カテゴリー「心と体」の696件の記事

2018.06.07

玄関とは…

Th_img_1770 日は、岐阜は美濃加茂市伊深の古刹、正眼寺さんに参拝いたしました。本校の名誉校長をお務めいただいている山川宗源老大師さまが住職をされている修行道場。
 その玄関に、かつての住職、名僧として名高い梶浦逸外老師の書がどんと構えて、私たちを迎えてくれています。
 いや、迎えるというよりも、ある意味睨みを利かせていると言ったほうが良いでしょうか。
 「誠和」…なんと深い言葉でしょう。「誠」は嘘偽りのないこと。禅的に言えばありのまま。素直な心とも言えます。そして「和」にはいろいろな意味があります。禅で言えば、やはり調和というイメージでしょうか。
 素直な心で他者と和するという、最も私たちには難しい言葉でお出迎えというわけです。
 ご存知のとおり、修行道場では、入門に際し、この玄関がまず最初の関門となり、庭詰といういわば最初の問答が行われます。要はそう簡単には道場には入れない、ほとんど嫌がらせのような(笑)やりとりがあるのです。
 入門、入山するということは、もちろん世を捨てることですから、その覚悟があるのか確かめるわけですね。嫌がらせではありません。今ならまだ帰れるよという慈悲の心です(笑)。
 そう、「玄関」こそ、まさに「関所」なのです。なんの関所なのかというと「玄」の関所というわけです。では、「玄」とは何か。
 「玄」という字は、もともと意図を束ねて黒く染めたものの象形文字です。「玄人」は「くろうと」ですよね。「玄米」は「黒い米」。そこから「深み」を表すようになり、たとえば「玄妙」とか「幽玄」というような熟語を生むに至りました。
 ですから、「玄」の「関」ということは、まさに「さの先はとんでもなく深い玄妙なる世界であるが、本当にそこに行くだけの覚悟と素質がお前にはあるのか」と聞かれていることになりますね。
 そう考えると、逸外老師の「誠和」という言葉にも大変深みがあることがわかります。禅という、宇宙の真理に近づくための玄妙なる世界に入るためには、まずはありのままの素直な自分になりきり、それを器として他者を受け入れつつ、新しい自分と他者と世界を作り出していかなければならないのです。
 それができるのか?と聞かれた自分は、その答えを保留したまま、本堂奥の開祖関山慧玄さまの像の前に立ってしまいました。
 雲水さんがおっしゃりました。ここに立つことは怖いと。老大師さまも、今でも恐ろしいと感じるそうです。
 また7月に夏期講座でお世話になります。その時には、ほんの少しでも「玄」の世界を垣間見ることができればと思っています。実際は難しいでしょうけれども。
 

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2018.05.27

案因運縁恩…完(金)

