カテゴリー「自然・科学」の136件の記事

2009.07.06

『理系クン』&『理系クン結婚できるかな?』 高世えり子 (文藝春秋)

16370510 かいの席の理系チャンにお借りしました。理系チャン、いよいよ理系クンとゴールインかという現状でして、そんな中このコミック・エッセイは、ものすごくツボにはまったようです。あまりに状況が似ているとのこと。
 ま、このコミックでは、女性は文系チャンですからね、正確にはかなり違う状況とも言えるわけですが、ある意味、相手が理系であろうと文系であろうと、理系クンのアイデンティティーは揺らがないということでもあります。
 前に、理系の人々を紹介したところに書きましたように、いわゆる理系クンとオタクとは重なる部分が多いと言えます。私の「モノ・コト論」的に申しますと、理系クンもオタクくんも、両者とも「コト」にこだわり、全てを数値的、あるいは集合的に処理し、世界を理路整然と分析、整理、インデックス化していく傾向を持っています。
 それがこうしてコミックになるということは、その「コト化」の行為自体が、とってもコミカルだということですね。そう、世界史上、人類史上、「コト化」は全て「ギャグ化」の連続だったとも言えるのです。
 つまり、我々が、学問だの、科学だの、社会だのと叫び続けてきたことは、実は自然(モノ)の法則…というか実態…に反することであり、宇宙規模で見れば、すなわち「モノ・スケール」で測れば、まったくのギャグであるということです。残念でした(笑)。
 この前の椎名林檎ではありませんが、結局、そうしたモノ・スケールを持っていて、一言、一挙、一瞥のもとに、その構築された「理(コト)」をぶっ壊してしまう本質的パワーをですね、女性は皆持っているわけですよ。ニーチェが言う通りです。
16371320 で、そうした神のレベルから見ますと、理系クンやオタクという宇宙に名だたる種は、とっても可愛らしく見えたりするわけです。一生懸命ちょこまかちょこまか自然に対抗しようとしている彼らが、なんだかとっても愛しいのです。つまり、母性をくすぐられるんでしょうね。
 そうした、女性から見た「萌え」ポイントがですね、理系クンにはあるんですよ。そういう可愛らしさとともに、モノノケたる女性の最も苦手な「コト化」の産物、たとえばパソコンとか、メカとかに対する強さを持ってますからね。それはたしかに女性から見ると魅力的に見える(こともある)でしょう。
 最近はやりの「草食系男子」と重なる部分も多い。基本肉食系は自然(モノ)的ですから。アウトドアだし、ある種暴力的だし、ある意味では知的じゃないし(失礼)。
 で、まるで他人事のように言っているワタクシですが、さて、私は何系でしょうか。学問的には理系崩れの文系ですし、まあ外見は完全に草食系ですけど、実態は文理雑食系でしょうかねえ。よくわかりません。
 とにかく男が読んでも「ある、ある」という感じだったり、案外自分もそうだったり、充分楽しめますよ。女性の反応は「カワイイ!」か「無理!」でしょうね。さすがモノノケ。一刀両断。
 それにしても時代は変わったなあ。かっこいい男はいずこへ。男はカワイイものになっちゃったのかなあ。


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2009.07.03

キツツキ(てらつつき)

250pxdendrocopos_major_3_marek_szcz の季節、年中早起きのワタクシは、いつに増してまた早起きになります。もちろん日が最も長い、すなわち日の出の時刻が早いというのも一つの理由です。3時半には薄明が始まり、ああ朝だなという感じになりますから。
 しかし、それ以上の早起きの理由があります。4時ちょい過ぎに目覚ましが鳴るからです。いやいや、目覚まし時計ではありません。天然の、自然の目覚ましであります。
 トントン、トトトト、トン、トン、トトトトトトトトトトトトト…。
 そうなんです。キツツキがウチの外壁を叩くんです。これがまた大音量でして、これで起きないのはウチのカミさんくらいのものです。
 ウチは総杉の外壁ですので、まあたしかに「木」ではありますが、人のウチに穴をあけてウチを作ろうとするのはどうかと…。
 で、その荒っぽいノックの音がしますと、以前はウチの自宅警備員である黒猫たちが、すわ出動とばかりに窓辺でウ〜ウ〜うなってくれたんですが、さすがに家の外の高所ということで、どうにもウ〜ウ〜以上のことはできませんよね。最近では、カミさんといっしょに、耳をぴくりともさせず寝ています。
 このキツツキ、正確に言うと「アカゲラ」だと思います。富士山麓では、キツツキ目・キツツキ下目・キツツキ科・キツツキ亜科としては、アカゲラやアオゲラ、コゲラなどをよく見かけます。どれもとってもカワイイんですけどね、やることはけっこう荒っぽい。
 で、だいたい百回くらいつついてみて、これはどうも普通の木ではないなと思うのか(もっと早く気づけよ!)、傷だけつけて去っていくんですよね。ただ、数年前、かなり根性のあるキツツキが来まして、屋根の裏側にとうとう穴を空けてしまいました。その後なんだか屋根裏で運動会のような音がしてましたから、まじで営巣したのかもしれません。最初はネズミとかヤマネとかかなと思いましたけど、どうもあれは鳥だったらしい。穴を板で塞いだら、運動会も止みましたので。
 ところで、このキツツキ、漢字で書くと「啄木鳥」であるのはよく知られていますね。石川啄木はこれです。ちなみに正岡子規はホトトギスですね。
 この「啄木鳥」ですが、調べてみますと、昔はどうも「キツツキ」ではなくて「テラツツキ」と読んでいたようです。すなわち「寺つつき」。
 10世紀の辞書には「てらつつき」しかありません。それが15世紀以降になると「けらつつき」が現れ、近世になってようやく「きつつき」が定着しはじめます。
 「てら」が「けら」になる音韻変化については、ちょっと説明が難しくなるので割愛しますが、その「けら」がアカゲラなどの「けら」として残っているんですね。
 で、「テラツツキ」については、面白い説話が伝えられています。
200pxsekienteratsutsuki 13世紀の名語記という書物に、「鳥のてらつつき如何。答、寺つつき也。ゆへは、聖徳太子の逆臣守屋を誅罸し給て、守屋が館を没官して、四天王寺を建立し、仏法をひろめ給へりしを、守屋が亡魂そねみて、鳥となりて来て、かの寺をたたき損せむとせし時より、寺つつきとなづけたりと申す」とあり、また同時期の源平盛衰記にも、「昔、聖徳太子の御時、守屋は仏法をそむき、太子はこれを興し給、互に軍を起しゝかども、守屋終にうたれにけり。太子仏法最初の天王子を建立し給たりけるに、守屋が怨霊、かの伽藍を滅さん為に数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎を創ほろぼさんとしけるに、太子は鷹と變じて、かれを降伏し給けり。されば、今も怨霊はおそろしき事也」とあります。
 つまり、反仏教派にして政争に破れた物部守屋が、その恨みをはらすためキツツキになって、寺をつついて壊そうとしたということです。
 けっこう地味な報復行動のように見えますが、たしかにやられる側としてはたまりませんね。あの音を聞くだけで恐怖です。安眠できないし。
 鎌倉以降、仏教が大衆化して、仏教に対する恨みというものが消えていく中で、「テラツツキ」という名称も消えていったのでしょうか。ちなみに「ケラ」は「おけら」の「ケラ」、すなわち「虫」を指すという説もあります。そして江戸時代にはキツツキとなっていくわけですが、この「寺」→「虫」→「木」という変化には、意外に深い意味があるかもしれませんね。また、江戸時代には、さきの守屋の怨霊譚から「てらつつき」は妖怪として物語化されていきます。これらの変遷は、日本人の精神史を象徴しているとも言えますね。
 私はまるで坊主のようななりをしていますから、守屋が勘違いしてつつきに来てるのかな。心はどちらかというとモノノベ派なんですが(笑)。てか、ウチは完全に習合してますからね。どうかお手柔らかに。
 それにしても、「屋を守る」名を持つ人が、家を壊してるなんて、なんとも因果なことではありますね(笑)。

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2009.06.20

『星座・天文』 星座天文萌研究会・渡部潤一 (PHP研究所)

56970896 部潤一さん…。こんなことやってていいんですか(笑)。ま、まえがきで結構辛そうにしてますので、彼自身はこういう趣味はないのでしょう…たぶん。
 いちおう星座・天文萌え歴40年になろうかというワタクシであります。そして、どういうわけか「萌え」研究家の称号を頂いているワタクシであります。それでも、この「萌え星座・天文」にはちょっと、いやかなり引いちゃったなあ。
 以前紹介したエレメント・ガールズでもかなり困惑しちゃいましたが、あれはある意味初のキャラクター化でしたから、おお、こういうやり方もありか、と感心した部分もあったんですよ。
 しかし、考えてれば、星座や太陽系の星々については、太古の昔からそういうことをやってきたわけじゃないですか。だいいち「星座」という概念からしてそうなわけです。そして、その分類に従って萌えキャラ化してるわけですから、これは当然無理があるわけですよ。
 というか、そのオリジナルな、つまりギリシャ神話的なキャラクターをあまり知らなければいいわけですが、ある程度知ってますからね、そりゃあキツいっすよ。
 一番違和感があるのはですね、たとえばオリオンのような男性キャラさえも女性になってしまっているところです。いちおうそれらは「ボクっ娘」という設定なんでしょうかね(笑)。
 まえがきで渡部さんが苦笑している(たぶん)ように、たしかに入門としてはいいのかもしれません。いやいや、入門にこれはまずいんじゃないかなあ。オリジナルに対する冒瀆っていう気もしてきます。
 ちなみに日本にも日本独自の星座というものがあります。あの野尻抱影さんに多くの研究があります。そちらをキャラクター化した方がまだ良かったかも…って、それじゃ売れないか。
 今年は世界天文年ですし、日本で久しぶりの皆既日食があります。そのブームに便乗した商品とも言えるのかな…と思いましたら、購入者はあんまりそういう意識はないようです。実際に星に興味を持つ人は買いませんよね(私も買ったんじゃなくて借りたんですよ)。では、どういう人が買うのかと言いますと、やっぱり「萌え絵」好きなんですよ。
 私はよく分かりませんが、そういうのに詳しいオタク女子生徒によりますと、ここで仕事している絵師さんたち、けっこう充実のラインナップなんだそうです。彼女は表紙も描いているナントカさんの絵が好きだそうで、ついつい手にとってしまったと言っています。そして、こういう本を買うとしたら、それは絵の指南書として、参考書としてだそうでして、なるほどその方が健全と言えば健全だな、と思った次第です。
 というわけで、ちょっとPHPさんも調子に乗りすぎという感じがしないでもない。たしかに、理系の人々の嗜好とオタクの人々の嗜好は重なる部分が多い、というか、理系とオタクはほとんど重なっているというのも事実ですけれど、なんでもかんでもこうして萌え化するのは、ちょっとねえ。一般人からしますと、まさに痛い状況ですし、ホンモノの理系の人々からすれば、どの内容も中途半端、全然物足りないというのが実態でしょう。
 また、Amazonのレビューの人も言ってますけど、二色刷りというところも中途半端。平成の浮世絵として観るならば、やはりフルカラーじゃなきゃ。絵師だけじゃなくて、摺師の技も観てみたいところですよ。多少高くなっても、その方が売れたんじゃないでしょうか。
 まあ、江戸時代にもこういう二番煎じというか、二匹目どぜう商売というか、そういうどうでもいいシリーズものがた〜くさんありますよね。それが大衆文化であり、そして後世伝統文化、あるいは国際的に認められる芸術になっていったわけですから、これはこれでいいのかな。うん、なら、やっぱり「画集」にしてしまった方が良かったかもなあ。

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2009.06.18

三沢さんの誕生日…臓器移植法案に思う

2009061900000105yompolview000 47回目の誕生日となるはずだった今日、三沢さんの通夜が営まれました。悲しみは消えることはありません。
 昨日は、三沢さんにNPO法人「日本移植支援協会」から感謝状が贈られることが報じられていました。偉大なる先輩、ジャンボ鶴田選手の死をきっかけに、三沢さんは臓器移植の普及啓発活動を支援しはじめたと言います。
 そして今日、衆議院で臓器移植改正法A案が可決しました。なんとも言えない不思議なタイミングではあります。
 ただでさえ、いろいろと考えさせられるこの頃でしたが、今日はまた脳死と臓器移植という、非常に難しい問題を目の前に提示され、さらに悩んでしまいました。
 今日は自分の体調もいまいち優れず、思考もかなり淀んでいますので、本当に思いついたことを羅列するだけで終わりたいと思います。
 私のこの断想たちは、おそらく永遠にどこにも落ち着かないでしょうね。頭がクリアーな時、我々はどうしても結論を得ようとします。それがいろいろな間違いや争いのもとになるのです。ですから、実は今日のようなタイミングでこういう重大な問題に直面するのは、案外いいものなのかもしれません。
 脳死の判定や臓器移植について、よく言われるのが、「神の領域に踏み込む」とか「神を演ずる」とかいう言い方です。これは反対派にとって非常に便利な方便ですね。しかし、一面ではそうとしか言えない部分もあるわけです。なぜなら、「命は地球より重い」ものだからです。そして、我々が行なおうとしている生命の操作は、「自然に反する」行為だからです。
 では、そのような言い方の根拠となるこういう文句の、そのまた根拠は何かというと、これが非常に頼りない。
 私たちは、「命は地球より重い」と言う以前に、「本当に命は大切にすべきものなのか」という問題につきあたるべきです。こんな時に不謹慎ですよね。でも、まさにこういう時だからこそ、きちんと根本に還って考えてみなければいけない気がするのです。
 我々が「命」と簡単に言ってしまうその命とは、ほとんどの場合が人間の命です。もちろん、動物や植物、いわゆる自然界の命も大切だと言いますが、それもまた考えようによっては、人間の生活、すなわち生命存続にとって大切なだけであって、たとえば害虫を殺し、雑草を根絶やしにするのに、私たちはそれほど罪の意識を感じません。
 もともと命というのは非常に利己的なものです。それこそ自然界を見れば分かります。生物は、他者の生命を脅かすかどうかは問題とせず、ただただ自らが生き延びることだけを考えて活動するのが普通です。
 もちろん、種を守るための同情や協力というのはあります。しかし、それも種という自己の延長に対する行為であって、やはり利己的であるのには変わりありません。
 そうした利己的な命の延長であり、総体である国家…おそらくそれが自己の最大単位です。人類は世界、地球にまで自己を延長しているとは思えません…において、それぞれの利己心を調整するのが、政治の役割ですから、今回の法案の是非が政治的な問題であるというのに異論はありません。
 「神の領域を侵している」とか、「脳死は人の死ではない」という倫理観や宗教観を振り回すのは自由ですし、私もその立場からなら何でも言えます。しかし、それはあまりに個人的な領域に属する根拠であって、同様に個人的な「難病の子どもがかわいそう」だとか、「自分の子どもがそういう状況になったら…」とかいう感情論と真っ向から対立したら、これは絶対に解決しません。それこそお互いの命を奪い合いにまで発展するかもしれませんね。
 そこを調整、強制するのが、法治国家における政治の役割です。現実の政治は、遠くの理想に向かって動いてはいられません。目の前のストレス(すなわち生命の危機)を回避する算段をする方向に動いて当然です。それは我々国民という政治の主体がそれを求めているからです。
 先ほど、自然という言葉が出ましたが、何をもって自然と言うかも難しい。我々人類が踏み込んでいる「神の領域」と言われるものも、あるいは身の周りに溢れかえる「人工物」も、全て自然界の動物たる私たちが自然界のものを使って作り上げているに過ぎません。あるいは、こういうつまらぬ思索も、また政治も宗教も、全て自然たる我々の脳が産み出している自然に過ぎないとも言えます。
 そう考えるだけで、「自然に反する」という言葉がいかに無意味であるか分かりますね。
 あるいはこういう問いに、皆さんはどうお答えになるでしょうか。「自然保護」と「生命科学」は相反する関係か否か。
 ある考え方では、遺伝子操作などの「生命科学」は「自然に反する」行為でしょう。そういう意味では、「自然保護」とは言えません。しかし、ある人は、「保護」なんて言ってる段階ですでに自然ではない、と言い張るかもしれません。人間も自然の一部なのだから、こうして環境を破壊して自滅していくのも、これまた自然である、と言う人もいるでしょう。そういう屁理屈を経て、「生命科学」こそ「自然保護」だという結論に逢着してしまう頭のいい人もいるかもしれません。
 つまり、こんなふうに、我々は答えのありえない問いを発し続け、そして、言葉をもって常に自分の立場を明確にしなければいられない存在なのです。本当は、悲しいなら悲しい、うれしいならうれしい、それだけでいいのかもしれません。しかし、そこを超えて、「理性的」に自分を着飾っていないと、どうにも落ち着かない動物なのです。それは、単に我々が利己的だからに過ぎません。本当に単純な理由です。
 今日のボーッとした頭で見えてきた結論。非常に単純ですね。
 我々は利己的だから、だからこそ命は大切であり、自然も正義も自由も人権も真・善・美も大切なのです。
 案外、身近な所に落ち着きましたね。以上。今日は寝ます。

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2009.06.15

モバイルマイクロスコープ (40倍顕微鏡)

Ijz78 は今、私としては非常に珍しいことなのですが、胃腸炎とおぼしき状況でして、食べても飲んでも全部出てしまいます。汚い話ですみません。精神性のものでしょう。それほどまいっております。
 そこで今日は、現実逃避するために、ちょっと軽めの記事を書きます。
 この、1000円もしないオモチャのような顕微鏡、少し前に子どもに買ってやったものです。私も小学生の頃、親に顕微鏡を買ってもらい、いろいろ眺めるのが好きでした。星の世界に目覚めて望遠鏡を覗くまでは、顕微鏡が最高のオモチャだったような気がします。
 そんな自分の体験もありましたし、なにしろ手軽そうなので、こいつを二人の娘に与えてみました。
 うん、やっぱり女の子でもミクロの世界は面白いみたいですね。あらゆるものにあてがって観ています。1台しかないので取り合いになることもしばしば。たしかに未知なる世界を初めて観たいと思うのは当然ですね。
 考えてみますと、私たち昭和世代にとっては、現実の世界を超えた映像的世界というものは、テレビや映画くらいしかありませんでしたね。まあ、それだけでも近代以前からすれば信じられないほどの夢の世界の入り口であったわけですが。
 今の子どもたちは、テレビはもろちん、パソコン、ゲームなど、まあありとあらゆるヴァーチャルなヴィジョンに囲まれ、そして案外それらと高い親和性を持って生きています。子どもの、というか、人間の適応力の高さをつくづく感じさせられますね。人間がここまで進化し繁栄を築いたのは、そこに依る部分が大きいのでは。
 そんな中、ヴァーチャルではないけれども、こうしてスケールを変えた非日常的映像に接するということは非常に重要なことだと思います。我々が肉眼で認識している「1倍」の世界が、世界の全てではないということを知るのは大切ですからね。
 私は、そうしたスケール・チェンジをしたものの見方というのを、教育の中でも重視しています。ミクロ的、マクロ的な視点で対象を見直すということは、これは現実の機材を使わずとも、概念として実現することができます。それが思考の面白みですし、他者や自己を客観視するための第一歩だと思いますよ。
 まあ、子どもたちはそんなこと考えずに、ただただ興味本位で、このマイクロスコープを朝食のパンや猫の背中やテレビの画面やカマドウマの死骸に押し当てているだけですけどね。
 でも、こうして、既知のコトが未知のモノになる瞬間を味わえるのは幸せなことです。ゲーム機やテレビアニメでは、こうした体験はできません。
 実は大人になって久しい私自身、けっこうはまってるんです。なんか懐かしいというか、いや実に新鮮な感動があるんですよね。なんだ、この世界、この日常、知り尽くしているつもりだったけど、全然知らないモノばっかりじゃないか。
 皆さんもいかがですか。ポケットに入る小ささですから、どこにでも持っていって、さっと覗くことができます。白色LED付きですし。ま、街中でそれをやっちゃったら、かなりアヤシイですけどね(笑)。
 
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2009.06.07

山野草を満喫@芦川渓谷

 日(から今日にかけて)は高円寺の飲み屋で一夜を明かしてしまいました。というか私は店でグーグー寝ていたんですが。最近、高円寺に縁がありますなあ。スネークピットもあるし、フジファブリックの志村くんの思い出の街だし、その他もろもろ。
 で、始発で車を置いた西荻に戻り、仮眠をとってお昼に山梨に帰ってきました。
 静岡から両親が来ていましたので、ここ数年懸案となっていた「笛吹市芦川町にすずらんを見に行く」というイベントを実施いたしました。都会からいきなり自然の宝庫へ。このコントラストが刺激的ですねえ。
 私たち家族は、すずらんの群生地を管理されている方とレミオロメン関係でご縁があり、昨年も6月1日にうかがってお世話になっていますね。それから9月にも例の音楽イベントでうかがいました。本当にいつもいろいろと良くしていただいて、ひたすら感謝です。
 今年は温暖化の影響でしょうかね、すずらんの開花がいつもより2週間近く早く(桜などもそうでした)、残念ながら本来の目的であったすずらんはほんのちょっとしか拝めませんでした。しかし、そのかわりと言ってはなんですけれど、すずらん荘の方に案内してもらって、他の山野草をたっぷり楽しんできました。いろいろと説明していただいたのですが、正直それぞれの名前すらも忘れてしまったので、とりあえず今日は写真を並べておきます。
 本当にいいところですよ。すずらんの季節だけでなく、一年中通して何かしら可憐な花が咲いているそうです。皆さんもぜひ行ってみてください。

Googleマップ

民宿すずらん荘ブログ

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2009.06.04

『富士山―聖と美の山』 上垣外憲一 (中公新書)

12101982 士山はやはり女だ。それを再確認させられた本でした。
 富士山に関する著書は、それこそ山のごとくあります。富士山本人の懐に抱かれて生活する者として、それらを比較的たくさん読んでいる方だと思いますが、本書で初めて知ったこともたくさんあったのには、正直驚きました。まだまだ未知の資料が目の前に積み上げられそうです。
 この本は、「富士山に関する『文化的』なものの総覧である。『富士山の文化史』と言い換えてもよい」と冒頭にあるように、文学作品や美術作品に描かれた富士山はもちろんのこと、富士の名を冠した戦艦や爆撃機に至るまで、さまざまな「文化現象」としての富士山を抽出して見せてくれます。
 その全体を貫くのは、おそらく著者の専門分野であろう「ナショナリズム」であります。ナショナリズムとは、まさに外国との関係における相対的な価値観でありますから、結果として、富士山の姿を描くことによって、日本の外交史の流れと、それによって変化させられた日本人の自意識というものを、そこに読み取ることができました。
 そういう意味で、富士山在住の私にさえも、新たな富士山の姿を見せてくれた好著と言えましょう。
 しかし、ある意味では、自分の実感としての富士山との乖離も感じないではいられませんでした。もちろんそれは著者である上垣外さんの責任ではありません。文化としての富士山を記録し現出させた、過去の「文化人」たちの責任です。
 というのは、文化としての富士山は、どうしても「表富士」に偏りがちだということなんです。裏富士も裏富士、富士山の真北に位置する村に住み、富士山の東北(艮)に位置する市に勤める私にとっての富士山が、そうした「文化的」な富士山と、正確に重ならないのは、これは当然のことですね。
 それが違和感を催すというよりも、もっと複雑な感情を起こさせるのです。嫉妬心のような、被差別意識のような、いや屈折したある種のナショナリズムというか、そう、ちょうどこの地に色濃く残る「富士王朝伝説」や「後南朝伝説」のような、いわば敗者の美意識やナルシシズムのようなものでしょうか、そんなものを感じてしまうのです。
 それもまた「文化」と言ってよいものなのか、私にはわかりません。しかし、裏富士に住み、裏富士と毎日対峙し、裏富士に魅入られた者としては、やはりそこにこだわりたい気持ちがあります。
 この本で紹介されている「文化」の中にも、裏富士ものはあります。万葉集の高橋虫麻呂の長歌から始まり、聖徳太子の甲斐の黒駒による登山伝説や、全編によく引用されている「義楚六帖」の徐福伝説も基本裏富士を舞台としたものですし、富士講の中心も裏富士でした。そして、間もなくちょうど生誕百周年を迎える太宰治の「富嶽百景」は、言うまでもなく裏富士が主役です。
 そう、太宰の語る富士が、比較的裏富士の本質をとらえているかもしれませんね。あの歪んだ愛憎。劣等感と自己愛。単に「聖と美」、すなわち「文化」としての富士山ではなく、ある種「俗と醜」をも包含した「真実」としての実在。それこそが私の富士山です。
 そう考えると、やはり太宰治という男はすごいということになりますね。彼はあの作品で、富士山の裏側と人間の裏側を描き切ってしまった。いや、裏側と言っても、単なる暗黒面ということではありません。裏側の「真実」の妖しい美しさというものもあるのです。
 ここに住んでいますと、裏富士を一つのシンボルとして集結した落人たちや、海よりも山を、森を象徴とする縄文系の人々の息吹を感じます。それがある種のコンプレックスとして堆積し、沈潜し、伏流しているとも言えます。その負のエネルギー…いやその「負」というのは、あくまで「正」から見た相対的なものであって、エネルギーには本来、正も負もないはずですね…そのエネルギーの凝結点が、ちょうどあの戦争が始まる寸前に現れた、太宰治の「富嶽百景」であり、出口王仁三郎の「大本」であったと、私は最近考えているのです。考えているというより、感じていると言った方が正確でしょうか。
 そこでどうしても避けられないのが、冒頭に書いた「富士山は女だ」という「事実」なのです。昨日たまたま「活」について書きましたけれど、まさに「活火山」たる「富士山」と「女」がそこにあるのです。
 実はつい先日もウチの活火山たるカミさん(神様?)が噴火しました(笑)。噴火の原因は本人にもわからないくらいですから、男たるワタクシには全く理解できないのです…いや、たしかに導火線に火をつけたのは私の一言だったかもしれませんが。そこには、表向きの女性的な「聖と美」に表裏隣接する、理屈や社会性を超えたなにか恐ろしい「モノ」があるのです。その「モノ性」こそが、「富士山」と「女」を密接につなげる何かなのです。
 富士の表側に生まれ育ち、まずは「文化」としての富士山に魅せられて、そこに引き寄せられ、そのうちその裏側に囚われて、そして呑み込まれていった私。そんな私から見ると、富士は女だ、女は富士だと思わずにいられないわけです(苦笑)。
 そうしますと、やはり「文化」というのは、男の手による社会的なフィクションだということになるのかもしれませんね。そんなことを考えさせてくれた、この本でした。著者の意図とは全く違った感想でしょうね。上垣外さん、すみません。

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2009.05.30

インスタントコーヒーをかきまぜる時の音がだんだん高くなるのはなぜ?

