カテゴリー「旅行・地域」の1059件の記事

2017.06.23

大田實少将 『沖縄県民斯ク戦ヘリ』

Th_2017062300014031houdouk0001view 後72年の沖縄慰霊の日。沖縄戦終結の日です。
 沖縄戦で命を落とした兵士、そして一般市民の方々のご冥福をお祈りいたします。
 今日はこの日にちなみ、あらためまして大田実少将(当時)の残した言葉について想いを馳せてみました。
 ご存知でしょうか。大田実少将自決前の電文。原文はこちらでご確認ください。
 末尾の「沖繩縣民斯ク戰ヘリ 縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。現在の沖縄の様子を見たとしたら、大田実中将(没後中将に昇格)は、いったいどのようにお思いになるのでしょう。
 大田中将の娘さんたちは、辺野古で「平和運動」をする方々の姿を見て、父は喜んでいるだろうとおっしゃっていました。
 はたして、そうなのか、これは確かめようがありません。
 ほとんど知られていませんが、戦後の沖縄返還や海洋博に、仲小路彰が果たした役割は大変大きい。仲小路は大田中将の「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」の気持ちに最大限に応えようとしたのでしょう。仲小路彰は海軍と格別に深い関係にありましたから、当然この電文を知っていたと考えられます。
 さて、以前チャンネル桜で放送された動画を紹介します。将旗がアメリカから返還された時のものです。こうした、魂のこもる「モノ」が日本に、沖縄に帰ってきたことには、大きな意味があると思います。

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2017.06.20

竹島か独島か?

 国の迷走ぶりがすさまじい。このままですと、本当に北朝鮮による半島統一が実現してしまうでしょう。
 日韓関係もいったいどうなるのか。今日も文在寅大統領が日韓合意を反故にするような内容、すなわち慰安婦問題などについて正式に謝罪せよとの声明を出しました。
 隣国とのギクシャクした関係に終わりが見えないことを、非常に残念に思います。
 その微妙な関係の象徴の一つが「竹島」でしょう。
 今日はそのことについて、いかに両国の主張が噛み合わないか、また噛み合わない結果、互いに感情的になっているかが分かる動画を紹介しましょう。
 青山さんは非常に冷静に語っていますが、それを受け取る両国サイドのコメントが非常に醜い。この動画は他の形でも複製されていますが、どれも同じようなコメントが並んでいてガッカリしますね。

 同時期に金慶珠が韓国側の主張を述べた動画がこれ。これもまた、金さんはいつもより冷静ですが、周りが興奮している。それこそ噛み合いませんね。証拠となる文書の評価が正反対なんですから。

 最後は、大韓民国外交部制作の動画。これが韓国民の一致した認識でしょう。学校でこのように教えられれば、誰だって自国の領土であり、日本が侵略者だと思ってしまうでしょうね。

 ちなみに李承晩ラインについて、最近仲小路彰による新文書が見つかりましたので、近いうちに紹介したいと思います。

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2017.06.19

太宰治 『八十八夜』

「桜桃」の供えられた御坂太宰文学碑
Th__20170620_100416 日は桜桃忌(太宰治の誕生日にして遺体の上がった日)。
 午後から甲府に出張で、御坂峠を越えて暑い暑い盆地に入りました。太宰治にとっても深い因縁のある峠路を上り下りしながら、富士山、御坂山系、甲斐駒ケ岳、茅ヶ岳、八ヶ岳などを眺めました。
 そこで思い出したのがこの小説。あまり知られていない作品ですが、いろいろな山が出てきます。諏訪が舞台ですが、道すがら山梨の山々も出てくる。
 いかにも太宰らしい、陰鬱な雰囲気の中に咲くささやかな幸福。美しい旋律、リズム。すごいなぁ。

八十八夜

      太宰治


諦めよ、わが心、けものの眠りを眠れかし。(C・B)



