をこれこれの温度にたけば、これこれの蒸気を生じてこれこれの大いさの物を動かすというとは異なり、心界に生ずる現象はあるいはつねに報あらぬものにやとも思わる。これをきわむるには、小生一人の心できわむるよりほか仕方ないが、右に申すごとく、心界中のみには輪廻ということは、たしかに小生には見えぬ。
 すなわち石が墜ちて瓶にあたれば、石が因となりて瓶を破るように、今日小生善を思いたればとて、別に思うただけの報を思うものにあらず。また悪念を起こせりとて、別に後日これがため悪事を念うということもなく、ただ一座なりのようにも思う。ただ心界に感ずる因縁応報というは、心界が物界に接して作用(事)を生ぜし上のことで始めてあらわるるものと思う。すなわち小生が人の物ぬすむは、小生の心が手をつかいて物をぬすむという作用を現出するなり。その返報としては、あるいは小生が人(小生より見れば物)でどやさるること等あるべし。この物心両界が事を結成してのち始めてその果を心に感じ、したがってその感じがまた後々の事の因となりなり。

 熊楠の「事は心と物がまじわるところに生まれる」という基本的な考え方は、私の「モノ・コト論」とは一見似ていますが、実は非なるものです。
 つまり、私は「心」というか、人間の「認知」こそが「事」そのものであるととらえているんです。目に映り、心に感じた時点で「物」は「事」になるということです。
 今年のセンター評論で言えば、「私」が認知している世界も全て「私(コト)」の一部であり、その他補集合は全て「他者(モノ)」であるということになります。
 だからどうなんだと言われると困ってしまうわけですけど、とにかくそれがお釈迦様が悟った、この世の中の唯一真理(マコト)であるということです。
 そして、その「モノ」と「コト」という言葉の意味と、それに基づく世界の構造を語誌的に証明しようとしているのが、私の「モノ・コト論」だということですね。
 熊楠の書簡の後半部分は、ある意味、あの当時のオカルトブームを想起させますね。そして、因縁応報(因果応報)については、ちょっと考えが浅い気がします(笑)。悪念を抱いた報いが、必ずしもすぐに「罰」として現れるはずありません。もっと超時的、超世代的に応報するものです。

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2012.01.15

たま虫色? (2012 センター試験 国語…小説)

