カテゴリー「書籍・雑誌」の348件の記事

2008.05.12

『プロレス黄金期伝説の名勝負』 (別冊宝島スペシャル)

Typ6 っと、またプロレスネタだぞ。どうした自分。それも昭和プロレスへのノスタルジー的記事、多くないか?
 今日、昭和プロレス旗揚げ戦という興行が行われました。本当は行きたかったけれど、平日ではとても無理です。行った方の報告を見ますと、往年の名選手たちは、皆それなりに加齢な(!)動きを見せてくれたようですが、なにしろ客席の雰囲気が、あの昭和のプロレス会場そのままだったとか。温かい野次が飛び交う交響的空間。
 会場に行けなかった私は、そんな昭和プロレスを懐かしむため、この本をじっくり読んでみました。う〜、なんか懐かしいとともに、ほのかな哀しさが…。もののあはれかあ。
 昭和が終わって20年。いや、昭和の余韻が消えて10年。10年ひと昔とはよく言ったものです。昔語りを始めるようになった私も、そろそろ後期中齢者(?)になろうとしています。
 多くの語り手がそうであるように、私もまた、あの頃は良かったという時、あの頃の日本は良かったという感慨とともに、「あの頃の自分は良かった」という感懐をも、そこに含ませています。
 先日『プロレス「悪夢の10年」を問う』の記事に書きましたように、まず変ったのは社会であり、それにつれて「私たち」も変り、そして、それに迎合する形でプロレスという商品も変ってしまいました。
 「私たち」が社会やプロレスを変えてしまったのだという、そういう言い方もレトリックとしては可能でしょうが、やはりそれは事実ではないでしょう。私たちにそんな意思などなかった。あくまで、政治という「集団気分」を醸成するメディアに流されてしまったのです。
 私は何度も小泉劇場を評価する文章を書いてきました(検索すればたくさん出てきます)。その一方で、たとえば「談合」を肯定し、アメリカ的な(エセ)ガチンコ市場至上主義を否定するような文章もたくさん書きました。そこに矛盾を感じる方もいらっしゃるとは思いますけれど、あくまで、私は小泉さんを役者として高く評価しているのであって、彼の騙ったシナリオの内容を賛美するものではありません。
 談合や根回しのような、まさにプロレス的世界を否定し排除しようとし続けたこの10年で、日本はさらに疲弊してしまった。なんだか「遊び」がなくなって、そう、柔道着から「遊び」が消えて柔道がJUDOになってしまったように、私たちも、みんなただの人間として窮屈に自分のなわばりを守ろうとするようになってしまった。常に緊張して相手のスキを狙っているような、そんな貧しい動物のようになってしまった。
 プロレスの凋落と総合格闘技の興隆の裏には、たとえばヤクザさんのお仕事事情の変化もありますよね。いわゆる「興行」という、地方の伝統に根ざした旧来のお仕事がしにくくなったおかげで、彼ら(の一部)は違うスタイルのお仕事をするようになりました。
 昭和の時代に誰が、さいたまスーパーアリーナに数万人の人を集めて地下プロレスをやるようになるなんて想像したでしょう。プロレスや柔道やその他の格闘技の領域で、人を傷つけない、また他の領域を傷つけない「道」を極めていた人たちが、ほとんど素手で本気で殴り合って潰し合いをするなんて、誰が考えたでしょう。
 それは夢として、妄想として、物語としてはありました。しかし、それはある意味侵すべからざる領域、すなわち聖域であったはずです。歴史的にもそういう聖域を守ってきたはずのヤクザさん自らが、俗世間の悪神たちに魂を売って、今のような状況を生んでしまった。あの法外な放映料はなんですか。リングサイド席ウン十万円とかいうそれこそヤクザなチケットはなんですか。
 さて、こんなふうにグチをこぼしても、もう時間は戻ってはくれません。ただ、私に出来ることは、「あの頃は良かった」という気分を醸成すべく、自分を演出していくことだけです。おじさんとか年寄りとか言われても全然構いません。なぜなら、歴史は常にそうしたうねりを繰りかえしてきたからです。その時に必要なのはやはりノスタルジーなんです。
 現状に早く飽きてしまえ。そして、反省して昔に戻れ、社会よ、自分よ、プロレスよ(その他、音楽や秋葉原やプロ野球や…いくらでも出てきますね)。
 そういう意味で、この本のような昭和の余韻が復刻されて、コンビニに並べられているというのは、実に結構なことです。気分の醸成に、最先端の商売が協力してくれているわけですから。
 この本の元本は、1993年すなわち15年前に発行された別冊宝島179号『プロレス名勝負読本』です。大きな変革期を迎えようとしていた、だからこそ古いものと新しいものがぶつかり合ってエキサイティングであった、80年代、90年代初期のプロレス名勝負について、そうそうたる人々がそれぞれ濃く熱く語っています。ああ、ライターも昭和してるなあ。そこにはまだまだ物語が息づいています。
 特に私が面白く読んだのは、今や東大の大学院の先生でもある松原隆一郎さんの文章ですね。今でも彼の格闘技論はなかなか本質を突いていて勉強になるんですけど、この頃からやっぱり視点が鋭いですね。社会学的、コミュニケーション論的な視点というのは、どちらかというと私のセンスに近い気がします。彼はジャズのマニアとしても有名ですし、ジャズと格闘技を本質的に同じものだと考えているあたり、私と気が合いそうです。一度お話してみたいですね。盛り上がると思うんですけど…なんて、東大大学院の先生をつかまえて何を妄想してるんだ(笑)。いや、こういう夢、妄想こそが「遊び」であり、明日へのエネルギーになるんですよね。
 それにしても、全編を通して読んでみますとね、猪木という男と前田という男、この二人がいかに天才的なアホだったか、よく分かりますよ。彼らが時代を動かしてしまった。政治的な動きと格闘技界を結びつけてしまった。もちろんヤクザの世界も含めてね。う〜ん、功罪半ばでしょうか。一つの文化を殺してしまったとも言えるけれども、一方で格闘家の食いぶちを供給したとも言えるしなあ。難しいところです。
 ということで、今日もすっかり懐古的な一日でした。しかし、先ほども書いた通り、こうした負方向への気分こそが次の時代への動力になるんです。そう、ゴムを引っ張ってパチンコ玉を飛ばすように、まずは逆ベクトルに加担しなくちゃ。

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2008.05.07

『プロレス「悪夢の10年」を問う』 (別冊宝島)

