カテゴリー「教育」の197件の記事

2008.04.28

『正則 ニューナショナル 第三リードル獨案内』 森修一 訳著 (大阪書房)

3reader の前の「哲学の東北」にも、南方熊楠はものすごく英語が上手だったという話がありました。明治の知識人はけっこう外国語得意でしたよね。いったいどういう勉強をしていたんでしょう。今の日本の英語教育はなんだか迷走していますけど、あの頃はどうだったんでしょうね。
 と思っていたら、今日あるクラスの生徒が「ひいおじいちゃんが使ってたテキストが見つかった」ということで、何冊かの古い本を貸してくれました。そのうちの一冊がこれです。
 これはリーダーのテキストの虎の巻ですね。先生用のようです。今の教科書ガイドのように生徒も使ったんでしょうか。当時の学生や先生たちがどのように英語を学習していたかよく分かる貴重な資料です。
Catmouse_2 ちょっと右の写真をクリックしてみてください。ネコとネズミの会話ですね。ご覧のように、本文の上にカタカナで発音が、下には訳が載っています。そして訳の下には漢数字で訳す順番が書いてあります。まるで漢文の書き下しですよね。
 発音のカタカナをよく見ると今の感覚とはちょっと違うものもあって興味深い。「t」を「ツ」に半濁音の○をつけて表したり、独自のルールがあるようです。ただ、カタカナをそのまま読めばいいわけではありません。時々、「生徒に発音の練習をさせよ」みたいな注記がありますから、やはりカタカナ英語ではダメだという感覚があったんでしょうね。でも、こうしてカナで発音を示すのは悪いことではありせまんね。当時のルビ文化と同じで、私はそこに積極的な意義を認めます。
 日本語訳がそれこそ漢文訓読調(文語文)で面白いですね。このシーンは会話ですのでまだ分かり易い。ほかのところではまず日本語が難しくて生徒たちは面食らってましたよ。時々「意訳」が載ってるんですけど、それでもまだ難しい。我々は、英語を漢文訓読調に訳したものの意訳をさらに現代語訳しなくてはならないわけです。面白いですねえ。
 そして、なんといっても漢文の返り点のような漢数字の存在ですね。これは今の英語教育的観点からしますと、どうなんでしょうね。私はけっこう目からウロコでしたよ。漢文もそうなんですけど、とにかくこうして語順を日本語調にしながら解釈していくと、いつのまにか外国語の文法的構造がわかるようになるんですよね。遠回りのようですが、実は効率的な学習方法のような気もします。
 昔の人は、漢文や英語をこのようにしてとにかく多読して、そしていつのまにか白文でも理解できるようになっていったんでしょうね。発音はできなくとも意味がわかる、すなわちリーディングとライティングを先に完璧にして、そして必要があればスピーキングやリスニングに移行したんでしょう。今の外国語教育は逆のケースが多い。とにかく会話から入りたがる。もちろん、国際関係の状況が今と昔とでは全く違うわけですから、一概にどちらがいいとは言えませんけどね。でも、なんか私たちが忘れている大切な智恵がそこにあるような気もします。
Newwords あと、面白かったのは、新しい単語の学習の部分ですね。左の写真をクリックしてみてください。ご覧のように、新しい単語のスペリングが同時に発音記号になっているんです。いろいろな記号や異字体を使ってスペルと発音を有機的に関係づけて学習させてますね。この発想は私の中にはありませんでした。なるほどなあ、と思いました。もしかすると、ネイティヴの感覚に近いのかもしれませんね。無意識的でしょうけれど、つづりと発音の関係はこのように把握されているのかもしれない。これは学校教育の現場で復活させてもいいのでは。
 途中、国語教師に対するアドバイスも載っています。英語と国語、今よりももっと上手に連携していたみたいですね。なるほど。
Sanjutu この本のほかに、数学(算術)のテキストもありました。「受験問答叢書 新撰算術問答」という本です。これもなかなか興味深い内容でした。「算術とは何か」「数とは何か」というところからスタートして、四則計算、小数、分数、比例、歩合、利率といった内容に進んでいきます。最後には当時の高等学校や師範学校、陸軍士官学校や海軍兵学校の入試問題が載っていまして、それを見ますと、今の数学の試験とは違って、生活に根ざしたより実用的な問題が課されているのがわかります。今の数学はずいぶんと抽象的な世界になっているんだなあと思いました。それがいいのか悪いのか、なんとも言えません。
Oshibana さて、この算術のテキストを繰っていたら、とっても素敵なものを見つけました。押し花です。きっと若かりしひいおじいちゃんが、勉強の合間に野の花を摘んできて、なんからの気持ちをこめて押し花にしたものでしょう。なんかジーンとしちゃいました。明治のロマンですね。今の若い男で、こういうシャレたことする人いませんよね。私はそこに本当の「日本男児らしさ」を感じましたね。おそらくこの名もない花、百年ぶりくらいに陽の光を浴びたのではないでしょうか。美しいなあ。豊かだなあ。ちょっとうらやましくも思いました。

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2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2008.04.14

『Wonderful&Beautiful』=侘び(?!)

Ooguro01s 今日は新入生のあるクラスで最初の授業。いつものようにいきなり天地がひっくり返るような妙な即興話を2時間ほど。彼らすっかりケムに巻かれて、ワケも分からずニコニコしてましたな。まさに「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ」だったのでは。それにしても毎年やってる教科書を使っての独眼流立体視の術、ウケがいいな(笑)。みんなホント知らないんですよね、この事実。
 さて、そのあと、ちょっと自分のお勉強の時間に、はっと想ったことがありましたので、記録、紹介しておきます。一昨日、昨日の記事の流れが、ひょんなところとつながりました。ここでもまた「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ」ですねえ。
 昨日、レミオロメンの『Wonderful&Beautiful』が歌い上げている、「間違えもある」「不完全でも」「不確かであれ」「不自由であれ」と言った言葉たちが「もののあはれ」を表すと書きましたね。それと同じことを全く違う分野の方が違う形で表現されていたので、うんうんと首肯しきりでした。
 たまたま「楽茶碗」のことをいろいろと調べていたんです。昨日、花畑で陶器の展示即売会がありまして、そこに楽もあったんですね。その時、ちょっと気になることがあったんで、今日ネットであちこち飛び回りました。
 そうしたら、こういうページがあって、樂家15代の樂吉左衛門さんの講演というか講義が載っていたんです。

桑沢デザイン塾<特別講座>デザインの21世紀

 これが非常に面白く勉強になりました。デザイン塾で「デザインにならないように」なんて言うあたりが吉左衛門さんらしいですし、全体に禅味が感じられて素晴らしいお話ですね。
 で、短いものなので読んでいただければすぐにお分かりと思いますけれど、彼が言っていることは藤巻くんが常々歌っていることと本質的に同じですよね。また、彼らがぶつかっている問題点でもあり、私たちファンも共有すべき人生の課題でもあるなと思いました。

