カテゴリー「教育」の1000件の記事

2021.09.12

『若者のすべて』が教科書に!

 昨日、KANSASのライヴをおススメしましたが、そういえば10年前にKANSASとフジファブリック(志村正彦くん)の類似性について書きました。

 その記事を今見ると動画が消えてしまっているので再掲しますね。ちょっと長いのですが、今日のテーマにつながっていきますので。

(2011.02.21)

 地平線を越えて(Live at 両国国技館…これ行ったなあ…)

 日、「プログレ」の話が出ましたね。私の音楽のルーツの一つは間違いなくプログレです。そう言えば私、一時期「プログレッシヴ・バロック」という古楽バンドやってましたっけ。ま、それほどそういう世界が好きだということです。
 プログレというのは面白いもので、本来アンチクラシック音楽(近代西洋芸術音楽)、民俗音楽回帰というところから始まったはずのロックが、「芸術性」すなわち「複雑さ」「構築美」(最初の変換が「好乳首」になってしまった…爆笑)を求めるという、ものすごい自己矛盾の上に成り立っているんですよね。
 ま、一絡げには言えませんけれど、いろいろな国にそれぞれの民俗音楽と芸術音楽があって、それらをそれぞれの国のロック・ミュージシャンたちが、なんとか融合しようと頑張った時代があったわけです。
 その結果、だいたいがまた新しい矛盾に遭遇することになりました。それは「難解さ」が生む「非大衆性」です。本来大衆音楽であったはずのロックがどんどん難しくなっていって、一度聴いても分からないような方向に行ってしまった。
 日本のプログレもそうだったんです。それはそれでマニアックなジャンルとして魅力的でしたがね。しかし、なかなか商売にはならなかった。自己矛盾は自己矛盾のままだった。
 私も、自分自身がそういう音楽を求めていた時もありますから、この分野に関してはかなりうるさい方だと思いますが、上記のいろいろな事情を考慮した上でですね、フジファブリックの「地平線を越えて」はすごい曲だと思います。
 つまり、そうした自己矛盾を見事に昇華しているということです。8分の12の複合拍子を基本に、変拍子やポリリズムなどを含むことや、また、特殊な転調や先の読めない展開、メロディーではなくパッセージ(リフ)の積み重ねなど、いわゆるプログレの王道をしっかり押さえつつ、メロディー的には日本古来の四七抜きと西洋音階を巧みに混合し、加えて、日本語の譜割りが実にお見事。開音節構造から生まれる単調なシラブルを羅列することによって、音楽的なポリリズムを意図的に無意味化しているところがあります(なんて、いかにもプログレな分析、解説でしょ?)。
 私は、この曲を初めて聴いた時、この志村正彦という男はいったい何者だと思いましたよ。こんな若者がいるのか!これは天才だ。その時は、まさか彼が富士吉田の青年だとは思いもよりませんでした。
 そして、この曲を聴いて、音作り的にはイエスなども想起されましたが、なにより私の印象と重なったのは、アメリカン・プログレの雄、カンサスのこの曲です。「ポートレイト」。
 ELOと並んで、私にヴァイオリンを始めさせたバンドの一つが、このカンサスです。中一の時、こんなのを盛んに聴いていたんですからね、ずいぶんとませたガキでした。てか、みんなこういうの聴いてましたよ、あの時代は。

 

 

 さて、ここからどんな話になりますかと言うと、志村正彦作品「若者のすべて」が音楽の教科書に!という話です。

NHKのニュース

 「若者のすべて」。言うまでもなく志村正彦くんの代表作です。彼亡き後も含めてフジファブリックの代表作と言っていい。

 もちろん志村くんも喜んでいることでしょう。しかし、一方で「若者のすべて」を「代表作」とされることにはどうでしょうか。

 そう、KANSASですと、彼らが得意とする難解なプログレ作品ではなく、美しいバラード「Dust In The Wind(すべては風の中に)」が最も有名な作品となりました。

 

 

