カテゴリー「経済・政治・国際」の84件の記事

2008.05.14

「Love or Money」のお話

Ai 「」か「金(カネ)」か。
 妙な問いですね。この問いはだいたい恋愛とか結婚とかのシチュエーションで登場するものです。本来はそういう場合、たとえば女性だったら、「彼」か「金」かと問うべきです。つまり、「彼」を愛するべきか、「金」を愛するべきかで悩むのが本当なんです。
 で、「彼」か「金」かという問いの、一般的な答は「金」です。それは普通に考えて、あなたの「愛」に答えてくれる可能性は、圧倒的に「金」の方が高いからです。なんの保証もない「彼」に見返りを期待するより、社会が担保してくれている「金」に見返りを求める方が得策です。
 「金」は「神」だと考えるとよくわかります。その虚構性や契約性、そして悪魔性においても、両者はとてもよく似ていますよね。信じる者は救われるわけです。あの、紙切れや金属の円盤に価値があると思い込み続け、そして、ある意味それに魂を売って(入信して=システムに参入して)、その恩恵(愛)を受けるべく仕事する(修行する)わけです。
 それに比べると「彼」は多少頼りない存在です。「彼」もあなたと同じく、「彼女」か「金」か考えているからです。彼もあなたと同様、あくまでも受容者であって、「神」のような与える者にはなかなかなれないのです。
 というわけで、私たちは「神」の「愛」にすがるように、「金」の「愛」に依存して毎日を生活しています。しかし、それは先ほど書いたように、あくまでも契約(システム)上のことであって、いつそれがスーパーインフレを起こすか、実は分かりません。突然価値を失って、愛を与えてくれなくなってしまうかもしれないんですね。「神」や「金」の「愛」は、保険や年金みたいなものでして、システムが破綻して、全てがご破算になる可能性もまたあるのです。
Kane たぶん「金」が「愛」を大安売りしたのがバブルで、それが破綻してしまったのが現在の不景気なんでしょうね。バブルとその崩壊は、「神」の世界でもよくあることです。そんな時、「金」や「神」は突然「悪魔」に変ったような気がします。ま、実は変ったのは自分たちなんですけどね。
 で、我々は、我々が作ったシステムの不備や負の可能性、そして自分が気分屋であることをよく知っているので、実はそのシステムに没入できないものなんです。だから、たまには「彼」や「彼女」を信じてみたくなる。あるいは依存してみたくなる。「彼」や「彼女」の「愛」を享受できる可能性はたしかに少ないのですが、ある種の幻想や夢を抱かせてくれるし、人間自体はシステムではなくて実在なので、完全なる破綻というのはないような予感がするからです。
 恋愛は基本的に1対1の実在どうしの関係、究極はそこに他者や社会のシステムが入りこむ余地がないわけですから、自分の意志でどうにかなるような気がするんですね。世間が相手だと自分の意志ではどうにもできないことばかりです。ま、そんな恋愛も所詮フィクション、幻想であって、世の中以上にままならないことがほとんどなわけですが(笑)。
 さて、それでは本当の「愛」というのはどこにあるかと言いますと、これはワタクシ的には「完全なる贈与」にしかないと思うんですね。愛とは、見返りを期待しない贈与。実在を賭すことができる贈与、つまり命をかけられるか、というなんだか俗っぽい結論になってしまうのです。
 で、実際にはそれは自己に対してか、あるいは半分自己である自らの子どもぐらいにしか与えられない。まあせいぜい孫くらいまででしょうか。あるいは逆方向に半分自分である親とかでしょうかね。そのあたりまでしか及ばない。あとは、みんな他人です(遺伝子的には人類皆兄弟ですけど)。
 そうなんです。他人には「愛」は与えられないんです。他人へは「親切」しか与えられない。だから現実的には「愛」は負けても「親切」は勝つという表現が生まれる。他人へは完全なる贈与はありえないのです。おわかりになりますか?
 そうすると、「彼」や「彼女」も通常は他人ですからね、本当は恋愛というのは「親切」ベースでなければならないはずです。だから、冒頭の問いに対する私の訂正もまた誤りなのでした。本当は、「彼」に親切にすべきか、「金」を信じるべきか、ですね(笑)。
 さて、いろいろと戯言を述べてきましたが、この記事の本当の目的は自分の考えを披瀝することではなくて、ある文章をおススメすることなのでした。
 今では教材にもなっている次の文章、経済学者の岩井克人さんが、数年前に朝日新聞のコラムに書いたものです。『宝島』で有名なスティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編と、自らの「貨幣論」を結びつけて面白いエッセイに仕上げていますね。これを読んで感動する生徒も多いのですが、皆さんはどう感じますか?
 私はちょっと違和感を覚えます。小瓶に住む悪魔は貨幣の悪魔性とは無関係だし、彼がハイパーインフレーションと読む部分は、私にはマイナス利子の比喩と読めますし、結末も「愛(倫理)」が「金(貨幣)」に勝ったというより、人の幸福は他者の命の犠牲によっているというメッセージに読めるんですが。
 ああ、そうか、そういう意味では、これはアル中のおっちゃんの「愛」の物語なのか!なるほど(笑)。
 まあ、とにかく時間のある方は読んでみて下さい。『瓶の妖鬼』はいい物語です。

