カテゴリー「文化・芸術」の1390件の記事

2017.06.26

『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』 二宮敦人 (新潮社)

Th_61rsvqqq9l_sx346_bo1204203200_ ろいろな意味で憧れの東京藝大。私はとてもとても入れませんでしたが、教え子は入れました。また、最近は藝大卒の方々と共演することが多い。なんだか得した気分です(笑)。
 そうした皆さんは「音校」の方々。とってもまともな皆さんです(笑)。「美校」の知り合いは…あれ?いないかも。
 この本で言うところの「カオス」は正直「美校」の方ですよね。つまりカオスな天才の皆さんとは今のところご縁がないわけです。というか、私のような凡人は近づけない領域なのかもしれません。
 そんなわけで、私がもし藝大に入れるようなことがあったとしして、「音校」と「美校」どっちか選べと言われたとしたら、間違いなく「美校」を選びますね。てか、私の音楽や楽器との付き合い方というのは、ちっとも「藝大(音校)」的ではない(それ以前に音大的ではない)わけでし、どちらかというと「美校」的なカオスの方が自分の得意とする分野のような気がするのです。
 意外に思われるかもしれませんが、私は案外ちゃんと「絵」を勉強しました。先生について勉強したという意味では、音楽と同じくらいの期間(約10年)ということになりましょうか。
 今ではちっとも絵を描かず、あるいはモノを作るようなことはありませんが、かつては音楽よりも美術の方が得意だったし、そっち方面で創造的でした。
 実際、高校の芸術選択は美術を取ったんですよね、3年間。成績も良かった。中学では美術部でしたし。意外でしょ。
 ま、そんなこんなで、いちおう、本当にいちおう程度ですが、音楽も美術もそれなりに分かっているつもりです(あくまでつもり)。
 そう考えるとですね、なんで、「音校」と「美校」が対照的なのか、よく分からない部分もあるんですよね。違う言い方をすると、なんで「音校」はカオスにならないのか。これはある意味良くないことだと思うんですよ。
 ご存知のとおり、両分野ともに、基本基礎や論理やメソッドがあって、それを超えていくのが、いわゆる「天才」だと思うわけですが、なぜ「美校」はいとも簡単に超えていっているのに、「音校」は超えられない(ように見える)のか。
 もちろん、もともと音楽が「コスモス」に収斂してゆき、美術が「カオス」に拡散していく傾向があることは分かります。しかし、実際にはその逆もあり得るのに、なんとなく日本では芸術とアートが分離しているがごとく、両者がぐるっと回って一つになったり、止揚されたりすることがあまりないというのも不可思議なことです。
 いや、実際には音と美の境界線のあの道を軽くまたいで行き来する真の天才がいることも聞いています。しかし、やっぱりそこに分断がある、壁がある、溝があるのは事実でしょう。
 そういう意味で、私は古楽科に期待していたんですよ。ジャズ科みたいになってほしいなと。現状はどうなんでしょうかね。
 また、上野にない第三者的な新興の学部学科の存在も気になります。
 というわけで、藝大にスパイを送り込もうと思っています。上の娘はとっくに諦めているので、下の娘を洗脳して送り込もうかな(笑)。
 おっと、肝心な本の紹介を忘れていた。この本はインタビュー集です。入り口としては面白いんじゃないでしょうか。まさに入り口から中をちらっと見る程度でも、私は充分楽しめましたよ。

