カテゴリー「経済・政治・国際」の137件の記事

2010.01.27

『メイド・イン・ジャパンの命運』 (NHKスペシャル)

Slashgear_cellregza2540x405 本のメイドさんの話じゃありませんよ(笑)。そっちは順調です。
 「日本は何を作るべきか」「日本で何を作るべきか」…日本のお家芸であったはずの「モノづくり」の危機のお話です。
 ここでは日本のモノづくりの象徴「テレビ」が取り上げられていましたが、事情は自動車でもその他の家電でも全く同じです。
 デジタル化、ソフト化、コンピュータ化によって、我々が培ってきた、そして得意としてきた「職人技」が通用しなくなってきているということですね。
 そんな中、日本はどのように生き残っていかなくてはならないのか。東芝では100万円もするテレビの開発に奔走(迷走?)し、JVCではソフトの開発販売でなんとか窮地をしのごうとしていました。
 いやあ、本当に大変だと思います。私の仕事(学校教育)のように、いまだにアナクロにアナログな業界は全然幸せですよ。おそらく100年後もほとんど事情は変わっていないでしょうから。「人づくり」の現場ですから。
 「モノづくり」の現場の変化については、実は今日も実感しまして、生徒や先生方と呆れるやら、おかしいやら、思わず笑ってしまったことがありました。
 職員室のコピー機の調子が悪かったんです。というか、生徒が何か縮小やら両面印刷やら、いかにもデジタルな技を駆使してコピーをしていたら、どうも写像が右だか左だかにずれていて、字が入りきらなくはみ出てしまうと。
 で、だいたい機械やパソコンの不具合については、みんな私のところに来るんですね。なぜか、国語のセンセイが一番機械に強かったりする(…それこそ学校の変なところですな)。
 で、状況を聞くと先ほど述べたような感じだといいます。なるほど、いろいろなデジタル技術を駆使した結果、こうなったんだなと、私は判断しました。生徒もそう思ったから私のところに来たのでしょう。
 さあそれで、今までの経験を活かし、いろいろやってみたんですよ。最後の手段「再起動」はしませんでしたけど、考えられるいろいろな作業(操作だな)をしてみました。しかし、どうもうまく行かない。
 で、小一時間からかったけれどもダメでして、「こりゃあきらめるしかないな」と言った途端、私はあることに気づいたんです。「もしかして!?まさか…」。
 そしたら、まあ案の定というか、馬鹿馬鹿しいというか、情けないというか、やっぱりそうでした。
 単にトレイの中のコピー用紙がちゃんとピッタリ入っておらず、ある方向にずれていたのです!
 はあ?…でしょう(笑)。
 そう、これが昔のコピー機や、普通の印刷機だったら、一番最初に疑うべき点でしょう。それが人間的な、機械的な、アナログ的な発想です。発想以前の常識ですよね。
 それが、生徒も私も他の教員も、みんな「デジタル」的世界に冒されて、こんな子どもでも分かることが分からなくなってしまっていたんです。もう笑うしかないですよね。
 つまり、機械のブラックボックス化が進んでいて、我々は日常的に「ソフト的な問題だ」、「これはどうしようもない」、「たたいても治らない」と思ってしまう習慣がついているようです。
100124_b 正直私も情けなかった。私も少年時代はエンジニアを目指すような、いわゆる「モノづくり」人間でして、そういう目に見える機械的な構造やシステムをイメージするのに比較的長けていると思っていたものですから、こんな単純な、単純すぎることが分からなかったことに愕然とするというか、もう苦笑するしかなかったわけですよ。
 と、これは笑い話でありますが、業界ではとても笑えません。東芝の技術者、それも世界をリードしてきた「職人」たちが、もう真っ暗な画面の前でただ茫然とするしかない姿、ケータイでソフト屋さんにおうかがいをたてる姿は、もうなんというか、残酷というか悲哀というか、とにかく辛いものがありましたね。
 自動車なんかも、20年前までは、エンジンだろうがなんだろうが自分で修理調整しちゃってましたが、今は車屋さんでさえ、部品を注文してアッセンブルするのが仕事みたいになっちゃってます。
 はたして、これは「モノづくり」と言えるのでしょうか。コンピュータのソフトというのは、疑似的な脳です。脳は私の言い方ですと「コト」です。そして「コトづくり」の末、そのコトが暴走すると、それはいきなり「モノ(モノノケ)」になります。手が付けられない「他者」になってしまうのです。恐ろしいことだと思うのですが…。
 同僚が言っていました。これは第二のラッダイト運動が起きそうですねと。コンピュータ打ち壊し。
 いや、そうした方がいいのかもしれませんよ。自分たちの脳よりも優秀で一途で根性のある別の「脳」を作り出してしまったことが、私たちを滅亡に追いやるかもしれないからです。