世紀の「大沈没劇」を検証する
Seuyuy たプロレスネタですみません。でも、これは私にとって、自分の生き方そして社会の変化について考える、非常に重要なヒントを与えてくれるもの、いやほとんどテーマそのものなので、どうしても避けて通れないんです。
 やはり、プロレスは自分や社会を映す鏡なんですよね。ですから、プロレスの凋落激しかったこの10年というのは、まさに自分たちや社会が、そういうふうに変わった10年だったということなんです。
 世間ではいったい犯人は誰だ!?のような議論が盛んに行われました。そして、実際にいくつかの原因が取りざたされましたが、どうもすっきりしない。そう、最も激しく犯人扱いされたのは、ミスター高橋の暴露本でしょう。もちろん私もそれを読みましたが、それはまあ不文法を明文化しただけであって、何を今さらとは思いましたが、世の中を改革してしまうほどの力は感じませんでした。やっぱり原因はそれじゃあない。
 このムックも基本、一般論に対する懐疑的な立場をとっています。しかし、だからと言って何か一つの結論が提示されているわけでもない。冒頭に「変わったのはプロレスか、自分か、それとも−」とある通り、結局よく分からないまま終わっています。というか、ずいぶんと話がそれていって、あれ?この本って何の本だっけ?という感じ。そして、なぜかそのそれた部分の方が読み物としては面白かった。
 特に、昭和を彩った怪物記者、怪物編集者の皆さんのくだらない(失礼)ぶっちゃけ話と、彼らに対するある意味プロレス的なわざとらしさを伴った宝島側のツッコミには、大いに興奮させられました(笑)。
 あと、「大沈没劇」のおかげで味わえる哀愁という意味では、最後の阿修羅原のインタビューと劇画が秀逸でした。もうほとんど演歌の世界ですよ。そうそう、去年泣いたラッシャー木村の劇画と同じ「もののあはれ」だな。沈没の美…国際プロレスって本当にいいですねえ。カミさん曰く「人生の春夏秋冬…(涙)」。
 さて、いきなりですが、私はよく分かってるんですよ。なんでプロレスが凋落したか。変わったのは、プロレスであり、自分であり、社会なんです。そうですねえ、順番としては、まず社会が変わった。そして自分(私たち)、最後にプロレスなんじゃないでしょうか。
 2001年、ミスター高橋の暴露本が出版された年ですね、この年は小泉構造改革が始まった年でもあります。そして、どんどん世の中のいわゆる「ムダ」が排除されていきました。全てがリアルにオープンの方向を目指し、それこそがいいという神話が形成されていきました。ガチンコ社会こそが「機会の平等」を生むという幻想が生まれたんです。
 そこで消えたのが例えば談合です。私はこちらで書いた通り、談合こそプロレスであり、それが人間の本質と智恵であると考え、行きすぎた談合はですね、それはいかんとは思いますが、だからと言って、それを徹底的に排除して自分たち個人個人の欲望と無力さを露呈させるのには大反対なんです。
 でも、世の中はみんなそっちの方向に行ってしまった。リアルを求めてしまった。総合格闘技の人気が出たのも、そういう我々の意識が商売になるからでしょう。談合じゃなくて、ガチンコでオープンのオークションの方が正しいし、面白いと思ってしまった。
 レスラーたちも喰っていかねばなりませんから、市場がそちらに流れれば、自然とそういう方向に行きたくなります。特に体の小さな人たちはそうでした。体が小さいと、プロレス的にはルチャをやるしかないわけですから。
 そういう意味で、このムックで一番勉強になったのは元UWFインター山本喧一選手のインタビューでした。彼は本当にいいことを言っています。今、彼は格闘技の世界で頑張っているわけですけど、彼も体が小さかったので、いわゆるプロレスラーにはなれなかったクチです。自分でもそう言っています。彼は「プロレスは化け物の世界」と語っていますが、まさにそれですね。今のプロレス界には馬場や猪木やアンドレや鶴田のような化け物がいません。プチ化け物やシロウトがずいぶんと増えてしまいました。それも凋落の原因でしょうね。
 逆に言えば、それは「見世物文化」の衰退とも言えます。世の中のエセ福祉、エセ思いやり、エセ平等、エセ人権、エセヒューマニズムが、そういう「モノ」を幽閉しつつあります。教育現場でもモノノケはずいぶんと生きにくくなってますよ。まったくねえ。
 大相撲の凋落も、まったく同じ原因でしょうね。日本古来の素晴らしき神道的伝統である、談合的全体主義と見世物的福祉と物の怪への畏敬の念が消えてしまった。残ったのは、我々人間個人の不純なる「自己」と単純な勝ち負けの図式だけでした。そういう「コト」を包み込んでいた母性のようなモノはどこに行ってしまったのでしょうか。人間のデジタル化なんでしょうかね。アナログ的なあいまいさと、美しきムダやムラはもう評価されないんでしょうか。
 …と、話がふくらみすぎてしまいましたね。なんだか自分でも何を言っているのかわからなくなりました。とにかく、とんでもない怪物が現れて、総合でも完全王者になってくれるしかないですね。私たちの欠落感を埋める物語を紡ぐ、そういうある意味天皇みたいな、恒星みたいな、そういう存在が現れねば。朝青龍もジョシュ・バーネットもいいけど、やっぱり日本人のそういう怪物が現れてくれないかなあ…やっぱり三沢さん?

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2008.05.05

『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝』 ビル・ロビンソン (エンターブレイン)

65hj 先から帰ってきて、録画してあったサラリーマンNEOを観ましたら、また「サラリーマン体操」にプロレスネタが…。ついに馬場と鶴田の登場です。どう考えてもこれは私の趣味を考慮して番組を作ってますな(笑)。「オーッ」までやってくれました。
 しかし、この前カール・ゴッチについての間違いを指摘させていただいたのと同様に、今回も一つ間違いを指摘いたします。
 写真をご覧になってわかりますかね。字幕には「眠気覚ましの三冠王者 J鶴田のジャンピング・ニーバット」とありますが、これは「バット」ではなくて「パット」ですよ。NHKさん、しっかりしましょう(笑)。
75772082 さて、カール・ゴッチは「神様」ですと指摘させてもらったのに関しまして、違った意味で再び反論しているのがこの本です。帯にはこうあります。
『カール・ゴッチは決して神様などではない!』
 そう、著者であるビル・ロビンソンさんは、実際に手を合わせた者として、ゴッチを神格化する日本のプロレス界(というかマスコミでしょうかね)に苦言を呈しています。たしかにゴッチは優れたシューターの一人ではあったが、彼以上のレスラーはいくらでもいると断言しています。
 この本では、ゴッチだけではなく、往年の名レスラー、テーズやガニア、猪木や馬場、そして鶴田などの評価がかなり詳細に書かれています。それらは非常に興味深い内容です。結論だけ言ってしまうと、彼が最も「強い」としているのはダントツでビリー・ジョイスです。私は彼について全く知識がありませんが、とんでもないテクニックを持ったシューターだったらしい。おそらく、今の総合格闘技の試合にビリー・ジョイスやビル・ロビンソンが出たら、余裕で勝つんでしょうね。
 日本人ではやはりダントツで猪木を高く評価しています。鶴田はいまいち。馬場はビジネスマン。あとは生徒扱い(笑)。
 それから興味深かったのは、桜庭和志を高く評価している点ですね。それと比較して田村や高田の欠点を指摘しています。なるほど、という部分です。
 そう、やっぱり桜庭なんかが、ちゃんと「プロレスラー」として、「プロレス」をやればいいんですよ。この本を読んで再びそのことを痛感しました。
 この本を読みまして、私のいろいろな疑問が氷解しましたね。なぜプロレスが凋落したか。なぜ総合格闘技に違和感をおぼえるか。真のプロレスラーとはどういう人たちなのか。
 つまり、ロビンソンが活躍していた時代のプロレスには、「ショー」も「ガチンコ」も全部含まれていたんですね。馬場もそういうこと言ってたじゃないですか。それが、どういうわけか、「ショー」と「ガチンコ」に分かれてしまった。それで、お互いがいがみあっている、というか全く相容れないものどうしになってしまっている。
 この本を読めば、そんな二分法がいかに幼稚でプロ意識の低いものか、よ〜く分かりますよ。象徴的なのは、ロビンソンが語気を荒げて(たぶんね)不快感を表明している『「シュート」と「ワーク」』の章です。ここで、彼は「シロウトが軽々しくシュートとかワークとか言うな」というようなことを述べています。その理由は大変に奥深く、だからこそ完全に言葉になっていないような気もしますが、その理由こそが、今のプロレス界、格闘技界が見失っているものだと思いました。
 去年買った国際プロレスのDVDの最後に、ビル・ロビンソンさんと宮戸優光さんによる、伝説の名勝負の一つ「ビル・ロビンソン対バーン・ガニア」の解説があったんですよ。それはそれはすごい内容でした。いかに彼らが高度な攻防を繰り広げていたか、それは単に自分が勝つための技術的な攻防だけではありません。相手を活かし、お客さんを盛り上げるための、非常に知的な攻防がそこにあるんです。
 ロビンソンさんは、彼の理想とする「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」すなわちランカシャー・スタイルのプロレスリングを「フィジカル・チェス」と表現しています。そこに全てが表現されていますね。
 今、ロビンソンさんは、高円寺に住み、スネークピットジャパンでコーチをしています。古き良き本当のプロレスを後世に伝えるべく、自ら手取り足取り指導をしてくれているそうです。心のプロレスラーとしては、ぜひとも一度行ってご指導いただきたい!
 近いうちに訪問したいと思います。

