カテゴリー「教育」の942件の記事

2017.07.25

無門関 『雲門話堕』…正眼寺の松

Th_img_1040 眼夏期講座二日目、山川宗玄老大師による提唱は、無門関三十九則「雲門話堕」。
 本当に自分の痛いところを突かれたようで、逆に快感でさえありました(笑)。
 原文や訳はこちらが分かりやすいのでぜひお読みください。
 要は、受け売り、パクリ、知ったかぶりはダメということですね。まさに私のブログなんか「話堕」そのものです(苦笑)。
 言葉にしてしまった途端、それも他人の言葉であればなおさら、「嘘」になってしまうわけですね。
 今日、織物関係の知り合いたちと飲んだのですが、ちょうどそんな話になりました。今の子どもたちはスマホからの情報によって、まるで自分が経験したり、自分が調べたりした気になってしまう。これは良くないと。
 たしかにそうですが、一方でそうした抽象的な情報を具体的に「読みとる」という、ある種高度な情報処理能力を身につけているとも言えますよね。
 そこが難しいところですが、私は人間の知性、感性の次元上昇に期待したいと思います…なんて、「話堕」な自分を弁護しているだけですね(笑)。
 それから、山川老師風に言うと「そこじゃ!」という、指導者の絶妙のタイミングですね。というか、そのタイミングを、それこそ理屈でなく分かる人でないと教育者にはなれないと。
 これも耳が痛い話ですなあ。
 コトよりモノ、これこそ禅の奥義だと再確認できた体験でした。「もののあはれ」とは「モノのアッパレ」なんですよね。
 提唱が終わり、感慨にふけりながらふとお庭を見ると、そこには「正眼寺の松」がありました。上の写真です。ああ、ずいぶんと大きくなったなと思いました。まさに「黙して語る」松であります。余計なことを語らず、黙々と自然体で生きる松。
 その「正眼寺の松」については、ぜひ次の動画をご覧ください。青木ケ原樹海の赤松林とも通ずる「強さ」がありますね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.07.22

第六十三回「正眼夏期講座」

Th_img_1033 今日から正眼寺で夏期講座。私は初めての参加です。
 本校の名誉校長である山川宗玄老大師が住職をお務めになる名刹です。かつて昭和の名僧(怪僧)梶浦逸外老師が住職をお務めになったことで、川上哲治さんら多くの著名人が自己を見つめて来た修行道場です(こちらの記事参照)。
 臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の開山でもある、関山慧玄が9年間修行した場所でもあります。関山慧玄と富士山とは深い関係がある(こちらの記事参照)。今日、富士山に残る古文書をコピーして、教え子でもある隠侍を通じて老師にお渡ししました。そこに関しましては、
 さて、今回の夏期講座、次のようなプログラムとなっております。

(1日目)
受付
開講式
法話 山川宗玄老師 「黙して語る」
斎座
講演 妹尾大先生 「創造的な働き方」の考察
坐禅
薬石
開浴
坐禅
ビデオ鑑賞
解枕

(2日目)
開静
朝課
坐禅
粥座
作務
提唱 山川宗玄老師 「無門関第39則雲門話堕」
坐禅
斎座
講演 野崎洋光先生 「黙して語る歴史の健食」
閉講式

 それぞれ多くの気づきを与えていただきましたので、明日からぼちぼちと別の話題の記事も交えながら報告がてら書いてゆきたいと思っています。では、またのちほど。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.07.20

祝! ギャラクシー賞受賞

Th_img_0367 当に嬉しい限りです!我が中学校を舞台とした水曜日のダウンタウン「先生のモノマネプロがやったら死ぬほど子供にウケる説」が放送批評懇談会のギャラクシー賞月間賞を獲得いたしました!
 正直獲れたらいいなあと期待していたのですが、そんな妄想が実現してしまいました。Yahooニュースのトップにも『ダウンタウン「神回」に賞』というタイトルで上がっていてビックリ&エキサイト。