Uni_2612 起きると、まずコーヒーを淹れて飲みます。というか、私は一日一食(夕食のみ)なので、朝はコーヒーを2杯飲むだけです。
 で、今日も朝5時、優雅に早朝コーヒーをいただこうかと思ったら、あれれ?買い置きしておいたはずのコーヒー・ペーパーが見当たらないぞ。どこにしまいこんだんだ?
 朝の習慣が崩れるというのは、一日のスタートとしてはあまり望ましくない事態です。しかたなく、たまたま見つけたインスタント・カフェオレを飲むことにしました。
 スティックから粉末をカップに入れ、沸かしたお湯を注ぎます。トクトクトク…この音の音程がだんだん高くなるのは、これは理屈でわかります。楽器みたいなものです。
 さて、それでいよいよ、かきまぜる段になりました。スプーンを回します。すると、スプーンとカップが触れ合う音が聞こえてきますよね。その音程もまただんだん高くなります。
 のちにもう一杯入れて録音してみました(笑)。
 こちらです。
 これは皆さんも経験なさっていることと思います。今まで、私も何度となくこの妙なる音楽を聞いてきたわけですが、なんでだろうと思ったのは、実は今日が初めてでした。
 2杯目、すなわち録音した時は、スプーンを回転させる速度をなるべく一定に保つようにしてみました。なんとなく、回転が速くなると音程が高くなるような気がしたからです。これはモーター音やエンジン音からイメージされるとおりですね。
 しかし、結果は上の録音のように、やっぱり高くなっていく。これはいったいなんでなんでしょう。
 私の足りないおミソで考えられる理由…というか、なんとなくイメージされる因果関係の「因」を書き出してみました(全然科学的ではありません)。あえて、先ほどの回転速度も入れておきます。

1 液体の回転速度(流体速度)
2 溶解の度合い(固体と液体の比率)
3 カップの温度変化
4 気泡の量(液体と気体の比率)

 1については、先ほどの実験の結果却下。2はあり得ますね。固体と液体では音の速度も変わりますし、伝達しやすい周波数にも変化が生じそうです。3は、たとえばただのお湯とか、ドリップしたコーヒーをかきまぜても、全く音程は変化しませんので却下。4も2と同様の理由で可能性があります。
 皆さんは、どうお考えでしょうか。これって、みんなが経験している割に、なぜか考えられてこなかったんじゃないでしょうか。
 私なんか、おそらくもう数百回聞いていながら、全然疑問に思わなかった…どころか、この音程が上がり切ったらかきまぜ終了!みたいなシグナルとして聞いていたりして(笑)。
 しかし、いざ考えてみたら、やっぱりわからない。2と4を確かめようにもどう実験していいかわからん。というわけで、ネットで調べてみたら、百家争鳴、侃々諤々。だいたい私の考えた四つの意見があったり、「気分がハイになって実際は変化していない音程が高くなっているように聞こえる」という2ちゃんぽい意見もあったり、とっても面白いことになっていました。
 と、そこに伏兵現る。な、なんと、高校生がこの謎に挑んで、なんとか賞まで獲っていた!
 こちらです。
 むむむ、4ってことか…。やるな大門高校理科部。
 私の足りないおミソでは、どうも音速と周波数の関係がいまいちよくわからないのですが、経験上、弾性と音程の関係というのはわかりますね。ま、簡単に言うと、金属みたいな硬いものを叩いた時はキンキン高い音がするし、軟らかいものではボンボン低い音がします。
 また、遠くの雷は低い音がしますよね。これは空気(気体)が高音を伝達しにくいからでしょう。
 自分の声を録音すると低く聞こえるというのも関係がありそうです。自分の声はふだん、空気の振動とともに骨という固体の振動の両方を聞いています。録音は空気(気体)だけですからね。
 ま、あんまり安直に妄想しますと、科学的ボロが出てしまうので、このへんでやめときます。
 ただ、一つ、私の仮説の2も多少あるような気がするのですが。つまり、2と4の複合的な「果」だと思うんですけど、どんなもんでしょうね。

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2009.05.04

『ねこ耳少女の量子論〜萌える最新物理学』 竹内薫ほか (PHP研究所)

今日の記事は壊れ気味です。ご注意を。
56970560 またまネット上で佐野量子さんの懐かしい映像を観ました。そこでふと思ったのが「佐野量子の量子論」ってのを出したらどうかな、というどうでもいいこと。今では武豊騎手の奥さんですから、「武量子(たけかずこ)の量子論」が正しいな、なんてさらにどうでもいいことを考えていました。ついでに、量子さんが漁師…じゃなくて量子のようにふるまったら、豊さんは大変だろうな、いや、全ての女は量子的存在である…なんてことまで瞬時に考えてしまった。
 量子論に関して、そして、こういう「どうでもいいこと」と「重要なこと」が同時に存在し得ることに関して、私は1月に「二重スリット実験」に思うという記事を書きました。
 そこに、これもたまたまですが、「そういう(量子論のような)非日常的な刺激(それはとっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的なんですが)…」と書いています。そう書いたちょうど1週間後くらいにこのマンガが出たわけですから、私の独言にも実は科学的予測性があったのかもしれません。
 いや、私のそうした意識の前に、量子がふるまいを変えて、そうしてこの本が出たのかもしれない。あの時、瞬間あんなふうに思ったから、今のこの私を取り巻く世界があるのかもしれない。そうして無限に重層的な世界を、私たちは無限選択的に歩んでいるのかもしれない。量子論は究極的にはそんな世界観をも創出しますね。
 私の量子論に対する結論は、その記事にも書いたとおり、「言葉」が悪いのだ!量子は量子!これでいいのだ!という、実に哲学的、バカボンのパパ的なものです。それは今も変りませんし、絶対に正しいと信じています。この世は漫画的、あるいは夢的、妄想的であるべきです。
 さてさて、話を本題に導かねば。そんな漫画的な世界をマンガにしてしまったのが、この本です。私の前に座っている、いつもいろいろなネタを提供してくれる理科の先生(女性)が持っているのを見つけて、借りて読んでみました。
 結論。やっぱり量子論は「とっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的」でした。量子さんはやっぱり豊さんを苦しめていたっていうことです(笑)。そう、そういう量子の存在の仕方やふるまいを、女性の「萌え」要素と重ねて表現するという究極の方法、さらに、シュレディンガーの猫に対する我々猫ヲタのシンパシーを露骨に利用するという禁断の手法を、この本は恥ずかしげもなく披露してしまっています。なんということでしょう。
 その理科の先生の蔵書の一つである『元素周期 萌えて覚える化学の基本』をお借りした時と同じことを叫ばせてもらいます。
 PHP研究所よ!これでいいのか?!Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)!!松下幸之助さん!これでいいんですか!?(笑)
 まあ、いいのでしょう。昨日の記事にも関係しますが、「繁栄」と「平和」と「幸福」という絶対矛盾を実現するには、たしかにオタク的生き方をするしかありませんからね。世界はオタク化すべきです。非核化なんて無理なことはあきらめて、オタク化を推進すべきです。六者協議は北朝鮮の非核化を目指すのではなく、オタク化を目指すべきです。オタク三原則、オタク平和都市宣言、東南アジアオタク地帯条約…ああ、頭がおかしくなってきた(笑)。
 まあ、これほど、この本には破壊力があるってことですよ。今までいろいろな萌え系の学習書を紹介してきましたが、これほど自然なものはありませんでした。素材を無理矢理萌え風に料理しているのではなく、素材自体が萌え的なんです。量子のふるまいはツンデレなんです。
 そう考えてくると、「萌え」というものは、まさにこの世の萌え出づる原点「量子」への共鳴なのでしょうか。では、私の「萌え=をかし論」からすると、枕草子は量子文学ということですか!?ww
 もうわけがわかりません。やっぱりこの世は漫画的です。バカボンの世界です。やっぱり霊界物語は正しかった。最新物理学がやっと霊界物語に追いついたってことですかね。
 最後に一言。やっぱり「超ひも理論」って、訳し方のセンスがバカボンしてますよ。もう、この世は粒でも波でもひもでも何でもいいような気がしてきます。
 全ての女はツンデレな「量子」であり、全ての男はその「超ひも」である…これでいいのだ!これでノーベル賞とれないかな(笑)。

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2009.05.03

エコとは?

↓何この可愛くないキャラクターは…笑
Top_logo 月の15日から「エコポイントの活用によるグリーン家電普及事業(仮称)」が始まります。もとは7月から実施の予定だったものが、買い控えによる家電の販売低迷が起きたために前倒しするとのこと。
 皆さん、もうとっくにお気付きと思いますが、これは環境対策ではなく追加経済対策です。「エコロジー」を騙った「エコノミー」政策です。
 もう一つ、なんだか紛らわしいものに「エコ・アクション・ポイント」というのがあります。こちらは一見純粋な環境対策のようにも見えますが、ポイント付加による購買意欲の向上が伴い、また、事業所もそれを企業イメージのアップに利用する点では、やはりエコノミー・アクションに過ぎないとも言えましょう。
 非常に単純化して言ってしまえば、「エコロジー」と「エコノミー」は相矛盾するものだということになります。そんなことは小学生でも解ります。しかし、大人たちはその矛盾を隠蔽して、いや見て見ぬふりして、「エコ」という巧みな言葉を振り回します。「エコ」とつづめて言うことによって、天使と悪魔を同居させてしまう。だから、私にとって「エコ」は単なる「偽善」の記号にしか過ぎません。
 今日、卒業した生徒たちのmixiの日記を見ていたら、「江古田(エコだ!?)」に住む女子が「エコは嫌いだ!」というようなことを書いていました。そして、とっても面白いことに気づいて、エコの偽善を軽く超越する遊びに興じておりました。
 彼女曰く「いっぽん、棒を足せばいいんだ! 」。
 そう、つまり、エコの「コ」に一画足して「ロ」にしちゃえ!ということです。つまり「エロ」ですな。彼女が提唱する「エロ」は、「節約エロレシピ名人」「エロバッグ」「エロキュート」「NHK地球エロ2009」「エロガラス」「ガチャピンのエロカイロ」…。
 うむ、なるほど。はっきり言って、こっちの方がずっと上品ですよ。「エコ」のような偽善は微塵も感じません。ある種の自然体の潔さというか、野性の生命力のようなものを感じさせ、これぞ本当のエコロジーであると言いたくなりますね。
 そうそう、ちょっと前に「我々が左右の手で大事に抱えているものとは…!?」という記事を書きましたね。左右という漢字に含まれる「エロ」成分こそ、人間の本質だと語りましたっけ。
 世の中では、なぜか「エコ」という偽善、ウソの標榜は許されるのに、「エロ」という真理の方は隠蔽されてしまいます。たまに草彅(なぎ)剛くんのように、自分の偽善に堪え切れず真理を体現する人もいますが、そうするとたいがい「公然わいせつ」とか言われて弾圧されます(彼の行動についての私の意見は「GJ!草彅剛(くさなぎつよし)くん!!」「草彅(なぎ)剛くんと二・二六事件」をご覧ください)。
 公然偽善罪っていうのはないんでしょうかね。あっそうだ、公然の「エロ」は「ポルノグラフィー」と言われますが、公然の「エコ(偽善)」は「エコ・ポルノグラフィー」って言われるんですよ。御存知でしたか?辞書にはこうあります。
「エコ・ポルノグラフィー:環境問題に対する人々の関心を利用した,企業の広告・広報活動」
 全く破廉恥ですよね。
 もう一つ、ワタクシらしい(?)言葉遊びを披露しましょう。
 「えこ」と入力して変換されるのは、「エコ・eco・依怙」ですね。前の二つは今までお話として、最後の漢字、どっかで見たことありませんか?そう、「えこひいき」の依怙ですね。
 さて、この依怙という言葉ですが、もともとの意味は「自分の利益・私利・わがまま」という意味なんです。まさに「エゴ」(笑)。面白いでしょ。我が山梨県にある大善寺の文書(1196年)にこういう文言があります。
「就中於寺内更無一分依怙」
 つまり、寺の中ではエゴは許されないということです。私利私欲を捨てて利他に生きることを目標とする仏教なら当然のことですね。
 まあ、いずれにしてもですね、「エコロジー」と「エコノミー」を一緒くたにし、「エゴ」の濁点(汚点)を隠蔽して「エコ」と騙り、世の中に「依怙」を蔓延させるくらいなら、いっそ「エロ」を全裸で叫んでいた方が、ずっと地球に優しいということですよ。
 私も「エコポイント」やら「エコ・アクション・ポイント」なんて集めないで、「エロポイント」や「エロ・アクション・ポイント」集めようかな。あっ、それもまずいか(笑)。

関係記事
地熱発電とEDLC
偽善エコロジー
ほんとうの環境問題
環境問題はなぜウソがまかり通るのか
常識はウソだらけ

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2009.04.22

『人體問答』 金子尚政 著 田中義兼 閲

 リードル婦人世界など、実に興味深い貴重な書籍を持ってきてくれた生徒が、新しい資料を提供してくれました。これもまた珍しい。
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 まずは奥付を見てみましょう。
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 明治10年の発行ですね。明治4年に文部省が設置され、欧米の教育法が導入され、5年に「学制」が制定。8年に満6歳から14歳の8年間を「学齢」とすることが決定しました。その直後の、師範学校のテキストですね。人体について、小学生にどのように教えればよいか書かれています。

 ちょっと内容を紹介。「鼻」の部分です。3行目の軟骨の説明が面白いですね。牛肉の白いヤツってことですね(笑)。↓click!
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 実は、この本の面白いのは冒頭の口絵です。全部紹介します。天然色(カラー)です。まず最初の一枚。ステキなパンツはいてますね。
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 二枚目は後姿。江戸の浮世絵の伝統が感じられる描写です。髪形もステキですね。
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 三枚目はガイコツ。腰のひねり具合がキュート。
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 四枚目は血管図。さりげなくイチモツが登場。
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 五枚目は内臓図。内臓が全体に上にあるような…。それよりこの表情ステキ過ぎ。つぶらな瞳。
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 そして謎の六枚目。「闘力の図」って、プロレスだなこりゃ。どう見ても、バックを取ってジャーマン・スープレックスを仕掛けようとしているのに対し、足をフックしてこらえようとしていますね、こりゃ。かっこいいぞ。
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 ちなみに奥付にある發兌人の「内藤傳右衛門」は、今の山梨日日新聞の基礎を作った、甲府の書店温古堂の書籍商です。山梨ではちょっとした有名人ですね。

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2009.04.21

『爆笑問題のニッポンの教養 「永久エネルギー誕生!~原亨和(触媒化学)」』(NHK)

20090421_1 日、地熱発電とEDLCという記事で、ちょっと科学者の皆さんを揶揄してしまいましたね。マッチポンプだ!とか言って。
 今日の爆問学問は「永久エネルギー誕生!」ということで、まさにそんなようなお話。原先生、やっぱり私と同世代で、同じような科学教育(洗脳?)を受けてきたようですね。そして今でも少年のまま(笑)。「石油がなくなったらどうしようという不安」…オイル・ショックのトラウマですね。
 そして、先生、「今の生活の水準を保ったまま、生き残る」という「サバイバル・サイエンス」について、熱く語っていたようです。
 …「ようです」と書いたのは、なななんと、この番組10分の1しか観ていないからです。最新のサイエンスは、この番組のほとんど全てをモザイク状にしてくれました。
 この季節になりますとね、ここ富士山では非常に大きな自然の変化があるんです。無数の木々が芽吹きますでしょ。そうしますと、そこを通ってくるUHF波が大きな影響を受けまして、地デジの映りが悪くなるんです。
 ちゃんとアンテナを設置しろよ!とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。しかし、「今の生活の水準を保ったまま」テレビを観たいじゃないですか。ほんとうにすぐそこに送信所があるんですよ。アナログ波の時は、室内アンテナで充分だったんです。だから地デジも室内アンテナで観たいですよね。
 と、最新の科学も、このように自然の複雑さにはとても対応できないわけです。良かれと思って(たぶん)やったデジタル化が、思わぬところで以前の科学(アナログ)以上の不便を生んでしまうことは多々あります。
 まあ、それにしても、「カーボン固体酸」、こりゃすごい発見、発明ですね。水に溶けない硫酸かあ。たしかに少年の私だったら、大興奮でしょう。でも、今やいいおじさんになり、科学に対してある種の虚無主義になり、仏教などをちょいとかじったワタクシからしますと、ううん、ちょっと怖いなあというのが正直なところです。
 考えてみると、「触媒」というものは、人間の欲望の象徴のようなものです。自然の化学反応の速度を加速する。いわば時間を操ることですから。それは「もののあはれ」、すなわち自然が思いどおりにならないことを認めない行為の、最も顕著な形ですから。
 化学的な触媒に限らず、あらゆるテクノロジーは触媒的な性質を持ち、触媒的にふるまっているとも言えますね。全ての科学は、時間の短縮か、逆に伸長のために発達してきたとも言えるのです。
 ま、私が原先生の立場でしたら、人間の脳ミソに働く触媒を開発しますね(笑)。知足を促す触媒。不安は執心から生まれますから、そういう執着を溶解する触媒。そんなに急がないで、ゆっくり歩んでいくための触媒。うん、結局、反応速度を落とす触媒ってことなのかな。そんなに焦らないでって。
 欲望の反応速度を落とす触媒かなんかを、テポドンかなんかに積んで、アメリカに落としてもらいましょうかね(すみません、不謹慎で)。
 いや、冗談抜きで、戦争の火種は全てエネルギー問題ですからね。縄張り争いって結局そうでしょ。土地や人民はエネルギー源です。
 先ほど書いたように、しっかり観てないし聞いてないんですけど、まあ、原先生は仏教的には悟りからほど遠いなと思いました。ちょっとキリスト教的な焦燥感というか、ある種の終末観というか、そんなものすら感じてしまいました。
 とりあえず、硫酸は水に溶けていいと思います(笑)。

爆問学問公式

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2009.04.18

剣丸尾樹海散歩

 日はあんまり気候がいいので、家族で近所を散歩。近所と言っても、ここは富士山ですから、いきなり樹海ですよ。ただ、いわゆる青木ケ原樹海ではなく、剣丸尾という溶岩流上の樹海です。スバルラインの近くと言えばイメージしてもらえるでしょうか。
 子どもたちも様々な発見に大興奮。いやあ、自分たちで言うのもなんですが、いい所に住んでますねえ。最高のレジャーでした。
 以下写真で紹介します。

↓スタートはカラマツとフジザクラとミツバツツジの森から。
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↓まずは鳥の巣を発見。
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↓コブシ満開。
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↓いよいよ樹海らしくなってきました。
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↓一つ目の溶岩樹型を発見。
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↓母親による木登り指導。
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↓二つ目の樹型を発見。今度は侵入成功。
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↓三つ目の樹型では雪を発見!
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↓四つ目は横臥型樹型。天然の冷蔵庫で氷柱もありました。
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↓天然のマユを発見。黄金に輝いていました。
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↓スバルラインのトイレでシュールなデザインを発見。
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↓富士山に穴をあけるアリたち。
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↓樹海にはいろんな形の木があって楽しいですね。
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↓ホオの葉とカマキリの卵で変身!
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↓自然のくぼみで休憩。これが気持ちいいんだなあ。
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↓目をあけるとこんな光景が…。気持ちよすぎ。
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↓ママはこのあと降りられなくなって困ってました(猫みたい)。
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↓ウサギのうんこが金色に輝いて宝石みたい。
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↓富士山麓は今、桜が満開。
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↓ゴールには見事なミツバツツジが。
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 というわけで、楽しい1時間の旅でした。世の中の子どもたちも、DSなんてやってないで、こういう所で遊びましょう。ずっと楽しいし、エキサイティングですよ。

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2009.04.16

地熱発電とEDLC

Chinetuhatuden 年時代は理系を目指していたのに、なぜか文学部国文学科を出て、国語のセンセイになってしまったワタクシです。
 しかし、いまだに理系の研究職に憧れている部分もありまして、先日も白衣を着ている夢を見ました。単純と言えば単純な夢ですね(笑)。
 ただセンセイという仕事はいいところがありまして、自分の夢を生徒に託すことができるんですね。それでいろんな生徒がずいぶんと私に人生を変えられました。
 芸術系に行かされた生徒もたくさんいますね。音楽、美術、文学、伝統芸能…これもまた自分の夢でしたから。
 で、理系だったらこれをやってくれとか、これからはこの時代だろとか、まあテキトーに、いや適切に(?)指導をしたりするわけです。無責任と言えば無責任かもしれませんけど…いやいや、けっこう責任重大です。
 逆に、文学部なんか行くなよ!喰ってけねえぞ、とも言ってきまた。本読んでましたって言っても、企業は取ってくれないぞ、と。
 世の中の風潮でもありますが、なんとなく文系、それもいわゆる人文科学の分野は、世の中のためになってないような気がしていました。その点、理系すなわち自然科学や、文理中間とも言える社会科学は世のため人のためになっているし、お金にもなると。
 でも、最近少し考えが変わってきたんです。もしかすると人文科学が一番世のためになってるかもしれない。経済性の低い文学なんていう慰め事の方が、地球環境にはずっと優しいんじゃないか。物質的な豊かさや、自分の属する共同体の安定を求めるよりも、それぞれの人間が自らの内面にウジウジこだわって、ひきこもっている方が、おそらく他の生物や無生物のためには大いに有益ではないかと。
 しかし、人間の歴史はそのことに気づかず、こうしてやってきてしまいました。だから今さらそのことに気づいてもしかたないと言えばしかたないし、あるいはその崇高な哲学を生徒たちに押しつけて、そういうひきこもり生活をさせたとしたら、もっとダメなセンセイと言われること必定です。
 せいぜい宗教家にでもなって一人で山にでもひきこもっていなさい、ということになるのでしょう。
 そう言えば、私が少年の頃、「科学」や「工業」や「技術」は憧れの的でした。私もご多分に漏れず、将来の夢と言えば「科学者」「エンジニア」と書いていました(あるいはプロ野球選手と)。そうして、いかに地球上の、あるいは宇宙空間のエネルギーを自分たちのものにするか、それに携わることがカッコいい、正しいことだと思っていました。
 私と違って、その夢に向かってしっかり勉強をして、それを叶えた人たちもたくさんいて、そうしてこの「豊かな」世の中を作り上げてくれました。ありがたいことですし、立派なことです。
34_zenn_silver_1 そして、今、理系の方々が一生懸命取り組んでいらっしゃるのが「エコ」です。今度はいかにエネルギーを無駄遣いしないかが、最大の課題になっています。最先端でスマートでカッコよくて、そしてなぜか金になるのが「エコ」です。
 自然科学は、いかに個人の感情を抜きにした(しようとした)ものと言っても、やはり人間の所業ですからね、結局人間の本能を満たすために使われてしまった。当面の本能、欲望は豊かで楽な生活でしたから、自然科学がこのような世の中の発展に寄与したのは当然と言えば当然でしょう。しかし、今度はもっと根源的な本能に関わることになった。すなわち生存の本能です。
 このままでは、人類は滅亡してしまう、自然環境的にやばいということになってきたわけです。そこで、今度は、ある意味全く逆のベクトルで自然科学が活躍することになったのです。
 これって、考えようによっては、理系のマッチポンプとも言えますよね。理系のお仕事には、実はそういう自己生産性があるんです。本質が拡大再生産的なんです。
 と、ずいぶんと前置きが長くなりました。どうでもいいことをベラベラとすみません。
 で、結局今日言いたいことは、そんな屁理屈ではなくて、とりあえず我々の生存、人類の存続、地球の長寿化のために必要なエネルギー研究はですね、この二つだと思うんです。もし自分が理系の研究者だったらやってみたいこと、つまり、生徒にやらせたいことはこの二つです。
 地熱発電と電気二重層コンデンサ(EDLC=ウルトラ・キャパシタ=スーパー・キャパシタ)。
 これが実用的になれば、とりあえずエネルギー問題の大半は解決すると思うんだけどなあ…。たとえば、無尽蔵で半永久的に供給される地熱でもって発電した電気を、大容量の高性能キャパシタに数秒で充電して、電気自動車を1000キロくらい走らせる。
 それこそ国策で真剣に取り組めば、あっという間に可能になるような気がするのですが。日本は両方得意なはずなのに、今一つ研究が進んでいないような気がするんですよねえ。プロデューサー、ディレクターが悪いのかなあ。
 そうか、とりあえず、教え子を総理大臣にするしかないか。まずそこから始めなきゃ世の中は変えられないってことかな。あるいは人類全員を洗脳して、哲学者にしてしまうか(笑)。

地熱発電の基礎知識

「5分の充電で800km」新キャパシタ電気自動車

東大が開発したキャパシタ自動車

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2009.04.05

埋草神社の奇跡!?…スギッチ帰還

2 2年間行方不明だったスギッチが発見されました!
 まずは、その発見の様子を動画にしましたので、左の画像をクリックしてご覧下さい。
 レミオロメンで有名な埋草神社の境内で、スギッチは2年間、じっとうつぶせのまま、発見されるのを待っていたのです!それを、なんと落とし主であるウチの娘が偶然発見するという奇跡。神様ありがとう。そして、スギッチよ、ごめん!
 しかし、結構グロ動画ですね(笑)。目が取れてるし。ま、これだけ見ても事情が全くわからないと思いますので、ちょっと説明します。
Uni_2289 今日は、レミオロメン仲間による恒例のお花見の日でした。御坂あたりは、5分咲きから8分咲きといった感じでしたが、お天気にも恵まれ、みんな大満足。皆さん持ち寄りのお弁当をぜいたくな肴にして、私は地元夏目原の「腕相撲酒造」…すごい名前だな…のにごり酒「黒駒の勝蔵」をぐいぐい頂きました。黒駒の勝蔵とは、有名な甲州の侠客の名前ですね。甲州は独特の侠客文化があったんですよ。
 桜もちょうど満開、菜の花も満開、虫たちもせっせと活動し、生命感溢れる、まさに春!ということで、レミオロメンの歌詞の世界がそこら中に満ち溢れていました。気の合う仲間とこうして1年に1回楽しい時間を過ごせるというのは、実に幸せなことです。こんな出会いを作ってくれたレミオロメンには、本当に感謝です。

Uni_2273 さて、それでですね、我々は最後にこれもまた恒例となっている「埋草神社」への参拝をしました。埋草神社とレミオロメンの関係については、こちらの動画をご覧になるとよくわかると思います。
 境内の桜もまたちょうど見頃でして、子供たちを筆頭にみんな歌う歌う…「Sakura〜Sakura〜♪」。きっと藤巻くんもこの桜を思い浮かべながら、あの曲を作ったのでしょう。
 我々は昨年一昨年も、埋草神社を訪れているのですが、その一昨年ですね、ウチの上の娘が、春休みに秋田でゲットしてきたスギッチの人形をなくしてしまったんですよね。その時はどこでなくしたか、実はわからなかったのです。だから、泣く泣くあきらめてしまっていたんです。
041403 で、今日ウチに帰ってきてあらためて確認したら、その2年前、神社で撮ったこの写真に、スギッチを持っている娘の姿が映ってるじゃないですか。そうか、やっぱりこの時スギッチはこの神社にいたんだ!拡大してみるとこんな感じです。Sgおお、スギッチよ。ごめん!娘はこの後、この神社の境内を駆け回っているうちに、お前を落としてしまったのだ。それから2年間、お前は参道の脇の草むらの中に突っ伏したまま、雨にさらされ、風に吹かれ、雪に埋もれ、雑草や虫たちにまみれ、こうしてじっと待っていたんだな…。うぅ…涙。
 いや、それにしても不思議なのは、この2年間誰にも拾われなかったということです。ある意味保護色であるとは言え、2年前は新品でしたからね、多少は目立つと思いますし、レミオファンのみならず、多くの人が訪れたはずなのに、どうして拾われなかったのか…。
 そしてまた、今日のこの日に、落とした本人、ウチの上の娘に発見されるなんて!もちろん娘はスギッチのことなんて忘れてましたでしょうし、探す気など全くなかったのです。ただ、あの時と同じように、境内を駆け回っていただけです。
 ううむ、やっぱり何か神がかっている。埋草神社の神様(なかなか個性的な神様なのですが…)、ありがとうございました。さっそく、救助されたスギッチを御神体として、ウチの神棚に安置いたしました。
 いやはや、それにしても不思議なことはあるものです。ぞ〜っとする反面、なんかとっても幸せな気持ちですよ。なんかいい予感!(笑)…なんて、スギッチにとってはとんでもない2年間だったと思いますが(泣)。

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2009.04.02

スギ花粉のお話

5 日、生スギッチ初めて見ました。「釣りキチ三平」を観に行った大曲のイオンで仕事してました。なぜかコナン君と一緒にいました。二人はどういう関係なのでしょう。スギッチさんはたしか秋田県の県職員だったと記憶していますが、コナン君の映画の宣伝なんかしてていいんでしょうか(笑)。
 スギッチが県のキャラになるくらいです。秋田県と言えば秋田杉。杉の数はハンパじゃありません。どこを見回してもリアルスギッチ(つまり杉の木)ばかりです。面積比では全国一です。
 では、花粉症の方が多いかといいますと、残念ながら人口比は全国最低レベルです。43位だったかな。これは不思議ですね。
 逆にですね、我が山梨県は花粉症率全国一位です。たしかに周りの人はみんな鼻かんでる。くしゃみをしている。マスクをしている。しかし、杉の木の本数はなぜか全国最低レベルなんですよね。実に不思議だ。
 この事実については、実にテキトーな説明がなされています。曰く、「秋田の人はスギ花粉に慣れている」、「山梨には他県からスギ花粉が飛んでくる」と。
 そんな説明で納得できるわけありませんよね。実にテキトーです。では、どうしてこういうことになるのか。実は生スギッチに会った日まで、私にもさっぱり分からなかったんです。でも、その夜、リアル三平(一平)こと、カミさんのお父さんが、リアル三平(一平)ならではの重要なヒントを与えてくれました。
 ちょっと回りくどくなりますが、その時の話の流れを紹介します。まず、義理の弟と一日一食の話をしてたんですよね。その中で、栄養不足で精力が減退するんじゃないか、というよくある質問をされたんです。で、いやいや、それが逆なんだよ、みたいなことを言ってるところに、義父がやってきました。
 ふむふむ、なるほど、と義父もうなずいています。それで、私が、どんな動物も満腹な時には寝てばかり、ハングリーな時にこそいろいろ盛んになる、ミジンコとかもピンチの時に繁殖するじゃないっすか、というようなことを言ったんですね。そしたら、父がこう言ったんです。
 「そういえば、杉でも日の当たらないような所のやせてる木が、やたらと花粉を飛ばすなあ」
 私はその時、あっそうか!と思わず小膝を打ちました。さすが山のことを知り尽くしている。都会のもやしっ子である私なんかには、そんなこと全然わかりませんよ。
 杉の木も生命の危険を感じると、そうやって子孫を残そうとするんじゃないでしょうかね。生き物として、そういう発想というか、そういう行動に出るのは理にかなっています。
 そうすると、予想されることがありますね。秋田は今でもスギッチ…ではなく杉の産地として有名です。ですから、植林された杉は比較的ていねいに扱われています。しっかり間伐され、枝打ちされ、健康的に育っているものが多い。
 しかし、例えば山梨の杉なんか、たしかにひどいですよ。植えたはいいけれど、もうあとは放置。林業、衰退の一途をたどっていますからね。植えられた杉にとっては迷惑きわまりない話です。もう全てのスギッチが生命の危機に瀕しているとも言えます。ですから、バンバン花粉をまき散らすんじゃないでしょうか。
6 はなこさんという環境省のサイトを見てみましょう。たしかに秋田だけ花粉の飛散量が少ないですよね。これってやっぱりスギッチが元気で幸せだからじゃないでしょうか。
 人間界でも、この飽食の時代はまた少子化の時代でもあります。戦争や飢饉の時には出生率が上がったりもします。先進国よりも発展途上国の方が子だくさんです。まあ、あまり単純に語ってしまうことにも危険性はありますが、全くありえない話ではないのでは。
 杉花粉症は日本に独特の病気です。それも私が生まれた60年代の中ごろから突然始まりました。戦後国策として植林されたスギッチたちが、高度成長の始まりとともに見捨てられていった時期と重なります。
 どんどん豊かになって行く人間と、その人間の都合で集められ、のちに放置された、奴隷たちの反乱なのかもしれません。スギッチを奴隷だなんて思わず、県の職員にまで抜擢した秋田県民には、恩恵だけが与えられているわけです。
 私は、別にそのことに気づいてではありませんが、5年ほど前に一日一食を始め、その翌春には、超重症だった花粉症がほぼ完治してしまいました。それについてはこちらに書いたとおりです。今年もほとんど発症することなく、そのシーズンを終えられそうです。
 私は、結果としてスギッチに大事なことを学びました。花粉症に悩む皆さん、ちょっと発想を変えてみてはいかがでしょうか。

