カテゴリー「芸能・アイドル」の79件の記事

2010.01.07

『Onaraはずかしくないよ』(テレビ東京 ピラメキーノ)

61qowcfelfl_sl500_aa240_ 日の「詩」の世界からいきなりこっちの「詩」の世界に。いや、こっちは「詞」でしょうか。あるいはある種の「シュレヒコール」でしょうか。
 たしかに画期的であります。今までのタブーを破る革命ソングです。大いに思想的、ある意味反社会的な歌ですね。これは力がある。
 ウチは変わった家庭でして、子どものテレビは、NHKとテレビ東京とBSデジタル各局(特にNHK3局)と、CSのプロレス専門局しか見せません。というより、娘たちがそれ以外を観たがりません。親の影響でしょう。
 私もそれでいいと思っています。他の局、つまりテレ東以外の地上波民放はうるさいだけで観る気がしません。
 テレ東のいいところは、低予算のおかげで、逆に内容が充実している、すなわちスタッフやタレントさんの実力がストレートに表現されているところです。派手な演出やネームバリューだけのタレントに頼らないわけですからね。
 娘たちが好んで観ている「ピラメキーノ」も、なかなか面白い企画やアイデアに満ちており、私も好きな番組です。馬鹿馬鹿しさもあそこまで行けば、一つの芸になりますからね。徹底ぶりが良い。
 この番組の中心的タレント(才能)は、はんにゃとフルーツポンチです。特にはんにゃの金田哲くんは、この番組で最も彼らしさを発揮していると思います。
 そんな彼が女装をして(これが妙にカワイイ)歌って踊るのが、この「Onaraはずかしくないよ」です。
 これがなかなかなのですよ。世の中には暗黙のルールというのがあって、それが常識化している、あるいは不文律化していることが多いわけです。我々は、そうした見えない力に呪縛されていることが多々あるわけですね。この「女の子のオナラ」というのも、実に微妙なタブーになっている。
 これは一種のジェンダーとも言えるわけで、男女共同参画社会とか夫婦別姓とかバカなこと言う前に、こういう生理的な問題を解決すべきだと、私はまじめに思うのであります(笑)。
 いや、実は私、この問題について、けっこう深く考えたことがあるんですよ。たとえば、ウチの夫婦というか家族なんかは、オナラ合戦で盛り上がったりするわけですが、反面、ごく最近、ある知り合いの女性が、おそらく私がそこにいることを知らなかったのでしょうね、けっこう豪快にオナラしちゃいまして、それで、私、自分の予想以上に引いちゃったというか、萎えちゃったというか、そういうこともあったりして、いったいこの気持ちの違いはなんなのだろう、ここのところの差というか、一線というか、そういうものが、いったいどこにどのように存するのか、ここ数十年考えてきたわけです。歴史的にどうなのか、世界的にどうなのかも含めて(笑)。
 で、その結論というのがなかなか出なかったところへ、こうして「ブー」…じゃなくて「プー」…この音韻的な感覚というのも面白い研究対象です…と発砲して風穴を空けてくれたのが、この歌だったわけです。
 ま、前にも、古くはサミー坊やの「ONARAソング」とか、近くはのだめの「おなら体操」とかありましたけど、「ONARAソング」はたしかオナラをしてしまった恥ずかしさを歌った歌だったし、「おなら体操」は、ジェンダーの生じる前の幼児を対象にしたものなので、実はなんの解決にもなっていなかったんです。
 今回は小学生以上が対象ですから、革命的なわけです。作詞は構成作家のオークラさんですね。素晴らしいお仕事をしました。
 ちょっと聴いてみてください。

 歌詞を記しておきましょう。
 
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
女の子だって出るときゃ出るのよ
パピプペプープープープー
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
オ・ナ・ラ・プリ(Oh! Nice Lovely)
マイステップアッププープープープー
女の子だってみんな1日
10や20のオナラするのよ
だからダメダメルールでしばっちゃ
みんなのオナカがSOSなの
お願いダーリン
許してもう出ちゃいそう
聞いてねダーリン
3・2・1でプップッププー
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
女の子だって出るときゃ出るのよ
パピプペプープープープー
はずかしがらずにパペピプー
はずかしがってちゃダメピプー
オ・ナ・ラ・プリ(Oh! Nice Lovely)
マイステップアッププープープープー
オ・ナ・ラ・プリ(Oh! Nice Lovely)
マイステップアッププープープープー

 「女の子だってみんな1日10や20のオナラするのよ だからダメダメルールでしばっちゃ」という一節が実にいいですね。男も女も基本消化器官の構造は一緒でしょうから、同量の発酵ガスが発生し、対外に排出されているはずです(1日約1リットルだそうです…これを全部ためこんだらたしかにSOSですね)。
 しかし、現実には、その生理現象に対する社会的評価は、とてもとても男女平等とは言えない状況であるわけですね。それをこうして、女性の立場から(しかし、はんにゃの金田という男性が)明るくシュレヒコールしてくれたのです。
 はたして、我々「男女」という社会的言語に縛られた現代日本人は、その数千年(?)の呪縛から解き放たれるのでしょうか。たぶん、難しいとは思いますが…。でも、こういう暗黙のルールを茶化して、一種の緊張をほぐすという行為は、たぶんどの時代にも大切なことだと思います。
 考えてみると、「おなら」というのも「お鳴ら」という意味の女房詞ですから、江戸時代の女性もある意味ギャグ化していたわけですね。ちなみに、「へ」を「ひる」という言葉ですが、奈良時代くらいまでハ行の音は「p」音でしたから、今風に表記すれば、「ぺ」を「ぴる」ということで、実際の音を模したものなのです。まさに「パペピプー」ですね(笑)。

