カテゴリー「自然・科学」の838件の記事

2020.09.08

【討論】安倍政権の功罪と日本の教育

 

 日はご縁あって、フランス人の人気YouTuberのギギさんと丸一日ご一緒させていただきました。

 基本、ウチの中学校を取材してくれたのですが、たっぷり日仏の文化や教育についてお話させていただきました。

 おそらく1ヶ月後くらいに動画が完成すると思いますので、公開されましたら、また紹介しますね。

 さて、フランス人と一緒に日常を見直すことによって、私もあらためて「日本の教育」の光と影について考えさせられることになったわけですが、日本人、それも真正日本人を(おそらく)標榜するであろう保守系の人たちは、どのように「日本の教育」を見ているのか、いや憂えているのか、お話を聞いてみましょう。

 たまたまフランスの教育の話も出てきますね。「哲学」を重視していると。

 しかし、今日ギギさんから聞いたフランスの教育の現状とは、ちょっと違う感じがしますね。逆に、フランスには「哲学」がなく、日本には「尊敬・敬意」「公共心」という「哲学」があるというのが、ギギさんの感覚のようでした。

 まあ、どちらが正しいということではなく、いろいろな視点があるということでしょうね。

 それにしても、保守派の安倍さん評は、リベラルのそれよりも辛辣ですね(苦笑)。左右両方から強烈に批判されてきた安倍政権というのは、実はとってもバランスが取れているのかもしれません。

 素読と論理国語の話は興味深いですね。私は(意外かもしれませんが)素読になんの魅力も感じない国語教師です。もともと暗記が苦手だからでしょう。論理的に意味的に構造として理解しないと覚えられないタチなんです。

 そして、国語を文学と言語にはっきり分けよ!と、ずっと言ってきた国語教師はこのワタクシです。

 はたして、保守の皆さんは、「理性」を信頼しているのか、それとも「理性」を疑っているのか…よく分かりません、私は頭が悪いので(苦笑)。

 ただ、たしかに「今だけ、金だけ、自分だけ」ではなく、共同体に対する想像力を重視するというのは賛成です。教育がそういう中で生れる「信用」に根ざしているというのも、その通りだと思います。

 教育とは、学校とは、そして教養とは、道徳とは何なのか。難しいですね。現場の人間には、目の前には現実が横たわっていますし。けっこう「豊饒」ですよ。

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2020.09.07

物理的に「時間」は存在しない!! MUTube(ムー チューブ)

 

 よいよ「ムー」が登場で、ますます怪しくなってきました(笑)。

 いえいえ、私の経験上、「ムー」と「東スポ」は時々本当のことを書くのです。全体として胡散臭さがあるために、その真情報まで誰も信じない、あるいは注目しない。だからこそ、本当のことが書ける。

 これは、このブログもそうかもしれません(笑)。出口王仁三郎の霊界物語もそうですし、偽史と言われる宮下文書や仲小路彰の文献群もそうかもしれません。昨日の保江先生もそうですね。

 本当のこと、すなわち危険なことを示すためには、そのようなある種のカモフラージュが必要なのです。これは世の中を見る時の大事な視点です。

 逆に言えば、学校で教えていること、認めていること、それらしく共有されていることこそ、ウソだったりするわけです。

 まさに都合よく編集された「コト」よりも、有象無象の総合体たる「モノ」に本質「まコト」が潜むというパラドックスであります。

 さて、そんな尊敬すべき「ムー」の最新の動画に、ちょうど保江先生や時間の話が出てきましたので紹介します。

 三上編集長とも何度かお会いしましたが、とっても頭の良い、楽しい方でした。

 なんだかんだ言って、昭和の時代から淘汰されないで残ってきた「ムー」と「東スポ」こそ、未来のバイブルかもしれませんね。

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2020.09.06

保江邦夫さんにきく (羽賀ヒカル 神社チャンネル)

 

 

 日に続き、羽賀ヒカルさんの神社チャンネルから。

 この方も、またお会いしたいお一人ですね。かつては、いや今でも、「ぶっとび」と評価されることが多いでしょう保江邦夫先生。時代がようやく追いついてきたかなとも思います。