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2009.02.06

『理性の限界―不可能性・不確定性・不完全性』 高橋昌一郎 (講談社現代新書)

06287948 晴らしい本。自分に知識と才能と根性があったら、こういう本を書いていたことでしょう。
 しかし、私には理性の限界…いや、それ以前に根性の限界があったのでしょう。こういう本は書けず、こういう駄文を書き散らしています(苦笑)。
 今日帰宅後何気なくテレビをつけたら、BSジャパンで「養老孟司の環境スペシャル」をやっていました。養老さんの語る「脳化」「都市化」は、ワタクシの言う「コト化」であり、それはまさに「理性」で全てをコントロールしようとすることです。
 で、養老さんが力説していた「自然」の不随意さ、不可解さが、ワタクシ的には「モノ」の本質的な属性であり、それこそ「理性の限界」の外側の世界であると思います。
 我々は、「脳」で「理性」で「コト」で「モノ」的世界を分節、分析し、抽象して、それを制御する手段を考えることに終始してきました。まあ、そのようにプログラミングされているのでしょう。何かを(疑似的であっても)サブミットすることによって安心を得たり、快感を得たりするようにできている。それはこれまでの人間の進化や歴史のベクトルを見るだけでわかります。
 逆に、我々は自分たちの「限界」について語ることを嫌います。それはモノが怖いからです。いつの時代も物の怪は厭われます。限界の先はいかにしても未知なのです。
 そして、そういう人間の弱さを誤魔化すために(だと思いますが)、人間界では、理性的であること、あるいは知性、知識に優れていることを良しとし、その逆を蔑む空気を作っています。
 しかし、実際はですね、もう誰もがお気付きだと思いますが、本当に理性的になると自らの「理性の限界」を無視できなくなるはずなんですね。本当に理性的なら、自分が理性的でないことがわかる…そうすると、自分は実は理性的でないわけだから、全ての人間は全然理性的でないことになる。理性的を標榜してるヤツは全部ニセモノってことになりますね。さっそくパラドックスですな。
 仏教の世界なんかでは、そんなことは自明のことでして、だから、さっさと「自我」なんてものは捨てるわけです。でも、そういう正しい道に進むのはとっても勇気のいることで、たとえば私なんかも全然そういう勇気がなく、頭だけは丸めてますが、とても出家なんかできません。
 そして、理性の牙城たる学校なんていう、まるで処世術を教えるようなつまらぬ場所で働いて、なんだかよくわからん理性的なるものを振り回して禄を食んでいる。まあ、こういう自責を口先だけでも語れるというのは、多少は理性的である証拠かもしれせまんが…と、つまり、理性について語ると、こうして堂々巡りになるんです。
 で、この本では、私のようにいい加減ではなく、ちゃんと理性的に(!)「理性の限界」について語って…いや語り合ってくれています。そう、この本の面白いところは、シンポジウムの形をとっているということですね。ディベートというか、朝まで生テレビというか、そういう雰囲気で激論を闘わせているので、とっても難しいお話が、自然と多面的に見えてきまして、あんまり…いやいや全然理性的でない私でも、ある程度理解できました。
 とは言っても、やっぱり難しい話です。私なんか、不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理、どれがどれだか、どれが誰が発見したかすら、ごっちゃになっちゃいますもん、今でも。えっと、アロウが「そんなことアロウはずがない」だから、えっとえっと「不可能」で、ハイゼンベルクが「はい、全部ヤマ(berg)勘」だから不確定、ゲーデルが「消化が不完全でゲー出る」で不完全…なんて覚えてるくらいですから(笑)。
 それはいいとして、この仮想シンポジウムの面白いところは、その参加者たちですね。数理経済学者、哲学史家、生理学者、科学社会学者、実験物理学者、カント主義者、論理実証主義者、論理学者、国際政治学者、フランス社会主義者、フランス国粋主義者、心理学者、情報科学者、急進的フェミニスト、映像評論家、ロマン主義者、相補主義者、ロシア資本主義者、方法論的虚無主義者、そして、会社員、運動選手、大学生。
 その最後の一般人(?)数名を除いて、「〜学者」とか「〜主義者」という方々、みんなキャラが立っていて面白い。みんな痛いヤツです。筆者のユーモアを感じますね。いきなり登場して、司会者にしょっちゅう「その話はまた別の機会に…」とか言われてスルーされる方々もいて、読んでいて楽しい。
 つまり、そういう「〜学」「〜主義者」っていう、「理性」を売りにしている人々こそ、「痛い」人たちで、なんか他者を受け付けず、自分の「理性」の世界に閉じこもり、すぐにケンカをしかけちゃう(笑)。逆に、会社員、運動選手、大学生たちは、素直に人の意見を聞き、人に教えを乞い、また正直に分からないものは分からないと言う…。
 実はそのあたりが、筆者の表現したかったことなのではないか、そんな気もしました。それこそ「理性の限界」を示しているのではないか。
 そういう意味でも、読後感はなぜか爽やか、というか痛快であります。自分はまあ会社員みたいなもんですから、ここに登場する会社員の方が、一番謙虚で素直で、ある意味とっても賢く感じるんで、嬉しいんでしょうね。
 結論。「理性」的な人間が集まるとケンカになる。ま、そういうことですな。私も「理性」というお荷物を早く下ろして、のんびり生きたいですね。
 とにかくこれは名著です。久々のヒット。理性的でありたい人も、理性なんて信じない人も、ぜひ御一読を。

PS 左のAmazonの自動広告、すごいことになってますね。特に上から二番目。「友人の妻 巨大爆○輪に負けたオレの理性」って…たしかに「理性の限界」だわ(笑)。そして、なぜかギターを挟んでカントの「純粋理性批判」。そしてまた「理性喪失」(笑)。たしかに機械には理性はないようですが、しかし、ユーモアはある!?

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2009.01.31

「二重スリット実験」に思う

 しい時に限って、どうでもいいことを考えてしまうものです。でも、その「どうでもいいこと」が、案外「重要」なことであったりして、そんなところにも、その時点での「どうでもよさ」と、その時点に縛られない「重要さ」が両立するというか、両者が共存するのが分かります。
 量子論では、そういう相矛盾する二つの何かが共存するのが普通でして、だからこそ我々の経験的知性は混乱をきたし、また、それが新鮮な刺激として受け取られるんですけどね。
 で、そういう非日常的な刺激(それはとっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的なんですが)の最も分かりやすい例が、この「二重スリット実験」の結果ではないでしょうか。比較的シンプルで、俗人にも日常的に理解できる実験方法でありながら、奇術的な結果が出るので、それで人気があるのでしょう。何かで「世界一美しい実験」に選ばれたとか。
 まずは、上のYouTubeの動画を再生してみてください。なかなか分かりやすい映像ですよ。
 …どうでしたか?なんとも不思議なことが起きてますね。まず、この実験が本当にこのように行われて、このような結果が出たのか、これは自分でやったわけではないので信じるしかない。電子なんていうものもこの目で見たことないし、それを1発ずつ発射するなんて、それこそマンガかゲームの世界のような気がしますが、そこにつっこみを入れると、もう話が進まなくなるので、ここではそういう欲求は我慢しましょう。
 で、この実験で分かることは、電子は、同時に粒子であり波であるということと、観測すると観測者を意識したようなふるまいをするということですね。もうこの二つだけでも、経験知は混乱します。
 私はこの実験の話を知った時、ああこれはお釈迦さまの教えそのものだな、と思いました。その後実際いろいろな立派な方々がそういう解釈のしかたで、ある種の安心を私たちに与えてくれましたが、考えてみれば、それは根本的解決には全くなっていない。方便としては価値はありますが、それが「科学」や「科学を信じる私たち」を本当に救ってくれているかというと、そうでもないですよね。
 最近の私、というか、今日の忙しい私は、これをどう解釈したかというとですね、やっぱり忙しいからか、ある種の投げやり的態度とでも言いましょうか、とにかくこれは私たちの「言葉」が悪いのだと思ったんですね。
 「粒子」とか「波」とか「観測」とか「観測者」とか、それらは確かに経験知的なイメージを持った言葉です。私たちはその、「言葉」が喚起するイメージで、ある事象を解釈しようとしているわけですよね。なんかその時点で、もうすでに間違っているのではないか…と思ってしまったんですよ。
 つまり、私の言語観からしますと、「電子」や「観測者(正確にいうと観測した誰それ)」は言語以前に存在しているけれど、「粒子」や「波」や「観測」は、言語によって生まれた概念であって、それらを全て同列で文章化する…すなわち因果関係をリニアに並べるのは、これは根本的に無理があるのではないかと。
 だから、あえて言うなら、「電子は粒子でも波でもない。電子は電子である。これでいいのだ!」ということになりましょうか。
 そんなこと言ったら、私たちの文脈化されている全ての営為は否定されてしまうし、この駄文にも何の意味もないことになってしまう。いや、実際そうなのかもしれなくて、かの科学的実験とやらも、実はそういうレベルの問題なのではないかという、なんともやるせない究極的に虚無的な結論に至ってしまったわけです(笑)。
 ま、つまり、正直に言ってしまうと、電子があろうとなかろうと、電子が粒だろうが波だろうが、きれいな干渉縞で出ようが出まいが、あんまり自分の人生や日常の生活には関係ないということでしょうか。というか、ほとんどの人々にとって、実はそうなのではないでしょうか。
 量子論を語る際、必ず登場するもう一つの実験がありますね。そう「シュレーディンガーの猫」です。あの実験については、何の罪とがもない猫ちゃんを箱に閉じこめて、そこに青酸カリ入りの瓶を忍ばせるという、その実験のやり方自体、人道(愛猫道)に反しているので、私は問題にしたくありません(笑)。いや、案外そういう不自然で不道徳な実験だからこそ、「半死半生の猫」というワケのわからん化け猫が生じるのかもしれませんね。
 いやはや、結局、「コト」によっては「モノ」を説明できないということですよ。しかし、ある意味「コト」を窮めると再び「モノ」に帰るということで、私がいつもの「モノ・コト論」になっちゃうわけですね。
 さ、現実に帰って仕事(シゴト)しよう。「コト」を為して「モノ」に帰る。これが人生の修行であります。

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2009.01.03

『偽善エコロジー』 武田邦彦 (幻冬舎新書)

「環境生活」が地球を破壊する
34498080 局、昨日の話にもつながるのかなあ。古き良き時代と今と何が違うのか。そんな単純化できる話ではないというのも分かりますが、やはり今の私たちはちょっと狂っているような気がします。
 著者の武田邦彦さんは、この本で単に「偽善リサイクル」はやめましょうということを述べているのではありません。世間で騒がれている「エコ」な生活、それが本当に偽善なのか、本当に意味のないことなのか、あるいは言われていることとは逆に環境に良くない行為なのかは、これは様々な立場から様々な意見を聞き、最終的には自己の責任において検証、判断すべきことであって、今ここでシロウトである私がすぐに是だ非だ言えることではありません。
 しかし、ただ一つはっきりここで言えることは、武田さんの言うとおり、我々日本人が、誇りや、誠実な心や、謙虚さや、もの作りの魂や、感謝の心を失ってしまっているような気がするということです。
 いや、それは昔も(たとえば昭和にも)、いくらでもそういう汚い心はありました。しかし、それが過半数を越えていたかというと、ちょっと違う気がする。昔は…ずいぶん曖昧な表現ですが…個人の心の中でも、家族の中でも、そして国家の中でも、もう少し善良な魂が力を持っていたような気がします。
 お金もうけのためなら、平気で子供たちにウソを教える大人たち。そして、国やマスコミやいわゆる先生の言うことを鵜呑みにする大人たち。もちろん自分も含めてですが、そういう大人がたくさんいるような気がします。
 偽装だの、捏造だの、あるいは金融危機だの何だの、みんな資本主義経済、あるいは市場経済が生むべくして生んだ人間の心の荒廃の現れです。特に市場が拡大して、しまいには極大化=グローバル化して、お客さんの顔が見えなくなってしまうと、どんどん人間はウソをついたり、人を陥れたりすることに無反省になっていきます。そんなことは子供でも想像できますよね。共感、すなわち思いやりが希薄になって、その結果、その裏に隠れていた醜い本性が表面化するんです。
 本当は、そんな醜い自分の姿を、自分が一番よく見ているはずなんです。もしかすると他人は誰も見ていないかもしれないが、しかし、自分は間違いなく知っている。まさに、天知る、地知る、我も知るですね。
 たしかに、真心というか、誠というものは、これは私たちの本来なのではないのかもしれない。フィクションかもしれない。偽善の努力が必要なのかもしれない。しかし、最後は人さまのためではなく、やっぱり自分のためなんじゃないでしょうかね。そうして「善」でいるというのは。
 でも、今言った「独善的偽善」と、武田さんが糾弾する「独善的偽善」とは全く違うものですよ。前者は自分が不快にならないために善を生み出すのであって、後者のような単にカネ目的で他人をだます騙りとは正反対とも言えるものです。で、この本にも書かれていますが、結局前者の意味での独善的行為が、他者のためになったりする。
 で、逆にですね、後者の偽善が厄介なのは、その騙りが、前者の偽善に働きかけるというところです。つまり、ほんのちょっと存在する、善意の萌芽を刺激して、それを利用して、大きく成長してしまうということです。人をだまして、人の善意を利用して金もうけするというのは、最も簡単に地獄に落ちる方法だと思うんですが。それを平気でやってしまっている人を、なぜか現世では「勝ち組」と言う…。
 それにしても、この本に書かれていることは、たしかに驚愕に値しますね。我々の常識と真反対のこともたくさん書かれています。レジ袋、割り箸、ペットボトル、バイオエタノール、温暖化、ダイオキシン、古紙…本当に面白いほど覆されます。
 最初に述べたとおり、私は今ここで筆者の意見に完全に賛同できる立場ではありませんが、しかし、こういう視点をも持っていたいと思うのは事実です。特に私は先生と呼ばれる仕事をしていますから、その思いは人より強いかもしれません。
 最近、ちょっと辛いんですよね。自分は進学の担当ですから、教科書に書かれていることを信用して丸暗記していい大学に合格しろ!それで世間でうまいこと「勝ち組」になれ!みたいなことを、そんなに直接的には言いませんけれど、結局はそう教えてるんじゃないかって。
 かといって、たとえば仏教的に正しいことを、若者に力説して、もし、もしですよ、それに彼らが共鳴して、今の社会システムに反旗を翻したとするじゃないですか。そうしたら、彼らは幸せなんでしょうか。彼らの親御さんは納得するんでしょうか。そんなことを考えると、自分の仕事が時々虚しく感じられるんですよね。昔はそんなことを考えなかったのになあ…。
 いつかも書いたように、新入生に対する最初の授業では、このリサイクル問題も含めて、いくつかのショッキングな話をします。中学まで教わってきたこと、自分たちも信じてきたことを、根底から覆すような話をします。でも、そこから先が難しいんです。そんなこと知らなきゃ良かったという生徒もいるでしょうし、じゃあどうすればいいの?と悩む生徒もいるかもしれません。逆にそんなこと言ったってどうしようもない、それを知った上で自分はあえて現実的に金持ちになる生き方を選ぶ!というツワモノもいるやもしれません。
 ただ、知らないで騙されるのだけは避けてもらいたいんですよね。そのあとは自分で考えて選べと。ちょっと無責任ですが、そういう気もするし、いや、実は、こんな悪意に満ちた騙し合いの世の中を根底から変えようという、そういう大人になってほしいと思っているのかもしれません。自分にはできそうにありませんので。

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2008.12.07

火球 (リアル・エメラルドフロウジョン)

下の写真はイメージです(作ってみました)。
Kakyu_2 れいだったなあ。久しぶりに火球を目撃しました。
 今日18時23分頃、西の空にマイナス4〜5等級の大きな流星が流れました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。
 私は、家族と買い物を終えて自宅に戻る車の中で、フロントガラス越しに観ましたので、おそらく軌跡の後半部分しか見ていないと思います。なにしろ富士山のくねくね道なので、ちょっと正確な座標が割り出せないのですが、いちおうデータ的なことを書いておきましょう。

2008年12月7日 18時23分頃 
観測地 山梨県南都留郡鳴沢村字富士山(標高1100メートル)
方角 西 (夏の大三角付近から金星の北側まで視認)
   消滅高度 地平15度くらい
方向 垂直落ち(やや左落ち?)
速度 速い(最後失速)
光度 マイナス4〜5等級(金星よりは明るかった)
色  緑〜青緑
尾  長い(火花あり)
分裂 あり(たぶん最後2,3個)
痕  未確認
 
 最初は花火かと思いましたよ。失速する感じや、なんといってもそのあまりに鮮やかな緑色が、とても自然の流星とは思えなかったからです。帰宅後、さっそく火球報告の掲示板などを確認しましたら、東日本を中心に多くの方が見たようです。時間帯的にも、方角的にもかなり見易い火球だったのでは。色からして人工衛星の落下という可能性もありますね。
 火球(明るい流星)と言えば、ええと、35年くらい前でしょうかね。マイナス10等級クラスのものを観たことがあります。地下室に眠る全天恒星図を引っ張り出してくれば、正確にいろいろ記録してあるはずですが、とにかく夕刻ものすごい明るさの火球を見たのです。見たというより、照らされたっていう感じですね。その日は雲量9くらいの曇天だったのですが、雲を透かして私が照らされるくらいの明るさでした。それ以来でしょうか。これだけ大きなものを見たのは。
 まあ、例の2001年のしし座大流星雨の時にも、そうとう明るい火球がじゃんじゃん飛んでましたが、なんだかあれはもう異常事態という感じで、逆に印象が薄れてしまっている。現実じゃなかったような気さえしますね。
 ところで、今日は、車の中には家族全員いたんですけど、火球を見たのは私だけでした。子どもたちにも見せたかったなあ。流星群観測は何度かいっしょに行ってますが、今回レベルのものはまだ見てないでしょう。こればっかりは運ですからね。
Ef ちなみにカミさんは、私が「うわっ火球だ!エメラルドみたい!」と叫んですぐに、「エメラルドフロウジョンか!?」って言ってました。そう、三沢光晴選手の必殺技ですね。今日も中嶋勝彦くんをこの技で沈めました。ついでに、今朝はポケモン・サンデーに三沢選手が出たんですよね!なんと、三沢さん、ポケモン好きらしい!これは驚きです。「人に言えない」って言ってましたけど(笑)。
 来週は恒例のふたご座流星群がありますが、今年は極大日(13日から14日にかけて)が満月で条件最悪です。私もその晩は東京に泊まりの予定ですので、ちょっとムリかな。比較的明るい流星の多い流星群ですので、寒い中30分も空を見上げてれば、いくつか見られるでしょうけど。
 ついでに予告しておきますと、来年(2009年)のしし座流星群は、小規模の流星雨になる可能性があります。1466年にテンペル=タットル彗星が残していったダストトレイルの中を地球が通過するからです。ほうき星のくせにゴミをたくさん残してくんですよね(笑)。11月18日の未明がチャンスだと思います。こちらは月明もなくいい条件ですから期待しましょう。
 ああ、それにしても美しい「よばひ星」を見たなあ。あれだけ派手な尾があれば、夜這いはバレバレですけどね(笑)。なんとなく三沢さんが浮気してバレてる様子が目に浮かんでしまった…すんません、三沢さん(笑)。

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2008.12.02

『数学ガール 上』 結城浩 (著),日坂水柯 (イラスト)  (メディアファクトリー)

Img55854901 学の先生にお借りしました。この前は化学の先生にこちらの萌え系を借りましたっけ。とうとう「萌え」は数学の牙城にまで迫ってきました。こっちは mathematical girls だ。
 というか、もともと数学って思いっきり妄想世界ですし、ある種自分の理想のスタイルやデザインを追求する性質のものですから、案外私の定義する「萌え=をかし」観と近しい関係にあるんですよ。疑似的な永遠性を得ているわけですからね。
 それで、たとえばペレリマンのような天才数学者はあっちの世界へ行ってしまった。究極の萌え感情は、ほとんど宗教と化しますので。
 そう、「理系の人々」ではありませんが、実は不随意な「モノ」よりも、不変な「コト」を求める理系さんは、本来的にオタク傾向があるわけです。
 一方、文系は「もののあはれ」に走っちゃうわけですね。それもまたある種のオタク傾向でありまして(国語のセンセイである私を見ればわかる)、結局すべての人間はオタクという極点に収束する…なんちゃって。
 ま、それは半分冗談、半分本気としまして、この数学ガール。数学の先生曰く、数学の部分はなかなかしっかりしているとのこと。それも、専門の世界においては基本的なことばかりらしい。私にとっては初めて知ることが多く(もちろん解らないのがほとんどでしたが)けっこう楽しめました。
 実はですねえ、高校数学でとんでもないコンプレックスを持ってしまった私は、ある時期までは完全に数学アレルギーになっていたんですけど、面白いもので、この本あたりから、その世界に興味を持つようになったんですよ。一種の憧れのようなものもあるんじゃないでしょうか。相変わらず数式などは全く理解できないのですが、なんというか、それを取り巻く人間たちの人間模様でしょうかね、数学という究極のフィクションが照らし出すリアルな人間像とでも言うのでしょうか、そういうものにとても興味を持つようになりました。
 その後、「博士の愛した数式」あたりで、数学の美しさが文学や映画になったりしてブームになりました。なるほどそういう切り口からも数学の魅力を伝えることはできる。
 で、このコミックはどうか。数学と青春…いったいどういう展開なのだろうか。結論から言いますと、一見この三角関係はですね、別に「数学」を介さなくても成り立つというか、それがスポーツであっても、アニメであっても、とにかく恋の媒介としては、まあなんでもいいわけですよ。そこに数学を持ってきたからちょっと新しい。けれども、これは数学である必然性はないな、と思ったのです。
 しかし、なんとなくある瞬間、あっ、これは数学の不条理と残酷さでなければダメなのかも!と気づきました。
 冒頭に出てくる「なぜ素数に1が含まれないか」という疑問に対して提示される、「素因数分解の一意性」。こういう定理や、その定理より前に存在している(存在せしめられている)公理というものの、恣意性やある意味での社会性やそれに伴う暴力性。これって案外美しいものじゃないなと(テトラちゃんも「そんな勝手な定義」と言っています)。
 「一意性」は数学においてとっても重要なことらしいのですが、ま、ちょっとこじつけですけど、それって例えば「配偶者は1名に限る」というような法律につながるものですし、あるいはそれ以前に「恋愛の対象は特定の1名が望ましい」という不文律にもつながるように思います。
 「定義は有用でなければならない」とありましたが、それはまさに社会的有用性ですよね。個人で勝手な定義を作るのは自由だが、それに全ての他者に対して有用性がないとダメだというわけです。
 ですから、そんな、個人的にはかなり強引な足かせの中で、我々は明確な解答を求められ、そしてそのルールの中でその正しさを証明していかなければならない。そういう社会性が私たちに倫理を求めるのです。だから恋は難しくなり、文学の題材になっていく。
 ある意味、数学というのは、宇宙規模での社会性です。少なくとも地球レベルではありますし、どうも宇宙でも通用しそうです。そんな厳しい公理や定理の中で、彼らの淡い恋の三角形(いや帯によると「3人が描く単位円の軌跡」)はどうなっていくんでしょうか(ちなみに数学の先生によりますと、単位円の軌跡はどうなるもクソもないそうですが…たしかにそうですね…笑)。

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2008.11.15

『地球の水が危ない』 高橋裕 (岩波新書)

4004308275_2 れはいい本ですね。私たちが当たり前のように思っていること、あるいはそれ以前に当たり前すぎて意識にすらならないこと。それらが実は当たり前でないということを教えてくれます。
 こと水に限らず、そういう「当たり前」「常識」というものが、実はいかに「有難い」のか。それを知ること、そういう視点を持つというのは実に大切です。自分にとっての常識が誰かにとっての非常識である可能性を意識することは、このグローバル化が叫ばれる現代において、ある意味身につけなければならない技術であるとも言えます。
 先日『「水」戦争の世紀』について書きましたが、それよりもさらに基本的な水問題について書かれているのがこの本です。
 そうですね、私の意識しなかった自分の常識、世界の非常識、あるいはその逆、自分の非常識、世界の常識を書いておきましょうか。

 ・水不足と水汚染で世界では年間400万人、8秒に一人が亡くなっている。
 ・世界の半分の人は屋内にトイレを持たない。
 ・地下水に自然のヒ素が含まれる地域がある。
 ・国際河川、国際湖がない日本は非常に特殊な国。
 ・キリスト教とイスラム教、ユダヤ教の争いの種は実は水?
 ・日本は大量の水を輸入している(食糧輸入および輸入木材による間接水の輸入)。
 ・ミネラル・ウォーターの激増は、海外旅行者増が原因?
 ・信玄堤は理想の治水哲学。
 ・水をいかに無駄遣いしないかが文明のバロメーター。

 そう言えば、少し前のNHKクローズアップ現代で、バングラデシュの井戸のヒ素被害の話が取り上げられていました。日本の若者たちがボランティアでバングラデシュその他の地域で井戸を掘ってあげた。現地の人々は冷たくおいしい水が間断なく出る様子に感激し、日本人に感謝する。その井戸にはそれを掘った若者たちの名前が刻まれている…と、そこまではなかなかの美談であります。しかし、なんとその地域の地中深くには天然のヒ素が多量に埋蔵されていたのでした。まさに寝た子を起してしまった状況です。深刻な健康被害が多数発生してしまいました。善意が救いがたい悲劇を生んでしまったのです。
 残念ですが、それはやはり軽率な行動だったと言えましょう。生物の命にとってあまりに大切な水なだけに、念には念を入れて、慎重にことを進めるべきでした。
 また、水という必需品の飢餓状況を、ビジネスに結びつけてしまうのもどうかと思いますね。たしかに、安全でおいしい水を手に入れられない人が世界中に12億人もいるのも事実です。しかし、それを商売にしてしまうのは、それはもう命の売買にほかなりません。食糧とは訳が違います。
 それにしても、日本がこんなに大量の水を輸入していると知りませんでした。たしかに、輸入している野菜などは、栽培するのに現地の水を大量に使っていますね。木材もそうです。私たちは外国の水で自分たちの食糧を作らせているわけです。私にはそういう発想は全くありませんでした。
 あと、国際河川がないということ。これも案外意識されない。これはもしかすると日本が平和な歴史を持つ理由かもしれませんね。たしかに、こんな国はそうそうありません。もちろんスケールを小さくしてですね、日本の中の国と国、今で言えば県と県、あるいは市と村などの水争いはたくさんありましたよ。ウチの近所の市でも、昭和の初めまでは、本当に争いが絶えませんでした。明治、大正あたりの新聞を見ると、しょっちゅう水を巡って大げんかをしています。
 いずれにしても、今日も私たちは一人数百リットルの水を使っています。「湯水のように使う」という慣用句がああいう意味で使われるのは、それこそ日本だけではないでしょうか。世界の常識なら逆の意味になるのかもしれませんね。
 前も書いたように、我が村は数十年前まで一人1日9リットルしか水を使えなかったそうです。いちおう今、世界標準では50リットルで最低限の生活だということですから、本当に苦しい生活を強いられていたんですね。しかし、これも昔話としては片づけられないのです。今、こうして使っている水、あるいは素敵なネーミングを施されて全国にガソリン以上の価格で売られているあの水たちも、電気の力で汲み上げられているのです。もし、何がの事情で電気が使えなくなったら…ま、単純に富士山が噴火して停電になったら、もう水は出ないのです。
 実は富士山には猿がいません。水場がないので住めないということです。もし、水道が止まったら、私たちも猿のようにここから出て行かなければないないのでしょうね。

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2008.11.14

『元素周期 萌えて覚える化学の基本』 (PHP研究所)