Amazon 最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

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2017.06.21

日地月合せて作る串団子星の胡麻かけ喰ふ王仁口

Th_0432 口王仁三郎の短歌です。これ、いいですね。大好きです。
 「にっちげつあわせてつくるくしだんごほしのごまかけくらうわにぐち」と読みます。
 ウチの家族はこれを家訓(?)としています。マジです(笑)。
 先日も、カミさんが職場の会議か何かで、「太陽と地球と月で団子を作って星のゴマをかけて食べたい」と言ったら、みんなシーンとしてしまったとか(笑)。そりゃそうだ。
 いや、ウチはみんな、このくらいのスケールで生きたい!と思っているのですよ。
 どうも世の中セコセコしてていかん。目の前のことに心を奪われたり、ちっちゃなプライドに振り回されたり、隣の人に嫉妬したり、顔を合わせないで互いに中傷合戦したり、逆に身の回りの小さな幸せに満足してしまったり…。
 というわけで、皆さんもぜひご一緒にこのスペシャル団子を食べましょう。理屈抜きです。
 こういうスケールで生きていたら、凡夫の日常の悩みなんか吹っ飛んじゃいますよね。
 で、団子食べたらお茶じゃないですか。お茶のスケールもすごいですよ。
 のちに王仁三郎を次のような歌も詠んでいます。さすが。好きだわあ。

日地月星の団子も食ひ飽きて今や宇宙の天海を呑む
 

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2017.06.17

The Water is Wide(スコットランド民謡)

 ッサンや、その前の「花子とアン」で使われ、最近特に有名になったこの曲。たしかにいい曲ですね。なんとも切ない。
 スコットランド民謡がなぜか日本人に「郷愁」をおぼえさせるのは、やはりそのメロディーが他の地域の伝統音楽と同じく、ペンタトニックを基本としているからでしょう。
 日本では明治時代に多くのスコットランド民謡が輸入され、日本語詞を与えられて愛唱歌となっていきました。最も有名なのは「蛍の光」でしょうかね。
 そういう中では、この「The Water is Wide」は日本では比較的最近有名になったスコットランド民謡です。
 古くは「O Waly, Waly」とも呼ばれ、1948年にブリテンがピアノと声楽のために編曲したものもよく知られています。ブリテン本人がピアノ伴奏している貴重な映像がありました。

 同じくイギリスの作曲家、合唱音楽の指揮者としても有名なジョン・ラターも自作に使っています。うまい編曲(当たり前か)。

 ポピュラー界では、やはりカーラ・ボノフのバージョンが有名でしょうか。東京でのライブ映像がありました。

 一番上の「マッサン」のエリーの歌のあとの演奏は、ケルト音楽の歌姫Rowena Tahenyです。
 私は歌が下手なので、ヴィオラの無伴奏用に編曲しております。いつかどこかで披露したいと思っています。

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2017.06.16

渡部昇一『書痴の楽園』 … 『古事記』と日本人

 年秋、富士河口湖町で「古事記講座」の講師を務めさせていただきました。いかにもワタクシらしく?脱線しまくりの講座でしたが、おかげさまで好評をいただき、今年も続編をということで依頼を受けました。
 また秋に開催する予定ですので、お近くの方はぜひどうぞ。また脱線しまくりになると思いますが。まあ、それは古事記の内容が現代にどうつながっているかの話ですので、脱線はしても転覆はしていないと思うんですけどね(笑)。
 さて、ワタクシの講座とは大違い、ある意味脱線はしていますが、その質があまりに違うのが、先日お亡くなりになってしまった知の巨人、渡部昇一さんの古事記論です。
 昨年末と今年のお正月に放送されたものですが、改めてアップされましたので、ここに紹介します。
 敬虔なカトリック・クリスチャンであった渡部さんが語る、日本人のソウル・ルーツだからこそ、格別な説得力がありますね。感動です。

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2017.06.14

南伸坊、関川夏央、みうらじゅんが語らう「昭和のエロ」

「昭和のエロ」は温かく、熱心だった
Th__20170615_91324 せずして、一昨日は「昭和」のモーレツ社員、昨日は「昭和」のプロレス、そして今日は「昭和」のエロということになりました(笑)。ま、私も充分昭和の残滓人間だということですね。
 別に昔は良かったとか、今どきの若者は…とか言いたいわけではありません。いや、やっぱり言いたいのか。そういう年齢になったということですかね。やっと大人になったと(笑)。
 で、今日は「エロ」のお話。あんまり面白かったので、ここにそのまま紹介します。文藝春秋に掲載された、南伸坊さん、関川夏央さん、みうらじゅんさんという、それこそ昭和の「おバカな男(もちろんいい意味)」を代表するような方々によるエロ鼎談。