20120117_111719 て、センターの小説です。
 まず最初に、昨年の記事の復習をしましょう。こちらです。自分で言うのもなんですが、なかなか本質的な問題を突いてますね。もちろん、私の考え方は今年も変わっていません。コメントくださった皆さんの意見も貴重です。
 繰り返しますが、大学入試には「小説」の問題を出すべきではありません。そして、文学鑑賞や創作は「国語」ではなく「芸術科目」として「音楽」や「美術」や「書道」と並べてやるべきです。以上。
 …と、ここで終わるわけにはいかないので、以下今年の問題の感想などを。
 そうそう、去年の私の咆哮にも多少の効果はあったのでしょうかね。「もし小説の問題を出すならば、短編を丸ごと出してほしい」と書いたら、まあ今年は井伏鱒二の短編小説全文が出たじゃないですか!ww
 うん、やっぱり言うべきことはちゃんと言うべきだな(と、自分の手柄にしている…笑)。
 実際これは結構なことでした。昨年書いたように、出題者の脳内と受験者の脳内の情報領域がなるべく一致していた方がいいですからね。
 しかしですね、やっぱり小説の問題は難しい。というか、小説を問題にするのは難しい。出題者の苦労のあとが見て取れます。だから、どうせなら出さない方がいい。百害あって一利なしとは申しませんが、一害って一利なしなことで人生を左右したく(されたく)ありません。
 この「たま虫を見る」、なかなかいい小説だと思いますが、こうしてテストされて情報として読んでしまうと、その魅力が半減してしまいます。井伏さんにも申し訳ないですよ。
 問題としてではなく、ぜひ小説として読んでみてください。問題はこちら
 さて、問で問題視されそうなのは、問3、問4、問5でしょうか。たしかに情報処理としては面倒です。
 しかし、受験テクニック的に言えば(あくまで自己流ですが)、たとえば問3は動詞を中心に注目して、傍線部の「吐息をついたり」「相手をとがめる」に相当する部分を検証すれば、それほど難しくないでしょう。選択肢5の「落胆し」「非難する」が正解です。
 問4も選択肢全体を読むとニセ情報に混乱するので、最後のところだけ読みます。傍線部の「泣き顔」が次のどれなのか。「情けなさ」「悔しさ」「無力さ」「ふがいなさ」「寂しさ」。その判断のためにそれぞれの感情を修飾する部分を下から読んでいきます。日本語の記述方法(語順)と我々の思索(認識)過程は一致しないことが多いのです。
 問5は悪問ですね。答えがありません(笑)。本文のこの部分、素直に読むならば、二ヶ所の「人を押しのけ」は同じ意味と取るべきでしょう。さらに言えば、傍線部前の「(人々は)私を後ろにおしのけ」を受けての比喩的表現でしょうから(「おし」と「押し」の違いは無視…苦笑)、そういう観点で選択肢を見ていきます。で、正解にたどりつければ、これは問題のない問題なのですけど…どうしても絞れません。
 あえて言うなら、最終段落で牧師になる算段をしているので、それが「私」の新たな行動だとするなら、まあ正解3の「自分の立場も守らなければならない」になるのかなあ。その程度の「押しのけ」と「割り込み」だったというのがオチなわけですから(たぶん)。
 まさに「玉虫色」な問題ですな(笑)。
 いずれにせよ、20分程度でここまでいろいろ妄想するのは大変です。
 古文は、これまたおととしの記事が効いたのか、ずいぶんと文章が短くなった上に、勉強したことが活かされる問題になってきました。漢文とのバランスがよくなったと思います。
 全体として、センター試験国語は改善の方向には進んでいます。しかし根本的な問題点は解決されそうにないですね。頑張れ、全国の国語科教師たちよ。

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2012.01.14

相変わらず選択肢の日本語に難あり。(2012 センター試験 国語…評論)

