カテゴリー「美術」の80件の記事

2010.02.01

『サイドマン ~ビートルズに愛された男』 (NHKハイビジョン特集 フロンティア)

20100202_90833 とこと…「かっこいい」。
 お正月に見逃したクラウス・フォアマンのドキュメンタリー。1ヶ月待って、ようやく再放送を観ることができました。知り合いのクラウスファンが泣きまくったというので期待していたわけですが、たしかにこれは感動ですねえ。
 もちろん、クラウスのベーシストとして、そしてグラフィック・デザイナーとしての業績を振り返るだけでも感激。いやあ、本当にすごい人だ。
 当然、彼にまつわる、ビートルズをはじめとして多くの名バンドの懐かしい映像や曲が流れます。うわぁ、この曲のベースもクラウスだったのか…。
 そして、往年のミュージシャンたちの現在の姿にも感動。ジョンやジョージのように亡くなってしまった方もいるわけですが、逆にいまだに元気な皆さんの笑顔や真剣な演奏姿を見るだけで、もううるうる…。ベテランのレコーディング風景(一発録りセッション)の楽しさ、緊張感…最高ですね。すごい境地です。ランディー・ニューマンの「ショート・ピープル」懐かしすぎ。
20100202_93258 それにしても、リンゴ・スターは元気だなあ。今年70歳ですよね。若い。そして相変わらずのドラミング。ますます味が出ちゃってますね。そして、ちょっと頑固じじい風なシーンもあったりして(笑)。ポール・マッカートニーも元気そうでなによりでした。
 クラウスを一言で言うと、やはり「天才」。なにしろ、20世紀を代表する天才たちが「天才」というのですから、本物でしょう。
 ベーシストととしても唯一無二の存在だった彼。たしかに彼のベースのフレーズは静かですが確乎としていて揺るぎない感じがします。番組中本人か誰かが語っていましたっけ。彼は楽譜は用意する(楽譜を見ておくことは重要だ)けれども、楽譜どおりは弾かない。そして彼の生み出すフレーズは、極端に上下するわけではないが個性的だと。なるほど、そのとおりですね。
 そんな天才音楽家であった彼は、しかし、音楽に飽きてしまいます。そして、ある意味本来の自分の道である「美術」「グラフィック・デザイン」の世界で、これまた大活躍します。
20100202_134755 だいいち、皆さんご存知のとおり、あの「リボルバー」のジャケットは彼の作品ですよね。天はニ物を与えたわけです。それも世界最高レベルで。ううむ、うらやましい。
 しかし、彼のすごいところはですね、どこまでも謙虚であったということです。いや、今でも充分に謙虚ですよ。だからかっこいいのです。誰か(私も含む)みたいに、大したことないのに「はったり」をかまして、目立とうとしたり、かっこつけたり、自慢したりする人間とは違います。
 そういう人間性の持ち主だったのですね。もし、彼がある意味普通に目立ちたがり屋であったら、もっと有名になっていたかもしれません。いや、The Beatlesのメンバーになっていたかもしれません。しかし、それを拒否したところから、現実の、あのThe Beatlesは生まれたとも言えます。そういう人なんですよね。
 そんな彼が70歳になって初めてリーダーとしてアルバムを制作しました。「A Sideman's Journey」…名だたるミュージシャンたちと同行二人…いつのまにか、壮大な自らの旅もデザインされていったのです。その終着点が、美しくリラックスした軽みのあるこのアルバムだったというわけでしょうか。
 すごいですね。またまた尊敬するベーシストが一人増えました。「サイドマン」…私もそういう人になりたいものです。

