カテゴリー「自然・科学」の99件の記事

2008.05.06

富士山麓の初夏を満喫(うぐいす&モリーユ)

080506 日はいい天気でしたね。雲一つない五月晴れ。ようやく富士北麓にも初夏の気配がやってきました。
 虫捕りをしたいという娘たちといっしょに近くの森を散歩。うぐいすが鳴いていたので、いつものレコーダー(iPod nano + LIC-IREC01)で生録をしてみました。
 マイクのアッテネータはLowポジション、すなわち高感度(ややこしいな)。このモードは会議なんかの記録用なんですが、かなり感度が高いですね。ウグイスの声が少し割れました。たしかにすぐに近くにいましたけどね。かなり遠くの犬の鳴き声もしっかり録れてます。下のファイルをクリックしてお聴きください(かなり音が大きいので注意)。
 うぐいすmp3
 なんだかちょっと字余りな感じのうぐいすですねえ。ホーホケキョケキョ。このレコーダー、ノイズも思ったより低く、ちょっとした生録にも使えますな。
Amigasatake 結局モンシロチョウを一匹捕獲しただけで、ウチに帰ってきたんですが、庭で遊んでいた娘たち、今度は高級食材を見つけました。そう、以前紹介したチブル星人ことモリーユですね。アミガサタケです。なかなか立派なものです。
 今年はどういうわけか春の山菜があんまり出ませんでした。いつもならちょっと困るくらい庭を占拠するフキノトウもいつもの2割くらい。フジザクラやソメイヨシノもいつ満開だったのか分からないうちに散ってしまうし、どういうわけなんでしょう。それほど異常気象という感じではないんですが。自然というのは微妙なものです。
 さて、このチブル星人、どういうふうに料理しようかな。

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2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2008.04.08

『ほんとうの環境問題』 池田清彦 養老孟司 (新潮社)

10423104 このおススメに何度も登場願っているお二人。そのお二人による夢の最強タッグが実現しました。
 結果、あまりに上等なエンターテインメントが完成。予想をはるかに超えるのがエンターテインメントです。断絶していたものどうしを結びつけるのがエンターテインです。
 何が断絶していたか。それは「人」と「自然」です。そして「私」と「『ほんとうの』真実」です。何が断絶させているのか。犯人は「カネ」です。そして「政治」です。
 私は何度も何度も繰りかえしてきました。資本主義、市場経済を続ける限り環境問題は解決しないと。真剣に地球にやさしくするんだったら、もういっそのこと清貧に甘んじろと。いや、死んでしまえと。
 私がいくら吠えたところで、そんなことは実現しっこありません。いや、このある種の天才二人がこうして吠えても、基本世の中は変わらないでしょう。カネは暴力と仲がいいのです。だから、一旦カネが本気を出せば、我々はひとたまりもないんです。
 うん、そうだ。いっそ、カネの力を借りてカネを制すか。そういう楽観的な未来展望というのもずいぶんとなされてきました。どうせ最後は自滅するよ、人類なんて。この本にも少しそういう臭いがあります。石油は全部使ってしまえとか。
 でも、それじゃあ、あんまり哀しいじゃないですか。人類というレベルではそれでいいし、そういうレベルならば人類ごとき絶滅しても、宇宙にとっては、あるいは地球にとっても、全然痛くもかゆくもないのかもしれません。でも、やっぱり、自分というレベルで考えると哀しい。
 その人々共通の哀しさ、それは倫理とはちと違うのかもしれませんけれど、そこんとこにまたつけこむ悪い企業や政治家がいるわけです。それが今、環境問題として騒がれているところの本質だと思います。なぜ、今環境問題が声高に叫ばれるのか、なぜ温暖化論が加熱しているのか。それは、それがカネになるから、すなわち政治になるからにほかありません。
 この虫好きオヤジ二人に共通しているのは、「ほんとうのこと」をいつも言ってしまうことです。それで商売している人です。それで虫採りの資金を稼いでいる。あるいは二人に共通していないのは、池田さんは私に好かれていない(たとえばこちら)けれども、養老さんは好かれている(たとえばこちら)という点です。その違いはどうして生じるのかというと、これはものの言い方によるものでしょう。ユーモアの質の違いでしょうかね。いや、虫としての質感の違いかな。ほら、虫の中でも、これは許せるけど、これは許せないっていうのあるじゃないですか。生理的に。
 というわけで、とにかく面白かったんです。私はここでついても表明しているとおり、完全なる環境問題懐疑主義者でありまして、そういう意味において、この本は私の知識や想像力をはるかに凌駕していましたから、それはそれは面白く読みました。それこそ30分もかからなかったのでは。そして、その30分間、ずっとニヤニヤしてましたよ。ウンウンうなずいてましたよ。
 内容については実際読んでいただく、あるいはAmazonのレビューを読んでいただけばいいですね。で、この本を読んで腹が立つ人ってどういう人なんでしょう。私の身近にもけっこういそうなんですけどね。なんとなく虫が好かないんでしょうか。スローガンやアクションで武装しなくちゃいられない人なんでしょうか。それともやっぱり自然よりカネ、すなわちワタクシ流に言えば「モノよりコト」の人なんでしょうか。
 繰りかえします。やっぱり私は「心より物(コトよりモノ)の時代」を標榜して行動していきたい。この本を読んで笑いながら真剣にそう思いました。

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2008.03.14

『理系白書 この国を静かに支える人たち』 毎日新聞科学環境部 (講談社文庫)