「水曜日のダウンタウン」神回“先生モノマネ”がギャラクシー賞月間賞受賞

 ADさんやエハラさんら、いろいろな方から電話やメッセージをいただき祝福していただきました。とはいえ、もちろんこれは番組に与えられる賞です。芸人さんやスタッフの栄誉であります。私は心から祝意と賛意を贈りたいと思います。おめでとうごさいます。
 収録当日のことはこちらに、放送日のことはこちらに書きました。そこに書いてあることが全てであり、様々な「プロ」の方々が本校の良さを上手に引き出してくれたことに間違いはありません。
 生徒たちにとっても最高の思い出、学習の場となりました。そこに加えてギャラクシー賞…こんな幸運、幸福はありませんね。本当にご縁に感謝です。
 もしワタクシが今回の神回受賞に貢献したことがあるとしたら、まあ(勇気をもって)「オファーを受けた」ことでしょうかね(笑)。中間テストの二日前でしたが、「生徒にとってテストは何度もあるけれど、こんな機会は一生に一回あるのが奇跡」と考えての判断でした。
 放送をご覧になってない方はこちらからどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.07.19

はなたれ小僧

Th_659a18e5471c59ac6640df66d3708ac9 日、日野原先生のご冥福をお祈りした記事で、「105歳ということでいえば、私なんかまだ折り返し地点にすら到達していない。本当に洟垂れ小僧です」と書きました。
 考えてみると、私はもうすぐ53歳になりますので、ちょうど折り返し地点をグルっと回っているところですね。ようやく往路。そう考えると楽しみです。
 かの渋沢栄一は「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」という名言を残しました。
 日野原先生は、この渋沢の言葉を地で実行した方ですよね。
 そして、私のような年齢の者は「洟垂れ小僧」ということになります。なるほど、六十、七十が働き盛りか。わかるような気がします。
 最近、渋沢栄一に縁の深い方とお話する機会が多いのですが、その方も七十台にしてまさに働き盛り。本当に素晴らしいバイタリティーの持ち主です。
 というわけで、私は立派な「洟垂れ小僧」ということで納得し、またそれが「まだまだこれから」という若い頃の精気を取り戻すための自分自身へのエールになるんですね。
 多くの50台の方々が、定年まであと何年とか、老後は何しようかななどと考え始めると聞きますが、私はまだまだ青年以下の少年(中二病?)なので、そのようなことを考えたことはありません。
 そうそう、そう言えば、最近、いわゆる青っぱなを垂らしている「ハナタレ小僧」を見ませんよね。昔はたくさんいましたよ。袖をテカテカにしてるヤツ(笑)。
 あれはいわゆる蓄膿症なんですってね。栄養環境がよくなり、子どもの蓄膿症が激減したようです。しかし、その一方で昔はなかった花粉症なんかが猛威を奮って、青っぱなではなくて、水みたいな透明な鼻水に苦しめられる子どもが増えてきたのは皮肉なことです。どっちがいいかって、青っぱなの方がいいですよね。ずっと楽だと思います。
 さてさて、「はなたれ」ついでにもう一つ。あさってから岐阜の正眼寺にプチ修行に行ってきます。学校の先生の中で、「はなたれ小僧」に認定された3人が寺に送り込まれるのです(笑)。
 せっかくですから、しっかり座って、「洟垂れ小僧」を卒業し、自我から解放された「放たれ小僧」になって帰ってきたいと思います(笑)。頑張ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.07.15

35年ぶりの再会!