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 先日知人から次のような内容の電子メールを受け取りました。
 「子供の頃、スティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編を読んで強い印象を受けた記憶がある。岩波文庫で最近復刊された『南海千一夜物語』に収録されている。『貨幣論』の立場から読み解くと、面白いのではないかと思うがいかが」
 スティーヴンスンとはあの『宝島』の作者です。私は急いで『南海千一夜物語』を注文して『瓶の妖鬼』を読んでみました。私も強い印象を受けました。今回は、その理由を話してみたいと思います。
 それは、ハワイ人のケアウェとその妻コクアの物語です。
 ケアウェはまだ独身であった時、50ドルで一つの小瓶を買います。それは中に恐ろしい顔をした小鬼が済む不思議な小瓶で、持ち主の願う事は永遠の命以外ならなんでも叶えてくれるというのです。ケアウェには、花が咲き乱れる庭に囲まれた王宮のような家を持つ夢がありました。その夢はたったの50ドルで直ちに実現されてしまったのです。
 もちろん、小瓶は呪われています。それを持ったまま死ぬと、持ち主の魂はその中の小鬼によって地獄に引きずり降ろされてしまうんです。難を逃れるには、ケアウェは生きている間にその小瓶を他人に買った価格よりも安く売らなければ売り手の元に戻ってきてしまいます。タダで譲ってもやはり戻ってきてしまうのです。
 小瓶の最初の持ち主であったアビシニアの王様は、悪魔に数百万ドルも支払ったといいます。だが人から人へ売り渡された数百年の間にその価値は大幅に下がり、ケアウェが買い取った時には50ドルにまで下がっていたのです。ケアウェは小瓶を友人のロパカに売り渡します。
 ある日、ケアウェはコクアという娘と出会います。二人は即座にお互いを好きになるのです。だがじきに、ケアウェは自分が不治の伝染病におかされていることを知ります。病をうつさずにコクアとの愛を貫く道はただ一つ。小瓶に病気を取り去ってもらうことです。だが小瓶は既にロパカの元を離れ、何人もの手を渡っていました。ようやく小瓶を探し当てると、その持ち主はなんと人から2セントで買ったという。ケアウェは泣く泣く小瓶を1セントで買い取ります。地獄へ堕ちる決心をしたのです。ハワイでは1セント以下の効果はありません。小瓶は死ぬまで誰にも渡せないのです。
 私は9年前に『貨幣論』という本を出版しました。小鬼の住む小瓶とは、知人が示唆してくれたように、まさに「貨幣」の象徴として読むことができるのです。
 人はみな貨幣を欲しがります。貨幣を持てば、どのような商品でも手に入れることが出来るからです。
 だが、貨幣の実体は、何の価値もない単なる紙切れや金属片でしかありません。その紙切れや金属片が1万円や1ドルの価値を持つのは、他人がそれを1万円や1ドルの価値として受け取ってくれるからにすぎません。そしてその他人が受け取ってくれるのも、さらに他人が受け取ってくれるからにすぎないのです。それゆえ、誰も貨幣を受け取ってくれないと人々が思い始めれば、実際に誰も貨幣を受け取らなくなってしまいます。ハイパーインフレーションと呼ばれる現象がそれです。その時、貨幣は急速に価値を失い、最終的にはその実体である単なる紙切れや金属片に戻ってしまうのです。
 そのことを極端な形で表しているのが小瓶です。それは一見すると、どのような願いでも叶えてくれる素晴らしいものに見えます。だが、その実体は地獄なのです。誰かが買ってくれなければ、持ち主の魂は小鬼によって地獄に引きずり込まれてしまいます。しかも、人から人へと売り渡される度に価格が下がるこの小瓶には、ハイパーインフレーションが始めから仕込まれているのです。誰かの魂が必ず地獄に堕ちるのです。そして、その運命がケアウェに降りかかったのでした。
 だが、話はまだ終わりません。この物語にはさらに、貨幣の論理を超越する論理が語られているのです。
 コクアは幸せなはずの結婚生活なのに、ケアウェが絶望しているのに気がつきます。その理由を知ると、聡明な彼女はフランス領タヒチでは1セントより小額の1サンチーム硬貨が流通していることを思い出し、ケアウェとともに移り住みます。
 しかし、タヒチでは誰も小瓶を買ってくれません。そこでコクアは意を決し、人を介してケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買い取ってしまうのです。だが、ケアウェはすぐにそのことを察します。今度はケアウェが、人を介してコクアから内証で小瓶を買い取る決心をするのです。
 貨幣を手に持つ人間にとって、他人はすべて自分のための手段に過ぎません。自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどのような人間であっても構わないのです。
 すべての人間がすべての人間にとっての手段となってしまう世界―それは、まさに地獄です。そして、そのことを単なる比喩ではなくしてしまうのが小瓶です。その持ち主にとって、すべて他人は自分の魂を地獄に堕とさないための手段でしかありません。いや誰か他人の魂を地獄に堕とさなければ、自分の魂が地獄に堕ちてしまいます。道理で小鬼は恐ろしい顔をしているはずです。
 だが、コクアとケアウェがそれぞれの相手に内証で相手から小瓶を買おうとした時、貨幣の論理が逆転します。二人は共に、相手を自分の手段とするのではなく、逆に自分を相手の手段としようとしたのです。本来何ものとも交換しえない絶対的な価値であるべき自分の魂を犠牲にして、相手の魂を救おうとしたのです。
 ここに、魂の交換が成立したことになります。だがそれは、同じ貨幣の価値をもつモノ同士の交換ではありません。二人がそれぞれ、何ものとも交換しえない絶対的な価値を一方的に相手に与えることによって、結果的に成立した交換なのです。それは、貨幣的な交換を超越したまさに倫理的な交換であるのです。
 そして、この交換には別名があります。「愛」という別名です。
 もちろん奇跡が起こります。
 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買い取ったアル中の水夫長が、お酒欲しさにそれをケアウェに売り渡すことを拒否してしまうのです。
 二人が末永く幸せに暮らしたことは言うまでもありません。

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2008.05.12

『プロレス黄金期伝説の名勝負』 (別冊宝島スペシャル)

Typ6 っと、またプロレスネタだぞ。どうした自分。それも昭和プロレスへのノスタルジー的記事、多くないか?
 今日、昭和プロレス旗揚げ戦という興行が行われました。本当は行きたかったけれど、平日ではとても無理です。行った方の報告を見ますと、往年の名選手たちは、皆それなりに加齢な(!)動きを見せてくれたようですが、なにしろ客席の雰囲気が、あの昭和のプロレス会場そのままだったとか。温かい野次が飛び交う交響的空間。
 会場に行けなかった私は、そんな昭和プロレスを懐かしむため、この本をじっくり読んでみました。う〜、なんか懐かしいとともに、ほのかな哀しさが…。もののあはれかあ。
 昭和が終わって20年。いや、昭和の余韻が消えて10年。10年ひと昔とはよく言ったものです。昔語りを始めるようになった私も、そろそろ後期中齢者(?)になろうとしています。
 多くの語り手がそうであるように、私もまた、あの頃は良かったという時、あの頃の日本は良かったという感慨とともに、「あの頃の自分は良かった」という感懐をも、そこに含ませています。
 先日『プロレス「悪夢の10年」を問う』の記事に書きましたように、まず変ったのは社会であり、それにつれて「私たち」も変り、そして、それに迎合する形でプロレスという商品も変ってしまいました。
 「私たち」が社会やプロレスを変えてしまったのだという、そういう言い方もレトリックとしては可能でしょうが、やはりそれは事実ではないでしょう。私たちにそんな意思などなかった。あくまで、政治という「集団気分」を醸成するメディアに流されてしまったのです。
 私は何度も小泉劇場を評価する文章を書いてきました(検索すればたくさん出てきます)。その一方で、たとえば「談合」を肯定し、アメリカ的な(エセ)ガチンコ市場至上主義を否定するような文章もたくさん書きました。そこに矛盾を感じる方もいらっしゃるとは思いますけれど、あくまで、私は小泉さんを役者として高く評価しているのであって、彼の騙ったシナリオの内容を賛美するものではありません。
 談合や根回しのような、まさにプロレス的世界を否定し排除しようとし続けたこの10年で、日本はさらに疲弊してしまった。なんだか「遊び」がなくなって、そう、柔道着から「遊び」が消えて柔道がJUDOになってしまったように、私たちも、みんなただの人間として窮屈に自分のなわばりを守ろうとするようになってしまった。常に緊張して相手のスキを狙っているような、そんな貧しい動物のようになってしまった。
 プロレスの凋落と総合格闘技の興隆の裏には、たとえばヤクザさんのお仕事事情の変化もありますよね。いわゆる「興行」という、地方の伝統に根ざした旧来のお仕事がしにくくなったおかげで、彼ら(の一部)は違うスタイルのお仕事をするようになりました。
 昭和の時代に誰が、さいたまスーパーアリーナに数万人の人を集めて地下プロレスをやるようになるなんて想像したでしょう。プロレスや柔道やその他の格闘技の領域で、人を傷つけない、また他の領域を傷つけない「道」を極めていた人たちが、ほとんど素手で本気で殴り合って潰し合いをするなんて、誰が考えたでしょう。
 それは夢として、妄想として、物語としてはありました。しかし、それはある意味侵すべからざる領域、すなわち聖域であったはずです。歴史的にもそういう聖域を守ってきたはずのヤクザさん自らが、俗世間の悪神たちに魂を売って、今のような状況を生んでしまった。あの法外な放映料はなんですか。リングサイド席ウン十万円とかいうそれこそヤクザなチケットはなんですか。
 さて、こんなふうにグチをこぼしても、もう時間は戻ってはくれません。ただ、私に出来ることは、「あの頃は良かった」という気分を醸成すべく、自分を演出していくことだけです。おじさんとか年寄りとか言われても全然構いません。なぜなら、歴史は常にそうしたうねりを繰りかえしてきたからです。その時に必要なのはやはりノスタルジーなんです。
 現状に早く飽きてしまえ。そして、反省して昔に戻れ、社会よ、自分よ、プロレスよ(その他、音楽や秋葉原やプロ野球や…いくらでも出てきますね)。
 そういう意味で、この本のような昭和の余韻が復刻されて、コンビニに並べられているというのは、実に結構なことです。気分の醸成に、最先端の商売が協力してくれているわけですから。
 この本の元本は、1993年すなわち15年前に発行された別冊宝島179号『プロレス名勝負読本』です。大きな変革期を迎えようとしていた、だからこそ古いものと新しいものがぶつかり合ってエキサイティングであった、80年代、90年代初期のプロレス名勝負について、そうそうたる人々がそれぞれ濃く熱く語っています。ああ、ライターも昭和してるなあ。そこにはまだまだ物語が息づいています。
 特に私が面白く読んだのは、今や東大の大学院の先生でもある松原隆一郎さんの文章ですね。今でも彼の格闘技論はなかなか本質を突いていて勉強になるんですけど、この頃からやっぱり視点が鋭いですね。社会学的、コミュニケーション論的な視点というのは、どちらかというと私のセンスに近い気がします。彼はジャズのマニアとしても有名ですし、ジャズと格闘技を本質的に同じものだと考えているあたり、私と気が合いそうです。一度お話してみたいですね。盛り上がると思うんですけど…なんて、東大大学院の先生をつかまえて何を妄想してるんだ(笑)。いや、こういう夢、妄想こそが「遊び」であり、明日へのエネルギーになるんですよね。
 それにしても、全編を通して読んでみますとね、猪木という男と前田という男、この二人がいかに天才的なアホだったか、よく分かりますよ。彼らが時代を動かしてしまった。政治的な動きと格闘技界を結びつけてしまった。もちろんヤクザの世界も含めてね。う〜ん、功罪半ばでしょうか。一つの文化を殺してしまったとも言えるけれども、一方で格闘家の食いぶちを供給したとも言えるしなあ。難しいところです。
 ということで、今日もすっかり懐古的な一日でした。しかし、先ほども書いた通り、こうした負方向への気分こそが次の時代への動力になるんです。そう、ゴムを引っ張ってパチンコ玉を飛ばすように、まずは逆ベクトルに加担しなくちゃ。