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010.01.20

『YOUNG YAKUZA』 ジャン=ピエール・リモザン監督作品

1002_wide_docyu さに隠れた名作。日本では公開されませんし、DVDも発売されないでしょう。ですから、今のうち観ておいてください。
 北野武監督と蓮實重彦さんの対談作品などでも有名なフランスの映画監督ジャン=ピエール・リモザンによる2008年作品です。ウワサには聞いていましたが、これはたしかにいいですね。
 稲川会碑文谷一家熊谷組の「日常」を撮ったこの作品。ドキュメンタリーのようで、ドラマのよう、ノンフィクションのようでフィクョンのよう…実に異彩を放つ名作になりましたね。
 まさに虚実皮膜の間。まるでプロレスの世界観のようです。いや、結局、ちょっと前にも書きましたように、こういうヤクザ界やプロレス界、そして芸能界など、本来の「物語」世界はこういうものなのでしょう。
 2007年度カンヌ映画祭 ドキュメンタリー部門に出品されたこの作品。聞くところによると、この作品、熊谷正敏組長自ら撮影を提案したとか。たしかに、組長カッコよすぎます。絵になる男。目力、言葉力、そしてたたずまいが半端ではない。
 他の組員たちも、途中まるで役者さんのように見えてきます。それほど自然でありながら、しかし、ちゃんとストーリーが感じられる。
 かちんこも使って、ある程度のシナリオも組んで撮られたということですが、そのある意味美しすぎる各シーンが、まさに北野映画を思わせます。暴力の裏にある「優しさ」「愛」「切なさ」「悲哀」…やっぱり北野映画ですよね。
 一般の仁侠映画や北野作品のような暴力シーンは皆無です。静かに淡々と「日常」が綴られていく。「非日常」はお見せできませんということでしょうか。
 その結果、この作品における熊谷組長は、まさに「教育者」として映ります。いや、我々現代人が忘れてしまった大切な「モノ」を伝える伝道師のようでもあります。非常に正しいことを語り、そして「愛」に満ちている。たとえこれが多少のフィクションを含んでいるとしても、しかし、たしかに感動的であるのは事実です。
 カトリック信者である組長が教会の神父さんを訪ねるシーンや、三社祭を颯爽と闊歩する姿には、どこか宗教的な香りさえしてきます。
 ヤクザ世界の必要悪的な有用性については、今までも何度も語ってきました。私は単純なヤクザファンではありませんが、ヤクザ的世界の絶対的な必要性については認めています。
 我々庶民が悪をなさないための抑制力であり、外敵から日本を護る防波堤であり、また資本主義における理不尽な富の偏在を再分配する役割を担うことは否めないと思います。それを弱体化してしまった私たちが、どんな危険にさらされているか、誰しもが肌で感じているはずです。
 組長のみならず、いろいろな人の口から様々な名言を聞くことができます。ノンフィクションとしても面白い。フィクションとしても面白い。
 なるほど、「美の国は道徳の世界より広大である」か。

1

2

3

4

5

6

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010.01.13

稲盛和夫と出口王仁三郎

Biz1001132308048n1 盛和夫さんが日本航空の新しい最高経営責任者(CEO)になりましたね。はたして「日本の翼」は復活するのか。
 「経営の神」と言われる稲盛さんですが、彼の経営観には多分に本物の宗教色があります。
 私は、稲盛さんの考え方ややり方が好きですね。なぜなら、ワタクシ的には彼は「出口王仁三郎」の霊的世界を現界において体現していると思うからです。
 御本人はあまり意識されていないかもしれませんが、彼にはそうした霊脈が感じられます。私は最初、彼の「臨済宗妙心寺派円福寺にて得度」という経歴に注目しました。私も今、臨済宗系の学校で禅の勉強をさせてもらっているからです。しかし、のちある方からいろいろと示唆に富む情報をいただきまして、調べてみましたらたしかに王仁三郎の息吹を受け継いでいるように感じられるようになりました。
 稲盛さんは、昭和19年の末、12歳の時に結核の初期症状である肺湿潤に冒され、死の恐怖と闘っていました。その時、隣の奥さんが「読んでごらん」と言って渡してくれたのが、かの『生命の実相』でした。稲盛少年はこの本を読んで、自分の中で革命が起こるのを感じました。稲盛さんの現在の経営観、世界観は、ある意味この瞬間に出来上がったとも言えます。
 『生命の実相』は言うまでもなく、「生長の家」創立者谷口雅春の著書です。そして、谷口雅春(正春)は王仁三郎の霊界物語の筆記者の一人ですね。谷口にも、また現在の「生長の家」にも、王仁三郎の影響は実に色濃く表れています。
 昭和19年と言えば、王仁三郎が京都で、のちに「ようわん」と呼ばれる焼き物(楽焼)を祈りを込めて(ある意味狂ったように)焼いていた時期にあたりますね。
 そして昭和30年、不思議なことに、鹿児島で生まれ育った稲盛さんは、吸い寄せられるように京都に向かいます。碍子製造会社に就職するのです。そして、ニューセラミック(焼き物)の研究に携わり、のちに「京都セラミツク(京セラ)」を創業し、世界的な企業に成長させました。
 つまり、稲盛さんには、思想的(宗教的)にも、実業的にも、王仁三郎の魂が流れ込んでいるのです。
 「大本」の関係者の話によると、どうもこれは単なるこじつけではないようです。彼の著書などを読んでみると、宗派を超えた独特の宗教観、世界観を感じます。まさに出口王仁三郎(大本)の「万教同根」、谷口(生長の家)の「万教帰一」ですね。
 さて、そんな稲盛さんですが、今回CEOという仕事を通じて、きっと世界をつなぐ「日本の翼」の傷を癒してくれることでしょう。単なるお金の問題ではないのです。社員の幸福、利用者の幸福、日本の幸福、世界の幸福を見据えてのお仕事をしてくれることでしょう。
 昨日のプロレス界の話もそうなんですよね。「カミ」と「カネ」の関係。これはなかなか難しいのです。「神」が「金」をコントロールできているうちはいいのです。
 稲盛さんはもちろん、松下幸之助さんや船井幸雄さんなんかもそうですね。みんな宗教的な勉強をちゃんとしている。「カネ」という悪神の働きもよく分かっているのでしょう。
Ai そう考えると、王仁三郎の「金神」観というのも面白く感じられますね。もともと最強の祟り神である「艮の金神」を善神に転換する発想は、そのまま、貨幣経済、市場経済における「金」という「神」の両面性とその可能性を示唆しています。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、現在は「モノ」より「コト」、つまり、目に見えない不随意な「モノ」よりも、目に見える随意な「コト」に偏りすぎているんですよね。いつも書いているように、見えない価値を見える数値に換える「カネ」は、「コト」の権化みたいなものです。それが威張りすぎているのが現代というわけですね。人間の脳内のフィクションが調子に乗っているというか。
 そんなわけで、私はこれからの教育には、ある程度宗教的なものが必要だと考えています。もちろん、私は特定の宗派に属しているわけでもなく、まさに「万教同根」を信じて、「万教帰一」を目指し、いや、王仁三郎の理想、「宗教のない世界」の実現を夢見ている者ですから、変に偏った宗教教育をしようだなんて考えていませんよ。ただ、やっぱり若いうちに、そういう「目に見えない」「教科書に載っていない」世界があるということをしっかり「体感」させてあげたいとは思います。
 これからは「コト」より「モノ」の時代です。もちろん、ここで言う「モノ」は「物質」とか「商品」とかいう意味ではありませんよ。世間では、これからは「物質文明」ではなく「精神文明」の時代だという意味で、「モノ」より「コト」と言われていますが、私はあえてワタクシ的観点から「コト」より「モノ」と宣言させてもらいます。平たく言うと、「カネ」より「カミ」、「自己」より「他者」ということでしょうかね。
 結局は双方のバランスの問題、主従の問題なのでしょう。王仁三郎の言う「霊主体従」ですね。
 とにかく、その辺りをよく理解しておられる稲盛和夫さんの手腕に期待いたしましょう。

