カテゴリー「文化・芸術」の1000件の記事

2021.04.13

追悼 麒麟児関

 

 関脇麒麟児の垂澤和春さんが67歳という若さでお亡くなりになったとのこと。

 麒麟児関といえば、やはり心に残っているのは、昭和50年夏場所の中日の天覧相撲ですね。伝説の富士桜戦。

 両者の素晴らしい回転のつっぱり合いに、私と同様、先帝陛下も身を乗り出して興奮されていました。

 当時は横綱北の湖や大関貴ノ花らが人気で、小学生の間でも大の相撲ブーム。私も小学校の砂場で毎日相撲取っていました。

 友人の中にも、つっぱりを得意としているやつがいて、そいつとの取り組みでは私もムキになってつっぱりました。それが次第に本気になってきて、しまいには取っ組み合いのケンカになり、土俵がプロレスのリングに変わってしまうなんてこともありましたっけ(笑)。

 今、こういう相撲ないですよね。水入りもほとんど見ないし。スタイルが変わったというより、まあいろいろ八百長問題等があって、いわゆる興行的な部分…それは天皇陛下をも喜ばせる神事でもあるのですが…がなくなってしまったということでしょうかね。残念です。

 それにしてもこの一番、本当に久しぶりに観ましたが、立ち合いからしてすごいですね。そして二人の息遣い。最後の麒麟児の上手投げのタイミングも見事ですし、単なるつっぱり合いとしてだけではなく、見るべきところがたくさんあります。古き良き時代かあ。

 余談になりますが、富士桜関は山梨出身です。当時の私は東京に住んでいましたが、まさか未来に山梨県人になろうとは思いませんでした。そして、住んでいるところは「富士桜高原」ですからね。不思議な感じがします。

 ということで、様々な感慨とともに、麒麟児関のご冥福をお祈り申し上げます。

 

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2021.04.10

『海辺の映画館 キネマの玉手箱』 大林宣彦監督作品

Th_movieposter_ja 日は4月10日。昨年の今日、大林宣彦監督が亡くなりました。

 今日鑑賞したのは、監督の遺作です。

 これはすごい映画ですね。いよいよ映画の域を超えたかもしません。

 夢のごとき時空を行き来する急展開と矛盾。それがいつの間にかリアルに感じられるようになるから面白い。

 正直、死の直前の走馬灯ってこんな感じなのでは、と思ってしまいました。いや、きっとそうなのだろう。

 ウソから出たマコト…映画の域を超えたと書きましたが、映画の機能を考えると、これこそが映画なのかもしれません。

 悲劇が喜劇に、喜劇が悲劇に。戦争が平和に、平和が戦争に。ウソがマコトに、マコトがウソに。

 大林監督が戦争にこだわるのは、単純に「反戦」が目的ではないでしょう。

 変な言い方ですが、好きでないとここまでここまでこだわれないですよ。そこもある意味矛盾なのでしょう。

 なんか最後は、寺山修司の実験映画を観ているような気がしてきました。そう、戦争自体が壮大なる実験なのでしょう。

 実験映画の名作を遺して大林監督はあちらの世界に旅立ったのでした。おそらく向こうから見ると、私たちのこの実生活こそハチャメチャな悲喜劇に見えるのでしょう。

 

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2021.04.05

『8日で死んだ怪獣の12日の物語』 岩井俊二監督作品

Th_unknown_20210406202801 4月からNHKのBSでウルトラセブンの放映が始まりました。

 こちらに書いたとおり、私の人生はウルトラセブンで始まり、今でもそれが続いています。

 すごい展開の早い、詰め込み感満載の第1回を観まして、あらためてカプセル怪獣(ここではウィンダム)って弱いよなと思っていたところに、実にタイムリーにこの映画を観る機会がありました。

 かなり面白かったですよ。コロナならではの作品。コロナのおかげで映画の方程式も崩れましたよね。崩れて、また新しい方程式が発見される予感がありました。

 岩井俊二監督らしい作品とも言えますよね。同世代としての共感もあり、そしてそれを超える現代性というか未来性というものが提示されて、かなり刺激を受けました。

 ウルトラセブン世代だからこそ楽しめる部分もありつつ、カプセル怪獣を知らなくても充分に見入ってしまう内容だと思います。いや、ウルトラセブンやカプセル怪獣の存在に普遍性があるのかもしれません。

