カテゴリー「心と体」の86件の記事

2008.05.14

「Love or Money」のお話

Ai 「」か「金(カネ)」か。
 妙な問いですね。この問いはだいたい恋愛とか結婚とかのシチュエーションで登場するものです。本来はそういう場合、たとえば女性だったら、「彼」か「金」かと問うべきです。つまり、「彼」を愛するべきか、「金」を愛するべきかで悩むのが本当なんです。
 で、「彼」か「金」かという問いの、一般的な答は「金」です。それは普通に考えて、あなたの「愛」に答えてくれる可能性は、圧倒的に「金」の方が高いからです。なんの保証もない「彼」に見返りを期待するより、社会が担保してくれている「金」に見返りを求める方が得策です。
 「金」は「神」だと考えるとよくわかります。その虚構性や契約性、そして悪魔性においても、両者はとてもよく似ていますよね。信じる者は救われるわけです。あの、紙切れや金属の円盤に価値があると思い込み続け、そして、ある意味それに魂を売って(入信して=システムに参入して)、その恩恵(愛)を受けるべく仕事する(修行する)わけです。
 それに比べると「彼」は多少頼りない存在です。「彼」もあなたと同じく、「彼女」か「金」か考えているからです。彼もあなたと同様、あくまでも受容者であって、「神」のような与える者にはなかなかなれないのです。
 というわけで、私たちは「神」の「愛」にすがるように、「金」の「愛」に依存して毎日を生活しています。しかし、それは先ほど書いたように、あくまでも契約(システム)上のことであって、いつそれがスーパーインフレを起こすか、実は分かりません。突然価値を失って、愛を与えてくれなくなってしまうかもしれないんですね。「神」や「金」の「愛」は、保険や年金みたいなものでして、システムが破綻して、全てがご破算になる可能性もまたあるのです。
Kane たぶん「金」が「愛」を大安売りしたのがバブルで、それが破綻してしまったのが現在の不景気なんでしょうね。バブルとその崩壊は、「神」の世界でもよくあることです。そんな時、「金」や「神」は突然「悪魔」に変ったような気がします。ま、実は変ったのは自分たちなんですけどね。
 で、我々は、我々が作ったシステムの不備や負の可能性、そして自分が気分屋であることをよく知っているので、実はそのシステムに没入できないものなんです。だから、たまには「彼」や「彼女」を信じてみたくなる。あるいは依存してみたくなる。「彼」や「彼女」の「愛」を享受できる可能性はたしかに少ないのですが、ある種の幻想や夢を抱かせてくれるし、人間自体はシステムではなくて実在なので、完全なる破綻というのはないような予感がするからです。
 恋愛は基本的に1対1の実在どうしの関係、究極はそこに他者や社会のシステムが入りこむ余地がないわけですから、自分の意志でどうにかなるような気がするんですね。世間が相手だと自分の意志ではどうにもできないことばかりです。ま、そんな恋愛も所詮フィクション、幻想であって、世の中以上にままならないことがほとんどなわけですが(笑)。
 さて、それでは本当の「愛」というのはどこにあるかと言いますと、これはワタクシ的には「完全なる贈与」にしかないと思うんですね。愛とは、見返りを期待しない贈与。実在を賭すことができる贈与、つまり命をかけられるか、というなんだか俗っぽい結論になってしまうのです。
 で、実際にはそれは自己に対してか、あるいは半分自己である自らの子どもぐらいにしか与えられない。まあせいぜい孫くらいまででしょうか。あるいは逆方向に半分自分である親とかでしょうかね。そのあたりまでしか及ばない。あとは、みんな他人です(遺伝子的には人類皆兄弟ですけど)。
 そうなんです。他人には「愛」は与えられないんです。他人へは「親切」しか与えられない。だから現実的には「愛」は負けても「親切」は勝つという表現が生まれる。他人へは完全なる贈与はありえないのです。おわかりになりますか?
 そうすると、「彼」や「彼女」も通常は他人ですからね、本当は恋愛というのは「親切」ベースでなければならないはずです。だから、冒頭の問いに対する私の訂正もまた誤りなのでした。本当は、「彼」に親切にすべきか、「金」を信じるべきか、ですね(笑)。
 さて、いろいろと戯言を述べてきましたが、この記事の本当の目的は自分の考えを披瀝することではなくて、ある文章をおススメすることなのでした。
 今では教材にもなっている次の文章、経済学者の岩井克人さんが、数年前に朝日新聞のコラムに書いたものです。『宝島』で有名なスティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編と、自らの「貨幣論」を結びつけて面白いエッセイに仕上げていますね。これを読んで感動する生徒も多いのですが、皆さんはどう感じますか?
 私はちょっと違和感を覚えます。小瓶に住む悪魔は貨幣の悪魔性とは無関係だし、彼がハイパーインフレーションと読む部分は、私にはマイナス利子の比喩と読めますし、結末も「愛(倫理)」が「金(貨幣)」に勝ったというより、人の幸福は他者の命の犠牲によっているというメッセージに読めるんですが。
 ああ、そうか、そういう意味では、これはアル中のおっちゃんの「愛」の物語なのか!なるほど(笑)。
 まあ、とにかく時間のある方は読んでみて下さい。『瓶の妖鬼』はいい物語です。

