カテゴリー「自然・科学」の884件の記事

2021.06.17

白頭山に噴火の兆候?

Th_unknown_20210618140501 朝鮮と中国国境の聖地、白頭山は巨大火山です。その白頭山に噴火の兆候が見られるとのニュースが。

 最後の噴火がいつかは、正直はっきりしていないのですが、活発な活火山ですから、まあいつ噴火してもおかしくはありません。

 白頭山の噴火と言えば、946年の大噴火ですね。西暦以降の世界最大規模の噴火と言われ、日本にも火山灰が到達しました。

 そのあたりの約100年間、極東は非常に活発な地殻変動に見舞われました。

 以前も書きましたが、日本ではこんな感じです。

 864年貞観の富士山噴火→869年貞観の三陸沖地震(津波)→887年仁和の東海・東南海・南海連動型地震→888年八ヶ岳水蒸気爆発?&山体崩壊→915年十和田大噴火(日本史上最大規模)

 日本史上最大規模の十和田火山噴火の30年後、今度は日本海をはさんで西の白頭山が世界史上最大規模の大噴火を起こしたわけです。また、その前、893年、917年にも噴火したという記録が残っていますから、本当にすさまじい100年間ですね。

 915年の十和田噴火と917年の白頭山噴火も間違いなく呼応関係があるでしょう。そして、写真で分かるとおり、両火山ともに、巨大な美しいカルデラ湖を形成しました。

 奇しくも2011年の東日本大震災が発生して10年。まだ10年ですよ。地球の時計から言えば10年なんてほとんど同時。100年でさえもちょっとあとという感じです。

 ですから、これから数十年の間に、白頭山や富士山が噴火したり、南海トラフ巨大地震が起きる可能性は十分あるということです。

 人間にとっての「忘れた頃」なんて、それこそ地球のまばたき程度の時間なのです。そのことを忘れないことが大切でしょう。

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2021.05.14

「ありがとう寺」にて

 日から今日にかけて、御殿場の「ありがとう寺」にて、町田宗鳳先生とじっくり楽しくお話させていただきました。

 こちらに書いた「お酒など酌み交わしながらマニアック談義に花を咲かそう」という約束が叶えられました。

 僧侶にしてハーバード大学卒業、多くの大学で教鞭をとり、日本中、世界中の聖地をめぐっている町田先生もかなりビックリの情報をたくさん提供させていただきました。

 おかげさまで、町田先生も、仲小路彰などいろいろと興味を持ってくださり、これからの展開が楽しみであります(比叡山での修行をすすめられましたが、それだけはちょっと…笑)。

 私として特に格別な体験となりましたのは、あの富士山を仰ぐガラス張りの禅堂にて、龍神様の前で絹絃のヴァイオリンの即興演奏をさせていただいたことです。

 絹絃の倍音豊かな音が聖堂に響き、まさに宇宙とつながる感覚を味わうことができました。これぞ音楽の本来の在り方であると感じた次第です。

 実は、町田先生も「倍音」について深い知識と認識をお持ちでいらして、それを実際の瞑想などにお使いになっているとのこと。全く不思議なご縁であります。

 また、出口王仁三郎についての知見も並みではありませんでした。持参した我が家の耀わんでお酒をお飲みになって、大変感動なさっておられました。

Th_img_9247 写真は、今朝のお勤めの護摩法要のあとの祭壇と富士山です。弘法大師と出口王仁三郎が並んでいる姿は、何かこれまでとこれからの世界の高次元精神世界を象徴するような時空間でありました。

 まさに「ありがとう」の一言の二日間。また来週、町田先生にお会いする予定です。間を取り持ってくださった先生にも「ありがとう」!

