カテゴリー「書籍・雑誌」の1000件の記事

2022.05.25

『仏教は宇宙をどう見たか』 佐々木閑 (化学同人 DOJIN文庫)

アビダルマ仏教の科学的世界観

Th_311nmc1xmfl 「間は未来から過去へと流れている」ということを私もずっと言ってきているわけですが、同様の捉え方をしていた人たちは無数にいます。

 特に昔はそういうふうに感じるほうが一般的であったようで、たとえば仏教の倶舎論(アビダルマ)の中にも、未来が向こうからやってきて去っていくというようなことが記述されています(ただし因果関係は過去→未来)。

 非常に難解なその倶舎論を、おそらく最大限に優しく易しく語ってくれているのが、佐々木閑先生のこの本ではないでしょうか。

 その独特な時間論についても、映写機を比喩としてわかりやすく説明してくれています。

 そのおかげさまで、やはりアビダルマの時間観と私の時間観は似て非なるものだなと確認できました。私のトンデモ時間論は全く論理化、言語化できていないので、どう違うかの説明すらできないのですが。ただ、違うことだけはたしか。

 いったいいつになったら言語化できるのか。昨日の話ではないが、もしかすると、それは科学者がやってくれのかもしれません(そうだと助かる!)。

 そうした、文系と理系のコラボというか、より高い次元での止揚というか、そんなある種の理想世界を体現してくれているのが、京都大学で化学と仏教を学んだ佐々木先生ですね。

 佐々木先生の世界観との出会いは14年前。知り合いの和尚様から「犀の角たち」をお借りしたのがきっかけ。それから著書や動画を通じて先生からは本当にいろいろなことを学んでおります。

 直接お会いする機会がありそうだったのが3年前。当時の花園大学の学長さんからチベット旅行に誘われた時です。佐々木先生も同行するはずでした。

 しかし、その夢のような旅行はコロナで中止。いまだお会いする機会はありませんが、いずれご縁があるでしょう。

 それにしても、この世界一わかりやすい「倶舎論」も、やはり難解でした(私の頭では)。

 お釈迦様後の仏教論には、どこか行き過ぎた知的遊戯的なところもあって、私のような無明の凡夫はそういう意味で、それってお釈迦様が一番嫌ったことじゃないの!?とツッコミを入れたくなってしまうのでした。

 そしてもう一つ思うのは、2500年前の天才の考えに近づこうとするのもいいけれども、この現代にふさわしい新しい哲学や宗教が生まれてもいいのではないかなということです。

 そのヒントとなるのが、近過去の天才、出口王仁三郎や仲小路彰の残したモノたちであると思うのです。科学万能となった現代においては、そういう思索が、カルトやスピ扱いされてしまう傾向がありますが、やはりそこを乗り越えていかねばならないと思う今日この頃であります。

 少なくとも、お釈迦様や王仁三郎、仲小路が21世紀の今生きていたら、いったいどんな考え方をし、どんな言葉を発するのか、そういう想像力を働かせることは大事でしょうね。

 この本に関するこの動画をぜひご覧ください。後半の「ワクチン陰謀論」と「宗教」に関するところも興味深いです。そのとおりだと思いますよ。

 

 

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2022.05.22

『ウルトラ音楽術』 冬木透・青山通 (集英社インターナショナル新書)

Th_61pwssfx3rl 日観た「シン・ウルトラマン」、音楽はなかなか良かった。

 宮内國郎のオリジナルの音楽と鷲巣詩郎の新曲のバランスがよく、それぞれのシーンで「懐かしさ」と「新しさ」に基づく興奮を味わうことができました。

 しかし、ウルトラシリーズの音楽と言えば絶対にセブン。つまり、冬木透さんの音楽ですね。

 青山通さんによるウルトラセブン&冬木透論については、以前こちらに書きました。

 ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた

 そして、いよいよお二人がコラボして、より核心に迫る良書が完成しました。

 いちおうクラシック畑にもいるワタクシとしては、冬木透、そして蒔田尚㚖としての音楽歴や音楽観、そしてお好みを知れて嬉しかった。

 キリスト教音楽家としての蒔田尚㚖もしっかり評価したいですね。

 ご自身も書いていますが、代表歌曲「ガリラヤの風かおる丘で」は、いかにも蒔田さんらしい優しい愛に溢れた佳曲です。この親しまれている国産賛美歌の作曲者が、ウルトラセブンの音楽の作曲者だと知らない人も多いのではないでしょうか。

