カテゴリー「美術」の101件の記事

2012.01.01

謹賀新年 2012(年賀状公開)

↓クリック!!
2012 さま、明けましておめでとうございます。
 昨年は本当に大変なことがたくさん起き、私たち日本人は大きな試練に直面しました。そして、大きな転換を迫られた年でしたね。
 今年はいったいどんな年になるのでしょうか。
 私は今年、年男です。だからというわけではありませんが、今年は個人的には人生最大の挑戦の年だと思っています。自分自身も大きくヴァージョンアップ、いやモデルチェンジしなければならない年だと思っています。
 というわけで、今年の年賀状はこれです(笑)。
 勝手にiPhone5を作ってみました。毎年我が家の年賀状はとんでもないものが多く(例えば2011年2010年2009年など…笑)、ある意味皆さまに期待していただいてるんですが、さすがに今年はあんまりおふざけが過ぎるのもなんなので、珍しくクールな感じにしてみました。
 ちなみにこれを作るのにアイデア1時間、作業30分です。今年の年末はいつもよりも忙しかったので、はっきり言って作業的にはかなり手抜きです。すみません。
 その結果、クールであるはずのデザインが、けっこうツッコミどころ満載になっています。よく見ると、いろいろと変なところ(故意にそうした所とミスでそうなった所)があります。
 間違い探しみたいなものでしょうかね。自分としてはツッコミポイントが6ヶ所くらいあります。もしお気づきの点がありましたら、コメント欄にでも書いてやって下さい(笑)。
 ちなみに「A Happy New World」というコピーは、なんとなくAppleがやりそうな雰囲気だなと思ってテキトーに作りました。英語的に正しいかどうかは知りません(笑)。でも、もしかすると2012年を象徴する言葉になるかもしれませんね。流行語大賞狙うかな。
 一方、下にあるスティーブ・ジョブズの名言「Think different. Stay hungry. Stay foolish.」については、ガチで今年の私の目標です。
 というわけで、本年も蘊恥庵庵主と不二草紙をよろしくお願い申し上げます。世界がいい方向にヴァージョンアップ、モデルチェンジしますように。