 その証拠と言ってもなんですが、この動画でも語られ、私もかねてから強く訴えてきた「時間は未来から過去へと流れる」という話が、ここへ来て急速に受け入れられるようになってきています。さっと理解してくださる方がずいぶん増えました。

 カタカムナについては、何も知らないのに懐疑的な私がいましたが、保江先生がおっしゃるなら何かあるに違いありません。なるほど、湯川秀樹と直接つながっていたというのは、あの時代だからこそあり得る話ですね。

 私たちの直観や、陰陽師が身につけていた感覚というのは、まさに「モノ」を「モノ」のまま把握する能力から発したものでしょう。現代人は、なんでも「コト化」(言語化・論理化・数式化…)して捉えるクセがついてしまっている。学校教育の弊害ですね。

 コロナの話も「コト化」(ここでは名付けや数値化)の弊害、そしてそういう負の言霊を使って「戦争」を起こす人たちがいるという、世界の歴史の一側面を明示してくれていますね。

 正体の分らない「モノ」と仲良くし、無意識の領域にまで習慣化した理屈抜きの、たとえば「作法」「礼法」によって、見事にディスタンスを取っていたということですね。実に面白い。

 今回、コロナ騒動によって、私たちは「コト化」の弊害を知ることになりました。もちろん「コト化」は(都市)社会を形成する上で、非常に重要な方法論ではあります。

 しかし、行き過ぎ、依存過多はいけません。モノとコトのバランスを取ること…それが時間の流れを操ることにもつながるわけですが…が重要になってくるでしょう。

 

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2020.09.05

『歴史を変えた超能力者 秋山眞人先生にきく』(羽賀ヒカル 神社チャンネル)

 

 月にこちらで紹介した秋山眞人さんと羽賀ヒカルさんの対談の続編です。

 ここでの秋山眞人さんのお話も素晴らしいですよ。秋山さんらしい、知識、人脈、そして愛。決して人を驚かせたり、怖がらせたりするのではなく、明るく幸せな未来に夢を馳せることに私たちを導いてくれる。

 「歴史を変えた超能力者」どころか、昭和の初めまでは日本は超能力者大国だった、能力者で溢れかえっていた…そうなんですよねえ。羽賀さんは「出口王仁三郎と高橋信次」に持って行きたかったのでしょうが、いえいえどうして、国民みんなが能力者だったという事実。

 それが日本であり、日本人であったというのも、一面の事実でしょう。そして、それが原因して西洋近代科学的世界観と衝突して、あの戦争が起きたというのもまた事実です。

 昭和天皇と小泉太志命、岸信介と藤田小女姫、三笠宮さまの話などを聴くと、なるほど高松宮さまや佐藤栄作が信頼した能力者が仲小路彰だったということが分かりますね。実際、仲小路彰は皇室だけでなく、多くの新興宗教との交流があったことを示す史料がたくさん出てきています。

 ある意味、戦前、戦中、戦後も、皇室と庶民いっしょになって霊的に日本を守ろうとしていたのですね。

 それが今はどうでしょう。霊的弱体化していませんか。秋山さんもおっしゃっていますが、やはり「教育」なのでしょうか。

 最後の秋山さんのメッセージが美しい。本物、偽物と両断するのではなく、まさに「和」の力で未来を切り開いていく…そんな日本を取り戻したいですね。

 この変革の時代だからこそ、秋山さんにもまたお会いしてゆっくりお話を聞いてみたいと思います。

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2020.08.31

【竹内久美子】皇統とY染色体のヒミツ【WiLL増刊号#244】

 

 日の河野大臣のライブで、大臣が「女系天皇」の可能性について言及していましたね。それについて、私が何も書かなかったので、どうお考えですかというご質問を頂戴しました。

 あの時はあえてそれには触れなかったのですが、今日は竹内久美子さんの説明を援用して、というか、そのまま使って私の考えを表明しておこうと思います。

 どうしても感情論になりがちな問題ですので、こうして科学的に説明していただいた方が良いと思います。

 女系天皇がいかに「やばい」か、「こわい」か、命がけの歴史をないがしろにするものか、よく分かると思います。

 天皇家は男系でなければなりません。女性天皇はありですが、独身を貫かねばならないので、たしかに現代では現実的ではありませんね。

 結局、旧宮家の皇籍復帰という「正常へ戻す」ことが第一ということです。

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2020.08.26

『変質する世界 ウィズコロナの経済と社会』 (PHP新書)