稲盛和夫公式

Amazon 生き方―人間として一番大切なこと

不二草紙に戻る

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009.12.21

『CSR入門−「企業の社会的責任」とは何か』 岡本享二 (日本経済新聞社)

20091222_93505 かなか、分かりやすい、いい入門書でした。
 今日は特にこの本の内容には直接触れず、私なりの「労働倫理」について語りたいと思います。あしからず。
 「CSR…Corporate Social Responsibility」…学校なんぞに勤めていると、こういう最先端の知識に疎くなります。しかし一方で、この最先端はまた実に根源的な問題でもあります。いかに生きるか。いかに利他的になるのか。いかにエゴを捨てるか。
 学校なんぞに勤めているおかげで、そういう根源的なことをじっくり考えて、そしてじっくり生徒に伝えられるとも言えますね。「CSR」なんていうカッコイイ名称は知らずとも問題ないのかもしれません。
 ある意味学校は市場の外にあるのですね。私学と言えども、完全に市場経済に乗っかっているとは言えない。いや、公立と違って、そこに少し足をかけているからこそ、世の中の最先端と人間の根源的なところをバランス良く見ることができるのかもしれません。
 もし私が一般企業に勤めていたら、こんな悠長なことを考えているヒマはないでしょう。企業たるもの、まずは株主に最大の経済的恩恵をもたらさねばなりません。そのためにはある意味手段を選んでいるわけにはいきません。というか、それ以前に、消費者のニーズに応えるという目的を唱えなければならないかもしれませんし、いやいや、それより以前に、まず我が会社の存続、あるいは今いる従業員たちの生活の保障を第一義に考えねばならないかもしれません。
 そうした、いろいろな大義名分の段階というか、レベルというものが、我々の「労働倫理」を複雜なものにしています。「労働倫理」なんていう言葉はありませんよ。私が勝手に考えたものです。しかし、今、私の頭の中ではこの「労働倫理」が大きなテーマになっているんです。教育や宗教も絡んで。あとで少し説明しましょう。
 我々の「労働倫理」の集合が「企業倫理」です。いや、現状では「企業倫理」が先にあって、そこから演繹されたのが各自の「労働倫理」でしょうかね。そのベクトルの方向からして、どうも間違っているような気がするんですが…。
 「企業倫理」と言うと、コンプライアンス(法令遵守)が思い浮かびますが、実際はもっともっと広く深いものです。コンプライアンスなんていうのはほんの表層ですし、ある意味誰でもできることです。その気があれば。
 現状の資本主義市場経済においては、我々の労働のほとんどが「利己に対する利他」になっています。えっ?どういうこと?…そうですね、分かりやすく言うと、「自分の利益や快楽のことばかり考えている消費者のために、我々は物やサービスを生み出して与えている」ということです。
 腹が減った人に食べ物を与える。それもよりおいしいものを望むから、よりおいしいものを与える。歩くのが面倒な人に自動車を与える。より快適でカッコイイ車を与える。単純に言えばそんな感じです。
 すなわち、我々の本来「利他的」であるはずの「労働」が、消費者(購買者)の「利己」を助長しているのです。そして、「利己」は結果として「利他」と両立せず、主に自らが所属するグループ以外にその悪影響を及ぼすことになります。一番簡単に言えば、人間以外に害を及ぼす。すなわち環境破壊(自然破壊・資源の濫費)を生みます。
 そんなこと誰でも(子どもでも)分かることだと思いますが、しかし、現実には賢いはずの大人たちも、みんなその道を突っ走ってしまっている。そんな矛盾こそが、この経済システムの大きな欠陥です。つまり、このシステムは、我々の倫理の感覚を鈍らせてしまうのですね。あるいは麻痺させるために作られたシステムとも言える。その点では、たしかによく出来ていますね。
 つまり、もう一度まとめますと、消費者の利己心のための、我々の過剰な労働が世界を破滅させる、すなわち自分たちの首を絞める結果を招いているにもかかわらず、我々は反省をしなくなっているということなんですよ。
 もちろん、そこに、労働者各自の「利益を得る」という「利己心」も重なってきますから、我々はなかなかこの無限ループからは抜け出られません。これでは実際のところ、「CSR」も「企業倫理」もクソもありませんね。単なるお題目、あるいは「エコ」という言葉と同様に、偽善的な「利己心隠蔽の手段」ともなりかねません。
 さあ、そんなところで私が考えたのが「労働倫理」という言葉です。
 今、もし我々各自が自らの「労働倫理」を唱えるとすると、「お客様のため」とか「会社のため」とか「社会のため」とか、そういう次元での物言いになることでしょう。そこに「やりがい」を見つけるというような。私はそんなレベルのことを言っているのではありません。
 たとえば、先ほどのように、おいしい物を望まれるだけ提供すれば、結果として消費者の健康を害する可能性が高い。メタボになったり。また、車を売れば売るほど、どう考えても環境を破壊します。あるいはゲームソフトを開発して売りまくれば、もしかすると青少年の心身の健康を害するかもしれない。
 そういう根源的なところを原点として、「労働倫理」を考えたいのです。
 そうすると、もちろん、資本主義やら市場経済やら金融経済なんていうのも成立しなくなります。そう、成立しなくなっていいのです。おそらくそれらは間違っているのですから。それら自体が「粗悪品」であり、いやそれ以上にたちの悪い「麻薬」であることを、我々は「労働倫理」に基づいて気づかねばならないと考えるのです。
 なんて、こんなこと、誰もが分かっているけど、しかし現実にやめられないんだからしかたない、みんながやっている内はそれに従うしかない、そう言うのも分かります。そして、今書いたような単純な構造にはまらない労働の種類(職業・仕事)もあるのも分かります。
 しかし、どこかで誰かが「そろそろいい大人がこんなことをやり続けるのはやめよう」と言うとか、「こんなことで人生を無駄に費やすのは馬鹿らしい」と言うとかしないと、それこそ自分も会社も社会も人間も地球も、どうにも立ち行かなくなってしまうような気がするのです。
 じゃあどうすればいいか。私は、経済のあり方も含めて、やはり根源的な倫理を語るには、「仏教」の考え方を理解しなければならないと考えています。それについても、いつかちゃんと語りましょう。
 こんなことを書いていると、「そんなことよりちゃんと今の仕事をしろ!」とか「ちゃんと給料運んでこい!」とか「生き残れないぞ!」とか、そんな言葉が聞こえてきそうですね(笑)。
 そう、今の仕事たる「教育」の目的を考えた時、また悩むんですよ。特に今のように進学クラスを持っていると。勉強していい大学入っていい会社入ってカネ稼げ!って、言いはしないけれども、しかし、結果としてそう促しているとも言えるので…辛いところです。
 新しい中学では、この辺をどう教えていこうか…ワタクシ流に染まっちゃうと、出家するしかなくなっちゃうし(笑)。ニートやひきこもりを養成するわけにも行かず。難しいですね。結局、企業と同じ所で悩むということか。悩んでいるだけいいのかも。少なくとも、そういうことに悩める青少年を育てていきましょうか。

Amazon CSR入門

不二草紙に戻る

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009.11.28

『世界カワイイ革命』 櫻井孝昌 (PHP新書)

なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか
56977535_2 このところ、BUMP OF CHICKENやレミオロメンを通じて、日本のロックについて、いや非西洋的音楽について熱く語ってしまいました。これにはいろいろと理由がありまして、実は今日のこの本の内容とも重なってくるんですよね。
 どうも戦後教育にどっぷり浸かっていたせいか、自分もどこか西洋礼賛的な発想をしていたことに、案外最近になって気づき始めたのです。遅いよ!と言われてもしかたありませんね。
 でも、やっぱり日本人って自分たちの文化を卑下しすぎだと思いますよ。それってなんなんでしょうね。そういう性質の民族なんでしょうか。それとも、やはり教育のせいなんでしょうか。自虐史観とかよく言いますけれど、実はそれ以前に自虐文化観というのもあるような気がするんですよね。
 まあ、ワタクシ流に簡単に言ってしまえば、近代以降の日本では「モノ」より「コト」の方が優れていると思われてきたということです。
 感覚より論理、混沌より整然、多神教より一神教…。
 日本で素直に流行るモノは、全て「サブカルチャー」としてくくられ、どこか低俗で恥ずかしいものだとされてしまう。
 ここ10年くらいでしょうかね、そういう常識に、私も何かものすごい違和感を抱くようになったのは。ちょっと待てよと。じゃあなんで「本場」ヨーロッパでこんなにもてはやされてるんだ?と。
 この本で取り上げられている女の子のファッション、いわゆる「東京リアル・クローズ」もそうです。それ以前に、マンガやアニメ。もっともっと以前に「浮世絵」。 
 「浮世絵」などの江戸文化については、どこかにも書きましたね。とにかく、江戸の庶民の文化、今風に言えばそれこそサブカルチャーになるんですけど、それが、たとえばヨーロッパに渡って、あの印象派を、そしてその後の様々なアートシーンを用意したというのは、これはまあ常識です。
 考えてみれば、ダ・ヴィンチ以来の「写実」を根底から覆したわけですから、それはもう本当に世界にとっての革命的契機なわけです。そういう事実も、いちおう逆輸入により今では日本でも学問的に評価されていますが、実はもっともっと我々が誇りに思っていいことなのではないかと思いますよ。
 ご存知のように、リアル・クローズはとにかく自由です。パリコレ的なモードや作られた流行としてのファッションはそこにありません。着たい服を着たいように着こなすのがその唯一のルールと言っていいかもしれない。
 もちろん、値段やブランドなんていうコトにはこだわりません。いかにチープな素材をデフォルメしアレンジするか。そう、まさに「リ・クリエイション」がそこにあるわけです。価値の創造の喜び。
 その結果は、西洋的基準からすれば、単なるカオスです。まるで、新宿や秋葉原の混沌とした電飾広告群のようです。そこには、「景観」はありません。しかし、その多様な全体が醸すエネルギーたるや、誰もが圧倒される。
 それこそが、私の言う「コト」化されていない「モノ」の生命力なのです。「コト」は、言葉です。つまり言語。全ての人間の枠組みは「言語化」によって構成されます。法律なんかは一番わかりやすい例ですね。
 それによって、いわゆる「近代社会」が成り立っているというのは、よくわかります。しかし、その枠組みゆえの限界点というのも見えているのが実情ではないでしょうか。
 それをぶち壊していく、つまり、言語(結局は固定化した思考ということですが)を超えた、想像力、そして創造力のエネルギーに期待したいのです。私たちは、いや「私は」なのかな、そろそろ、言葉という人間の開発した道具に飽きてきているのかもしれません。
 いずれにせよ、著者の言うように、もっと我々はそうした混沌とした、多様な、そして自由な「日本文化」、あるいは「日本精神」というものを、積極的に海外にアピールし、あるいは売り込んでもいいと思います。
 最近、ある国際教養系のAO入試を受けた生徒と一緒に、「禅」と「日本文化」と「言語」について勉強しました。なかなか面白い結論が出たのですが、それを武器に闘っての結果はどうだったか。もし、合格したら、ちょっとその辺についても書こうと思っています。
 教外別伝、不立文字…「言語化」しにくいモノ、あるいは「論理」を超えたモノを、結局「言語」というコトでアピールし、売り込まなければならない矛盾…それが、昔は苦痛でしたし、ある種の諦めを生む原因になっていたのですが、どうも最近はそこが面白くなってきたようです。私もちょっとはステージが上がっているんでしょうか。

Amazon 世界カワイイ革命

楽天ブックス 世界カワイイ革命

