カテゴリー「心と体」の868件の記事

2021.01.20

『「生きる力」としての仏教』 町田宗鳳・上田紀行 (PHP新書)

Th_51v0zndriil 日は仏教についての本を読みました。

 先日お会いし、コロナが落ち着いたら飲みましょうと約束させていただいた町田宗鳳先生と、東工大のリベラルアーツ教育院長にして武内陶子さんのダンナさん(!)である上田紀行先生の、めちゃくちゃ興味深くエキサイティングな対談。

 仏教を「未来を切り開く爆発」と捉えるお二人のトークは、噛み合ったり、ぶつかったりしながら、どんどん熱を帯びていきます。

 そこにはいわゆる暗く静かなイメージとは反対の、明るくまぶしい光を感じました。

 本来、宗教とはそういうものなのではないでしょうか。そして縁起とはそういうものなのではないでしょうか。

 私は「生きる力」という言葉があまり好きではないので、よく「死なない力」という表現をします。

 この対談でキーワードとなっている「エロス」と「タナトス」を総合すると、私は「死なない力」になるように思います(なんとなくですが)。

 「死なない」には「生きる」という意味もあり、また死後も生き続けるという意味もあるからです。

 ですから、もし、もし私がこの二人の対話に割って入るなら、『「死なない力」としての仏教』を放り込みたいと思います。

 私は、見た目だけのエセ坊主ですから、人間界では偉そうなことはとても言えませんが、それでも宇宙人の大先輩としてのお釈迦様の言いたいことがなんとなくわかるのです。なんとなく。

 私も、昨日の出口王仁三郎のように、最後は言葉(コトの端)ではなく、何かモノを作って表現しなければならないのでしょうか。そのためにも、この対談のように、自我のコトを徹底的にぶつけ合っていかねばならないのかもしれません。

 最近もある仏教系大先輩との対話の中で、けちょんけちょんにダメ出しされてますが、これからもいろいろな方と「問答」してみたいですね。それが結局、モノの本質に近づく王道なのかもしれません。つまり、漸近線のごとく絶対に到達できないけれど確実に近づくことができる「マコト」が、そこにあるのでしょう。

「生きる力」としての仏教

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2021.01.14

『芸術は宗教の母なり~耀盌に見る王仁三郎の世界~』 (出口飛鳥)

 

 口王仁三郎ネタが続きます。

 王仁三郎の残した「耀わん」の数々。その魅力と威力を、もしかすると世界で最も実感しているのが私かもしれません。

 また、私なりの解釈ですが「芸術は宗教の母」という王仁三郎の名言についても、ある程度理解しているつもりです。

 しかし、これはあくまでも「かも」「つもり」であって、まだまだ学び、気づくべきことはたくさんあります。無限でしょう。

 この出口飛鳥さんの講義を聴いて、ますますそんな気持ちになりました。それこそ、思い込みや勘違いもあります。日々更新されることこそが、生命ある芸術や宗教のあり方なのではないでしょうか。

 思い込みやドグマは過去へのこだわりでしかありません。それは「死」を意味します。未来から流れてくるメッセージを常に受け取ることが生きること。そのためには、自分を「うつわ(空輪)」にしておかねばなりません。過去の情報は水に流しましょう。

 それにしても、いいお話です。ぜひ一度、ゆったりと耀わんの世界に浸ってみてください。そして、亀岡のギャラリーおほもとへ足を運んでみてください(緊急事態宣言のため一時観覧停止になるようですが)。3月31日までです。

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2021.01.13

神俗もまた不二一如 (出口王仁三郎)

