カテゴリー「経済・政治・国際」の226件の記事

2012.02.08

悲観は楽観の母

0048 「観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
 昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
 昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
 私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
 人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
 なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
 五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
 私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
 いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
 どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
 悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
 いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
 そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
 だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
 実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
 「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
 そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
 そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
 前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
 そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。

Amazon 幸福論

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.07

『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書)

20120208_91529 「山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。
 五木寛之さんですから仏教の話だと思ったのです。私は登山家ではなくそちらに近い人間なので(苦笑)。
 なるほどねえ。我々日本人はすでに登頂してしまったのでしょうかね。そしてその山はなんという山だったのでしょう。なぜ、私たちはみんなでその頂を目指してしまったのでしょうか。
 なるほど、「山の醍醐味は『下山』にある」か。ゆとりをもって、周りを見回すことができると。そして頂点に集中していたものが拡散していくという発想も理解できます。もちろん、そこから新しい山を目指すという可能性の行為ととらえるというのも分かります。
 ただ、この本を読んで、私が救われたかというと微妙です。それは私という読者の特殊性のゆえだと思いますから、筆者を責められません。
 一つは、登山家でない私には「下山」が決してゆとりのあるものではなかったということです。私の数少ない「下山」経験からすると、それは苦痛でしかなかったのです。
 まずウチの裏山である「富士山」。こいつの「下山」はいつも最悪です。下山するんだったら、ずっと登っていたいくらい私は嫌いです。なにしろ足が痛い。膝がガクガク。そして、足の先、足の裏に激痛。ま、単にシロウトだからでしょう。でも、いやなものはいや。
 その他の山でも「下り」はどうも好きではありません。なにせ、私のつまらない根性には、「せっかく登ったのに下りちゃうのもったいないな」と感じられるからです。「またあの俗世間に還るのか」という落胆にも似た虚無感があるのも事実です。
 おそらくそれもまた登山のプロからするとなんとも稚拙な精神性の賜物であるのでしょう。残念であります。だから、この本の比喩としての「下山」にいちいち納得できなかったのです。
 理想論としては分かります。うまい発想の転換だなとも思いました。しかし、この先、とりあえず下界に下りなければならないこと、そしてその下界がその後どうなっているか分からないこと、さらに今登った山にはもう登ってはいけないと暗に言われていること、かと言って次に登るべき山の姿すら見えないこと、もっと言えば、次なる山があるのかどうかも分からないことも事実なのです。
 この登山と下山を自己の人生の比喩として読むと、これまた「下山を楽しめ」と言われてもなかなか難しいですよね。もう一山登る元気がないという人もいるでしょう。それから若者はまだ一山すら登っていないのに、いきなり下山かよ!?でしょうしね。
 私はこう思います。やはり下山の苦しみは下山の苦しみであると。また、下山の楽しみに下山の楽しみにすぎないと。下山という行為自体に意味や価値を見出しても、それだけではダメなような気がするんです。
 はたして今登った山の価値はなんだったのか、それをじっくり考え反芻しながらの道筋であるべきとも思います。決して「登った山が間違っていた」ではありません。
 もう次の山には登れないかもしれないのです。いや、山に登る必要もないのかもしれません。ただみんなで一つの山に登ったことは事実なのですから、そこに最大の意味と価値を探すべきでしょう。
 それは、それこそ仏教的な「上山(入山)」と「下山」の関係と同じだと言えるかもしれません。私もたった一泊の修行の真似事を何回かやらせていただいていますが、たったそれだけでも、下山のすがすがしさや達成感と、そこに必ず寄り添う一抹の不安や寂しさを、いつも感じています。その相矛盾する感覚こそが、私は「下山の思想」であると思います。
 すなわち、実際の登山であっても、お寺に関することでも、山に上るというのは「現実から離れる」という意味合いが大きいと思います。そして実際に客観的俯瞰的に自己や社会の現実を再確認し、そして再び下っていくわけじゃないですか。
 ということは、歴史的に私たち日本が果たした「登山」というのもまたそういう意味合いのものだったかもしれないわけです。つまり幻想への逃避であったと。
 そして、今そこを下りて現実に帰還せんとしている。その一種の不安こそが、現代の「うつ」や倦怠感そのものなのではないか。それは「重力に逆らわず落下する」感覚とでも言うのでしょうか。
 無理やり私の仏教的「モノ・コト論」に引き寄せるなら、登山は自然(重力)への反発という意味で「コト」になり、下山は自然(重力)に対する従順という意味で「モノ」になります。そうすると、我々が感じている「下山の憂い」こそが、いわゆる「もののあはれ」であることが分かりますよね。
 そこに気づくことが実は第一であって、そこからさあどうしようかというのが、仏教の、いや我々人類の大きな課題です。
 すなわち、私たちは戦中、戦後と、大変な修行を課せられたのです。ある意味両極端な修行を。さらに総決算とも言えるあの震災や原発事故がありました。それが終わり、今現実に還ろうとしている。
 修行を終えた私たち自身は、明らかに登山(上山)前とは違っています。当然その目には下界は以前と違って見えることでしょう。
 この修行の成果を発揮するのはこれからです。「下山」は未来への覚悟をするステージです。
 結局は五木さんと同じような結論になりますけれども、これが私なりの「下山の思想」ということになるでしょうか。

Amazon 下山の思想


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.26

秋入学?