 

 

 パイプオルガン大好きな私としては、蒔田さんのオルガン作品をたくさん聴いてみたいところです。なにしろ、実相寺昭雄映画「曼荼羅」の音楽でしか聴いたことがないので(!)。

 この本全体を通じて印象に残ったのは、想定外の仕事や、自分では納得いかなかった仕事が、のちに高く評価されるということ。人生とは案外そなんものですね。自我が強すぎるとそこに違和感を抱いたり、不快に思ったりしてしまうのでしょうが、冬木さんは全然そんなことなく、逆にそこに価値を見出し楽しんでさえいるように感じました。

 それはある意味自分の中での満足がないとも言えるわけで、それが結果として自身の進化を促しているのかもしれません。そう考えると、一番怖いのは、自分でも満足した創造物が他者にも受け入れられることかもしれません。それは行き止まりを意味するのです。

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2022.05.20

『頭のよさとは何か』 和田秀樹・中野信子 (プレジデント社)

Th_b09wmyzcpt01_sclzzzzzzz_sx500_ 日は、アメリカ人と中国人の大学の先生方と「新しい学校」「本当の教養」について協議しました。

 夢のような話がどうも実現しそうです。

 彼ら彼女らは世界のランキング上位に位置する大学の出身。私は日本の田舎の目立たぬ公立大学出身。

 一見、同じ地平にいないように思えるでしょう。しかし、実際はそんなことはありません。私は学歴に関して全くコンプレックスを持っていません(今は)。

 それはもちろん、彼ら彼女らが、私に偏見を持っていないからです。謙虚に私の話を聞いてくれるのです。

 東大出身の友人もたくさんいます。私は彼ら彼女らからたくさんのことを学びますが、一方、彼ら彼女らの方から私のところに教えを請いに来ることもあります。

 この本で、和田さんが「頭の良さとは、能力ではなく態度である」と述べていますが、つまりそういうことなのです。

 私や彼ら彼女らは学歴を気にして遠慮することはありません。わからないことはわからないと互いに学び合います。

 今日の討論で、「知性」「教養」とは「connectedness」「bridge」であるという話が出ました。そのとおりだと思います。

 個別の知識をいかにつなげて、より本質に、より高次元的価値に近づくかが、「頭の良さ」の条件でしょう。つまり、偏見や思い込み、既成概念にとらわれないこと。すなわち「自由」であること。リベラル・アーツの基本です。

 日本の教育システムでは、そのようなことが全く考慮されていません。この本にも書かれているとおり、ただ仮設された「正解」をバラバラに暗記させるだけです。

 「知性とは誰も知らないことを知ろうとする熱意である」…この本のクライマックスはこの言葉に象徴されるでしょう。

 私は「変わった先生」ですので、皆が知っていることにあまり興味がありません。ググって出てくる情報には興味がないのです。

 これは、本当のことを言うと、過去の情報の蓄積(暗記)を要求される「学校」において、劣等感を感じたおかげなのですが。ですから、それこそ「学校」には感謝しており、またその経験から「先生」になったわけですが、いよいよそんな悠長なことを言っていられない時代になってきました。

 長年「学校をぶっ壊す」を標榜しつつ、それがぶっ壊れないほどに堅固な守旧システムになっている内部現実に直面し、それではと今度は外からそれを脅かそうと、今様々な思考と試行を試みているところです。

 大人の修学旅行、富士山合宿もその一つですし、このたびの文科省傘下に入らない「新しい学校」のプロジェクトもその一つなのです。

 面白いもので、いや当然といえば当然ですが、私のチャレンジに興味を持ってくれるのは、日本人ではなく外国人のことが多い。とは言え、やはり中からも大きなムーブメントを作らないといけないので、ぜひ興味を持った日本人の方はご協力ください。