 笠井はじめさんは、作家である。ひどく貧乏である。このごろ、ずいぶん努力して通俗小説を書いている。けれども、ちっとも、ゆたかにならない。くるしい。もがきあがいて、そのうちに、けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸いっすんさきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわからない。ふっと気がついたら、そのような五里霧中の、山なのか、野原なのか、街頭なのか、それさえ何もわからない、ただ身のまわりに不愉快な殺気だけがひしひしと感じられ、とにかく、これは進まなければならぬ。一寸さきだけは、わかっている。油断なく、そろっと進む、けれども何もわからない。負けずに、つっぱって、また一寸そろっと進む。何もわからない。恐怖を追い払い追い払い、無理に、すさんだ身振りで、また一寸、ここは、いったいどこだろう、なんの物音もない。そのような、無限に静寂な、真暗闇に、笠井さんは、いた。
 進まなければならぬ。何もわかっていなくても絶えず、一寸でも、五分でも、身を動かし、進まなければならぬ。腕をこまぬいて頭を垂れ、ぼんやりたたずんでいようものなら、――一瞬間でも、懐疑と倦怠けんたいに身を任せようものなら、――たちまち玄翁げんのうで頭をぐゎんとやられて、周囲の殺気は一時に押し寄せ、笠井さんのからだは、みるみる蜂の巣になるだろう。笠井さんには、そう思われて仕方がない。それゆえ、笠井さんは油断をせず、つっぱって、そろ、そろ、一寸ずつ真の闇の中を、油汗流して進むのである。十日、三月みつき、一年、二年、ただ、そのようにして笠井さんは進んだ。まっくら闇に生きていた。進まなければならぬ。死ぬのが、いやなら進まなければならぬ。ナンセンスに似ていた。笠井さんも、流石さすがに、もう、いやになった。八方ふさがり、と言ってしまうと、これもウソなのである。進める。生きておれる。真暗闇でも、一寸さきだけは、見えている。一寸だけ、進む。危険はない。一寸ずつ進んでいるぶんには、間違いないのだ。これは、絶対に確実のように思われる。けれども、――どうにも、この相も変らぬ、無際限の暗黒一色の風景は、どうしたことか。絶対に、ああ、ちりほどの変化も無い。光は勿論もちろん、嵐さえ、無い。笠井さんは、闇の中で、手さぐり手さぐり、一寸ずつ、いも虫の如く進んでいるうちに、静かに狂気を意識した。これは、ならぬ。これは、ひょっとしたら、断頭台への一本道なのではあるまいか。こうして、じりじり進んでいって、いるうちに、いつとはなしに自滅する酸鼻さんびの谷なのではあるまいか。ああ、声あげて叫ぼうか。けれども、むざんのことには、笠井さん、あまりの久しい卑屈にり、自身の言葉を忘れてしまった。叫びの声が、出ないのである。走ってみようか。殺されたって、いい。人は、なぜ生きていなければ、ならないのか。そんな素朴の命題も、ふいと思い出されて、いまは、この闇の中の一寸歩きに、ほとほと根も尽き果て、五月のはじめ、あり金さらって、旅に出た。この脱走が、間違っていたら、殺してくれ。殺されても、私は、微笑ほほえんでいるだろう。いま、ここで忍従の鎖を断ち切り、それがために、どんな悲惨の地獄に落ちても、私は後悔しないだろう。だめなのだ。もう、これ以上、私は自身を卑屈にできない。自由!
 そうして、笠井さんは、旅に出た。
 なぜ、信州を選んだのか。他に、知らないからである。信州にひとり、湯河原にひとり、笠井さんの知っている女が、いた。知っている、と言っても、寝たのではない。名前を知っているだけなのである。いずれも宿舎の女中さんである。そうして信州のひとも、伊豆のひとも、つつましく気がきいて、口下手くちべたの笠井さんには、何かと有難いことが多かった。湯河原には、もう三年も行かない。いまでは、あのひとも、あの宿屋にいないかも知れない。あのひとが、いなかったら、なんにもならない。信州、上諏訪の温泉には、去年の秋も、下手へたくその仕事をまとめるために、行って、五、六日お世話になった。きっと、まだ、あの宿で働いているにちがいない。
 めちゃなことをしたい。思い切って、めちゃなことを、やってみたい。私にだって、まだまだロマンチシズムは、残って在るはずだ。笠井さんは、ことし三十五歳である。けれども髪の毛も薄く、歯も欠けて、どうしても四十歳以上のひとのように見える。妻と子のために、また多少は、俗世間への見栄みえのために、何もわからぬながら、ただ懸命に書いて、お金をもらって、いつとは無しに老けてしまった。笠井さんは、行い正しい紳士である、と作家仲間が、決定していた。事実、笠井さんは、良い夫、良い父である。生来の臆病と、過度の責任感の強さとが、笠井さんに、いわば良人おっとの貞操をも固く守らせていた。口下手ではあり、行動は極めて鈍重だし、そこは笠井さんも、あきらめていた。けれども、いま、おのれの芋虫に、うんじ果て、爆発して旅に出て、なかなか、めちゃな決意をしていた。何か光を。
 下諏訪まで、切符を買った。家を出て、まっすぐに上諏訪へ行き、わきめも振らずあの宿へ駈け込み、そうして、いきせき切って、あのひと、いますか、あのひと、いますか、と騒ぎたてる、そんな形になるのが、いやなので、わざと上諏訪から一つさきの下諏訪まで、切符を買った。笠井さんは、下諏訪には、まだいちども行ったことがない。けれども、そこで降りてみて、いいようだったら、そこで一泊して、それから多少、迂余曲折うよきょくせつして、上諏訪のあの宿へ行こう、という、きざな、あさはかな気取りである。含羞がんしゅうでもあった。
 汽車に乗る。野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸い匂いさえ感ぜられ、いちめんに春が爛熟らんじゅくしていて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾濫はんらんしていた。いったいに、この季節には、べとべと、せるほどの体臭がある。
 汽車の中の笠井さんは、へんに悲しかった。われに救いあれ。みじんも冗談でなく、そんな大袈裟おおげさな言葉を仰向いてこっそりつぶやいた程である。懐中には、五十円と少し在った。
「アンドレア・デル・サルトの、……」
 ばかに大きな声で、突然そんなことを言い出した人があるので、笠井さんは、うしろを振りむいた。登山服着た青年が二人、同じ身拵みごしらえの少女が三人。いま大声を発した男は、その一団のリイダア格の、ベレ帽をかぶった美青年である。少し日焼けして、仲々おしゃれであるが、下品である。
 アンドレア・デル・サルト。その名前を、そっと胸のうちで誦してみて、笠井さんは、どぎまぎした。何も、浮んで来ないのだ。忘れている。いつか、いつだったか、その名を、仲間と共に一晩言って、なんだか議論をしたような、それは遠い昔のことだったように思われるけれども、たしかに、あれは問題の人だったような気がするのだが、いまは、なんにもわからない。記憶が、よみがえって来ないのだ。ひどいと思った。こんなにも、綺麗きれいさっぱり忘れてしまうものなのか。あきれたのである。アンドレア・デル・サルト。思い出せない。それは、一体、どんな人です。わからない。笠井さんは、いつか、いつだったか、その人にいて、たしかに随筆書いたことだってあるのだ。忘れている。思い出せない。ブラウニング。――ミュッセ。――なんとかして、記憶のつるをたどっていって、その人の肖像に行きつき、あッ、そうか、あれか、と腹に落ち込ませたく、身悶みもだえをして努めるのだが、だめである。その人が、どこの国の人で、いつごろの人か、そんなことは、いまは思い出せなくていいんだ。いつか、むかし、あのとき、その人に寄せた共感を、ただそれだけを、いま実感として、ちらと再びつかみたい。けれども、それは、いかにしても、だめであった。浦島太郎。ふっと気がついたときには、白髪の老人になっていた。遠い。アンドレア・デル・サルトとは、再び相見ることは無い。もう地平線のかなたに去っている。雲煙模糊もこである。