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2008.05.07

『プロレス「悪夢の10年」を問う』 (別冊宝島)

世紀の「大沈没劇」を検証する
Seuyuy たプロレスネタですみません。でも、これは私にとって、自分の生き方そして社会の変化について考える、非常に重要なヒントを与えてくれるもの、いやほとんどテーマそのものなので、どうしても避けて通れないんです。
 やはり、プロレスは自分や社会を映す鏡なんですよね。ですから、プロレスの凋落激しかったこの10年というのは、まさに自分たちや社会が、そういうふうに変わった10年だったということなんです。
 世間ではいったい犯人は誰だ!?のような議論が盛んに行われました。そして、実際にいくつかの原因が取りざたされましたが、どうもすっきりしない。そう、最も激しく犯人扱いされたのは、ミスター高橋の暴露本でしょう。もちろん私もそれを読みましたが、それはまあ不文法を明文化しただけであって、何を今さらとは思いましたが、世の中を改革してしまうほどの力は感じませんでした。やっぱり原因はそれじゃあない。
 このムックも基本、一般論に対する懐疑的な立場をとっています。しかし、だからと言って何か一つの結論が提示されているわけでもない。冒頭に「変わったのはプロレスか、自分か、それとも−」とある通り、結局よく分からないまま終わっています。というか、ずいぶんと話がそれていって、あれ?この本って何の本だっけ?という感じ。そして、なぜかそのそれた部分の方が読み物としては面白かった。
 特に、昭和を彩った怪物記者、怪物編集者の皆さんのくだらない(失礼)ぶっちゃけ話と、彼らに対するある意味プロレス的なわざとらしさを伴った宝島側のツッコミには、大いに興奮させられました(笑)。
 あと、「大沈没劇」のおかげで味わえる哀愁という意味では、最後の阿修羅原のインタビューと劇画が秀逸でした。もうほとんど演歌の世界ですよ。そうそう、去年泣いたラッシャー木村の劇画と同じ「もののあはれ」だな。沈没の美…国際プロレスって本当にいいですねえ。カミさん曰く「人生の春夏秋冬…(涙)」。
 さて、いきなりですが、私はよく分かってるんですよ。なんでプロレスが凋落したか。変わったのは、プロレスであり、自分であり、社会なんです。そうですねえ、順番としては、まず社会が変わった。そして自分(私たち)、最後にプロレスなんじゃないでしょうか。
 2001年、ミスター高橋の暴露本が出版された年ですね、この年は小泉構造改革が始まった年でもあります。そして、どんどん世の中のいわゆる「ムダ」が排除されていきました。全てがリアルにオープンの方向を目指し、それこそがいいという神話が形成されていきました。ガチンコ社会こそが「機会の平等」を生むという幻想が生まれたんです。
 そこで消えたのが例えば談合です。私はこちらで書いた通り、談合こそプロレスであり、それが人間の本質と智恵であると考え、行きすぎた談合はですね、それはいかんとは思いますが、だからと言って、それを徹底的に排除して自分たち個人個人の欲望と無力さを露呈させるのには大反対なんです。
 でも、世の中はみんなそっちの方向に行ってしまった。リアルを求めてしまった。総合格闘技の人気が出たのも、そういう我々の意識が商売になるからでしょう。談合じゃなくて、ガチンコでオープンのオークションの方が正しいし、面白いと思ってしまった。
 レスラーたちも喰っていかねばなりませんから、市場がそちらに流れれば、自然とそういう方向に行きたくなります。特に体の小さな人たちはそうでした。体が小さいと、プロレス的にはルチャをやるしかないわけですから。
 そういう意味で、このムックで一番勉強になったのは元UWFインター山本喧一選手のインタビューでした。彼は本当にいいことを言っています。今、彼は格闘技の世界で頑張っているわけですけど、彼も体が小さかったので、いわゆるプロレスラーにはなれなかったクチです。自分でもそう言っています。彼は「プロレスは化け物の世界」と語っていますが、まさにそれですね。今のプロレス界には馬場や猪木やアンドレや鶴田のような化け物がいません。プチ化け物やシロウトがずいぶんと増えてしまいました。それも凋落の原因でしょうね。
 逆に言えば、それは「見世物文化」の衰退とも言えます。世の中のエセ福祉、エセ思いやり、エセ平等、エセ人権、エセヒューマニズムが、そういう「モノ」を幽閉しつつあります。教育現場でもモノノケはずいぶんと生きにくくなってますよ。まったくねえ。
 大相撲の凋落も、まったく同じ原因でしょうね。日本古来の素晴らしき神道的伝統である、談合的全体主義と見世物的福祉と物の怪への畏敬の念が消えてしまった。残ったのは、我々人間個人の不純なる「自己」と単純な勝ち負けの図式だけでした。そういう「コト」を包み込んでいた母性のようなモノはどこに行ってしまったのでしょうか。人間のデジタル化なんでしょうかね。アナログ的なあいまいさと、美しきムダやムラはもう評価されないんでしょうか。
 …と、話がふくらみすぎてしまいましたね。なんだか自分でも何を言っているのかわからなくなりました。とにかく、とんでもない怪物が現れて、総合でも完全王者になってくれるしかないですね。私たちの欠落感を埋める物語を紡ぐ、そういうある意味天皇みたいな、恒星みたいな、そういう存在が現れねば。朝青龍もジョシュ・バーネットもいいけど、やっぱり日本人のそういう怪物が現れてくれないかなあ…やっぱり三沢さん?