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2009.12.02

平山郁夫と「萌え」

K_img_renderphp 山郁夫画伯が亡くなりました。アフガニスタンへの増派のニュースが流れる中、どんな思いで天界に召されたのでしょうか。
 アフガンでの遺跡保存活動をはじめとした、シルクロードをメインストリートとするボランティア活動だけでなく、本職である画業でももちろん国際的な活躍をされました。また東京芸大学長職を務めるなど教育においても、そして、ある意味商売の面でも活発に腕を振るわれました。
 芸術家としての絶対条件である「異様なほどのバイタリティー」をお持ちであったと、改めて思います。
 今日は、そんな平山さんを、ちょっと(だいぶ?)違った視点から見てみたいと思います。決して失礼にはあたらないと思いますので。
 そう思ったのは、たまたま今夜、NHKのクローズアップ現代で「故郷(ふるさと)に“美少女”が来た」と銘打ち秋田県の羽後町での取り組みが紹介されたのがきっかけです。
 羽後町については、私は、このような全国レベルでの話題になる以前から注目してきました。右の「人気検索ワード」をクリックしていただければ、このブログでもずいぶんといろいろな視点で語ってきたのがお分かりになるでしょう。
 今夜の番組ではいわゆる現代的な「萌え」と豊かな自然しか取り上げませんでしたが、私としては、土方巽&細江英公の「鎌鼬」…新版が出るようですね…や、先日紹介した白井晟一の建築(現存しませんが)、そして佐藤信淵などにも触れてほしかった。そこには、現代的な「萌え」以前のもっと大きく深い「萌え」要素があるからです。
 他称(…なぜかWikipediaの「萌え」に私が登場している!?)「萌え」研究家である私からしますと、「萌え」の基本的な性質はネオテニーにあると考えています。すなわち「子ども性」です。一般に文明(大人性)は「子ども性」を刈り取ることによって成立しますので、そうした「侵略」や「略奪」から逃げるために、子どもは辺縁にどんどん移動していきます。あるいは、辺縁には文明が到達しないという言い方もできますが。
 そうして、辺縁に文明化していない「モノ」が凝結していきます。それを文明側からは「文化」と呼ぶ場合もあるわけですね。本人たちはそんな対抗意識はないことも多いのですが。
 そして、その「文化」は、「自然」という強力な後ろ盾をもって逆襲に転ずる時もあります。まあ、ここでも、人も自然もそんな意識はなく、現実には、文明側からの「憧憬」という形をとることが多いのですが。
 たとえば、この前も書いた、西洋美術における「浮世絵」の影響などがいい例です。江戸までの日本は、まさに世界の辺縁中の辺縁、極東であったわけで、そのうえ島国という特殊な好条件をも得て、ある意味孤高の「子ども文化」を醸成していたわけです。そこに、「大人」たる文明国の人間たちは大いに驚き、そして憧れ、不思議な郷愁まで感じて、それまでの自分たちが積み上げてきた「写実」や「科学」や一部「宗教」までかなぐり捨てて、「回帰」を試みたわけです。
1akiduki1 で、話を秋田に戻しますが、まさに秋田と東京の関係などは、そうした構造の相似形になっているわけですね。ちなみに私は東京育ち、カミさんは羽後町育ちですから、我が夫婦の間にも、そういう関係が成り立っているんですよ。
 それをカミさんは、最初全然理解できなかったようです。「子ども」側だからです。しかし、「大人」がそういうことをしつこく言い、自分以上に「故郷」にこだわり、そして、ついにはNHKという国家的メディアがそれを発信するに及んで、ようやくコトの重要性というか、自らの無意識に沈殿していたモノの重要性に気づいたわけです。
 スケールを変えてみると、それが西洋と日本の関係になるというのは、もうお解りでしょう。ですから、この前書いた「世界カワイイ革命」もそうなんですが、これからは、「辺縁」「地方」「子ども」側が発信していく時代なのです。「大人」は自縄自縛で疲れ果てていますからね。
 子どもは凝り固まっていませんので、なんでも受け入れて自分のものにしていきますね。日本という国もそれが大得意です。しかし、一方で大人社会に対するなんとはなしの「畏怖」や「謙遜」や、あるいはそこから生じる「自己卑下」のようなものがあるわけです。そこがいろいろな面で障壁になってきたのも事実ですね。
 で、平山郁夫さんにようやく話が到達しますが、彼の作品を見れば分かるとおり、彼の美術史における一つの功績は、やはり東西の融合だと思うんですね。彼の嗜好や指向が西に回帰した、つまりシルクロードを遡ったというのも象徴的ですが、それ以上に、絵画の技術としての東西の融合にその大きな意味があると思うのです。
 だいぶ前、平山さんと高階さんの『世界の中の日本絵画』を紹介しましたね。あれなんか、私は思わず笑ってしまったのですが、今思えばまさに平山さんの境界なき「子ども性」を表している業績かもしれませんね。
 そして、もう一つ重要なことは、彼がそうした西からの憧れを「商売」にしてしまったことです。つまり、それが「萌え」と同じなんですよ。「萌え」のファクターというのは、自然や子どもの中に昔から常に存在していましたが、それが意識されて、そして都会や大人がそれをカネで買うようになって初めて「萌え」という言葉が生まれたのです。
 実は日本はそうやって経済大国になったのでした。その美術界での象徴が平山郁夫さんだと言えますし、また、今日のクローズアップ現代のテーマ「地方の時代」のヒントも実はそんなところにあるのでした。
 中心と辺縁を結ぶ線。それは自然の中に人が作った道。「萌え」もまた、その道の一つなのです。
 山梨にある平山郁夫シルクロード美術館、そんな平山さんの多方面でのご活躍を象徴する存在です。これを機に拝観し、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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2009.11.28

『世界カワイイ革命』 櫻井孝昌 (PHP新書)

なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか
56977535_2 このところ、BUMP OF CHICKENやレミオロメンを通じて、日本のロックについて、いや非西洋的音楽について熱く語ってしまいました。これにはいろいろと理由がありまして、実は今日のこの本の内容とも重なってくるんですよね。
 どうも戦後教育にどっぷり浸かっていたせいか、自分もどこか西洋礼賛的な発想をしていたことに、案外最近になって気づき始めたのです。遅いよ!と言われてもしかたありませんね。
 でも、やっぱり日本人って自分たちの文化を卑下しすぎだと思いますよ。それってなんなんでしょうね。そういう性質の民族なんでしょうか。それとも、やはり教育のせいなんでしょうか。自虐史観とかよく言いますけれど、実はそれ以前に自虐文化観というのもあるような気がするんですよね。
 まあ、ワタクシ流に簡単に言ってしまえば、近代以降の日本では「モノ」より「コト」の方が優れていると思われてきたということです。
 感覚より論理、混沌より整然、多神教より一神教…。
 日本で素直に流行るモノは、全て「サブカルチャー」としてくくられ、どこか低俗で恥ずかしいものだとされてしまう。
 ここ10年くらいでしょうかね、そういう常識に、私も何かものすごい違和感を抱くようになったのは。ちょっと待てよと。じゃあなんで「本場」ヨーロッパでこんなにもてはやされてるんだ?と。
 この本で取り上げられている女の子のファッション、いわゆる「東京リアル・クローズ」もそうです。それ以前に、マンガやアニメ。もっともっと以前に「浮世絵」。 
 「浮世絵」などの江戸文化については、どこかにも書きましたね。とにかく、江戸の庶民の文化、今風に言えばそれこそサブカルチャーになるんですけど、それが、たとえばヨーロッパに渡って、あの印象派を、そしてその後の様々なアートシーンを用意したというのは、これはまあ常識です。
 考えてみれば、ダ・ヴィンチ以来の「写実」を根底から覆したわけですから、それはもう本当に世界にとっての革命的契機なわけです。そういう事実も、いちおう逆輸入により今では日本でも学問的に評価されていますが、実はもっともっと我々が誇りに思っていいことなのではないかと思いますよ。
 ご存知のように、リアル・クローズはとにかく自由です。パリコレ的なモードや作られた流行としてのファッションはそこにありません。着たい服を着たいように着こなすのがその唯一のルールと言っていいかもしれない。
 もちろん、値段やブランドなんていうコトにはこだわりません。いかにチープな素材をデフォルメしアレンジするか。そう、まさに「リ・クリエイション」がそこにあるわけです。価値の創造の喜び。
 その結果は、西洋的基準からすれば、単なるカオスです。まるで、新宿や秋葉原の混沌とした電飾広告群のようです。そこには、「景観」はありません。しかし、その多様な全体が醸すエネルギーたるや、誰もが圧倒される。
 それこそが、私の言う「コト」化されていない「モノ」の生命力なのです。「コト」は、言葉です。つまり言語。全ての人間の枠組みは「言語化」によって構成されます。法律なんかは一番わかりやすい例ですね。
 それによって、いわゆる「近代社会」が成り立っているというのは、よくわかります。しかし、その枠組みゆえの限界点というのも見えているのが実情ではないでしょうか。
 それをぶち壊していく、つまり、言語(結局は固定化した思考ということですが)を超えた、想像力、そして創造力のエネルギーに期待したいのです。私たちは、いや「私は」なのかな、そろそろ、言葉という人間の開発した道具に飽きてきているのかもしれません。
 いずれにせよ、著者の言うように、もっと我々はそうした混沌とした、多様な、そして自由な「日本文化」、あるいは「日本精神」というものを、積極的に海外にアピールし、あるいは売り込んでもいいと思います。
 最近、ある国際教養系のAO入試を受けた生徒と一緒に、「禅」と「日本文化」と「言語」について勉強しました。なかなか面白い結論が出たのですが、それを武器に闘っての結果はどうだったか。もし、合格したら、ちょっとその辺についても書こうと思っています。
 教外別伝、不立文字…「言語化」しにくいモノ、あるいは「論理」を超えたモノを、結局「言語」というコトでアピールし、売り込まなければならない矛盾…それが、昔は苦痛でしたし、ある種の諦めを生む原因になっていたのですが、どうも最近はそこが面白くなってきたようです。私もちょっとはステージが上がっているんでしょうか。

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2009.11.26

『学研 大人の科学 二眼レフ』で撮影した作品集(その2)

 研の「大人の科学」の付録二眼レフカメラでの作品(と言えるのか?)。東京乃木坂での初撮影に続きまして、家の周辺(富士山麓)で2巻目の撮影をしました。今回は前回とは違ったトラブルやミスにも見舞われまして、恥ずかしながら12枚だけです。打率5割切りました(笑)。デジカメでは考えられん状況。
 ちなみに今回はペーパープリントではなく、いきなりCDに焼いてもらいました。そっちの方が安いんだ(!)。データサイズがちょいデカくてすみません。そのままアップしちゃったものですから。

↓窓辺にたたずむ黒猫のミーちゃん。視線は私の顔に向かっています。カメラのレンズは私の腹にありますから、こういう上目遣いのカワイイ写真が撮れたわけですね。ピントも合ってるみたいですね。
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↓ウチの庭の前にある標識やらミラーやら消火栓やら。赤系の発色がデジカメとは違うような気がしますね(デジタル化されても)。
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↓赤・黄・緑のもみじ。ピントの合っているのはやはり真ん中だけ。周辺減光のトンネル効果とともに、なかなかいい味わいですな。案外人間の脳内映像ってこんな感じなんじゃないでしょうかね。
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↓近所の子どもたちを集めて記念撮影…と思ったら、フィルム巻かないで次を撮っちゃった。こういう多重露光がフツーにできる(今回は単なるミスですが…笑)のも、このカメラのいいところ。ちなみに重なっているのは、下から見上げた白樺の木。
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↓気がついて撮り直し。子どもたちはファインダーのすりガラス(プラスチック)に映る風景に興味深々。たぶん彼女ら、普通の液晶だと思っているのでは…。ちなみに撮ったあとも「見せて見せて」とせがまれましたが、「これはねすぐに見られないカメラなんだよ」と言うと、「?」って感じになってました。きっと、「何それ?ダメじゃん」と思っているのでしょう(笑)。現代っ子だのう…。
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↓近所のメルヘンチックなおうち。ここは別荘地なのでウチ以外はみんなおもちゃみたいな家です。なんともいいムードでしょ?
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↓工事現場に現れた霊…じゃなくて、またやっちゃった、多重露光。このカメラなら画像処理なしに心霊写真が撮れますよ。というか、アクシデントが。どうもシャッターが片開きになってしまったようです。写真の右が暗くケラれていますね。
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↓さあ、ここから裏山(富士山の一部ですが)に登りました。ちなみにこの写真は、地面の濡れ落ち葉を撮ったもの。暗かったので、今度はわざと二重露光したんですが、手持ちじゃあ、そりゃブレるわな(笑)。
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↓またやっちゃった。巻き忘れ。ワケ分からんアートになっちゃった。
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↓下界のおもちゃの街(別荘群)をミニチュア風に撮ってみた…つもりだったんですが、イマイチですね。案外いい撮影ポイントがないんですよ。
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↓らせん型に伸びた木に登らんとしている娘。曇り空の森の中では明らかに露光不足。しかたないか。手前の赤いモノはいったい?たぶん闘魂タオルだと思います(マジで)。
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↓こういう木です。富士山の若い森林にはこういうらせんがいろんなサイズで存在します。今度はそれをテーマに撮影散歩するつもりです(デジカメで)。
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 どうですか?まあまあ面白い写真が撮れているでしょう。とりあえずはデジカメでは味わえない様々な「不如意」がそこにありました。なんか楽しいですね。次はどこを撮ろうかな。
 それにしてもシャッター直さないと…。まずは原因究明から。せっかく組み立てたのに、また分解か。それもまた楽しい!?