06275435 こちらは理科の先生にお借りいたしました。意外に知られていない事実ですが(当り前か)、私は理科の先生になろうとしていたんです。なのに今は国語の先生。いろいろ事情がありましてね。で、さらに遡りますと科学者や技術者になりたかった。
 自他ともに、高校入学までは完全に理系に進むものと思っていたんです。それが高校入学後に音楽に目覚めてしまいほとんど勉強をしなくなってしまった。まず最初についていけなくなったのが数学でした。そんなわけで、あっさり理系はあきらめた…かと思いきや、完全に文系になるのもなんだかそれまでの人生を否定するようでシャクなので、弱理系という道を選びました。それが理科の先生です。教育学部は全体としては文系ですけど、その中の理科ということです。
 しかし、人生はそんなに甘くない。はっきりせい!というどなたかの思し召しでしょう、見事に第一志望の大学には落ち、なんだかよくわからん大学の文学部に進むことになってしまったのです。そして、結局は強文系の国語の先生になってしまった。
 まあ、結果としてはこれがベストだったと思います。いろんな意味でね。つくづく天職だと思いますよ。生徒にもそう言われます。いいかげんでテキトー(良い加減で適当)が通用する仕事なので(笑)。
 それでも、昔取った杵柄、多少理系的な知識や考え方も持っているつもりです。また、無い物ねだりというか隣の花というか庭というか、やっぱり憧れのような未練のようなものがあるのも事実です。次生まれ変わったら美貌の女性科学者とかいいなって(笑)。猿橋賞とか獲りたいな、なんてね。
 さて、そんな感じで、私は理系世界にも大変興味を持っております。古今東西硬軟聖俗左右文理なんでもござれ!ですなあ。これじゃあ一流にはなれないよぉ(泣)。まあ、一流になんかなるつもりは最初からありませんが、妄想としては、もし小学校中学校時代の夢を叶えて、大学や企業やらの研究室にでも入っていたらどうなっていたか知りたいじゃないですか。それでこの本を読んでみたんです。結構リアルですよって、その世界もよく知る理科の先生が言うので。
 う〜ん、読んでみましたよ。ある意味面白くてすぐに読みきってしまいました。たしかに鬱屈した世界ですねえ。華やかな成功譚の裏には様々なドロドロが…。読んでる文系の私でさえ暗澹たる気持ちになってしまった。生徒に「理系」行け!とか言えなくなっちゃうよう。
 この本の基本コンセプトが「理系は報われていない」ですから、当然そういう話満載になりますし、またその原因を日本独特の文系優位社会に求めているわけで、そういう意味で立派な告発本であることもわかりますけどね、しかしここまで悲惨な話が多いと、結果として理系離れを助長するというおそれさえある。少なくとも私は文転してよかったと思っちゃいましたよ。
 もちろん、人間を文系・理系というふうに分けるのはどうかと思いますよ。そういうデジタル的二分法にはいつも違和感を持ちます。でも、仕事上、何千人もの人間を見て来た経験から言いますと、たしかに人間は大きく二つのタイプに分けられるような気もするんです。で、それらが互いに得意不得意を補い合っている。そう、男と女みたいにね。それをごっちゃにして、男女共同参画社会みたいなことを言い出すのは野暮です。お互い補い合うのが共同ですよねえ。この本にもありました。「理系・文系は男と女の関係のようだ。永遠に理解し合えない」って(笑)。いや、理解し合えない違いがあるから共同するんでしょ。つまり、違いは違いで厳然としてあるんで、それを便宜上文系・理系で分けてもいいと、現場の私は思うのです。
 で、その分け方の定義というか基準というのは実に言語化するのは難しい。非常に感覚的なものです。ある意味根本的すぎて言葉にならないのかもしれません。ただ、一つ言えるのは、理系の方が勉強するということです。高校においても理系は文系の1.5倍はやることがあります。数学一つ取ってもそうです。数ⅢCまでやらなくてはならない。場合によっては理科3科目なんてのもいる。大学に行っても、私みたいな強文系の文学部なんかヒマすぎて曜日が分からなくなる(つまり毎日が夏休み)。一方の強理系は実験やら実習やらが忙しすぎて曜日が分からなくなる(つまり毎日徹夜や泊まり込み)。
 それなのに、本書によれば、理系の生涯賃金は文系より5000万円も少ないという。まあ、どういう比較なのか疑問な点もあるんですけどね。たとえ同額でもたしかに不公平な感じはします。それだけではなく、いろいろな不公平がこの本では紹介されていますよ。そこまでかなあ…っていう気もしますが。
 で、話としては当然共同参画になっていく。男と女仲良くしましょうよ、みたいに。リベラルアーツ的にあるいは学際的な方向に行きましょうと。まあそれもよく理解できます。江戸時代なんかは文・理のバランスが良かった。そういうふうにしましょうと。
 でもですねえ、私は思うんですよ。江戸とはあまりに環境が違う。世の中の仕組みが違いすぎる。すなわち市場経済という化け物に支配されている現代においては、理系はなかなか浮かばれないと思うんですよ。アメリカは理系天国だと言っても、それは勝ち組により多くの報酬が与えられているというだけで、ある意味単なる弱肉強食だと言えなくもありません。
 理系は無常性・不随意性を持つ「モノ」の中に潜む真理(マコト)を追究し、それを「ヒト」のための価値として創造して商品化する。つまり、疑似的であれ刹那的であれ(つまり真理ではないんですが)、無常性や不随意性に対抗して、長持ちし思い通りにコントロールできる商品を開発するわけです。そこには単純な数値化される勝ち負けが存在します。一方の文系は最初から「コト」の中のフィクションを追究していますから、そのウソ臭さをクッションにして「いいかげん」に「テキトー」に市場経済のリング上で真剣勝負を避け続けます(プロレスみたいなもんだな)。ですから、まじめに勝負を挑む理系にダメージが多いのは仕方ないんですよ。
 で、困ったことは、そうした市場経済のリングを作ってきた張本人が理系の人々だったということです。産業革命を招来し資本主義を確立してきた主役は理系の人々でした。サブタイトルにあるとおり現代社会を支えてきてしまったんですね。そこのところの自己撞着をどう始末するのか。私は最終的にそういう虚しさを感じてしまいました。
 まあ、でも今はプロレス派の私も、どこか総合格闘技もいいかなと思っているように、そういうリングに命をかけて逃げも隠れもせず臨む理系の人たちに憧れを持っているのも事実でして、やっぱり来世は美貌の女性科学者になりたいな、なんて思っちゃいます。それも薄倖のね(笑)。

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2008.02.20

『偉大な、アマチュア科学者たち』 ジョン・マローン著 石原薫訳 山田五郎監修 (主婦の友社)