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2008.04.08

『ほんとうの環境問題』 池田清彦 養老孟司 (新潮社)

10423104 このおススメに何度も登場願っているお二人。そのお二人による夢の最強タッグが実現しました。
 結果、あまりに上等なエンターテインメントが完成。予想をはるかに超えるのがエンターテインメントです。断絶していたものどうしを結びつけるのがエンターテインです。
 何が断絶していたか。それは「人」と「自然」です。そして「私」と「『ほんとうの』真実」です。何が断絶させているのか。犯人は「カネ」です。そして「政治」です。
 私は何度も何度も繰りかえしてきました。資本主義、市場経済を続ける限り環境問題は解決しないと。真剣に地球にやさしくするんだったら、もういっそのこと清貧に甘んじろと。いや、死んでしまえと。
 私がいくら吠えたところで、そんなことは実現しっこありません。いや、このある種の天才二人がこうして吠えても、基本世の中は変わらないでしょう。カネは暴力と仲がいいのです。だから、一旦カネが本気を出せば、我々はひとたまりもないんです。
 うん、そうだ。いっそ、カネの力を借りてカネを制すか。そういう楽観的な未来展望というのもずいぶんとなされてきました。どうせ最後は自滅するよ、人類なんて。この本にも少しそういう臭いがあります。石油は全部使ってしまえとか。
 でも、それじゃあ、あんまり哀しいじゃないですか。人類というレベルではそれでいいし、そういうレベルならば人類ごとき絶滅しても、宇宙にとっては、あるいは地球にとっても、全然痛くもかゆくもないのかもしれません。でも、やっぱり、自分というレベルで考えると哀しい。
 その人々共通の哀しさ、それは倫理とはちと違うのかもしれませんけれど、そこんとこにまたつけこむ悪い企業や政治家がいるわけです。それが今、環境問題として騒がれているところの本質だと思います。なぜ、今環境問題が声高に叫ばれるのか、なぜ温暖化論が加熱しているのか。それは、それがカネになるから、すなわち政治になるからにほかありません。
 この虫好きオヤジ二人に共通しているのは、「ほんとうのこと」をいつも言ってしまうことです。それで商売している人です。それで虫採りの資金を稼いでいる。あるいは二人に共通していないのは、池田さんは私に好かれていない(たとえばこちら)けれども、養老さんは好かれている(たとえばこちら)という点です。その違いはどうして生じるのかというと、これはものの言い方によるものでしょう。ユーモアの質の違いでしょうかね。いや、虫としての質感の違いかな。ほら、虫の中でも、これは許せるけど、これは許せないっていうのあるじゃないですか。生理的に。
 というわけで、とにかく面白かったんです。私はここでついても表明しているとおり、完全なる環境問題懐疑主義者でありまして、そういう意味において、この本は私の知識や想像力をはるかに凌駕していましたから、それはそれは面白く読みました。それこそ30分もかからなかったのでは。そして、その30分間、ずっとニヤニヤしてましたよ。ウンウンうなずいてましたよ。
 内容については実際読んでいただく、あるいはAmazonのレビューを読んでいただけばいいですね。で、この本を読んで腹が立つ人ってどういう人なんでしょう。私の身近にもけっこういそうなんですけどね。なんとなく虫が好かないんでしょうか。スローガンやアクションで武装しなくちゃいられない人なんでしょうか。それともやっぱり自然よりカネ、すなわちワタクシ流に言えば「モノよりコト」の人なんでしょうか。
 繰りかえします。やっぱり私は「心より物(コトよりモノ)の時代」を標榜して行動していきたい。この本を読んで笑いながら真剣にそう思いました。

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2008.03.22

『明日の広告』 佐藤尚之 (アスキー新書)

75615094 今日は縁あって某有名ハンバーガーチェーンの社長さんと差しで話をする機会を得ました。経営や教育に関する貴重なお話をいただき、感銘いたしました。ありがとうございました。
 その会社は、たとえばテレビCMなんかをそれほど積極的にやらないで、どちらかというと口コミの力でブランドイメージを築きました。独特のマーケティングもあって、激戦区で確固たる地位を不動のものにしています。
 社長さんのお話でなるほどと思ったのは、従業員へのサービスがお客様へサービスにつながる、従業員の心からの笑顔がお客様に対する本当のサービスになるという考え方ですね。つまり、従業員の働きぶりが広告にもなるということです。
 ちょうどこの本を読んでいたところだったので、そのあたりのお話を興味深く拝聴することができました。全く違う視点もありましたけれど、結局は一緒のことを言ってるのかな、と思いました。結局は生身の人間どうしのコミュニケーションなんだよなあ。
 ちょっと前に岡康道さんと小田桐昭さんの「CM」を読みました。それで広告のイメージがだいぶ変わった。その後もまたいろいろとご縁があって、広告関係のクリエイターさんたちとお話をする機会がありまして、ちょっぴり広告がマイブームです。自分の仕事にも実は無関係ではありませんし。
 まあ、相変わらず私独自の変な切り口なんですけどね。そう、「物語論」的な捉え方です。今日の記事にも、昨日に続き「モノ・コト論」や「萌え」が登場します。
 「さとなお」さん、いや今回は本名の佐藤尚之さんの名前で書いてますね、彼は若手(と言っていいのかな)クリエイティブ・ディレクターの中でもカリスマ的な存在です。
 この本、サブタイトルにあるように「変化した消費者とコミュニケーションする方法」を書いた本です。広告をラブレターに模して説明してくれているんですけど、まずそれが実に分かりやすい。相手に「私はいいですよ!私を買ってください!」というメッセージを伝えるという意味では、たしかに双方似通ってますね。
 で、消費者(ユーザー)がどんなふうに変ったかというと、
・ラブレターが相手の手に届きにくくなった。
・他に楽しいことが山とあり、相手はラブレター自体に興味をなくしている。
・ラブレターを読んでくれたとしても、口説き文句を信じてくれなくなった。
・しかもラブレターを友達と子細に検討し、友達に判断を任せたりする。
 というふうに説明されています。要はネット社会になって、情報が丸裸になっているということですね。BBSやSNSなんかでの一般人の発言こそを信じる時代になったと。なるほど。その通りだ。
 では、どうすればいいか…という答が、決して悲観的ではなく、非常にポジティブに語られています。これは広告に限らず、現代のコミュニケーション全てに当てはまることですから、たとえば私のような教育に携わっている者にもとっても有用なお話が満載でした。結局、真心・誠意ということかな。伝える側の真剣さ、思い入れ。「スラムダンク一億冊感謝キャンペーン」の章なんか、ホント感動ものでしたよ。
 で、そのへんの結論については実際読んでもらうとしまして、昨日に続き、「モノ・コト論(物語論)」で咀嚼してみましょう。
 私が興味を持ったのは、消費行動モデルAIDMAとAISASです。古典的な「Attention→Interest→Desire→Memory→Action」に対して最近は「Attention→Interest→Search→Action→Share」だと。つまり、ネット社会になって、検索して感想を共有するという新しい消費行動が加わったということですね。言い方を変えると「Desire→Memory」の部分がそっくり「Search」になり、最後に「Share」が加わったということですか。
 たしかに昔は興味を持ったらもう買うしかなかったけれど、今や検索していろいろと情報を得たら、もうなんだか満足しちゃって購買意欲が失せた、なんてことも日常茶飯事ですね。そういう意味でも、「Attention」を司る「広告」の役割がまた難しくなっちゃったわけです。
 で、私はこれを読みながら、ああこれはまさに物語論だな、と思いました。「Attention」こそ「モノをカタル」ということですね。つまり、ワタクシ的な説によりますと、「モノ」とは「未知」の存在であり、それを相手の脳の中に「固成する(コト化する)」のが「物語」の本義ですから、まさに広告の行なう「Attention」と同じですよね。それによって「モノ」が「コト」になる。気づく。知る。
 で、古典の時代はですね、源氏物語のようないわゆる作品としての物語も、また、「物語す」という形で頻出する日常の井戸端会議も、とにかく相手の注意を引き、またそこから興味を喚起するに充分な役割を果たしていたんですよ。立場を変えますと、物語受容者の方の「妄想力(想像力・創造力)」も長けていたと。でも、現代ではそれが他者の情報によって補完され、結果収束(終息)してしまって、それ以上のダイナミズムが生まれなくなってしまった。それは、情報社会、特にネット社会の弊害かもしれませんね。
 さて、また話がとんでもない方に行っちゃいますけど、昔「萌え=をかし」のところにも書いた、「ゆかし」と「をかし」の関係について、ちょっと思いついたことがありましたので、書いておきます。
 「ゆかし」というのは「行かし」であり、それは「Interest」であるとも言えます。つまり、行ってでも知りたい何かがあるんですね。実際、昔は現場に行かなければその願望は満たされなかった。でも、今は「Search」すればもうおしまいですからね。便利と言えば便利ですよ(ちょっとあっけなさすぎますけど)。
 で、本来「Interest」から生ずるべき「Desire」ですが、これはつまり所有欲ですよね。こちらに招きたい。これこそ「をかし(招かし)」なわけです。現代風に言えば「萌え」ですよ。「カワイイ」なんかも、単なる「可愛い」ではなくて、所有するための消費欲求を伴った感情です。
 古典的な「ゆかし」や「をかし」はなかなか実際の所有には至らないケースがほとんどでした。そこに、「思い通りにならない」という「もののあはれ」も生じて、新たなる物語や歌なんかがた〜くさん出来ちゃったわけです。
 それが現代では、まず工業化や交通・流通の進化によって、実際に所有することが可能になった。つまり「Desire→Action」、そしてその先の結果の実現に向けて、近代社会は進化してきたということです。
 さらに情報化によって、疑似的にこちらに招くこともできるようになった。我々は、場合によっては購買や消費という形態でなはく、単にデジタルコピーしたもの(コト=情報)をゲットすることで満足するかもしれません。とにかく疑似的にであれ手もとに招いて所有することができるようになっちゃったんですね。
 そして、忘れてはならないのは、「Action」の質が、ゲットしたモノへの愛情に影響するということです。その行動がエネルギーや時間を要すれば要するほど、モノへの愛情は深まる。逆に、安易に簡便に得たモノに対する気持ちはすぐに冷めます。たいがいの場合、そういう単純な対応関係があります。
 つまり、現代では、「いとをかし」と思い続ける前に、実際に「招(を)く」ことが可能になり、そしてその結果止めどもない生産と消費と廃棄が生み出されているということになります。「ゆかし(行きたい)」はとっくに絶滅し、さらに「をかし(招きたい)」さえも消えつつあるんですね。だから、当然のごとく「もののあはれ(不随意への嘆息)」なんかほとんど復活のチャンスすら奪われてしまった。
 そうすると、現代は「萌え=をかし」の時代だなんていうのも、実はもう古い感覚であり、それすらもない、なんだかすっからかんな、ある意味虚しい(空しい)時代が到来しつつあるのかもしれません。その空虚感がまた「もののあはれ」を喚起したりしてね。
 ただ、話を冒頭のハンバーガーに戻しますと、飲食物に関してはヴァーチャルでは置換できない部分がありますよね。そのへんについて、また社長さんとお話しできればと思っています。続きはまたいつか。