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2009.11.20

太宰治短編小説集「トカトントン」 (NHK BS2)

Works_tokatonton 田秀樹の朗読と渋江修平のアニメーション。そして言葉、太宰治。これは最強でしょう。
 実際実に面白かった。この前紹介した「女生徒」、そして続く「雪の夜の話」、「キリギリス」、どれも良かった。でも、それらの主役は太宰の言葉でした。もちろん、それでいい…というか、普通そうなるでしょう。太宰に対抗するのは、実務上も難しいし、精神上もかなり難しい。だから、ああして現代メディアによる太宰言語の焼き直しで、もう充分に価値があると思いました。
 しかし、今回の野田&渋江の挑戦、いやいやもしかして彼らは挑戦したのではないかもしれない、軽く太宰で遊んだのかもしれない、そんな感じさえする彼らの作品は、見事太宰と相並んだ感がありました。彼を凌駕するのは、まあ現実的には無理だとしても、一瞬でも彼を脇役に追い込んだのは、これはお見事。高く評価したいと思います。
 「トカトントン」って、いろんな意味で難しい作品です。太宰作品の中でも、特に人気のある作品ですし、私もどちらかというと好きな作品です。彼らしさがとっても出ていると同時に、何か読後に感じる虚無を超えた「空」感。「空」間。これは最高です。
 「トカトントン」という音はいったい何なのか。これを哲学することも、あるいは教室の授業で扱うこともできるでしょう。しかし、最近の私はもうそんなことは諦めています。というか、なるべくこの作品は読まないようにしています。
 なぜなら、あまりに「禅」な気分になってしまうからです。太宰お得意の、掉尾の聖書引用…実際のところは、彼の頭の最初の最初にその一節があるのですが…は、なんとなくお説教くさい。それって、いつもいつも彼の彼自身へのお説教に違いないのですが、このたびのマタイ伝は、どこか嘘臭く、とってつけたような印象を与えていますね。おそらく、書き始めた途端に、物語が、小説が、勝手に動き出して、虚無の無限ループを起こしてしまったのでしょう。だから、「虚無(ニヒル)をさえ打ちこわしてしまう」ような「虚数世界」が立ち上がってしまうんですよね。
 「虚数」ってまさに「虚」というか「嘘」っていう感じがするじゃないですか。人間の考えすぎなんじゃないのかって。「トカトントン」という音にももそういうところがある。
 で、結局、そこを乗り越えてしまって、いや諦念してしまって、あるいはぶち壊してしまって、そうして到達する境地が、私は「禅那」だと思うんですよね。
 だから、この小説…それは太宰の独言、あるいは太宰に語らせた誰か(神か仏か)の独言とも言えますが…って、結果としてキリスト教の敗北のような感じも与えるし、それ以前に我々の生活というか、思想というか、言語というか、いずれにせよ私たち自身の敗北のような感じも与える。
 そこが私にはまだ不快なので、つまりまだまだ悟っていないので(悟ったら仏陀になっちゃいますけど)、ちょっと避けてる部分があるんですね。
 それをこういう形でドカンと、もしかしてそんな悩みもなく抵抗もなく、実に面白く表現してしまった野田&渋江は、やっぱりおそるべしですよ。いじわるな考えを起こせば、いやいや彼らも困ってああいう手法をとったのかも、とも言えるかもしれませんが、しかし、実際問題としてああやって作品化してしまったのは、単純にすごいと思いますよ。
 だって、この人気作品をああいうふうに料理すると、怒る人がたくさんいるわけじゃないですか。哲学したり、教材研究したりしてる人にとっては、ある意味(自分に対する)冒瀆だと感じられるでしょうからね。
 まあ、そういう次元で、たとえば聖書なんかをパロディーにして、あるいは食いぶちにして生きていたのが、太宰治であったわけですが。
 天才たち、おそるべし。

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2009.11.13

『大人の科学 二眼レフ』で初撮影

 ちらに書きましたように、このカメラで、乃木坂の風景をいろいろ撮影してきました。
 なにしろ初めてでして、まずフィルムの装填がうまくいきませんでした。もっと落ち着いてやればよかったのですが、時間がなかったので(汗)。結局ちゃんと撮れていたのは12枚ということで、今日はそれをスキャナでスキャンしてアップしてみますね。
 とにかく撮ってみたという感じですので、なんだか訳分からん写真ばっかりです。もう少しアーティスティックに撮れば良かったですね(笑)。単なる失敗写真という感じですけど、それもまたある意味懐かしい感覚です。では、どうぞ。ちなみにASA…いやISO400です。

