↓写真は志村くんゆかりの忠霊塔の「春」
先ほど、ご意見番(ウチの父親)から電話があり、「昨日の記事には間違いがある!『来春開校の中学…』ではなく『今春…』と書くべきだ!」と強く叱られました。「そんな先生が中学生に国語を教えているとなると、親から苦情が来る!」とまで言われました(笑)。
父親が言うに、「辞書に『来春=来年の春』『今春=今年の春』と書いてある!」とのこと。たしかにそうです。
しかし、ちょっと皆さん、考えてみて下さい。1月である今、3ヶ月後に来る春を「今春」と言うのには、ちょっと抵抗がありませんか?
ない…?なるほど、そういう人もいるかもしれません。それもわかります。なぜなら、やはり辞書的に正しいし、新聞やテレビなどのマスコミも当然辞書に従っているため、実際にそのような表現を目に耳にすることが多いからです。
では、完全に私の間違いかと言いますと、そうとも言いきれません。
父が辞書と言った、その辞書は当然現代の国語辞典です。たしかにほとんど全ての辞書に上記のような記述があるようです。しかし、事情は辞書ほどに明解、いや明快ではありません。
たとえば、こんなふうに、私の感覚や使い方の肩を持つこともできます。
まず、もっと古い辞書を引っ張ってきましょう。17世紀初頭の「日葡辞書」です。
『来春「Raixun (ライシュン)。キタル ハル〈以下ポルトガル語の訳〉今度の春。文書語』
そう、来たる春が来春なのです。next springということです。今、季節はどう考えても冬ですから、今年の4月は(次に)来たる春に間違いないことになります。
考えてみると、本来「今〜」とか「来〜」とかいう熟語の「今」や「来」には、「今年の」とか「来年の」とかいう意味はありません。
「今週」「来週」、「今月」「来月」、「今年」「来年」、「今学期」「来学期」などと言う時の「今」と「来」は、「(話し手が)今いる時間的範囲(期間)の」と「今いる時間的範囲(期間)が終了したのち来たるべき次の時間的範囲(期間)の」という意味です。
ついでに言うと、一つ前のスパンを表すのは「昨」ですね(「昨〜」が使われない場合もありますが)。
そうした本来の「今」「来」の使い方からすると、「今春」とは「今身を置いている春」、「来春」とは「今身を置いている春の次に来る春」ということになり、たしかに「今年の春」「来年の春」と同義になります。
ただ、この解釈ですと、「春」に身を置いている時にしか、この表現はできないことになりますね。夏や秋や冬には使えない表現ということになります。
しかし、どうも事情はもう少し複雑なようです。たとえばプロ野球で、ある年のペナントレースが終了し、その結果を振り返るのに、「今季」と言いますし、次のシリーズに向けて「来季に期待しましょう」などと言います。
つまり、それらの「時間的範囲(期間・節)」が連続していない場合もあるわけですね。シーズンオフがはさまれたり、別の「節」が挿入されたり。その場合には、「今」「来」のニュアンスが少し変わってきます。
すなわち、その「節」が連続しておらず、間に違う「節」がある場合、その違う「節」に身を置いている際には、「今〜」の「今」は「直近の過去の〜」ということになり、「来〜」の「来」は「直近の未来の〜」ということになるわけです。
季節もそういうことになりますから、今の解釈に従って、「今季」「来季」と同じ感覚で「今春」「来春」と言ったとしたら、私の「来春」の解釈で間違っていないことになります。今、冬で、その「直近の未来の春」ですからね。
では、なぜ、「今春」「来春」の場合には、辞書に「今年の春」「来年の春」といった異様な解釈が載っているのでしょう。
もうお分かりかと思いますが、これには旧暦から新暦に移行した際の複雑な事情が絡んでいるのです。
お正月を新春と言いますよね。つまり、旧暦では、1月1日はほぼ「春」でした。「ほぼ」と言ったのは、立春よりも早く年が明けることもけっこうあるからです。それでも、感覚としてはだいたい「立春」の頃が「元旦」でした。
そうすると、旧暦のもとでは、「来春=直近の未来の春」はすなわち、ほとんど全て「来年の春」となるわけですね。「今春=直近の過去の春」は「今年の春」です。
と、そんな事情もあって、旧暦下では私の解釈も父の解釈も正しいし、同じことになってしまうんですね。
ところが、明治以降、かなり無理をして新暦を導入した結果、まあ、暦はめちゃくちゃなことになってしまいました。「暦の上では」という表現とか、「お盆」なんか「旧盆(旧暦7月15日)」「新暦7月15日盆」「月遅れ盆(新暦8月15日)」とか…もう本当に訳がわからん状態です。
この「来春」「今春」問題もまた、そうした弊害の一つと言えるでしょう。
辞書というのは、実は孫引きに孫引きを重ねて成立してきています。今の辞書の原形は明治時代の辞書たちです。大槻文彦の「言海」や、山田美妙の「日本大辞書」、上田万年の「大日本国語辞典」などですね。そのあたりを参照してみないと分かりませんが、江戸や明治初期の暦の感覚のまま「今春=今年の春」「来春=来年の春」と書いてしまった可能性は高いと思います。そして、それを孫引きして、論理矛盾に気づくこともなく、また、本来の「今〜」や「来〜」の意味を無視して現在に至る…と。
というわけで、たしかに辞書的には私の「来春」の使い方は間違っているかもしれませんが、語誌的に、また日本人の感覚的に考えて、立春前である昨日、あのような表現をしたのは、あながち間違いでないと思います。
ま、ここは私が素直に間違いを認めましょうか。親子ゲンカになるのも面倒なので。直しておきます。「来春(この春)」と(笑)。
ただ、「そんな先生がうんぬん」の発言は撤回してもらいたいですね(お互いかなり頑固でして…苦笑)。
PS いつか書きたい「時間」に関する論理矛盾(謎)を挙げておきます。
正午は午前12時か、午後12時か、それとも午後0時か…。
日曜は週の始めなのに、なぜ「週末」に含まれるのか…。
電車ホームの告知板の「こんど」と「次」とは…。
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