カテゴリー「心と体」の274件の記事

2012.02.08

悲観は楽観の母

0048 「観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
 昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
 昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
 私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
 人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
 なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
 五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
 私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
 いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
 どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
 悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
 いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
 そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
 だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
 実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
 「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
 そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
 そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
 前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
 そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。

Amazon 幸福論

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.04

嘘も方便(三車火宅の譬え)

写真は柴又帝釈天の胴羽目です。名作「三車火宅の図」。
Img_1816555_64367758_8 日は中学校の一般入試でした。
 今回も国語の問題の本文を掲載しましょう。何度も書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。それにはいろいろな理由があるのですが、やはり最大の理由は「入試は一期一会」だということでしょう。
 合否とは別に、受験生(小学生)の人生にとって何か意味を残したいからです。
 今回は「うそ」をテーマにしてみました。私もこれまで存分嘘をついてきた人間です。偉そうなことは言えないはずですが、いや、だからこそ言えるというのもあるかな、とにかく自分自身の反省や勉強も兼ねて、「嘘も方便」のもとになったと思われる、法華経の中の「三車火宅の譬え」を取りあげてみました。
 もちろん実際の問題には、傍線部や空欄などがあるわけですが、ここでは原文のみ紹介します。最後にはこの文章に基づいた作文を書いてもらいました。皆さんそれぞれ素晴らしい文章を書いてくれまして、職員一同感動しました。
 では、今日も縦書きでどうぞ。昨日の漱石の文と比較しないでくださいね(笑)。


    うそ

 「うそをついてはいけません」
 「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」
 みなさんは、大人によくそう言われてきたのではないでしょうか。もしかすると、これからも言われるかもしれませんし、将来は自分がそのように言う立場になるかもしれません。
 では、世の中に「うそ」は全くない方がいいのでしょうか。
 もし、「うそ」ということばを辞書にあるとおり「事実でないこと」だと定義すると、国語の教科書にのっている物語や、いつも見ているテレビドラマやアニメは「うそ」だということになります。
 それからまだ起きていない未来について言うこと、たとえばテレビの朝の占いや天気予報、さらには「君はがんばればきっと総理大臣になれるよ」などという励ましのことばまでもが、正確に言えばみんな「うそ」ということになってしまいます。
 そう考えると、すべての「うそ」をなくすのも、なんとなくさびしいような気がしてきます。
 では、どうして「うそをついてはいけません」とか「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」とか言ったり言われたりするのでしょう。
 ここでヒントになるのは、「うそつきはどろぼうのはじまり」と対照的な意味を持つ、「うそも方便」ということわざです。いったいどんな意味なのでしょう。さっそく辞書をひいてみましょう。
 うそも方便=場合によってはうそも手段として必要である意
 辞書に「うそは必要」としっかり書いてあるのは驚きですね。しかし、ここで「ああ、なんだ。うそってついてもいいんだ」と思ったとしたら大まちがいです。もう一度よく辞書の説明を読んでみてください。
 「場合によっては…」
 そう、ここが大切なのです。この「場合によっては…」の「場合」がなんなのか考えなければ、このことわざの本当の意味はわかりません。
 この「うそも方便」の「方便」ということばは、実は仏教用語です。簡単に言いますと、「仏様が人間を救う方法」という意味です。つまり、「うそも方便」とは「うそも仏様が人間を救う方法のひとつである」というのがもともとの意味なのです。
 えっ? うそが人を救う? 疑問に思いますよね。では、一つのたとえ話をもとにじっくり考えてみましょう。
 あるお経のなかに、「三車火宅さんしゃかたくたとえ」という話があります。次のような内容です。

 昔々あるところに子だくさんの長者がいました。
 ある日長者がでかけている間に、家で火事が起きてしまいました。家の中では子どもたちが留守番をしながら遊んでいます。子どもたちは遊びに夢中で火事に気づいていません。
 「早く逃げなさい!」
 急いで帰ってきた長者は、子どもたちに大声で呼びかけますが、だれも気づきません。
 すっかり困ってしまった長者は、ここで大切なことに気づくと同時に、一つの方法を思いつきます。無理やりこちらに来させようとしてもだめだ、自分の意志で行動させなければ。
 「みんな、こっちに君たちがほしがっていた立派な車があるよ」
 するとどうでしょう。子どもたちはわれ先にと走ってきました。するとそこには思っていたよりもさらに立派な車が用意されていたのです。子どもたちはそれに乗って無事火事から逃げることができました。

 お話は以上です。どうですか。この話の中で、長者は「うそ」を言っていますね。それも二重のうそをついています。
 まず、「立派な車があるからこっちに来なさい」というのは、その時思いついたことであり、本当なら「火事だからこっちに逃げなさい」と言うべきところです。本当のことを言っていないのでこれは「うそ」だと言えます。
 そして、実際に子どもたちが来てみたら、自分たちがほしがっていたものよりももっと立派な車があったわけですから、やはり本当のことを言っていません。それも正確に言えば「うそ」だということになりますね。
 もし、全ての「うそ」をいけないことだとするなら、この話は、子どもをだましたとんでもない悪い長者の話ということになります。しかし、みなさんもそうは思わなかったでしょう。
 そうです。これこそが「場合によって」の「場合」なのです。
 つまり、「相手のためになる」場合には、「うそ」が必要になることもあるのですね。
 では、この「三車火宅の譬え」において、どんなふうに「うそ」が「相手のためになっている」のでしょうか。よく考えてみてください。二重のうそには、二重の「相手のため」があることが分かってくるはずです。
 まず最初の意味での「うそ」、つまり「立派な車があるからこっちにに来なさい」というのは、火事から子どもたちの命を救うための「うそ」です。これはまちがいなく「相手のため」のうそですね。「うそ」を言わなかったら、子どもたちは死んでしまったにちがいないからです。
 また、もう一つのうそ、実際にはそれ以上の立派な車があるのに、「君たちがほしがっていた立派な車」と言ってしまった部分はどうでしょう。これはちょっと難しいかもしれません。
 子どもたちを火事場から離れさせるのに、長者は最初「早く逃げろ!」という強制的なことばを使いました。その時、子どもたちは反応しませんでしたね。しかし、車のことを言うと、自ら喜んで走ってきました。つまり、「うそ」のおかげで、子どもたちは自分から進んで行動することができたのです。
 実はそのように自分から行動できた子どもたちを見て、長者(実はお釈迦様なのです)が、ごほうびとしてより立派な車を用意したのです。
 分かりましたか。「相手のためになるうそ」が存在することが。
 逆に言うと、「相手のためになる」場合以外の「うそ」は許されないということです。
 たとえば、相手をだまして自分だけが得をするための「うそ」だとか、相手が傷つく「うそ」だとか、自分を守るためだけの「うそ」は絶対についてはいけないのです。
 私たちはついついそういううそをついてしまうものです。方便となる「うそ」をつくのは難しい。お釈迦様レベルなら可能かもしれませんが、私たち凡人にはなかなかできません。だから、つい簡単な方の「うそ」をついてしまうのです。
 こう考えてきますと、物語やドラマ、そして励ましのことばなどが、まさに「方便」であって、一般的には「うそ」だと言われない理由も分かってきます。そして、それらを作り出したり、使ったりすることが、いかに難しいか、そして責任重大かということも分かってくるのではないでしょうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.27

「リリジョンフリー」というアイデンティティ

Store 道家でもある我が校の校長から宮脇磊介氏の講演録のコピーをいただきました。拝読して感銘を受けましたので紹介させていただきます。
 リージョンフリーならぬ「リリジョンフリー」という発想はなかなか面白いし、日本人のアイデンティティの根幹をうまく表した言葉だと思います。
 「宗教」という言葉や概念からの解放ということで言えば、出口王仁三郎の思想もこれに近いかもしれませんね。
 私は「武士道」という言葉にある種の違和感を抱いてきた者なのですが、今回の宮脇さんの解説により自分なりに腑に落ちるところがありました。
 その他、「武道」ではなく「武芸」、「見」でなく「観」、さらに「観」でなく「映」、スポーツとして勝つために何が必要か…などなど、非常に興味深いお話が盛りだくさんです。
 結局植芝盛平が最強ってことでしょうか。ということは、やっぱりその師である王仁三郎はとんでもない大化物だったということですね。そんなことも再確認しました。
 では、縦書きでどうぞ。

 宮脇磊介 「日本のアイデンティティとは何か」を考える 「国際化する武道」と日本文化に連綿と流れる「普遍的価値」  全日本剣道連盟剣道文化講演会 2011.12.10

(はじめに、の部分は省略させていただきます)

 武道の国際化

 みなさまご存じのように、日本の武道が国際化しております。柔道も合気道も国内の参加人口よりもはるかに多い人たちが、海外で稽古に励んでいます。剣道もまた、海外人口が増えてきて、世界選手権大会がもたれるに至っています。そうした状況下で、特に近年、柔道、なかでも男子柔道が国際試合で金メダルを取ることが難しくなってきました。怪力の選手や巨大な選手に、力で振り回されて、技が出せない哀れな姿がテレビで報じられるようになりました。日本のお家芸であった柔道が、世界各国のレベルに追い付かなくなってきますと、国際団体の中での主導権が日本から離れて行く状況が見られるようになりました。本来の日本の柔道が長年受け継いできたルールが変更され、否定されてきました。白ではなくて、青い柔道着も現れました。日本は、当初、こうした日本流のルールを変えられることに反対しました。
 しかしながら、武道をスポーツ化した以上、また、国際的に広まってきた以上、「テレビ向け」と「コマーシャリズム化」は、必然的であり宿命的であります。オリンピックや世界選手権大会で、世界中の視聴者に分かりやすく楽しんでもらうためには、柔道着の色で識別してもらうのが、最も適当です。普段柔道の試合を見たことも無い視聴者、選手の名前も知らない視聴者が、両方とも白い柔道着を着ていては、興趣(きょうしゅ)が湧いてきません。世界の流れに従わざるを得ません。
 でも、100%国際柔道連盟が決めたことに従ってよいのでしょうか。決してそうではありません。また、国際柔連としても、いかにスポーツ化したからといって、世界の人々から支持されている「柔道」が求める精神面での意味が否定されては、柔道ではなくなってしまう。国際化された「JUDO(じゅうどう)」にも限界があることが次第に分かってきました。海外で柔道に魅力を感じて稽古に励む人たちが求めるものは、「礼に始まって礼に終わる」ことを始め、「謙虚な心」で相手に対峙すること、などの「求道」でした。それまで否定するわけにはいかないことに気付いてきました。皆様方ご案内のとおりです。一方、日本の柔道界には、ぎりぎり最後まで守り抜かなければならない価値は何か、譲ってはならないものは何か、が厳しく問われてくることになりました。
 「日本柔道の真髄」とは何か。それは、「日本文化の本質」にかかわるものであります。言葉を換えて言えば、「日本のアイデンティティ」が問われてきたのです。剣道でも、全く同じ傾向が見受けられるようになりました。武道とは異なる日本文化でも、俳句などでは、国際俳句連盟の方が、海外各国に向けて影響力を持つようになってきています。