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2010.01.05

『新春! 歌まつり2010』 (NHK歌謡コンサート)

20100106_62356 そるべし!二葉百合子。
 昨日のブッチャー&テリーというレジェンド(おっと長州力もいたっけ)もすごかったけれども、こちらはさらにすごい。芸能生活75年って…。いったいおいくつなんだ?と思ったら、3歳でデビューしているので78歳とのこと。
 そして、その二葉百合子さんの歌がうまいのなんのって。衰えるどころかますます味が出ている。
 今日の「歌謡コンサート」は700回記念ということで「新春! 歌まつり2010」と銘打っての拡大版でして、以下のようなそうそうたる演歌歌手の皆さんが出演され、名曲を熱唱していました(ううむ、一人KYな人がいるぞ…彼は78まで歌えるのだろうか)。

「北酒場」/細川たかし
「北国の春」/千 昌夫
「命くれない」/瀬川瑛子
「襟裳岬」/森 進一
「たてがみ」/長山洋子
「みれん酒」/石原詢子
「祝い酒」/坂本冬美
「関東一本〆」/二葉百合子
「おさななじみ」/坂本冬美・長山洋子
「心のこり」/細川たかし
「星影のワルツ」/千 昌夫
「銀座の恋の物語」/山川 豊・石原詢子
「炎」/冠 二郎
「アメリカ橋」/山川 豊
「まつり」/北島三郎
「さよならはダンスの後に」/倍賞千恵子
「冬景色」/安田祥子・由紀さおり
「雪」/安田祥子・由紀さおり
「冬の星座」/安田祥子・由紀さおり
「千の風になって」/秋川雅史
「天城越え」/石川さゆり
「舟唄」/八代亜紀
「冬のリヴィエラ」/森 進一
「帰ろかな」/北島三郎

 それぞれ当然うまいし、個性もあって良かったわけですけれど、やはり、ダントツの存在感というか、まさに会場を巻き込んだ「芸」を見せつけていた(聞かせていた)のは二葉百合子さんでした。演歌の歴史を語るのには、やはり昭和初期までの浪曲ははずせませんね。
 つくづく演歌とプロレスの世界って似ているなと思いました。この前キラー・カーンさんもそんな話してましたよ。彼は両方の世界をきわめましたからね。
 浪曲や長唄を知らないで節回しだけで歌おうとする若手歌手が多いのは、本当のプロレスリングを知らないで飛んだり跳ねたりする若手レスラーと同じです。
 素人がカラオケをやるように、素人がどんどんリングに上がっているというのも似ています。
 それ以前に、年齢とともに「味」が出るというのも似ていますし、人生が反映する、人生を聞かせる、見せるというのも似ています。
 レジェンドに頼っていて、新人が育ってこないというのも似ていますかね。いったい10年後はどうなってしまうのでしょうか、両方とも。
 昨日も今日も、中堅どころでイマイチ技が単調なの人がいましたね。部分部分はうまいんだけれど、全体としての大きなうねりや、リズム感が足りない。そんなところも共通していました。
 実は今まで何度も書いてきましたが、「本来の」ヤクザがいなくなったのも、両世界の衰退に関係しています。特に地方のヤクザ。最近、地方で歌謡ショーやプロレスが行われなくなったでしょう。こうしたフィクションとリアルの交錯する舞台が、日常に混入しなくなってしまったのは、我々にとって大きな損失ですね。
 それにしても、二葉百合子さん、すごかった。どれだけ努力しているのだろう。他の歌手たちが「日本一!」と言っていましたが、それってお世辞でもなんでもない。実際、彼女たちの先生ですしね。今の演歌界を引っ張る大御所たちを育てたんですから、そりゃあ日本一でしょう。ということは、当然「世界一」ということでしょう。

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2009.11.10

追悼 森繁久彌さん

 

