カテゴリー「文化・芸術」の463件の記事

2010.02.04

茜色の富士

↓クリック!
04_18_28_06 日は久しぶりに、4月開校の中学の真新しい校舎に入りました。もうほとんど完成です。
 本当に素晴らしい環境です。建物や設備の素晴らしさは、これはもう私でも驚くほどです。実にぜいたく。そして、それ以上に全ての教室から眺められる富士山と富士吉田の街の風景には、長年住んだ者でも感動させられますね。
 この写真は3階の多目的教室から撮ったものです。ちょうど夕日が差して、富士山が茜色に染まろうとしていました。
 本来ならば、この教室にフジファブリックの志村正彦くんを連れてきて、そして、このイメージで歌を作ってもらう予定でした。彼が亡くなってしまったのは、その話をしようと思っていた二日前のことでした。
 まさにこの角度から見る富士山は、志村くんにとって、本当に懐かしい心の風景です。右に月江寺の森、手前に彼もよく遊んだという月江寺の池。この池は「鳴琴泉」という音楽的で風雅な名前も持っています。少年時代の志村くんは、いったいこの泉が奏でるどんな音楽を聴いていたのでしょうか…。
 そんな土地への思い、そして、音楽との出会いのあった中学時代への思い、それを歌にしてほしかった…。
 今は本校の駐車場になっていますが、池の手前には古い旅館がありました。太宰治が何度か逗留した宿です。あの「富嶽百景」の名シーンの舞台です。今日も月夜富士がきれいでした。
 私がなにげなく、本当に偶然に太宰の墓参りをしたのが、志村くんが亡くなる前日の12月23日。その日の記事を読むと、私はなにかを予感していたことがわかります。「太宰、いろいろ訴えかけてきましたよ。鳥肌立ちまくり」…たしかに体験したことのない感覚が私を襲っていました。しかし、その時はこんなことになるとも夢にも思いませんでした。地霊で志村くんと結ばれた太宰が、何かを知らせたのかもしれません。
 このようなことになってしまったのは、本当に残念でなりませんが、その場所で教育に携わることになる者として、いったい若者たちに何を伝えていけばいいのか、私も改めて考えさせていただく機会をいただきました。
 志村くんが心から愛した富士吉田。富士吉田ももっと彼を愛さねばならない、と思いました。私もこの街を、そしてこの街の子どもたちを、もっと愛さなくてはなりません。
 ちょっと頑張り過ぎてしまった彼は、今、大好きな富士吉田の街に帰ってきて、心優しい家族と、いつもの機材に囲まれながら、ゆっくり自分のペースで曲作りをしています。とっても穏やかな心持ちで…。安心しました。

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2010.02.03

心の鬼…モノノケハカランダ

P204mane03 日は節分。いつだかのこの日にも書きました通り、我ら出口王仁三郎ファンにとっては「鬼は内、福は内」の日です。
 皆さん、鬼を無反省にいじめていませんか?そろそろ艮(鬼門)に幽閉された国祖「国常立尊」の復権を待望してもいいのではないでしょうか。私たちの考える善悪のほとんどは、自分で判断したものではありません。
 という、ちょっと難しい宗教学的、いや民俗学的、あるいは哲学的な話は置いておいて、今日は文学のお話をしましょう。
 また最後はフジファブリックの志村くんの話になってしまいますが、ご了承ください。それほど、私にとって大切な人だったということです。今まで彼や彼の音楽に興味がなかった方も、これを機にぜひその世界に触れてみてください。
 さて、今日いつもの「モノ・コト論」研究のため、枕草子の注釈書を繰っていましたら、本当にたまたま「心の鬼」が出てきました。「故殿の御ために」という段です。ここには、イケメン藤原斉信が清少納言にかまかけるシーンがあるんです。それを軽くいなす清少納言。つまりはモテ話に振り話、いつもの通りの自慢話ですね(笑)。
 斉信は「夫婦になりませんか」とかまかけるのですが、清少納言は「夫婦になるとあなたをほめることができなくなる」と言って断ります。うん、たしかに人前ではなかなか配偶者をほめられませんよね。「あいつはダメで…」という物言いになります。
 で、そんな微妙な夫婦間の心情について、「心の鬼出で来て…」と表現しているんです。つまり、結婚すると、本当は好きでほめたいのだけれど、「心の鬼」が現れてそれができなくなる、ということです。
 では、この「心の鬼」とは何を指しているのでしょう。
 実は、枕草子の時代、「鬼」は、あの角のはえた赤や青の鬼(虎のパンツの鬼)とは全然違うイメージでした。あれが定着して、「鬼」が悪者になっていくのは平安末期だと思われます。それまでは、中国の「鬼」、すなわち死者の魂というイメージが強かったものと思われます。
 和語ではそれを「もの」と言いました。「鬼」の文字を「もの」と読ませる例が、万葉集なんかにもわんさか出てきます。
 私の「モノ・コト論」の出発点と終着点はまさにそこです。非常に単純です。簡単に言えば、今我々が「物体」「物質」「商品」のような意味で使う「モノ」という言葉も、実は「異界」「自分にとって外界」「思いどおりにならない外部」というような意味だととらえるのです。「もののあはれ」の解釈もそれにもとづき、「不随意(世の無常など)に対する嘆息」とします。これは他の人が全く言っていない盲点です。
 ですから、ここでも「心の鬼」というのは、自分の心の中の「意思に反する」あるいは「制御できない」何か、ということですね。たしかに、恋人どうしが夫婦になった瞬間から生じる、あの妙な違和感というか、変容というものは、なんとも説明がし難いですよね。それを「心の鬼」と言っている。別に恐いものではないのです。不安にはなるかもしれませんが。
 一般的に、たとえば私が読んだ注釈書なんかは、「心の鬼」を「良心の呵責」とか「気がとがめること」などと解釈しています。たしかにそう読めないこともないのですが、ここではそこまで善悪が関わっていないと思います。
 これが、中世以降、先ほどの角のはえた鬼のイメージ、すなわち「悪」のイメージが定着してきますと、「心の鬼」は「邪念」とか「妄想」とか「性的な欲求」などを表すようになるんですね。「豆とりて我も心の鬼うたん」なんていう節分の俳句も生まれたりします。邪念を消そうとしているわけです。
 あるいは恐い者の象徴として、自分の心を抑制する存在としてとらえられることもあります。「心の鬼が身を責める」という慣用句も生まれます。これなんか、やっぱり地獄の閻魔様のようなイメージから、悪事や良心の呵責と結びついているんでしょうね。
 というわけで、いきなり現代に話が飛んできます。
 先ほど書いたように、「鬼」=「もの」とは、自分のコントロールできない「何か」を広く表す言葉でした。そして、その「鬼」=「もの」を幽閉し、あるいは自らの制御下に置こうとしたのが「近代」であると言えます。ですから、我々現代人は、基本的にそうした「鬼」=「もの」を忌み嫌ってきたわけです。見ないようにする、あるいは、皆でいじめる。豆まきはその象徴です。
1 さて、そんな中、「鬼」=「もの」を、決して拒否せず、またそれから逃げずに、しっかり向かい合った青年がいました。それが志村正彦くんだったというわけです。
 彼を評するのによく使われる言葉は「叙情」「変態」などですが、それらはある意味「心の鬼」と言えます。「敏感」で「繊細」な「叙情」は、「説明できない孤独や切なさ」であり、「変態」は「妄想」や「性的な欲求」かもしれません。それらは、古文の時代においては「もののけ(物の怪・鬼の気)」と呼ばれました。
 そう考えると、彼らの代表曲の一つ(音楽的にも世界に不二な存在です)「モノノケハカランダ」は、まさに古典的な日本語、あるいは古典的な日本人の感性や世界観をそのまま継承していると言えますね。
 YouTubeで聴いてみましょう。