日本のアイデンティティ

 さて、ちょうどこの頃、日本の社会でも、武道の国際化とは関わりなく、「日本のアイデンティティとは何か」が、日本の文化人や学者などの間で、にわかに論議されるようになりました。
 武道に限りませず、あらゆる分野に亘って日本のアイデンティティが問われるようになってきたのでした。それには、東西冷戦の終結に伴う「グローバリゼーション」が関わっているように思われます。
 それぞれの国は、言葉の相違だけではなく、それぞれ異なる文化を持っています。お互いの国、相手の国の文化を知り、それと自国、日本の文化との違いを知ることが、国際的な交際や折衝に欠くべからざる要素となってきたのです。文化とは、それぞれの国や民族の「アイデンティティ」と表裏をなすものです。その国の文化の本質・文化の精髄が、その国の「アイデンティティ」に他ならないからであります。
 さようなことからでしょう。文化人はじめ多種多様な人たちが「日本のアイデンティティ論」を取り上げるようになりました。そこで等しく「日本のアイデンティティ」として取り上げられたのは、「武士道」でした。新渡戸稲造氏が英文で著した「BUSHIDO」が、なにかと引用されて、「武士道が日本のアイデンティティである」かのように、喧伝されるようになりました。
 みなさま。武士道を日本のアイデンティティと考えてよろしいのでしょうか。とんでもない話です。ちょっと考えればわかることです。「武士道」という言葉が歴史上、現われたのは、いつごろでしょうか。そうです。戦国時代の後期、武道をおやりの皆様ご存じの「甲陽軍鑑」からです。「武士道」が、武士の行動規範として主張され、広まったのは、江戸時代に入ってからのことです。たかだか400年前のことではありませんか。
 日本の歴史は、神話の時代に始まります。日本の神話を初めて綴ったのは、皆様ご存じの「古事記」です。そこに、「武の文化」ともいうべき「日本文化の源流」が明瞭に示されています。日本人としての価値観も示されている。現在においても、それが連綿と受け継がれている。しかも、途切れることなく、です。「日本のアイデンティティ」が、そこに見出されるのです。にもかかわらず、たかだか400年前からの「武士道」を、1300年ほど前から示された、「武の文化」の長い歴史があるにもかかわらず、「日本のアイデンティティ」とすることは、いかにおかしいことか。子供にでも分かることです。そんなことが、堂々と横行する日本の現状は、嘆かわしい。賢明なる皆様方には、そう御感じであろうかと存じます。
 このようにして、日本は、そして日本人は、日本のアイデンティティを見詰め、日本のアイデンティティを心の中に据えておくことが求められるようになった。そう考えてよろしいのではないでしょうか。  
 「アイデンティティ」と言う言葉は、日本人には分かり難い言葉です。「アイデンティティ」を平たく申しますと、「自分で見つけた自分」「自分自身の個体(個人・民族・国家など)の価値」と考えてよいでしょう。したがって本論では、「日本人自身で見つけた日本ないし日本人」「日本本来の日本の価値」「日本人であることの価値」などと、大まかに理解しておけばよいと考えています。定義にこだわると、「神学論争」に嵌まってしまいがちです。
 日本は、島国です。たしかに、「黒船ショック」がありました。「明治維新」という無血革命も、成し遂げました。しかしながら、これまで、日本ないしは日本人は、「世界の中の日本」「世界の中の自分自身の価値」をあまり考えないでも、なんとかやってこられました。「自分が何であるか」とか「アイデンティティは何か」を問いかけなくても、今まではそれで済んできた。そう思ってきたのでした。それが、日本が国際化から後れをとる大きな原因のひとつにもなっていたのです。
 さて、きょうのお話のタイトルは、「日本のアイデンティティとは何かを考える」とさせていただきました。「考える」としましたのは、「日本のアイデンティティ」について、わたくし自身の考えを申し上げようとしているのではなく、みなさまと一緒に「日本のアイデンティティとは何か」を考えて参りたい、それについて、わたくしとして出来ることは、みなさまと考えるに当たって「ヒント」になるであろうことを提供させていただきたい。さような考えからにほかなりません。この点、あらかじめご理解賜りたい。心からお願い申し上げたい、さように存じております。

 武芸を体験しない文化人

文化人が語る新渡戸稲造氏の「BUSHIDO」を引用する「日本のアイデンティティ論」で痛切に感じられますことは、日本の文化人たちが日本の「武芸」に馴染んでいないことであります。剣道・柔道など「武道」の稽古をした経験が無い人が殆どです。武道への「関心」といっても、せいぜいオリンピックや世界選手権大会でのテレビを見るくらいの程度です。そんな人たちが、「武士道」や「日本のアイデンティティ」を論じて本や随筆を書いたりしているのです。
 さきに申し上げたように、日本の文化の底流をなすものに、「武の文化」があります。日本文化を論じる時、欠かすことの出来ない重要な要素です。
 日本の歴史は、豊葦原瑞穂国(とゆあしはらみずほのくに)の生成に始まります。古事記などが記す神話の時代から、日本人の祖先は、タケミカズチノ神を「武の神」としたように、武を尊び、刀剣に格別の権威を抱いていました。神代(かみよ・神話の時代)にあって、刀剣の持つ力への崇敬の念は、日本人の精神性の柱をなしていました。また、「心身の在り方」として、「明らけく清らけくあること」が尊ばれ、「禊ぎ(みそぎ)」「祓い(はらい)」が、穢れのない清澄な精神に導く手段でした。
 その後の日本の歴史は、武芸におきまして、世界の他の国々や地域で発達した武術と異なって、「相手を殺傷しないあり方」を求めるところに特徴を示すようになりました。「平安な心のありよう」を追及する茶道・華道・能楽など、日本の伝統文化には、日本古来の「武」が尊んできた、「高い精神性」から生まれる「平和な心・清冽(せいれつ)な心」のありようが、底流をなしてきたのであります。
 このように、古事記の時代からの日本にあった「武の文化」が、日本文化の底流をなし、あるいは、直接間接に影響を及ぼしてきたのでした。したがいまして、「日本の文化」を論じる時、この「武の文化」を抜きにして語ることは出来ないのであります。
 また、最近の傾向として、茶道、華道、俳句、柔道、合気道などの伝統文化の中には、日本国内よりも、海外の愛好者人口の多い所も出てきました。また、昨今は、アニメやマンガなどのサブカルチャーと言われるものが、日本の人びとの理解を越えて、世界の人びとの心をとらえるようになっているのです。日本の人びとが、自らの文化の本質への理解を欠いているために、その本質を海外の人たちに解説も出来ない。そんな状態が、許されなくなってきているのです。ここに、きょうのテーマである「日本のアイデンティティ」ですとか「武の文化」への国民挙げての理解が求められるゆえんであります。
 なお、すでにお気づきの方もおられるでしょうが、きょうのお話では、日本古来の武に関する体技を、「武芸」と呼称させていただいております。「武道」「武術」「武芸」と三つの言葉を、使い分けいたしております。「武道」という言葉は、皆様ご存じのように、明治時代に入ってから一般化しました。「武術」という言葉には、技術・技(わざ)に重きが置かれている印象がございます。そこで、日本古来からの「精神性」と併せて「心のありよう」を含めた「武芸」を適当と考えました。

