カテゴリー「教育」の1000件の記事

2022.08.08

誡太子書(花園天皇)現代語訳(5)

 たとえ学問の道に入るといっても、なおこのような失敗が多い。深く自らこれを慎み、有益な友を得て切磋されるべきである。学問でさえ誤りがあれば、道に遠い。ましてやその他のことは言うまでもない。深く誡めて必ずこれを防ぎなさい。そして、近ごろあなたが親しくするところ、すなわちつまらぬ人の慣れ親しむことはただ俗事のみで、本性は相近くとも、習いはすなわち遠い。たとえ生来の徳を備えるといえども、なお感化されることがあることを恐れる。ましてや上智に及ばないことを恐れないでよかろうか。徳を立て学識を成す道は、かつてより由るところがない。ああ、悲しいかな。先皇の諸業績は、今時たちまち堕落してしまうだろう。

 私は本性が拙く、智恵は浅いといえども、ほぼほぼ典籍を学び、徳義を成し、王道を興そうとしている。それはただ宗廟の祭祀を断絶させないためである。宗廟の祭祀を絶やさないかは、太子の徳にかかっている。だから、今あなたが徳を捨てて修めないならば、学ぶべき所を一旦溝に埋めて再び用いないようにしてしまうことである。これは私が胸を撃たれて号泣し、天に叫んで大きく嘆息するところである。五刑のたぐいは数多くあるが、罪として不孝よりも重大なものはない。その不孝の中でも、祭祀を断絶させることよりも甚だしいものはない。慎まねばならない。恐れねばならない。もし学問の功績が現れ、徳義を成就すれば、ただ帝の御業績を現世で盛んにするだけではなく、また美名を来世に残し、上は先祖に大孝を致し、下は庶民に厚徳を与えるだろう。そうすれば、高くしてしかも危うからず、満ちてしかも溢れない。なんと楽しいではないか。一日の屈辱を受けて、百年栄えを保つなら、忍従することができる。ましてや積み重なる古典に心を遊ばせれば、つまらない束縛もなく、本の中で故人に遭えば、ただ聖賢との交流がある。小さな部屋を出ずして千里を思い、あっという間に万古を旅する。楽しみに最も甚だしいものは、これに過ぎるものはない。道を楽しむと乱に遭遇するのと、憂い喜びの異なること、日を同じくして語ることはできない。あなた自身どちらを択ぶべきか、よく審らかに考えるべきである。

(完)

| | コメント (0)

2022.08.07

誡太子書(花園天皇)現代語訳(4)

 詩書礼楽をもってせずしては世は治めることができない。これを手段として寸陰を大切にし、夜も昼に続いて、精しく研究するのがよろしい。たとえ学問が百家にわたり、六経を暗誦するとしても、儒教の奥義を得ることはできない。ましてや、大学・中庸を学ばずして、治国の術を求めるのは、蚊や虻が千里の遠きを思い、鷦鷯(みそさざい)が九天の広きを望むよりも愚かである。だからこそ考えて学び、学んで考え、経書に精通し、日々自己を省みれば、そのようなことに似ることはないだろう。学問の要たる万物の智を身につけ、まだ起きていないことを先に知り、天命の終始を理解し、時運の難易を区別し、もしくは過去と今を比較し、先代の興廃の道筋を斟酌するなど、変化すること際限がない者である。諸子百家の文を暗誦し、巧みに詩賦を作り、議論を為すことができ、多く官僚が皆それぞれを掌握する所があれば、君主がどうして自らこれらを労する必要があろうか。だから、宇多天皇の遺誡に「天子、雑文に入りて日を消すべからず云々」とあるが、近ごろ以来の愚かな儒学者は、それを学ぶというとただ仁義の名を守ってばかりで、いまだ儒教の本質を知らない。苦労は多いが功はない。司馬遷の言う「博くして要寡きもの」である。また、最近一群の学徒がおり、わずかに聖人の一言を聞いて、自らの臆測の説を用い、仏陀や老子の言葉を借りて、みだりに中庸の意味に取り、湛然虚寂(豊かに落ち着いているさま)の道理をもって儒教の本質となし、まったく仁義忠孝の道を知らず、法度に従わず礼儀をわきまえず、無欲清浄は取るべきものに似ているといえども、ただこれは老荘の道であり、孔孟の教えではない。これは同時に儒教の本質を知らないことであり、これを取るべきではない。

| | コメント (0)

2022.08.06

誡太子書(花園天皇)現代語訳(3)