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 先日知人から次のような内容の電子メールを受け取りました。
 「子供の頃、スティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編を読んで強い印象を受けた記憶がある。岩波文庫で最近復刊された『南海千一夜物語』に収録されている。『貨幣論』の立場から読み解くと、面白いのではないかと思うがいかが」
 スティーヴンスンとはあの『宝島』の作者です。私は急いで『南海千一夜物語』を注文して『瓶の妖鬼』を読んでみました。私も強い印象を受けました。今回は、その理由を話してみたいと思います。
 それは、ハワイ人のケアウェとその妻コクアの物語です。
 ケアウェはまだ独身であった時、50ドルで一つの小瓶を買います。それは中に恐ろしい顔をした小鬼が済む不思議な小瓶で、持ち主の願う事は永遠の命以外ならなんでも叶えてくれるというのです。ケアウェには、花が咲き乱れる庭に囲まれた王宮のような家を持つ夢がありました。その夢はたったの50ドルで直ちに実現されてしまったのです。
 もちろん、小瓶は呪われています。それを持ったまま死ぬと、持ち主の魂はその中の小鬼によって地獄に引きずり降ろされてしまうんです。難を逃れるには、ケアウェは生きている間にその小瓶を他人に買った価格よりも安く売らなければ売り手の元に戻ってきてしまいます。タダで譲ってもやはり戻ってきてしまうのです。
 小瓶の最初の持ち主であったアビシニアの王様は、悪魔に数百万ドルも支払ったといいます。だが人から人へ売り渡された数百年の間にその価値は大幅に下がり、ケアウェが買い取った時には50ドルにまで下がっていたのです。ケアウェは小瓶を友人のロパカに売り渡します。
 ある日、ケアウェはコクアという娘と出会います。二人は即座にお互いを好きになるのです。だがじきに、ケアウェは自分が不治の伝染病におかされていることを知ります。病をうつさずにコクアとの愛を貫く道はただ一つ。小瓶に病気を取り去ってもらうことです。だが小瓶は既にロパカの元を離れ、何人もの手を渡っていました。ようやく小瓶を探し当てると、その持ち主はなんと人から2セントで買ったという。ケアウェは泣く泣く小瓶を1セントで買い取ります。地獄へ堕ちる決心をしたのです。ハワイでは1セント以下の効果はありません。小瓶は死ぬまで誰にも渡せないのです。
 私は9年前に『貨幣論』という本を出版しました。小鬼の住む小瓶とは、知人が示唆してくれたように、まさに「貨幣」の象徴として読むことができるのです。
 人はみな貨幣を欲しがります。貨幣を持てば、どのような商品でも手に入れることが出来るからです。
 だが、貨幣の実体は、何の価値もない単なる紙切れや金属片でしかありません。その紙切れや金属片が1万円や1ドルの価値を持つのは、他人がそれを1万円や1ドルの価値として受け取ってくれるからにすぎません。そしてその他人が受け取ってくれるのも、さらに他人が受け取ってくれるからにすぎないのです。それゆえ、誰も貨幣を受け取ってくれないと人々が思い始めれば、実際に誰も貨幣を受け取らなくなってしまいます。ハイパーインフレーションと呼ばれる現象がそれです。その時、貨幣は急速に価値を失い、最終的にはその実体である単なる紙切れや金属片に戻ってしまうのです。
 そのことを極端な形で表しているのが小瓶です。それは一見すると、どのような願いでも叶えてくれる素晴らしいものに見えます。だが、その実体は地獄なのです。誰かが買ってくれなければ、持ち主の魂は小鬼によって地獄に引きずり込まれてしまいます。しかも、人から人へと売り渡される度に価格が下がるこの小瓶には、ハイパーインフレーションが始めから仕込まれているのです。誰かの魂が必ず地獄に堕ちるのです。そして、その運命がケアウェに降りかかったのでした。
 だが、話はまだ終わりません。この物語にはさらに、貨幣の論理を超越する論理が語られているのです。
 コクアは幸せなはずの結婚生活なのに、ケアウェが絶望しているのに気がつきます。その理由を知ると、聡明な彼女はフランス領タヒチでは1セントより小額の1サンチーム硬貨が流通していることを思い出し、ケアウェとともに移り住みます。
 しかし、タヒチでは誰も小瓶を買ってくれません。そこでコクアは意を決し、人を介してケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買い取ってしまうのです。だが、ケアウェはすぐにそのことを察します。今度はケアウェが、人を介してコクアから内証で小瓶を買い取る決心をするのです。
 貨幣を手に持つ人間にとって、他人はすべて自分のための手段に過ぎません。自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどのような人間であっても構わないのです。
 すべての人間がすべての人間にとっての手段となってしまう世界―それは、まさに地獄です。そして、そのことを単なる比喩ではなくしてしまうのが小瓶です。その持ち主にとって、すべて他人は自分の魂を地獄に堕とさないための手段でしかありません。いや誰か他人の魂を地獄に堕とさなければ、自分の魂が地獄に堕ちてしまいます。道理で小鬼は恐ろしい顔をしているはずです。
 だが、コクアとケアウェがそれぞれの相手に内証で相手から小瓶を買おうとした時、貨幣の論理が逆転します。二人は共に、相手を自分の手段とするのではなく、逆に自分を相手の手段としようとしたのです。本来何ものとも交換しえない絶対的な価値であるべき自分の魂を犠牲にして、相手の魂を救おうとしたのです。
 ここに、魂の交換が成立したことになります。だがそれは、同じ貨幣の価値をもつモノ同士の交換ではありません。二人がそれぞれ、何ものとも交換しえない絶対的な価値を一方的に相手に与えることによって、結果的に成立した交換なのです。それは、貨幣的な交換を超越したまさに倫理的な交換であるのです。
 そして、この交換には別名があります。「愛」という別名です。
 もちろん奇跡が起こります。
 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買い取ったアル中の水夫長が、お酒欲しさにそれをケアウェに売り渡すことを拒否してしまうのです。
 二人が末永く幸せに暮らしたことは言うまでもありません。

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2008.04.02

『三島由紀夫―剣と寒紅』 福島次郎 (文藝春秋)

Img270a_thumb 先輩の先生にお借りしていたものをようやく読みました。
 三島は私にとって大きな壁であり、いまだそれを乗り越えるどころか、それに対面しようとさえしていない人物です。
 最近で言えば土方巽、美輪明宏や寺山修司、あるいは赤塚不二夫、出口王仁三郎、さらに昭和天皇と、その周辺、外堀はこのブログでもずいぶんと扱ってきました。そこから浮かび上がる三島像はそれぞれ神秘的で魅惑的ではありましたが、どういうわけかその人本人について考えたり調べたりすることもなく、いや、それ以前にその作品すらほとんど読まないという不思議な事態。近くにある三島由紀夫文学館にも、あえて足を運ばないでいます。
 しかし、そんな自分に対して不安や不満はありません。なんとなくですが、来年あたり、そうですねえ、三島の自決した年齢くらいに私もなりますので、そのあたりから自分の中の三島が起動するような気がしているんです。だから、今はあえて外堀付近から彼をちらと眺める程度にしておきます。
 それなのにいきなりこの本か、と言われそうですね。しかし、この本は私にとってはいわば安全圏なのです。彼がゲイであろうと、福島次郎と肉体関係にあろうと、あまり驚くべきことではありませんし、それが彼の生み出した芸術や思想にとって、まあ全く影響がないとは言えませんが、本質であるとも言えないと思います。
 今からちょうど10年前ですね。この本は発刊されてすぐに発禁となりました。三島の遺族から訴えられたのです。表向きは三島の書簡を無断引用したという著作権に関する訴えでしたが、もちろん実際にはその衝撃的な内容への否定と反発であったわけです。
 正直私は大変に感動しました。二人の濃厚なベッドシーンにはたしかに気恥ずかしさを感じましたけれど、それ以上に人間三島に初めて出会えたことの方が私にとっては衝撃的でした。その衝撃は私にある種の安心を与えてくれたと思います。高い壁だと思っていた三島が、なんとなく等身大というか、自分の目線と同じ存在というか、いずれにせよ、私の中で神格化されつつあり、あるいは偶像化されつつあった三島が、再び人間の血を通わせたような気がしました。
 ものすごく繊細で弱々しく、そのために意識と肉体において「耽美」の鎧を身につけずにはいられなかった人間三島の姿がそこにありました。それを浮き彫りにしたのが、たまたま同性愛という形式であったというだけでしょう。形式の違いだと思えばなんでもありません。男女の仲という通常の形式においては、あまりに普通な人間性の発露のあり方だと思います。
 ところで、本書に先日お会いした細江英公さんの名前が出てきました。もちろん、三島の裸体写真集「薔薇刑」の撮影者としてです。この「薔薇刑」はいろいろな意味で重要な作品ですよね。改めて細江さんの力…それはカメラマンとしての力とともに人間としての力でしょうか…を思い知りました。私はとんでもない人を被写体にしてしまいましたな(笑)。
 ということで、この本は三島を神格化したい人は読まない方がいいでしょう。しかし、私のようにいずれ彼を身近に感じてみたい人には非常に重要な参考文献でしょう。フィクションとして読んでもそれなりに楽しめると思います。福島さんもそこそこの筆力のある方ですので。そういう意味で面白かったのは、福島さんが自身の作品を三島に送ったのに対し、三島がそれを評した手紙ですね。三島の文学的感覚の核心に触れたように感じました。
 再刊はありえないと思いますが、比較的簡単に手に入りますので、興味がある方はご一読を。