56970278 、これは…(苦笑)。
 なんだか最近私が「萌え」の研究家だみたいに思われていて、ちょっと厳しい状況であります。私は実はそっちのことは全然知らないし、決してそういう趣味ではないのですが…。
 ま、んなこと言って、学術誌の萌え特集に寄稿してたりしますからね。世間的にそう思われてもしかたありません。ただ、そういうわけで、萌え物件に客観的に触れる機会が増えたのはたしかで、そうしていると、最初はナンダコリャって思っていたものが、抵抗なく観ることができるようになっている。慣れっていうヤツですね。良かったのやら…。
 でも、さすがにこれはビックリしました。いやはや…。ついにここまで来たか。元素少女118人。118 Element Girls。
 いや、元素の擬人化というアイデアは、これはありだと思ってました。というか実際すでにありましたし。
Ox この前、NHKスペシャル「デジタル・ネイティブ」を観てましたらね、アメリカの少年が13歳で起業して、「Elementeo」というカード・ゲームを開発、販売してもうけているという例が紹介されていました。このカード・ゲーム、それぞれの元素がキャラクター化され、カードになっていて、それでより多くの化合物を作った人が勝ちという、なかなか面白そうなものだったんです。
 ただ、こちらはいかにも西洋ファンタジー風な絵柄でした。少年がネットで大人のプロ・デザイナーにどんどんダメ出ししていく様子は、ちょっと異様でさえありました。で、出来上がったものはなかなかアダルトな感じですね。
 それに比べて我がニッポンは…笑。いい大人が33人で描いて、これですか(笑)。いやあ、すごいなあ、ニッポン。
 しかし、しかし、よく見てみると、それなりによく出来ていることがわかります。細かいところのこだわりや、キャラクタライズは、これはいかにも職人的な(オタク的な)お仕事とも言えますね。なにしろ、それぞれの元素の性質をあらゆる萌え属性にあてはめているという、とんでもないことをしでかしているわけですから。顔つきや体つき、服装からポーズ、セリフにいたるまで、たしかによく練られている。元素を暗記するにはこのキャラクタライズはいい手です。というか、暗記の基本ですよね。日本人は昔からこういうこと得意です。
070227 そう、日本の絵画文化においては、擬人化、物語化というのは、とっても普通なことでありました。動物の擬人化なんて、言うまでもなく鳥獣戯画ですでに極致に達してますし、子ども用のおとぎ話で動物や日用品が擬人化されているのはもちろん、大人用の草双紙なんかでも擬人化はよく見られます。山東京伝の作と伝わる『心学早染草』では、人の心という抽象的なものさえ擬人化されている。あの「悪玉」「善玉」っていうやつですよ。すごいですねえ。
 で、元素もまた、実在しているとは思いますが、目には見えないわけで(見たことありません)、それをこうして全部女の子にしちゃうという荒技を、ニッポン人はやってしまう。それもなぜかPHP研究所が出しちゃう。Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)!!たしかに反映と平和と幸福を感じないわけではない…か。松下幸之助さん!これでいいんですか!?(笑)
 そのうち、これはカードも出るな。Elementeoがどの程度特許を持っているかわかりませんが、どう考えてもこっちの方が世界的に流行るでしょう(笑)。女の子と女の子が結合して新しいキャラが生まれるんですから。やばいっすよ。
 私の教え子も製作に関わった「もえたん」以来、こうした妖しい萌え教材がどんどん生まれています。まあこれで勉強好きになってくれればいいんですけど…。なんか違う能力も伸長するような気がしないでもない。けっこう売れてるらしいし…。あっそうだ、私も萌え系古文の参考書でも作るかな。この前の記事じゃないけど、古典文法を萌えでやるとか(笑)。助動詞をキャラクター化するのか?いや、悪くないな。すでに現在推量の「ラム」ちゃんとかいるし(笑)。どうですか?PHPさん。あるいは學燈社さん。

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2008.10.30

『Japan Knowledge & 日国オンライン』

2 っぱJKはいいな。いや…女子高生じゃないっすよ。ジャパンナレッジ…日本の知識です。
 私、実は新聞取ってないんです。もう何年でしょうね。理由は簡単でして、全然読まないからです。毎日大量の読まれない活字が捨てられていくのに耐えられなくなりましてね。というか、ウチは山奥なんで新聞が届かないんです。それも理由の一つですね。いちいち毎朝ある所まで取りに行くっていうのが面倒になった。それから、昔は某新聞を取ってたんですが、ちょっと鼻につくところが多すぎまして(笑)。
 もちろんインターネットの発達というのもありますね。ニュースはネットでチェック、時々テレビっていう感じです。それで充分。
 文化欄とかその他有用な読み物は、父親がデリバリーしてくれるので、休みにまとめて読みます。まとめて読むと楽しいですよ。時間を忘れていろいろな世界に遊ぶことができます。
 さて、それで私は新聞の代わりに何にお金をかけているかと言いますと、毎月2678円払ってJKとつきあってるわけです(笑)。ホントにお世話になってます。
 2678円で何を提供してくれるかと言いますと、まずJKはこんな感じです。それから日国オンラインはこんな感じ、もう完全に日本国語大辞典です。
 そうですねえ、JKに関しては、まず毎日更新される Today's ジャパンナレッジ がいいですね。特に「今日の新語(亀井肇の新語探検)」は最新の知識欲を満たしてくれます。そこからいろいろと検索して一気に世界を拡げることができる。なんか「今」も知らない世界が隣にあるんだなと感じますね。私は朝ご飯の代わりに新語を食べるわけです。
 あと案外ちゃんと読んでるのが、「週刊エコノミスト」です。pdfで全部ちゃんと読めます。経済を中心とする現代社会を非難してばかりの私ですが、実はとっても興味があります。ある意味バカみたいと思いながら(失礼)読んでるんですけどね。いったい世界中の人たち、特に最先端を生きる頭のいい人たちは何に振り回されて生きてるのかって。
 雑学系の読み物もマニアックで面白い。ふだんなかなか自分からは興味を抱かない分野についても、知見を広められます。
 もちろん辞書、事典系はとっても有用です。さっと検索できるのは、次の辞書・事典群。

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デジタル大辞泉
数え方の辞典
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JK Who's Who
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ランダムハウス英和大辞典
プログレッシブ英和中辞典
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COBUILD英英辞典
CAMBRIDGE英英辞典

 もう充分すぎますね。安いもんです。
Itd_img02 そしてそして、自分にとってのメインは実はJKではなくて、日国オンラインですよ。いちおう日本語を相手に仕事をしている人間にとって、日本国語大辞典は聖書です。私は初版を神の辞書…いや紙の辞書として所有しています。比較的最近第二版が出て、ものすごくほしかったんですけど、なにしろ全14巻22万円もするんで、さすがに諦めていたんです。でも、本当は常にポケットに携帯していたいくらい(笑)。もう普通の国語辞典なんか子どものおもちゃみたいに感じちゃうほどです。ま、考えてみれば国語辞典なのに百科事典より量が多いわけですから。
 それがですね、まあ便利な世の中になりましたよ。実質月々1103円で使いたい放題なんです。すごい。そして、電子辞書ならではの使い方、例えば逆引きなんかもちょちょいのちょい。非常に便利です。
 単純計算して220ヶ月で22万円ですから、まあ利便性を考えても書籍として買うよりお得ではないでしょうかね。もちろん、ペラペラめくって眺めるということができないのは残念ですけど。
 案外いいのはオマケの「字通」ですね。最近漢字忘れてるんで。

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2008.10.09

「対称性の破れ」と生命力

0810091 アル「理系の人々」。今日のNHKクローズアップ現代は、このたびノーベル物理学賞を受賞した3人のうち、日本在住のお二人を招いての対談。これがなんとも面白かった。
 まず、いつもの失礼をお赦し下さい。
 最近家族でアニメ版初代「天才バカボン」を観てるんですけど、なんていうかなあ、超一流の学者さんたちって、みんなバカ田大学のセンセイたちみたいですよね(笑)。なんかキャラが浮世離れしている。
 いつかも藤原正彦さんのことをそんなふうに書きましたっけ。鈴木孝夫大明神もかなりぶっとんでましたなあ、そういえば。
 まあ、だいたい大学のセンセイなんてのは皆さん浮世離れしていて当然というか、浮世離れしてるから大学のセンセイやってるっていうか。もちろんたまにまっとうな人間もいらっしゃいますが、たいがい素晴らしくキャラが立っている。爆笑問題のニッポンの教養とか観てても、それでだいたい笑っちゃう。
 で、今回もなかなか皆さんいい味を出してますね。いやあ、やっぱり天才バカボンって真理だよなあ。今朝のニュースでインタビューに応じていたノーベル化学賞の下村脩さんもそうでしたけど、この番組でのお二人、特に益川敏英さんの日本語はわけわからなくて面白かった。
 これはですね、単なる「老人力」じゃないですよ。絶対何かあります。言語って社会的なものです。で、彼らなんか社会との接点である論文は英語と数式で書きますからね。浮き世の日本語とはいつのまにか縁遠くなっちゃうんじゃないでしょうか(笑)。その点、小林誠さんは冷静に言葉を選んでいてけっこう普通でした。
 さて、そんな話はいいとして、南部陽一郎さんの提唱した「対称性の破れ」。これを結果として証明したのが、このお二人の受賞のきっかけとなった「6元クォーク模型」の「小林・益川理論」と言えます。クォークの話にまでなると詳しいことはよく分かりませんが、まあとにかく、粒子と反粒子の数が不均衡であって、それによって、我々の世界(宇宙)がある、あるいは質量があるっていうことですよね。
0810092 それを聞いていて思ったんですけど、この益川さんと小林さんって、まさに対照的なお二人でして、つまり、どっちがどっちか分かりませんが、とにかく粒子と反粒子みたいな感じですよね。そして、お二人が完全に対称であったら、おそらくその才能やキャラは完全に打ち消し合って(光になっちゃって)、何も残らなかったかもしれません。
 おそらく、お二人はとってもいいペアであったのですが、微妙に対称性が破れていたから、こうした偉業が残ったんでしょうね。ばっと見る限り、益川さんがちょっと出っ張ってるっていうか、勇み足気味ですね。すなわち粒子。
 でも、ある分野やあるキャラやある才能においては、目には見えにくいけれども小林さんの方が抜きん出ていたんでしょう。まあ、そういうふうに、数式では表されない微妙で複雑な非対称が組み合わさって、こういう重みのある結果が残ったわけです。なんか、お二人が「対称性の破れ」を体現しているようで、実に面白かった。
 こういう、対称性の破れや均衡の崩れこそが一つのダイナミズムになる、というのは、たとえば音楽など、いろいろな分野に見られることですね。全てにバランスがよく、安定し、調和しているということは、ある意味「死」を意味します。意外な不均衡や、意外な出会いによって、我々や世の中は生命力を帯びているわけです。
 また私の「モノ・コト論」になってしまいますが、安定して変化しない「コト」よりも、無常で転変する「モノ」の方が生命の本質であると、私は考えています。つまり、昨日の話の続きから言いますと、実は理系の人々は「死」の研究をしているんです。文系は「生」。こんな乱暴な区分けをすると、それぞれから非難を浴びそうですけど、実はちょっと当たってると思いますよ。
 だから、今回の「小林・益川理論」は、理論になって証明された時点で「死」にました。もちろんその「死」は負のイメージの「死」ではありません。目的とするのが「死」なのですから、それはめでたいことです。しかし、今度はその「死体」が残した遺産から新たな生命が生まれる。また別の生命体と結合したり融合したりして、新たな非対称を生んでいく。
 過去と現在と未来の関係というのは、全てそういう「モノ」と「コト」、「生」と「死」の循環によって成り立っているのでした。

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2008.10.08

『理系の人々』 よしたに (中経出版)

80613157 ーベル賞4人って…。もっと増えたりするんでしょうか。村上春樹さんとか…。
 で、とりあえず理系の4人の先生方のインタビューが実に冷静で面白かった。もし私だったら(…って、ないない…笑)宝くじ当たったみたいに喜んじゃいますよ。カッコいいなあ、おじいさんたち。
 というわけで、実に好タイミングでこのコミックを読みました。今、職員室でちょっとしたブームです。いやあ、実に面白い。面白すぎる。
 よしたにさん、ぼく、オタリーマンでは、自らのオタクぶりとサラリーマンぶり(?)を暴露し、やや自虐の印象が拭えず、よってダヒャヒャとは笑えない空気を醸していましたけど、こちらはもう断然笑える。
 そう、私は根っからの文系…ではなくて、根は理系のオタクなのに文系の花が咲いてしまった(咲いてない、との指摘も)やや特殊な立ち位置にいる人間なので、けっこう共感、理解できる上に、客観的に他人事として笑えるんですよね。
 ちなみに私が、このマンガのネタとなっている多くの理系属性の中で、自分に「あるある」と思ったのは、約15%でした。まあ、こんなもんでしょう。ちょっと残念な気さえします。向かいに座っている女性化学者はやや謙虚に50%(やっぱり女性ですからね、メカ系とかにそれほど執着しないので)、そして、斜め前の男性数学者は99%当てはまっている!と、嬉々として申しております。
 その数学の先生と話したんですけど、やっぱり彼なんか、車を運転している時、前の車のナンバーの4ケタの数字を見てですね、四則計算を駆使して答えを10にするなんていうことを、ほとんど無意識でやるそうです。いや、そんなのは小学校で卒業したとか(笑)。実際はそんな次元ではなく、4ケタの全ての数字の組み合わせの中で、答えを10に導ける組み合わせのパーセンテージを瞬時に言ってのけました。8割超えてるんだ…へえ〜。
 考えてみると、私も理系を目指していた頃は、そういう思考が大好きでしたね。やっぱり物事はっきりさせたくてしかたなかった。それができると快感でしたしね。つまり、私の「モノ・コト論」でいうところの「コト」に対する執着です。脳内での成就によってドーパミンがどっかんと出るんでしょう。
 で、理系世界において負け組になったのは高校生の時。そうそう、この前高校の数学の授業のこと書いたじゃないですか、自虐的に(笑)。あんな感じで、脳内不可成就を味わっちゃったんで、なんとなく「コト」にふられたような気になって、それで「モノ」世界に行っちゃったわけです。物質とか物品という「モノ」ではなくて、「もののあはれ」の方です。
 そんなプロセスを経ての今の私ですから、この「理系の人々」に対しては、半分羨望があり、半分揶揄してやりたい気もあり、まあ屈折したジェラシーみたいなものがあるんですね。お分かりになりますよね。だからこそ笑えるんです。
 じゃあ「文系の人々」が出たら笑えるかというと、これは笑えない。なぜなら、「文系の人々」では作品にならないからです。面白くないと思います。だいいち、こういうある意味冷静かつ客観的な自己分析というものを、文系の人間はできませんし、いや厳格な自己分析をしないというのが文系の特徴ですから、原理的にこういう作品は存在しないんですよ。たぶん長編の小説みたいになっちゃうんでしょう。で、結局なんだったのという余韻だけ残して去っていく(笑)。
 このマンガの中にもいちおう「文系の人々」が登場しますが、やっぱり描写は甘いと思います。てか、単なる理系の敵として表現されてますね。こんなにスマートじゃないっすよ。文系のヲタっていうのが、実は一番たちが悪いっていうか、使えませんからね(笑)。
 ま、一つ言えることは、世の中は案外理系のオタクが回しているということです。文系のオタクは世界のことなんか考えていませんから。理系が世界共通の、あるいは宇宙共通の(しかし、もしかすると脳内宇宙に限ったことかもしれないが…)「コト」にこだわるというのは、それなりの社会性だと思いますからね。執着する自己の世界観が、社会の公約数と一致しているんです。
 文系は辛いですよ。自己のモヤモヤにこだわればこだわるほど、それが現実社会から離れていってしまうように感じる。実際はそのモヤモヤの方に、世界の本質があると信じていますが…最大公倍数って、たぶんあるよなあ。

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2008.09.30

『親愛なるマリー・キュリー 女性科学者10人の研究する人生』 猿橋勝子(監修) (東京図書)

Gh7878 性は科学に向いているか…どうも向いているようですね。
 前に理科の先生から『偉大な、アマチュア科学者たち』をお借りして読みました。アマチュアもプロ並み、いやそれ以上に活躍できるフィールドなんだなあ、科学の世界って…と思いました。同じ理科の先生(女性)に今度はこういう本をお借りして読みました。女性も男性並み、いやそれ以上に活躍できるフィールドなんだなあ、科学の世界って…と思いました。
 考えてみれば、アニメやマンガや特撮モノなんかには、アマチュア科学者や女性科学者たちがけっこう出てましたね。あれってリアルなことだったのか。
 昨年、世界的な日本人女性科学者第一号であり、「猿橋賞」の創設者でもある地球化学学者猿橋勝子さんが亡くなりました。その時、NHKのクローズアップ現代で「女性科学者の闘い~猿橋勝子さんが遺したもの~」というのが放映されましてね、私はそれを観たんです。それでちょっと感動してしまった。猿橋さんについてはお名前は知っていましたが、そんな波乱の人生があったとはつゆぞ知りませんでした。アメリカという親玉国家を相手に道場破りですからね。そして勝ってしまった…。
 当然、そこには女性としてのハンディとの闘いもありました。男尊女卑のムード、そして家事や子育てと研究の両立。これは朝の連ドラ化した方がいいですよ。そのくらい壮絶です。
Photo24991 この本は、その猿橋勝子さんの監修による猿橋賞受賞者たちのエッセイ集です。では、この本はとんでもなく壮絶かと言いますと、そういうイメージはなくて、最初に書いたように、私は女性は科学というフィールドに向いていると思ってしまいました。
 それはどういうことかと言いますと、こういうことなんです。なにしろ、どの方の文章も柔らかくて伸び伸びしていて、全然壮絶な感じがしないんですよ。これが男性だったら、ぜったい必要以上、現実以上に厳しく重く書いちゃいますよ。
 本当は大変な苦労だったのに、さらっとそれを書いてのけちゃう。これは逆にすごいなと思いました。だって、10人の皆さん、みんなそういう感じなんだもん。こりゃあ男にはできないぞ、と思いました。
 それぞれの研究内容についてもとっても優しく易しく書いてくれているので分かりよかった。うん、科学は女性が噛み砕いて教えた方がいいのかもしれないなあ。教育者としても女性の方がいいということか。
 あとはやはり、女性の持つ女性性が科学にも必要だということ。恋愛をして結婚をして妊娠して出産して子育てしてダンナの世話を焼いてご飯を作って掃除をして…そういう日常性というか生活感というものが、科学の勝手な暴走や自己満足を制御するんですよね。ものすごく簡単に言ってしまうと、男性の科学はどうしても科学のための科学になってしまうのに対し、女性の科学はあくまでも人間のための科学という気がするんです。男性の科学は戦争を起こしますが、女性の科学はそういうことがないような気がします。
 女性は社会的にも生物的にも男性より多くのことをこなさなければなりません。それはある意味、それができるからそうなっているのであって、おそらく男性は基本それらをこなせないから仕事に専念するんでしょう。で、人にいろいろなことを押しつけておいて、いざとなると、そんないろいろなことをやっていると一つのことに専念できないから大成しないよ、なんて言うんでしょうね。
 あと、最近いろいろな文化論を語る中でよく思うんですけど、女性より男性の方がジメジメしてますよね。引きずる。女は案外あっさりしますよ。上書きして生きてくじゃないですか、女性は。男は全部後生大事に保存していきますからね、記憶を。今までは、そういう違いをもってして、男性は女性を蔑視してきたわけですが、はっきり申して、実は「今」を大切にする女性性の方が強いんですよ。男性だったら、あの出産の苦痛を一度知ったら(私は知りませんが…笑)、もう二度と子どもを産もうなんて思いません。
 やっぱり女は強いよな。実際持続力もあるし、爆発力もあるし、根性もあるし。今、私のクラスは女子ばかりなんですが、はっきり言って私は小さくなってます。彼女らものすごいパワーです。最近、男女クラスでも女子の方が強いし、勉強もできる。地道にやる。男は気が散るし、持続力が案外ない。
 男女平等とか男女共同参画とか言わなくても、もうとっくに昔から女中心に世の中は回っているんです。男がいろいろな障壁を作れば作るほど、実は女はパワーアップしていくのでありました。
 そんなことをしみじみ感じさせてくれる良書でありました。女性が読んで勇気を得るのもいいけれど、男性が読んで苦笑するのもいいのではないでしょうか。

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2008.09.25

『科学シミュレーション 人類の消えた地球』 (NHKハイビジョン特集)

Ui1 放送を録画しました。17日に放映されたのを見逃してしまい(最後の1分だけ観た)、しまった!と思っていたんですが、助かりました。そして面白かった。これは教材として使えるぞ。
 ある日一瞬にして人類がいなくなったら(なぜどのようにいなくなるのか、というのは問題ではありません)、その後の地球はどう変化するのかを科学的にシミュレーションした番組です。制作はカナダ。
 人類が消えて数時間後、数日後、数ヶ月後、1年後、10年後、100年後…最新の科学者の研究をもとに、実写とCGを上手にまじえた映像でわかりやすく解説してくれます。
 ま、実際突然人類だけ消えることはありませんし、消えた後のことは私たちには関係ないと言えば関係ないわけですから、この番組はSFそのものですね。でも、それを観ることによって、ナレーションにもありましたが、我々人類が地球にどれだけの負荷を与えているかということがわかります。それをきっかけに、人類のあり方、私たちの生き方を問いなおそうということですね。
 そういう教育的な意味、啓蒙的な意味で、この番組、とても優れていたと思います。あくまで仮説ですから、異論反論もあるでしょう。それは当然です。でも、今はそれは置いておきましょう。そんなことより、今私たちがいかに危うく脆い現代文明の上に生きているかを考える方が賢明です。
 やはり驚くのは、その現代文明の脆さですね。北米大陸では、たった200年で人類が生きていた痕跡はほとんど消え去ります。ニューヨークやパリはもとの森林や湿地に戻ってしまいますし、広大な農地はもとの砂漠に戻ります。
Ui2 コンクリートや鉄でできた構造物はたった数十年で崩壊しますし、我々が出しまくっている二酸化炭素もあっという間に植物に使われ、波にさらわれて海底に閉じこめられます。原子力発電所の爆発によってまき散らされた放射性物質さえも、たった25年で地中に封じ込められます。地球の復元力はものすごい。自然は人間が1万年かけて奪い去ったものをほんの30年ほどで取り返します。
 野生化した犬や狼、そして象も強いな。案外弱いのはゴキブリ。面白いですね。最強の生物はやはり植物でしょう。とにかく都市はすぐに植物に覆われてしまう。植物があれば動物が棲める。
 これを観ていると、私たちがそうした脆く危うい構造物を一生懸命メインテナンスしていることに気づきますね。そのためにいったいどれだけのエネルギーを使っていることか。
 ちょっと前の記事にもいくつか書きましたが、ここにはやっぱりエントロピー増大則に対抗する人間という図式が見えてきますね。ま、全ての生命の本質はそこにあるわけですけど、人間は特にその欲求が強いんですね。困ったものです。バラバラに散らばっていくいろいろなモノを、一生懸命に何かに閉じこめようとしている。そういういろんな容器のようなものを作り続けていますね。言葉とか音楽とかもそうです。私の言う「コト化」ですね。なんかむなしいよなあ。
Ui3 人間がいなくなれば、こうしてみんな自然に散らばっていく。こんなに短期間でこんなにたくさん散らばっていくモノを、今も私たちは一生懸命閉じこめようとしている。私もこうして書くことによって、消え去るべきモノをコトバにして残そうとしている。あほらしいなあ。
 このむなしさをどう乗り越えていくか。お釈迦様はそれを説いたんでしょうね。究極は私たちがいなくなればいいわけですが、それでもこうして存在し続けるわけですから、しかたない。もういっそのこと開き直って、刹那的に利己的に生きてやれ!というのも一つの方法でしょうし、私も含めてほとんどの人がそうしていることでしょう。中にはたとえばエコを叫んで小さな自己満足でそこんとこを乗り越える人もいるでしょう。本気で悩んで自らの存在を消してしまうとんでもなく賢い人もいるでしょう。
 どうしましょうかね。自分でもよくわからないものを、生徒たちになんと教えればいいのでしょう。みんなで消えようというわけにはいかないし、みんなで修行して悟りを得ようというのも面倒だし、もう好き勝手やっちゃおうよとも立場上言いにくいし。難しいですね。
 とにかくこういう迷いや悩みを生じさせてくれるという意味で、とってもいい番組ですし、いい教材です。なんか久々にSFの本来の意味を思い出しましたよ。少年時代読んだり観たりした数々のSF作品たち、そう言えば、その時々の自分や世界に、なんとも言えない違和感を抱かせてくれたっけ。あの感じを思い出しました。
 「地球は人類なしでも存在し続けます。しかし、人類は地球なしでは存在できないのです」
 最後に。なんだかんだ言って長く残るのは、ピラミッドや万里の長城なんかの歴史的建造物と、あと高分子のプラスチックなんですね。両者は人間の欲望の象徴なんでしょう。

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2008.09.08

富士山の鹿に思う

この写真はもらいものです。かわいいですね。
Shika こ数年ウチのあたりでよく鹿を見かけます。出勤や帰宅の際に突然群れで飛び出してきて、轢きそうになることもしばしば。今のところ私は事故を起していませんが、1年に1回くらいは事故現場に出くわします。鹿も大変ですが、車もそうとうのダメージを受けていますね。
 また、飛び出すのではなく、道の真ん中に数頭の鹿が佇んでいて困ることもよくあります。車が近づいても全然逃げないんですよね。まあ、急いでいるのでなければ、野生の鹿を間近に見られるのでラッキーとも言えますが。しかし、実際近づいてみると、とにかくデカイ。あんなのに襲われたらたまらんな。まさにシシ神といった風情。でもやっぱりデザイン的に美しい。子鹿はカワイイし。
 ウチのカミさんなんて、道に鹿を発見すると車を停め、ウィンドウを開け、そして何をするかというと…「はりつめた〜ゆみの〜♪」と米良さんのものまねを始めます(笑)。全曲鹿に向かって歌います。鹿は金縛りにあったように微動だにしません(笑)。
 とにかく最近人の住んでいるあたりに鹿がたくさん出没しているわけですね。それでいわゆる食害を起している。農作物を食い荒らしたり、樹皮を食べまくって木を枯らしてしまったり。
 そうした鹿による食害を防ぐために、最近ウチの周辺でもたくさんのフェンスが張られているんです。今日もたまたまニュースで南アルプスのある山のことがとり上げられていましたっけ。貴重な高山植物や樹木を守るために延々とフェンスを敷設するとのこと。自然保護の観点からそうします、と担当者は言ってましたが、これはどうなんでしょうね。
Uni_1478 まず、ウチの周りでさえもかなり景観が損なわれています。登山者に聞くと、やはり山中に突然あの人工的なフェンスが現れるとガッカリすると言います。景観も大事な自然の一部だと考えると、ちょっと問題があるような気もします。写真はウチの近所のフェンスです。見ての通り、ちょっと回り込めば鹿ちゃんも中に入れます。ほとんど意味がないどころか、延々と道沿いに張り巡らされているので、鹿が道を歩くことになって、よけいに危険なんです。食害に対してはホントに気休め程度のしろものですよ。
 もちろん、我々にとって大切な農作物や貴重な高山植物、自然林を守ることは大切だと思いますが、では、鹿という自然に対してはどう考えればいいのでしょうか。
 よく言われているとおり、人間が保護したがる「自然」というのは、あくまで人間にとって有益な、あるいは愛情の対象になる「自然」であって、たとえば害虫などは保護どころか駆除の対象になってしまいます。何をもって「自然」とするか、これは難しい問題ですね。
 世界自然遺産の知床で、自然保護のために野生の鹿や熊を駆除することを環境省が決めたりしてますね。これもまた妙ちくりんな矛盾に満ちています。まったく人間は身勝手なものです。
 またどこかの村は村ごとフェンスで囲ってしまったそうですね。檻の中の人間(笑)。
 で、最近こうして鹿や熊が里に下りてくる(ウチのあたりを里とは言えないかもしれないけれど)のは、たしかに気候変動による植生の変化というのもあると思います。しかし、多少長い目で見ても、それほど劇的に変化しているわけではありません。では、どうしてこういうことが起こるのでしょうか。
 いろいろな要因が複合的に働いているのは分かりますけれど、私はやはり原因の根底に人間の生活があると思いますね。温暖化が人間のしわざかどうかは置いておいても、こうして森を切り開き、道路を舗装し、家を建てていること、つまり本来鹿の棲む領域に人間が進出している罪は大きいでしょう。鹿は普通に生きるために食物を探しているだけです。そして、だんだん人間に対する警戒心も薄れてくる。
 あと、やはりですね、里で犬の放し飼いが減ったことも大きいでしょう。鹿や猪や熊にとって、野犬ほど怖いものはないですからね。昔のように村の中に犬が闊歩していれば、なかなか彼らは畑に入れません。ところが、最近は、「犬はつないで飼いましょう」的な、まさに文明的人間のわがまま(?)からか、ほとんどの犬は自由を奪われて、結果彼らを見つけても遠くでむなしく吠えているのが関の山という状況になってしまいました。犬もさぞ悔しいでしょう。そのうち、獣たちは犬に襲われないことを知り、我が物顔で畑や里山を荒らすようになります。犬の方もやる気を失っちゃう。そりゃあそうでしょう。
 というわけで、ずいぶんと人間は身勝手なことをし、身勝手なことを言い、愛憎をすぐに逆転させ、あるいはそんなことは棚上げして自己満足的アクションに走る…。
 まあ、人間も所詮は動物であり、自然の一部なわけですから、きっとどこかで誰かに恨まれて駆除されるのかもしれませんね。というか、増殖しすぎてお互いで駆除しあうという素晴らしい種なのかもしれませんね。
 
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2008.08.26

『私は、こう考えるのだが。―言語社会学者の意見と実践』 鈴木孝夫 (人文書館)