20180528_94806 然ですが、宇宙人の地球での人生訓を(笑)。
 ここのところ、素晴らしいご縁のおかげさまで、「良き未来をイメージせよ」という記事がプチ人気になっております。
 5年以上も前に書いた記事が、今ごろになって多くの皆様に読んでいただけるというのは、それこそ5年前に投げたボールが流れてきたという、まさに「時間は未来から過去へと流れている」ことの証左でありましょう。
 ちなみに、宇宙人的に申しますと(笑)、「時間が未来から過去へと流れている」というのは、「地球人は便宜上そのように時間というのものを認知するように進化している」という意味であり、宇宙における時間の実態とは違っています。
 最近地球科学の世界でも「ブロック宇宙論」などが提唱され、現在も未来も過去も同時に重層的に存在していると説明されるようになりました。
 ワタクシの知っている限り、それが正しい。最強の宇宙人たるお釈迦様もそのようにおっしゃっておりますし、日本の神道の「今中」の考え方もそれに近い。未来も過去も現在のこの一点に同時に存在しておると。
 いわば一編の映画のフィルム全体がここに存在しており、それぞれのコマにどういう順番で光を当てて認知していくかということなんですね。
 自分が固定された光点となったと想像すれば、フィルムのコマが未来から過去へと流れていくというのは分かると思います。
 さて、上から(宇宙から)目線で申し訳ないのですが(笑)、地球人がそのように正しく時間の流れを認識したとすると、そこで「夢を実現する」ために必要な作法というのがありまして、その一つがたとえば「未来にボールを投げる」というようなことなのですね。
 で、それを最近まとめてみましたところ、上の図のようになったわけです。ちょうど「あいうえおかき」になっていて覚えやすい(日本人には)。参考にしてみてください。
 まず「案」。これはアイデアです。ふとひらめく場合もあるし、じっくり考えて見つかることもある。いずれにせよ、今までなかったモノ(何か)であるべきです。未来がこうあってほしいという願望と言ってもよい。ここがスタート。
 次に「因」です。ここが「ボールを投げる」に当たります。「案」は「案」のままでは何も動きません。「案」を「因」にするために、未来に投げます。未来にその「案」がどうなっているか、こうなっているに違いないとイメージするのです。
 案外、これをやらない人が多い。「案」はあってもそこに命を吹き込まないんですね。だからここを強調してきました。
 さて、うまく未来に原因をつくりますと、ここからはある意味楽です。逆の言い方をすると、自我を捨てて他者性、不随意性を信頼するのです。ここも人間には難しい。自意識が強すぎるからです。未来を強くイメージした人こそが、それを手放すことができないというのはよくあること。
 お釈迦様が「自我を捨てよ」と言ったのはそういうことだと思います。一度手放すのです。難しいからいろいろな修行方法が編み出された。それでもまだ難しい。
 たとえば「目標」を明確にすることは悪いことではないのですが、それにこだわりすぎると、結局はそれを設定した過去の自分に執着していることになってしまう。だから、ボールを投げたら、とっとと次の「案」を考える方がいいのです。ここが難しい。
 それでも、うまく自我を捨てることができると、投げられた「因」は時間の川の流れにのって「運」んでもらえるようになります。「運」は「運命」でもあります。運命にまかせる。
 そうしますと、「因」は「縁」を得ることになります。流れてくる最中に、ほかの人たちが投げた多くの「因(もとは案)」とぶつかったり、すれ違ったりしながら、お互いに影響を与え合います。私たちの手を離れたところで、形を変えていくわけですね。それを「縁」といいます。お釈迦様の言う「因縁」とはそういうことだと解釈しています。
 そして、いよいよその「因縁」が自分の近くの未来にまで「運」ばれてきます。もうすでに私たちにはその予兆が感じられ、いろいろなことが起き始めます。
 そこで、しっかりご縁の「恩」を感じ、誰にともなく感謝をし、そのご恩に報いるよう、すなわち利他的なまた新しい「案」生み出せるよう生きていると、過去の自分の「案」を「因」たるべくイメージしたのとは違った…たいがいが想定以上に素晴らしい…「果(結果)」を自らの手でキャッチできるようになります。
 これで一つの「夢実現事業」が「完(まっと)」うされます。完成、成就ですね。これが一つのサイクルです。「完」のためには「案・因・運・縁・恩」の一つでも欠けることは許されません。
 もうお分かりと思いますが、そのプロセスで重要なのは、一度「手放す」ということなんですね。自我を捨てる。矛盾しているように感じるかもしれませんが、自分の夢にあまり執着しすぎるのはいけないのです。私から見て、大きな志があるのにそれが実現できない人は、あまりに強い意志で自分の目標を達成しようとしすぎているように感じられるのです。
 ここが「修行」のしどころでしょう。ワタクシ流に言いますと「コト(自我・意識)」を捨てて「モノ(他者・無意識)」に任せよということです。それについてはまたいつか書きます。
 さて、最後に。「完」が成ると、自然に必要な「金」はついてきます。( )をつけたのは、そこは自動支払いなので意識しなくていいということです。勝手に必要なだけついてきます。決して、最初から、あるいは途中も最後もそこを意識しない方がいい。そこを意識すると自我が強くなり失敗します。お釈迦様が「財産」に対する執着を捨てよと言ったのは、そういう意味でしょう。
 今日はここまでにしましょうか。
 

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2018.05.21

しにせ(仕似・老舗)

