カテゴリー「文化・芸術」の1418件の記事

2017.09.18

第19回 かりんの会 朗読会

20170918_120243_2 楽三昧の3連休最終日。昨日、一昨日の経験と思索が活きた演奏ができたかな。
 今日は河口湖円形ホールにて、朗読の伴奏をさせていただきました。
 こういう活動は、なんだかんだで30年近くやっており、いつのまにか自分の音楽活動の軸の一つになっています。
 あらためて私の音楽活動の軸というのを申し上げますと、

1 古楽器アンサンブルによるバロック音楽演奏
2 歌謡曲バンドによる昭和歌謡演奏
3 即興演奏による朗読伴奏

 であります。演奏頻度はやはり1,2,3という順番になりますかね。ですから、今日のような活動はあまり多くはない。年に2回くらいです。
 今日は、地元の村の方々を中心に結成されている「かりんの会」の19回目の朗読会。こちらも大変長く活動されている団体です。
 一昨日は15回、昨日は200回、今日は19回…なるほど、皆さん立派に継続的に活動されていますね。私はいつも乗っかるだけ。
 さて、この3番の活動の楽しみは、やはり「即興」ということでしょう。いちおう1回だけ打ち合わせはしましたが、リハもほとんどなし。その場の雰囲気で音楽や効果音を入れていきます。
 今日は四つの楽器を演奏しました。すなわち、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、八雲琴です。
 音楽と言っても、朗読を妨げることのないように、多くはオープニングとエンディング、そして場面転換の時しか入れません。
 効果音は、たとえば今日は、ワインが爆発する音、大蛇が追いかけてくる音など。その他、ヴァイオリン属の楽器では、車の音や飛行機の音、サイレン、人が話す声、猫や犬や牛や馬の鳴き声など、幽霊の出そうな音など、けっこういろいろな音を出すことができるんです。
 今日は合計で9作の作品の朗読のお手伝いをしました。内容はいちおう読んで把握していましたが、細かいところは忘れているので、ライヴで聞きながらその世界に没入し、ここだ!というところで楽器を奏でるという形です。
 人によっては、そんな危なっかしいことをして失敗したらどうするの?というお思いになることでしょう。
 しかし、面白いもので、集中していると、それこそ「ものまね(モノを招く)」状態になり、自分でも気持ちよく朗読の手助けができるのです。
 おかげさまで、話者の皆さんにも、聴衆の皆さんにも、大変喜んでいただきました。というか、とりたてて「伴奏が良かった!」と言われないところが自分としては大成功(?)。
 映画にせよ、演劇にせよ、テレビドラマにせよ、「音楽が良かった」というのは、二次的な感想であるべきですよね。
 もちろん即興ですし、絶対音感もないワタクシとしては、今となってはどんな曲を演奏したのか覚えていませんし、復元することは100%無理です。
 そういう流れて消えてゆく一回性の音楽というのも、それはそれで楽譜と繰り返し練習の音楽とは違って、実にいいものではないですか。
 私はけっこう好きです。
 そして、そして、超一流の演奏家はですね、楽譜と繰り返し練習をしても、「今、生まれて消えてゆく」音楽を表現できるのですよ。それができるかできないかで、超一流とそれ以外との区別ができるのでした。ダンスもしかり。朗読もしかり。時間芸術はそういうものなんですね。