 国際試合で金メダルを取るためには、どうしたらよいか

 さて、それでは、まず第一に、日本の武道が当面抱えている国際化に伴う問題点とそれをいかに克服するか、について検討を致したい。第二に、その背景にある日本古来の武芸への関心を喚起する必要性。第三に、日本の武芸を担ってきた先人達が求めた究極のものは何だったか、について、検討を進めて参りたい。
 その上で、連綿として流れてきた「武の文化」を底流とする「日本の文化」に眼を転じて、三つのことを申し上げたい。一つは、その特徴、「日本文化の特質」を、皆様と共に確認し合いたい。二つには、その「日本文化の精髄」が、こんにち、および、これからの「世界に普遍的な価値観」として全世界に向けて提供することが、日本の役割であることを申し述べたい。そして三つめ、最後に、その中で「日本の武道家の役割」、武道家が考え、かつ、なすべきことは何か、を見詰めて参りたい。換言すれば、「日本武道の目的」とするものは何か、ということです。
 まず、当面の問題として、本来日本が元祖であり、日本のお家芸とされてきた日本武道が、各種目の国際試合で、圧倒的に金メダルを獲得するためにどうしたらよいか、について見て参りたいと思います。
 柔道に例をとってみますと、特に、男子の不振には、目を覆うものがあります。負け方の多くは、外国選手の怪力に屈して技を出せないうちに負けてしまうパターンです。「力負け」しないことは、今や、世界を目指すものにとっては、絶対的な必要条件なのです。日本選手は、いくら技が切れて、「美しく勝つこと」や「一本勝ち」を勇ましく宣言しても、外国選手の怪力に歯が立たず、惨めな結果となるパターンの連続です。世界を目指すからには、優れた技を持ち、かつ、長身や目方のある怪力外国選手を相手にして力負けしないだけの怪力と持続力とを持つことが先決です。いくら技が切れても、体力が伴わない選手は、もはや、始めから「国際試合不適格者」として国際試合へのエントリーから外してしまうことです。「国内試合優勝用選手」に甘んじさせる以外に道はありません。
 剣道でも、同様なことが言えるのでしょう。体力とその持続力、集中力とその持続力に加えて、柔道とは異質の様ざまな資質が求められることでしょう。
 怪力に加えて、技(わざ)の習得について格別の工夫があってしかるべきであります。これには二つの道があります。一つは、世界中、古今東西の格闘技の技を取り入れて、必要なものを身につけることです。もう一つは、日本古来の武道家が心血を注いで開発し、磨き上げた格闘技の技を吸収することであります。ここでは、後者について考えてみます。
 世界一を目指すからには、「世界最高の技」を習得しなければなりません。
日本古来の日本の武芸各派が、長年月をかけて、生死を賭けた勝負での「必勝」を期するために開発し、磨き上げてきた独特な技や手法がございます。近代科学では、説明のつかない、無数のノウハウが、そこにあります。
 16世紀後半に、上泉伊勢守信綱が、当時主流をなしていた、力とスピードで相手を圧倒したうえで自分の得意とする技に引き込んで勝つ、という戦い方に囚われないで、相手の動きに対応して、いかなる形の攻撃に対しても無理なく勝つ方法を体系化し、全く新しい流派を創設しました。それが、新陰流でした。また、合気道は、相手の力や心身反応を利用して、相手の態勢を崩すのが基本原理です。
 スポーツ武道の国際試合で勝利を得ようとするのであれば、日本選手は、手近なところに、海外の選手たちが直ぐには真似の出来ない、日本独特の幻妙にして多彩な技と理法が山ほどあることに着目し、その精髄を窮める修練を尽くさなければならないのであります。
 武田惣角の「壁抜けの術」ですとか、三船久蔵の「空気投げ(隅落し)」などもクリアしたいものです。前者は、目にもとまらぬ速い所作(しょさ)と催眠誘導が基礎になっているように思われます。また、相手に触れないで投げ飛ばす「隅落し」は、相手が自分自身でも感じていない心身反応のツボへの刺激と反応の活用と考えられます。夥しい魚の群れが一斉に同一方向に流れるように移動するのは、何百万年という長い年月のなかで、身の危険をかわす必要から、一般の人間からすれば、一瞬としか感じられない時間が、魚群にとっては、身をかわすのに十分な時間となっているからだと思うのです。「凝縮された集中力による時空のスパンの変化」といってよいものでしょう。植芝盛平が屡しば口にしたと言われる、戦地で鉄砲玉が見えるから当たらない、と言ったことは、ある程度合点がいくところです。なお、植芝盛平の十人掛け・十人飛ばしのフイルムを見ると、座位のまま、目にもとまらぬ早業で、前後左右に移動して、体さばきをしていることが分かります。人並み外れた修行の賜物が、そこに明瞭に映し出されているのです。
 勝負での必勝法を見出そうとする時、欠かせないのは、宮本武蔵の「平常心」です。皆様ご存じのように、武蔵は、「平常心」と言う言葉は使いませんでした。「兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に変わることなかれ」と説くのを、一般に「平常心」と呼んでいるわけですね。俗な解釈では、「緊張せずに、平素と同じようなリラックスした気持ちで試合に臨め」と理解されています。そんな気持ちで真剣勝負に臨んでは、たちどころにバッサリやられてしまいます。武蔵が言わんとするものは、「必勝は、真剣勝負で相手に負ける事のない最高の精神状態を、日常平素から持ち続けていることによって得られる」と言うことにあるのでしょう。皆様に申し上げるまでもないことです。
 宮本武蔵は、「見(けん)」でなく「観(かん)」と説きました。これについて、植芝盛平が、「観(み)る」でなく「映(うつ)る」じゃ、武蔵はまだ完成していなかった、と評しました。「映る」という捉え方は、柳生家の一大事(秘伝)である「西江水(せいごうすい)」の中にも出てきます。「心が何物にも煩わされることが無くなり、心が明らかとなってすべての道理が分かるような状態である。この状態になると、自ずと敵の心が自分の心に映ってくる」と解説されています。

 武芸を担ってきた先人たちが求めた究極のものは何だったのか

 このように、日本には、他の諸国、特に西欧諸国の近代科学では、到底及びもつかない幻妙な技(わざ)が山ほど開発されてきました。「小宇宙」とされる、人間の経穴や無意識の反射反応を自在に操ることにより、手を触れなくても相手のバランスを崩し、相手の力で相手を無力化する技までも、伝習されているのであります。人体構造における心身の玄妙な働きのメカニズムに、厳しい修行を通じて迫った結果、習得された貴重な文化遺産であります。
 日本の武芸諸流派が共通して鍛錬するものに、「呼吸法」があります。意義の説明の仕方や鍛錬の手法は、まちまちですが、言わんとするところは皆同じです。「心身の働きを自在にする」「集中力を高める」「丹田に気を集める/気を練る/気を蓄える」と、心身の全ての感覚が総動員され、かつ、状況に応じて最も有効に機能する状態を作り上げる効果を期待します。
 森羅万象ことごとく「宇宙のリズム」に随って生成し、消滅します。呼吸の加減は「宇宙のリズム」に則したものであることでなければなりません。結局、諸流派が「極意」「奥儀(おうぎ)」として求めるものは、「無形の位(くらい)」「轉(まろばし)」「無構え(構えあって構え無し)」その他様ざまな表現がありますが、いずれも、「いかなる状況にも対応できる心身の状態」に尽きます。それが「自然のありのままの心身の姿」であり、「宇宙のリズムに適ったあり方」などと表現されるのであります。
 武技が高度なものに磨かれてきますと、重点は「力」よりも「技」へと移ります。次いで「心のありよう」が、修練の目標として見えてきます。さらに進むと「相手を殺傷しないで制圧する」「相手と力によるバトルをしないで勝つ」「気位(きぐらい)/高度な精神力を相手に感応させて戦意を喪失させる」といったことを尊し、とするようになります。
 日本の武の文化は、西欧での武のありようと異質であります。刀剣については、日本では古来から権威あるものとして受け止められ、精神性が尊重されます。天皇の天皇としての証しである三種の神器には「草薙の剣(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)」があります。海外では、どうでしょうか。ダガーナイフや青龍刀など、精神性の無い「殺傷の用具」でしかありません。また、戦国時代から江戸時代にかけて「武士道」「士道」など武士の行動規範が武家社会の中に広まりました。日本の「武士道」と西欧の「騎士道」もまた、質を異にします。日本では「死生観」を見詰める精神性が強い。これに反して、西欧の「騎士道(chivalry)」では、「勇気」「婦人尊重」などを看板にしていますが、本質は「カッコよさ」の顕示というスノビズム(俗物主義)に過ぎないのです。

 武芸に求めていた究極の目標

 ところで、では、先人が武芸に求めていた究極の目標・究極の理念は、何だったのでしょうか。植芝盛平は、「武技は、天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至る業(わざ)であり、道程である」(「合気道の精神」)と説いています。「宇宙との一体感/一体化」「宇宙の理法に適った心身の働き」「宇宙のリズムとの調和」などとも説かれています。この場合の「宇宙」という言葉は、「自然」「山川草木・森羅万象」「天」などと置き換えることが出来るでしょう。
 「身心一如(しんしんいちにょ)」と説かれるように、日本では心身は、キリスト教文明で考える二つの別々のものではなく、一つであります。五感や経穴、あるいは、それら以外に未だに発見されていない心と身体の反応・感応のメカニズムは、心身一体のものとして捉えられなければなりません。そうでないと、日本の諸武芸の理法や、それらの奥にある究極の目標である「宇宙の理法」は、理解できません。

「世界に平和をもたらす理念」への集約

 武芸の先人達が、後世に残そうとしたものは、何であったのでしょうか。
日本の武芸は、殺傷の技術から出発しながら、その中に「神武不殺(しんぶふさつ)」すなわち「殺すなかれ、破るなかれ」を理想としてきました。そして、「相討ち」から「相抜け」へと脱皮するなど、相手を殺(あや)めたり、傷つけたりする世界から、相手を生かし合う世界へと転化を進めて参りました。
 日本の武芸の中で、代表的なものは、剣術と柔術でした。剣術は、本来、刀剣という「武器」によって相手を殺傷する技術であります。しかしながら、日本では、やがて、相手を活かして勝つことを求めるようになりました。柔術は、もともとから、武器を持たないで、「無手」「空手・空拳」で、場合によっては武器を持つ相手にも勝つ、という技術を目指してきました。 
 柳生新陰流の流祖、上泉伊勢守信綱は、真剣勝負での必勝法を極めようとして、その極意に達しました。しかしながら、上泉伊勢守は、自分が極めきれなかった「無刀の位」を工夫することを、兵法者として名をなしていた大和の国の柳生宗厳(やぎゅう・むねとし)に託したのでした。宗厳は、「無刀の位」を極めることに成功しました。武器を持たないで、武器を持っている相手を制圧する手法を編み出したのでした。これは、塚原卜傳(つかはら・ぼくでん)が、「一の太刀(ひとつのたち)」を考案して、その開発した木刀使いの威力を発揮して、すべての相手を、パワーとスピードで捩じ伏せたのと対照的であります。上泉伊勢守が目的とした哲学は、この卜傳流のやり方を乗り越えることにあったのでした。
 合気道になりますと、これまた、殺傷の技術から出発しながら、次第に、「神武不殺」へと、相手を生かし合う世界へと転化しました。技法、技の出し方も、決して自分自身から先制攻撃をしないことを練磨の基本とし、これを「武の究極の理法」としました。そして、「人と争わず、自然を損なわず、力でのぞまず、対すれば相和す。宇宙との和合を目指す愛の武道(、それ)が、合気道である」(植芝盛平)としたのでした。
 講道館の創設者、嘉納治五郎師範は、「柔道とは、心身の力を最も有効に使用する道」であって、かつ、「相助相譲自他共栄の道」であるとしました。「精力善用」「自他共栄」の理念であります。これは、今日これまで述べてきました日本武芸が長い年月の中で求めてきたものの集大成であると言えるのでしょう。また、日本から世界に向けて、「発信」を意識した一つの体系化された理念でもありました。事実、国際的な武道界で、こんにち膾炙されているところであります。なお、嘉納師範は、「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を極む」と説きました。上泉伊勢守・柳生宗厳の「無構え」から進めて、「無心」に到達したのでした。宮本武蔵の五輪書「空の巻」の最後の締めくくりの言葉は「心(しん)は空(くう)なり」とあります。相通じるものがみえてきます。