参考 2012年はスーパー天文イヤー

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2011.11.03

フィクションとリアル、デジタルとアナログ、コトとモノ

20071128120311 日は文化の日。私は原宿の東京中央教会にてコンサート。たくさんのお客様にご来場いただき気持ちよく演奏させていただきました。
 しかし、不思議なもので、これだけ経験を積んでいても、なぜか本番になると今まで間違ったことのないところで間違ったり、突然分からなくなったり、変なことが気になったりするんですよね。興味深い現象ですね。昔ならそういう状況に陥るとパニックを起こし、さらなる非常事態が発生するのですが、まあ年の功でしょう、そんな非日常な自分を冷静に観察できるようになりました(笑)。
 さてさて、今日はなんとなくまとまらないことをつらつらと書き散らそうと思います。文化の日なので(?)。
 けっこう前から「コトを窮めてモノに至る」という言い方をしてきました。なんだか分からないという方も多いと思いますが、たとえば、「型(カタ…コトと同源です)」にはまればはまるほど、どんどん個性が顕在化してくるというようなことありますよね。スポーツや芸術や禅の修行やファッションや、まあいろんなことにあてはまります。
 音楽なんかもそうです。私が今日演奏したバロック音楽なんかも、そういう「カタ(コト)」が力を持ち始めた頃の音楽です。和声や調性、対位法、拍子、数の象徴性や作品の構成などが、ずいぶんと固まってきた時期です。
 しかし一方で、神の世界に人間の感情がくいこんでいく時期でもあり、そういう「劇的」な表現が発達したとも言えます。カタ(コト)がはっきりしていく中で、人間や自然の中に存する何か(モノ)が表出されてきたわけです。
 ところで今日は文化の日。皆さん、文化の日は明治天皇のお誕生日だということ意識していますか?明治節です。明治時代なら今上天皇の誕生日ということで天長節。
 今日の会場は明治神宮のすぐ近くでしたから、あのいかにも現代的で非明治的であるはずの空間に、なにか不思議な空気が漂っていたのも事実です。まさにコーティングされた現代都市というコトに滲出する明治天皇の霊(モノ)。
 そう、今日会場入りする少し前、道路が工事で混んでいましてね、渋滞に巻き込まれたんです。約30分くらいノロノロ動いたり止まったり。で、私の車のすぐ後に、今日は明治節ということでしょうかね、右翼さんの街宣車がいまして、ずっと軍歌を流していたんです。
 おかげさまで、久しぶりにゆっくり軍歌を聴きました。なんかとても懐かしい気持ちになりました。これもどこまでがフィクションでどこからがリアルなのか、なんかよく分からない、それこそ「物語的」な世界になりましたね。モノガタリとはまさに「モノ」を「カタ」ることですから、本当のことを表現するために、あえてウソをつくことなんですよ。
 考えてみれば、明治天皇という存在、あるいはあの明治神宮という存在、あるいは右翼だ左翼だなんていう存在自体、フィクションと言えばフィクションです。だいたい、そういう右とか左とかいうデジタル的なものってフィクションなんですよね。絶対唯一の天皇自体、その補集合の存在を仮定せずにはありえないので、ある意味とってもデジタルな産物であります。しかし、そこを起点に多くの怪しいアナロジーが生まれたのは言うまでもありません。
Img_3867_2 それから、また話が飛びつつ一つに集約されていきますが、会場である東京中央教会はセブンスデー・アドベンチスト教会の施設です。SDAはいわゆるプロテスタントに属しますが、土曜日を安息日にするなど、ちょっと珍しい教えを持っています。プロテスタント自体が、まさにカトリックに対するプロテストという、ある意味左右みたいな発想に基づくデジタル的なコトですが、その中でもさらなるプロテストがあるわけでして、そうして行くうちに、なんだか実に多様なモノが現出してくるわけですね。たいがい宗教というフィクションはそうやって「自然(モノ)」に帰っていきます。
1e4a55ec ついでに、また飛びつつ戻ります。その教会の隣に、浮世絵の太田記念美術館を見つけましたので、せっかくですから本番前昼食の時間に(私は昼食は食べないので)行ってきました。これが実に面白かった。まさにフィクションのオンパレード。
 今展示されている企画は「浮世絵戦国絵巻〜城と武将」でした。江戸期は、たとえば絵本太閤記の事件が示すように、徳川家以外の戦国武将を扱うのがとても難しい時代だったじゃないですか。しかし、徳川家に不満を持つ江戸庶民はついついいけないモノに興味を持つ。
 だから皆さんご存知のように、この時代は検閲にひっかからないように、見え見えのウソを連発するわけですよ。浮世絵でも当然そうです。もっと古い時代の武将に仮託したり、名前を微妙に変えたりしてですね、私は徳川家の批判なんてしてませんよと。
 それが見え見えバレバレなのが面白い。つまり、ウソはウソだと分からなければ意味がないわけです。ウソだと分かるから、裏の真実が見えてくる。まさにコトがモノを生むのです。
 特に幕末から明治初期にかけて活躍した大蘇芳年(月岡芳年)の作品は面白かったなあ。いつのまにか彼を象徴することになった「血みどろ」とか「妖怪」とか、そういういかにも彼「らしい」という後付けのフィクション世界はほとんどありませんでした。あのフィクションは三島由紀夫あたりが作り出したものか?
 しかし、そういう物語は抜きにしても、あの激動の時代を見事なウソでホントを表現した天才ですね。ある意味師匠の国芳よりも才能あったかも。
 と、いろいろ語ってきましたが、自分でもよくわかりません。こうやって語ることも全てウソと言えばウソです。全ての歴史は偽史である。そういうことです。しかし、その集合体は結局、ホンモノに帰って行くのでしょう。だから、ウソはたくさんつくべきです。もちろんウソと言っても人に迷惑をかけるウソはいけません。皆さんも私の語ることを信じないようにしましょう(笑)。

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2011.09.26

『おりがみ仏像をおる−豊彰流おりがみ』 河合敦子 (誠文堂新光社)

41630909 学の総合の時間で今「折り紙」を教えております。
 本校の総合的な学習の時間は、日本文化をたっぷり教えています。茶道、能楽、座禅、礼法などなど。その一つとして2年生の2学期は「折り紙」に挑戦中です。
 昔取った杵柄…まさにそれですね。私が折り紙にはまっていたのは、なんと40年以上前(笑)。つまり、幼稚園に通っていた頃です。
 そうそう、最近実家で当時の私の作品が発見されたのだとか。私はまだ見ていませんが、なんでもクジャクやら飛び立つツルやらサイやら、ずいぶんと高度な折り紙を作っていたようです。そう、前に紹介した笠原邦彦さんのシリーズを端から作っていたらしいんですね。
 ちなみに今、小3と小6の娘がその本にはまっていて、ヒマさえあれば折り紙をしています。小学生にとっても結構難しいようで、「パパは天才だった!」とビックリしてくれています(笑)。ま、はたち過ぎればタダの人ですが…。
 ちなみに今学校で使っている教材も笠原邦彦さんのこちらの本です。
 いやあ、折り紙を折らせるといろいろなことが分かります。生徒の性格や能力というか、適性でしょうかね、いろいろなものが見えてきます。
 実際折り紙というのは非常に高度な抽象的思考と具体的行動が要求されますよね。だから世界でも有名であり、人気があり、代表的な日本文化だと言われるのでしょう。
 まず、ちゃんと折り図が読解できるか。記号や図と文字の情報を、自分の手に持つ実際の上で具現化できるかという部分で、大きな壁がありますね。
 あとは手先の器用さや繊細さ几帳面さも作品にすぐに現れます。もちろん折り紙における「折れない心」も。つまり、途中であきらめずに何度も試行錯誤できるかどうか。そして、集中力。
 本当にいい教材だと思います。もちろん、一つでも折り方を覚えておけば、必ずや将来、育児の場や国際的な場面で役立つことでしょう。そういう意味も含めて勉強中ということです。
 さてさて、今日紹介するのは、最近自分のために買った折り紙の本です。笠原さんとはまた違った個性を持つ、河合豊彰さんの折り紙です。
 河合さんは日本を代表するオリガミストの一人ですね。特に「面」の折りに関しては世界的に有名な方です。ミスター・マスクと呼ばれるほどに、「面」すなわち「顔」の折りを極めた方です。
 残念ながら数年前にお亡くなりになってしまいましたが、彼の業績は今後も「文化」として語り継がれていく、そして折り継がれていくことでしょう。
 私も仏教に関心があり、日々を修行だと思って生活している者ですが、なかなか実際のところ座禅したり読経したり写経したりはできません。理想としては仏像でも彫りたい気分ですが、もちろんそんなこともなかなかできません。でも、折り紙なら紙一枚あれば、筆も彫刻刀もいりませんね。
 そうそう、生徒たちも普通にあるコピー用紙から正方形を作るところからやるんです。実は個の世の中には正方形の紙ってそんなにないんですよね。まずは正確な正方形を作るところからです。
 長方形の紙なら本当に世の中に溢れています。そして毎日とんでもない数の長方形の紙が捨てられていますよね。そのほんの一部でも折り紙にしてあげたらいいと思うんです。特に仏像を折ったりすれば、それこそ捨てる「紙」が拾う「仏」になるわけですから、なんか御利益もありそうじゃないですか。
 実際のところ、けっこう豊彰流の折り紙は面倒な部類に入るのですが、その絶妙ハードルこそが、折り紙という修行の醍醐味だと思います。ぜひ、皆さんも挑戦してみてください。