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2022.05.11

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その9)

Th_0049(文中のM氏については、過去記事「柳原白蓮と出口王仁三郎」をお読みください)

像だった女性関係

 彼についての虚像の中で最も大きなものは、女性関係である。

 弾圧事件で逮捕後、梅毒と噂されたり、彼の居室はダブル・ベッドが寝乱れたままで春画が置かれていたなどと流布されたのは、すべて、でっち上げであった。王仁三郎の虚像を、弾圧当局がたくみに利用したのだ。

 王仁三郎の周辺に、いつも美女数多(?)がいたことは事実である。四六版三百頁の本を二日で口述したり、一夜三百首といった勢いで書きまくる彼には、常時、秘書が必要であった。特殊な関係に陥る危険を避けるためには、一人でなく、三人四人と控えさせた。

 ただ、彼は早朝などの面会客に素裸で美女たちを引き連れて会ったりした。晩年になっても、彼は往々一物を人前で隠さなかった。

 性がタブー視されている陰湿な風土では、それがかえって信徒の心をとらえる。天衣無縫な感じであるが、別の人たちの眼には演技過剰であり、別種の憶測を生むことになった。

 虚像に輪をかけたのが、隠し子事件である。王仁三郎の親分肌を見こんだ共産党員のM氏(後に転向)が、妻に去られて非合法活動ができず、生れたばかりの女児の養育を王仁三郎にたのんだ。

 王仁三郎は、それを自分の子供ということにして、教団幹部の一人に預けたのだ。終戦後M氏が迎えに来るまで、教団内部においても、隠し子説は信じられていた。

 家庭生活は決して幸福なものとは云えなかったようである。だいいち、多勢の人が毎日出入りする家の中にあっては"家庭"と呼ばれる生活を営みようがなかった。

 ナオの在世中は、ナオと王仁三郎は度々はげしい衝突をくり返した。ナオの没後には、教団運営の全責任が王仁三郎にかかり、彼はほとんど家庭に落着けなくなる。

 彼の超人的な多種多面にわたる活動。もし彼が超人でないとすれば、その皺よせがいちばんひどかったのが、家庭生活である。そして、働き盛りの王仁三郎には、むしろ、意識的に家庭生活を無視する傾向があった。それもまた、非凡さの一つのあらわれと感じて。

  家のこと妻にまかせて世のために尽すは夫の誠なりけり

  家のうち始めまもりて背の君の心いやさむ妻ぞかしこき

  家の内ゆたかに平和にをさまるも妻の心の梶ひとつながる

 王仁三郎の歌集の中の「五倫五常」の分類の中にある歌であるが、あまりにも一方通行的で、祖父の遺言を連想させるものがある。「母が、父と夫婦らしい幸福を味わったのは、若いころ、父といっしょに荷車をひいて、柴刈りにいっていた頃と、晩年、未決から帰ってからしばらくの、父の周囲に人垣の去った、夫婦きりの暮しの時であったでしょう」

 と、娘も見ている。

 子供運にも恵まれなかった。男の子は全部育たず、この長女に迎えた婿は、弾圧事件のショックで精神障害を起し、以後、世間的には癈人の生活に入る。

 家庭を無視してきた王仁三郎も、この衝撃だけには耐え切れなかった。娘が、婿とともに家を去って療養地に向う日、

「父は二階に上り、私の姿が見えなくなるまで、あっちへいったり、こっちへいったりして、しまいには泣いておられた」

 弾圧も、一つの法難として淡々として受け流そうとしていた王仁三郎ではあったが、このときばかりは、無法そのものの弾圧当局に対して、またその命令者に対して、やり切れない憤怒を感じたにちがいない。

(その10に続く)

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2022.05.10

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その8)

