カテゴリー「書籍・雑誌」の469件の記事

2010.02.07

『霊の発見』 五木寛之・鎌田東二 (角川文庫)

04129440 といいますと、なんとなく、胡散臭い、あるいは嘘臭い、あるいはただ恐い、そんな感じを持つ方も多いと思います。とにかくあんまりそういうことを言っていると、現代においてはかなり怪しまれるようです。あるいは逆にメチャクチャ尊敬されるか。
 この前、「鬼=もの」について書きましたね。昨日も「権現さま」の話を書きました。私はそんな感じで、自分の「モノ・コト論」の中で「モノ」を扱っているために、それほど抵抗はありません。また、もともと科学で証明できるものとか、目に見える、耳に聞こえるものの方が「全体の一部」であるという、実は当たり前のことを認めている立場というか、実感としてそれらに対する「その他」を認めて生きてきた人間ですから、一般の人よりもかなりそういう世界に近いところで生きている方かもしれません。
 さて、この本ですが、なかなか内容が濃い。あの五木寛之さんと、「霊学」や「言霊学」の専門家にして、神道ソングライター、そして現在は京都大学こころの未来研究センター教授としても御活躍の鎌田東二さんの対談ですから、それは面白くなりますよね。
 ここで語られる「霊」は、いわゆる死者の魂的なものだけではなく、神仏や物の怪など、それこそ「その他大勢」にわたっています。それは当然ですよね。我々の知っている「コト」より、知らない「モノ」の方が圧倒的に多いことだけは確実ですから。
 五木さんはまあ作家さんですから、そういう世界をいくらでも表現できる立場だと思いますが、鎌田さんは学者さんですから、なかなか難しいとも思うんですよ。なにしろ、「霊」は、まさに「学問」や「科学」の補集合だからです。
 鎌田さんの御著書は何冊も読んできています。特に「言霊」に関する学術的な研究書には大変お世話になっているとも言えます。それらでもそうでしたが、とにかく、そういう世界に対するアプローチのしかたがしなやかでしたたかなんですよね。自然体の強さというか。
 普通、そういう世界を対象にすると構えちゃうと思うんですよ。胡散臭くならないようにするために。しかし、さすが御本人も神主さんであられ、また、石笛などを演奏される、それこそ「霊的」な生活を普通にしている鎌田さんですから、その辺のアプローチが本当に自然なんです。正直うらやましく思います。
 この本が出版された2006年は、いわゆるスピリッチュアル・ブームの頃です。それらが商売になった、ちょっと異常な状況でした。それらがカネになり、そして一方で批判されていたのは、やはりそこに胡散臭さか伴っていたからでしょう。その胡散臭さとは、そうした本質的な実感を実は持っていない、すなわち霊的な生活体験を本当はしていない人々が、無責任に語りすぎた結果だと思います。
 私は美輪明宏さんや江原啓之さんに関しては、それなりに認めていたわけですが、ただその取り巻きというか、メディアの側というか、カネもうけをしようとした側の胡散臭さは、やはり感じていました。
 結果として、あのブームは、私たちから「霊的」な世界を遠ざけてしまったと思っています。
 おそらくそうした風潮を受けての対談であり、出版であったのでしょう。無責任なメディアとは大違いで、実に深く重い、しかし肩ひじ張らない対話が展開されています。つまり「善意」に満ち溢れているのです。やはり「畏敬」こそ「愛」であり、「魂」であり「善意」なのだなあと再確認。現代にはそれらが欠けているのです。
 今までそういう世界に抵抗があった方も、また逆に必要以上に(?)興味を持っていた方も、ぜひこの本を読んでいただきたい。私たちが知っている世界はあまりに狭いということもわかります。そして、「その他」の世界を知ることによって、我々の人生が確実に豊かになるということもお解りになるでしょう。
 私がいちおう専門に勉強している出口王仁三郎も、もちろん世界史上最強の霊能者として何度も登場します。また、私の運命を変えた、富士北麓に伝わる古文書のことも一言出てきます。
 私の心の中の風景を知りたい方もぜひお読みください…って、そんな人いないか(笑)。

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2010.02.05

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』 松本侑子 (光文社)