 「武の文化」を始めとする日本文化を生み出すことができた「環境」

 これまで皆様に申し上げてきた事柄は、異論はありましても、日本人にとりましては、格別の違和感なく理解でき、受け入れられることだと思います。ところが、海外、なかでも白人支配のキリスト教文明諸国の人びとにとっては、なかなか理解されないのです。どうしてでしょうか。理由は、はっきりしているのです。そして、この点は、日本文化の特質、および、その発生の源を考える上でとても大事なことであります。
 日本人は、長い歴史上、ほとんど「宗教」と「イデオロギー」の呪縛を受けてきませんでした。それは、日本にとりまして、とても恵まれた環境だったと言えます。そうした拘束の無い中で、日本人は、自由闊達に精神活動を展開することが出来、様ざまな文化を育てることが出来たのでした。
 海外では、そうはいきません。17世紀以来、世界は、白人によるキリスト教文明支配に覆われました。キリスト教は、一神教の宗教です。人間が創ったフィクションに基づく一神教や一神教文明は、人間が生まれ持った自由で無垢な心と行動を、宗教上の戒律によって、ときには強制的に、一つの方向に、人間を加工してしまいます。
 こうした、ヤーヴェ信仰に基づく、唯一絶対の神への服従を説き、天国と地獄、それに悪魔の存在を心底信じさせられてきた「一神教のユダヤ教(旧約聖書)やキリスト教の世界」は、日本に存在しないと言えるくらい、影響力を持っていません。そのために、日本では、古事記の昔から今日まで、「明らけく清らけく」ある心を、切れ目なく保持しつつ、日本独特の自由な環境の中で、絢爛たる文化が育ってきました。自由で平等な人間性を謳歌し、闊達な神話や芸術作品を産んだギリシャの環境は、キリスト教によって断絶しました。
 この「一神教の拘束から自由な環境」を「リリジョンフリー(religion free)」と呼ばせて頂きたいと思います。英語として、必ずしも正確な表現とはいえないかもしれません。また、もう一つ、一神教の宗教だけからの自由ではなく、他の諸々のイデオロギー上の精神的制約を受けない自由までを含めている。ほぼ完全な「自由環境」を意味しております。その「リリジョンフリーの環境」によって、「日本文化」があるのです。
 「日本人の信仰心」は、学問的には、「アニミズム」として捉えられてきました。西欧キリスト教文明からは、やや軽侮の意味が籠められていました。「日本人は、無宗教だ。野蛮人だ」とする見方です。しかしながら、むしろ、日本が「リリジョンフリー」であることを、誇ってよいことだ。そう強調したいのです。欧米の人から「神(GOD)の存在を信じるか」と、問われることがあります。 日本人の宗教観を確かめたいのでしょう。その時は「一神教の神(GOD)は信じません。宇宙に存在する万物を支配している“宇宙の理法”の存在を信じます。そして、“宇宙の理法/宇宙のリズム“に適った、心身の在り方、呼吸の仕方、物の捉え方、考え方をすることが、”人間本来の姿“と考えています。それが、人に”幸せ”をもたらせもします」と答えればよいのです。
 また、キリスト教文明諸国からは、日本は「神道の国」とか「儒教の国」とか言われてきました。しかしながら、神道には教義も無ければ経典も無い。また、布教行為もありません。宗教の定義は無数にあります。けれども、こうした神道までキリスト教と肩を並べて宗教とはとても言えるものではありません。また、儒教についても、本来、生活上・処世上の指針のようなものでしたし、日本では、中国や韓国よりも遥かに宗教的色彩が薄まっているばかりか、江戸時代に儒学者の手によって加工されて、「武士の行動規範」として、変形・変質されたものになっていました。仏教は、キリスト教・イスラム教と並んで、世界の三大宗教の一つとされてきました。しかしながら、仏教は、もとより一神教ではありません。さまざまな宗派がありますが、教義も、一言でいえば、困った人に投げられる「筏(いかだ)」と説明されています。このようなことから、日本を「リリジョンフリーの国」と表現することが適当でしょう。

 リリジョンフリーの国であることの恩恵

 日本が「リリジョンフリーの国」であることが、どれだけ日本人自身に幸せをもたらせているか、計り知れないものがあります。皆さんにも、お考えいただきたいと存じます。
 リリジョンフリーの日本の環境のもとで、絢爛多彩な文化の花が、長い歴史の中で、いつの時代にも、咲き匂い、咲き誇ってきました。海外からも「日本文化の特徴」と指摘されてきたのは、「わび」「さび」「もののあはれ」「いつくしみ」など、「繊細で洗練された美意識と感性」であります。和歌や俳句には、「人間以外のものの心」を詠(よ)むものが多く見られます。日本人は、人間以外の生命体、動物・植物、ですとか、石や岩のような無機質の物体、ロボット、人工衛星はやぶさなどですね、そういうものを含めて森羅万象すべてに「心(こころ)が存在している」と感じているところから生まれる発想です。何とでも心が通じるのです。ですから、和歌・俳句にあらゆるものの心が詠みこまれるのです。
 日本の文化には、「より高い精神性を求める」という特質があります。その「精神性の希求(追い求める)」は、日本文化の全ての領域に亘って浸透しています。茶道、華道を始め、野球道からマンガ道など、何でもかんでも「道(どう」」をつけてしまいます。また、何でもかんでも「神様」にしてしまいます。千葉幕張には、ロッテを優勝に導いたバレンタイン監督を祀った「バレンタイン神社」があります。東電本社の屋上には、エジソンを電気の神様にした「エジソン神社」があるそうです。地方では、あちこちに〆縄を巻いた大きな岩が、神様として祀られています。
 また、「感謝」の気持ち。なかでもはっきりしているのは、「自然に対する感謝の気持ち」です。キリスト教文明諸国では、「人間は万物の霊長」であり、「人類が自然を征服」する、とされているのとは、正反対です。キリスト教文明諸国での「感謝」は、神が人間に求めるものです。日本人が持つ「感謝」は、本来自然に生まれてくる感情です。では、どういうところから自然に感謝の気持ちが生まれるのでしょうか。それは、「畏敬の念」のあるところに生まれてくるのです。自然に対する畏敬の念が、日本人の「感謝の気持ち」の根源なのです。
 「自由」「人権」などの価値観・概念も、キリスト教文明諸国と日本とでは、異質です。欧米では、「束縛から解放された自由の状態」です。日本の場合は、「人間としてありのままの心の状態」が「自由」な状態です。また、「人権」も、神が人間に付託されたものとされるのに対して、日本ではもともとそれと比較される概念がみあたりません。人も動植物も森羅万象ことごとく平等だからなのです。多くの日本人に気付いてもらいたいことです。「日本は、欧米先進諸国と価値観を共有する」と言われます。なにも相違を積極的に強調する必要はありません。しかしながら、日本人/日本国民としては、心の中では、きちんと整理して、そのアイデンティティを堅持していて頂きたい。そうお願いしたいのです。
 ただいま、「自由」について申し上げました。日本では「とらわれない心」「無心」という言葉でも置き換えられます。そして、これらは、「武の文化」が求めてきたもの、そのものであります。これが、「リリジョンフリーの環境」の下で、初めて存在できる、そして、自分自身で認識できる「人間の本来の姿」なのです。そうした「リリジョンフリーの環境」の中で、日本人の「洞察力」「直観力」が研ぎ澄まされます。また、「想像性(イマジネーション)」「創造性(クリエイテイヴィテイ)」が伸び伸びと発揚されます。世界トップを行くファッションデザイナ―や建築家が日本から生まれるわけです。国家の支援ではなく、文化のお蔭なのです。
 日本の時代劇と米国の西部劇との間に決定的な違いが見られます。日本の時代劇では、武芸の達人が、道角(みちかど)の向こうに潜む敵、あるいは、背面から足音を忍ばせて近付いてくる敵を、「気配(けはい)」で察知します。これに対して、西部劇では、拳銃王といえども分かりません。危険地帯に入って、きょろきょろしたり、石を投げて反応を引き出したりするにとどまります。
 「道徳」にしても、キリスト教文明諸国では、宗教上、神が示すもので、道徳教育は宗教教育の一環です。日本では、躾(しつけ)のように様ざまな価値観などを混然と取り入れた社会行動規範と併せて、個々人の価値観にゆだねられています。日本の武道の目的が、「人格形成」という、日本人の感覚からすれば宗教色の無い道徳的なものとされていることも、「リリジョンフリーの環境」のしからしむところでありましょう。
 近年、日本武道の国際化によって来日して修行する海外選手とは別に、欧米はじめ、海外諸国から日本古来の武芸や文化に強い関心を寄せて遥々来日する人が増えてきました。強くなるための修行だけでなく、日本の武芸や文化の本質は何かを、宗教とは離れて、自ら哲理的(「理」に照らして)かつ体系的に求めます。また一方、アニメやマンガなど日本のサブカルチャーに熱狂する世界の若者が増えています。なぜでしょうか。キリスト教文明の傲岸さやイスラム教諸国との宗教を異にする対決構造。同じ宗教内での宗派の対立など、血を血で争う戦争や紛争に倦(あぐ)んだ人たち、そしてまた、キリスト教の「人間が自然を支配する」とする考えが、自然破壊をもたらし、人類の生存に危機感を抱き始めてきた人たちが、自由な「リリジョンフリーの国・日本の文化」に魅力を感じるようになってきた。そう考えて当たらずといえども遠からず、でしょう。