Th_0432 日の続きとなります。

 善悪や正邪が不二であるとはよくわかりました。王仁三郎はさらに神俗も究極的には一如であること語ってくれます。

 これは私たち凡夫にとっては、非常なる救いとなる言葉です。普通の宗教者は、我欲を捨てろと言います。それが第一歩かのように言います。

 しかし、王仁三郎は違う。スケールの違いだと言うのです。自我の宇宙的拡大。私はこの言葉に救われました。そして、今も救われています。

 自分の延長線上に神がいる。そういう意味では私たちは「神の子」「子どもの神」であって、そのまま成長すれば(スケールを拡大すれば)神になれるという自信、安心。

 昨日の「回顧録」の続き、少し中を飛ばして「顕幽一致」のラストの部分をお読みください。

 禁欲主義はいけぬ。恋愛は神聖であると謂って、而も之を自然主義的、本能的で、即ち自己と同大程度に決行し、満足せんとするのが凡夫である。之を拡充して、宇宙大に実行するのが神である。

 神は三千世界の衆生は、皆わが子となし、一切の衆生を済度せんとするための、大欲望があるのである。凡俗は我が妻子眷属のみを愛し、少しも他を顧みないのみならず、自己のみが満足し、他を知らざるの小貪欲を欲にするものである。人の身魂そのものは、本来は神である。故に宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備して居る。夫で此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが、人生の本分である。之を善悪の標準論より見れば、自我実現主義とでも言うべきものである。吾人の善悪両様の動作が、社会人類の為め済度の為めに、其儘賞罰二面の大威力、大活動を呈するように成るものである。此の大なる威力と、活動とが、即ち神である。所謂自我の宇宙的拡大である。

 孰れにしても、此の分段生死の肉身、有漏雑染の識心を捨てず、又苦穢濁悪不公平なる現社会に離れずして、悉く之を美化し、楽化し、天国浄土を眼前に実現せしむるのが、皇道大本の成神観であって、また一大眼目とする所である。

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2021.01.12

善悪不二・正邪一如 (出口王仁三郎)

Th_unknown_20210113111801 日の「ジョーカー」にも書きましたが、何が善で何が悪かという問いに答えはありません。

 全ての争いごとにおいて、こちらの善はあちらの悪です。また、あの時の善が今の悪であったりするのも歴史の必然。正邪もまた同じ。

 それを悟ることが宗教や哲学の目的であるはずなのですが、それまた逆転してしまって、自らを正善、他者を邪悪と決めつけることに終始してしまっている。

 そのような誤りを正すために、近代に現れた聖者である出口王仁三郎が、こんな文章を残しています。

 「霊界物語」の第一巻第二篇第十二章「顕幽一致」からの抜粋です。

 実はこの文章を含む、霊界物語の冒頭部分は、第一次大本事件の直前に書かれた「回顧録」をそのまま使用する予定だったのですが、当時の幹部たちのご都合(善悪正邪判断)によって削除、あるいは改竄されてしまったいわくつきのものです。

 もう21世紀になって久しいわけですから、そのような当時の(今でも続いている)善悪、正邪を乗り越えるためにも、しっかり読んでおきたいですね。

 今日はあえて「回顧録」に従って引用しておきます。当時の時勢から「霊界物語」では削除された部分もあります。

 (「回顧録」第十二章より抜粋)

 凡て宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、絶対の善も絶対の悪も無い。従って又、絶対の極楽も無ければ、絶対の苦艱も無いと謂って良いのである。歓楽の内に艱苦があり、艱苦の内に歓楽の在るものである。故に根の国、底の国に堕ちて、無限の苦悩を受けるのは、要するに、自己の身魂より、産出したる報いである。亦顕界の者の霊魂が、常に霊界に通じ、霊界からは、常に顕界と交通を保ち、幾百千万年と雖も、易ることは無いのである。『神諭』に示されたる如く、天国も地獄も皆自己の身魂より顕出するのである。故に世の中には、悲観を離れた楽観は無く、罪悪と別立したる、真善美も無いのである。苦痛を除いては、真の快楽は求めらるゝものでない。又凡夫の他に、神はない。言を換えて曰ば、善悪不二にして、正邪一如である。佛典に曰う「煩悩即菩提。生死即涅槃。娑婆即浄土。佛凡本来不二」である。神の道から謂えば「神俗本来不二」が真理である。