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.11.22

ホッキョクグマ「ロッシー」は可哀想?

Peace60 い夫婦の日。私は久々に家族みんなで静岡の実家へ。ウチの夫婦や私の父母が「いい夫婦」か、実に微妙でありますが、96歳になる祖母を施設に見舞いに行った時は、さすがに祖父母はなんだかんだ言って「いい夫婦」であったと思いました。祖父は93で亡くなりましたが、本当に大往生。祖母も施設のベッドの上にいるとはいえ、体に痛いところなど一つもなく、久々の孫との会話にもユーモアを忘れず、元気と言えば元気。結局、こうしてお互い健康に長生きして、ケンカしながらでも、とにかく長く連れ添うのが一番「いい夫婦」ですね。
 さて、今日は「いい夫婦」とは全然関係ない話。
 夜は母と嫁の合作料理をいただきながら、父が用意してくれていたおいしい日本酒をいただきました。テレビでニュースを見ながらの食事だったのですが、例によって最後は私と父の大げんかで終わりました(笑)。どうも思想的に敵対するんだよなあ…父子ってそういうものなんでしょうね。ある意味ライバル。
 …って、その話がメインではありません。ホッキョクグマの話です。
 静岡のローカル局でこんなニュースが流れました。
ロッシー誕生日に温暖化考える 静岡・日本平動物園で22日フェスタ
 ロッシーというのは、昨年日本平動物園にやってきた人気者、子どものホッキョクグマ(しろくま)です。
 ニュースでは、来園者の子どもがインタビューを受け、「温暖化でホッキョクグマの住むところがなくなってしまうので、温暖化はいけないことだと思います」とか、なんとも言わされた感のあるコメントをしておりました。いや、彼は彼で純粋にそう思って言っているのですから、それはそれでいいのです。
 しかし、そういう言葉の出てくる背景にある、教育現場での指導やら、こういうメディアでの物言いというのには、ちょっとこわいものがありますね。
 もちろん、ホッキョクグマにとっては、温暖化は多少の問題はあります。長期的に見てある程度の移動をしなければならないからです。
 でも、そんな程度の気候変動は地球の歴史の中ではごく普通のことで、そのたびに我々はいろいろな所へ移動して生き延びてきたのです。そちらの話もしなければ。
 それから、これはいつも言っていることですが、ちょっと考えれば分かる通り、気温が上がって二酸化炭素濃度が上がるということは、ほとんど全ての植物にとって望ましいことです。光合成の勉強をした時、そういうふうに教わっているはずです。晴天時など充分な光がある条件下では、現在の地球上の二酸化炭素濃度は低すぎるくらいです。温度についても同じようなことが言えます。
 植物が元気なら動物も元気になります。食べ物が増えますからね。草食動物が増えれば肉食動物も助かります。
 ですから、温暖化すると困るというのは、人間にとって「困る」ということなのです。人間は国家という檻の中にいますので、簡単に移動もできませんし。
 もちろん、これもまた一面的なものの見方であって、極端な論であるわけですが、しかし、そういう視点も持たねばならないと思います。そういういろいろな視点を提供して、クリティカルでロジカルな思考を促すのが、教育や報道の本来の仕事だと思うのですが。
B47 そんな人間の愚かさをまだ2歳にならないシロクマのロッシーは憂えているのでしょうか。この前、遊具のブイを放り投げて、お客さんの頭に直撃させてしまったそうです。怪我をされた方には同情申し上げますが、これによって大好きな遊び道具であるブイを撤去されてしまったロッシーは、ある意味もっと可哀想なような気がしませんか。
 さらに、今日の「温暖化」の話ですけれど、考えてみると、ホッキョクグマの棲み処が暑くなるとかいう問題ではなく、ずっと昔から「温暖」で、さらに「温暖化」している日本の中の「南国」静岡に、こうして親から引き離されて連れてこられたロッシーって、それこそ「温暖化」以前にとっても可哀想だと思いませんか?ww
 …と、こういうことを言いましたら、また親父とケンカになりました。彼は、徹底した温暖化反対論者なのであります。彼は、人間の、欲望に任せた経済活動に異議を唱えているんです。それもわかります。日本の金融の中枢に長く勤めた父親の、せめてもの償いなのでしょう。
 というわけで、親子でもこれだけ意見がぶつかるんですから、世界中からいろんなケンカが絶えないのは、これはしかたありませんな。みんなわがままですこと。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.11.12