モノノケハカランダ

20100204_62102 すごい音楽ですね。イントロからして、私の常識ではありえない音楽です。天才。
 歌詞を読んでみましょう。「思いのほか」、「止まるなって言ってる」、「獣の俺」、「もうモノノケ」、「止まれなくなってる」…これこそまさに「心の鬼=モノ」世界です。
 昔ならこの感情を和歌で表現していたのです。あるいは、皆さん御存知の徒然草冒頭にある「ものぐるほし」という言葉もそうですね。あれなんかも、学校の先生や学者さんたちは、その真意をとらえていません。
 一方の「説明できない孤独や切なさ」についても、もう例を挙げるまでもなく、フジファブリックの曲に満載です。志村くん最後のアルバムとなってしまった「CHRONICLE」は、まさにその双方の「心の鬼=モノ」の競演、せめぎ合いであったと言えます。
 そういう我々がつい幽閉してしまう「モノ」に、正面から対峙したのが志村正彦くんだったわけですね。それを「天才」と言ってしまうのは、もしかすると安易なのかもしれません。彼のその「まじめすぎる」「不器用な」生き方は、すなわち「命を削る」生き方そのものだったわけですから…。

 PS 今日「鬼は内」と言ってマメを食べたら、皆さんが追い出した鬼がみんなウチに来てしまいました。カミさんがまさに鬼の形相になって、ものすごいことになりました(笑)。2時間ほどで正気に戻りましたが、全然覚えてないとのこと…おいおい(笑)。しかし、そういう手荒いカタルシスも必要なんです。あとには晴れ晴れしく澄んだ空気と心が残りました。ふぅ。

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2010.01.26

今年の4月は「来春」か「今春」か

↓写真は志村くんゆかりの忠霊塔の「春」
O0800053510163967887 ほど、ご意見番(ウチの父親)から電話があり、「昨日の記事には間違いがある!『来春開校の中学…』ではなく『今春…』と書くべきだ!」と強く叱られました。「そんな先生が中学生に国語を教えているとなると、親から苦情が来る!」とまで言われました(笑)。
 父親が言うに、「辞書に『来春=来年の春』『今春=今年の春』と書いてある!」とのこと。たしかにそうです。
 しかし、ちょっと皆さん、考えてみて下さい。1月である今、3ヶ月後に来る春を「今春」と言うのには、ちょっと抵抗がありませんか?
 ない…?なるほど、そういう人もいるかもしれません。それもわかります。なぜなら、やはり辞書的に正しいし、新聞やテレビなどのマスコミも当然辞書に従っているため、実際にそのような表現を目に耳にすることが多いからです。
 では、完全に私の間違いかと言いますと、そうとも言いきれません。
 父が辞書と言った、その辞書は当然現代の国語辞典です。たしかにほとんど全ての辞書に上記のような記述があるようです。しかし、事情は辞書ほどに明解、いや明快ではありません。
 たとえば、こんなふうに、私の感覚や使い方の肩を持つこともできます。
 まず、もっと古い辞書を引っ張ってきましょう。17世紀初頭の「日葡辞書」です。