 そういうことってよくありますよね。一番売れた曲が「らしくない」ということ。

 フジファブリックの「若者のすべて」もそういう曲だと言えましょうか。

 もちろん、とんでもない名曲なわけですし、当時初めて聴いた時もちゃんと「志村正彦らしい!」と思ったのですが、たとえば最近の若者がこの曲からフジに入って、その他の「(いい意味で)変態的な曲」を聴いたら、ちょっとビックリするかもしれませんね。彼(彼ら)にしてはシンプルな楽曲ですし、歌詞も妙にピュアです。

 旧作から、志村くん最後のアルバムになった「クロニクル」まで変わらず底流する、志村くんらしい抒情性と表現することもできますし、アレンジのちょっとした「面白さ」も彼ららしいと言えますが、やはりどこか屹立した異彩を放っていることもたしかです。

 これって天才によくある「あれ」でしょうか。亡くなる直前も、あまりに「降りて」きすぎて、器たる彼は眠れなかったと。それを書き留めた付箋が壁中に貼ってあったと。

 あの頃の志村くんは、すっかり地平線も自我も越えてしまっていたということでしょうか。そして故郷に一度帰ってきて、そして永遠の旅に出てしまった。

 いずれにせよ、彼の「代表作」が、高校の音楽の教科書に掲載されることになりました。これは本当にすごいことです。

20210913-124625 教育芸術社のMOUSAに掲載されるポピュラー作品の一覧を見てみましょう。

 なかなかマニアックな選曲ですよね(笑)。

 「若者のすべて」は2000年代の代表作品として選ばれたとのこと。

 志村正彦が、服部良一、いずみたく、村井邦彦、山下達郎、織田哲郎らと肩を並べたというのは、純粋に嬉しいですし、とんでもないことだと思います。よく見れば、加藤和彦、甲本ヒロトもいるではないか!米津もたしかに新しいソングライター形ですかね。

 いろいろ小難しいこと書いてきましたが、とにかく、志村くん!おめでとう!ですね。

 なにしろ学校で教えられるのですから。バッハやモーツァルトや八橋検校と並んで!

 さあ、あらためてこの時代を飾る名曲を聴いてみましょう!

 

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2021.09.04

『かぐや姫』 田中喜次監督作品(昭和10年)

 

 谷英二撮影の幻の作品、今日85年ぶりに上映される「かぐや姫」。残念ながらチケットが取れず今回は観ることが叶いませんでした。

 田中喜次は教育映画や初期のアニメ映画で活躍した人。この映画はイギリスの日本協会からの委託で製作されたとのことです。

 円谷や田中の作品という意味でも興味深いのですが、私としては宮城道雄の音楽に興味がありますね。クレジットでは「Music Composed by…」となっているので、作曲が宮城道雄ということですね。

 オーケストレーションは誰でしょうか。時代的には下総皖一かなあ。宮城は昭和10年当時、東京音楽学校の講師。下総は助教授でした。

 今日はたまたま上野の東博で要人にお会いする用事があり、藝大に通う娘のところに来ているのですが、旧奏楽堂や谷中霊園の宮城道雄のお墓などを巡るにつけ、その当時の日本音楽界、特に作曲界の活気を感じることができました。

 この映画での宮城の音楽からも分かるとおり、西洋音楽を巧みに取り入れつつ、日本の音楽を充実させていく姿勢は、まさに聖徳太子の「和」の精神そのものですね。

 実際、開国し和魂洋才を目指し、国際化した当時の日本人にとって、聖徳太子というのはまさに心の支えでありました。明治天皇を聖徳太子になぞらえることもありましたし。

 今日もその要人の方や東博の研究員の方とも話ましたけれど、戦後の聖徳太子軽視の傾向はついに極まって、聖徳太子不在論、さらには教科書からその名を消すという動きまで出ていることは憂慮すべきことです。

 そんなこと言ったら、西方の厩戸皇子たるキリストも否定しなければなりませんよね。まったくぅ。

 …と、話がそれてしまいましたが、それこそほとんど無視され否定されている戦前の文化の正しい評価、復興というのもそろそろ始めねばなりませんね。この「かぐや姫」も早く観てみたい。

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2021.08.29

『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』 ケニー・オルテガ監督作品

Th_81tyxvhe9cl_ac_ul320_ 日はMJの誕生日。生きていれば63歳ですか。

 私は完全にリアルタイム世代です。「オフ・ザ・ウォール」はレコードが削れるほど聴き込みましたが、その後は私の音楽的嗜好の変化もあって、それなりに距離を置いて彼を見ていました。

