カテゴリー「書籍・雑誌」の565件の記事

2012.02.09

『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』 ケイレブ・メルビー&ジェシー  (集英社インターナショナル)

20120210_164302 日は珍しく体調不良であります。いちおうインフルエンザではないとの診断ですが、いきなり9度近い熱が出たあたりどうも怪しい。
 よって記事も手抜きとなります。ごめんなさい。
 ということで、まだ読んでもいないし、まだ発売されてもいない本を紹介します。
 このブログでも何度か書いてきた、アップルのスティーブ・ジョブズと曹洞禅の関係がよく分かる本になりそうです。
 ちなみに原書の方はアマゾンでも取り扱っております。大した量じゃないし、マンガなので英語で読んでもいいんですけどね。日本語訳の質もわかりませんし。
201110182 ジョブズは、この前IGFの宮戸さんとの会話にも出てきたオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を、ずいぶん若い頃から読んでいたそうで、その時点で立派な禅マニアだと言えますね。
 ジョブズに曹洞禅を本格的に教えたのは国際布教師の知野(乙川)弘文老師です。アップル社のシンプルで画期的な製品の設計思想に影響を与えたのももちろん、ジョブズの不遇の時代を支えたのも知野老師でした。
 そんな二人の禅問答的交流を紹介したのが、このコミックというわけです。紹介の動画がありましたので、ちょっと見てみてください。

 Amazon ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ The Zen of Steve Jobs

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2012.02.08

悲観は楽観の母

0048 「観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
 昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
 昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
 私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
 人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
 なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
 五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
 私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
 いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
 どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
 悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
 いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
 そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
 だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
 実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
 「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
 そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
 そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
 前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
 そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。

Amazon 幸福論

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2012.02.07

『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書)

20120208_91529 「山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。
 五木寛之さんですから仏教の話だと思ったのです。私は登山家ではなくそちらに近い人間なので(苦笑)。
 なるほどねえ。我々日本人はすでに登頂してしまったのでしょうかね。そしてその山はなんという山だったのでしょう。なぜ、私たちはみんなでその頂を目指してしまったのでしょうか。
 なるほど、「山の醍醐味は『下山』にある」か。ゆとりをもって、周りを見回すことができると。そして頂点に集中していたものが拡散していくという発想も理解できます。もちろん、そこから新しい山を目指すという可能性の行為ととらえるというのも分かります。
 ただ、この本を読んで、私が救われたかというと微妙です。それは私という読者の特殊性のゆえだと思いますから、筆者を責められません。
 一つは、登山家でない私には「下山」が決してゆとりのあるものではなかったということです。私の数少ない「下山」経験からすると、それは苦痛でしかなかったのです。
 まずウチの裏山である「富士山」。こいつの「下山」はいつも最悪です。下山するんだったら、ずっと登っていたいくらい私は嫌いです。なにしろ足が痛い。膝がガクガク。そして、足の先、足の裏に激痛。ま、単にシロウトだからでしょう。でも、いやなものはいや。
 その他の山でも「下り」はどうも好きではありません。なにせ、私のつまらない根性には、「せっかく登ったのに下りちゃうのもったいないな」と感じられるからです。「またあの俗世間に還るのか」という落胆にも似た虚無感があるのも事実です。
 おそらくそれもまた登山のプロからするとなんとも稚拙な精神性の賜物であるのでしょう。残念であります。だから、この本の比喩としての「下山」にいちいち納得できなかったのです。
 理想論としては分かります。うまい発想の転換だなとも思いました。しかし、この先、とりあえず下界に下りなければならないこと、そしてその下界がその後どうなっているか分からないこと、さらに今登った山にはもう登ってはいけないと暗に言われていること、かと言って次に登るべき山の姿すら見えないこと、もっと言えば、次なる山があるのかどうかも分からないことも事実なのです。
 この登山と下山を自己の人生の比喩として読むと、これまた「下山を楽しめ」と言われてもなかなか難しいですよね。もう一山登る元気がないという人もいるでしょう。それから若者はまだ一山すら登っていないのに、いきなり下山かよ!?でしょうしね。
 私はこう思います。やはり下山の苦しみは下山の苦しみであると。また、下山の楽しみに下山の楽しみにすぎないと。下山という行為自体に意味や価値を見出しても、それだけではダメなような気がするんです。
 はたして今登った山の価値はなんだったのか、それをじっくり考え反芻しながらの道筋であるべきとも思います。決して「登った山が間違っていた」ではありません。
 もう次の山には登れないかもしれないのです。いや、山に登る必要もないのかもしれません。ただみんなで一つの山に登ったことは事実なのですから、そこに最大の意味と価値を探すべきでしょう。
 それは、それこそ仏教的な「上山(入山)」と「下山」の関係と同じだと言えるかもしれません。私もたった一泊の修行の真似事を何回かやらせていただいていますが、たったそれだけでも、下山のすがすがしさや達成感と、そこに必ず寄り添う一抹の不安や寂しさを、いつも感じています。その相矛盾する感覚こそが、私は「下山の思想」であると思います。
 すなわち、実際の登山であっても、お寺に関することでも、山に上るというのは「現実から離れる」という意味合いが大きいと思います。そして実際に客観的俯瞰的に自己や社会の現実を再確認し、そして再び下っていくわけじゃないですか。
 ということは、歴史的に私たち日本が果たした「登山」というのもまたそういう意味合いのものだったかもしれないわけです。つまり幻想への逃避であったと。
 そして、今そこを下りて現実に帰還せんとしている。その一種の不安こそが、現代の「うつ」や倦怠感そのものなのではないか。それは「重力に逆らわず落下する」感覚とでも言うのでしょうか。
 無理やり私の仏教的「モノ・コト論」に引き寄せるなら、登山は自然(重力)への反発という意味で「コト」になり、下山は自然(重力)に対する従順という意味で「モノ」になります。そうすると、我々が感じている「下山の憂い」こそが、いわゆる「もののあはれ」であることが分かりますよね。
 そこに気づくことが実は第一であって、そこからさあどうしようかというのが、仏教の、いや我々人類の大きな課題です。
 すなわち、私たちは戦中、戦後と、大変な修行を課せられたのです。ある意味両極端な修行を。さらに総決算とも言えるあの震災や原発事故がありました。それが終わり、今現実に還ろうとしている。
 修行を終えた私たち自身は、明らかに登山(上山)前とは違っています。当然その目には下界は以前と違って見えることでしょう。
 この修行の成果を発揮するのはこれからです。「下山」は未来への覚悟をするステージです。
 結局は五木さんと同じような結論になりますけれども、これが私なりの「下山の思想」ということになるでしょうか。