07238724 昨日のプロフェッショナルは「素人力」「素人魂」でした。番組としては自己撞着に陥っていた…かと言いますと、単純にはそうとも言い切れません。プロと素人が反対語とは限らないからですね。私だって教師という仕事でメシを喰っているという意味ではプロなのかもしれませんが、その仕事ぶりは今も昔も素人ですし。素人の対義語は玄人であり、玄人がプロとは限らないということでもあります。では、プロの対義語は…?
 これは一般にはアマチュアということでしょうね。プロとアマは常にペアで意識されます。この場合は、やはりそれでメシを喰っているかどうかというのがポイントになっていますね。そうしますと、私はプロの教師であり、アマの音楽家ということになるのかな。
 で、音楽なんかでもそうですし、昨日の社長さんもおっしゃってましたけど、案外アマチュアというのは楽しい。自由な発想ができる。腰が軽い。場合によってはプロが驚くこと、プロがうらやむことをできたりする。
 そう、だから私は昨日書いたように「マチュアなアマチュア」になりたいんですよ。究極のアマが一番強いし面白いんじゃないかなって。あっそうそう、「mature」と「amateur」で検索すると、たいがいエロサイトが出てきます。日本語で言えば「素人熟女」ってことかな(笑)。
 いや、そっちの話ではない。科学者の話をしなくちゃ。
 教科書に載っているあの有名な科学者が実はアマチュアだった、というのがこの本です。理科の先生にお借りしました。科学の世界でも究極のアマチュアというのがあるようで、やっぱりある意味憧れの存在だそうです。縛られないからこその大発見。偶然も味方せざるをえない純粋なひたむきさ…。
 そういうお話がたくさん載っています。具体的に何人か名前を挙げましょうか。よく知られた人。
 メンデル(遺伝)、ファラデー(電磁法則)、クラーク(通信衛星)、ジェファーソン(考古学)…へ〜、みんなアマチュアだったんだ。知らんかった。
 趣味が高じて偉大な科学者と呼ばれるようになったわけですね。たしかにちょっとかっこいいな。ある意味オタクを極めたとも言えますかな。芸術の世界にもそういう人たちいますね。生前は認められず、それでメシが喰えなかったので結果としてアマチュア、というパターンもありますが。
 この本で特に印象に残ったのはレビーです。私もいちおうアマチュア天文家だった時代がありまして(小学校から大学まで)、彗星の発見というのは一つの憧れでした。あれは自分の名前がつきますからね。そして、彗星探索みたいな地味な作業はプロはやらないので、アマチュアの天下ですし。日本人で言えば関勉さんなんかカリスマでした。私、小学校の時、尊敬する人として関さんと藤井旭さんを挙げてましたっけ。お二人ともアマチュアですね。
 なんかこの本を読んで、またまたアマチュア魂が燃えてきましたよ。本気で素人熟女…ではなく「マチュアなアマチュア」目指したいなあ…ってなんの分野のだよ!と自分てツッコミを入れちゃいました。まあ、浅く広くというのもアマチュアの特権でしょうから、このブログなんかを何十年も続ければ、何かが生まれるかもしれませんね。偉大なブロガーか?たしかにブログって究極のアマチュアリズムの集積だよなあ。ま、なんだかんだ言っても、私には純粋なひたむきさはありませんので、一生ただのアマチュアで終わるでしょう。楽しければそれでもいいか。

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2008.01.04

『医療の限界』 小松秀樹 (新潮新書)

10610218 小松さんが繰り返す「不確実性と死を受け入れられるか」という課題…これはまさに私の考える「もののあはれ」そのものではないですか!
 医学部受験の生徒のためにと読み始めたこの本でしたが、興味の対象はすっかりそっちへ行ってしまいました。そんなこと考えてこの本を読んだ人もそうそういないだろうなあ。
 いえいえ、本文中には「武士道」「無常観」「葉隠」「渋江抽斎」なんていう言葉も時々出てきます。すなわち、小松先生自身、「もののあはれ」とは言っていませんが、そういう日本古来の感慨や思索がなくなってしまったことを憂えているのです。そして、それが現在の医療崩壊を生んでいると。
 たしかに、私たち患者は、医療に完璧(確実性)を求めがちです。そして、いずれ必ず訪れる「死」、あるいは医療の不確実性に伴う死のリスクについて、思いを馳せようとしない。逃げ、そして医師や薬に依存する。期待と結果を混同する。
 小松先生は、そうした状況の原因の一つとして、「想像力の欠如」を挙げています。私も同感です。先ほど死に思い馳せないと書きましたが、これも想像力の欠如の一つです。そして、医者も自分と同じ人間であって神ではないということ、あるいはその人間が大変厳しい環境の中で仕事をしているということすら想像できない。そこにモンスター・ペイシャントが生まれます。自己愛の怪物です。
 モンスターで思い出しましたが、この本で書かれている医療の現状は、教育界にも完全に当てはまりますね。モンスター・ペアレントです。あるいはモンスター・スチューデント…いや、生徒はいつの時代もカワイイ怪物ですから、それを言っては仕事になりませんね(笑)。
 しかし実際教育界で起きているワケの分からない状況というのも、まさに想像力の欠如によるものであります。生徒、親、教師の全てに想像力が足りない。お互いに思いを馳せるのではなく、ただただ期待し結果を混同し続ける。
 この本にも書いてありましたが、これは医療や教育の市場経済化の結果でしょう。紹介されていたアメリカの医療の実態には本当に驚きました。そこにヒューマニズムなんてものはかけらもない。カネ、カネです。私、もともと新古典派嫌いだったんですけど、ますます嫌いになっちゃいましたよ。市場原理ってそんなに魅力的なんでしょうか。金持ちはもっと金もうけしたいんでしょうか。
 さてさて、私のフィールドである「もののあはれ」に話を持って行きます。繰り返しになりますが、私の考える「モノ」とは「不確実性」そのものです。「自分の意志や知覚の外にあり、不随意であるもの」「常に変化し固定できない存在」です。それに「ああ(aha!)」とため息をつくのが「もののあはれ」です。
 ため息をつくというのは、単にガッカリしているわけではありませんね。感心したり感激したりした時にも、私たちはため息をつきます。また安心した時にもふっと息をもらします。そこなんですよ。いかんともしがたい運命によって、我々は常に翻弄され、予想外ないいことや悪いことに直面して生きなければなりません。それに対して、「仕方ないな(哀れ)」でも「ありがたいな(天晴れ)」でも、とにかく受け入れる時に「あはれ」となるわけです。
 この前の百人一首についての記事に、「もの思ふ」が多いというようなことを書きました。これがすなわち「思いを馳せる」「想像力」なんです。思い通りにならないことを受け入れるために、結局は自分と闘っている姿なんですね。決して消極的な悲観的な態度ではありません。そこに「歌」や「物語」が生まれるわけですから、それだけのエネルギーを内在した行為、思索なんです。
 今、私たちは「コト」ばかりを求めます。思い通りになり、確実で、不変な「コト」があると信じて、自分を含めた世の中が「モノ」であるということを直視せず、経済や科学の道をひた走っています。
 繰り返します。世の中の全ては「もの」である(無常である)というのが、唯一の「まこと(真実)」だということを忘れてはいけません。今こそ「もの思ふ」「もののあはれ」の復権を願います。