201201192216066fb 大がいきなりぶち上げた「秋入学」構想。野田首相も賛意を表したとの報道がありました。早慶も基本的に同調する姿勢を見せました。
 正直全く理解できません。あえて「全く」と言いましょう。あえて売国行為だ!と言いましょう。あえて極論を述べさせていただきましょう。
 国の最高学府の頂点に立つべき東京大学がこういうことを言い始めたら、もうおしまいですよ。本当に頭がいい人たちというのは困ります。
 そこまでして優秀な留学生がほしいのでしょうか。外国人に頼らなければ東大の復権はありえないのでしょうか。誰のための国立大学なのでしょうか。
 外に頼る前に中身をなんとかしようと考えないのでしょうか。いや、もちろん考えているとは思いますが、それをなんで先にアピールしないのでしょうか。がっかりです。
 たしかに日本の受験文化は特殊であり、国際化とは正反対の価値観にあるとも言えます。
 前も書きましたとおり、この極寒の季節に人生を決する入試を行うのは、たしかに変なことです。どう考えてもおかしい。
 センター試験に雪の影響があること一つとっても、絶対に地域による不平等が生じていますよね。インフルエンザが猛威をふるう最盛期でもあります。もっといい季節に最高の条件で受験させるべきです。
 しかし、しかし、それが崩れなかった理由には、とっても根深い文化的な側面があります。
 厳しい冬を乗り越えて、そして春の萌す頃に合格が決まり、桜咲く頃に入学する。まさに人生の縮図のような体験をするのが、日本文化としての受験です。
 それがたしかに国際的な価値観からするとナンセンスだというのも十分理解できますけれども、やはり日本人が、理論や理屈や科学的見地や経済性をも無視してきた「文化」には、それなりの意味、言葉にはできないかもしれないけれども、もっと深いところでの意義があったのだと信じます。それをいとも簡単に崩すのはどうかと。
 いや、それ以前に、このたびは入試の季節は変えずに入学だけ秋にするところから始めようとしていますよね。それ自体とっても不自然なことです。人生の重要な半年間をどうするんですか。今挙げれられているようなアイデアのためだったら、とんでもないムダな中途半端な期間となってしまいます。最近増えている推薦入試やAO入試で合格してしまうと約1年無駄になりますよ。
 最終的には全てが欧米流になって、秋入学、秋入試、秋卒業、秋入社のようになれば良いと考えているのかもしれませんが、たとえそうだとしても、あまりに自己中心的というか、独善的というか、唐突というか…。
 そうして論議を巻き起こそうとしているというのも分かりますがね。しかし、もう少し「頭の良い」アピールの仕方というのがあるでしょう。がっかりしました。そこに私学の雄や首相までも迎合するこの国の情けなさたるや。
 秋入学文化への社会全体への移行ということになれば、これは国家の大計とすべき重要問題です。一大学の思いつきのような発言に惑わされることなく、国民全体で本質的な論議をしなければなりません。
 個人的に私は「国際化」のブームは去ったと思っています。グローバリゼーションという名の「顔の見えない」専制、中央集権化が進めば進むほど、再び「顔の見える」ローカルの時代が来ると予感しています。
 そういう時代を迎えるからこそ、今は私たちは自国のアイデンティティを守るべきだと考えています。
 時代遅れ、頭の硬い保守と言われようとかまいません。実際には時代の先の先を読み、柔軟に発想していると自負しているからです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.24

カタカナ社名の語源を楽しむ。

Epsn0013 、国語の授業で「仮名」についてやっております。古文の導入として、まずは日本の文字文化の歴史を学んでいるとでも言いましょうか。私は語学畑の人間なので、どうしてもこういうアプローチになりますね。
 その中で、カタカナの歴史とイメージの変遷の話をしました。その教材(?)の一つが、みんながよく知っているカタカナ表記の会社名の語源です。
 カタカナ社名と言うと、たとえば「パナソニック」なんかも入ってきてしまいますが、今回は「本来漢字標記だったのものをあえてカタカナにした」例を挙げてみました。
 ブリジストンが「石橋」だなんていうのも、今回はオマケで話すだけにしました。地元サンリオの「山梨王」も俗説として教えました。
 けっこう生徒も楽しんでいましたが、おそらくは皆さんにとってもちょっとした「雑学」「トリビア」「話のネタ」になるのではないでしょうか。
 戦前、戦中、戦後とカタカナの地位は大きく変化しました。そのあたりの事情については、授業では話しましたけれども、ここでは割愛させていただきます。
 では、一覧にして御覧いただきましょう。ちなみに山梨限定の会社名もあるので、そのあたりはご容赦ください(笑)。また、一部には「準俗説」や「未確認情報」も含まれていますので、あしからず。順不同。思いつくままに。やっぱり創業者の苗字が多いですね。