 佛の大慈悲と云うも、神の道の恵み幸わいと云うも、凡夫の欲望と云うのも、其の本質に於ては、大した変りは無いのである。凡俗の持てる性質その儘が、神であると謂って良い。神の持って居らるゝ性質の全体が、皆悉く凡俗に備わって居ると謂って良いのである。

 天国浄土と、社会娑婆とは、其の本質に於て、毫末の差異も無いのである。斯の如く本質に於ては、全然同一のものでありながら、何故に神俗、浄穢、正邪、善悪が分るゝので在ろうか。要するに此の本然の性質を、充分に発揮して、適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、附したる仮定的の、符号に過ぎないのである。

 善悪と謂うものは、決して一定不変のものでは無く、時と処と位置とに因て、善も悪と成り、悪も善と成る事がある。人を殺すのは悪に相違ないが、一朝宣戦の詔勅が降って、勇士が戦場に出て敵を殺傷しても、是を以て大悪と云う事は出来ない。寧ろ軍功者として賞賛されるようなものである。

(後略)

 

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2021.01.11

『ジョーカー』 トッド・フィリップス監督作品

Th_91ynxgz0gul_sx300_ 昨日の「パラサイト」からの、この「ジョーカー」。

 両作品ともに格差社会をテーマの一つとしていることから、比較されることも多いのではないでしょうか。

 好みは分かれるでしょうけれども、私はやはり映画的な深みという意味で、こちら「ジョーカー」の方を高く評価したいと思います。

 しかし、「世の喜劇も悲劇も、調和も不調和も皆、『フェイク』によって引き起こされている」というメッセージは似ているとも言えます。

 そう、よく言われてるように、この「ジョーカー」の物語自体が誰かの夢や妄想であるということも言えるでしょう。

 というか、もともと映画自体が「フェイク」であり「フィクション」であるはずですから、本来そんなことを考えるのも変な話なのですが、この映画の冒頭で示される「狂ってのは、僕か?それとも世間?」からも分かるとおり、私たちが生きている(と思っている)この世の現実が「フェイク」に満ちているし、それ以前にたとえば自分自身が誰かの夢の登場人物に過ぎないかもしれないという、自己の「フィクション」性をつきつけるのが、たしかに「作品」の役目でもあります。

 そういう意味では、この映画は非常によく計算され、重層的にこの世の「リアル」を表現しているとも言えます。そのクオリティーは「パラサイト」と比較するまでもなく高い。

 バットマンのヴィランの物語としてこの「ジョーカー」を見るのもいいでしょう。善悪が混沌として、いわゆる悪役に共感するのは、日本人としては古くからなじみのある作法です。単純な勧善懲悪が好きなキリスト教国の人たちが、こちら側に近づいてきたのは決して悪いことではありません。

 言うまでもなく「鬼滅の刃」の世界的な人気(?)には、そういう歴史的意味合いもあるのです。

 まあとにかく、とても丁寧に作られ、さまざまな課題を私たちに投げかけてくれるという意味で、「パラサイト」よりずっといい映画だったと思います。

ジョーカー

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2021.01.05

『平和と命こそ〜憲法九条は世界の宝だ』 日野原重明・宝田明・澤地久枝 (新日本出版社)

Th_41wlqabuol_sx341_bo1204203200_ 日の「ゴジラ」に主演していた宝田明さん、二・二六事件関係でたくさん著書を読ませていただいている澤地久枝さん、そして、残念ながらお亡くなりになりましたが、心より尊敬し、一日一食生活の大先輩であった日野原重明さんによる「平和と命」への讃歌。

 宝田さんは幼少期の満州での体験から、絶対に戦争を起こしてはいけないという信念をお持ちです。だからこそ、ゴジラのテーマを見事に体現されたのですね。

 日野原さんも医師として東京大空襲を体験され、澤地さんも満州での生活や焼け野原となった東京での生活、そして二・二六事件の研究を通して戦争反対、平和を強く訴える立場に立ったと言えます。

