カテゴリー「心と体」の893件の記事

2021.06.15

琴の弦…「緊緩中道」…「良い加減」とは

Th_images_20210617115201 絃職人の方と話している中で出てきたのがこの「緊緩中道」のお話。

 シンプルですが、とても深い話です。

 職人の方も私も、それなりに仏教に親しんでいるので、自然と音楽から仏教の話になることが多い。今日も「中道」とはという話をしました。

 なるほど、仏教の「中道」とは「中庸」の意味もあるけれども、「道なかば」という意味もあるのか!

 皆さんもぜひ、この説法を聞いてみてください。何か気づきがあるのではないでしょうか。

 何事も、マニュアル通りにやってはダメですね。また、やたら頑張るのもダメ。「張り切る」のもほどほどに。自分にちょうど「良い加減」を見つけようとするのが、修行のスタートなのでした。

 そして、そのちょうど「良い加減」を見つけたところが、ようやく「道なかば」なのでした。

 この頃の琴といえば、古いヴィーナですね。絃は絹であった可能性が高いと思います。

 (以下Wikipediaより引用)

 琴の弦(緊緩中道)

パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場する。彼は、過度の修行により足から血を流すほどであった。それを知った釈迦は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行った。
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「そのとおりです、大徳よ」
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」
 ―  ケン度大品 5,16-17
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。

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2021.05.29

能 『鷺』

R0305_omo  日は国立能楽堂にて能楽鑑賞。

 番組は、能「半蔀」、狂言「蚊相撲」、能「鷺」でした。

 圧巻はやはり「鷺」。これには泣きました。これは日本人なら全員観た方がよい。本気でそう思いました。

 醍醐天皇に召され、五位を賜った鷺が舞うだけといえばそれだけの演目なのですが、そこに表現されたモノのすごさがすごすぎました(変な表現ですが)。

 シテの鷺を舞うことができるのは、元服前の少年か還暦後の老人に限られます。そして面をつけない「直面(ひためん)」。

 今回は、娘の師匠である人間国宝野村四郎先生がシテを務められました。御年85歳。

 少年と老人しか舞うことができないのは、普通の大人では人間臭さ、世間臭さが出てしまうからです。こう舞おうという意志が出てしまうからです。

 なにしろ、ここで表現されなければならないのは、「帝」の素晴らしさであって、鷺の美しさではないのです。

 そういう意味で、野村先生の「鷺」は完璧でした。

 そこに座して私たちと同じく鷺を観る立場にあられる「醍醐帝」と、客席の私たちが一体化する。さらに、「帝」に無条件に愛される鷺と私たち国民が一体化する。

 そういう非常に重層的で多次元的な時空間が、見事に現出していました。そして、その帝と鷺と私の一体感、つまり帝に包まれる大御宝としての私の幸福感が涙につながったのです。

 これほど自分が日本人であることの幸福を感じた瞬間はありませんでした。

 それをこういう形で表現する能のすごさ。やはり能は見方というか、感じ方、参加の仕方で、その本質に触れることができるかが決まります。そして、そこに導くことができるかが、能役者の位を決めるのだと思いました。

 少年が舞ったら、また違った感想だったことでしょう。少年ですと、こんな感じです。

 

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2021.05.14

「ありがとう寺」にて

 日から今日にかけて、御殿場の「ありがとう寺」にて、町田宗鳳先生とじっくり楽しくお話させていただきました。

 こちらに書いた「お酒など酌み交わしながらマニアック談義に花を咲かそう」という約束が叶えられました。

 僧侶にしてハーバード大学卒業、多くの大学で教鞭をとり、日本中、世界中の聖地をめぐっている町田先生もかなりビックリの情報をたくさん提供させていただきました。

 おかげさまで、町田先生も、仲小路彰などいろいろと興味を持ってくださり、これからの展開が楽しみであります(比叡山での修行をすすめられましたが、それだけはちょっと…笑)。

