カテゴリー「心と体」の716件の記事

2018.08.18

私の中に神がいて、神の中に私がいる。

Th_img_2334 にちがずれていますが、気にしないでくださいね。今日は17日のことを書きます。17日は濃かったので、何日かにわたります。
 そうそう、実は17日は私の54回目の誕生日だったんです。正直言って今までの誕生日の中で、最も楽しく、最も充実した日となりました。皆様のおかげです。ありがとうございました。
 さてさて、17日はまず田沢湖へ向かいました。途中までは雨が降り、寒々としていましたが、最後には青空が広がり、温かい太陽の光が注ぎ始めました。
 その時感じたこと。寒さや暖かさを感じる自分の中に、なるほど自然(モノ)がいるなと。雨やお日様が、自分の中にいるから、こうして感じることができるのだと。
 田沢湖は今日も青かった。しかし、それもまた、田沢湖が青いのではなく、田沢湖の中に青があるのです。
Th__20180819_120801 そして、そんなことを思いながら、御座石神社を参拝した時、御神鏡に自分の姿が映っていることに気づいたのです。
 なるほど、神の中にも私がいた!
 この相互的な入れ子構造こそ、昨日の「ボーダーレス」そのものですよね。なるほど。たとえば砂漠の一神教のような、神と人間との対立的な関係ではなく、仏教の「一切衆生悉有仏性」のように、全ての存在の中に神がいて、神の中に全ての存在があるというのが本当なのかもしれません。
 雨が止み、霧が晴れた田沢湖は、たしかに空の青や山の緑を映し、さらに青く見えたのでした。
 素晴らしい誕生日プレゼントですね。ありがとうございました。


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2018.08.12

新日本プロレスG1 CLIMAX 28 日本武道館大会3日目

Th_201808120000926w500_0 めでとうございます、棚橋選手。本当に素晴らしすぎる優勝決定戦でした。
 素晴らしくなることは予想されていましたが、その予想をはるかに超えた神どうしの戦い。戦いの中に溢れる愛。
 棚橋弘至と飯伏幸太。そう、かつてのプロレスラーにあった恐さはなく、愛と愛のぶつかり合いという新しい戦いの景色を見せてくれました。
 こういうプロレスを観て、昔のプロレスファンの一部は、こんなのダメだと言うでしょう。これはプロレスに限らず、たとえばスポーツ界、あるいは教育界でも同じ、そういう人がまだまだたくさんいます。
 しかし、ここのところずっと書いてきたように、時代がドラスティックに変わりつつあり、私たちはそれに気づき、それを受け入れ、自分自身を変えていかなければならないのです。
 そういう意味で、棚橋選手がこの20年くらい戦ってきたモノは強大だったと思います。今日の勝利は、飯伏選手や今回のG1の参加選手に勝ったという意味だけでは説明できません。
 これはまさにトップダウン、天の力による世界改造ですよ。人事を尽くした棚橋選手に、天がほほえんだ。そう感じました。
 そんな偉業を具現化するのに、大切な役割を演じた飯伏選手にも拍手を送りたいと思います。どんどん進化し、見たことのない風景を見せてくれる飯伏選手は本当にすごい。
 覚醒した飯伏選手を久しぶりに見ましたけれど、うん、棚橋選手のバックステージでの言葉は重かったなあ。

「後は飯伏が覚醒した状態のままでやれるか。俺は真のトップレスラーだから。オンとオフがないから。それが自慢だから」

 なるほど、常にオンでいられるのが棚橋選手のすごさなんですね。恒例のエアギターも含めて、試合後のパフォーマンスも全力。本当にファンに愛を届けようとしている。たしかに素晴らしく魅力的な男ですね。
 ありがとうプロレス。プロレスが時代の先端を行っていることを再確認した大会でした。