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2012.02.05

『迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 』 ネルケ無方 (新潮新書)

51fvctgyxll 日の話題「方便」も出てきました。へえ〜、僧堂ではこういうのを「方便」と言うのか。
 今日は東京にてマタイ受難曲の練習。鞭打ちのシーンの付点はもっと鋭く…と言われても、仏の慈悲心からかどうしても甘くなってしまう…いやいや、単に技術がないからです(苦笑)。
 実は練習の合間にこの本を読み進んでいたのですが、まあまたまた驚きの偶然、いや必然がその後起きました。
 練習が終わって、私は高円寺に向かいました。真のプロレスリング伝導者にして、IGFの現場監督(GM)宮戸優光さんに会いに行くためです。
 大晦日の「元気ですか!! 大晦日!! 2011」や2.17の興行のこともいろいろお聞きしたかったし、昨年はいろいろプライベートでもお世話になっていたので、お礼かたがたいろいろお話をしようと思っていました。
 私たち二人が話を始めると、ちょっと不思議な雰囲気になります。おそらく周囲の人たちはついてこられない世界ではないでしょうか(笑)。すなわち、プロレスや教育の話をするのですが、それが非常に「禅」的な内容とスケールになっていくのです。
 そして、なんとも摩訶不思議なことに、私は何も言っていないのに、宮戸さんの方からこの本の話が出たのには驚きました。それ、まさに今日読んでいる本ですよ!もうこれは偶然ではないですよね。あまりにマニアックにピンポイントすぎます。仏縁でしょう。
 いやあ、本当に宮戸さんは私にとって、アントニオ猪木という神(仏?老師?怪物?)の良き右腕としてのみならず、一人間として尊敬すべきプロレスラーであり指導者であり、そして、これはおこがましいかもしれませんが、良き修行仲間という感じがするのです。
 なかなか言葉では説明できませんが、互いに「仕事」や「鍛錬」を通じて、共通する「何か」の存在を予感し、いや確信しているんですね。そこに大きな共感があるんです。
 だから、今日のような不思議なシンクロが生まれるのでしょう。
 正確にいうと、この本が直接出てきたのではなく、この本で紹介されているオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」の話から、この本の話になったのです。まさに今日のお昼にその「弓と禅」が紹介されているところを読んで、私自身も「ああ、そう言えば『弓と禅』読んでないな」と思った矢先だったので驚いたというわけです。
 さて、そんなわけで、帰宅してからまずはこの本を一気に読み終えました。ものすごいスピードで読めたのは、宮戸さんとの会話のおかげで、この本に書かれている内容の理解が…いや理解ではないな…腑に落ち方が尋常ではなかったからです。
 これぞまさに「師匠」の力であり、「縁起」そのものでありましょう。ありがたいことです。
 そういう意味も含めまして、この本、今まで読んだどんな禅に関する本よりも、すうっと心に、いや体に入って来ましたね。「私が座禅するのではなく、座禅が座禅するのだ」…この境地は予感できます。いや、理屈や言葉によらずに「確信」できます。
 ネルケさん、いや無方禅師の、その境地まで至る過程もまたよく分かるものでした。
 私もかなり徹底した「野狐禅」「野狸禅」の実践者でして、最近ではいろいろな老師様とお話する機会をもいただいております。普通の雲水さんではとてもお話できないような方々ですよ。野にあるからこそ可能なことです。ずうずうしいだけとも言えますがね。また、上司や同僚、教え子や友人に僧堂での経験者が多いこともありまして、日本の仏教そのもののあり方や禅の修行の問題点や奇妙なところをけっこう知っている方だと思います。
 それをドイツ人であるネルケさんが実に客観的に、そしてある意味批判的に包み隠さず書いている点(もちろん仮名が使われたり、寺名は伏せられたりしていますが)、非常に貴重な「資料」だとも言えます。なかなか内部の人、特に日本人にはこうは書けませんね。
 そういう意味では、以前紹介した「食う寝る坐る 永平寺修行記」とも一線を画していると言えます。かの著者は日本人でしたし、僧侶になったわけではありませんから。
 「禅」に興味がある方はもちろん、東西の比較文化論に興味がある人、あるいは「迷える者」たちにもぜひ読んでもらいたい本です。
 最後に道元禅師による「現成公案」の一部を、著者が現代語訳したものを引用させていただきます。ここに禅のエッセンスが表されていると感じました。