Th_seishisama分肌と抱擁力

 宗教関係だけでなく、また国内だけに限られたものでなかった。「万教同根」を説く教義の関係もあって、各国の新興宗教団体と提携し、さらに、大本が中心になって、北京に世界宗教連合会もつくった。(こうしたことも、おそらく既成教団の反感を買ったにちがいない)第一次大本弾圧事件の無罪判決を聞いて、二十カ国の人々によって、王仁三郎をたたえる「賛美集」が発刊されたりもした。

 だが、親分肌であり抱擁力があるということは、時には弊害も生む。心にもないつき合いをし、取り巻きが生れる可能性である。

 王仁三郎の娘出口直日は、こう書いている。

「父はどんな人でも迎え入れ、たのまれれば断りきれず、どこかのよいところを育てようと努力し、どんな辛抱でもしていたようでした。性来が磊落で、冗談ばかりいっていて、何だか雲をつかむようなところがありました)(続・私の手帖)

 そして、その反面、

「父は気が弱くて、それらの人を抑えきれないで、バカげた責任までも負わされてしまったという人です。それでいて、人を責めるでなし、過ぎたことをくやむでなし……」

 取り巻きの害について、彼女が耐えかねて父に注意の手紙を送ったところ、王仁三郎はその手紙を「娘がこう云って来たよ」と、そのまま取り巻きたちに見せてしまったというエピソードが紹介される。つまり、娘の手紙にかこつけてしか苦言の云えなかった弱さがあったというわけである。

 浅野和三郎が、大正十年立て替え立て直し説を機関紙に発表するといったとき、王仁三郎は反対したが、おさえ切れなかった。その結果、大正十年には大本信徒は一大動揺に見舞われることになったが、実際には、世の立て替え立て直しは起らなかった。谷口雅春らは、それを理由に大本を去るという事態も起る。

 心にもないことが、流れの泡のように、次から次へと湧いては消える。そして、それがそのたびに、王仁三郎の身から出たことになる。

 だが、王仁三郎は、陣を退くことなく、戦線を収縮することも好まない。虚像の上に虚像が重なり、一つの怪物像がそれらしく出来上って行くのを眺めている。怪物像を否定して「小さな自分」になるよりも、誤解を浴びたまま「大きな自分」にとどまることを好んだのかも知れない。茶目気と侠客気質という老い銹びた細い柱の上に支えられて。

 にぎにぎしく人々に取り巻かれながらも、王仁三郎の心中には、いつも空洞が穴をあけていた感じである。

(その9に続く)

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2022.05.09

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その7)

Th_0518完の映画「王仁三郎一代記」

 法的には何の根拠もない大本弾圧の烽火はそうした人々の中からも燃え上ったようである。事実「出口王仁三郎一代記」は、その年の大弾圧によって、遂に未完成に終った。

 多分に王仁三郎の道楽といった感じのするそうした芝居や映画も、教義の普及宣伝にとっては、新しい強力な媒体となった。媒体として義務感でつくったものでなく、王仁三郎がいわば無償の情熱を注ぎこんだだけに、信徒にとっては迫力があった。(教団幹部も信徒も一つになって素人芝居に打ちこむ習慣は、今日まで続いている)

 自己表現欲の一つの変型であろうが、活字文化の利用についても、王仁三郎は積極的であった。

 機関誌を創刊し、ついで、それを旬刊にする。印刷所をつくり、自分も植字や組版に先頭に立って働いた。

 後には、輪転機十台を持つ当時の大新聞「大正日日」を買収。さらに「人類愛善新聞」を発刊。一時は発行部数が百万部を越えた。既存の新聞社をおびやかすに十分な数字である。

 時代に先んじてのマスコミ利用は、彼の先見性を示すものだが、同時にそれはマスコミのすべてを敵に廻すことになった。弾圧直後全国各紙がほとんど筆をそろえて大本邪教説を流したのも、取材の制限という障害のためばかりではなかったようだ。

 ぎりぎり歯ぎしりしながら生きるわけではない。超人的に動き廻りながらも、人生に"遊び"を失わない柔軟な生き方――幡随院長兵衛を夢見たこともある王仁三郎は、人を生かして使うことも心得ていた。

