カテゴリー「旅行・地域」の294件の記事

2010.02.06

病院 vs 権現さま

B0da0e000000f78k 梨県立中央病院に、下の娘とカミさんを迎えに行ってきました。下の娘が鼠径ヘルニアの手術で2泊3日の入院をしていたのです。
 まあ、「脱腸」ってやつですね。女性の鼠径ヘルニア率は2〜3%だといいますが、上の娘も手術しましたし、私の姉もそうでしたから、けっこう我が家系の脱腸率は高い方だと思います。ちなみに男性の鼠径ヘルニア率はなんと25%以上だとのこと。4人に一人ですよ。知りませんでした。
 ちょっとした設計ミスという程度ですから、手術と言っても軽く切って貼るようなものです。私も別に心配もしていませんでしたし、娘本人もママとのお泊まりということで、なんだか非常に楽しみにしていました。
 手術はもちろん問題なく終わったのですが、麻酔で寝ていた娘は寝ぼけて、というか全然記憶がないらしく、術後「手術は?今から?」と言っていたそうです(笑)。
 鼠径ヘルニアは病気というより、先ほども書いたように設計ミスのようなものですから、自然治癒はしません。ごくまれにそれが原因で面倒な病気になることもあるようなので、幼いうちに修繕しておいた方がいいですね。場所が場所ですから、大人になるとなんとなく躊躇されますし。
 で、そんなことをカミさんのお母さんに報告したところ、驚くべき事実が判明いたしました(笑)。
 以下、電話の内容を復元します(秋田弁のまま)。カ=カミさん 母=カミさんの母

カ「○○(娘の名)、しゅじゅつするがら、にゅういんさねねぐなった」
母「あら、なしてよ?」
カ「だっちょうだど。ひゃぐにんにふたりしかならねなだど」
母「あら、おれもだ」
カ「え〜しらねがった、いづしゅじゅつしたなよ」
母「しゅじゅつなさねえ。べってじぎ、ばあちゃんどもんぜんのごんげんさまさおがんできた…」
カ「え〜、しゅじゅつさねぱ、ぜったいなおらねんだど」
母「あや、おれなばえおの。おしてやればひっこむがら…」

Sany0033 お分かりになりますか?簡単に言えば、実は義母も鼠径ヘルニアであったと。そして、病院には行かず、村の権現様に拝みに行った。今でも出っ張ったら押して引っ込めているということです(笑)。
 いやあ、「権現様」ですか!?こっちは最新のホテルのような病院で至れり尽くせりの入院、最新医療の手術をしました(上の娘は静岡のこども病院でした)。それに対して、なんと古典的な対処法でしょう。素晴らしい!
 考えてみれば、昔の日本にはそんな手術はありませんでした。出たら手で引っ込めるしかなかったわけですよね。あとは、神仏にお願いするしかありません。みんなそうやっていたはずです。
 もう少し前なら、病気やケガは「物の怪」のしわざでしたから、それこそ祈るしかありません。貴族なら、医者を呼ぶかわりに坊さんや修験者を呼んで加持祈祷したわけです。庶民は村の社や祠に行って拝むしかありません。
 たしかに、今でも、あの神社は「目の神様」、あの地藏さんは「皮膚病の神様」などと、分業の痕跡が残っています。大きな寺や神社ですと、総合病院よろしくいろいろな「科」が集められていたりしますね。
 カミさんの実家があったあたりは、本当に時代を超えた田舎、絵にかいたような日本の原風景が広がるところです。いまだに「もののけ姫」の世界ですから。
 しかし、なんでも、科学や医療で片づける(すなわちお金で解決する)のではなく、そういう神仏に自分の運命を託す気持ちというのも大切なような気がします。我々現代人はすっかりそれを忘れてしまっていますね。子どもたちもそうです。「想像」や「妄想」、「祈り」、そして「畏怖」というモノから遠ざかっているのが、よくわかります。その結果、ウチの娘たちも「感謝」の気持ちが不足しているように感じます。
 「コト(自己・内部・情報・随意・不変)」と「モノ(他者・外部・現象・不随意・無常)」のバランスが崩れているんですよね。特に、デジタル化による「コト」化の行き過ぎは、たとえば病気やケガに対する人間の抵抗力、あるいは自然治癒力を奪っているように思えてなりません。今こそ、「権現さま」パワーを見直す時なのかもしれません。
 この笑い話は、実は深刻な問題をはらんでいるのでした。