『来春「Raixun (ライシュン)。キタル ハル〈以下ポルトガル語の訳〉今度の春。文書語』

 そう、来たる春が来春なのです。next springということです。今、季節はどう考えても冬ですから、今年の4月は(次に)来たる春に間違いないことになります。
 考えてみると、本来「今〜」とか「来〜」とかいう熟語の「今」や「来」には、「今年の」とか「来年の」とかいう意味はありません。
 「今週」「来週」、「今月」「来月」、「今年」「来年」、「今学期」「来学期」などと言う時の「今」と「来」は、「(話し手が)今いる時間的範囲(期間)の」と「今いる時間的範囲(期間)が終了したのち来たるべき次の時間的範囲(期間)の」という意味です。
 ついでに言うと、一つ前のスパンを表すのは「昨」ですね(「昨〜」が使われない場合もありますが)。
 そうした本来の「今」「来」の使い方からすると、「今春」とは「今身を置いている春」、「来春」とは「今身を置いている春の次に来る春」ということになり、たしかに「今年の春」「来年の春」と同義になります。
 ただ、この解釈ですと、「春」に身を置いている時にしか、この表現はできないことになりますね。夏や秋や冬には使えない表現ということになります。
 しかし、どうも事情はもう少し複雑なようです。たとえばプロ野球で、ある年のペナントレースが終了し、その結果を振り返るのに、「今季」と言いますし、次のシリーズに向けて「来季に期待しましょう」などと言います。
 つまり、それらの「時間的範囲(期間・節)」が連続していない場合もあるわけですね。シーズンオフがはさまれたり、別の「節」が挿入されたり。その場合には、「今」「来」のニュアンスが少し変わってきます。
 すなわち、その「節」が連続しておらず、間に違う「節」がある場合、その違う「節」に身を置いている際には、「今〜」の「今」は「直近の過去の〜」ということになり、「来〜」の「来」は「直近の未来の〜」ということになるわけです。
 季節もそういうことになりますから、今の解釈に従って、「今季」「来季」と同じ感覚で「今春」「来春」と言ったとしたら、私の「来春」の解釈で間違っていないことになります。今、冬で、その「直近の未来の春」ですからね。
 では、なぜ、「今春」「来春」の場合には、辞書に「今年の春」「来年の春」といった異様な解釈が載っているのでしょう。
 もうお分かりかと思いますが、これには旧暦から新暦に移行した際の複雑な事情が絡んでいるのです。
 お正月を新春と言いますよね。つまり、旧暦では、1月1日はほぼ「春」でした。「ほぼ」と言ったのは、立春よりも早く年が明けることもけっこうあるからです。それでも、感覚としてはだいたい「立春」の頃が「元旦」でした。
 そうすると、旧暦のもとでは、「来春=直近の未来の春」はすなわち、ほとんど全て「来年の春」となるわけですね。「今春=直近の過去の春」は「今年の春」です。
 と、そんな事情もあって、旧暦下では私の解釈も父の解釈も正しいし、同じことになってしまうんですね。
 ところが、明治以降、かなり無理をして新暦を導入した結果、まあ、暦はめちゃくちゃなことになってしまいました。「暦の上では」という表現とか、「お盆」なんか「旧盆(旧暦7月15日)」「新暦7月15日盆」「月遅れ盆(新暦8月15日)」とか…もう本当に訳がわからん状態です。
 この「来春」「今春」問題もまた、そうした弊害の一つと言えるでしょう。
 辞書というのは、実は孫引きに孫引きを重ねて成立してきています。今の辞書の原形は明治時代の辞書たちです。大槻文彦の「言海」や、山田美妙の「日本大辞書」、上田万年の「大日本国語辞典」などですね。そのあたりを参照してみないと分かりませんが、江戸や明治初期の暦の感覚のまま「今春=今年の春」「来春=来年の春」と書いてしまった可能性は高いと思います。そして、それを孫引きして、論理矛盾に気づくこともなく、また、本来の「今〜」や「来〜」の意味を無視して現在に至る…と。
 というわけで、たしかに辞書的には私の「来春」の使い方は間違っているかもしれませんが、語誌的に、また日本人の感覚的に考えて、立春前である昨日、あのような表現をしたのは、あながち間違いでないと思います。
 ま、ここは私が素直に間違いを認めましょうか。親子ゲンカになるのも面倒なので。直しておきます。「来春(この春)」と(笑)。
 ただ、「そんな先生がうんぬん」の発言は撤回してもらいたいですね(お互いかなり頑固でして…苦笑)。

PS いつか書きたい「時間」に関する論理矛盾(謎)を挙げておきます。
 正午は午前12時か、午後12時か、それとも午後0時か…。
 日曜は週の始めなのに、なぜ「週末」に含まれるのか…。
 電車ホームの告知板の「こんど」と「次」とは…。