Th_51wechuofll ィズコロナになるのでしょうか。世界は変質するのでしょうか。

 今、60年以上前に書かれた「予言書」を読んでいます。まだ世に出ていませんが、近いうちに出さねばならないと思っています。

 そこには「20世紀後半」の予言が書かれているのですが、実際は「今」にあてはまることばかり。

 すなわち、私たちは21世紀になったと思っているけれども、実はまだ20世紀(的世界)が続いているのです。

 世界史を繙けばわかるとおり、前世紀的世界を変えるのは、疫病(感染症)と戦争です。

 今回はそれが同時に来たということですから、それは世界は変質するでしょう。変化なんて甘っちょろいものではない。変質でもまだ弱いような気がします。

 つまり、ウィズコロナなんていう狭い了見で考えてはダメなのです。しばらくはウィズウォーであることも想定すべきです。

先ほどの「予言書」では、すでに第三次世界大戦は朝鮮戦争からずっと続いていることになっています。

 つまり、第二次世界大戦で「核兵器」が登場した結果、戦争の形態は大きく変わったということです。朝鮮戦争、ベトナム戦争はまだ第二次大戦的要素をひきずっていましたが、またその反省の下に、ダラダラと続く、まさに「ウィズウォー」的な戦争状態が続いており、その文脈上に今回のウイルス兵器としてのコロナが存在するということです。

 そんなトンデモな文献を読み込んでいるだけに、この本は全く面白くありませんでした。スミマセン。

 あまりに次元が違うのです。60年前に書かれたものの方が、ずっと未来的なのでした。かつ、同じ射程距離で過去の情報も書かれているのですから、もう大変です。私の頭では追いつきません(笑)。 

Amazon 変質する世界

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2020.08.25

寺内克久 『富士山とピアノ即興曲/識と造形〜氷雲の夢』

 

 日はまた素晴らしい出会いがありました。友人とその友人とオンラインでいろいろお話ししました。それが実に素晴らしい波動を伴ったものになりまして、ただただご縁に感謝であります。

 話は多岐にわたったわけですが、基本その中心にあったのは、やはり「富士山」ではなかったでしょうか。

 さて、こちらも素敵なご縁をいただいた「不定調性論」を構築中の音楽家、寺内克久さんの富士山にまつわる作品です。

 こちらのご縁も間に入ってくれた友人がおります。その友人が寺内さんにご自身が日々撮影した富士山の写真を送り(送りつけ?)、それらから得た印象、クオリアを音楽として表現したものです

 寺内さんの解説を読んでみましょう。素敵な文章ですね。解説ではなく随想的な作品です。

 私の言葉で言うなら、「造形」は外部・他者としての「モノ」、「識」は内部・自己としての「コト」ということになるでしょうが、「コトを窮めてモノに至る」という、二つ目の「モノ」すなわち「モノ'」が音楽なのでしょう。

 今日のオンライン問答の中の延長線上にも、そんな世界がありました。今、仲小路彰のある文書を活字化しているのですが、そこには「自己の超越=利他の徹底=自己の完成」という文脈があります。

 寺内さんが、旧来の音楽理論や音楽常識の中で苦しみながら作曲していた時、結局それはありもしない自己を楽譜という「コト」にしなければならなかったのでしょう。

 しかし、そこで悩んだからこそ、その自己(コト)を超越し、モノの世界に身を委ねることができた、そして、結果として「自他不二」の境地に至って、本当の自己が完成した(まだまだとおっしゃるでしょうが、もうその道をしっかり前進しておられると思います)と。

 いずれにせよ、音楽は、そうしてモノとコトのあわいを行ったり来たりできる世界であり、それはほとんど音楽だけに許された次元移動の作法です。クオリアとはその感覚でしょう。

 それが「不二」の写真の上に展開されていることに、私は感動しました。特に、よくある写真集やカレンダーのよそ行きの富士山ではなく、私もよく知っている富士山の、否、一つとして同じ表情のない不二山の姿が音楽になった悦びは、それこそ言葉では表現できません。