「アンリ・ベックの、……」背後の青年が、また言った。笠井さんは、それを聞き、ふたたび頬を赤らめた。わからないのである。アンリ・ベック。誰だったかなあ。たしかに笠井さんは、その名を、つて口にし、また書きしたためたこともあったような気がするのである。わからぬ。ポルト・リッシュ。ジェラルディ。ちがう、ちがう。アンリ・ベック。……どんな男だったかなあ。小説家かい? 画家じゃないか。ヴェラスケス。ちがう。ヴェラスケスって、なんだい。突拍子とっぴょうしないじゃないか。そんなひと、あるかい? 画家さ。ほんとうかい? なんだか、全部、心細くなって来た。アンリ・ベック。はてな? わからない。エレンブルグとちがうか。冗談じゃない。アレクセーフ。露西亜ロシア人じゃないよ。とんでもない。ネルヴァル。ケラア。シュトルム。メレディス。なにを言っているのだ。あッ、そうだ、デュルフェ。ちがうね。デュルフェって、誰だい?
 何も、わからない。滅茶苦茶に、それこそ七花八裂である。いろんな名前が、なんの聯関もなく、ひょいひょい胸に浮んで、乱れて、泳ぎ、けれども笠井さんには、そのたくさんの名前の実体を一つとして、鮮明に思い出すことができず、いまは、アンドレア・デル・サルトと、アンリ・ベックの二つの名前の騒ぎではない。何もわからない。口をついて出る、むかしの教師の名前、ことごとくが、匂いも味も色彩もなく、笠井さんは、ただ、聞いたような名前だなあ、誰だったかなあ、を、ぼんやり繰りかえしている仕末しまつであった。一体あなたは、この二、三年何をしていたのだ。生きていました。それは、わかっている。いいえ、それだけで精一ぱいだったのです。生活のことは、少し覚えました。日々の営みの努力は、ひんまがった釘を、まっすぐにめ直そうとする努力に、全く似ています。何せ小さい釘のことであるから、ちからの容れどころが無く、それでも曲った釘を、まっすぐに直すのには、ずいぶん強い圧力が必要なので、傍目はためには、ちっとも派手でないけれども、もそもそ、満面に朱をそそいで、いきんでいました。そうして笠井さんは、自分ながら、どうも、はなはだ結構でないと思われるような小説を、どんどん書いて、全く文学を忘れてしまった。けてしまった。ときどき、こっそり、チエホフだけを読んでいた。その、くっきり曲った鉄釘かなくぎが、少しずつ、少しずつ、まっすぐに成りかけて、借金もそろそろ減って来たころ、どうにでもなれ! 笠井さんは、それまでの不断の地味な努力を、泣きべそかいて放擲ほうてきし、もの狂おしく家を飛び出し、いのちをして旅に出た。もう、いやだ。忍ぶことにも限度が在る。とても、この上、忍べなかった。笠井さんは、だめな男である。
「やあ、やつたけだ。やつがたけだ。」
 うしろの一団から、れいの大きい声が起って、
「すげえなあ。」
「荘厳ね。」と、その一団の青年、少女、口々に、駒が岳の偉容を賞讃した。
 八が岳ではないのである。駒が岳であった。笠井さんは、少し救われた。アンリ・ベックを知らなくても、アンドレア・デル・サルトを思い出せなくっても、笠井さんは、あの三角にとがった銀色の、そうしていま夕日を受けてバラ色に光っているあの山の名前だけは、知っている。あれは、駒が岳である。断じて八が岳では、ない。わびしい無智な誇りではあったが、けれども笠井さんは、やはりほのかな優越感を覚えて、少しほっとした。教えてやろうか、と鳥渡ちょっと、腰を浮かしかけたが、いやいやと自制した。ひょっとしたら、あの一団は、雑誌社か新聞社の人たちかも知れない。談話の内容が、どうも文学に無関心の者のそれでは無い。劇団関係の人たちかも知れない。あるいは、高級な読者かも知れない。いずれにもせよ、笠井さんの名前ぐらいは、知っていそうな人たちである。そんな人たちのところへ、のこのこ出かけて行くのは、なんだか自分のろくでもない名前を売りつけるようで、面白くない。軽蔑されるにちがいない。慎しまなければ、ならぬ。笠井さんは、溜息ためいきついて、また窓外の駒が岳を見上げた。やっぱり、なんだかいまいましい。ちえっ、ざまあ見ろ。アンリ・ベックだの、アンドレア・デル・サルトだの、生意気なこと言っていても、駒が岳を見て、やあ八が岳だ、荘厳ねなんて言ってやがる。八が岳は、ね、もっと信濃へはいってから、この反対側のほうに見えるのです。笑われますよ。これは、駒が岳。別名、甲斐駒かいこま。海抜二千九百六十六メートル。どんなもんだい、と胸の奥で、こっそりタンカに似たものを呟いてみるのだが、どうもわれながら、栄えない。俗っぽく、貧しく、みじんも文学的な高尚さが無い。変ったなあ、としんから笠井さんは、苦笑した。笠井さんだって、五、六年まえまでは、新しい作風を持っている作家として、二、三の先輩の支持を受け、読者も、笠井さんを反逆的な、ハイカラな作家として喝采かっさいしたものなのであるが、いまは、めっきり、だめになった。そんな冒険の、ハイカラな作風など、どうにも気はずかしくて、いやになった。一向に、気がはずまないのである。そうしてすこぶる、非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。浅墓あさはかな、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷ろうこうの、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。そんな申しわけを呟きながら、笠井さんは、ずいぶん乱暴な、でたらめな作品を、眼をつぶって書き殴っては、発表した。生活への殉愛である、という。けれども、このごろ、いや、そうでないぞ。あなたは、結局、低劣になったのだぞ。ずるいのだぞ。そんなふうささやきが、ひそひそ耳に忍びこんで来て、笠井さんは、ぎゅっとまじめになってしまった。芸術の尊厳、自我への忠誠、そのような言葉の苛烈が、少しずつ、少しずつ思い出されて、これは一体、どうしたことか。一口で、言えるのではないか。笠井さんは、昨今、通俗にさえ行きづまっているのである。
 汽車は、のろのろ歩いている。山の、のぼりにかかったのである。汽車から降りて、走ったほうが、早いようにも思われた。実に、のろい。そろそろ八が岳の全容が、列車の北側に、八つの峯をずらりとならべて、あらわれる。笠井さんは、瞳をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々がかすかに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生的にやさしく、富士山の、人も無げなる秀抜しゅうばつと較べて、相まさること数倍である、と笠井さんは考えた。二千八百九十九米。笠井さんはこのごろ、山の高さや、都会の人口や、たいの値段などを、へんに気にするようになって、そうして、よくまた記憶している。もとは、笠井さんも、そのような調査の記録を、写実の数字を、極端に軽蔑して、花の名、鳥の名、樹木の名をさえ俗事と見なして、てんで無関心、うわのそらで、わば、ひたすらにプラトニックであって、よろずにうといおのれの姿をひそかに愛し、高尚なことではないかとさえ考え、甘い誇りにひたっていたものであるが、このごろ、まるで変ってしまった。食卓にのぼる魚の値段を、いちいち妻に問いただし、新聞の政治欄を、むさぼる如く読み、支那の地図をひろげては、何やら仔細らしく検討し、ひとり首肯うなずき、また庭にトマトを植え、朝顔の鉢をいじり、さらに百花譜、動物図鑑、日本地理風俗大系などを、ひまひまに開いてみては、路傍の草花の名、庭に来て遊んでいる小鳥の名、さては日本の名所旧蹟を、なんの意味も無く調べてみては、したり顔して、すましている。なんの放埒ほうらつもなくなった。勇気も無い。たしかに、疑いもなく、これは耄碌もうろくの姿でないか。ご隠居の老爺ろうや、それと異るところが無い。
 そうして、いまも、笠井さんは八が岳の威容を、ただ、うっとりと眺めている。ああ、いい山だなあと、背を丸め、あごを突き出し、悲しそうに眉をひそめて、見とれている。あわれな姿である。その眼前の、凡庸ぼんような風景に、おめぐみ下さい、とつくづく祈っている姿である。かにに、似ていた。四、五年まえまでの笠井さんは、決してこんな人ではなかったのである。すべての自然の風景を、理智にって遮断し、取捨し、いささかも、それにおぼれることなく、謂わば「既成概念的」な情緒を、薔薇ばらを、すみれを、虫の声を、風を、にやりと薄笑いして敬遠し、もっぱら、「我は人なり、人間の事とし聞けば、善きも悪しきも他所事よそごととは思われず、そぞろに我が心を躍らしむ。」とばかりに、人の心の奥底を、ただそれだけを相手に、鈍刀ながらも獅子奮迅ししふんじんした、とかいう話であるが、いまは、まるで、だめである。呆然ぼうぜんとしている。