Bkoiob い糸という記事の中で少し紹介した山崎富栄さんの評伝小説。
 へたな小説やコミックや映画なんかより、ずっと心に迫る作品ですので、ぜひお読みいただきたい。
 昨日の記事にも実は彼女は間接的に(いや、直接的に?)登場しています。御存知のように、太宰治は彼女と玉川上水で入水自殺しました。赤い糸ならぬ紐で二人は結ばれていました。
 彼女は遺書の中で、太宰と同じ墓に入れてほしいと言っていますが、結局、それはさすがに無理でした。愛人がその人の墓に入れるわけがありません。
 当然のことながら、太宰と一緒の墓に入ったのは、津島美知子、すなわち正妻でした。
 12月23日、そこに私はお参りしたわけです。
 この評伝小説を読むと、もちろんヒロインたる富栄さんの実に波乱万丈な人生に驚嘆することもできます。なにしろ、良家のお嬢さんとして育ち、職業婦人として第一線で活躍し、縁談にも恵まれて幸せな結婚をした女性が、結果、不倫の末に天才作家を「殺した」犯人とまで言われるようになってしまうわけですから。
 運命のいたずらというにはあまりに過酷でした。その不埒ないたずらをしたのは、「戦争」と「物語」でした。「戦争」も一つの共同幻想でしょうから、一つにくくって「物語」と言ってもいいのかなあ。
 とにかく、富栄さんは「物語」に翻弄されてしまいました。まずは戦争が、新婚生活たった1週間過ごしただけのご主人を奪い、さらに、その生死すら分からない生殺しの状態で富栄さんを苦しめた。その間に「物語」の達人太宰治が現れ、「昭和2年…そういや、弘前の駅前で、きれいな女の子を見かけたな、汽車からおりてきたんだ。無論、君は憶えていないだろうが、江戸弁を小生意気にあやつって、いかにも東京趣味のしゃれた出で立ちの、小憎らしいほど可愛い女の子を見た覚えがあるよ」などと、いかにも彼らしい「ウソ物語」を吐いて、彼女の運命を決定的に破壊しました。
 その後の、富栄さんの太宰への愛情と献身は、彼女の残した日記が美しく濃厚に語ってくれます。結核による太宰の喀血を、彼女は直接自分の口で吸って除いてあげました。そんな恋愛できますか?太宰の「はったり」に比べたら、彼女の「真実」の方がずっといい!…はずなんだけれど。ううむ、そこが文学の難しいところです。
 さてさて、筆者の松本さんは、基本的に、富栄さんに対する世間の厳しい評価を覆す姿勢をとっています。私もこの美しい(!)女性を悪者にしたくないという心情を持っていましたから、その点では溜飲を下げましたね。
 ただ、読む前になんとなく予感していた「やっぱり太宰はずるい」という結論は、ややはずれたと言えます。美人の富栄さんにシンパシーを抱きつつ、イケメンの(いつも書いているとおり、文章がイケメンなんです)太宰を貶めるという、まあ、男性として正常であろう感覚は、微妙に空振りを喫しました。
 私の心には、富栄さんと太宰ではなく、意外な人物の姿が焼きついて残ったのです。
 それは、富栄さんのお父さん晴弘さんと、斜陽の人太田静子さんと、太宰の正妻石原美知子さんでした。
 最愛の娘をそのような形で「奪われた」晴弘さんの悲嘆と憔悴、しかし、そうしたスキャンダル死ののちも娘を信じ愛し続ける姿。これはもう涙なしでは読めません。最も「物語」に翻弄されたのは、実は晴弘さんだったのかもしれません。
 そして、太田静子さん。同じ愛人として、しかし、自らの日記と交換に太宰の子どもを得、また、実はその日記も「斜陽」という世紀の名作を生むという、二重の幸福を味わった女性の、なんというか、したたかさとでも言うのでしょうか、余裕とでも言うのでしょうか、そういう生命力を感じましたね。
 石原美知子さん、いや津島美知子さんに関しては、山梨出身ということもあり、また、今春開校する中学の場所にも縁のある方ですから、なんとなく「良妻賢母」の代表のように尊敬申し上げていたところがあったんですね。『回想の太宰治』の記事にも、そういうことを書きましたっけ。まあ、やっぱり彼女を崇めることは、太宰を貶めることにつながっているわけですが…笑。
 しかし、この本には、神格化されていない、女、妻、母としての津島美知子像が見え隠れしていました。たくさんの子ども(含む太宰)を抱えている中で、愛人問題が頻発し、しまいには武蔵野心中ですからね。そりゃあ、いくら美知子さんでも狂うでしょう。
 いや、それでも、それでもなお、美知子さんは立派だったと思いますよ。その結果として、当然のごとく、太宰の遺伝子を最も多くこの世に残し、そして、太宰と同じ墓に入ったわけですから。女としては、それこそが勝利の証でしょう。
 というわけで、本当にいろいろな人間模様を堪能することができる作品です。女性にも男性にも、ぜひ読んでいただきたい。そして、くやしいけど、やっぱり太宰治は天才だったと思おうじゃありませんか。

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2010.01.19

『Twitter社会論 新たなリアルタイム・ウェブの潮流』 津田大介 (洋泉社新書)

86248482 バマ大統領がTwitterに初投稿というニュースが。
 私はいまだツイッターには参加していません。見るだけです。やってみればその面白さや可能性がわかるかもしれませんが、とりあえず旧メディアであるこの「古典的ブログ」という形式が自分には向いているような気がします。
 基本的につぶやきを公開することにまだ抵抗があるんですね。ある意味まとめあがっていない思考の断片を披瀝する価値がいまいち分からないのです。
 この本を読めば、それがどんなにクリエイティヴな世界であるか、だいたい想像できます。しかし、これは私の性格の問題だと思うのですが、しっかり構成、校正されていない「言葉」が、勝手に解釈されて、勝手に成長していくのが、ちょっと怖いような気もするのです。
 似たようなものに、mixiのボイスというのがありますが、あれこそどうも苦手な世界です。日本人のつぶやきはどうしても「愚痴」になりがちで、それを読まされる方としては、正直不快になるだけです。
 もちろん、そんな負のつぶやきばかりではありませんが、ああやって「文字」にして「言葉」にしてしまうことによって、ちょっとした不快の萌芽が実体化してしまうと思うんです。それって、ストレス解消になるんでしょうか。それとも誰かにかまってもらいたいだけなんでしょうか。いずれにしても、自分にとってもあんまりいいことではないような気がするのですが。
 ちなみに今の時点の私のマイミクのボイスを見てみると、約9割がマイナスな感情の吐露になっております(苦笑)。これはSNSという「社会」、クローズドで基本実生活に根ざしたコミュニティーの、ある種の「気持ち悪さ」ですね。実に不毛な感じがします。さすがにツイッターはこんな感じじゃないだろうな。
 まあそれでも、こうしたブログの記事や、mixiの日記みたいに、構成や校正をしなければならない場には、いろいろな「他者性=公共性」が介在するので、その人自身のリアルな露骨さというか、ある意味肉体性なんでしょうかね、そういうモノはたしかに希薄になります。
 インターネットというのは、不特定多数の脳ミソの共有です。今まではそういう感じだったわけですが、いよいよツイッターのように「リアルタイム」性を獲得して、結果として「理性」以前の「感情」や「感覚(今何を見ているとか、食べているとか、どこにいるとかも含む)」を共有できるようになってきたわけです。これは究極の世界一体化ですよ。
 そうすると、さっき懸念した、素材としての洗練されていない「言葉」が、勝手に誰かによって編集されていくことも、究極の他力だと思えば許せるような気がしてきますか。しかし、その結果がどうなるのかなんて、誰も考えていませんし、分かりませんよね。ただ、なんとなくですが、私はその先にあるのが、いいことばかりではないような気がします。予感として。
 まあ、言語化する時点で「感情」や「感覚」の編集がなされているわけですし、考えようによっては、あの字数制限は編集を要求するものだとも言えますがね。ただ、その編集度の低さは否めないと思います。
 そんなツイッターやボイスの持つ、リアルタイム性と無責任性(ゆるさ)と、それから文字数の制限がもたらすある種の韻文性からして、これを「和歌」や「短歌」や「俳句」の世界と比べる向きもあります。この本でも最後の勝間和代さんとの対談の中で、そんな話が出てきます。
 ちょっとそれは違うような気もしますけれど、しかしたしかに、これらの「つぶやき」が、音声言語と文字言語の中間態であるというのは事実でしょうし、タイムライン上で流れるように消えていくが、しかし検索も可能という、今までにない言語メディアであるというのも興味深いところです。
 書き言葉、特にネット上の言葉の面倒なところは、基本「永遠に残る」ということです。そこからBBSなどでは面倒なケンカが起きたりするわけですよね。文字によって、我々の思想や感情は時を超えて残ることになり、それが良い結果と悪い結果両方を産むことになっているわけです。音声言語であれば時の流れにまかせて洗い流すこともできたのが、書き言葉ではそれが難しくなる。
 それを、上手に流していくところに、ツイッターの魅力があるのでしょうね。
 というわけで、私は学校現場でこのツイッターをうまく利用できないか考えているのです。しかし、なかなかいいアイデアが浮かばない。ちょっと考えられるのは、まあ、基本閉鎖的な学校生活をゆるく実況中継することで、より公共性を持たせたり、あるいは単純に、保護者の方へリアルタイムでありながらかつプライバシーがある程度保護された情報を伝えるという使い方が考えられますね。
 4月開校の中学で活用できないか、今後もいろいろと考えていきたいと思います。まずは自分がちゃんと参加してみないといけませんね。