 私として特に格別な体験となりましたのは、あの富士山を仰ぐガラス張りの禅堂にて、龍神様の前で絹絃のヴァイオリンの即興演奏をさせていただいたことです。

 絹絃の倍音豊かな音が聖堂に響き、まさに宇宙とつながる感覚を味わうことができました。これぞ音楽の本来の在り方であると感じた次第です。

 実は、町田先生も「倍音」について深い知識と認識をお持ちでいらして、それを実際の瞑想などにお使いになっているとのこと。全く不思議なご縁であります。

 また、出口王仁三郎についての知見も並みではありませんでした。持参した我が家の耀わんでお酒をお飲みになって、大変感動なさっておられました。

Th_img_9247 写真は、今朝のお勤めの護摩法要のあとの祭壇と富士山です。弘法大師と出口王仁三郎が並んでいる姿は、何かこれまでとこれからの世界の高次元精神世界を象徴するような時空間でありました。

 まさに「ありがとう」の一言の二日間。また来週、町田先生にお会いする予定です。間を取り持ってくださった先生にも「ありがとう」!

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2021.05.10

『西洋音楽の正体〜調と和声の不思議を探る』 伊藤友計 (講談社選書メチエ)

Th_51gxx21klbl_sx338_bo1204203200_ 近の私はまさに「西洋音楽の正体」に迫ろうとしております。もちろん私はシロウト音楽家ですから、伊藤先生のようなアプローチとはちょっと違います。

 さらに言うなら、シロウトならではの無責任さをもって、「西洋音楽こそが世界をダメにしている元凶である」という仮説に基づいての活動を進行させているのでした。

 しかし、ご存知のとおり、私自身はモロに西洋音楽を愛好し、また演奏している者であります。そう、学校の先生でありながら「学校をぶっ壊す!」とか言っているのと同じ構図ですね。どうもそういう人らしい。私は(笑)。

 で、具体的に何をやっているかというと、まずヴァイオリンに絹絃を張っています。これがなんで「西洋音楽をぶっ壊す」ことにつながるかというのは、またいつか結果が出始めたら報告します。

 まあ、簡単に言えば、西洋音楽が切り捨てていった「モノ(何か)」を復権させようということです。

 昨日までの「イノベーション」の話にもつながりますが、「もう戻れない」というイノベーションには、多分に洗脳的要素、麻薬的要素が存するものです。

 たとえば、私たちの食生活や、交通手段や、通信手段などを考えればわかりますよね。もう戻れない。

 そういう視点で、この世界に席捲し、ほとんど暴力的に我々を支配下に置いてしまった「西洋音楽」というヤツの正体を知りたいのです。そいつと戦うために。

 音楽において、そんな洗脳的なイノベーションを起こしたのが、かのモンテヴェルディです。一言でいえば、「属七の和音」から主和音で終止する形を発明してしまった人です。「属七の和音」は私たち現代人にとっては、非常に指向性の強い慣れ親しんだ和音ですが、モンテヴェルディ以前には、「悪魔」と「塩」がまぶされた最悪な不協和音だったのです。

 そこがこの本のキモ。実に面白いところであり、それこそ西洋音楽の正体の最もわかりやすい点(弱点)なのです。

 そして、それは「自然」なのか「不自然(人為)」なのか。そのあたりの話が実に面白かった。

 私も、もう生れた時から西洋音楽のシャワーを浴びていましたし、幼少期にヤマハ音楽教室に通ってしまったので、それこそ化学調味料のような属七の和音をずっと摂取しまくってきました。

 その後ビートルズにはまり、洋楽ロックにどっぷり浸かる青春時代を送り、ジャズも聴くようになり、さらに複雑な和音を聴くようになりました。また、大学に入って、きれいな女の先輩たちにだまされて(笑)箏曲の同好会に入って邦楽も始めましたが、全くその価格調味料というか麻薬の呪縛から逃れることができていません。

 しかし、この歳になって、いろいろ変化が現われてきました。まあ、家内が東北の山奥で民謡や労働歌や演歌にまみれて育って、いまだに属七の和音や長三和音に違和感を抱くような人だということもありますし、あとその血を引いた下の娘の影響もありますかね(長女は完全に西洋音楽派です)。