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2007.12.28

ウラジミール・ゴンチャロフ博士

Senrigan 本日、仕事納め。やばい!年賀状印刷しなきゃ。今年の、いや来年の年賀状は(も)すごいですよ。毎年いかにくだらないパロディーをやって元旦早々人を笑わせるかということだけを考えている我が家の年賀状。今回のはあまりに馬鹿げてるので、元旦にこのブログで公開しようと思ってます。ついに私の素顔がさらされる!?
 さて、くだらなさ、脱力系、嘘八百、トンデモ、といった世界において、私が常に注目し、あるいはそこから学んでいるのは、雑誌によくある「開運グッズ」広告であります。昨日は広告業界の芸術性について書きましたけど、これもまたある意味芸術的世界であります。
 みなさんもご覧になったことありますよね、開運グッズの広告。財布とかブレスレットとかペンダントとか石とか。とにかくそれを買って身につければ、金持ちになる、人間関係が改善する、彼氏彼女ができる、ギャンブルで勝ちまくる…夢のような話が、写真入り体験談とともに紹介されてるヤツです。札束で左うちわの家族とか、あるじゃないですか。
 まあ、あれを信じて買うかどうか、それはまあ自由でして、いや実は私も一回くらいわざとだまされて買ってみたいと思ってますよ。あまりに馬鹿げていて面白いじゃないですか。この前粉砕した(?)「神世界」の「力ライセンス」とか「神書」とかもウチにありますけど(買ったんじゃありませんよ)、ああいうのとはちょっと違う気がする。悪意のようなものも感じますけど、なんとなく「バッカですよ〜」と宣言してるようなところがあって、なんかそこんとこは微妙に許せたりするんですよね。
 でも、たとえばこんな風に許されない時もある。公正取引委員会は「アート」を解さないのか!?ってか、だまされて買っちゃって、それでクレームをつける人がいるっていうことですよね。ご愁傷様なことです。
 で、なぜかそのフジアートとかなりご近所にあるイセイコーポレーションが先月出した広告が最高だったので、今日はその中のさらに最高級の部分を紹介させていただきます。
 そのグッズは何かと申しますと、「超(スーパー)千里眼」というルーペでして(ルーペというのはなかなか斬新!)、それをのぞくと、ロト、宝くじ、パチンコ、パチスロ、株、競馬…なんでも当たるらしい。なんでも旧ソ連諜報機関が極秘開発したそうで、今回その開発に携わった最高技術責任者と接触に成功し、この超千里眼を発売することになったと書かれています(笑)。
 例によって、サクラの方々が札束とおぼしき塊(モザイクがかかるようになりましたね、最近)を持って、満面の笑みを浮かべております。彼女ができた佐藤智一さんもいるぞ(笑)。もうそれぞれのコメントの文学的センスが最高なんで紹介したいところですが、今回はそれよりなにより!その最高責任者の方ですよ。
Vladimir ウラジミール・ゴンチャロフ博士(Владимир Гончаров/Vladimir Goncharov)!!最強です。写真を観てくださいよ〜。この方が諜報部超能力研究チームの最高責任者じゃあ、旧ソ連も崩壊するわ(笑)。
 これってギャグですよねえ。この髪形ありえませんよ。そして、なんと言っても、その顕微鏡を覗く覗き方ですよ。いくら超能力、超千里眼でも、覗く方の目をつぶってちゃねえ(笑)。すごすぎます。ご本人からしてすでに崩壊してます。いいなあ、この味。
 「神世界」の皆さんにもぜひ見習ってもらいたい。いや、「神書」なんて読むと、けっこうゴンチャロフ級のギャグが書いてありますけど、なんていうかなあ、博士のような品格が感じられないというか(笑)、知性が感じられないというか(笑)、とにかくダメです。このあたりの微妙な差異ってなんなんでしょうね。理論では説明できないような気がします。
 というわけで、私の2007年の「この人」はウラジミール・ゴンチャロフ博士に決定です。いくら開運グッズ広告でも、これからこれを超えるのは難しいでしょう。おめでとう!博士!

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2007.12.14

ふたご座流星群(2007)〜枕草子「星は」

写真はいただきものです↓
Gem2004s 今年もまたやってきましたふたご座流星群。3年前にも書いた通り、私の最も好きな天文現象です。今年は月明もなく好条件。ここ数年出現数も増加傾向でしたので期待できました。
 本来なら庭で寝袋にでも入って観測すべきなんでしょうね。というか、庭で6等星まで見えるというのは、本当に幸せなことですね。普通なら山にでも出かけるところです。それがですねえ、ここ自体が山、それも富士山ですから、家にいながらにして天体観測ができる。
 で、今日はちょっと雲も出ていましたし、子どもたちも見たいというので、なんと家の中からぬくぬくと観測いたしました。寝室の窓からはけっこういい条件で西天を望むことができるんです。東の空は東京の光にやられてますし、人間の目の視野なんて実は大したことないので、窓2枚分くらいでちょうどいいんですよ。それに、まだ11時すぎですから、ふたご座は東の空です。ちょっと離れた西天には、長いのが流れますので見栄えもいいと。
 子どもたちはすぐに眠くなってしまったようですが、それでも20分くらいの間に6個ほど「見えた!」って言ってました。私もふとんに寝ながら観ていたので、結局40分ほどで眠りに落ちてしまった…と思います。でも、これもまた贅沢な話ですよね。ふとんの中で流星を見ながら夢路を辿る…。
 ふたご群の流星は痕が残ったりはしませんが、比較的明るいものが多いので、目に残像が残り、それが美しい尾や痕のように見えるんですよね。それはまさに夢の中の宝石のような輝きです。あるいは天の涙でしょうか。dropという感じなんですよね。
 ところで、ある意味ロマンチック、ある意味リアルな話になってしまいますけど、日本では古来、流星のことを「よばひ星」と呼んできましたね。枕草子に「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ(宵の明星=金星のこと)。よばひぼしすこしをかし。尾だになからましかば、まいて」とあるのは有名ですね。「流れ星はちょっと萌え」って言ってるんですね。いつも言うとおりをかし=萌えです。で、そのあと「尾さえなければもっといいのにね〜」と。流れ星は尾が「萌え」だと思うんですけど。なんで清少納言はこう言ったのでしょう。
 当時、流星の尾は不吉なものであったとも言われています。中国の影響のようです。なんでも「天の狗」だとされたそうで、つまり「天狗」の原形ですね。そんなわけで日本でも嫌われたようです。今でも流星の尾を見たら、ねずみなきをしておまじないをする所があるとか。
 あと、こういう解釈もできますね。あくまでも「夜這い」ネタとして考えるんです。夜這いってナイショでするものじゃないですか。だから、「尾」とか「痕」とか残るのは困る。バレちゃいますからね。たしかに「尾」がなければいい。「ましかば」というのは受験勉強的に言うと「反実仮想」っていうやつですね。事実に反することを妄想するんですよ。ってことは、清少納言のところに誰かか夜這いに来たのが実際バレたんでしょうね。まあ、当時の宮中なんてそんなネタくらいしかありませんでしたから。
 「よばふ」とは、「呼ぶ」に反復を表す「ふ」がついた、あるいは「呼び合ふ」の短縮形の「呼ばふ」でしょう。辞書をひくと「求婚する・言い寄る」とあります。そして「夜這ひ」という字が当てられた。ものすごくリアルな当て字ですね。

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2007.12.08

明けの明星…全ては相対的な「モノ」であるという「コト」

07120801 今年もやってまいりました歴史的特異日。私にとっては今日が1年の中で最も意味の大きな日であります。自分の誕生日や元旦などよりも、いろいろな意味で気持ちが高ぶります。そして、いろいろな決意をする日でもあります。
 昨年は力道山、一昨年はジョン・レノンについて書きました。今年はお釈迦さまです。そう、今日は成道会(臘八会)、お釈迦様がお悟りを開かれた日です。お釈迦様のお悟りについては、日本にはこのように伝わっております。