78ejoo 々に鈴木孝夫大明神の御本をまとめ読みしています。この本は、ある意味先生の専門外の話ばかりですが、まあ、御自身も書いておられるように、とにかくあらゆる分野に興味を持ち研究してきた多才で多彩なる神でいらっしゃいますし、今や言語社会学者じゃなくて孤高の「(自称)哲学者」になられているような気もしますから、これはこれでいいと思います。
 初出を見ても分かる通り、それこそいろいろなところで発表された短文をまとめたものでして、話があちこちに飛びますけれど、それがまたいかにも大明神的であり、八百万の神々の言霊という感じがして、私は好きです。
 ちょうど3年前になりますか、私は幸運なことに、大明神とさしでお話させていただく機会を得ました。お酒を囲んでの実に楽しい時間でした。淀みなく流れ出る鈴木孝夫節に、私の脳はドーパミンを大量放出。面白かったなあ。その時のお話もたくさんこの本には収録されています。
 大明神のお考えの中心にあるのは、現在の日本が繁栄の頂点を過ぎており、あとは下るだけ、あるい下るべきだということです。私も全くそれに賛成です。この前の「幸せって、なんだっけ」でも書いたように、お金をめぐる世の中のシステムというか、人間の根本的な考え方を変えなければ、なんにも解決しないと思っています。
 大明神はただ言葉だけでなく、ちゃんと実践してるから偉いんですよね。その偉大さは「人にはどれだけの物が必要か−ミニマム生活のすすめ」を読めばわかります。私なんかとてもあそこまで徹底できませんよ。世間に流されずああいうスタイルを貫くというのは、これは勇気のいることです。御本人は当然のごとく実践されていますが、私たち凡人にはそんな強さはありませんね。ちょっと笑っちゃうくらいです。
 さて、この本にもそういった、ウンウンとうなづかれ、なおかつ、ちょっとクスッとしてしまう、いかにも日本の神様的な言霊が並んでいるんですけど、私の印象に残ったのは、まず、原稿料や取材への謝礼の話。あるいは入試問題の出題報告の話ですね。これらは他人事ではありませんので、面白かったし勉強になりました。
 次に、大学生活と知的放浪に関するお話。知的とは言えない私ですが、かなりの放浪癖がありますんで、このお話には自信と勇気をいただきました。私も先生のように放浪の末の哲学者になりたいんですよ。
 あと、最近大明神が設立し、自ら教祖となったと語る「日本語教」の信者になりたいなあと。教えはこうです。引用します。
「世界中に日本語を広めて、この美しい言語と、それに固く結びついている本来は外国との対立抗争と無縁であった文化の持つ良さを、残念にも知らずに死んでゆく可哀想な人間を、この世から一人でも少なくしたいという慈悲の気持ちに目覚めよ」
 ハハハ、痛快ですね。ここまで言える人、そしてそれが許される人は、人間界にはいませんよね。さすがです。
 同様に痛快だったのが、「江藤淳と私」ですね。江藤淳というより、江頭淳夫(本名)の人物像に関する実に手厳しいお話です。なんとなくですが、私の中でも神格化されていた「江藤淳」。彼がこんなにやなヤツ(笑)だったとは…。大明神もかなり怒ってます。でも、ちょっと面白かった。ここまで困った人がいるんだなと。
 あと、小ネタですが、「新幹線にシートベルトを」は、私も思っていたことなので、我が意を得たり!という感じでした。
 総括しますと、まさに「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ」ですね。そして、ユーモア。ユーモアこそが知性であると感じました。本当に愛すべき神様です。また、何かのご縁があれば、ぜひ。

Amazon 私は、こう考えるのだが。

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2008.08.09

『常識はウソだらけ』 日垣隆 (WAC)

Hudhfa 球温暖化問題をはじめとする環境問題が、結局のところ政治問題、そして政治は経済のためのもの、すなわち環境問題がカネになるというようなことを、繰りかえし書いてきました。
 世の中でも、それに関する論議が盛んです。環境問題のウソのような本が出るかと思えば、環境問題のウソのウソのような本も出る始末。結局、カネになるんですよね。
 友人から借りたこの本は、環境問題に限らず、さまざまな世のブームや世の常識が実はウソであるということを語っています。
 採り上げられている「常識=ウソ」は次の八つ。
1 リサイクル
2 定期検診
3 血液型診断
4 犯罪報道
5 動物保護
6 クジラ肉
7 不妊治療
8 カウンセラー
 これらのいずれもが、私たちの知っている常識とはかけ離れた実情を持っているというわけです。それぞれの専門分野の方々に、日垣さんがインタビューするという形式のため、適度なツッコミも入るし、また私たちシロウトの代弁(疑問)もあるので、全体に読みやすいし理解しやすい。
 本当なら「賛成派」と「反対派」みたいに、別の立場の人たちの論議をすれば面白いかもしれないけれども、しかし、それをやってしまうと、どこかのテレビ番組のように、どうせ収拾がつかなくなるだけですから、まあこういう一方的な語りというのも、わかりやすくていいんじゃないでしょうか。
 結局は、ここで語られていることも含めて、我々が情報を鵜呑みにするのではなく、ある程度は自分の頭で考えてみる必要があるということでしょうね。そして、自分の立ち位置を自分で決めると。もちろん、その位置はいつでも変わっていいわけですし、あるいは常に自己検証していかねばならないということですよね。
 学校の先生なんかやってると、ほとんどが暗記させるばかりになりがちです。まあ私も生徒だったころはそうでしたが、教科書に書いてあることや先生の言うこと、あるいはニュースや新聞で報道されることは正しいと思っていましたっけ。
 それがいつごろからでしょうね。世の中、というか大人の世界がウソで固められているということを意識したのは。そして、そのウソが結局カネのためのものであるということを知ったのは。自分がそういう大人になってみて分かったんでしょうかね。
 最近、思うんですよね。資本主義、市場経済主義というのは、人間の悪い部分を助長するシステムだって。オリンピックを観てても思うんですよ。ルールぎりぎりまで悪いことしたヤツ、いや、見つからないように悪いことしたヤツが勝つ世界なんですよ。自由に競争させると、そういうことになる。悪いことしないと勝てない、もうからない。正直者はバカを見てしまう。偽装だって単純にそういうことです。単なるカネのためのウソですよね。
 今日、谷亮子選手が準決勝で負けました。柔道がスポーツになりさがった結果、あんな柔道でもなんでもない試合を見るハメになってしまう。勝ち負けをガチンコでやると、ああいうずるい試合になってしまう。あれは柔道でもなんでもないですよ。
 と、全然関係ない話になってしまいましたが、人間は単なる勝ち負けだけにとらわれると、いやなヤツになっちゃうんです。いかに相手をだますか、ということに終始してしまうんです。この本で挙げられている「常識=ウソ」もそういうことでしょう。
 かといって、単なる勝ち負けではない経済システムである共産主義は、別の意味で人間を堕落させます。やっぱり第三の経済システムを考える必要があるんでしょうね。仏教経済学かなあ。仏教経済学だったらこの本の八つの常識はずいぶんと違ったとらえ方になりそうですね。

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2008.07.03

「鳴沢」とはどこか

Fujibun 、東大名誉教授久保田淳さんの「富士山の文学」という本を読んでいます。富士山を題材にした、あるいは富士山の登場する文学というのは膨大にありますが、その一部を年代順に解題して、富士山に対する我々日本人の感情がどのように変化してきたのか…いや、変化していないということを明らかにしています。
 あくまで一部の紹介ですけれど、それでもガイドブックとして、なかなかの良書だと思います。私も、富士山と言えば自分が住んでいるところですから、それなりにそういうものをチェックしてきたつもりですが(読んでいるわけではない)、知らないものもずいぶんとありました。
 さて、そんなこの本の中に、「藤原俊成 鳴沢論議」という章があります。鴨長明「無名抄」にあるエピソード、すなわち俊成が自らの歌で「なるさぞふじのしるしなりける」と誤って詠んだため、「なるさの入道」と揶揄されたという話に関する章です。この話は知っていましたが、それについて顕昭の「袖中抄」に詳しく顛末が書いてあるとは知りませんでした。勉強不足でした。
 顕昭は例の万葉集にある「さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと」などの歌を挙げて、「なるさは」が正しいことを証明します。そこには俊成を擁護した惟宗広言の説なども書かれているのですが、結局は両者とも、平安初期に書かれた都良香の「富士山記」の記述に影響を受けているようです。つまり、「なるさ」派は斜面を砂や石が落ちていく音を、「なるさは」派は頂上の池の沸騰する音を、それぞれ「鳴沢」だとしているのです。
 ところで、鳴沢と言えば、今私が住んでいる村も「鳴沢村」です(その村の「字富士山」という、まんまなところに住んでいます)。ここ鳴沢が万葉集ほか、いくつもの和歌に歌われた「なるさは」であると、村の人たちは思っています(たぶん)。実際村内に「さ寝らくは…」の歌碑もあります。
 しかし、今、この村はとっても静かです。激しい恋情を象徴するとはとても言えない静けさです。ずいぶん冷めた恋です(笑)。本当にこのあたりが歌枕の「鳴沢」だったのでしょうか。
 古くから、「鳴沢」とは大沢崩れのことだ、という説が有力でした。久保田さんも基本その立場を取っているようです。しかし、私はどうもその説に違和感を覚えていたんですよね。
 たしかに富士北麓の現鳴沢村あたりが歌枕になる可能性は低いなあとは思っていましたが、だからと言って大沢崩れに比定するのはどうかなと。たしかに今では東海道からも見ることができますし、毎日トラック数十台分の岩や石が崩れ落ちているようですが、しかし、その音が響き渡って街道まで聞こえたとは思えません。というか、もっと根本的な問題として、本格的な大沢崩れが始まったのは平安後期であって、万葉集に歌われるわけはない、というのが私の意見なんです。
 もちろん、他にもいろいろと考えがありますよ。貞観の噴火以前に、現鳴沢村あたりを大田川という大きな川が流れていたらしいのですが(ある程度科学的にも証明されています)、そこに滝があって、その音だろうという話もあります。鳴沢村民としてはそう考えたい。たしかに私の読んでいるトンデモ文献宮下文書にも、大田川の描かれた古地図がいくつかあります。あっ、これはトンデモなんで証拠にならないか…と言いつつ、ついでに書いちゃいますと、基本あの古文書においては、「なるさは」は「鳴流澤」と表記され、今の富士吉田付近だということになっています。
 で、最近の私の考えなんですが、これって実は場所を表しているのではないのではないか、つまり地名ではないのではないか…、そう思うようになったんですね。いずれにしても特定の場所で轟音が鳴り響いていたというのは、それ自体不自然な感じがしますし、「富士の高嶺の鳴沢」が「ニューヨークの摩天楼の124階」みたいな表現だとは限らないじゃないですか。
 すなわちこういうことです。「富士の鳴沢」とは「富士の煙」とペアになる表現で、「なるさは」の「なる」は「鳴る」でいいと思いますが、「さは」は「騒ぐ(古語では騒く)」と同源の「さは」、あるいは「ザワザワ」と同源の「さは」、または「多い」「甚だしい」を表す上代語「さは」と同源の「さは」であり、「なるさは」全体で単に絶えることのない噴火の音を表していると。単に「富士の轟音」と訳すべきだと。つまり、「富士の煙」という視覚的なものともに、聴覚的に「絶えざる恋情」「激しい恋情」を表しているということです。
 考えてみれば、万葉集は当然万葉仮名(漢字)で書かれていたわけで、一般に「鳴沢」と当て字される言葉も、元は「奈流佐波」なのです。そこに「沢」という字を当てて読むようになったのは、もちろん後世のことでして、その「沢」という字に流されて、いろいろと勘違いが生じたのではないかとも思われるのです。
 この本にも紹介されていましたが、「さ寝らくは…」の歌には別ヴァージョンがいくつかあって、その一つに「伊豆の高嶺の鳴沢」という表現があるんですね。これも、伊豆箱根のどこかから噴煙が上がっている様子を聴覚的に表現したものだと思います。実際に音は聞こえてこなくとも、大きな山の頂上からモクモクと噴煙が上がっていれば、誰でも「鳴り騒ぐ」音を心の耳で聞くんじゃないでしょうか。
 ということで、新説です。「鳴沢」はどこにもないけれども、ある意味どこにもあると(笑)。もしかすると、1000年以上にわたる誤謬を正す珍説かもしれませんよ、まじで。

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2008.06.23

『富士山噴火』 鎌田浩毅 (講談社ブルーバックス)

ハザードマップで読み解く「Xデー」
Fujisanfunka 士山に住んでおります。いつかも書きましたが、郵便物は「郵便番号 富士山 氏名」で届きます。そんなところに住んでおりますので、それなりの覚悟もしっかりできています。そしてそれなりの対策もしっかり…できてないなあ。
 まあ、いちおう情報網だけはそれなり以上に持っていますので、突然噴火に襲われるという可能性は低いでしょう。それでも分かりません。この本でも紹介されているセント・ヘレンズのような例もありますからね。その時はその時。
 富士山の噴火に関する最近の良書はこちら石黒耀さんの小説「昼は雲の柱」がありました。これはあくまで小説でありますが、しかしファンタジーとアカデミーのバランスがよく、右脳と左脳双方が激しく刺激されました。
 京都大学大学院教授であられる鎌田さんのこの本、冒頭4ページはなんと小説仕立てなんですが(導入として奏功しています。たぶん、鎌田さんも一度は小説的に書きたかったのでは)、あとは延々とアカデミックな世界です。そのアカデミックな感じが実に心地よい。本当に淡々と火山現象と被害ごとに解りやすい記述が続いていきます。文章にムダがなく冷静、しかし時に読者に語りかけるような口調にもなり、論文を読んでいるような堅苦しさは感じません。時々挿入されるマップや写真(多くがカラー)が記述にリアリティーを与えています。
 富士山の噴火に関する本やテレビ番組と言いますと、注意や興味を喚起するというよりは、不要に恐怖や心配を煽るようなものが多くなりがちです。そう、私たち人間は負の集団気分で結束していたいという変な生き物なんですね。それにこたえる商売(メディアや宗教)が成り立っちゃうんです。まあ、能天気で無防備よりは心配性の方がいいのかな。基本動物って本能的にそうできているのかもしれませんが。
 この本は、サブタイトルこそ「Xデー」などとして、そうした風潮に迎合している感もありますけれど(それこそ商売ですからしかたありません)、内容は実に立派な啓蒙書となっています。そのあたりのスタンス(善意)はブルーバックスらしいと言えるのかもしれません。
 この本は基本的に、2004年に発表された富士山ハザードマップの解説書だと考えてもいいでしょう。あのマップはなかなかよく出来ていると、私も思いますが、しかしシロウトには誤読の可能性もけっこうあります。あるいは読解自体面倒くさいという話もよくききます。地元では各戸に配布されているんですけど、みんな、自分のウチが赤い色の中にあるかないかぐらいしか確認せず、「まあその時はその時だ」みたいな片づけ方をしてしまっているんです。
 そういう意味では、この本を配布した方がいいかもしれません。正しい知識こそが防災の基本ですからね。たとえば、火山灰と言った時、一般にはタバコの灰のようなものをイメージしてしまうと思いますが、実はあれがガラスの粒だということは案外知られていません。灰が積もっても、まあマスクして雪かきみたいなことすればいいんじゃないかと思っています。しかし、実際にはそうしたガラス粒が自動車やコンピュータに入り込んだり、あるいは水分を含んで凝固してしまったり、あるいは乾燥していても風で常に舞い上がったりして、とんでもなく厄介なものなんですね。そういう事実はマップからは誰も読み取れないわけです。
 そういうことを最新の研究成果と、外国や国内での実際の被害例を示すことで、実にわかりやすく解説してくれています。そして、先ほど書いたように、単に恐怖や不安を煽るような記述ではないので、比較的冷静に「こうしよう」というシミュレーションができ、逆に安心を得ることができます。
 ウチのあたりは、火山灰はもちろん、火山弾や火砕流のおそれもあり、場合によっては2時間くらいで溶岩が到達するような地域なので、まずは逃げることが先決となります。あとはもう保険に入るくらいしか対策はないでしょう。ここまで来ますと、逆に覚悟ができるといいますか、悟りの境地といいますか、そんな感じになっちゃいますね。とにかく逃げるが勝ちですので、その手段だけは確保しておこうと思います。
 「よくそんな、世界の中でも特に危険とわかっている地域を選んで住んでるねえ、バカだねえ…」とその業界の方々に笑われますが、非日常的な危険よりも日常的な恩恵の方が圧倒的にその絶対量が多いと信じていますので、「まあなんででしょうねえ、危険な女に惹かれるのとおんなじじゃないですか」とかテキトーに答えています。質問者の「笑い」の中に、ちょっとした羨望の表情も読み取れますので。ハハハ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。

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2008.06.16

地震と植樹祭( in 東北)に思う

Jishin08 っぱり昨日の桜庭和志(秋田出身)惨敗はいかんなあ。東北のモノノケが市場原理につぶされた。そこには祭祀性などかけらもない。ダメだ…そういう世界。
 岩手・宮城内陸地震、大変でしたね。まだ比較的大きな余震が続いているようで心配です。被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 秋田の義理の祖母も、ちょうど震源近くの温泉宿に湯治に行っておりまして、当日はなかなか連絡も取れず心配だったのですが、なんでも、宿は被害を受けたが入れる風呂が一つ残っているし、帰るにも道が寸断されていて帰れないのでしばらく逗留すると言っているので大丈夫だとか。う〜む、それを大丈夫だと言うべきなのか…。カミさんに、食べ物とか大丈夫なのかな、と聞くと、今は山菜の季節だから山にいれば大丈夫とのこと。う〜む、なるほど…そういうものか。都会的な考えにとらわれてはいけませんな。「大丈夫」の本来の意味を考えさせられましたよ。これって「最強」ってことでしょ(笑)。
 さて、皆さんはご存知でしょうか。あの地震があった当日、天皇皇后両陛下が秋田県入りしたことを。そうです、翌15日に北秋田市において「第59回全国植樹祭」が行われたのです。それにご出席されたと。
5709m ここで思い出さねばならないのは、前回40年前の秋田植樹祭のことです。あの時は開催日の三日前に十勝沖地震が発生し、昭和天皇が植樹祭を欠席する事態となりました。なんとも不思議なことです。
 ミコトの来訪がヤマトタケルの東征を思い起こさせ、まつろわぬモノノケたちの霊が騒ぎ出すのでしょうか。単なる偶然ではないような気もしてきます。天皇家が東北・北海道を訪問する時は、ちゃんと出羽三山やら鳥海山やらを参拝してからにした方がいいですね、こりゃ。
 今回の植樹祭へのご出席にも多少の躊躇があったものと思われますが、植樹祭自体がいわゆる地鎮祭的な要素も持っているので、ワタクシとしては判断は間違っていなかったと思います。40年前も昭和天皇が自ら訪問して地鎮すべきだったかもしれませんね。
 歴史的に見ますと、縄文・アイヌに対して、弥生系の天皇家は、次第に懐柔策をとるようになりましたよね。それどころか、中世以降は天皇家と山窩やマタギが強く結びついたり、また違った新しい関係が生じました。
 今ももちろん、そういった関係、つまり、両極が一周して結びつくという関係がよく見られます。一般市民・大衆・常民から、絶対値の大きく離れた非常民どうしが結びつくのですね。一方の極には当然天皇家という存在があります。もう一方の極には、現代の都市理論から差別される存在があります。そういった日本に底流する気脈(エネルギーの経路)は、時に非現代的、非都市的な表現で、その存在を示すものです。
 それが今回の大なゐ(大地震)と祭ですね。
 現代日本を覆っている表皮をはがすと、そこにはすぐに縄文・アイヌの痕跡が現れます。東京なんかその代表みたいなところです。東北や北海道は、その表皮がほとんどありません。そんな様々な風景の中を、天皇は巡幸していきます。ある意味どこへ行っても、彼は異物として存在します。つまりマレビトですね。そして神事を行う。祭です。その祭の意味は、その土地土地で違った意味と形式を持たざるをえませんが、しかし、本質的なところは一つだという気もします。
 今回の地震から地鎮祭への流れを見ますと、やはり現代においても天皇(ミコト)の仕事(シゴト)は、モノ(想定外・不随意な外部・自然)への懐柔、すなわち形式(カタ)と祝詞(コトノハ)による政(マツリゴト)であるなあ、と感じるのでありました。マツロハヌ「モノ」をコトムケして接待して、(一時的にでも)マツルようにするのがマツリなのでした。

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2008.06.01

芦川のすずらん

08060101 日はフジファブリックが生む縁のお話、今日はレミオロメンが生む縁のお話です。
 音楽が縁を生むのは、音楽が縁で出来ているからです(音楽の存在自体が、周囲との関係性において成り立つゲシュタルトであるという意味でも)。そのへんのことについては、今までもこのブログに何度か書いてきましたし、講演や演奏会や成人式なんかでお話してきましたが、特に最近それを実感しますね。あまりにいろいろなことが起きますので。
 さて、今日は久々にイベントのない日曜日でしたので、家族とドライブ。笛吹市芦川町にあるスズランの群生地に行ってきました。
 旧芦川村は、フジファブリックの富士吉田とレミオロメンの旧御坂町の間にある山村です。昔は、小菅村、秋山村と並んで、日本のチベットと称された(?)ほど、何もない…いや豊かな自然の残った所でした。村に通じる道もいかにも林道然としていて、よくぞここに住んでいる人がいるな、どういう歴史的事情があるのだろうと純粋に興味のわくような村でした。こんにゃく芋の栽培と炭焼き、渓流釣りで生活していた時代が長かったようですね。
 今日久々に(十数年ぶりでしょうか)行ってみますと、道もきれいに整備され、観光客もたくさん訪れていて、ああなんとなく雰囲気が変わったなと感じました。まあ、それも悪いことではありませんが。
08060102 で、その芦川の山奥にありますスズランの群生地は、白樺林の足下に一面のスズランが咲き誇る、それはそれは幻想的なものであります。今年は開花が少し遅れているということでしたが、それでも、白樺林に満ちるあの独特の芳香を吸い込みながら、散策の小道を歩いていますと、もう本当に浮き世のことを忘れてしまいます。
 スズランだけでなく、いろんな山野草も楽しめます。山野草って本当に可愛いいですね。まさに「うつくしきもの(小さくてかわいらしいもの)」です。可憐で控え目で…でも、そうそう例えばスズランなんか、ご存知と思いますが、あれは毒草なんですよね。あの姿と香りにだまされると痛い目に遭います…なんて、昔の苦い思い出がよみがえってきたぞ…笑。ま、それは冗談。
08060103 さて、そんな素晴らしいスズラン畑を保護し整備してくれているのが、当地で民宿やキャンプ場、茶屋などを営む「すずらん荘」の皆さんです。そこの奥さんが、最近レミオロメン関係でお世話になっている方のお友達で、そういう縁もありまして、今回訪れることとしたのでした。そこの息子さんはレミオロメンの3人と同級生で、ご自身も音楽をやられているとのこと。今日はその方はいらっしゃらず、自らもレミオロメンのファンとおっしゃるお兄さんが私たちをもてなしてくださいました。
 やはり、レミオロメンについても、地元ならではの応援をしていきたいというような話を奥さんといたしまして、なんとか具体的にイベントなんかを企画していこうということになりました。全国区になってしまい、ある意味遠い存在になってしまった彼らですが、やはり彼らの音楽にはこの山梨の風土が息づいていると思いますし、これからもそうであってほしいので、なんとか彼らにも原点を感じられる活動の場を提供したいものです。
08060104 そんな話でも盛り上がりましたが、しかし、やっぱりですね、なんといってもスズランをはじめとする美しく豊かな自然と、そして、お店でいただいたおいしいおいしい味噌おでん、きのこ汁が最高でしたねえ。
 自然と人間との正しい共存こそが文化だと思います。また、違う言い方をすれば、自然のアイデンティティーというか、その土地の風土というものが、人間の活動を通じて現れるのが文化だと思いますから、そういう本来の「関係性」を取り戻す活動をしていきたいですね。
 よそから来て山梨に住まわせていただき、その自然を満喫し、そこが生んだ文化を楽しみ、そしていろいろな人に出会い、その人たちに助けられている私。最近はどうやってその恩に報いるかを真剣に考えるようになりました。それほど、ここ山梨の自然と人と文化が好きなのです。

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2008.05.28

人工光合成〜光合成人間

Ecorepo_11_03 うすぐ洞爺湖サミットが始まりますね。その中心課題は当然(?)地球温暖化問題です。しかし、その実体は当然政治経済問題です。いつも書いている通りです。
 「クールアース推進」とか、数十年前では考えられないスローガンですよね。実に面白い。
 で、いつものように二酸化炭素がずいぶんと悪者にされているわけですけど、二酸化炭素が増え、気温が上がると喜ぶ生き物もけっこういるんですよね。植物なんかその最たるものです。なぜなら、彼らの生きるための仕事「光合成」が盛んになり、彼は炭水化物という最もほしいものをたくさん手に入れることができるからです。
 もちろん、これは単純化したお話ですけど、こういう発想って案外出てこないもんなんですよね。生徒たちも、こういう話をすると、「あっそうか」っていう顔をする。みんな自分中心の考え方しかしないからです(もちろん、人間以外の生き物も全てそうでしょうが)。
 光合成している植物たちだって、別に我々人間のために二酸化炭素を固定しているわけではありません。彼らは自らが生きるためだけに、二酸化炭素と水と光をなんとかたくさん仕入れて、そして働いて炭水化物という食べ物を得ようとしているだけです。酸素という副産物はポイポイ捨てちゃいます。そんなにたくさんいらないからでしょう。
 我々くらいですよ、いちおう他の生物のことまで考えて、洞爺湖に集まったりするのは。人間ってエライですよ。なんて、もうお分かりと思いますが、「他の生物」がすなわち自分たちの「食料」、つまり生きる糧だから、というのが真実なんですけどね。
 さて、最近私が、そういう自己中心的な発想から注目しているのは、「人工光合成」です。これが開発されれば、我々はバンバン燃料を燃やして二酸化炭素を排出できる。そうすると機械か何かが、その二酸化炭素を喜んで吸収してくれまして、そして、酸素やらジャガイモ(?)やらをどんどん産出してくれる。実に結構な話です。
 実際そういう研究や、もっとシンプルに「水の光分解」…水を酸素と水素に分解する…研究が、ある程度進んでいるようです。ただ、昨日の話じゃありませんが、あまりに複雑に進化したのか、あるいは神様がドンとお創りになったのか、我々生物は動物も植物もとにかく複雑な工業製品でして、どういう仕組みでエネルギーを変換したり備蓄したりしているか、よく分からないんですね。ですから、私の夢の実現はそうとう後の話になりそうです。
 今でも人工光合成が実現したという話はよく聞きます。しかし、どれもエネルギー変換効率が0.1%以下だったりして、今のところ実用化にはほど遠いようです。つまり、実際に木を植える方が楽だし効果もあるみたい。あるいはソーラーパネルを作った方がまだましなようです。
 いや、小学生の時からよく妄想してたんですけどね、人間も光合成できればなって。腹が減ったら外に出て陽の光の下でお昼寝すればいい。なんとも幸せな生活じゃないですか。そうそう、触媒とか開発して人工光合成するよりも、クロロフィルを人間に埋め込む技術の開発の方が手っ取り早くないかな。呼吸で排出される二酸化炭素を全て回収して、あとは適当に水飲みながら日なたでお昼寝。いやあ、理想的じゃないですか。ついでに炭水化物からお酒も合成したりしてね(笑)。
 なんて、冗談ぽく言っていますが、実はけっこう真剣なんですよ。誰か私と組んでこの壮大かつ実効的なプロジェクトを立ち上げませんか?連絡お待ちしてます。

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2008.05.27

「自然淘汰」は自然淘汰された(!?)