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2021.05.10

『西洋音楽の正体〜調と和声の不思議を探る』 伊藤友計 (講談社選書メチエ)

Th_51gxx21klbl_sx338_bo1204203200_ 近の私はまさに「西洋音楽の正体」に迫ろうとしております。もちろん私はシロウト音楽家ですから、伊藤先生のようなアプローチとはちょっと違います。

 さらに言うなら、シロウトならではの無責任さをもって、「西洋音楽こそが世界をダメにしている元凶である」という仮説に基づいての活動を進行させているのでした。

 しかし、ご存知のとおり、私自身はモロに西洋音楽を愛好し、また演奏している者であります。そう、学校の先生でありながら「学校をぶっ壊す!」とか言っているのと同じ構図ですね。どうもそういう人らしい。私は(笑)。

 で、具体的に何をやっているかというと、まずヴァイオリンに絹絃を張っています。これがなんで「西洋音楽をぶっ壊す」ことにつながるかというのは、またいつか結果が出始めたら報告します。

 まあ、簡単に言えば、西洋音楽が切り捨てていった「モノ(何か)」を復権させようということです。

 昨日までの「イノベーション」の話にもつながりますが、「もう戻れない」というイノベーションには、多分に洗脳的要素、麻薬的要素が存するものです。

 たとえば、私たちの食生活や、交通手段や、通信手段などを考えればわかりますよね。もう戻れない。

 そういう視点で、この世界に席捲し、ほとんど暴力的に我々を支配下に置いてしまった「西洋音楽」というヤツの正体を知りたいのです。そいつと戦うために。

 音楽において、そんな洗脳的なイノベーションを起こしたのが、かのモンテヴェルディです。一言でいえば、「属七の和音」から主和音で終止する形を発明してしまった人です。「属七の和音」は私たち現代人にとっては、非常に指向性の強い慣れ親しんだ和音ですが、モンテヴェルディ以前には、「悪魔」と「塩」がまぶされた最悪な不協和音だったのです。

 そこがこの本のキモ。実に面白いところであり、それこそ西洋音楽の正体の最もわかりやすい点(弱点)なのです。

 そして、それは「自然」なのか「不自然(人為)」なのか。そのあたりの話が実に面白かった。

 私も、もう生れた時から西洋音楽のシャワーを浴びていましたし、幼少期にヤマハ音楽教室に通ってしまったので、それこそ化学調味料のような属七の和音をずっと摂取しまくってきました。

 その後ビートルズにはまり、洋楽ロックにどっぷり浸かる青春時代を送り、ジャズも聴くようになり、さらに複雑な和音を聴くようになりました。また、大学に入って、きれいな女の先輩たちにだまされて(笑)箏曲の同好会に入って邦楽も始めましたが、全くその価格調味料というか麻薬の呪縛から逃れることができていません。

 しかし、この歳になって、いろいろ変化が現われてきました。まあ、家内が東北の山奥で民謡や労働歌や演歌にまみれて育って、いまだに属七の和音や長三和音に違和感を抱くような人だということもありますし、あとその血を引いた下の娘の影響もありますかね(長女は完全に西洋音楽派です)。

 この春、その下の娘がどういうわけか東京芸大に合格してしまいました。急遽決まった受験に向けて、付け焼き刃で、たったの三日間(!)で「楽典」を教え込みました(逆に言えば三日で西洋音楽の骨組みはわかってしまうということです)。

 実は芸大とはいっても、娘は邦楽科の能楽専攻ですから、それまで楽典なんてものがこの世にあることも知りませんでしたし、これからも楽典的な音楽理論を使う可能性はほとんど皆無です。

 西洋音楽の殿堂で、西洋音楽とは全く違う音楽世界で勉強している。私もその世界にすっかり引き込まれてしまい、なにかそっちの方が(特に私たち日本人にとって)本当の音楽なのではないかと思うようになったのです。

Th_-20210512-94027 というわけで、一方で五線譜の音楽を奏でつつ、一方で娘が学んでいるこんな楽譜にも興味津々の最近の私。

 はたして理論ではなく、実践によって、この世界の洗脳を解くことができるのか。ちょっと楽しみにしていてください。

 まずは、シルク絃を使うことによって西洋音楽が和声のために捨象してしまったモノ(何か)を復活させて、それを西洋音楽にまぶして演奏していこうと思っています。

 あっ、オマケに一言。私は「長三和音」のルーツは「かっこう」の鳴き声だと真剣に考えています。ついでに言えば「短三和音」も、下手な「かっこう」ですよ(笑)。

Amazon 西洋音楽の正体

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2021.05.08

イノベーションは必要なのか?