 根の上のバイオリン弾き逝く。ちょうど、家で葬送カンタータ集を聴いている時に、速報が入りました。
 役者としてはもちろん、音楽家としても尊敬すべき方でした。そして、なんといっても、それ以上に、日本人として、男として、父親として、おじいちゃんとして、いつも私たちにある種の理想像を見せてくれた方でした。ご冥福をお祈りします。
 森繁さんの代表作である「しれとこ旅情」。この曲を聴くだけでも、彼の音楽的才能を強く感じないわけにはいきません。
 アウフタクトで始まる三拍子のワルツ。ソドミソドと思いっきり伸び伸びと主和音を提示する冒頭。完全に西洋音楽モードです。しかし、そこに実に味わい深い日本語が乗る。お見事です。知床という日本であって日本でない土地を舞台に、異国情緒と望郷の念という一見相矛盾する心情を歌い上げたこの曲が、当時の日本人に「知床ブーム」を起こしたのも納得できます。そういう繊細かつ大らかな感性と才能こそが森繁さんの魅力でした。
 私にはそんな感性も才能もありませんので、今日は、本当にたまたま訃報に触れた瞬間に聴いていた葬送(鎮魂)のための音楽を、屋根の上のバイオリン弾きに贈ります。
 バッハのカンタータ第106番「神の時こそいと良き時」より、あまりに静謐で美しいソナティナ(序奏)と、テレマンのカンタータ「汝ダニエルよ、行け」より、ある意味テレマンらしからぬ深みを帯びたソプラノアリアです。両曲とも、リコーダーとヴィオラ・ダ・ガンバが効果的に使われています。非の打ち所がないですね、両方とも。やはり、人の命、魂に捧げる曲は特別なのでしょう。では、森繁さんのご冥福をお祈りしながらお聴きください。

 バッハ ソナティナ

 テレマン アリア

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2009.10.16

『SONGS 美輪明宏スペシャル』&『SONGSプレミアム 美輪明宏』 (NHK)

20091017_91301 ととい録画しておいた「スペシャル」を観たあと、すぐにBShiの「プレミアム」が始まりました。狙ったわけではありません。本当に偶然でした。
 「スペシャル」の録画の最後に「プレミアム」の告知があり、時計を見たらちょうどそれが始まる時間だったということです。おかげで、たっぷりどっぷり美輪明宏ワールドを体験してしまいました。
 まあ、さすがにお腹いっぱいになりましたね。美輪さんの歌、いや歌だけではありません、その存在のオーラを全て受け入れるには、いかにテレビを通じてとは言え、こちらにもそれなりの覚悟が必要ですからね。
 美輪さんの歌に関する感想は、昨年書いた通りです。魂を揺さぶられますね。音程とか、リズムとか、そんな些末な(!)ことはどうでもいいのです。まずは言葉なのです。私たちの生きた言葉には、本来音程もリズムもありません。いや、そうではないか。全ての音程もリズムも内包されているのか。
 その全ての可能性から、どういう基準でどうやってそれらを抽出するかというのが、いわゆる音楽のジャンルを分ける要因になります。
 いや、ことは音楽に限りません。今日も美輪さんのSONGSを聴いて、そして観て思いましたが、やはり歌と言葉と身振りというのは切っても切り離せない関係がありますね。つまり、分かりやすくこれまたジャンルというフィクションでお話すれば、歌と演劇との境界線というのも実はとってもあいまいなものなのです。
 いちおうウチのバンドでなんちゃって歌手をやっているカミさんにもよく言い聞かせました。ただ歌詞を覚えて、メロディーを覚えて上手に歌っても、人の心は動かせません。言葉を理解して、自分とその言葉とが対等の立場になって、簡単に言えば「なりきって」歌わなければ、それはどこか空々しい歌にてってしまうものです。
 もちろん、それは私がやっているバロックというジャンルでもそうです。私はキリスト者ではありませんし、ヨーロッパの言語にも疎いので、正直その点になるとかなり心もとないのです。なんとなく空々しい気分で演奏しているのです。まあ、私は器楽奏者ですので、多少のその罪は軽くなるとは思いますけどね(苦笑)。
 ところで、今日思ったんですけど、こうやってフランスのシャンソンを日本語で歌うという文化ですね、これって結構古くからありますよね。もちろん他の国の歌を日本語で歌うというのもありますが、フランスの文化は特に日本人好みです。
 これは逆のことも言えるのであって、日本の浮世絵をフランス流に解釈し再現した印象派の画家たちを挙げるまでもなく、いわゆるジャポニスムという潮流は、この日本流フランス文化受容術の裏返しと言えますね。
 この日仏の芸術分野での「噛みあい」はなんなんでしょうね。私の少ない経験から言うと、決して日本人とフランス人の心性って似通っていないように感じるんですけど。たしかに、多少情緒的で夢想家で、しかし「語りたい」気質でもある点は似ていると思います…って、それだけ共通してれば充分か(笑)。昨今のオタク文化交流を見れば分かります。そう、両者とも実は大人ぶってる子どもなんですよね。
 しかし、美輪さんなんかもそうですけれど、そういう例えば大人と子どもとかいう境界を超えるというか、これはマイケル・ジャクソンのところで散々語りましたけれど、境界自体がすでに社会的なフィクションであって、それを超えるどころか、全部内包してしまう。そう男女の区別なんかもそうですね。そういうしなやかさというのが必要ですね、これからの時代は。
 私たちはそういう自分たちが作ったフィクションに縛られすぎです。もっと自由に自信を持って生きていきたいですね。美輪さんは今年74歳だそうです。ある意味そうしたフィクション(語られた「コト」)だけでなく、リアルな「時」という「モノ」すらも呑み込んでしまっているように思えます。
 あと、美輪さんからにじみ出る「教養」ですね。「教養」って、やっぱり「コト」だけじゃないんですよ。つまり知識とか常識とかだけではない。妄想も夢も霊界も全部含んだ、つまり言語化不可能な「モノ」も必要なんです。最近の芸能人や宗教家、その他庶民にも足りないのは、実はそこんとこなんですよねえ…。
 「プレミアム」が終わって、そのあと「BS日本のうた」が始まりました。そこにもたくさんの「歌」がありましたが、何かモノ足りない。島津亜矢さんなんか、ホントにうまいんですけど、やっぱり何かが足りない。これから彼女が身につけるべきモノの世界は深淵だと思いました。その点、タイムファイブの「夜空ノムコウ」は良かったな。やっぱり人にも年輪が必要なのでしょうか。
 またいつか生美輪明宏さんにお会いしたいと思います。そして、あのオーラを全身に浴びたいですね。