20120117_101845 んだか忙しくて(人と会って話をする機会が多くて)、今年はとっても遅いレビューになってしまいました。
 センター試験と私の距離も、以前に比べると少し遠くなったような気がします。ですから、正直センターを解くことが優先事項とはなりません。まあ、中学の仕事が中心ですから仕方ありませんね。なんとなく寂しいような気もします。
 しかし!昨年もこんなふうにに吠えまくっていますからね、今年も期待されてこちらを訪問してくださった方が多数いらっしゃるようです。何か少しは書かねば。
 そうそう、昨年の記事には実にありがたいコメントがたくさん付いたのですが、あの最後の「某」さん、お元気でしょうか?まあ「二度とここを覗くことはない。読む価値なし!」と断言していますから、ご挨拶しても意味ありませんが(笑)。
 ということで、今日は評論について(問題はこちら)。う〜む、今年はあんまり噛みつき所がないなあ。つまり、まあまあ良問だったということです。丁寧に読み込み、抽象的な言葉を感覚に落とし込んでいけば満点取れるでしょう。
 本文は人間の自己意識、「私」の特異性に関する内容。これは、まんま私の「モノ・コト論」なので理解しやすかった。そう、この「モノ・コト論」を身につけてしまうと、いろいろな文章や世の中の面倒な仕組みなどが理解しやすくなりますよ。
 つまり、自己意識=コトであり、その他全てがモノだという考え方です。前半で言えば、「個体」がコトで「環境」がモノ。
 で、お釈迦様のように真理をつきつめていくと、その「コト」がですね、筆者の木村さんがおっしゃるとおり、内部(領域)を失っていって、しまいには「点」になってしまう。そうすると点自身が境界線になるとも言えるし、境界線がなくなるとも言える。それが自他不二ですね。
 ま、これを読みながらこんなことを考えているのは「モノ・コト教」の教組、私だけでしょうが(笑)。いや、この本文のように小難しい言葉で表現されている「コト」は実はとってもシンプルな「モノ」なんですよね。
 まあ、それはいいとして、一つ苦言を呈するとすれば、昨年と同様に、選択肢の日本語がへんちくりんで混乱するというのがありましたね。
 たとえばこのブログなんか、まあ全く推敲せず(再読すらせず)に書き散らしていますから、それこそ誤字脱字やら論理的なねじれとか当たり前にありますけどね、しかし、こっちは何十万人もの人生がかかっているセンター試験ですからね。
 問2の選択肢全体のことです。五つの選択肢全てが、「ある個体にとって、〜に加え、〜もまた環境の一部となること」という形になってますね。
 この問題は筆者独自の考え「(自然など一般的な環境だけでなく)他の個体も環境の一部」を把握させる意図があるわけですが、選択肢の「〜に加え」が多義的であるために、ちょっと最初勘違いをしてしまいました。
 つまり、私は最初「〜に加え」を単純に「答=○+△」の「+」だと思ってしまったわけです。お分かりになりますか?だから、○の部分に「自然」が出てくる選択肢4と5をはじめ排除してしまったわけです。だって、正答の根本的な条件に反しているから。
 しかし、他の選択肢があまりにも変だったので昨年の記憶が蘇ったのでしょうね。待てよ、この「〜に加え」は「(○だけでなく)」、あるいは「(○なみならず)」という意味であり、傍線部Aの中には直接含まれない成分なのか、傍線部Aの言外、すなわち傍線部以前に述べられていた内容を受けているのか、とやっと気づきました。それまでに数分かかったのでは。
 昨年も結局、あの選択肢の日本語が曖昧であって、いろいろ解釈ができてしまう文だったわけですよね。結果として分かればいいじゃん!とも言えましょうが、やはり大規模な客観テストなんですから、あらゆる読者(受験者)の視点で文を推敲、校正するべきでありましょう。
 相変わらずこんな日本語を読まされる受験生は大変であります。木村さんの文も、もう少し分かりやすく書けるのでは。書き直してみようかな。
 明日は小説などについて。