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2018.08.11

新日本プロレスG1 CLIMAX 28 日本武道館大会2日目

20180812_102505 の雪崩式タイガードライバーには本当に度肝を抜かれました。
 今回のG1において私的に最も楽しみにしていたカードが、今日のメイン、飯伏幸太vsケニー・オメガでした。
 もちろん内容は予想を上回るものでした。結果よりも、その内容と、試合後の二人の対話に、今私の中のテーマである、「荒魂と和魂」の答えが合ったような気がしました。
 究極の荒魂は和魂になる。これからの荒魂はこうした演劇的世界で昇華され、現実社会においてはその姿を消していくでしょう。そういう予感がしました。
 昨日も書いたとおり、プロレスは単なるスポーツではありません。ある意味演劇であり、哲学であり、修行でもあります。
 フランスの哲学者、ロラン・バルトも「プロレスする世界(レッスルする世界)」で、その神話作用に注目しています。
 現実の社会、いわばリアルがどん詰まりになった時、私たちはフィクションの中に次のリアルを見ます。今日の二人の戦いは明らかに未来の光を見せてくれました。
 お互いの限界と、限界突破のポテンシャルを信頼しあっているからこそ、真正面からぶつかり合い、磨きあえる。
 試合後、ケニーが語った「負けたい思った。誰かに進化してもらいたい、私より強い相手に出てきてほしかった」という言葉に、大きなヒントがあります。勝ち負けをすでに超えています。対立する二者をアウフヘーベンしている。
 親友同士という、その「和」の中に「荒」が取り込まれた瞬間でした。
 飯伏とケニーは2012年に武道館で当たっています。その時の試合も素晴らしかったけれども、明らかに次元が違いました。
Uni_2984_2 思えば、2009年、山梨でのキャンプ場プロレスの時、二人と一緒にバーベキューしました。その時の彼らが、こうして絶頂期を迎えている新日本プロレスのG!の武道館大会でメインを張るなんて、その時は夢にも思いませんでした。
 しかし、たしかに、「この天才たちを世の中の人に知ってもらいたい」とは思っていました。具体的ではなかったけれども、私も未来に妄想していました。そんなことも含めて、今日の芸術的な試合は格別な感情を湧き起こすに充分すぎるものでした。
 さて、明日は飯伏選手と棚橋選手による決勝戦です。これもまた、さまざまな対立構図の中に語られます。しかし、私が期待しているのは、対立ではなく、二人のパーソナリティーだからこそ可能であろう、「対話」です。
 楽しみにしています。大げさでなく、地球の未来を切り開くために、頑張ってください。

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2018.08.10

新日本プロレスG1 CLIMAX 28 日本武道館大会1日目

Th_201808110001spnavi_2018081100002 日のグレート小鹿さんもプロレス。今日テレビ観戦した棚橋弘至とオカダ・カズチカの戦いもプロレス。
 全くプロレスというのは奥深い。勝ち負けではなく、人生の春夏秋冬を見せるのがプロレスという芸術。スポーツはアートであるべきだと常々考えていますが、その答えの一つがプロレスの中にあると思います。
 今日から三日間は、新日本プロレスの真夏の祭典G1CLIMAXの、実質上の準決勝、決勝を堪能いたします。そういう記事になりますので、興味のない方はごめんなさい。
 まず、本来なら、11日の日本武道館は現場で生観戦する予定で、宿までとってあったのですが、なんとチケットが手に入らないという事態に。
 某関係者にお願いしていたのですが、あまりに人気でなかなかキャンセルが出ず、ようやく出たのはロイヤルシートでして、とてもそんなお金は払えず断念。当日券も炎天下の中長時間並んで取れるか取れないかだと聞いて、急遽参戦をとりやめました。代わりにテレビで三日間観戦する手続きをとりました。残念といえば残念。
 さてさて、ワタクシ、昔から完全に全日本派でありまして、あまり新日本の試合を観てこなかったのであります。最近大人気の「新・新日本」についても、それほど興味があるわけではなく、プロレス専門チャンネルのニュースで、その雰囲気を知る程度でした。
 しかし、今回は元DDTのケニー・オメガと飯伏幸太が武道館で当たると知り、二人のファンとして、新日本の大舞台でどんな未来的な戦いが展開するのか、非常に今日が湧いてきました。それでG1初参戦を目指したのであります。
 で、結果としてテレビでの観戦となったわけですが、今日10日のAブロックの最終戦もまあそこそこ楽しみました。正直「新」の部分についていけないところもありましたが、やはり今儲かっている団体だけあって、世界中の魅力的なレスラーが大挙参戦しており、第1試合から世界最高レベルの戦いが展開していたのは間違いありません。会場の雰囲気も良かった。
 特に、メインイベントの新日本看板カード、「棚橋対オカダ」は予想以上に素晴らしい試合でした。今までも何回か二人の対決は観てきましたが、今日の試合が一番棚橋らしさが出ていたと思います。
 思えば、今までの対戦では、新日本の中心は明らかにオカダだったので、今回、その流れとは違い、エースの復活劇的なストーリーの中で、その主人公棚橋選手が輝くのは当然と言えます。
 それなりに年齢を重ね、若い力に押され気味だった中年(失礼)が、まだまだ若いもんには負けないぞと、しかしそれを明るく爽やかにやってのけているところが、棚橋選手の中年らしからぬところであります。そこに人生の秋冬からの春夏という物語を感じることができました。
 逆に言うと、オカダ選手のこの世の春から夏には、しっかり秋が来ているということで、それはそれである種の演歌的な哀愁を感じさせるとともに、しかし一方でその先の明るい季節の到来をすでに予感させます。
 そういう「負け」が単なる負けでないところが、プロレスの温かさ優しさですよね。きっと若い女性たちも、そういう母性的な目で、荒くれ息子たちを見守っているのでしょう。
 明日、あさってもとっても楽しみです。