「天皇陛下御即位から二十年」記念DVD

20091113_85652 主党小沢幹事長の「キリスト教やイスラム教は排他的」発言が物議を醸しております。一神教は当然そういう性質を持つものであり、いちおう宗教に興味を持ち、日常的に禅に接し、また「排他的」の対照位置にあるとも言える出口王仁三郎を研究している者としては、この発言はある意味では間違っていないと思います。
 ただ、こういう問題は、それらの教義自体、実際の信仰上の心情、そして政治的な活動など、ちょっと考えただけでもいろいろな側面があるわけで、そういう多面的な問題を、ああいう場で簡単に一言で断言してしまうのは、それはたしかにまずかった。空気読めないにもほどがあります。さすが目の前の利権にすり寄る小沢教の教組であります(笑)。
 こちらのDVDも同じような問題をはらんでいるんですよね。皆さんのお宅のお子さんが通う学校では、今日このDVDは披露されたのでしょうか。どうなんでしょう。
 まあ、民主党政権になり、日教組の天下になった今の世で、公立学校においてこのDVDが上映されたところはほとんどなかったと予想されます。それ以前に記念式典などをやったところはあるのでしょうか。特に輿石東のお膝元であるここ山梨では、そんな気配すらないようですが(笑)。
 ニュースによれば、奈良市の教育委員会が実施上映状況を調査したということでして、これまた物議の対象になりそうです。これなんか特殊な例なのではないでしょうか。
 ということは、この数千万円かけて作られ、全国の学校に配布されたDVDはほとんど日の目を見ず、そしてどこかに葬られてしまったということでしょうかね。
 ウチの学校は、1校時に記念式典と称して全校生徒を体育館に集め、このDVDを放映しました。そして、午前中で授業は打ち切り、生徒も職員も思わぬ半ドンにちょっとラッキーという感じでした。
 もちろん、ウチの学校が特別にそちら寄りということではありません。DVDを観賞した生徒たちも、興味深々の者もいれば、寝ていた者もいるし(たぶん)、いろいろとツッコミを入れているのもいたし、半分冗談ぽくですが異議を唱える者もいました。つまり、学校としては「排他的」「一神教的」でなく、非常にフラットな雰囲気であったということです。先生たちも同様。
 私はというと、正直感動してしまいました。私は自分のことをソフトな右派のように言うことが多いのですが、最近は単純にそうとも言えない状況、心情になっておりまして、どんな気持ちになるか自分でも楽しみだったのです。そうしたら、いろいろと心の中でツッコミを入れつつも、ちょっとジーンとしてしまった。
20091113_85728_2 いや、思想的なこととか、近未来ならぬ近過去の歴史とかではなくてですね、やっぱり同じ王室がとだえることなく2600年以上続いている(それ自体物語ではあっても)ということはとんでもないことだなあと純粋に思ったのです。世界にそんな国はありません。王家の交代こそが世界史であり、そこに付随する戦争こそが世界史であると言ってもいいのですから。
 ですから、本当に単純に「日本国の象徴及び日本国民統合の象徴」だよなあと。いろいろな意味で平和な歴史の象徴であって、それはそれで実にありがたいことだと思ったのです。
 こういうことを学校のセンセイが言うと、すぐに噛みつかれるのは承知の上です。でも、そういう方々とは、正直思考の空間や時間がちょっと違うんですよね。私は「排他的」でも「一神教的」でもありませんから、そういう方々の言い分も痛いほどよく解ります。私も立地点がそこなら、そう言います。しかし、それこそいろいろな立地点があるわけで、今日の私は先ほど述べたようなところに立って目の前に広がる風景を眺めたわけです。ただそれだけのことです。
 それにしても、このDVD、最初からヘンデルの水上の音楽が流れたりして、いきなり英国王室なのには笑いました。さすが懐が広く深い(笑)。ちなみに次はヴィヴァルディでした。
 それから、このDVDが制作された時期や事情からしてですね、当然登場人物に哀愁が漂っていました。特に麻生前総理のあの「礼」のしかたはどうでしょう(笑)。福田さんもなんか泣きそうだったし。
 このDVDの内容にも、また、天皇陛下即位20年の記念式典での天皇の発言にも、「平和」「家族」という大きなテーマがあったと思います。そうしたイメージの天皇制が構築されるあたって、キリスト教の影響が非常に大きかったということも忘れてはなりませんね。世の中は、そう簡単に二分できません。「排他的」なんていう言葉も本来ありえません。
 なぜなら、お釈迦様が言う通り、「自己」=「他者」であるからです。