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2008.04.28

『正則 ニューナショナル 第三リードル獨案内』 森修一 訳著 (大阪書房)

3reader の前の「哲学の東北」にも、南方熊楠はものすごく英語が上手だったという話がありました。明治の知識人はけっこう外国語得意でしたよね。いったいどういう勉強をしていたんでしょう。今の日本の英語教育はなんだか迷走していますけど、あの頃はどうだったんでしょうね。
 と思っていたら、今日あるクラスの生徒が「ひいおじいちゃんが使ってたテキストが見つかった」ということで、何冊かの古い本を貸してくれました。そのうちの一冊がこれです。
 これはリーダーのテキストの虎の巻ですね。先生用のようです。今の教科書ガイドのように生徒も使ったんでしょうか。当時の学生や先生たちがどのように英語を学習していたかよく分かる貴重な資料です。
Catmouse_2 ちょっと右の写真をクリックしてみてください。ネコとネズミの会話ですね。ご覧のように、本文の上にカタカナで発音が、下には訳が載っています。そして訳の下には漢数字で訳す順番が書いてあります。まるで漢文の書き下しですよね。
 発音のカタカナをよく見ると今の感覚とはちょっと違うものもあって興味深い。「t」を「ツ」に半濁音の○をつけて表したり、独自のルールがあるようです。ただ、カタカナをそのまま読めばいいわけではありません。時々、「生徒に発音の練習をさせよ」みたいな注記がありますから、やはりカタカナ英語ではダメだという感覚があったんでしょうね。でも、こうしてカナで発音を示すのは悪いことではありせまんね。当時のルビ文化と同じで、私はそこに積極的な意義を認めます。
 日本語訳がそれこそ漢文訓読調(文語文)で面白いですね。このシーンは会話ですのでまだ分かり易い。ほかのところではまず日本語が難しくて生徒たちは面食らってましたよ。時々「意訳」が載ってるんですけど、それでもまだ難しい。我々は、英語を漢文訓読調に訳したものの意訳をさらに現代語訳しなくてはならないわけです。面白いですねえ。
 そして、なんといっても漢文の返り点のような漢数字の存在ですね。これは今の英語教育的観点からしますと、どうなんでしょうね。私はけっこう目からウロコでしたよ。漢文もそうなんですけど、とにかくこうして語順を日本語調にしながら解釈していくと、いつのまにか外国語の文法的構造がわかるようになるんですよね。遠回りのようですが、実は効率的な学習方法のような気もします。
 昔の人は、漢文や英語をこのようにしてとにかく多読して、そしていつのまにか白文でも理解できるようになっていったんでしょうね。発音はできなくとも意味がわかる、すなわちリーディングとライティングを先に完璧にして、そして必要があればスピーキングやリスニングに移行したんでしょう。今の外国語教育は逆のケースが多い。とにかく会話から入りたがる。もちろん、国際関係の状況が今と昔とでは全く違うわけですから、一概にどちらがいいとは言えませんけどね。でも、なんか私たちが忘れている大切な智恵がそこにあるような気もします。
Newwords あと、面白かったのは、新しい単語の学習の部分ですね。左の写真をクリックしてみてください。ご覧のように、新しい単語のスペリングが同時に発音記号になっているんです。いろいろな記号や異字体を使ってスペルと発音を有機的に関係づけて学習させてますね。この発想は私の中にはありませんでした。なるほどなあ、と思いました。もしかすると、ネイティヴの感覚に近いのかもしれませんね。無意識的でしょうけれど、つづりと発音の関係はこのように把握されているのかもしれない。これは学校教育の現場で復活させてもいいのでは。
 途中、国語教師に対するアドバイスも載っています。英語と国語、今よりももっと上手に連携していたみたいですね。なるほど。
Sanjutu この本のほかに、数学(算術)のテキストもありました。「受験問答叢書 新撰算術問答」という本です。これもなかなか興味深い内容でした。「算術とは何か」「数とは何か」というところからスタートして、四則計算、小数、分数、比例、歩合、利率といった内容に進んでいきます。最後には当時の高等学校や師範学校、陸軍士官学校や海軍兵学校の入試問題が載っていまして、それを見ますと、今の数学の試験とは違って、生活に根ざしたより実用的な問題が課されているのがわかります。今の数学はずいぶんと抽象的な世界になっているんだなあと思いました。それがいいのか悪いのか、なんとも言えません。
Oshibana さて、この算術のテキストを繰っていたら、とっても素敵なものを見つけました。押し花です。きっと若かりしひいおじいちゃんが、勉強の合間に野の花を摘んできて、なんからの気持ちをこめて押し花にしたものでしょう。なんかジーンとしちゃいました。明治のロマンですね。今の若い男で、こういうシャレたことする人いませんよね。私はそこに本当の「日本男児らしさ」を感じましたね。おそらくこの名もない花、百年ぶりくらいに陽の光を浴びたのではないでしょうか。美しいなあ。豊かだなあ。ちょっとうらやましくも思いました。

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2008.04.24

『オタクはすでに死んでいる』 岡田斗司夫 (新潮新書)