 「苦行に疲れたシッダールタはスジャータの乳粥供養を受けられ、明けの明星が朝焼けの東空に消えるガヤーの清澄な早朝、一樹下に坐したシッダールタは未曾有の覚りを得られ、仏陀となられました」

 早起きの方はご存知かもしれませんが、今年はちょうど金星が明けの明星として東天に輝いております。ものすごくきれいです。私は早起きなので毎日その宝石のような輝きを拝んでいます。
 今日は特に美しかった。私もコーヒーにスジャータを入れて飲み(笑)、そして庭に出て菩提樹…ではなく落葉松の下で少し坐禅をしてみました。半眼の私の視線の先には金星が鮮やかに輝いています。
 さて、私は悟りを得ることができたでしょうか。
 実は、ここのところ「物語論」を続けてきたのにはこういう意味があったのです。そう、私はもちろん悟りを得て仏陀になることなんかできませんが、私のレベルで私なりの仏教観というのがありまして、それをこの12月8日に確認したいなと思っていたのです。
 つまり、「人は物語なしには生きられない」ということです。自らに必ず欠落感を抱いており、誰かに何かにそれを埋めてもらわなければならない存在。あるいは前向きに考えるなら、常に他に対して開いており、他を受け入れ続ける存在であるということ。そして、そうしてたくさんの「もの」を注ぎ込んでも永遠に絶対的な自分は完成しないということ。
 これは、正統的な表現をとれば、「無我」「色即是空」「因縁」「不二」「縁起」「無常」などとなるのでしょうね。
 私は私の言葉で考えてみたかったのです。自分の得意な分野、得意な言葉、(あるいは特異な実感)で、今日考えてみたかった。
 では、黎明の中の金星は何かを教えてくれたのでしょうか。結論から言いますと、何も語ってくれませんでした。でも、大切なことを気づかせてくれたような気がします。
 坐っているうちに、確実に太陽は地平線に近づき、だんだんと明るくなり、周囲の風景が見えるようになってゆく、その中で金星の光は次第に弱くなっていくように感じられました。本当は金星の明るさは変っていません。絶対的な光度は一定です。しかし、相対的には弱くなっていくように感じる。
07120802 ふと目を落としますと、そこに本当に細い細い月があるではないですか。それがちょうど落葉松の木に刺さっているように見えました。刃物のような月は見る見るうちにどんどん木の幹に食い込んでいきます。月が動いているのです。
 そのうちに朝焼けはさらに鮮やかな赤に変わってゆき、そして太陽が顔を出しました。もう金星も月も私の目には見えません。その時、私は気づきました。悟りなんていうものではありませんが、当たり前のことを確認したのです。
 それは全てが「相対的」であるということです。金星の明るさも、月や太陽の動きも、そして自分の存在も。私が見た金星も月も太陽も、「私」の感覚を中心にしたものにすぎません。本当はそれらが動いているのではなく地球が動いているのです(もちろん金星も月も太陽も宇宙空間の中を移動していますが)。私はその地球に乗っかっているだけ。もうこれだけでも、自分なんていうもの存在は、ちっとも確かではなくなってしまいます。
 お釈迦様は、たぶん意識が自分から離れて、地球からも離れて、さらに宇宙からも離れて、一番遠いところ(実は一番近いのかもしれませんが)から、自分を、そして世の中を見たのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。
 「モノ」というのはそのように「相対的」な存在の象徴です。逆に絶対的な存在が「コト」なのではないでしょうか。ですから、世の中の「コト」は過去の事実である「情報」しかないわけです。情報自体は不変です。あとは「ミコト」つまり神様ですね。そして「真理」。つまり、現在と未来の私たちは全て相対的、無常なる存在、すなわち「モノ」なのです…ということだけは絶対的な「コト」ですね。それがお釈迦様の得た真理なのではないでしょうか。
 「物語」とは「もの」を固定しようとする(コト化しようとする)行為です。しかし、実際には永遠に固定されることなく、逆に多くの人々を通じて無限級数的に相対的になっていく存在です。それはまさに生命の継続性と多様性を象徴していますね。
 …と、いろいろ語ってしまいましたが、正直よくわからないところもたくさんあります。でも、今朝のあの時間と空間の中で私が感じた「もの」は私に力を与えてくれたのはたしかです。その美しさだけは絶対的なような気もしました。そういうところに、神や心理や悟りが宿っているかな…なんて思いながら、すっかり明るくなった日常に戻っていく私でありました。おしまい。

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2007.11.28

『爆笑問題のニッポンの教養 「この世はすべて錯覚だ~知覚心理学 北岡明佳」』(NHK)

Sakushi 何を信じればいいかシリーズ。昨日録画した「爆笑問題のニッポンの教養」を観ました。今回のテーマは「錯視」です。立命館大学で知覚心理学を研究する北岡明佳教授が登場しました。
 北岡さんの錯視のホームページをよく見ていましたので楽しみにしていました。まず面白かったのは、北岡センセイのキャラが想像と全く違ったということ。私の勝手なイメージはそれこそ錯視であったのか。爆笑問題も何度もツッコミを入れてたりいじったりしてましたけど、なかなか動じませんでしたね。なんだか番組を見ているうちに北岡センセイが作り物に見えてきたのは私だけでしょうか(笑)。
 さて、北岡センセイも良かったけれど、今回もまた太田の天才ぶりに脱帽させられましたね。後半はほとんど彼の独演会でした。
 北岡センセイの「ある意味私たちが見ている世界は全て錯視で成り立っている」というような話を聞いて、太田は「自分の見ている世界は実は自分自身、私たちは自分自身という束縛から抜け出せない、そこにオナニー的な虚しさを感じる」というような哲学を語り出します。途中谷崎の春琴抄が出てきたり、山月記を思わせる自分の中の「猛獣」が登場したりと、明らかに北岡センセイの上空をぶっ飛んでいきます。
 北岡センセイはなんでも論理的に分析しようとするんですが(真面目なんで)、どうにも理解できていない状況です。なんとか説明にこぎつきますが、太田はさらにその先に進んで行ってしまいます。その時の北岡センセイの表情がなんとも可愛かった(笑)。この人はいい人だ。わからないことはわからないと言える人だ。
↓click!
Rotsnake まさに錯視のメカニズムが解明されないのと同じなんでしょうね。そこに厳然と「ある」太田の思考ですが、それが理解や日常や常識を超えている。しかし、何かそこに真実があるのではという予感だけは確か。それを処理し切れない北岡センセイの表情こそがこの世の善的真実だと思いました。
 私も思いましたけど、これは視覚だけの問題ではありませんね。我々は全てをイメージ化して捉えていますので、私たちの認知しているこの世界は全てニセモノであり、また、どれ一つとして他者と同じイメージを共有していないわけですね。しかし、それをそう考えてしまうと、我々は誰とも共感し合えなくなってしまいます。ですから、それを乗り越えてしまう「錯視」や「錯覚」や「幻想」や「妄想」という機能も持っているのが私たち人間です。
 そう考えてみますと、昨日、一昨日の話もまた違った捉え方ができるかもしれません。つまり、そうした人間の持っている機能、錯視の機能とイメージの共有機能を利用して、金もうけをしようとする人が今も昔たくさんいるということです。金だけじゃないな、権力とかもね。たまにバレるとそれが偽装とか捏造とか詐欺とか違反とかになる。つまり、我々は常に錯視の最先端で生きているわけです。ちょっと先に進めば谷底に落ちてしまうような、そういう共同幻想の崖っぷちを日夜さまよっているんですね。
 そういう崖っぷちの意識を忘れているとバカな目に遭い、あまり意識しすぎると鬱になったりする。どちらにしろ落ち込んじゃうわけですな。そのへんのかじ取り加減こそが処世術であり、唯一の幸福への現実的方策なのかもしれません。あとはそういう面倒くさいことを楽しめるかどうかですね。それを楽しめないと、それこそ八方塞がり、自分の居場所はなくなってしまいます。面白いですね。そんなことを考えていると、私には金も宗教も科学も、別にそれほど重要ではなくなってくるのでした。