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2010.02.04

茜色の富士

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04_18_28_06 日は久しぶりに、4月開校の中学の真新しい校舎に入りました。もうほとんど完成です。
 本当に素晴らしい環境です。建物や設備の素晴らしさは、これはもう私でも驚くほどです。実にぜいたく。そして、それ以上に全ての教室から眺められる富士山と富士吉田の街の風景には、長年住んだ者でも感動させられますね。
 この写真は3階の多目的教室から撮ったものです。ちょうど夕日が差して、富士山が茜色に染まろうとしていました。
 本来ならば、この教室にフジファブリックの志村正彦くんを連れてきて、そして、このイメージで歌を作ってもらう予定でした。彼が亡くなってしまったのは、その話をしようと思っていた二日前のことでした。
 まさにこの角度から見る富士山は、志村くんにとって、本当に懐かしい心の風景です。右に月江寺の森、手前に彼もよく遊んだという月江寺の池。この池は「鳴琴泉」という音楽的で風雅な名前も持っています。少年時代の志村くんは、いったいこの泉が奏でるどんな音楽を聴いていたのでしょうか…。
 そんな土地への思い、そして、音楽との出会いのあった中学時代への思い、それを歌にしてほしかった…。
 今は本校の駐車場になっていますが、池の手前には古い旅館がありました。太宰治が何度か逗留した宿です。あの「富嶽百景」の名シーンの舞台です。今日も月夜富士がきれいでした。
 私がなにげなく、本当に偶然に太宰の墓参りをしたのが、志村くんが亡くなる前日の12月23日。その日の記事を読むと、私はなにかを予感していたことがわかります。「太宰、いろいろ訴えかけてきましたよ。鳥肌立ちまくり」…たしかに体験したことのない感覚が私を襲っていました。しかし、その時はこんなことになるとも夢にも思いませんでした。地霊で志村くんと結ばれた太宰が、何かを知らせたのかもしれません。
 このようなことになってしまったのは、本当に残念でなりませんが、その場所で教育に携わることになる者として、いったい若者たちに何を伝えていけばいいのか、私も改めて考えさせていただく機会をいただきました。
 志村くんが心から愛した富士吉田。富士吉田ももっと彼を愛さねばならない、と思いました。私もこの街を、そしてこの街の子どもたちを、もっと愛さなくてはなりません。
 ちょっと頑張り過ぎてしまった彼は、今、大好きな富士吉田の街に帰ってきて、心優しい家族と、いつもの機材に囲まれながら、ゆっくり自分のペースで曲作りをしています。とっても穏やかな心持ちで…。安心しました。

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2010.02.02

『THIS IS FOR YOU〜THE YELLOW MONKEY TRIBUTE ALBUM』

51beq52ggll_sl500_aa240_ 成20周年のアニバーサリーを終えたばかりのイエモン。アルバムの完全版が発売されなど、再評価の流れは止まりそうもありません。これを機に、彼らを知らない世代にも、ぜひ、ぜひ聴いていただきたいところです。
 何を隠そう、この私も彼らにはとんでもない影響を受けました。おおげさでなく、私の音楽観、日本語観を変えたと言っていいと思います。今、こうして、たとえばフジファブリックやレミオロメンやバンプなどのJ-ROCKを聴いているのも、彼らのおかげです。
 それまでの私は、洋楽ロック、バロック、ジャズばかりを聴き、そして演奏していました。そこに雷を落としたのがイエモンだったのです。
 その一発目の雷は、具体的に言いますと、あの超名盤「SICKS」です。それについてはこちらの記事に詳しく書いてあるとおりですね。
 それから全てのアルバムを狂ったように聴き尽くしました。ライヴにも行きました。そうこうしているうちに、どういうわけか、吉井和哉さんがご近所さんになり、妙なご縁にまで恵まれて、ますますイエモンの音楽、吉井和哉の歌が、私の心を開いてくれたのでした。ありがたいことです。
 今の若い世代のロック・ミュージシャンにとっても、彼らカリスマ的な存在です。ですから、私と彼ら若い人たちは同じ体験をしているわけですね。そういう部分で、私は自分よりもずいぶんと年下の人たちの音楽や言葉に共感しているのかもしれません。
 それにしても、不思議なことはあるものです。吉井さんがいた河口湖北岸をはさんで、御坂峠を越えたところにレミオロメンが生まれ育ち、こらち側、すなわち富士山側にフジファブリックの志村くんが生まれ育ち、そして、両者とも吉井さんと共演するまでになっていくとは…。
 ちょっと変な話ですが、土地が持つ不思議な霊力のようなものがあり、それが彼らを結んでいるような気さえするんですよね。そして、そこにたまたま私が住み、その磁場のようなものに引っかかって、それぞれ別々にご縁ができて、いつのまにか、それがまた一つになっている…本当に偶然に偶然が重なっているんです。
 吉井和哉さんと志村正彦くんに関しては、実は別の視点でもいろいろと不思議なことがあります。御本人たちは全く意識していなかったと思いますが。
 私はこちらの記事で「吉井和哉は太宰治だ」と書きました。これもまた、単に人間として、天才としてという意味だけでなく、御坂峠という土地が絡んだ共通性です。
 そして、志村くんについては、こちらにも書いたように、中原中也との不思議な共通点があります。あそこに書いた高円寺のみならず、よく考えてみると、フジファブリックが担当したラジオ番組「フジファブリックのGUCHI GUCHI言わせて」はFM山口制作でした。山口と言えば中原中也の故郷ですね。山口から高円寺に行ったのです。なんで、フジが山口だったのか…今になってみると、そこには深い意味があったような気もします。
 こんな感じですから、近年の吉井さんと志村くんの接近は、私には「太宰と中也」の遭遇のように見えていたのです。
 実際の太宰と中也は少なくとも3回は遭遇しています。この二人はなんとも微妙な関係にありました。太宰は中也よりも年下。太宰は中也を尊敬していたようですが、実際会ってみたら、実はとんでもない酒乱で、何度も喧嘩腰に絡まれて、ほとほと閉口してしまいます。最終的には苦手な人間として遠ざけていたふしさえありますね。しかし、ある意味では、同じような魂を持っていた、あるいは同等の才を持っていた二人とも言えます。
 もちろん、吉井さんと志村くんとは、いろいろな面で二人の関係は違ったものですけれども、しかし、もしかすると、「魂」や「才」の部分では何か共通点があるかもしれません。少なくとも私自身にはそれがあるように感じられます。表現の方法は違うけれども、やはり同じ何かがある…。
 そういう意味で、志村くんの実質的なこの世での最終完成音源となったのが、このアルバムに収録されている「FOUR SEASONS」だったというのは、なんとも運命的です。
 私にとっても、好きなイエモンソング、ベスト3に入るこの曲を、志村くんがカバーすると聞いた時には、本当に興奮しました。ある意味夢にも見ない夢の実現でしたから。
 しかし、志村くんが去ってしまった今となっては、かなり辛い歌となってしまいましたね。あまりに歌詞が辛い。叫びが辛い。今まで、自分でもカラオケなどで歌ってきた曲ですが、こんな違った意味を持つようになるとは…。
 きっと吉井さんも辛いでしょう。年末28日の武道館ライヴも苦しかったことでしょう。正月にはこちらにいらしてましたが、いったいどんな気持ちで富士吉田の街を、そして富士山を眺めたことでしょう。
 「勇気が足りない 力が足りない 時間が足りない お金が足りない 空気が足りない 命が足りない」…これを歌った時、志村くんは自らの運命を知るよしもなかったはずです。
 