10610258 なたは(オレたちは)頑張った。よくやった。安らかに眠れ。オタキングによるオタクへの追悼文です。
 独自の(無手勝流な)オタク論を展開しているワタクシとしては、あるいは、オタクになりきれずコンプレックスを抱いているワタクシとしては、なんだかこのライト評論もまた、オタク的だなあ、感傷的にすぎるよ、と思われました。しかし、そして、そこが実に面白かった。
 つまり、私は岡田センセイの説にいちいち賛同はしたけれども、共感のようなものはなかったのです。なんというかなあ、オタクの一つの属性としてですねえ、私は「ナルシシズム」というのを重要視しているんですよ。自己愛ですね。
 世界の歴史を見てもよくわかります。被差別集団や少数民族、迫害された宗徒に見える矜持や一体感は、これは物語的ナルシシズムに基づくものです。いつかも書いた通り、物語は欠落の上に成り立ちますから、やはりそういう意味では彼らは社会的に何かが欠落していたんですね。
 ところが、その欠落部分にここのところ恐ろしい量の価値が注入されてしまったんです。それは社会的(さらには国際的)認知であったり、文化的評価であったり、経済的価値であったり。そうなると物語は醸成されません。つまり、ナルシシズムさえ生まれなくなってしまった。
 ナルシシズムって自信の表現ではないんですよね。逆です。たいがいコンプレックスの裏返しなんです。
 そういう物語的ナルシシズムという基盤が喪失して、それである社会や国家や集団や個人や文化の勢いがなくなっていくというのは、本当に普通なことですね。そうして新しいナルシシズムが台頭してゆき、いつのまにか、かつてのそれは前時代の遺産になっていく。あるものは忘れられ、あるものは伝統文化として研究対象になっていく。
 ですから、岡田センセイが盛んに「昭和は死んだ。だからオタクは死んだ」と言っても、それはそうだよ、としか言いようがないわけです。それはあまりに自明なことで、あるいはどちらかというとセンチメンタルになるよりも、めでたがるべきものだと思うんです。
 それはですねえ、岡田センセイがダイエットに成功して、見事にオシャレになっちゃったのと同じことですよ。デブというコンプレックスが生み続けた濃厚なナルシシズムは死に、新たにオシャレなナルシシズムが彼に棲みついたってことです。めでたいですよね…いや、たしかにちょっとさみしいかもしれない(笑)。
 私はこのブログに書き散らしているように、オタク文化とは平安時代(あるいはそれ以前の)貴族文化、国風文化の系統だと思っているんですね。そのへんは岡田センセイの説とも重なる部分が多い。そうそう、そう言えばセンセイ、昔、私の萌え論に賛同しかけたけど、結局ピンと来なかったようですね。この本でも岡田センセイは「萌えがわからん」と何度も言ってます。たぶん、旧ナルシシズムの亡霊が理解を妨げてるんでしょう(笑)。
 私は「萌え」は本当によくわかるんですよ。それはこちらに書いたとおりです。全然新しい価値観でも言葉でもない。歴史の中で時々言語化される普遍的な感情なんですよね。私はオタクではない(と自他ともに認めます)のに、「萌え」はあるんです。だからもちろん岡田センセイの言うとおり、「萌え」=オタクだとは思いません。
 で、平安から鎌倉、戦国時代への流れや、江戸から明治、昭和への流れを見ると分かるように、国風文化の爛熟と腐敗が進みますと、次に民衆宗教が流行るんですよ。で、そのうちになぜか戦争が始まる。だから、今ちょっと危険な時期に入ったんだと思いますよ、日本は。その点はちょっと憂慮します。今ふたたび宗教ブームですよ。
 オタク的(貴族的)文化って、どうしても妄想系ですので、宗教と結びつきやすいんですよねえ。疑似科学や超能力や妙な神仏が跋扈しがちです。岡田センセイの言うオタクの共同幻想、それはとっても平和的なものなんです。で、その次に来る共同幻想はちょっと危険。今そういうところに我々はいるわけです。
 いつもの繰り返しになりますけれど、また書きます。
 我々は時間を微分し、対象を分析し、疑似的な永遠性を求めて、そこに耽溺したがります。「コト化」の欲求です。「萌え=をかし(こちらに招きたい)」の感情です。それを反社会的になってまで徹底するのがオタクの人たちです。それはたしかに修行に似ています。そして、それを続けているとある時むなしさにとらわれ、「もののあはれ」を感じるようになる。「コト」の極めて「モノ」の本質を知る。本当に「物心がつく」わけです。
 そうしたら、宗教家になって瞑想するか、戦争でも起こして自ら築いた「コト」的文明を破壊するしかないんですね。悟るか自傷行為(あるいは自死行為)に走るしかない。私は痛いの嫌いなので瞑想したいんです。世の中は瞑想なんて退屈なんで戦争の方に行っちゃうんですけどね。
 話が前後しますが、修行僧のようなオタクがいなくなったのは、これはもちろんオタクの一般化、大衆化のおかげです。簡単に「をく(招く)」ことができるようになってしまった。メディアの発達と同時に商品としてのコピーが増殖しちゃったわけです。だから、当然それぞれの価値は下がりますし、求道者も求道しようにもできなくなってしまいます。そこに必ず昔は良かった的な反勢力も登場しますけど、まあ世の流れは止められませんね。鎌倉仏教なんか見るとよくわかります。大衆は楽な方に進みますから。
 そうすると、岡田センセイみたいなちょっとセンチメンタルな諦め派も現れる。一方、日蓮みたいな過激な人も現れたりするかもしれません。これから、日本の文化…というか、日本人の精神はどうなっていくんでしょうね。
 ということで、なんだか話が壮大になってしまいましたね。でも、私は本気でそんなことを考えてるんですよ。馬鹿みたいでしょう。
 さてさて、最後にもっと現実的なお話。
 今日は新入生歓迎球技大会というイベントの第1日目でした。ヲタ率70%、スポーツマン率30%の我が校としては、多くの生徒にとって辛いイベントです(笑)。一部の活発な非ヲタの先輩が大活躍して、新入生の女子をかっさらっていってしまう大会です(笑)。4月にしてすでにヲタは負け組…orz。
 だから、私は常に言ってるんです。新入生歓迎コミケとか、新入生歓迎ギャルゲー大会とかやれよって(笑)。たまにはスポーツマンに肩身の狭い思いをさせたいなあ。

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2008.04.23

『図解<出口式>論理力ノート』 出口汪 (PHP研究所)