「爆笑問題のニッポンの教養」公式

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2007.11.14

パース市内観光…アボリジニ文化に触れる

071114 本日のメイン・イベントはパース市内での自由行動でした。生徒たちはそれぞれ得意の(苦手の?)英語を駆使しつつ、買い物や食事をしていました。
 私は適当にブラブラしながら、ちょっぴり彼らをアシストしたり監視したりという役割。途中、少し息抜きに駅の北側に回ってみました。お店の並ぶ南側と違って、文化施設などが点在するこちら側はとっても静かです。
 美術館と博物館、そして図書館に潜入、アボリジニの歴史や文化、アートにじっくり触れました。私は彼らの文化にはかなり興味を持っています。特に日本の縄文との関係ですね。彼らの素性は明らかになっていませんが、よく言われているように南インドやポリネシアからやってきたとすると、日本の縄文人との関係も否定できなくなります。
 特に私が興味を持っているのは、彼らのシンメトリックな感覚です。そう、縄文土器のデザインとオーストラリアン・アボリジニの絵画における対称性の類似です。あんまり言われていないようですが、私にはどうも両者の対称性と、対称性の微妙な崩し方が似ているように思えるんですよ。ちゃんと勉強すれば何かわかるのかもしれませんね(たぶんちゃんと勉強しないと思いますけど)。ま、もともと我々人間は、自分自身がシンメトリックなデザインを施されていますから、そういうものに自然と敏感になるというのもわかります。でもなあ、あの微妙な崩し方はなあ、独特だよなあ。それが意図的なものなのか、それとも無意識の産物なのか、あるいは未熟さの故なのか…。
 さてさて、アボリジニのことを考えるとき、どうしても忘れてはならないのは、彼らに対する白人による迫害の歴史です。日本の縄文人も多少は弥生人に駆逐された面もありますけれど、悲惨な虐殺や支配はなかったようです。比較的緩やかに穏やかに融合していった(もちろん細かくはいろいろありましたし、弥生人による実質的占領だと言う人もいますが)。オーストラリアでは、最近になってようやくアボリジニの人権を認めようという動きが活発化したようですね。それでもまだまだいろいろと問題があるようです。
 ホテルでテレビを観ていますと、どうも近いうちに選挙があるようで、労働党と自由党がさかんにCM合戦を展開しておりました。彼らの政策の中にはアボリジニに対するものもあるんでしょうか。
 夜中にはアボリジニたちにとっても非常に神聖な存在であったらしい南十字星を見ました。ホテルのベランダからもしっかり見ることができましたよ。
 いつもながらひっくり返ったオリオン座にはなんとも不思議な感じがいたしますなあ。そして、日本よりもいっそう明るく感じられるシリウス、そしてカノープス、さらに南十字やらケンタウルスの一等星が、実にゴージャスに輝いていました。派手だなあ。パースの中心街でこれですから、砂漠で観る星空はどんなもんでしょう。次に行くときはぜひともスターウォッチングも計画したいですねえ。

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2007.11.08

モミジとカエデ

Kaede 秋山尓黄反木葉乃移去者更哉秋乎欲見世武
 いきなりですが、万葉集の歌です。「秋山に もみつ木の葉の うつりなば さらにや秋を 見まく欲りせむ」…「秋の山に黄色く色づいた葉が散ってしまったら、もっと秋を見たくなるでしょうね」といった感じでしょうか。山部王という人の歌ですが、まあ別段優れた作品というわけではありませんね。
 注目すべきは、万葉集において「もみつ」すなわち現代の「もみじ」の語源になった動詞には「黄」の文字が当てられることが多いということです。「紅」ではないんですね。当時は赤い葉よりも黄色い葉の方が人気があったのでしょうか。
 写真はウチの裏のカエデの木です。いや、正確に言うと「ウチの裏」ではなくて「裏のウチ」ですね。とっても立派なカエデの木でして、毎年まばゆいばかりの黄に色づきます。
 山部王ではありませんが、たしかにこうして葉が木の根元に落ち始めて、次第に枝の葉が少なくなってきますとね、ああ秋も終わりかと思います。本当に春の桜が散るのと同じ「もののあはれ」だなあ。私もしっかり日本人してるなあ。自分のDNAをこんなところで意識したりして。
 今年は、いや今年もまた、その色づきが今一つでした。温暖化の影響でしょうね。たしかにこの近辺の紅葉が冴えなくなってきました。紅葉も黄葉もみんな茶葉になって散っちゃうんですよね。この近辺は別荘地で、みんな大枚はたいて高級な紅葉木を庭に植えるので、ちょっと人工的とはいえ、かなり美しい秋の景色を堪能できるのですが、ども最近イマイチなんですよねえ。ここに住む楽しみの一つなんですけど。
 だいたい、11月に入っても霜が降りないなんて信じられません。20年くらい前、世の中が寒冷化だとか騒いでいた頃は、ホント山梨の紅葉はきれいでした。当時の写真なんか見ますと、今とはまさに雲泥の差であります。赤も黄も実に鮮やか。
 黄色はカロチノイドでしたっけ。赤は、えっとヘモグロビン…じゃなくて、アントシアンか。なんか忘れてしまいましたけど、そういった物質がうまく生成されないんでしょう。つまり、うまく「もみつ」ことができない。古文で言えば「もみたれず」ということです。ちなみに、奈良時代は「もみつ(タ行四段活用)」、平安以降は「もみづ(ダ行上二段活用)」です。つまり、平安以降で言えば「もみぢれず」ということですか。
 ついでに、もう皆さん御存知と思いますが、「もみじ」と「かえで」の違い分かりますか?私はなんとなく小さい葉っぱのが「もみじ」で大きいのは「かえで」だと思ってました。あるいは赤が「もみじ」で黄色が「かえで」なんていうイメージもあります。でも、本来は「かへで」は「蛙手」で、「もみぢ」はさっき書いたように「紅葉(黄葉)する」という意味ですから、全然違うわけです。まあ、世の中では「かえでともみじは同じもの」と説明されたり、葉の先が五つに割れているのが「もみじ」、三つが「かえで」とか、いろいろあるようですし、日本の学名は「○○カエデ」「○○モミジ」となっていても、それらはほとんどが「カエデ属」に属していたり、英語では全部メープルだったり、ああ面倒くさい(笑)、とにかく自分のイメージでいいということでしょうし、そんなことで悩むのはヒトという動物だけでしょうから、どうでもいいかもしれませんね。