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2010.01.20

『YOUNG YAKUZA』 ジャン=ピエール・リモザン監督作品

1002_wide_docyu さに隠れた名作。日本では公開されませんし、DVDも発売されないでしょう。ですから、今のうち観ておいてください。
 北野武監督と蓮實重彦さんの対談作品などでも有名なフランスの映画監督ジャン=ピエール・リモザンによる2008年作品です。ウワサには聞いていましたが、これはたしかにいいですね。
 稲川会碑文谷一家熊谷組の「日常」を撮ったこの作品。ドキュメンタリーのようで、ドラマのよう、ノンフィクションのようでフィクョンのよう…実に異彩を放つ名作になりましたね。
 まさに虚実皮膜の間。まるでプロレスの世界観のようです。いや、結局、ちょっと前にも書きましたように、こういうヤクザ界やプロレス界、そして芸能界など、本来の「物語」世界はこういうものなのでしょう。
 2007年度カンヌ映画祭 ドキュメンタリー部門に出品されたこの作品。聞くところによると、この作品、熊谷正敏組長自ら撮影を提案したとか。たしかに、組長カッコよすぎます。絵になる男。目力、言葉力、そしてたたずまいが半端ではない。
 他の組員たちも、途中まるで役者さんのように見えてきます。それほど自然でありながら、しかし、ちゃんとストーリーが感じられる。
 かちんこも使って、ある程度のシナリオも組んで撮られたということですが、そのある意味美しすぎる各シーンが、まさに北野映画を思わせます。暴力の裏にある「優しさ」「愛」「切なさ」「悲哀」…やっぱり北野映画ですよね。
 一般の仁侠映画や北野作品のような暴力シーンは皆無です。静かに淡々と「日常」が綴られていく。「非日常」はお見せできませんということでしょうか。
 その結果、この作品における熊谷組長は、まさに「教育者」として映ります。いや、我々現代人が忘れてしまった大切な「モノ」を伝える伝道師のようでもあります。非常に正しいことを語り、そして「愛」に満ちている。たとえこれが多少のフィクションを含んでいるとしても、しかし、たしかに感動的であるのは事実です。
 カトリック信者である組長が教会の神父さんを訪ねるシーンや、三社祭を颯爽と闊歩する姿には、どこか宗教的な香りさえしてきます。
 ヤクザ世界の必要悪的な有用性については、今までも何度も語ってきました。私は単純なヤクザファンではありませんが、ヤクザ的世界の絶対的な必要性については認めています。
 我々庶民が悪をなさないための抑制力であり、外敵から日本を護る防波堤であり、また資本主義における理不尽な富の偏在を再分配する役割を担うことは否めないと思います。それを弱体化してしまった私たちが、どんな危険にさらされているか、誰しもが肌で感じているはずです。
 組長のみならず、いろいろな人の口から様々な名言を聞くことができます。ノンフィクションとしても面白い。フィクションとしても面白い。
 なるほど、「美の国は道徳の世界より広大である」か。

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2010.01.15

祝!『1-click Award』最優秀賞…おそるべし西裏パワー

505841773o ょっとまだ情報が不足しているのですが、本人の報告によりますと、私の教え子が、リクルート主催のウェブコンテンツ&広告アイデアコンクールである(と思う)1-click Awardのプランニング部門で最優秀賞を獲ったとのことです。
 公式サイトを見る限り、私でもわかるほどそうそうたるクリエイターの皆さんが審査員なのですが、その方々による審査会全会一致で彼女が最優秀に選ばれたとのこと。
 いやはや、天才だとは思っていたけれど、ここまでとは…。
 ちなみに彼女の作品、「いつのまにか日記」という作品なのですが、いったいぜんたい、何が「いつのまにか」なのか、どういうふうに「いつのまにか」なのか、どんな「日記」なのか、あるいは全然「日記」でないのか、全くわかりません(笑)。
 このプランニング部門では、企画書を作って提出し、第1次審査を通ると審査員さんたちの前で実際にプレゼンをやるという流れだったようです。
 11月の終わりに、彼女から「1次通りました!」との連絡があり、実はもうその時点でとんでもない高いレベルのとんでもない数の応募の中のベスト5に選ばれていたわけで、私もかなり興奮したんです。で、12月のはじめにそのプレゼンがあるということを聞き、ちょうど私も新しい中学のプレゼンをガツンとやっていた時期でしたので、「魂を動かすプレゼンをせよ!」「心の感動は一時的だが、魂の感動は相手の行動に変化を起こす」という言葉を送りました。
 なんて、これ思いっきり受け売りでして、出口王仁三郎のひ孫にして、いつも私の心の支えになってくださっている出口光さんのお言葉であります。
 結果として、私の「企画書」と「プレゼン」である新しい中学も無事多くの生徒さんを迎えてスタートできそうですし、彼女も見事最優秀賞を獲得したということで、本当に本当にありがたく思っています。直接お礼申し上げていませんので、ここで伏して御礼申し上げます。
 まあ、それにしても、彼女にはずいぶんとしてやられますわ。いつかもちょっと書いた記憶がありますが、彼女は、最初ある公立高校に通っていたんですね。しかし、そこの「個性を全く無視する教育(当時)」に押しつぶされ、ドロップアウトしてしまいました。
 その後、縁あって私のクラスでやり直すことになったわけですね。そして「個性を必要以上に伸ばす教育(当時〜現在)」に接し、その後はとんとん拍子、日芸の放送にちゃっかり合格し、やることなすこと全部うまく行き、人に恵まれ、多少周囲を振り回しつつ利用しつつ、某広告会社にすんなり内定を決め、そしてまた今回の偉業です。
 なんて、こんなふうに書くとまるで私の手柄みたいですね。本人に怒られてしまいます。実際、彼女、最近「私ははったりではない」宣言をしてますからね。最初は私のキャッチフレーズである「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を見事に継承している(いや、私は最後の一つに関しては全然ダメ。彼女はそこにも才能がある!)と思ったんですけど、最近は「私は先生とは違います!」と言う…いや、そのようにハッキリは言いませんが、そういう空気が出ているんですよね。
 まあ、正直認めましょう。お前の才能なめてた!本物であると認める!くやしいけど(何が?w)。実際、才能もあり、そして実は地道に積極的に努力しているのを知っていますから、なんでもテキトーな私とは全然違います。
 今回も、プロの方々をも差し置いて最優秀賞を獲ってしまったとのこと。おそるべしだな。
 で、結局、その受賞作品がどのようなものかさぱーり分かりませんが、とりあえず「おめでとう!」と言っておきます。そのうち公式サイトで正式な発表があり、本人のインタビュー映像などが観られるようになるでしょう。得意のトーク(?)で笑わせてくれる(あるいは泣かせてくれる)ことを期待します。
 最後に一つ。本人にもちょうどフジのライヴの帰りに言ったことがあるんですが、彼女フジファブリックの志村正彦くんに似た空気と才能を持ってるんですよ。
 実は、彼女の生まれ育った地域というのが、富士吉田のいわゆる「西裏」というところでして、ここは独特の「地霊」が宿るところなんです。
 たとえば、太宰治の富嶽百景のあの名文(こちらの記事で紹介しました)が生まれたその場所であり、そして、昨年末夭折したフジファブリックの志村正彦くんが生まれ育った地域でもあります。ここは本当に不思議なところです。今は「昭和レトロ」の遺跡群として有名なところですが、それ以前に、人間と自然と神仏の欲望(?)が渦巻く独特な空気を持つ地域なんです。こちらのサイトでその一端に触れてみてください。
 彼女も志村くんも、そういう空気(霊気)をたっぷり吸い込んで、そしてその地霊を踏みしめて育ったんでしょうね。だからでしょう、なんかとんでもない「天才」の香りがする。
 なんて、ちょっとほめすぎかな。いや、今後の活躍にも期待しますよ。そして、いつか、もし独立でもしたら、小間使いとしてでも使ってくれ!オレも教員退職後はクリエイティヴな仕事したいんで(笑)。
 ま、そんなこと以前に、まさにその土地に開校する新しい中学校で、天才たちを創造していきたいと思います!がんばるぞ〜!