 ――山よりほかに、……
 なぞという大時代的なばかな感慨にふけって、かすかに涙ぐんだりなんかして、ひどく、だらしない。しばらく、口あいて八が岳を見上げていて、そのうちに笠井さんも、どうやら自身のだらけ加減に気がついた様子で、ひとりで、くるしく笑い出した。がりがり後頭部をきながら、なんたることだ、日頃の重苦しさを、一挙に雲散霧消させたくて、何か悪事を、死ぬほど強烈なロマンチシズムを、とえぎつつ、あこがれ求めて旅に出た。山を見に来たのでは、あるまい。ばかばかしい。とんだロマンスだ。
 がやがや、うしろの青年少女の一団が、立ち上って下車の仕度をはじめ、富士見駅で降りてしまった。笠井さんは、少し、ほっとした。やはり、なんだか、気取っていたのである。笠井さんは、そんなに有名な作家では無いけれども、それでも、誰か見ている、どこかで見ている。そんな気がして群集の間にはいったときには、煙草たばこの吸いかたからして、少し違うようである。とりわけ、多少でも小説に関心持っているらしい人たちが、笠井さんの傍にいるときなどは、誰も、笠井さんなんかに注意しているわけはないのに、それでも、まるで凝固して、首をねじ曲げるのさえ、やっとである。以前は、もっと、ひどかった。あまりの気取りに、窒息、眩暈めまいをさえ生じたという。むしろ気の毒な悪業あくごうである。もともと笠井さんは、たいへんおどおどした、気の弱い男なのである。精神薄弱症、という病気なのかも知れない。うしろのアンドレア・デル・サルトたちが降りてしまったので、笠井さんも、やれやれと肩の荷を下ろしたよう、下駄げたを脱いで、両脚をぐいとのばし、前の客席に足を載せかけ、ふところから一巻の書物を取り出した。笠井さんは、これは奇妙なことであるが、文士のくせに、めったに文学書を読まない。まえは、そうでもなかったようであるが、この二、三年の不勉強にいては、許しがたいものがある。落語全集なぞを読んでいる。妻の婦人雑誌なぞを、こっそり読んでいる。いま、ふところから取り出した書物は、ラ・ロシフコオの金言集である。まず、いいほうである。流石さすがに、笠井さんも、旅行中だけは、落語をつつしみ、少し高級な書物を持って歩く様子である。女学生が、読めもしないフランス語の詩集を持って歩いているのと、ずいぶん似ている。あわれな、おていさいである。パラパラ、ページをめくっていって、ふと、「なんじもしおの心裡しんりに安静を得るあたわずば、他処にこれを求むるは徒労のみ。」というれいの一句を見つけて、いやな気がした。悪い辻占つじうらのように思われた。こんどの旅行は、これは、失敗かも知れぬ。
 列車が上諏訪に近づいたころには、すっかり暗くなっていて、やがて南側に、湖が、――むかしの鏡のように白々と冷くひろがり、たったいま結氷から解けたみたいで、にぶく光って肌寒く、岸のすすきのくさむらも枯れたままに黒く立って動かず、荒涼悲惨の風景であった。諏訪湖である。去年の秋に来たときは、も少し明るい印象を受けたのに、信州は、春は駄目なのかしら、と不安であった。下諏訪。とぼとぼ下車した。駅の改札口を出て、懐手ふところでして、町のほうへ歩いた。駅のまえに宿の番頭が七、八人並んで立っているのだが、ひとりとして笠井さんを呼びとめようとしないのだ。無理もないのである。帽子もかぶらず、普段着の木綿もめんの着物で、それに、下駄も、ちびている。お荷物、一つ無い。一夜泊って、大散財しようと、ひそかに決意している旅客のようには、とても見えまい。土地の人間のように見えるのだろう。笠井さんは、流石さすがに少しびしく、雨さえぱらぱら降って来て、とっとと町を急ぐのだが、この下諏訪という町は、またなんという陰惨低劣のまちであろう。駄馬が、ちゃんちゃんとくびの鈴ならして震えながら、よろめき歩くのに適した町だ。町はば、せまく、家々の軒は黒く、根強く低く、家の中の電燈は薄暗く、ランプか行燈あんどんでも、ともしているよう。底冷えして、みちには大きい石ころがごろごろして、馬の糞だらけ。ときどき、すすけた古い型のバスが、ふとった図体をゆすぶりゆすぶり走って通る。木曾路、なるほどと思った。湯のまちらしい温かさが、どこにも無い。どこまで歩いてみても、同じことだった。笠井さんは、溜息ためいきついて、往来のまんなかに立ちつくした。雨が、少しずつ少しずつ強く降る。心細く、泣くほど心細く、笠井さんも、とうとう、このまちを振り捨てることに決意した。雨の中を駅前まで引き返し、自動車を見つけて、上諏訪、滝の屋、大急ぎでたのみます、と、ほとんど泣き声で言って、自動車に乗り込み、失敗、こんどの旅行は、これは、完全に失敗だったかも知れぬ、といても立っても居られぬほどの後悔を覚えた。
 あのひと、いるかしら。自動車は、諏訪湖の岸に沿って走っていた。闇の中の湖水は、鉛のように凝然と動かず、一魚一介も、死滅してここには住まわぬ感じで、笠井さんは、わざと眼をそむけて湖水を見ないように努めるのだが、視野のどこかに、その荒涼悲惨が、ちゃんとはいっていて、のど笛かき切りたいような、グヮンと一発ピストル口の中にぶち込みたいような、どこへも持って行き所の無い、たすからぬ気持であった。あのひと、いるかしら。あのひと、いるかしら。母の危篤きとくに駈けつけるときには、こんな思いであろうか。私は、魯鈍ろどんだ。私は、愚昧ぐまいだ。私は、めくらだ。笑え、笑え。私は、私は、没落だ。なにも、わからない。渾沌のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけがわからない。つきつめて、何が苦しと言うならず。冗談よせ! 自動車は、やはり、湖の岸をするする走って、やがて上諏訪のまちの灯が、ぱらぱらと散点して見えて来た。雨も晴れた様子である。
 滝の屋は、上諏訪に於いて、最も古く、しかも一ばん上等の宿屋である。自動車から降りて、玄関に立つと、
「いらっしゃい。」いつも、きちっと痛いほど襟元えりもとを固く合せている四十歳前後の、その女将おかみは、青白い顔をして出て来て、冷く挨拶あいさつした。「お泊りで、ございますか。」
 女将は、笠井さんを見覚えていない様子であった。
「お願いします。」笠井さんは、気弱くあいそ笑いして、軽くお辞儀をした。
「二十八番へ。」女将は、にこりともせず、そう小声で、女中に命じた。
「はい。」小さい、十五、六の女中が立ち上った。
 そのとき、あのひとが、ひょっこり出て来た。
「いいえ。別館、三番さん。」そう乱暴な口調で言って、さっさと自分で、笠井さんの先に立って歩いた。ゆきさんといった。
「よく来たわね。よく来たのね。」二度つづけて言って、立ちどまり、「少し、おふとりになったのね。」ゆきさんは、いつも笠井さんを、弟かなんかのように扱っている。二十六歳。笠井さんより九つも年下のはずなのであるが、苦労し抜いたひとのような落ちつきが、どこかに在る。顔は天平てんぴょう時代のものである。しもぶくれで、眼が細長く、色が白い。黒っぽい、じみなしまの着物を着ている。この宿の、女中頭である。女学校を、三年まで、修めたという。東京のひとである。
 笠井さんは、長い廊下を、ゆきさんに案内されて、れいの癖の、右肩を不自然にあげて歩きながら、さっき女将の言った二十八番の部屋を、それとなく捜していた。ついに見つからなかったけれど、おそらくは、それは、階段の真下あたりの、三角になっている、見るかげもない部屋なのであろう。それにちがいない。この宿で、最下等の部屋に、ちがいない。服装が、悪いからなあ。下駄が、汚い。そうだ、服装のせいだ、と笠井さんは、しょげ抜いていたのである。階段をのぼって、二階。
「ここが、お好きだったのね。」ゆきさんは、その部屋のふすまをあけ、したり顔して落ちついた。
 笠井さんは、ほろ苦く笑った。ここは別棟になっていて、ちゃんと控えの支度部屋もついているし、まず、最上等の部屋なのである。ヴェランダもあり、宿の庭園には、去年の秋は桔梗ききょうの花が不思議なほど一ぱい咲いていた。庭園のむこうに湖が、青く見えた。いい部屋なのである。笠井さんは、去年の秋、ここで五、六日仕事をした。
「きょうは、ね、遊びに来たんだ。死ぬほど酒を呑んでみたいんだ。だから、部屋なんか、どうだって、いいんだ。」笠井さんは、やはり少し気嫌きげんを直して、快活な口調で言った。