 入信した海軍教官で英文学者の浅野和三郎を十分に活躍させて、軍人層知識層の信者をひろげ、谷口雅春(生長の家)には雑誌編集に腕をふるわせた。世界メシヤ教主の岡田茂吉も、当時は大森の支部長として活躍していた。

 一人の能力では、いかに非凡であっても、成長には限度がある。企業がある程度大きくなれば、多数の人材の能力をフルに発揮させることがトップの仕事になる。

 苦労人で頭がよく、人の心を読むのがうまい。変性女子と言われるほどの柔軟さ、侠客的な親分気質――人を使うには、申し分ない性格であった。

 人を使う能力とは、云いかえれば、組織づくりの能力でもある。

 人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会・昭和神聖会・エスペラント普及会・ローマ字普及会等々、王仁三郎の組織した団体の名前は、列挙にいとまがない。

(その8に続く)

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2022.05.08

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その6)

Th_0086性男子と変性女子

 出口ナオは、教祖にまつり上げるには打ってつけの人物であった。

 貧しい酒のみの大工の子として生れ、十一歳で年季奉公。結婚した夫(大工)も酒のみで、三年間脳出血で寝こんだ後で死ぬ。残されたのが三男五女(その他に乳児のとき死んだ子が三人)。

 糸引きとボロ買いをしながら、ようやく八人の子供を女手一つで育てた。ところが、折角育てた長女も二女も家出。長男は自殺未遂後、行方不明。いちばんたよりにしていた三男は戦死というみじめな有様――艱難辛苦をなめつくして生き抜いてきた女である。それだけに、その意志の強さや生活力は信徒たちの心をとらえた。

 性格ははげしく戦闘的で、自らを変性男子(女性の形をとった男)と呼んだ。これに対し、王仁三郎は変性女子(男性の形をした女)というわけで、王仁三郎はまたその女役や女房役を実にたくみにこなした。

 王仁三郎の性格の中には、多分に女性的な柔軟な(時に弱い)ものがある。それに、祖父から受けついだしゃれっ気も加わって、彼は大本に祭典などがあるごとに、進んで、女神とか乙姫とか、女装してふるまった。神示によって王仁三郎を変性女子ときめつけたナオにしてみれば、悪い気はしないであろう。

 もちろん、王仁三郎はただナオに気に入られようとして、女装したわけではない。彼は、大本の中に、明るくおおらかな"お芝居"を持ちこむことの必要を感じたのだ。ただ、かたくなに神のお告げを伝えるだけでは、信者の心のつかめないことを。

 王仁三郎は、また、芝居が好きであった。芝居とは、自分と遊び、世間と遊ぶことである。祖父のしゃっ気にも通じる。

 芝居はまた、現実の自分を解放し、さまざまな自分の姿を演ずることである。爆発しそうな自己拡張欲を、そうした形で慰めることもできる。そして、その中で、彼の演出家としての才能も育って行く。

 大本では、王仁三郎が入ってから、次々とあちこちの無人島を買収し、そこを聖地として、教祖以下打ちそろって参拝に出かける。神学上の解釈を別とすれば、これは、教勢伸長の演出に他ならない。

 王仁三郎の芝居好きは、晩年まで続く。神聖劇や神聖歌劇を自ら演出するばかりでなく、主役として出演し、還暦を過ぎた身で布袋・弁財天・恵比寿など、「昭和の七福神」に扮したり、素盞嗚尊(すさのおのみこと)などに扮したりした。

 現在の写真を見ると、扮装もうまく、とにかく一応、役柄をこなしている。しかも、それが還暦過ぎの老人ということになると、何となく気持の悪くなる人もあろう。まるで三十台の女のようなやわらかな肉つき、下り眉、細い目、とても老人とは思えぬ精力的な顔――。

 王仁三郎と"芝居"との結びつきを知らぬ者は、酔興さを感じるよりもまず異様さを感じてしまう。

 王仁三郎は、結構、そうした芝居をたのしみ、また、自信を持っていた。その自信は二重の意味がある。役者としての自信と、そうした芝居をやらせる自分自身の力への自信である。