Disc 1
WELCOME TO MY DOGHOUSE / Scoobie Do
LOVE LOVE SHOW / 奥田民生
SUCK OF LIFE / 毛皮のマリーズ
SPARK / 秦基博
JAM / TRICERATOPS
空の青と本当の気持ち / 星羅
SEA / 山田孝之
BURN / 椿屋四重奏
カナリヤ / tacica
4000粒の恋の唄 / あがた森魚
PUFF PUFF (instrumental) / MORGAN FISHER

Disc 2
FOUR SEASONS / フジファブリック
パール / 黒猫チェルシー
TVのシンガー / 9mm Parabellum Bullet
楽園 / KREVA
SHOCK HEARTS / metalmouse
球根 / THE BACK HORN
追憶のマーメイド / ムック
離れるな / 金子ノブアキ
SO YOUNG / シュリスペイロフ
メロメ (instrumental) / MORGAN FISHER
バラ色の日々 / Nothing's Carved In Stone
プライマル。 / フラワーカンパニーズ

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2010.01.24

高円寺駅南口ロータリー…

Photo 日でちょうど1ヶ月ですね。フジファブリックの志村正彦くんの最初の月命日。
 そんな日にたまたまこの場所に来るとは…。
 全く意図していなかったのです。本当にたまたま別の事情から考えてここになったのです。不思議ですね。
 今日は家族で東京に行きました。私は3月に出演するコンサート(こちら)の練習で北区へ。家族はいつもの浜松町や東京駅、そして浅草見物に行ったようです。
 丸々6時間ベートーヴェンやハイドンを弾きました。さすがにオール初見での練習はきつい…でも、全て初めて弾く、いや聴く曲(全く知らない曲だったのです)に感動。当時のオケのメンバーもこんな感じで楽譜を配られて、初演の曲に臨んだりしたんだろうな、なんて感慨にふけっていました。
 練習を終えた私は、5時近くに北区を出発して、富士山のシルエットに沈む異様に美しい「茜色の夕日」を眺めながら、「環状7号線」を飛ばして高円寺に向かいました。
 最終的に新宿にいた家族と、環状7号線の近くで練習していた私が落ち合うのは、やはりどう考えても「高円寺」になりますよね。自然な流れだと思います。
 家族は北口にいたのですが、停車場所がなかったので、私はガードをくぐって南口のロータリー横に車を停めました。そこら中に車が停めてあったのに、そこだけポカンと空いていたのです。その時はただ単にラッキーと思っただけでした。そこに買い物袋をかかえた家族がやってきました。
 車を停めた時は、気づかなかったのですが、家族が車に乗り込む時、車の窓から外をのぞき込むようにした瞬間、私はとても不思議な気持ちになりました。あれ?この風景…。
 そうです。私は上の写真をふと思い出したのです。たしかここだった…志村くんが立っていたのは!
20100125_62723 確信がなかったので、車の窓越しにiPhoneで写真を撮りまして、ウチに帰って確認しましたら、やっぱりそうでした。まさにその場所にレンズを向けていたのです。
 ただご覧のように、今南口ロータリーは工事中です。リニューアル工事が行われています。
 富士吉田の市民会館(富士五湖文化センター)も今改修中でして、こうして志村くんを偲ぶ風景が変っていってしまうのも、なんとなく悲しい気がしますね。
 この前、「中原中也 『我が生活』」という記事に書いたとおり、志村くんと中原中也は同じ19歳でこの場所に立ってたのですね。感慨深いものがあります。
 高円寺は、ねじめ正一さんの「高円寺純情商店街」や、大槻ケンヂさんの「高円寺心中」を挙げるまでもなく、さまざまな現代の文学や音楽の原点になっています。志村くんも「原点中の原点」と言っていますね。
 古くは、中原中也だけでなく、川端康成も高円寺で貧乏生活をしています。島崎藤村もですね。まあ、とにかく高円寺、阿佐ケ谷、荻窪、三鷹あたりは、そういう空気のある所です。
 志村くんは、ピザ屋のバイトの先輩から高円寺をすすめられたそうですが、「音楽やるなら高円寺に住め」という流れは、たしかに世間にあるようですね。