 まとめ

 さて、きょうの皆様へのご報告も、終わりに近づいてきました。ここで、これまで申し上げてきたことを、かいつまんで、整理させていただきたいと思います。
まず、日本の武道が国際化してきて、国際試合で、海外の選手の方が、日本のお家芸である剣道や柔道を脅かす存在になってきた。その結果、日本の武道が守り抜かなければならない価値は何か、すなわち、「日本武道のアイデンティティ」が問われることになってきた。ということでした。
 次に、それでは、「日本の武道の本質」をなすものは何か。それを、武芸の達人といわれた人びとを始め、先人達が武芸の求めてきた究極のものは何だったのか、に目を向けることを通じて、探り当てようと試みました。そして、極意とか奥儀と言われているもの、および、その周辺にある考え方、すなわち、心の在り方、ものの捉え方が、「古来の日本文化の本質」と重なり合う、あるいは、「日本文化の本質」そのものであることが、理解されてきました。
 その「日本文化の特質」とされる多彩な美点は、ことごとく、「リリジョンフリー」ともいうべき、日本独特の自由で自然な精神環境の中で生まれ、そして、育ってきたものである、という姿が浮かび上がってきました。
 そして今、海外の人たちが、日本古来の武芸や、日本に新しく生まれてくるサブカルチャーまでの、幅広い分野に亘って、日本の魅力を感じ、心を寄せるようになってきた。それは、すなわち、日本文化の本質の中に、「世界に共通する新しい価値」、それを背景にした「世界全体に広まるであろう普遍性のある理念」。普遍的理念であります。海外からの関心の高まりは、それが世界に平和をもたらせる理念であることを予感させる現象、と考えてよいものであることが言えるようになってきた。
 つまり、「リリジョンフリーの環境」への憧憬(しょうけい)か芽生えつつある中、海外から日本の武道や文化、サブカルチャーまで、それらの本質を追究しようと人たちは、日本の文化、なかでも「武の文化」が究極的に見出した、「世界に平和をもたらすであろう理念」が、「リリジョンフリーの環境」の中からでこそ、生まれるものであることに、気付いてくることになるのでしょう。そして、そのことが、日本で生まれ育った理念を世界に広める素地になって行くことでありましょう。

 武道家の役割

 そこで、次に考えなければならないことは、「武道家の役割」です。「世界の中の日本」を視野に入れた、日本の武道家の役割です。日本の武道家がこんにち目指すべき目標は、なになのでしょうか。
 日本の武道界では、日本の伝統文化である「武道の目的」を、心技体の一体的な修練を通して「人格形成/人間形成」を図ること、としています。1987年(昭和62年)4月23日に日本武道協議会が制定した「武道憲章」には、その第1条に、「目的」として「武道は、武技による心身の鍛練を通じて人格を磨き、識見を高め、有為(ゆうい)の人物を育成することを目的とする」とあります。
ですが、人格形成/人間形成を図る程度のレベルを目指すことが、いまや、「世界の中の日本武道の目的」として留まったままでいてよいのでしょうか。
 また、新しい技法や心の在り方を開発する動きが見られないことも、大変気になるところです。私は、柳生新陰流について、昭和38年、内務省の柏村信雄先輩に連れられて、参宮橋の道場に行って二十世柳生厳長先生の講道を受けました。落合の養神館道場に変わって柳生延春先生に、そして現在は、二十二世の耕一厳信先生について学んでいます。古武道一般に言えることですが、もっぱら、奥儀を開発した先人の教えを学び、継承するばかりで、更に新たな奥儀・極意を開発しようとする気配が見られないことに物足りなさを感じざるを得ないのです。つい明治・大正そして昭和の初期までは、種目にもよりますが、開発努力の厳しい修行がありました。いまでは、そこそこの心技の継承にとどまっているのです。それはそれで貴重なことです。けれども、それでよいのでしょうか。教えていただきたいのです。
 一方、スポーツ化した武道種目では、試合に勝つことに集中する。これはやむを得ないことですが、経営の厳しい道場はともかく、大学などでは何とかならないものでしょうか。「武道の目標」について、小学生以下には「躾(しつけ」「礼」を、中学生には「人格形成」を、高校生には「武の文化」を、大学生には「リリジョンフリーの国・日本の文化」を、そして、大学研究室、学校・職場・道場指導者などの武道専門家には「日本ないし日本武道のアイデンティティ」「世界を平和に導くに普遍的な理念」を、といった形で整えるなどの工夫があってよいのではないでしょうか。
 「武道と日本文化とのかかわり」については、本日論考をしたところです。この点について、気になることは、海外から武道や文化に強い関心を持って日本に来て修行をし、文化を学ぶ人たちの貪欲な努力です。彼等/彼女らの方が、本家本元の日本の武道家に先んじて「日本武道のアイデンティティ」に到達しかねない懸念です。
 先人たちの厳しい修行の積み重ねの上に築かれた「世界平和実現に向けた普遍性のある理念」、その背景をなす「リリジョンフリーの精神環境」、そこから次々に生まれてくる「繊細にして洗練された日本文化」と「自由闊達な発想力と創造力に富んだ日本文化」を、海外の人たちと十分議論し合えるだけの説得力と、いつでも海外に発信できる力とを涵養することとあわせて、自らが、先人達が見出した極意・奥儀を超える心技の開発を目指すことが、いま、日本の武道家に求められているのではないしょうか。
 時間が参りました。以上を持ちましてご報告に代えさせて頂きます。ご清聴有難うございました。以上


 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.13

想像力と倫理

20120114_75327 日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
 氏の環境倫理学の本は何冊か読んだことがあります。何が書いてあったか全く覚えていないので(笑)、このブログに書いたであろう記事で思い出そうと思ったのですが、検索してみたらありませんでした。
 あっそうか、たしか高校入試の問題で使ったので、それで記事にしなかったんだ。記事見ると何が出るか分かっちゃいますからね。たしかにこれは倫理的に許されませんな。
 その代わりに「子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える」という本の記事が出てきました。これもまた読んだことすら覚えておらず、またこんな記事を書いたことも全く覚えていないという、非常に情けない事実(苦笑)。やはりこのブログは個人的な備忘録としても機能しておりますな。
 さてさて、今日の加藤さんのお話、原発問題を哲学で斬る!ということで、なかなか興味深い内容でした(哲学というより倫理学でしたけど)。しばらくはこちらで見られますのでぜひどうぞ。13日分の後半の方です。
 このムービーに採用されなかった「確率」と「期待値」の話も面白かったですよ。科学の限界の一端を示す話だと思いました。
 すなわち…「1/1万×1/1万=1/1億」という確率計算から原発は安全だと言われてきた。しかし、それぞれの1/1万は独立事象に関することである。しかし独立事象というのは理論上のことであり、現実にはありえない。特に地震や津波による原発事故の場合、それぞれのシステムが「独立」であることはありえない…と。
 また…「10年に1回、10億円の損害」と「100年に1回、100億円の損害」というのは、期待値的には同じだが、我々の生活感、倫理観からすると全く違う…と。
 この話を聴きながら再確認しましたね。数学が象徴するように、科学は人間の想像力(感情)を排除するところから始まるんだなと。
 つまり、基本的に顔が見えないんですよ、人間の。ここのところ何回か書いてきたと思いますが、私たちは相手の顔が見えないと倫理を失います。
 たとえば、今回ですね、こういう事故が起きて、自分や自分の子どもが被曝すると、これだけ大きな騒ぎになる。これは当然です。
 しかし、加藤さんも言うとおり、核廃棄物が自然状態に還るには10万年かかるわけで、じゃあ、それに対しては我々は「感情的」「倫理的」になるかというと、まったくならないわけですね。
 ずばり言ってしまうと、私なんかも、自分の娘たちの将来、娘たちが住む世界の状態を心配できますが、その娘たちの子ども、すなわち孫のこととなると、途端に無関心になり、あるいは悪人にすらなってしまいます。とても10万年後のことなんか想像できませんよね。
 これは大きな人間の欠陥です。加藤さんの言う「世代間責任」「世代間倫理」が欠落しているんですね。特に、カネ、経済性が優先されると、その傾向は強まります。
 では、どうすればその「想像力」を持つことができるのか、あるいは鍛えることができるのか。
 私はそこに必要なのは、感情や想像力、個人の顔を排除する「科学」ではなく、それらを統合する「宗教」だと思っています。「宗教」という名で呼ぶと、我々は経験科学的に(笑)具体的な宗教を思い浮かべてしまうので、本当はその言葉は使いたくないんですけどね。
 ホントしつこくて申し訳ありませんが、私の「モノ・コト論」的に言いますと、科学は「コト」の権化ですから、そっちではなくて「モノ」的世界に生きよということです。「物語」世界とも言っていいでしょう。
 実は人間の脳ミソはそちらの世界に対応するようにできているんですが、今、我々はそちら側をほとんど使っていないようです。コト的な世界、言語によって分析、分節する機能ばかり使っている。数字や言葉やカネはそちら側に麻薬的に働きます。
 もちろん、そちらも必要なのですが、バランスが悪いんですよ、他の動物と比べても。
 実は「倫理」「道徳」「モラル」「良心」というのは、言語の領域、科学の領域で生まれ育つものではありません。教育界ではその逆のことをずっと教えてきちゃいましたね。人間は言語や数字で考えられるから動物より優れていると。間違ってましたね。
 まずは、顔が見える者どうしの「思いやり」、そして、次に今ここにいない顔見知りへの「思いやり」、さらに顔を知らないけれども、確実に存在している無数の他者に対する「思いやり」…こうして我々は「想像力」を鍛えていかなければならないのです。
 難しいですね。我々教師の責任も重大です。教科書を教えながら、科学や論理や言語を教えながら、その補集合(モノ世界)の存在に気づかせなければならないわけですから。
 厳しい道のりが想像されますが、一歩一歩進むしかありません。

Amazon 環境倫理学のすすめ 新・環境倫理学のすすめ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.01.11

究極の不安克服法…?