不二草紙に戻る

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009.10.29

厭銭(えんせん)

↓猫に小判ならぬ猫に紙幣
Kanenohuro 日10年ぶりに「VALE TUDO JAPAN」が復活しますね。それに合わせて古い大会を見ていたら、エンセン井上選手がいい闘いぶりを見せていました。なんだか当時の総合って今より面白いですね。競技としての進化が必ずしも興行的な面白さにつながらないのだと再確認しました。
 さてさて、今日は格闘技の話ではありません。昨日の続きでして「カネ」、それも少ないお金に関するお話です。
 井上選手の「エンセン」ってどういう意味なんだろうと考えていたら、そっちに頭が切り替わってしまいました(笑)。
 そう、最近「厭銭」という言葉が一部ではやっているんですね。「えんせん」と入力しても変換されない新語です。たしか6月頃に、朝日新聞のコラムで紹介されたのだと思います。
 昨日の「貧困論」では、お金がほしくてもなかなか手に入らない話をしましたが、こちらはもともとお金に執着がないどころか、お金を嫌うという感覚のお話です。
 実は私もさんざんカネを悪神と説いて、「厭銭」的発言を繰り返してきました。しかし、最近若者の中ではやりつつある(?)「厭銭」は、少し違った感覚のよう…いや、一緒なのかなあ、根本的には。
 亀井肇さんの新語探検によると以下のように説明されています。

『朝日新聞』が夕刊のコラムで紹介したことばで、若者たちの間に何となく漂っている「お金は何となく汚い」「銭勘定にこだわりたくない」という気持ち。最近の若者たちは金銭に対してきわめて淡白で、残業を続けるなどあくせく働いて金銭を稼ぐ必要がどこにあるのかと思い始めているという。若者たちは上の世代を見て、「金儲けを目指すと、世の中に叩かれる」「企業は金がらみの不祥事ばかり起こす。出世しても、世間に頭を下げるのが仕事ではしょうがない」といった考え方をもつようになってきており、自動車や高級ブランドの服やバッグなども必要としなくなっている。当面、生活できるだけのお金さえあれば十分で、それ以上のお金を無理して稼ぐ必要はないと考えているのである。

 うむ、これはある意味「清貧」につながるのかもしれませんね。なんとなくスタート地点は違うような気もしますが、結果としては私の「嫌金」思想と近いものがあります。
 これはある意味では、悪神のしもべになる不快感の発露でありましょうし、「カネカネ教」に飽きてきた結果とも言えます。
 もともと、貨幣というのは、物々交換の媒体として発明されたと思われます。「貝」とか「石」とか「金属」とか。それはそれで、現在において物と等価(もちろん労働価値説を勘案するともっと事態は複雜ですけど)であって、全く神がかっていなかったのですね。そこまではまあ良かった。
 しかし、貨幣の自由度と不変性により、それが違った機能を持つようになってからというもの、ずいぶんと人間とカネの関係は狂ってきました。
 まさに「神」がかってきたのです。つまり、「現在」ではなく「未来」への期待…それは裏返して言えば不確実性でしかないのですが…を担う存在になってしまったのですね。金融や投資という新しい世界が生まれてしまったのです。
 ある意味宗教も投資もギャンブルです。どちらも未来に不幸を期待して臨むものではありませんね。あくまで幸福のために現在の価値を犠牲にします。投資以前の金融にしても、基本は一緒です。私たちはなにがしかの利息を期待して預貯金をします。その先に金融があるわけですからね。
 そういった意味で、マネー神は我々の期待を裏切ることが判明してきた。利息も微々たるものですし、神様自体が廃業してしまうことさえある。そして、投資に至ってはあまりにステージが高すぎる。幸福を得る可能性があるステージに立つだけのためにも、相当の自己資金を用意しなくてはなりません。金融市場が一部金持ちの為になってしまっていて、我々庶民はカヤの外になってしまっている。
 基本貧乏な若者がお金を厭う気持ちもわかります。カネカネ教はこうして、庶民に飽きられてきたわけです。
 純然たる宗教も、カネカネ教も、結局は貨幣市場に乗っかっているわけですから、どちらも企業であるとも言えます。特にカネカネ教は企業としての経営にも失敗しつつあります。調子に乗りすぎて消費者離れが進んでいる。
 つまり、カネカネ教は自らの手で自らの首をしめているわけです。貨幣の総量は無限大でないことは、子どもでもわかります。そんな中で、手品のように価値(幸福)を生み続けることなんかできっこない。ですからカネカネ教は、自らの幸福は他者の不幸の上に成り立っているという罪悪感、虚無感すら生みます。そういう化けの皮がはがれはじめた。一部上層部の非人道的な搾取を、我々大衆が不快感を抱き始めている。
 ということで、これは宗教改革ならぬ金融改革、あるいはそれ以前に経済改革を起こさねばなりませんね。旧教に対する新教のように、現状に対抗する新市場ってできないものでしょうか。
 新政権になっても、結局国力=経済力という感じで、もううんざりです。それに、もともとカネがないのにただただばらまくというのもどうかと思いますし。
 「厭銭」、もしかすると、この若者に蔓延しつつある思想(いや、気分か)というものは、案外健全で美しいものなのかもしれません。未来につながる希望だったりするのかも。
 ま、少なくとも私たちは、嫌わなくとも、冒頭の猫さまのようにカネに対して超然としていたいものです。それは本来の宗教に対する健全な態度でもあったりするのでした。
 ん?上の御猫様、よく見るとけっこう憮然としてますな(笑)。