ダイエー 大栄
イトーヨーカドー 伊藤羊華堂
グンゼ 郡是
コクヨ 国誉
フコク 富国
ヤマハ 山葉
ホンダ 本田
スズキ 鈴木
ニトリ 似鳥
ツルハ 鶴羽
コメリ 米利
マトモトキヨシ 松本清
ダイドー 大同
セイコー 精工(舎)
クレハ 呉羽
キャノン 観音
サントリー サン(三)鳥居
キムコ 絹子
トクホン 徳本
リンナイ 林&内藤
チノン 茅野
オムロン 御室
カネボウ 鐘紡(鐘ヶ淵紡績)
フジテレビ 富士テレビ
キッコーマン 亀甲萬
イタヤマメディコ 板山
オギノ 荻野
セイフー 青楓
カシオ 樫尾
カンコー 菅公
サンガリア 山河有り
スガキヤ 菅木屋
ゼンリン 善隣
タイトー 太東
テイジン 帝人
ナムコ 中村雅哉(Na M Company)
ミツカン 三勘
ヤオハン 八百半
リコー 理光(理研光学)
ワコール 和江
ヤマト 大和
ベイシア べ(bene)伊勢屋
シダックス 志太
ミノルタ 稔る田(の意味もかけている)

 どうですか。楽しいですね。ところで、調べている中で意外だったのは「富士通」ですね。これはある意味逆のプロセスを踏んでいる。
 「富士」の漢字は後付けなんですね。もとは「フジ」。古河の「フ」とジーメンスの「ジ」だそうです。へ〜ぇ。
 ちなみに少数派である「ひらがな」では「しまむら」は「島村」さんですね。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.01.09

想像力

31wjvhsm0kl 日、本校の推薦入試が行われました。いつも書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。試験本番というのは受験してくれた皆さんとのまさに「一期一会」ですから、それなりのメッセージを伝えたいと考えています。
 子どもたちもある意味人生をかけてテストを受けるわけですからね、私も真剣勝負したいのです。
 ちなみに昨年は将来の夢という文章を書きました。
 今年は震災などのこともふまえて、次のような文を書いてみました。
 いろいろな思いを詰め込みたいところですが、相手は小学生ですからね、なかなかそういうわけにはいきません。
 では、空欄や漢字の問題などを取り払った原文をどうぞ。



    想像力

 みなさんは、私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?
 四本足ではなく二本足で立って歩くことでしょうか。言葉を操ることでしょうか。道具を作って使うことでしょうか。
 私はこう思っています。
 「人間には想像力がある」
 私たち人間は、何かを想像することなしには一日たりとも生活することはできません。先ほども、「私たち人間と他の動物との違いはなんだと思いますか?」と聞かれて、頭の中でいろいろなことを想像したのではないでしょうか(ここは試験会場ですから、本もパソコンもありません。頭の中でいろいろ想像するしか方法はありませんね)。
 もちろん犬や猫も頭の中で何かを想像することがあるでしょう。たとえば、「おなかがすいたな」と感じれば、いつもの場所においしいエサが入ったお皿があることを思い出すのではないでしょうか。
 しかし、ここでの「想像」とは、自分の過去の記憶を呼び起こしているにすぎません。犬や猫が、明日何をしようかなとか、今ごろ外国の猫たちは何をしているだろうかとか、そういうことは考えないのです。
 それに対して私たち人間は、経験したことがないことを想像することのできる生き物です。
 猿くらいになると道具を使ってエサを取ったりすることもありますが、想像力のレベルでいうと、とても人間には及びません。人間の想像力は過去や現在だけでなく、未来に向かって大きく広がっているのです。
 そして、この人間の想像力は、より高度な力に発展していきます。
 一つは「思いやり」です。
 「思いやり」とは、まさに「思い」を「やる」ということです。「やる」という言葉に漢字を当てると「遣る」になります。「遣」という字はどういう時に使われているか想像してみてください。
 そう、最近社会科で「遣唐使」というのを習ったでしょう。それから「派遣する」という言葉も見たり聞いたりしたことがありますね。これらから、「遣」という字に、「だれかを遠くへ行かせる」という意味があることが分かるでしょう。
 ですから、「思いやり」という言葉にはもともと、自分の体の代わりに「思い」を「遠くへ行かせる」という意味があるのです。
 昨年の三月の大地震と大津波、そして原発事故はいまだに現地の人々を苦しめています。みなさんの中には、被災地に行ったという人がいるかもしれません。しかし、全ての人が体ごと現地へ行ってお手伝いをしたり、励ましの言葉をかけたりすることはできません。
 そんな時、私たちは「想像力」を働かせて、自分の「思い」を届けようとするわけです。みなさんも、現地に行かなくとも何か具体的な行動をしたのではないでしょうか。それこそが「思いやり」の行動なのです。
 私たち大人は、みなさんに対していつも、「人を思いやりなさい」、あるいは「思いやりの気持ちが大切だ」などと言っています。しかし、具体的に何をすべきかというと、実は言っている本人もよくわかっていないことが多いのではないでしょうか。
 本当の「思いやり」には「行動」が伴います。ただ「大変だろうな」とか「かわいそうだな」とか思うだけでは、「思い」をやったことにはなりません。「遠くへ行かせる」にはそれなりの力(エネルギー)が必要であり、それが実際の体の動き、すなわち行動として現れるのです。
 「想像力」が生み出すもう一つの力は、同じく「ソウゾウリョク」と読む「創造力」です。
 先ほど書いたように、人間以外の動物は、ほとんど過去の経験の繰り返ししかできません。だから、動物は数千年、数万年にわたって基本的にほとんど変わらない生活をしています。過去を思い出すだけでは、新しい何かを生み出すということは不可能なのです。
 一方人間は、過去の記憶から未来を想像することができ、新たな挑戦の意欲をかき立てることができます。きっとみなさんにも、過去の失敗から次はやり方を変えてみたという経験があることでしょう。
 さらにみなさんの中には、こう考える人がいるかもしれません。過去の経験がなくても新たな挑戦意欲はわくのではないか、つまり「これはやったことがないけれども、こうやったらこうなるのではないか」と予想して行動することもあるのではないかと。
 たしかにそのとおりですね。しかし実を言うと、この「未経験」の裏側には、ちゃんと「経験」が存在しているのです。それは「他人の経験」です。分かりますか。
 たとえば、だれかの失敗を見て自分はそうしないようにするとか、本にこう書いてあったから、ここではこういうふうに行動しようとか、そういう時の判断基準は「他人の経験」ですね。私たちは「他人の経験」を「自分の経験」のように想像してみて、そこを出発点として新たな何かを生み出すこともできるのです。
 これは、たぶん人間だけに与えられた能力です(もちろん他の動物にも本能的にそういう行動をする時はありますが、あくまで本能であって考えているわけではないと思います)。そして、「他人の経験」をたくさん知れば知るほど、私たちは自分の体の限界を超えて、つまり時間や空間の限界を超えて考えたり行動したりできるのです。そうなれば、まるでスーパーマンですね。
 さあ、この文章を読んで、「想像力」こそが人間に与えられた宝物であることが分かりましたか。
 その「想像力」の源である「経験」を積むのが学校というところです。学校では、自分の経験を積んでいくのと同時に、勉強を通じて「他人の経験」を知ることもできます。
 みなさんがあまり好きでない教科書たちも、そんな「他人の経験」の宝庫だと思えば、少し違ったものに見えてくるかもしれません。今日家に帰ったら、そういう目で教科書を見直してみましょう。

