カテゴリー「心と体」の657件の記事

2017.08.15

『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』(NHKスペシャル)

 戦の日。昨日まで出かけていたので、たまっていた録画をいくつか観ました。その一つがこれ。
 人間性を奪う戦争の恐ろしさを感じずにはいられません。
 これを「捏造だ!」と言ってしまうのは簡単ですし、実際、アメリカやソ連の思惑がからんだ難しい事件であることはたしかです。
 南京事件などもそうですが、「なかった」と言ってしまうのは、やはり言い過ぎでしょう。かと言って「あった」として全面的に認めるのもどうかと思います。
 そう、8月15日にはいつも思うのですが、たとえば靖國の英霊たちも、まさに十人十色で、戦争で散ったことを無念に思い、国を恨む人もいれば、お国のために戦ったことを心から誇りに思っている人もいます。
 軍人に限らず、あの戦争を正しかったという人もいれば、いや間違っていたという人もいるはずでし、あの当時もいたはずです。
 いつかも書いたとおり、そうした無数の感情や志、未来への思いなどを十把一絡げにしてしまうのが「歴史」の残酷さだと思います。
 ですから、この番組をめぐって左右の人たちがお互いを認めず、罵り合ったり蔑み合ったりしているのを見ると、実に残念な気持ちになります。
 これもいつも書いているとおり、私たちは、自分の中にも、残酷な自分や弱い自分、ずるい自分、反対に強い自分や正義を守る自分、あるいは迷う自分などがいることを認めないといけません。
 一面的に過去の戦争を語ることが対立を生み、次の戦争を準備してきたという歴史的真実を忘れないことも忘れてはいけません。
 最近、かつて日中戦争に赴いた祖父が書いた本をあらためて読みました。私と同じ高校の教師だった人です。教育者として兵隊になり、戦後帰国してから再び教壇に立った祖父。喜寿を迎えた祖父が書き残してくれた大切な真実です。
 祖父は私にとっては本当に人間味あふれる、尊敬すべき人でした。そんな祖父が戦地でどのような体験をし、どのような精神状況におかれたか、その本には詳細に書かれています。
 ごく身近な人にのみ配布された私家本でしたが、非常に重要な記述も含まれていますので、近くこのブログで全文を紹介しようかと考えています。
 

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2017.07.25

無門関 『雲門話堕』…正眼寺の松

Th_img_1040 眼夏期講座二日目、山川宗玄老大師による提唱は、無門関三十九則「雲門話堕」。
 本当に自分の痛いところを突かれたようで、逆に快感でさえありました(笑)。
 原文や訳はこちらが分かりやすいのでぜひお読みください。
 要は、受け売り、パクリ、知ったかぶりはダメということですね。まさに私のブログなんか「話堕」そのものです(苦笑)。
 言葉にしてしまった途端、それも他人の言葉であればなおさら、「嘘」になってしまうわけですね。
 今日、織物関係の知り合いたちと飲んだのですが、ちょうどそんな話になりました。今の子どもたちはスマホからの情報によって、まるで自分が経験したり、自分が調べたりした気になってしまう。これは良くないと。
 たしかにそうですが、一方でそうした抽象的な情報を具体的に「読みとる」という、ある種高度な情報処理能力を身につけているとも言えますよね。
 そこが難しいところですが、私は人間の知性、感性の次元上昇に期待したいと思います…なんて、「話堕」な自分を弁護しているだけですね(笑)。
 それから、山川老師風に言うと「そこじゃ!」という、指導者の絶妙のタイミングですね。というか、そのタイミングを、それこそ理屈でなく分かる人でないと教育者にはなれないと。
 これも耳が痛い話ですなあ。
 コトよりモノ、これこそ禅の奥義だと再確認できた体験でした。「もののあはれ」とは「モノのアッパレ」なんですよね。
 提唱が終わり、感慨にふけりながらふとお庭を見ると、そこには「正眼寺の松」がありました。上の写真です。ああ、ずいぶんと大きくなったなと思いました。まさに「黙して語る」松であります。余計なことを語らず、黙々と自然体で生きる松。
 その「正眼寺の松」については、ぜひ次の動画をご覧ください。青木ケ原樹海の赤松林とも通ずる「強さ」がありますね。