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2010.01.18

『いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか』 大屋洋子 (講談社+α新書)

20100119_64403 路大将のおかげで、仕事も忙しくなりました。
 あんまり憎らしいので、報復にこの本を読みました(笑)。お前には負けないぞ!と。現代の40代オヤジだってモテるんだ!ww
 というわけで、とっても忙しいので、あんまり詳しく書けませんが、ええと、結論から言いますと、20代の男がヘタレすぎるってことですね(笑)。分かります。卒業生なんか見てても、非常に男としてはがゆくてしかたない。草食系とも言えるけれど、それ以上に、いやそれ以下に精力的でない。いけませんね。
 やっぱり、なんだかんだ言って、昭和の男…いやいや、平安の男、つまり恋路大将みたいじゃなきゃダメってことでしょうか。
 以前、草食系?肉食系?という記事にも書きましたように、平安や江戸、戦後などの国民総貴族化時代には、男子は女性化するのですが、それでも、平成の男とはちょっと違うんですよね。
 その記事では、本来肉食であるはずの世の女性までもが草食化していることを憂えましたけれど、考えてみると、それもまた男性の責任であるとも言えるのですよ。
 つまり、今どきの男どもは、女の肉食性を引き出すことができないのです。それで、若い女は常に不満だし不安だし、半分あきらめムードになり、いよいよ草食化してしまう。そういうことです。
 で、この本では、肉食系…というよりは、ワタクシ的には「女性の肉食性を引き出す、あるいは活かせる草食系男子」の最後の世代40代に、ギリギリ光明を見出しているわけです。20代の女性たちも、自分たちの肉食性を自然に導き出してくれる男を求めているのだ、と私は解釈しました。
 大屋さんの論もなるほど納得できる部分が多い。さすが電通のやり手ですね。プレゼン力が半端ではない。この本自体が、立派なプレゼンテーションになっています。
 導入から構成、文体やグラフ・表、絶妙な実例(ちょっと不倫に偏りすぎてますけど)。非常に勉強になりました。
 広告はつまり「洗脳」でありますから、このようなプレゼン力というのは基礎の基礎です。読んでいる我々をその気にさせる力がこの本にはありますね。説得力というより、やっぱり洗脳力。
 もちろん、私はそんなプレゼンに躍らされたりはしません。先ほどのように、大屋さんの説を更なるステージ(まな板)に乗せちゃいます。
 ま、そんなわけで、俎上に乗せる食材としては、非常においしい、出来の良い本でしょう。世のいい加減きわまりない占い本やら、週刊誌の記事なんかに比べれば、ずっと立派な社会学のエッセイだと思いますよ。
 基本、女性に読んでもらいたい本ですが、20代男性にとっても耳の痛いテキストになるでしょうし、40代男性にとっては、ちょっとだけ夢を見ることのできる(実際はほとんど夢で終わるでしょう)ドキドキワクワクの「艶本」となりうるでしょう。
 それにしても、こうして話題になる40代や20代はいいとして、30代というのはなんか微妙ですなあ…。私自身の人生を顧みても、たしかにそんな感じではありましたが…。
 ま、世の中のためには40代が元気な方がいいでしょう。いい気付け薬になりますね。何度も書いてきたように、世の中に妄想(物語)が欠如していますからね。

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2010.01.14

『よくわかる!日本の新宗教』 島田裕巳(監修) (笠倉出版社)