 ところが、一世代若いウチのカミさんが異常なほどのマイケルファンで、その影響で娘たちも私よりもずっと詳しくなってしまった。

 今度はその影響で、私も遅ればせながらマイケルを再評価するという、実に不思議な現象が起きています。

 そして、今日この映画を観て、それこそ遅ればせながら泣いてしまった(家族で)。

 私、彼が亡くなった時も、こんなふうに冷めていたんですね。

 追悼? マイケル・ジャクソン

 そして期せずして、彼は私の中で「復活」してしまったのです。

 なんということでしょう。

 この映像の中のマイケルは50歳。私はとうにその年齢を超えてしまいましたが、はたして私が50歳の時に、これほどまでのパフォーマンスとパーソナリティーを発揮しえたか…なんて、神に対して実に不遜なる文章を書いてしまいましたが、本当にふとそんなことを思ってしまったのです。

 なにより、愛にあふれているではないですか、彼は。歌にダンスに言葉に。

 基本はダンスですね。そこに歌が言葉が乗っている。そうか、ダンスは愛か。

 どうりで私はダンスが苦手なはずだ(苦笑)。

 完璧主義の天才にありがちな、独りよがりな感じは微塵もない。いや、いろいろあってそういう境地に至ったのも事実でしょう。しかし、そんなプロセスさえもその彼のポテンシャルを発揮させる法難だったのかもしれない…そう信じずにはいられないのです。

 愛が深すぎると早死しますね、ぜったい。

 共演者たちを鼓舞し、刺激し、そして成長させてしまうという意味では、美空ひばりと似たところがありますね。それもまた愛の賜物でしょう。

 ますます自分の小ささ、特に教育者としての不甲斐なさ、つまり愛の不足に落ち込んでしまいます。

 おそらく彼は自らの死を予感していたのでしょう。つまり、愛とは命そのものなのです。

 マイケルはこうして復活し、生き続け、愛をふるまい続けるのでした。

 

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2021.08.28

【討論】教育に日本の希望を!

 

 変忙しい中ではありますが、この討論を倍速で聴きました。非常に勉強になりました。

 ここ数年「(旧来の)学校をぶっ壊す!」と言いつつ、なかなか堅固な内なる防壁に妨げられて、やや戦意を喪失している私(苦笑)。

 一方で、この保守派の討論を聴くと、ぶっ壊すべき学校はどこにあるのか、もっと言えばどっちなのか、正直よく分らなくなってくる私もいます。

 また、国語の教員であり、日本語・日本文化研究家などと自称しながら、案外古典的な世界を簡単に捨てている私もいて、それもまた迷いの原因の一端になっています。

20210828-75334  特に竹本三保さんの、自衛隊と学校との比較からの考察は面白かった。私が排除しようとしていた学校の軍隊文化はとっくに駆逐されつつある…いや、もともとなっちゃって軍隊文化だったということでしょうか。

 また、孤立無援となっているかのような森口朗さんの言説にも、私は大いに共感します。やはり一番現場をよく知っていらっしゃるなと。

 私も、もう一度ふんどし締め直して戦ってみましょうかね。今、ちょっと現場から逃げているので。

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2021.08.14

『私は貝になりたい』 フランキー堺主演作品(1958年 TBSドラマ)

 