 私たちの日常生活も、それをはるかに越えた宇宙全体も、様々な側面がある。しかし、私たちに見えているのはそのほんの一部分でしかない。それぞれの視野に収まる範囲の物事を見聞きし、各々が受けてきた教育や人生体験で処理しているだけだ。物事の本当のあり方が知りたければ、自分のメガネを通して物事に『◯╳』をつける以前に、物事にはこの頭で割り切れない側面のあることを理解しなければならない。周りの人々(山・川)にはまだ気づいていない徳もあろうし、自分が想像してもいない世界が他にもあるということを、よく承知していなければならない。これは他人事ではない、自分の足下の話なのだ。

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2012.01.21

『舟を編む』 三浦しをん (光文社)

20120122_75726 週、ふらっと神保町に行った時に買った本。買った後、これまたふらっと後楽園まで歩いていったんですよね。
 そこでこの本を読み出したら、まんま神保町やら水道橋やらが舞台になっているのでビックリ。まあ、考えてみれば出版社の話ですからね。
 さあ、ほとんど現代小説というのを読まない私が、この作品についてどういう感想を持ったか。小説という特殊なジャンルの時代はとっくに終わっていると豪語している(?)私に、そのアナクロな世界はどう響いたのか。
 結論から言いますと、やっぱりこれが「小説」というメディアで発せられるべき情報ではないなと思いました。もちろん、面白かったし、なんとなく懐かしい感じもしましたから、別に不快というわけではなかったのですが、しかし、この内容ならば、やはり現代ならマンガやドラマ、そして映画というジャンルで発せられた方がより効果的ですし、多くの人に受け入れられたかもしれませんね。
 別に小説世界や、いわゆる文学をバカにしているではありません。いちおう日本語の世界を教えることを生業にしていますから、ある意味では人一倍そういう世界を大切にしてきたとも言えます。しかし、逆にその世界だけ特別視する気持ちはさらさらありません。文学を神聖化したくないんですね。その弱点もしっかり把握していたいわけです。
 そういう意味では、作者のそれなりの筆力をもってしても、やはり現代のメディアたち、特に視角を伴った言語世界にはかなわないなと思いました。
 正直、なんとか読了できたのは、この「辞書編纂」の世界が私の興味対象分野の一つであったおかげです。これが別の仕事の話だったら、今まで同様途中で投げ出していたことでしょう。
 ちょっと話が逸れますが、小説に限らず、マンガもドラマも映画もですねえ、「どの仕事を描くか」が勝負になってしまいましたね。
 適度に身近で適度にマニアックという、いわば「盲点」探しの時点で勝負が決するということです。
 実は「小説」が幸福だった時代というのは、「仕事」を通じて「人間」を描くということはあんまりなかったと思うんです。もっと誰しもが実感的に共有できる「実生活」の中に表現があった。
 それができなくなってしまった時点で小説(私小説?)の時代は終わったと感じているのです。
 ですから、この作品で言えば、辞書編纂という仕事を知るという意味では成功しているけれども、そこから「人間」を描くということでは、結局「よくあるレベル」…たとえばマンガやドラマのレベル…で終わってしまっているわけです。
 私は文学(小説)の力はそんなものではないと信じたいのです。
 いや、割り切ってしまって、マンガやドラマと同じようなエンターテインメント、あるいはトリビア的な、または「あるある」的なものだと思えば、この作品はお金を払っただけの価値はあったとも言えます。それなりの時間を過ごさせてもらいましたからね。
 今はそれでいいんでしょうか。あるいは三浦しをんだからでしょうか。もっと深くて、しかし大衆性を失わない「現代文学」「現代小説」というものがあるのでしょうか。
 では、最近発表された芥川賞作品でも読んでみましょうかね。
 それとも、自分で小説書いてみましょうかね(笑)。
 私はどちらかというと、小説を書くより、辞書を編纂する方が楽しそうだなあ。
 その辞書編纂の話もいろいろ書きたいのですが、それは後日別のネタで。