56965625 日はある意味での出口王仁三郎の後継者を紹介しました。今日はまさに正統的な後継者の本です。これは素晴らしい。今、カミさんが「痛快!」と言いながら読んでます(というか図を見ています)。自分も含めて世の奥様方に読んで(見て)いただきたい、と申しております。賛成です(笑)。
 それにしても、まったく不思議なものですね。職場では出口汪さんの「論理エンジン」を教材にしていますし、汪さんのいとこである出口光さんの天命本に癒され励まされ、汪さんのお父さん出口和明さんの残した名著「大地の母」に興奮しつつ難渋し(膨大な量なので)、そして和明さんのおじいちゃんである王仁三郎の耀盌を毎日拝する…。はたから見ますと、私が出口教の信者に見えることでしょう。まあ、私は彼らの生徒みたいなものですよ。学ぶことがたくさんあります。「モノ」と「コト」の総合された、その先の世界を学べるんですね。
 私の「モノ・コト論」を読んでおられる方には、論理とはまさに「コト」であり、私はどちらかというとそれを否定し、「モノ」の復権を目指しているように感じられるでしょう。
 汪さんはその「論理」を身につけることを強くすすめます。「コト」の権化である「言葉」を正しく使うことこそ大切だと説きます。それだけ見ますと、私とは意見が真っ向から衝突しているように感じられるでしょう。なのになぜ私は彼に共感するのか。
 彼のすごいところは、「論理=言葉=コト」を武器に受験やビジネスのリングで勝つことだけを目指しているのではないというところです。
 彼はこの本の冒頭でこう述べています。
 「論理は他者意識から生まれる」「恋愛によって他者の存在を知り、受験によって自立の覚悟ができる」「論理に習熟した人間は、やがて論理など意識しなくなる」「真の国際語は論理である」
 つまり、彼の目指すところは、もっと先の「モノ」なんです。「コト」を通過したのちの「モノ」世界。それはなんなのか。あるいは悟りというものなのかもしれませんね。あるいはデカルト的に言うところの、分析の先の総合、知性の先の理性という世界なのかもしれません。あるいは不立文字の境地かもしれない。言語の集合体でありながら、言語以前の言語に帰っている、王仁三郎の「霊界物語」の世界かもしれない。
 いずれにしても、そこには調和や協調、人間の脳ミソのレベルを超えたところの(一見無秩序、渾沌に見える)秩序世界、ミクロとマクロの統合したような世界が開けているような気がします。あのペレリマンがポアンカレ予想の証明の先に見た「モノ」。彼がこの社会から姿をくらまし、全く語らなくなったというのは象徴的です。
 彼らとは実際レベルが違いすぎるんですけれど、実は私もそんなところを目指しているんです。こうして毎日書き散らしているうちに、何か全体像のようなものが立ち上がってくることを期待してるんです。もちろんなかなかそうは行かないわけですが。
 やっぱり、コトはモノの一部なんだと思います(反対のことを言っている有名な方もいますけど)。論理の習得や、いわゆる勉強や、修行という「コト」が結局前提になってるんですね。人間が、目指すべきところに到達するためには、どうしても通過しなければならないコトがあるわけです。
 今、カミさんが娘を叱ってました。「無理!」とか「意味不明!」とか言うなって。まったくです。最近、小学校ではみんなそう言うらしい。高校生ももちろんそうです。すぐに「無理!」「意味わかんね!」って言う。口癖になってるんです。
 で、汪さんも書いてますが、そういう言葉を使っているとそういう脳ミソになってしまう。そういう人間になってしまう。そうすると、「超やべえ」とか「ムカツク」とか「キモい」とか、そんなことしか言えなくなっちゃうんですね。まさにそこには自分の感覚というものしかありません。他者意識や思いやりや譲歩や尊敬なんてものはありませんね。
 それって原始人ですよねえ。言語以前の言語(笑)。我々は人間界から畜生界に行こうとしているのかもしれませんね。論理(コト)を使いこなせるのが人間なんでしょう。そして、その先の世界こそが天界なのかもしれません。できれば私はそっちを目指したいし、生徒や子どもたちにもそっちを見てもらいたいですね。その第一歩として、この本は素晴らしい導入になると思いますよ。

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2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2008.04.08

『ほんとうの環境問題』 池田清彦 養老孟司 (新潮社)

10423104 このおススメに何度も登場願っているお二人。そのお二人による夢の最強タッグが実現しました。
 結果、あまりに上等なエンターテインメントが完成。予想をはるかに超えるのがエンターテインメントです。断絶していたものどうしを結びつけるのがエンターテインです。
 何が断絶していたか。それは「人」と「自然」です。そして「私」と「『ほんとうの』真実」です。何が断絶させているのか。犯人は「カネ」です。そして「政治」です。
 私は何度も何度も繰りかえしてきました。資本主義、市場経済を続ける限り環境問題は解決しないと。真剣に地球にやさしくするんだったら、もういっそのこと清貧に甘んじろと。いや、死んでしまえと。
 私がいくら吠えたところで、そんなことは実現しっこありません。いや、このある種の天才二人がこうして吠えても、基本世の中は変わらないでしょう。カネは暴力と仲がいいのです。だから、一旦カネが本気を出せば、我々はひとたまりもないんです。
 うん、そうだ。いっそ、カネの力を借りてカネを制すか。そういう楽観的な未来展望というのもずいぶんとなされてきました。どうせ最後は自滅するよ、人類なんて。この本にも少しそういう臭いがあります。石油は全部使ってしまえとか。
 でも、それじゃあ、あんまり哀しいじゃないですか。人類というレベルではそれでいいし、そういうレベルならば人類ごとき絶滅しても、宇宙にとっては、あるいは地球にとっても、全然痛くもかゆくもないのかもしれません。でも、やっぱり、自分というレベルで考えると哀しい。
 その人々共通の哀しさ、それは倫理とはちと違うのかもしれませんけれど、そこんとこにまたつけこむ悪い企業や政治家がいるわけです。それが今、環境問題として騒がれているところの本質だと思います。なぜ、今環境問題が声高に叫ばれるのか、なぜ温暖化論が加熱しているのか。それは、それがカネになるから、すなわち政治になるからにほかありません。
 この虫好きオヤジ二人に共通しているのは、「ほんとうのこと」をいつも言ってしまうことです。それで商売している人です。それで虫採りの資金を稼いでいる。あるいは二人に共通していないのは、池田さんは私に好かれていない(たとえばこちら)けれども、養老さんは好かれている(たとえばこちら)という点です。その違いはどうして生じるのかというと、これはものの言い方によるものでしょう。ユーモアの質の違いでしょうかね。いや、虫としての質感の違いかな。ほら、虫の中でも、これは許せるけど、これは許せないっていうのあるじゃないですか。生理的に。
 というわけで、とにかく面白かったんです。私はここでついても表明しているとおり、完全なる環境問題懐疑主義者でありまして、そういう意味において、この本は私の知識や想像力をはるかに凌駕していましたから、それはそれは面白く読みました。それこそ30分もかからなかったのでは。そして、その30分間、ずっとニヤニヤしてましたよ。ウンウンうなずいてましたよ。
 内容については実際読んでいただく、あるいはAmazonのレビューを読んでいただけばいいですね。で、この本を読んで腹が立つ人ってどういう人なんでしょう。私の身近にもけっこういそうなんですけどね。なんとなく虫が好かないんでしょうか。スローガンやアクションで武装しなくちゃいられない人なんでしょうか。それともやっぱり自然よりカネ、すなわちワタクシ流に言えば「モノよりコト」の人なんでしょうか。
 繰りかえします。やっぱり私は「心より物(コトよりモノ)の時代」を標榜して行動していきたい。この本を読んで笑いながら真剣にそう思いました。

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2008.04.03

『山下洋輔のジャズの掟(オキテ)』 (NHK趣味悠々テキスト)