「コアを持ちながら変質していく」
「欠けている状態そのままがいい」
「相対的な美’‘流動的な美’‘未完の美’」
「日本語は、何かある物事を‘たった一つのこのようなもの’と表す言語ではない」
「とらえようとするが抜け出ていくという、うつろう感覚がある」
「身体という時間軸を含めた具体性」
「作品に自己意識を持ち込んで完結させ『これです』と出すのが後ろめたい。定点を持つのが嘘くさい」
「作品と自己意識がダイレクトにつながるよりも、(焼き物には)火という自然の不確定さが加わって、自分自身の世界も変質することの‘救い’がある」
 
 ここで吉左衛門さんがおっしゃっているのは、私の言う「モノ」の本質ばかりですね。さすがです。私のような野狐禅とは違う。
 そして、本当に昨日書いたことや、昨日経験したことと見事につながっているような気がします。妙に腑に落ちました。すすすっと。
 しかしこうして、レミオロメンを通じて、私の中では「もののあはれ」と「侘び」がすっとつながるわけですから、本当に縁というのは面白い。
 藤巻くんの歌う「予報ははずれて 予感は当たった」というのは、前後はそれぞれ逆ですが、吉左衛門さんの言う「偶然と必然’‘自然と人為’という両義性」というのと深く関わっていますしね。ワタクシ的には「モノとコト」というやつです。
 さらに、

「陶芸のへこみや書の筆跡は、時間の中で作家が手を動かした軌跡そのもの。それを見る人も、同じように自分の感性を軌跡に乗せる」

という言葉、これは見る人、聞く人のあるべき姿を語ってお見事ですね。音楽を聴く時も全く同じだと思います。そして、それが、藤巻くんの歌う

Wonderful 限界はない
&Beautiful どんな小さな
幸せでも見つけ出し
光で照らし出すよ
役割だけじゃ 満たされぬまま
冬の中 手を繋いだ
Wonderful 冷たい雪ね
&Beautiful 絡めた指を
ほどかないでと 笑って泣いたね
Wonderful 変わりたいんだ
&Beautiful 奇跡だろうと
降りしきる雪を越え
光を探したのさ
あなたを探したのさ

だと思うんですね。これは単なる恋愛の歌ではない。不確かで不完全で無常なるこの世界を生きていくために必要な私たちの心のあり方が描かれているのだと思います。そう、茶碗の軌跡に乗ろうとするのと同じく、私たちからアプローチして、その人や場を知り、時間の堆積の中に自分自身をもうずめ、そしてつながり続ける。そうすると、私たちは変ることができる。そして、その変ることに「Wonderful&Beautiful」と言えるようになるんです。樂吉左衛門さんの言う、「ただし、きちんと絞り込みがないと偶然性の恩恵はない」…これは深いしある意味厳しい言葉です。
 うん、まさにこれは日本文化の伝統そのものですなあ。「もののあはれ」の本質的な部分が急によく見えるようになりました。本当にいろいろな自分以外の「モノ」に感謝です。

興味を持った方はYouTubeで「Wonderful&Beautiful」をお聴きください。

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2008.04.04

「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」


 今日は久々に授業でJ-POPの歌詞をやりました。いかに現代の歌詞の世界が日本の伝統的な文学、特に「もののあはれ」の伝統を継いでいるかいうことです。生徒たちも新しい発見があったのでは。
 いくつかの人と作品を採り上げました、そのうちの一つがフジファブリックの「茜色の夕日」です。来月の富士吉田凱旋ライヴの宣伝もかねて生徒に読んで聴いてもらいました。
 さて、この何気ないが実に切ない曲の歌詞。これは見事に「もののあはれ」の本質を教えてくれます(マジで)。
Akanel 冒頭からハッと気づかされます。「茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました」…これは散文なら「思い出したことがありました」となるところでしょう。それをいきなり「思い出すものがありました」としたところが、志村正彦くんの天才的なところです。詩人なところです。
 そう、私の「モノ・コト論」では「もの」は不随意、漠然、未知、無常、すなわち固定されていない、自分の意識でコントロールされていない状態を表す語でした。それに対して生じる虚しさや無力感、あるいは逆に驚きや感謝、畏怖などを表したのが「もののあはれ」ということですね。つまり、日本の文学に通底する「思い通りにならないことに対するため息」が「もののあはれ」という解釈です。
 で、今私は「思い通りにならないこと」…と「もの」を説明するのに「こと」という言葉を使いましたよね。これこそが、この「茜色の夕日」のテーマだと思うんです。
 さあ、歌詞をご覧下さい。「思い出すものがありました」と、ふと誘発的に思い出された情景や感情は最初ははっきりしません。言葉に、説明になりません。これは私たちも普通に体験することです。自分の意志とは関係なくふと思い出してしまうことってありますよね。
 それを自分で確認していくんです。志村くんもたくさん確認しています。それが「…歩いたこと」であったり、「…笑っていたこと」であったり、「…悲しいこと」であったり。そのあとたくさんたくさん確認して「こと」にしていってますね。
 つまり、確認していくと、それは全て過去の「こと」であって、つまり動かせない「こと」になっているということです。茜色の夕日によって誘発された過去の記憶、それは志村くんにとって、実に切ない、辛い、でもなんか懐かしいことなんですね。どの「…こと」を見ても、思い通りにならなかったことや、なんとなく不本意なことばかりです。その動かせない過去の「こと」全体が、実は「思い通りにならない」という「もの」の本質を構成しているわけです。
 つまり、「もの」は「こと」を内包している、そういう物事の本質を感じさせるんですね。冒頭で「もの」でくくっておいて、その中の「こと」を開陳していく。動かせない「こと」が「もの思い」の原因になっている。過去が動かせない変えられないこと自体が「もののあはれ」の本質になっていると。どこかの有名な哲学者さんは「もの」は「こと」の一部であるみたいなことを言っていましたが、間違いですね(笑)。
 西欧人は一般に不随意を悪として、思い通りにならないことを不快なこととしてとらえ、それをいろいろなワザで乗り越えようとします。日本人はそういう行為を否定しました。「わざわい」という言葉がありますよね。これは「わざはひ」、すなわち人間の仕業の度が過ぎて、よけいに苦しむ状態です(ちなみにその反対が「さいわい(さきはひ)」です)。
 日本人は不随意な「もの」に美を感じ取った。それをどんどん歌にしてきたんです。それが日本文学です。志村くんもしっかりそういう伝統の上に歌を作っていますね。そう、「無責任」でいいんだよ…。身を任せるのが日本人です。
 で、この歌詞の素晴らしいところは、一つだけいい意味での「もののあはれ」が入っていることです。いい意味でのため息があるんですよ。どこでしょう。
 それはサビの部分です。「東京の空の…見えないこともないんだな」のところですね。これは予想を裏切られてはいますけれど、しかし、ちょっと得したというか、救われたというような感じですよね。このコントラストといいますか、スパイスといいますか、とってもよく効いてますね。
 志村くんはそれほど気にせず自然に作っているに違いありません。そこが詩人たるゆえんでしょう。私はしょせんエセ評論家にすぎません。しかし、今日も生徒にたくさん言いましたけれど、作者本人の意思を超えて様々な解釈の可能性があり、それを受け入れて、そして作者の手を離れて勝手に成長していくのが優れた芸術作品の本質であると思います。
 また、こうして解釈してから、彼の作ったメロディーを聴き、彼の歌声を聴きますと、また違った感じがしますよね。生徒もそれを体験したようです。そして、その体験こそが本来国語の授業で教えるべきことだと思うんです。
 「茜色の夕日」…東京から夕日の沈む西の方、すなわちふるさとの富士吉田を眺めていて、いろいろ思い出しちゃったんだろうなあ。私も両国国技館で聴いた時そんなことを思ってしまって泣いてしまいましたよ。短い夏…ここに住んでいればわかりますね。生徒たちもそういう意味でも共感したのでは。
 …と、生徒に興味を持ってもらったおかげか、たくさんゲットしてしまったチケットがさばけそうです(笑)。やっぱりプロモートというのは大切ですなあ。評論家の仕事というのは実に重要なのでありました。