 昭和十年、王仁三郎は大江山太郎の名で自ら「原作・監督・主演」して、「出口王仁三郎一代記」の撮影にかかる。自信は、二重の意味で頂点に達したわけである。

 王仁三郎が早くから白虎隊(少年隊)など人目をひく組織をつくり、さらに青年隊の大会には白馬にまたがって閲兵するなどということをやったことにも、彼の"芝居"好き、しゃれっ気を感じずにはいられない。(白馬は、元憲兵将校である信徒がすすめてくれたものだが、それがいかにも御料馬白雪に似せているというので、王仁三郎が攻撃される口実の一つになった。後に述べるように、彼には気が弱く、人のすすめを断り切れぬところがある。親分肌のせいとも云えるが……。それに、たとえ誤解を招くとしても、それをおそれて小さくなっているよりも、少しでも大きく振舞いたいという欲求も強かったようだ。自分をいつも自分以上に大きくし、また大きく見せよう、少くとも、自分と等価の表現だけでは満足できないものが、彼にはあった。それを彼の超人的なエネルギーのせいにしてもよいし、自己拡張欲のためと考えてもよい。そして、彼がそうしたエネルギーを奔出させればさせるほど、それがそのまま大本の教勢拡張に役立っていった。発展期の組織には、何よりそういう要素が必要であったのだ)

 王仁三郎の演技は、彼等にとっては余りにも型破りであり、オーバーなものに映った。「チンコウも焚かず」式の生き方こそ宗教者の権威づけと思っていた彼等には、王仁三郎の振舞は、当てつけがましい感じさえする。王仁三郎も時には、それを意識してやっていたきらいもある。そして、いっそういまいましいのは、そうした王仁三郎の振舞がそれなりに抑圧されていた大衆の心をつかんで行ったことである。

(その7に続く)

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2022.05.07

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その5)

Th_kaisosama792x1080挙にトップマネジメント

 まず、喜三郎個人としては、弁も立ち、ユーモアもあり、人気もある。稲荷教師としてある程度、手広くやって行ける自信はあったであろう。だが、それとともに、喜三郎には、キツネツキを払い落すことばかりで潰れてしまう自分の人生といったものへの反撥もあったにちがいない。どれほど有名になろうと、稲荷おろしだけではどうしようもない。さし当っては稲荷教師としてしか行く道がないとしても、いずれは広く世間を相手に活躍できる道を選びたかったにちがいない。

 新興の教団とはいえ、正式には何ひとつ認められていない金明会の側では、稲荷教師の免状持参者を抱えることは便利である。ましてその男がとくに稲荷講を信じているのではないとあれば。

 第二に喜三郎は、出口ナオのエクセントリックな性格、それなりに教祖として創業者としてこの上ない魅力の持主であることを見抜いた。宗教団体としての成長性も期待できる。

 貧民の娘でしかなかったナオが、どうしてこれほど人の心をひきつけるのか。ナオから吸いとれる限りのものは吸いとって自分を成長させよう。その成長の秘密を身近に接して吸収しよう。

 そして、最後に、ナオについて、また金明会について納得が行けば、その発展の中に自分を投げ入れようと考えたことであろう。ひとり細々として稲荷おろしを営むよりも、のび盛りの教団の中堅幹部として迎えられることを、青年の野心が選ばぬはずがない。青年の才能も博識も弁舌も親分肌の気質も、そこではすべてが花開くことが予想された。

  足乳根の親の名迄も世にあげて身を立つるこそ子の務めなれ

  名位寿富これぞ神賦の正欲ぞ働かざれば名も富もなし

 出口ナオと結んだ後の大本のめざましい発展については、順を追って説明するまでもあるまい。

 喜三郎は、金明会入りした翌年の正月、競争者を出し抜いて、ナオの末娘すみ子と結婚した。社長の娘と結婚することによって、中堅幹部どころか、一挙にトップマネジメントに滑りこんだわけである。