 考えてみると、役者を目指していたウチの姉も高円寺に住んでいたんだっけ。そういうサブカル的というか、アングラ的な雰囲気もあります。
 私は個人的には本当に最近になって高円寺と縁ができたんです。ここ1年のことです。発端は、プロレスの勉強会で定期的に高円寺に通うようになったということ。そう、スネークピット・ジャパンがあり、ビル・ロビンソン先生が住んでいたというのがきっかけです。
 その後、何人かの教え子がこの近辺に住んでいるのもわかり、年に何度かは通うようになり、高円寺で朝まで飲み明かすなんてこともあるようになりました。それも考えてみれば不思議な流れでした。
 さて、高円寺南口ロータリーで落ち合った私たち家族は、中央高速で富士山に帰ってきました。途中、車は罔象女命の上を通ります。そこから富士吉田市の夜景(含む富士急ハイランド)を眺めました。そして、スバルラインで富士山に駆け上がり、志村くんが天に昇った聖苑のすぐ横を通って、我が家に帰ってきた次第です。
 こうして期せずして、私なりの月命日のお祈りをすることができました。なんとなくですが、やっぱり「ありがとう」と言いたい気持ちです。志村くんの、いろいろな土地土地での、いろいろな思いを感じることができたような気がします。
 おやすみなさい。

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2010.01.20

『YOUNG YAKUZA』 ジャン=ピエール・リモザン監督作品

1002_wide_docyu さに隠れた名作。日本では公開されませんし、DVDも発売されないでしょう。ですから、今のうち観ておいてください。
 北野武監督と蓮實重彦さんの対談作品などでも有名なフランスの映画監督ジャン=ピエール・リモザンによる2008年作品です。ウワサには聞いていましたが、これはたしかにいいですね。
 稲川会碑文谷一家熊谷組の「日常」を撮ったこの作品。ドキュメンタリーのようで、ドラマのよう、ノンフィクションのようでフィクョンのよう…実に異彩を放つ名作になりましたね。
 まさに虚実皮膜の間。まるでプロレスの世界観のようです。いや、結局、ちょっと前にも書きましたように、こういうヤクザ界やプロレス界、そして芸能界など、本来の「物語」世界はこういうものなのでしょう。
 2007年度カンヌ映画祭 ドキュメンタリー部門に出品されたこの作品。聞くところによると、この作品、熊谷正敏組長自ら撮影を提案したとか。たしかに、組長カッコよすぎます。絵になる男。目力、言葉力、そしてたたずまいが半端ではない。
 他の組員たちも、途中まるで役者さんのように見えてきます。それほど自然でありながら、しかし、ちゃんとストーリーが感じられる。
 かちんこも使って、ある程度のシナリオも組んで撮られたということですが、そのある意味美しすぎる各シーンが、まさに北野映画を思わせます。暴力の裏にある「優しさ」「愛」「切なさ」「悲哀」…やっぱり北野映画ですよね。
 一般の仁侠映画や北野作品のような暴力シーンは皆無です。静かに淡々と「日常」が綴られていく。「非日常」はお見せできませんということでしょうか。
 その結果、この作品における熊谷組長は、まさに「教育者」として映ります。いや、我々現代人が忘れてしまった大切な「モノ」を伝える伝道師のようでもあります。非常に正しいことを語り、そして「愛」に満ちている。たとえこれが多少のフィクションを含んでいるとしても、しかし、たしかに感動的であるのは事実です。
 カトリック信者である組長が教会の神父さんを訪ねるシーンや、三社祭を颯爽と闊歩する姿には、どこか宗教的な香りさえしてきます。
 ヤクザ世界の必要悪的な有用性については、今までも何度も語ってきました。私は単純なヤクザファンではありませんが、ヤクザ的世界の絶対的な必要性については認めています。
 我々庶民が悪をなさないための抑制力であり、外敵から日本を護る防波堤であり、また資本主義における理不尽な富の偏在を再分配する役割を担うことは否めないと思います。それを弱体化してしまった私たちが、どんな危険にさらされているか、誰しもが肌で感じているはずです。
 組長のみならず、いろいろな人の口から様々な名言を聞くことができます。ノンフィクションとしても面白い。フィクションとしても面白い。
 なるほど、「美の国は道徳の世界より広大である」か。