南伸坊、関川夏央、みうらじゅんが語らう「昭和のエロ」

 そうそう、皆さん、私たちが左右の手で大切に抱いているものって何かわかりますか?
 答えは…こちらに書いたとおり「エロ」です(笑)!
 最近の若者(ああ、言っちゃった)、特に男は、草食系とか言って「エロ」にさえ執着を持たなくなっている。草食系、肉食系についてはこちらに書きましたね。
 私は(エセ)僧職系です。この前、座禅して空っぽの状態にしてアキバに行ったら、一気に肉が流入して満杯になりましたよ(笑)。
 「エロ」は妄想が99%ですから、その時代ごとにそれぞれのメディアがリアルの代替になってきました。それが紙とか人形とかだった時代はまだしも、今ではデジタルになり、そしてVRになり、さらにAIになっていく。
 いったいどうなるんでしょうね。戦争とかではなくて、「エロ」のヴァーチャル化によって、人類は滅びるんでしょうかね。
 というわけで、皆さん、左右の手からエロがこぼれ落ちないように頑張りましょう。

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2017.06.13

三沢光晴さんの命日にちなんで…「鶴田vs三沢」

 日6.13はプロレスファンにとっては忘れられない日。試合中リングの上で三沢光晴選手が亡くなった日です。8年前のことでした。もう8年か…。
 あの年は6月に三沢さんが亡くなり、12月には志村正彦くんが亡くなるという、私にとって大切な人二人を亡くした年でした。
 三沢さんが亡くなったその日の記事に、この試合の動画を貼ったのですが、観られなくなっていたので、今日は改めてここに紹介しておきます。
 怪物鶴田さんに対して、まさに玉砕の三沢さんでしたが、そうした悲哀のようなモノが三沢さんの魅力でもありました。
 体の小さな三沢さんが諦めず、全力で、まじめに、それこそ死ぬ気で戦う姿。それはどこかかつての日本を思わせるところがありますね。
 今日は帰宅してから、先日行われた新日本プロレスのオカダ・カズチカ対ケニー・オメガも観ました。たしかに高度な闘いではありますが、なんだろうなあ、この三沢vs鶴田に比べると何かが足りない。
 プロレスは進化しているのでしょうか。いや、進化はしていると思いますが…。

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2017.06.10

秋葉原神社

Th_img_0675 禅が明けてすぐに東京アキバへ。悟りを開いた?あとですぐにアキバとは(笑)。
 いえいえ、メイドカフェに行ったんじゃないですよ。教会です。キリスト教会。
 お寺から教会というのもまた、ある意味変ですが、実は神田キリスト教会でコンサートがあったんです。それに出演してきました。先日告知したこちらのコンサートです。
 とっても重いプログラムでしたが、ご来場の皆さまにはご堪能いただけたのではないかと思います。いろいろな意味で息の抜けないコンサートでしたね(笑)。
 私も思わぬ方との再会やら初遭遇など、練習から本番、打ち上げまで、いろいろなご縁を感じる良い機会となりました。お誘いくださりありがとうございました。
 さてさて、お寺、教会、そしてアキバということで、まあとにかくある意味浮世離れした空間にいた今日でありましたが、そうですねえ、やっぱりオタク文化って貴族文化ですからね、案外バロック音楽とアキバって親和性が高いなと思いましたね。アキバロック。
 そんなアキバで、ある意味最もバロックしているのが、お寺でも教会でなく、やっぱり神社でしょう。もちろん、神田明神もかなりバロックというかロココしてますよ。それと同じくらい非現実的きらびやかさを持つのが、昨年突然登場した「秋葉原神社」でしょう。
 そうそう、突然登場鎮座したと思ったら、今月いっぱいで突然消えることになったんですよね。移転なんでしょうか。それとも…。
 もともと、世界救世教の幹部だった松本明重創始の平安教団が作った神社ですから、ワタクシが専門としている出口王仁三郎にもつながっていますよね。たしかに、王仁三郎はコスプレの元祖みたいなところがあります。神様キャラ創造という意味でも天才でしたし。
 主祭神も天照弥勒大神という万教同根・万教帰一の象徴のような神様。配神が芸能の神様天宇受売命、商売繁盛の神様宇迦之御霊神。いかにもアキバですね。
 そうそう、この秋葉原神社、フィギュアの供養もしてくれるんですよね。人形の供養と言い換えれば、それが神社として正常なお仕事であることが分かります。いいことです。ひとかたには念がこもりますからね。オタクの念は強い。
 今日もたくさんのオタクの皆さんと外国人観光客でごった返していたアキバですが、たしかに日本文化の本質を見て感じるのにはいい場所ですね。いろいろな神仏が仲良く共存している、それこそパラディソですな。