 やがて、名も王仁三郎とあらためた。神示に導かれたためということだが、世間的に見て、「喜三郎」ではありふれていて安っぽい。「王仁三郎」なら、威厳もあり、高貴にひびく。事実、王仁三郎は、「三郎」と省略して、「王仁」と署名することも少くなかった。天皇の名に類似することのプラスマイナスを十分考えていたことであろうが。

(その6に続く)

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2022.05.06

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その4)

Th_300px0215は空行く鳥なれや

 二十七歳のとき、父親が重い病気になった。

 弟はバクチ打ちになって家出しており、乳牛の仕事を追われた喜三郎は、山に薪を伐りに出る余裕もなく、庭にある椋の木を伐って薪にした。鬼門の方角に当る木であった。

 その後間もなく父親は死んだ、いっしょに荷車をひき、貧苦の明け暮れの中に死んで行っただけに、喜三郎は身にこたえた。

 木を伐った祟りだと口々に云われ、喜三郎は近隣のいろいろな教会に出入りし、また、毎夜十二時から三時まで産土神社参りもした。

 だが、それで解決が与えられるわけがない。いったんは神に近づこうとして、また背を向けた。

 しゃれっ気がふくらんだ。わい談が上手になり、妙な焼物を焼いて人にやったりした。

 弟がバクチ打ちということもあって、ケンカの仲裁に入ったりしている中に、ミイラとりがミイラになり、侠客気分になってくる。

 もともと弁が立ち、度胸もいい。侠客の家に養子に招かれそうにもなった。

 貧しく蔑まれてきた生活への反感――反逆精神は、手軽なところに捌け口をみつける。

 弱きをたすけ強きをくじくことで、自分の非凡な力を現そうとする。明治の幡随院長兵衛になろうと真剣に思い、一年間に九回も大きな衝突をした。

 そのあげく、弟ともども袋だたきにあい、大けがをする。祖母には、神をないがしろにした報いだと、懇々と説諭された。

 喜三郎は、「懺悔の剣に刺し貫かれて、五臓六腑をえぐらるる様な苦しさを成し」(『自叙伝』)、富士山へ行くつもりで、

  吾は空行く鳥なれや

  ………………………

  遥に高き雲に乗り

  外界の人が種々の

  喜怒哀楽にとらはれて

  身振り足ぶりするさまを

  われを忘れて眺むなり

  げに面白の人の世や

 といったユーモラスな書置きを残して家出する。(祖父の辞世と共通する精神である)

 ところが、富士に向ったはずが、翌朝、家から二キロ離れた高熊山という高台に坐っていることになる。

 旧暦二月のことであるが、彼はここで一週間、襦袢一枚のまま岩の上に坐って断食修業。『聖師伝』の説明では、「天眼通、天耳通、自他心通、宿命通の大要を心得し、過去現代未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは数百年、数千年の後までことごとく知ることが出来」るようになる。

 だが、こうして「霊界探検」をして悟りを開いたつもりの喜三郎も、村に帰れば、「キツネがついた」というわけで、体の回復するのを待って、静岡県清水にある稲荷講社の本部に行かされる。キツネツキを払い落すためである。

 講社の総長は、長沢という霊学の大家であった。勉強好きの喜三郎は、この長沢老人について、熱心に心霊学を学んだ。そして、鎮魂帰神の得業免状も得た。

 鎮魂帰神とは、両手の指を組み静坐瞑目している中に神がかりの状態となり、しゃべったり、とび上ったり、ころげ回ったりする。後でこれは大本教にとり入れられ、大道場で数十人の人がそうして飛びはねたりころげ回ったりすることによって、インテリをふくめ、多くの信者の心をとらえることになった。

 この鎮魂帰神の免状とともに、稲荷教師の免状ももらった。キツネツキを払い落しに行ったのに、逆に、キツネツキを払い落す稲荷おろしの資格を持って帰郷することになったのである。あらゆる機会を受身ではなく前向きにつかんで行こうとする姿勢がここにも出ている。