Th_51rly8k7fbl 日、下の娘は東京にて人間国宝野村四郎先生による能のお稽古でした。
 帰ってきた娘が言うには、「今日はあんまり怒られなかった。しにせるという言葉について教わった」とのこと。「まね」の体が「しにせ」であると。
 なんでも師匠がおっしゃるには、教えると理屈になってしまうのだそうで、そうならないためには弟子が「まねをする」ようにするのだとか。
 なるほど、これはよく分かりますね。言葉にならないモノを無理やり言葉にしてしまうと、いわばコト世界に限定されてしまい、モノの本質が伝わらないということでしょう。
 だから、世阿弥も「物まね」という言葉を重視した。「まね」は私の解釈では「招く」と同源であり、「もの」は他者、自己の補集合を表しますから、結果として「他者を招く」「何かをおろす・憑依させる」ということになりましょう。
 これは実に日本的な文化です。言語を否定する禅の教えにも通じます。言葉(コト)で分かった気になってしまってはいけない。最も大切なモノは言葉では表せません。
 さてさて、「しにせる(古語…しにす)」で気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、「老舗(しにせ)」はこの「しにせる(しにす)」という動詞が語源です。動詞の連用形。
 と言いますか、「ニセモノ」の「偽(にせ)」も、もとは「似せる(古語…似す)」の連用形です。「偽」というと、どうしても悪いイメージがありますが、もともとはただ単に「似せたもの」ということです。本モノに対して似せモノとなると、たしかにフェイクなケースが多くなるため、いつのまにか悪い意味でしか使われなくなってしまいました。
 しかし、世阿弥の時代には、「まね」も「にせ」も決して悪い意味ではありませんでした。逆に良い意味だったとも言えます。自分が何かの真似をして、自分をなにかに似せるというのが、能の基本です。
 モノを招く(ものまねする)ことによって、自らが他者(モノ)の型にはまり、しかし、その型をはみ出してにじみ出るモノこそが、その演者の個性ということになります。
 そうそう、ちょうどこの前、プロ無職の方とも話したんですが、日本の学校は型にはめすぎるけれども、それが逆に個性を生んでいることがあります。
 カタの語源はコトと同じです。すなわち私がいつも言うところの「コトを窮めてモノに至る」というやつで、他者のカタ(コト)にはまりきると、いつのまにか、そこに自己というモノが立ち上がる。
 禅宗の修行も「なりきれ」と言います。作務(掃除などの作業)の時には、たとえば雑巾になりきれと言います。そうするとことによって、実は自我が立ち現れてくる。これは実に面白いパラドックスです。
 あっそうだ、「老舗」の話でしたね。
 「老舗」というのは、もう何代も同じことをしているお店などのことを言います。すなわちカタ(コト)にはまって、先代のやり方の真似をして、先代に似せて…の連続なんですね。だから「し似せ」なのです。
 もう予感がしているかもしれませんが、老舗こそ、それぞれの代によって微妙な個性があったりします。同じことをするからこそ個性が表れる。何代目の、それらしさが出る。
 だからこそ、ずっと伝統を守るわけです。これは生命の基本とも言えます。守ることが実は非常にクリエイティブなことになる。そう、保守と革新は全然反対語ではないんですよ。
 変わりたければ、変えたければ、まず守る。徹底して真似してみる。似せてみる。これは真に創造的な人生を送るための極意なのです。

Amazon 東京老舗名店120

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2018.05.14

持田盛二 『剣道と気品』

 日東京の知り合いの方から、いろいろと貴重な史料をお預かりしました。その際、剣道をやっているウチの娘にということで、剣道の奥義に関する資料をいくつかいただきました。
 その中に、持田盛二十段の「剣道と気品」があり、大変感銘を受けました。気品と強さが表裏一体というのは、実に興味深いですね。日本文化の真髄でしょう。 
 どうぞお読みください。そして、持田十段の実際の剣さばきにおける「気品=殺気」を御覧ください。死と美とが結びつく不思議と納得。