 

 ょっと古い動画ですが、これを見てなるほどと思う反面、コメント欄にもあるように、なんでも「イノベーションがない」「リーダー不在」で片付けてよいのか疑問にも思いました。

 ちょうど今、仲小路彰のものすごい高次元の話を読んでいるところなので、こういうレベルの話がなんとなく浮ついて聞えてしまうのでした。

 たしかに日本は非常に保守的であり、前例踏襲主義であり、変化を好まない国です。

 私も、たとえば教育(学校)について、かなり過激な言葉を使ってそれを批判してきました。しかし、なかなか変わらない。もう変わりようもないのではないかという諦念すらあります。

 一方で、そうした古臭いコト、つまり「しきたり(してきたコトという意味)」に愛情を持っていることも事実で、そうした自分の中の矛盾を、それこそ仲小路彰は止揚してくれるように予感しているわけです。

 少くとも、「イノベーション」という言葉や「リーダー」という言葉を使うのは、その反対側にある広大で重厚な「しきたり」や「和」の世界の功罪、特に功の部分を勉強してからにしてからがよろしい。

 特にこういう世の中における「イノベーション」は、その場しのぎのものではなく、今後最低百年にわたって「しきたり」になるようなものでなければなりません。

 それから、たとえばインターネットやスマホの出現のような歴史的な「イノベーション」に乗っかった些末な変化を、「イノベーション」と言ってはいけないと思います。今語られている「イノベーション」のほとんどは、「イノベーション」ではありません。

 そういう意味で、そもそも日本人は真の「イノベーション」を実行できるのか。歴史を見ると、日本人は外からのイノベーションを取り入れ、それをうまく利用してきたことがわかります。

 掛け声だけの「イノベーション」に振り回されてはいけません。

 そうすると、あるべき「リーダー」の意味もまた、自然とわかってくるかと思います。

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2021.04.30

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論~』 妹尾武治 (光文社新書)

Th_b08z3gg65b01_sclzzzzzzz_sx500_ 日のプロレスリング・ノア名古屋大会、抜群に面白かった!プロレスの楽しさ、激しさ、深さを堪能いたしました。

 私と同様プロレス・マニアを標榜している気鋭の心理学者、妹尾武治さんの自称「トンデモ本」。これがまた抜群に面白く、あっという間に読了。アカデミック味だけれども、ぷんぷんサブカル臭がするという絶品(笑)。

 タイトルの通り、「未来はビッグバンから全て決まっており、私たちの意志では変えられない」というお話です。

 たしかに全てが物理法則(宇宙法則)に則っているならば、そのとおりですよね。宇宙人である(?)私もそう思っています。

 しかし、人間(地球人)の感覚からすると、どうもそれだと納得いかない。そして、虚しさすら感じてしまう。

 その私たちの「意志」こそ幻であるというのもわかります。ワタクシの「モノ・コト論」で解釈するところの、「もののあはれ」こそ真理。まさに「意志」「意識」「情報」「言語」を表わす古い日本語「コト」はフィクションなのです。宇宙の法則たる「モノ=不随意」のみが真理。

 お釈迦様もそれにお気づきになったのです。

 ということで、私にとっては全然「トンデモ本」ではありませんでした。著者の言うとおり「トンデモなく面白い本」ではありましたが。

 さて、その面白さは読んでいただけばわかるわけですが、「モノ・コト・トキ論」を展開し、まさにアマノジャク的なトンデモ理論「時間は未来から流れてくる」を訴え続けている私にとって大きな発見は、妹尾さんの専門分野「ベクション」についてでした。

 「ベクション」とは、あの電車や車に乗っていて、並走している車輌が動くと、自分か反対方向に動いているかのように感じてしまう錯覚のことです。

 この空間的なベクションが、時間においても起きているのではないか。いや、起き続けているのではないか。つまり、本当は時間が未来からこちらに流れてきているのに、人間(地球人)は、まるで自分が人生の主役になって、人生の道のりを歩いていると錯覚していると。本当は自分が止まっていて、時間が動いているのに。

 ぜひ、この辺に関しまして、妹尾さんといつか直接お話してみたいと思います。

 最後に、もう一度プロレスについて。妹尾さんは「人生はプロレスである」と書いています。納得です。最初から勝敗が決まっていても、つまり決定論でもこれだけ楽しめるわけですから、同様に人生の結末が決まっていても、あるいは過程(筋書)が決まっていても、全然いいじゃないですか。楽しみましょうよ。その一つの方法として、私の「モノ・コト・トキ論」もあるのでした。