Shinka 〜!?まじで〜!?ということが起きました。いや、起きていました。いろんな意味でショックだなあ。人間は進化してるのか?それとも退化してるのか?
 というのは、中間テストである大学の過去問を出したんですね。そこに語句の問題があった。読みと意味を答えなさいという問題。その中にこういう言葉があったんです。

 「自然淘汰」

 そしたらですねえ、なんと一人も正解がいなかったんですよ!読みと意味両方できたヤツは一人もいない。というか、意味を知っていたヤツが一人もいなかった。まあ、それを選択受験した生徒はたったの5人だったわけですが、いちおう国立大学受験を目指す連中ですよ〜。信じられん。
 なんで知らねえんだよ〜!?と半ば罵倒すると、なんと逆ギレするじゃないですか。そんな言葉今まで聞いたこともない。見たこともない。習ったこともない。そんなのわかるわけないだろ!と。
 さすがにそんなことないだろうと、一つ下の学年の教室で聞いたら、なんとそこでも全員知らないとのたまわるではないですか!ま、まさか、「自然淘汰」という言葉は絶滅した…?
 さっそく、理科の先生に愚痴を申しましたところ、その理科の先生も落胆した表情で、「そうなんですよ。今や学校の理科では、進化は習わないので…中学では進化どころかイオンすら習わない…」とつぶやかれました。
 う〜む、ウワサには聞いていたが、本当にそうなのか…。詳しく説明してもらったところ、現在中学の理科では進化は扱わない、高校の生物Iでも扱わない、選択の生物IIには進化の項はあるが、必修ではないので(入試にはほとんど出ないので)やらない生徒もいると。進化を習わず大学で生物を専攻するということもありうるわけですね。
 まあ、たしかにそういう話は聞いてましたけど、ホントにそうなんだ、と実感してしまいました。それにしても、つまり学校で進化は習わずとも、「自然淘汰」という言葉は知っているだろう…と思いきや、このような結果であったわけで、これはまた違った理由で憂慮すべき事態ですよね。
 進化論が学校で扱われなくなった理由はまあいろいろありますね。進化論自体が学問的に絶対ではないというのはよくわかります。ま、アメリカやその他のキリスト教国のように過激ではないにしても、やはりダーウィンの学説を疑う立場の人が相当数いるわけですから、教科書には載せるべきではないというのもわかります。
 そして、「自然淘汰」という言葉が使われなくなった理由もなんとなくわかります。実は、今、進化論を説明する際にも、「natural selection」の訳は「自然淘汰」ではなく、「自然選択」というのが普通であり、もちろん教科書でもそのように…というか「自然選択論」という言葉で説明されているんですね。「selection」の意味は「良いものを選び残す」ということですから、たしかに「淘汰」より「選択」の方がいいかもしれませんね。「淘汰」は「悪いものを捨てる」という意味ですよね。選択はポジティヴな感じですが、淘汰はネガティヴなイメージがある。「淘汰される」といういわゆる「迷惑の受身」の形で使われることが多いのもうなずけるというわけです。
 あと、「淘汰」という漢字が両方とも常用漢字ではないというのもあるのかな。選択だったらそういう問題もないし。
 訳語としての正確性、あるいは社会性を重視すると、自然「自然淘汰」という言葉は淘汰され消えてゆくというわけですかね。なんとも皮肉なことであります。いや、これは「自然」ではなく「人為淘汰」なのかもしれないな。なんか、「自然淘汰」という言葉を日常でも使っている私たちが、淘汰されているような気すらしてくるぞ。何かの悪意が感じられる。いかんなあ…なんかものすごく不満だぞ。
 ところで、なんで進化論を信じない人が多いんでしょうね。ID論とか、創造論とか、私には全く理解できません。生物に限らず、芸術や文化でさえも、全て「進化論」で説明できるじゃないですか。疑う者はポケモンを御覧なさい。ポケモンは目の前で進化してくれますよ。なんちゃって(笑)。
 そうそう、今の子どもたちにとって、「進化」とは、理科の教科書のダーウィンでもなければ、社会の教科書のあの原人から現代人への進化図でもなく、ポケモンの世界の話なんですね。ははは。ところで、アメリカなどのキリスト教国では、ポケモンの進化はどのように考えられているんでしょう。やっぱり神の意思でメタモルフォーゼが起きると考えられているのかな。それとも、日本人によるインテリジェント・デザインだと考えられてるのかな。
 いずれにせよ、生徒たちの様子を見て、彼らが進化しているのか退化しているのか、正直わからなくなってしまったのでありました。そして自分は…ふぅ。

Amazon 進化のイコン―破綻する進化論教育 生物教科書の絵は本物か?(創造論者の著書です)

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2008.05.06

富士山麓の初夏を満喫(うぐいす&モリーユ)

080506 日はいい天気でしたね。雲一つない五月晴れ。ようやく富士北麓にも初夏の気配がやってきました。
 虫捕りをしたいという娘たちといっしょに近くの森を散歩。うぐいすが鳴いていたので、いつものレコーダー(iPod nano + LIC-IREC01)で生録をしてみました。
 マイクのアッテネータはLowポジション、すなわち高感度(ややこしいな)。このモードは会議なんかの記録用なんですが、かなり感度が高いですね。ウグイスの声が少し割れました。たしかにすぐに近くにいましたけどね。かなり遠くの犬の鳴き声もしっかり録れてます。下のファイルをクリックしてお聴きください(かなり音が大きいので注意)。
 うぐいすmp3
 なんだかちょっと字余りな感じのうぐいすですねえ。ホーホケキョケキョ。このレコーダー、ノイズも思ったより低く、ちょっとした生録にも使えますな。
Amigasatake 結局モンシロチョウを一匹捕獲しただけで、ウチに帰ってきたんですが、庭で遊んでいた娘たち、今度は高級食材を見つけました。そう、以前紹介したチブル星人ことモリーユですね。アミガサタケです。なかなか立派なものです。
 今年はどういうわけか春の山菜があんまり出ませんでした。いつもならちょっと困るくらい庭を占拠するフキノトウもいつもの2割くらい。フジザクラやソメイヨシノもいつ満開だったのか分からないうちに散ってしまうし、どういうわけなんでしょう。それほど異常気象という感じではないんですが。自然というのは微妙なものです。
 さて、このチブル星人、どういうふうに料理しようかな。

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2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2008.04.08

『ほんとうの環境問題』 池田清彦 養老孟司 (新潮社)

10423104 このおススメに何度も登場願っているお二人。そのお二人による夢の最強タッグが実現しました。
 結果、あまりに上等なエンターテインメントが完成。予想をはるかに超えるのがエンターテインメントです。断絶していたものどうしを結びつけるのがエンターテインです。
 何が断絶していたか。それは「人」と「自然」です。そして「私」と「『ほんとうの』真実」です。何が断絶させているのか。犯人は「カネ」です。そして「政治」です。
 私は何度も何度も繰りかえしてきました。資本主義、市場経済を続ける限り環境問題は解決しないと。真剣に地球にやさしくするんだったら、もういっそのこと清貧に甘んじろと。いや、死んでしまえと。
 私がいくら吠えたところで、そんなことは実現しっこありません。いや、このある種の天才二人がこうして吠えても、基本世の中は変わらないでしょう。カネは暴力と仲がいいのです。だから、一旦カネが本気を出せば、我々はひとたまりもないんです。
 うん、そうだ。いっそ、カネの力を借りてカネを制すか。そういう楽観的な未来展望というのもずいぶんとなされてきました。どうせ最後は自滅するよ、人類なんて。この本にも少しそういう臭いがあります。石油は全部使ってしまえとか。
 でも、それじゃあ、あんまり哀しいじゃないですか。人類というレベルではそれでいいし、そういうレベルならば人類ごとき絶滅しても、宇宙にとっては、あるいは地球にとっても、全然痛くもかゆくもないのかもしれません。でも、やっぱり、自分というレベルで考えると哀しい。
 その人々共通の哀しさ、それは倫理とはちと違うのかもしれませんけれど、そこんとこにまたつけこむ悪い企業や政治家がいるわけです。それが今、環境問題として騒がれているところの本質だと思います。なぜ、今環境問題が声高に叫ばれるのか、なぜ温暖化論が加熱しているのか。それは、それがカネになるから、すなわち政治になるからにほかありません。
 この虫好きオヤジ二人に共通しているのは、「ほんとうのこと」をいつも言ってしまうことです。それで商売している人です。それで虫採りの資金を稼いでいる。あるいは二人に共通していないのは、池田さんは私に好かれていない(たとえばこちら)けれども、養老さんは好かれている(たとえばこちら)という点です。その違いはどうして生じるのかというと、これはものの言い方によるものでしょう。ユーモアの質の違いでしょうかね。いや、虫としての質感の違いかな。ほら、虫の中でも、これは許せるけど、これは許せないっていうのあるじゃないですか。生理的に。
 というわけで、とにかく面白かったんです。私はここでついても表明しているとおり、完全なる環境問題懐疑主義者でありまして、そういう意味において、この本は私の知識や想像力をはるかに凌駕していましたから、それはそれは面白く読みました。それこそ30分もかからなかったのでは。そして、その30分間、ずっとニヤニヤしてましたよ。ウンウンうなずいてましたよ。
 内容については実際読んでいただく、あるいはAmazonのレビューを読んでいただけばいいですね。で、この本を読んで腹が立つ人ってどういう人なんでしょう。私の身近にもけっこういそうなんですけどね。なんとなく虫が好かないんでしょうか。スローガンやアクションで武装しなくちゃいられない人なんでしょうか。それともやっぱり自然よりカネ、すなわちワタクシ流に言えば「モノよりコト」の人なんでしょうか。
 繰りかえします。やっぱり私は「心より物(コトよりモノ)の時代」を標榜して行動していきたい。この本を読んで笑いながら真剣にそう思いました。

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2008.03.14

『理系白書 この国を静かに支える人たち』 毎日新聞科学環境部 (講談社文庫)

06275435 こちらは理科の先生にお借りいたしました。意外に知られていない事実ですが(当り前か)、私は理科の先生になろうとしていたんです。なのに今は国語の先生。いろいろ事情がありましてね。で、さらに遡りますと科学者や技術者になりたかった。
 自他ともに、高校入学までは完全に理系に進むものと思っていたんです。それが高校入学後に音楽に目覚めてしまいほとんど勉強をしなくなってしまった。まず最初についていけなくなったのが数学でした。そんなわけで、あっさり理系はあきらめた…かと思いきや、完全に文系になるのもなんだかそれまでの人生を否定するようでシャクなので、弱理系という道を選びました。それが理科の先生です。教育学部は全体としては文系ですけど、その中の理科ということです。
 しかし、人生はそんなに甘くない。はっきりせい!というどなたかの思し召しでしょう、見事に第一志望の大学には落ち、なんだかよくわからん大学の文学部に進むことになってしまったのです。そして、結局は強文系の国語の先生になってしまった。
 まあ、結果としてはこれがベストだったと思います。いろんな意味でね。つくづく天職だと思いますよ。生徒にもそう言われます。いいかげんでテキトー(良い加減で適当)が通用する仕事なので(笑)。
 それでも、昔取った杵柄、多少理系的な知識や考え方も持っているつもりです。また、無い物ねだりというか隣の花というか庭というか、やっぱり憧れのような未練のようなものがあるのも事実です。次生まれ変わったら美貌の女性科学者とかいいなって(笑)。猿橋賞とか獲りたいな、なんてね。
 さて、そんな感じで、私は理系世界にも大変興味を持っております。古今東西硬軟聖俗左右文理なんでもござれ!ですなあ。これじゃあ一流にはなれないよぉ(泣)。まあ、一流になんかなるつもりは最初からありませんが、妄想としては、もし小学校中学校時代の夢を叶えて、大学や企業やらの研究室にでも入っていたらどうなっていたか知りたいじゃないですか。それでこの本を読んでみたんです。結構リアルですよって、その世界もよく知る理科の先生が言うので。
 う〜ん、読んでみましたよ。ある意味面白くてすぐに読みきってしまいました。たしかに鬱屈した世界ですねえ。華やかな成功譚の裏には様々なドロドロが…。読んでる文系の私でさえ暗澹たる気持ちになってしまった。生徒に「理系」行け!とか言えなくなっちゃうよう。
 この本の基本コンセプトが「理系は報われていない」ですから、当然そういう話満載になりますし、またその原因を日本独特の文系優位社会に求めているわけで、そういう意味で立派な告発本であることもわかりますけどね、しかしここまで悲惨な話が多いと、結果として理系離れを助長するというおそれさえある。少なくとも私は文転してよかったと思っちゃいましたよ。
 もちろん、人間を文系・理系というふうに分けるのはどうかと思いますよ。そういうデジタル的二分法にはいつも違和感を持ちます。でも、仕事上、何千人もの人間を見て来た経験から言いますと、たしかに人間は大きく二つのタイプに分けられるような気もするんです。で、それらが互いに得意不得意を補い合っている。そう、男と女みたいにね。それをごっちゃにして、男女共同参画社会みたいなことを言い出すのは野暮です。お互い補い合うのが共同ですよねえ。この本にもありました。「理系・文系は男と女の関係のようだ。永遠に理解し合えない」って(笑)。いや、理解し合えない違いがあるから共同するんでしょ。つまり、違いは違いで厳然としてあるんで、それを便宜上文系・理系で分けてもいいと、現場の私は思うのです。
 で、その分け方の定義というか基準というのは実に言語化するのは難しい。非常に感覚的なものです。ある意味根本的すぎて言葉にならないのかもしれません。ただ、一つ言えるのは、理系の方が勉強するということです。高校においても理系は文系の1.5倍はやることがあります。数学一つ取ってもそうです。数ⅢCまでやらなくてはならない。場合によっては理科3科目なんてのもいる。大学に行っても、私みたいな強文系の文学部なんかヒマすぎて曜日が分からなくなる(つまり毎日が夏休み)。一方の強理系は実験やら実習やらが忙しすぎて曜日が分からなくなる(つまり毎日徹夜や泊まり込み)。
 それなのに、本書によれば、理系の生涯賃金は文系より5000万円も少ないという。まあ、どういう比較なのか疑問な点もあるんですけどね。たとえ同額でもたしかに不公平な感じはします。それだけではなく、いろいろな不公平がこの本では紹介されていますよ。そこまでかなあ…っていう気もしますが。
 で、話としては当然共同参画になっていく。男と女仲良くしましょうよ、みたいに。リベラルアーツ的にあるいは学際的な方向に行きましょうと。まあそれもよく理解できます。江戸時代なんかは文・理のバランスが良かった。そういうふうにしましょうと。
 でもですねえ、私は思うんですよ。江戸とはあまりに環境が違う。世の中の仕組みが違いすぎる。すなわち市場経済という化け物に支配されている現代においては、理系はなかなか浮かばれないと思うんですよ。アメリカは理系天国だと言っても、それは勝ち組により多くの報酬が与えられているというだけで、ある意味単なる弱肉強食だと言えなくもありません。
 理系は無常性・不随意性を持つ「モノ」の中に潜む真理(マコト)を追究し、それを「ヒト」のための価値として創造して商品化する。つまり、疑似的であれ刹那的であれ(つまり真理ではないんですが)、無常性や不随意性に対抗して、長持ちし思い通りにコントロールできる商品を開発するわけです。そこには単純な数値化される勝ち負けが存在します。一方の文系は最初から「コト」の中のフィクションを追究していますから、そのウソ臭さをクッションにして「いいかげん」に「テキトー」に市場経済のリング上で真剣勝負を避け続けます(プロレスみたいなもんだな)。ですから、まじめに勝負を挑む理系にダメージが多いのは仕方ないんですよ。
 で、困ったことは、そうした市場経済のリングを作ってきた張本人が理系の人々だったということです。産業革命を招来し資本主義を確立してきた主役は理系の人々でした。サブタイトルにあるとおり現代社会を支えてきてしまったんですね。そこのところの自己撞着をどう始末するのか。私は最終的にそういう虚しさを感じてしまいました。
 まあ、でも今はプロレス派の私も、どこか総合格闘技もいいかなと思っているように、そういうリングに命をかけて逃げも隠れもせず臨む理系の人たちに憧れを持っているのも事実でして、やっぱり来世は美貌の女性科学者になりたいな、なんて思っちゃいます。それも薄倖のね(笑)。

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2008.02.20

『偉大な、アマチュア科学者たち』 ジョン・マローン著 石原薫訳 山田五郎監修 (主婦の友社)

07238724 昨日のプロフェッショナルは「素人力」「素人魂」でした。番組としては自己撞着に陥っていた…かと言いますと、単純にはそうとも言い切れません。プロと素人が反対語とは限らないからですね。私だって教師という仕事でメシを喰っているという意味ではプロなのかもしれませんが、その仕事ぶりは今も昔も素人ですし。素人の対義語は玄人であり、玄人がプロとは限らないということでもあります。では、プロの対義語は…?
 これは一般にはアマチュアということでしょうね。プロとアマは常にペアで意識されます。この場合は、やはりそれでメシを喰っているかどうかというのがポイントになっていますね。そうしますと、私はプロの教師であり、アマの音楽家ということになるのかな。
 で、音楽なんかでもそうですし、昨日の社長さんもおっしゃってましたけど、案外アマチュアというのは楽しい。自由な発想ができる。腰が軽い。場合によってはプロが驚くこと、プロがうらやむことをできたりする。
 そう、だから私は昨日書いたように「マチュアなアマチュア」になりたいんですよ。究極のアマが一番強いし面白いんじゃないかなって。あっそうそう、「mature」と「amateur」で検索すると、たいがいエロサイトが出てきます。日本語で言えば「素人熟女」ってことかな(笑)。
 いや、そっちの話ではない。科学者の話をしなくちゃ。
 教科書に載っているあの有名な科学者が実はアマチュアだった、というのがこの本です。理科の先生にお借りしました。科学の世界でも究極のアマチュアというのがあるようで、やっぱりある意味憧れの存在だそうです。縛られないからこその大発見。偶然も味方せざるをえない純粋なひたむきさ…。
 そういうお話がたくさん載っています。具体的に何人か名前を挙げましょうか。よく知られた人。
 メンデル(遺伝)、ファラデー(電磁法則)、クラーク(通信衛星)、ジェファーソン(考古学)…へ〜、みんなアマチュアだったんだ。知らんかった。
 趣味が高じて偉大な科学者と呼ばれるようになったわけですね。たしかにちょっとかっこいいな。ある意味オタクを極めたとも言えますかな。芸術の世界にもそういう人たちいますね。生前は認められず、それでメシが喰えなかったので結果としてアマチュア、というパターンもありますが。
 この本で特に印象に残ったのはレビーです。私もいちおうアマチュア天文家だった時代がありまして(小学校から大学まで)、彗星の発見というのは一つの憧れでした。あれは自分の名前がつきますからね。そして、彗星探索みたいな地味な作業はプロはやらないので、アマチュアの天下ですし。日本人で言えば関勉さんなんかカリスマでした。私、小学校の時、尊敬する人として関さんと藤井旭さんを挙げてましたっけ。お二人ともアマチュアですね。
 なんかこの本を読んで、またまたアマチュア魂が燃えてきましたよ。本気で素人熟女…ではなく「マチュアなアマチュア」目指したいなあ…ってなんの分野のだよ!と自分てツッコミを入れちゃいました。まあ、浅く広くというのもアマチュアの特権でしょうから、このブログなんかを何十年も続ければ、何かが生まれるかもしれませんね。偉大なブロガーか?たしかにブログって究極のアマチュアリズムの集積だよなあ。ま、なんだかんだ言っても、私には純粋なひたむきさはありませんので、一生ただのアマチュアで終わるでしょう。楽しければそれでもいいか。

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2008.01.04

『医療の限界』 小松秀樹 (新潮新書)

10610218 小松さんが繰り返す「不確実性と死を受け入れられるか」という課題…これはまさに私の考える「もののあはれ」そのものではないですか!
 医学部受験の生徒のためにと読み始めたこの本でしたが、興味の対象はすっかりそっちへ行ってしまいました。そんなこと考えてこの本を読んだ人もそうそういないだろうなあ。
 いえいえ、本文中には「武士道」「無常観」「葉隠」「渋江抽斎」なんていう言葉も時々出てきます。すなわち、小松先生自身、「もののあはれ」とは言っていませんが、そういう日本古来の感慨や思索がなくなってしまったことを憂えているのです。そして、それが現在の医療崩壊を生んでいると。
 たしかに、私たち患者は、医療に完璧(確実性)を求めがちです。そして、いずれ必ず訪れる「死」、あるいは医療の不確実性に伴う死のリスクについて、思いを馳せようとしない。逃げ、そして医師や薬に依存する。期待と結果を混同する。
 小松先生は、そうした状況の原因の一つとして、「想像力の欠如」を挙げています。私も同感です。先ほど死に思い馳せないと書きましたが、これも想像力の欠如の一つです。そして、医者も自分と同じ人間であって神ではないということ、あるいはその人間が大変厳しい環境の中で仕事をしているということすら想像できない。そこにモンスター・ペイシャントが生まれます。自己愛の怪物です。
 モンスターで思い出しましたが、この本で書かれている医療の現状は、教育界にも完全に当てはまりますね。モンスター・ペアレントです。あるいはモンスター・スチューデント…いや、生徒はいつの時代もカワイイ怪物ですから、それを言っては仕事になりませんね(笑)。
 しかし実際教育界で起きているワケの分からない状況というのも、まさに想像力の欠如によるものであります。生徒、親、教師の全てに想像力が足りない。お互いに思いを馳せるのではなく、ただただ期待し結果を混同し続ける。
 この本にも書いてありましたが、これは医療や教育の市場経済化の結果でしょう。紹介されていたアメリカの医療の実態には本当に驚きました。そこにヒューマニズムなんてものはかけらもない。カネ、カネです。私、もともと新古典派嫌いだったんですけど、ますます嫌いになっちゃいましたよ。市場原理ってそんなに魅力的なんでしょうか。金持ちはもっと金もうけしたいんでしょうか。
 さてさて、私のフィールドである「もののあはれ」に話を持って行きます。繰り返しになりますが、私の考える「モノ」とは「不確実性」そのものです。「自分の意志や知覚の外にあり、不随意であるもの」「常に変化し固定できない存在」です。それに「ああ(aha!)」とため息をつくのが「もののあはれ」です。
 ため息をつくというのは、単にガッカリしているわけではありませんね。感心したり感激したりした時にも、私たちはため息をつきます。また安心した時にもふっと息をもらします。そこなんですよ。いかんともしがたい運命によって、我々は常に翻弄され、予想外ないいことや悪いことに直面して生きなければなりません。それに対して、「仕方ないな(哀れ)」でも「ありがたいな(天晴れ)」でも、とにかく受け入れる時に「あはれ」となるわけです。
 この前の百人一首についての記事に、「もの思ふ」が多いというようなことを書きました。これがすなわち「思いを馳せる」「想像力」なんです。思い通りにならないことを受け入れるために、結局は自分と闘っている姿なんですね。決して消極的な悲観的な態度ではありません。そこに「歌」や「物語」が生まれるわけですから、それだけのエネルギーを内在した行為、思索なんです。
 今、私たちは「コト」ばかりを求めます。思い通りになり、確実で、不変な「コト」があると信じて、自分を含めた世の中が「モノ」であるということを直視せず、経済や科学の道をひた走っています。
 繰り返します。世の中の全ては「もの」である(無常である)というのが、唯一の「まこと(真実)」だということを忘れてはいけません。今こそ「もの思ふ」「もののあはれ」の復権を願います。

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2007.12.28

ウラジミール・ゴンチャロフ博士

Senrigan 本日、仕事納め。やばい!年賀状印刷しなきゃ。今年の、いや来年の年賀状は(も)すごいですよ。毎年いかにくだらないパロディーをやって元旦早々人を笑わせるかということだけを考えている我が家の年賀状。今回のはあまりに馬鹿げてるので、元旦にこのブログで公開しようと思ってます。ついに私の素顔がさらされる!?
 さて、くだらなさ、脱力系、嘘八百、トンデモ、といった世界において、私が常に注目し、あるいはそこから学んでいるのは、雑誌によくある「開運グッズ」広告であります。昨日は広告業界の芸術性について書きましたけど、これもまたある意味芸術的世界であります。
 みなさんもご覧になったことありますよね、開運グッズの広告。財布とかブレスレットとかペンダントとか石とか。とにかくそれを買って身につければ、金持ちになる、人間関係が改善する、彼氏彼女ができる、ギャンブルで勝ちまくる…夢のような話が、写真入り体験談とともに紹介されてるヤツです。札束で左うちわの家族とか、あるじゃないですか。
 まあ、あれを信じて買うかどうか、それはまあ自由でして、いや実は私も一回くらいわざとだまされて買ってみたいと思ってますよ。あまりに馬鹿げていて面白いじゃないですか。この前粉砕した(?)「神世界」の「力ライセンス」とか「神書」とかもウチにありますけど(買ったんじゃありませんよ)、ああいうのとはちょっと違う気がする。悪意のようなものも感じますけど、なんとなく「バッカですよ〜」と宣言してるようなところがあって、なんかそこんとこは微妙に許せたりするんですよね。
 でも、たとえばこんな風に許されない時もある。公正取引委員会は「アート」を解さないのか!?ってか、だまされて買っちゃって、それでクレームをつける人がいるっていうことですよね。ご愁傷様なことです。
 で、なぜかそのフジアートとかなりご近所にあるイセイコーポレーションが先月出した広告が最高だったので、今日はその中のさらに最高級の部分を紹介させていただきます。
 そのグッズは何かと申しますと、「超(スーパー)千里眼」というルーペでして(ルーペというのはなかなか斬新!)、それをのぞくと、ロト、宝くじ、パチンコ、パチスロ、株、競馬…なんでも当たるらしい。なんでも旧ソ連諜報機関が極秘開発したそうで、今回その開発に携わった最高技術責任者と接触に成功し、この超千里眼を発売することになったと書かれています(笑)。
 例によって、サクラの方々が札束とおぼしき塊(モザイクがかかるようになりましたね、最近)を持って、満面の笑みを浮かべております。彼女ができた佐藤智一さんもいるぞ(笑)。もうそれぞれのコメントの文学的センスが最高なんで紹介したいところですが、今回はそれよりなにより!その最高責任者の方ですよ。
Vladimir ウラジミール・ゴンチャロフ博士(Владимир Гончаров/Vladimir Goncharov)!!最強です。写真を観てくださいよ〜。この方が諜報部超能力研究チームの最高責任者じゃあ、旧ソ連も崩壊するわ(笑)。
 これってギャグですよねえ。この髪形ありえませんよ。そして、なんと言っても、その顕微鏡を覗く覗き方ですよ。いくら超能力、超千里眼でも、覗く方の目をつぶってちゃねえ(笑)。すごすぎます。ご本人からしてすでに崩壊してます。いいなあ、この味。
 「神世界」の皆さんにもぜひ見習ってもらいたい。いや、「神書」なんて読むと、けっこうゴンチャロフ級のギャグが書いてありますけど、なんていうかなあ、博士のような品格が感じられないというか(笑)、知性が感じられないというか(笑)、とにかくダメです。このあたりの微妙な差異ってなんなんでしょうね。理論では説明できないような気がします。
 というわけで、私の2007年の「この人」はウラジミール・ゴンチャロフ博士に決定です。いくら開運グッズ広告でも、これからこれを超えるのは難しいでしょう。おめでとう!博士!

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2007.12.14

ふたご座流星群(2007)〜枕草子「星は」

写真はいただきものです↓
Gem2004s 今年もまたやってきましたふたご座流星群。3年前にも書いた通り、私の最も好きな天文現象です。今年は月明もなく好条件。ここ数年出現数も増加傾向でしたので期待できました。
 本来なら庭で寝袋にでも入って観測すべきなんでしょうね。というか、庭で6等星まで見えるというのは、本当に幸せなことですね。普通なら山にでも出かけるところです。それがですねえ、ここ自体が山、それも富士山ですから、家にいながらにして天体観測ができる。
 で、今日はちょっと雲も出ていましたし、子どもたちも見たいというので、なんと家の中からぬくぬくと観測いたしました。寝室の窓からはけっこういい条件で西天を望むことができるんです。東の空は東京の光にやられてますし、人間の目の視野なんて実は大したことないので、窓2枚分くらいでちょうどいいんですよ。それに、まだ11時すぎですから、ふたご座は東の空です。ちょっと離れた西天には、長いのが流れますので見栄えもいいと。
 子どもたちはすぐに眠くなってしまったようですが、それでも20分くらいの間に6個ほど「見えた!」って言ってました。私もふとんに寝ながら観ていたので、結局40分ほどで眠りに落ちてしまった…と思います。でも、これもまた贅沢な話ですよね。ふとんの中で流星を見ながら夢路を辿る…。
 ふたご群の流星は痕が残ったりはしませんが、比較的明るいものが多いので、目に残像が残り、それが美しい尾や痕のように見えるんですよね。それはまさに夢の中の宝石のような輝きです。あるいは天の涙でしょうか。dropという感じなんですよね。
 ところで、ある意味ロマンチック、ある意味リアルな話になってしまいますけど、日本では古来、流星のことを「よばひ星」と呼んできましたね。枕草子に「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ(宵の明星=金星のこと)。よばひぼしすこしをかし。尾だになからましかば、まいて」とあるのは有名ですね。「流れ星はちょっと萌え」って言ってるんですね。いつも言うとおりをかし=萌えです。で、そのあと「尾さえなければもっといいのにね〜」と。流れ星は尾が「萌え」だと思うんですけど。なんで清少納言はこう言ったのでしょう。
 当時、流星の尾は不吉なものであったとも言われています。中国の影響のようです。なんでも「天の狗」だとされたそうで、つまり「天狗」の原形ですね。そんなわけで日本でも嫌われたようです。今でも流星の尾を見たら、ねずみなきをしておまじないをする所があるとか。
 あと、こういう解釈もできますね。あくまでも「夜這い」ネタとして考えるんです。夜這いってナイショでするものじゃないですか。だから、「尾」とか「痕」とか残るのは困る。バレちゃいますからね。たしかに「尾」がなければいい。「ましかば」というのは受験勉強的に言うと「反実仮想」っていうやつですね。事実に反することを妄想するんですよ。ってことは、清少納言のところに誰かか夜這いに来たのが実際バレたんでしょうね。まあ、当時の宮中なんてそんなネタくらいしかありませんでしたから。
 「よばふ」とは、「呼ぶ」に反復を表す「ふ」がついた、あるいは「呼び合ふ」の短縮形の「呼ばふ」でしょう。辞書をひくと「求婚する・言い寄る」とあります。そして「夜這ひ」という字が当てられた。ものすごくリアルな当て字ですね。

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2007.12.08

明けの明星…全ては相対的な「モノ」であるという「コト」

07120801 今年もやってまいりました歴史的特異日。私にとっては今日が1年の中で最も意味の大きな日であります。自分の誕生日や元旦などよりも、いろいろな意味で気持ちが高ぶります。そして、いろいろな決意をする日でもあります。
 昨年は力道山、一昨年はジョン・レノンについて書きました。今年はお釈迦さまです。そう、今日は成道会(臘八会)、お釈迦様がお悟りを開かれた日です。お釈迦様のお悟りについては、日本にはこのように伝わっております。

 「苦行に疲れたシッダールタはスジャータの乳粥供養を受けられ、明けの明星が朝焼けの東空に消えるガヤーの清澄な早朝、一樹下に坐したシッダールタは未曾有の覚りを得られ、仏陀となられました」