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2007.11.04

四尾連湖 (第3回 レミオロメン聖地巡礼の旅より)

Po04 と行われた「レミオロメン聖地巡礼の旅」の続編が、昨日本日と二日間にわたって行われました。が、私は昨日は自分のコンサート、また下の娘が水ぼうそうということもあって、最後の最後だけ参加させていただきました。他のメンバーの皆さんは今まで以上に濃い旅を満喫されたようで、めでたしめでたし。皆さん本気で御坂に移住して来そうな勢いです(笑)。でも、こうして山梨の良さを分かっていただけるというのは、純粋にうれしいですね。
 さて、皆さん、すっかり御坂に詳しくなってしまっていますので、本日私はちょっとマニアックなところへ彼女らをご案内いたしました。
Pp02 四尾連湖です。四尾連湖(しびれこ)、この湖は本当にいいですよ〜。森の中の周囲1キロ強の小さな湖。あとで詳しく書きますが、この山の中の神秘の湖、本当に謎の湖です。名前も妙ですが、その存在自体非常に妙です。神秘麗湖という当て字を使うのもむべなるかな、穴場中の穴場ですね。私も独身時代はよく通ってました。ボートを持参して、一日中ブカブカ昼寝するんですよ。もう最高ですね。春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色…。
 さて、この四尾連湖ですが、レミオロメンとどういう関係があるかと申しますと、あの「粉雪」の一つ前のシングルである「蒼の世界」のPVが撮影されたところなんです。藤巻くんが最後にプハ〜ッって出てくるヤツですね。あそこです。えっと、YouTubeで観たい方はこちらをclick(ちょっと微妙なPVですが…笑)。
Po03 たしかに四尾連湖は「青」「蒼」「碧」という感じ(漢字)がピッタリですね。今日は紅葉も美しく、そこにさらに「赤」や「紅」や「朱」や「黄」や様々な色が混ざり合い、それはそれは幻想的な雰囲気でした。
 さて、市川三郷町の天子山塊蛾が岳(ひるがたけ)の懐、標高850メートル付近にある四尾連湖ですが、自然科学的にも非常に不思議な存在です。まず、この深山の頂上になぜ独立湖があるのか。頂上はすり鉢状になっているんですが、火口湖ではないようです。頂上ですので、当然川や沢が流れ込んでいるのではない。すなわち水が湧いているわけです。しかし、その水量はほとんど変化がなく、一年中ほぼ一定。湖としては小さい方ですが、池としてはかなり大きい感じでして、どうしてここにこれだけの水が湧くのか不思議でなりません。ちなみに数十キロ離れた富士五湖と湧水の標高が近いというのが気になりますね。富士五湖も地下水脈でつながりあっているのですが、まさかこことも…。
Po05 さらに詳しくは書きませんが、人文科学的にも興味はつきません。牛頭に関わる雨乞い伝説、龍王伝説、富士山信仰、子安神社、富士八湖、富士講…おいしい話が目白押しです。そのへんはいつかまた詳しく調べます。
 いずれにせよ、ちょっとしたお店やキャンプ場なんかはありますが、本当に自然が自然のまま残っていて大変に静かで美しい。皆さんも、興奮する材料満載だった旅の終わりに、ふっと息抜き、クールダウンしたようで…と思ったら大間違い。湖畔を一周しながら、「蒼の世界」の大(小)合唱が始まってしまいました。というか、私がけしかけちゃったんですが(笑)。湖は周囲を尾根に囲まれているので、逆ドーム状になっており、外の音は遮断され、中の音は本当に面白いほどに反響します。あとで考えるとちょっと恥ずかしい。お店の人や他の観光客の方、すみませんでした。
Po06 ちなみに、伴奏はワタクシめが…。そうです、なんとなんと、あのマトリョミンを持参していったんですよ。もちろんネタとしてですけど。で、湖畔の白樺の切り株に腰かけて皆さんと一緒に「蒼の世界」をウィ〜ンとね。この曲は音が飛ぶのでなかなか難しい。皆さん笑ってくれましたのでまあ良しとしましょう。ってか、四尾連湖でマトリョミン演奏した人もいないだろう。当たり前か(笑)。世界初ですな。それにしても怪しいですねえ。ああ、そうそう四尾連湖って「シビレンコ」って読むと突然ロシア風になりますよね。シビレンコでマトリョーシカのテルミン…なんとなく違う伝説が生まれそうな雰囲気ですね(笑)。
 今度は冬に出かけてみようと思います。

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2007.10.24

『時間はどこで生まれるのか』 橋元淳一郎 (集英社新書)