 たしかにコロナは現代の怪獣みたいなものですよね。ゴジラが戦争や核兵器の象徴だとすれば、これから何年かのちに、コロナをモチーフとした怪獣が登場するのでしょうか。

 実際、ウイルスは宇宙からの訪問者、あるいは宇宙人による兵器だという説もありますし。

 個人的には、のんさんがやっぱり宇宙人だなと感じました(笑)。

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2021.04.01

『日本習合論』 内田樹 (ミシマ社)

Th_41rifxmlql の本のクライマックスに登場する、次の一節こそ、この本で内田さんがおっしゃりたかった「可能性」でしょう。

 「氷炭相容れず」というほどに隔たったものを「水波の隔て」に過ぎないと見立てること、遠いものを近づけ、異質なもののうちの共生可能性を見出すこと、僕はそれが「できる」というところに日本人の可能性があると思っています。

 先日の鈴木孝夫先生の「日本の感性が世界を変える」に深くつながる本。そして、三島由紀夫と東大全共闘の話もでてきます。

 内田先生のいう「習合」「雑種」「ハイブリッド」等は、ワタクシのモノ・コト論ではもちろん「モノ」に属し、作られた「純粋」や「純血」は「コト」に属しますね。

 「これからはコトよりモノの時代」という、一般論とは一見逆に感じられる私のスローガンも、こうして解釈すれば多少は理解されることでしょう。

 私の言説は内田先生に比べるとかなり乱暴で粗悪ですが、言いたいことは完全に一致していると感じました。私は日本語のモノ、コト、トキを通して、いつか日本論、日本人論、日本文化論を書いてみたいと思います。

 「モノ」という言葉が持つそうした深い性質、論理では説明できない性質は、「物語」「物の怪」「物寂しさ」「もののあはれ」さらには「〜なんだもん(の)」に至るまで、私たちのよく知る日本語に生きています。

 さらに言えば、物部氏が信仰した「大物主」にも、そしてその神が象徴する「和魂(にぎみたま)」ともつながってきます。また、その物部氏を倒してしまった聖徳太子が憲法の第一条に置かざるを得なかった「和」に、そのエッセンスが凝縮しているとも言えます。そして、それが「習合」の起点とも言える。

 この本を読みながら、私自身がずっと考えてきた、いや感じてきた何か(=モノ)がはっきりとコト化されたような気がしました。おそらくはそれこそが内田さんの「物語」そのものの機能であるのでしょう。

 実に楽しかった。私もぜひ「頭がでかい」人間になりいモノです(このモノも他者性を表していますね)。

Amazon 日本集合論

 

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2021.03.31

ホモ・パティエンス(悩める人)

Th_utslppsfritt-energisystem_till-press_ 境問題はエネルギー問題であり、それが実は戦争のない平和な世界への基礎課題であることは、皆さんもよく理解されていることと思います。

 それは昨日紹介した鈴木孝夫先生も常に強調していたところであります。

 今日、こんな記事を読みました。

太陽エネルギーを18年間保存できる液体が開発される 常温で保存可能で繰り返し使える

 たとえばこの「太陽エネルギー・ストレージ」など、どう評価すればよいのか。

 なるほど、たしかに北欧の人たちにとっての太陽エネルギーを備蓄することは夢のような話ですよね。

 それは一見、素晴らしいことのようでありますが、あくまでもこれは人間の「快適への欲望」、すなわち分かりやすく言えば、たとえば私が夏のクソ暑い日に、この暑さをあの厳寒期に持っていければなあとか、反対に寒い時にその冷気を夏の昼間に使えればなあとか、快適な春や秋の季節に一年中この陽気だったらいいのになあとかいう妄想の実現のためのテクノロジーだということを忘れてはいけません。

 私たち人類の生活は快適になりますが、はたしてそうして局所的であれ四季をなくすようなことが、人類以外の生物、あるいは地球全体にとっていいことなのか、それは常に意識しなければならないでしょう。

 私もここ20年くらい、エネルギー問題解決のために、核融合発電と大型キャパシタによる蓄電ということをずっと考えてきましたし、実際科学者や技術者の方々と現実的な討論をしてきました。