リアル「茜色の夕日」

TEENAGER

Amazon 茜色の夕日

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2008.03.16

『赤塚不二夫なのだ!!』 (NHKハイビジョン特集)

Aka08
 先月、「トキワ荘の青春」を観て、そして長谷邦夫さんの書いた「漫画に愛を叫んだ男たち」を読み、ついでと言ってはなんですが、赤塚不二夫と出口王仁三郎のコラボレーションであるこちらを読んでいましたから、今日のこのハイビジョン特集は特に面白く観ることができました。
 もうとにかく内容が濃すぎて濃すぎて…。まあ赤塚自身をそのまま紹介するだけでも、それは濃くなりますよ。
 古田新太によるコスプレもまあまあ笑えた。でも、バカボンのパパのコスプレは赤塚自身が一番ですね。ちなみに私も一昨年の年賀状でやりました(41歳の春ということで)。
 みうらじゅん、しりあがり寿、喜国雅彦の3人の現役漫画家によるトークもなかなかでしたね。この中で話されていた、赤塚作品における平等性、すなわち天才もバカもみんな同列になってしまう、あるいは平等に差別されるということには、大きくうなずかせていただきました。
 ケンカやいじめや動物虐待という、今では絶対にタブーになってしまった少年期の体験こそが、彼の(あるいはその時代の大人全ての)仕事や処世術の基礎になっているということ、これにはいろいろと考えさせられました。いちおう教育者の端くれとしてね、ちょっと考えちゃいましたよ。汚いもの残酷なものを子どもたちの世界からどんどん排除していくとどうなってしまうんでしょうか。
 学者さんたちによるプロファイリングはちょっと無理があったかな。でも、その、ギャグを学問的に分析するというギャグをですね、NHKはよく理解しているのか、適度にそうしたお偉いさんを茶化して、結果として彼らを救っていました。これは素晴らしい演出だったと思いますよ。
 中でも特に無理があるなと思ったのは、町田健先生の言語学的分析ですね。「これでいいのだ!」というのが相手を包み込むような表現だとおっしゃってましたが、私はそういう印象はありません。これは全肯定、完全断定の言霊であって、周囲を納得させるというより、有無を言わせない神の言葉だと思うんですね。まあ、王仁三郎の霊界物語を言語学的に分析せよというのと同じくらい無理があるでしょうね。
 後半には長谷邦夫さんも登場しまして、当時のプロダクション形式による創作の様子が紹介されました。ここで感心したことは、赤塚不二夫の天才的なひらめき、そして技術はもちろんのこと、なんといっても彼自身が他者のアイデアをどんどん受け入れる柔軟性や包容力を持っているということですね。人の力を借りることによって自分の能力以上のものが発揮されると。
 これはまさにブッダの悟りの境地ですね。才能が溢れているのにそこに溺れず、またそれを必要以上に信じず、そしてそこにこだわらず、ある意味狭小なプライドは捨てて他力を利用するわけです。これは無我の境地でしょう。いや実際忙しすぎてそういう形態になったとも言えますが、それでもやはり才能があればあるほどこういうことを実行するのは難しいことです。
 それにしてもなあ、なんでこの時代はこんなにすごかったんでしょう。作る側も受け取る側も、そして作品もパワフルだったし、妄想力に長けてたよなあ。できれば今回タモリにも出演してもらいたかったなあ。最近のタモリは全く元気ないですから。久々にはっちゃけてもらいたかった。
 赤塚さん、もう6年も意識が戻らないんですか…辛いですね。いや、それこそ夢の中で思いっきりギャグ飛ばしてるんじゃないでしょうか。あるいは出口王仁三郎と会ってるとかね(笑)。意識を失う前の最後の言葉が「あっオッパイだ!」というのが笑えると同時に泣けました…。

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2008.03.14

『理系白書 この国を静かに支える人たち』 毎日新聞科学環境部 (講談社文庫)