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2018.08.02

辻田真佐憲 『東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか?』

20180803_84847 日は約40年ぶりに野球場のグランドに立ちました。最近野球熱が再燃しているという話は何度か書きましたが、それがなぜなのか、全く分かりません。自分でも不思議です。
 今日はグランドで高校生球児たちに話をする機会もありました。そこで、「新しい高校野球の歴史」という言葉を使わせていただきました。
 先日の校長先生方対象の講演では、「甲子園も今回の100回記念大会を期に大きく変わる」と予言?しました。
 実際、軍隊文化を最も引きずっている、いやそれを死守してきた甲子園も、自然の猛威という「神」の力によって修正を迫られているのです。
 まさに150年戦争の集結を象徴しているようですね。
 しかし、150年続いてきた頑固なその文化も、その往生際の悪さという最強最狂の捨身作戦で、最後の抵抗をしてくることでしょう。
 ある意味、その戦場となることが予想されているのが、2020年の東京オリンピックです。辻田真佐憲さんが、それを上手に記事にしてくれました。

「暑さはチャンス」なぜ東京オリンピックは「太平洋戦争化」してしまうのか? 森喜朗、小池百合子、東条英機……今も昔も「竹槍精神」

 講演でもあえて話させていただいたのですが、私はそういう根性論や精神論、神風的なモノが嫌いではありません。どちらかというと、そういう物語が好きです。また、そうした世界がもしかすると合理的な世界、科学的な世界を凌駕するのではないか、高次元物理学における意識の領域で説明できるのではないかとも思っています。
 しかし、実際問題として、人の命、特に若い人たちの命が危険にさらされていることは、学校現場で働くものとして看過できません。
 なぜ五輪を酷暑の時を選んで行うのか。いろいろ事情があります。それは20世紀的な価値観にのっとるものかもしれません。いったいどの「価値」が勝つのか。
 案外ですね、「神風」が吹くかもしれませんよ。つまり冷夏になる。ホントにありそうだから、日本という国は恐ろしい(笑)。
 昨日、ある政治家秘書の方から、「先生、出番ですよ!」と言われました。五輪に関する話です。もしかして、私のお役目は「神風」すなわち「涼風」を吹かせることなのかもしれませんね。

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2018.08.01

白井聡・國分功一郎 『日本人から思考を奪う「国体の正体」とは何か』

Th__20180802_90604 日の講演で「150年戦争」論を少し披瀝しました。日本は何と戦ってきたのか。そして勝ったのか、負けたのか。
 明治維新以来150年の見えない敵との戦いは今年終結します。折り返し地点は昭和17年から18年。まさに大東亜戦争の負け始め。
 そして昭和20年の「敗戦」。仲小路彰は「勝利」したと言いました。だから「終戦」であると。その本当の意味は、そこからの70数年、つまり戦後日本の戦いを視野に入れないと分かりません。ただ単に大東亜戦争の目的を達成したから勝利というのでは、あまりに都合が良すぎる。
 戦争が終わって、日本人は兵士であることをやめたかと思いきや、とんでもない。今度は企業戦士となって欧米と対等以上に戦いました。
 しかし、その戦いにも「負け始め」が訪れます。それがいつだったのか、バブル崩壊なのか、いや、もう少ししないと分からないでしょう。俯瞰しないと。
 つまり、私たち日本人は、この150年間において、少なくとも二度負けているのです。その無謀な戦いを支えたのは、根性論であり、精神論であり、滅私奉公であり、そして「国体」でした。
 …と、これは私の勝手な妄想であり、多くの方々の賛同は得られないと思いますが。
 しかし、この白井聡さんと 國分功一郎さんの対談では、多少似た論が展開されていると感じました。もちろん細かい部分では、私はとても彼らには敵わないわけですが、全体としては共感できる部分が多くありました。