Amazon おりがみ仏像をおる―豊彰流おりがみ

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2011.09.14

追悼 リチャード・ハミルトン

↓「一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか」
Hamilton ップ・アートの父と呼ばれたリチャード・ハミルトンが亡くなりました。少し前に高松宮殿下記念世界文化賞をもらった時、ああまだまだ元気だなと思ったのですが。
 こうして「モダン」がどんどん亡くなっていくと、次には何が来るのでしょうか。ポスト・モダンが幻想だったわけですから不安になりますね。
 そう、いつも歴史について語りながら不安になっていたんです。だって、「近代」とか「現代」とか簡単に言っていますが、100年後、1000年後はどうするんだろうって思いませんか?いつが「現代」なんでしょう。
 ということは、もしかすると、歴史を歴史として体系化した「近現代」で歴史は終わってしまうのではないかと。我々の歴史は「今」を体系の一部に位置づけた時点で終わってしまうのではないかと。
 そんな恐怖と闘ったのがポスト・モダンだったのかもしれません。しかし、彼らもやはり「今」のあとに「今」を構築できなかった。実は「今」はそんな空虚な時代なのかもしれませんね。
 「通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業」…ハミルトンがポップ・アートを語った言葉です。彼はそんな空虚なポスト・モダンを予見していたかのようです。
 昨日の田中正造の言葉とはずいぶんと対極的ですよね。結局モダンな科学とやらは、こんなふうに「今日の家庭をこれほどにを変え、魅力あるものにし」たのです。
220pxbeatles_white_albumsvg そうしますと、ハミルトンがデザインしたあのビートルズの「ザ・ビートルズ」もまた非常に象徴的な気がしてきますね。科学技術に支えられたモダンでポップで豊かな世界の裏側にある極まった「空虚さ」に、彼は気づいていたのでしょうし、ビートルズのメンバーも気づいていたのでしょう。
 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドやマジカル・ミステリー・ツアー、そしてイエロー・サブマリンにはさまれて、あの「ホワイト・アルバム」が屹立している意味は、「今」になってさらに深く大きくなっていると思います。
 そんな「今」という未来を予見していたハミルトンは、モダン以降の「今」をどんなふうに眺めながら生きてきたのでしょうか。いや、彼のことだから、さらなる未来を見ていたのかもしれませんね。それがどんな世界だったのか。最近の作品を私は知りません。探してみたいと思います。