 宿のどてらに着換え、卓をへだてて、ゆきさんと向い合ってきちんと坐って、笠井さんは、はじめて心からにっこり笑った。
「やっと、――」言いかけて、思わず大きい溜息をついた。
「やっと?」とゆきさんも、おだやかに笑って、反問した。
「ああ、やっと。やっと、……なんといったらいいのかな。日本語は、不便だなあ。むずかしいんだ。ありがとう。よく、あなたは、いてくれたね。たすかるんだ。涙が出そうだ。」
「わからないわ。あたしのことじゃないんでしょう?」
「そうかも知れない。温泉。諏訪湖。日本。いや、生きていること。みんな、なつかしいんだ。理由なんて、ないんだ。みんなに対して、ありがとう。いや、一瞬間だけの気持かも知れない。」きざなことばかり言ったので、笠井さんは、少してれたのである。
「そうして、すぐお忘れになるの? お茶をどうぞ。」
「僕は、いつだって、忘れたことなんかないよ。あなたには、まだわからないようだね。とにかくお湯にはいろう。お酒を、たのむぜ。」
 ずいぶん意気込んでいたくせに、酒は、いくらも呑めなかった。ゆきさんも、その夜は、いそがしいらしく、お酒を持って来ても、すぐまた他へ行ってしまうし、ちがった女中も来ず、笠井さんは、ぐいぐいひとりで呑んで、三本目には、すでに程度を越えて酔ってしまって、部屋に備えつけの電話で、
「もし、もし。今夜は、おいそがしい様ですね。誰も来やしない。芸者を呼びましょう。三十歳以上の芸者を、ひとり、呼んで下さい。」
 しばらく経って、また電話をかけた。
「もし、もし。芸者は、まだですか。こんな離れ座敷で、ひとりで酔ってるのは、つまりませんからね。ビイルを持って来て下さい。お酒でなく、こんどは、ビイルを呑みます。もし、もし。あなたの声は、いい声ですね。」
 いい声なのである。はい、はい、と素直に応答するその見知らぬ女の少し笑いを含んだ声が、酔った笠井さんの耳に、とてもさわやかに響くのだ。
 ゆきさんが、ビイルを持ってやって来た。
「芸者衆を呼ぶんですって? およしなさいよ。つまらない。」
「誰も来やしない。」
「きょうは、なんだか、いそがしいのよ。もう、いい加減お酔いになったんでしょう? おやすみなさいよ。」
 笠井さんは、また電話をかけた。
「もし、もし。ゆきさんがね、芸者は、つまらないと言いました。よせというから、よしました。あ、それから、煙草。スリイ・キャッスル。ぜいたくを、したいのです。すみません。あなたの声は、いい声ですね。」また、ほめた。
 ゆきさんに寝床を敷いてもらって、寝た。寝ると、すぐ吐いた。ゆきさんは、さっさと敷布を換えてくれた。眠った。
 あくる朝は、うめく程であった。眼をさまし、笠井さんは、ゆうべの自身の不甲斐なさ、無気力を、死ぬほど恥ずかしく思ったのである。たいへんな、これは、ロマンチシズムだ。げろまで吐いちゃった。憤怒ふんぬをさえ覚えて、寝床を蹴って起き、浴場へ行って、広い浴槽を思いきり乱暴に泳ぎまわり、ぶていさいもかまわず、バック・ストロオクまで敢行したが、心中の鬱々は、晴れるものでなかった。仏頂づらして足音も荒々しく、部屋へかえると、十七、八の、からだの細長い見なれぬ女中が、白いエプロンかけて部屋の拭き掃除をしていた。
 笠井さんを見て、親しそうに笑いながら、「ゆうべ、お酔いになったんですってね。ご気分いかがでしょう。」
 ふと思い出した。
「あ、君の声、知っている。知っている。」電話の声であった。
 女は、くつくつ肩を丸くして笑いながら、床の間を拭きつづけている。笠井さんも、気持が晴れて、部屋の入口に立ったまま、のんびり煙草をふかした。
 女は、ふり向いて、
「あら、いいにおい。ゆうべの、あの、外国煙草でしょ? あたし、そのにおい大好き。そのにおい逃がさないで。」雑巾ぞうきんを捨てて、立ち上り、素早く廊下の障子と、ヴェランダに通ずるドアと、それから部屋の襖も、みんな、ピタピタしめてしまった。しめて、しまってから、二人どぎまぎした。へんなことになった。笠井さんは、自惚うぬぼれたわけでは無い。いや、自惚れるだけのことはあったのかも知れない。いたずら。悪事が、このように無邪気に行われるものだとは、笠井さんも思ってなかった。笠井さんは、可愛らしいと思った。田舎くさい素朴な、直接に田畑のにおいが感じられて、白い立葵たちあおいを見たと思った。
 すらと襖があいて、
「あの、」ゆきさんが、余念なくそう言いかけて、はっと言葉を呑んだ。たしかに、五、六秒、ゆきさんは、ものを言えなかったのだ。
 見られた。地球の果の、汚いくさい、まっ黒い馬小屋へ、一瞬どしんと落ちこんでしまった。ただ、もやもや黒煙万丈で、羞恥しゅうち、後悔など、そんな生ぬるいものではなかった。笠井さんは、このまま死んだふりをしていたかった。
「幾時の汽車で、おちなのかしら。」ゆきさんは、流石さすがに落ちつきを取りもどし、何事もなかったように、すぐ言葉をつづけてくれた。
「さあ。」その女のひとは、奇怪なほどに平気であった。笠井さんは、そのひとを、たのもしくさえ思った。そうして、女を、なかなか不可解なものだと思った。
「すぐかえる。ごはんも、要らない。お会計して下さい。」笠井さんは、眼をつぶったままだった。まぶしく、おそろしく、眼をひらくことが、できなかった。このまま石になりたいと思った。
「承知いたしました。」ゆきさんは、みじんも、いや味のない挨拶して部屋を去った。
「見られたね。まぎれもなかったからな。」
「だいじょうぶよ。」女は、しんから、平気で、清らかな眼さえしていた。「ほんとうに、すぐお帰りになるの?」
「かえる。」笠井さんは、どてらを脱いで身仕度をはじめた。下手におていさいをつくろって、やせ我慢して愚図々々がんばって居るよりは、どうせ失態を見られたのだ、一刻も早く脱走するのが、かえって聡明でもあり、素直だとも思われた。
 かなわない気持であった。もう、これで自分も、申しぶんの無い醜態しゅうたいの男になった。一点の清潔も無い。どろどろ油ぎって、濁って、ぶざまで、ああ、もう私は、永遠にウェルテルではない! 地団駄じだんだを踏む思いである。行為に対しての自責では無かった。運がわるい。ぶざまだ。もう、だめだ。いまのあの一瞬で、私は完全に、ロマンチックから追放だ。実に、おそろしい一瞬である。見られた。ひともあろうに、ゆきさんに見られた。笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮べて、内心、動乱の火の玉を懐いたまま、ものもわからず勘定かんじょうをすまし、お茶代を五円置いて、下駄をはくのも、もどかしげに、
「やあ、さようなら。こんどゆっくり、また来ます。」くやしく、泣きたかった。
 宿の玄関には、青白い顔の女将をはじめ、また、ゆきさんも、それから先刻の女中さんも、並んでていねいにお辞儀をして、一様に、おだやかな、やさしい微笑を浮べて笠井さんを見送っていた。
 笠井さんは、それどころではなかった。もはや、道々、わあ、わあ大声あげて、わめき散らして、雷神の如く走り廻りたい気持である。私は、だめだ。シェリイ、クライスト、ああ、プウシュキンまでも、さようなら。私は、あなたの友でない。あなたたちは、美しかった。私のような、ぶざまをしない。私は、見られて、みんごとくそリアリズムになっちゃった。笑いごとじゃない。十万億土、奈落ならくの底まで私は落ちた。洗っても、洗っても、私は、断じて昔の私ではない。一瞬間で、私はこんなに無残むざんに落ちてしまった。夢のようだ。ああ、夢であってくれたら。いやいや、夢ではない。ゆきさんは、たしかにあのとき、はっと言葉を呑んでしまった。ぎょっとしたのだ。私は、舌んで死にたい。三十五年、人は、ここまで落ちなければならぬか。あとに何が在る。私は、永久に紳士でさえない。犬にも劣る。ウソつけ。犬と「同じ」だ。
 どうにも、やり切れなくて、笠井さんは停車場へ行って二等の切符を買った。すこし救われた。ほとんど十年ぶりで、二等車に乗るのである。作品を。――唐突とうとつにそれを思った。作品だけが。――世界の果に、蹴込まれて、こんどこそは、謂わば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。
 まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかも知れぬ。