Amazon 舟を編む


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2012.01.13

想像力と倫理

20120114_75327 日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
 氏の環境倫理学の本は何冊か読んだことがあります。何が書いてあったか全く覚えていないので(笑)、このブログに書いたであろう記事で思い出そうと思ったのですが、検索してみたらありませんでした。
 あっそうか、たしか高校入試の問題で使ったので、それで記事にしなかったんだ。記事見ると何が出るか分かっちゃいますからね。たしかにこれは倫理的に許されませんな。
 その代わりに「子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える」という本の記事が出てきました。これもまた読んだことすら覚えておらず、またこんな記事を書いたことも全く覚えていないという、非常に情けない事実(苦笑)。やはりこのブログは個人的な備忘録としても機能しておりますな。
 さてさて、今日の加藤さんのお話、原発問題を哲学で斬る!ということで、なかなか興味深い内容でした(哲学というより倫理学でしたけど)。しばらくはこちらで見られますのでぜひどうぞ。13日分の後半の方です。
 このムービーに採用されなかった「確率」と「期待値」の話も面白かったですよ。科学の限界の一端を示す話だと思いました。
 すなわち…「1/1万×1/1万=1/1億」という確率計算から原発は安全だと言われてきた。しかし、それぞれの1/1万は独立事象に関することである。しかし独立事象というのは理論上のことであり、現実にはありえない。特に地震や津波による原発事故の場合、それぞれのシステムが「独立」であることはありえない…と。
 また…「10年に1回、10億円の損害」と「100年に1回、100億円の損害」というのは、期待値的には同じだが、我々の生活感、倫理観からすると全く違う…と。
 この話を聴きながら再確認しましたね。数学が象徴するように、科学は人間の想像力(感情)を排除するところから始まるんだなと。
 つまり、基本的に顔が見えないんですよ、人間の。ここのところ何回か書いてきたと思いますが、私たちは相手の顔が見えないと倫理を失います。
 たとえば、今回ですね、こういう事故が起きて、自分や自分の子どもが被曝すると、これだけ大きな騒ぎになる。これは当然です。
 しかし、加藤さんも言うとおり、核廃棄物が自然状態に還るには10万年かかるわけで、じゃあ、それに対しては我々は「感情的」「倫理的」になるかというと、まったくならないわけですね。
 ずばり言ってしまうと、私なんかも、自分の娘たちの将来、娘たちが住む世界の状態を心配できますが、その娘たちの子ども、すなわち孫のこととなると、途端に無関心になり、あるいは悪人にすらなってしまいます。とても10万年後のことなんか想像できませんよね。
 これは大きな人間の欠陥です。加藤さんの言う「世代間責任」「世代間倫理」が欠落しているんですね。特に、カネ、経済性が優先されると、その傾向は強まります。
 では、どうすればその「想像力」を持つことができるのか、あるいは鍛えることができるのか。
 私はそこに必要なのは、感情や想像力、個人の顔を排除する「科学」ではなく、それらを統合する「宗教」だと思っています。「宗教」という名で呼ぶと、我々は経験科学的に(笑)具体的な宗教を思い浮かべてしまうので、本当はその言葉は使いたくないんですけどね。
 ホントしつこくて申し訳ありませんが、私の「モノ・コト論」的に言いますと、科学は「コト」の権化ですから、そっちではなくて「モノ」的世界に生きよということです。「物語」世界とも言っていいでしょう。
 実は人間の脳ミソはそちらの世界に対応するようにできているんですが、今、我々はそちら側をほとんど使っていないようです。コト的な世界、言語によって分析、分節する機能ばかり使っている。数字や言葉やカネはそちら側に麻薬的に働きます。
 もちろん、そちらも必要なのですが、バランスが悪いんですよ、他の動物と比べても。
 実は「倫理」「道徳」「モラル」「良心」というのは、言語の領域、科学の領域で生まれ育つものではありません。教育界ではその逆のことをずっと教えてきちゃいましたね。人間は言語や数字で考えられるから動物より優れていると。間違ってましたね。
 まずは、顔が見える者どうしの「思いやり」、そして、次に今ここにいない顔見知りへの「思いやり」、さらに顔を知らないけれども、確実に存在している無数の他者に対する「思いやり」…こうして我々は「想像力」を鍛えていかなければならないのです。
 難しいですね。我々教師の責任も重大です。教科書を教えながら、科学や論理や言語を教えながら、その補集合(モノ世界)の存在に気づかせなければならないわけですから。
 厳しい道のりが想像されますが、一歩一歩進むしかありません。

Amazon 環境倫理学のすすめ 新・環境倫理学のすすめ

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2012.01.09

想像力

31wjvhsm0kl 日、本校の推薦入試が行われました。いつも書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。試験本番というのは受験してくれた皆さんとのまさに「一期一会」ですから、それなりのメッセージを伝えたいと考えています。
 子どもたちもある意味人生をかけてテストを受けるわけですからね、私も真剣勝負したいのです。
 ちなみに昨年は将来の夢という文章を書きました。
 今年は震災などのこともふまえて、次のような文を書いてみました。
 いろいろな思いを詰め込みたいところですが、相手は小学生ですからね、なかなかそういうわけにはいきません。
 では、空欄や漢字の問題などを取り払った原文をどうぞ。