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2011.08.29

折り紙 『口(唇)』

↓ちょっと顔色が悪い?
110830_6_55_26_1 日は疲れた〜。
 この独特の疲れはなんか懐かしいぞ、と思ったら、十数年前のことを思い出しました。それは初めてカミさんの実家に行った時のことです。つまり、嫁にもらいに行った日ですね。
 あの時、まあ本来の目的は案外にスムーズに完遂できまして、いよいよ酒でも酌み交わそうという段になって、私は生まれて初めてのこの独特の疲労感を味わうことになったのです。
 そう、喜んでくれたカミさんのおじいさんとサシで呑むことになったのであります。そして、「日本語が分からない」という初体験(笑)。
 いやあ、あの時は半分は驚きでした。ここは日本であるはずです。そして、私は日本語を専門に勉強してきたはずです。なのに、全く分からない。3%くらいしか分からない。それでも2時間以上いちおう会話を続けました。
 興味深かったけれど辛かったなあ…特に質問されるとね。トピックだけは分かるんです。なんとなく。しかし、細部はこちらが想像して物語を作るしかない。それが当たっていればいいのですが…。
 というわけで、今日何があったかといいますと、ニュージーランドから18人の訪問団を迎えたのです。これは中学校が依頼されたものだったので、基本私が出迎えからお見送りまでの面倒を見ました。
 私はそんなに英語が得意ではありませんが、なんというか突撃力やハッタリ力だけはありますので、こういう仕事はそれほどイヤではありません。今回も通訳や英語科の先生は基本付かないということだったので、逆に燃えてるような部分もありました。それが間違いだった…。
 結論から言いますとね、ニュージーランドなまりの英語が全然聴きとれなかったのです!オーストラリア英語にはまあまあ慣れているのですが、NZ英語は実は初めて。けっこう辛かったですねえ。
 特に校長先生の英語は全然分からなかった。逆に教頭先生の英語は妙に聞きやすい。と思ったら、教頭先生はイギリスの方でした。彼は私と話す時はクイーンズ・イングリッシュ(?)を、生徒と話す時はNZイングリッシュを使っていたようです。
 しまいには校長先生の英語を教頭先生が英語で通訳してくれる…おお!これはおじいさんの日本語(秋田弁)をカミさんが日本語(標準語)で通訳してくれた、あの状況と同じだ!w
 まあ、私にとっても生徒にとっても、そういう意味でとっても勉強になりました。一言で「英語」と言ってもいろいろありますよね。当たり前のことですが、それを一挙に体験する機会はあんまりありません。
 今日はALTのアメリカ人の先生もいましたから、私のジャパニーズ・イングリッシュも含めれば、4種類の英語が飛び交ったということですね。
 さてさて、今日私が担当した授業では、折り紙を一緒に折りました。何を創ろうか、動物や鳥などいろいろ考えたのですが、今日はあえてこれにしました。「口」です。これって国を問わず老若男女が喜んでくれる作品ですので、皆さんもぜひ折り方を覚えて下さい。
 いわゆる現代的な創作折り紙ですので、日本の伝統的な折り紙の作法とは違いますが、だからこそ西洋の方にも取り組みやすいとも言えます。なかなか折り図が手に入らないこの「唇」。ありがたいことに動画がありましたので、紹介しておきます。実はこういう「折り線」式の折り方は私も初めて知りました。
 ちなみに今日の授業では途中折り方を間違えてしまいパニックに陥るという失態をやらかしました(笑)。


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2011.07.31

『没後150年 歌川国芳展 江戸の奇才浮世絵師』 (静岡市立美術館)

110709_img_01 まりに豪華なご馳走で気持ちが悪くなってしまった。そんな感じです。
 ちょうどそう、3D映画を見終ったような疲労感。それなりに楽しめたのだが、なんというかもうちょっと違う観賞法で見てみたいというか。
 見終って私はすぐにつぶやきました。

「国芳おそるべし。詳しくはブログに書こう。しかし江戸の絵画をああやって美術館に並べてみんなで鑑賞するのはナシだな。一枚を自分の懐に入れて持ち歩き、時々出しては独りニヤニヤ愛でるのが正しいやり方だろう」

 つまりそういうことなのです。いわば江戸小唄と浄瑠璃と歌舞伎をごっちゃにオペラハウスで鑑賞したような感じですね。
 いかに国芳が西洋絵画の影響を受けていようとも、やはり「近世日本」は「近代ヨーロッパ」とは相容れません。国芳も苦笑していることでしょう。
 しかしすごいと思ったのは事実ですよ。すごすぎて圧倒されたとも言えましょう。何がすごいって、まあ言い出せばキリがないでしょうから、一つに絞りましょう。
 先ほど3Dという話が出ましたよね。そう、私の絵画観賞法は必ず独眼流立体視の術用います。
 何年か前、山梨県立博物館で北斎と広重を見ました。その時の記事に、北斎と広重二人の、3Dを2Dにする方法に関する考察を書きました。
 では国芳はどうだったか。それが面白かったんですよね。基本国芳は広重流だと思いました。しかし、そこにある意味北斎流も混入している、というか融合されているように感じました。そして、それこそが「疲れる」流だったのかもしれません。
 西洋の遠近法は、実際に人間の眼で見た遠近感を理想とします。つまり一眼レフカメラ用レンズで言えば、90ミリあたりのパースペクティヴですね。広重はそこに根ざしている感じがします。広重をずっと見ていても疲れないのは、そのあたりに理由がありそうです。
 広重を評して「遠近法が強調されている」というのは、実は正しくありません。彼の強調とはあくまでステレオ写真における前景と背景の配置の工夫であって、決して広角レンズ風な「パースペクティヴの強調」ではありません。
 では国芳はどうであったか。これこそ今流行りの3D映画のような露骨なエンファシスだと感じました。
 3D映画の遠近法というのは、そのシステム自体の自己主張のために、いかに現実的な3D感(自然で日常的な無意識的な風景)と違うものを見せるかを意図しています。
 しかし、一方で3D映画が北斎のような空間の歪みを表現したらどうでしょうか。たぶん、「失敗」「下手くそ」と見なされることでしょう。つまり論理的な遠近法と空間座標の中でのリアリズムではないと「不自然」になってしまうのです(逆に言うと、北斎は脳内のリアリズムに徹した)。
 国芳はまさに西洋的な遠近法の中で、様々な交換レンズを使って「遠近感を強調」しているなと感じました。それも一つの画面の中にいくつもの焦点距離を持ってきている感じ。それはまさに現代の3D映画の技法と同じです。ある部分だけ突然飛び出したりする。
 だから疲れたのだろうと思います。広重は論理的に自然、北斎は脳内感覚的に自然だから疲れない。国芳はあまりに現代的なのです。おそるべし天才。
 ところで、もう一つ昨日のつぶやきを。