 画版、リメイク版は全て観ていましたが、このオリジナル・ドラマ版は実は初めて全部観ました。

 うん、やっぱりこのオリジナル版が一番いい。胸に迫りすぎて…辛い。

 特にここのところ東京裁判に関する極秘史料を読む機会を得て、戦後日本のために命を失った方々の思いを知ることが多くありますので。

 このドラマの主人公豊松のような死刑判決を受けた名もない戦犯の数は、約千名に及びます。

 実際、この豊松のように、上官の命令に従い、いや従いきれず米兵を負傷させただけで死刑になった人たちがたくさんいるのです。

 それほど、戦後の軍事裁判はひどい内容のものでした。

 そのあたりも、連合国に忖度せず、しっかり検証していかなくてはならない時代になったと思います。

 それにしても、このドラマ、すごいですね。後半は生放送ですよ!ビデオ編集ができない時代でしたから、ある意味映画より厳しい、舞台のような一回性の世界です。

 カメラワーク、証明、音声、音楽…いろいろ考えると、こちらも緊張します。

 脚本も素晴らしい。橋本忍さん、言うまでもなく「七人の侍」の本を書いた方です。

 個人的には佐分利信さんの淡々とした緊張感がたまりません。

 翌年、同じくフランキー堺を主役として映画が製作されましたが、やはり「生」の緊張感にはかないませんね。

 そんな「生放送」が、こうしてビデオとして残っているというのもまた、なんとも運命的な感じがします。

 ぜひ皆さんにも観ていただきたい、日本のドラマ史の中でも傑出した名作です。

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2021.07.25

阿部詩と富士学苑

Th_-20210726-203929 晴らしい!スケボーの堀米くんもすごかったけれど、やっぱり阿部兄妹の金メダルは興奮しましたね。

 いろいろな意見があるのは分りますが、やはりこういう時だからこそ「祭(神事)」は大切です。

 かつて疫病が流行った時には、陰陽師が活躍しました。

 陰陽師はある意味アスリートです。彼らの肉体と精神のエネルギーが負の存在を退けたのです。

 逆に言えば、現代における陰陽師は、オリンピックレベルのアスリートたちです。

 実際、私たち観客のエネルギーレベルも上がり、結果、免疫力も上がっているのは間違いありません。アドレナリンは大切。

 さて、話を戻します。

 このたびの阿部詩選手の金メダルには、ウチの学校の女子柔道部が深く関わっています。今日のNHKの中継でも触れられていましたね。

 ちょうど先ほど、そのことに言及した記事が上がったので、ぜひお読みください。

阿部詩、すごみ示した栄冠=徹底マーク、寝技で打開

 当時の本校の生徒は、阿部詩を圧倒していたわけです。

 こうして、金メダルにご縁があることは、非常に嬉しいことですね。感動が倍増します。

 ちなみに、本校柔道部出身で東京オリンピックに出場している選手がいます。63kg級の渡辺聖未。彼女はフィリピン代表です。開会式では旗手をつとめました。彼女もメダルが狙える実力を持っています。彼女のコーチには、阿部詩選手に寝技を教えた矢嵜先生がついています。

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2021.07.23

高校野球決勝戦〜オリンピック開会式

Th_e91ba0224d1ec0c8646b3236f91b769f_1627 日はスポーツの本質について、いろいろ考えさせられた一日でした。

 昼間は、私が昨年度まで奉職していた高校の野球部の決勝戦をラジオで応援。あらためてアナログ・ラジオの即時性に感謝しながら、一生懸命応援しました。

 結果は残念ながら一歩及ばず1対2で敗退。準優勝という結果となりました。

 内容は今までどおり実に素晴らしいものでした。負けても笑顔で終えられた彼らにとって、この夏は最高の思い出、そして教訓となることでしょう。選手諸君、本当にありがとう!

 ご存知の方も多いかと思いますが、ここ数年、私自身が運動部の様々な問題…それが旧来の軍隊式体質に起因する…に対処する中で、個人的にも非常に苦しい体験をしてまいりました。

 自分自身の経験も含めて、その「軍隊式」に一定の評価と信頼と評価を置いていた一方で、その弊害にも直面しつつ、新しい時代の、いや本来の「スポーツ(気晴らしという意味を語源とする)」はどうあるべきか、特に学校教育においてはどうあるべきかを、ご縁のあった専門家の方々とも意見を交わしながら真剣に考えてきました。

 野球部の関係者ともじっくり話し合い、そしてある意味コロナを機に導入できたメンタル・トレーニングが、今回実際に素晴らしく功を奏したわけで、やはり、楽しく、明るく、前向きに取り組むのが本来のスポーツのあり方であると痛感した次第です。

 もちろん、野球が純粋なスポーツではないというのも私の独自の理論であり、そういう意味では、他のスポーツや格闘技、武道にもそれが通用するかどうかはわかりませんが、実際欧米の例を見ると、やはり日本のスポーツ界全体が大きく変わらねばならない時を迎えているのは事実のようです。

 今回のオリンピックでは、まさに旧態依然たるシステムの競技と、いち早く新しいシステムに転換した競技が混在している日本チームです。それがどのような結果を生むのか、はたまた、どのような感動を与えてくれるのか、非常に楽しみであります。

Th_unknown_20210724122501 そして、夜。開会式を見ました。皆さんどのようにお感じになりましたか?