↓乃木神社での結婚式の記念撮影を撮影。頭上で撮ったので、ピントを合わせられないから…というか、まずはピントのことを考えずにカシャ!案の定ピンボケ(笑)。
Photo

↓乃木神社の蚤の市、謎の山人(?)。どう見てもアイヌ系。味出しまくり。幻想的ですね。
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↓乃木坂の歩道橋の階段。得意の独眼流立体視(片目で写真を見て疑似的な立体感を得る)で見ますと、それなりの遠近感。周辺のボケ具合が脳内のイメージと一致しているんでしょう。
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↓ビル。未確認飛行物体はスキャナの汚れ(ちゃんと掃除してからスキャンしろよ!)。下から撮った画像ですが、微妙にミニチュア感ありますね。すごくウソっぽくていいです。
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↓歩道橋の上から。やっぱりちょっとミニチュア感がありますね。おもちゃの街という感じ。
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↓シロウトがやりがちな(笑)カーブミラー越しの風景。なんとなくメルヘン。
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↓教会のマリア像。
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↓鳩がいますが、わかりますか?
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↓文字を撮ってみました。なかなかの解像度ですよね。影がパーフォレーションみたい。
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↓初めての横構え。これが難しい。ファインダーの画像、左右が逆だし、全然思うようになりません(それが楽しい)。教会の屋根と背後のビル。スキャナの汚れが…すみません。
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↓花を接写風に。そこそこの描写力。
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↓木の幹越しにビル。まあイメージ通りの出来でした。
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↓教会の屋根の十字架。iPhoneのカメラだと空の明るさにつぶれてしまいましたが、こちらはちゃんと写っています。
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 というわけで、なかなか変な写真が撮れまして満足です。2500円のキットで、これだけ楽しい写真が撮れれば文句なしでしょう。なにしろ、撮影という行為自身が新鮮で楽しかった。もちろん現像や焼き付けを待つ時間もね。デジカメ時代に、これは貴重なレトロ体験でしょう。
 フィルム装填のコツやピント合わせのコツも分かりましたので、次はもう少し意味のある写真を撮ってみたいと思います。
 そして、もう1台買って作って、ステレオ写真に挑戦か!?ファインダーの段階で平行法立体視したい!?

作品集その2

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2009.09.10

『横尾忠則 人生は大冒険』 プレミアム8 (NHK BS-hi)

Hijikata_4_3 あ、勉強になりました。こういう老師のお話が一番勉強になる。
 昭和の偉人の一人、いや、もちろん平成でもそのパワーは衰えるどころか更にアップしているように見える横尾忠則さん。このインタビュー番組でも、横尾言語が炸裂しておりました。飄々と静かに緩やかに、しかしエネルギッシュ。
 このポスターは私の一番好きな作品の一つ。そう、まさかこれがですね、ウチのカミさんのお母様の実家の前の田んぼの稲架(はさ)だとは夢にも思いませんでしたよ。そのへんの事情については、こちらに書いた通りです。
 ちょっと先に書いておきましょう。なんで、昭和のアーティストって、みんな文がうまいんでしょう。うまいというか、みんな「○○言語」を持っている。土方巽、田中一光、寺山修治、武満徹、美輪明宏といった、三島由紀夫周辺の人々は「言葉」で対等に結びついていた感じがしますね。最近で感心したのは、建築家の白井晟一さんです。あと、ある意味アーティストである、長嶋茂雄とかアントニオ猪木とか。平成の世にはあんまりいないなあ。今日ちょうどこの番組の前に観ていたイチローくらいかなあ、禅問答してるなあっていうのは。
 さて、この横尾さんのインタビュー、本当に「禅」の世界そのものでしたね。
 「他人まかせ」と「模写」の青春時代。これは意外と言えば意外でした。実はこの時点で横尾さん、自己を滅却してますね。他力というか空というか。自己への執着が強いはずの若い時期に、こうして他者の意思が自分の意思と言えるような生き方をしていたことに、軽い衝撃を受けました。芸術家ってもっと自我が強いものだと思っていたので。
 しかし、そうした他人まかせな人生というのは、案外エネルギーを使うものです。つまり、自分の思い通りにならない「モノ」をどんどん受け入れていかなければならないからです。誰しもが、自分の思い通りに「コト」が進むのを望んでいますから。それを「え〜?」と思わないで受け入れていくというのはものすごい精神力が必要だと思いますよ。流されるのは決して楽な生き方ではないのです。少年、青年横尾忠則は生まれながらにして、そういう力を持っていたのでしょう。
 「模写」ばかりしていたというのも面白いですね。自己表現なんて全く考えなかったと。しかし、そうした「真似ぶ」ことと「慣らう」ことによって、彼は基礎力を養っていきました。それがのちのあの個性につながっていくのですから、ある意味「コトを窮めてモノに至る」というやつですね。
06_08a_japan 結婚後の横尾さんは「停滞」を恐れ、常に流動していきます。硬直化した「コト」にとどまらず、常に変化しつづける無常なる「モノ」であり続けるわけです。そこには当然苦悩もつきまとうわけですが、そのたびにまた彼は進化していくのでした。
 禅寺での修行の様子が流れていました。限りなく落ちるいちょうの葉を掃く作務で気づいた「目的や結果にこだわらず今やっていることに集中する」というのは、まさに禅の真髄であり妙味であります。私などそういうことを理屈では分かっているのですが、どうしても実際の作務の時には「無駄」だと思ってしまう。やはり、「目的や結果」に徹底的にこだわったことがないからでしょう。何事も極めないとダメですね。私のような中途半端な人間はせいぜい野狐禅止まりというわけです。
 画家宣言してからの彼は、ある意味グラフィック・デザイナーとしての彼よりも魅力的です。あれほどの華々しい過去をかなぐり捨てて「自己表現」にこだわるようになったわけですから、そうですねえ、やっぱり我々凡人とは逆の変化のしかたをしているのかもしれませんね。我々は、子どもの頃自由な自己表現を楽しみますが、年をとるとどんどん社会に呑み込まれて狭く小さくなっていきますから。
 しかし、その「自己表現」の欲求も苦悩とともに、また「他者」に還っていく。その循環が面白い。プライベートを目指したはずが、再びパブリックに戻っていくのです。
Pcppp 最近始めたという「PCPPP」面白いですね。「パブリック・コスチューム・プレイ・パフォーマンス・ペインティング」でしたっけ?ああやって観客(?)を前に即興的に絵筆を振るい、さらに自分も「Y字路」に立つ登場人物に変身してしまう。自分も作品の一部になるとともに、なんと言っても、究極の自己滅却してますよね。これは自分との孤独な戦いというイメージの強かった「美術」の現場を大きく変える画期的な試みだと思います。いやあ、すごい。さすが。
 私もあんなふうに年月を重ねた男になりたいですね。もちろんそんな才能はないと思っていますが、しかし、あきらめていない自分もここにいたりして。とりあえず、これからは毎日、いや毎瞬間、どんどん子どもの頃の自由さに立ち返って行こうと思っています。大冒険とは言わないまでも、小冒険くらいはしたいな。はたして、それだけのエネルギーが自分にあるのか?
 