「3D、3Dって騒ぎすぎだな。だってこの目の前の現実が完全に3Dだもん。だから、たとえば映画なら4Dである(過去も未来も見せられるという)点について騒ぐべきだろう」

 そういう視点で言うと、国芳は2Dでありながら、思いっきり4Dでしたね。時間を封じ込め、止まっているのに動いている。過去も現在も未来も全て「静止」の中に放り込んである。時間軸が究極に自由なんですね。だから四次元。
 いや、5Dかもしれない。いやもっと多次元かも。発想の自由さとユーモアは現実世界のあらゆる次元を軽く超越していますからね。それをあれだけ見せられれば、そりゃあ疲れるわ。
 ぜひとも1枚、お気に入りを入手して、懐に入れて持ち歩きたいものです。そして時々取り出しては独りニヤニヤしてみたいものです。
 おそるべし国芳。彼の高笑いが聞こえてきそうです。

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2011.07.16

『世界が私を待っている・前衛芸術家 草間彌生の疾走』 (NHK BSプレミアム)

1 「魂」…草間彌生さんはまさに戦う女でした。うん、たしかにレスラーの目だ。
 水玉模様で有名な前衛芸術家草間彌生さんの番組を観ました。3時間に亘る長編でしたが、あっという間に感じられるほど引き込まれました。
 ふむふむ、私の知っていた草間彌生はほんの一部にすぎなかったのだな。自分のことを「天才」「神」と言い、子どものように自由に描いている彼女を「幸せな人だな」と思っていましたが、実際は命懸けで「今」と戦っている、死と隣り合わせでギリギリのところを行っている人なのだと、今日初めて知りました。勉強不足を恥じます。
 時代がようやく彼女に追いついてきたのでしょうかね。「前衛」というのは常にそうです。しかし、実際のところ「前衛」を名乗っていても、結局時代が追いつかない、というか、時代がそちらに向かってこない場合もあります。いやほとんどがそうなんです。つまり、結果として「前衛」でなかった場合がほとんどなんですよね。
 今、存命にして「前衛芸術家」を自ら名乗り、そしてそれを誰もが認めているのは、もしかして世界中でも草間彌生さんだけかもしれません。
 それにしても、ちょっと意外だったのは、草間さんがある意味非常に「他力」であるということです。
 もしかすると、「自力」だった頃は苦労なさったのかもしれませんね。芸術家は基本「自力」を旨として活動を始めます。しかし、そこで何か大きな壁にぶつかるものです。
 もちろん、それは芸術家に限ったことではありませんね。私のように普通の仕事をしている場合も全く同じです。ただ、芸術家は個人で戦ってかねばなりませんから、その壁にぶつかった時点で精神的に、あるいは経済的に断念を余儀なくされることが多いわけです。
 しかし、それをある種の「智恵」で乗り切り、「他力」の感覚をつかむことで本当の成功をつかみとることができる人がいます。それが「天才」と言われる人であったりしますね。
 現在の草間さんにはたくさんのサポーターがいると感じました。スタッフに「これどう?」とか「こうしたらどうかしら?」と何度も聞いていましたし、自らの作品が世界中に広がるために、ギャラリーやバイヤーの力を借りていました。
 その点、芸術というより、やっぱり現代的なアートだなと感じましたね。本来芸術と貨幣経済(マネー)とは相容れないものであったわけですが、アートはマネーの力を借りてパワーアップします。コマーシャリズムとの共存が現代アートの一つの生き方であります。
 草間さんはまさにその最先端を行っているなと感じました。84歳にしてその先端性。おそるべき「闘魂」の持ち主ですね。今を否定するのは簡単です。否定するのではなくて、相手の存在を認めてともに戦っていく姿勢。見習わねばなりませんね。
 毎日、精神科の病院から自らのアトリエに通う草間さん。私たちが知りえない苦悩もたくさんあることでしょう。自殺願望も常にあると言います。ある意味「死」と常に戦っているとも言えます。
 あの水玉模様は素粒子なのでしょうか、それとも星々なのでしょう、いや、もしかすると宇宙そのものかもしれません。
 そして、草間彌生さんは素粒子の、星々の、宇宙の一生を体現しているかもしれないと、ふと思いました。