Amazon 未来は決まっており、自分の意志など存在しない。

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2021.04.29

日本の象徴ー天皇ー日を嗣ぐものの伝統

20210501-134110 日は昭和の日。昭和天皇のお誕生日です。今年は昭和天皇御生誕120年の年。

 それにちなみまして、同年に生れた仲小路彰の天皇に関するある文献の一部を紹介します。

 両巨人の生誕120年ということもありますので、今年中になんとか全文を公開できるよう、私もお勤めさせていただきたいと思っております。

 

 ◎ 日本の象徴

 

 古代帝国の絶対者でもなく

中世における神権的統治者でもなく

近代国家の主権的国王でもなく

まして 現代の独裁者や

大統領的存在とは異るもの

かかる天皇とは

いかなる本質をもっているか

 

 天皇は日本文化の最高の象徴である

長い文化の流れは 幾度か曲折したり

激したり 滝となり またよどみながら

いつも一条の光を反映している

 そこには 幾多の断層があり 苦難があり外からの重圧もありながら やがて一つの統合の中に発展し来ったのは やはりこの光の歴史によるのである

 日本人は その国土とともに天皇と悲喜をともにしつつ 文化を創造して来た

その文化の断絶や矛盾をよく超克し得たのは その一つなるものに生命的に固く結び合ったからである

 ややもすれば それは神秘な雲に閉されたり 菊のま垣にへだてられたりしつつも いつも民族の深い普遍的な潜在意識の中に投影されて いささかもはなれることはなかった

 そして それがあまりに意識の底にひそむために なかなか客観的に表現することを許されなかった

 

 ◎ 科学者天皇

 

 日本の皇室は自然の中に根源的に生成してゆく象徴として 日本の国土の存在とともに生命的な発展を示すのである

 生命への畏敬……生きとして生けるものへのあまねき愛情……そこに太陽のくまなき光の愛があり……日を嗣ぐものの真の伝統を見出すのである

 

 ◎ 未来への光

 

 日出ずる国の朝の光は 日々に新しく

また美しい

その光の中にこそ愛が生れ

善がのびゆき

そして神々の誕生を祝うのである

 かくて国生みの神話は

永遠の今にあっても

くり返されていると観じるのが

日を嗣ぐものの伝統である

 かつてはるかな古に

氷河時代の苦しみを避けた原始人が

洞窟の中で死をまぬがれ

ようやくに新しい太陽の光を仰いで

新生の喜びをうけた時以来

人類は太陽を崇拝して来た

 しかし 氷河は去って気候が激変し

エジプトやアラビア等文化地帯が

熱帯砂漠化するとともに

太陽を恐れて

他の神を信じはじめる

 これは どこの文化の発展の

歴史にあっても同様であるが

ひとり日本のみは

はるかな太陽信仰が

やさしい女性の

アマテラス信仰となって

国土を豊かに恵み

人々を光の中に 生かすのであった

 そして その正統の流れの中に

アマツヒツギとしての高貴な

純粋性をいささかの曇りもなく

光のままに生きゆくものの実在を

日の御子として

日嗣の御子として

今 日

ここに明らかに見るのである

 

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2021.04.25

「うぐいす」の語源

Th_unknown_20210428085501 士山麓はウグイスが盛んに鳴く季節となりました。いわゆる街場での「初音」の季節とは違い、かなり鳴き方もうまくなっており、いよいよ繁殖期の本番という雰囲気であります。

 ホーホケキョ(宝法華経)のあとの「ケキョケキョケキョ…」はライバルを威嚇する鳴き声。富士山麓ではその「華経」の部分もたくさん聴かれます。まさに実戦モードですね。

 ちなみに「鳴き方がうまくなる」というのは、実際そうでして、先輩たちの鳴き方を真似しているうちに上手になっていくという「口伝」「稽古」のシステムがあるのです。

 ですから、ハワイに持ち込まれたうぐいすはホーホケキョとは鳴かないとのこと。いわば方言的にだいぶ簡略化されているそうです。

 そういえば、こんな話もありました。次女が今、上野の寛永寺のすぐそばに住んでいるのですが、ある時、お寺の偉い関係者が「上野の森のうぐいすは訛っていていかん」と、京都から大量のうぐいすを運びこませたそうで、それ以来京風な「正しい」鳴き声になったと。