 これに加えて、昔から武力革命が続き、皇室の権威はついに衰えている。なんと悲しいことではないか。皇太子よ、かつての皇室の興廃する理由をよく観察するがよい。手本は近くにあり、明らかに目に見えるものである。ましてや、時は流れ、人が皆暴悪になるに及び、智慧が万物にあまねく広がり、才能が世の太平と波乱を経験する以外に、どうやってこの乱れた俗世間を治めることができるであろうか。そうして凡庸な人々は太平の時に慣れてしまい、かつてのその時の世の乱れを知らない。時代が太平ならば、すなわち庶民と君主といえども治めることができる。でから、堯舜が生まれて庶民の上にいるならば、十の桀紂がいたとしても、世は乱れるはずもない。勢いが治まっているからである。

 現在、いまだ大きな乱に及ばないといっても、乱の勢いがきざしてからすでに久しい。一朝一夕といった少しの時の話ではない。聖主が位にあれば、すなわち平穏であろう。賢主が国政に当てれば、すなわち乱はないだろう。もし主君が賢聖でなければ、すなわち恐ろしいことに乱はたった数年の後に起こるだろう。そして、一旦乱が起きれば、すなわちたとえ賢哲のすぐれた君主といえども、数ヶ月で治めることはできない。必ず数年を待つ必要がある。ましてや凡庸な君主がこうしためぐり合わせのもとに立つならば、国は日に日に衰え、政治は日に日に乱れ、国勢は必ず土崩瓦解するに至る。愚人は時の変化に気づかず、かつての泰平をもって、今日の衰乱を判断する。なんとも誤った考えではないか。近い代の君主はいまだこのような運命には際会していないが、おそらくはまさに皇太子が即位する際、この衰乱の運命の時に当たるのではないか。内に賢明な聴く耳を持ち、外に各方面に通ずる優れた策があるのでなければ、乱国に立つことはできない。これが私が強く学問を勧める所以である。現在の凡庸なあなたはいまだかつてこのような時機というものを知らない。よくその思いをめぐらし、この悪い風習の時代の上に加えなさい。

| | コメント (0)

2022.08.05

誡太子書(花園天皇)現代語訳(2)

 秦の政治が強かったといっても、漢と並ぶところとなり、隋や煬が盛んだったといっても、唐がそれを滅ぼすところとなった。しかし、へつらう愚人は次のように考える。我が朝廷は万世一系で、かの外国(中国)の、徳を以て政権交代し、武力を以て政権を争うのと同じではない。だから徳が少なくても、隣国がすきを窺う危険性はなく、政治が乱れるといっても、他民族に政権を奪われる恐れはない、これは我が国が守られているのであって、他国にまさっている点である、と。であれば、わずかにでも先代の威光を受けて、最悪の国にしなければ、伝統の法制を守った良い君子として充分であろう。必ずしも徳が堯舜に及ばず、教化すること栗陸氏に等しくないことを心配する必要はない、と。無知な庶民は、こうした言葉を聞いて、皆そのとおりだと思ってしまう。私はこれは深く間違っていると思うのである。

 なぜならば、釣り鐘は響きを蓄えているが、それを叩かなければ、いったい誰がこれを音がないと言うだろう。澄んだ鏡はそこに影像を含んでいるが、すべて鏡の前に立たなければ、いったい誰がこの鏡は映らないと言うだろうか。結果はいまだ顕れずといえども、物の道理はすでに明らかである。よって孟子は紂王を逆賊とし、武王を責めることはなかった。少ない徳で神器を保持しようとして、どうして理の当たるところとなるだろうか。もしそのようにしようと思うなら、累卵が崩れる岩の下にあるよりも危険で、腐った縄が水底の上にあるよりもひどい。たとえ吾が国を他民族からの侵略から守ったとしても、皇位の交替が多くなるのは、そのためである。

| | コメント (0)

2022.08.04

誡太子書(花園天皇)現代語訳(1)

Th_-20220807-180640 皇陛下がたびたび言及されている「誡太子書」。

 花園天皇が自らの皇太子に対しての大変厳しい言葉を綴った文書です。代々の天皇、皇太子に対する永遠のメッセージとも言えましょう。

 また、私たち庶民の生き方に対する一つの指標であります。

 原文は厳格な漢文で、なかなか読みにくいので、私なりに書き下したのち、わかりやすく現代語訳してみました。

 あくまでもワタクシ流の解釈です。細かい質問などにはお答えできません。あくまでも御参考までに。

 数日に分けて公開します。

 