ps 草間さんのデザインしたあの犬(リンリンなど)、なんとなくウナギイヌを彷彿とさせますな。

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2011.07.14

原子力ポスターコンクール

↓文部科学大臣賞作品。見事なブラックジョーク。
Fidtsumiyama20101129111944pimage のブログでも何度も指摘しているように、学校現場では基本的に「原子力教育」というのがなされてきました。
 というよりも、ほとんどの教員は意識せず、それを行なってきたとも言えます。なぜなら、文部科学省が原子力推進派なので、教科書や各種教材を使ってまじめに授業をすれば、自然と「原子力教育者」になってしまうからです。
 私のような変わり者教師は、教科書なんか信じるなとヘーキで言えますが、普通はなかなかそうはいかないでしょうね。
 学校では原子力発電推進の理由を「日本は資源が少ない国」「温暖化の原因物質であるCO2を削減できる」という、二つの大嘘で説明します。
 もちろん、私は両方否定してきました。ここでいう「資源」は、発電のための原料という意味ですから、本当は逆です。火山国で島国である日本は、水力や地熱や潮力、潮汐力、風力など、非常に「資源」に恵まれている国です。そんなの常識です(いや非常識か)。
 温暖化については、いつも言っているように「暖かくなって二酸化炭素が増えると光合成が盛んになるので植物が喜ぶ。植物が元気だと草食動物が喜ぶ。草食動物が元気だと肉食動物が喜ぶ」ので、大いにけっこうです。というより、二酸化炭素だけを温暖化の原因物質として名指しするのは教育的ではありません。
 ま、これらはずいぶんと極端な説であり、皆さんは「これはこれで危険な教師だ」と思うかもしれませんね(笑)。
 これを押しつけるわけじゃないんです。こういう視点も与えつつ、こう言われたらあなたはどう考えるかという「選択の機会」を与えるという意味です。
 そういう「選択の機会」を奪うのがいわゆる公教育の持つ性質です。その良い例がこの「原子力ポスターコンクール」でしょう。
 今年はさすがに中止になったとのこと。私としては今年こそぜひやってほしいと思っていたんですが。文部科学省(&経済産業省資源エネルギー庁)の方針を貫かないと国民(子ども)は動揺してしまいます。やめるなら「すみません、今まで皆さんをだましていました。洗脳しようとしていました」と言うべきです。
Fidtsumiyama20101129111946pimage ここで大切なことを書いておきます。これらのポスターを一生懸命描き、立派な賞をとった子どもたちにはなんの罪もありません。逆に可哀想ですね。今回このような事故が起き、こうして原子力に対する逆風が吹きまくることになったわけですから、彼ら彼女らの今の気持ちを考えると実に胸が痛くなります。
 そのうえで、そういう残酷なことをしてきた日本の教育界を糾弾するために、あえて作品を掲載させていただきます。批判もあって当然です。そのくらいの批判は受ける用意はあります。
 子どもたちが可哀想だからこそ、この現実を皆さんに知っていただき、文科省、教員、大人たちは猛反省をしてほしいのです。もちろん私自身も。
 このコンクールに対する文科省の考えはこうです。
 そして、このコンクールの昨年度の募集要項はこちらです。
 募集要項にある作品制作のヒントをよくお読み下さい。5重の壁で放射線漏れを防いでいる…!?
 つい最近まで、娘の小学校でも募集のポスターが貼ってあったそうです。昨年から貼りっぱなしになっていたのでしょうか。もしかすると違う種類のものかもしれませんが、入賞者は原発見学に行ける!という内容だったとか。
 歴代の入賞者には福島県の子どももいました。今、彼女はどういう気持ちで自分の作品を眺めているのでしょうか。大人の責任は重大だと思います。
 私のような立場で仕事をしていると、毎日毎日「○○ポスターコンクール」「○○作文コンクール」の募集案内が届きます。それらも一つ一つしっかり検討すると、中には非常に洗脳的なものを見つけることができます。子どもはそのあたりの判断はできません。全国の先生方、ぜひ子どもの代わりに「選択」をしてあげてください。