20120111_main01 日はめずらしく「ためしてガッテン」を観ました。テーマは「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」。
 内容の詳細はこちらでご確認ください。
 番組放送中、不安症の上の娘はずっと耳をふさいでいました(笑)。「不安」という言葉、そしてそれを「克服」しなければならないということに「ストレス」を感じるのでしょう(苦笑)。
 これってよくわかりますね。上の娘は顔も性格も私に似ているところがありまして、だからか、なんとなく毎日自分の子ども時代を思い出すんですよ。
 自分も子どもの頃には「漠然とした不安」及び「截然とした不安」を抱えていましたっけ。まあ、みんなそうなんでしょう。
 我々は大人になるにつれて、それをなんとかする技を身につけ、そして最終的には子どもに「大丈夫、大丈夫」と言えるようになるわけです。
 ただ、番組でも解説されていたとおり、その技をなかなか身につけられない大人も増えていまして、それがウツやパニック障害や適応障害、そして最近では大人の発達障害なんていうような、まあずいぶんと乱暴な「名づけ」がされて、そしてそれに対して医学的な処方がなされるというような、あまり自然ではない状況になっています。
 ちなみに今の私は、これはもう自他ともに認める「不安のない人」です。たしかにないんです。それこそ障害なのではないかというくらい、不安も恐怖もない。
 ストレスはありますよ。いやなことをしなければならないとか、そういうレベルでのストレスは人並みにあります。しかし、それが不安や恐怖につながっているかというと、全然そんなことはありません。
 で、なんで不安症だった自分がこんなふうに安心症になってしまったかというと、これはやはり「禅」のおかげであると思います。あるいは自らの「モノ・コト教」のおかげ。
 そう、番組でも小野アナが坊主ヅラかぶって説明してましたね(笑)。「座禅」がいいと。全てを受け入れて受け流すのがいいと。過去や未来に執着して苦労するより、現在を受け入れろと。
 これってまんま「禅」です。モノ・コト教的に言えば、「コト」にこだわるなということです。昨日の話にもつながりますよね。
 「コト」というのは、自分の脳内の情報のことです。「モノ」というのはその補集合、つまり他人はもちろん、動植物や物(無機物)も含めての他者全てです(自分の身体もです)。
 今の私は「コト」に対する執着というのが全然ないのです。たとえばこうして自分の「コト」を「コトのは葉」に乗せて吐き出していますが、これはまさに吐き出す行為でありまして、ある意味非常に無責任な排出作業です。すんません、汚染が拡がってますね(笑)。
 外からは、これだけ文章を書いていて、どんだけ自分の頭の中にこだわってるんだと思われそうですが、実は全く反対でして、私は自分に対するこだわり、自分の考えに対するこだわりは全くないのです。
 お釈迦様のおっしゃるとおり、我々が「自己(コト)」だと思っているものは、実は「他者(モノ)」によって縁起したものです。それを悟れば、なんの執着もなくなりますし、不安も恐怖もありません。
 もっと平たく言うと、「なんとかなるさ」「困ったら人に頼もう」「不安に思ってもいいことは何もない」という気持ちですね。あとは、「困難や想定外(ストレス)だけが自分を成長させる」「困難や想定外はあればあるほど得」というのもあるな。
 こういう境地になったのは、はやり仕事で「禅」に触れ続けてきたからでしょう。この前「雲堂」のところで書いたとおり、私は別に毎日座禅したり読経したりしてるわけじゃありませんよ。普通の生活してるだけです。しかし、折に触れて座る(座らざるを得ない)仕事をしているので、そのおかげですね。
 ジョブズもそうであったように、たまに現実から逃避することも大切なのです。そこで「客観視くん」が活発化して、新しいアイデアも浮かぶし、ある種の悟りも得られる。
 そういう意味で、ためしてガッテンの言うように、一日15分でいいので、いやいや、私のように1年に数回でもいいので、じっくり座ってみることには大きな価値があることでしょう。とりあえず、今、自分(特にダメな自分)だと思っているヤツが、全然自分ではない、つまり他者によって形成されているちっぽけな存在であることを知るだけでも、ずいぶんと楽になります。
 自分がダメだろうと立派だろうと、あんまり宇宙には影響ありませんしね(笑)。
 あと、体の健康も大切ですね。体が調子悪いと「不安」です。一番の不安の原因はそこにあったりしますよね。
 その点、私はかなり安心です。自信があります。いや、それこそ体を鍛えてるとか、検診やドックで太鼓判押されてるとか、そんなことは全くありません。
 ただ続けているのは(もう7年半になりますか)、「一日一食(夕飯のみ)」だけです。
 そうそう、今気づいたんですが、今のような境地になったのは「一日一食」始めてからかもしれません。どういう因果関係があるのか、科学的なことは全く分かりませんけれども、事実としてそうなのです。
 そうか、「不安(ストレス)」を克服する最高の方法は「一日一食」か!…なんて、全く説得力ありませんね(笑)。ためしてもガッテンできないかもしれませんな。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2012.01.09

想像力

31wjvhsm0kl 日、本校の推薦入試が行われました。いつも書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。試験本番というのは受験してくれた皆さんとのまさに「一期一会」ですから、それなりのメッセージを伝えたいと考えています。
 子どもたちもある意味人生をかけてテストを受けるわけですからね、私も真剣勝負したいのです。
 ちなみに昨年は将来の夢という文章を書きました。
 今年は震災などのこともふまえて、次のような文を書いてみました。
 いろいろな思いを詰め込みたいところですが、相手は小学生ですからね、なかなかそういうわけにはいきません。
 では、空欄や漢字の問題などを取り払った原文をどうぞ。



    想像力

 みなさんは、私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?
 四本足ではなく二本足で立って歩くことでしょうか。言葉を操ることでしょうか。道具を作って使うことでしょうか。
 私はこう思っています。
 「人間には想像力がある」
 私たち人間は、何かを想像することなしには一日たりとも生活することはできません。先ほども、「私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?」と聞かれて、頭の中でいろいろなことを想像したのではないでしょうか(ここは試験会場ですから、本もパソコンもありません。頭の中でいろいろ想像するしか方法はありませんね)。
 もちろん犬や猫も頭の中で何かを想像することがあるでしょう。たとえば、「おなかがすいたな」と感じれば、いつもの場所においしいエサが入ったお皿があることを思い出すのではないでしょうか。
 しかし、ここでの「想像」とは、自分の過去の記憶を呼び起こしているにすぎません。犬や猫が、明日何をしようかなとか、今ごろ外国の猫たちは何をしているだろうかとか、そういうことは考えないのです。
 それに対して私たち人間は、経験したことがないことを想像することのできる生き物です。
 猿くらいになると道具を使ってエサを取ったりすることもありますが、想像力のレベルでいうと、とても人間には及びません。人間の想像力は過去や現在だけでなく、未来に向かって大きく広がっているのです。
 そして、この人間の想像力は、より高度な力に発展していきます。
 一つは「思いやり」です。
 「思いやり」とは、まさに「思い」を「やる」ということです。「やる」という言葉に漢字を当てると「遣る」になります。「遣」という字はどういう時に使われているか想像してみてください。
 そう、最近社会科で「遣唐使」というのを習ったでしょう。それから「派遣する」という言葉も見たり聞いたりしたことがありますね。これらから、「遣」という字に、「だれかを遠くへ行かせる」という意味があることが分かるでしょう。
 ですから、「思いやり」という言葉にはもともと、自分の体の代わりに「思い」を「遠くへ行かせる」という意味があるのです。
 昨年の三月の大地震と大津波、そして原発事故はいまだに現地の人々を苦しめています。みなさんの中には、被災地に行ったという人がいるかもしれません。しかし、全ての人が体ごと現地へ行ってお手伝いをしたり、励ましの言葉をかけたりすることはできません。
 そんな時、私たちは「想像力」を働かせて、自分の「思い」を届けようとするわけです。みなさんも、現地に行かなくとも何か具体的な行動をしたのではないでしょうか。それこそが「思いやり」の行動なのです。
 私たち大人は、みなさんに対していつも、「人を思いやりなさい」、あるいは「思いやりの気持ちが大切だ」などと言っています。しかし、具体的に何をすべきかというと、実は言っている本人もよくわかっていないことが多いのではないでしょうか。
 本当の「思いやり」には「行動」が伴います。ただ「大変だろうな」とか「かわいそうだな」とか思うだけでは、「思い」をやったことにはなりません。「遠くへ行かせる」にはそれなりの力(エネルギー)が必要であり、それが実際の体の動き、すなわち行動として現れるのです。
 「想像力」が生み出すもう一つの力は、同じく「ソウゾウリョク」と読む「創造力」です。
 先ほど書いたように、人間以外の動物は、ほとんど過去の経験の繰り返ししかできません。だから、動物は数千年、数万年にわたって基本的にほとんど変わらない生活をしています。過去を思い出すだけでは、新しい何かを生み出すということは不可能なのです。
 一方人間は、過去の記憶から未来を想像することができ、新たな挑戦の意欲をかき立てることができます。きっとみなさんにも、過去の失敗から次はやり方を変えてみたという経験があることでしょう。
 さらにみなさんの中には、こう考える人がいるかもしれません。過去の経験がなくても新たな挑戦意欲はわくのではないか、つまり「これはやったことがないけれども、こうやったらこうなるのではないか」と予想して行動することもあるのではないかと。
 たしかにそのとおりですね。しかし実を言うと、この「未経験」の裏側には、ちゃんと「経験」が存在しているのです。それは「他人の経験」です。分かりますか。
 たとえば、だれかの失敗を見て自分はそうしないようにするとか、本にこう書いてあったから、ここではこういうふうに行動しようとか、そういう時の判断基準は「他人の経験」ですね。私たちは「他人の経験」を「自分の経験」のように想像してみて、そこを出発点として新たな何かを生み出すこともできるのです。
 これは、たぶん人間だけに与えられた能力です(もちろん他の動物にも本能的にそういう行動をする時はありますが、あくまで本能であって考えているわけではないと思います)。そして、「他人の経験」をたくさん知れば知るほど、私たちは自分の体の限界を超えて、つまり時間や空間の限界を超えて考えたり行動したりできるのです。そうなれば、まるでスーパーマンですね。
 さあ、この文章を読んで、「想像力」こそが人間に与えられた宝物であることが分かりましたか。
 その「想像力」の源である「経験」を積むのが学校というところです。学校では、自分の経験を積んでいくのと同時に、勉強を通じて「他人の経験」を知ることもできます。
 みなさんがあまり好きでない教科書たちも、そんな「他人の経験」の宝庫だと思えば、少し違ったものに見えてくるかもしれません。今日家に帰ったら、そういう目で教科書を見直してみましょう。