07231446jpg ういう系統の本はたくさん持っていますが、これはちょっと毛色が違っていて面白かった。カミさんも面白い面白いと言っておりました。つまり、ちょっと週刊誌的な感じがあるんです。マニア向けではなくて大衆向け。
 いやもう、「笠倉出版社」というだけで、私は飛びついちゃったんですよね。えっ笠倉が新宗教の本?っていう感じだったんで。
 御存知のように、「笠倉」と言えば、レディースコミック、BLコミック、パチンコに競馬、改造車にPC裏技っていうイメージじゃないですか。私の趣味からはほど遠いけれども、なぜか研究対象としては身近な感じがする分野ばかり(笑)。ある意味日本の裏伝統文化を支えてきた(いる)出版社ですよね。
 正直すごく分かりやすかったんです。今まで、どちらかというと教典などの各教団出版物、学術書や事典、せいぜい『日本の10大新宗教』『平成宗教20年史』のような新書を読むばかりでしたので、まあ知識は豊富な方だったと思いますが、なかなか頭の中で整理されていない感じがあったんです。でも、笠倉さんのおかげでだいぶ整理できましたよ。
 冒頭の「日本の新宗教相関図」という樹型図をはじめとして、2ページに1ページはいわゆる「図解」ですからね。やっぱりこういう大衆への優しさというのは大切ですよ。よくまとまっていました。
 そして、やっぱり根本の視点が他所と違っている。帯には「カネ」「信者数」「勧誘術」etcとあります。ね?面白そうでしょ?
 特に各団体の「集金モデル」は、単純と言えば単純ですが、なるほどと思わせるものがありました。なんとなく宗教団体というと強引な勧誘と多額のお布施みたいなイメージがありますが、たしかにこうやって示されると、全然そういうシステムではないことがわかりますね。
 だいたい、一人当たりの上納金は大したことないんですよ。1ヶ月100円とか、せいぜい3000円とか。しかし、チリも積もれば山となるということで、その数が100万人なら、1000円も1年で12億円とかになるわけですね。あとは出版ビジネスですね。確実に100万部売れるんですから。
 出版やその他のメディアビジネスということでは、この本でも取り上げられている、そして昨日の記事でも登場した出口王仁三郎がそのはしりですよね。昨日も書いたとおり、彼はカミとカネを有機的に結びつけた最初の宗教人だと思います。
 これも昨日書きましたが、その影響は両世界において、とんでもなく大きいものがあります。我々はふだん気づきませんが、宗教、経済、政治、芸術といった分野での、地下水脈としての彼の影響力は多大なものがあります。
 冒頭の「相関図」を見てもわかるとおり、彼の教団「大本」はまさに「大本」で、現在名だたる神道系教団のほとんどが根っこをたどると「大本」に行き着きます。
 ある意味「万教同根」を唱えた王仁三郎の言うとおりであり、また逆に言えば、「万教帰一」のはずが、今はどんどん枝分かれしてしまっているという皮肉なことになっているとも言えます。
 そして、当然のことながら、枝分かれし、袂を分かち、暖簾を分けるうちにどんどんパワーダウンしていくという図が読み取れます。20世紀は分裂の時代でしたね。やはり21世紀は再び融和、融合、合流の時代ではないでしょうか。そして、数がどんどん減っていき、「1」になり、最後は「0」になるというのが、王仁三郎の理想でした。
 今ここにたまたま「祭政一道」と書かれた色紙があります。王仁三郎の書です。この意味もまた、単純に「政教分離」の逆ということではありません。もっと根本的なことを言っているような気がしますね。
 さてさて、この本ですが、先ほど書いたように充分に「笠倉的」であったわけですが、もう一つ思わず苦笑してしまったのは、「誤植」というか「誤変換」の多さです。見開きに一つは見つかります(…は、ちょっとおおげさかな)。いくら初版とはいえ、さすがに多すぎでしょう。小見出しにまでそれがあって、大いに楽しませていただきました。島田裕巳さん、ちゃんと「監修」してくださいよ(笑)。それにしても、最近の島田さんは、異常なほどに精力的に著作を出していますね。どうしたんでしょう。
 最後にこの本で取り上げられた教団の名前を列挙しておきます。全部で20です。出てくる順です。

創価学会・幸福の科学・アーレフ(オウム真理教)・立正佼成会・天理教・パーフェクトリバティ教団(PL教)・真如苑・霊友会・GLA・阿含宗・大本・生長の家・世界救世教・神慈秀明会・崇教真光・善隣会・金光教・霊波之光・世界基督教統一神霊協会・ものみの塔聖書冊子協会

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2010.01.13

稲盛和夫と出口王仁三郎

Biz1001132308048n1 盛和夫さんが日本航空の新しい最高経営責任者(CEO)になりましたね。はたして「日本の翼」は復活するのか。
 「経営の神」と言われる稲盛さんですが、彼の経営観には多分に本物の宗教色があります。
 私は、稲盛さんの考え方ややり方が好きですね。なぜなら、ワタクシ的には彼は「出口王仁三郎」の霊的世界を現界において体現していると思うからです。
 御本人はあまり意識されていないかもしれませんが、彼にはそうした霊脈が感じられます。私は最初、彼の「臨済宗妙心寺派円福寺にて得度」という経歴に注目しました。私も今、臨済宗系の学校で禅の勉強をさせてもらっているからです。しかし、のちある方からいろいろと示唆に富む情報をいただきまして、調べてみましたらたしかに王仁三郎の息吹を受け継いでいるように感じられるようになりました。
 稲盛さんは、昭和19年の末、12歳の時に結核の初期症状である肺湿潤に冒され、死の恐怖と闘っていました。その時、隣の奥さんが「読んでごらん」と言って渡してくれたのが、かの『生命の実相』でした。稲盛少年はこの本を読んで、自分の中で革命が起こるのを感じました。稲盛さんの現在の経営観、世界観は、ある意味この瞬間に出来上がったとも言えます。
 『生命の実相』は言うまでもなく、「生長の家」創立者谷口雅春の著書です。そして、谷口雅春(正春)は王仁三郎の霊界物語の筆記者の一人ですね。谷口にも、また現在の「生長の家」にも、王仁三郎の影響は実に色濃く表れています。
 昭和19年と言えば、王仁三郎が京都で、のちに「ようわん」と呼ばれる焼き物(楽焼)を祈りを込めて(ある意味狂ったように)焼いていた時期にあたりますね。
 そして昭和30年、不思議なことに、鹿児島で生まれ育った稲盛さんは、吸い寄せられるように京都に向かいます。碍子製造会社に就職するのです。そして、ニューセラミック(焼き物)の研究に携わり、のちに「京都セラミツク(京セラ)」を創業し、世界的な企業に成長させました。
 つまり、稲盛さんには、思想的(宗教的)にも、実業的にも、王仁三郎の魂が流れ込んでいるのです。
 「大本」の関係者の話によると、どうもこれは単なるこじつけではないようです。彼の著書などを読んでみると、宗派を超えた独特の宗教観、世界観を感じます。まさに出口王仁三郎(大本)の「万教同根」、谷口(生長の家)の「万教帰一」ですね。
 さて、そんな稲盛さんですが、今回CEOという仕事を通じて、きっと世界をつなぐ「日本の翼」の傷を癒してくれることでしょう。単なるお金の問題ではないのです。社員の幸福、利用者の幸福、日本の幸福、世界の幸福を見据えてのお仕事をしてくれることでしょう。
 昨日のプロレス界の話もそうなんですよね。「カミ」と「カネ」の関係。これはなかなか難しいのです。「神」が「金」をコントロールできているうちはいいのです。
 稲盛さんはもちろん、松下幸之助さんや船井幸雄さんなんかもそうですね。みんな宗教的な勉強をちゃんとしている。「カネ」という悪神の働きもよく分かっているのでしょう。
Ai そう考えると、王仁三郎の「金神」観というのも面白く感じられますね。もともと最強の祟り神である「艮の金神」を善神に転換する発想は、そのまま、貨幣経済、市場経済における「金」という「神」の両面性とその可能性を示唆しています。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、現在は「モノ」より「コト」、つまり、目に見えない不随意な「モノ」よりも、目に見える随意な「コト」に偏りすぎているんですよね。いつも書いているように、見えない価値を見える数値に換える「カネ」は、「コト」の権化みたいなものです。それが威張りすぎているのが現代というわけですね。人間の脳内のフィクションが調子に乗っているというか。
 そんなわけで、私はこれからの教育には、ある程度宗教的なものが必要だと考えています。もちろん、私は特定の宗派に属しているわけでもなく、まさに「万教同根」を信じて、「万教帰一」を目指し、いや、王仁三郎の理想、「宗教のない世界」の実現を夢見ている者ですから、変に偏った宗教教育をしようだなんて考えていませんよ。ただ、やっぱり若いうちに、そういう「目に見えない」「教科書に載っていない」世界があるということをしっかり「体感」させてあげたいとは思います。
 これからは「コト」より「モノ」の時代です。もちろん、ここで言う「モノ」は「物質」とか「商品」とかいう意味ではありませんよ。世間では、これからは「物質文明」ではなく「精神文明」の時代だという意味で、「モノ」より「コト」と言われていますが、私はあえてワタクシ的観点から「コト」より「モノ」と宣言させてもらいます。平たく言うと、「カネ」より「カミ」、「自己」より「他者」ということでしょうかね。
 結局は双方のバランスの問題、主従の問題なのでしょう。王仁三郎の言う「霊主体従」ですね。
 とにかく、その辺りをよく理解しておられる稲盛和夫さんの手腕に期待いたしましょう。