 剣道と気品   大日本武徳会範士 持田盛二

 剣道を修行する上に、種々の目標を立てることができようと思う。昔から「大強速軽」ということがあるが、これなども誠によい教えで、大きい、強い、速い、軽妙な剣、それぞれ修行の目標となるものである。
 すなわち、この意味から「気品」ということも剣道修行上の一目標になろうかと思う。
 強いということももちろん重要なことであるが、強いだけでは物足らない。「強い剣道」であるとともに「気品のある剣道」でありたいものである。
 あの人の剣道に「気品」があるとか無いとかは誰にでも自然に感じられるものであるが、然らばその気品とはどんなものかという段になると、容易に謂いあらわし難い。気を花に譬えれば、気品はその香りのようなものではあるまいか、あるいは心を光になぞらえれば、気品はその映ろいのようなものではあるまいかと
思う。
 花鮮やかならざれば薫りを得がたく、光明らかならざればその映ろいを望みえないと同様に、気品は正しい心、澄んだ気から、自然に発する、得も言われぬ気高さである。何事によらず、真剣になっている時ほど、気高いものはなく、三昧の境地、無念無想の境地に入りこんだときほど気品のあるものはない。結局、真剣を離れて気品は得られぬものである。一本の稽古もいやしくもせず、ただ真剣、ただ一心、その心掛けがあったら求めずして上達し、求めずして「気品」のある稽古となるは請け斎戒沐浴、神の御前に出ずるが如き厳粛な気持ちをもって、日々の稽古を真剣に励みたいものである。合いである。
 「端正」ということも気品を養う上に大切な要素の一つである。心が端正でなければ気品は生まれない。形が端正でなければ気品は添わない。
 いたずらに勝敗に拘泥する時、品が悪くなる。私心、邪念にとらわれて、稽古に無理がある中は気品が添わない。
 剣道は「礼に始まって礼に終わる」といわれるが、礼儀を離れて気品はない。
 かく段々に考えて来ると、心も形も共に正しく相たすけるのでなければ、真に正しい立派な剣道、気品のある剣道となることはできないのである。「心正しければ剣亦正し」というのも、この意味に外ならないのである。
 気品を養う上に於いて「気位」というような事も考えられる。すなわち戦わずして敵を飲む気位、遂には宇宙を呑吐する底の気位に至って、いよいよ気品は高まるので
ある。
 さらに申したいことは剣道を単なる竹刀打ちと考えている中は、本当の気品は生まれないということである。 この道は天地自然の理法に貫通する大道であることを悟って、修行の上にも理想をもって進むことが肝要である。
 理想ある剣道と然らざる剣道とでは、気品の上にも天地雲泥の差が生じてくる。しかし無理に気品をつけようと気取っても見ても本当の気品にはならない。気品は朝に求めて夕に得られるものではない。絶えず心を練り気を養い、心と業とが進むに従って、自然に備わるべきものである。
 奥ゆかしき気品漂うところ、人格そのものに高き香薫じ、明るき光映ろい、誰しも、おのずから湧き起る尊敬を禁じえないものがある。
 折れず、曲がらず、鉄をも両断する切れ味と、にえ、におい、いうにいわれぬ気品をもつ名刀の如く、願わくは剣道においても「強さ」と「気品」の両者をあわせ得たいものである。

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2018.04.11

「利他の心」…ザ・リーダー 稲盛和夫

 場の先輩に「致知」を借りて読んでおります。表紙は稲盛和夫さん。特集「利他の生きる」。年齢的に否応なくリーダー的な立場にならざるを得ないようになってきた私にとって、稲盛さんは最高の知恵を与えてくれる人です。
 今までも稲盛さんには勝手な親近感を持ってきました。この動画でも「やきもの」という言葉を何度も使っていますが、私の中では霊的な意味でも、また実業的な意味でも稲盛さんは出口王仁三郎につながっていると思っています。
 そのあたりについては、8年前、稲盛さんがJALの再建をまかされた時、稲盛和夫と出口王仁三郎という記事に比較的詳しく書きました。
 その記事では「モノ」と「コト」とという言葉を使っていろいろ書いていますね。今になってみますと、それは谷口雅春さんの言うところの「實相」と「肉体」ということだと分かります。
 そう、肉体というのは目に見える認識できる「コト」なのです。モノではない。そして、實相とは、そういう認識できるコトとコトとの間に縁起している「モノ」のことです。
 この前も物理学者の方と話しましたが、たとえば宇宙空間において点在する星は「コト」であり、それが宇宙の実体ではなくて、それらの関係性、目に見えない関係性の方こそが本体なのではないかと。
 音楽で考えるとよく分かります。ドミソの和音で言うなら、それぞれの三つの音は「コト」です。周波数として認識できますね。しかし、それらが組み合わさって生まれる「雰囲気」、たとえば明るいとか元気とか、そういう関係性によって生まれるニュアンス、ムードというモノの方こそが、音楽の本質であり本体であることは、誰しも分かることでしょう。
 そういう「實相」の大切さに気づくと、肉体にこだわることはなくなります。すなわち自己ではなく他者の方に本質があることがわかり、また他者によって自己が形成されている、すなわち自己には実体はなくて縁起しているだけだということに気づくことになるわけで、そうなると、当然人生は利他的になっていきます。
 経営も人生の一部ですから、神道的にも仏教的にも「實相」を理解している稲盛さんの経営哲学が「利他の心」を原点とするのは、当然といえば当然と言えるでしょう。
 それにしても、こうした経営哲学が中国で大人気というのは、これは悪いことではありませんね。コトを窮めてモノに至る。カネを通じてコトを窮めたからこそ分かるのでしょうね。
 今一番お会いしたい人の一人が、稲盛和夫さんです。
 