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2011.05.28

活版アートのチカラ展

感じ入ることが多かったので長いですよ〜。
Img_2459 日、ある広告業界の方と話をしました。これからは「マス」対象の一方通行的な「発信」の時代は終わる、本来の双方向的なコミュニケーションが帰ってくる、真の理解者を募るための広告、デザイン、経営方法に力を入れるべきだ、そういう意味ではグローバルよりもローカル、都会よりも田舎の時代が来る…こんなような話を私はしました。
 震災後、東日本の人たちは、たしかに「何か」に気づきつつあります。幽閉された何かを復権させつつあります。
 たとえば「想定外」のモノたる地震への感性。目に見えない放射線への感性。これらは実は今までもずっと私たちと一緒にあったはずのモノです。しかし、それをほとんど忘れていた。それがドラスティックな出来事によって半ば強引に意識されるようになったわけです。
 それらはある意味極端な例であって、「モノ」ゆえの恐怖感を伴うものですが、実のところ私たちの生活の中で、そのように忘れられている感覚というものがたくさんあります。感覚とはセンス。センスとは意味です。私たちはたくさんの意味を見失っているのです。
 デザインや広告とは、そうした「意味」に気づかさせるためのメディアであるべきだと思うんです。ただ、情報を伝えたり、相手を心地よくさせたり、受け手の購買意欲を高めるだけのものではないはずです。
 たとえば、地震や放射線、あるいは人々の「絆」や、それ以前に「命」というモノ、それらの「意味」を突きつけられて、私たちは初めて自分の存在や人生の「意味」を考え直すことになりました。それと同じように、いやそんな大きなスケールでなくとも、何か日常生活にさざ波を起こすような、「これってなんだろう」とか「そう言えば…」とか、そういう感覚を取り戻させるためのモノであるべきなんですね。
 というわけで、また前置きが長くなりましたが、今日は教え子もデザイナーとして参加している「活版アートのチカラ展」に行ってきました。
 デザインの現場で個性的な活動をしている彼とは話が合います。私のワケのわからん「モノ・コト論」の良き理解者でもある彼は、いわゆる「モノ」にこだわる仕事をしています。デザインにおける「想定外」や固定化されていない個々の「質感」にこだわっているわけですね。
 活版印刷…まさに私たちが忘れてしまった「質感」「意味」を残す技術です。いや、活版印刷自体忘れられている「モノ」か。
 オフセット印刷隆盛の現代において、こうしたアナログでアナクロな「モノ」が懐かしさを超えて、何か大切なモノを思い出させてくれるということはよくあることです。
 そう、よく考えるんですよね。たとえば、活版印刷という「現代技術」が発明された時には、それまでのマニュスクリプト的世界からすると、それはとんでもなく工業的であって、それこそ「モノ」を排除する「コト」的なアート(技術)だったわけじゃないですか。それが、この時代になると芸術たるアートになりうるという、そういう時代の不思議ってなんだろう。
 そう、今まさにウチの娘たちが偽ファミコンであるファミエイトで遊んでいます。この8bitのスクエアな世界がなぜか今になるとアーティスティックな産物に見えてくるという面白さ、おかしみですよ(笑)。
 おっと話が逸れそうだから戻します。
 現代の表現は明らかに「視覚」と「聴覚」に片寄りすぎています。ですから、これからのデザインは「触覚」と「嗅覚」、それに加えて「味覚」と「第六感」に訴えるべきだと思いますね。まずは「触覚」でしょうか。
 ご存知のように活版印刷は原始的な版画、ハンコ、スタンプのようなものですから、そこに凹凸という三次元的空間が現出します。それは手にした時の独特の「触感」を生み出します。そこから広がる、視覚や聴覚を超えた「物語」こそが、先ほどから言っている私たちが忘れかけている「モノ」への入り口になりうると思うんですね。
 それって、「子ども」の感覚だとも言えます。子どもはまず触ります。触って対象を感じ、受け入れたり拒否したり、あるいはそれを分解したり組み立てたりして「物語」を紡いでいきますね。
 そういう意味で教え子はとてもいい仕事をしていたと思います。これはひいき目ではなく客観的にそう感じました。
 会場にはたくさんのデザイナーによる活版印刷を使ったポストカードが並んでいましたが、明らかに教え子の作品は他と違っていました。他の作品が、まさに完結した(よくある)グラフィックアートとなっていたの比べ、彼の作品は非常に挑戦的でもあり、しかし一方で実に他力的であり、双方向的なものでした。
Gedc0780 ご覧下さい。この3枚が彼の作品です。一見何もないただの紙のようですね。よく見ると賽の目のような模様が見えます。これは、透明のインクで活版印刷した意匠です。これがたとえばオフセット印刷だったら、何も見えないのでしょうが、活版は先ほど書いたように凹凸を生みます。それが光を受けて影を生じ、無限のパターンを持った意匠に生まれ変わります。
 しかし、その可能性は視覚だけにとどまりません。ご想像のとおり、これを手に持った時の「触感」が素晴らしいのですね。特に裏側に回った指先に伝わってくる感覚。これだけでも、かなり引き込まれます。真っ白な世界から何かが立ち上がってきます。
Gedc0782_2 さらに面白いのは、実はこのデザインの中には文字が仕組まれていることです。左の画像をクリックしてみてください。見えるかな?
 そこに仕組まれたのはコトたる情報です。ある角度から光が当たるとコトたる情報が浮かび上がる仕組みになっています。
 入り口としての「触覚」から、「視覚」の代表格である文字情報への誘導が見事。というか、実に楽しい。あぶり出しのような「秘密感」と、それを解き明かした時の「優越感」。まるで少年の日々を思い出すようなデザインですね。
 私は彼の作品に大きなヒントを得たような気がしました。思い入れとは手間ひまに比例する…。
 広告にしても、期限が過ぎればゴミと化してしまうフライヤーではなく、何か捨て難い、すなわち思い入れを抱かざるを得ないよう表現が必要なのではないでしょうか。それは、広告や印刷物に限らず、全ての「仕事」に言えるのかもしれません。
Img_2457 私も生まれて初めて活版印刷機を操作させてもらいました。うわっ、これってフォルテピアノの感覚に近い!つまり楽器だ。指先や腕や肩に伝わる「質感」。これを巧みに操作できる人は、職人であり演奏家に違いない。
 過度にデジタル化され、オートメーション化された現代において、こうしたアナログでアナクロな「モノ」たちがどう蠢き出すのか。とても興味があります。もちろん私の仕事「教育」はいつの時代にもそういう「モノノケ」相手の仕事ですけどね(笑)。
 活版印刷における「エッジのにじみ」の意味についてもいろいろ考えました。ファジーでマージナルな「ゾーン」が存在することで、私たちはどれだけ安心できるか。人生そのものだよなあ…。パソコンの画面やそこから生まれる印刷物のトゲトゲしさに疲れ気味な私です。
 うん、非常に充実した1時間だったなあ。また、彼とゆっくり話をしたい。
 29日まで開催しているので、興味を持った方はぜひ行ってみてください。