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2010.01.12

『プロレスは生き残れるか』 泉直樹 (草思社)

79421741 局、私の人生は、正しい「歌」と「言葉」と「肉体芸術」の伝承のためにあるのだなあと思います。
 それらを無理矢理まとめると「祭」ということになりましょうか。まずは神仏の存在という「モノ」があって、それを現し世に「コト」としてうつす(写す・映す・移す・遷す)作業です。
 現代は、まず我々を超えた「モノ」の存在を忘れてしまっています。全てが自分たち人間の世界観、ものさしで展開しています。特に本来の「神」に代わる悪神「カネ」はたちが悪い。我々は悪神の示す「勝ち負け」だけで自らの幸不幸を語るようになってしまいました。
 そうした「カネ」を価値基準とした世界からは、まず「祭」などという実に非論理的、非生産的なものが切り捨てられます。
 何度も書いているように、負の祭祀を司ったヤクザさんが消え、その鏡像たる皇室の権威も蹂躙され、もうこの国日本はすっかり乾いてしまっています。残念です。
 そうした世の動きとともに、衰退してしまった「モノ」と「コト」。その一つがプロレスです。もののけたちの肉体による供宴。神仏に捧げる非日常的マレヒトの来訪。
 この本では、そのような文化史的な考察は皆無ですが、しかし、この十数年で起きたプロレスを取り囲む変化が、比較的冷静に語られています。
 プロレスマニア的には、やや深みが足りないという感じもしますし、私の読んだ単行本やムックからの引用が多く、まあ復習には良かったかもしれませんけれど、少し物足りなかったかなあ。
 しかし、よくあるプロレス本の胡散臭さや過度なマニアックさがなく、一方でずぶのプロレス素人が書いたような痛さもなかったということは、ある意味今までにない距離感の良書なのかもしれません。
 他の分野でもあるんですよねえ。たとえば宝塚みたいに。極度に分かる人と全然分からない人に分かれる世界が。プロレスもその最たるものでしょう。ですから、一般書籍としての距離感が難しい。
 特に、先ほど書いたような世の中の現状ですから、我々プロレスファンは、まるで時代遅れのお変人のように扱われてしまう。総合格闘技というエセ(!)スポーツの方が、単純ですしカネになりましたからね。つまり、私たちの物語を紡ぐ力、創造力やら想像力やらがどんどん欠乏していっているわけです。
 おっと、またそっちの視点になってしまった。ええと、この本では、そのような視点ではなく、どちらかというと経営的な視点やトレーニングのあり方などが中心となっています。つまり、業界側の話。
041031_kak_zen_08_mutou_b そういう意味で面白かったのが、全日本プロレスの武藤敬司社長と内田雅之取締役、そして道場で若手の教育役を担っているカズ・ハヤシ選手の現場の声でしょうかね。リアルで興味深かった。
 なかなかインタビューなどの協力が得られなかった中、結局多くを語ってくれたのは全日本プロレスだったようです。そんな姿勢にも、全日の「自由」な発想が感じ取れましたね。いまだに閉鎖的なところも多いですし。
 昨日も全日の1月3日後楽園ホール大会をテレビで観戦しましたけれど、たしかに見事なパッケージ・プロレスでしたよ。武藤社長のプロレス観や経営センスに、私は違和感はありません。正しいかどうかは分かりませんけれど、一つのプロレス道であることは認めます。実際に今、非常に安定感がありますからね。
 私は一方で、現在の全日とは違った方向性を持ついくつかのプロレス団体の関係者の方ともご縁があります。私からしますと、どれも間違っていないように感じるんですね。もともとプロレスはその定義すら難しいほどに混沌として幅広く、奥の深い世界です。いろいろなシステムや目標があっていいですし、それらの微妙な行き違いや、奇跡的な交接というのが、プロレス的物語世界の面白さですから。
 この本の中でも話題になっていた「非合理的なスクワット」なんかも、両方の考え方があっていいと思うんです。その多様性こそがプロレス的世界だと思いますから。武藤選手のように「そんなことしたから膝が壊れた」として若手にそれを強要しないのも一つの考え方ですし、宮戸優光さんのように新年早々若手とスクワット1000回やるというのもいい。
 私はスクワットなんて50回しかやったことありませんから(笑)、全然無責任な考えなんですけど、なんとなく信じたいんですよね、その「非合理的、非科学的トレーニング(単なるしごきとも言われる)」から生まれる「何か」があることを。もしかすると、武藤選手も今の輝き(頭じゃなくてオーラ)があるのは、その無駄なスクワットのおかげかもしれません。膝が動かないからこそ生まれた、あの武藤ムーヴは、もう完全に芸術の域に入っていますから。
 まあ、そんな無責任で根拠のない「信じたいもの」こそが、神仏を招く「物語」なのだと思いますよ。
 そういう意味では、業界の危機に際して、単に大同団結したりするのも危険と言えば危険です。他の業種とのコラボレーションも慎重でなければなりません。プロレスには常に、我々凡人がタッチできない「聖域」があってほしいものです。「わからない」ことの面白さを失わないでほしい。
 なんか頭の中がまとまらないうちに書きなぐっているので、文もまとまりませんね。すみません。私の意見を一言で書いちゃいましょう。
 「プロレスは生き残れるか。衰亡か、復活か」…その答えは、実は、プロレスラーやプロレス業界側にあるのではなく、それを観る、そして囃す我々や我々の社会の側にある。
 だからこそ前途多難なのです。でも、私はあきらめません。
 結局、この本はある意味「武藤本」でした。三沢光晴さんの死をきっかけとして書かれたというこの本が、「武藤本」になってしまったというのは、なんとなく皮肉なような気もしましたが…いや、三沢さんも武藤さんも、観客やファンの立場に立つ冷静さを持っているように感じますから、ある意味両者とも「王道」の継承者なのかもしれませんね。
 昨年末、富士吉田が生んだ天才、フジファブリックの志村くんが急逝してしまいました。残る富士吉田出身の天才武藤敬司には、まだまだ頑張ってもらいたいところです。近いうちにぜひお会いしてお話してみたいと思います。