 しかし最近、ちょっと違うかなとも思い始めているのです。いくら再生可能エネルギーであったり、ゼロ・エミッションであっても、やはり地球環境に人為をほどこすことには変わりないのであって、根本的なところで「環境に優しくない」のかもしれないと。

 究極的には、ホモ・サピエンス、いや鈴木孝夫大明神のいうところの「ホモ・スチュピド・サピエンス(愚かにも賢くもなりうる人)」がいなくなることが最も環境に優しいのではないか。SDGsとかその「人」は叫んでいますが、お前にそんなこと言われる筋合いはないよと地球は思っているかもしれない。

 もちろん、では欲望のままに突き進んで勝手に滅亡すればよいのかというと、やはりそういうことではありませんよね。なぜなら、そのプロセスの中に巻き込まれて迷惑を被る存在があまりに多いからです。

 だからこそ、私たちは悩める人…「悩める」とは「悩んでいる」と「悩むことができる(悩むことに耐えられる)」というダブル・ミーニングです…ホモ・パティエンスでなければならないのかもしれません。

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2021.03.30

『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』 鈴木孝夫 (新潮選書)

Th_41k1wdaipyl 年2月に、私の心の師匠、鈴木孝夫大明神が帰幽されました。

 大明神と称させていただくのは、まさに偉大な底ぬけに明るい神であったからです。

 最後の単行本となったこの本を読むにつけ、私の世界観、地球観、生命観、人生観が、大明神さまの影響を強く受けていることに改めて気づかされます。

 私が大明神を勝手に師と仰ぐのには理由があります。そう、一度家内とともに富士山麓の我が村にて酒席を共にさせていただいたことがあるのです。

Th_img_5698 その夢のような時間のことは、本当に忘れられません。まだ髪の毛のあった頃の私の(笑)、その表情を見れば、それがいかに素晴らしかったかお分かりになると思います。

 この本に述べられている言語論、文明論、日本論を、それこそ滔々と溢れ出る泉のごとく語られた大明神。そのコトタマを全身で浴びた私たち。

 思えば、この奇跡的な邂逅の直後から、本当に信じられないような人生の展開が訪れました。まさに神託を受けたごとくです。

 その当時にはその名さえも知らなかった仲小路彰に出会ったのは10年以上あとのことですが、考えてみると、鈴木孝夫大明神の師はかの井筒俊彦。おそらくは井筒氏はイスラーム学者として仲小路彰をよく知っていたと思われます。

 この本で述べられている内容は、たしかに仲小路彰の思想、哲学に非常に近いと言えます。まさに学統という遺伝子のごとき連関を感じずにはいられません。

 そうした大明神さまの思想に触れていたからこそ、私も仲小路の世界にすんなり入っていけたのだと思います。そういう意味でも感謝しかありません。

 私も、大明神さまの遺志のほんの一部でも嗣ぐことができるよう、ますます精進したいと思います。

 さて、この本、本当に全国民の教科書にしたいくらい素晴らしい内容です。そのエッセンスが皆様に伝わりますよう、「結語」の部分を抜粋引用させていただきます。

 このコトタマたちに感じるところがありましたら、ぜひこの本を購入してお読みください。これから私たち日本人がどのように世界に貢献してゆけばよいか、本当に分かりやすく説明されています。ぜひ。ぜひ。

(以下引用)

一、近時のあまりにも急激な人口増を主な原因とする、あらゆる資源の不足と地球環境の劣化のために、人類は産業革命以来これまでたゆまず続けてきた右肩上がりの経済発展を、最早これ以上続けることは不可能となっている。もし無理してこのまま発展を続行すれば、人類社会は収集のつかない大混乱に早晩陥ることは確実である。

二、従ってこのような破局を回避するために人類は、文明の進む方向をできるだけ早く逆転させる必要がある。人類は今や経済の更なる一層の発展拡大ではなく、むしろ縮小後退を目指すべき段階に来ている。比喩的に言うならば、人類はまさに「下山の時代」を迎えたのである。

三、一つの閉鎖系である宇宙船地球号内で人類がこれまで行ってきた、他の生物との協調を欠く自己中心的な活動は、地上にその悪影響を吸収できるフロンティア、つまりゆとりがある間は、弊害があまり顕在化しなかったが、あらゆる意味でのフロンティアが消滅している現在、すべてが一触即発の危機的状態にある。