日本人から思考を奪う「国体の正体」とは何か

 「国体」という概念自体が、もちろん明治以降に生まれたものです。教育勅語で明示され、その後国体明徴運動が起こり、国家として「国体の本義」まで発表されました。
 今の人たちにとって「国体」とは「国民体育大会」にほらならないのですが、それは笑い話ではなく、その「体育」の中に見事に戦前、戦中の文化が残っているという話も、少しですが昨日させていただきました。
 「国体」という、本義を明徴しなければ何が何やら分からないモノに支配され、結果として平和を築いてきたと同時に戦争もしてきた日本。なんとも不思議としか言いようのない歴史を持つ日本が、これから世界においてどういう価値を発揮していくのか。それは仲小路彰が示してくれています。そして、私はそれが正しくそのとおりになると信じています。

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2018.07.29

落合陽一 「ユビキタスからデジタルネイチャーへ:アート・エンターテイメント・デザイン」

20180730_91348 画の紹介が続きます。そういう時代です。
 そういう時代の象徴の一人が落合陽一さん。言語によるコミュニケーションは決して次元が高いわけではなく、たとえば動画のように視覚と聴覚に直接訴えかける方がより良いという考え方もある。
 そして、その先にはさらなる情報伝達、共有手段の世界が広がっている。デジタルネイチャーの時代。
 旧世代の私たちはそれを拒否するのか、受け入れるのか。教育はどうなっていくべきなのか。いろいろ悩みがあります。
 ただ、彼の話はとっても面白いのです。私は拒否反応どころか非常に興味がわく。しかし、そちら側にいくためには、とにかく自分の常識、過去を捨て去らなければならない。悩ましくも楽しいことです。なにしろ、この歳になって、まるで子どもの時の、あの未知の世界に出会った瞬間のようなドキドキ・ワクワクを感じることができるのですから。
 こういう世界観を、はたして学校は教えることができるのでしょうか。教育は常に最先端を行かねばならないのに、実態は全く逆で旧態依然、非常に保守的なムラ社会になってしまっています。
 今、筑波大学は面白いですね。こういう人が学長補佐とかやってるんですから。大学、特に国立大学が変わらないと、その下の高校、中学、小学校、そして幼児教育は変わりませんよ。やはり、未来に原因を作っていかなければ。

 落合さんのすごいところは、最先端のテクノロジーを荘子や侘び寂びと結び付けられるところですね。スマートです。

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2018.07.28

朝まで生テレビ「激論!宗教と若者」(1991.9.28)

20180730_85806 ましい記事が続きます。いいことです。
 私自身の戦後教育を考える上で避けて通れないのが、オウム真理教事件です。こちらに書いたように、全く他人事ではなかったこの事件。ある意味紙一重のところで、今私はこうして「普通」の生活をしています。
 決して目を背けることなく、今後もこの問題とは真剣に対峙していかねばならないと思っています。
 この番組が放送されたのが1991年。バブルが終焉し、失われた10年が始まる年。祭のあとの虚しさ、不安のようなものが世の中を覆い始めていました。
 幸福の科学は講談社ともめ、オウム真理教はすでに坂本弁護士家族を殺害し、選挙で出て負け、波野村などで住民と衝突をはじめていました。
 そんな時、麻原彰晃も出演して、この番組が放送されました。今観ても非常に興味深い内容です。当時、私はリアルタイムで観ていましたが、正直、どちらかといえば幸福の科学よりもオウムの方にシンパシーを感じていました。
 それにしても、この回の出演者はすごいですね。麻原、村井、景山、池田、西部はすでに故人です。みんな若くして死んだ。殺された。または自裁した。もちろん死刑になった人もいます。
 その他、のちにいろいろ大変な目にあった人たちもいます。ある意味変わらないのは田原総一朗だけかな(笑)。
 個人的には、池田晶子さんがすごくいい。こういう言い方は失礼かもしれませんが、危ない美しさがありますね。言ってることも一番真理に近いかも。