Th__20170716_82337 日は宿泊座禅の二日目ということで、朝4時に起床して作務、朝課、粥座などをこなし、8時からは中学校のオープンスクール。
 そして12時に仕事を終えて、すぐに横浜に飛びました。横浜某所にて、中学2年生の時の仲間でプチ同窓会。
 私は高校卒業時に会って以来なので、なんと35年ぶりの再会!
 まあ、なんとも不思議なご縁でこうして再集結することになったわけですが、もともとなんで中2の時、このメンバーで時々集まっていたのか…結局、その結論は今日も出ませんでした(笑)。
 懐かしい写真を見て思い出しましたが、たしかにクリスマス会なんかをやっていた。かと言って、教室で特別に中が良くていつも一緒にいたわけでもないし、グループ内でカップルができたわけでもない…不思議な男女混合グループだったのです。
 まあ、しかし、人間というのは内面は変わりませんね、大人になっても。外見は当然お互いに経年変化(劣化?)があるわけですが、まあそれもあっという間に慣れます(笑)。とういか、外見なんてあんまり重要ではないわけですね。一方、人柄というか、性格というか、基本的な生き方は、何歳になっても変わらない。
 考え方によっては、やはり中学二年生くらいで、それぞれ自我に目覚め、自我が確立してゆき、そしてそれが基本変わらないのだとも言える。
 そう考えると、今仕事で接している中学生たちの教育というのはたしかに重要だなと再確認させられるわけです。面白いですね〜。
 この仲間たちは静岡市立安東中学校に通っていました。私は転校生として東京からやってきた。都会から田舎へ(失礼)ということもあって、ちょっと最初はなじめなかったり、あるいはちょっと不満に思っていたりしましたが、この仲間たちのおかげで、実に楽しい中学生活を送ることができました。
 あっそうそう、安中時代、二つ下の学年にイエモンの吉井和哉くん(当時は一哉)がいて、今日のメンバーの一人の弟くんが彼と仲良かった。そんな関係でかな〜りレアな写真なども見ながら、吉井くんと私の不思議なご縁についても話しました。まったくねえ…あり得ないような話ですよ。
 そんな後輩吉井くんの12月の東京ドーム公演のチケットを4枚取りました。家族4人で行く予定です。なんだか不思議だなあ。
 ちょうど昨日でしたか、私が中1の時在籍していた東京の石川台中学校の同窓会の案内も来ました。こっちも懐かしいんだよなあ。行きたいなあ。
 みんなそれぞれの人生をそれぞれ頑張って、子育てもなんとなく一段落したり、仕事もゴールが見えてきたり、今、そういう時期ですから、あらためて自分の基礎を形成している「青春時代」を振り返り、懐かしみ、そしてその後のそれぞれの人生を学び合いたいと思うのでありましょうか。
 今夜はとにかく楽しかった。そして、よし、自分ももっともっと頑張ろうと思う素晴らしい機会になりました。みんなありがとう!また会おう!
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.07.11

田中英道『聖徳太子虚構説批判』 (日本国史学会講演)

 変忙しいので、また週末に見た動画を紹介します。昨日の田中英道さんの聖徳太子論。
 大山誠一さんの聖徳太子虚構論に対する批判が中心です。
 私は、たとえば宮下文書の世界をも「歴史」として認証する、つまり虚構さえも虚構という形で存在する事実と認定する立場を取りますので、ある意味、聖徳太子が実在しようとしまいと関係なく「歴史」であることは間違いないと考えています。
 それは宗教というある種の虚構が世界を動かしていることが事実であることと同じです。虚構だからこそ「ある」「あった」とも言えるわけです。なぜなら意識化されているからですね。忘れ去られた以前に、意識化されなかった「事実」も無限にあるわけですよ。
 そういう意味で、私が大山さんか田中さんか、どちらの立場に近いかというと、当然田中さんになるわけです。
 まあ、こうして論争になること自体、異常なほどに意識化されているわけで、その点では、大山さんの視点というのも実は面白い。なぜ「信仰」に至るまで意識的に意識化されたのか。
 今、私はそこに興味がありますし、そこにこそ日本人の歴史の要点があるような気がするんですよね。
 その一つの解答として、くり返しになりますが、仲小路彰の聖徳太子論があるのだと思います。
 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.07.08

【討論】作られた内外マスメディアの嘘を暴く(チャンネル桜)