 私のような戦後生まれ、それも高度経済成長期の東京で育った者にとっては、時間的な意味だけでなく、遠い昔話でした。

 しかし、出口王仁三郎の研究、そして仲小路彰との出会い、さらに80年後に二・二六事件に直接関わるという奇遇によって、完全に自分ごととして考えるようになりました。これは望外に幸運なことです。

 私も一教師として日々関わっている現代日本の教育は、非常に不可思議なことになっています。すなわち、外見上、システム上、慣習上は今でも軍国主義が横行しているのにも関わらず、教科書の中では戦争について語ることがほとんどないという矛盾。これは大問題です。

 ある意味私の敵である日教組も、言葉の上ではさんざん戦争反対を叫びながら、ほぼ完全な形で軍隊文化を継承している。そして、それが、いじめや体罰、暴言や上意下達、閉鎖的で差別的なシステムなど、現代の教育の問題の原因になっていることに無反省です。

 憲法9条についての論議、攻防も、護憲派も改憲派も本質的なところから目を逸らし、ほとんどが自己満足や自己肯定の手段にさえしてしまっている。

 著者お三人が所属している「九条の会」とも、反対側の安倍政権とも非常に近い関係にある私だからこそ、こういうことが言えるのだと自負しています。私は両方と仲良くしていますし、どちらからも仲良くしていただいていますよ。

 ものすごく上から目線で申し訳ないのですが、両者ともに新しい時代の中で一つ上の次元に進化しなければならないのに、残念ながらそれができないほどに凝り固まった世界になってしまっているのです。それを言向け和すには、まず仲良くなって話を聞いてもらい、そして少しでもいいから変化してもらう。それが私にとっての王道なのです。

 なんか偉そうなことを言ってしまいましたが、馬鹿と言われようが、本気でそう思っていますし、たとえば王仁三郎や仲小路の平和観、戦争観というものを知ってしまったものとしては、ぜひとも彼らが未来に向けて遺した言葉を読んでもらいたいと思っています。そして、その機会を作るべく自らのお役目を果たしていきたいと思っています。

 最後にその象徴として、仲小路彰の憲法9条論の一部を転載しておきます。これが単なる護憲論とは大違いであることは、読んでいただければ分かると思います。

 昭和28年12月発行「地球との対話 16 憲法改正可否に関する具体的問題」より

 今後、日本が自ら防衛し、また阻止しなければならない戦争とは、本質的な意味において、世界的破壊性をもった内外よりする革命であり、第三次世界大戦とは、まさに世界革命勢力の侵入に対する防衛に他ならないであろう。日本は現憲法に規定された旧概念の国家戦争には今後絶対参加する意志はなく、この点現憲法の精神は、日本の決意を示すものとして、そのままなんら変更される必要はないのである。

 (中略)

 この観点に立って平和憲法を考えるときそれは日本の進むべき方向を明示した、むしろ、未来への宣言として考えられるべきものであり、近代国家概念をこえた次の時代に導く最も象徴的、哲学的な最高の理想というべきである。そこには改正されるべきなにものもないであろう。

 (中略)

 それは今後全世界にわたる革命による破壊をもこえて、各国各民族をしてここにまで至らしめねばならない地球の普遍的法の原型となりうるものである。

 それは平面的な憲法改正論の次元をこえたものであり、むしろ平和への最高の道徳律として、さながら聖徳太子の十七条憲法が最高の道徳的規範として、今日にいたるまで少しもその意味を失っていないようにいかなる現実の変貌にも耐えて、今後の人類の方向を導く象徴となるものである。

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2021.01.04

『ゴジラ』 本多猪四郎監督作品

Th_81bi3hduc8l_sx300_ 知のウイルスのおかげで、世の中が大変なことになっております。

 平和ボケした現代日本人にとっては、久しぶりの「モノ」体験です。もちろん10年前の大地震や大津波、そして原発事故もそういう体験ではありましたが、こうして外国から侵攻されるのは本当に久しぶりのことです。

 世の中では「鬼滅の刃」が大ヒットしていますね。あれも「モノ」と戦うお話です。そして「モノ(鬼)」の方にもいろいろ事情があって、そこへの共感も含めて、非常に日本的な、すなわち勧善懲悪では片付けられないモノガタリとなっています。