 早起きの方はご存知かもしれませんが、今年はちょうど金星が明けの明星として東天に輝いております。ものすごくきれいです。私は早起きなので毎日その宝石のような輝きを拝んでいます。
 今日は特に美しかった。私もコーヒーにスジャータを入れて飲み(笑)、そして庭に出て菩提樹…ではなく落葉松の下で少し坐禅をしてみました。半眼の私の視線の先には金星が鮮やかに輝いています。
 さて、私は悟りを得ることができたでしょうか。
 実は、ここのところ「物語論」を続けてきたのにはこういう意味があったのです。そう、私はもちろん悟りを得て仏陀になることなんかできませんが、私のレベルで私なりの仏教観というのがありまして、それをこの12月8日に確認したいなと思っていたのです。
 つまり、「人は物語なしには生きられない」ということです。自らに必ず欠落感を抱いており、誰かに何かにそれを埋めてもらわなければならない存在。あるいは前向きに考えるなら、常に他に対して開いており、他を受け入れ続ける存在であるということ。そして、そうしてたくさんの「もの」を注ぎ込んでも永遠に絶対的な自分は完成しないということ。
 これは、正統的な表現をとれば、「無我」「色即是空」「因縁」「不二」「縁起」「無常」などとなるのでしょうね。
 私は私の言葉で考えてみたかったのです。自分の得意な分野、得意な言葉、(あるいは特異な実感)で、今日考えてみたかった。
 では、黎明の中の金星は何かを教えてくれたのでしょうか。結論から言いますと、何も語ってくれませんでした。でも、大切なことを気づかせてくれたような気がします。
 坐っているうちに、確実に太陽は地平線に近づき、だんだんと明るくなり、周囲の風景が見えるようになってゆく、その中で金星の光は次第に弱くなっていくように感じられました。本当は金星の明るさは変っていません。絶対的な光度は一定です。しかし、相対的には弱くなっていくように感じる。
07120802 ふと目を落としますと、そこに本当に細い細い月があるではないですか。それがちょうど落葉松の木に刺さっているように見えました。刃物のような月は見る見るうちにどんどん木の幹に食い込んでいきます。月が動いているのです。
 そのうちに朝焼けはさらに鮮やかな赤に変わってゆき、そして太陽が顔を出しました。もう金星も月も私の目には見えません。その時、私は気づきました。悟りなんていうものではありませんが、当たり前のことを確認したのです。
 それは全てが「相対的」であるということです。金星の明るさも、月や太陽の動きも、そして自分の存在も。私が見た金星も月も太陽も、「私」の感覚を中心にしたものにすぎません。本当はそれらが動いているのではなく地球が動いているのです(もちろん金星も月も太陽も宇宙空間の中を移動していますが)。私はその地球に乗っかっているだけ。もうこれだけでも、自分なんていうもの存在は、ちっとも確かではなくなってしまいます。
 お釈迦様は、たぶん意識が自分から離れて、地球からも離れて、さらに宇宙からも離れて、一番遠いところ(実は一番近いのかもしれませんが)から、自分を、そして世の中を見たのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。
 「モノ」というのはそのように「相対的」な存在の象徴です。逆に絶対的な存在が「コト」なのではないでしょうか。ですから、世の中の「コト」は過去の事実である「情報」しかないわけです。情報自体は不変です。あとは「ミコト」つまり神様ですね。そして「真理」。つまり、現在と未来の私たちは全て相対的、無常なる存在、すなわち「モノ」なのです…ということだけは絶対的な「コト」ですね。それがお釈迦様の得た真理なのではないでしょうか。
 「物語」とは「もの」を固定しようとする(コト化しようとする)行為です。しかし、実際には永遠に固定されることなく、逆に多くの人々を通じて無限級数的に相対的になっていく存在です。それはまさに生命の継続性と多様性を象徴していますね。
 …と、いろいろ語ってしまいましたが、正直よくわからないところもたくさんあります。でも、今朝のあの時間と空間の中で私が感じた「もの」は私に力を与えてくれたのはたしかです。その美しさだけは絶対的なような気もしました。そういうところに、神や心理や悟りが宿っているかな…なんて思いながら、すっかり明るくなった日常に戻っていく私でありました。おしまい。

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2007.11.28

『爆笑問題のニッポンの教養 「この世はすべて錯覚だ~知覚心理学 北岡明佳」』(NHK)

Sakushi 何を信じればいいかシリーズ。昨日録画した「爆笑問題のニッポンの教養」を観ました。今回のテーマは「錯視」です。立命館大学で知覚心理学を研究する北岡明佳教授が登場しました。
 北岡さんの錯視のホームページをよく見ていましたので楽しみにしていました。まず面白かったのは、北岡センセイのキャラが想像と全く違ったということ。私の勝手なイメージはそれこそ錯視であったのか。爆笑問題も何度もツッコミを入れてたりいじったりしてましたけど、なかなか動じませんでしたね。なんだか番組を見ているうちに北岡センセイが作り物に見えてきたのは私だけでしょうか(笑)。
 さて、北岡センセイも良かったけれど、今回もまた太田の天才ぶりに脱帽させられましたね。後半はほとんど彼の独演会でした。
 北岡センセイの「ある意味私たちが見ている世界は全て錯視で成り立っている」というような話を聞いて、太田は「自分の見ている世界は実は自分自身、私たちは自分自身という束縛から抜け出せない、そこにオナニー的な虚しさを感じる」というような哲学を語り出します。途中谷崎の春琴抄が出てきたり、山月記を思わせる自分の中の「猛獣」が登場したりと、明らかに北岡センセイの上空をぶっ飛んでいきます。
 北岡センセイはなんでも論理的に分析しようとするんですが(真面目なんで)、どうにも理解できていない状況です。なんとか説明にこぎつきますが、太田はさらにその先に進んで行ってしまいます。その時の北岡センセイの表情がなんとも可愛かった(笑)。この人はいい人だ。わからないことはわからないと言える人だ。
↓click!
Rotsnake まさに錯視のメカニズムが解明されないのと同じなんでしょうね。そこに厳然と「ある」太田の思考ですが、それが理解や日常や常識を超えている。しかし、何かそこに真実があるのではという予感だけは確か。それを処理し切れない北岡センセイの表情こそがこの世の善的真実だと思いました。
 私も思いましたけど、これは視覚だけの問題ではありませんね。我々は全てをイメージ化して捉えていますので、私たちの認知しているこの世界は全てニセモノであり、また、どれ一つとして他者と同じイメージを共有していないわけですね。しかし、それをそう考えてしまうと、我々は誰とも共感し合えなくなってしまいます。ですから、それを乗り越えてしまう「錯視」や「錯覚」や「幻想」や「妄想」という機能も持っているのが私たち人間です。
 そう考えてみますと、昨日、一昨日の話もまた違った捉え方ができるかもしれません。つまり、そうした人間の持っている機能、錯視の機能とイメージの共有機能を利用して、金もうけをしようとする人が今も昔たくさんいるということです。金だけじゃないな、権力とかもね。たまにバレるとそれが偽装とか捏造とか詐欺とか違反とかになる。つまり、我々は常に錯視の最先端で生きているわけです。ちょっと先に進めば谷底に落ちてしまうような、そういう共同幻想の崖っぷちを日夜さまよっているんですね。
 そういう崖っぷちの意識を忘れているとバカな目に遭い、あまり意識しすぎると鬱になったりする。どちらにしろ落ち込んじゃうわけですな。そのへんのかじ取り加減こそが処世術であり、唯一の幸福への現実的方策なのかもしれません。あとはそういう面倒くさいことを楽しめるかどうかですね。それを楽しめないと、それこそ八方塞がり、自分の居場所はなくなってしまいます。面白いですね。そんなことを考えていると、私には金も宗教も科学も、別にそれほど重要ではなくなってくるのでした。

「爆笑問題のニッポンの教養」公式

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2007.11.14

パース市内観光…アボリジニ文化に触れる

071114 本日のメイン・イベントはパース市内での自由行動でした。生徒たちはそれぞれ得意の(苦手の?)英語を駆使しつつ、買い物や食事をしていました。
 私は適当にブラブラしながら、ちょっぴり彼らをアシストしたり監視したりという役割。途中、少し息抜きに駅の北側に回ってみました。お店の並ぶ南側と違って、文化施設などが点在するこちら側はとっても静かです。
 美術館と博物館、そして図書館に潜入、アボリジニの歴史や文化、アートにじっくり触れました。私は彼らの文化にはかなり興味を持っています。特に日本の縄文との関係ですね。彼らの素性は明らかになっていませんが、よく言われているように南インドやポリネシアからやってきたとすると、日本の縄文人との関係も否定できなくなります。
 特に私が興味を持っているのは、彼らのシンメトリックな感覚です。そう、縄文土器のデザインとオーストラリアン・アボリジニの絵画における対称性の類似です。あんまり言われていないようですが、私にはどうも両者の対称性と、対称性の微妙な崩し方が似ているように思えるんですよ。ちゃんと勉強すれば何かわかるのかもしれませんね(たぶんちゃんと勉強しないと思いますけど)。ま、もともと我々人間は、自分自身がシンメトリックなデザインを施されていますから、そういうものに自然と敏感になるというのもわかります。でもなあ、あの微妙な崩し方はなあ、独特だよなあ。それが意図的なものなのか、それとも無意識の産物なのか、あるいは未熟さの故なのか…。
 さてさて、アボリジニのことを考えるとき、どうしても忘れてはならないのは、彼らに対する白人による迫害の歴史です。日本の縄文人も多少は弥生人に駆逐された面もありますけれど、悲惨な虐殺や支配はなかったようです。比較的緩やかに穏やかに融合していった(もちろん細かくはいろいろありましたし、弥生人による実質的占領だと言う人もいますが)。オーストラリアでは、最近になってようやくアボリジニの人権を認めようという動きが活発化したようですね。それでもまだまだいろいろと問題があるようです。
 ホテルでテレビを観ていますと、どうも近いうちに選挙があるようで、労働党と自由党がさかんにCM合戦を展開しておりました。彼らの政策の中にはアボリジニに対するものもあるんでしょうか。
 夜中にはアボリジニたちにとっても非常に神聖な存在であったらしい南十字星を見ました。ホテルのベランダからもしっかり見ることができましたよ。
 いつもながらひっくり返ったオリオン座にはなんとも不思議な感じがいたしますなあ。そして、日本よりもいっそう明るく感じられるシリウス、そしてカノープス、さらに南十字やらケンタウルスの一等星が、実にゴージャスに輝いていました。派手だなあ。パースの中心街でこれですから、砂漠で観る星空はどんなもんでしょう。次に行くときはぜひともスターウォッチングも計画したいですねえ。

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2007.11.08

モミジとカエデ

Kaede 秋山尓黄反木葉乃移去者更哉秋乎欲見世武
 いきなりですが、万葉集の歌です。「秋山に もみつ木の葉の うつりなば さらにや秋を 見まく欲りせむ」…「秋の山に黄色く色づいた葉が散ってしまったら、もっと秋を見たくなるでしょうね」といった感じでしょうか。山部王という人の歌ですが、まあ別段優れた作品というわけではありませんね。
 注目すべきは、万葉集において「もみつ」すなわち現代の「もみじ」の語源になった動詞には「黄」の文字が当てられることが多いということです。「紅」ではないんですね。当時は赤い葉よりも黄色い葉の方が人気があったのでしょうか。
 写真はウチの裏のカエデの木です。いや、正確に言うと「ウチの裏」ではなくて「裏のウチ」ですね。とっても立派なカエデの木でして、毎年まばゆいばかりの黄に色づきます。
 山部王ではありませんが、たしかにこうして葉が木の根元に落ち始めて、次第に枝の葉が少なくなってきますとね、ああ秋も終わりかと思います。本当に春の桜が散るのと同じ「もののあはれ」だなあ。私もしっかり日本人してるなあ。自分のDNAをこんなところで意識したりして。
 今年は、いや今年もまた、その色づきが今一つでした。温暖化の影響でしょうね。たしかにこの近辺の紅葉が冴えなくなってきました。紅葉も黄葉もみんな茶葉になって散っちゃうんですよね。この近辺は別荘地で、みんな大枚はたいて高級な紅葉木を庭に植えるので、ちょっと人工的とはいえ、かなり美しい秋の景色を堪能できるのですが、ども最近イマイチなんですよねえ。ここに住む楽しみの一つなんですけど。
 だいたい、11月に入っても霜が降りないなんて信じられません。20年くらい前、世の中が寒冷化だとか騒いでいた頃は、ホント山梨の紅葉はきれいでした。当時の写真なんか見ますと、今とはまさに雲泥の差であります。赤も黄も実に鮮やか。
 黄色はカロチノイドでしたっけ。赤は、えっとヘモグロビン…じゃなくて、アントシアンか。なんか忘れてしまいましたけど、そういった物質がうまく生成されないんでしょう。つまり、うまく「もみつ」ことができない。古文で言えば「もみたれず」ということです。ちなみに、奈良時代は「もみつ(タ行四段活用)」、平安以降は「もみづ(ダ行上二段活用)」です。つまり、平安以降で言えば「もみぢれず」ということですか。
 ついでに、もう皆さん御存知と思いますが、「もみじ」と「かえで」の違い分かりますか?私はなんとなく小さい葉っぱのが「もみじ」で大きいのは「かえで」だと思ってました。あるいは赤が「もみじ」で黄色が「かえで」なんていうイメージもあります。でも、本来は「かへで」は「蛙手」で、「もみぢ」はさっき書いたように「紅葉(黄葉)する」という意味ですから、全然違うわけです。まあ、世の中では「かえでともみじは同じもの」と説明されたり、葉の先が五つに割れているのが「もみじ」、三つが「かえで」とか、いろいろあるようですし、日本の学名は「○○カエデ」「○○モミジ」となっていても、それらはほとんどが「カエデ属」に属していたり、英語では全部メープルだったり、ああ面倒くさい(笑)、とにかく自分のイメージでいいということでしょうし、そんなことで悩むのはヒトという動物だけでしょうから、どうでもいいかもしれませんね。

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2007.11.04

四尾連湖 (第3回 レミオロメン聖地巡礼の旅より)

Po04 と行われた「レミオロメン聖地巡礼の旅」の続編が、昨日本日と二日間にわたって行われました。が、私は昨日は自分のコンサート、また下の娘が水ぼうそうということもあって、最後の最後だけ参加させていただきました。他のメンバーの皆さんは今まで以上に濃い旅を満喫されたようで、めでたしめでたし。皆さん本気で御坂に移住して来そうな勢いです(笑)。でも、こうして山梨の良さを分かっていただけるというのは、純粋にうれしいですね。
 さて、皆さん、すっかり御坂に詳しくなってしまっていますので、本日私はちょっとマニアックなところへ彼女らをご案内いたしました。
Pp02 四尾連湖です。四尾連湖(しびれこ)、この湖は本当にいいですよ〜。森の中の周囲1キロ強の小さな湖。あとで詳しく書きますが、この山の中の神秘の湖、本当に謎の湖です。名前も妙ですが、その存在自体非常に妙です。神秘麗湖という当て字を使うのもむべなるかな、穴場中の穴場ですね。私も独身時代はよく通ってました。ボートを持参して、一日中ブカブカ昼寝するんですよ。もう最高ですね。春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色…。
 さて、この四尾連湖ですが、レミオロメンとどういう関係があるかと申しますと、あの「粉雪」の一つ前のシングルである「蒼の世界」のPVが撮影されたところなんです。藤巻くんが最後にプハ〜ッって出てくるヤツですね。あそこです。えっと、YouTubeで観たい方はこちらをclick(ちょっと微妙なPVですが…笑)。
Po03 たしかに四尾連湖は「青」「蒼」「碧」という感じ(漢字)がピッタリですね。今日は紅葉も美しく、そこにさらに「赤」や「紅」や「朱」や「黄」や様々な色が混ざり合い、それはそれは幻想的な雰囲気でした。
 さて、市川三郷町の天子山塊蛾が岳(ひるがたけ)の懐、標高850メートル付近にある四尾連湖ですが、自然科学的にも非常に不思議な存在です。まず、この深山の頂上になぜ独立湖があるのか。頂上はすり鉢状になっているんですが、火口湖ではないようです。頂上ですので、当然川や沢が流れ込んでいるのではない。すなわち水が湧いているわけです。しかし、その水量はほとんど変化がなく、一年中ほぼ一定。湖としては小さい方ですが、池としてはかなり大きい感じでして、どうしてここにこれだけの水が湧くのか不思議でなりません。ちなみに数十キロ離れた富士五湖と湧水の標高が近いというのが気になりますね。富士五湖も地下水脈でつながりあっているのですが、まさかこことも…。
Po05 さらに詳しくは書きませんが、人文科学的にも興味はつきません。牛頭に関わる雨乞い伝説、龍王伝説、富士山信仰、子安神社、富士八湖、富士講…おいしい話が目白押しです。そのへんはいつかまた詳しく調べます。
 いずれにせよ、ちょっとしたお店やキャンプ場なんかはありますが、本当に自然が自然のまま残っていて大変に静かで美しい。皆さんも、興奮する材料満載だった旅の終わりに、ふっと息抜き、クールダウンしたようで…と思ったら大間違い。湖畔を一周しながら、「蒼の世界」の大(小)合唱が始まってしまいました。というか、私がけしかけちゃったんですが(笑)。湖は周囲を尾根に囲まれているので、逆ドーム状になっており、外の音は遮断され、中の音は本当に面白いほどに反響します。あとで考えるとちょっと恥ずかしい。お店の人や他の観光客の方、すみませんでした。
Po06 ちなみに、伴奏はワタクシめが…。そうです、なんとなんと、あのマトリョミンを持参していったんですよ。もちろんネタとしてですけど。で、湖畔の白樺の切り株に腰かけて皆さんと一緒に「蒼の世界」をウィ〜ンとね。この曲は音が飛ぶのでなかなか難しい。皆さん笑ってくれましたのでまあ良しとしましょう。ってか、四尾連湖でマトリョミン演奏した人もいないだろう。当たり前か(笑)。世界初ですな。それにしても怪しいですねえ。ああ、そうそう四尾連湖って「シビレンコ」って読むと突然ロシア風になりますよね。シビレンコでマトリョーシカのテルミン…なんとなく違う伝説が生まれそうな雰囲気ですね(笑)。
 今度は冬に出かけてみようと思います。

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2007.10.24

『時間はどこで生まれるのか』 橋元淳一郎 (集英社新書)

08720373 難しいし面白かったので、とりあえず2回読んでみました。
 最近の私のテーマは「時間」でして…と言っても私は物理学者でも哲学者でもないので、本当に稚拙な考えであって、それはほとんど子どもの「時間って何?」という程度のものであります。いずれはまとまるかもしれませんが、やたらなこと書くと、橋元さんみたいに怒られちゃうんでやめときます。
 そう、Amazonのレビューをご覧になるとわかると思いますが、この本、賛否両論、甲論乙駁なのです。我々庶民には難しいけど面白いなあって思うんですが、でも、偉い人は呆れるか腹を立てるみたい。どうなってるんだ?時間ってそういう性質のものなんでしょうか。頭がいい人にはわかるけれど、我々にはわからない。そんなものがこの世に一様に流れていて、しかし、偉い人もそうでない人もそれに抗うことができず、老いて死んでいくんでしょうか。
 昨日のSFの話になりますが、彼らがサイエンスを基礎にしながら、それがフィクションでありえたのは、まさに「時間」を自由に操っていたからでした。彼らの偉いところは、この本を非難したりする偉い人とは違って、最初から開き直って「時間」を操作してしまえと考えたところです。つまり、逆に言えば、時間というものの本質が分かろうが分かるまいが、とにかく人間が人間であるかぎり(生きているかぎり)「時間」には抗えないということを諦観していたのです。だから、私たちが語ることはフィクションですよと言った。ある意味、彼らは日本文学の主流だったんですね。「もののあはれ」…「全てのモノ(存在)は無常であるということにため息をつく」を逆説的に語ったんですから。
 私も、相対論や量子論によって時間論が大きく変わったというのは、頭では理解できます。しかし、それがファクトであるかどうか、それについての実感は全く持つことができません。SFと同じ領域なんです。だから、この本を読んでもなんとなくワクワクはするけれど、なるほど〜!とはならない。で、それってホントなの?全然実感と違うんだけど…となる。
 まあ、もともと相対論も量子論も我々の実感からほど遠くなっていて、いやもう科学というのはどんどんフィクション(すなわち私の言うコト)の方に行ってしまって(そうそう、この前のポアンカレ予想なんかもそうですね)、全く実学からかけ離れてしまった。実(ファクト)ではないということは、フィクションそのものですね。私からするとそれらの面白さや価値というのは、文学や宗教のそれと何ら変わらないような気がするんです。科学者の方、バリバリの理系の方には申し訳ないのですが、それらはどんどん文系化してるようにしか思えません(笑)。
 まあ、そんな私の実感(生活感)は別としまして、この本の内容にもちょっと触れときましょうか。
 たしかに橋元さん、先人の成果をかいつまんで並べて、そして最後は「意思」を登場させるという具合であり、なんだか物理なのか哲学なのか、思いつきなのか、妄想なのか、それこそ文学なのか、全然わからないことになるんですが、そういう正直ワケわからん最先端の「トンデモ科学(失礼)」を、多少私たちの実感の方に引き寄せてくれたという、まさに「ワケわからんモノをカタル」という「物語」としては、なかなか優秀であったと思います。
 そんな神話のような物語に対して、感動する人もいれば、そんなことあるわけないって言う人もいるし、またそれはもうすでに誰かが語ったことだと言う人もいる。また、科学的に検証すると間違っている!と言い出す人もいるわけです。
 いや、時間の本質がそういう性質のものなんでしょう。いろいろな次元での「時間」があって、しかし、いずれにしても我々はそれをコントロールできない。相対的であろうと、時間の流れがなかろうと、フィクションだろうと、とにかく生きていることにおいては人間はそれに縛られているということです。
 で、私が考えている時間論(なんてほどのものではありませんが)は、時間というものは実は人間にだけ存在するものであって、すなわち人間を人間たらしめているものである、なんて感じなんですが、ま、あんまりまじめに考えてないのでまとまらないで終わるでしょう。
 こうしているうちにも時間は流れてゆき、そして私は人間であるわけですな。

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2007.10.23

『21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜』(NHK ETV特集)

Sf50 「センス・オブ・ワンダー」…今の私を育ててくれたのはSFだったのかもしれません。
 おととい放送されたこの番組の録画を観ました。なんかものすごく感激してしまいました。今まであまり意識してこなかったことに、少し情けないような申し訳ないような気さえしてしまった。もっとSFに感謝すべきだったのかもしれません。
 60年代70年代、高度成長の中で未来に希望を持ち、あるいは科学に懐疑的になりながら、そして純文学界からの蔑視に堪えながら、素晴らしい作品とジャンルを作り上げていったSF作家の皆さん。彼らのエピソードやインタビューを中心に、さらにお宝映像、音声などもまじえながらのこの番組。出てくる人たちや作品たちの懐かしいこと、そして濃いこと。星新一、小松左京、筒井康隆、手塚治虫、半村良、眉村卓、豊田有恒、光瀬龍、福島正実…。
 SF(Science Fiction)というジャンルが生まれて50年。今や世界に誇るジャパニーズ・カルチャー(オタク文化とも言える)はほとんど全てここに端を発しているのでした。なんか説明されると当たり前なんだけど、どういうわけか自分の意識はそこんとこにあんまり意識的じゃなかった。バカだなあ。
 それにしても面白かったのは「SF作家クラブ」のものすごいパワーですね。たしかにあの時代、いろんな分野でああいう若者の集団があって、新しいことに挑戦し、世の中に挑戦し、大いに語り、大いに働き、大いに遊び、大いに呑んでましたね。世の中全体がそういう雰囲気でした。
 私はまさにそういう時代に育てられた少年だったわけでして、小学校の図書室で彼らの本を片っ端から読みましたし、特撮ものやアニメのお世話になったのはもちろん、NHKの「少年ドラマシリーズ」なんかにも大きな影響を受けました。影響を受けたというのは、そう、日常生活が完全にそれらに侵されていたということです。日常の風景をそういうSFの舞台と見紛うていたし、自分は実は地球人ではないとか、そういう妄想を抱いて生きていましたからね(ヤバイ)。
 なんかそういう自分のベースメントの部分というか、血や肉というか、いや骨かな、いや脳の中枢部分だな、とにかく自分の中心にそういうものがあったということに、今回遅まきながら気づかされましたね。あまりに自然に自分に染みついているんで(洗脳されてるってことか)、意識し忘れてたんでしょうね。それほど自分そのものだということです。
Sf50s その後、私はいちおう大人になっていったわけですが、その途中を思い出してみますと、SFから理系分野に興味を持ち、特に天文学ですね、将来はそっちに進もうとしました。しかし数学的センスのなさがアダとなり、研究者への道は諦めまして、じゃあセンス・オブ・ワンダーの面白さを伝えようと理科の先生を目指すことにしました。しかしとんでもない理由で受験に失敗し、なぜか国語の先生になるという、全くワケわからん過程を経て今に至るわけです。
 また一方では、いわゆるオタク文化の方には行かず、違う意味での(文系的かな?)センス・オブ・ワンダー世界である「宗教」「芸術」に興味を持つようになりました。そして今、外側からオタク文化を観察し研究する立場に至っています。
 ま、自分の復習はいいとして、とにかく私みたいな私の世代って多いんじゃないでしょうか。特に男。実はSFの血が流れている。SF的世界を生きている。あの頃のSF的未来、SF的21世紀の幻想の中に生きている。逆に言えば現実に対峙できないってことですが。
 彼らSF作家たちは実は予言者だったのかもしれません。だって、あの頃の作品に描かれた未来や21世紀の通りになってるじゃないですか。もちろんそこに描かれていたのは明るい未来ばかりではありませんでしたよね。結局あそこに登場していた宇宙人や異次元人、狂った人間たちは、今の私たちなのかもしれませんね。
 ところで、この番組をチラチラ見つつポケモンカードに熱中している娘たち、彼女たちにとっての未来ってどんな感じなんでしょうね。いや、現在も、あの幻想的高度経済成長の現在とは全く違うものでしょう。私は早く大人になりたいと思っていましたが、娘たちは子どものままがいいってよく言います。ま、男と女という違いもあるでしょうが。
 いずれにせよ、大人がまず現在や未来に期待してないといけませんね。つまり「センス・オブ・ワンダー」の心を忘れないってことです。また、いつものやつが出てしまいますが、「モノ」ですよ。未知のもの。自分の外部の「モノ」へのセンスですね。それは近代合理主義においては「妄想」とか言われますが、やっぱり人間にとって大切なものなんじゃないでしょうか。そう考えますと、現代の若者が熱中するオタク文化もまたとっても健全なものに思えてきますね。
 いやあ、面白かった、この番組。特にああいうはちゃめちゃなパワーですね。みんなどうかしてますよ。疲れを知らない暴走族ですな、ありゃ。昔は良かった的な言い方はしたくありませんが、でもなあ、やっぱり明らかにあの時代はすごかった。

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2007.10.03

『大人の科学マガジン Vol.17(ふろく テルミンmini)』 (学研)

Img10142683551 アメリカから突然失踪したロシア人科学者ということでは、昨日のペレリマンに先立つこと60年ということですか。テルミン博士。彼が発明した世界最古の電子楽器といわれる「テルミンヴォックス」。昔から欲しかったんですよ。それが、こういう形で手に入り、そして初演奏!これは行けるぞ!
 私の世代…すなわち大人気(おとなげ)ない大人に大人気(だいにんき)の学研「大人の科学」。マニアックかつノスタルジックな付録で私たちを(静かに)熱狂させてきました。私たちはまさに電子機器の自作世代であります。また、学研の科学と学習の申し子でもあります。特に「科学」の付録は魅力的でした。私は、小学生の頃、学研の本社の近くに住んでいましたからね、けっこう通ってましたよ。付録の余りをもらいに行ったりした記憶があります。ああ、懐かしいなあ。
 そのへんのツボをしっかり押さえつつ、しかし、お母ちゃんにも怒られない程度の金額で買えるという、なんとも見事なコンセプトに、我々の世代はすっかりやられているわけですね。
 そして、とうとう「テルミン」の登場です!最近ちょっとネタ切れかなと思っていましたが、まさかテルミンで来るとはなあ。こういう形で私の夢が叶うとは。学研GJ!です。
 ネット書店では軒並み売り切れでしたので、仕事の帰りに本屋さんに寄りましたら、まだまだ山積みになってました。都会じゃもうないんじゃないのかな。田舎はいいっすね。
Tepmeh 帰宅後ちょっとお酒をいただき、K-1MAXなんぞを見ながら付録の「テルミン」を作ってみました。作ると言っても、電子回路はもう基盤上に完成していますし、ほとんど組立てだけです。せっかくだからハンダ付けとか、そういう懐かしいこともしたいけれど、考えてみればコテすらないな。というわけで、このお手軽さがいいんでしょう。なんちゃってキットですが、そのキット感がよろしい。子どもたちは物と言えばほとんど完成品しか見たことがありませんから、「なになに?」と言って近づいてきます。そして、手際よく組み立てる父親に尊敬のまなざしを注ぐ…なんか気分いいぞ。
 そして、15分もかからず完成。電池を仕込んで音を出してみました。
 ん?むむむ…ン?これは難しいぞ。チューニングとやらが難しい。早く華麗に弾きたいけれど、なかなか音が定まらない。
 しかし、10分もいじっていればもう完璧。今まで25年くらいですかね、イメージトレーニングを積んできただけのことはある。いや、冗談じゃなくて。私の妄想の中では、私はテルミンの名手だったんですよ。もともと、ヴァイオリンとか三味線とか、音程を自分で探す楽器ばっかりやってきましたから、その勘所みたいなものには結構自信があるんですよ。
Theremin おっと、テルミンについてご存知ない方もいらっしゃりますかね。映画にもなりましたから、その音や映像をご覧になった方も多いと思いますが。とにかく楽器に触れることなく両手を宙に舞わせて演奏する不思議楽器なんですよね。左の写真はテルミンを演奏するテルミン博士です。耳に聞こえない高周波を二つ出して、その周波数の差によって耳に聞こえる「うなり」を出すという発音原理ですね。で、そこに人間の体が関与するわけです。2本(ふろくでは1本だけ)のアンテナに手をかざすことによって静電容量が微妙に変り、つまり人間とアンテナで可変コンデンサを作るってことですね、それで音程が変わるわけです。
 昔「エーテルフォン」と言われたとか。なんとなく分かりますね。空間に「何か」があって、それを宙を舞う手によってコントロールしている感じがする。そういう実感を得られるところが、このテルミンの魅力です。今、そういう感覚って減りましたからね。ん?いやいや、Wiiとかちょっとそんなとこあるかも。でも、あれはなんとなく原理が解るし、体の動きはあくまでヴァーチャルなものであって、画面上の結果とは間接的なつながりしかないような気がします。テルミンは直接的です。直接的なのに触感がない。目にも見えない。
 なんとなく「禅」って感じがするんでよ。ムックの中で矢野顕子さんが「能」だとか「テルミン道」だとか言ってますけど、それわかりますね。そういうことが電子楽器で実現しているというパラドックスが面白い。また、彼女やテルミニストの竹内正実さんが言うように、「難しさ萌え」みたいなものもあるし、シンプルなだけに演奏者がそのまま表れるというのもたしかにある。それに、あの演奏時の集中力、特別な体験です。これはハマりますねえ。
 なんて感じで、K-1そっちのけで、ウィ〜ン、ブ〜、ヴィ〜とかやってたら猫は驚くわ、子どもは「うるさい!」って言うわ、カミさんは呆れるわ、魔裟斗は負けるわ、周囲は散々なことになってました(笑)。すごい影響力だ。
 これは本格的なテルミンが欲しくなりますね。いかん、またまた変な楽器を始めることになりそうです。でも、絶対ワタシ得意ですよ、こういうの。変な自信があるんだよなあ。このminiを演奏してみて確信しちゃいました。ああ、ホンモノ欲しいけど高いしなあ。とりあえず自作しますか。
 ま、とにかく皆さんもぜひぜひ体験してみてください。本屋さんへレッツゴー!