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2017.06.18

最近の富士山ラドン濃度について

20170619_64432

 のグラフは今年3月から今日までの富士山ラドン濃度の推移です。
 明らかに(2011年末の測定開始後)今までと大きく違うのは、この3月18日以来3ヶ月の間、一度も20Bq/m3以下に下がっていないことです。
 また、その間、中規模以上の地震の発生数はかなり少ない印象です。
 今までの経験から推定しますと、大規模な地震の前兆が長期に亘って現れているとも言えそうです。
 それがいつどこで発生する地震の前兆なのかは、正直分かりません。しかし、全国のラドン濃度観測のデータを見ると、房総半島沖、三陸沖、若狭湾、日向灘で異常が認められており、それらの地域で大規模な地震が発生する可能性が指摘されています。
 富士山での異常値は、今までは東日本の動きを反映するものでしたが、今回のような長期的な異常の場合、逆に西日本を含む遠方の動きに対応したものとも考えられます。
 いずれにせよ、今までにないパターンなので、私としても従来のような予測ができません。今後の動きに注目するとともに、全国的に注意を喚起したいと思います。
 もちろん、これが正常だという可能性もあります。つまり、東日本大震災後異常になっていたものが、6年の時を経て正常になったとも考えられるのです。
 ちなみに富士山ラドン濃度は、昨日から今朝にかけて一時的に急低下し、また午後には上昇しました。これは富士山周辺での何らかの動きを捉えたものだと思われ、長期的な前兆の収束ではないと思われます。
 自然からのメッセージを受け取るのは本当に難しいですね。
 