 それで、あのあたりを「鶯谷」と呼ぶのだそうです。面白いですね。

 さて、ホーホケキョが宝法華経であることは、まあ分かるわけですが、では「うぐいす」という名前はどこから来たものでしょうか。

 実はこれも鳴き声から来たという説があるのです。そして、私はそれを支持しています。

 古い表記では「うくひす」です。そして、古い発音を現代風に書けば「ウクィピチュ」となります。つまり、うぐいすの鳴き声を「ウ〜クィピチュ」と昔の人は聞いたのではないかということです。ちょっと声に出してやってみてください。けっこうリアルですよ。ホーホケキョよりも。

 「はひふへほ」の発音の変化は非常に複雑なのですが、一番古いところではP音であったことがわかっています。

 ですから、たとえば鳥で言うのなら、「ひよこ」は「ピヨピヨ」鳴くので「ピヨコ」ですし、おそらく「ひな」も「ピーピー」鳴くところから「ピナ」であったと思います。

 また、サ行は「チャチィチュチェチョ」だったこともわかっていますので、たとえば「すずめ」は「チュンチュン」鳴くところからついた名前だと言えます。

 このように鳴き声がそのまま名前になることは、「かっこう」の例などを考えても普通なことであったことがわかりますね。

 ちなみに、繁殖期以外のうぐいすや、うぐいすの子供のことを「ささご(笹子)」と呼ぶのですが、それは藪の中で「チャッチャッ」と鳴くからだと思われます。「ちゃちゃご」ということですね。山梨県の笹子峠、笹子トンネル、笹子駅の「笹子」はこれです。

 それにしても、これほどメジャーな鳴き方をする鶯ですが、基本日本にしかいないんですよね。朝鮮半島や満州にも分布していますが、やはり鳴き方が違うそうです。

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2021.04.02

南海トラフ地震や首都直下地震、富士山噴火。天災リスクのリアル

 

 このところ、富士山ラドン濃度が乱高下しております。10年の経験上、このような時は比較的近場の地下で何か動きがある可能性があります。

 富士山本体の火山活動ですともっと高い数値になると思いますので、どこかの地震活動の予兆かもしれません。

 先日、駿河湾震源の地震があり、当地もドンと揺れました。もう半世紀近く言われている東海大地震も含んだ東南海地震の発生も、いよいよ秒読みになってきたと感じます。

 まあ、富士山噴火にせよ、東南海・南海地震にせよ、首都圏直下地震にせよ、私が生きているうちに起きる可能性は(自分が明日にでも死なないかぎり)100%に近い。

 これほど確度の高い未来の事象なのですから、当然その準備をすべきです。たとえば、今乗っている車が数分後に事故を起こすことがわかっていたら、みなシートベルトをしますよね。

 それなのに、自然災害に関しては、なぜか私たち人間はある種の諦めというか、みんなで見て見ぬふりをするというか。

 そんなことをこの番組では厳しく指摘してくれています。多少脱線しているところもありますが、そこも含めて日本人の問題点が浮かび上がっていますね。

 自然の脅威に関してある種の諦めを持つことは、昨日の内田さんや先日の鈴木大明神が語っているように、一方では美徳になりうると思いますが、それが行き過ぎると弱点に転じます。

 この対談の中でもどなたかが言っているように、私たちの生活がテクノロジーによって「平時」は非常に便利で、快適で、不安が少なくなっています。では、「非常時」はどうでしょうか。平和ボケではありませんが、どうにも私たちは意図的に忘れようとしているようです。

 10年前の、あの大災害でさえ、すっかり過去のこと、他人事になってしまっていないでしょうか。

 天災は忘れた頃にやってくる。その「忘れた」は、記憶が薄れるという意味ではなく、見て見ぬふりをするようになったという意味なのです。

 最後に、私は鎌田浩毅さんのファンです(笑)。以前紹介したこの本おススメですよ。

 地学ノススメ

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2021.04.01

『日本習合論』 内田樹 (ミシマ社)

Th_41rifxmlql の本のクライマックスに登場する、次の一節こそ、この本で内田さんがおっしゃりたかった「可能性」でしょう。

 「氷炭相容れず」というほどに隔たったものを「水波の隔て」に過ぎないと見立てること、遠いものを近づけ、異質なもののうちの共生可能性を見出すこと、僕はそれが「できる」というところに日本人の可能性があると思っています。