四、現在我々が享受している生活の豊かさ、便利さ、快適さ、その結果としての長寿社会の到来、そしてそれを支えてきた、食料を始めとするあらゆる物資の増産、経済の拡大、科学技術の進歩のすべては、人類だけの限られた立場から言えば、善であり歓迎すべきことと言える。

 しかしこれらは皆、我々が美しいと思うこの現在の世界、まだ辛うじていくらかは残っている貴重な原生林や、素晴らしい何千万種といる貴重な動植物、空を舞う大型の鷲や鷹、そして海中の美しい魚の群れまでが、恐ろしいスピードで地球上から永遠に姿を消してゆくことと引き換えに人類が手に入れたものであることを知れば、手放しでは喜べない。このことは遅かれ早かれ人類の生存基盤そのものまでが崩れ落ちることを意味するからだ。この美しい地球を今のままの形で子孫に残したいという願望と、人間の限りのない欲望の追求とは両立し得ないことが、今では誰の目にも明らかとなってしまったのである。

五、言うまでもなく現在の人類の在り方、人々の目指す目標に最も強い影響力をもつ文明は、西欧文明、とりわけアメリカ文明である。ところがこれらの文明は極めて強固な人間中心主義的な世界観に基づく、極めて不寛容な排他(折伏)性を本質とする一神教的正確の強いものである。このような性格の欧米の文明が牽引車となって、二〇世紀の人類社会は未曾有の発展を遂げたが、同時に世界は刻一刻と深刻さを増す破壊的な生態学的混乱に加えて、欧米を主役とする植民地獲得競争と様々な対立するイデオロギーに基づく凄惨な抗争の絶えない動乱激動の時代でもあった。

六、一九世紀半ばまでは世界最長の「外国との不戦期間」を誇る辺境の小国であった我が日本も、欧米諸国の強烈な砲艦外交により「国際」社会に引きずり出された結果、イギリスとロシアの演じる中央アジアの覇権をめぐるグレートゲームの片棒を担がされてしまい、当の日本人自身も驚き戸惑うほどの、戦争をこととする並の欧米型国家になることを余儀なくされたのである。

七、このように日本は中華文明の国として優に千年を超す歴史を持つ国から、西欧型文明国家へのパラダイム・シフトを、明治維新という形の無血革命によって成し遂げ、ついで恵まれた地政学的な諸条件と欧米列強間の様々な対立抗争のおかげで、大東亜戦争に大敗北したにもかかわらず、西欧型の、それも経済技術超大国の一員とまでなって現在に至っている。

八、ところがこの日本は「生きとし生けるもの」との共感を未だ保持する唯一の文明国であり、宗教的にも日本人の圧倒的多数は、一神教の持つ執拗な他者攻撃性を本質的に欠く、神道や仏教的な世界観を失わずにもっている。したがってうわべは強力な西欧型の近代的国家でありながら、文化的には対立抗争を好まぬ柔らかな心性、「和をもって貴しとなす」の伝統を、日本はまだ完全には失っていないのである。

九、私はこの文明論で、いま述べたような性格を持った日本という大国が、現在大きく言って二つの、解決のめどさえ立たない大問題ー環境破壊と宗教対立ーに直面している人類社会が、今後進むべき正しい道を示すことのできる資質と、二世紀半にわたる鎖国の江戸時代の豊富な経験を持つ、教導者の立場に立っているのだということ主張している。江戸時代は、対外戦争がなく、持続可能で公害の伴わない太陽エネルギーのみに依存し、無駄なしかも処理に困る廃棄物を一切出さない、理想に近い循環社会であった。

 そして日本が自らの文明の特性を進んで広く世界に知らせ広めることは、要らぬお節介でも軽率な勇み足でもなく、今や大国となった日本がこれまで世界の諸文明から受けた数え切れない恩恵に、日本として初めて報いる、お返しをすることでもあると考えている。

 

Amazon 日本の感性が世界を変える

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2021.03.28

『三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実』 豊島圭介監督作品

Th_71gorvjojwl_sx300_ うやく観ることができました。コロナのおかげで1年以上遅くなってしまいました。

 1969年5月。私はまだ4歳。こういう空気が漂っていることも全く知らず、ウルトラセブンと怪獣のソフビを戦わせていました。

 右翼と左翼なんていう言葉はすでに死語だった時代に大学生になりました。しかし、山の中の公立大学には、この頃の残党が棲息していたりして、そこで初めて「政治の季節」というのが過去にあったということを知りました。