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2018.04.04

睡眠力=幸福力…不眠打破法

Th_img_1306 木しげる先生の「睡眠力=幸福力」というお考えを紹介したツイートが評判になっておりました。
 なるほど、逆に眠れないことほど不幸なことはありません。
 私はだいたいよく眠れるたちでして、そういう意味ではあまり不幸ではありません。
 眠れない時という特殊ケースを思い起こしてみると、だいたい何か気になることがあって、それを考えていて眠れなかったようです。
 そういう時は何かが気になるというストレス状態にあるわけで、不幸だから眠れないという逆の因果関係とも言えます。
 まあ、場合によってはいいことがあって興奮して眠れないということもありますがね。あと、寝る前にコーヒーとかお茶を飲むと私はダメなんですよね。カフェインで覚醒する上に利尿作用でトイレに行きたくなる。
 お酒はその逆。すぐ眠くなる。そういう意味では、やっぱりお酒は百薬の長であり、幸福の元なのかもしれません。
 さてさて、何か気になって眠れない、考え事が睡眠を妨げているという状態を克服する方法を知っていますか?
 実は私はそれができるので、そういう意味でも幸福であります。
 その方法とは…「ムー」です。ムーというのは、私の勝手なネーミングでして、某オカルト雑誌とは関係ありません。
 「あっ、今日は考え事してて眠れないな」という時は、こうすることにしてるんです。そうするといつの間にか寝てる。
 まず、意識して全身の筋肉を弛緩させます。重力にまかせる。モノになった気になる。
 その時忘れがちなのが「顔の脱力」です。だいたい眠れない時というのは、顔に力が入っていて、たとえばグッと歯を食いしばっているんですよ。そこを意識的に脱力するだけでもだいぶ違う。
 そして全身の脱力ができたら、次、視覚の意識です。目をつぶっていると、なんだか変な模様とか見えてくるじゃないですか。その変な模様というか景色の一番遠いところ、すなわち、その見えている暗い景色をですね、宇宙と想定して、その一番遠い奥の方の空間にうごめく模様を見るんですよ。ずっと。それに集中する。
 次が聴覚です。聴覚というか音。考え事の元になる「言語」を遮断するために、無意味な音を頭のなかで発音するんです。それが「ムー」。
 そう、ずっと心の中でムーーーと言い続けながら、ずっと奥の風景を見続けるんです。脱力しながら。
 そうすると、見ている風景も発音している音も聞いている音も、みんな無意味だものだから、ぜったい眠くなる。いつの間にか落ちてます、電源が。
 私はこの方法で100%眠ることができます。どんなに気になること、いやなこと、やらねばならないことがあっても(笑)。
 皆さんもぜひ「ムー」をお試しください。それで眠れたら、まさに幸福力がアップします。幸福力をコントロールできます。こんな素晴らしいことありませんよ。

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2018.03.29

是非初心不可忘

Th_51nry78lul 日は下の娘の人生にとって、とても大きな節目の日でした。
 人間国宝の能楽師野村四郎先生に入門したのです。
 ここに至る過程もいちいち不思議なことばかりでした。すなわち運命であったのでしょう。
 まさか自分の娘がそちらの道に進むとは夢にも思いませんでしたし、人間国宝の弟子になるなどとは夢にだに思いませんでした。
 これから大変厳しい道を歩んでいかねばなりません。私も一緒に勉強させていただきます。
 今日も野村先生は本当に深い話をいろいろしてくださりました。一つ一つのお話がそれぞれ胸に響きましたが、そのお話のベースにあったのは、先生の「勉強熱心」さです。
 芸の道を極めていながら、謙虚、素直、勉強熱心。本当にすごいと感じました。