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2008.04.01

USBメモリーの洗濯

F90w ついこの前、USBメモリー購入〜大事なものは取っておくべきかという記事を書いたばかりなのに、またUSBの選び方の話か…と思いきや、選択ではなくて「洗濯」であります(誤変換ではありません)。
 そう、このたび、ためしに(!?)仕事上とっても大事なデータの入ったこちらのUSBメモリーをシャツの胸ポケットに入れたまま洗濯機でガラガラと洗ってみたのです。
 いつもは財布に入れてるんですけど、MP3プレイヤーにさし込んで音楽ファイルを再生したんですね。それで車から降りる時に、財布に入れるのは面倒だったので胸ポケットに放り込んだんですよ。で、あとはよくある展開。風呂に入る時にフツーに洗濯機にシャツを放り込んだと。
 同じ放り込む行為なのに、どうしてこうも意識が違うのでしょう。いや、「放り込む」という時点で何か「いいかげん」臭さがありますね。半分捨ててるような感じじゃないですか。大切なものであっても、放ってる(リリースしている)わけで、まあお賽銭なんかもそうですね、もう自分の所有でなくなる感じがある。
 野球のピッチャーなんかも、球をリリースする瞬間はとんでもなく集中し、念を込めているわけですよね。でも、一度自分の手から離れてしまえば、もうあとは運を天に任せるしかない。やはり、スポーツのような「かけごと」以外では、大切なものは放ってはいけないんですね。
 あと、思ったのは、胸ポケットって案外危険な存在だということ。心臓の所にあっていかにも「大切」という感じなのに、今までもいろいろな物をそこに潜ませたまま洗濯機にinしました。半年くらい前には、それこそ大切な大切なデータの蓄積された手帳を胸ポケットに入れておいて、見事カミさんに洗濯されました。その時はもう表紙以外きれいさっぱり溶けてしまって、まったく潔いほどに藻くずに帰しました。うん、胸ポケットはブラックホールだ。魔の四次元ポケットだ。
 で、で、今回の実験(?)の結果はどうだったのでしょう。
 ジャ〜ン!なんと予想に反して全く無傷の生還でありました!ちょっとビックリですね。
 カミさんが暗い表情でさし出したそのUSBメモリーはすでに渇き、見た目上は全く何事もなかったかのようです。たしかにこのメモリー、LEDランプなんていうものも付いてないし、つまり回路のようなものは存在しなさそうだし、表面に現れているのは金色の端子のみ。機密性…じゃなくて気密性は高そう、というか内部に「気」の入る空間もなさそうです。
 で、そんな期待と、やはり一方では不安というか覚悟のようなものを抱きながら、MacBookにさし込んでみたんですよ。そうしたら、数秒後、全くフツーに認識してるじゃないですか。ためしにデータを開いてみたら、あらら、全然問題ない。まるで何事もなかったかのように気丈に振る舞うメモリー。
 いやあ、すごいですね。なんとなくUSBメモリーというと電気製品のような気がしますよね。で、電気製品を洗濯するというのは、水責め洗剤責め回転責めでほとんど死刑に処すようなものです。だから普通は死亡を予想しますよね。しかし、フラッシュメモリーは強かった。
 冷静に考えれば、自ら電源を持っているわけでもないし、さっき書いたように回路があるのかないのか、いやあるけれど密閉されていて露出してないのか、たしかに従来の電気製品とは明らかに違うキャラも持ち主ですよね。
 というわけで、実験(?)は大成功というか、大失敗というか…。大切なものほど消えやすい、という理論が崩れたような気もします。いやいや、二度「放り込んだ」時点で、やっぱり大切じゃなかったんですね、きっと。

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2008.03.24

シック クアトロ4(Schick Quattro4)

Mens_sys_06_midnight02 今日は剃髪の日。いちおう禅宗の習慣に従いまして、「四」と「九」のつく日に剃ってます。5日に1回っていうことですね。これはたしかにちょうどいいサイクルです。ツルツルに剃っても、そうですねえ、4日目くらいにちょっと伸びたなあ、剃りたいなあと思うものです。ヒゲをイメージしていただければいいんじゃないでしょうか。頭の毛もヒゲと同じくらいの伸び方ですね。
 禅宗では剃髪の日を「四九日」と言うそうで、ある有名な禅僧の方はお戯れに「シック(Schick)の日」と言っておられました。もともとなぜ4と9なのかよく知りませんが(「死」と「苦」を剃るのかな)、たしかに1と6でも2と7でも3と8でもだめですよね。1のつく日だと10日〜19日も含まれちゃいますよね。2や3も同様。
 最近は当地方もようやく暖くなってきましたので剃ると気持ちいいんですけど、冬場はホント寒いんですよ。修行ですね。インドでは本来剃髪というのは刑罰だったようです。たしかに真冬のスキンヘッドは刑罰ですよ。頭の毛ってホント1ミリでもあるとあったかいんですよね。頭の毛の有難みがよくわかります。
 昨日の話、「大事なものはとっておくべきか」にも関しますが、そういう大事な髪の毛というものを捨てるというところが、つまり仏教における解脱への第一歩なのでしょう。こだわりや執着を捨てることの象徴…なのかな。お坊さんではない私は、どちらかというと逆にファッション感覚なんですが。ある意味余計な我執が生まれているのかも。
 さて、剃髪にあたって、わたしはどのような方法をとっているかといいますと、お風呂に入ったついでにゾリゾリとひげ剃りで剃っちゃいます。誰かに剃ってもらうということなく、自分でゾリゾリやります。禅宗ではこれはダメなんですよね、たしか。お隣の人に剃ってもらうんだそうです。それが和合なのだとか。一人でやるのは不和合。
 昨年まではこちらのプロ用バリカンで頭を剃っていましたが、今年になってからは、もう面倒くさいのでひげ剃りに切り替えました。で、いろいろと試した結果、やっぱりシック(四九)が一番いい。それも4枚刃のやつ。これはいいですよ。深剃りできれいにツルツルになるし、石鹸なんかをつけなくても全然痛くない。一時安い2枚刃の製品(F社)のを使ってたんですが、これはひどかった。きちんと剃れないし、きちんと剃ろうとすると、皮膚まで剃れてしまい(痛)、もう血だらけだし、血が止まってもヒリヒリして枕に頭がつけない状態になるし、学校では生徒に爆笑されるし、ホント刑罰でした(笑)。
 ちょっと値段は張りますが、いいもので剃るのが一番ですね。ただ5日に一回ずつ大量のヒゲを剃るようなものなので、すぐに刃がダメになってしまいます。替え刃もそれなりのお値段なので、経済性はあんまりよくないかもしれません。もちろん、床屋さんに行くよりは安上がりだと思いますが。
 お寺さんでは、昔はいわゆる普通のカミソリで剃りっこしてたみたいですが、あれはホントに危険だったようです。パートナーが下手くそな人だと最悪だったとか。くやしいからやりかえしたらしい(笑)。あるお坊さんの体験談です。今では私のようにT字型のひげ剃りを使っているところが多いらしい。やっぱりシックなのかな。あっそうそう、映画ファンシイ・ダンスには電動ひげ剃りでウィ〜ンと剃るシーンがありましたっけ。
 と、まあ一般の人にはなんの参考にもならないおススメでした。

シック・ジャパン

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2008.03.19

『快楽なくして何が人生』 団鬼六 (幻冬舎新書)

34498010 読むべし。これは名著ですぞ。人生の課題図書。本当にものすごく勉強になりました。
 これはもう聖典の領域です。何事も極めると悟りの境地に至るんですね。全編通して徒然草が引用されているんですけど、この本自体がもう現代の徒然草になってますよ。
 兼好法師のみならず、あの高僧もあの高僧も、いや釈迦自身もある意味快楽を尽くした結果出家し、世の摂理を知るに至ったわけじゃないですか。私にはとうてい達することのできない境地ですね。
 本当に読みながらウンウンとうなずくこと数百回。しまいには切なくて涙が出てきました。まさに「もののあはれ」…思い通りにならないことに対する嘆息ですよ。快楽の裏に切なさあり。
 私は勉強不足でして、実は団鬼六先生の官能小説を一冊も読んでいないんです。なんでかと言われると難しいんですけど、そうですねえ、たぶんあの表紙とタイトルにひるんで、買う勇気がなかったんでしょう。
 もうその時点で私には悟りの可能性はないとも言えますね。この本に書かれている驚愕の、そして抱腹の、しかし実に切ない団先生の快楽的人生に比べたら、いかに自分がスケールの小さいつまらぬ人間であり、また私の過ごしている時間というものがなんと希薄であることか。
 この前の赤塚不二夫先生もある意味同様かもしれませんね。英雄色を好むと言えばそれまでだし、そう片づけることによって凡夫は一つの諦めを得るわけですけど、ちょっとそのあたりについては検討の余地がありそうです。
 実はここのところ、私の周りでも数件、色を好む英雄とそこに関わる女性の話が続いていたんですね。そこに共通する要素というのもはっきりあったりして、では自分はどうかななどと考えたりもしていました。まあその結論はナイショとしまして(笑)、やはりこちらにも書いたとおり、創造的な仕事をする男の基本はそういう部分にあるんではないでしょうか。
 こういうことはなかなか学校では教えられないことなんですけど、実は人生や世の中の基本であり、中心的な構造であり、ほとんどの人があからさまには表明しないがしかし本当は最も興味を持っていることなんですね。
 今日はまた実に不思議なご縁があって、太宰治にゆかりのある方とお話をする機会に恵まれました。いろいろな意味であまりに幸運なことでびっくりしてしまったんですが、ちょうどこの本を読んだあとでしたし、場所も場所だったので、太宰の斜陽にあるこの一節を思い出してしまいました。