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2017.07.22

第六十三回「正眼夏期講座」

Th_img_1033 今日から正眼寺で夏期講座。私は初めての参加です。
 本校の名誉校長である山川宗玄老大師が住職をお務めになる名刹です。かつて昭和の名僧(怪僧)梶浦逸外老師が住職をお務めになったことで、川上哲治さんら多くの著名人が自己を見つめて来た修行道場です(こちらの記事参照)。
 臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の開山でもある、関山慧玄が9年間修行した場所でもあります。関山慧玄と富士山とは深い関係がある(こちらの記事参照)。今日、富士山に残る古文書をコピーして、教え子でもある隠侍を通じて老師にお渡ししました。そこに関しましては、
 さて、今回の夏期講座、次のようなプログラムとなっております。

(1日目)
受付
開講式
法話 山川宗玄老師 「黙して語る」
斎座
講演 妹尾大先生 「創造的な働き方」の考察
坐禅
薬石
開浴
坐禅
ビデオ鑑賞
解枕

(2日目)
開静
朝課
坐禅
粥座
作務
提唱 山川宗玄老師 「無門関第39則雲門話堕」
坐禅
斎座
講演 野崎洋光先生 「黙して語る歴史の健食」
閉講式

 それぞれ多くの気づきを与えていただきましたので、明日からぼちぼちと別の話題の記事も交えながら報告がてら書いてゆきたいと思っています。では、またのちほど。
 

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2017.07.19

はなたれ小僧

Th_659a18e5471c59ac6640df66d3708ac9 日、日野原先生のご冥福をお祈りした記事で、「105歳ということでいえば、私なんかまだ折り返し地点にすら到達していない。本当に洟垂れ小僧です」と書きました。
 考えてみると、私はもうすぐ53歳になりますので、ちょうど折り返し地点をグルっと回っているところですね。ようやく往路。そう考えると楽しみです。
 かの渋沢栄一は「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」という名言を残しました。
 日野原先生は、この渋沢の言葉を地で実行した方ですよね。
 そして、私のような年齢の者は「洟垂れ小僧」ということになります。なるほど、六十、七十が働き盛りか。わかるような気がします。
 最近、渋沢栄一に縁の深い方とお話する機会が多いのですが、その方も七十台にしてまさに働き盛り。本当に素晴らしいバイタリティーの持ち主です。
 というわけで、私は立派な「洟垂れ小僧」ということで納得し、またそれが「まだまだこれから」という若い頃の精気を取り戻すための自分自身へのエールになるんですね。
 多くの50台の方々が、定年まであと何年とか、老後は何しようかななどと考え始めると聞きますが、私はまだまだ青年以下の少年(中二病?)なので、そのようなことを考えたことはありません。
 そうそう、そう言えば、最近、いわゆる青っぱなを垂らしている「ハナタレ小僧」を見ませんよね。昔はたくさんいましたよ。袖をテカテカにしてるヤツ(笑)。
 あれはいわゆる蓄膿症なんですってね。栄養環境がよくなり、子どもの蓄膿症が激減したようです。しかし、その一方で昔はなかった花粉症なんかが猛威を奮って、青っぱなではなくて、水みたいな透明な鼻水に苦しめられる子どもが増えてきたのは皮肉なことです。どっちがいいかって、青っぱなの方がいいですよね。ずっと楽だと思います。
 さてさて、「はなたれ」ついでにもう一つ。あさってから岐阜の正眼寺にプチ修行に行ってきます。学校の先生の中で、「はなたれ小僧」に認定された3人が寺に送り込まれるのです(笑)。
 せっかくですから、しっかり座って、「洟垂れ小僧」を卒業し、自我から解放された「放たれ小僧」になって帰ってきたいと思います(笑)。頑張ります。