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2010.01.12

『プロレスは生き残れるか』 泉直樹 (草思社)

79421741 局、私の人生は、正しい「歌」と「言葉」と「肉体芸術」の伝承のためにあるのだなあと思います。
 それらを無理矢理まとめると「祭」ということになりましょうか。まずは神仏の存在という「モノ」があって、それを現し世に「コト」としてうつす(写す・映す・移す・遷す)作業です。
 現代は、まず我々を超えた「モノ」の存在を忘れてしまっています。全てが自分たち人間の世界観、ものさしで展開しています。特に本来の「神」に代わる悪神「カネ」はたちが悪い。我々は悪神の示す「勝ち負け」だけで自らの幸不幸を語るようになってしまいました。
 そうした「カネ」を価値基準とした世界からは、まず「祭」などという実に非論理的、非生産的なものが切り捨てられます。
 何度も書いているように、負の祭祀を司ったヤクザさんが消え、その鏡像たる皇室の権威も蹂躙され、もうこの国日本はすっかり乾いてしまっています。残念です。
 そうした世の動きとともに、衰退してしまった「モノ」と「コト」。その一つがプロレスです。もののけたちの肉体による供宴。神仏に捧げる非日常的マレヒトの来訪。
 この本では、そのような文化史的な考察は皆無ですが、しかし、この十数年で起きたプロレスを取り囲む変化が、比較的冷静に語られています。
 プロレスマニア的には、やや深みが足りないという感じもしますし、私の読んだ単行本やムックからの引用が多く、まあ復習には良かったかもしれませんけれど、少し物足りなかったかなあ。
 しかし、よくあるプロレス本の胡散臭さや過度なマニアックさがなく、一方でずぶのプロレス素人が書いたような痛さもなかったということは、ある意味今までにない距離感の良書なのかもしれません。
 他の分野でもあるんですよねえ。たとえば宝塚みたいに。極度に分かる人と全然分からない人に分かれる世界が。プロレスもその最たるものでしょう。ですから、一般書籍としての距離感が難しい。
 特に、先ほど書いたような世の中の現状ですから、我々プロレスファンは、まるで時代遅れのお変人のように扱われてしまう。総合格闘技というエセ(!)スポーツの方が、単純ですしカネになりましたからね。つまり、私たちの物語を紡ぐ力、創造力やら想像力やらがどんどん欠乏していっているわけです。
 おっと、またそっちの視点になってしまった。ええと、この本では、そのような視点ではなく、どちらかというと経営的な視点やトレーニングのあり方などが中心となっています。つまり、業界側の話。
041031_kak_zen_08_mutou_b そういう意味で面白かったのが、全日本プロレスの武藤敬司社長と内田雅之取締役、そして道場で若手の教育役を担っているカズ・ハヤシ選手の現場の声でしょうかね。リアルで興味深かった。
 なかなかインタビューなどの協力が得られなかった中、結局多くを語ってくれたのは全日本プロレスだったようです。そんな姿勢にも、全日の「自由」な発想が感じ取れましたね。いまだに閉鎖的なところも多いですし。
 昨日も全日の1月3日後楽園ホール大会をテレビで観戦しましたけれど、たしかに見事なパッケージ・プロレスでしたよ。武藤社長のプロレス観や経営センスに、私は違和感はありません。正しいかどうかは分かりませんけれど、一つのプロレス道であることは認めます。実際に今、非常に安定感がありますからね。
 私は一方で、現在の全日とは違った方向性を持ついくつかのプロレス団体の関係者の方ともご縁があります。私からしますと、どれも間違っていないように感じるんですね。もともとプロレスはその定義すら難しいほどに混沌として幅広く、奥の深い世界です。いろいろなシステムや目標があっていいですし、それらの微妙な行き違いや、奇跡的な交接というのが、プロレス的物語世界の面白さですから。
 この本の中でも話題になっていた「非合理的なスクワット」なんかも、両方の考え方があっていいと思うんです。その多様性こそがプロレス的世界だと思いますから。武藤選手のように「そんなことしたから膝が壊れた」として若手にそれを強要しないのも一つの考え方ですし、宮戸優光さんのように新年早々若手とスクワット1000回やるというのもいい。
 私はスクワットなんて50回しかやったことありませんから(笑)、全然無責任な考えなんですけど、なんとなく信じたいんですよね、その「非合理的、非科学的トレーニング(単なるしごきとも言われる)」から生まれる「何か」があることを。もしかすると、武藤選手も今の輝き(頭じゃなくてオーラ)があるのは、その無駄なスクワットのおかげかもしれません。膝が動かないからこそ生まれた、あの武藤ムーヴは、もう完全に芸術の域に入っていますから。
 まあ、そんな無責任で根拠のない「信じたいもの」こそが、神仏を招く「物語」なのだと思いますよ。
 そういう意味では、業界の危機に際して、単に大同団結したりするのも危険と言えば危険です。他の業種とのコラボレーションも慎重でなければなりません。プロレスには常に、我々凡人がタッチできない「聖域」があってほしいものです。「わからない」ことの面白さを失わないでほしい。
 なんか頭の中がまとまらないうちに書きなぐっているので、文もまとまりませんね。すみません。私の意見を一言で書いちゃいましょう。
 「プロレスは生き残れるか。衰亡か、復活か」…その答えは、実は、プロレスラーやプロレス業界側にあるのではなく、それを観る、そして囃す我々や我々の社会の側にある。
 だからこそ前途多難なのです。でも、私はあきらめません。
 結局、この本はある意味「武藤本」でした。三沢光晴さんの死をきっかけとして書かれたというこの本が、「武藤本」になってしまったというのは、なんとなく皮肉なような気もしましたが…いや、三沢さんも武藤さんも、観客やファンの立場に立つ冷静さを持っているように感じますから、ある意味両者とも「王道」の継承者なのかもしれませんね。
 昨年末、富士吉田が生んだ天才、フジファブリックの志村くんが急逝してしまいました。残る富士吉田出身の天才武藤敬司には、まだまだ頑張ってもらいたいところです。近いうちにぜひお会いしてお話してみたいと思います。