Jazz45 今週から始まった「[新]趣味悠々・国府弘子の今日からあなたもジャズピアニスト」を観て、10年前のこの講座を思い出しまして、久々に本棚から引っ張り出してきました。
 ジャズは理論が大切です。自由度が高いからこそルールもたくさんあります。ジャズの演奏をするのには大きな壁がいくつかありますが、この理論の学習も大変なことの一つですね。ジャズのそれに比べればクラシックの理論はちょろいもんです(私はもちろん両方とも完璧…なわけありませんが…笑)。
 私もジャズが大好きでして、楽器をやるものとしてジャズの演奏を志した時もありました。今では完全に諦めちゃってますけどね。そう、今までいろいろなことに挑戦してきましたけど、どうもゴルフとジャズに関してはセンスがないようです。今ではどちらも観る・聴くだけになりました。
 無理なことに果敢にも挑戦していた若かりし頃、何冊かのジャズの理論書を買いました。で、どれも最初の20ページくらいで放り出しちゃったんですね。まあ、音楽の習得は言語の習得に似てますからね。文法はつまらんわけですよ。早くペラペラしゃべりたい、その欲求ばかり先走りましてね。リスニングはそこそこできていたつもり(実際には雰囲気に酔っていただけですが)だったので、辛かったんですね、地道な学習が。
 一番たくさん演奏してきた古楽に関しては、文法の前に無理やり会話させられる機会が多かったので、比較的楽しく習得できました。そう、合奏の経験がすなわち会話の経験だったわけです。もちろん、ずいぶんと時間がかかりましたし、あいかわらずなんちゃってでネイティヴにはほど遠いんですけどね。
 ジャズではそういう機会は全くありませんでしたから。まあ、いきなりNew Yorkかどっかでジャズをやらないと喰っていけないとかいう状況に置かれていたら、今ごろできるようになっていたかもしれませんね、なんちゃってでも。
 で、話を戻しますと、いろんな理論書が無駄になった中で、この本だけは本当に役に立ちました。いや、これによって理論が習得できたということではなく、これによってジャズをあきらめた(そんなレベルじゃないけど)という意味において。
 これ、業界でもけっこう伝説の書なんですよね。とにかくあの山下洋輔さんが「掟」と言い、「掟」を破るなら自己責任で、そして人前ではやらないようにと釘を刺すんですから。一見(一聴)メチャクチャに聞こえる彼の音楽は、実はその掟をベースにして、それをギリギリまで破るところに存在しているのだ、いうことですね。説得力ありすぎ。
 この講座、カトリヤン教授こと香取良彦さん、大坂昌彦さん、納浩一さん、道下一彦さんというそうそうたるメンバーによる模範演奏もあったりして、初心者のみならずベテランをもうならせる内容でした。私も何回か録画しているはずですけど、見つけるの大変だろうなあ。今もう一度観るとまただいぶ違った感想を持ちそうな予感がします。
 とにかくテキストは読んでいて楽しい。理論なんて習得しなくても、ただ読んでるだけで楽しい。山下さん独特の言い回しが面白い。導入の文章は比較的まじめですけど、実践に入るともう山下節全開。リズムは「渋谷」と「御徒町」になるし、ハナモゲラ語まで登場する始末。
 最後、出演者によるジャムセッション(対談)は、ある意味またまじめモードに戻ります。これが深いんだな。全ての音楽を志す人に読んでもらいたい。ジャンルは関係ないですよ。そして、実は音楽に限らない真理もそこにあるんです。人間の生き方、社会のあり方、デモクラシー、喜びや楽しさとは何か…。
 本当に素晴らしいテキストです。もちろん理論書としても優れていますよ。特にブルースとモードの解説は絶品です。

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2008.04.02

『三島由紀夫―剣と寒紅』 福島次郎 (文藝春秋)

Img270a_thumb 先輩の先生にお借りしていたものをようやく読みました。
 三島は私にとって大きな壁であり、いまだそれを乗り越えるどころか、それに対面しようとさえしていない人物です。
 最近で言えば土方巽、美輪明宏や寺山修司、あるいは赤塚不二夫、出口王仁三郎、さらに昭和天皇と、その周辺、外堀はこのブログでもずいぶんと扱ってきました。そこから浮かび上がる三島像はそれぞれ神秘的で魅惑的ではありましたが、どういうわけかその人本人について考えたり調べたりすることもなく、いや、それ以前にその作品すらほとんど読まないという不思議な事態。近くにある三島由紀夫文学館にも、あえて足を運ばないでいます。
 しかし、そんな自分に対して不安や不満はありません。なんとなくですが、来年あたり、そうですねえ、三島の自決した年齢くらいに私もなりますので、そのあたりから自分の中の三島が起動するような気がしているんです。だから、今はあえて外堀付近から彼をちらと眺める程度にしておきます。
 それなのにいきなりこの本か、と言われそうですね。しかし、この本は私にとってはいわば安全圏なのです。彼がゲイであろうと、福島次郎と肉体関係にあろうと、あまり驚くべきことではありませんし、それが彼の生み出した芸術や思想にとって、まあ全く影響がないとは言えませんが、本質であるとも言えないと思います。
 今からちょうど10年前ですね。この本は発刊されてすぐに発禁となりました。三島の遺族から訴えられたのです。表向きは三島の書簡を無断引用したという著作権に関する訴えでしたが、もちろん実際にはその衝撃的な内容への否定と反発であったわけです。
 正直私は大変に感動しました。二人の濃厚なベッドシーンにはたしかに気恥ずかしさを感じましたけれど、それ以上に人間三島に初めて出会えたことの方が私にとっては衝撃的でした。その衝撃は私にある種の安心を与えてくれたと思います。高い壁だと思っていた三島が、なんとなく等身大というか、自分の目線と同じ存在というか、いずれにせよ、私の中で神格化されつつあり、あるいは偶像化されつつあった三島が、再び人間の血を通わせたような気がしました。
 ものすごく繊細で弱々しく、そのために意識と肉体において「耽美」の鎧を身につけずにはいられなかった人間三島の姿がそこにありました。それを浮き彫りにしたのが、たまたま同性愛という形式であったというだけでしょう。形式の違いだと思えばなんでもありません。男女の仲という通常の形式においては、あまりに普通な人間性の発露のあり方だと思います。
 ところで、本書に先日お会いした細江英公さんの名前が出てきました。もちろん、三島の裸体写真集「薔薇刑」の撮影者としてです。この「薔薇刑」はいろいろな意味で重要な作品ですよね。改めて細江さんの力…それはカメラマンとしての力とともに人間としての力でしょうか…を思い知りました。私はとんでもない人を被写体にしてしまいましたな(笑)。
 ということで、この本は三島を神格化したい人は読まない方がいいでしょう。しかし、私のようにいずれ彼を身近に感じてみたい人には非常に重要な参考文献でしょう。フィクションとして読んでもそれなりに楽しめると思います。福島さんもそこそこの筆力のある方ですので。そういう意味で面白かったのは、福島さんが自身の作品を三島に送ったのに対し、三島がそれを評した手紙ですね。三島の文学的感覚の核心に触れたように感じました。
 再刊はありえないと思いますが、比較的簡単に手に入りますので、興味がある方はご一読を。