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2010.01.15

祝!『1-click Award』最優秀賞…おそるべし西裏パワー

505841773o ょっとまだ情報が不足しているのですが、本人の報告によりますと、私の教え子が、リクルート主催のウェブコンテンツ&広告アイデアコンクールである(と思う)1-click Awardのプランニング部門で最優秀賞を獲ったとのことです。
 公式サイトを見る限り、私でもわかるほどそうそうたるクリエイターの皆さんが審査員なのですが、その方々による審査会全会一致で彼女が最優秀に選ばれたとのこと。
 いやはや、天才だとは思っていたけれど、ここまでとは…。
 ちなみに彼女の作品、「いつのまにか日記」という作品なのですが、いったいぜんたい、何が「いつのまにか」なのか、どういうふうに「いつのまにか」なのか、どんな「日記」なのか、あるいは全然「日記」でないのか、全くわかりません(笑)。
 このプランニング部門では、企画書を作って提出し、第1次審査を通ると審査員さんたちの前で実際にプレゼンをやるという流れだったようです。
 11月の終わりに、彼女から「1次通りました!」との連絡があり、実はもうその時点でとんでもない高いレベルのとんでもない数の応募の中のベスト5に選ばれていたわけで、私もかなり興奮したんです。で、12月のはじめにそのプレゼンがあるということを聞き、ちょうど私も新しい中学のプレゼンをガツンとやっていた時期でしたので、「魂を動かすプレゼンをせよ!」「心の感動は一時的だが、魂の感動は相手の行動に変化を起こす」という言葉を送りました。
 なんて、これ思いっきり受け売りでして、出口王仁三郎のひ孫にして、いつも私の心の支えになってくださっている出口光さんのお言葉であります。
 結果として、私の「企画書」と「プレゼン」である新しい中学も無事多くの生徒さんを迎えてスタートできそうですし、彼女も見事最優秀賞を獲得したということで、本当に本当にありがたく思っています。直接お礼申し上げていませんので、ここで伏して御礼申し上げます。
 まあ、それにしても、彼女にはずいぶんとしてやられますわ。いつかもちょっと書いた記憶がありますが、彼女は、最初ある公立高校に通っていたんですね。しかし、そこの「個性を全く無視する教育(当時)」に押しつぶされ、ドロップアウトしてしまいました。
 その後、縁あって私のクラスでやり直すことになったわけですね。そして「個性を必要以上に伸ばす教育(当時〜現在)」に接し、その後はとんとん拍子、日芸の放送にちゃっかり合格し、やることなすこと全部うまく行き、人に恵まれ、多少周囲を振り回しつつ利用しつつ、某広告会社にすんなり内定を決め、そしてまた今回の偉業です。
 なんて、こんなふうに書くとまるで私の手柄みたいですね。本人に怒られてしまいます。実際、彼女、最近「私ははったりではない」宣言をしてますからね。最初は私のキャッチフレーズである「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を見事に継承している(いや、私は最後の一つに関しては全然ダメ。彼女はそこにも才能がある!)と思ったんですけど、最近は「私は先生とは違います!」と言う…いや、そのようにハッキリは言いませんが、そういう空気が出ているんですよね。
 まあ、正直認めましょう。お前の才能なめてた!本物であると認める!くやしいけど(何が?w)。実際、才能もあり、そして実は地道に積極的に努力しているのを知っていますから、なんでもテキトーな私とは全然違います。
 今回も、プロの方々をも差し置いて最優秀賞を獲ってしまったとのこと。おそるべしだな。
 で、結局、その受賞作品がどのようなものかさぱーり分かりませんが、とりあえず「おめでとう!」と言っておきます。そのうち公式サイトで正式な発表があり、本人のインタビュー映像などが観られるようになるでしょう。得意のトーク(?)で笑わせてくれる(あるいは泣かせてくれる)ことを期待します。
 最後に一つ。本人にもちょうどフジのライヴの帰りに言ったことがあるんですが、彼女フジファブリックの志村正彦くんに似た空気と才能を持ってるんですよ。
 実は、彼女の生まれ育った地域というのが、富士吉田のいわゆる「西裏」というところでして、ここは独特の「地霊」が宿るところなんです。
 たとえば、太宰治の富嶽百景のあの名文(こちらの記事で紹介しました)が生まれたその場所であり、そして、昨年末夭折したフジファブリックの志村正彦くんが生まれ育った地域でもあります。ここは本当に不思議なところです。今は「昭和レトロ」の遺跡群として有名なところですが、それ以前に、人間と自然と神仏の欲望(?)が渦巻く独特な空気を持つ地域なんです。こちらのサイトでその一端に触れてみてください。
 彼女も志村くんも、そういう空気(霊気)をたっぷり吸い込んで、そしてその地霊を踏みしめて育ったんでしょうね。だからでしょう、なんかとんでもない「天才」の香りがする。
 なんて、ちょっとほめすぎかな。いや、今後の活躍にも期待しますよ。そして、いつか、もし独立でもしたら、小間使いとしてでも使ってくれ!オレも教員退職後はクリエイティヴな仕事したいんで(笑)。
 ま、そんなこと以前に、まさにその土地に開校する新しい中学校で、天才たちを創造していきたいと思います!がんばるぞ〜!