06275435 こちらは理科の先生にお借りいたしました。意外に知られていない事実ですが(当り前か)、私は理科の先生になろうとしていたんです。なのに今は国語の先生。いろいろ事情がありましてね。で、さらに遡りますと科学者や技術者になりたかった。
 自他ともに、高校入学までは完全に理系に進むものと思っていたんです。それが高校入学後に音楽に目覚めてしまいほとんど勉強をしなくなってしまった。まず最初についていけなくなったのが数学でした。そんなわけで、あっさり理系はあきらめた…かと思いきや、完全に文系になるのもなんだかそれまでの人生を否定するようでシャクなので、弱理系という道を選びました。それが理科の先生です。教育学部は全体としては文系ですけど、その中の理科ということです。
 しかし、人生はそんなに甘くない。はっきりせい!というどなたかの思し召しでしょう、見事に第一志望の大学には落ち、なんだかよくわからん大学の文学部に進むことになってしまったのです。そして、結局は強文系の国語の先生になってしまった。
 まあ、結果としてはこれがベストだったと思います。いろんな意味でね。つくづく天職だと思いますよ。生徒にもそう言われます。いいかげんでテキトー(良い加減で適当)が通用する仕事なので(笑)。
 それでも、昔取った杵柄、多少理系的な知識や考え方も持っているつもりです。また、無い物ねだりというか隣の花というか庭というか、やっぱり憧れのような未練のようなものがあるのも事実です。次生まれ変わったら美貌の女性科学者とかいいなって(笑)。猿橋賞とか獲りたいな、なんてね。
 さて、そんな感じで、私は理系世界にも大変興味を持っております。古今東西硬軟聖俗左右文理なんでもござれ!ですなあ。これじゃあ一流にはなれないよぉ(泣)。まあ、一流になんかなるつもりは最初からありませんが、妄想としては、もし小学校中学校時代の夢を叶えて、大学や企業やらの研究室にでも入っていたらどうなっていたか知りたいじゃないですか。それでこの本を読んでみたんです。結構リアルですよって、その世界もよく知る理科の先生が言うので。
 う〜ん、読んでみましたよ。ある意味面白くてすぐに読みきってしまいました。たしかに鬱屈した世界ですねえ。華やかな成功譚の裏には様々なドロドロが…。読んでる文系の私でさえ暗澹たる気持ちになってしまった。生徒に「理系」行け!とか言えなくなっちゃうよう。
 この本の基本コンセプトが「理系は報われていない」ですから、当然そういう話満載になりますし、またその原因を日本独特の文系優位社会に求めているわけで、そういう意味で立派な告発本であることもわかりますけどね、しかしここまで悲惨な話が多いと、結果として理系離れを助長するというおそれさえある。少なくとも私は文転してよかったと思っちゃいましたよ。
 もちろん、人間を文系・理系というふうに分けるのはどうかと思いますよ。そういうデジタル的二分法にはいつも違和感を持ちます。でも、仕事上、何千人もの人間を見て来た経験から言いますと、たしかに人間は大きく二つのタイプに分けられるような気もするんです。で、それらが互いに得意不得意を補い合っている。そう、男と女みたいにね。それをごっちゃにして、男女共同参画社会みたいなことを言い出すのは野暮です。お互い補い合うのが共同ですよねえ。この本にもありました。「理系・文系は男と女の関係のようだ。永遠に理解し合えない」って(笑)。いや、理解し合えない違いがあるから共同するんでしょ。つまり、違いは違いで厳然としてあるんで、それを便宜上文系・理系で分けてもいいと、現場の私は思うのです。
 で、その分け方の定義というか基準というのは実に言語化するのは難しい。非常に感覚的なものです。ある意味根本的すぎて言葉にならないのかもしれません。ただ、一つ言えるのは、理系の方が勉強するということです。高校においても理系は文系の1.5倍はやることがあります。数学一つ取ってもそうです。数ⅢCまでやらなくてはならない。場合によっては理科3科目なんてのもいる。大学に行っても、私みたいな強文系の文学部なんかヒマすぎて曜日が分からなくなる(つまり毎日が夏休み)。一方の強理系は実験やら実習やらが忙しすぎて曜日が分からなくなる(つまり毎日徹夜や泊まり込み)。
 それなのに、本書によれば、理系の生涯賃金は文系より5000万円も少ないという。まあ、どういう比較なのか疑問な点もあるんですけどね。たとえ同額でもたしかに不公平な感じはします。それだけではなく、いろいろな不公平がこの本では紹介されていますよ。そこまでかなあ…っていう気もしますが。
 で、話としては当然共同参画になっていく。男と女仲良くしましょうよ、みたいに。リベラルアーツ的にあるいは学際的な方向に行きましょうと。まあそれもよく理解できます。江戸時代なんかは文・理のバランスが良かった。そういうふうにしましょうと。
 でもですねえ、私は思うんですよ。江戸とはあまりに環境が違う。世の中の仕組みが違いすぎる。すなわち市場経済という化け物に支配されている現代においては、理系はなかなか浮かばれないと思うんですよ。アメリカは理系天国だと言っても、それは勝ち組により多くの報酬が与えられているというだけで、ある意味単なる弱肉強食だと言えなくもありません。
 理系は無常性・不随意性を持つ「モノ」の中に潜む真理(マコト)を追究し、それを「ヒト」のための価値として創造して商品化する。つまり、疑似的であれ刹那的であれ(つまり真理ではないんですが)、無常性や不随意性に対抗して、長持ちし思い通りにコントロールできる商品を開発するわけです。そこには単純な数値化される勝ち負けが存在します。一方の文系は最初から「コト」の中のフィクションを追究していますから、そのウソ臭さをクッションにして「いいかげん」に「テキトー」に市場経済のリング上で真剣勝負を避け続けます(プロレスみたいなもんだな)。ですから、まじめに勝負を挑む理系にダメージが多いのは仕方ないんですよ。
 で、困ったことは、そうした市場経済のリングを作ってきた張本人が理系の人々だったということです。産業革命を招来し資本主義を確立してきた主役は理系の人々でした。サブタイトルにあるとおり現代社会を支えてきてしまったんですね。そこのところの自己撞着をどう始末するのか。私は最終的にそういう虚しさを感じてしまいました。
 まあ、でも今はプロレス派の私も、どこか総合格闘技もいいかなと思っているように、そういうリングに命をかけて逃げも隠れもせず臨む理系の人たちに憧れを持っているのも事実でして、やっぱり来世は美貌の女性科学者になりたいな、なんて思っちゃいます。それも薄倖のね(笑)。

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2008.03.13

『計算力が強くなるインド式すごい算数ドリル』 赤尾芳男 (池田書店)

26214735 そろそろ受験シーズンも終わりを告げます。今年の教え子たちも本当によく頑張ってくれました。お疲れさまでした。
 さて、彼らを見ていますと、最近計算力が下がっていることを感じます。理系で数ⅢCとかバンバン解いてるヤツとかでも、簡単な足し算やかけ算がちゃんとできなかったりするんです。
 たとえばセンター試験や模試の自己採点をするじゃないですか、その得点を合計したり、得点率を出したりする時に、すぐに電卓やケータイを出してポチポチやっちゃうんですよね。つまり安産…じゃなくて暗算ができない。
 面倒くさいんでしょうか、ずうずうしいヤツになると、私にやってと言い出す。で、私はむか〜しソロバンをやってましたし、仕事柄単純な計算はよくやるわけで、まあフツーのレベルでパッと暗算するんですよね。そうすると、すごいね、と言われる。おいおい、こんな難しい問題で正解してるお前の方がずっとすごいじゃん!やっぱり面倒なんだと思いますよ。
 そんなわけで、クラスの中でもソロバンをやってたヤツは他人のものまで計算するはめになります。点数の合計はあいつにまかせろ、みたいな。とっても繁盛してます。で、尊敬されたりする。
 珠算式暗算、すなわち日本式計算法というのが実は世界最強じゃないかと思うんです。イメージ式、右脳式の暗算ですよね。よくいるじゃないですか、暗算世界一みたいな少年とか。あれってみんな珠算式でしょう。
 しかし、考えようによっては、あれは数字を計算しているのではなく、ある種の作業をやって、その映像を読み取っていることにもなります。数字を図形の世界におきかえている。抽象的なものを具体的なものに変換している。だから、その場にソロバンがなければ何もできなくなってしまうわけです。いや、もちろんその場というのには、脳内も含まれますよ。脳内のソロバンまで紛失してしまったら、どうしようもないわけです。
 その点、最近はやりのインド式計算法は、直接数字を扱うので、基本的には道具の必要はありません。結局は普通の計算を、人間の脳ミソの特性に合わせて、ちょっと遠回りにやるという感じでしょうか。急がば回れ。
 …ということをこの本で知りました。数学の先生に借りて読んでみたわけですが、あくまで読んだだけで、ドリルは一つもやりませんでした。けっこう面倒だからです。それに、ほぼ半分のインド式テクニックは、今まで私も自然にやっていたものだったんで。これは、どこかで誰かに教わったのか、それとも自分であみ出したのか、そのへんはちょっとよく分かりません。父親からかなあ。父親は計算が仕事だったからなあ。
 特に「オレもフツーにやってるぜ」と思えたのは、キリのいい数にしてしまって、あとで修正するという、いわゆる「補数」の考え方に基づく遠回りですね。皆さんもよくやってるでしょう。19×28とか。19を20にしちゃって、あとで28ひくみたいな。
 あと、5をかける時は、かけられる数を半分にするとか、1000円札を出した時のおつりの計算方法…9の補数を使うやつですね…とか、9で割るときは1割増しにするとか(これセンターの得点率出す時によく使うんですよね。900点満点なので)。
 そうしますと、日本式とインド式を使い分けたり、組み合わせたりするのが、どうも最強といいますか、最も能率がよく、また人間的なのかもしれませんね。やっぱり学校で珠算とインド式計算法と両方教えるべきだよなあ。あと、電卓禁止令も出さなきゃ。
 ああそうそう、電卓(テンキー)とケータイ(電話)の数字の配置って上下逆じゃないですか。あれって統一できませんかね。もう無理か。