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2008.03.05

『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』 北尾トロ (文春文庫)

16767996 教頭先生からお借りして読んでみました。以前、『裁判大噴火』を読んでどうもイマイチ小噴火で終わってしまったみたいなこと書きましたよね。やっぱり事態が事態なだけに不謹慎な発言(つまり噴火)は避けたのではないかと想像しています。
 こちらにの北尾トロさんの裁判傍聴記はですね、そのへん結構躊躇せず爆発してまして、スカッとしちゃいました。下世話なやじ馬根性的な観点からの発言が多発しており、逆に大丈夫かなと思われるほどです。実際、不快感を持つ人も多いんじゃないでしょうか。Amazonのレビューなんか見ますとね、やっぱり女性は特に腹立ててるみたいです。ごもっともですよ。
 まあ、ことが殺人やら強姦やら、そういうことですからね。特にトロさん、私たちフツーの男性のご多分にもれず、男女のドロドロ事件とか、痴漢とか、なんとなくそういう方に興味を持ってしまうわけですよ。傍聴は基本自由に事件を選択できますからね。ついついそういう方に行ってしまうのはよくわかります。テレビのチャンネルを選ぶようなものですから。
 そんなわけですので、阿曽山さんの本ではどうも奥歯に挟まったような感じがしてたモノがですね、スッキリ取れたっていう感じです。これは、連載されていた雑誌の性質にも関係しますね。阿曽山さんのは月刊「創」、トロさんのは月刊「裏モノJAPAN」です。ま、そういうことですよ。表街道か裏街道かっていうこと。
 それにしても、正直裁判の傍聴って面白そうですね。ぜったいはまりますよ。お金もかからないし、ドラマとかと違ってガチンコだし。教頭先生とも一回行こうかみたいな話になりました。実際、のぞき見的な教育者らしからぬ気持ちもあります…いやいや、そうじゃなくて、やっぱり勉強ですよ、勉強。だって、裁判員制度も始まることだし、我々もいつ傍聴人ではなく、傍聴される側にならないとも限らないんですから(笑)。
 それ以前に何事もお客さんというのは大切ですよね。格闘技をはじめとするスポーツも、やっぱりお客さんによって選手の頑張り方が違うじゃないですか。私もプロレス観に行ったりする時は自分も選手と一緒に試合を作ってるつもりになりますよ。この前の日曜日のノアの試合なんかも、まあこれはテレビで観てたんですけどね、杉浦選手なんかリングサイドにきれいなお姉ちゃんが何人かいたんでメチャクチャ張りきってましたよ。いや、気が散ったのか、途中で戦線離脱してたってけな(笑)。
 この本でも大量の女子高生が傍聴しているケースが紹介されてました。裁判官も検察官も弁護士もみんな頑張る頑張る。そういうものですよ。そういう意味も含めて、一見堅苦しい「法」の世界や「法」の言葉の中に、逆に鮮明に照射される人間臭さというのが面白いんでしょうね。みんな人生や、場合によっては命がかかってるんですよね。それこそ不謹慎かもしれませんが、そこに見える人間の愚かさや悲哀みたいなものが、まあ他人事だと楽しいんですよ。
 そして,その不謹慎さ自体の魅力というのもありますね。ドラマや小説や映画やコミックならいくらそこに耽溺しても許されますよね。でも、こっちは事実ですからね。なんか微妙にうしろめたいじゃないですか。法廷というその「場」や「空気」とのギャップに緊張して、その緊張具合に萌えるみたいな(笑)。そう、それこそが不謹慎さの正体ですよね。相手の心のステージと自分のステージがあまりに違うけれど、人間にはお互いそれは見えないので、黙っていたり、あるいは表情に出さなければ基本伝わらないわけですよ。そういう「本当のことを言わないで相手をだましている状態」、潜在的な「心裡留保(法律用語です)」かな、それってなぜか快感なんですよね。それも最もお堅い席上ですから。スリルっていうのかなあ。行ったことのない私でもドキドキしますよ。まったく人間って変な生き物ですね。
 というわけで、いつか私も傍聴席に座ってみたいですね。退職後にゆっくり…そうだ、まず親父にすすめてみようかな。議会とかしょっちゅう傍聴してるみたいだし、法律関係好きだし、メモ魔だしね。

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2008.02.14

『日本進化論―二〇二〇年に向けて』 出井伸之 (幻冬舎新書)