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2008.03.25

『土方巽 絶後の身体』 稲田奈緒美 (NHK出版)

14081274 まさに絶後の力作!これはすさまじいデータベースであり、そして戦いの記録であります。
 先日「土方巽・生誕80年記念  HOMAGE TO HIJIKATA vol.1 舞踏・新研究フォーラム2008」の会場でお会いした稲田さん、こんな言い方は失礼とは思いますが、これほどのエネルギーをお持ちの方とはお見受けしませんでした。とても柔和な笑顔の女性で、私たち門外漢の不躾な話を優しく聞いて下さいました。
 この本を読み終えた今、私は稲田さんにもう一度お会いして心から敬意と謝意を表したい。本当に私の人生が変わってしまうほどの衝撃を与えてくれました。これは大げさでもなく冗談でもありません。
 誰もが陥る「土方を語る」という罠。これはいつも私が繰り返しているように、「モノ」を「コト」としてとらえる、すなわち、本来言語化できない「モノ」を「コトの葉」で「カタル」危険であります。今までも、多くの方々がそれに執着して、すなわち自ら土方を理解しようとして、深い迷宮にはまってしまいました。私は三島でさえそうだったと考えています。もちろん、私もこちらであるいはこちらで語らんとして恥をかいていますね。
 なぜ、人はそう語りたがるかと言いますと、結局「理解」「解釈」という安心を得たいのだと思います。不随意であり、言語化不能であり、未知であり、豊饒であり、無限である「モノ(物の怪)」に対する恐怖や畏怖がそうさせるのでしょう。
 稲田さんは、この600ページに及ぼうかという大作で、一つの戦いを挑み、そしてそれに勝利しているように感じます。今言ったような「土方巽」を「語る」ということ(「モノ」を「カタル」=「物語」)の危険性に対して、非常に冷静に一つの手段を徹底しているのです。それは、まず事実を事実として記述すること、まずは解釈抜きで「記す=著す=明らかにする」こと。そして、それぞれの事実について、最初に自ら「語る」のではなく、他者に語らせるということ。つまり、土方を取り巻く多くの天才たちが、土方という大天才にどう挑んでいるのか、あるいはどう対抗せんとしているのか、どう敗北しているのかを、これもまた事実として記しているわけです。
 もちろん、稲田さん自身の読解も控え目ながら記されています。それがまた秀逸であり、私も大いに刺激を受けたのですが、しかしやはり著者はあくまで謙虚です。あるいは自重している、あるいは巧妙に避けているとも言えます。これは私は闘い方として非常に正しいと思います。もし、もしも私がこういった無謀な戦いをせねばならない立場にあったら、やはり巧妙に(私の場合は狡猾にですか)逃げたでしょう。なぜなら、勝ち目がないからです。
 この本を通じて、私が再読した土方は、やはり「言葉」に対抗する存在でした。「言葉」を「西洋」や「都会」や「文明」や「社会」や「科学」や「論理」や「人間の営み」そのものに置き換えてもいいのでしょうが、それではあまりにも行儀の良い、それこそ今挙げたそれらの枠組みの中での思考に陥ってしまいます。だから、今回は、今私の頭が書きたがっていることはあえて書きません。無様な惨敗が確実だからです。ただ、ただ、感じて、その次に続けたいと思うだけにしておきます。
 次に…そうです。ちょうどいいタイミングですね。明日から秋田に行きます。「鎌鼬の里」を訪れます。そこでまた何を感じるのか。そして語りたくなるのか。語るのか。あるいはまた語れないのか。非常に楽しみです。
 それにしてもこの本はすごい。もちろんそこに息づく「土方巽」という「絶後の身体」…それは、私はこの国最後の「モノ」なのかもしれないと思うのですが…の得も言われぬエネルギーのおかげではありますが、しかしまた、それを見事な手法と見事な決意とで書籍の中に充填した稲田奈緒美さんの「思い」のおかげであることも忘れてはならないでしょう。
 最後に一言。土方はまるでもう一つの宇宙のように、我々の住む社会、我々の知る風景と戦い続けました。孤高の戦いです。私たちが彼を恐怖し、しかしどこかで共感するのは、彼をこの世の敵であると見なす自分と、しかし一方でこの世を救うメシアだと感じる自分を内在しているからです。だから、私たちは彼と戦い、そして彼とともに戦い続けなければならないのでしょう。少なくとも、今こういう形で彼に再会してしまった私は、そうして行くつもりです。

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2008.03.22

『明日の広告』 佐藤尚之 (アスキー新書)