 末は、日常生活ですっかりお花畑になった脳内を正常化(清浄化)するために、比較的保守的な番組を観ることにしています(あるいはプロレス観戦)。
 今日の夜の「日本よ、今…闘論!倒論!討論!2017」は実に面白く勉強になりました。
 最近、TBSの某番組に出演させていただき、いまだに地上波民放の影響力がかなりあることを実感いたしました。
 今度はNHKの全国番組に出る予定ですので、なんか不思議なタイミングで、既存メディアであるテレビの力を再確認する機会を得ている感じです。
 その地上波テレビの実態、実体は、この討論で述べられているとおりだと思います。新聞社を中心とする日本の既存のメディアの異常な状況は恐ろしいかぎりですね。
 いくらネットがここまで発展したとはいえ、やはり既存メディアが長年築いてきた「偽りの信用」は、なかなかそう簡単に崩れるものではありません。
 スポンサーという形で企業の経済活動と直接結びついてきたメディアや広告業界が、ある意味では、この情報革命のさ中に、最後の抵抗をしているようにも感じられますね。
 そしてNHKでさえも「偏向」を指摘される。ただし、NHKの場合は、左派(リベラル?)からは政権べったりだと言われ、右派(保守?)からは中国べったりだと言われる。
 ある意味バランスが取れているとも言えますね(笑)。大変だと思います。
 民放は、これはもうたしかに画一化、硬直化していて、かなり危険な状況だと私も思います。
 今では、たとえばこのチャンネル桜のように、独立系の新しいスタイルの放送局が増えでいますが、やはりある意味一方通行で選択の余地がない(逆に言えば視聴者としては楽な)地上波民放の影響力は、まだまだ衰えそうもありません。
 「一億総白痴化」と言われた時代からずいぶん経ちましたが、たしかにそれは正しかったのかもしれない。日本人ほど情報リテラシーのない民族も珍しいですよ。教育の問題かなあ…。
 というわけで、地上波民放を観る機会の多い方には、ちょっと我慢してこの番組を観ていただきたい。そして、まずは疑うという意味で、あんまりお人好しでないちょっと性格の悪い視聴者になってもらいたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.06.30

告知! 富士山の森ジャズフェスタ

Img_0860

 日のことですが、告知です。
 7月1日富士山山開きの日の午後、ふじさんホールにて、本校ジャズバンド部主催の「富士山の森ジャズフェスタ」が開催されます!
 皆さま、ぜひ葦をお運びください。
 関東地区の学生バンドが大集合し、熱く楽しい演奏を繰り広げてくれます。参加バンドは以下のとおり。

富士学苑中学高等学校ジャズバンド部
山中湖中学校
笹下中学校
正則学園高校
上智大学
日本大学
早稲田大学
慶應義塾大学
明治大学

ゲスト MASARU UCHIAORI BIG BAND

講師 内堀勝(作編曲家) 岡崎正典(サックス奏者)

開場 13:00~
場所 山梨県富士吉田市民会館 ふじさんホール
入場料 一般 1000円 学生 500円
中学生以下は無料

 実は私は自分の練習があって本番には行けません(涙)。内輪のメリットでリハをちょっと鑑賞させていただきます。
 ベーシストであるウチの娘もいつのまにか高校3年生。最後のフェスタになります。本番を聴いてやれないのは申し訳ありませんが、お互い最高の演奏をしよう!と励ましてやりました(笑)。下の娘は剣道の県大会。まあ、みんな忙しいわ。

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.06.27

菩薩の心

Th_img_0846 日は恒例の塩山向嶽寺接心。中学2年生を連れての宿泊座禅研修です。
 この素晴らしい修行道場(非公開寺院)で座禅させていただくのも8回目となります。
 美しく清らかな環境の中での座禅は格別。毎回自分や世界に対する発見があります。本当にありがたいご縁です。
 また、管長猊下直々のご法話も毎年大変勉強になることばかり。中学生相手に優しく易しくお話くださり、私にとってもまたちょうど「いい加減」のご垂言となります。
 今年のご法話で印象に残ったのは、「菩薩の心」でした。一言で言うなら「自分より相手」「自分より他者」を優先する心。
 一般に「菩薩のような人」とは善良で優しい人のことを指す言葉ですが、「菩薩の心」となると、もう少し深みがあるような気がします。
 相手の喜びや苦しみを自分のことのように感じるというのも難しいけれども、菩薩心はそれよりもさらに高い次元です。そう、「自分のことのように」というような自我もないわけですから、自分を一度通過するような過程も踏まず、ストレートに相手と一体化する、いや、相手と一体化というと彼我の二元になってしまいますから、自他不二、無我というか…いやそこにも「自」や「我」という字(概念)があるからだめですね、やはり「空」なんでしょうか、そういう最高の悟りの境地にならないといけません。
Th_img_0840 もちろん、ワタクシのような俗人がそのような境地に至ることは無理ですが、しかし、そういう目標というか理想があるのは悪いことではないと思います。
 今日の管長さまのお話にも目標という言葉が何度も出てきました。その目標達成のために「型」にはまってみなさいと。なるほど、型とは「自我」にとっては他人が作り出した「モノ」。そこにどっぷりはまることによって、すわなち他者の経験的カタ(=コト)を利用して、自我を去る経験をするわけですね。
 管長さまのおっしゃるように、だいたい人間の発達、進化を妨げるのは「自我」です。それを捨て去らざるを得ない状況を作るのが、たとえば禅におけるあの窮屈極まりなく、理不尽極まりない「型」なのです。
 しかし、私たちの自我もなかなか強情ですから、そのカタからはみ出てしまうモノがある。それこそが、その人の自我のエッセンス、いわば「個性」というものでしょう。
 教育活動として考えても、こうして型に生徒をはめてみて気づくその生徒たちの個性というのがある。なんでも自由にしたところで、個性なんか一つも現れてきやしない。そのあたりを戦後の一部の教育は誤ってしまったのでしょう。
 そして、「型」にはまりきった時、完全に自我は消え去ります。それが座禅の目的です。もちろんそこまで行ける人は少ないでしょうが、目標、理想、もっとわかりやすく言えば「予感」を抱くことは大切なことですね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017.06.26