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2009.09.14

『不滅の歌謡曲 (NHK知る楽 探求この世界)』 なかにし礼 (日本放送出版協会)

20090915_64449 8回シリーズの、今日は7回目の放送でした。「ヒット・システムの明暗」、最も楽しみにしていた回です。私にとってのリアルタイム歌謡曲にようやくなりました。
 つまり、歌謡曲の歴史のほんの先っちょしか、私は知らないということですね。先日、私はビートルズ第2世代だというようなことを書きましたが、歌謡曲についてはいったい第何世代なんでしょうか。
 まあ、そんなこと言ったら、私の演奏するバッハは、じゃあ第何世代なんだってことですけど(笑)。
 私は古楽界の人間ですので、そのバッハの時代の音楽を勉強してきました。それと同じように、ここ数年は歌謡曲の世界にもどっぷりつかっているで、こうして歴史を勉強しなくてはならない、というか、したくてしかたないわけです。
 このブログでも、読むJ-POP 1945-2004増補 にほんのうた 戦後歌謡曲史歌謡曲の構造などの書籍を紹介してきました。
 それらは評論家や学者さんなどの手によるもので、どちらかというと音楽的な見地から書かれたものでした。
 それらに比べますと、なかにし礼さんの「不滅の歌謡曲」は、「作詩家(作詞家ではない)」の立場から書かれたなかなかバランスのいいものです。「言葉」の面と「音楽」の面と、そして「ビジネス」や「社会」の面から歌謡曲を解き明かしていきます。いや、逆に「歌謡曲」からそれらを解き明かしているとも言えるかも。
 ある意味では、やや雑駁な印象を与えかねない内容と構成ですが、そんなところに、なかにしさんの溢れ出る歌謡曲への愛情や、歌謡曲を通じて我々に伝えたいことを感じることができるとも言えるでしょう。
 テレビの教養講座のテキストですから、そんな感じでもいいと思います。
 第1回から第6回までもなかなか面白かった。なかにし礼さんのこだわりというか、伝統と革新のバランス感覚というか、まあ結局は和と洋のせめぎ合いということになるのかもしれませんけれど、そういう衝突と和合から生まれる「ムスビ」の力をしかと感じましたね。
 意外と言えば意外だったのは、「五七五」と「起承転結」をわざと崩したということでしょうか。それはある意味日本語や日本の伝統的表現を壊したとも言えるわけです。破壊は創造の母、破壊の勇気が時代を動かしていくわけですね。
 三拍子に関する考察は、まあ普通としまして、軍国主義と歌謡曲の関係の部分は、比較的語られなかったことだったので勉強になりました。
 そして前回と今回。歌謡曲が戦後の音楽産業の変化にさらされて変質していきます。今日の第6回でもそうでしたが、その辺の変化に対するなかにしさんの反応というか姿勢というのが、実に微妙で面白かった。時代を変革した自分を超えて、さらに誰かによって時代が変わっていく。そして、自分は前時代の遺物になりかける…。そんな時の複雑な心境が、回顧という形の中でも、痛いほど伝わってきましたね。
 たとえば、シンガーソングライターの登場。ある意味「シロウト」集団が音楽界を席巻していきます。そこで一瞬たじろぎながらも、結局はその土俵で大ヒット作「時には娼婦のように」を世に出します。頑ななようで実は柔軟という、なかにしさんの特性がよく現れている事件ですね。いろいろな矛盾を自分の中で消化していける、なかにしさんのそういう心の強さを感じずにはいられません。
 そして、先日のSLSで私も再確認した桑田佳祐(サザンオールスターズ)の偉業に対するコメントが面白かったですね。やはり、桑田さんは革命を起こしたと。日本語をぶちこわしたと。そう、彼の日本語はすでに純粋な日本語ではなくなっています。英語と同レベルの「雰囲気語」なのです。それはある意味では、なかにしさんの最も嫌うべき存在なはずです。全ては「詩」から、全ては「言葉」の力からと言うなかにしさんの歌謡曲観からすれば、許さるべからざるもののはずです。
 しかし、結局認めていましたね。受け入れると。私も最初はなんなんだ?と正直思いましたが、やはり桑田佳祐さんがなしえた革命はすごいと認めざるを得ません。
 つまり、こういうことなんです。実は非常に単純。たとえば、私が小学生の時、英語も分からずビートルズに感動した、あれです。言葉の意味は分からずとも、ああして最大級の感動や共感を得ることができる。言葉の雰囲気や、純粋なメロディーや和声やリズムの素晴らしさというものがある。
 実際の私たちの生活の中では、言葉にできない感動や感情というものが本当にたくさんあります。桑田さんは、それを日本語風な言葉で表現してしまった。純粋な音楽を輝かせる一つの演出としての「雰囲気語」とういものを発明してしまった。これはすごい。実際、私も四半世紀ぶりに桑田節を生で体験し、どうにも表現できない、甘酸っぱい切なさや、どこか頼りないけれども忘れられない幸福感というものをしっかり味わってしまいました。
 というわけで、今日は結局、天才なかにし礼の言葉から、天才桑田佳祐の偉大さを実感してしまったのでありました。日本の歌謡曲は、彼によってやっと「日本語」から、「言霊」から解放されたのです。そんな彼が「 愛の言霊(ことだま) ~Spiritual Message~」なんか歌ってたんだから、やっぱりすごいですね。
20090915_85948
Amazon 不滅の歌謡曲