横尾忠則公式

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2009.06.20

『星座・天文』 星座天文萌研究会・渡部潤一 (PHP研究所)

56970896 部潤一さん…。こんなことやってていいんですか(笑)。ま、まえがきで結構辛そうにしてますので、彼自身はこういう趣味はないのでしょう…たぶん。
 いちおう星座・天文萌え歴40年になろうかというワタクシであります。そして、どういうわけか「萌え」研究家の称号を頂いているワタクシであります。それでも、この「萌え星座・天文」にはちょっと、いやかなり引いちゃったなあ。
 以前紹介したエレメント・ガールズでもかなり困惑しちゃいましたが、あれはある意味初のキャラクター化でしたから、おお、こういうやり方もありか、と感心した部分もあったんですよ。
 しかし、考えてれば、星座や太陽系の星々については、太古の昔からそういうことをやってきたわけじゃないですか。だいいち「星座」という概念からしてそうなわけです。そして、その分類に従って萌えキャラ化してるわけですから、これは当然無理があるわけですよ。
 というか、そのオリジナルな、つまりギリシャ神話的なキャラクターをあまり知らなければいいわけですが、ある程度知ってますからね、そりゃあキツいっすよ。
 一番違和感があるのはですね、たとえばオリオンのような男性キャラさえも女性になってしまっているところです。いちおうそれらは「ボクっ娘」という設定なんでしょうかね(笑)。
 まえがきで渡部さんが苦笑している(たぶん)ように、たしかに入門としてはいいのかもしれません。いやいや、入門にこれはまずいんじゃないかなあ。オリジナルに対する冒瀆っていう気もしてきます。
 ちなみに日本にも日本独自の星座というものがあります。あの野尻抱影さんに多くの研究があります。そちらをキャラクター化した方がまだ良かったかも…って、それじゃ売れないか。
 今年は世界天文年ですし、日本で久しぶりの皆既日食があります。そのブームに便乗した商品とも言えるのかな…と思いましたら、購入者はあんまりそういう意識はないようです。実際に星に興味を持つ人は買いませんよね(私も買ったんじゃなくて借りたんですよ)。では、どういう人が買うのかと言いますと、やっぱり「萌え絵」好きなんですよ。
 私はよく分かりませんが、そういうのに詳しいオタク女子生徒によりますと、ここで仕事している絵師さんたち、けっこう充実のラインナップなんだそうです。彼女は表紙も描いているナントカさんの絵が好きだそうで、ついつい手にとってしまったと言っています。そして、こういう本を買うとしたら、それは絵の指南書として、参考書としてだそうでして、なるほどその方が健全と言えば健全だな、と思った次第です。
 というわけで、ちょっとPHPさんも調子に乗りすぎという感じがしないでもない。たしかに、理系の人々の嗜好とオタクの人々の嗜好は重なる部分が多い、というか、理系とオタクはほとんど重なっているというのも事実ですけれど、なんでもかんでもこうして萌え化するのは、ちょっとねえ。一般人からしますと、まさに痛い状況ですし、ホンモノの理系の人々からすれば、どの内容も中途半端、全然物足りないというのが実態でしょう。
 また、Amazonのレビューの人も言ってますけど、二色刷りというところも中途半端。平成の浮世絵として観るならば、やはりフルカラーじゃなきゃ。絵師だけじゃなくて、摺師の技も観てみたいところですよ。多少高くなっても、その方が売れたんじゃないでしょうか。
 まあ、江戸時代にもこういう二番煎じというか、二匹目どぜう商売というか、そういうどうでもいいシリーズものがた〜くさんありますよね。それが大衆文化であり、そして後世伝統文化、あるいは国際的に認められる芸術になっていったわけですから、これはこれでいいのかな。うん、なら、やっぱり「画集」にしてしまった方が良かったかもなあ。