34498042 カミさんが、新しい総合格闘技イベント「DREAM」に興奮しています。私はプロレス派です。というわけで、元ソニーのCEO出井さんのこの本を読んでいろいろ考えました。そのこころは…。
 書かれたのが昨年の上半期ですので、サブプライムローン問題から生じたアメリカ経済の停滞や金融不安が起こる前っていうことですかね、「世界同時好況」を実感できない日本というような書き出しになっています。
 で、楽観的に日本のポテンシャルをとらえ、「競争」ではなく「共創」資本主義によって日本は進化(深化)するという結論に至っています。
 途中、金融資本主義やネットワーク社会についての解説、そして各分野の未来予測のようなものが書かれていましたが、特に目新しいものや画期的なものはなかったと思います。案外普通だなと。
 「共創」資本主義というのも、別に新しい提案ではなくて、昔ながらの日本的経営を言い換えたもののように感じました。
 というわけで、あんまり得るところがなかった本ではありましたが、それは逆に考えれば、やっぱりそういう当たり前なことしかないんだな、こういうカリスマ的な経済人も我々庶民と同じようなことしか考えられないんだな、ということでもあります。
 それは結局自分自身の幸福が基本になっているからです。もっと言ってしまえば、みんな居心地いい環境を保ちつつお金がほしいということですよね。それは出井さんのようなお金持ちでも、私たちのような貧乏人でも同じだということです。自分に関する目的は「お金」、他者に関する目的は「自分に害を及ぼさない」です。それが普通ですね。
 その二つの目的(願望)は別に矛盾するものではありません。私は経済の本質や本義はその両者のバランスを取ることだと考えているんですが、今の「競争」資本主義ではなかなかそれが両立しません。理由は簡単でして「競争」だからです。いや、「競争」しかないからです。
 ここでまたバカみたいなたとえをしてみます。冒頭に書いたヤツです。
 「競争」は総合格闘技?「共創」はプロレス?…実はそんなに単純ではない…。
 面白いもので、プロレスから総合へ世の中の興味が動いたのは、いわゆる小泉改革に沿ったものだったんですね。説明するまでもないと思いますけど、日本伝統の演劇的慣れ合い世界から、アメリカ的なガチンコ世界に変ったということです。もちろん、高度成長期から長期安定期の日本は前者がうまく回転していました。よってプロレスも全盛でしたね。
 ガチンコは勝ち組と負け組を作ります。プロレスにもいちおう勝ち負けはありますが、その意味は全く違います。負けは「勝ち」ではありませんが、「価値」にはなりえます。小橋とのチョップ合戦に負けた健介元彌に負けた鈴木復帰戦で敗れた小橋の例を挙げるまでもありません。
 つまり互いに技術や精神を「競争」してしのぎを削っても、結果として「共創」になることもあるんです。「競争」と「共創」は相反するものではなく、実は共存可能なんですね。
 話を経済に戻します。「競争」しつつ「共創」できる経済システムっていうのはあるんでしょうか。私はあると思いますよ。いつかも書きましたが、それが第三の経済学と言われる「仏教経済学」なんです。
 つまり、「競争」を「修行」ととらえるんですよ。プロレスラーのように、訓練して自らを鍛えるとともに、相手を活かす方法を学ぶんです。「利他」「布施」の精神ですよ。つまりそれこそが結果として「共創」になる。
 いかに自らの「勝ちたい願望」を抑えるか。そこんとこで「競争」するんです。心のレベルでの「競争」ですね。相手に勝たせる強い心を身につける。リアルに言ってしまえば、「お金」をいかに「いらない」と思えるか。最低限の「願望成就」で満足するということです。そうすることによって、結果として自らの価値も上がる。相手を活かして自分も活きる。これこそ「仏教経済学」だと思いますよ。
 なんて、ずいぶん話がぶっ飛んでますが、実はまじめな話なんです。プロレスと仏教と経済を結びつける人もそうそういないと思いますが、私はまじめにそう考えてるんですよ。いくらカリスマ出井さんと言えども、これは思いつかないでしょう(笑)。
 と、これ以上妄想が暴走するとかえって危険なのでこのへんで終わりにしておきます。
 ところで、カミさんは異論があるようです。いや、彼女は実はプロレス派なんですよ。殺伐としがちな、そして弱肉強食で使い捨てにもなりがちな総合格闘技の世界で、一人仏陀として奮闘する(?)桜庭和志の信者だということです。なるほどね。それならいいや。

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2008.02.12

『右翼と左翼』 浅羽通明 (幻冬舎新書)

34498000 さて昨日、紀元節…いやいや建国記念の日にちなんで読んでみたこの本。結局ナンダコリャの過剰さに寄り切られ、昨日の記事の座を奪われてしまいました。ま、右も左もあの楳図かずお先生の赤と白には叶わなかったってことでしょうか(笑)。
 ところで、左は「赤」っていう感じですけど、右は何色なんですか?やっぱり緑なんでしょうかね。飛行機って右翼は赤いランプ、左翼は緑のランプですよね、たしか。
 と、冗談はさておきまして、昨日も「日本人は案外中庸が苦手」みたいなことを書きましたけど、私たちって特にまじめなことになりますと中庸のないデジタル思考になりがちですよね。私のいる教育界なんてのも、まあ形だけはまじめなところですから、すぐに「ゆとり」だ「つめこみ」だって両翼のはじっこを行ったり来たりします。えっと、今度は「つめこみ」でしたっけ。はいはいって感じです。
 で、政治はおそらく一番まじめぶらなければならないステージですから、それはついつい「右」か「左」かという二元論に陥りやすい。つまり、まじめなことは難しいので、なるべくわかりやすくする必要があるんでしょうね。そうしないと、みんながまじめなことに取り組まなくなる。取り組まなくなっちゃうよりは、あっちとこっちで行ったり来たり、あるいはケンカしてる方がいいということです。
 これはいつかも書いた「政治と文学」とか「政治の演劇性」とつながることだと思います。
 で、それらの記事でも作家や役者として評価され、またこの本でも取り上げられている小泉さんなんかも、一見「右」という感じがしながら、実際にはけっこう玉虫色だったとも言えます。格差を容認し市場主義にまかせる自由という意味では「右」ですが、官から民へという面では「左」のようにも見えます。アメリカ追随や靖国問題では「右」らしさを発揮してますが、保守的な自民党をぶっこわす改革という意味では「左」のイメージもなくもない。
 と、あれほどわかりやすい人でもこんな感じですから、たとえば自分は右なのか左なのかと問われると、私はですねえ、いちおう「ソフトな右」って言ってますけど、平和主義という面では左寄りだって言われる時もありますし、いやいや日教組の方々には完全に「右」だと思われてるし(彼らはデジタル思考の権化みたいなもんですから気にしませんが)、極右の人と論議する時は「あれ?自分って左だっけ」と思うこともしばしば、親父と喧嘩になる時は正真正銘右の人だし(笑)…てな具合で非常に難しい。
 そう、しょせん「過剰なデジタル思考」なんてものは「虚構」や「演劇」や「プロレス」や「音楽」や「ゲージツ」での話であってですね、現実の社会や政治や自分や他者はそんなに一刀両断に二分できるものじゃないんですね。そういう本来のカオスがどうしてきれいさっぱり「赤白」じゃなくて「赤緑」じゃなくて「右左」に分かれちゃったのか、世界史的にどうなのか、日本にはどういう特殊事情があったのかという、ある意味非常にわかりにくい現実を非常にわかりやすく解説してくれたのが、この本というわけです。
 今までも右と左を対比して説明する、すなわちデジタル的な解説書はいくつもありましたが、こうして一つ上の次元から虚構としての全体像を見たものって案外なかった。第一、自分たちもそういう視点から自分を見ることなく、どうしても楽でファッショナブルな(あるいはファッショな)デジタルの潮流に乗ってしまうことが多かったじゃないですか。ですから、この本は、私たちデジタル庶民にもわかりやすい、そして最終的により高度な視座を与えてくれるという意味で名著だと思います。名著なんて堅苦しい言葉はふさわしくないかも。浅羽さんGJ!!って感じかな。
 今、正直右も左も形骸化してるじゃないですか。そういう中でどうして「ネトウヨ(ネット右翼)」なんかが出てくるのか。自分もどちらかというとそういうのを面白がっている不逞の輩なんですが、まあネットという無責任な場での空いばりって感じは分かりますよ。なんとなく右翼の方が勇ましいじゃないですか。実際にはそんなことできないけれど、やれやれ〜!みたいなの。今のネトウヨには勇気は必要ないんですよ。だからそういうのを見て右傾化してるとか心配しなくていいんですよ。彼ら(私も)「たくましからず」の「不逞」ですから(笑)。
 それにしても、人間というのは、二つに分けたがりますね。「松田聖子と中森明菜」とか(笑)。あなたはどっち派?って帯に書いてありましたし。そう、つまり人間は徒党を組みたがると。で、グループを作るにはとりあえず全体を二分するしかないですよね。全体のことはグループとはいいませんし、一つしかないものをテリトリーとかカテゴリーとかジャンルとかパーティーとか言えませんからね。そして、どちらかに属し、もう一方を批判し攻撃することによって、自らのグループの結束を強化し、そして自分たちのアイデンティティーを堅固にして、自らの安全や安心を確保する。基本、我々はさびしがり屋で、自信もないのに強がり、そのくせ依存心も強い存在ですからね。
 この本でも、結論としては、そういう二元論的な思考の危険性を説いているような気がしました。私もこれからはカオスや多様性に耐えられる強さを身につけたいですね。目標はやっぱり全てを併呑した出口王仁三郎かなあ。あれは一般人には行きすぎかな。