 そういうモノガタリで思い出されるのが「ゴジラ」です。それも初代。思うところあって、ウン十年ぶりに見直しみました。

 驚くべきは、この映画が戦後9年で製作されているということです。

 米ソ冷戦下の水爆実験がもたらしたゴジラの日本上陸。あっという間に東京は元の焼け野原に戻ってしまいます。

 唯一の被爆国、そして敗戦国、事実上のアメリカの属国としての日本において、このような寓話によって戦争批判、核兵器批判、大国批判、科学批判が行われたことに、今さらながら感銘を受けます。

 日本のモノガタリでは、善と悪、加害者と被害者、強者と弱者が判然としないことが多い。あえてそうしていることが多いわけですが、このゴジラもその点、非常に複雑な様相を呈していますね。

 それは先の大戦や、現在のコロナ騒動にも重ね合わせることが可能です。当事者にとっては明らかな「敵」であっても、歴史になるとそう単純な構造で説明つかなくなります。それが、のちの騒動を生む原因にもなるわけですが。

 そうした複雑な利害関係の中に、ヒューマニズムを織り込むところが、日本的モノガタリの良いところであり、また一方で、ある種の美徳主義や根性主義、犠牲賛美主義につながっていることも確かです。

 この「ゴジラ」にあっても、芹沢博士の決断はゴジラの運命とともに一つの哀話として私たちの心を打つものになっています。

 平和と戦争、科学と自然、経済と道徳…あらゆる矛盾が、個人の哀話に回収されてしまい、またそれを「散華の美学」のように受け止めてしまう日本人の心性は、それ自体実は非常な弱点でもあると感じます。

Th_250pxgojira_1954_japanese_poster その点、仲小路彰は、そうしたお涙頂戴的なものではなく、もっと未来的な明るい解決策を提示してくれています。

 水爆についても仲小路は、もちろんその破壊的、悪魔的な力を忌避しつつ、その反面にある「太陽のエネルギー」「融合のエネルギー」といったプラスの側面についても多く語ってくれています。

 芹沢博士の苦悩は、おそらくその当時の多くの科学者の苦悩そのものだったのでしょう。その時代に、仲小路が湯川秀樹をはじめとする多くの科学者に送ったメッセージは、きっと彼らを勇気づけたことでしょう。

 さて、映画「ゴジラ」 の話に戻りますが、あらゆる面で、その後のゴジラシリーズ(最近で言えばシン・ゴジラも含む)には到達しえない次元での名作ですね。

 私のように、少年時代単なる怪獣対決ものとして楽しんでいた世代が、こうして大人になってそのルーツをたどり、最も大切なことに気づかされるわけですから、もちろんその後のシリーズにも大きな価値はあると思いますが。

 やはり、何事も「初代」がすごいのですね。それはそうです。無から有を生んだのですから。

 本多猪四郎はもちろん、円谷英二、伊福部昭の仕事ぶりも素晴らしい。宝田明、平田昭彦、そして志村喬ら俳優陣の、内面を表現する演技も見ものです。

Amazon ゴジラ

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2021.01.02

雲見浅間神社

Th_-20210103-172236 年の初詣は姉妹の和解、融和を祈念してW浅間神社参拝。

 すなわち、妹コノハナサクヤヒメから姉イワナガヒメへ。富士北麓の北口本宮冨士浅間神社から西伊豆の雲見浅間神社へ。

 いやはや、雲見浅間神社はすごかった…。私の神社体験の中でも格別に衝撃的でした。人生変わりました(笑)。

Th_img_7254 先日お会いした町田宗鳳先生は通い詰めいてるそうです。ご著書「異界探訪」の中でも特に印象的なパワースポットとして紹介されておりました。想像以上にすごかった。

 今日は特に風が強く、最終ゴールの烏帽子山の頂上はまさに命懸け。這いつくばって手すりにつかまっていないと、台風並みの強風にあおられて冗談ではなく海の藻屑となってしまう状況でした。