75615094 今日は縁あって某有名ハンバーガーチェーンの社長さんと差しで話をする機会を得ました。経営や教育に関する貴重なお話をいただき、感銘いたしました。ありがとうございました。
 その会社は、たとえばテレビCMなんかをそれほど積極的にやらないで、どちらかというと口コミの力でブランドイメージを築きました。独特のマーケティングもあって、激戦区で確固たる地位を不動のものにしています。
 社長さんのお話でなるほどと思ったのは、従業員へのサービスがお客様へサービスにつながる、従業員の心からの笑顔がお客様に対する本当のサービスになるという考え方ですね。つまり、従業員の働きぶりが広告にもなるということです。
 ちょうどこの本を読んでいたところだったので、そのあたりのお話を興味深く拝聴することができました。全く違う視点もありましたけれど、結局は一緒のことを言ってるのかな、と思いました。結局は生身の人間どうしのコミュニケーションなんだよなあ。
 ちょっと前に岡康道さんと小田桐昭さんの「CM」を読みました。それで広告のイメージがだいぶ変わった。その後もまたいろいろとご縁があって、広告関係のクリエイターさんたちとお話をする機会がありまして、ちょっぴり広告がマイブームです。自分の仕事にも実は無関係ではありませんし。
 まあ、相変わらず私独自の変な切り口なんですけどね。そう、「物語論」的な捉え方です。今日の記事にも、昨日に続き「モノ・コト論」や「萌え」が登場します。
 「さとなお」さん、いや今回は本名の佐藤尚之さんの名前で書いてますね、彼は若手(と言っていいのかな)クリエイティブ・ディレクターの中でもカリスマ的な存在です。
 この本、サブタイトルにあるように「変化した消費者とコミュニケーションする方法」を書いた本です。広告をラブレターに模して説明してくれているんですけど、まずそれが実に分かりやすい。相手に「私はいいですよ!私を買ってください!」というメッセージを伝えるという意味では、たしかに双方似通ってますね。
 で、消費者(ユーザー)がどんなふうに変ったかというと、
・ラブレターが相手の手に届きにくくなった。
・他に楽しいことが山とあり、相手はラブレター自体に興味をなくしている。
・ラブレターを読んでくれたとしても、口説き文句を信じてくれなくなった。
・しかもラブレターを友達と子細に検討し、友達に判断を任せたりする。
 というふうに説明されています。要はネット社会になって、情報が丸裸になっているということですね。BBSやSNSなんかでの一般人の発言こそを信じる時代になったと。なるほど。その通りだ。
 では、どうすればいいか…という答が、決して悲観的ではなく、非常にポジティブに語られています。これは広告に限らず、現代のコミュニケーション全てに当てはまることですから、たとえば私のような教育に携わっている者にもとっても有用なお話が満載でした。結局、真心・誠意ということかな。伝える側の真剣さ、思い入れ。「スラムダンク一億冊感謝キャンペーン」の章なんか、ホント感動ものでしたよ。
 で、そのへんの結論については実際読んでもらうとしまして、昨日に続き、「モノ・コト論(物語論)」で咀嚼してみましょう。
 私が興味を持ったのは、消費行動モデルAIDMAとAISASです。古典的な「Attention→Interest→Desire→Memory→Action」に対して最近は「Attention→Interest→Search→Action→Share」だと。つまり、ネット社会になって、検索して感想を共有するという新しい消費行動が加わったということですね。言い方を変えると「Desire→Memory」の部分がそっくり「Search」になり、最後に「Share」が加わったということですか。
 たしかに昔は興味を持ったらもう買うしかなかったけれど、今や検索していろいろと情報を得たら、もうなんだか満足しちゃって購買意欲が失せた、なんてことも日常茶飯事ですね。そういう意味でも、「Attention」を司る「広告」の役割がまた難しくなっちゃったわけです。
 で、私はこれを読みながら、ああこれはまさに物語論だな、と思いました。「Attention」こそ「モノをカタル」ということですね。つまり、ワタクシ的な説によりますと、「モノ」とは「未知」の存在であり、それを相手の脳の中に「固成する(コト化する)」のが「物語」の本義ですから、まさに広告の行なう「Attention」と同じですよね。それによって「モノ」が「コト」になる。気づく。知る。
 で、古典の時代はですね、源氏物語のようないわゆる作品としての物語も、また、「物語す」という形で頻出する日常の井戸端会議も、とにかく相手の注意を引き、またそこから興味を喚起するに充分な役割を果たしていたんですよ。立場を変えますと、物語受容者の方の「妄想力(想像力・創造力)」も長けていたと。でも、現代ではそれが他者の情報によって補完され、結果収束(終息)してしまって、それ以上のダイナミズムが生まれなくなってしまった。それは、情報社会、特にネット社会の弊害かもしれませんね。
 さて、また話がとんでもない方に行っちゃいますけど、昔「萌え=をかし」のところにも書いた、「ゆかし」と「をかし」の関係について、ちょっと思いついたことがありましたので、書いておきます。
 「ゆかし」というのは「行かし」であり、それは「Interest」であるとも言えます。つまり、行ってでも知りたい何かがあるんですね。実際、昔は現場に行かなければその願望は満たされなかった。でも、今は「Search」すればもうおしまいですからね。便利と言えば便利ですよ(ちょっとあっけなさすぎますけど)。
 で、本来「Interest」から生ずるべき「Desire」ですが、これはつまり所有欲ですよね。こちらに招きたい。これこそ「をかし(招かし)」なわけです。現代風に言えば「萌え」ですよ。「カワイイ」なんかも、単なる「可愛い」ではなくて、所有するための消費欲求を伴った感情です。
 古典的な「ゆかし」や「をかし」はなかなか実際の所有には至らないケースがほとんどでした。そこに、「思い通りにならない」という「もののあはれ」も生じて、新たなる物語や歌なんかがた〜くさん出来ちゃったわけです。
 それが現代では、まず工業化や交通・流通の進化によって、実際に所有することが可能になった。つまり「Desire→Action」、そしてその先の結果の実現に向けて、近代社会は進化してきたということです。
 さらに情報化によって、疑似的にこちらに招くこともできるようになった。我々は、場合によっては購買や消費という形態でなはく、単にデジタルコピーしたもの(コト=情報)をゲットすることで満足するかもしれません。とにかく疑似的にであれ手もとに招いて所有することができるようになっちゃったんですね。
 そして、忘れてはならないのは、「Action」の質が、ゲットしたモノへの愛情に影響するということです。その行動がエネルギーや時間を要すれば要するほど、モノへの愛情は深まる。逆に、安易に簡便に得たモノに対する気持ちはすぐに冷めます。たいがいの場合、そういう単純な対応関係があります。
 つまり、現代では、「いとをかし」と思い続ける前に、実際に「招(を)く」ことが可能になり、そしてその結果止めどもない生産と消費と廃棄が生み出されているということになります。「ゆかし(行きたい)」はとっくに絶滅し、さらに「をかし(招きたい)」さえも消えつつあるんですね。だから、当然のごとく「もののあはれ(不随意への嘆息)」なんかほとんど復活のチャンスすら奪われてしまった。
 そうすると、現代は「萌え=をかし」の時代だなんていうのも、実はもう古い感覚であり、それすらもない、なんだかすっからかんな、ある意味虚しい(空しい)時代が到来しつつあるのかもしれません。その空虚感がまた「もののあはれ」を喚起したりしてね。
 ただ、話を冒頭のハンバーガーに戻しますと、飲食物に関してはヴァーチャルでは置換できない部分がありますよね。そのへんについて、また社長さんとお話しできればと思っています。続きはまたいつか。

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2008.03.21

『現代日本女性史―フェミニズムを軸として』 鹿野政直 (有斐閣)

64107680 この前の団鬼六先生の人生論というか女性論を読みまして、ちょっと違った(だいぶ違った…かな)角度から勉強してみようかなと思って手にしてみました。
 とっても勉強になったんですけど、いちいち内容についてここで語ってもどうしようもないので、いつもの通り読みながら考えたことをつらつらと記します。また「モノ・コト論」になりますがご容赦を。久々にオタク論も出てきそうですぞ。
 私、二元論はいかん、デジタル的思考は好かんとかいつも言ってますけど、たとえば「モノ・コト論」なんかもろに二分ですよね。そこんとこの矛盾について疑問を抱かれる読者の方もいらっしゃるでしょう。
 今日はそのへんについて明確にしておきます。えっ?なんでそれが女性論なのかって?実はですね、私、この世の中で完全に二分てきるものって「女と男(陰陽・雌雄)」と「モノ・コト」だけだと思ってるんです。ずいぶんと乱暴な感じがしますでしょう。でも、私の考えでは本当にそれしかないんですよ。で、さらにその二のつのペアが密接につながっていると。そして、その他の二分されているものは、それらの比喩に過ぎないと考えています。
 確認ですが、ここでの「モノ」とは、概念化されていないもの、認識されていないものです。「コト」はその逆。脳ミソの中に情報としてあるものです。自分にとっての未知・既知とも言えますね。あるいは自分にとっての「無・有」。
 そして、「女=モノ」「男=コト」と結びつけます。マ行音とカ行音の対照は面白いですよ。「イザナミ・イザナキ」とか「ヒメ・ヒコ」とか。ついでに私は助動詞の「む(推量・未来)」と「き(過去)」もそれに絡めています。未知と既知ですね。
 簡単に言ってしまうと、女性はつかみどころがないということです(笑)。男はなんでもはっきりさせたがる。女は夢想しがちですが、男は事実にこだわる。
 で、お互い持っていないものに憧れますからね。女性は「コト」を求める。そこに生じるのは