 昨日のジョブズなんかは非常に「想像力」のたくましい人だったと思います。
 その前の話と結びつけるなら、「利益(りやく)」は「想像力」なくしては実現しませんね。他者の立場、気持ちになることが前提の行為ですから。
 逆に「利益(りえき)」たる「カネ」は人間の想像力を阻害するものです。昨日書いたとおり、「もうける」ということは「誰かに損をさせる」ことであるという資本主義、市場経済の仕組みの上においては、そうした「思いやり」や「忖度」は単なる邪魔者になりかねません。たとえば、顔が見えなければ、客をだましてでも物を売ってしまう…なんてことが起きていますよね。
 自分でもこの文を書きながら、いろいろ考えてしまいました。迷いや悩みもどんどん湧いてきます。しかし、そこに目をつぶらず、何が本質なのか、何が自分の役割なのか、生徒たちと考え続けたいと思いました。
 考え過ぎて行き詰まった時は、他の人の話に耳を傾けるのが一番です。ダライラマの「思いやり」を読んでみようかな…。

Amazon 思いやり(ダライラマ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.06

『雲堂』 (iPhone用坐禅アプリ)

Mzlcngilkor んとも仕事がドタバタしているので、ゆったりとしたおススメを。
 iPhone用のアプリです。あの「彼岸寺」さんが作った坐禅アプリ。
 これ、なかなかいいですよ。本格的です。坐禅が身近になりますね、きっと。
 いちおうワタクシ、エセ坊主、野狐禅いや野狸禅の修行者として、一般の方よりは坐禅に親しんでいる方だと思います。とは言っても、たとえば毎日座っているかというと、全然そんなことはありません。
 我々在家者は仕事はもちろん社会的雑務をもしなければならないので、日常生活自体が修行ということになります。そして、実はそれが一番よい修行法であったりします。
 たとえばこうして毎日ブログを書いているのも、公案と格闘しているようなものですしね。つまり、我々はいつでもどこでも仏教の修行はできるわけですし、考えようによっては、全ての生きとし生ける者が修行中であるとも言えます。
Mzlhbqfsdmt しかし、そうした日常的な「意識」から「意識的」に離れるために、「意識」を捨てる「坐禅(座禅)」をすることは面白いものです。
 ある意味最も手軽で最もお金がかからないレジャー、あるいはレクレーション(re-creation)かもしれません。
 実際に出家して雲水となったり、日曜日にお寺に参禅したり、そういう特別なことをすること自体が「意識」であり、「装置」であるわけです。
 ですから実は、坐禅というのは、それと最も遠い世界であると思われがちなインターネットやiPhoneという「装置」と、とっても親和性が高いんですよね。
 だいいち、インターネットやクラウドという「網」や「雲」は、ある意味自然に近い構造をしていますし、ある意味目に見えない「神仏」世界と似ているとも言えます。
 また、ネットによって生まれる無限の「縁」は、まさにブッダが悟り得た宇宙観であるとも言えます。このアプリにある「Around the world」機能は、本来極私的であり、個の行いであるはずの坐禅を、世界中で何人とか何回とか示すことによって、相互に「意識」の上で結びつけてしまうという、ある種禅的なパラドックスですよね。面白い。
Mzlqsfdbtcy そこなんですよ、今までの禅が限界として抱えていた問題は。つまり、禅は「自他不二」や「縁起」を感得するためのものでありながら、個の問題として語られすぎ、またそういうメソッドとして発達しすぎたのです。
 それをまるでマジックのように、現代のテクノロジーが本来の姿に戻してくれる可能性があると感じますね。
 私の禅語に(?)こういうのがあるじゃないですか。「コトを窮めてモノに至る」。コトとは「意識」そのものです。「装置」そのものです。そこを窮めていくと、いつのまにかモノ(無意識や自然)に還っていくんです。
 そういうアイテムとして、あるいはアプリケーションとして、この「雲堂」は新しいけれども古い禅のスタイルを提案してくれかもしれません。
 「application」という言葉は、本来「一点に没頭すること」という意味を持っています。まさに「執着」の装置です。それを窮めていくと、いつのまにか一点は無限に小さくなって「無」に近くなっていき、その補集合は無限に大きくなって、いつのまにか、二つは一つになり、結果「空」が生じる…。
 なんて、いかにも野狸禅らしく言葉を弄しているワタクシでありますが、そんな理屈は抜きに、この「雲堂」は普通に解説もよくできているし、音もリアル(本物をサンプリング)ですし、とっても有用なアプリです。
 さあ、皆さんもこのアプリでどんどん「意識的」に坐禅してみましょう。世界が変わる、すなわち自分が変わる…かも。それにしても「undo」とはうまい名前をつけたものですな。

雲堂

彼岸寺

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.31

元気ですか!! 大晦日!! 2011

20120101001 井慧は木村政彦にはなれなかったのか…。
 木村政彦の遺志を継ぐ岩釣兼生から、ホンモノの柔道を託された石井は、ヒョードルの強烈な打撃の前に轟沈しました。
 木村ならヒョードルの打撃を捌いて組み付き、超高速の大外刈りで倒してから、得意のキムラロックで勝利していただろう…こんなふうに妄想するのもまた楽しいものですが、現実には今の柔道にはそういう力がまだないとういことが証明されてしまいましたね。
 これはこれで現実として受けとめるべきでしょう。「当て身」とその防御術を復活させるにはとんでもない時間がかかるのではないでしょうか。
 さて、今回の大晦日興行は、アントニオ猪木率いるプロレス団体IGFの力を借りて、総合格闘技のDREAMの試合を中心に展開されるという、今までにない画期的な内容でした。
 ある意味水と油の関係になってしまっていたプロレスと総合がまぜこぜにされた上に、対抗戦まであるというのは、これは本当に夢のようなことです。
 もともとIGFは現代プロレスへのアンチテーゼとして立ち上げられた部分があるので、本当ならなじむはずなんですよね。猪木さんや、あるいは馬場さんまでもが考えていたであろう「プロレスリングこそが総合的な格闘技である」という基本に立ち返っているわけですから。
 で、実際のところどうであったか。
 私はこの大会は大成功だと思いましたね。
 あの会場のファン、そしてテレビやネットで観戦していたファンたちの多くが総合ファンであり、アンチプロレス派だったと思いますが、彼らの知っている最近のパフォーマンス色の強いプロレスと、IGFが示すプロレスリングとはかなり違っているので、ある意味驚いた部分もあったのではないかと思います。
 私はネット観戦派だったので、会場の雰囲気はよく分からないのですが、IGFルールの試合はそれなりに観客の目を引きつけていたのではないでしょうか。
 まだプロレスは死んではいないということを世間に示すことができただけでも、今年の大晦日興行は大きな意味を持っていたと思います。
20120101157 特に、我が家の知り合いどうしの闘いとも言える、ジョシュ・バーネットと鈴木秀樹の試合は、まさに本来のプロレスリング、すなわち、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを体現した好試合でした。その上で、現代的な見栄えのする(大会場でも説得力のある)大技も繰り出され、身内びいきでなく本当にバランスの取れた好試合だったと思いました。会場も「お〜」という感じでしたよね。
 特に第1試合ての所選手のアクシデントもありましたから、プロレスの受け身のすごさ、フィジカルのタフさには皆驚いたのではないでしょうか。そこも含めてプロレスの技術だと思います。ジョシュと秀樹、本当にGJ!でした。
 そして、唯一のIGFとDREAMとの対抗戦、澤田&鈴川 vs 桜庭&柴田。これは面白かったなあ。ある意味プロレスができない四人(苦笑)。いや、器用だけれども不器用というか、プロレスの奥深さに呑まれてしまっている四人が、まさに上田馬之助さんの言う「筋書きにはないドラマ」を演じてくれました。
 あの不穏な雰囲気というか、プロレスの筋書きをギリギリ超えるか超えないかの緊張感と言いますかね、なんかとっても懐かしい感じがしました。
 これで次につながるという空気が出来上がりましたが、はたして桜庭和志がそれに応ずるのか。ある意味大人になれるのか!?これは大変興味があるところです。
 それにしても、ある意味四人と濃密で微妙な関係のある宮戸優光さんが、すごい存在感を示していましたね。放送でもアップでとらえられていました。
 宮戸さんは、今プロレス界でほとんどただ一人、本物の「プロレスリング」を伝導している人です。武道や禅にも造詣が深く、精神性も含めて本当の格闘技をしっかり理解し教えることができる人です。
 そんな宮戸さんの目と心に、あの試合や興行全体がどう映ったのか、ぜひ近いうちに聞いてみたいと思います。私も一観客、一ファンの立場から感想を述べさせていただきたい。
 その他の試合についてもいろいろ語りたいところですが、あまり時間がないので割愛します。なにしろ長い長い興行でした。
 それにしても、あまりにぴったりにカウントダウンを迎えられましたね。もうそれだけでも奇跡です。そこが猪木さんの不思議な力なのでしょう。まさに昭和の化け物、物の怪が生きているという感じでした。
 今日はニコニコ生放送でプロレス&格闘技を観戦し、テレビでは紅白を観賞していました。まさに昭和のヤクザが残してくれた文化遺産ですね。暴力団排除条例のことなどもあり、ずいぶんと状況は変わってしまった今年ですが、結局日本人はこれがないと年を越せません。
 結論、やはりプロは「強さだけではダメ」ですね。いろいろな意味で、力道山や木村政彦、美空ひばり、そして田岡組長の姿を見た大晦日の夜でした。
 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.28