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2009.12.31

レミオロメン 祝!紅白初出場

20100101_95827 めでとう!また一つ夢が実現しましたね。
 地元山梨の雄として、長いこと応援してきましたレミオロメンが、とうとう歌手としての夢の舞台「紅白」に立ちました。
 あえて先に書いておきますが、同じく地元として応援してきたフジファブリックの志村くんがクリスマスイヴに亡くなってしまい、私としてはなんとも言えない年末となってしまいました。レミオロメンの3人も志村くんとほぼ同い年ですから、ますます複雑な心境になってしまいます。
 しかし、レミオロメンの快挙については、純粋にお慶び申し上げましょう!
 地元旧御坂町では、のぼりが立ち並び、懸垂幕が下がり、大型スクリーンでパブリック・ビューイングが行われ、お祭りムード満点となっておりました。
 さあ、本番、どうだったでしょうか。演奏するのが「粉雪」と決まって、ますます、我々ファンの緊張感は高まりましたよね(笑)。
 御存知のように、あのサビの「こな〜」の「な」の音程が難しいんですよ。あれは非和声音ですからね。この曲が他のどんな曲とも似ていず、そしてカラオケで歌いにくいのは、そういう理由があるんです。実はAメロの入りも和声の中にない音です。つまり不協和音が美しくユニークなのです。そこが藤巻くんの作曲のオリジナリティーを生んでいるんです。
 というわけで、本人もよくライヴではずすので(笑)、この大舞台での緊張感の中、大丈夫かなあ…と、まあファンはみんな親心というか母性本能をかき立てられてしまうんですね(笑)。
 いやあ、私、車を運転しながら聴いたんですけど、あまりの緊張感にハンドルを持つ手が震えましたよ。
 さあ結果はどうだったでしょうか。
 結論…セーフ!そこはほぼ完璧にこなしました。
 えっと、いちおう歌謡曲バンドのリーダーをやっている者としまして解説いたしますと、藤巻くん、ある意味安全策をとったと言えますかね。「こな〜」の「な」の音程をいきなり取るのではなく、下からずり上げて取っていました。これは歌手がよくやる技法です。装飾音(前打音)からポルタメントさせて、瞬間的に正しい音程を探すのです。
 で、最初の「こな〜」はそうやって、次の「ふた〜」の「た」はストレートにぶつけて大当たりしました。当て所というのは、一度体が覚えると大丈夫なんですよね。楽器でもよくあることです。
 …と、音程は見事でしたが、やっちゃいましたね、歌詞(笑)。
 ちょうど上の画像のところですけど、「同じララライ」って(笑)。いやあ、そういうところがカワイイのですね。ますます、ファンの皆さん、母性くすぐられたんじゃないでしょうか。
 まあ、歴代の名歌手たちも、紅白ではいろいろやらかしてますからね。たとえば自分が(ありえませんが)この舞台に立ったら、もうオシッコちびっちゃいますよね、絶対。
 藤巻くんも堂々としていましたし、前田くんも、神宮司くんも、気持ちよさそうに演奏していました。感慨深かったのでしょうね。
 サポートの皆川さんと河口さんは、もしかして紅白初めてじゃないとか?どうでしょうか。いろんなところでサポートされてますからね。今度聞いてみましょう。
 というわけで、ちょっとしたアクシデントもありましたが、それもご愛嬌程度、いい語り草になるレベルであって、全体としては実に堂々としたステージでありました。
 3月3日にニューアルバム「花鳥風月」がリリースされると発表もあり、また全県ホールツアーが行われるとの発表もされました。山梨県民文化ホールは全4回かあ!どこかで行かせていただきます。
 ホントいろいろおめでとう!レミオロメン!
 最後にあえてもう一度書かせて下さい。御坂峠をはさんで対照的な年末になってしまいましたが、しかし、こうして山梨の若者たちが日本の「歌」を作り続け、歌い続けてくれることに、心から感謝します。きっと志村くんも、レミオロメンの活躍を天国から喜んでくれていると思います。