 それこそ、旧来の、いや最近のやたら金をかけたド派手な演出とは一線を画した、ある意味新しい、いや本来の簡素な開会式であったかと思います。

 どうせやるなら、もっと侘び寂びに徹しても面白かったかと思いますが。

 というか、全体に小林賢太郎色が強かったですよね(笑)。虎は死して皮を残す…ちょっと違うか。

 ちなみにドローンも決して派手でお金がかかる演出ではありません。プロジェクション・マッピングもそうですが、案外アナログな手作業なんですよね。天候に左右されますし。ブルーインパルスと同じような地味な職人芸です。

 そのアナログの最たるものが、ピクトグラムの「仮装大賞」でしたね。あれもキャラの着ぐるみ化という、日本の得意とする逆説的表現の一つです。せっかく抽象化したのに…またそれを生命化してしまうという(笑)。

 そして、皆さんも言及していたように、結局最も簡素で無駄がなかったのが、天皇陛下の開会宣言でしたね。弥栄弥栄。

 これからの競技の盛り上がりに期待いたしましょう。無観客の方が、実は選手も集中できたりしますからね。

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2021.07.20

小山田圭吾問題に思う

Th_-20210721-73238 の期に及んでまたですか。どんだけ自虐なんだ、東京オリンピック2020。

 国立、エンブレム、コロナ、女性蔑視発言、そして小山田圭吾「いじめ自慢」…。

 実はエンブレムに関しては、私も一枚かんでます。まじで。

 あの最初のエンブレムのデザイナーが決まるにあたって、ちょっとある人たちから依頼されて、少し動きました。

 しかし、どうにも気が進まないというか、実際うまくコトが運ばなかったのですね。それを先方が強引に実現してしまった。

 結果、あれですからね。そして、シンボルたるエンブレムがその後の混乱を全て象徴、予言していたと。

 ただ、それについても、いろいろ裏話や伏線というモノがあります。なかなか深いモノが。

 今回の小山田圭吾問題も、単純に「いじめ自慢」をするようなトンデモナイ奴の音楽なんて聞きたくない!というような類のコトではありませんよね。

 いわゆる「渋谷系」の闇というか、いやその根本のルーツというか、そのあたりを知らないと。

 私は彼より少し年上ですが、やはりバブル期の非モテ族の一人でして(笑)、あの浮かれた偽善的で即物的な雰囲気にどうしてもついていけない人間でした。

 結果、私も立派に「サブカル系」になりました。そして今に至る。

 音楽の「渋谷系」は一周回って「オシャレ系」に行ってしまったところが難しく、また面白く、そして今回の一件を通じて実に運命的ですよね。

 つまり、「オシャレ」「雰囲気」を否定しつつ、そっちで売れてしまったから、だから小山田さんも小沢健二さんも、プライベートの「汚い」部分を自慢せざるを得なくなってしまった。バランス取らないと死んじゃいますよ。

 で、本来のカウンター・カルチャーとしての「渋谷系」の本質である、汚物としての人間を顕示する「鬼畜系」を言葉として残してしまった。あい頃、あんなのばっかりでしたよ、正直あの界隈では。

 土偶の話ではないけれども、そうした「コト(情報)」を発掘して、それだけを現代的な視点や感覚で解釈したら、それは「ひどい!」ということで終わってしまうでしょう。結果、モノの本質から程遠いところで停滞してしまう。

 実際には、上述のような歴史的背景があるわけで、それを知らずに彼を国家的祭典に採用した側も、ひたすらバッシングする側も、等しく勉強不足だとも言えましょう。

 結局、昨日の「FAKE」の佐村河内さんに対するバッシングと同じなのかなあ。

 あっ、もちろん、この私の記事は小山田圭吾さんを擁護するものではありませんよ(…と、こんな当たり前のことまで書かないと、言葉の向こう側の本質が伝わらないのも困ったものですが、まあリスクヘッジで)。