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2009.05.10

物学(ものまね)

01839911 しぶりに世阿弥の(実際は観阿弥の…ですが)「花伝書(風姿花伝)」を読んでいます。本来は、世阿弥の使う「もの」という言葉についての分析が目的だったのですが、ついつい内容に心動かされてしまう。学(まね)ぶべきこと多し。
 そこで、今日は他のこととも重ねて思ったことをいくつか書き留めておきます。
 以前、学習と教育の違いについて書きました。こちらの記事です。学習とは「真似び慣らう(真似をし慣れる)」ことであると。これは語源的にもほぼ間違いありません。世阿弥も「物学条々」と書いていますから、今から600年ほど前までは、「学ぶ」ということは「真似る」ことであるという意識が、今よりかなり強かったものと思われます。中国語の「学」には、そのような意味はありません。単純に「教えを受ける」という意味です。
 特に世阿弥が重視する「物学」。これはつまり「物を真似る」ということですね。そして、「物」という言葉は、私の「モノ・コト論」的解釈によれば、自己の外部を指します。すなわち他者全体を指しますから、「物学」とは「他者を真似る」ということになりますね。「ものまね」という言葉は、現代では完全に慣用句化して「モノマネ」とカタカナ表記までされるようになっていますから、そのような語源意識もほとんどなくなってしまっています。
 先日、NHKの「日本の伝統芸能」という番組で、野村四郎さんの「船弁慶」の一部が紹介されていました。わかりやすい解説と見事な舞にいたく感動したのですが、その中でのいわゆる「物学」のすごさに驚きもしました。
 一般に「ものまね」と言えば、いかにそっくりにするかというのがポイントとなりますね。そのためには、いかに外見や声や動作を本物に近づけるのが一番の方法です。しかし、能においては、「真似ぶ」ということは、単なるコピーを演ずることではありません。いや、そうした複製から最も遠い所で真似ようとしているとも言えます。
 この「船弁慶」では、女性である静御前を男性である四郎さんが演じ、また、成人である義経を子方が演じていました。西洋的なリアリズムを求めるなら、こんなことにはなりませんよね。もちろん、話し方や動きも極度に記号化されているのが能の特徴ですから、現代的な「ものまね」のイメージからすれば、あるいは全く似てないとも言われかねません。
 しかし、もちろんその昇華された記号性の中に、日本的なリアリズムがあるわけですね。そこのところで、こちら観る側の意識の参画が重要になってくるのでして、つまり私たちもその次元にまで同行しないと、何もわからない事態になってしまうのです。能は観客とともに作られるというのは、まさにそういうことです。うん、プロレスも全く一緒ですな。最近、想像力&創造力に欠けた客が多いこと多いこと。
 ですから、能における「物学」とは、花伝書にもあるとおり、他者の「たたずまい」を真似るものであり、ある意味目に見えない空気に学ぶということになります。そして、いつも私が言うように、記号化(コト化)することによって、最終的に「モノ」に還る、コトという器からモノが溢れ出て、その器と溢れる何かとの相乗が、その芸の個性というか、芸術性というものになるのです。
Photo01 今日のNHK「日曜美術館」では、片岡球子が紹介されていました。私は不勉強で、片岡さんと言えば「富士山」だと思っていました。もちろんその「富士山」たちも、すさまじい高次元のリアリズムを見せてくれますね。コピーからはあまりにかけ離れた表現です。しかし、あまりに富士山らしい富士山。
 私などその富士山に住み、富士山と対峙せざるを得ない日々を送っているわけですが、そのようにあまりに日常になってきますと、富士山の外見上のあり方など、あまり意味をなさなくなります。ごく身近な家族に対するのと同じですよね。その存在の認識は、もっと深く無意識的になっていきます。すなわちワタクシ的に言えば、コトではなくモノとしてとらえるということですね。その、本来表現しがたい「モノ」を表現したのが、片岡球子さんの富士山です。ですから、それは造形的な部分ではなく、もっと高次なところで私の富士山像と重なっているわけです。
Photo02 しかし、今回はその富士山以上に、60歳を過ぎてからの「面構」シリーズや、100歳まで描き続けた「裸婦」シリーズに驚きと感動を覚えました。「面構(つらがまえ)」では、古い日本の彫像や絵画を真似て学んでいました。「裸婦」は、実は片岡さんの苦手とする分野だったそうです。それを最晩年にあそこまで高めた。あえて苦手なモノに臨むその姿勢には心打たれました。
 私の考える「モノ」には「未知・不随意・想定外」といったような意味も含まれています。そう考えると、片岡さんはまさに「モノ」に挑戦して、「モノ」を真似て、そこから学んで、そうしてあのとんでもない次元の作品を作り上げたのだと言えます。そこには、対象を絵として残すという「コト」の器と、そこから溢れ出す対象及び片岡さんの何か…個性なのか、たたずまいなのか、オーラなのか…があって、私たちの心を動かします。作品が死んでいないわけですね。器に、箱に入れて殺そうとしても(永遠化しようとしても)、それでも死なない生命力、ダイナミズム。それこそが「モノ」であり、モノをコトに極めて再びモノに還った、高い次元での表現ということになるのだと思います。
Photo03 片岡球子さんについて語る銅版画家の山本容子さんの言葉が象徴的でしたね。
「苦手の連続がものを生み出す」
 つまり、満足しないということでしょうね。終わりなき挑戦。そしてそれは楽しいことであり「遊び」であると。まさに「物(未知・不随意・想定外)から学ぶ」ということでしょうね。
 やはり、人は思い通りにならない時にこそ成長しているのですね。辛い時、不快な時こそチャンスなんです。「嘆きの中に天命がある」というのも同じことでしょう。