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2009.08.22

『第41回 思い出のメロディー』 (NHK)

4 やあ、昨年の「思い出のメロディー」はすごかったなあ。今年は、昨年の反省に基づき、かなり現世的でありました。昨年のような戦慄はほとんどなく、本来の明るい歌番組に戻っていました。
 ホント去年はどうしちゃったんでしょうね。第40回という記念すべき年だからってあの荒技はねえ。
 今年のテーマは、「歌で笑い 歌で泣いた 時代を映した名曲たち」だそうです。今年の年末の紅白歌合戦が60回を迎えるとういことで、第1回紅白を復元するという試みも。
 小林幸子が渡辺はま子さんの「桑港(シスコ)のチャイナ街(タウン)」を、ジェロが近江俊郎さんの「湯の町エレジー」を、氷川きよしが藤山一郎さんの「長崎の鐘」をそれぞれ歌いました。これら3曲とも難しい曲ですねえ。当時の庶民はみんな口ずさんだとは思いますが、とても歌いこなせなかったでしょうね。カラオケ文化なんてありませんから、もちろんそれでいいのですが。プロのすごさを感じさせる曲たちでしたね。正直、ジェロと氷川きよしは全然歌いこなせてなかったっす(笑)。
 第1回に実際に出演したという菅原都々子さんご本人による「憧れの住む町」、これは違う意味で歌いこなせてなかったけれども、こちらはもう音程とかリズムとか、そういうのを超えた次元での歌だったので、心を打つものがありましたね。どちらかというと、去年の感じに近かった。
 その他の曲目はこちらをご覧下さい。なかなか魅力的ですよね。紅白にちなんだ曲では、当時の映像も挿入されたりしまして、人間の経年変化というものを実感するいい機会になりました。まあ、私もかなり劣化してますが。
 面白いものですね、人間って、自分の経年変化よりも、他人の経年変化の方に敏感なんですよね。
 今回は全体として「うまい!」と思わせる歌手が多かったと思いますが、一人だけどうもいかん!というのがいました(笑)。ご本人には申し訳ないのですが、ホント最悪でした。
 その人は…秋川雅史さんです。歌った曲がまずかったかなあ。美空ひばりさんの「津軽のふるさと」ですよ。歌わせたのは誰でしょうか。よりによって「津軽のふるさと」はきついでしょう。全然違う曲になってしまったどころか、ものすごい違和感しか残りませんでしたね。クラシックの唱法と、あの曲に必要な唱法とは、あまりにかけ離れています。いや、宴会芸ならいいんですよ。大ウケでしょう。
 後半は「横浜開港150年」にちなんで横浜ソングのメドレー。「赤い靴」を聴きながら、娘たちが「怖い、怖い」って言ってました。たしかに怖い歌ですよね。あれは実話に基づいたものだと言われていますが、異論もあるようです。司会の伊東四郎さんも「切なすぎる」と言ってらっしゃいました。だから、ご自身で勝手に日本に帰ってくるストーリーを作ったと。そうですねえ、わかります。
 さて、今回全体を通して感じたことを最後に。
 歌謡曲のいわゆる名曲たちの特徴は、最初の8小節にあるということです。もう、Aメロの最初の部分で心をつかんじゃうんですよね。サビもいいのですが、やはり歌い出しの魅力が一番ですね。この先も聞きたい、歌いたいと思わせる冒頭部なんです。昭和の名作曲家たちは、まずそこに力を注いだようですね。まあ、もう少し言ってしまうと、イントロもみんなすごいんですけどね。それは編曲家の力でしょうか。いや、イントロも作曲家が作っていた例が多いんですよね。
 何度も言いますが、とにかく昭和の歌謡曲はすごい。私も自分のバンドを通じて、この世界に誇るべき文化を現代に紹介、継承していきたいと思います。
 究極的には…東京放送管弦楽団に入りたいなあ…笑。