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2017.07.18

『今日すべきことを精一杯!』 日野原重明 (ポプラ新書)

Th_51hsy5xrgl 野原重明さんが、105歳の天寿を全うされました。最期の最後まで、まさに本当の長寿長命、人間にとっての健康、幸せ、仕事の大切さを体現し続けた人生でした。
 このブログでも何回かご著書を紹介してきました。そこにも書きましたとおり、日野原先生と私とはあまりにもその命、人生の質が違いますけれども、ただ一つ共通していたのは、「一日一食」でした。基本夕食一食。
 日野原先生の食生活や仕事ぶりを拝見し、私もずいぶんと勇気づけられ、そしておかげさまで健康に、そして幸福に日々を過ごさせていただいています。
 あらためて、感謝の気持ちを表したいと思います。ありがとうございました。
 日野原さんのご著書で最近読んだのはこの本でした。85歳の時のご本ですから、20年ぶりの新装版ということになります。その時から20年もずっと現役でいらしたんですからね。本当に驚きですし、尊敬申し上げたいと思います。
 105歳ということでいえば、私なんかまだ折り返し地点にすら到達していない。本当に洟垂れ小僧です。
 「人は必ず死ぬのだから、今日すべきことを精一杯やりなさい」という思想は、非常に仏教的であるとも言えます。過去や未来にとらわれず、「今ここ」になりきる。それが難しいから人は「生老病死」に苦しむのです。
 医師はまさにその「生老病死」と対面する仕事。他者の「生老病死」を手助けするとも言える。その四苦は避けられないのだから、いかにその質を上げ幸福に転ずるか、それをアシストするのが医師の仕事とも言えます。
 そういう意味では、私たちは職業上の医師でなくとも、他人の、そして自分の「生老病死」をしっかりプロデュースしていかねばならないはずです。それはもしかすると、修行のような厳しいものではなく、もっと軽やかで楽しいものなのではないか、そんなことを予感させてくれるのが、この本です。
 まさに大往生された日野原さん。医学だけでなく、栄養学、哲学、倫理学、キリスト教や仏教、神道の立場から見ても、たいへん大きな遺産を残してくださいました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。 

Amazon 今日すべきことを精一杯!

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2017.07.15

35年ぶりの再会!

Th__20170716_82337 日は宿泊座禅の二日目ということで、朝4時に起床して作務、朝課、粥座などをこなし、8時からは中学校のオープンスクール。
 そして12時に仕事を終えて、すぐに横浜に飛びました。横浜某所にて、中学2年生の時の仲間でプチ同窓会。
 私は高校卒業時に会って以来なので、なんと35年ぶりの再会!
 まあ、なんとも不思議なご縁でこうして再集結することになったわけですが、もともとなんで中2の時、このメンバーで時々集まっていたのか…結局、その結論は今日も出ませんでした(笑)。
 懐かしい写真を見て思い出しましたが、たしかにクリスマス会なんかをやっていた。かと言って、教室で特別に中が良くていつも一緒にいたわけでもないし、グループ内でカップルができたわけでもない…不思議な男女混合グループだったのです。
 まあ、しかし、人間というのは内面は変わりませんね、大人になっても。外見は当然お互いに経年変化(劣化?)があるわけですが、まあそれもあっという間に慣れます(笑)。とういか、外見なんてあんまり重要ではないわけですね。一方、人柄というか、性格というか、基本的な生き方は、何歳になっても変わらない。
 考え方によっては、やはり中学二年生くらいで、それぞれ自我に目覚め、自我が確立してゆき、そしてそれが基本変わらないのだとも言える。
 そう考えると、今仕事で接している中学生たちの教育というのはたしかに重要だなと再確認させられるわけです。面白いですね〜。
 この仲間たちは静岡市立安東中学校に通っていました。私は転校生として東京からやってきた。都会から田舎へ(失礼)ということもあって、ちょっと最初はなじめなかったり、あるいはちょっと不満に思っていたりしましたが、この仲間たちのおかげで、実に楽しい中学生活を送ることができました。
 あっそうそう、安中時代、二つ下の学年にイエモンの吉井和哉くん(当時は一哉)がいて、今日のメンバーの一人の弟くんが彼と仲良かった。そんな関係でかな〜りレアな写真なども見ながら、吉井くんと私の不思議なご縁についても話しました。まったくねえ…あり得ないような話ですよ。
 そんな後輩吉井くんの12月の東京ドーム公演のチケットを4枚取りました。家族4人で行く予定です。なんだか不思議だなあ。
 ちょうど昨日でしたか、私が中1の時在籍していた東京の石川台中学校の同窓会の案内も来ました。こっちも懐かしいんだよなあ。行きたいなあ。
 みんなそれぞれの人生をそれぞれ頑張って、子育てもなんとなく一段落したり、仕事もゴールが見えてきたり、今、そういう時期ですから、あらためて自分の基礎を形成している「青春時代」を振り返り、懐かしみ、そしてその後のそれぞれの人生を学び合いたいと思うのでありましょうか。
 今夜はとにかく楽しかった。そして、よし、自分ももっともっと頑張ろうと思う素晴らしい機会になりました。みんなありがとう!また会おう!
 