 昨日のジョブズなんかは非常に「想像力」のたくましい人だったと思います。
 その前の話と結びつけるなら、「利益(りやく)」は「想像力」なくしては実現しませんね。他者の立場、気持ちになることが前提の行為ですから。
 逆に「利益(りえき)」たる「カネ」は人間の想像力を阻害するものです。昨日書いたとおり、「もうける」ということは「誰かに損をさせる」ことであるという資本主義、市場経済の仕組みの上においては、そうした「思いやり」や「忖度」は単なる邪魔者になりかねません。たとえば、顔が見えなければ、客をだましてでも物を売ってしまう…なんてことが起きていますよね。
 自分でもこの文を書きながら、いろいろ考えてしまいました。迷いや悩みもどんどん湧いてきます。しかし、そこに目をつぶらず、何が本質なのか、何が自分の役割なのか、生徒たちと考え続けたいと思いました。
 考え過ぎて行き詰まった時は、他の人の話に耳を傾けるのが一番です。ダライラマの「思いやり」を読んでみようかな…。

Amazon 思いやり(ダライラマ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.08

『スティーブ・ジョブズの子どもたち ~ハングリーであれ 愚かであれ~』 (NHKドキュメンタリーWAVE)

20120109_64939 年の年賀状はiPhone5でした。
 もちろんスティーブ・ジョブズへの哀悼の意も込められていますし、今年の私のテーマが「バージョンアップ」であるという気持ちも込められています。
 そして「Stay hungry. Stay foolish」もまた、これからの私や家族のテーマでもあります。
 その言葉が発せられたのが、あのスタンフォード大学でも講演でした。その講演を現場で聴いていた同大の卒業生たちのその後を追ったドキュメンタリーを観ました。
 スティーブ・ジョブズは「アメリカン・ドリーム」の象徴のように言われますが、実際には、ある意味「アメリカン・ドリーム」を実現した若者たちに、それが単なる「ドリーム」であったことを教え、そして「本当の幸せとは何か」という究極的な問答の世界に引き込んでいた…。
 たしかにジョブズは夢を実現しましたし、それなりの「金持ち」にはなりました。しかし、彼の偉業の本質は「カネ(マネー)」では計れないものでした。
 ちょうど昨日「利益(りやく・りえき)」の話を書きましたよね。彼が「りえき」を上げたのも事実ですけれども、それよりも「りやく」を我々に恵み与えたという点に注目すべきです。
 彼はテクノロジーをもって、世界の「点と点をつなぎ」、真に平和で豊かな世の中を実現すべく行動しました。
 もちろん、それが本当に正しいやり方なのかは、まだ歴史が証明するに至っていません。しかし、そういうレベルでの「夢」を実現するために、創造力を発揮して行動したことはたしかです。
 番組中、何人かの若者が投資銀行を辞めるに至ったいきさつが語られました。「他人の仕事をするな」というジョブズの言葉に刺激を受けたものです。
 誰もが「今の仕事は本当に自分の仕事なのだろうか」と考えますよね。しかし、それは、この仕事は自分に向いているのか、自分の能力が活かされているのか、というようなレベルのことですよね。
 ジョブズはもっと高い次元でこの言葉を使っていると思います。つまり、「理想の世の中を創るために、自分の役割は何なのか」というレベルです。
 おそらくジョブズの言葉を思い出して投資銀行を辞めた若者たちは、それに気づいたのでしょう。ただお金を得るだけであれば(つまり「りえき」を得るだけであれば)、投資銀行で1年目から年収1千万円以上もらえるという事実は、ある種の「アメリカン・ドリーム」の実現です。
 しかし、昨日も書いたとおり、自らが「りえき」を得るということは、他者に「りやく」を施すどころか、誰かに損をさせ、誰かを不幸に陥れることなのです。そこに想像力が及ばない状態こそが、「りやく」とは正反対の、悪魔に魅入られた、洗脳された状態だと言えるでしょう。
 ジョブズは「禅」を学んでいました。彼の生き方、言葉の使い方、製品のデザインやコンセプトには、曹洞禅の影響が色濃く見られます。
 おそらく私が彼や彼の作品に共感するのも、そういう部分があるからだと思います。
 一昨日のあの座禅アプリ「雲堂」を、ジョブズはどのように評価したのでしょうか。おそらく知っていたと思いますよ。
 「点と点をつなぐ」…これは「縁起」を積極的に生み出す行為です。我々の間にあった様々な障壁を、彼はテクノロジーで取っ払おうとしました。それはある程度実現していると感じます。
 ただ、まあ理想論は別としまして、日本よりもアメリカの高学歴就職難はひどいですね。アメリカ自身が、旧来の「アメリカン・ドリーム」がフィクションであったと気づき始めています。
 いよいよ世界のバージョンアップの時が来ているのでしょうか。あるいは、ジョブズのような「宗教者」が亡くなって、ますます世界は弱肉朝食の獣のような世界になっていくのでしょうか。
 ところで、番組を観ながら(英語を聴きながら)hire と fire が反対語だということに気づきました。