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2009.12.30

中原中也 『我が生活』

Image

 ジファブリックの志村正彦くんは、よく中原中也に似ていると言われていました。
 私も初めて間近でお会いした時、あの恐ろしいほどに深い瞳に、思わず「中原中也だ」と思ってしまいました。
 ただ写真でよく見る中原中也の目に形が似ているとか、そういうことではありません。
 太宰治も「雪の夜の話」で「人間の眼玉は、風景をたくわえる事が出来る」と書いています。
 二人の眼玉には、同じように、私たちには見えない日常の何かがたくさん詰まっているような気がしたのです。
 志村くんの目は、まるで仔鹿の瞳のようにまんまるく、そしてかすかに震えているように感じました。その何かはとても繊細で壊れやすく、今にもこぼれ落ちそう。いや、実はその直前、彼の瞳にたくわえられていた風景は涙となってこぼれ落ちていたのです。
 志村くんの著書『東京、音楽、ロックンロール』に「…僕も"茜色の夕日"のところで泣いてしまいしたけど、僕が泣くのは一生であの一回だけです」とある、あの市民会館ライヴの涙です。
 彼が見てきたいろいろな風景があの涙に凝縮していたのでしょうね。美しい涙でした。
 私には、中原中也のあの目も、かすかに震えているように感じられます。彼もまた、とんでもなく繊細な感性を持ち合わせ、そして、我が身と命を削って詩(歌)を書き続けました。
 残念なことに、結果として二人はほぼ同じ年齢で天に召されてしまいました。しかし、実はそれ以前に不思議な共通点があったのでした。御存知ない方が多いかと思いますので、ここで紹介いたします。
 それは「高円寺」です。
 志村くんが上京してしばらく住んでいたのが高円寺でした。彼の音楽の原点の一つです。彼は高円寺で様々な人々と出会い、メジャーデビューのきっかけをつかみます。先日、私もたまたま隣に座らせていただいた、あの氣志團の面々と出会ったのも、東高円寺の「ロサンゼルスクラブ」です。
 中原中也も上京してすぐ、高円寺に住んでいます。志村くんも路上ライヴをやったという南口の近く、ルック商店街の辺りだと思われます。
 志村くんも中也も18歳であそこに立っていたわけですね。
 高円寺での中也は、いきなりあまりに厳しい「東京の洗礼」に襲われました。かの有名な事件ですね。親友というか、尊敬していた先輩である小林秀雄に、当時同棲していた長谷川泰子を奪い取られます。5歳年上のエリート(なにしろ、あの小林秀雄ですから)に、あまりにあっさり恋人を取られてしまうのですね。その時、泰子が小林の所に「引っ越す」のを、中也が手伝った話は有名です。
 今日はそのことをつづった中也本人の文章を読んでいただきましょう。
 それこそ、身を削り、命を削り、自らの恥や情けない部分をさらけ出して表現し続けなければならない「芸術家」としての苦しみが伝わってくる文章です。中也というと、もちろん「詩」が有名ですが、こうした散文にも、独特の「歌」があるので、私は好きです。
 きっと志村くんも、この中也の気持ちが痛いほどわかるのではないでしょうか。同じ表現者として…。私はそこまでではないけれども、「男」としての共感は充分にあります。
 繊細であることは、すなわち強いということでもあるのですね。よく言われる、太宰に対しての形容「弱さを持ち続ける強さ」とはそういうことなのでしょうか。

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2009.12.28

天に帰った才能とは…志村正彦くんに学ぶ

Img_0191 起きると、富士北麓ではこの季節珍しい涙雨。
 音もなく柔らかく大地に降り注ぎます。
 しばらくすると、雨はやみ、陽が差してきました。
 大地の潤いは絹のような無数の湯気となって、天に帰っていきます。
 こうして、全てのものは循環しているのですね。

 昨日、最後の対面と書きましたが、今日、本当に本当に最後にもう一度だけ、志村正彦くんに会うことができました。
 あいかわらず美しいそのお顔のすぐ脇に、花を手向けました。

 メンバーやご友人、そしてお父様のお言葉から、志村くんの人間性、才能、そして魅力を存分に感じ取ることができました。
 それらは繰り返すこともはばかられるような、美しい言葉たちでした。
 もちろん、その美しさの分だけ、悲しみも悔しさも寂しさも大きく強くなるのですが…。