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2017.06.27

菩薩の心

Th_img_0846 日は恒例の塩山向嶽寺接心。中学2年生を連れての宿泊座禅研修です。
 この素晴らしい修行道場(非公開寺院)で座禅させていただくのも8回目となります。
 美しく清らかな環境の中での座禅は格別。毎回自分や世界に対する発見があります。本当にありがたいご縁です。
 また、管長猊下直々のご法話も毎年大変勉強になることばかり。中学生相手に優しく易しくお話くださり、私にとってもまたちょうど「いい加減」のご垂言となります。
 今年のご法話で印象に残ったのは、「菩薩の心」でした。一言で言うなら「自分より相手」「自分より他者」を優先する心。
 一般に「菩薩のような人」とは善良で優しい人のことを指す言葉ですが、「菩薩の心」となると、もう少し深みがあるような気がします。
 相手の喜びや苦しみを自分のことのように感じるというのも難しいけれども、菩薩心はそれよりもさらに高い次元です。そう、「自分のことのように」というような自我もないわけですから、自分を一度通過するような過程も踏まず、ストレートに相手と一体化する、いや、相手と一体化というと彼我の二元になってしまいますから、自他不二、無我というか…いやそこにも「自」や「我」という字(概念)があるからだめですね、やはり「空」なんでしょうか、そういう最高の悟りの境地にならないといけません。
Th_img_0840 もちろん、ワタクシのような俗人がそのような境地に至ることは無理ですが、しかし、そういう目標というか理想があるのは悪いことではないと思います。
 今日の管長さまのお話にも目標という言葉が何度も出てきました。その目標達成のために「型」にはまってみなさいと。なるほど、型とは「自我」にとっては他人が作り出した「モノ」。そこにどっぷりはまることによって、すわなち他者の経験的カタ(=コト)を利用して、自我を去る経験をするわけですね。
 管長さまのおっしゃるように、だいたい人間の発達、進化を妨げるのは「自我」です。それを捨て去らざるを得ない状況を作るのが、たとえば禅におけるあの窮屈極まりなく、理不尽極まりない「型」なのです。
 しかし、私たちの自我もなかなか強情ですから、そのカタからはみ出てしまうモノがある。それこそが、その人の自我のエッセンス、いわば「個性」というものでしょう。
 教育活動として考えても、こうして型に生徒をはめてみて気づくその生徒たちの個性というのがある。なんでも自由にしたところで、個性なんか一つも現れてきやしない。そのあたりを戦後の一部の教育は誤ってしまったのでしょう。
 そして、「型」にはまりきった時、完全に自我は消え去ります。それが座禅の目的です。もちろんそこまで行ける人は少ないでしょうが、目標、理想、もっとわかりやすく言えば「予感」を抱くことは大切なことですね。