『この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、 このごろ私にもわかつて来ました。あなたは、ご存じないでせう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教へてあげますわ、女がよい子を生むためです』

 うん、この女の言葉に象徴されているように、実は女がこの世の中を堂々と回していて、我々男はそれに乗っかってちょこまかちょこまか動いているだけとも言えるなあ。団鬼六先生のこの自叙伝でも、そういう女の魔性的な部分と、男の狭小な嫉妬心と未練が繰りかえされていましたよ。
 私のまわりの女性及び自分自身を観察してみましても、やっぱり女こそ「萌え=をかし」で生きていて、男の方が「もののあはれ」で生きているというのがわかりますね。男の坊さんが圧倒的に多いのもよくわかります。女は刹那的ですからねえ。あの変わり身の早さ、温度変化は、男には真似できません。女には悟りなんてどうでもいいんです。男はある意味悟りに逃げちゃうのかな。
 それにしても、団先生の人生はすごいなあ。今も人工透析を拒否し続けてるんでしょうか。「鬼の快楽教」の設立は実現しないんでしょうか。相模湖のW荘には今も行っているんでしょうか。こんな方が中学校の教師をやっておられたとは…なんと素晴らしいことか。生徒に自習させつつ教室で官能小説を書く先生…私もやってみようかな(笑)。そんな本人の実態を知らない、同僚であるまじめな英語の先生を嫁にもらってるし。あっそこはウチも一緒か。
 こういうスケールの大きな男が今絶滅しつつあるんじゃないですか?私思うんですよね。女はもともと生産力を持ってるんですよ。でも、女だけでは深化、進化はない。やっぱり彼女らの天性の強烈な生命力に太刀打ちできるくらいのパワーを持った男がたまに現れて、それでちょっとかき回してやらないと新しい世界は開けないんだと。天の沼矛でコオロコオロってやらんとね。
 快楽を得る者は、その裏にある切なさに耐え得る者である…そんな気がしました。はたして自分は…これはまだ分かりません。ある意味只今検証中とも言えます。まだ諦めてない…かな?

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2008.03.05

『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』 北尾トロ (文春文庫)

16767996 教頭先生からお借りして読んでみました。以前、『裁判大噴火』を読んでどうもイマイチ小噴火で終わってしまったみたいなこと書きましたよね。やっぱり事態が事態なだけに不謹慎な発言(つまり噴火)は避けたのではないかと想像しています。
 こちらにの北尾トロさんの裁判傍聴記はですね、そのへん結構躊躇せず爆発してまして、スカッとしちゃいました。下世話なやじ馬根性的な観点からの発言が多発しており、逆に大丈夫かなと思われるほどです。実際、不快感を持つ人も多いんじゃないでしょうか。Amazonのレビューなんか見ますとね、やっぱり女性は特に腹立ててるみたいです。ごもっともですよ。
 まあ、ことが殺人やら強姦やら、そういうことですからね。特にトロさん、私たちフツーの男性のご多分にもれず、男女のドロドロ事件とか、痴漢とか、なんとなくそういう方に興味を持ってしまうわけですよ。傍聴は基本自由に事件を選択できますからね。ついついそういう方に行ってしまうのはよくわかります。テレビのチャンネルを選ぶようなものですから。
 そんなわけですので、阿曽山さんの本ではどうも奥歯に挟まったような感じがしてたモノがですね、スッキリ取れたっていう感じです。これは、連載されていた雑誌の性質にも関係しますね。阿曽山さんのは月刊「創」、トロさんのは月刊「裏モノJAPAN」です。ま、そういうことですよ。表街道か裏街道かっていうこと。
 それにしても、正直裁判の傍聴って面白そうですね。ぜったいはまりますよ。お金もかからないし、ドラマとかと違ってガチンコだし。教頭先生とも一回行こうかみたいな話になりました。実際、のぞき見的な教育者らしからぬ気持ちもあります…いやいや、そうじゃなくて、やっぱり勉強ですよ、勉強。だって、裁判員制度も始まることだし、我々もいつ傍聴人ではなく、傍聴される側にならないとも限らないんですから(笑)。
 それ以前に何事もお客さんというのは大切ですよね。格闘技をはじめとするスポーツも、やっぱりお客さんによって選手の頑張り方が違うじゃないですか。私もプロレス観に行ったりする時は自分も選手と一緒に試合を作ってるつもりになりますよ。この前の日曜日のノアの試合なんかも、まあこれはテレビで観てたんですけどね、杉浦選手なんかリングサイドにきれいなお姉ちゃんが何人かいたんでメチャクチャ張りきってましたよ。いや、気が散ったのか、途中で戦線離脱してたってけな(笑)。
 この本でも大量の女子高生が傍聴しているケースが紹介されてました。裁判官も検察官も弁護士もみんな頑張る頑張る。そういうものですよ。そういう意味も含めて、一見堅苦しい「法」の世界や「法」の言葉の中に、逆に鮮明に照射される人間臭さというのが面白いんでしょうね。みんな人生や、場合によっては命がかかってるんですよね。それこそ不謹慎かもしれませんが、そこに見える人間の愚かさや悲哀みたいなものが、まあ他人事だと楽しいんですよ。
 そして,その不謹慎さ自体の魅力というのもありますね。ドラマや小説や映画やコミックならいくらそこに耽溺しても許されますよね。でも、こっちは事実ですからね。なんか微妙にうしろめたいじゃないですか。法廷というその「場」や「空気」とのギャップに緊張して、その緊張具合に萌えるみたいな(笑)。そう、それこそが不謹慎さの正体ですよね。相手の心のステージと自分のステージがあまりに違うけれど、人間にはお互いそれは見えないので、黙っていたり、あるいは表情に出さなければ基本伝わらないわけですよ。そういう「本当のことを言わないで相手をだましている状態」、潜在的な「心裡留保(法律用語です)」かな、それってなぜか快感なんですよね。それも最もお堅い席上ですから。スリルっていうのかなあ。行ったことのない私でもドキドキしますよ。まったく人間って変な生き物ですね。
 というわけで、いつか私も傍聴席に座ってみたいですね。退職後にゆっくり…そうだ、まず親父にすすめてみようかな。議会とかしょっちゅう傍聴してるみたいだし、法律関係好きだし、メモ魔だしね。

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2008.02.02

『ブッダ―大人になる道』 アルボムッレ スマナサーラ (ちくまプリマー親書)