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2009.12.21

『CSR入門−「企業の社会的責任」とは何か』 岡本享二 (日本経済新聞社)

20091222_93505 かなか、分かりやすい、いい入門書でした。
 今日は特にこの本の内容には直接触れず、私なりの「労働倫理」について語りたいと思います。あしからず。
 「CSR…Corporate Social Responsibility」…学校なんぞに勤めていると、こういう最先端の知識に疎くなります。しかし一方で、この最先端はまた実に根源的な問題でもあります。いかに生きるか。いかに利他的になるのか。いかにエゴを捨てるか。
 学校なんぞに勤めているおかげで、そういう根源的なことをじっくり考えて、そしてじっくり生徒に伝えられるとも言えますね。「CSR」なんていうカッコイイ名称は知らずとも問題ないのかもしれません。
 ある意味学校は市場の外にあるのですね。私学と言えども、完全に市場経済に乗っかっているとは言えない。いや、公立と違って、そこに少し足をかけているからこそ、世の中の最先端と人間の根源的なところをバランス良く見ることができるのかもしれません。
 もし私が一般企業に勤めていたら、こんな悠長なことを考えているヒマはないでしょう。企業たるもの、まずは株主に最大の経済的恩恵をもたらさねばなりません。そのためにはある意味手段を選んでいるわけにはいきません。というか、それ以前に、消費者のニーズに応えるという目的を唱えなければならないかもしれませんし、いやいや、それより以前に、まず我が会社の存続、あるいは今いる従業員たちの生活の保障を第一義に考えねばならないかもしれません。
 そうした、いろいろな大義名分の段階というか、レベルというものが、我々の「労働倫理」を複雜なものにしています。「労働倫理」なんていう言葉はありませんよ。私が勝手に考えたものです。しかし、今、私の頭の中ではこの「労働倫理」が大きなテーマになっているんです。教育や宗教も絡んで。あとで少し説明しましょう。
 我々の「労働倫理」の集合が「企業倫理」です。いや、現状では「企業倫理」が先にあって、そこから演繹されたのが各自の「労働倫理」でしょうかね。そのベクトルの方向からして、どうも間違っているような気がするんですが…。
 「企業倫理」と言うと、コンプライアンス(法令遵守)が思い浮かびますが、実際はもっともっと広く深いものです。コンプライアンスなんていうのはほんの表層ですし、ある意味誰でもできることです。その気があれば。
 現状の資本主義市場経済においては、我々の労働のほとんどが「利己に対する利他」になっています。えっ?どういうこと?…そうですね、分かりやすく言うと、「自分の利益や快楽のことばかり考えている消費者のために、我々は物やサービスを生み出して与えている」ということです。
 腹が減った人に食べ物を与える。それもよりおいしいものを望むから、よりおいしいものを与える。歩くのが面倒な人に自動車を与える。より快適でカッコイイ車を与える。単純に言えばそんな感じです。
 すなわち、我々の本来「利他的」であるはずの「労働」が、消費者(購買者)の「利己」を助長しているのです。そして、「利己」は結果として「利他」と両立せず、主に自らが所属するグループ以外にその悪影響を及ぼすことになります。一番簡単に言えば、人間以外に害を及ぼす。すなわち環境破壊(自然破壊・資源の濫費)を生みます。
 そんなこと誰でも(子どもでも)分かることだと思いますが、しかし、現実には賢いはずの大人たちも、みんなその道を突っ走ってしまっている。そんな矛盾こそが、この経済システムの大きな欠陥です。つまり、このシステムは、我々の倫理の感覚を鈍らせてしまうのですね。あるいは麻痺させるために作られたシステムとも言える。その点では、たしかによく出来ていますね。
 つまり、もう一度まとめますと、消費者の利己心のための、我々の過剰な労働が世界を破滅させる、すなわち自分たちの首を絞める結果を招いているにもかかわらず、我々は反省をしなくなっているということなんですよ。
 もちろん、そこに、労働者各自の「利益を得る」という「利己心」も重なってきますから、我々はなかなかこの無限ループからは抜け出られません。これでは実際のところ、「CSR」も「企業倫理」もクソもありませんね。単なるお題目、あるいは「エコ」という言葉と同様に、偽善的な「利己心隠蔽の手段」ともなりかねません。
 さあ、そんなところで私が考えたのが「労働倫理」という言葉です。
 今、もし我々各自が自らの「労働倫理」を唱えるとすると、「お客様のため」とか「会社のため」とか「社会のため」とか、そういう次元での物言いになることでしょう。そこに「やりがい」を見つけるというような。私はそんなレベルのことを言っているのではありません。
 たとえば、先ほどのように、おいしい物を望まれるだけ提供すれば、結果として消費者の健康を害する可能性が高い。メタボになったり。また、車を売れば売るほど、どう考えても環境を破壊します。あるいはゲームソフトを開発して売りまくれば、もしかすると青少年の心身の健康を害するかもしれない。
 そういう根源的なところを原点として、「労働倫理」を考えたいのです。
 そうすると、もちろん、資本主義やら市場経済やら金融経済なんていうのも成立しなくなります。そう、成立しなくなっていいのです。おそらくそれらは間違っているのですから。それら自体が「粗悪品」であり、いやそれ以上にたちの悪い「麻薬」であることを、我々は「労働倫理」に基づいて気づかねばならないと考えるのです。
 なんて、こんなこと、誰もが分かっているけど、しかし現実にやめられないんだからしかたない、みんながやっている内はそれに従うしかない、そう言うのも分かります。そして、今書いたような単純な構造にはまらない労働の種類(職業・仕事)もあるのも分かります。
 しかし、どこかで誰かが「そろそろいい大人がこんなことをやり続けるのはやめよう」と言うとか、「こんなことで人生を無駄に費やすのは馬鹿らしい」と言うとかしないと、それこそ自分も会社も社会も人間も地球も、どうにも立ち行かなくなってしまうような気がするのです。
 じゃあどうすればいいか。私は、経済のあり方も含めて、やはり根源的な倫理を語るには、「仏教」の考え方を理解しなければならないと考えています。それについても、いつかちゃんと語りましょう。
 こんなことを書いていると、「そんなことよりちゃんと今の仕事をしろ!」とか「ちゃんと給料運んでこい!」とか「生き残れないぞ!」とか、そんな言葉が聞こえてきそうですね(笑)。
 そう、今の仕事たる「教育」の目的を考えた時、また悩むんですよ。特に今のように進学クラスを持っていると。勉強していい大学入っていい会社入ってカネ稼げ!って、言いはしないけれども、しかし、結果としてそう促しているとも言えるので…辛いところです。
 新しい中学では、この辺をどう教えていこうか…ワタクシ流に染まっちゃうと、出家するしかなくなっちゃうし(笑)。ニートやひきこもりを養成するわけにも行かず。難しいですね。結局、企業と同じ所で悩むということか。悩んでいるだけいいのかも。少なくとも、そういうことに悩める青少年を育てていきましょうか。