    想像力

 みなさんは、私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?
 四本足ではなく二本足で立って歩くことでしょうか。言葉を操ることでしょうか。道具を作って使うことでしょうか。
 私はこう思っています。
 「人間には想像力がある」
 私たち人間は、何かを想像することなしには一日たりとも生活することはできません。先ほども、「私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?」と聞かれて、頭の中でいろいろなことを想像したのではないでしょうか(ここは試験会場ですから、本もパソコンもありません。頭の中でいろいろ想像するしか方法はありませんね)。
 もちろん犬や猫も頭の中で何かを想像することがあるでしょう。たとえば、「おなかがすいたな」と感じれば、いつもの場所においしいエサが入ったお皿があることを思い出すのではないでしょうか。
 しかし、ここでの「想像」とは、自分の過去の記憶を呼び起こしているにすぎません。犬や猫が、明日何をしようかなとか、今ごろ外国の猫たちは何をしているだろうかとか、そういうことは考えないのです。
 それに対して私たち人間は、経験したことがないことを想像することのできる生き物です。
 猿くらいになると道具を使ってエサを取ったりすることもありますが、想像力のレベルでいうと、とても人間には及びません。人間の想像力は過去や現在だけでなく、未来に向かって大きく広がっているのです。
 そして、この人間の想像力は、より高度な力に発展していきます。
 一つは「思いやり」です。
 「思いやり」とは、まさに「思い」を「やる」ということです。「やる」という言葉に漢字を当てると「遣る」になります。「遣」という字はどういう時に使われているか想像してみてください。
 そう、最近社会科で「遣唐使」というのを習ったでしょう。それから「派遣する」という言葉も見たり聞いたりしたことがありますね。これらから、「遣」という字に、「だれかを遠くへ行かせる」という意味があることが分かるでしょう。
 ですから、「思いやり」という言葉にはもともと、自分の体の代わりに「思い」を「遠くへ行かせる」という意味があるのです。
 昨年の三月の大地震と大津波、そして原発事故はいまだに現地の人々を苦しめています。みなさんの中には、被災地に行ったという人がいるかもしれません。しかし、全ての人が体ごと現地へ行ってお手伝いをしたり、励ましの言葉をかけたりすることはできません。
 そんな時、私たちは「想像力」を働かせて、自分の「思い」を届けようとするわけです。みなさんも、現地に行かなくとも何か具体的な行動をしたのではないでしょうか。それこそが「思いやり」の行動なのです。
 私たち大人は、みなさんに対していつも、「人を思いやりなさい」、あるいは「思いやりの気持ちが大切だ」などと言っています。しかし、具体的に何をすべきかというと、実は言っている本人もよくわかっていないことが多いのではないでしょうか。
 本当の「思いやり」には「行動」が伴います。ただ「大変だろうな」とか「かわいそうだな」とか思うだけでは、「思い」をやったことにはなりません。「遠くへ行かせる」にはそれなりの力(エネルギー)が必要であり、それが実際の体の動き、すなわち行動として現れるのです。
 「想像力」が生み出すもう一つの力は、同じく「ソウゾウリョク」と読む「創造力」です。
 先ほど書いたように、人間以外の動物は、ほとんど過去の経験の繰り返ししかできません。だから、動物は数千年、数万年にわたって基本的にほとんど変わらない生活をしています。過去を思い出すだけでは、新しい何かを生み出すということは不可能なのです。
 一方人間は、過去の記憶から未来を想像することができ、新たな挑戦の意欲をかき立てることができます。きっとみなさんにも、過去の失敗から次はやり方を変えてみたという経験があることでしょう。
 さらにみなさんの中には、こう考える人がいるかもしれません。過去の経験がなくても新たな挑戦意欲はわくのではないか、つまり「これはやったことがないけれども、こうやったらこうなるのではないか」と予想して行動することもあるのではないかと。
 たしかにそのとおりですね。しかし実を言うと、この「未経験」の裏側には、ちゃんと「経験」が存在しているのです。それは「他人の経験」です。分かりますか。
 たとえば、だれかの失敗を見て自分はそうしないようにするとか、本にこう書いてあったから、ここではこういうふうに行動しようとか、そういう時の判断基準は「他人の経験」ですね。私たちは「他人の経験」を「自分の経験」のように想像してみて、そこを出発点として新たな何かを生み出すこともできるのです。
 これは、たぶん人間だけに与えられた能力です(もちろん他の動物にも本能的にそういう行動をする時はありますが、あくまで本能であって考えているわけではないと思います)。そして、「他人の経験」をたくさん知れば知るほど、私たちは自分の体の限界を超えて、つまり時間や空間の限界を超えて考えたり行動したりできるのです。そうなれば、まるでスーパーマンですね。
 さあ、この文章を読んで、「想像力」こそが人間に与えられた宝物であることが分かりましたか。
 その「想像力」の源である「経験」を積むのが学校というところです。学校では、自分の経験を積んでいくのと同時に、勉強を通じて「他人の経験」を知ることもできます。
 みなさんがあまり好きでない教科書たちも、そんな「他人の経験」の宝庫だと思えば、少し違ったものに見えてくるかもしれません。今日家に帰ったら、そういう目で教科書を見直してみましょう。

 昨日のジョブズなんかは非常に「想像力」のたくましい人だったと思います。
 その前の話と結びつけるなら、「利益(りやく)」は「想像力」なくしては実現しませんね。他者の立場、気持ちになることが前提の行為ですから。
 逆に「利益(りえき)」たる「カネ」は人間の想像力を阻害するものです。昨日書いたとおり、「もうける」ということは「誰かに損をさせる」ことであるという資本主義、市場経済の仕組みの上においては、そうした「思いやり」や「忖度」は単なる邪魔者になりかねません。たとえば、顔が見えなければ、客をだましてでも物を売ってしまう…なんてことが起きていますよね。
 自分でもこの文を書きながら、いろいろ考えてしまいました。迷いや悩みもどんどん湧いてきます。しかし、そこに目をつぶらず、何が本質なのか、何が自分の役割なのか、生徒たちと考え続けたいと思いました。
 考え過ぎて行き詰まった時は、他の人の話に耳を傾けるのが一番です。ダライラマの「思いやり」を読んでみようかな…。