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2010.01.07

『Onaraはずかしくないよ』(テレビ東京 ピラメキーノ)

61qowcfelfl_sl500_aa240_ 日の「詩」の世界からいきなりこっちの「詩」の世界に。いや、こっちは「詞」でしょうか。あるいはある種の「シュレヒコール」でしょうか。
 たしかに画期的であります。今までのタブーを破る革命ソングです。大いに思想的、ある意味反社会的な歌ですね。これは力がある。
 ウチは変わった家庭でして、子どものテレビは、NHKとテレビ東京とBSデジタル各局(特にNHK3局)と、CSのプロレス専門局しか見せません。というより、娘たちがそれ以外を観たがりません。親の影響でしょう。
 私もそれでいいと思っています。他の局、つまりテレ東以外の地上波民放はうるさいだけで観る気がしません。
 テレ東のいいところは、低予算のおかげで、逆に内容が充実している、すなわちスタッフやタレントさんの実力がストレートに表現されているところです。派手な演出やネームバリューだけのタレントに頼らないわけですからね。
 娘たちが好んで観ている「ピラメキーノ」も、なかなか面白い企画やアイデアに満ちており、私も好きな番組です。馬鹿馬鹿しさもあそこまで行けば、一つの芸になりますからね。徹底ぶりが良い。
 この番組の中心的タレント(才能)は、はんにゃとフルーツポンチです。特にはんにゃの金田哲くんは、この番組で最も彼らしさを発揮していると思います。
 そんな彼が女装をして(これが妙にカワイイ)歌って踊るのが、この「Onaraはずかしくないよ」です。
 これがなかなかなのですよ。世の中には暗黙のルールというのがあって、それが常識化している、あるいは不文律化していることが多いわけです。我々は、そうした見えない力に呪縛されていることが多々あるわけですね。この「女の子のオナラ」というのも、実に微妙なタブーになっている。
 これは一種のジェンダーとも言えるわけで、男女共同参画社会とか夫婦別姓とかバカなこと言う前に、こういう生理的な問題を解決すべきだと、私はまじめに思うのであります(笑)。
 いや、実は私、この問題について、けっこう深く考えたことがあるんですよ。たとえば、ウチの夫婦というか家族なんかは、オナラ合戦で盛り上がったりするわけですが、反面、ごく最近、ある知り合いの女性が、おそらく私がそこにいることを知らなかったのでしょうね、けっこう豪快にオナラしちゃいまして、それで、私、自分の予想以上に引いちゃったというか、萎えちゃったというか、そういうこともあったりして、いったいこの気持ちの違いはなんなのだろう、ここのところの差というか、一線というか、そういうものが、いったいどこにどのように存するのか、ここ数十年考えてきたわけです。歴史的にどうなのか、世界的にどうなのかも含めて(笑)。
 で、その結論というのがなかなか出なかったところへ、こうして「ブー」…じゃなくて「プー」…この音韻的な感覚というのも面白い研究対象です…と発砲して風穴を空けてくれたのが、この歌だったわけです。
 ま、前にも、古くはサミー坊やの「ONARAソング」とか、近くはのだめの「おなら体操」とかありましたけど、「ONARAソング」はたしかオナラをしてしまった恥ずかしさを歌った歌だったし、「おなら体操」は、ジェンダーの生じる前の幼児を対象にしたものなので、実はなんの解決にもなっていなかったんです。
 今回は小学生以上が対象ですから、革命的なわけです。作詞は構成作家のオークラさんですね。素晴らしいお仕事をしました。
 ちょっと聴いてみてください。