 この春、その下の娘がどういうわけか東京芸大に合格してしまいました。急遽決まった受験に向けて、付け焼き刃で、たったの三日間(!)で「楽典」を教え込みました(逆に言えば三日で西洋音楽の骨組みはわかってしまうということです)。

 実は芸大とはいっても、娘は邦楽科の能楽専攻ですから、それまで楽典なんてものがこの世にあることも知りませんでしたし、これからも楽典的な音楽理論を使う可能性はほとんど皆無です。

 西洋音楽の殿堂で、西洋音楽とは全く違う音楽世界で勉強している。私もその世界にすっかり引き込まれてしまい、なにかそっちの方が(特に私たち日本人にとって)本当の音楽なのではないかと思うようになったのです。

Th_-20210512-94027 というわけで、一方で五線譜の音楽を奏でつつ、一方で娘が学んでいるこんな楽譜にも興味津々の最近の私。

 はたして理論ではなく、実践によって、この世界の洗脳を解くことができるのか。ちょっと楽しみにしていてください。

 まずは、シルク絃を使うことによって西洋音楽が和声のために捨象してしまったモノ(何か)を復活させて、それを西洋音楽にまぶして演奏していこうと思っています。

 あっ、オマケに一言。私は「長三和音」のルーツは「かっこう」の鳴き声だと真剣に考えています。ついでに言えば「短三和音」も、下手な「かっこう」ですよ(笑)。

Amazon 西洋音楽の正体

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2021.05.07

「雨だれ」は天から落ちてくる…

 

 日は、ステキなお客様がいらっしゃいました。皆さん、初対面でしたが盛り上がる、盛り上がる。

 そんな中「時間は未来から流れてくる」の話も出ました。

 そうこうしているうちに外では雨が降り出しました。天から落ちてくる雨だれを眺めながら、この曲を思い出しました。

 そして、この動画!

 まさに音楽は未来からやってくるのがわかりますよね。

 演奏とは本来こういうものです。楽譜を過去から未来に向かって追いかけるのではなく、「太鼓の達人」のように、一つ一つキャッチしていくんですよ(笑)。

 逆に言えば、楽譜を見て演奏したり、暗譜して演奏したり時にも、脳内ではこのように未来から来る音をピックアップしているかのように演奏しなければならないのです。それができない演奏家がい〜っぱい(苦笑)。

 なにしろ、聴衆にとっては、いつも音楽は向こうからやってくるモノなのですから。まずはそこが脳波的にマッチしていないと、共鳴なんか起きませんよ。

 

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2021.05.02

<鼎談> 「日本語の世界・日本語と世界」

 日の続きです。鈴木孝夫先生と、金谷武洋先生と、井上逸兵先生の鼎談動画です。

 金谷武洋さんについては、もう15年ほど前に、このブログでご著書を紹介していたんですが、驚いたことにそこに鈴木孝夫大明神の名前も出てきているんですね。やはり当時の私もお二人に似た波動を感じていたのでしょう。

『日本語文法の謎を解く−「ある」日本語と「する」英語』 金谷武洋 (ちくま新書)

 結果として、こうしてご一緒にお話されている動画を同じこのブログで紹介することになるのですから、なんとも不思議なものです。

 いきなりダジャレでエンジン全開の鈴木先生(笑)。素晴らしいですねえ。金谷先生のお話も面白い。

 最後の大明神の「遺言」が心にしみます。「世界、人類、宇宙という気宇壮大なプランの中での日本語の世界普及」…これはまさに仲小路彰の思想哲学そのものです。日本語と限定していますが、それはすなわち日本の文化、哲学、思想、行動様式そのものですから。

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2021.05.01

鈴木孝夫講演 「なぜ日本語を世界に広める必要があるのか」

 

 日、追悼記事を書きました、鈴木孝夫先生…やはり私にとっては鈴木孝夫大明神だなあ…の3年前のお元気なお姿。

 まさに大明神と呼ぶべき、偉大なる明るい神ですよ。本当に。お笑い芸人のようなトークですね。面白すぎます!