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2009.07.18

松田聖子 『津軽海峡・冬景色&ビートルズメドレー』

 んだかとっても忙しいので、手抜き記事です。でも、手抜きの時の方が読者には有用なことが多いみたいですね(笑)。気合いが入ると語りすぎて痛いことになります、だいたい。
 で、今日紹介するのは、久しぶりに聖子ちゃんの映像です。
 来週の土曜日に急に地元で歌謡曲バンドのライヴ(三木たかし追悼特集)をやることになりまして、いろいろと勉強しておりましたところ、偶然この聖子ちゃんに出会いました。
 三木たかしさんの代表作「津軽海峡・冬景色」を、なんと聖子ちゃんが唄っています。まず聴いてみてください。

 どうですかぁ。やっぱりうまいですよね。聖子ちゃん、というか聖子様。さすが神です。
 聖子ちゃんが演歌というのも珍しいですね。いや、それ以前に短調の曲を歌うのは非常に珍しいことです。
 彼女の声質は非常に特殊でして、唯一無二の魅力を持っています。ある意味雑音というか、サワリの多い声なんですよね。それが、案外演歌の世界にマッチしています。音程の正確さもいつもどおり。本家石川さゆりさんは、時々甘いことがありますよね。
 中森明菜さんも演歌集(艶華)を出しています。ぜひ聖子ちゃんにも演歌集を出していただきたい。
 さて、ついでに観て聴いて、ついつい萌えてしまったのが次の映像。ビートルズのメドレーをライヴで歌っています。冒頭にあるリハーサル映像がたまりませんね。まさに「萌え」です。胸がキュンとします(笑)。

 83年と言いますと、私がリアルタイムで聖子ファンだった頃です。大学生だな。そう、なんか思い出しました。聖子ちゃんって、いろいろ変身してきたじゃないですか。髪型とかメイクとか。私が一番好きなのはこの頃のヴァージョンですね。
 特にリハーサルでの普段着スッピンにして真剣そのものの表情には、正直ドキッとします。かっこいい。美しい。懐かしい感覚だぞ。そして、本番でのまた違った輝く表情。プロだなあ、と思います。こういうギャップというか、二つの表情を見ると萌えますよね。恋に落ちちゃいます(笑)。
 真剣な表情と笑顔、その両方を持った人間は魅力的です。男でも女でも。
 いわゆるギャップ萌えとか、ツンデレ、デレツンの魅力っていうのは、そういうものでしょうね。どちらか一方だけではダメなんですよねえ。
 私もそういう魅力的な人間になりたいところです。ヘラヘラしてて真剣な時がないからなあ…。
 さ、真剣に練習しなきゃ。まず編曲からだ。では。

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2009.06.26

追悼? マイケル・ジャクソン

Viewkyodo2009062601000065headline た天才の訃報が…。どんどん時代が終わっていきますね。
 昨日、椎名林檎のアルバムを聴きながら、カミさんと「労働者」は The Jackson Five の「 I Want You Back 」だな、なんて話していた矢先でした。
 私にとってのリアルタイムでのMJは、オフ・ザ・ウォールに始まり、オフ・ザ・ウォールに終わっていますが、その後、マイケル・マニアだったカミさんと出会い、また、職場の前の席に座っている後輩がまたマイケル信者だったりした関係で、再び彼のパフォーマンスをじっくり味わう機会を得ていました。
 特に職場のマイケル信者さんからは貴重な情報をいろいろいただきました。いろいろなCDやDVDをお借りしまして、そのたびにこのブログでも記事にしてきましたね。そして、文化現象としてのマイケル・ジャクソンという存在に改めて感動するとともに、強い興味をおぼえてきたのでした。だからこそ、今日の訃報には、さすがに大きな衝撃を受けました。
 不謹慎とは思いますが、自分の記事を今読み返してみますと、彼の死がどこか待望されていたもののように感じられてしまいますね。
 「ザ・ワン」の記事から引用します。

 『…さて、そんなわけで、久々にマイケルの優れた業績のダイジェストを見てみました。そうですね、見るということを音楽に持ち込んだ、いや取り戻したというのが彼の業績の一つでしょう。私はMTVの音楽界にもたらしたマイナスの効果ばかり感じてきましたけれども、こうしてあらためてその端緒となったマイケルのパフォーマンスを見ると、彼のそれは全く許される、いやそれこそ原初のスタイルを取り戻したという意味においては、非常に高く評価できると感じました。録音文化が生んだ、特殊な音楽の状況に対して、いわば本来の音楽的な場(それは呪術的であり、祝祭的であった)を、ビデオという形で思い出させてくれたのです。
 そのような意味も含めて、私は彼のパフォーマンスを「ボーダー・クリアランス」であると考えています。特に近代化が招いたオルタナティヴ(二者択一)な状況に対する、オルタナティヴ(代替案)の提示ではないか。例えば、「黒と白」「大人と子ども」「男と女」「音楽とダンス」「ロックとソウル」「商業と芸術」「善と悪」…。彼の行動や表現の数々を見ると、結局彼なりの方法で、これらを乗り越えようとしているような気がします。その彼なりの方法というものの基本に、アメリカ的な市場経済のシステムがある、というところがまた面白い。金の力で、上記の色々な壁を乗り越えていくわけです。
 まあ、また妙に難しそうな講釈に終始してしまいましたが、とにかく、彼は天才であり、最高のパフォーマーであるということです。好き嫌いは別として、誰もまねができないことをしているのですから。
 あと、彼に残されたボーダーは「生と死」ではないでしょうか。これを超えたら、彼は神になれるでしょう。それをどう実現するのか、それとも最後には我々凡人と同じ結末を迎えるのか。今から楽しみです』