08720373 難しいし面白かったので、とりあえず2回読んでみました。
 最近の私のテーマは「時間」でして…と言っても私は物理学者でも哲学者でもないので、本当に稚拙な考えであって、それはほとんど子どもの「時間って何?」という程度のものであります。いずれはまとまるかもしれませんが、やたらなこと書くと、橋元さんみたいに怒られちゃうんでやめときます。
 そう、Amazonのレビューをご覧になるとわかると思いますが、この本、賛否両論、甲論乙駁なのです。我々庶民には難しいけど面白いなあって思うんですが、でも、偉い人は呆れるか腹を立てるみたい。どうなってるんだ?時間ってそういう性質のものなんでしょうか。頭がいい人にはわかるけれど、我々にはわからない。そんなものがこの世に一様に流れていて、しかし、偉い人もそうでない人もそれに抗うことができず、老いて死んでいくんでしょうか。
 昨日のSFの話になりますが、彼らがサイエンスを基礎にしながら、それがフィクションでありえたのは、まさに「時間」を自由に操っていたからでした。彼らの偉いところは、この本を非難したりする偉い人とは違って、最初から開き直って「時間」を操作してしまえと考えたところです。つまり、逆に言えば、時間というものの本質が分かろうが分かるまいが、とにかく人間が人間であるかぎり(生きているかぎり)「時間」には抗えないということを諦観していたのです。だから、私たちが語ることはフィクションですよと言った。ある意味、彼らは日本文学の主流だったんですね。「もののあはれ」…「全てのモノ(存在)は無常であるということにため息をつく」を逆説的に語ったんですから。
 私も、相対論や量子論によって時間論が大きく変わったというのは、頭では理解できます。しかし、それがファクトであるかどうか、それについての実感は全く持つことができません。SFと同じ領域なんです。だから、この本を読んでもなんとなくワクワクはするけれど、なるほど〜!とはならない。で、それってホントなの?全然実感と違うんだけど…となる。
 まあ、もともと相対論も量子論も我々の実感からほど遠くなっていて、いやもう科学というのはどんどんフィクション(すなわち私の言うコト)の方に行ってしまって(そうそう、この前のポアンカレ予想なんかもそうですね)、全く実学からかけ離れてしまった。実(ファクト)ではないということは、フィクションそのものですね。私からするとそれらの面白さや価値というのは、文学や宗教のそれと何ら変わらないような気がするんです。科学者の方、バリバリの理系の方には申し訳ないのですが、それらはどんどん文系化してるようにしか思えません(笑)。
 まあ、そんな私の実感(生活感)は別としまして、この本の内容にもちょっと触れときましょうか。
 たしかに橋元さん、先人の成果をかいつまんで並べて、そして最後は「意思」を登場させるという具合であり、なんだか物理なのか哲学なのか、思いつきなのか、妄想なのか、それこそ文学なのか、全然わからないことになるんですが、そういう正直ワケわからん最先端の「トンデモ科学(失礼)」を、多少私たちの実感の方に引き寄せてくれたという、まさに「ワケわからんモノをカタル」という「物語」としては、なかなか優秀であったと思います。
 そんな神話のような物語に対して、感動する人もいれば、そんなことあるわけないって言う人もいるし、またそれはもうすでに誰かが語ったことだと言う人もいる。また、科学的に検証すると間違っている!と言い出す人もいるわけです。
 いや、時間の本質がそういう性質のものなんでしょう。いろいろな次元での「時間」があって、しかし、いずれにしても我々はそれをコントロールできない。相対的であろうと、時間の流れがなかろうと、フィクションだろうと、とにかく生きていることにおいては人間はそれに縛られているということです。
 で、私が考えている時間論(なんてほどのものではありませんが)は、時間というものは実は人間にだけ存在するものであって、すなわち人間を人間たらしめているものである、なんて感じなんですが、ま、あんまりまじめに考えてないのでまとまらないで終わるでしょう。
 こうしているうちにも時間は流れてゆき、そして私は人間であるわけですな。

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楽天ブックス 時間はどこで生まれるのか

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2007.10.23

『21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜』(NHK ETV特集)

Sf50 「センス・オブ・ワンダー」…今の私を育ててくれたのはSFだったのかもしれません。
 おととい放送されたこの番組の録画を観ました。なんかものすごく感激してしまいました。今まであまり意識してこなかったことに、少し情けないような申し訳ないような気さえしてしまった。もっとSFに感謝すべきだったのかもしれません。
 60年代70年代、高度成長の中で未来に希望を持ち、あるいは科学に懐疑的になりながら、そして純文学界からの蔑視に堪えながら、素晴らしい作品とジャンルを作り上げていったSF作家の皆さん。彼らのエピソードやインタビューを中心に、さらにお宝映像、音声などもまじえながらのこの番組。出てくる人たちや作品たちの懐かしいこと、そして濃いこと。星新一、小松左京、筒井康隆、手塚治虫、半村良、眉村卓、豊田有恒、光瀬龍、福島正実…。
 SF(Science Fiction)というジャンルが生まれて50年。今や世界に誇るジャパニーズ・カルチャー(オタク文化とも言える)はほとんど全てここに端を発しているのでした。なんか説明されると当たり前なんだけど、どういうわけか自分の意識はそこんとこにあんまり意識的じゃなかった。バカだなあ。
 それにしても面白かったのは「SF作家クラブ」のものすごいパワーですね。たしかにあの時代、いろんな分野でああいう若者の集団があって、新しいことに挑戦し、世の中に挑戦し、大いに語り、大いに働き、大いに遊び、大いに呑んでましたね。世の中全体がそういう雰囲気でした。
 私はまさにそういう時代に育てられた少年だったわけでして、小学校の図書室で彼らの本を片っ端から読みましたし、特撮ものやアニメのお世話になったのはもちろん、NHKの「少年ドラマシリーズ」なんかにも大きな影響を受けました。影響を受けたというのは、そう、日常生活が完全にそれらに侵されていたということです。日常の風景をそういうSFの舞台と見紛うていたし、自分は実は地球人ではないとか、そういう妄想を抱いて生きていましたからね(ヤバイ)。
 なんかそういう自分のベースメントの部分というか、血や肉というか、いや骨かな、いや脳の中枢部分だな、とにかく自分の中心にそういうものがあったということに、今回遅まきながら気づかされましたね。あまりに自然に自分に染みついているんで(洗脳されてるってことか)、意識し忘れてたんでしょうね。それほど自分そのものだということです。
Sf50s その後、私はいちおう大人になっていったわけですが、その途中を思い出してみますと、SFから理系分野に興味を持ち、特に天文学ですね、将来はそっちに進もうとしました。しかし数学的センスのなさがアダとなり、研究者への道は諦めまして、じゃあセンス・オブ・ワンダーの面白さを伝えようと理科の先生を目指すことにしました。しかしとんでもない理由で受験に失敗し、なぜか国語の先生になるという、全くワケわからん過程を経て今に至るわけです。
 また一方では、いわゆるオタク文化の方には行かず、違う意味での(文系的かな?)センス・オブ・ワンダー世界である「宗教」「芸術」に興味を持つようになりました。そして今、外側からオタク文化を観察し研究する立場に至っています。
 ま、自分の復習はいいとして、とにかく私みたいな私の世代って多いんじゃないでしょうか。特に男。実はSFの血が流れている。SF的世界を生きている。あの頃のSF的未来、SF的21世紀の幻想の中に生きている。逆に言えば現実に対峙できないってことですが。
 彼らSF作家たちは実は予言者だったのかもしれません。だって、あの頃の作品に描かれた未来や21世紀の通りになってるじゃないですか。もちろんそこに描かれていたのは明るい未来ばかりではありませんでしたよね。結局あそこに登場していた宇宙人や異次元人、狂った人間たちは、今の私たちなのかもしれませんね。
 ところで、この番組をチラチラ見つつポケモンカードに熱中している娘たち、彼女たちにとっての未来ってどんな感じなんでしょうね。いや、現在も、あの幻想的高度経済成長の現在とは全く違うものでしょう。私は早く大人になりたいと思っていましたが、娘たちは子どものままがいいってよく言います。ま、男と女という違いもあるでしょうが。
 いずれにせよ、大人がまず現在や未来に期待してないといけませんね。つまり「センス・オブ・ワンダー」の心を忘れないってことです。