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2012.01.13

想像力と倫理

20120114_75327 日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
 氏の環境倫理学の本は何冊か読んだことがあります。何が書いてあったか全く覚えていないので(笑)、このブログに書いたであろう記事で思い出そうと思ったのですが、検索してみたらありませんでした。
 あっそうか、たしか高校入試の問題で使ったので、それで記事にしなかったんだ。記事見ると何が出るか分かっちゃいますからね。たしかにこれは倫理的に許されませんな。
 その代わりに「子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える」という本の記事が出てきました。これもまた読んだことすら覚えておらず、またこんな記事を書いたことも全く覚えていないという、非常に情けない事実(苦笑)。やはりこのブログは個人的な備忘録としても機能しておりますな。
 さてさて、今日の加藤さんのお話、原発問題を哲学で斬る!ということで、なかなか興味深い内容でした(哲学というより倫理学でしたけど)。しばらくはこちらで見られますのでぜひどうぞ。13日分の後半の方です。
 このムービーに採用されなかった「確率」と「期待値」の話も面白かったですよ。科学の限界の一端を示す話だと思いました。
 すなわち…「1/1万×1/1万=1/1億」という確率計算から原発は安全だと言われてきた。しかし、それぞれの1/1万は独立事象に関することである。しかし独立事象というのは理論上のことであり、現実にはありえない。特に地震や津波による原発事故の場合、それぞれのシステムが「独立」であることはありえない…と。
 また…「10年に1回、10億円の損害」と「100年に1回、100億円の損害」というのは、期待値的には同じだが、我々の生活感、倫理観からすると全く違う…と。
 この話を聴きながら再確認しましたね。数学が象徴するように、科学は人間の想像力(感情)を排除するところから始まるんだなと。
 つまり、基本的に顔が見えないんですよ、人間の。ここのところ何回か書いてきたと思いますが、私たちは相手の顔が見えないと倫理を失います。
 たとえば、今回ですね、こういう事故が起きて、自分や自分の子どもが被曝すると、これだけ大きな騒ぎになる。これは当然です。
 しかし、加藤さんも言うとおり、核廃棄物が自然状態に還るには10万年かかるわけで、じゃあ、それに対しては我々は「感情的」「倫理的」になるかというと、まったくならないわけですね。
 ずばり言ってしまうと、私なんかも、自分の娘たちの将来、娘たちが住む世界の状態を心配できますが、その娘たちの子ども、すなわち孫のこととなると、途端に無関心になり、あるいは悪人にすらなってしまいます。とても10万年後のことなんか想像できませんよね。
 これは大きな人間の欠陥です。加藤さんの言う「世代間責任」「世代間倫理」が欠落しているんですね。特に、カネ、経済性が優先されると、その傾向は強まります。
 では、どうすればその「想像力」を持つことができるのか、あるいは鍛えることができるのか。
 私はそこに必要なのは、感情や想像力、個人の顔を排除する「科学」ではなく、それらを統合する「宗教」だと思っています。「宗教」という名で呼ぶと、我々は経験科学的に(笑)具体的な宗教を思い浮かべてしまうので、本当はその言葉は使いたくないんですけどね。
 ホントしつこくて申し訳ありませんが、私の「モノ・コト論」的に言いますと、科学は「コト」の権化ですから、そっちではなくて「モノ」的世界に生きよということです。「物語」世界とも言っていいでしょう。
 実は人間の脳ミソはそちらの世界に対応するようにできているんですが、今、我々はそちら側をほとんど使っていないようです。コト的な世界、言語によって分析、分節する機能ばかり使っている。数字や言葉やカネはそちら側に麻薬的に働きます。
 もちろん、そちらも必要なのですが、バランスが悪いんですよ、他の動物と比べても。
 実は「倫理」「道徳」「モラル」「良心」というのは、言語の領域、科学の領域で生まれ育つものではありません。教育界ではその逆のことをずっと教えてきちゃいましたね。人間は言語や数字で考えられるから動物より優れていると。間違ってましたね。
 まずは、顔が見える者どうしの「思いやり」、そして、次に今ここにいない顔見知りへの「思いやり」、さらに顔を知らないけれども、確実に存在している無数の他者に対する「思いやり」…こうして我々は「想像力」を鍛えていかなければならないのです。
 難しいですね。我々教師の責任も重大です。教科書を教えながら、科学や論理や言語を教えながら、その補集合(モノ世界)の存在に気づかせなければならないわけですから。
 厳しい道のりが想像されますが、一歩一歩進むしかありません。