『ビートたけしのガチバトル2011』に思う…

20111229_130356 年に続き年末のガチバトルを観ました。
 ま、本物の格闘技界では、とうとう年末恒例だった「総合格闘技」というガチ(?)での単独興行は不可能になり、プロレスという「物語世界」に力を借りることになりましたが、こちらはどうでしょうか。
 「ガチバトル」に私たちは納得、満足するのでしょうか。
 特に今年は重いテーマに関する激しいバトルが予想されました。もちろん震災、原発事故という未曾有の悲劇が日本を襲ったからです。そういう状況において真っ向から論をぶつけ合うことが、どれほど意味を持つのか、ある意味興味深く観始めました。
 番組ホームページから引用すると、今回のバトルのテーマと概要はこんな感じ。

 <1:放射能汚染はどこまで深刻か?深刻でないか?>
政府が決めた被ばく限度量「年間20ミリシーベルト」は本当に安全なのかを巡り、「1ミリシーベルト以上の場所に住んではいけない」とテレビでもお馴染みの専門家・武田邦彦(中部大教授)が主張すれば、「そんな話は現実的に不可能!」と、澤田哲生(東工大助教)がすかさず反論。そこに大槻義彦(早大名誉教授)が「武田先生の過激な危険論のせいで家庭崩壊したお母さんもいるんです…」と加わり、冒頭からスタジオは大荒れに…。

<2:原発は日本に必要か?不要か?>
続いては、『地震列島ニッポン』に存在する54基の原発を今後どうするべきかを巡る議論に。「常に隠蔽体質の現在の『原子力村』の人間を追い出すべき」と河野太郎(衆議院議員)が声をあげると、脱原発を明確に主張している山本太郎(俳優)も、チェルノブイリの事故を引き合いに出し「日本政府がやっていることがどれだけ非人道的か!」と原発継続派に食って掛かる。山本が福島第一原発の30キロ圏内に暮らす人々へ取材したVTRも見所のひとつ。テレビではこれまで、この問題について十分語る機会が無かった山本太郎が今、その想いを熱く語る。

<3:日本は財政破綻するのか?安泰なのか?>
1000兆円もの借金を抱えた日本経済。それでも国際的に見て日本の財政は安全水準と主張する高橋洋一(嘉悦大学教授)や舛添要一(参議院議員)ら「安泰派」に対し、早ければ3年後には経済破綻すると予想する経営コンサルタントのジェームス・スキナーや元財務省主計局長の片山さつき(参議院議員)ら「破綻派」が牙を向く。

 最初は私もそのガチバトルフィールドに自らの言葉をも投げ入れながら観ていましたけれども、なんか後半はどんどん空しくなってきてしまいました。
 論戦が白熱すればするほど、つまり「専門家」の「言葉」が乱舞すればするほど、たとえばスタジオに招かれていた福島の漁師や農家の方々は置いていかれる。つまり現実からどんどん乖離していってしまうのです。
 これはおそらく皆さんも感じたことでしょうし。番組の最後の最後に福島の方が「一言言わせて下さい」と手を挙げて、そうして発せられた「言葉」。両「言葉」の違いは、なんとも絶望的に大きなものでした。
 そう、「言葉」って本当に「自我」への「執着」の道具なんですよね。もちろん、「言葉」は人と人をつなぐメディアでもあるのですが、それはある意味では、それぞれが「個」として孤独であることの裏返しでもあるわけです。バラバラだから「絆」という意識が必要だと。
 番組を見終った時、私はやはりお釈迦様の教えは正しいなと思いました。言葉にこだわるな。自我にこだわるな。
 そして、もう一つ、今回の議論の基礎にあるのが、全て「カネ」だということ。自分も結局そうなので、本当にこれにはうんざりしてしまいました。
 「貨幣」と「言葉」は似た存在です。どちらも対象に(ある限られた時空で通用する)社会的な価値を与えます。そしてそれは、社会に対する自己の価値を担保するための道具でもあるのです。私のモノ・コト論からすると「コト」世界ですね。
 それらにこだわるというのは、まさに自我に執着することです。ブッダはそれをいさめました。言葉やカネにこだわってもしかたないのです。
 ここから少し(だいぶ?)飛躍した考えを述べさせていただきます。つまりわがままな「言葉」を弄させていただきます。
 たとえばこういう災害が起き、これだけ多くの情報が流れ、我々は同朋が苦しんでいることを知っていますよね。想像力を働かせれば、いつでも被災者の苦労を忖度することができます。その想像力こそが人間の人間たる所以ですから。
 そうしてまずは、政府がお金をどう分配するとか、そういうことでなく、単純に自分たちにとって余っているものを分け与えればいいと考えるべきなのです。仏教で言う「布施」という行為です。「利他」の心です。「慈悲」の心です。
 この期に及んでも、自らの貨幣的な富を追いかけるのではなく、また他人事のように政府に全てを任せたり、ある特定の会社の責任にしたりせず、「無財の七施」や「有財でも七施」を心掛けるべきなのです。
 と言いつつ、私もそれができないで苦しんでいるのです(つまり修行中なのです)。
 仏教経済学というのがあるのをご存知ですか。まさに「布施」「利他」「慈悲」によって成り立つ経済です。これは私の解釈では、成熟した心を持ったものが為す社会主義経済です。
 心の成熟がないのに、富の平等、分配を語ったから、近現代の社会主義や共産主義は負けました。かと言って資本主義が正しいかというと、全くそんなことはありません。それはただ成熟していない人間の心にマッチしていたから勝ったというだけです。
 だから、本当に理想論で申し訳ないのですが、こういう時こそ、そういう「心の成熟」を促す政治家や教育者や、専門家が出てきて論議してもらいたいのです。
 仏教経済学だけでなく仏教政治学というのも、もっと研究されていいのではないでしょうか。
 もう成長はけっこうです。成熟したいものです。まずは自己に執着しないこと。そのための第一歩として言葉や貨幣の価値を疑うことです。
 こういう話は、それこそ現代においては「物語」として一笑に付されるのでしょうかね。私はいよいよ「物語」が復権すると感じているのですが。2012年、コトよりモノの時代は到来するのか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.12.27

サンドラ・ブロック主演作品 『しあわせの隠れ場所』

20111228_71432 2年生の担任の先生が生徒に見せていたのを少し盗み見しまして、なかなかいい話だったので改めてお借りして観賞いたしました。
 うむ、教育者としていろいろ考えるところがありましたね。感動もありましたが、憂いや迷いも生まれました。
 この映画の内容は実話です。あの天才アメフト界のスーパースター、マイケル・オアーの成功譚、いわばアメリカンドリームのお話、シンデレラストーリーとも言えます。
 しかし、サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲ったところからも分かるとおり、この映画の主役はオアー自身ではなく、そのオアーをサポートした女性リー・アン・デューイということになります。
 黒人差別の激しい、そして貧富の差の激しいメンフィスが舞台。白人の富豪と黒人のホームレスというある種アメリカンリアルを象徴するような両極どうしが出会い、そして夢を紡いでいく。
 これはたしかに美しい愛と絆の物語です。しかし、その裏に現実を感じなければ、この映画を観た価値がないでしょう。
 デューイ自身も悩んでいるように、こうした献身的なサポートは、金持ちの「自己満足」なのかもしれません。実際金持ちでなければ、あのようなサポートはできないのですから。
 そして、たまたまオアーは救われ、そして成功したけれども、それは本当に特殊なケースであって、この話に感動して涙して終わってしまってはいけないのです。
 原作名「THE BLIND SIDE」にはいろいろな意味が含まれていると思います。
 なんともセンスのない(笑)邦題のような意味もたしかにあるでしょうが、それ以上に、いろいろな意味での「死角」が表現されていますよね。
 もちろんアメリカンフットボールのポジション的な意味。そして、白人と黒人、富裕層と貧困層、それぞれに見えないそれぞれの生活や人間性。ある種の障害が実は大きくプラスに働く可能性があること。
 そして、なんて言いますかねえ、私も含めて日本人にとっては、こういう「ノーブレス・オブリージュ(豊かなる者の義務)」の発想と言うか行動と言うか、そういうものさえもある意味「盲点」ですよね。
 それこそ、「ノーブレス・オブリージュ」自体が「自己満足」の表現、手段、産物であると言えますが、やはり何もしないよりも、絶対に何かした方がいいに決まっているじゃないですか。たまたま出会った人しかサポート出来ませんが、その一つ一つの善行を集めるしかないんですよね、本当に幸せな世の中を創るためには。
 結局、お釈迦様の説く、「布施」「利他」の心なのかなあと思いました。単純に経済的物質的な満足を得るためでなく、「布施」「利他」のために裕福になるということもありなのかな、そんなことを思いました。
 アメリカは経済的物質的な満足を目指して突っ走って来ました。しかし、その裏では、(もちろんキリスト教的な発想のもと)人間としての心のバランスを取るために、こういう「善意」も発達させてきたと思います。
 日本は、アメリカの表面的な豊かさだけを輸入し、そうした裏側の、まさにブラインド・サイドを真似ようとは思いもしませんでした。もちろん、そこには日本における宗教の形骸化、無力化という背景があります。
 そんな我々日常の「死角」「盲点」も考えさせられました。
 そういう意味で、何度観てもいろいろ感じるところがある作品ではないでしょうか。サンドラ・ブロックの演技のすごいところは、そういういろいろなメッセージを感じさせるところですね。単なるいい人、強い女の表現ではありません。
 皆さんもぜひご覧下さい。

Amazon しあわせの隠れ場所


| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