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2008.03.10

『風かおる草原 中央アジア』(はじめての民族音楽シリーズ)

46fh 小学校2年の娘がなんだか泣きながら教科書を読んでいるので、そんなに勉強がいやなのかと思ったら、どうもちょっと違うらしい。のぞきこんでみると、おお懐かしい、「スーホの白い馬」ではありませんか。まだ教科書に載ってるんだ。40年ちかく前、私も小学校2年生の時読んだ覚えがあります。定番教材なんですね。
 で、娘は白馬がかわいそうすぎて泣いちゃってるわけです。むせんで朗読の宿題が一向に進まないと。あれ?どんな話だったっけ。そんなに悲しい話だっけ。よしパパが読んでやる。ということで、いちおう国語の先生であもあるし、たまにはかっこいいとこ見せてやろうと思って読み始めたら、あらら確かにこれは悲惨な話だ。教育上よろしくないんじゃないのか、というくらい残酷なお話ですね。泣きはしないけれど、けっこうショックですねえ。
 読み終えた私は、馬頭琴の音を聞かせようと思って、二階のCDコレクションをあさり始めました。たしか「草原のチェロ」という馬頭琴だけのCDを持っていたはずだ。15年ほど前、ある方のお宅で、モンゴルからツアーに来ていた馬頭琴奏者の方とジャムセッションをやったことがありまして、その時にすっかりその音色に魅了され、さっそくCDを買ったのでした。しかし、そのCDが見つからない。
 代わりに見つかったのが「はじめての民族音楽」シリーズ「風かおる草原 中央アジア」です。ああ、こんなのも買ったっけな。1曲目が馬頭琴による演奏「ボー・ジンホア」です。これをかけながら娘に朗読をさせたんです。この音を聴きながら、スーホや白馬の気持ちを考えて読みなさいって(笑)。それは酷ですよねえ。よけい悲しくなる。哀愁の音色ですから。
 いやあ、いいですねえ。馬頭琴やホーミーのモンゴル音楽もいいんですが、その他のカザフ、キルギス、ウイグル、タジク、ウズベク、トルクメン、アゼルバイジャンの音楽。音階やリズムが実に多様です。もろにシルクロードですからね。けっこう西洋モードに入ってる曲もある。かと思うと、これは完全に日本の民謡ではないかというものもある。
 まあ民族音楽と言っても、完全に古いものが残っているわけではありませんからね。楽器にしても、たとえば馬頭琴なんかずいぶんと改良されてしまい、それこそチェロみたいになってしまいました。木製だしf字孔はあるし魂柱は立ってるし弦もナイロンだったり。その他の地域の楽器にしても、案外日本の正倉院のものが最も古いオリジナル楽器だったりするんですよね。
 そうそう、「スーホの白い馬」では、死んだ馬の骨や皮を使ってモリンホール(馬頭琴)を作りますが、今や馬頭琴にはほとんど馬の体の一部は使われていません。せいぜい弓の毛(馬のしっぽ)くらいかな。昔は弦もしっぽをよって作ったんですけどね。弦が雄のしっぽ、弓が雌のしっぽ…あれ?逆だったっけな。
 ところで、「スーホの白い馬」という話、モンゴルではほとんど知られていないらしいですね。モリンホール誕生譚としては「フフー・ナムジル」が圧倒的に有名です。こちらは不倫のお話。愛人に「これで通って来て」と羽の生えた駿馬をプレゼントされ、夜な夜なそれに乗って奥さんにナイショで飛んでくんですよ。それで朝帰りする。でも最終的にばれて、激怒した奥さんがでっかいハサミで羽をヂョキンと切ってしまう。それで馬は死んじゃうんですね。ショックで男はその馬の皮やなんかを使って楽器を作るんですよ。こっちは悲しいというより恐い話ですね。ダンナが金持ち女のヒモだったことを知った奥さんが、女が買い与えた高級車をボッコボコにぶっつぶす…みたいなもんかな(笑)。こりゃあ、教科書には載せられないな。

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2008.02.26

東京大学入試問題(国語)

Toudai1 昨日、今日と国立の二次試験が行なわれました。3年生のみんな、どうだったかなあ。私は担任する2年生のギャル8人と一緒に、先輩が受けに行っている東大の問題を早速やってみました。
 以前、「心より物の時代」という記事にも書いたように、とにかく東大の国語の問題というのは素晴らしいんですよ。解いてて楽しいし、感動すらしてしまうのであります。今年の問題もなかなかの良問でありました。
 2年生でも基本的に解けてしまいます。東大用の記述テクニックは教えてないので実際には正解とはなりませんが、何を書けばいいのかというのは分かります。
 で、今日も出題者の意図、出題者が何を書いてほしいのか、採点基準はどこにあるのかを読み取りながら一緒に解いてみました。それが楽しいんですよ。出題者との対話ができるかどうか。
 私もそれなりに模範解答を作りますが、面白いのはですね、各予備校の模範解答を比べることなんです。全然違うんですよ。問題を解いたあと、それを並べて比較するんです。そして、ツッコミを入れる。この問題ではこの予備校の答えは○点しか取れないなとか、焦って対話しきれてないなとか、こいつ落ちたなとか(笑)。それがとっても勉強になるんです。
 去年の今頃メイド服着て踊ってたキャピキャピギャルどもも、なんかなあ、こういう問題解いてこういう会話ができるようになったんだなあ、としみじみする瞬間です。あっ、そうだ、来月またメイド服着て踊るとか言ってたな。元副担任の結婚式で(!)。
 さて、それはいいとして、今年の現代文の問題ですけど、私が昨日書いたことと深く関連する内容でした。
 第一問は宇野邦一さんの「反歴史論」から。歴史と歴史学、記憶と記述などに関する内容。まあ、よく言われる、歴史は誰かの恣意的な切り取り作業の上にあるという話ですね。つまり、ワタクシ的に言うと「言語化」「コト化」されたものであるということで、実際にはそれ以外の茫漠たる「モノ」や妄想(神話など)が無限に広がっているのが本質なわけです。
 なのに人は「コト化」された歴史に縛られてしまうと。これは昨日書いた、言葉に人が縛られる(はじめに言葉ありき)と全く同じことですね。私たちはそこに安心を得ようともしますが、結果は不自由を招くことの方が多いような。
 第四問は竹内敏晴さんの『思想する「からだ」』からの出題。役者の感情表現についての随筆。これも基本的に同じ話だなあと思いました。「悲しい」とか「楽しい」とか、言語で「コト化」された感情を表現するのではダメだ、「からだ」の中を満たし溢れているなにか(モノ)を表現せねば、と。
 まさに言語(コトの葉)の功罪、特に罪のお話ですね。やっぱり東大でも「心より物の時代」なのかな。てか、最近の世の中のはやりなんでしょう。20世紀文化のカウンターってことで。だから私が言ってることも、まあ普通なことなんでしょうね。
 そうそう、第二問の古文、第三問の漢文も、ネタがかぶってましたっけ。両方とも「夢」がポイントになってました。夢に観音やら老人やらが出てきて予言したりするんです。こういうのを読みますと、ああ昔は「うつつ」と「ゆめ」が同等だったのかな、いやもしかすると夢の方が重視されてたのかな、なんて思われます。これも考えようによっては、「コト」と「モノ」の関係につながりますよね。
 21世紀はいよいよ「物語」の復権の時代なのかもしれませんね。そんなことを考えながらギャルどもとああでもない、こうでもないと言い合った一日でした。実は私の答にも、彼女たちけっこうダメ出ししたのでした(笑)。
 今年の東京大学の問題をお読み(お解き)になりたい方は、こちらからどうぞ。