Amazon 思いやり(ダライラマ)

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2012.01.04

『さよなら!僕らのソニー』 立石泰則 (文春新書)

S 日は愛猫とのお別れの話でした。
 今日はソニーというか、古き良き日本の技術者集団とのお別れなのかなあ。「さよなら!」ですからね。
 そして、なんかもう起死回生は難しい、つまり再会は難しいかなと思ってしまいました。
 これはソニーに限ったことではなく、また、ある意味技術者集団に限ったことではなく、大和魂との別れと言いましょうか、日本の伝統的な精神性との別れと言いましょうか、そういうスケールの話のような気もしてきます。
 そうそう、ちょうど今日はプロレスに関する番組を三つほど観ました。まずはサムライTVでの天龍源一郎とスタン・ハンセンとの対談。そして、新日本プロレスの東京ドーム大会レッスルキングダムの一部、さらにはBS11のアントニオ猪木(IGF)特集。
 その三者三様のプロレス模様の中にもまた、古き良き昭和を懐かしむ部分と、それとは全く違う平成のプロレスをそれはそれで楽しむ部分と、頑固なまでに昭和の魂を伝承し復興しようとする部分と、いろいろなものを感じました。
 おそらくいろいろな分野で同じことが起きているんでしょうね。そして、それがそれぞれうまくいくか失敗するか…。
 ソニーは昭和の職人魂、すなわち創業の精神をいつのまにかなおざりしてしまい、一方でグローバル化というある意味フィクションに呑まれてしまい、そのブランド力を完全に失ってしまいました。
 つまり、方向性とともにそのやり方に大きな問題があったのです。それを丁寧に検証したのがこの本です。
 まあ細かい内容のレビューはAmazonでご覧下さい。私はちょっと違った角度から書きます。
 今、私の学校も変革を迫られています。一般企業ほどではないにせよ、私学ですから当然経営戦略という観点も必要になってきます。
 なんとなく私がそのあたりの担当になっているので、この本はまさに他人事ではない内容でありました。
 時代に合わせる必要があるところと、揺らいではいけないところ、その両者のバランスというのは本当に難しい。
 学校にももちろん「建学の精神」というのがありまして、それは絶対に揺らいではいけないものだと、みんなが認識してはいますが、ソニーと同様、そのスタートに居合わせた人々がどんどん減っていく現状の中で(私も第二世代です)、どう温度差をカバーしていくか、これは大変難しいものです。
 本文にもありましたとおり、だいたい昔気質のトップというのはワンマンでカリスマ性があって、めちゃくちゃな要求を押しつけたりして、しかしそのおかげでいろいろと奇跡的な製品ができあがったりするわけですね。
 それを今どきの若者たちに伝えても全然ピンと来ない。そのとおりやったりすると、つぶれちゃうか、あるいは反発してくるか、とっととやめてしまう。昔はなあ、こうだったんだ!と口角泡飛ばせば飛ばすほど、そのギャップは広がっていきます。
 何十年、何百年もずっと続いているモノというのは、実は変わっていないようで、その時代ごとにしなやかに変身していたりするものです。一見変わっていないようで、実は変わっているとか、一見変わっているようで、内実変わっていないとか。
 だめになっていく過程でのソニーにも「技術力」はあったと思います。時代を読む力もあったと思います。ある意味では、技術力がありすぎ、そして時代を先読みしすぎたような感もあります。
 また、ソニーは変わっていないけれども世の中がダメになったとも言えます。職人の作った高価なものよりも、多少性能が低くても、あるいは壊れやすくても安い方がいいという価値観の蔓延ですね。
 そして、いつのまにか、ソニーはそういう大衆の側に自らの基準を合わせてしまった。グローバルマネー世界に魂を売ってしまった。そうとも取れます。
 教育の現場でも同じことが言えますね。ただ生徒が集まればいいというわけではない。しかし、生徒が集まらなければ学校自体がなくなってしまう。そこで、どこに着地点を見定めるか…これには、実はデータよりも経験的な勘が必要だったりします。それこそ職人的な技。
 難しいけれども、だからこそやりがいがあり、面白い仕事であるとも言えます。教育界では比較的ゆっくり変革していけばよい部分もありますし、保守的で許される一面もあります。
 しかし、さすがにこういう世の中になったからこそ、教育から世の中を変えていきたいという大志が湧いてくるのも事実です。機を逸さないように、存分「勘」を働かせてやっていきたいと思います。
 ああ、それにしても私はソニー信者じゃなくて良かったな。これは信者には辛いわ。私はどちらかというとアンチでしたから、この失敗譚をありがたく他山の石といたしましょう。

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2011.12.30

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 (新潮社)