 再放送が13日(金)18:00からありますので、ぜひご覧下さい。

NHKドキュメンタリーWAVE公式


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.07

利益…「りやく」と「りえき」

Er 「NHKのアナ、ご利益をゴリエキと読みやがったww」
 思わずツイッターでつぶやいてしまった(苦笑してしまった)ローカルニュースでの誤読。ついでですから、ちょっと調べてみました。
 そう、「利益」は「りやく」と「りえき」の二つの読みがあるわけですが、この「りやく」と「りえき」って、同じ漢字なのにずいぶんイメージが違いますよね。
 「りやく」はもちろん神仏からの恵みのことであり、「りえき」は多くの場合、経済的な意味で「もうけ」のことです。
 ちなみに「益」の唐音が「やく」、漢音が「えき」ということになります。
 主に鎌倉時代の禅宗によって広まったものが「唐音」でして、漢字テストの難問は「唐音」の方が多いですね。「行脚」とか「杜撰」とか「提灯」とか。つまり、簡単に言ってしまうと、その当時の中国の方言が輸入されたということです。
 では、歴史的にどういうふうに使い分けられてきたかと言いますと、これが案外難しいのです。
 おそらくは仏教伝来と同時に「利益」という言葉は輸入されたと思いますが、その読みがどうであったかは定かではありません。時代的なことを考えると「漢音」の「りえき」だったのでは、と想像されます。
 使われた方としては、今の「御利益」のように名詞ではなく、「利益す」という動詞として使われている例が多く見られます。「(仏が衆生に)恵みを与える」という意味ですね。
 先ほど書いたように、禅宗がさかんになる鎌倉時代以降は、仏教用語としての「利益」は「りやく」と読まれるようになったと考えられます。それと同時に「りえき」の方は少し違った意味合いで使われるようになりました。
 鎌倉期の名語記(みょうごき…唐音ですね)という辞書に「えきは益也。利益、巨益の益也。ますといふよみあり」とありますから、もうこの頃には「りえき」と読むと、仏教を離れて経済的な意味での「もうけ」を表していたともとらえられますね。
 つまり、中世には「利益」は「りやく」と「りえき」の双方の読みが使われ、互いにその意味的守備範囲を手分けするようになっていたということです。
 言葉は世の中を映す鏡です。つまり、この「利益」の変化は、そのまま日本社会の変化を象徴しているとも言えます。
 明日から大河ドラマ「平清盛」が始まりますね。ご存知のように清盛は日宋貿易に積極的でした。実は清盛が日本の貨幣経済の基礎を築いた立役者だったんですよね。大河ドラマではそういう側面も紹介されるでしょうか。
 日本に宋銭が大量に輸入され、鎌倉時代には地方の一般庶民までが「お金」を持つようになりました。ちなみにここ富士北麓地方でも旧街道沿いで宋銭が大量に発掘されます。こんなド田舎(流刑地でしたから…笑)にまで、貨幣経済の波が押し寄せていたんですね。
 こうして日本国民は初めて、貨幣価値としての「富」を意識するようになります。商売をして「もうける」ことに目覚めるわけですね。
 そうなりますと、その「もうけ」を表すが必要になります。そこで使われるようになったのが「利益」でした。古くは「仏からの恵み」を表していたその言葉が、より現世的な「もうけ」の意味になっていったというのは、実に面白いことです。そして皮肉なことでもあります。
 それまでは、たとえば農産物や狩猟採集物や漁撈の収量というのものが、「神仏からの恵み」ととらえられていました。しかし、「商業」「貿易」「貨幣経済」が発達すると、「富」=「恵み」は「人間」から得るものとなっていったわけです。
 ここで、我々の「無意識的収奪」の歴史が始まるわけです。
 神仏の「りやく」の総量は無限です(たぶん)。しかし、人間から得る「りえき」の裏側には必ず「損」が存在しますよね。
 神仏からの「利益」をありがたく頂戴していた私たちは、いつのまにか経済的「利益」をただ獲得感と達成感をもって手に入れるようになり、その裏にある他者の「損」さえも想像できなくなっていったのです。
 いつも書いているとおり、「マネーというモンスター」が旧来の(本当の?)神仏を幽閉してこの世を支配するようになってしまったわけですね。
 この「利益」という言葉の歴史がそれを象徴していると考えると興味深いですよね。そして、NHKのアナウンサーまでが、「御利益」を「ゴリエキ」と読んでしまうまでになってしまった(苦笑)。まったく困ったものです。
 ま、それよりずいぶん前から(江戸時代から)、我々はお賽銭を放り込んで「現世利益」を「購入」していたわけですし、それで神社やお寺は商売していたわけですが。皆さんもお正月には初詣でという「初売り」に群がっていましたよね(笑)。
 こんなふうに、言葉の歴史を探ると、社会や人間の本質的な変化が読み取れて面白いですね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.04