 では、それから40年経った今はどうか。実はどっぷりこの「政治の季節」に浸かっているのでした。

 そうは言うまでもなく、仲小路彰という天才哲学者に出会ってしまったからです。仲小路が残した三島の死についての厳しい論評を昨年紹介しましたね。

豊饒の海〜仲小路彰の三島由紀夫評

 死の1年半前、単身1000人の敵の前に堂々と乗り込んだ三島。その様子を捉えたこの貴重な映像。正直の感想は「?」でした。それは、彼の死に対するある種の落胆と似ているかもしれない。

 落胆というと失礼でしょうか。カッコ悪さに対して「傍痛し(かたはらいたし)」と感じたのです。そばで見ていて居心地が悪くなる感じ。

 戦いに臨む勇敢な男を期待していたのに、あれ?という感じになってしまった。いや、「乗り込む」まではいいのです。その後のカッコ悪さがどうも痛々しい。

 ここでも、結局、三島は「戦う」と言いつつ、「言向け和す」ことに終始し、ひたすら優しいのです。だから、ああいう和やかな笑いに満ちた時空間になってしまった。

 いや、私はそういう三島の方が好きです。カッコつけていきがった三島よりも、実は優しく空気を読みすぎる三島の方に共感します。

 本来なら、あのような空気になってしまったら、それこそ駒場900番教室で自決すべきだった。そうすれば1000人の敵に勝てたかもしれない。

 彼が近代ゴリラと揶揄されても、自らゴリラを演じ続けて教室を後にできたのは、皮肉なことに心優しき東大全共闘の1000人のおかげだったのです。だから三島の負けなのです。

 市ヶ谷には、そういう優しさがなかった。味方と思った自衛隊員がみんな冷淡な敵だった。だから、もう自決するしかなかった。では、勝ったのかというと、やはりこちらも負けです。

 いずれも「恥」をかかされたから負けです。それが三島の限界でした。それが傍痛しだということです。

 偉そうなこと言ってすみません。ただ、アフター「政治の季節」世代としては、どうにもシンパシーを抱けないのです。

 そういう意味では、いまだに生きて演劇で世の中と戦い続けている芥さんの方が魅力的に感じられました。

 この季節の総括をしなければ次の時代に歩み出せない、つまり、この季節が私たち世代の足かせになっているのですから、これからも仲小路彰を通じて、私なりに学び続けようと思います。

Amazon 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

 

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2021.03.26

『俺の家の話』最終回に嗚咽…

Th_-20210328-92436  やあ、本当に感動しました。号泣どころか、自分の嗚咽でセリフが聞き取れないという初めての事態に陥りました。

 宮藤官九郎、そして長瀬智也、西田敏行…その他の皆さん、本当にすごい。これはテレビ・ドラマ史上に残る名作でしょう。

 前にも書いたとおり、能、プロレス、介護と、まさに「俺の家の話」じゃん、と思っていたのですが、そんな次元の話ではありませんでした。

 本当にこの最終回で、私の能やプロレス、そして命や霊に対する考え方が、すっかり変わってしまいました。テレビ・ドラマでここまで自分の魂が変わったのは初めてです。

 娘が能楽師を目指していることもあり、また、まさに人間国宝の宗家と交流する機会もあって、それなりに能について理解しているつもりでしたし、プロレスについても多くのレスラーの方々とお話してきたので、なんとなく分かったつもりになっていたんですね。

 甘かった。どちらも命に、霊に、そして「家」に関わる文化、芸だった。

 少し前に紹介した野村四郎先生のオンライン講座で野村先生がおっしゃっていた「成仏得脱」「祝言性」「悲しみの慰め」ということが、このドラマの最終回を観て、すっと腑に落ちました。まさかこういう形で能の本質に近づけるとは。

 そう、現代の夢幻能だったわけですね。この最終回は。いや、最初からそうだったのかもしれない。

 目に見えないモノの悲しみを、形にするコトによって昇華する。それが能の機能であり、また、怒りや攻撃性を昇華するのがプロレスの機能であり、さらにそれらを総合的に昇華するのがドラマだったのです。