Img_4277 さまじい労作。日本ノンフィクション史に残る傑作。まずは著者の取材力、構成力、筆力、そして「思い入れ」に敬意を表したいと思います。
 ある意味、昨日の「たこ八郎」とも通ずるかもしれませんね。昭和の格闘家の人生です。そして、「異形の時代」としての「昭和」そのものの研究書とも言えましょう。
 実は発売後すぐにさらっと読んでいたのですが、その時はなんとなく「不快」な感じしか残らなかったのです。それは、単純にこの700ページに及ぶ超大作をゆっくり読む余裕がなかったからであり、そのためにこの本の神髄に触れることなく、表面的な「アンチプロレス」的な物言いに浅薄な反応をしただけのことでした。
 年末になり、ようやくゆっくり読む機会を得て、一字一句逃さないように丸三日かけて読み終えた今、感動と言うよりは、なんと言いましょうか…感心というか、得心というか、そういう「腑に落ちた」感覚を覚えています。
 伝説の柔道家にして、悲劇のプロレスラーであった木村政彦。彼自身と本物の柔道の強さに焦点を当てて語られたこの「昭和史」は、まさに歴史書の趣を持っています。ある種歴史小説の迫力と言いますか、南朝秘史、哀史という感じでしょうかね。
 もちろん単純に、柔道史、プロレス史、ブラジリアン柔術史、総合格闘技史の貴重な史料、研究書としての価値もあります。多くの新事実が発掘されています。
 しかし、それ以上に、あの戦争を挟んで、この日本という国の文化がどのように激変したかを考えさせられましたね。
 私は今、戦後教育がアメリカによっていかに骨抜きにされたか総復習しているところですが、たとえば柔道の世界もそういう流れがあって今に至っているわけですね。
 実はそのへんは私にも誤解がありました。オリンピック競技となってJUDOになってしまったことを、このブログでも何回か憂えてきましたが、コトの本質はそんな表層的なことではなかったのですね。JUDO以前に柔道自身が自らの骨を抜いてしまっていたとは…。
 私は少し変わった視点から昭和史を見ています。たとえば「骨抜き」の「骨」の部分に、一般にはオカルトと片づけられてしまうような、「モノ」世界が存在していると考えています。科学という「コト」の名のもとに、心霊世界や宗教世界が代表する「モノ」世界が幽閉されていったと。
 かつての柔道や空手などが西欧で恐れられた理由の一つには、そういう「もののけ」的な恐ろしさがあったものと思われます。もちろん、日本という国自体が「得体のしれない気味悪さ」を持っていた原因もそこにありました。
 それは「精神性」とも言えますが、実は現代の感覚でそう説明してしまうのにも無理があります。もっと奥深い、もっと根源的な何かです。おそらくそれは我々の「存在」自体に関わるモノだと思います。言葉以前の次元なのです。
 そうそう、この本でも慎重に扱われている「合気道」なんか、その最たるものですね。結局植芝盛平が最強ともなりかねません。そして、その植芝が足下にも及ばないと自覚していた出口王仁三郎が人類史上最強であるとも…笑。
 まあ、そこに言及してしまうと筆者の意図とは違うところに行ってしまうので、軌道修正しましょう。
 武道が競技になり、スポーツになっていくということは、まさにその「モノ」を削いでいくことだと思います。その中で、木村政彦という物の怪は苦悩します。
 それでも、昭和はまだ良かったんですよ。昨日のたこ八郎、いや斉藤清作がそうであったように、物の怪の受け皿としてのスポーツ界、芸能界というのが存在したんですよね。もちろん、そこにはヤクザ世界というこれまた大きな受け皿がありました。
 そういう意味では、私は現代のプロレス界というのは最後の砦であるようにも思えるんですね。まあ、それもずいぶんと崩れてしまいましたが。
 筆者は、プロレスを徹頭徹尾「八百長」「フェイク」「ビジネス」であるとして語るに足りないと書きます。それは当然です。この本の説得力は、徹底的にリアルな強さに基づくそのスタンスから発しているからです。
 純粋なプロレスファンである私は、最初そこにカチンと来たわけですよね。私自身の存在に関わることですから(笑)。
 しかし、今しっかり読み終えてみて全く逆の感覚を持ったのは、実に筆者のそういう姿勢のおかげであったと気づいたわけです。
 増田さんが、リアルな強さを語り、本来の柔道の、木村政彦の強さを語れば語るほど(つまりプロレスや力道山を否定するほど)、「強さだけでは勝てない」という現実が起ち上がってきて、私たちの目の前にぬぐいようがなく広がっていくんですね。
 世の中、人生そのものがプロレス的であるわけですね。つまり、物語的であると。それは勝ち負け、強い弱いという二元論ではとても語り尽くせない「モノ」ワールドなわけです。
 実際に木村政彦は幸福な人生を送ったとは言えません。強いがゆえの弱さも露呈した一生だったとも言えましょう。
 この本の、感動的と評されるあのラストも、ある意味では「結局表世界では評価されない」という現実を確認させるとどめの一撃であるとも取れます。残酷ですね。
Img_4275 私はこの本を読み終えて、すぐに1年前に発売されたkamiproを引っ張り出してきました。
 そこには先日亡くなった上田馬之助さんの最後のインタビューが載っています。彼のこの言葉を読みたかったのです。
 「(プロレスは)筋書きにはないドラマ」
 もちろん「筋書きのないドラマ」論に対する上田流の反撃です。深い言葉です。私は、人生も世の中も「筋書きにはないドラマ」にこそ本質があると思います。だからプロレスが好きなんです。
 明日は大晦日。総合格闘技単独の興行ができなくなり、今年はプロレス(IGF)に呑み込まれての開催となりました。何か象徴的ですね。いったいどういう興行になるのか…。
 この本のラスト近く、筆者と、木村政彦の強さを継ぐ柔道家岩釣兼生と、そして石井慧の三人が木村の仏前に参るシーンがあります。
 その石井慧は、明日皇帝ヒョードルと闘います。はたして石井は木村政彦になれるのか、いや、なろうとするのか、あえてならないのか。大きな意味でプロレスに復讐するのか、プロレスに呑まれるのか、返り討ちにされるのか。歴史的な瞬間が近づいています。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」…「殺さなかった」ではなく「殺せなかった」が正しいのかもしれない…そんなことを予感しつつ、石井対ヒョードル、そしてIGF対DREAMを観戦したい思います。