『さよなら!僕らのソニー』 立石泰則 (文春新書)

S 日は愛猫とのお別れの話でした。
 今日はソニーというか、古き良き日本の技術者集団とのお別れなのかなあ。「さよなら!」ですからね。
 そして、なんかもう起死回生は難しい、つまり再会は難しいかなと思ってしまいました。
 これはソニーに限ったことではなく、また、ある意味技術者集団に限ったことではなく、大和魂との別れと言いましょうか、日本の伝統的な精神性との別れと言いましょうか、そういうスケールの話のような気もしてきます。
 そうそう、ちょうど今日はプロレスに関する番組を三つほど観ました。まずはサムライTVでの天龍源一郎とスタン・ハンセンとの対談。そして、新日本プロレスの東京ドーム大会レッスルキングダムの一部、さらにはBS11のアントニオ猪木(IGF)特集。
 その三者三様のプロレス模様の中にもまた、古き良き昭和を懐かしむ部分と、それとは全く違う平成のプロレスをそれはそれで楽しむ部分と、頑固なまでに昭和の魂を伝承し復興しようとする部分と、いろいろなものを感じました。
 おそらくいろいろな分野で同じことが起きているんでしょうね。そして、それがそれぞれうまくいくか失敗するか…。
 ソニーは昭和の職人魂、すなわち創業の精神をいつのまにかなおざりしてしまい、一方でグローバル化というある意味フィクションに呑まれてしまい、そのブランド力を完全に失ってしまいました。
 つまり、方向性とともにそのやり方に大きな問題があったのです。それを丁寧に検証したのがこの本です。
 まあ細かい内容のレビューはAmazonでご覧下さい。私はちょっと違った角度から書きます。
 今、私の学校も変革を迫られています。一般企業ほどではないにせよ、私学ですから当然経営戦略という観点も必要になってきます。
 なんとなく私がそのあたりの担当になっているので、この本はまさに他人事ではない内容でありました。
 時代に合わせる必要があるところと、揺らいではいけないところ、その両者のバランスというのは本当に難しい。
 学校にももちろん「建学の精神」というのがありまして、それは絶対に揺らいではいけないものだと、みんなが認識してはいますが、ソニーと同様、そのスタートに居合わせた人々がどんどん減っていく現状の中で(私も第二世代です)、どう温度差をカバーしていくか、これは大変難しいものです。
 本文にもありましたとおり、だいたい昔気質のトップというのはワンマンでカリスマ性があって、めちゃくちゃな要求を押しつけたりして、しかしそのおかげでいろいろと奇跡的な製品ができあがったりするわけですね。
 それを今どきの若者たちに伝えても全然ピンと来ない。そのとおりやったりすると、つぶれちゃうか、あるいは反発してくるか、とっととやめてしまう。昔はなあ、こうだったんだ!と口角泡飛ばせば飛ばすほど、そのギャップは広がっていきます。
 何十年、何百年もずっと続いているモノというのは、実は変わっていないようで、その時代ごとにしなやかに変身していたりするものです。一見変わっていないようで、実は変わっているとか、一見変わっているようで、内実変わっていないとか。
 だめになっていく過程でのソニーにも「技術力」はあったと思います。時代を読む力もあったと思います。ある意味では、技術力がありすぎ、そして時代を先読みしすぎたような感もあります。
 また、ソニーは変わっていないけれども世の中がダメになったとも言えます。職人の作った高価なものよりも、多少性能が低くても、あるいは壊れやすくても安い方がいいという価値観の蔓延ですね。
 そして、いつのまにか、ソニーはそういう大衆の側に自らの基準を合わせてしまった。グローバルマネー世界に魂を売ってしまった。そうとも取れます。
 教育の現場でも同じことが言えますね。ただ生徒が集まればいいというわけではない。しかし、生徒が集まらなければ学校自体がなくなってしまう。そこで、どこに着地点を見定めるか…これには、実はデータよりも経験的な勘が必要だったりします。それこそ職人的な技。
 難しいけれども、だからこそやりがいがあり、面白い仕事であるとも言えます。教育界では比較的ゆっくり変革していけばよい部分もありますし、保守的で許される一面もあります。
 しかし、さすがにこういう世の中になったからこそ、教育から世の中を変えていきたいという大志が湧いてくるのも事実です。機を逸さないように、存分「勘」を働かせてやっていきたいと思います。
 ああ、それにしても私はソニー信者じゃなくて良かったな。これは信者には辛いわ。私はどちらかというとアンチでしたから、この失敗譚をありがたく他山の石といたしましょう。