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2017.06.10

秋葉原神社

Th_img_0675 禅が明けてすぐに東京アキバへ。悟りを開いた?あとですぐにアキバとは(笑)。
 いえいえ、メイドカフェに行ったんじゃないですよ。教会です。キリスト教会。
 お寺から教会というのもまた、ある意味変ですが、実は神田キリスト教会でコンサートがあったんです。それに出演してきました。先日告知したこちらのコンサートです。
 とっても重いプログラムでしたが、ご来場の皆さまにはご堪能いただけたのではないかと思います。いろいろな意味で息の抜けないコンサートでしたね(笑)。
 私も思わぬ方との再会やら初遭遇など、練習から本番、打ち上げまで、いろいろなご縁を感じる良い機会となりました。お誘いくださりありがとうございました。
 さてさて、お寺、教会、そしてアキバということで、まあとにかくある意味浮世離れした空間にいた今日でありましたが、そうですねえ、やっぱりオタク文化って貴族文化ですからね、案外バロック音楽とアキバって親和性が高いなと思いましたね。アキバロック。
 そんなアキバで、ある意味最もバロックしているのが、お寺でも教会でなく、やっぱり神社でしょう。もちろん、神田明神もかなりバロックというかロココしてますよ。それと同じくらい非現実的きらびやかさを持つのが、昨年突然登場した「秋葉原神社」でしょう。
 そうそう、突然登場鎮座したと思ったら、今月いっぱいで突然消えることになったんですよね。移転なんでしょうか。それとも…。
 もともと、世界救世教の幹部だった松本明重創始の平安教団が作った神社ですから、ワタクシが専門としている出口王仁三郎にもつながっていますよね。たしかに、王仁三郎はコスプレの元祖みたいなところがあります。神様キャラ創造という意味でも天才でしたし。
 主祭神も天照弥勒大神という万教同根・万教帰一の象徴のような神様。配神が芸能の神様天宇受売命、商売繁盛の神様宇迦之御霊神。いかにもアキバですね。
 そうそう、この秋葉原神社、フィギュアの供養もしてくれるんですよね。人形の供養と言い換えれば、それが神社として正常なお仕事であることが分かります。いいことです。ひとかたには念がこもりますからね。オタクの念は強い。
 今日もたくさんのオタクの皆さんと外国人観光客でごった返していたアキバですが、たしかに日本文化の本質を見て感じるのにはいい場所ですね。いろいろな神仏が仲良く共存している、それこそパラディソですな。

秋葉原神社

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2017.06.08

渡辺大明神と歴代総理たち

 日、初めて拝殿の中に入らせていただきました。下吉田の「渡辺大明神」。3000件近くある下吉田(旧瑞穂村)地区の渡辺氏をまとめる氏神さまです。
 福地八幡宮といういわくつきの(宮下文書に関わる)神社に合祀されたという関係上、その縁起にはいろいろと難しい問題があるのですが、とりあえずは渡辺氏の始祖であるかの渡辺綱を祀っている神社ということにしておきましょう。
  2年前の吉田の火祭りの日 に、今、時の人である安倍昭恵さんをお連れしました。というのは、この神社には岸信介、佐藤栄作ご兄弟、すなわち安倍首相の祖父と大おじ揮毫の扁額があるからです。
 そして、今日ウワサには聞いていましたが、さらに二人の総理大臣経験者の書が奉納されていることを確認しました。
 なぜ、この田舎のマイナーな神社に、4人もの総理大臣が書を奉納しているのか。
 宮下文書、福地八幡宮にゆかりのある不二阿祖山太神宮さんの作った資料をご覧ください。

Img_0680

 どうですか。すごいですよね。不思議としか言いようがありません。ちなみに「内閣総理大臣 岸信介」の文字は、かの書家、榊莫山先生のものです。
 一つ分かっているのは、田中角栄と同期の新潟出身国会議員、渡辺良夫という方が佐藤派に属し、そして第二次岸内閣で厚生大臣をやっているんです。その渡辺さんがなぜかこの渡辺大明神を崇敬していた。おそらくは渡辺氏のルーツなどを調べているうちに、山梨県富士吉田市下吉田に渡辺氏がたくさんおり、そして渡辺大明神という神社があることを知って参拝したのでしょう。
 そこでなんらかのパワー(おそらくは渡辺綱のパワーと、宮下文書にまつわる富士高天原のパワー)を感じて、すっかりはまってしまったと。そして、佐藤さんや岸さん、さらには自民党の後輩の中曽根さんや細川さんにも紹介したのではないでしょうか。
 渡辺良夫さんについては、まだまだ調べが進んでいないので、これからまた何か分かったらここで報告いたします。

 


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2017.06.06

福来博士記念館

Th_img_0591 修旅行二日目は白川郷と高山散策。高山では念願の場所に行くことができました。今までも何回かチャンスがあったのですが、場所が分からなかったり、閉まっていたりだったところです。
 その名は「福来博士記念館」。福来友吉は知る人ぞ知る人物ですよね。日本のオカルト界では神のような存在です。
 戦前の心霊ブームを導いた元東大助教授、高野山大学教授。かの映画「リング」の伊熊助教授のモデルになった人。というか「リング」自体が福来らの「千里眼事件」をモデルにしています。
 この記念館にも「貞子」さんに関する展示が…。そう「リング」の貞子のモデルは悲劇の超能力者御船千鶴子だと言われていますが、事件の関係者には高橋貞子という超能力者もいるんです。
 さて、この記念館、高山市の反対に合いながらも、福来の遺志を継ぐ山本健造さんらによって建てられたもの。城山公園の入り口近く、オシャレな喫茶店の横に静かに鎮座しております。
 なんとなく町の公民館のような感じで、たった一部屋に福来博士や千里眼事件などに関する資料がパネル展示されております(こちら参照)。
Th_img_0624 もちろん誰もおらず、私一人で拝観。椅子に座ってゆっくり(鎖でつながれた)山本さんの興味深い著書なども読ませていただきました。
 この福来友吉の超心理学実験、かの筧克彦も同席したということで、ここで宮下文書や出口王仁三郎、そして貞明皇后との関係も出てくるわけでして、まあ戦前の日本のスーパーオカルトぶりには感動さえしてしまうわけであります。
 というか、それが本来の日本であったわけで、戦後、そういう「モノ」を排除されてしまった日本が異常なのではないかと、最近のワタクシは思うのです。アブナイとかトンデモとか言われてもめげませんぞ(笑)。この世はコトよりモノが本体ですから。
 というわけで、高山に行ったおりにはぜひ訪れてみて下さい。飛騨の国は元来霊的な土地ですが、その中でも異彩を放っております。ここで一人佇んで何も感じないとしたら…あなたは日本人ではないかもしれません(笑)。