秋葉原神社

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2017.05.27

宮田陽・昇

Th_images 日の夜は家族でBS朝日の「お笑い演芸館」を鑑賞。家族の中で一番評価が高かったのが、漫才協会四天王「宮田陽・昇」さん。
 ま、カミさんが陽さんと同じく秋田の出身という肩入れもあるとはいえ、いやいや純粋に見て安定のクオリティーでしたよ。鉄板の「地図」ネタから始まり、陽さんの自虐ボケと昇さんのテンポ良いツッコミが絶妙のリズム感を生んでいて、気持ちよく笑えます。
 漫才新人大賞や文化庁芸術祭賞新人賞を受賞したのち、漫才協会認定の真打ちに昇進した実力派。
 陽さんのホスト時代の写真、笑っちゃうほどカッコよかったですね。彼は秋田一の進学校秋田高校でサッカー選手としても全国レベルで活躍し、それも評価されて立命館大学へ。まさに文武両道のエリートコースを歩むかと思ったら、どういうわけか演劇に目覚め、自ら劇団を立ち上げ、そしてその時の仲間昇さんとお笑いコンビを結成しました。
 たしかに陽さん、ウチの家内のお父さんにも似る秋田美人ならぬ秋田美男ですね。義父もイケメンなのに超三枚目(笑)。秋田の男の人って地味に面白いですよ。おとなしい印象がありますけど、スイッチが入ると爆発するんですよね。
 そうそう、以前義祖父の葬祭(神道)の時、親戚衆の男性の呑み会に巻き込まれた(なにしろ言葉が分からない…笑]時、みんなまじ〜めに山の中で熊と相撲取ったりした話をし合うんですよね。ほら話と言えばほら話なんですが、言葉が半分しか分からなくてもメチャクチャ面白かった(笑)。そういう伝統風土なんでしょうね。いいなあって思いました。
 そういうところも含め、その容姿とそしてあの声質、微妙に残る秋田訛りが醸す「胡散臭さ」これっていいですよね〜。胡散臭いってお笑いにとって非常に重要な要素であります(私もそれで売ってる?)。
 今日と同じネタも含む音声を聴いていただきましょうか。

 一度東洋館で生で拝見したいですね。

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2017.05.26

『論戦「女性宮家創設」 公務負担と皇統の継続』 (BSフジ プライムニュース)