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2017.09.17

おさかべホームコンサート 200回記念演奏会

Th_img_1526 日に続き、ふじさんホールにて音楽鑑賞。
 期せずして、昨日書いたことを確認するコンサートとなりました。
 高校野球をずっと観ていたあと、プロ野球を観ると、独特の感動やら違和感やらがあるじゃないですか。あれと一緒だなあと実感。
 それぞれの年齢の音楽があって面白い。アマチュアとプロの両方の音楽のあり方が存在して当然。どちらも楽しければ良い。どちらも楽しくなければダメ。
 富士吉田のパインズパークのすぐ上にある刑部邸は、地元の音楽好きには有名なお宅です。なにしろ自宅を開放してのホームコンサートを22年続け、とうとうそれが200回にまで到達したのですから。
 文化不毛の地という自虐の言葉も聞かれる富士吉田において、特にクラシック分野においては孤軍奮闘されてきた刑部ご夫妻には感謝と敬意の念を禁じえません。
Th_img_1527 実はパンフレットをもらってビックリしたのですよ。なぜなら、21年前、第4回の時に出演したワタクシの、懐かしい(恥ずかしい)写真が掲載されていたもので(笑)。髪の毛がある!w
 私も若かりし頃(とは言っても30代ですが)、2回コンサートに参加させていただきました。当時としてはまだ多少珍しさのあった「古楽器」の演奏家としてです。チェンバロを運び入れてバロック音楽を演奏させていただきました。
 それからはずっとご無沙汰の状況。というか、出演者のレベルが世界的になって、ワタクシのような演奏者はお呼びいただけなくなったということですね。結構なことです。
 今日の演奏会は3部構成。1部はピアノによるクラシック。2部はマリンバによるバッハからピアソラまで。3部はジャズトリオによるスタンダード特集。
 それぞれいろいろなことを感じさせていただきましたが、やはり昨日のことからすると、高校野球とは違う、プロ野球の面白さを堪能させていただきましたね。その面白さは、場合によっては、面白くなさにもすぐに変わってしまうわけで、そういうプロ音楽の危うさみたいなものも感じました。
 実際、ここ数年、私はかつてあれほど好きだったプロ野球中継をほとんど見なくなっています。代わりにといってはなんですが、高校野球は娘の影響もあってよく観るようになっている。違う魅力があるからですね。逆に言うと、プロの面白さに飽きてしまったと。
 イベントとしても同じことが言えましょう。先月、31年続いた都留音楽祭が終わりました。一つの文化を作って安定したからこその決断でした。
 もしかすると、ホームコンサートもそういう難しさを抱えているかもしれません。刑部ご夫妻はご高齢となっても、相変わらず意気軒昂でいらっしゃいますが、いつまでもご夫妻におんぶにだっこでは、地元の文化もだめなのかもしれません。
 「初心忘るべからず」…なんとも深い言葉ですね。
 最後に本日のプログラムを掲載させていただきます。お聴きになれなかった方も、いろいろ想像してみてください。
 個人的にはピアソラの「バチンの少年」が良かったなあ。
 プロクラムにはないアンコール、全出演者によるチック・コリアの「スペイン」は、いろいろな意味で聴きごたえがありました。クラシックとジャズをつなぐものはなんなのか。その答えが垣間見えた演奏でした。