Amazon さよなら!僕らのソニー

楽天ブックス 【送料無料】さよなら!僕らのソニー


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.01.01

謹賀新年 2012(年賀状公開)

↓クリック!!
2012 さま、明けましておめでとうございます。
 昨年は本当に大変なことがたくさん起き、私たち日本人は大きな試練に直面しました。そして、大きな転換を迫られた年でしたね。
 今年はいったいどんな年になるのでしょうか。
 私は今年、年男です。だからというわけではありませんが、今年は個人的には人生最大の挑戦の年だと思っています。自分自身も大きくヴァージョンアップ、いやモデルチェンジしなければならない年だと思っています。
 というわけで、今年の年賀状はこれです(笑)。
 勝手にiPhone5を作ってみました。毎年我が家の年賀状はとんでもないものが多く(例えば2011年2010年2009年など…笑)、ある意味皆さまに期待していただいてるんですが、さすがに今年はあんまりおふざけが過ぎるのもなんなので、珍しくクールな感じにしてみました。
 ちなみにこれを作るのにアイデア1時間、作業30分です。今年の年末はいつもよりも忙しかったので、はっきり言って作業的にはかなり手抜きです。すみません。
 その結果、クールであるはずのデザインが、けっこうツッコミどころ満載になっています。よく見ると、いろいろと変なところ(故意にそうした所とミスでそうなった所)があります。
 間違い探しみたいなものでしょうかね。自分としてはツッコミポイントが6ヶ所くらいあります。もしお気づきの点がありましたら、コメント欄にでも書いてやって下さい(笑)。
 ちなみに「A Happy New World」というコピーは、なんとなくAppleがやりそうな雰囲気だなと思ってテキトーに作りました。英語的に正しいかどうかは知りません(笑)。でも、もしかすると2012年を象徴する言葉になるかもしれませんね。流行語大賞狙うかな。
 一方、下にあるスティーブ・ジョブズの名言「Think different. Stay hungry. Stay foolish.」については、ガチで今年の私の目標です。
 というわけで、本年も蘊恥庵庵主と不二草紙をよろしくお願い申し上げます。世界がいい方向にヴァージョンアップ、モデルチェンジしますように。

参考 2012年はスーパー天文イヤー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.28

『ビートたけしのガチバトル2011』に思う…

20111229_130356 年に続き年末のガチバトルを観ました。
 ま、本物の格闘技界では、とうとう年末恒例だった「総合格闘技」というガチ(?)での単独興行は不可能になり、プロレスという「物語世界」に力を借りることになりましたが、こちらはどうでしょうか。
 「ガチバトル」に私たちは納得、満足するのでしょうか。
 特に今年は重いテーマに関する激しいバトルが予想されました。もちろん震災、原発事故という未曾有の悲劇が日本を襲ったからです。そういう状況において真っ向から論をぶつけ合うことが、どれほど意味を持つのか、ある意味興味深く観始めました。
 番組ホームページから引用すると、今回のバトルのテーマと概要はこんな感じ。

 <1:放射能汚染はどこまで深刻か?深刻でないか?>
政府が決めた被ばく限度量「年間20ミリシーベルト」は本当に安全なのかを巡り、「1ミリシーベルト以上の場所に住んではいけない」とテレビでもお馴染みの専門家・武田邦彦(中部大教授)が主張すれば、「そんな話は現実的に不可能!」と、澤田哲生(東工大助教)がすかさず反論。そこに大槻義彦(早大名誉教授)が「武田先生の過激な危険論のせいで家庭崩壊したお母さんもいるんです…」と加わり、冒頭からスタジオは大荒れに…。