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2011.12.23

『地球の雛型「日本」は世界一切を救う』 伊達宗哲 (ヒカルランド)

20111225_74413 日、o'clockの話から、時に縛られない生活をしたいというようなことを書きましたが、今日はある意味時空を超えた一日を過ごさせていただきました。
 今日は天皇誕生日。私、初めて皇居の一般参賀に行きました(かなり遠巻きでしたが)。別に私は右でも左でもないし、なんの宗教にも属さない(あらゆる宗教に関係していますが…笑)人間ですけども、今年は妙に今上天皇陛下のお誕生日をお祝いしたくなったのです。
 というのも、今日は午後から四谷で「王仁魂復活祭」というものに参加することになっていて、その案内に「東京がスになる」ということで、このようなシンボルが描かれていたのです。これを見て、ここのところ東京の霊脈に興味があった私は、理屈抜きになるほど!と思いました。これはまず午前中は陽たる皇居に行かねばということを思ったわけです。
20111225_93904
 なんだか怪しい感じですよね(笑)。そう怪しいんです。東京、いや日本、そして世界は理屈だけで説明できないこと満載なんですよ。今日くらいそういう世界にどっぷり浸かるのもいいかなと。
 天皇制については私もかなりはっきり思うところがありますけれども、今日は細かいことは書きません。ただ、この陰陽図にあるように、天皇だけを見ていても、あるいは信奉していてもダメなんですよね。
 今の日本の「象徴」が天皇だとすれば、その対極にある、あるいはそれを補完する関係にある、その象徴が出口王仁三郎です。
 この陽たる天皇の誕生日に、陰たる王仁三郎の魂を復活させて、陰陽相和し、真に大和な日本、そして世界を作り出す、そのスタートの日にしようというのが、私なりに解釈したこの復活祭でした。
 上の案内にありますように、今回は船井幸雄さんの作られた「にんげんクラブ」と、憲法1条と9条の和合を解く「いっきゅう会」の協力を得ての開催。150名を超える方々が集まり、世の中をよくしようという基本的な志のもとに大きな上昇機運を作り上げました。
 祭の中心になった二つの講演は、それぞれなかなか興味深いものでした。伊達宗哲さんの世界観については、以前お会いしたこともありますし、また前著『王仁三郎と日月神示のひな型神劇』や、今日紹介する新著でよく理解しているつもりでしたので、お言葉一つ一つに納得。一方の「天皇の真実」…特に「憲法9条のご発案者は昭和天皇である」ということを熱弁された河内正臣さんの方は、まあパワフルで面白いこと。スケールが大きいですねえ。ある意味バカボンワールド(もちろん最大の賛辞です)。
 王仁三郎について静かに淡々と語る伊達さんと、天皇についてマイクを持っていながら使うのを忘れるほどの熱弁を繰り広げる河内さん。まさに陰陽でしたね。とってもめでたい感じがしました。
 陰陽と言えば…一次会終了後、会場におられた安倍元首相の奥様昭恵さんにご挨拶させていただきました。ある意味ご近所なので「不二の仕組み会」にお誘いしておきました。これから大きな動きが生まれるでしょう。楽しみです。
 昭恵さんは、まさに「陽」ですね。太陽のような方でした。そんな彼女は今「陰」の世界に触れつつあります。そのバランス感覚が見事だと感じました。さすがファーストレディーになられる方です。ご主人もきっといい影響を受けられることでしょう。こちらも楽しみですね。
 その後、二次会と三次会はずっと伊達さんとお話しさせていただきました。前も書いたように、伊達さんと私は王仁三郎だけでなく「禅(臨済宗妙心寺派)」という共通点があるので、ついつい話が盛り上がってしまいます。たぶん、他の方には全然分からないトークが展開されていたのではないでしょうか(笑)。
 というわけで、今日は伊達さんの最新刊を紹介します。震災を受けて書かれたこの本、前著との文体の違いを感じていた私の疑問も氷解しました。やはり震災がこの本を書かせたのですね。お役目のある方には、やはりそういう力が働くのでしょう。
 王仁三郎のこと、あるいは霊的な世界について、あまりご存知でない方でも、充分理解できる内容です。ぜひお読み下さい。2012年を迎えるにあたって、私たちが考えておかねばならないことがたくさん書かれていると思います。
 お話をしていて、伊達さんと私、共通の「夢」があることが分かりました。きっとそれは実現することでしょう。いや実現させねばなりません。そしてその時節は到来していると思います。

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