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2008.02.12

『右翼と左翼』 浅羽通明 (幻冬舎新書)

34498000 さて昨日、紀元節…いやいや建国記念の日にちなんで読んでみたこの本。結局ナンダコリャの過剰さに寄り切られ、昨日の記事の座を奪われてしまいました。ま、右も左もあの楳図かずお先生の赤と白には叶わなかったってことでしょうか(笑)。
 ところで、左は「赤」っていう感じですけど、右は何色なんですか?やっぱり緑なんでしょうかね。飛行機って右翼は赤いランプ、左翼は緑のランプですよね、たしか。
 と、冗談はさておきまして、昨日も「日本人は案外中庸が苦手」みたいなことを書きましたけど、私たちって特にまじめなことになりますと中庸のないデジタル思考になりがちですよね。私のいる教育界なんてのも、まあ形だけはまじめなところですから、すぐに「ゆとり」だ「つめこみ」だって両翼のはじっこを行ったり来たりします。えっと、今度は「つめこみ」でしたっけ。はいはいって感じです。
 で、政治はおそらく一番まじめぶらなければならないステージですから、それはついつい「右」か「左」かという二元論に陥りやすい。つまり、まじめなことは難しいので、なるべくわかりやすくする必要があるんでしょうね。そうしないと、みんながまじめなことに取り組まなくなる。取り組まなくなっちゃうよりは、あっちとこっちで行ったり来たり、あるいはケンカしてる方がいいということです。
 これはいつかも書いた「政治と文学」とか「政治の演劇性」とつながることだと思います。
 で、それらの記事でも作家や役者として評価され、またこの本でも取り上げられている小泉さんなんかも、一見「右」という感じがしながら、実際にはけっこう玉虫色だったとも言えます。格差を容認し市場主義にまかせる自由という意味では「右」ですが、官から民へという面では「左」のようにも見えます。アメリカ追随や靖国問題では「右」らしさを発揮してますが、保守的な自民党をぶっこわす改革という意味では「左」のイメージもなくもない。
 と、あれほどわかりやすい人でもこんな感じですから、たとえば自分は右なのか左なのかと問われると、私はですねえ、いちおう「ソフトな右」って言ってますけど、平和主義という面では左寄りだって言われる時もありますし、いやいや日教組の方々には完全に「右」だと思われてるし(彼らはデジタル思考の権化みたいなもんですから気にしませんが)、極右の人と論議する時は「あれ?自分って左だっけ」と思うこともしばしば、親父と喧嘩になる時は正真正銘右の人だし(笑)…てな具合で非常に難しい。
 そう、しょせん「過剰なデジタル思考」なんてものは「虚構」や「演劇」や「プロレス」や「音楽」や「ゲージツ」での話であってですね、現実の社会や政治や自分や他者はそんなに一刀両断に二分できるものじゃないんですね。そういう本来のカオスがどうしてきれいさっぱり「赤白」じゃなくて「赤緑」じゃなくて「右左」に分かれちゃったのか、世界史的にどうなのか、日本にはどういう特殊事情があったのかという、ある意味非常にわかりにくい現実を非常にわかりやすく解説してくれたのが、この本というわけです。
 今までも右と左を対比して説明する、すなわちデジタル的な解説書はいくつもありましたが、こうして一つ上の次元から虚構としての全体像を見たものって案外なかった。第一、自分たちもそういう視点から自分を見ることなく、どうしても楽でファッショナブルな(あるいはファッショな)デジタルの潮流に乗ってしまうことが多かったじゃないですか。ですから、この本は、私たちデジタル庶民にもわかりやすい、そして最終的により高度な視座を与えてくれるという意味で名著だと思います。名著なんて堅苦しい言葉はふさわしくないかも。浅羽さんGJ!!って感じかな。
 今、正直右も左も形骸化してるじゃないですか。そういう中でどうして「ネトウヨ(ネット右翼)」なんかが出てくるのか。自分もどちらかというとそういうのを面白がっている不逞の輩なんですが、まあネットという無責任な場での空いばりって感じは分かりますよ。なんとなく右翼の方が勇ましいじゃないですか。実際にはそんなことできないけれど、やれやれ〜!みたいなの。今のネトウヨには勇気は必要ないんですよ。だからそういうのを見て右傾化してるとか心配しなくていいんですよ。彼ら(私も)「たくましからず」の「不逞」ですから(笑)。
 それにしても、人間というのは、二つに分けたがりますね。「松田聖子と中森明菜」とか(笑)。あなたはどっち派?って帯に書いてありましたし。そう、つまり人間は徒党を組みたがると。で、グループを作るにはとりあえず全体を二分するしかないですよね。全体のことはグループとはいいませんし、一つしかないものをテリトリーとかカテゴリーとかジャンルとかパーティーとか言えませんからね。そして、どちらかに属し、もう一方を批判し攻撃することによって、自らのグループの結束を強化し、そして自分たちのアイデンティティーを堅固にして、自らの安全や安心を確保する。基本、我々はさびしがり屋で、自信もないのに強がり、そのくせ依存心も強い存在ですからね。
 この本でも、結論としては、そういう二元論的な思考の危険性を説いているような気がしました。私もこれからはカオスや多様性に耐えられる強さを身につけたいですね。目標はやっぱり全てを併呑した出口王仁三郎かなあ。あれは一般人には行きすぎかな。