 誡太子書

 私(花園天皇)が聞くところによれば、天が庶民を生み、君子を立てて民を養うのは、人や物をうまく利用するためである。民は愚かであり、これを導くのに仁義をもってし、凡俗の無知を治めるのに政治を以てする。もしその才能がなければ、君子の位についてはならない。人民の一つの官職でさえも、これを失うと、やはり天下は乱れるという。すきを狙う鬼の災いは逃れることができないのだ。ましてや、君子の大切な仕事については、必ず慎み、恐れなければならない。

 それなのに、皇太子は宮中の人たちの手によって成長し、いまだ庶民の苦難を知らず、常に華やかな衣服を着て、糸を紡ぎ布を織る大変さを思うことがない。いつまでも庶民の供した穀物のおいしい料理を腹いっぱい食し、いまだ種植えや刈り取りの苦労を知らず、国に対してかつて少しの功もなく、民に対してほんの少しの恵みもなかったではないか。

 ただ先帝の残した威光というものをもって、何も考えず君子の政務の重責を遂げようとする。徳がないのに誤って王侯に託し、功もないのにもし庶民の中に赴くならば、これほど恥ずかしいことがあろうか。また、詩書礼楽という庶民をまとめる四術をどうやって習得するのか。皇太子自ら反省してほしい。もし(詩経にあるがごとく)温かみと誠実さの教えをを身につけ、諸事に通じる見識で世の意味を悟れば、それは善いことである。とはいえ、やはり足りないことがあることを恐れ、ましてやいまだ自らが道徳を身につけず、少しでもかの重い位を期待するのであれば、これは求めることと為すべきこととが違っていることになる。たとえば、まるで網を捨てて魚がかかるのを待ち、耕さないで穀物が熟すのを期待するかのようである。これらを得ることは決して難しくない。たとえ勉強してこれらを得たとしても、おそらくはそれは自らのものになっていない。

| | コメント (0)

2022.06.30

人間の知性について 〜ひとくくりにできない才能と広がる未来への可能性〜 (COTEN RADIO)

 

 岡から山梨に戻る車の中で聴きまして、運転しながら思わず膝を打ってしまいました。

 そう、これって最近私がいろいろなところで語っているところです。

 こうして若い人たち、それもいわゆる言語的、論理的な頭の良い人たちが、ある意味自己否定的に問題提起するのは素晴らしい。

 ワタクシのモノ・コト論的に言いますと、いわばコト的な頭の良さだけではなく、モノ的な頭の良さがようやく再評価されてきているということです。

 最近私は言語、中でも文字に対する不信感を訴え、結果として古代日本のような無文字社会の優位性について語ることが多い。あるいは絵画、多くの音楽のように言語によらない芸術の価値、また言語をあえて混乱させた無意味性について考えることも多い。

 ようやくですよ。近代が終わろうとしているわけです。近代の洗脳から解放された若者たちが生まれてきたのは大きい。

 ここで否定されるべきなのは、やはり「学校」でしょう。学校、近代教育こそが、知性の意味を矮小化してしまった。この動画でも語られているように、スポーツをしたり楽器を演奏したり、つまり体を動かすのも「脳」ですから、「頭の良さ」は言語・論理、いわばお勉強だけではないはずです。

 そして、直観や社交性もまた「頭の良さ」の基準となってもいい。そうすると、おそらくどんな人たちもそれぞれの「頭の良さ」を持っているはずであり、現代日本のような偏った基準によるカーストなど意味がないことがわかるはずです。

 もちろん「知性」の「知」が、「知識」すなわち過去の情報の記録を意味することも確かですが、そういう狭義の「知性」の時代は終りつつあるとも言えましょう

 狭義の「知性」において、かなり強いコンプレックスを持ってきたワタクシとしては、やっと自分の時代が来たのだとも感じます。未来の情報の直観に関しては自信がありますので。

| | コメント (0)

2022.06.26

『キー・コンピテンシーとPISA』 福田誠治 (東信堂)

ネオリベラル期教育の思想と構造2

Th_51ijbpgwfvl_sx348_bo1204203200_ 日は突然、この本の著者である、前都留文科大学学長の福田誠治先生が我が家にいらっしゃいました。

 1年以上ぶりの再会で、お互い仕事(学校)を辞めていろいろ溜まっていた話を一気にいたしました。

 二人とも今の日本の教育に大変な危機感を持ちつつ現場を離れましたので、不思議なことにいろいろつながることもありましたね。

 もちろん私と福田先生とでは、全くレベルが違いますが、憂えていることは一緒。そして望んでいることも一緒。

 あっという間の3時間でした。

 福田先生の最新刊がこちら。前著「ネオリベラル期教育の思想と構造」の続編ですね。前著も先生からいただき熟読しました。本当に勉強になりましたし、私の先入観が気持ちよく破壊されました。