 先日の鈴木孝夫先生の「日本の感性が世界を変える」に深くつながる本。そして、三島由紀夫と東大全共闘の話もでてきます。

 内田先生のいう「習合」「雑種」「ハイブリッド」等は、ワタクシのモノ・コト論ではもちろん「モノ」に属し、作られた「純粋」や「純血」は「コト」に属しますね。

 「これからはコトよりモノの時代」という、一般論とは一見逆に感じられる私のスローガンも、こうして解釈すれば多少は理解されることでしょう。

 私の言説は内田先生に比べるとかなり乱暴で粗悪ですが、言いたいことは完全に一致していると感じました。私は日本語のモノ、コト、トキを通して、いつか日本論、日本人論、日本文化論を書いてみたいと思います。

 「モノ」という言葉が持つそうした深い性質、論理では説明できない性質は、「物語」「物の怪」「物寂しさ」「もののあはれ」さらには「〜なんだもん(の)」に至るまで、私たちのよく知る日本語に生きています。

 さらに言えば、物部氏が信仰した「大物主」にも、そしてその神が象徴する「和魂(にぎみたま)」ともつながってきます。また、その物部氏を倒してしまった聖徳太子が憲法の第一条に置かざるを得なかった「和」に、そのエッセンスが凝縮しているとも言えます。そして、それが「習合」の起点とも言える。

 この本を読みながら、私自身がずっと考えてきた、いや感じてきた何か(=モノ)がはっきりとコト化されたような気がしました。おそらくはそれこそが内田さんの「物語」そのものの機能であるのでしょう。

 実に楽しかった。私もぜひ「頭がでかい」人間になりいモノです(このモノも他者性を表していますね)。

Amazon 日本集合論

 

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2021.03.31

ホモ・パティエンス(悩める人)

Th_utslppsfritt-energisystem_till-press_ 境問題はエネルギー問題であり、それが実は戦争のない平和な世界への基礎課題であることは、皆さんもよく理解されていることと思います。

 それは昨日紹介した鈴木孝夫先生も常に強調していたところであります。

 今日、こんな記事を読みました。

太陽エネルギーを18年間保存できる液体が開発される 常温で保存可能で繰り返し使える

 たとえばこの「太陽エネルギー・ストレージ」など、どう評価すればよいのか。

 なるほど、たしかに北欧の人たちにとっての太陽エネルギーを備蓄することは夢のような話ですよね。

 それは一見、素晴らしいことのようでありますが、あくまでもこれは人間の「快適への欲望」、すなわち分かりやすく言えば、たとえば私が夏のクソ暑い日に、この暑さをあの厳寒期に持っていければなあとか、反対に寒い時にその冷気を夏の昼間に使えればなあとか、快適な春や秋の季節に一年中この陽気だったらいいのになあとかいう妄想の実現のためのテクノロジーだということを忘れてはいけません。

 私たち人類の生活は快適になりますが、はたしてそうして局所的であれ四季をなくすようなことが、人類以外の生物、あるいは地球全体にとっていいことなのか、それは常に意識しなければならないでしょう。

 私もここ20年くらい、エネルギー問題解決のために、核融合発電と大型キャパシタによる蓄電ということをずっと考えてきましたし、実際科学者や技術者の方々と現実的な討論をしてきました。

 しかし最近、ちょっと違うかなとも思い始めているのです。いくら再生可能エネルギーであったり、ゼロ・エミッションであっても、やはり地球環境に人為をほどこすことには変わりないのであって、根本的なところで「環境に優しくない」のかもしれないと。

 究極的には、ホモ・サピエンス、いや鈴木孝夫大明神のいうところの「ホモ・スチュピド・サピエンス(愚かにも賢くもなりうる人)」がいなくなることが最も環境に優しいのではないか。SDGsとかその「人」は叫んでいますが、お前にそんなこと言われる筋合いはないよと地球は思っているかもしれない。

 もちろん、では欲望のままに突き進んで勝手に滅亡すればよいのかというと、やはりそういうことではありませんよね。なぜなら、そのプロセスの中に巻き込まれて迷惑を被る存在があまりに多いからです。

 だからこそ、私たちは悩める人…「悩める」とは「悩んでいる」と「悩むことができる(悩むことに耐えられる)」というダブル・ミーニングです…ホモ・パティエンスでなければならないのかもしれません。

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