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2011.03.06

ファッション・言葉・デザイン・心

20110307_80343 勤の予定が急遽家で仕事に。なんとなくテレビをつけながらボチボチたまった仕事をしておりました。
 Twitterなるものをやり始めました。というか、実は今までもほぼ毎日つぶやいてはいたのです。しかし、それは学校のアカウントでのことで、つまり保護者に向けて学校生活の様子を毎日つぶやいていたわけで、個人的な言葉ではなかったのです。
 自分のアカウントも昨年のこの時期に取っていたわけですが、私には(いちおう)しっかりと編集された「言葉」、すなわちこうしたブログや、短歌という表現方法があったので、あまり興味がなかったのです。
 しかし、いろいろなところからのリクエストもあり、では、ちょっとやってみようと、今日あたりから少しずつつぶやいてみているわけです。
 FujizoushiBotという名から分かる通り、どうも機械が自動的に発言しているようです(笑)。ですから、仕事時間中のつぶやきは私自身ではありません。学校用のつぶやきに専念しているので。
 さて、今日のつぶやきの中にもありましたとおり、今我が家の周辺は野鳥で溢れております。今日もいろいろな種類の鳥たちが来ていました。
 富士山麓には約150種類の野鳥がいるのだとか。実際、あまりにいろいろな種類の鳥が来るので、どれがどれか全く分かりません。名前が覚えられません。てか、基本あんまり興味がないのかな、日常的すぎて。カミさんの方は図鑑片手に「あれは○○だ!○○が来た!」などと、猫たちと一緒に興奮しております。
Dscn0753t_s 今日はエナガが来ていました。なかなかシックなデザインの鳥ですね。時々赤や青を配したちょい派手な鳥もいますけれど、基本、日本の鳥たちはシックですよね。熱帯の鳥たちとはずいぶん違う。
 もちろん、それは環境たる植物の色彩に影響を受けた結果ですが、またその結果、ある意味性格も地味でおとなしめになるという事実もありますね。オウム類とか、けっこううるさいし獰猛ですよ。
 そんなことを考えていたら、BSで「東京ガールズコレクション」が始まりました。昨日代々木体育館で行われたんですね。今や、世界のファッションショーの最先端を行くようになったTGC。モードからファッションを解放して、民衆のトレンドを文化にまで押し上げたこのイベント。今年でもう12回なんですね。
 そうそう、3年前に私こんなことを書いていますね。リアルクローズと俳句と民芸か。「痛い」間際のギリギリ感が「カワイイ=萌え」か。なるほど面白い考察だ(笑)。
 で、今日も興味深くその現象を観ていたわけです。しっかしすごい盛り上がりだな。一度行ってみたいな。男子禁制とかじゃないですよね?おっ、男もいるいる。
Void0 たしかにモデルさんたちステキですね。これは私からするともう「カッコイイ」であって、「カワイイ」ではないような気がします。モデル体型でモデル顔だったら、全然「痛い」の間際ではない。たとえば、この土屋アンナなんか、これ、一般人にはできませんよね。「痛い」どころか、ギャグにすらならない。逮捕されます(笑)。
 しかし、このある意味過激なクローズさえも、ずいぶんと彩度が低いですよね。今回はもちろん春夏ファッションなんですが、まるで秋冬かと思わせるほどに、全体の彩度が低い。日本的な自然とでも言いましょうか、日本野鳥の会的とでも言いましょうか。
 これって、やっぱり世の中の風潮、空気を受けてのものでしょうかね。まさに「空気を読んだ」ファッション。このご時世、いくらギャルたちと言えども、熱帯雨林のオウムのような格好はできないということでしょうか。面白いですね。
 そして、最終的に思ったのは、これはやっぱり「デザイン」だなということ。「デザイン」については、たとえばこちらに書きましたね。そこにも「ちょっとはずすと野暮になってしまう危険もある微妙なスウィング」という表現があります。なるほど(笑)。
 建築や言葉も一緒なんですよ、実は。ギリギリの中にいる自分の方が問題なのです。そのデザインの中にいる自分の心が問題なのです。
 野鳥も実はそうしてキャラを作っているのかもしれません。ギリギリ自分を保てる、ギリギリ社会との関係を保てる、そういうところに、我々は生命力を感じるんですよね。自分は生き生きとし、他人を見ては「カワイイ!」と思うんです。
 というわけで、私も最近は自分をしっかりデザインしようと考えているんですよ。「痛い」ことにならないようにね。

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