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2017.09.16

富士学苑中学・高等学校ジャズバンド部 第15回記念リサイタル

Th__20170917_0_22_28 かげさまを持ちまして、大盛況のうちに無事終了することができました。
 今回は第15回記念ということで、キューバ出身の気鋭のトランペット奏者ルイス・バジェさんをお迎えしてのコンサート。ジャズバンド部OB・OGも多数参加しての華やかなステージとなりました。
 いつも思うことですし、いつも書いてきたことですが、毎年違うメンバーになる学校の部活動バンドで、常にハイレベルをキープし、また、それぞれのメンバー一人一人の個性を活かした演奏を続けてきたことに感嘆せずにはいられません。まずは、それを実現してきた顧問の大森先生に敬意を表したいと思います。
 今年は派手なソリストはいませんが、安定したリズム隊の上に、高音もよく鳴る力強いトランペット隊、音程も正確なトロンボーン隊、チームワークの見事なサックス隊がバランス良く乗り、全体として安心して聴くことのできるバンドの音になっていました。
 そのため、広いジャンルにわたるそれぞれの楽曲をじっくり聞かせることができていたと思います。私は今回、ステージ横スクリーン用のカメラマンを仰せつかっていたので、特にそう感じたのかもしれません。なにしろ曲の構成などを予測しながらカメラを振らねばならなかったので(笑)。
 目はカメラ越しの生徒たちをとらえていたわけですが、そのおかげで、最大のステージに臨む生徒たちの細かい心の動きを感じることもできました。
 ちょうど開演前にある指導者の方と話す機会があったんです。中高生の音楽がなぜ感動を呼ぶかと。逆に言うと、なぜ大学生のビッグバンドがああなってしまうのかと(失礼)。
 野球で考えると分かりやすいですね。大学野球って、プロ野球、高校野球と比べると、どうしても魅力に欠けるじゃないですか。それと同じです。
 やはり、中高生という純粋かつ悩み多き年頃、異様なほどに吸収力があり成長が著しい年頃の、その彼らの心の動きが演奏に表れるということでしょうね。
 世阿弥の「初心忘るべからず」の「初心」とは、そういうことなのだろうという話になりました。単なる初心者の心持ちということではない。
 ワタクシごとですが、6年間ベーシストとしてお世話になった上の娘にとっても(いちおう)最後のステージということもあって、特別に感慨深いものともなりました。これからもベースを弾き続けるという娘が、これから高校を卒業してはたしてその「初心」を忘れないでいられるか。
 今日ですね、実はリサイタルが始まる前に、ひょんなことからEXILEの山本世界さんにお会いしてお話を聞く機会があったんです。まったく不思議なご縁ですよね。
 世界さんの話はまさに世阿弥の芸論そのままでした。形にはまらずいかにはみ出すか(序破急)、いかにその場のイメージを生み出すか(ものまね…モノを招く)、過去の結果にこだわらないから常に新しい(初心忘るべからず)。
 さすがだと思いました。その謙虚な姿勢とともに、なるほど若いけれどももうすでに超一流だなと思いました。
 そこなんですよね。高校生くらいまでは、無心に無欲にそこに到達している。まさに私の言うところの「モノ」優位の状況です。それが大学生くらいになると、型や理屈や自我という「コト」にとらわれてしまって、スポーツにせよ音楽にせよ、生命としての創造性を失ってしまう。
 逆に、そういう人生における不可避な逆境をやすやすと乗り越えてしまうのが天才であり、超一流になっていく才能というものでしょう。
 実際、OB・OGの中には、卒業後葛藤している者もたくさんいると思います。高校時代は良かったと思い出迷子になってしまっている人もいるかもしれません。そこで終わりにするのも一つの人生であり、そこを乗り越えようともがくのも一つの人生です。
 いずれにせよ、この「初心」の自分という強敵と、今度は一人の大人として対峙して戦っていくんだなと、それぞれの顔をアップで捉えながら考えていました。もちろん娘もです。
 そういう戦いにやすやすと勝っているという意味で、やはりルイス・バジェさんの音楽はすごかった。上に書いたことととのつながりで言えば、それこそ「生きている」、「今生まれている」音楽でした。それはテクニックに裏打ちされているものではありますが、かといってテクニックが主役ではありません。やはり、その「初心」の表れなのでしょう。
 禅宗の学校であるウチの学校風に言えば、「音楽になりきる」ということなのでしょうね。自分が音楽と一体になって、ある意味楽器という「音楽のうつわ」になって、純粋なメディア(媒体)になっている。そういうことでしょう。
 さてさて、12人の高校3年生の皆さん、お疲れ様でした。そして、これからもぜひそれぞれのスタンスで音楽を楽しんで下さい。とにかく楽器を続けてほしい。いろいろなことを教えてくれた楽器さんのためにも、ぜひ一生をかけて恩返ししてほしい。自分の経験からもそのようなはなむけの言葉を贈りたいと思います。
 最高のコンサートをありがとうございました。

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2017.09.12

祝!世界文化賞受賞 ユッスー・ンドゥール

 松宮記念世界文化賞の発表がありました。今年もまたなかなか個性的な方々が受賞したようです。

第29回 高松宮殿下記念世界文化賞 受賞者
■ 絵画部門    シリン・ネシャット (イラン/アメリカ)
■ 彫刻部門    エル・アナツイ (ガーナ)
■ 建築部門    ラファエル・モネオ (スペイン)
■ 音楽部門    ユッスー・ンドゥール (セネガル)
■ 演劇・映像部門 ミハイル・バリシニコフ (アメリカ/ラトビア)

 正直、あまり詳しく知らない人ばかりですが、音楽部門のユッスー・ンドゥールはよく知っています。と言いますか、彼が世界文化賞を受賞するとは思いませんでした。それだけこの賞の懐が広いということでしょう。
 ご存知のようにユッスー・ンドゥールは、セネガルの歌手。ワールド・ミュージックの世界ではたしかに神様のような人です。
 私たち日本人も、どこかで彼の音楽を耳にしていることでしょう(CMやBGMで)。
 昨年、こちらに書きましたように、ここのところ毎日記事に登場している天才仲小路彰が、間接的にではありますがこの賞に関わっています。
 ノーベル賞を補完する形になっているこの賞の重みは、ある意味主催者といえる日本人が一番よくわかっていないかもしれませんね。
 おそらくユッスー・ンドゥールも大変喜んでいることでしょう。
 受賞を祝福して、彼のライヴ映像を観てみましょう。まさに黒人のスピリットがワールドスケールに昇華されているのがよく分かります。
 前近代的とも言えるリフレーンが、なぜか新しく聞こえる。バロック以前の音楽が好きな私にとっては、彼の音楽はまさに古くて新しい。いいですね〜。
 派手に鳴り響くDX7の音もまた、なぜか新しくて古く感じられるのでした。