 そこから見た青い海と白い波、沈みゆく夕陽とそれに照らされる富士山は、本当にこの世のものとは思えない、まるで天国の風景を描写した絵画のようでした。

 写真も撮るのも命懸けでした。特にあの暴風の中でiPhoneでパノラマ写真を撮るのは至難の業。ご覧のようにブレブレの不思議な写真になってしまいました(苦笑)。

Img_7257

 私と家内は登頂したのですが、長女は途中の女宮で顔が真っ青になってしまい下山。昔は女人はそこまでしかお参りできなかったとのことで、長女は女であることが証明されました(そして、家内は女ではないことが証明された?)。

 いろいろメッセージが降りてきました。それは帰りの車の中でも、そして帰宅して布団に入ってからもずっと。膨大な情報がインストールされたような気がしています。

 イワナガヒメは醜女だと一般には言われていますが、本当はどうなのでしょうか。

  王仁三郎の神話体系では、コノハナサクヤヒメはコノハナチルヒメと一体となって「コノハナヒメ」として登場します。コノハナチルヒメはイワナガヒメと同神であるという説もあるので、やはり、姉妹は本来一体であるべきなのではないでしょうか。

 私たちの心の中にもその姉妹は同居しています。それは和魂と荒魂とも言えます。その融合、統合というのが、これからの時代のテーマとなると思っています。

Img_7264

 それにしても、すごかったなあ、今日の体験は。皆さんもぜひ気合を入れてあの階段と山道を登ってみてください。必ずや何か降りてきますよ。

 また、近いうちに参拝させてたいだこうと思います。町田さんのように夜参りもいいかも。それこそ命懸けですが。

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2021.01.01

あけましておめでとうございます(2021年年賀状公開)

2021

 

 様、あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 今年は…いや去年はとっても忙しく、なんと年賀状を今デザインしました!いかん、いかん。

 昨年もけっこう時間をかけず作ってしまいましたが、今年はなんと1時間だけ。スミマセン年々手抜きになっておりまして(苦笑)。

 ただ、今年は世界も自分も変革の年になりそうなので、ちょっとしたメッセージ性を持たせてみました。

 謎の絵、何かわかりますか。

 画面上ではハガキをぐるぐる回すことができませんから、難しいかもしれませんね。周りの言葉を最後まで読むと何かが見えてくると思います(よくあるやつを自分で作ってみました)。

 どうしても見えてこない方は、こちらに答えがありますよ。

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2020.12.31

2020年を振り返る

Th_-20201231-234122 ロナですね。今年は。コロナに始まりコロナに終わる。

 今日もこんなニュースが。

 そのコロナのおかげで、本当に多くのことに気づくことができました。世の中のこと。自分のこと。

 世界や日本や仕事や自分の裏の(無意識の)構造が露呈したということです。

 ピンチをチャンスに。いろいろ挑戦もしました。

 そのおかげで、メディアに登場させていただくことも多かった。本、テレビ、ラジオ、新聞、ネットメディア…。

 素晴らしい出会いもたくさんありました。今日も若手の起業家の方との運命的な出会いがありました。

 いずれも、どなたかの紹介によるものです。ありがたや。

 17年近く、このブログで地道に発信してきた成果がようやく出始めたということでしょうか。継続は力ですね。

 それから、これは個人的なことになりますが、家族ということを改めて考えさせられた1年でした。いろいろな意味で。親として子として。

 いずれにせよ、コロナによってこの世界と自分が大きく変わり始めたことはたしかです。その変化に乗っていくのか、抗って元に戻ろうとするのか。来年からはその二者の分断が進むことでしょう。

 新しいことへの挑戦が多かった今年。決断する機会が多かった今年。密度が濃かったせいかあっという間に過ぎ去ってしまいました。常にフル回転だったのでしょう。

 そんな中、本当にたくさんの方にお力添えをいただきました。あらためて御礼を申し上げます。ありがとうございました。

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