<2:原発は日本に必要か?不要か?>
続いては、『地震列島ニッポン』に存在する54基の原発を今後どうするべきかを巡る議論に。「常に隠蔽体質の現在の『原子力村』の人間を追い出すべき」と河野太郎(衆議院議員)が声をあげると、脱原発を明確に主張している山本太郎(俳優)も、チェルノブイリの事故を引き合いに出し「日本政府がやっていることがどれだけ非人道的か!」と原発継続派に食って掛かる。山本が福島第一原発の30キロ圏内に暮らす人々へ取材したVTRも見所のひとつ。テレビではこれまで、この問題について十分語る機会が無かった山本太郎が今、その想いを熱く語る。

<3:日本は財政破綻するのか?安泰なのか?>
1000兆円もの借金を抱えた日本経済。それでも国際的に見て日本の財政は安全水準と主張する高橋洋一(嘉悦大学教授)や舛添要一(参議院議員)ら「安泰派」に対し、早ければ3年後には経済破綻すると予想する経営コンサルタントのジェームス・スキナーや元財務省主計局長の片山さつき(参議院議員)ら「破綻派」が牙を向く。

 最初は私もそのガチバトルフィールドに自らの言葉をも投げ入れながら観ていましたけれども、なんか後半はどんどん空しくなってきてしまいました。
 論戦が白熱すればするほど、つまり「専門家」の「言葉」が乱舞すればするほど、たとえばスタジオに招かれていた福島の漁師や農家の方々は置いていかれる。つまり現実からどんどん乖離していってしまうのです。
 これはおそらく皆さんも感じたことでしょうし。番組の最後の最後に福島の方が「一言言わせて下さい」と手を挙げて、そうして発せられた「言葉」。両「言葉」の違いは、なんとも絶望的に大きなものでした。
 そう、「言葉」って本当に「自我」への「執着」の道具なんですよね。もちろん、「言葉」は人と人をつなぐメディアでもあるのですが、それはある意味では、それぞれが「個」として孤独であることの裏返しでもあるわけです。バラバラだから「絆」という意識が必要だと。
 番組を見終った時、私はやはりお釈迦様の教えは正しいなと思いました。言葉にこだわるな。自我にこだわるな。
 そして、もう一つ、今回の議論の基礎にあるのが、全て「カネ」だということ。自分も結局そうなので、本当にこれにはうんざりしてしまいました。
 「貨幣」と「言葉」は似た存在です。どちらも対象に(ある限られた時空で通用する)社会的な価値を与えます。そしてそれは、社会に対する自己の価値を担保するための道具でもあるのです。私のモノ・コト論からすると「コト」世界ですね。
 それらにこだわるというのは、まさに自我に執着することです。ブッダはそれをいさめました。言葉やカネにこだわってもしかたないのです。
 ここから少し(だいぶ?)飛躍した考えを述べさせていただきます。つまりわがままな「言葉」を弄させていただきます。
 たとえばこういう災害が起き、これだけ多くの情報が流れ、我々は同朋が苦しんでいることを知っていますよね。想像力を働かせれば、いつでも被災者の苦労を忖度することができます。その想像力こそが人間の人間たる所以ですから。
 そうしてまずは、政府がお金をどう分配するとか、そういうことでなく、単純に自分たちにとって余っているものを分け与えればいいと考えるべきなのです。仏教で言う「布施」という行為です。「利他」の心です。「慈悲」の心です。
 この期に及んでも、自らの貨幣的な富を追いかけるのではなく、また他人事のように政府に全てを任せたり、ある特定の会社の責任にしたりせず、「無財の七施」や「有財でも七施」を心掛けるべきなのです。
 と言いつつ、私もそれができないで苦しんでいるのです(つまり修行中なのです)。
 仏教経済学というのがあるのをご存知ですか。まさに「布施」「利他」「慈悲」によって成り立つ経済です。これは私の解釈では、成熟した心を持ったものが為す社会主義経済です。
 心の成熟がないのに、富の平等、分配を語ったから、近現代の社会主義や共産主義は負けました。かと言って資本主義が正しいかというと、全くそんなことはありません。それはただ成熟していない人間の心にマッチしていたから勝ったというだけです。
 だから、本当に理想論で申し訳ないのですが、こういう時こそ、そういう「心の成熟」を促す政治家や教育者や、専門家が出てきて論議してもらいたいのです。
 仏教経済学だけでなく仏教政治学というのも、もっと研究されていいのではないでしょうか。
 もう成長はけっこうです。成熟したいものです。まずは自己に執着しないこと。そのための第一歩として言葉や貨幣の価値を疑うことです。
 こういう話は、それこそ現代においては「物語」として一笑に付されるのでしょうかね。私はいよいよ「物語」が復権すると感じているのですが。2012年、コトよりモノの時代は到来するのか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