48068749 この本の紹介の前に、ハッとわかったことから。
 昨日の記事で紹介したグールドのバッハを聴きながら、一つ鮮明に腑に落ちたことがあったんです。それを教えてくれたのは、なんとお釈迦様でした!(笑)
 グールドって個性的だよなあ、唯一無二だよなあ、不二だよなあ…これってやっぱり個性なのかな…と考えていたんです。グールドって自分の個性を表現しようとして、こうなったのかなあ、なんか違うような気がするよなあって。
 そしたらお釈迦様がさっと入ってきて簡単なことを教えてくれたんです。いや、別にお釈迦様がここに現れたとかではなくて、お釈迦様が語ったこととグールドの音楽が突然リンクしたってことです。
 この素晴らしい音楽、真似のしようがない個性は、グールド自身の個性じゃないって。彼は自分の個性の表現としてバッハをハープシピアノで弾いたのではない。どちらかというと逆。
 バッハの音楽(ここでは楽譜です)と、ハープシピアノという楽器と、共演者と、テレビ番組という「場」と、とにかくいろいろな要因が重なって作用して、こういうグールドが立ち現れたと。枝葉を捨てて根幹の部分だけで言ってしまえば、バッハの(音楽の)個性がグールドというメディアを通じて立ち現れたと。
 そう思ったらすごくいろんなことがシンプルに見えてきました。そして自分もいろいろと楽になった。個性尊重とか、自己主張とか、自己表現とか、今まで考えあぐねてきたことが、実はあんまり意味がないということがわかって、ちょっと安心しました。
 イチローの番組を観た時に少し予感があったんです。あ、これはイチローの個性じゃないなって。でも、その時は、じゃあそれは何?という答えは出なかった。それが今日分かりました。もしかして「悟った」のか?(笑)
 実はこの本を読んだ影響が大だったんです。ということは、やっぱりブッダが教えてくれたっていうことですかね。ある意味こうして書いていることは、私をメディアとしてブッダ(の教え)が語っているとも言えますよね。
 つまりそういうことなんです。ブッダの語った「真理」。究極の真実。自分が「自分」だと思っているものは、実は「自分」ではない…無我。
 「苦しみ」は普遍であること。その原因が「自己への執着」であること。全てのものは「無常」であり、変化すること。全ては「因果法則」に則っていること。「苦悩」から脱するには、そうした真理を理解し、「自己」への執着を捨てる、すなわち「智慧」によるしかないこと。
 この本はそうしたブッダの教えの核心部分を、本当に分かり易く(中学生にも分かるように)語ってくれています。著者はスリランカ出身の僧侶、『般若心経は間違い?』でも紹介したアルボムッレ・スマナサーラさんです。
 この本は仏教の入門書として最高のものでしょう。こんな私にも本当によく理解できました。読みながら、「うんうん」と何度うなずいたことか。そう、実はブッダの語ったことは実にシンプルでブレがなく誰にも分かり易いことなんです。それを実際に優しく易しく書くというのは難しいものです。仏教は、勉強すればするほどに、余計な「知恵」ばっかり身について、その実体から遠くなりがちなんです。
 私はこの本で久々に仏教の本質の部分に立ち返ることができたわけです。それがものすごく気持ち良かった。ああ、これだ、これだ。いつも感じていたのに、自分ではうまく表現できなかったこと。そうだ、単にお釈迦様の言葉自身に帰れば良かったんだよなって。
 スマナサーラさんは、ブッダの言葉に基づいて、「生きていること」「心」とは何かというところまで語ってくれます。そして、実生活でこうして生きれば「楽」になるし「楽しい」よと、アドバイスしてくれるんです。若者相手に書いたつもりでしょうが、いえいえ、私にピッタリの内容でした。なんか、救われたような気がするなあ。
 それで、なぜかグールドを観ていて、この本の内容が思い出されたんです。そして「グールドの個性」だと思っていたものは「グールドの個性」ではなかったと気づいて、なんかすっきりしたわけですね。
 そして、自分の音楽や、仕事や、またこのブログにおける表現なんかについても、同様のことが理解された。そしたら、急に楽になったし、自身すら出てきたんですよ。お分かりになりますか?そんなこと皆さんとっくにお気づきなのかもしれませんね。私は遅ればせながら本日「プチ悟り」に至りました。なんか恥ずかしくなってきたな。ま、とにかくこの本とグールドのおかげです。感謝いたします。

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2008.01.22

『イチロー・トークスペシャル』(NHK プロフェッショナル仕事の流儀)

Photo01 受け入れることと受け入れないこと。今日のイチローのトークは面白かったなあ。
 私にとってはアイドルであり、神であり、物の怪であり、師匠であり、いや唯一無二のエンターテイナー・イチローである彼。彼の言葉は不快なほどに私を刺激しました。すごいなあ。
 不快なほどに、と書きましたが、おそらくお相手した茂木健一郎さんもちょっとカチンと来たんじゃないでしょうか(住吉美紀アナはキャーキャー言ってただけ…笑)。だって、いきなり「茂木さん…本気で笑ってないですよね」ですから。年上の学者さん(タレントさん?)をつかまえていきなりこれですからねえ。いくらイチローと言えども失礼でしょう(笑)。いや、茂木さんがやられるのってあんまり見れないんで、こちらとしては楽しかったんですけどね。やれやれ〜みたいな感じで。
 彼はとにかく自分流にこだわっています。自分の感覚を信じきっています。人のアドバイスをはなから拒否するわけではないと、自ら言い訳していましたが、本当のところはやっぱり自分の感覚のみを信じています。
 その自分の感覚を信じるということの二面性を、私ははっきりそこに読み取りましたね。
 どういうことか、またまた私の「モノ・コト論」で説明しましょう。
 彼の言う感覚というのは、例えばバットという道具(物)から伝わってくる感覚です。すなわち自己の外部たる「モノ」ですね。それらから何ものかを受信して、イチローの脳の中で起きた何ものか、それが「感覚」です(クオリアなのかはよくわかりません)。これはワタクシ的に言うと、「モノ」と「コト」の中間に位置する状態です。何かあるんだけれど、言葉や理屈では説明できない。しかし、何モノかがあるコトだけは確かだ、という状態です。
 で、突然茂木さんの方に行っちゃいますが、彼は彼の感覚をすぐに「言葉」にしてしまうんですね。これは実は私もそうなんでよくわかるんですよ(もちろんレベルは違いすぎますが…)。すぐに理屈をこねてしまう。言葉にするコト、言葉にできるコトに快感を覚えてしまう。これはまさに私の言う「コト化」です。情報化。内部化。不変化。人間のサガです。
 イチローはそれを言葉にするんじゃないんですよね。いや、今日も言葉でたくさん語ってましたが、もういつもそうなんですけど、彼の言葉はほとんど「無門関」なみです。正直意味のあるようなないような。なんとなくケムに巻かれているような。実は答えがないような。まさに禅問答の本質に近いところがあるんです。お前らどうせ分からないだろ、そこから出発しろ、みたいな。
 だから、彼は、たとえば茂木さんの言葉にいつも同意しないんです。同意する時は、「はい、そうです」とは絶対言わないで、「そんなの当たり前じゃないですか!」とか言ってしまう。否定したり、微妙に外したりするのはもちろん、同意する時でも、常に上に立とうとしている(実際上なんでしょうが)。これはまさに老師の恫喝にも似ていますね。一つの正解を出した途端、「そんなのは当たり前だ!もう一度坐り直して来い!」って言い出すんですよ(笑)。
 さっき書いた通り、茂木さんは「コト化」が大好きな方です。で、イチローはそういう他人の脳に発生した「コト」は基本信じないし受け入れない人なんですね。一方、バットやボールが教えてくれる何ものかは信じて受け入れるわけです。つまり、「コト」は受け入れないが「モノ」は受け入れるということですよ。そういう意味では、まさに彼は職人に近いですね。モノによって成長させられていく。モノの中に自らの到達点を見る。自分の中じゃないんです。
 今日は感心するとともに、ちょっと不快になりました。というのは、イチローはああいう神ですから全然いいんですけどね、最近の若者の傾向として、「はい、そうですね」と言えない人が多いものですから、私も日常において茂木さんが体験した不快感を得ることがたびたびなんですよ。「っていうか…」という返しが多すぎる。イチローレベルなら許せますけど、一般人は一般人らしくもっと謙虚になりましょうよ。「っていうか…」の後の内容が貧弱すぎるんで。なんてね。つい日頃思ってることを言っちゃった(笑)。っていうか、自分もそうじゃん。
 さて、私、正月二日のスペシャルを不覚にも見逃してしまったんですが、来月再放送するということで少し安心しました。楽しみです。トークスペシャルを先に観たのは正解だったかもしれませんね。