飛騨福来心理学研究所
福来記念・山本資料館

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2017.06.05

一日不作一日不食

Th__20170607_6_14_27 校の研修旅行で岐阜に来ております。今日のメインは、本校の名誉校長である山川宗玄老師が住職をお務めの正眼寺参拝。私は5年ぶりくらいでしょうか。
 今日は夏の大摂心(作務摂心)中であり、いつにも増してピリッとした空気が漂っておりました。
 生徒たちと本堂にて読経、座禅をさせていただき、そして老師のご法話を聞きました。
 大変ためになるご法話でありました。「今ここ」を一所懸命に生きる。過去や未来にこだわってはいけない。
 私は未来学なんぞをやっておりますので、過去は簡単に捨てられても、なかなか未来は捨てられません。未来的な目的なくして現在はないという考えですので、ある意味禅の教えとは矛盾します。
 そう、たとえば摂心において作務をなさっている雲水の皆さんは、目の前の作務をすることだけに集中し、その結果やましてや報酬などは考えていません。行動自体が目的なのです。
 私はとてもそういう境地には至れませんね。
 「今ここ」を語る老師様のご法話で印象的だったのは、「一日不作一日不食」と関山慧玄さまのエピソード。慧玄さんの逸話についてはまたいつか書きます。今日は「一日不作一日不食」について少し。
 「一日作(な)さざれば一日食らはず」は百丈懐海禅師の逸話から生まれた言葉です。老師は「働かざる者食うべからず」は共産主義者の言として、その意味は「一日不作一日不食」とは全く違うとします。そのとおりだと思います。
 作とは作務のことであり、作務とは修行そのものです。修行しなければ食べる資格はないという厳しい意味です。
 ちなみに私は一日一食をもう14年ほど続けていますが、これはまさに二食分は「不作」によって「不食」になっているということであります。修行が足りん!ということで、そのうち二日一食になりそうです(苦笑)。
 そう、たとえば今日の研修旅行のように、お昼ごはんがスケジュールに組み込まれていて、普段食べない昼食を無理やり食べますと、実に調子が悪くなるんですね。これは「バチ」でしょう。いけませんな。
 今年は7月にも正眼寺を訪れる予定です。今度は一泊二日でしっかりプチ修行します。

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2017.05.27

宮田陽・昇

Th_images 日の夜は家族でBS朝日の「お笑い演芸館」を鑑賞。家族の中で一番評価が高かったのが、漫才協会四天王「宮田陽・昇」さん。
 ま、カミさんが陽さんと同じく秋田の出身という肩入れもあるとはいえ、いやいや純粋に見て安定のクオリティーでしたよ。鉄板の「地図」ネタから始まり、陽さんの自虐ボケと昇さんのテンポ良いツッコミが絶妙のリズム感を生んでいて、気持ちよく笑えます。
 漫才新人大賞や文化庁芸術祭賞新人賞を受賞したのち、漫才協会認定の真打ちに昇進した実力派。
 陽さんのホスト時代の写真、笑っちゃうほどカッコよかったですね。彼は秋田一の進学校秋田高校でサッカー選手としても全国レベルで活躍し、それも評価されて立命館大学へ。まさに文武両道のエリートコースを歩むかと思ったら、どういうわけか演劇に目覚め、自ら劇団を立ち上げ、そしてその時の仲間昇さんとお笑いコンビを結成しました。
 たしかに陽さん、ウチの家内のお父さんにも似る秋田美人ならぬ秋田美男ですね。義父もイケメンなのに超三枚目(笑)。秋田の男の人って地味に面白いですよ。おとなしい印象がありますけど、スイッチが入ると爆発するんですよね。
 そうそう、以前義祖父の葬祭(神道)の時、親戚衆の男性の呑み会に巻き込まれた(なにしろ言葉が分からない…笑]時、みんなまじ〜めに山の中で熊と相撲取ったりした話をし合うんですよね。ほら話と言えばほら話なんですが、言葉が半分しか分からなくてもメチャクチャ面白かった(笑)。そういう伝統風土なんでしょうね。いいなあって思いました。
 そういうところも含め、その容姿とそしてあの声質、微妙に残る秋田訛りが醸す「胡散臭さ」これっていいですよね〜。胡散臭いってお笑いにとって非常に重要な要素であります(私もそれで売ってる?)。
 今日と同じネタも含む音声を聴いていただきましょうか。

 一度東洋館で生で拝見したいですね。

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2017.05.22

第7回世界教育会議〜日本文化講座

Th_sekaikyouiku201409171 日紹介した徳富蘇峰の「経天緯地」の研究をされた方からの情報。その扁額が奉納されたのは昭和11年。
 昭和11年は日本の近代史を考える上で、一つの分岐点となった重要な年ですね。二・二六事件があり、一般的にはその頃から一気に戦争へ向けての右傾化が進行したというイメージかと思います。
 しかし、どうも実際にはだいぶ違う雰囲気が世の中を支配していたようですね。だいたい、二・二六事件の時の東京も、「せっかく景気がよくてお祭ムードだったのに…水を差しやがって」という感じだったとか。戒厳令で遊びに行けない。東京音頭の時代ですからね。
 事件と言えば、二・二六よりも同年に起きた阿部定事件の方が巷間の話題だったのでは。
 実際、軍部の一部以外はどちらかというと国際的お祭ムードであり、あえて言うならずいぶんとリベラルな雰囲気があったと言えます。
 中止になった1940年の東京オリンピックの開催が決定したのもこの年ですし、紀元2600年に向けて多くの催し物が企画され始めています。その紀元2800年節にしても、今では天皇中心の国家観を象徴しているようなイメージがありますが、庶民にとっては単純にお祝いムードだったようです。
 ただ、昭和12年になりますと、少し雰囲気が変わり始めます。庶民はまだまだ呑気でしたけれども。
 昨日も名前が出てきた和平派の宇垣一成に組閣命令が下りながら、陸軍内の反対によって流産したのは象徴的だったかもしれません。ヨーロッパではスペイン戦線が喧しくなり、年の終わり頃には日独伊防共協定が締結されます。ちょっときな臭くなってきましたよね。
 一方、そんな昭和12年、すなわち今からちょうど80年前の1937年に、なんと日本で第7回世界教育会議が開催されています。アメリカを筆頭に世界中から教育関係者が東京に千人単位で終結し、実に高度な教育会議が行われました。
 どれほど平和的で、リベラルな内容であったかについては、国会図書館のデジタル資料を垣間見るだけでもよく分かります。
 で、その会議の一環というか、プレイベントとして、なんと山中湖で「日本文化講座」が開催されているんですね。10名以上の外国人が山中湖を訪れ、鈴木大拙や谷川徹三らの講演を聞いたり、地元の皆さんと交流したようです。
 たしかにこんなことがあったとはほとんど知られていませんし、もちろん私も全く知りませんでした。地元の人も全く知らない。
 この「日本文化講座」は国際文化振興会(今の国際交流基金)が主催したもののようですが、山梨の山中湖での開催にあたっては、私の勘ですとやはり徳富蘇峰や宇垣一成、そして富士吉田にいた川合信水、また山梨の生んだ鉄道王根津嘉一郎が関わっていると思います。
 この「日本文化講座」については、昨年山中湖で企画展が行われ、新聞記事としてもこのように紹介されました。第1回全日本カーリング大会にもびっくり。
 う〜ん、学校で学んだ歴史とはかなり違う雰囲気だなあ。自分で調べることがいかに大切か思い知らされます。
 この世界教育会議に関する記録などをじっくり読んでみたいですね。鈴木大拙の講演の内容も知りたい。どうも記録映画が製作されたようですから、それの再発見にも期待したいところです。
 のちに疎開してくる仲小路彰は、当然この会議、講座のことを知っていたでしょう。仲小路が富士北麓に一大教育都市を構想したのにも、それが影響しているかもしれません。
 いやあ、近過去の歴史の勉強は実に面白い。


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