『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』 二宮敦人 (新潮社)

Th_61rsvqqq9l_sx346_bo1204203200_ ろいろな意味で憧れの東京藝大。私はとてもとても入れませんでしたが、教え子は入れました。また、最近は藝大卒の方々と共演することが多い。なんだか得した気分です(笑)。
 そうした皆さんは「音校」の方々。とってもまともな皆さんです(笑)。「美校」の知り合いは…あれ?いないかも。
 この本で言うところの「カオス」は正直「美校」の方ですよね。つまりカオスな天才の皆さんとは今のところご縁がないわけです。というか、私のような凡人は近づけない領域なのかもしれません。
 そんなわけで、私がもし藝大に入れるようなことがあったとしして、「音校」と「美校」どっちか選べと言われたとしたら、間違いなく「美校」を選びますね。てか、私の音楽や楽器との付き合い方というのは、ちっとも「藝大(音校)」的ではない(それ以前に音大的ではない)わけでし、どちらかというと「美校」的なカオスの方が自分の得意とする分野のような気がするのです。
 意外に思われるかもしれませんが、私は案外ちゃんと「絵」を勉強しました。先生について勉強したという意味では、音楽と同じくらいの期間(約10年)ということになりましょうか。
 今ではちっとも絵を描かず、あるいはモノを作るようなことはありませんが、かつては音楽よりも美術の方が得意だったし、そっち方面で創造的でした。
 実際、高校の芸術選択は美術を取ったんですよね、3年間。成績も良かった。中学では美術部でしたし。意外でしょ。
 ま、そんなこんなで、いちおう、本当にいちおう程度ですが、音楽も美術もそれなりに分かっているつもりです(あくまでつもり)。
 そう考えるとですね、なんで、「音校」と「美校」が対照的なのか、よく分からない部分もあるんですよね。違う言い方をすると、なんで「音校」はカオスにならないのか。これはある意味良くないことだと思うんですよ。
 ご存知のとおり、両分野ともに、基本基礎や論理やメソッドがあって、それを超えていくのが、いわゆる「天才」だと思うわけですが、なぜ「美校」はいとも簡単に超えていっているのに、「音校」は超えられない(ように見える)のか。
 もちろん、もともと音楽が「コスモス」に収斂してゆき、美術が「カオス」に拡散していく傾向があることは分かります。しかし、実際にはその逆もあり得るのに、なんとなく日本では芸術とアートが分離しているがごとく、両者がぐるっと回って一つになったり、止揚されたりすることがあまりないというのも不可思議なことです。
 いや、実際には音と美の境界線のあの道を軽くまたいで行き来する真の天才がいることも聞いています。しかし、やっぱりそこに分断がある、壁がある、溝があるのは事実でしょう。
 そういう意味で、私は古楽科に期待していたんですよ。ジャズ科みたいになってほしいなと。現状はどうなんでしょうかね。
 また、上野にない第三者的な新興の学部学科の存在も気になります。
 というわけで、藝大にスパイを送り込もうと思っています。上の娘はとっくに諦めているので、下の娘を洗脳して送り込もうかな(笑)。
 おっと、肝心な本の紹介を忘れていた。この本はインタビュー集です。入り口としては面白いんじゃないでしょうか。まさに入り口から中をちらっと見る程度でも、私は充分楽しめましたよ。

Amazon 最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