イチロー・トークスペシャル

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2008.01.04

『医療の限界』 小松秀樹 (新潮新書)

10610218 小松さんが繰り返す「不確実性と死を受け入れられるか」という課題…これはまさに私の考える「もののあはれ」そのものではないですか!
 医学部受験の生徒のためにと読み始めたこの本でしたが、興味の対象はすっかりそっちへ行ってしまいました。そんなこと考えてこの本を読んだ人もそうそういないだろうなあ。
 いえいえ、本文中には「武士道」「無常観」「葉隠」「渋江抽斎」なんていう言葉も時々出てきます。すなわち、小松先生自身、「もののあはれ」とは言っていませんが、そういう日本古来の感慨や思索がなくなってしまったことを憂えているのです。そして、それが現在の医療崩壊を生んでいると。
 たしかに、私たち患者は、医療に完璧(確実性)を求めがちです。そして、いずれ必ず訪れる「死」、あるいは医療の不確実性に伴う死のリスクについて、思いを馳せようとしない。逃げ、そして医師や薬に依存する。期待と結果を混同する。
 小松先生は、そうした状況の原因の一つとして、「想像力の欠如」を挙げています。私も同感です。先ほど死に思い馳せないと書きましたが、これも想像力の欠如の一つです。そして、医者も自分と同じ人間であって神ではないということ、あるいはその人間が大変厳しい環境の中で仕事をしているということすら想像できない。そこにモンスター・ペイシャントが生まれます。自己愛の怪物です。
 モンスターで思い出しましたが、この本で書かれている医療の現状は、教育界にも完全に当てはまりますね。モンスター・ペアレントです。あるいはモンスター・スチューデント…いや、生徒はいつの時代もカワイイ怪物ですから、それを言っては仕事になりませんね(笑)。
 しかし実際教育界で起きているワケの分からない状況というのも、まさに想像力の欠如によるものであります。生徒、親、教師の全てに想像力が足りない。お互いに思いを馳せるのではなく、ただただ期待し結果を混同し続ける。
 この本にも書いてありましたが、これは医療や教育の市場経済化の結果でしょう。紹介されていたアメリカの医療の実態には本当に驚きました。そこにヒューマニズムなんてものはかけらもない。カネ、カネです。私、もともと新古典派嫌いだったんですけど、ますます嫌いになっちゃいましたよ。市場原理ってそんなに魅力的なんでしょうか。金持ちはもっと金もうけしたいんでしょうか。
 さてさて、私のフィールドである「もののあはれ」に話を持って行きます。繰り返しになりますが、私の考える「モノ」とは「不確実性」そのものです。「自分の意志や知覚の外にあり、不随意であるもの」「常に変化し固定できない存在」です。それに「ああ(aha!)」とため息をつくのが「もののあはれ」です。
 ため息をつくというのは、単にガッカリしているわけではありませんね。感心したり感激したりした時にも、私たちはため息をつきます。また安心した時にもふっと息をもらします。そこなんですよ。いかんともしがたい運命によって、我々は常に翻弄され、予想外ないいことや悪いことに直面して生きなければなりません。それに対して、「仕方ないな(哀れ)」でも「ありがたいな(天晴れ)」でも、とにかく受け入れる時に「あはれ」となるわけです。
 この前の百人一首についての記事に、「もの思ふ」が多いというようなことを書きました。これがすなわち「思いを馳せる」「想像力」なんです。思い通りにならないことを受け入れるために、結局は自分と闘っている姿なんですね。決して消極的な悲観的な態度ではありません。そこに「歌」や「物語」が生まれるわけですから、それだけのエネルギーを内在した行為、思索なんです。
 今、私たちは「コト」ばかりを求めます。思い通りになり、確実で、不変な「コト」があると信じて、自分を含めた世の中が「モノ」であるということを直視せず、経済や科学の道をひた走っています。
 繰り返します。世の中の全ては「もの」である(無常である)というのが、唯一の「まこと(真実)」だということを忘れてはいけません。今こそ「もの思ふ」「もののあはれ」の復権を願います。

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2007.12.24

toto当せん!?

Toto これはクリスマスプレゼントなのでしょうか、それともちょっと早いお年玉?
 toto当たりました。6億円です…なわけない。4080円です。
 miniBIGの3等です。miniBIGは初めて買ってみたんですが(1口200円を5口)、いきなり当たってしまった。これまで1等6億円のBIGを数回買ってたんですけど、まったくかすりもせず、当たる予感が全然しなかったんで、今年最後のチャンスはminiに切り替えてみたんです。
 いやあ、実はですねえ、私2等だと思ってたんですよ。九つの試合結果を全部当てると1等で100万円くらい。一つはずれで2等、2万円くらい。で、私は試合の結果だけ見てたんで、一つはずれの2等だと思ってた。やった!2万円だ。メガネでも作るかなって思ってたんです。で、当選照会したら3等だって言うじゃないですか。ありゃりゃ。
 実は一つの試合が延長戦で勝負がついていたんですね。つまり正規の試合時間の中では引き分けだったわけです。それを私は一方の勝ちとしてしまっていた…単に結果をよく見てなかっただけです。まあいいや。元は取れたから。BIGの購入費のことを考えれば、ちょうどトントンくらいでしょう。
 サッカーくじtotoの中でも、BIGは私のようなシロウトには買いやすいくじです。自分で勝敗を予想しなくていいんで。ただネット上で「購入する」ボタンを押すだけです。自分で予想するタイプのくじだったら面倒くさくて買わないでしょうね。
 第一予想するほどの知識もない。私は特別サッカー好きというわけではありません。試合を観ることもほとんどありません。それぞれのチームの戦力や個性なんかも全然わかりません。だから本当に宝くじと一緒なわけです。
 ただ、今回なんかもあと数試合になってくれば、やっぱり試合の経過が気になるわけで、普段は見ない速報サイトなんかを頻繁にチェックするようになる。で、全然ひいきでもなんでもないチームでも「よし!行け〜!」「そのまま守りきれ!」と応援するようになる。まあこうしてサッカーへの興味を引くというのが、このくじの大きな目的の一つなんでしょうね。
 今シーズンはこれで開催終了です。来年はminiBIG一本で行こうかな。6億円もらってもどうしていいか分かりませんし、人生変わっちゃうような気がして怖い気もする(その前に当たらないって)。100万円くらいだとちょっとうれしいじゃないですか。現実味があって。それにしても14試合(BIG)と9試合(miniBIG)とでは、ずいぶんと「当たりそうな感じ」のレベルが違いますね。ま、数学的に言えばたしかに雲泥の差があるわけですけど、そういう確率の実感みたいなものって、なんとなく面白いですし、この予感みたいなものに、我々は動かされて日常を過ごしているんでしょうね。恋愛とかもそうかもね。
 予想可能な「コト」と予想不可能な「モノ」の間、虚実皮膜の間の妙こそ、「くじ」や「占い」の面白みです。全部わかってしまってもつまらないし、全部わからなくてもつまらないということですね。
 あっ、しまった!年末ジャンボ宝くじ買うの忘れた。こっちも当たるわけないとはわかっていても、ついつい買ってしまうんですよね。私なんて数十年買い続けて、3000円が数回当たっただけ。どう考えても赤字です。夢を買うとか言いますけど、夢には裏切られてばかり。
 ところで「くじ」という言葉ですが、語源はなんなんでしょうね。中世の文献に「くず」という動詞の用法が見られます。ザ行の上二段活用ですね。だいたいイ段で終わる和語は動詞の連用形であることが多い。ただ、この「くず」に関しては用例が少ないようでして、「ググる」みたいに名詞が動詞化した可能性も捨てきれません。
 私にとっての次の「くじ」は初詣での「おみくじ」でしょうかね。「おみくじ」とはもちろん「くじ」に二つの尊敬(美称)の接頭語がついたものです。「おみこし」とか「おみき」と同じですね。そうそう、「おみおつけ」ってすごいですよね。単なる「付け物(ここでは汁物のこと)」に三つも美称をつけてしまう日本人って。「御御御付け」、いいですねえ。