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2017.06.21

日地月合せて作る串団子星の胡麻かけ喰ふ王仁口

Th_0432 口王仁三郎の短歌です。これ、いいですね。大好きです。
 「にっちげつあわせてつくるくしだんごほしのごまかけくらうわにぐち」と読みます。
 ウチの家族はこれを家訓(?)としています。マジです(笑)。
 先日も、カミさんが職場の会議か何かで、「太陽と地球と月で団子を作って星のゴマをかけて食べたい」と言ったら、みんなシーンとしてしまったとか(笑)。そりゃそうだ。
 いや、ウチはみんな、このくらいのスケールで生きたい!と思っているのですよ。
 どうも世の中セコセコしてていかん。目の前のことに心を奪われたり、ちっちゃなプライドに振り回されたり、隣の人に嫉妬したり、顔を合わせないで互いに中傷合戦したり、逆に身の回りの小さな幸せに満足してしまったり…。
 というわけで、皆さんもぜひご一緒にこのスペシャル団子を食べましょう。理屈抜きです。
 こういうスケールで生きていたら、凡夫の日常の悩みなんか吹っ飛んじゃいますよね。
 で、団子食べたらお茶じゃないですか。お茶のスケールもすごいですよ。
 のちに王仁三郎を次のような歌も詠んでいます。さすが。好きだわあ。

日地月星の団子も食ひ飽きて今や宇宙の天海を呑む
 

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2017.06.14

南伸坊、関川夏央、みうらじゅんが語らう「昭和のエロ」

「昭和のエロ」は温かく、熱心だった
Th__20170615_91324 せずして、一昨日は「昭和」のモーレツ社員、昨日は「昭和」のプロレス、そして今日は「昭和」のエロということになりました(笑)。ま、私も充分昭和の残滓人間だということですね。
 別に昔は良かったとか、今どきの若者は…とか言いたいわけではありません。いや、やっぱり言いたいのか。そういう年齢になったということですかね。やっと大人になったと(笑)。
 で、今日は「エロ」のお話。あんまり面白かったので、ここにそのまま紹介します。文藝春秋に掲載された、南伸坊さん、関川夏央さん、みうらじゅんさんという、それこそ昭和の「おバカな男(もちろんいい意味)」を代表するような方々によるエロ鼎談。

南伸坊、関川夏央、みうらじゅんが語らう「昭和のエロ」

 そうそう、皆さん、私たちが左右の手で大切に抱いているものって何かわかりますか?
 答えは…こちらに書いたとおり「エロ」です(笑)!
 最近の若者(ああ、言っちゃった)、特に男は、草食系とか言って「エロ」にさえ執着を持たなくなっている。草食系、肉食系についてはこちらに書きましたね。
 私は(エセ)僧職系です。この前、座禅して空っぽの状態にしてアキバに行ったら、一気に肉が流入して満杯になりましたよ(笑)。
 「エロ」は妄想が99%ですから、その時代ごとにそれぞれのメディアがリアルの代替になってきました。それが紙とか人形とかだった時代はまだしも、今ではデジタルになり、そしてVRになり、さらにAIになっていく。
 いったいどうなるんでしょうね。戦争とかではなくて、「エロ」のヴァーチャル化によって、人類は滅びるんでしょうかね。
 というわけで、皆さん、左右の手からエロがこぼれ落ちないように頑張りましょう。

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2017.06.12

「ブラック」はお好き?(コーヒーの話ではありません)