 今回のこの本も実に面白そうですね。今日は先生から直接解説いただきましたが、これからじっくり読ませていただきます。

 PISAについても、なんか日本の教育界では、その実態もよくわからないまま神格化している部分もあったりして、だからこそ結果に一喜一憂したり、まあ実に情けない状況ですよね。

 今日の話にもありましたが、毎年進化して変化していくのが「キー・コピテンシー」ですし、PISAの本質なのです。画一化し、硬直化していて当たり前な日本の学習内容や学力観、そして教師の頭には理解できなくて当然ですが。

 もちろん、ヨーロッパの教育が絶対に正しいわけではありませんが、いかに日本の教育が前時代的、軍国主義的であるかを知るには、こうして外国の教育事情の実態を勉強することは有用でありましょう。

 福田先生、ありがとうございました。今度はまた飲みながら!

Amazon キー・コンピテンシーとPISA

| | コメント (0)

2022.06.20

『まったく新しい柔道の寝技の教科書』 矢嵜雄大 (ベースボール・マガジン社)

Th_51woriiluxl_sx350_bo1204203200_

 嵜先生、出版おめでとうございます!

 我が富士学苑の柔道部指導者である矢嵜雄大先生の新刊。これは身びいきではなく、本当に素晴らしい本です。画期的、歴史的な内容です。

 柔道はもちろん、寝技も自分ではやらない(笑)ワタクシですが、もう最初から写真と文章と、そして動画を見始めたら、まあ止まらない止まらない。

 なんか、私からするとアートなんですよ。美しい。つまり技術の極みというものは美しくなるのです。

 その奥義、コツというものを、これほどわかりやすく表現した本というのは、そんなにないのではないでしょうか。

 そう、こうして「職人」的な技術というのは、今までクローズドに守られ、言語化、あるいはメディア化されることはありませんでした。

 そうした口伝的な性質こそが「職人技」とされてさえいました。

 それをオープンにすることは、ある意味では「敵に塩を送る」ということになりかねません。

 しかし、時代は変わったのです。

 特に保守的な武道の世界において、こうして完全にオープンに自らの「職人技」を開陳した人は、矢嵜先生が初めてでしょう。

 今日、この本をご本人からいただきました。その際も「自分は邪道」「自分は異端児」ということをおっしゃっていました。この本を読めばよくわかりますが、矢嵜先生は柔道だけでなく、ブラジリアン柔術、レスリング、武術、総合格闘技、サンボ、プロレスリングなど、世界中の格闘技からその技術を直接学び、自らの工夫によって柔道にそれらを活かしています。

 たしかに、そうだからこそ大変な逆風もあり、私もそこに巻き込まれたりしまして、ある意味一緒にその巨大な力に抗った戦友でもあるわけですが、やはり歴史は「邪道」「異端児」が変えていくのですよ。それを私は目の当たりにさせていただきました。

 この本、おそらくすぐに日本柔道界の教科書となり、そして予想より早く外国語版が発売され、世界の柔道界、あるいは格闘技界のバイブルになりますよ!

 結果として、世界中の柔道の寝技のレベルが上がり、一時期日本は苦戦するかもしれませんが、最後はディフェンスも含めてさらに技は磨かれ、日本柔道の復活と、世界柔道の次元上昇が実現するでしょう。

 本当にお世辞抜きで素晴らしすぎる本です!柔道競技者だけでなく、格闘技関係者、そして武道のみならず各分野の教育者、スポーツ観戦者、さらにアート関係者、職人さんたちにご覧いただきたい。

Amazon まったく新しい柔道の寝技の教科書

| | コメント (0)

2022.06.09

『くちびるに歌を』 三木孝浩監督作品

Th_71di5gcv8bl_ac_ul320_ 、家内と長女が2000〜2010年代のJ-POPのヒット曲をYouTubeでどんどんかけ、私がリアルタイムでキーボードを弾きながら、コード進行を中心に楽曲解説しました。

 酔っ払っていたので実にテキトーでしたが、いろいろと面白い発見がありました。

 その中で、再確認したのは、聴く方も作る方も歌う方も、とにかく「中学の合唱」が原体験になっているということでした。

 これについては、実際現場で「中学の合唱」をに触れる機会がたくさんありましたから、そのたびにこのブログにも書いてきた記憶があります。

 高校の先生だけをやっていた時は、けっこう「中学の合唱」とか「中学の演劇」とかいう特殊な文化を半ばバカにしていたようなところが自分にはありました。若気の至りならぬバカ気の至りでしたね。