ps ←これ(マトリョミン)買っちゃいそうです…orz

マトリョミン公式

オリジナル・マトリョミン

Amazon 大人の科学マガジンVol.17 テルミン (Gakken Mook)

楽天ブックス 大人の科学マガジン Vol.17(テルミン)

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2007.10.02

『数学者はキノコ狩りの夢を見る〜ポアンカレ予想・100年の格闘〜』(NHKハイビジョン特集)

071001a 昨日録画したものを観ました。これは面白かった。ヘタな映画よりもずっとエキサイティングでした。これは生徒に見せなければ。
 ちょっと前に「コマ大数学科」の記事を書きましたね。あの時のコマ大フィールズ賞はコマ大チーム(たけし軍団)が獲りましたっけ。で、今日はホントのフィールズ賞のお話。数学のノーベル賞と言われる、そのフィールズ賞を辞退した上に、行方までくらましてしまったロシアの天才数学者グリゴリ・ペレリマンをめぐる物語(ドキュメント)です。
 20世紀の数学的難問の一つ、フランスのこれまた天才数学者アンリ・ポアンカレ(ポワンカレ)が残した「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」というあれですね…って全然わかりません(笑)。当たり前です。番組でも紹介されていましたが、とにかく100年間天才たちがこの難問に翻弄され続けてきたのですから。
 この番組では、まずはこの難解なポアンカレ予想を、私たち凡才にもわかりやすく説明してくれました。ここがまず秀逸でした。1本のロープをロケットにくくりつけて宇宙を1周させ、そのロープを地球で引っ張って回収できたら、宇宙は丸いという証明になる、ということを、NHKは実写やCGを駆使して見事に説明してくれました。今回の番組は特に映像や編集が優れていたように思います。BBCの上質な科学ドキュメントを観ているような感覚におそわれました。いずれにせよ、難しいことを易しく(優しく)伝えるというのは易しくなく難しいことでして、そこには優しさが必須なのです(って難解な文だな)。
 さて、なんだか難しいけれど壮大で面白いポアンカレ予想。あっそうそう、ポアンカレ自身についても少し紹介されてましたね。彼もかなりの天才的変人というか、変人的天才というか…こちらにも書きましたが、数学者ってホント魅力的です(ハタから見てるとね)。で、その後もこのポアンカレ予想に変態的…いや天才的な数学者たちが振り回され続けます。なんでしょうね。もうこれは恋愛ですね。ライバル同士の心理状態は、これは完全に恋愛状態です。ほかのことなんかどうでもいい。もうポアンカレ予想ちゃんだけが人生になってしまう。ますます変態的でよろしい。
 途中、伝統的な微分幾何学の世界からトポロジーへと、その主役が移っていきます。すなわち、ポアちゃん(…ポアってなんか懐かしい響きだな)をゲットしそうな、ナウいイケメンが現れたって感じです。トポくん。このトポロジーというのもかなりぶっ飛んでますね。たしかに革命的な発想です。トポロジーはある意味視覚的ですし、一見シンプルですので、CGの得意とするところですよね。実際、番組のトポロジーに関する部分は実に活き活きとしていました。序盤と終盤のどよ〜んとした空気に対して、中盤はポップな感じで楽しかった。
 実はそのままポップなトポくんが、なにげにさりげにポアちゃんゲットしそうな雰囲気だったんですね、実際の数学界でも。フィールズ賞もトポロジー系が独占していたとか。中でもサーストンの幾何化予想はすごいですねえ。「宇宙がどんな形であれ、必ず八つの断片からなりたっているはずだ…3次元多様体は一様な幾何構造の断片に分解できるだろう」。なんだかよくわかりませんが、意外なほどシンプルで美しい。これにはポアちゃんも参るだろう…。
 そんなところに現れたのが崩壊ソ連からアメリカにやってきたペレリマンです。彼はとにかく自由人であり、また明るく社交的だったと言います。彼の専門は時代遅れともとられていた微分幾何学でした。難問の一つソウル予想を実に簡潔に証明してしまったり、その天才ぶりを発揮しつつあった頃、彼は運命的な出会いをしてしまいます。物理学の分野であるリッチフロー方程式を入り口にポアンカレ予想の世界に取り憑かれてしまうんですね。
 ロシアに帰ったペレリマンは、全く人が変わってしまったようにひきこもってしまいます。恋の病ですね。そして2年のひきこもりののち、彼はさりげなくインターネット上にポアンカレ予想を証明した論文を掲載します。これには世界中の数学者が驚きました。もちろん、最初は眉唾ものだとタカをくくっていたんですが、どうも論理矛盾が見当たらない。いったいこれは…もしかして。
Perelman アメリカの大学に呼ばれたペレリマンは、ものすごい勢いでその証明について講義をしました。世界中の天才数学者たちの恋が破れる瞬間です。なんとペレリマンは、トポロジーではなく、微分幾何学や物理学を使って証明してしまったのです。
 その瞬間のことについて、ある学者はこう言っていました。「証明が終わってしまったと落胆し、トポロジーが使われないことに落胆し、さらに証明が理解できないことに落胆した」…これって、失恋に落胆した上に、もともと自分には恋の成就の可能性がなかったことに気づかされるってことですよね。たしかにきついわ、こりゃ。
 しかし、しかし、彼はその後数学の世界から、いや数学だけではなくほとんどこの世から姿を消してしまいます。誰も連絡すら取れません。その姿を見かける人もほとんどいません。世の中からは忘れ去られていきます。冒頭でペレリマンの写真を見たロシア人が「俳優?テロリスト?」みたいなことを言っていたのには、つい笑ってしまいましたが。
 いったい彼に何があったのでしょう。今、彼は故郷の森でキノコ狩りをしているのだとか。彼はいったい何を見てしまったのでしょうか。恋が成就した途端、ポアちゃんだけでなく、女全てに興味がなくなってしまったのでしょうか。あるいは、その証明の過程に彼は神と交信してしまったのでしょうか。人の世に嫌気がさしたのでしょうか。何度も書いている通り、数学と宗教は「コト(脳内世界)」の究極の形であり、その意味では両者とも完全なるフィクションとも言えます。その世界を垣間見てしまった彼。彼が「出家」するのもなんとなく理解できなくもありません。
 番組の最後に、彼は恩師の訪問をも拒否します。完全に彼は私たちとは違う世界にいるようです。しかし、友人にはこう語ったと言います。私はその言葉に希望と恐怖を覚えました。
 「今、興味を持っていることがある。それが何かはまだ話せない」

Amazon ポアンカレ予想を解いた数学者

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2007.09.14

Google Moon

Moon1 今日は月齢2.6。夕方学校の4階から見えた糸のような月は美しかった。
 今、2年生の授業で竹取物語やってましてね、いつもながら一般的にはハチャメチャと言われそうな解釈をギャルたちに押しつけてるんですが、けっこうスキャンダル性のあるドロドロドラマ風でして、案外楽しんでもらえてるようです。面白いから本出せ!って言われたんで、まあいずれ。
 さて、そこでも話したんですけど、月の起源、すなわち月がどのように出来たかというのは、実はよくわかってないんですよね。いろんな説がある。ただ、岩石の組成やなんかからして、地球と全然無関係とは言えないようです。
 それにも関係するんですが、月が裏側を見せないというのも面白い。つまり、月の自転周期と公転周期が一致しているということ。最も身近な天体でありながら、人類はその裏側を見ることがずっとできなかったわけです。
 ま、これは偶然のなせるわざではなくて、地球の引力によって月が扁平な球体になってしまったからですが、実は私、小さい時変なことを考えていました。それは…
「月が裏側を見せないのは顔が汚いからだ」
 月の裏側を人類が初めて見たのは1959年、ソ連のルナ3号が月の裏側の写真を撮影したときです。私が生まれる前ですね。その後アポロも撮影してますから、私が物心ついて、宇宙に興味を持って図鑑とかを眺めていた時には、すでに月の裏側の写真が載っていたと記憶しています。で、その写真を見た時、本当にショックだったんですよ。だって、こんなんですから。
Moon72 これは驚きですよ。だって全然きれいじゃないんだもん。なんだかいわゆる海の部分が少なくて、あばた(クレーター)だらけ。かなりお肌が荒れてます。正直、こっち側が地球に向いていたら、私たちの文化は違ったものになっていたでしょう。月にまつわる幻想的や物語や詩は生まれなかったかもしれません。
 実はなんでこういうことになっているのか、つまり裏側は醜いのか、それもわかっていません。表と裏とでは組成も微妙に違うらしい。いったいどういうことなのでしょう。
 で、今日月面を自由に見て歩ける「Google Moon」がバージョンアップしたとのことで、さっそく見てみました。まあ、「Google Earth」ほどの感動はありませんけど、なんとなく宇宙飛行士になったような気分は味わえるんじゃないでしょうか。
 ちなみにこのページの一番上の画像は、Google Moonに表示される「月のひらき」でして、中央部が見慣れた「表」、上下が見慣れない「裏」ということになります。これを見ただけでも、ちょっと異常な事態が起きているがわかりますよね。幼き私が想像したこともあながち間違いではないのでは…そう思えてきます。
 ということは月にも羞恥心があるということですか(笑)。いや、もしかして、私たちが「裏」だと思っているのが実は「表」で、「表」が「裏」なのかもしれませんね。男性諸氏には(いや女性もかな)よくおわかりと思いますが、後ろ姿にだまされた!ということがしょっちゅうありますよね(笑)。セレネだかルナだかアルテミスだか知りませんが、後ろ姿は美しかったが、実は…だったりして。
 あと、月の裏側と言えば、宇宙人の基地説やら、NASAの陰謀説やら、まあいろいろとありますね。それはそれで面白いんで、ぜひGoogleで「月の裏側」と検索して、いろいろと見てみてください。いいストレス解消になりますよ、きっと。たまにはそういうのにツッコミを入れず信じ込んでみるというのもいいものです。
 そういえば、もう一つ月に関するニュース。日本の月周回衛星「かぐや」を載せたH2Aロケットが14日に打ち上げられましたね。今回はうまくいったらしい。めでたし、めでたし。こっちの方が「Google Moon」のバージョンアップより大事なニュースか。「かぐや」とはまたずいぶんとストレートな名前をつけましたね。「かぐや」も月の裏側の観測をするとのこと。どういう成果が上がるか楽しみですね。

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2007.09.13

『コマ大数学科特別集中講座』 ビートたけし・竹内薫 (扶桑社)

Coma_univ_04 ひそかに人気だという番組「たけしのコマネチ大学数学科」。もう一年以上、60回もやってるんですね。大学レベルの数学の問題を、マス北野(ビートたけし)、コマ大数学研究会(たけし軍団)、そして現役女子東大生二人が解きあうという一見地味な内容ではありますが、たけしの天才的なひらめきによる解法、たけし軍団の力技による原始的な解法、東大生による受験勉強的な解法という、三つの個性的な知性(?)の激突が面白い。ちなみに今日の深夜放送された番組の問題は
「1辺の長さが1の正方形の折り紙を1本の線分に沿って折り曲げ、二重に重なる部分が線対称な五角形になる時、その五角形の面積の最小値を求めなさい」
でした。
 折り紙好きな私ではありますが、こういうのは正直苦手です。といいますか、私の数学神経のなさは本当にイヤになるほどでして、もうまったく高校時代のあの苦しさは思い出したくありません。ただ、数学的な世界の面白さ、美しさ、そして胡散臭さみたいなものの存在は充分わかっているつもりでして、つまりは、私の「モノ・コト論」的にいうと、数学は最も「コト」的であり、人間の論理を徹底しつくしていくことによって、人間的でなくなってゆき、しまいには神の領域に近づいていく。これは、宗教の世界に近いと思っています。
 特に数学の天才たちについては、かなり興味を持っています。以前数学の先生にお借りして読んだ『天才の栄光と挫折−数学者列伝』は、最近読んだ本の中で最も私に興奮をもたらした本の一つでした。なんとなく憧れるんですね。来世は数学者になって孤独死したいな、とか(笑)。
 数学ってたしかにヒマつぶしにはいいのかもしれません。なんか浮世離れしてますよね。完全に現実逃避できる。社会とか、政治とか、お金とか、人間関係とかと最も遠いところにあるような気がします。こういう楽しみってあるよなあ。ある意味で完全なるフィクションなのかもしれません。人間の脳の中だけの世界。でも、どこか宇宙につながってるような気もする。ってことは、宇宙ってフィクションなのかも!?
 さてさて、今回のコマネチフィールズ賞はなんとコマ大チームでした。実際に折り紙を折って求めた数値が非常に正解に近かったということです。マス北野は実質的に正解したのですが、最後に2で割るのを忘れていたので減点。東大チームは微分に苦戦して途中で放棄という形でした。
 まあ実際にはたけしさんだけが正解したということですね。この本を読んでもわかりますが、たけしさんはホント天才的ですよ。ラマヌジャンとかワイルズの世界に近い。ある意味プロセスを通り越して結論に至っちゃうんですね。私たちには見えない世界が見えているのでしょうね。藤原正彦さんの言う、「富士山とエベレストの間に、実は虹のかけ橋がかかっている」「二つの無関係な分野が結びつく、というのは数学者にとってもっとも心躍ること」そのものです。
 この本では、北野武の映画作りにも数学的な要素があることが紹介されています。なるほどと思わせると同時に、それこそ自分の世界とは違うところにいるんだなということを実感します。しかし、それに触れて感じる能力は我々凡人にもあるんですよね。そこが救いであり、また辛いところでもあります。
 まあとにかく、ビートたけしの天才性を証明する面白い番組であります。私なんか、竹内さんの解説を聞いても全然わけわからんし、この本を読んでもチンプンカンプンなんですけど、それでも先ほども述べたように、なんとなくこの世界に憧れがあるのは確かなようです。ホント生まれかわったら今度は数学の才能を手にしたいなあ。
 あらゆる才能を持つビートたけしという男、やっぱり天才ですな。私にとっては神です。神って憧れであり、また嫉妬の対象でもあります。このジェラシーはどこに向ければいいんでしょうかねえ…。

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2007.09.07

『爆笑問題のニッポンの教養 「現代の秘境は人間のこころだ~芸術人類学 中沢新一」』

Huekd10 昨日の憲法9条関係からこちらを観てみました。これも録ってあったが観るヒマがなかったもの。ものすごく面白かったし、100%納得。こんな番組も珍しい。
 中沢新一さんは昔から好きでした。まさに学問人というよりも教養人ですよね。やはりおじさんである網野善彦さんの影響が大なんでしょうね。お二人とも山梨の誇るべき賢人です。いつかも書きましたが、おそらく山梨という「生黄泉(なまよみ)」環境がお二人に与えた「モノ」の大きさも無視できないと思いますよ。地元の方々にはそういう意識は希薄なようですが、私みたいに外から「生黄泉」に憧れて移住した者にとっては、それがものすごく強く感じられます。ちょっと畑は違いますがレミオロメンに関しても同様の印象を持ちます。自然風土が人をつくる。
 で、中沢さんと爆笑問題の太田光と言えば「憲法九条を世界遺産に」ですね。そこの記事にも書きましたけど、お二人はかなり深いところでうまくかみ合っていると思います。今回はいちおう田中もいましたが、彼は「東大の教養」の時と同様に、ただいるだけです(そして、それがまた素晴らしい)。で、中沢さんと太田(敬称略)の深いところでの共鳴や共振というのが、私の脳にもものすごい快感をもらたしました。
 今回、彼らが語ったいくつかの鋭い言葉には、本当にいちいち納得させられました。おそらく彼らを非難したり、毛嫌いしたりする人たちは、それこそそういう言葉に反応しているんだと思いますが、まあ少なくとも私は全面的に彼らに賛成しますよ。
 心のビッグバン、ダウン症の子どもの芸術性や菩薩性、アースダイビング(意識は時間を越えていく)、東京の神社仏閣や墓地の配置がそのまま縄文の東京地図の陸地の部分と重なる(縄文に開発をストップされている)、山手線が縄文の半島に沿って走っている、文系の学問は自己愛、それを自然と結びつける(芸術人類学)、ニューヨークと新宿の道の違い(歩きたいところが道になる)、心と自然がつながる(自然の法則に従って生きる)、理屈や言葉や学問(秩序づけ、マッピング)よりも直感(自然・シャッフル・ノンリニア)、分類上違うものの間に深い共通性があることを見出す能力、アドリブ(断片)とその先の世界、芸術や宗教の天才は歳をとると表現が平易・単純になっていく、無垢でいることの困難さと大切さ、成熟した強い無垢さ、捨てても残ればそれが自分…。
 彼らがさかんに語った直感や自然やノンリニアな世界とは、私の言う「モノ」世界です。そして、彼らがその対極とした理屈や言葉や学問や秩序づけやマッピングや科学は「コト」世界です。ですから、彼らは、私の強く繰り返して来た「これからは再びコト(心)よりモノの時代」という一見逆説的なスローガンを、また別の言い方で表現してくれたような気がしたんです。自然の世界には秩序や法則というものはありますが、それは人間が勝手に決めたものではなく、私たちの脳ミソ以前にすでに存在したものです。ある意味それに対抗しようとして人間中心に「発見」していったのが、先ほど並べた「コト」たちです。ここ数百年で私たちはそちらに向けて集団暴走してしまった。そこに私たちは違和感を抱くのでした。
 今日と言うか7日は実は接心という学校行事がありまして、学校にお泊まりでした(この記事は8日に書いてます)。私は約100人分の食事を作る係(典座)でありました。接心は年に何回かありますが、典座の係は年に1度か2度しか回ってきません。しかし、さすがに20年もやってると身についてくるものですね。ご飯も味噌汁もお粥もうまくできるようになりました。最初はしっかりマニュアルでも作って毎回そのとおりやろうと考えていたんですが、面倒くさがり屋の私は、結局ちょっとしたメモくらいしか作りませんでした。それでも、こうしてある程度上手になってくる。米や水や味噌や沢庵やごま塩や火や人やその行事自体が、私に何かの法則や秩序や方法を教えてくれたわけです。そしてまだまだこの先いろいろ教えられるでしょう。ああ、これが「教養」なのかなと、そんなことを思いました。やっぱり自分は生かされている…なんでこんな当たり前なことを、私たちは日常で簡単に忘れちゃうようになったんでしょうね。

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2007.09.05

Newton2007年10月号&関東大震災の音

「M9」大地震
Newton 学校に届けられるので、だいたい毎号見ている(ちゃんと読んではいない)のですが、今月号の特集記事は思わず隅から隅まで読んでしまいました。
 先日月食の記事に地震に注意と書きました。いちおう今日くらいまでが、潮汐力トリガーによる危険ゾーンです。この1週間、多少地震の数は増えましたが、特に被害を及ぼすような大きなものは発生せずほっとしているところです。オセアニアでM7レベルの地震が発生しましたが、これはもしかすると月食と関係があるかもしれませんね。
 ところで、今台風9号が関東東海地方に接近中です。ご存知のように、台風(低気圧)もまた地震の引き金になることが知られていますから、しばらくの間は注意が必要かも知れません。もちろんそれ以前に台風自体による被害に気をつけましょう。
 さてさて、でニュートンですが、これは恐ろしい記事が載っていました。「空前の破壊力 エネルギーは神戸地震の1000倍 M9大地震」です。簡単に言ってしまえば、東海地震と東南海地震と南海地震が同時に起き、西日本全体が震源となるM9レベルの巨大地震が発生する可能性がある、という説です。
 あららニュートンもどこかの週刊誌のように、不安をあおるトンデモ記事を載せてしまったかと、一瞬思ってしまいましたが、実際記事を読めば歴史的に見ても科学的に見ても、近い将来その巨大地震が発生する可能性が高いことがわかります。もちろん、東海・東南海・南海が同時ではなく、連続して起こるケースも過去何度もありましたし、三つのうち二つが合体することもありました。さらに言えば富士山の噴火が連動することもよくあることです。
 M9クラスと言えば、スマトラ島沖地震並みということですね。あのレベルの地震が想定される震源域で発生すれば、まあ日本は壊滅ですな。西日本のみならず東京もアウトでしょう。浜岡原発もメチャクチャになるでしょう。現在補強工事が行われていますが、さすがにM9は想定外です。
 冷静に考えればこのような大地震が、生きているうちに起きる可能性は高い。はっきり言って予知もほとんど不可能でしょう。では、何か備えを、と言ってもなかなかねえ。もう来たら来たで受けいれるというか、やりすごすというか、もうどうしようもないでしょうね。まさに「あさましきもの」「もののあはれ」です。
 ところで、関東大地震(関東大震災)の音が聴けるの知ってますか?ものすごく恐いっす。地鳴りからして恐いですし、本震もあれだけ長い時間続くとねえ。録音でもこんなに恐いんですから…。勇気のある方は下をクリックして聴いてみてください。

関東大震災(関東大地震)の音

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2007.09.02

『認知科学への招待−心の研究のおもしろさに迫る』 大津由紀雄, 波多野誼余夫 (研究社)

Nika 生徒とお勉強するために買った本です。たしかに入門としてはいいかもしれません。でも、門に入れないで終わる人も多いだろうなあ。私はその面白さをじゅうぶん理解できる立場なんですが、でも入店しないでしょうね。まあパチンコに行かないようなもんだな(失礼)。
 日本認知科学会が設立されたのは、たぶん1983年です。その頃、私は何回かそういう学会に参加しました。そういえば、その頃はやっぱりパチンコにも行ってたっけな。この一致は科学的にはどういうことなのだろう(笑)…で、私はその時大学生で、「国語学」なんていう古くさく、しかし自分にはけっこう合っている学問を志していました。合っているけど、でも昔の私も今と同じように奇を衒う傾向が強かったものですから、バリバリにチョムスキーとかやってた友人に誘われるままに、そういった会合にも参加していました。ゼミの教授にそのことを言うと、「なんだ?認知って。避妊に失敗したのか?」ってマジ顔で言われました(笑)。そういう時代だったんです。
 それから四半世紀。認知科学もだいぶ世の中に認知されてきました。というか、ある意味においては、最先端のカッコイイ学問になりつつあります。25年たっても(世界的に見ればもう半世紀くらいかな)まだまだ新鮮であるというのは、いかにも認知科学らしい状況であります。
 その25年前の率直な印象は、これはダメだな、でした。いくつかの言語や音楽の認知に関する発表なんかを聴きましたけど、どうもやりたいことをやりたいようにやってて、それもどうでもいい部分を取り上げてどうでもいいレベルで論じていた(ように若かりし私は感じた)ので、ガッカリした記憶があります。
 今思えば、それこそが何でもありの、いやかっこよく言えば学際的な認知科学の特徴そのものであったわけで、また、それこそがいつまでも旬であることができる理由なのでした。ノーマンが言ったという「おまえが認知科学だと思えば、それが認知科学なんだよ!」という、認知に関してあんまり科学的でないとも取れる名言こそが、認知科学のよって立つところだったわけです。
 さて、この本、そんな意味も含めて実に若々しく面白かったのですが、特に巻末の編著者お二人による対談がエキサイティングでした。なるほど、認知科学はそれまでの「絵日記」「採集」で終わっていた学問に対して、「理論」があることが、その面白さと優位性の理由なんですね。「So what?」の姿勢があると。なるほど。「で?」っていうわけですね。
 実は私が入店しない理由はそこにあるでした。もちろんそれは彼らからすれば私の怠慢や無気力さ、非勤勉性から生起する言い訳にしかすぎないのでしょうが、どうも生理的にダメなんですよね。最近の私がパチンコに気持ちが向かないのと同じです。
 彼ら頑張り屋さんすぎるんですよ。ちょっとついていけない。「理論」とか「So what?」というのは、いつものワタクシの言い方で言いますと、「コト」です。自分の思い通りになること。人間中心の「納得」なんですね。自分の外部(自分自身も実は外部です。もちろん自分の心も)である「モノ」を手なずけようとしすぎのような気がするんです。ですから、私は彼らの「理論」に対して、ちょっと彼らとは違う表情で「So what?」=「で?」と言いたいんです。わかりますかねえ。
 私自身は、「絵日記」と「採集」を極めるような純日本的な(オタク的な)世界が好きなものですから。理論づけという能動的な姿勢ではなく、受動的な姿勢からも、世の中の真理を発見することはできると思います。私はどうもそっちの道を指向するようです。単なる勉強嫌い、怠け者だとも言えますが、認知科学のどうにも欧米的な「はじめにロゴスありき」の出発点に違和感を覚えるのも事実なのです。
 うん、でもこういう世界が嫌いなのではありません。人がやってるのを観るのは好きなんです。人にやらせるのも好きなんです(笑)。だから教え子にやらせようとしているわけですし。まったく困った先生ですねえ。

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2007.08.28

皆既月食と…

↓これは拾い物
Gessyouku 皆既月食自体はそれほど珍しい天文現象ではありません。ただ、皆既中にどんな色になるのかというのは毎度気になります。夕焼けがきれいかどうかということですね。地球の大気の様子によってかなり変わりますので。
 で、今回は比較的明るい赤銅色だったようですね。〜ようですね、というのは、この目でははっきり観てないからです。当地では皆既中、月はほとんど雲の中でして、時々雲を透かして見える感じでしたので、正確な明るさや色はわかりませんでした。ただ、報告されているものや、テレビでの映像などを観ますに、かなり明るめなようでした。これは、地球の大気が比較的澄んでいる、塵や水蒸気が少ないということになりますね。
 いつだったか、どこかの火山が噴火した年には、本当に見事に真っ黒になりましたっけ。あれはあれで珍しかったなあ。あの時の煙というか、いろいろな粒子はどこへ行っちゃったんでしょうね。エントロピー増大だけでは説明付きませんから。
Gessyoku2 右の写真は皆既終了後、晴れ間が出たので手持ちのデジカメで撮影したみたものです。天文ファンとしては、やはり皆既中よりも、地球の影の辺縁が観られる時間帯が面白い。地球や月が宇宙空間で動いているのが実感できるし、地球が球体であることがわかる。また、その球体が大気に覆われていることが肉眼でもわかりますからね。
 もう一つ、私が月食や日食で思うのは、潮汐力のことです。ここにも書きましたが、私は以前から潮汐力と地震の関係について興味を持っております。つまり、月や太陽の引力が地震発生のトリガー(の一つ)になるという考え方です。
 ご存知のように、月食は、太陽−地球−月がほぼ一直線に並ぶ時に起きます。ですから、そういう時は当然潮汐力が最大になります。ふつうの満月や新月の時にも潮汐力はかなり強くなり大潮(満潮)になりますね。それがさらに強くなるわけです。地球が真ん中なら、太陽の引力と月の引力が相殺しあって、弱くなるんじゃないの?と思われる方もいらっしゃるでしょうが、実はそうならずに最大になるというのが、ちょっと難しいところですね。長くなるんで、そのへんの説明についてはどこかのサイトにお任せいたします。
 で、大潮の時ってあの海の水が思いっきり持ち上げられるわけです。何メートルも。実はそれと同じように地面もけっこう引っ張られて盛り上がるんですよ。それも30センチから50センチも。これはすごいエネルギーです。自分たちの立っているこの地面が、半日のうちにそんなにも盛り上がったり、また戻ったりしてるなんて、気づきませんよね。それが地震の引き金になるというのも納得していただけるのではないでしょうか。
 で、月食の時は、当然いつもよりその力が強くなるわけです。今日NHKのプロフェッショナル仕事の流儀で、助産師の方が月齢を見ていましたが、ウミガメとかだけでなく、全ての生物の出産は潮汐力の影響を受けていると言われています。また、満月の日に事故や事件が多くなるというのも、おそらく潮汐力の影響でしょう。地面や海を持ち上げるほどの力が、私たちにもかかっているわけですからね。当然と言えば当然です。ルナティックってやつでしょうか。狼男ね。
 ルナティックって思い出しましたが、あのLUNA SEAが復活するとか。まあ、それはそれで楽しみではありますが、それより、あのYOSHIKIとGacktとSUGIZOと雅という超豪華なユニット「S.K.I.N.」はどうなってるのかな。興味あるんですけど。超ヴィジュアル系のワタクシも参加したいんですが(笑)。
 あっ、その話はまたいつかしましょう。月食と地震の関係だ。えっと、私の研究によりますと、潮汐力が最大になった日に地震が起きることはそれほど多くなく、その数日後(5日から7日)に発生する確率が高くなります。今週から来週にかけては少し注意が必要でしょう(もちろん世界中で)。

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2007.08.12

ペルセウス座流星群2007

これは拾い物。地元富士山と流星。
Mm20070813110652728m0 今日は秋田への移動の途中、新潟県の朝日村でペルセウス座流星群を観測しました。