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2008.02.03

漢字検定準1級受検

070203 今日は大雪。写真は湖面に雪の積もった精進湖です。ここを過ぎて、私は市川大門へ向かいました。
 漢字検定準1級に挑戦したんです。昨年の悲惨な1級玉砕(こちらの記事参照)ですっかり意気消沈し、もう漢検は絶対受けない!と宣言したワタクシではありましたが、人間というのはバカなもので、少し時間が経ちますとね、すっかりいやな思い出を忘れ、さらには変な欲気まで出てくるものでして、ああ、こうして歴史上の戦争なんかも繰りかえされたんだろうなあ、なんて思われるんですね。で、結局受けちゃった。
 昨年の漢検初受験は1級113点という惨憺たる結果であったわけですが、今度はですね、多少は反省したのかな…というか学習したのかな、準1級を受けることにいたしました。しかし、やはりバカな私のこと、ただ受検するというのではつまらない、いやただの受検じゃ勉強しない、ということでしょう、クラスの生徒に「満点で合格してやる!」「準1級なんて1級に比べたら超簡単だぜ!」「満点取れなかったらROYCEの生チョコを全員に買ってやる!」と宣言しちゃいました。
 そして、今日さっそくROYCEを注文いたしました(笑)。はっきり言ってなめてました準1級。1級が1ヶ月で113点でしたから、まあ準1級なら2週間くらいで満点取れるなと踏んでいた私が甘かった。
 いや、そう判断したのにはちゃんとした(?)理由があったんです。昨年の1級の記事に書きましたけど、1級はですね、もうほとんど言葉による暴力、私へのいじめでありました。去年はこんなふうに書いてますね。
「…全く知らない人、数千人の名前を1ヶ月で覚えろって感じですかね。その人の人となりとか分かってれば、それなりに覚えられますけど、国籍も性別も年齢も性格も全然わからない人たちなんですよ」
 うん、これはなかなかいい比喩だ。ホントそんな感じでしたから。で、準1級ってのはですね、テキストや過去問を見ますと、とにかく全部一度は見たことがある字なんですよ。だから「近所の顔見知りの名前を全部覚える」程度の感覚だったわけです。去年に比べたら、これはもう正直楽勝だと思ってました。
 そしたら、それはやっぱり甘かった。近所の顔見知りでも、意外な一面があったり、裏の名前、あだ名とか芸名とか源氏名とかいろいろあるんですね。それも全部覚えなきゃいけなかった。今まで間違って覚えてた名前があったりしてね。あるいは似てる人を混同したり。さらに案外難敵だったのが四字熟語ですね。私もいちおう国語の先生ですからそういうのは得意なはずだったんですけど、9割がた初めて見るものばかり。全然余裕がありませんでした(ちなみに去年は四字熟語は最初から全部捨ててました…よってそこで30点の損失)。
 そうですねえ、自己採点では186くらいだと思います。たぶん細かいところのミスを引かれても合格はできると思うんですけどね。でも、賭けは負けです。男は言い訳しません!…なんて、実は大雪で中止にならないかなあ…なんてそれこそ高校生(小学生)みたいなこと考えてました(笑)。
 でも、たまにはこういう経験もいいですね。先生という仕事、生徒に言いたいことばかり言って、勉強させて、テストの結果に不機嫌になって、そういう一方的なことになりがちです。こうして自分が勉強してテストを受ける立場になりますと、いろいろと反省すべき点が見えてくると同時に、勉強の仕方、テストの受け方なんかで生徒に還元できる点が多々あることに気づきます。
 思わず苦笑したのは、生徒にいつも「問題をよく読め!バカなミスをするな!そういうことがちゃんと出来ないヤツは一流になれない!」みたいなこと言ってるんですが、自分も見直しでいくつかのバカなミスに気づきました。こりゃたしかに一流になれないわな。ま、そういうことを身をもって示しているのが「教師」という仕事なのかもしれませんがね(笑)。

追伸 結果187点でした。当然賭けには負けであります…orz。

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2008.01.30

『実践 学校危機管理―現場対応マニュアル』 星 幸広 (大修館書店)

Hjugi 今とっても忙しいシーズンでして、なかなか本を読めません。机の上に20冊くらい積み上がっているんですけど。
 そんな中、久々に読んだのがこの本。う〜ん、これもまた仕事の一部であって読書とは言えないか。いや、別に上司に読めと言われたわけではありません。どちらかというと上司に読んでいただこうと思って、図書室に入れてもらったものです。
 ウチの学校は、まあ田舎の小さな学校ですから、ある意味平和でして、今までのところ危機的な事件・事故はありませんし、モンスターなペアレントもあんまりいません(スチューデントはある意味かわいいモンスターですけど)。しかし、こういう時代ですからいつ何どきそういうことに巻き込まれるかわかりません。ある意味、こういう平和な学校ほど、いざそういう事態になった時にいろいろな処理ミスが生じやすいのかもしれませんし。
 企業でもそうですね。ここのところ会社のトップ3が頭を深々と下げるような記者会見をたくさん見ますけど、そういう会社って、どちらかというと在庫の管理や製品の管理が出来ていなかったというより、危機管理に失敗したような気もします。有名企業、常に修羅場の企業は、そのへんの管理・処理が上手で、表に出てこないんじゃないでしょうか。よくわかりませんが。
 とにかく世の中で最も危機管理に対する意識が低いのが学校であるのはたしかです。ま、世間知らずの集合体みたいなところですからね。これはしかたがない。だから勉強しなくてはならないわけです。私は「悲鳴をあげる学校」「でっちあげ」を読んで、これはもしかして対岸の火事ではないのではと危機感を募らせたのでした。それで買ってもらったのです。
 この本は、実際に学校にまつわる事件・事故、あるいは訴訟やクレームなどに関わってきた元警察官の方が書いた本でして、たしかに参考になる記述がたくさんありました。さすがその道のプロでして、内容がリアル。なるほど〜と思うことばかりでした。
 印象に残ったのは、相手がモンスターであれば、あんまりまともに取り合わなくていいんだということです。まともに取り合わないというのは、いいかげんにしていいということではありません。いわゆる本当の意味での、というか、教育現場的な意味での「誠意」や「真心」や「サービス精神」はいらないということです。
 いや、星さんはある部分ではそういうことこそ大切と説いているんですけど、なんていうかなあ、どうも先生という「善人」は、自他に「善人」であることを期待されすぎてるんですよね。なかなか「悪人」になりきれないと。私もそうかもしれません。そうすると、相手が「悪人」の場合は、その悪人の思うつぼになりがちなんですね。それはよくわかります。わかっているけれど、まず相手が「悪人」であると決めつけたくないというのがある。生徒に対してもそうですね。で、先生って「大人」と接するのが苦手ですから(笑)、大人の悪人(モンスター)が登場しちゃったりすると、うまく対応できないんです。
 で、いつも大人の悪人(モンスター)と対峙している警察官だった星さんは、その退治方法、それも最も適当な(ある意味テキトーな)退治方法を知っているわけですよ。それをリアルに教えてくれているわけです、この本で。
 非常に参考になったのは、実際の会話例ですね。相手の質問やらおどしに対してこちらからも絶妙な質問を織り込んでいく技。これはさっそく使ってみましょう(使う場面があったら)。マスコミとの対応コーナーも面白かった。小泉元首相がいかに見事に適当(テキトー)だったかよく分かります。彼はそういう意味では天才的な受け答えができる人でしたね(正しい、正しくない、好き、嫌いは別として)。そして、ヤクザさんとの対応については、これは学校でというより、日常生活で役に立ちそうですね。いつそういう方々とお友達なるか分かりませんから(笑)。
 と、読んでいて思ったのは、これはやっぱりプロレスだな、演劇だなっていうことです。純粋なリアルファイトでは絶対負けます。生徒に対する戦闘能力だけでは、絶対に大人なモンスターにはかないません。そういう時こそ冷静に相手の出方をうかがって、相手の勢いを利用して、賢く対処しなければなりません。そういうことを、恥ずかしながら教師歴二十数年目にして初めて知ったウブなセンセイでありました。
 あと、「悲鳴をあげる学校」にもありましたが、そういう闘いこそ相手を理解し近づくチャンスでもあるということ。たしかにそれもありますね。そう思わなきゃやってられないってのもありますが。