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2009.12.18

『独創力。−人間「桜庭和志」から何を学ぶのか』 桜庭和志 (創英社/三省堂書店)

88142188 やあ勉強になった。これは新しい中学の保護者に必読本として読ませなきゃ。まじで。私の思っていることがたくさん書いてある。
 一見草食系でありながら、実は…。昨日の記事の写真にもありましたけど、「ギャップ」というのは「萌え」や「燃え」にとって非常に重要な要素であります。
 桜庭和志選手はまさにそれを体現しているプロレスラーです。ある意味勝ち負けが全てとも言える総合格闘技の世界で、40過ぎてもまだ多くのファンを惹きつけ続ける彼は、本当に特別な存在です。
 一見、ぬ〜ぽ〜としていて恥ずかしがり屋…典型的な秋田男の彼が、リング上では獲物を狙う「マタギ」に変身する。たしかにぞくぞくします。10月の試合は、まだまだ彼がそういう意味で全く衰えていないことを証明していました。
 そんな彼に、ウチのカミさんが突如はまったのが、あの3年前の大晦日。ヌルヌル事件(対秋山戦)の夜のことでした。
 それからどういわけか、八郎神社のお導きまであって、この本にも重要な人物として登場する桜庭選手の御両親と懇意になり、さらに今年とうとう私もスネークピット・キャラパンで御本人とお会いしていろいろ勉強させてもらう機会を得ました。全く不思議なご縁であります。
 今回、カミさんはもちろん出版記念サイン会に出かけていったわけでして、私が読んだこの本にもちゃんとサインが入っております。いったい何枚のサインがあるんだ?ウチには(笑)。
 ほとんどストーカーのように追っかけしているウチのカミさん。まあ、私も大好きな選手ですから、全然いいんですけどね。そうじゃなかったら、ちょっと夫婦間に亀裂が入るよな(苦笑)。
 なんだか桜庭選手、ウチの夫婦のことはしっかり覚えてしまっているようです。すみません。
 今回はおみやげにまんさくの花を持っていきました。カミさんの郷里のお酒です。翌日の彼の日記に「飲みすぎた」みたいなことが書いてありましたが、もしかしてウチのせい?w
 なんだかんだ、桜庭選手に日本酒差し入れするの3回目だもんな。格闘家に酒ばっかり送っていいんでしょうか(笑)。
 さて、そんな話は置いておいて内容に行きましょう。
 まず、彼の御両親や彼自身の「教育論」が素晴らしい。まさに現代の子育てに欠けているものが、そこにしっかりあります。
 単純なことです。「やってはいけない」と「やってみたら」を言う勇気と責任です。すなわち「ダメなものはダメ」と言うことと、「やめとけ」と言わないことです。
 これは私の仕事の上でも、案外難しいことです。適当に見て見ぬふりをしたり、(自分に降りかかる)リスクを想定して「やめとけ」と言うのは簡単なことであり、ある意味そういう先生になるのは楽です。しかし、それが本当の教育になるかというと、もちろんそんなことはありません。
 実はこの楽な生き方は、ワタクシの「モノ・コト論」で言いますと、自己中心的で随意的な「コト」を判断基準とした考え方でして、そこからは何も創造されないんですね。
 一方、その時の自分にとっては負担となる桜庭家流の考え方は、まさに他者本意で不如意的な「モノ」を判断基準とするものです。これにはまさに他者の未来や自己の未来に対する責任を負う勇気と覚悟が必要です。
 彼の説く「独創力」は、実はそういう所から発しているように思えました。
 雪国秋田の「何もない」自然の中で育った彼。ウチのカミさんと全く一緒のことを言っているので面白かった。何もないから、何でも遊び道具やおもちゃになり得る。実際、カミさんは今でも遊び道具や遊びを創造する天才だと思います。特に自然を相手にした時はすごい。私や娘たちはひたすら感心するばかりです。そして、それはゲームやテレビなんかに振り回されているよりも、ずっと楽しい時間を提供してくれます。
 これもまた、「コト」より「モノ」なんですね。いつも言うように、私の言う「モノ」は世間一般に言う、物質や商品の「モノ」ではなく、自分の外部全体を表す語です。「コト」は内部。脳内。私から言うと、商品などは人間の脳内が作り上げる物ですから、「コト」に属します。
 桜庭選手の書く、「最近の子どもは、問題を処理する能力は長けているが、問題を創造することが不得手」というには大納得です。それこそ今の子ども(大人も)「コト」にどっぷりつかっていて、「モノ」に触れていないからでしょう。
 また、彼が、下積み時代の不条理なシゴキ(それはまさに不随意な「モノ」です)を、ある意味あっさり受け入れ、苦痛に思わないでこなしていくところなども、やはり自己の欲望や願望に強いこだわりを持っていないことを思わせます。そういう自分の思い通りにならないことをこなしていくうちに、いろいろな苦難やアクシデントという「想定外」に対処できるようになると。その通りだと思います。
 今の教育界には、そういう「若い時の苦労」がないんですよ。子どもをお客様だと思って丁重に扱っている。そんな子どもが、忍耐力のある、そして創造力のある大人に育つわけがありません。ただ、不満を漏らし、現状から逃げてしまう人間に成り下がるだけです。
 彼がいろいろなオファー…対戦相手であったり、ルールであったり…を、「いいですよ〜」と言ってどんどん受け入れ、そして、試合で想定外の展開にも焦らず対応し、さらに常に観客の反応を肌で感じながら観客のための試合をする、そんな姿はまさに「モノのふ」であります。
 そう考えると、前田日明さんが桜庭選手を「武士(もののふ)の中の武士(もののふ)」と称したのは、実に本質を見極めた至言であったということが分かります。
 私は来年度から新設なる中学の運営を担当します。私は生徒たちに、どんどん「想定外」な、「未知」な、ある場合には「不条理」な体験をさせていきたいと思っています。お仕着せや、単なる「コト」の暗記や、快適だけではいけません。中学までは「モノ」と戦うことが重要だと思っています。
 それができていれば、高校では本人に全てまかせられます。そこで初めて「自主性」が活かされます。「独創力」がなければ「自主性」もクソもありません。単なる「自由奔放」なんて絶対に許しませんよ。
 本当にいろいろ勉強になり、そして、自分の考えを強く支えてくれた良書でありました。皆さんもぜひ御一読を。