 まさに「モノを招く」という意味での「ものまね」、そして「ワザを招(を)く」という意味での「俳優(わざをき)」であったと。長瀬くんもまた稀有な「俳優」であったと。

 このタイミングで「俺の家の話」を超える「俺の家の話」を、本当にありがとう。クドカン、長瀬くん、西田さん、その他の皆さんに心より感謝します。もう一度最初から全部観ます。

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2021.03.21

追悼 村上ポンタ秀一さん 『welcome to my life』

 

 くなりましたが、ドラムスの巨匠にして天才ドラムスコであった村上ポンタ秀一さんの追悼記事を書こうかと思います。

 そのテクニック、音楽性、そして生き様やお人柄において、これほど傑出した方はなかなかいませんでした。

 これほど自然体にジャンルを超えたミュージシャンはいませんよね。そう、彼にとってはジャンルなんてコトはどうでもいいモノだったのでしょう。

 そんなポンタさんの偉大さが1枚で分かるのが、このアルバム。無理やり1枚に仕上げたので、作品としてはたしかにごった煮ですが、そのごった煮感も含めてポンタさんらしいと言えるのかもしれません。

 ぜひYouTubeのページに飛んでみてください。それぞれの楽曲の演奏者名等がコメント欄にあります。とんでもないメンバーです。まさにごった煮(笑)。

 こういう濃い〜人たちの中でも、ポンタさんのドラムは圧倒的存在感ですね。圧倒的存在感で、かつ全体を支えている。単に音としてではなく、心の波動という面でも。いや、それこそが音楽、アンサンブルの喜びなのでしょう。

 こういうスケールの大きい音楽家、いや人間は、なかなか出てこないでしょう。また昭和の男を懐かしむような話になってしまいそうなので、このへんでやめておきます。自分もそういう昭和の男の端くれでありたいものです…。

 ご冥福をお祈りします。

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2021.03.18

笑わせて三流、感動させて二流、見る者の人生を変えてこそ一流

Th_sph_20210319oht1i50032t_thum800 たプロレスネタです。興味のない方、スミマセン。

 今日、全日本プロレスで特別興行『血闘 葛西純 対 石川修司 ~CRAZY MONKEY vs GIANT~』というデスマッチが行われました。

 王道の老舗全日でデスマッチが行われることに抵抗があるファンもいたことでしょう。私も正直複雑な気持ちですが、本来プロレスの持つ多様性という観点からは、まあ意味のある大会だったとも思います。

 もちろん、そのあたりを団体としても認識してか、ワンマッチの特別興行だったとのこと。このコロナ禍で、このような濃密な試合が実現しただけでもすごいことなのかもしれません。

 さてさて、今回の勝者は石川選手でした。負けてしまったデスマッチのカリスマ葛西選手の試合後の言葉が印象的でしたね。

…ちょっと昔に誰かが言ったな。『プロレスラーってもんは、笑わせて三流、感動させて二流、見る者の人生を変えてこそ一流だ』ってな。その言葉が正しいのなら、この全日本プロレスの歴史を狂わせた葛西純こそ超一流プロレスラーじゃねーのかオイ!

 誰かとはTAJIRI選手のこと。世界を舞台に活躍した経験のあるベテランTAJIRI選手が自身のツイッターで、こんな発言をしたことがあるんですね。

 笑わせるのはプロレスで三流、そんなのは学芸会レベル。何かを訴えて泣いてもらうのは二流。一流は、感動させて人生になんかしらの良い影響を与える。人生を変える。

 なるほど。教師にも当てはまる言葉ですね。私なんか、自他ともに認める三流先生(笑)。笑わせるのは大得意です。まじめに何かを訴えるのは苦手だし、悪い影響を与えるが良い影響は…?

 まあ、笑わせるのいうのが、実は泣かせるより難しかったりするのですが。

 つまり、笑わせるだけでは私のような三流であって、人生を変えるような影響を与えることができるような人が、泣かせたり、笑わせたりするのが超一流ということでしょうね。たしかに葛西選手はそういうところあるかも。それを「狂わせた」と表現するところも面白い!

 私の教師生活もそろそろ仕上げに入っています。はたして三流は二流、一流、超一流になれるのか!?

 

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