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2008.01.20

夏目漱石『彼岸過迄』@センター試験

Soseki22 センター二日目の夜です。生徒たちは学校に集合して自己採点。まあそこそこの結果でしょう。安心しました。国語は案外取れてないのでちょっとがっかり。やっぱり漢文ができてないなあ。いちおう教えたことを駆使すれば出来るはずの問題だったんですけど、う〜ん、その「駆使」の部分をもうちょっとちゃんと教えなきゃダメだな。反省。
 さて、その国語ですが、昨日は第1問の話をしました。今日は第2問についてちょっと。
 漱石が出たんですよ。びっくりしました。しかし、おかげで読みやすかったかも。生徒たちもワケわからん感覚的な現代小説よりも良かったと言ってました。漱石って論理的ですからね。
 作品は「彼岸過迄」。私もずいぶん前に読んだまま忘れていました。でも、出たところはなんか妙に印象に残っているところでしたね。いわゆる「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」のシーンです。別に好きではない女、どちらかというと一緒になりたくない女に関しても、そこに別の男の影がさすとなぜか妙な嫉妬心が湧くというやつです。
 と言いますか、私の知る限りの漱石って案外これにこだわっている。「嫉妬心」、これは彼に言わせれば「愛情」の裏返し(裏打ち)なんですけど、彼は小説の中でその様々なパターンを試している感じがありますね。単純に男女の愛情を描くのではなく、逆説的に表現している。
 正直教師なんかやってますとね、以前「蒲団」のところで書いたように、「存在の権利を失った嫉妬心」がふつふつとわいてくることもあるわけでして、そういう点では漱石に共感することもあるけれども、一方ではまた、そのふつふつを抑え込んで日常を生きる自分と照らして、おいおい漱石さんよ、いい歳していつまでもそんなことにこだわってらっしゃるな、とも言いたくなるわけですよ。なんかそう考えると漱石って年甲斐もなく青春してたオジサンだったような気もしてきます(ま、小説家、芸術家はそういうものなんでしょうけど)。
 で、面白いのは、その嫉妬心が女性だけでなくいろいろな方面に向かったことでしょう。特に西洋文化に対する屈折した嫉妬心は面白い。イギリス留学ですっかり萎えて帰ってきた漱石。つまりハイカラな女にさんざん心奪われた末に、そいつに弄ばれて、さらにはずいぶんとこっぴどくバカにされたと。で、もうこんな女のことなんか知らねえやと言いつつ、いざ離れてみると…って感じですかね。いざ離れてみて「日本」というホームグラウンドに帰ってきたんですけど、世間はやっぱり西洋さんとイチャイチャしてる。それを見るにつけ、ふつふつと男の嫉妬心が…ということです。
 この前女の嫉妬について書きましたね。女の嫉妬は女に向かうけれど、男の嫉妬はですねえ、まずは対象に向かうんじゃなくて関係に向かうんですよ。つまり三角形にね。三角形自体に向かう。
 そしてそれぞれの頂点たる、まず敵である(べき)男に対してはコンプレックスという感情がわく。女は女に怒りや憎しみをぶつけますが、男は男に劣等感を抱く。「彼岸過迄」の「僕」も高木に異常なコンプレックスを抱いてますね。
 女に対してはどうかといいますと、これは難しい。これはですねえ、そうした関係性への嫉妬の裏返しとして、違った意味の愛情が結露していくんですよね。実はここが男にとって一番辛いところです。望んでいない愛情ほど厄介なものはありませんから。
 さらに困ったことに、三角形の最後の頂点である自分ですね、その自分に対してもある種の感情が爆縮していく。ブラックホールのごとく。ここんとこを漱石は描いたのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。もちろん、さっき書いたように、それは女に関することだけではありません。国家やら言語やら文化やら哲学やら文学やら…。
 これについてはもっと語れるような気がしますけど、このへんでやめときます。と言いますか、大人な(?)私はそれに真面目に対峙してるヒマも根性もないので、それこそ漱石センセイにおまかせしますわ。
 まあ、ここまでの機微を理解せよとは高校生には言えませんな。出題した大学の先生はきっと理解してると思いますけどね(笑)。

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2008.01.19

「闇」「奥」「深さ」「もの」@センター試験

Oku 今日はセンター試験1日目。今年の国語はどうだったでしょうか。
 今までずいぶんとケチをつけてきたセンター試験の国語ですが、今年はほとんど問題のない問題でして、本番としては生涯2回目の満点を取ることができました(おいおいたった2回かよ!)。
 つまり、自分が間違った問題は悪問と決めつけ、けっこう徹底的にケチをつけていたんですよね。まあそれは生徒に対する、あるいは自分に対する慰めの意味もあったのでありまして、そういう意味においては、今年は生徒に対して厳しい先生にならなければなりませんね。
 漢文が難しかったとみんな言ってました。いや、今までが簡単過ぎたんだと思いますよ。今年は論理的な読みを要求するいい問題でした。古文もようやく高校生レベルまで易化しましたので、これで評・小・古・漢のバランスが取れたと思います。
 さて、今日はその中の第1問、評論の内容について書きます。昨年も「予言が当たった!」とかほざいていたワタクシですが、今年もウチの生徒にとっては解きやすかったかもしれません。実際ほとんど間違わなかったようですし(てか、全国的にこれは平均点高いでしょう)。
 狩野俊次さんの「住居空間の心身論−『奥』の日本文化」からの抜粋。前半は、「闇」の積極的な意味を考えることで、「明るい近代」を批判します。これはですねえ、ワタクシの駄エッセイ「暗黒」を読ませられていた生徒諸君には分かりやすかったのでは(笑)。
 後半の「奥」論は面白いですね。「奥」は時間的な要素も含んでいると。たどりつくまでのプロセスが大事だと。なるほどと思いました。「間」との類似性の指摘も納得。
 これは私の「モノ・コト論」で言いますところの、「モノ」ですよね。闇にしろ夜にしろ奥にしろ。私は「モノ」としての「道の奥」すなわち「陸奥」論を展開したこともあります。今回もこの評論を読みながらついついいろいろと妄想してしまいました。私にとってはあの「大物忌神社」から北は完全なる「道の奥」ですから。
 さてさてついでにもう少し妄想しておきますと、「闇」に存在する「深さ」や「奥」における時間的要素ですが、