Th__20170601_105257 に難しい問題ですね。このまま行けば悠仁親王が即位した時、公務を補助する皇族がいなくなる可能性がある…。
 有史以来初めてと言っていい、このような意味での皇統継続の危機でもあります。
 この問題の難しさの理由はいろいろあるのですが、やはり私たち国民としての難しさは、天皇陛下や皇族の皆様がこのことについて、どのようにお考えなのか分からないというところではないでしょうか。
 このたびの「譲位」の問題についても、保守派の中でさえ意見がまとまらないどころか、ほとんど喧嘩のような状態になり、また結果的に良かれと考え絞り出した案について、実は天皇陛下や皇族の方々が不快感をお示しになったという「ウワサ」までも伝わってきました。
 ちなみに私は女性宮家の創設には完全に反対ではありませんが、やはりその前に旧宮家の復活が先だと思いますね。
 女性宮家が女系天皇につながるという意味で反対する方が多いようですが、それこそ皇室典範や、あるいは憲法の解釈、あるいは改正をもって男系を守ればよいと思います。
 もっと言ってしまえば、皇統というのは「血筋」だけの問題ではありません。私は「文化」というものを重視しています。皇室と一般社会を一緒に語るのは不敬にあたるかもしれませんが、さまざまな組織の継続の在り方を考えると、その「文化」の意味がわかってくると思います。
 私は、いろいろな事情から、有栖川家、高松宮家に興味を持っています。ご存知のとおり、両家とも男系男子に恵まれず断絶してしまいました。
 高松宮家は、先に断絶した有栖川家の「文化」を継承しました。しかし、残念ながら高松宮家も断絶。では、有栖川家の「文化」は絶えてしまったのかというと、そんなことはありません。いくつかの形でちゃんと継承されています。その継承者一つが秋篠宮家です。また、民間のある宗教団体系統にも継承されています。
 そういうことも含めての「皇統」であると思うのです。だから具体的にどうなのかというのは、今は述べるべきではありません。ただ、そのようないわば「霊統」というのも考えに入れないと、たとえばこの番組の議論のようなことになってしまうと思います。
 天皇は高次元の存在なのであり、私たちの日常的な言語では語りきれないわけです。だから、実に難しい。

動画はこちら
 

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2017.05.24

能役者 野村四郎 「遥かなり芸の道」

 日までの「昭和11年」つながりもあって、この動画を紹介いたします。この動画にもちょっと登場している、四郎先生の弟子、私の教え子でもある女流能楽師からの紹介してもらいました。
 人間国宝の能楽師野村四郎先生は昭和11年のお生まれです。
戦前戦中の動乱期に少年時代を送り、そのためでしょうか、狂言師の家に生まれながら、人間の影の部分を表現する能に惹かれていったと言います。
 そして、稽古の話も興味深いですね。鉄拳つきの厳しいスパルタよりも、「芸は盗め」の何も教えてくれない稽古の方がずっと厳しかったと。これこそ日本文化の真髄であり、私の言うところの「コト」より「モノ」。言葉よりも実体験というのにもつながるでしょう。
 「今に見ておれ!」これは今の日本の若者に足りないものですね。今日も職員室で話したんですよ。本当にそういう「悔しさをバネに」みたいなのがないなあと。
 ある部活で高校生に顧問が怒って「もういい、来るな」と言ったら、本当に次の日から来なくなる…こういうことは本当に日常的にありますし、場合によっては親でさえ、そういう子どもたちの反応に賛同してしまう。昔じゃ考えられませんよ。
 極端な話、昔だったら私も「死にたい」という生徒がいたら、「おお、死ねるもんなら今ここで死んでみろ!」と言っちゃいましたが(笑)、今だったらとても笑い事になりません。新聞ネタですよ。
 言葉って、その表面的な意味だけでなく、その裏側に人の心を包み込んでいるものじゃないですか。こちらがそれを包んで発したつもりでも、相手はそれを全く「忖度」せず、表面的な意味で反応してしまう。日本人の劣化ですよ。
 師匠なのに何も教えてくれないなんていうのも、ある意味めちゃくちゃブラックじゃないですか(笑)。そういう世界はこれからどうなっていくのでしょうね。
 杉並の大宮八幡宮での薪能、私も何回か拝見しました(こちら参照)。四郎先生のおっしゃる通り、その役者がその場、空気、自然と一体化し、本当に素晴らしい時空間を作り上げていました。意味が分かる、分からないではなくて、「感じる」。これもまた「コト」よりも「モノ」ということでしょう。
 世阿弥が行ったように、能の本質は「ものまね」。「モノ」を招くということですね。
 そして、最後の次世代へのメッセージ。私も心に深く刻ませていただきました。

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