 信者さんによると、彼は三日後に復活するそうです。そうすればたしかに「生と死」のボーダーも乗り越えて、本当の神に、あるいは神の子になれますね。
 たしかに彼の業績がここで途絶えてしまうのは残念です。しかし、ある意味ではもう限界だったとも言えます。死因がなんであれ、結局は自ら幕引きをしたのかもしれません。もうこれ以上の醜態は見たくなかった…そういう人たちもたくさんいるでしょう。
 経済の力をもってしても、唯一クリアできないボーダー、それが「生と死」であることを、彼は証明するのでしょうか。あるいはカネという悪魔を超越する「神」の存在を証明するのでしょうか。それは三日後にわかります。
 ですから、今日冥福を祈るのはさしひかえます。

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2009.05.22

『Ayuのデジデジ日記 2000-2009 A』 浜崎あゆみ (講談社)

06353709 代の思想家浜崎あゆみ。私が吉本隆明だったら、王仁三郎、みきの後にあゆを並べたことでしょう。これは冗談ではありません。

 思想家=社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人をいう。

 現代において、この定義に最もピタリとはまるのは間違いなく彼女です。はあ?と思った方は、彼女の言葉や仕事ぶりを知らないだけです。
 まさに、オニ、みきに通じる大衆性とカリスマ性を持ち合わせた人物ですね。ある種の宗教性を持っているとも言えます。現に今回私にこの貴重な本を見せてくれた生徒も、いわゆる典型的な「あゆ信者」です。単なるアイドル(偶像)というくくりでは、とても表現し切れない重い存在感があります。同性に人気というが象徴的ですね。
 だいたいの女性は広義の腐女子根性を持っていて、たとえば今日も話題になっていましたが、「阿修羅」に萌えたりするわけです。しかし、それはあくまでも「萌え=をかし」の感情であって、決して彼(?)の思想や行動に共感しているのではない。
 ところが、浜崎あゆみを信奉する女性たちは、間違いなく彼女の生き様や生き方を学び(真似び)、自らの人生の指針にしています。もちろん、女性のみならず、たとえば私なんかも彼女にはかなり影響を受けていると言えます。
 彼女の持つそうしたカリスマ性は、日本の伝統的な女系の神々に直結するものであると、私は常々思っています。非常に単純化してしまうなら、彼女は現代のオオヒルメ(天照大神)だということになるでしょう。
 そんなオオヒルメの、輝かしくも苦悩に満ちたこの10年間のお姿とお言葉が満載されたこの本。信者にとっては、まさに聖典というべき内容になっています。
171075_c450 ああ、そうそう、今日のニュースに「あゆ、事情聴取か?」みたいなのがありましたね。4月7日に渋谷109の前で行われた、この聖典の発売記念イベントに8000人の信者が集まり、交通に多大なる障害をもたらしたのだとか。道路交通法違反で神をしょっぴくということでしょうかね。これはまさに、オニやみきに与えられた弾圧の歴史を思い起こさせます(ちょっと大げさかな…笑)。
 まあ、それほどの影響があるということですよ。そしてこの本が待望されていたということですよ。
 私もじっくりこの本…とても写真集とは言えない…をじっくり拝見拝読いたしましたが、なるほどこれは美しく、そして深い。
 冒頭、オオヒルメが苦悩のあまり、天の岩戸に隠れなさった頃の日記もあります。そうですねえ、結局「Duty」の頃が一番きつかったのではないでしょうか。あれが2000年発表のアルバムでしたから、ある意味この日記たちは、天の岩戸開きの物語とも言えるかもしれませんね。
 デジデジ日記と称しながら、そこには古来のアナログ的言霊があふれています。基本手書きの文字がそのまま印刷されています。お筆先ですね(笑)。
 さりげない、今どきの女の子の言葉のように見えますが、実はその内容は、まさにお筆先の名にふさわしい。そう、大衆の、田舎の一婆さんの言葉で神の言葉を媒介した、「出口なお」や「中山みき」のお筆先に匹敵するものです。
 最後のロングインタビューから、彼女の言葉のアンソロジーに至る部分に至って、私たち信者の心は崇高な地点に救い上げられ、そして恍惚のあまり涙が溢れてくるのでした。いや、ふざけているのではなく、私はじ〜んとしてしまいましたよ。まじで。というか、いつのまにか私も信者という設定になってるし(笑)。
 そうですねえ、彼女は「瑞と厳」の魂、両方を持っているように感じるんですね。とても軟らかく優しい部分と、とても鋭利で厳しい部分と、それを自分に対しても他者に対しても持っているんです。そして、そういう思想と行動の中心にあるのが、「自信」です。ただ、その「自信」の源であり対象である「自分」は、常に他者によって存在させられている存在であると、彼女は意識しています。
 その「自己」と「他者」の相互依存的関係という「真理」を、「感謝」と「奉仕」の心をもって、そして「言葉」と「歌」と「ファッション」という手段によって、我々に伝えてくれるのが、浜崎あゆみという神です。
 この聖典を読んで、あらためて、彼女がまだ神になりえていない頃の「渚のシンドバッド」を観ますと、やはりカリスマにはある時、神が降りるんだな、ということがわかります。それを背負った彼女の苦悩は、それ以前の普通の女の子だった頃の苦悩と、全く趣を異にしています。
 「なお」「みき」「あゆ」、そこには痛々しくも崇高な「女」の姿があります。男は何やってるんだ!自分も含めて…と思わずにいられませんね。
 今、最もお会いしてみたいカリスマの一人ですね、浜崎あゆみ。