高松宮殿下記念世界文化賞

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2017.09.11

『原節子の真実』 石井妙子 (新潮社)

Th_51e8lrqjt5l 日の続き。優れた評伝。実に面白かった。文章も秀逸。
 原節子と、義兄熊谷久虎について、非常に詳しく書かれています。一箇所だけですが、仲小路彰の名前も出てくる。もちろんスメラ学塾主宰として。
 今、数人で仲小路彰邸内を整理しているのですが、その中で熊谷久虎の名前が入った文書が多数見つかっています。ちなみに原節子の名前が入ったものは、私の知る限り一つだけ。この本の著者の石井さんにもいずれお伝えしなければならないでしょう。
 原節子がなぜ独身を貫いたのか…その答は、仲小路彰がなぜ独身を貫いたのかという問いの中にあるような気がするのは、私だけでしょうか。
 実は、当時の関係者から、そういう噂を聞いたこともあります。今まで知られていた(知られていなかった)以上に、仲小路と原の関係は近かったのでしょう。
 この本の第六章「空白の一年」にあるように、熊谷久虎のスメラ学塾入塾(川添紫郎ルートでしょう)を通じて、原節子も仲小路彰と深く関わったと思われます。
 ただ、人気女優であったからでしょう、その名前はその当時の仲小路文書の中には出てきません。
 また、地元山中湖の方々に聞いても、原智恵子や三浦環が仲小路彰と一緒にいたことは覚えていても、原節子がいたとか来たとかいう話はありません。また、実際に智恵子と環の資料は山中湖で大量に見つかっていますが、原節子に関するものはほとんどありません。
 しかし、昭和19年から20年にかけて、お忍びで山中湖の「サロン」に来ていた確率は高いと思います。熊谷、川添との関係を考えれば、そう考えるほうが自然なほどです。
 原節子に関する資料が「ほとんどない」と書いたのは、私の知るかぎり、戦後になってのある文書(映画企画書)に、細川ガラシャをはじめとする日本の歴史上重要な女性を演ずるのは原節子しかいないというような内容があるのみです。
 この本にも書かれているとおり、原節子が映画人としての晩年に異常に「細川ガラシャ」にこだわったのは、仲小路彰の話を聞いたからに違いありません。仲小路は細川ガラシャに関する文章を多数残していますし、「ガラシア物語」という歌曲集まで作曲しています。
 そのあたりの富士山を取り巻くミッシングリンクには興味がわきますね。
 いずれ、この本の筆者石井さんにも山中湖に来ていただきましょうか。「原節子の真実」のそのまた真実が眠っている可能性がありますので。