 あえて言うなら、ありがとうございます…でしょうか。

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2020.08.16

伊藤庸二と仲小路彰

Th_unknown_20200817110901 日の「太陽の子」の記事に出てきた、荒勝文策、仁科芳雄、湯川秀樹を取り上げたNHKBS1スペシャル「原子の力を開放せよ ~戦争に翻弄された物理学者たち~」を観ました。

 相変わらずのNHKの資料収集・調査能力の高さには驚かされます。なかなか進まない仲小路彰研究もおまかせしたいところです。

 さて、戦前・戦中の原子核兵器、電磁波兵器の開発のことを語る時、伊藤庸二の名前を忘れるわけにはいきません。

 伊藤庸二は海軍の技術大佐。特に日本軍のレーダー開発に貢献のあった人ですが、一方で新型兵器の研究にも携わっていました。

 開戦後、すぐに理研の仁科芳雄を動かし原爆開発研究の拠点となる「物理懇談会」を設立。「太陽の子」の舞台となった京都大学の荒勝研究室にも原爆開発の指示をしました。一般には、陸軍が理研、海軍が京大と言われているようですが、実際には両者に伊藤海軍大佐が強く関わっています。

 伊藤は、昭和18年の段階で、原爆の開発は可能だが今次大戦には間に合わないという考えでした。そして、アメリカも間に合わないだろう、すなわち原爆が日本に投下されるとは思わなかったようです。

 しかし、現実には原爆が2発投下され、そして終戦を迎えることになります。それに大変なショックを受けた伊藤は高熱を出して寝込んでしまったと言います。

 終戦後1ヶ月近くたってようやく療養先の山形から帰京した伊藤大佐は、かねてより懇意にしていた富岡定俊海軍少将の仲介で、9月中旬に山中湖を訪れて、およそ1週間にわたり仲小路彰と懇談をしました。

 そこで仲小路が伊藤に語った内容は以下のとおりです(春日井邦夫「情報と謀略」より抜粋)。

 仲小路は伊藤博士の大戦下の技術開発の労苦に心から敬意を表し、その努力が本当に役立つ時代が来たのだと語った。また原子爆弾に関する質問に答えて、原爆はその悪魔的な破壊力によって逆に武力戦争を抑止する性格を持つ。アメリカの最初の原爆使用を平和の契機ととらえ戦争終結を実現した陛下の終戦の大詔こそ、やがて人類救済の大宣言となる。これからの世界は地球を一体とするグローバリズムの時代に進むが、原爆の巨大なエネルギーを地球建設の原動力に転化・活用する新技術の開発こそが、「地球の平和」への基礎となると、そのグローバリズム構想の一端を示唆している。

 終戦からたった1ヶ月後に「グローバリズム」という言葉を(世界で初めて)使っているわけで、それだけでも驚きですが、核抑止力や戦争終結の御聖断の世界史的意義、そして核エネルギーの善用といった、その後の地球の未来を的確に言い当てていることにも注目です。

 ただ、ここでいう「グローバリズム」とは、現今の経済的なグローバリズムではなく、あえて言うなら「八紘為宇(八紘一宇)」の言い換えですので、誤解なきように。

 ちなみに、これより前、8月28日には、1948年のオリンピックを日本で(富士山麓で)開催することを提言しています。恐るべし仲小路彰。

 伊藤はこの仲小路の言葉に感銘を受け、2年後に株式会社光電製作所を設立。海軍の優れた科学技術、特に電波技術を、戦後の漁業におけるソナー、レーダー、GPS、デジタル技術の開発に活かしました。

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2020.08.10

『MAGI 天正遣欧少年使節』

 

 

 日の長崎の話の続きというか、そのルーツ。

 こちらにも書いたとおり、私は「千々石ミゲル」のことが気になってしかたありません。有馬晴信との関係や音楽のことだけでなく、彼は本当に棄教したのかという謎…。

 さて、ミゲルも含めた天正遣欧少年使節団の4人の物語。いつか映画化されるといいなと思っていましたが、こういう形でそれが実現するとは。

 いろいろとツッコミどころはありますが、そんな外面のことではなく、やはり純粋に少年らの過酷かつ豊かな旅自体について、こうしてイメージ化してくれたこと、そしてキリスト教や西洋文化の矛盾、日本という国の本質をかなりきわどいところまで描いてくれたことには感動いたしました。