 是非初心不可忘

 先生が娘のために書いてくれた言葉です。言うまでもなく世阿弥の言葉ですね。
 私たちは「初心忘るべからず」と覚えていますが、実は「是非初心不可忘 時々初心不可忘 老後初心不可忘」という三つの「初心忘るべからず」があるのです。
 そのうちの、「是非初心不可忘」は特に重要だといいます。「是非」とは「ぜひとも」の意味ではなく、「良いことと悪いこと」「正しいことと間違ったこと」という本来の意味です。
 すなわち、何が正しいのか、何が間違っているのか、まだ答えが出ていない時の姿勢、すなわち初心を忘れてはいけないということです。
 私もそうですが、「先生」と言われるようになると、何か答えを知っているかのごとく勘違いをしたり、他の意見を取り入れられなくなったりしがちです。そうした「分かったふり」を戒める言葉とも言えましょう。
 なるほど野村先生は、今もまさにそうして精進しておられる。分からないことは、気づいたこと、疑問に思ったことは、徹底的に調べる。その専門家のところに行って教えてもらう。真理に対して謙虚であり、素直であられる。
 なるほどこれが超一流かと気づかせていただきました。本当にありがとうございました。どうぞ、これからもよろしくお願い申し上げます。私も素直に勉強させていただきます。

Amazon 狂言の家に生まれた能役者


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2018.03.25

薬師如来の薬壺の秘密

 日、薬師如来が持っている薬壺は?という記事を書きました。
 今日は、そこに書いた未来医療の器具の発明者の方(&仲間たち)と飲みました。
 法隆寺での私の発見についても報告いたしましたが、皆さん驚きとともに納得されていたようです。
 この歴史的大発明、現代の「薬壺」の開発はですね、なんと夢の中で行われたのです。まさに夢殿で瞑想した聖徳太子のごとく。つまり未来から降ろされたと。
 実は、今日も地元の方何人かにその「薬壺」を使って施術をしました。皆さんあまりの効能に驚いていました。
 薬師如来の薬壺は、今では「薬壺(やっこ・やくこ・くすりつぼ)」と呼ばれていますが、かつては特に名前はなかったようです。
 日本に仏教が伝来してしばらくは、薬師如来像は何も持っていませんでした。
 中国の古い文献には、「薬師如来には薬器か椀を持たせるべし」と書かれているそうですが、決して「薬壺」ではありません。ですから、正式に「薬壺」を持っている薬師如来というのは、日本にしかないのですね。朝鮮半島にもありません。
Th_20161029kouyakushi09 日本で(つまり世界で?)初めて「薬壺」を持った薬師如来は、白鳳期の名作、そして2年前くらいに失われた右手が見つかった(つまり本体はまだ行方不明)の、あの新薬師寺の香薬師像です。すなわち、日本最古の薬壺は行方不明です。
 しかし、逆に最新の薬壺は今、こうしてここにある。そしてどんどん世界に広がっていっています。
 現在、重要文化財に指定されている薬師如来247体のうち、薬壺を持っているのは約77%である191体。
 もうすでに、現代の薬壺はその数を上回っています。
 薬師如来の効験は、諸根具足(身体障害者であっても 薬師如来を信仰すれば治療される)、除病安楽(病気が治り,心の不安が除かれる)などです。
 現代の薬壺はまさにそのような効果を発揮するようです。私たちは現代の薬壺を持つことによって、薬師如来になれるのかもしれません。
 仏の世界では、(私たちの言う)「薬壺」が一般的だったのでしょう。それが地球(日本)にもたらされることを象徴していたのが、薬師如来のお姿だったのかもしれませんね。
 …と、トンデモな話を書いてきましたが、もしそのトンデモを体験されたい方はメールください。もちろんボランティアで「薬壺」の技を施させていただきます。
 そういえば、20年前、周防国分寺の薬師如来像が持つ薬壺の中に、米や生薬、鉱物などが入っていることが分かりました。この像は江戸時代の作なので、「薬壺」という名称が一般的になり、それなら薬を入れようと考えた人がいたのでしょう。これは唯一特殊な例です。