Amazon 原節子の真実

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2017.09.10

『新しき土』 原節子主演・アーノルド・ファンク監督作品

 の前紹介した伊丹万作の「戦争責任者の問題」。あれを書いたあと伊丹はすぐにこの世を去りました。
 「だまされる」側を断罪した伊丹、そこには当然自らの愚かさへの反省の気持ちもこめられています。おそらくそうした反省の一つがこの作品でしょう。
 ご存知のように、この作品には、アーノルド・ファンク版と伊丹万作版の二種類のバージョンがあります。もともと共同監督という形でという話だったのですが、二人は大げんかしてしまい、結局別々に編集することに。
 結果として、伊丹版は散々な評価で終わり、伊丹は恥をかくことになりました。また、歴史的に言えば、日独防共協定への道を作り、「戦争責任」の一端を担ったことになってしまった…。
 伊丹にとっては、本当に思い出したくもない作品でしょう。ちなみにその伊丹版、私は未見です。観るのも辛いかも。
 ファンク版も正直大した作品ではないわけですが、なんと言っても16歳の原節子が理屈抜きに素晴らしすぎてたまりません。
 また、無駄にたくさん配置された「日本の名所」たち。貴重な記録ですね。特に様々な富士山のアングルは興味深い。冒頭の荒々しい冬の富士山は富士吉田の富士山ですね。数年後には防共の砦となる富士山です。
 原節子は、この映画の宣伝のため、公開直後に欧米を回ります。その時同行したのが、義兄の熊谷久虎。二人はその外遊の最中に、フランスで川添紫郎と出会います。
 それがのちに、二人を仲小路彰と結びつけるきっかけとなるんですね。
 仲小路彰と原節子の微妙な関係については、こちらこちらに少し書きました。
 この映画が、仲小路彰と原節子を結びつけたと言えます。私にとってはそういう意味で興味深い作品です。戦後、原節子が映画界から姿を消したのちも、仲小路彰は彼女が「細川ガラシャ」を演じることにこだわりました。そして原節子自身もこだわりましたが、結局それは実現しませんでした。
 もう一つ番外編。この映画製作のために来日していたファンク夫妻は、偶然、万平ホテルにおいてリアルに二・二六事件に巻き込まれました。なにか象徴的な感じがしますね。ちなみにその日は仲小路彰36歳の誕生日でした。
 あっそうそう、この映画の結末で、原節子演じる光子が火山の噴火口に飛び込もうとするシーンが、あまりに唐突だし現実味がないという批判がありますが、これって木花咲耶姫の伝説に基づいたものですよね。
 多くの富士山のシーンとともに、いろいろな日本的な過去・現在・未来が象徴されていると感じました。私はこの映画、大した作品ではないけれども、しかし嫌いではありませんね。役者さん、音楽、円谷英二の特撮など、実は見るべきところが多い作品ですし。

Amazon 新しき土

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2017.09.06

伊丹万作 『戦争責任者の問題』

Th_exi_14_03a り合いからぜひ読みたまえと言われたので、初めて読んでみました。
 伊丹万作。言うまでもなく、偉大な映画監督であり、伊丹十三の父であり、大江健三郎の義父です。私にとっては、「手をつなぐ子ら」の脚本を書いた人物としても意識されている。

…だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。  しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

 うん、たしかに鋭い指摘ですね。
 この「だまされていた」という言い訳はたしかに、いろいろなところで聞かれますし、私自身ももしかすると、何度か使ったことがあるかもしれない。先の戦争のことのみならず、日常の失敗についてもこう言って逃げたことがあるかもしれない。
 だました側のこともちゃんと書き、状況が一変したとたん、かつての強者を集団で糾弾しはじめる弱者に対する批判も手厳しい。
 まさに弱者こそが強者になりつつある現代における「モンスター◯◯」や「なんでも反対派」に読んでいただきたい名文です。
 もちろん、「だまされてはいけない」というメッセージとして、現代のあれやこれやに当てはめてみてもいいでしょう。「国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。とても単純だ」…ちょうど一昨日ゲーリングの名言を引用したじゃないですか。
 皆さんも、こちらでじっくり読んでみてください。

Amazon 伊丹万作エッセイ集

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2017.09.01

宇宙人同志との再会・対話

Th_img_1439 縁あって高城剛さんとお会いし、じっくりお話をさせていただきました。
 3時間すぎても話題が尽きずタイムアップ。科学、宗教、教育、文学、音楽、医学、食、健康、歴史、霊界、言語…あらゆる分野にわたる壮大なる、しかし、何モノか一つに収斂する対話でした。
 その内容は、おそらく普通の人が聞いても全く理解できないのではないでしょうか(笑)。
 根本的にはですね、私たちは「同窓生」だったという話。53年ぶりの再会だったという話。
 お互い53歳なのにですよ。
 つまりですね、私たちはこの地球に生まれる前に一緒にいたということです。そして、1日だけ私が早く地球に来て、翌日高城さんが来たということ。
 もう、余計に分かりませんよね(笑)。
 ま、簡単にいえば、私たちは宇宙人だということです。そして、同じミッションを持ってこの地球にやってきた。すなわち「宇宙人同志」
 今まではそれぞれ別々の人生を歩んできましたが、いよいよ再会してこれからは一緒に何かをやっていくということです。
 おいおい、先生!大丈夫?
 そんな声が聞こえてきそうですが、しかたありません。本当のことなので。
 ま、濃密な会話の内容はここではとても開陳できませんが、そのうちに時機がくれば社会現象として現れてくるでしょう。
 一つ言うなら、私たちの「意志」は過去は全く相手にせず、未来だけを見ているということです。時間は当然のことながら、未来から過去へ向かって流れている。
 それからどうも同窓生は全部で20人くらいいたらしいので、ほかの人達ともこれからどんどん再会していくだろうということ。これは面白いことになりましたね。
 それにしても、本当に想像していた以上に波動が合いました。そして、高城さん、素晴らしい。賢い。解き放たれている。謙虚。かっこいい。
 某ホテルのラウンジで異常に盛り上がる宇宙人二人を、金曜日の夜の赤坂に繰り出していた地球人たちは、実に不思議そうな顔をして見ておりました(笑)。
 これから、大きな進展があると思いますので、そのたびに経過報告できる部分はしていきます。お楽しみに。