 笑いが絶えませんが、おっしゃっていることは非常に重い内容です。

 この変らぬ語り口というか喋り口に、サシでじっくり飲みながらお話を聴いた時のことを思い出しました。

 先月の追悼記事に書いたとおり、鈴木孝夫先生は井筒俊彦先生を通じて、間違いなく仲小路彰の影響を受けています。

 鈴木先生にお会いした時は、まだ私、仲小路彰のことを全く知りませんでした。いつか再会してその話をと思っていたのですが、残念ながらお亡くなりになってしまいました。残念です。

 ヨーロッパ文明の矛盾をつき、21世紀は日本(日本語)という特殊な文化が、この地球を救うと真剣に考えておられた鈴木先生。

 今、私も違った経路ですが、仲小路先生の言葉に触れ、その遺志の一部だけでも継ぐことができるよう頑張っています。鈴木先生の分まで、さらに頑張らねば。

 それにしても、たしかにこんな頭脳明晰かつ有言実行の方がいたら、老人ホームは大変ですね(笑)。

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2021.04.30

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論~』 妹尾武治 (光文社新書)

Th_b08z3gg65b01_sclzzzzzzz_sx500_ 日のプロレスリング・ノア名古屋大会、抜群に面白かった!プロレスの楽しさ、激しさ、深さを堪能いたしました。

 私と同様プロレス・マニアを標榜している気鋭の心理学者、妹尾武治さんの自称「トンデモ本」。これがまた抜群に面白く、あっという間に読了。アカデミック味だけれども、ぷんぷんサブカル臭がするという絶品(笑)。

 タイトルの通り、「未来はビッグバンから全て決まっており、私たちの意志では変えられない」というお話です。

 たしかに全てが物理法則(宇宙法則)に則っているならば、そのとおりですよね。宇宙人である(?)私もそう思っています。

 しかし、人間(地球人)の感覚からすると、どうもそれだと納得いかない。そして、虚しさすら感じてしまう。

 その私たちの「意志」こそ幻であるというのもわかります。ワタクシの「モノ・コト論」で解釈するところの、「もののあはれ」こそ真理。まさに「意志」「意識」「情報」「言語」を表わす古い日本語「コト」はフィクションなのです。宇宙の法則たる「モノ=不随意」のみが真理。

 お釈迦様もそれにお気づきになったのです。

 ということで、私にとっては全然「トンデモ本」ではありませんでした。著者の言うとおり「トンデモなく面白い本」ではありましたが。

 さて、その面白さは読んでいただけばわかるわけですが、「モノ・コト・トキ論」を展開し、まさにアマノジャク的なトンデモ理論「時間は未来から流れてくる」を訴え続けている私にとって大きな発見は、妹尾さんの専門分野「ベクション」についてでした。

 「ベクション」とは、あの電車や車に乗っていて、並走している車輌が動くと、自分か反対方向に動いているかのように感じてしまう錯覚のことです。

 この空間的なベクションが、時間においても起きているのではないか。いや、起き続けているのではないか。つまり、本当は時間が未来からこちらに流れてきているのに、人間(地球人)は、まるで自分が人生の主役になって、人生の道のりを歩いていると錯覚していると。本当は自分が止まっていて、時間が動いているのに。

 ぜひ、この辺に関しまして、妹尾さんといつか直接お話してみたいと思います。

 最後に、もう一度プロレスについて。妹尾さんは「人生はプロレスである」と書いています。納得です。最初から勝敗が決まっていても、つまり決定論でもこれだけ楽しめるわけですから、同様に人生の結末が決まっていても、あるいは過程(筋書)が決まっていても、全然いいじゃないですか。楽しみましょうよ。その一つの方法として、私の「モノ・コト・トキ論」もあるのでした。

Amazon 未来は決まっており、自分の意志など存在しない。

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2021.04.28

「ヤスクニの思想」の起源

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 日は主権回復の日。ワタクシごとですが、期せずして今日、未来の主権回復に関わる一つの大きな仕事が終りました。偶然とは言え、何か歴史的な運命を感じている次第です。