 キリスト教が内包する「死」への憧れと「赦し」の構造が、隠れキリシタンの悲劇を生み、のちには長崎原爆の悲劇を生み、昨日紹介した「浦上燔祭説」を生んだとも言えますね。そのあたりをこのドラマからも考えさせられました。

 彼らが音楽理論を学び、多くの楽器の演奏技術を習得し、貴重な楽器を持ち帰ったこと、そして聚楽第にて秀吉に演奏を披露したことには触れられていませんでした(それは後日譚なのでシーズン2で?)。古楽ファンとしては、そこは少し残念でしたが、実は音楽はその一面に過ぎず、本当に多様な分野において彼らは本当によく学び、それを伝えたと思います。

 ミゲルが、帰国後どのように棄教に至ったのか(あるいは最近の説のように実は棄教していなかったのか)、関ヶ原の戦いから江戸開幕、そして有馬晴信の刑死などが、ミゲルにどんな影響を与えたのか。

 明治以降の日本と西洋との関係、そして未来の日本人のあり方を考える時、彼のキリスト教体験の変遷は大きなヒントとなるような予感がするのです。

 ちょっと私も研究してみます。独自の視点で。

MAGI 天正遣欧少年使節 公式サイト

400年前の西洋音楽と古楽器

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2020.08.09

浦上燔祭説

Th_unnamed_20200810071501 崎原爆忌。

 毎年思われるのは、なぜキリストの名の下において、隠れキリシタンの里浦上に原爆が落とされたのかということ。

 牧師によって祝福された「ファットマン」は、長崎に投下されたというより、浦上に落とされました。

 あの日、第1目標だった小倉が曇天だったため、第2目標の長崎が犠牲になることになったことは周知の事実です。

 そこの運命も含めて、浦上に原爆が落ちたのは、神の意思であるという考え方があります。被爆後すぐにその考え方は生まれました。

 放射線を研究した医師であり、隠れキリシタンの末裔で自身もキリスト者であった永井隆。彼の唱えたのが「浦上燔祭説」。

 「燔祭」とは「ホロコースト=生贄祭」です。つまり、長崎の被爆者は神への生贄であるということです。

 クリスチャンでない者からすると「生贄」という概念は受け入れがたく、死者に失礼な考えのように受け取られますが、クリスチャンにとっては「崇高」な「行為」ともなります。

 こうした価値転換は、殉教を伴う多くの宗教に見られることです。この原爆に関しても、被害者、加害者双方の悲劇を救う手段、方便としてありえることです。

 ですから、この「浦上燔祭説」を単純に否定も肯定もできないわけですが、ただこれを通じて、キリスト教が戦争において果たしてきた役割を思い出すことは重要だと考えます。

 もとより、日本にキリスト教がもたらされたのは、スペイン、ポルトガルの植民地政策の結果であり、よく言われる「左手に聖書、右手に銃」というのはまぎれもない事実です。

 キリスト教に内在する、そうした「荒魂」の要素が、「和魂」の国日本を舞台に、自己矛盾の中で自己崩壊を起こしていく物語を現出したと考えると、より深い歴史的真実が浮かび上がってきます。

 永井隆はこの「燔祭説」だけでなく、原子力の「光」の部分、すなわち科学における原子力のプラスの要素についても強調をしました。それは、ちょうど仲小路彰の考え方にも共通します。これもまたある種の「方便」「価値転換」とも言えますが、日本文化における「荒魂」の意義の上に展開しますと、一般的な感覚とはまた違った真理を見出すきっかけにもなると感じます。

 さて最後に、長崎原爆とキリスト教ということでいうと、山梨との関係から「有馬晴信」のことも思い出されます。たしかに「荒魂」が音楽という「和魂」を生むことがありますね。キリスト教とは非常に複雑かつ深い宗教です。

有馬晴信終焉の地「甲斐大和」

第31回都留音楽祭 最終日(都留と古楽の因縁)

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