高城未来研究所

Amazon 高城剛

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2017.08.31

めざせポケモンマスター -20th Anniversary-

 ういうわけか今頃になって我が家でポケモンGOブームが起きています(笑)。
 20年も人気が衰えず、それどころか今や世界的な人気を誇るポケモン。
 私も娘たちに感化されて、なんとなく興味を持つようになりました。昨年ポケモンGOが始まった時には、こんなことを書いています。
 私がポケット・モンスターに興味を持つ一つの理由は、それが「モンスター」だからです。
 こちらの記事をご覧ください。モンスターは「モノ」だということです。昨日の話で言えば「暗黙知」ということになります。
 「モノ」に触れることは、私たちが高次元につながるための一つの方法であり、訓練であります。特にポケモンGOになって、インターネットで世界とつながり、そしてARで現実界とつながり、ますます「モノ」と「コト」の交流が盛んになってきています。
 それについては、また書くとしまして、このたびポケモン20周年を祝って制作された『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』のオープニングテーマである、「めざせポケモンマスター -20th Anniversary-」をお聴きいただきたいと思います。
 もともと非の打ち所がない神曲ですが、この最新アレンジ版は最高にかっこいいですね。特にベースラインに萌えます(燃えます)。

 あっそういえば、私は松本梨香さんによる生「めざせポケモンマスター」聴いたことあるんだ。こちらです。当たり前ですが、めちゃくちゃ上手でしたよ。

Amazon めざせポケモンマスター -20th Anniversary-

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2017.08.30

追悼 中村雄二郎さん

Th_as20170830004252_comml 学者の中村雄二郎さんがお亡くなりになりました。
 「述語集」には、大学時代からお世話になりました。難しい本を読む(読んでいるフリをする?)快感を教えてくれた人です。
 「臨床の知とは何か」は入試問題にもよく取り上げられていましたので、教員になってから読みました。やっぱり難しかったけれども、ちょうど「モノ・コト論」をやり始めていた頃だったので、暗黙知と形式知をモノとコトにあてはめて考えるきっかけを与えてもらいました。
 そう、私はモノとコトでは、モノの方を重視するのですが、そのモノを暗黙知と言い換えると、「述語集」おおける、中村さんの次の言葉は重要な示唆を与えてくれます。
 

〈暗黙知〉とはどういう内容をもっているか、彼(マイケル・ポラニー)の挙げている例によれば、われわれが或る人の顔を知っているとする。ということは、他の無数の人の顔と区別してそれを認知できるということである。ところが、それでいて、われわれはふつう、その顔を他から区別してどのように認知するかを、語ることができない。写真による犯人のモンタージュのような方法はあっても、その場合でも犯人の人相を同定するには、語りうる以上のことをそれに先立ってわれわれが知っていなければ不可能なのである。同じような知の在り方は、ひとの顔からその人の気分を認知するとき、また、病気の症候、岩石の標本、動植物などの識別についても言える。
 この知の在り方は、ゲシュタルト心理学の考えと一脈通じるところがあるけれど、ここではとくに経験の能動的形成あるいは統合に重点が置かれる。科学上の発見、芸術上の創造、名医の診断技術などの技芸的な能力は、みな、この暗黙知に拠っている。

 中村さんは西洋哲学の専門家でありながら、やはりどこか日本的な感性を持っていらっしゃった。ご本人の意識は別として、上掲の暗黙知論などは、私のモノ論と非常に近いところがあり、そこを重視している点において、あるいは、暗黙知を形式知に変換することを奨励していない(たぶん)点において、やはり日本的だと感じます。
 お亡くなりになってしまったのは残念ですが、これを機に再び「難解な本」に挑戦してみようかと思います。
 感謝の意もこめつつ、ご冥福をお祈りします。

Amazon 臨床の知とは何か

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