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2018.07.27

「どーせむり」をなくそう

Th__20180728_100655 育者としての悩みシリーズ(苦笑)。どんどん悩みますよ。悩むことは楽しいことです。悩むのは矛盾があるからです。対立するナニモノとナニモノかがあるからです。
 先ほど、仲小路彰の研究・顕彰を主導してくださっている方から久しぶりにお電話をいただいたのですが、やはり仲小路彰を理解するにはヘーゲルの弁証法を勉強しなくてはならないとのこと。
 今、いろいろな意味で矛盾、対立に悩んでいる自分にとって、たしかにその解決法は弁証法しかないなと思います。そして、弁証法こそ、未来的な思考方法です。
 考えてみれば、弁証法によって未来的発展を遂げるためには、現在において矛盾や対立がなくてはならないわけですね。ですから悩みに感謝なのであります。
 さてさて、そんな素晴らしい悩みと、その先にある希望を与えてくれるプレゼンを紹介しましょう。
 北海道の実業家植松努さんのTED。本当にいいですよ。植松さんのお人柄もよく分かる。
 学校の先生としては実に耳の痛い素晴らしいお話の連続です(苦笑)。
 たしかにほとんど学校の先生は「どーせむり」のプロになってしまっている。まず自分に対してもそうです。植松さんの言うとおり、教育(学校)とは「死に至らない失敗を安全に経験させる」ものであるべきです。
 失敗を避けるために私たちは「どーせむり」という魔のワードを使ってしまうのですね。
 私も「どーせむり」は人にも自分にも絶対使わず、「だったら〜してみたら」と言い続けたいと思います。

 

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2018.07.23

不機嫌は怠惰の一種である(ゲーテ)

Th_200pxgoethe_stieler_1828 は先生にしては珍しく?あんまり不機嫌にならない方です。生徒にも「そういえばいつも上機嫌だ」と言われます。
 生徒というのは先生の「不機嫌」に対して非常に敏感です。ほとんど動物的なカンでそれを察知し、自分に被害が及ばないようにします。空気を読むわけですね。まあ、それだけ不機嫌になる先生か多いということです。
 ゲーテは名作「若きヴァルテルの悩み」の中で、ヴェルテルに「不機嫌は怠惰の一種です」と言わせています。高校時代、この言葉に出会ってからというもの、私はこの言葉を座右の銘としてきました。
 では、現在の私があまり不機嫌にならないのは、私が怠惰ではなく勤勉なのかというと、どうもそうでもないようです。
 つまり努力して機嫌よくしているわけではない。たぶん生まれつきの性格なんだと思います。あえて言えば、不機嫌になることによって得るものが全くないと思っているのかもしれない。不機嫌は他人も自分も不幸にします。
 学校の先生は、「不機嫌」を武器にしているところがある。その最たるものが「体罰」であって、ようやく最近それがダメということになりました。
 ですから、かつて私が教員になりたてのころ、まず身につけなければならなかったのは、「不機嫌なフリをする」ということでした。先輩方がそれを実にうまくやっているように見えたからです。
 ある意味自分の主義に反していたわけで、なんとも言えない居心地の悪さも感じていましたが、反面、テクニックとしてうまくいくようになると、なんとなく自分も先生らしくなったんだなと思っていたのも事実です。
 今はもうほとんどそういう無理はしなくなりました。やっぱり自分に合っていないからです。不機嫌になる教師を否定したり、見下したりするわけでありません。やはり単純に自分の性分に合わないテクニックだということです。
 ゲーテは先程の文章のあと、さらに深い、厳しいことをヴェルテルに語らせています。

 不機嫌は、むしろ、自分のくだらなさに対するひそかな憤懣ではありませんか? 愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている、自己不満ではありませんか?

 さすがゲーテですね。完全同意します。人間の煩悩の中でも特に強く面倒な「嫉妬」と結びつけている。
 私も実のところ、「小さな不機嫌」はあります。そして、それが「嫉妬」に基づいていることも知っています。まだまだ修行しなければなりませんね。

Amazon 若きウェルテルの悩み

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