toto公式

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2007.12.19

『愛は負けても親切は勝つ』

Shinsetu 今日はバンプのニューアルバムを聴いたのでそれについて書こうかとも思いましたけど、もうちょっとじっくり聴き込んでからにしようかな。それにとっても重要な問題、ちょうど今から書こうとしていることが彼らの音楽や言葉に含まれているんで。
 それで今日はこれを書きます。とっても重要なことです。昨日放送された「爆笑問題のニッポンの教養リミックス~総集編~」の録画を観てビビッと来ました。何かが氷解。そして別の何かが結氷(笑)。
 今シーズンの同番組、けっこう見逃していた回が多かったので、この総集編は助かりました。特に気になっていた10月30日放送「ひきこもりからセカイへ」の一部を観ることができたのは非常にうれしい。太田と全く同様に、高校時代友達のいない心のひきこもりだった私には、とっても興味あるテーマ。そして、先生はサブカルチャー批評でもカリスマである(というか私はそっちの彼しかよく知らなかった)斉藤環さん。爽風会佐々木病院の精神科医で精神医学が御専門の先生です。
 私の言葉を代弁してくれる太田。「外に開いていくのと内に閉じていくのは同じくらいのスケール。むしろ、中に行った方が広いんじゃないか」私もその通りだと思います。外は時間にも空間にも思いっきりしばられますからね。斉藤先生も若い頃に長く思索に沈潜することによって生まれるものがあることを語ります。
 もう、この時点で私は一人うんうんと得心していたんですけど、次の言葉、今年亡くなったカート・ヴォネガットの言葉を先生の口から聞いた時、何か雷が落ちて空が裂けるような感じがしました。
『愛は負けても親切は勝つ』
 太田はさすが「KANが聞いたら怒っちゃうね」と即妙にボケました。そして私は気づかされます。ああ、そうだ。そうそう、「愛は勝つ」の違和感だ。
 もうすぐクリスマスということもあり、また今日のバンプのアルバムを聴きながら考えたことでもあるんですが、キリストの愛とか神の愛が、もし、もしですよ、やっぱり単なる愛であって、斉藤先生が我々人間の愛について語ったのと同じように「自己愛」の危険性をはらんでいたらどうしよう…イエスやゴッドに怒られちゃうかもしれませんね…でも、こういう検証って大事なんじゃないでしょうか。たとえ神の愛やそれに類似する種の愛があったとしても、それをただ無条件に無思索に無懐疑に受け入れて賛美するだけでいいんでしょうか。
 どうも私はそこんところが気になっていたのですよ。もしかして神もイエスもあるいは仏陀も、自己愛が強くて我々衆生を救おうとしているのかもしれない。神仏への冒瀆と言われてもいいんです。そういう検証って、結局自分の「愛」に対する検証になるわけでしょう。
Shinsetsu 私は基本的に「愛」という言葉を信用していません。いや信用するところまで来ていないというのが正しいかもしれない。その言葉を信用できるほど、私自身の愛の実体を見極めていない。みんなはどうしてああいうふうに簡単に言葉にできちゃうんだ?
 以前エッセイ「大切」に書きましたね。amor(love)の訳語としての「大切」について。大切っていい言葉なんですが、これも実は「御身大切」ということがあり得るわけです。自分が大切だから、大きく切ないから、だから他者に施すということもあって当然です。とっても意地悪な言い方をするなら、聖書におけるイエスのスプランクニゾマイだって、もしかすると「御身大切」かもしれない。彼は自らのはらわたのわななきに突き動かされているんですから。
 そうすると、今日語られた「愛は負けても親切は勝つ」というヴォネガットの言葉(実際は彼の読者であった高校生の言葉だそうです)の意味は非常に重要に感じられます。そう、「親切」です。親切心は負けません。「愛」はどうしても相互的になります。聖書にも書いてあります。無償の愛と言っても、それが相互に要求されれば、それはやはり契約になります。愛し合うってことですね。それに対して、親切は一方的でありうる。もちろんお互い親切にし合うということもありますし、見返りや報酬や「情けは人のためならず」を期待するレベルの低い親切もあり得ます。しかし、そうじゃない純粋な親切の存在も想定することができるじゃないですか。とりあえず「自己親切」っていうのはない。
 私は「愛」は信用できないけれど、「親切」は信用できるんですね。自分で言うのもなんですが、自分の生き方、仕事の仕方はこれだと思っています。親切にしてやることしかできないんです。愛するなんて大それたことは誰に対しても、何に対してもできません。
 相互的なものを要求する(目指す)ということは、その要求に応えないものを敵視する危険性をはらんでいます。これももちろん自己愛の裏返しです。世の宗教にまつわる戦争はこれが原因ですよね。そういう意味でも、やっぱり「無償の」というのは難しい。標語として掲げてしまったけれど、我々凡人にはとっても難しいのです。同様に「利他」「布施」というのも難しい。子どもを愛するように…というのも他者に対しては無理です。なぜなら親子の愛は遺伝子という自己への愛にほかならないからです。
 そう考えるとジョン・レノンは鋭いよなあ。 Love is wanting to be loved. とか普通に歌っちゃうんだもんなあ。
 ところで「自己親切」ってあり得ないんでしょうか。人にも自分にも親切にするって悪くないような気がしますね。今度はそこんとこを検証してみようかな。来年のテーマはこれかもなあ…。

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2007.12.11

『ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル』 ジャンボ鶴田 (ナツメ社)