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2009.05.04

『ねこ耳少女の量子論〜萌える最新物理学』 竹内薫ほか (PHP研究所)

今日の記事は壊れ気味です。ご注意を。
56970560 またまネット上で佐野量子さんの懐かしい映像を観ました。そこでふと思ったのが「佐野量子の量子論」ってのを出したらどうかな、というどうでもいいこと。今では武豊騎手の奥さんですから、「武量子(たけかずこ)の量子論」が正しいな、なんてさらにどうでもいいことを考えていました。ついでに、量子さんが漁師…じゃなくて量子のようにふるまったら、豊さんは大変だろうな、いや、全ての女は量子的存在である…なんてことまで瞬時に考えてしまった。
 量子論に関して、そして、こういう「どうでもいいこと」と「重要なこと」が同時に存在し得ることに関して、私は1月に「二重スリット実験」に思うという記事を書きました。
 そこに、これもたまたまですが、「そういう(量子論のような)非日常的な刺激(それはとっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的なんですが)…」と書いています。そう書いたちょうど1週間後くらいにこのマンガが出たわけですから、私の独言にも実は科学的予測性があったのかもしれません。
 いや、私のそうした意識の前に、量子がふるまいを変えて、そうしてこの本が出たのかもしれない。あの時、瞬間あんなふうに思ったから、今のこの私を取り巻く世界があるのかもしれない。そうして無限に重層的な世界を、私たちは無限選択的に歩んでいるのかもしれない。量子論は究極的にはそんな世界観をも創出しますね。
 私の量子論に対する結論は、その記事にも書いたとおり、「言葉」が悪いのだ!量子は量子!これでいいのだ!という、実に哲学的、バカボンのパパ的なものです。それは今も変りませんし、絶対に正しいと信じています。この世は漫画的、あるいは夢的、妄想的であるべきです。
 さてさて、話を本題に導かねば。そんな漫画的な世界をマンガにしてしまったのが、この本です。私の前に座っている、いつもいろいろなネタを提供してくれる理科の先生(女性)が持っているのを見つけて、借りて読んでみました。
 結論。やっぱり量子論は「とっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的」でした。量子さんはやっぱり豊さんを苦しめていたっていうことです(笑)。そう、そういう量子の存在の仕方やふるまいを、女性の「萌え」要素と重ねて表現するという究極の方法、さらに、シュレディンガーの猫に対する我々猫ヲタのシンパシーを露骨に利用するという禁断の手法を、この本は恥ずかしげもなく披露してしまっています。なんということでしょう。
 その理科の先生の蔵書の一つである『元素周期 萌えて覚える化学の基本』をお借りした時と同じことを叫ばせてもらいます。
 PHP研究所よ!これでいいのか?!Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)!!松下幸之助さん!これでいいんですか!?(笑)
 まあ、いいのでしょう。昨日の記事にも関係しますが、「繁栄」と「平和」と「幸福」という絶対矛盾を実現するには、たしかにオタク的生き方をするしかありませんからね。世界はオタク化すべきです。非核化なんて無理なことはあきらめて、オタク化を推進すべきです。六者協議は北朝鮮の非核化を目指すのではなく、オタク化を目指すべきです。オタク三原則、オタク平和都市宣言、東南アジアオタク地帯条約…ああ、頭がおかしくなってきた(笑)。
 まあ、これほど、この本には破壊力があるってことですよ。今までいろいろな萌え系の学習書を紹介してきましたが、これほど自然なものはありませんでした。素材を無理矢理萌え風に料理しているのではなく、素材自体が萌え的なんです。量子のふるまいはツンデレなんです。
 そう考えてくると、「萌え」というものは、まさにこの世の萌え出づる原点「量子」への共鳴なのでしょうか。では、私の「萌え=をかし論」からすると、枕草子は量子文学ということですか!?ww
 もうわけがわかりません。やっぱりこの世は漫画的です。バカボンの世界です。やっぱり霊界物語は正しかった。最新物理学がやっと霊界物語に追いついたってことですかね。
 最後に一言。やっぱり「超ひも理論」って、訳し方のセンスがバカボンしてますよ。もう、この世は粒でも波でもひもでも何でもいいような気がしてきます。
 全ての女はツンデレな「量子」であり、全ての男はその「超ひも」である…これでいいのだ!これでノーベル賞とれないかな(笑)。

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