Images 日、こちらに書いたように、豆を挽くようになってから、すっかり「ブラック」コーヒー党になりました。やっぱり「ブラック」がいい。
 「ブラック」がいいと思う人もいれば、ミルク入りの「マイルド」がいいと思う人がいるのは、コーヒーの世界に限りません。
 この前、W大学に通っている教え子が「就職決まりました!」と報告に来ました。景気もだいぶ良くなったのか、完全に売り手市場で、いくつも内定もらったそうですが、結局一番「ブラック」な某ゼネコンに決めたと(笑)。
 そう、彼は根っからの「ブラック」好きなのです。面接でも、「残業OK、上司との飲みOK、地方飛ばしOK…」などとアピールしたそうです。
 なんでも昭和のモーレツ社員に憧れているそうで、仕事で死にたいとまで言う(笑)。
 そう、そういう人間にとっては、今やり玉にあげられている「ブラック」企業こそが理想であり、世の中全部がマイルドになってしまうことに危機感すら覚えるのです。
 逆に「ブラック」好きでない人がブラック的な組織に入ってしまうと、違う意味で死んでしまうことがある。電通の話とかはそれであって、私は個人的には電通には昔のまま鬼十則とか標榜してもらいたい。
 私はどちらかというと仕事に関してはマイルド派なんですが、多少のブラックもまたたしかに自己満足の種になっているんですね。これは否定できません。
 たとえば立場上私にはいろいろな(他人の)仕事が降り掛かってくるわけですが、それは全然嫌ではありません。頼まれたら断らないというのが私の仕事上の信条ですので、逆に燃えたりする。満足感、達成感があるんですね。
 余計な仕事によって自分のスキルが上がり、経験値が上がり、評価が上がるのであれば、損することなどありません。そういう観点からすると、「同じ給料もらっているんだったら仕事をたくさんした方が得」ということになるんです。お分かりになりますか?w
 これってまあ「ブラック」とも言えますよね。仕事が給料には反映しないんですから。しかし、金銭欲は満たされずとも、自己満欲や自己実現欲は達成されるわけですから、得と言えば得です。
 これでたまに誰かがほめてくれたりすれば、ボーナスまで付く(笑)。そう考えると、やっぱり私も「ブラック」派なのかもしれません。
 しかし、私は家に仕事は一切持ち帰らないし、土日もほとんど仕事はしません。夏休みもちゃんと取ります。そういう意味ではマイルドに見えるでしょう。
 というのは、世間で言われるようになった「ブラック部活」の顧問の先生に比べると、全然マイルドだということでもあります。
 教育現場の問題についての研究で有名な内田良さんがかつてこんな記事を書いていました。

部活動はなぜ過熱する?

 実は「麻薬」であると。なるほど。
 ウチの学校でも、それこそ休日返上、元旦以外は部活の指導という先生がいます。そこまでいかなくとも、休日は試合や本番でつぶれてしまうという先生がたくさんいます。
 私はその部分(休日)に関してはマイルド(逆に言うと趣味にハード)なので、世間ではいわゆる「ブラック」とされる環境にいる先生方を、心から尊敬しています。感謝もしています。自分にできないことをしてくださっているので。
 しかし一方で、内田さんの記事にあるように、その「ブラック」状態が「大変だ」と言いながら、どこか満足している、快感を感じている人もいておかしくないと思います。
 もちろん、それを否定的にとらえているわけではなく、ブラック企業をあえて選んだ学生くんのように、そこにやり甲斐という人生の推進力を感じる人もいて当然であり、そうすると、なんでも「ブラック」と言って普通の人かいやがる環境を排除していくのはどうかとも思うのです。
 つまり、「ブラック」が好きという才能を持っている人に関しては、ぜひともそういう環境で活躍してもらいたい。そう思うのです。
 私も、上記のような「むちゃぶり」に関しては耐性があるという「才能」があるようですし、お金に執着が全然ないので、たとえば出張の手当なんかも一切もらっていません。学校に寄付しますと言っているんです。これだって、他人から見れば、出張費も手当も払わないなんてブラックすぎる組織だということになりかねませんよね。ま、これは私の特殊すぎる「才能」のせいですが(笑)。
 というわけで、この「ブラック」問題だけでなく、世の中ですね、昭和の時代と違って「無理するかっこよさ」が認められなくなってきていることは残念でしかたありません。
 少数派かもしれませんが「ブラック」好きな人たちもいます。その人たちの活躍の場も残してもらいたいですね。そう、男らしさの表現の場を奪わないでもらいたいのです。

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