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2009.12.15

『近代歌謡の軌跡』 倉田喜弘 (山川出版社 日本史リブレット)

20091216_80304 近、珍しく音楽関係の本を読んでいます。テーマは「ベートーヴェンをぶっとばせ!」…かな?
 というのは半分冗談でして、明治の日本がどのように西洋音楽を受け容れ、そして、どのようなプロセスを踏んで、現在のような西洋音楽をも呑み込んだ独自の音楽文化を創り上げたのか、それを知りたいのであります。
 そうした日本の吸収力、受容力、創造力を確認したいというのも、もちろんありますよ。音楽を通じて、それ以外の全ての文化的側面を概観してしまうこともできますし。政治、経済、教育、宗教…いろいろ見えてきますよね。
 あと、その圧縮された「音楽史」自体が、ヨーロッパ音楽(クラシックと称されるもの)の成立史のひな型になっているとも言えます。つまり、「民族(民俗)音楽」から、どのように「記述される」「芸術音楽」になっていったかの縮図を見ることができるわけですね。
 また、視点を変えますと、たとえば現代のケルト音楽とか、あるいはアフリカの音楽とか、そういう(ヨーロッパから見て)辺縁の音楽の進化の様子もわかる。たとえばジャズなんか、その最たるものですね。完全に「クラシック」を呑み込んでしまった。利用するだけ利用して、ぶち壊して、再創造してしまった。日本の歌謡曲やJ–POPなんかもそうです。それも面白い。
 もっと面白い言い方をすれば、どうやって「ミ」を受け入れたかっていうことですね。つまり、今我々がきれいだと思っている「ドミソ」の和音、これはまさに西洋近代音楽(クラシック音楽)を象徴するものですが、実はこの「ドミソ」は多くの地球人にとって長いこと「不協和音」だったのです。非常に不快な音の響きであった。
 一つ面白い話。ウチのカミさんの話です。
 カミさんは秋田の山奥の出身です。私より十ほど若いのですが、しかし体験してきた文化は私のそれより50年ほど昔のものです。で、彼女は西洋音楽よりも、どちらかというと日本の伝統文化の中で育ってきたわけですね。民謡とか、労働歌とか、せいぜい演歌。それにどっぷりつかって少女期を過ごしたのです。そして、彼女は中学生の時にマイケル・ジャクソンに出会って、その音楽世界にはまりまくります。
 マイケル・ジャクソンの音楽性については、今までたくさん語ってきましたとおり、まさに白と黒の融合、アフリカとヨーロッパとアメリカの融合です。そこにいきなり行っちゃったんですよね。
 で、最も彼女が違和感を抱く音楽はというと、いわゆるクラシック音楽なわけです。なんの感動も受けないどころか、気持ち悪く聞こえるらしい。私の好きなバロック音楽なんか、ある意味もってのほかです。特に長調の響きがダメらしい。ビートルズなんかもダメだそうです。
 これって、彼女の音楽的センスが悪いとか、趣味がどうのという問題ではなさそうなんですね。実はそっちの方が正しいことらしい。世界標準。そう、さっき書いた「ドミソ」が不協和音というか不快和音だということです。
 ま、世界全体で言いますと、もっと事情は複雑でして一概には言えないのですが、しかし、面白い事実だと思いますよ。私は以前、そういうカミさんを半分バカにしていたのですが、最近はちょっと見る目を変えました。
 と、ちょっと話がそれちゃいましたけど、この本の最初の方に、ウチのカミさんみたいな人がたくさん出てきます。そりゃそうですよね。江戸の音楽があそこまで成熟していた時に、いきなりあれが入ってきたんですから。逆に西洋人がそのマチュアな音楽に驚嘆した(唖然とした?呆れ返った?)のも面白いですね。江戸絵画が西洋画壇に与えた影響とは対照的です。
 そう考えると、やっぱりこの前の小泉八雲なんか特別ですよね。すごい感性の持ち主だったよなあ。小泉八雲もちゃんと読まないと。
 自分の音楽観だけでなく、自分の自分観というか、日本人観というか、それを自問自答するのが、どうも最近の私の楽しみのようですね。「成長」よりも「成熟」の年齢になったということでしょうか。

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