プロレス流筋力パワーアップ・トレーニングとスーパータフネスの秘密
Img10174022703 これは鶴田ファンならずともプロレスファンなら絶対に持っていなければならない、まさにバイブル。発売当時から買おう買おうと思っていましたが、鶴田さんの死、そして絶版ということでなかなか手に入れられず、最近ようやく古書で買いました。
 この本が出版された頃、鶴田さんはプロレス界から引退しました。レスラーとしてピークを迎えていた時、突然肝炎を患ってプロレスの一線を退き、筑波大学の大学院に進学(その時の受験勉強について書かれたのがこちら)、修士課程を修了し、慶應大学や中央大学で教鞭をとりました。そして、引退宣言ののちアメリカへ留学。ボートランド大学に教授として迎えられる…。
 まさに怪物級の人生でした。怪物的文武両道。この本の情報の質と量もまたすさまじい。それまでのプロレスラー人生で得たものと、大学院での研究で得たものの両方がたっぷり詰まっています。章ごとに見どころを紹介しましょう。
 まず、INTRODUCTION「鶴田友美はこうしてジャンボ鶴田になった」。これは鶴田さんの自伝です。女の子のように小さかったので「友美」…それが世界の怪物になっていく過程。それこそナチュラルパワーの源泉です。自然の中で遊び、働き、学んでいる中で培われた筋力。山梨県民としては非常に嬉しい。あの牧丘の美しい風景と急な坂道(そうそう鶴田のふるさとについてはこちらに書きましたっけ)。
 そんな自然児は神様からとんでもない才能をもらっていました。あらゆるスポーツをこなすだけでなく勉強もできる。なにしろ中央大学法学部に一般入試で合格してるんですからね。そして、バスケットボールからレスリングに転向して2年足らずで日本一になりオリンピック代表になる(そうそう、ミュンヘンリオリンピックではこちらの神と一緒だったんだよなあ…怪物と神、すごいですねえ)。
 続いてPART1「ナチュラルパワーへの道」。ここが大学院での研究内容なんでしょうかね。日常の中で鍛えた生活筋力や、様々なスポーツを経験することで得られる筋力がいかに重要かを唱えています。勉強になる内容です。
 そしてPART2「私が戦った手ごわいヤツらのナチュラルパワー」。ここがマニア的にはたまらない。往年の名レスラーや今トップの当時の若手と戦った鶴田さんならではの各レスラー評です。とりあげられているレスラーは23人。え〜い、全員名前書いちゃえ!知らない人にはワケわからないと思いますが。
 ルー・テーズ、カール・ゴッチ、バーン・ガニア、ザ・デストロイヤー、ミル・マスカラス、ニック・ボックウインクル、フリッツ・フォン・エリック、アントン・ヘーシンク、ビル・ロビンソン、ハーリー・レイス、リック・フレアー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、三沢光晴、川田利明、小橋健太(建太)、田上明、天龍源一郎、ジャイアント馬場。
 ちなみにナチュラルパワー度が一番高い(95%)と評価されているのはルー・テーズです。最近こちらのDVDで老テーズ(失礼)のすさまじいパワーとテクニックを見ていましたので、超納得です。とにかく、ほかのレスラーについても、実際に肌を合わせた者でないとわからないであろうことが満載でして、感動しきりであります。
 さて、次PART3「スーパーファイターの必殺技を支える筋力」。ここでは、プロレスの代表的な技と筋力との関係が述べられます。ここは我々一般人にはあまり役立たないかもしれませんね。だって、こんな技日常でかけませんし受けませんから(笑)。でも、それぞれの技に関する「パワフル解説」のコーナーは最高のネタを提供してくれます。ここもプロレスマニアにはたまりませんよ。いわゆる「プロレス的世界」の本質がたくさん書かれています。相手に怪我をさせないために、そしてお客さんを盛り上げるために、彼らがどれほど努力をしているか、そしてそれらを高次元で成し遂げた者こそ名レスラーであることがよくわかります。感動。
 最後PART4「ナチュラルパワーをおぎなう基礎トレーニング」。ここでは我々一般人でも簡単にできる筋力トレーニングの方法が詳細に解説されています。それぞれ鶴田さん自身がモデルになっている写真が載っているんですが、ペアでやるトレーニングのパートナーがですねえ、デビューしたての丸藤正道なんですよ。ワタクシ的にはそこに感動しました。彼もこうしてジャンボの指導を受けて強くなったんだよなあ…。
 と、こんな感じで読みごたえありすぎ。我が家のバイブルがまた一冊増えました。うん、バイブルは多ければ多いほどいいですね。だめですよ、○○こそ唯一の教典だ!なんて言ってるのは。

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2007.12.10

久留米袢纏 (桑野新研産業)

Hanten カミさんがちょっと早いクリスマスプレゼントだと言って買ってきてくれました。渋いプレゼントだ。
 …と思ったら、これが非常に良い。素晴らしい。ありがとう妻よ。
 今年はとにかく原油高で灯油が高い。しかし、大歓迎!原油高なんて記事書いちゃった手前、ブーブー言っていられない。我が家では相変わらず床暖房禁止令が敷かれていて、1階と2階まとめて6畳用の小型ファンヒーターで暖めています。でも、実際にはなんだかんだいって、昼間は太陽の光で充分に暖かく暖房はいりませんし、夜はその余熱の上にファンヒーターを使えば18度くらいまで室温が上がります。床が冷たいのは仕方ありませんが、そんなのスリッパを履けば問題ない。なんか、今までのムダにぬくぬくしていた生活がアホらしく感じられます。これで月間1万5千円は燃料費が浮きますね。ひと冬で6万円。10年で60万円か。
 で、体がちょっと寒いなと思ったら、これですよ。この袢纏(はんてん・半天・半纏)の暖かさはまさに天国的です。今まではなんとなく仕事に着ていくジャンパーをそのまま着ているみたいな感じでしたが、暖かさの質が根本的に違う。ホコホコ、ホッコリ。
 これはひとえに「綿」のおかげでしょう。表面の生地はもちろん綿(めん)100%ですし、中綿(わた)は綿(めん)70%のポリエステル30%です。安価な外国製はほとんど中も外もポリエステル100%ですからね。それは違いますよ。
 つくづく自然のものはいいなあと思った次第です。それなりのお値段はしますが、ひと冬、いやこれからの冬も含めて浮く燃料代のことを思えば安いものです。10年で100着買えます(笑)。
 ずいぶん前に買った綿入り作務衣は安物だったので、本当のことを言うと富士山の真冬には対応できませんでした。やっぱりポリエステルだったからでしょうね。初冬までは調子よく使ってたんですが、ある気温以下になると全然暖かくなくて逆に冷たい。結局修行になってしまったわけです。
 まあ、寒いとは言っても今年はまだまだ甘い。早朝も外はマイナス5度くらいにしかなりません。家の中は、朝起きてリビングに降りると寝る前の余熱が残っていて8度くらいはあります。ウチには猫が3匹いますが、今までは床暖房の上でグータラしてましたが、今は自分たちでちゃんと暖かいところを見つけてそこで固まってじっとしています。なんだ、人も猫も努力すればなんとかなるんじゃん。
 こういう当たり前のことを再発見したりするのも、ある意味原油高という「不便」のおかげですね。やはり私たちは「便利」のおかげでずいぶんと愚かになってしまっているんだなあ。そんなことを、このクリスマスプレゼントは教えてくれました。ああ、そうしたいろいろな発見こそが最大のプレゼントだったのかもしれませんね。さすがカミさん…なんて、本人はそんなこと考えてないでしょうけど。まあ、自分がふとんの中でぬくぬく寝坊している数時間の間、私は早起きしていろいろやってるんで(ちゃんと部屋も暖めて待ってるし)、さすがに悪いと思ったのかな(笑)。
 というわけで、皆さんこの袢纏買いましょう。絶対にポリエステル綿の安物は買ってはいけません。いろいろな意味で原油の無駄遣いになります。ちなみにこの桑野新研の製品、久留米絣パッチワーク入りとなっていますが、それが地味にオシャレで気に入っています。左右非対称のラインがなにげにハイセンスだと思います。あっ、写真の袖についている四角いものは商品タグですので、実際にはあれはありません(とりはずします、もちろん)。

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2007.11.28

『爆笑問題のニッポンの教養 「この世はすべて錯覚だ~知覚心理学 北岡明佳」』(NHK)

Sakushi 何を信じればいいかシリーズ。昨日録画した「爆笑問題のニッポンの教養」を観ました。今回のテーマは「錯視」です。立命館大学で知覚心理学を研究する北岡明佳教授が登場しました。
 北岡さんの錯視のホームページをよく見ていましたので楽しみにしていました。まず面白かったのは、北岡センセイのキャラが想像と全く違ったということ。私の勝手なイメージはそれこそ錯視であったのか。爆笑問題も何度もツッコミを入れてたりいじったりしてましたけど、なかなか動じませんでしたね。なんだか番組を見ているうちに北岡センセイが作り物に見えてきたのは私だけでしょうか(笑)。
 さて、北岡センセイも良かったけれど、今回もまた太田の天才ぶりに脱帽させられましたね。後