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2007.11.09

大歓迎!原油高

Gennyu97 原油高が止まりません。1バレル100ドルを上回るのも時間の問題でしょう。5年くらい前には50ドルを超えるとか言って騒いでいたような気がするんですが、こうなるともうどこまで行くのか、いや逆にイケイケ!って感じになってしまいます。
 なんて発言をすると不謹慎だ、ガソリンも高くなるし、これから寒い季節を迎えるのに灯油も高騰、我々庶民の生活に大きな影響があるではないか、と言われそうです。
 でも、ちょっとまじめに(ふまじめに)考えてみれば、このような状態がいかに人類にとって望ましいかがわかりますよね。
 ワタシもそうですが、ずいぶんと節約意識が高まりましたよ。車になるべく乗らないようにしよう、服を着込んで暖房温度を下げよう、余計なものは買わないようにしよう。
 企業なんか、もっと必死ですね。電気料金もそのうち上がりますし、いかに省エネするか、今そういう部署は大忙しです。まさに死活問題ですからね。
 これのどこが悪いんでしょう。温暖化防止!とか叫んでも実感がなければ実は何もしないというのが人間です。京都議定書とかマイナス6%とか言ってもね、庶民も企業も今一つピンときていませんでした。もちろん中には自らの行動を主張する人々はいましたよ。個人にせよ企業にせよ。でも、それはほとんどが自己満足か自己宣伝のためのものではなかったか。
 で、こういうふうに「悪の元凶」が高くなれば自然と二酸化炭素の排出量なんて減るんですよ。タバコにめっちゃ高い税金をかけている国では喫煙者が減りますよね。それで本人も周囲も健康的になる。それとおんなじです。
 どこかの変わり者教授も言ってましたけど、とにかくこのまま石油を使い続ければいいと。そうすれば最終的には完全に枯渇して温暖化なんて止まりますよと(もちろん、二酸化炭素量の増大が温暖化の原因だと過程した場合ですよ)。でも実際にはその前に価格がとんでもなく高くなって、誰も使わなくなりますよ。
 こういう大量消費世界、化石燃料をやたらと燃焼させるブームは、科学技術、工業技術、そして市場経済が作り出しました。それが最終的には、やはり市場原理に従って価格が高騰してブームを終わらせるわけです。そういう意味では、まさに「神の見えざる手」が働いているとも言えましょう。
 ま、ここのところの原油高は、市場原理に従ったものではない、誰かがもうけているだけだ、いや政治的なものだ、とか言う人もいますが、実はそういう個人(企業・国家)の思惑やかけひきも、マクロに見ると市場の原理の一つであるわけでして、なんら矛盾はないんですよ。
 とかく私たちはミクロな物の見方をしがちなんです。今の生活、今の実感、自分が基準。隣の家のことどころか、家族の未来すら見えていない。あまりにも人類はアホなので、「神」が動き出しましたかね。さあ、我々はどうやって乗り越えていくんでしょうか。たぶん、なんとかなるでしょう。だって、普通に我慢したり工夫したりすればいいだけですから。そのうち、あの頃はよかったなあ、ではなくて、あの頃は狂ってたなあ、バブルだったなあって思う日が来ますよ。
 まあ、とにかくこの原油高は歓迎すべきものであります。我々が何かに気づくチャンスです。みんなで頑張りましょう。愚痴を言ってる人は負け組です。

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2007.11.07

プッツン

Ozawa07 「プッツン」と言えば某女優のことだと思っていたら、この人もプッツンだった。少々驚きました。
 プッツンとは「きれる」ということ。「きれる」は普通に「切れる」なのか、それとも「キレる」なのか。どちらなのでしょう。「切れる」は緊張の糸が切れて緩んでしまう感じですが、「キレる」はテンション上がりますからね。正反対と言えば正反対。では、この真一文字…というよりヘの字に結ばれた口は何を物語っているのでしょうか。
 今回の騒動とも関係しているようですけど、あの安倍首相の「プッツン」は「切れた」って感じでしたね。テンション下がってましたから。あの時、私は「ドタキャン、バックレ、登校拒否」と書きました。考えてみると、この三つの行動にも二つのパターンかありますね。「切れる」のと「キレる」の。私も両方やったことがあります。若い時は仕事でもあったな。教室に行きたくないのと、行かないの。どちらにしても生徒は先生が来なくて喜んでましたが(笑)。
 そう、いずれにしても、自分以外の人にはうまく真意が伝わらないんですよ。「もう切れました」と言っても、相手は同情してくれないどころか反省もしません。「もうオレはさすがにキレた!」と表明しても、やっぱり相手は反省しない。結局自分が恥をかく。謝るはめになる。
 そうすると今回の小沢さん、どっちだったんでしょう。なんだか謝ってたことはたしかですけど。
 いや、待てよ、冒頭に書いた女優さん(今、勢いで上祐さんって打っちゃった。彼もけっこうキレてましたね)、すなわち石原真理子さん(沢尻エリカではありません)の「プッツン」は「いっちゃってる」っていう意味か。わけわかんないってことですね。まあ「切れる」にしても「キレる」にしても、はたから見ると「何やってんだ?」ってことになるわけで、つまり「いっちゃってる」ってことになりますか。そうすると安倍さんも小沢さんもやっぱり「プッツン」の王道とも言えるか。
 私も何書いてるんだかわからなくなってきたぞ。
 というのも、今日は私自身も「きれた」んですよ。「切れた」し「キレた」。少しですけど。正直忙しすぎて、さらに思い通りにいかないことが多くて、それでコントロールを失ってしまった。そうです、「プッツン」というのは制御系の断絶の音なんですよね。だからいろんな症状があって当然だ。
 さて、少し冷静につなぎましょう。今回のプッツン騒動の裏舞台(裏部隊)にはあのナベツネとシンキロウがいたということですね。ロートルいまだ衰えずと言いたいところですが、結果は失敗ですから、結局醜悪な印象を残してしまった。もともとお二人とも美しくないのにね。さらに醜の上塗りをしてしまった感があります。
 さらに言えば某宗教団体とかも裏で暗躍してそうですね。たしかに昔から宗教屋と新聞屋がフィクサーになることが多かった。でも、今やネット社会ですから、なかなか大衆を操作しにくくなったんでしょうね。そういう黒子がすぐに目に付くようになってしまった。私たちも上手に芝居を楽しめなくなってしまったってことでしょうか。上手にだまされることができなくなった。
 今回の一件も芝居だと思えばけっこう楽しめるわけです。つまり何度も引退してそれを撤回しても許されるプロレス的世界だと思えばいいんですよ。この世は壮大な芝居小屋であり、自分もあの人たちもみんな役者か裏方なんです。そうすれば、もう何が起きても驚かない。意外なことこそ楽しめる。野暮なツッコミを入れて不快になるより、楽しんだ方がいいのです。
 と言うわけで、今日の私は「プッツン」キャラを演じました。私は自分で言うのもなんですが、かなり穏やかで安定している波のない人間なんですが、3年に1回くらいは「プッツン」しないと、周りも飽きちゃいますからね。
 このブログも毎日毎日まじめに(?)書いてるだけではつまんないですよね。たまにはこういうプッツン記事もいいでしょう…いや、いつもと変らないけど…っていう声が聞こえてきそうですね。単なる呑みすぎだったりして(笑)。では、寝ます。おやすみなさい。

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2007.11.01

『話題別英単語リンガメタリカ』 中澤幸夫 (増進会出版社)