 歌詞を記しておきましょう。
 
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
女の子だって出るときゃ出るのよ
パピプペプープープープー
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
オ・ナ・ラ・プリ(Oh! Nice Lovely)
マイステップアッププープープープー
女の子だってみんな1日
10や20のオナラするのよ
だからダメダメルールでしばっちゃ
みんなのオナカがSOSなの
お願いダーリン
許してもう出ちゃいそう
聞いてねダーリン
3・2・1でプップッププー
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
女の子だって出るときゃ出るのよ
パピプペプープープープー
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
オ・ナ・ラ・プリ(Oh! Nice Lovely)
マイステップアッププープープープー
オ・ナ・ラ・プリ(Oh! Nice Lovely)
マイステップアッププープープープー

 「女の子だってみんな1日10や20のオナラするのよ だからダメダメルールでしばっちゃ」という一節が実にいいですね。男も女も基本消化器官の構造は一緒でしょうから、同量の発酵ガスが発生し、対外に排出されているはずです(1日約1リットルだそうです…これを全部ためこんだらたしかにSOSですね)。
 しかし、現実には、その生理現象に対する社会的評価は、とてもとても男女平等とは言えない状況であるわけですね。それをこうして、女性の立場から(しかし、はんにゃの金田という男性が)明るくシュレヒコールしてくれたのです。
 はたして、我々「男女」という社会的言語に縛られた現代日本人は、その数千年(?)の呪縛から解き放たれるのでしょうか。たぶん、難しいとは思いますが…。でも、こういう暗黙のルールを茶化して、一種の緊張をほぐすという行為は、たぶんどの時代にも大切なことだと思います。
 考えてみると、「おなら」というのも「お鳴ら」という意味の女房詞ですから、江戸時代の女性もある意味ギャグ化していたわけですね。ちなみに、「へ」を「ひる」という言葉ですが、奈良時代くらいまでハ行の音は「p」音でしたから、今風に表記すれば、「ぺ」を「ぴる」ということで、実際の音を模したものなのです。まさに「パペピプー」ですね(笑)。

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2010.01.05

『新春! 歌まつり2010』 (NHK歌謡コンサート)

20100106_62356 そるべし!二葉百合子。
 昨日のブッチャー&テリーというレジェンド(おっと長州力もいたっけ)もすごかったけれども、こちらはさらにすごい。芸能生活75年って…。いったいおいくつなんだ?と思ったら、3歳でデビューしているので78歳とのこと。
 そして、その二葉百合子さんの歌がうまいのなんのって。衰えるどころかますます味が出ている。
 今日の「歌謡コンサート」は700回記念ということで「新春! 歌まつり2010」と銘打っての拡大版でして、以下のようなそうそうたる演歌歌手の皆さんが出演され、名曲を熱唱していました(ううむ、一人KYな人がいるぞ…彼は78まで歌えるのだろうか)。

「北酒場」/細川たかし
「北国の春」/千 昌夫
「命くれない」/瀬川瑛子
「襟裳岬」/森 進一
「たてがみ」/長山洋子
「みれん酒」/石原詢子
「祝い酒」/坂本冬美
「関東一本〆」/二葉百合子
「おさななじみ」/坂本冬美・長山洋子
「心のこり」/細川たかし
「星影のワルツ」/千 昌夫
「銀座の恋の物語」/山川 豊・石原詢子
「炎」/冠 二郎
「アメリカ橋」/山川 豊
「まつり」/北島三郎
「さよならはダンスの後に」/倍賞千恵子
「冬景色」/安田祥子・由紀さおり
「雪」/安田祥子・由紀さおり
「冬の星座」/安田祥子・由紀さおり
「千の風になって」/秋川雅史
「天城越え」/石川さゆり
「舟唄」/八代亜紀
「冬のリヴィエラ」/森 進一
「帰ろかな」/北島三郎

 それぞれ当然うまいし、個性もあって良かったわけですけれど、やはり、ダントツの存在感というか、まさに会場を巻き込んだ「芸」を見せつけていた(聞かせていた)のは二葉百合子さんでした。演歌の歴史を語るのには、やはり昭和初期までの浪曲ははずせませんね。
 つくづく演歌とプロレスの世界って似ているなと思いました。この前キラー・カーンさんもそんな話してましたよ。彼は両方の世界をきわめましたからね。
 浪曲や長唄を知らないで節回しだけで歌おうとする若手歌手が多いのは、本当のプロレスリングを知らないで飛んだり跳ねたりする若手レスラーと同じです。
 素人がカラオケをやるように、素人がどんどんリングに上がっているというのも似ています。
 それ以前に、年齢とともに「味」が出るというのも似ていますし、人生が反映する、人生を聞かせる、見せるというのも似ています。
 レジェンドに頼っていて、新人が育ってこないというのも似ていますかね。いったい10年後はどうなってしまうのでしょうか、両方とも。
 昨日も今日も、中堅どころでイマイチ技が単調なの人がいましたね。部分部分はうまいんだけれど、全体としての大きなうねりや、リズム感が足りない。そんなところも共通していました。
 実は今まで何度も書いてきましたが、「本来の」ヤクザがいなくなったのも、両世界の衰退に関係しています。特に地方のヤクザ。最近、地方で歌謡ショーやプロレスが行われなくなったでしょう。こうしたフィクションとリアルの交錯する舞台が、日常に混入しなくなってしまったのは、我々にとって大きな損失ですね。
 それにしても、二葉百合子さん、すごかった。どれだけ努力しているのだろう。他の歌手たちが「日本一!」と言っていましたが、それってお世辞でもなんでもない。実際、彼女たちの先生ですしね。今の演歌界を引っ張る大御所たちを育てたんですから、そりゃあ日本一でしょう。ということは、当然「世界一」ということでしょう。