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2012.01.12

藤巻亮太 『光をあつめて』

 日は宮中で歌会始の儀が行なわれました。それにちなんで、本校でも冬休みの宿題で作った短歌でプチ歌会を開きました。
 中学生は初めて短歌を作るので、お題はなしですが、「比喩表現を使う」ということだけは条件としました。
 結果としてなかなか立派な秀歌がそろい、先生たちもビックリ。私自身も、芸術にとっての比喩の重要さを再認識しました。
 あと、面白かったのは、やはり歌の内容が「もののあはれ」になるということですね。つまり、「時間」にまつわるものが多いということです。
 特にそういう指導や鑑賞をしたわけではなかったので、彼らは日本人としての自然の感性で、そのような歌を作ったのでしょう。あるいは「比喩」と「時間」の関係というのもあるかもしれません。
 いずれにせよ、「もののあはれ」=「(時の流れに代表される)不随意に対する嘆息」こそが、日本人にとっての最重要テーマだと痛感しましたね。教え、教わらなくとも、これは我々の遺伝子に受け継がれているものなのですね。
 さて、今日はレミオロメンの藤巻亮太くんの誕生日であり、また、彼の初ソロシングル「光をあつめて」の先行配信の日でありました。
 彼がバンドを離れてソロ活動を開始するということに対しては、私もまあいろいろな思いがあります。それこそ「もののあはれ」ですね。時の流れと、全てのモノの変化の一部と考えれば、別に残念に思う必要はありません。
 「もののあはれ」とはここに明記したように、決して本居宣長の言うようなボンヤリしたものでもジメジメしたものでもありません。ただ「想定外」「不随意」なだけであって、プラスの変化という側面もあるのです。
 そう、この曲の歌詞にもあるとおり、「時の無常の中に花が咲く」こともあるのです。
 生徒たちの「歌」の中には、そういうプラスの「もののあはれ」が満ちあふれていました。つまり、無常、変化というのは、破壊であると同時に再生、成長の物語の源泉でもあるわけです。
 藤巻くんの変化については、私は、まあなんとなくではありますが理解できるところもあるんですよね。あの3人の中では、唯一彼だけが持っているメンタリティーというか、スピリットがあるなと思っていたんです。
 これはある種の宗教性とも言えます。彼の遺伝子にはそういうモノが実際ありますし。私も半分そういう世界で生きていますから、彼の詩やメロディーや声や行動から、そういうモノを感じ取ってきたわけです。
 これは誤解されたくはないのですが、そのどちらが上とか下とかではなくて、とにかく違う次元で生活している人とは、なかなか「仕事」ができないのも事実です。
 誤解しないでくださいよ。ものすごく分かりやすく言ってしまえば、これは「趣味」の問題です。魂の趣味の問題なんです。それを偽って仕事をすることに疲れてしまうことは、実は誰にでもあることではないでしょうか。
 彼がここに至るまでには、いくつかのきっかけがあったと思います。バンドが10年続いてきたというのももちろん最大の理由でしょう。どんな仕事でも10年目はマンネリや商業化の完成期ですから。
 それから、こちらで紹介した「Your Song」にまつわる体験、すなわち志村正彦くんの存在と不在というのも絶対に影響していると思います。
 志村くんは、ある意味アルバム「CHRONICLE」において、バンド内ソロ活動をしてしまったのだと思います。彼が命を賭してそれをやった。藤巻くんはそれを聞き込んだんです。
 そして、その後、あの震災や原発事故がありました。これらの外的な体験、すなわち想定していなかった外からの力こそが、藤巻くんにとっての「もののあはれ」そのものであったのでしょう。
 レミオロメンはフジファブリックと違って、メンバー間の距離が非常に近い。それはそうです。幼なじみバンドなのですから。その良さと弊害という両面は当然ありますよね。藤巻くんは、バンド内ソロ活動はとてもできなかったのでしょう。
 それにしても、フジファブリックはそのフロントマンを突然失ってもバンドは活動を続け、新しい世界を切り拓きつつあり、レミオロメンはそのフロントマンがソロとしてデビューする形でバンド活動は一旦休止…とは、まさに「もののあはれ」ですね。
 そう考えると、世界の長老バンドやBUMP OF CHICKENはすごいな。逆に心配なほどです。誰かがとんでもない我慢をしてるんじゃないかと(笑)。
 さて、楽曲「光をあつめて」ですが、たしかに見事な、躊躇のない藤巻節が展開していますね。素直にいい曲だと思います。単なる幸せの共有という次元を超えたメッセージがこめられていますね。
 ピアノが小林武史さん。結局藤巻くんのスピリッチュアルな部分を理解し支えられるのは、コバタケだったということでしょうか。きれいなピアノを聴かせてくれています。ドラムがあらきゆうこさんというのはやや意外でした。オサのドラムよりも男らしい(決然としている)気が(笑)。ベースは元Syrup16gのキタダマキさん。前田くんとはずいぶんと違ういい味を出していますよ。
 たしかにこうして違うメンバーの音の上に乗る藤巻くんの声というのは、新鮮というか、こちらにも想定外の発見があるというか、とにかくこのソロプロジェクトの始動を純粋に喜びたいと思いました。
 これに伴って、治くんと前田くんもどんな活動をしていくのか、それも楽しみですね。そして、進化した3人が再び音楽を奏でる日に期待したいと思います。

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