 コトの表面だけ見るのではなく、そこを通して背後のモノの本質を見る力をつける、子どもたちにそんな教育をしないといけませんね。しかし、もう大人が全くそれを怠っている、いやそれができないので…これは大変だ。

 もうすぐ始まる異例なオリンピックの「本質」も、しっかり見極めたいですね。せっかくの特異なチャンスを私たち日本人は頂いたのですから。

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2021.07.16

養老孟司〜意識とは、学びとは

 

 YouTubeのおススメに出てきたので聴いてみました。いろいろ納得しましたね。

 先日、「土偶を読む」の竹倉史人さんとも話しましたが、いわゆるアカデミズム、教育の世界は「コト」の詰め込みばかりやっている。コトとは、私の解釈では、言語、知識、意識、(過去の)情報、随意を表します。

 それはすなわち「ゴミ」でもあります。川の下流に流れ去っていく、自分とはどんどん無関係になっていくゴミです。まさに水に流すべき排泄物。

 臨済禅師も言ってますね。「経典なんてトイレットペーパーだ」と。

 それを一生懸命脳みそという入れ物に詰め込んで、その量を競っているのが、たとえば受験戦争。何やってるんでしょうね。

 一方、養老先生の言う体験、実習というのは、一見過去のコトになってしまうように思えますが、そのコトがまとっているオーラの部分は未来に残っていく。それが私のいう「モノ」です。

 ですから、「ものにする」とか「ものになる」というのが、教育の世界ではなかなか得にくいというわけです。

 とにかく、このちっぽけな私たちのちっぽけな脳ミソの中に「真実(まこと)」があると信じることがダメなのです。「まコト」は、逆説的ですが「モノ」の向こう側にあるのです。

 なるほど、生まれたらすぐに墓に入るのが最も効率的か(笑)。ただ、そうも行かないので、縄文人のように未来に(川の上流に)なにかモノを投げて死んでいきたいですね。

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2021.07.11

『土偶を読む―130年間解かれなかった縄文神話の謎』 竹倉史人 (晶文社)

 Th_51egngo8qms_sx347_bo1204203200_れまた素晴らしい出会いでした。

 今ベストセラーになり、世間を騒がせている「土偶を読む」の筆者、竹倉史人さんとたっぷりお話する機会をいただきました。

 昨日の夜の講演も面白すぎ、また勉強になりまくりましたが、今日の朝から夕方までの交流タイムが楽しすぎました。とても、とてもその内容はここには書けません。あぶなすぎる(笑)。

 この本を読んだ時、竹倉さんにならできる話がたくさんあるなと予感したのですが、それは大正解でした。彼の人生の遍歴、そして「土偶を読む」ことになってしまったいきさつ、さらに「土偶が読めてしまった」その先にあるモノの「本質」。思ったとおりでした。

 この本で語られている内容は、まさに常識を覆す画期的なコトですが、彼自身もそこに満足することもなく、またそこに留まるつもりもないように、そのずっと未来にあるモノへの予感こそを、この本の読後に感ずるべきです。

 ですから、旧来の学会や土偶マニアからのバッシングもどこ吹く風。そんなコトは本質ではないからです。

 そう、一般の人は、物に込められた事を追究するわけじゃないですか。(僭越ながら)私や竹倉さんは、コト(作品)に込められたモノ(霊・魂)を追究するのです。だから、あまりにステージが違っていて、戦いにすらならない。先方のパンチは虚しく空を切るだけです。

 竹倉さんは、時の流れの上流を向いていて、太古の縄文人が土偶を通じて上流に投じたでっかい「夢」「妄想」が流れてくるのをキャッチしてしまったのです。そういうお役目を誰かから授かったのでしょうね。

 この本が売れて、その内容に共感したり、ワクワクしたりする人がたくさんいること、それがこういう閉塞感あふれるコロナの時代に現出したことに、私はある種の救いを感じます。うん、全ては縄文人が仕組んだとおりに動いている…いや、その縄文人こそ、大きな「モノ」…たとえば大物主神とか大物忌神とか?…に動かされたのかもしれませんね。

 近々、竹倉さんは富士北麓にいらっしゃることになるでしょう。そして、そこで出会うモノは…楽しみですね!お待ちしております!

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