 実際、中学生たちの純粋な魂に触れると、大人になってから知った「合唱」や「演劇」にはない、たしかに心を打つモノ(なにか)があることを教えられました。

 そして、自分の中にも、そうした純粋な魂(もしかするとそれを「青春」というのかも)への強烈なノスタルジーがあることを確認しました。

 そういう思いに立つと、日本のガラパゴス化した(悪い意味ではありません)音楽事情にも、一つの大きな意味を見いださずにいられないわけです。

 この映画はそうした日本人全体のノスタルジーの原点を「中学の合唱」を通じて、上手に表現してくれていると感じます。

 

 

 2000年代、2010年代のJ-POPのMVに学校のシーンが多く出てくるのは偶然ではないでしょう(あれほど長いドラマパートを持ったMVが世界にあるでしょうか)。

 非常に単純化し、陳腐に説明するなら、コード進行的には中学の合唱曲の多くがカノン進行(あるいはその派生としてのG線上のアリア進行…すなわちベースラインがドシラソと音階的に下がってくる)が使用されているという事実(この映画の「課題曲」である「手紙~拝啓十五の君へ~」  も例外ではない)。

 もう一つ、これは合唱曲にはあまり使われませんが、中学生くらいになるといわゆる「胸キュン進行」(意図的にソに♯をつけて平行短調にプチ転調する)を体験的に理解できるようになるということがあります。すなわち、「切なさ」を味わうようになるということ。

 この二つのコテコテ要素が、日本のポップスには異常に乱発されるのです。外国では、それはやりすぎるとむず痒くなるそうですが。

 逆に言うと、その二つの要素を上手に盛り込むと「売れる」曲を作ることができるということです。これは2020年代になっても変わっていませんし、これからも続くでしょうね。中学の合唱文化が廃れたり変容しないかぎり。

 そういう視点でこの映画を観ると、大人になってからの「切なさ」の原点が15年前の中学生の自分にあることが分かるでしょう。

Amazon くちびるに歌を

| | コメント (0)

2022.05.31

岡田斗司夫の頭が良くなる教育論~東京学芸大学講演

 

 日に続いて「教育」の話。これは「学習」論ではありませんね。親、社会、地域、国家目線の「教育」。つまりそれらに都合の良いように、子供たちを型にはめていくということで、決して自主的な「学習」ではありません。

 いや、もちろん「教育」の重要性は認めていますよ。そこにどっぷり浸かってきましたし。

 しかし、その「教育」は、岡田さんがおっしゃるように変化を余儀なくされています。個性や人権という最先端の価値観に旧来の「教育」がそぐわないからです。

 しかし、その変容もあくまで「教育」の中で行われていることが、この講義でよくわかりますね。つまり、社会が変わったから教育の内容も変わったという、ただそれだけのことなのです。

 宇宙的な常識から言いますと、「学習」の質が変わることによって、社会の方が変わっていくというのが真理です。因果関係が逆なのです。

 この地球においても、歴史的なイノベーションを起こす人たちは「教育」の枠に収まりませんでした。最近ではイーロン・マスクなんか典型的ですよね。彼はアスペルガーです。

 まずはこの講義のように、「教育」の変遷を学ぶことによって、「教育」というものの「後追い性」を知らねばなりません。

 そして、未来の教育を予測するのではなく、未来の社会がこうあるべきだから、教育…いや「学習」は自然とこのような形になるだろうと考えねばなりません。

 おそらくその「学習」は、今の「教育」からするとダメ出しされてしまうようなものでしょう。実際そういう子供たちがたくさん生まれてきています。

 たとえば、それを今の教育現場では、障害とかグレーとかで片付けてしまっている。

 また、学校には勉強したくない、勉強大嫌いな生徒がたくさんいるわけですが、それは現今の教育内容、教科書の内容に対し、子供たちが本能的にその無意味さを感じているからにほかなりません。

 本来なら、教師自身それを体験してきているわけで、それなのにそれを押し付けている。つまり体に悪いとわかっている添加物満載の食べ物を、これ食べなさいと言っているのと同じことをしているのです。

 もちろん、これは極論であって、意味のある教育内容もあって当然ですし、ちゃんとした先生もいますよ。しかし、一方でこう言われて初めて気づく先生もいる。あるいはこう言われると逆ギレして保身に走る先生もいる(笑)。

 と、まあ自分のことは棚に上げて言いたいことを言ってしまいましたが、とにかく、今の「教育」「学校」を完全否定するわけではなく、そこにはまらない子供たちに、別のチャンスを与えてあげたいのです。今はほとんど選択肢がありませんからね。

 そういう意味で、私は今、まずは大人を変える必要があると考えていろいろとやっているところなのです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