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2009.05.06

『国宝 阿修羅展』 (東京国立博物館)

2 判の阿修羅展に行ってきました。評判通りの混み方でした。
 日本人はこういうブームが大好きです。メディアもそういうブームをあおります。私はそれも日本文化の特質の一つだと思っていますから、そこも含めて今回は楽しんできました。
 阿修羅像そのものに関しては皆さんがおっしゃる通りの優れた造形だと思いますので、詳しくは語りません。
 今回なんと言っても興味深かったのは、「おばさん」たちでした(笑)。まずおばさん率が非常に高かった。8割以上。いや9割か。つまり、おばさんたちは阿修羅くんに萌えたいわけです。ヨンさまとかに対する感情と同じです。腐女子魂であります。
 それはそれで問題ありません。なぜなら、興福寺所蔵の阿修羅像は、奈良時代のおばさんの総代表が作らせたものだからです。光明皇后ですね。阿修羅像だけでなく八部衆全体に、彼女の趣味が色濃く反映しているのは間違いありません。
 そんな不謹慎な。あれは母親の供養のために作らせたものであり、高貴な魂の生んだ傑作である。そうおっしゃる方もおいででしょう。もちろん、そういう一面も認めた上で、あえて違った側面を強調したいと思うのです。
 これが父親の供養であったなら、彼女はああいう造形を求めなかったのではないでしょうか。いわば、そういう女性的な「萌え」の感情が二重に増幅されて、悲しみの中にすらああいう美を生み出してしまったのでしょう。そして、そこにまた千年以上経ったのちの女性たちが「萌える」わけですから、やはり日本文化というのは「いとをかし」です。
 その証拠に、あのショップの熱気はなんですか。フェルメールの時宝塚の時も感じましたが、実物よりそうした商品といいますか、自分の身近に所有する、いわば「萌え=をかし(招きたい)」の対象物に興味を抱いてしまう。これは私がこのブログで何度も繰り返している、女性的、貴族的、本来のオタク的心性のなせるわざです。「をかし」は母性を基調とした心の色合いなのです。
 私はそれを卑下したり嫌悪したりは、絶対にしません。それこそ日本文化の底流にあるものだと信じているからです。「モノ・コト論」で言いますと、また出ました、「コトを窮めてモノに至る」「コトを窮めてモノに還る」というやつですよ。「もののあはれ」は「をかし」の蓄積がないと生まれません。
 ま、ちょっと意地悪に苦言を呈させていただきますか。「きゃー、カワイイ!」と年甲斐もなく叫ぶおばちゃんすらいて、実はですね、とても仏像を鑑賞する雰囲気ではなかったのですよ。最前列をキープしたおばちゃんたちは、係員の「懇願」も無視して、そこに居座り続けていました。そんな中、ちゃんと脱帽して合掌礼拝していたのは、私だけでしょう(それも変なのかな…笑)。
 また、「海洋堂制作阿修羅フィギュア売り切れ」の告知と、阿修羅ファンクラブ公式ソングが流れているのには、正直ちょっと萎えましたね。私なりに全ての展示を味わい尽くしたその掉尾に、あの高見沢さんの歌声はさすがにキツかった。
 まあ、それはそれでいいとしましても、ああやって多くの優れた仏像の中で(特に八部衆の中で)阿修羅像だけを特別扱いするのはどうでしょう。あまりの特別扱いに阿修羅像自体が恐縮しているように感じました。いつの時代も女性はアイドルを求めているのでしょうか。それこそが、宗教心のルーツであるとも言えないこともない…のかな。
 さて、一つだけどうしても書いておきたいことがあります。おばさん方は、阿修羅くんの顔(特に正面の顔)を凝視することに執心しておられましたけど、私は彼の全体像をとらえることにこだわりました。それもやはり正面からのお姿ですね。仏像は基本、裏側なんか観るべきものではありません。私にもたしかに裏側や横の二つのお顔を見てみたいというミーハーな感情もありました。しかし、基本仏像は正面にたたずんで観るべきものです。
 そうして観た阿修羅像はたしかに見事に周囲の空気を作り出していました。オーラと言ってしまって良いか、それはよくわかりません。もう少し正確に表現するなら、一番上の手は空を支え、真ん中の手は地を押さえ、合掌する手は私たちの心を包んでいたわけです。そこを含めてのバランスと言いますか、全体の佇まいは、たしかに他の仏像たちにはない独特のイメージを喚起するものでしたね。
090506 ショップの喧騒を抜けて、すっかり現実の世界に帰ってきた私は、国立博物館の建物を出ました。そこには、あれは何の木なんでしょうかね、巨木が空に向かってそびえていました。ああ、阿修羅と全く同じだ。私はそう感じました。空を支え、地を押さえ、私たちの心を包んでくれる。きっと、あの仏師は自然のこういうところを真似て、ああいう美を作り出していったんでしょうね。そんなことは、あのおばさん方にはどうでもいいことなのかもしれませんが(笑)。

注 この文章での「おばさん」「おばちゃん」は、ある一部の人たちを指す言葉であり、一般的な女性を表すものではございません。あしからず。

阿修羅展公式

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