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2010.01.04

『レッスルキングダムIV in 東京ドーム』 (新日本プロレス)

↓赤虎敗れる。
20100105056 このところ想定外のことが続き、やや疲れていたのでしょうか。夕方から寒気がして、いや〜な予感がし始めました。まさかここに来て新型インフルエンザじゃないだろうな…。
 実際体温を計ったら微熱がありました。しかし、その数時間後には平熱に戻り、すっかり元気になってしまった。なぜか…。
 それはプロレスをたっぷりテレビ観戦して、大いに興奮し、大声を出して応援し、レスラーの方々からたくさんの元気をいただいたからでしょう。いやあ、素晴らしい大会でした。
 ええと、まず最初に書いておきます。昨年末の格闘技イベント「Dynamite!! ~勇気のチカラ2009~」、いちおうひと通り観ましたが、本当にいろいろな意味で気分を害しました。いよいよ総合格闘技も終わりだなと思いました。来年末はないかもしれませんね。
 ちょっとだけ愚痴らせて下さい。
 まず、石井慧と吉田秀彦。これはしょっぱすぎた。これもいちおう興行的にはメインの一つだったわけですよね?ちょっと考えれば分かることですけれど、デビュー戦がメインになるようなスポーツなんてあるわけないじゃないですか。それもそいつがベテランに勝つと思われているなんて…。いや、アマチュア時代を経てのゴールデン・ルーキーだったらまだ分かりますよ。違う競技をやっていたんですから。いや、柔道対決だったらメインでいいです。金メダリスト同士の。ですよね?
 そして、静岡の恥、格闘家の恥、青木真也。もう何をか言わんやですよ。試合内容というか、あの結末を見せられて不快である上に、なんすか、あの態度!プロとして観客に見せるべきものが全く分かっていない。もう格闘界追放でいいです(苦笑)。あんなのを祭り上げているようじゃ、総合格闘界も終わりですね。
 ああ、ちょっとすっきりした。正月の間、ずっといやな気分だったんで。スミマセン。
20100105086 さあ、それに比べてこちらの対抗戦は良かったなあ。プロレス的世界こそ年末年始に必要なものですよ。いやあ、ホント病気も治っちゃう。もうすっかり元気ですよ。
 一つ一つの試合について語っていると長くなるので、肝心なポイントだけ語ります。
 まず、前半の最後、68歳のアブドーラ・ザ・ブッチャーと65歳のテリー・ファンクの試合。これはもう涙ものですね。それが新日本のリングで実現しているんですから。なんというか、感慨無量としか言いようがありませんね。まさに新年に大黒様と毘沙門天という異国の神が降臨したという感じですね。
 もちろん、これはスポーツなんていう狭い範疇におさまるものではありません。宗教儀式です。試合内容とか両者の動きとか、そんなことはどうでもよくて、あの存在感、オーラ、観る人の思い、それでいいのです。ウチの夫婦はもう入場の音楽だけで号泣してましたから。このあたりで、私の体調も復活しましたね、まじで。
 試合後の二人の神のコメントが対照的で面白いですね。
テリー「生まれた時からレスラーで死ぬまでレスラー。なんて素晴らしい世界なんだろう」
ブッチャー「若い人に言いたいのは弁護士か医者になったほうがいい。プロレスラーなんかなるもんじゃないよ」
 素晴らしいですね。自らの立場、キャラクターを生かしきっている。そして、加えて最後にブッチャーが「人間は誰でもそうだが、父親が1人、母親が1人。とにかく両親を大事にしろ」と言っているのは、なんとも感動的ではないですか(笑)。
20100105037 後半の新日本とノアの対抗戦も良かったですね。対抗戦ならではの緊張感とともに、若手の伸び伸びとしたせめぎ合いが実に刺激的でした。プロレス界もようやく復調の兆しが見えてきたという感じです。
 最後のメイン、中邑真輔対高山善廣、当然ごひいきな高山選手を応援していたのですが、結果は中邑選手の防衛でした。説得力は圧倒的に高山選手でしたが…まあ、しかたありませんね。
 やはりプロレスは「気持ち」が大切です。レスラーたちの「気持ち」が何万人もの人に元気と勇気を与えるのがプロレスです。そこが、単純な勝敗を競うスポーツとは、一線を画しているのです。やはり一種の「祭」ですね。
 というわけで、今年もプロレスをたくさん観て、プロレスの勉強をして、プロレスラーの方とお話をして、自分も「心のプロレスラー」として進化していきたいと思います。

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2010.01.01

謹賀新年 2010(年賀状公開)

 けましておめでとうございます。
 昨年は、忌野清志郎さん、三木たかし先生、三沢光晴さん、マイケル・ジャクソン氏、そして志村正彦くん、加えてスティーヴ・ウィリアムス選手と、私たち家族にとって、本当に大切な大切な人たちを失ってしまいました。
 今年は、そうした方々の功績と遺志を踏まえ、正しい音楽文化、プロレス文化を継承すべく家族一同頑張ります!皆さま、よろしくお願いいたします(不二草紙もよろしくです)。
 個人的には、準備してきた中学がいよいよスタートしますので、そちらをまずしっかり運営していきたいですね。自分の人生の集大成になるよう努力いたします。
 ↓今年の年賀状です。相変わらずお馬鹿ですけど、どうぞ初笑いにお使い下さい!まずは笑いが一番ですよね(私たち家族はどこにいるでしょう?ww)。
2010_1

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