Lm58873 あらら、いつのまにか絶版になってたんですね。残念。少々内容が古くなったとはいえ、これは手に入れておいた方がいいですよ。名著だと思います。
 最近、とにかく小論文の指導が忙しく、胃がキリキリしています。中には英語小論文までありまして、カミさんにも協力してもらってなんとかやってます。
 で、英語小論文を書くときにお世話になっているのが、この単語集とアルクのホームページの「英辞郎」です。
 リンガメタリカは、IT・エコ・福祉など現代的なテーマごとにまとめられた英単語集なんですが、なにしろ例文とその訳が素晴らしい。この一冊で、単語、英作文、和訳、そして社会についてかなり深く勉強できます。付録には各社会問題の背景の解説までついていて、これは本当に受験生のための参考書なのか?と不思議に思うほどです。教養書そのものなんですよ。
 私もこれを買ってからもう5,6年になりますが、もちろん全部読んだわけではありません。でも、たまにパッと開いたところを読んだり、眺めたりするだけでも面白い。日本語の小論文のネタ本としてもかなり有用です。
 先ほどもちょっと書きましたけど、とにかく和訳がいいんですよ。英語の参考書とか単語集とかって、なんだか日本語が変なものが多い。いかにも直訳調のものや、逆に必要以上に意訳しているものなど、いずれにせよ日本語が美しくないんですね。それが、このリンガメタリカの日本語は、とっても整っていて立派なんです。
 受験用の和訳の指導では、なかなかそこまでできないのが実情でしょう。そこまで要求されていないとも言えますが。そう考えると、英語と国語の連携というのは、もっとやってもいいのかもしれませんね。
 と、この本はそんな感じなので、逆に受験生には必要以上にマニアックに感じられるでしょうし、一般人の目にはとまらないんでしょうね、いつのまにか絶版になってしまったというわけです。私としては、5年に一度くらい改訂して、どんどん出してもらいたい。英語の教科書は読む気がしないし、英字新聞なんか自分で訳す気力もヒマもないし、こういうのがポンと手もとにあるといいなあ。英語つき日本の論点って感じで。
 英語小論文を書く時には、その表現や構成、単語はもちろん、内容までパクっちゃうわけですよ。つまり拝借する。小論文は、というより、人の教養や知識なんてものは、しょせん受け売りなんですから。ただ、それを自分の血や肉になるまで消化すること。そっちが大切です。
 リンガメタリカ、なぜか私はCDまで買ってるんです。例文の朗読(?)が収録されてまして、これもいい勉強になりますよ。論文の一部の朗読を聴くことが、私にとってなんの勉強になるのか、よく分かりませんけどね。
 それにしても、この「リンガメタリカ」というネーミング。これはすごいですね。基本ナンセンスなんだそうですが、なんとなくかっこいい。生徒たちは「リンガメ」と略して呼んでます。

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2007.10.25

最近の若者は…

↓この粘土板は本文とは関係ありません。
Amaruna_letters 「最近の若者は…すばらしい、偉い」と断言します。今日小論文の指導をしながら、ふと気づきました。こいつら偉いなって。
 「最近の若者はダメだ」「最近の若いもんはなっとらん」というようなことが3000年くらい前の粘土板に彫り込まれていたとかいうネタが、もうだいぶ前ですけどネットに流れてましたね。なんだか眉唾です。プラトンだか誰かが「最近の若者は…」と愚痴ったという話も同じくらい眉唾ものですが、まあ今の大人たちを見るかぎり、昔もそういうこと言う人はたくさんいたと想像されることはたしかです。いや、たぶんネアンデルタール人あたりもそんなこと言ったんじゃないかな。最近のクロマニョン人とやらは…まったくぅ、どんだけ〜(とは言わねえよ!)。
 そうすると、1万年以上にわたって我々は悪くなり続けたわけでして、ずいぶんと人類というのは悪いヤツになってるはずですよね。で、実際はですね、まあ多少問題はあるけれど、いちおう当時より豊かで平和になってますから、どうも人類史上大量に生産された「最近の若者は…」という言葉の信憑性というのは、十分疑われるに値することがわかります。つまり、歴代の大人たちは自分たちのことを棚に上げて、愚痴り続けてきたわけでして、それはそれでなんとなく共感できるような気もしますが。
 さて、今日私が珍しく自分のことを棚に上げず「最近の若者は偉い!」って思ったのはですね、ある重要なバカバカしいことに気づいたからです。
 小論文の指導をしてますとね、現代の様々な社会問題を扱うことになるんです。「年金問題」「環境問題」「地域格差」「グローバル化」「いじめ」「ニート」「ネット社会」「少子高齢化」「偽装・捏造」…で、それらの解決法なんかを高校生に書かせるというパターンが多い。まあ、ありそうな話ですよね。普通のことです。
 でも、ちょっと考えてみてください。これらの問題って、全部全部私たち大人が用意した問題ですよね。用意したというのは、問題を作った、問題を作ったというのは小論文の問題を作ったということではなくて、その社会問題自体を作ったってことです。私たち大人が自分たちの欲望の実現に躍起になった結果生じた問題ばかりです。
 自分の娘たちのことを考えてみても、実に話は単純です。彼女らに関わる心配事、たとえば交通事故、変質者、ゲーム、ケータイ、ネット、アレルギー、いじめ、学級崩壊…どれもこれも大人や親が自ら用意してしまった危険ばかりです。本当に子どもたちのことを思えば、たとえば車に乗らなければいいし、ケータイも廃止すればいい。化学物質は使わなければいい。家でちゃんと道徳を教えればいい。そういうことです。でも、それはできない。する気がない。だいいちそういう発想がない。自分たちで自分たちの最も大切にすべきものを危険にさらしている。
 で、こうやって大人な人類は自分たちの集団的罪を反省せず、つまり棚に上げて、恥ずかしいことに、理論的になんの罪もないはずの若者、すなわち自分の子どもたちに対してグチリ続けてきたわけです。
 なんで、こういうホントのことを誰も言わないのでしょうね(笑)。
 それでですねえ、話をもとに戻しますが、小論文の課題って、そう考えるとものすごく変ですよね。
 だって、大人たちが作り出してしまった問題を提示して、若者たちに解決策を考えろ!って言うんですから。おいおい、なんだよ、その責任転嫁は。責任転嫁じゃないな。責任放棄ののち、しりぬぐいお願い、って言ってようなもんじゃないですか。その問題の解決策はあなたが考えるべきでしょう!?
 まったくひでえ話です。もちろん自分も含めてね。私もふだんは自分のこと棚上げしっぱなしですが、たまには棚卸ししますよ。てか、皆さんもたまには棚卸ししましょうよ。
 これほど多くの、大人が用意した誘惑があるこの世の中で、ホントに若者はそれに流されることなく、あるいは振り回されることなく、よく頑張ってますよ。もし、我々の世代の若い頃、こんなに誘惑があったらどうなっていたでしょう。だいいち、あの頃、今よりひどい犯罪や非行ばっかりじゃなかったですか。今の方がずっと平和ですよ。親殺し、子殺し、少年の犯罪、暴走族、シンナー吸引、喫煙、スケバン(笑)…今よりずっと盛りだくさんでした。もし、今の世の中に彼ら(私たち)がいたら、もっと道をはずれてますよ、きっと。
 というわけで、今日はホント反省しちゃいました。だから、生徒に心から「今どきの若者は偉い!おもえらはホントに立派だ!」って言ってやりました。やつらは「また変なこと言ってる」って感じで大笑いしてました。私は珍しくまじめだったんですけどね(笑)。まあ、ホントほめてやりたいです。少なくとも私の高校時代よりずっと勉強してるし…。

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2007.10.11

『911の嘘をくずせ ルース・チェンジ』

LOOSE CHANGE 2ND EDITION
911 9.11はアメリカによる自作自演、捏造だった!
 …という内容の映像作品。ちまたでは密かに人気のようです。無料で誰でも観られるというのがミソ。しかも日本語吹き替え&字幕版で。
 このような実際に何千人もの人が亡くなった大惨事に対