 その仕事の結果はのちのち紹介できると思います。今日はそれにも関係していますところの、主権回復の近代的象徴の一つとなっている靖国神社について私見を書きます。

 私は、靖国神社には比較的親しんでいる方です。近くを通れば必ず参拝しますし、子どもたちを遊就館にも何度か連れていきました。

 では、ガチガチの保守かというと、ご存知のとおり全然そんなことはありません。

 変な話で恐縮ですが、私は多少霊感というか、いわゆるチャネリング的なことができるところがあります(もちろん単なる思い込みかもとも思っていますが)。

 それで何度か書いたとおり、私は靖国に行くと、とにかく厖大な多様な声を聴くのです。

 それをやや斜めから一言で言えば、「俺たちいろいろな思いがあるのだから、英霊、英霊って一絡げにしないでくれ」というものです。

 つまり、多くの参拝者の思いとズレのある思いを抱いている「英霊」もたくさんいらっしゃるということです。

 もちろん霊界では現界のように、それで英霊たちが喧嘩することはないわけですが、現界的な分類をすれば、「英霊」の皆様には保守もリベラルも中立派もいろいろいるわけで、たとえば彼らの大東亜戦争についての評価もまちまちなのです。

 そういう、ある意味当たり前の発想もなく、ただただ「純粋」な気持ちで参拝してしまったり、「純粋」な気持ちで忌避してしまったりする現界の人が多すぎて、私は少しうんざりします。

 出口王仁三郎は戦後すぐ、有名な吉岡発言で、『ほんとうの存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた、殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった』と語っています。

 その王仁三郎の大本についても記述されている、次の記事をお読み下さい。私たちの当たり前の信仰心や善意やシンパシーや敬意というものも、それが近視眼的なものでは、価値がすっかり下がってしまうのではないでしょうか。

 佐藤弘夫さんの「日本人と神」から。

靖国神社と「神国」日本を生んだ、人を「神」に祀り上げる思想の正体

Amazon 日本人と神

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2021.04.26

ジャパネットたかた創業者・高田明さん&能楽師・武田宗典さんと読む「世阿弥」

Img_67dd3f99f4a5454ea7275590fbd0bcc84796 日、「鶯」の語源について書きました。「鶯」というと思い出すのが、和泉流狂言の「鶯」です。和泉流にしか伝わらない作品。蓮如上人が好んだとも言われるこの「鶯」、たしかに笑うというより、なんとなくしんみり考えさせられる曲です。

 そして、今日の話は狂言から能へ。

 その前に昨日、うぐいすも稽古をするというようなことを書きましたが、その「稽古」とはなんなのか。以前ワタクシ流の解釈を書きました。

『稽古」とは

 そこでは「稽古は神変す」と書きましたが、一般には「稽古に神変あり」でしょうかね。無心に先人と一体化しようとしていると、突然わかる瞬間がある。自分で考えるのではなく、向こうからやってくる感覚ですよね。過去と未来が今に一体化する瞬間。

 で、そういう「稽古」って、別に能や狂言などの芸能に限ったことではありません、という話です。

 もう、とりあえず読んでいただきたいのですが、ジャパネットたかたの高田さんと、能楽師武田宗典さんの対談が実に面白かったのです。

 なるほど、伝えて、人の心を動かすという意味では、ジャパネットも伝統芸能の系譜上にありますよね。高田さんが世阿弥の言葉に共感するのも納得できるというものです。ぜひお読みください。

 そして、650年後の最先端にさえ通ずる言葉を残した世阿弥が、いかにスーパー世阿弥マシンであったか(笑)。

世阿弥の名言「初心忘るべからず」の真意、初心は老後にも持つべきものだった!

高田明さんのプレゼン術の真髄は、世阿弥の名言「離見の見」にあった!

いくつになっても「花」のある人は何が違うか、世阿弥『風姿花伝』に学ぶ

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