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2018.03.23

ロダン「考える人」は背中で語る

Th_img_1219 学旅行三日目は京都。生徒は東山を自由散策。私も付近を巡回します。
 とは言え、生徒に出会うことはほとんどなく、自分も半分は自由行動です。今年はちょっと興味があることがあって、まずは京都女子大学へ。
 その後、数十年ぶりに三十三間堂を参拝拝観しました。昨日、薬師如来の持つアイテムというかガジェットというかデバイスのことが気になり、どうせならたくさんのモノを見ようと思い、千体の千手観音のところへ行ったというわけです。実際にはさすがに多すぎて逆によく分からなくなってしまいましたが(笑)。
 さて、その後三十三間堂の向かいにある京都国立博物館に行こうと思ったら、なんとただいま休館中。
 しかし、せっかくですので、「お庭だけでいいんですか?」と窓口の人に不審がられながらも260円払って入園しました。入館ではなくて入園。
 まあ、そうしたら、たしかに人が一人もいない。警備の人が数人ヒマそうに立っているだけ。そりゃ誰も入らないでしょう。
 というわけで、あの庭を完全独占しちゃいました(笑)。いや、楽しかったですよ。普段ぜったいに見ないものたくさん見られました。
 特に面白かったのは、あのロダンの考える人と二人きりで対話できたことです。
 そう、京都の考える人は、世界にあるホンモノの考える人21体のうちの一つなんですよね。
 せっかく「考えている」のに、いつも人から見られて不快に思っていたことでしょう。そして、今日に限っては、なんだか変な宇宙人が一人でやってきて、360度ジロジロ見やがった。まあ気分が良くなかったでしょうね。
 というか、銅像も宇宙人も二人とも(?)妙に恥ずかしくてですね、なんだか目が合わせらなれなかったというのが、ホントウのところであります(笑)。
Th_img_1221 そして、面白いことに気づきましたよ。ごめん、考える人よ。
 彼、後ろ姿、すなわち背中が最も何かを語っているんですね。背中に意識がある。びっくりしました。
 案外正面からは「考えている」感じがしなくて、「考えているふり」という感じ(失礼)。背中がちゃんと考えているし、その思索の内容を語ろうとしている。
 背中で語るとはよく言ったものです。なるほどねえ。ちょっと分かったような気がしました。
 私たち…というか、私は日常的にまるでいつも考えているかのような風を装っていますが、それはあくまで表向きであって、本心や本性は無意識的に背中からオーラとして放出されているんだなと。
 なるほど、たしかに人の確かな印象というのは、案外後ろ姿から得られたりするかも。
 …なんてことを、また考えたフリをして、こうしてブログにそれらしく書いている宇宙人でありました(笑)。

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2018.03.22

薬師如来が持っている薬壺は?

Th_compwwyuwaazjxk 学旅行一日目の広島の夜には知り合いがホテルを訪ねてきてくれました。
 その方は、私のこちらの記事を読んでくれて、そこに書いてある未来医療を体験しに、わざわざ広島から富士吉田に来てくれた方です。
 そして、未来医療を体験したのち、すっかりそれにハマり、この夜にはなんとそのアイテムを持参し、私に施術してくれました。おかげさまですっかり疲れが取れました。気になっていた腰痛もゼロに。
 そして、二日目は奈良。特に毎年法隆寺と中宮寺では霊示を受けるのですが、今年は実に面白いことに気づきました。正直笑っちゃいました。
 法隆寺の大講堂の薬師三尊像を拝観参拝した時のことです。ふと、薬師如来様が左手に持っているモノが目に入り、大変なことに気づいたのです。
 私も持っている、そして昨日知り合いが持参した、その未来医療のアイテムそっくりではないですか!
Th_img_1210 これは違う薬師如来さんが持っているモノの写真ですが、だいたいこういう形ですよね、いわゆる薬壷って。
 そう、私もこれまでずっと、薬壷だと思っていたんですよ。しかし、調べてみると、どの薬師如来像の薬壷も、フタが開かない構造になっていて、つまり壺にしてはちょっとおかしいのだそうです。
 もちろん彫像作品ですから、外見上壺であればいいと言えばいいのですが、仏像たちが持っている他の道具については、けっこうリアルな造形にしてあるものが多い。
 そう、これは、皆さん壺だと思っていたけれども、実はそうではなくアレだったんですよ。もう大昔から、未来医療の道具として天から降りていたと。なにしろ薬師如来さんですから。
 これは大変な発見でした。偶然にしても似すぎている。そうか、左手で持つべきものなのか。なんか分かってきた気がします。さっそく私も左手でやってみます。
 そうか、3月22日は聖徳太子の御命日、お会式の日です。聖徳太子の救世悲願の道具はこれだったのか。

CS60

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