 当時、文化のおくれた山村地帯には、キツネツキの病人が多かった。急激な社会の変化に対応できぬノイローゼ状態の人々をも、すべてキツネツキという形で整理していたためでもあろう。キツネツキを払い落す稲荷教師の仕事は、職業としても成り立った。

 青年喜三郎の前には、おそらくは彼自身もそれまで思ってもみなかった生計の道が開けた。

 「艮(うしとら)の金神」を信じる金明会(後の大本教)の出口ナオと出会ったのは、こうした時である。二人の結びつきは、それぞれが神託を受けて、求め合ったことになっている。

 喜三郎の心の中に、いかなる内的(霊的)な必然性があったのか、神学上の問題については、わたしには説明する資格がない。

 問題をごく人間的に見てみると、こういうことになる。

(その5に続く)

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2022.05.05

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その3)

Th_o0222030014815003858閑坊喜楽」

 (僕の人生はどこにある)とうたった喜三郎ではあるが、もちろん、インテリ青年のようにただ感傷的な懐疑にふけっていたわけではない。

 日がな一日のはげしい労働。その後でも、時間を見つけ機会のあり次第、勉強を続けた。

 夜学に通って漢籍を習い、近くの寺に国学者が滞在すると聞けば、夜毎訪ねて教えを受けた。

 歌会に出席し、宗匠について冠句を学んだ。村で出している『あほら誌』という雑誌に、狂歌、狂句、都々逸、戯文と、いくつも、いく通りも投稿して、村人たちの眼をみはらせた。

 自分の非凡さを、あらゆる戸をたたいてためしてみたいという青年の客気で、はち切れそうであった。とにかく、無我夢中で勉強した。

 獣医の従兄について、牧場で酷使されながらも獣医学をマスターし、獣医試験に合格した。

 そして、二十六歳のとき、金を借り集めて乳牛を買い、精乳館という牛乳屋を開いた。

 現存の写真の中で、喜三郎つまり出口王仁三郎の最も若いときの面影を伝えるのが、この当時の写真である。

 経営者パッカードによれば、現代の重役タイプとは、「『隣家の青年』型のごく普通の顔だちの謙虚な、穏健円満な好青年タイプ」だそうだが、写真の中の喜三郎は正にその条件にぴったり。素朴で働き好き、見るからにすがすがしい好青年である。

 黒っぽいハッピに股引、草鞋ばき。強いて何か異常をさがすとすれば、そのハッピの襟の片側に「上田牧牛場」、片側に「穴太精乳館」と大きな字で白く染め抜かれていることである。

 わたしは最初説明を読まずにこの写真を見たとき、喜三郎が上田牧牛場という大牧場で働いていたのか、穴太精乳館(?)という商館(?)の従業員であったのかと思った。二十五歳の青年ひとりで牛を飼い、その乳を売り歩いているという姿とはほど遠い。

 たった一人分のハッピに大きく染め抜かれた「上田牧牛場」「穴太精乳館」の文字は、自分の事業を大きくしようと決意したその決意のあらわれとも見えるし、また、見せかけだけでも大きく見せようとしたという風にもとれる。野心のひらめきと見るのも、はったりと見るのも、自由である。いずれにせよ、おだやかな好青年の顔と、その文字との不調和さが、見る者の心を落着かなくさせる。

 一方、喜三郎は、ただ馬車馬のように名をあげ才能を現そうとしたのではない。山村で、小学校もまともにおえていない身に、当時の立身出世コースとの懸隔が、うすうすわかったのであろう。それに、祖父ゆずりのしゃれっ気も働いてか、ほどほどに遊びを心得ていた。女遊びというような意味ではない。人生に向う態度の中に遊びがあった。まっすぐ驀進してポキリと折れるというのではなく、驀進する自分をぶらりと横道に逸れて眺める余裕である。

 彼がこの当時用いたペンネームが、「安閑坊喜楽」。迷惑をかけ通しながら、死ぬときまでのんきにしゃれのめして行った祖父の血を思わざるを得ない。

(その4に続く)

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