Img_0193 先ほど、志村くんは本当に天に昇っていきました。
 どうにもならない空虚感、欠落感…。
 雲に覆われた富士山をぼんやり眺めていると、徐々に雲間から何本もの光条が差し始めました。
 そして、突然、太陽が姿を現したのです。
 どんより暗かった大地に明るく暖かい太陽の光が降り注ぎます。
 気づくと、そこにはまた絹のような湯気が立ち昇っていました。
 ああ、志村くんも富士山から天に昇っていったな、と思いました。
 ありがとう、さようなら。

 先日、天才とは「天に才能を返す」者であると書きました。
 彼の才能とは、我々が気づかない、日常に埋没した「大切なモノ」を拾い上げて、私たちに見せて、聴かせてくれることでした。
 そんな彼がこの地上からいなくなって、残された私たちはどういうふうに生きていけばいいのか、正直不安だったのですが、この富士山と雲と太陽と木々と鳥たちを見ていたら、何かふと安心したような気がしたのです。
 彼が見つけて提示してくれなくとも、その「大切なモノ」は確かにこの世に存在するのです。
 日常の営みの中に、私たちの言葉の中に、自分たちの経験の中に、それらはいつでもあるのです。
 何も不安に思うことはないじゃないか。
 
 私たちはいつも受け身だったのです。
 待っているばかりだったのです。
 志村くんを始めとする天才たちに甘えて、ただただ彼らの才能…それは彼らの、身を、命を削る大変な仕事の結果から逆算された「言葉(概念)」に過ぎないのですが…に頼って日々を送ってきたのです。

 私たちにそんな才能はないと、決めつけていてはいけないなとも思いました。
 別に特別なことをしろ、何万人もの人に感動を与えよ、と言っているのではありません。
 まず、自分自身の不安や不満や不足を、日々の生き方の中で救い上げていくだけでいいんです。

 私は、この歳になって、この若者の命からそんなことを学ばせていただきました。
 それこそ、今まで見えていなかった大切なモノに気づかせてもらった。
 だから、やっぱり、ありがとうと言いたいのです。
 ただ、今まで感動をありがとう、ということではないのです。

 さようならを言わなければならないのも一つの事実です。
 しかし、私は彼にいつでも会えます。
 彼が残してくれた大切なモノを、日々自分が実践していけば、すなわち彼は私と一緒にいてくれるのです。

 昨夜も今日も、お父様、お母様に優しい言葉をかけていただきました。こんな時に、まるで逆の立場です。申し訳ないくらいです。この大変な時にも関わらず、私のこのブログを読んでくれていたそうです。本当にありがたいことです。皆さんのコメントもきっと、親族の皆さまに、そして正彦くんに伝わったことと思います。私自身も、ブログを続けていてよかった、と思いました。
 先日書いた、志村くんに頼みたかったこと、最後の夢とは、新しい中学の校歌や愛唱歌を作ってもらうことでした。あそこで少年、青年時代を送り、そして人一倍少年時代、青年時代に愛情を持っていた志村くんなら、きっと素晴らしい歌を作ってくれると思ったからです。
 今日、そのお話をお母様にしましたところ、なんとお母様自身はそれを知っていたとのこと。直接そのようなお話はしていなかったのですが、私の気持ちは伝わっていたのですね。ありがたいことだと思いました。ただ、私もお母様も、彼には伝えられず終わってしまいました。残念です。
 いや、先ほど書いたように、いつまでも彼に頼っていてはいけない。彼の才能…すなわち日々の生き様…は天に帰ってしまったのですから。これからは私なりに生徒たちと頑張っていかねばなりません。まずは、来春出会う中学生たちと、志村くんの音楽を聴き、志村くんの言葉を読み、そして自分たちの生き方を日々考えていこうと思います。頑張ります。
 
PS 7月の富士急、ぜひトリビュートという形で実現してもらいたいですね。いや、それこそ、自分でもできることは何でもやっていかなければ。ファンの皆さんもぜひ。

お詫び ここ数日の記事に多数のコメントありがとうございます。今回はこのような状況でしたので、記事をもってお返事とさせていただきます。申し訳ございません。

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2009.12.26

志村正彦くん…追記

Img_0186 訃報から一夜明けて、富士北麓はまるでストックホルムのような雪景色です。
 残念ながら、訃報は夢ではありませんでした。

 皆さん、コメントありがとうございます。
 お互いに辛いけれども、彼の遺してくれた宝物を胸に頑張らねばなりませんね。

 志村くんは、私のいろいろな夢を実現してくれた人でした。
 それは音楽であり、文学であり…そしてこの土地を代表する人物としても。
 本当に残念なのは、私の最後の夢が叶わなかったことです。
 悔やまれてなりません。

 29歳…あまりに若すぎます。
 こうして才能を天に返すのが「天才」なのかもしれません。
 私たちはその一部をいただけただけでも、本当に感謝しなければならないのでしょう。
 あらためて御冥福をお祈りします。

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