不二草紙に戻る

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009.10.28

『現代の貧困−ワーキングプア/ホームレス/生活保護』 岩田正美 (ちくま新書)

48006362 差論から貧困論へ。たしかに最近そういう傾向がありますね。
 日本の貧困率はたしかに高い。先日も15%を超えるという発表があったばかりです。これは先進国の中では米国に次いで第2位の高さとなるそうです。
 日本ってそんなに貧しい国だっけ?というのが、多くの人の感想ではないでしょうか。そういうふうに他人事のように感じてしまうのが、この「貧困」の問題点です。
 もちろん、私もそうしたその他大衆の一人でありまして、本当に他者の貧困を実感できているのかというと、やはりそうではありません。比較的安定した収入のある仕事をしているからですね。
 一方で、仕事柄そういう相談を受けることも多くあります。たとえば学費が払えないであるとか、進学させたいがお金がないとか、リストラされてしまっただとか。
 それでも、理解はできるが実感はできないというのが実情ではないでしょうか。ある意味同情はできますし、様々な制度の利用などをすすめることはできますが、私自身が何かを施すとか、そういうことはできません。
 この本にも書かれていたとおり、「貧困」には絶対的な基準と相対的な基準とがあります。上記の貧困率は相対的なものです。簡単に言えば全国民の平均収入の半分以下の収入しかない人の割合です。ですから、国が豊かであればあるほど貧困率が高まる可能性もありますし、その貧困の実態が世界的絶対的な見地から言うと、ちっとも貧困ではないという事態も考えられます。
 しかし、その社会にとっての「貧困」とはまさに相対的な性質だから厄介なのです。つまり、社会の成員としての「貧困心」というのは、常に相対的に醸成されるものなのです。
 私自身そういう体験があります。私はずっと今の職場にいて、安定的な給金をいただいているわけですが、バブルの頃はずいぶん周囲をうらやましく思ったものです。真剣に転職を考えました。相対的に収入が低かったからです。独身だっので絶対的には今よりお金持ちでしたが(笑)。今は全く逆の実感があります。
 単純にそういうものなのです。そして、こういうことは実は金銭的なことに限りません。様々な範疇、場面において、我々は相対的な幸福感や不幸感を抱いて生きているわけですね。さらにそれをシェアする術を知らない。だから、格差も生まれる。
 いや、本来的にシェアしたり、施したりできないこともありますよね。たとえば、容貌とか。私もぜひ誰かに施してもらいたいような容貌ですが、現実的にそれは無理というものです。つまり生来の不可避な運命的格差というのはいくらでもあるわけです。
 そこのところが、格差や貧困をなくすことを理想とした社会主義や共産主義の決定的な不可能性であったと、私は思っています。
 では、どうすればいいのか。現実的な日本社会での施策については、この本にも書かれていますし、民主党政権も多少は考えてくれています。しかし、それは前述の意味において、ぜったいに完全には解決しない問題です。
 ですから、経済(カネ)については、第3のシステムを模索しなきゃならないんですよ。そのヒントが、たとえばシューマッハの仏教経済学などにあると思っています。そして、その他の分野については、やはり、昨日の話ではありませんが、自己を滅却して他者と不二になっていくしかない、すなわちお釈迦様のお悟りに達するしかないわけですよね。
 これまたとんでもなく難しいことです。
 いずれにしても、この豊かな国で貧困があるということは、資本主義市場経済のシステム上、どこかに富裕もあるということです。その平均化というのは、いつも言うように、自民党的、あるいはヤクザ的必要悪をもって実現するしかないのが実情です。悪をもって悪を制す。
 最近、知り合いの若い女性からこんな話を聞きました。彼女なんだかいつのまにか貧乏になってしまって、財布に10円しかなくなってしまったそうで、やむにやまれず、お水な商売を始めたと。そうしたら二日目にいきなりお金持ちのお客さんから、いわゆる身うけ、持ちうけの話があって、いきなり大富豪のセレブになってしまったと(笑)。あるところには、やっぱりあるんだなと思いました。
 反面、最近ワイドショーをにぎわしている、ああいう事件やああいう事件を思うと、それもまた危ない橋のような気もするしなあ。なんだか、世の中難しいですねえ。

Amazon 現代の貧困

楽天ブックス 現代の貧困

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.27

『日本を貶めた10人の売国政治家』 小林よしのり編 (幻冬舎新書)

34498130 は憂いの季節。いろんな意味で病んでいる人がたくさんいますねえ。なんというか、覚悟ができていないのに自分と向き合わなければならない、そういうタイミングなのでしょう、秋は。
 基本自分にこだわりを持っていないワタクシには、そのような憂いはございません。ウチのカミさんもそうらしく、この季節、我が家は駆け込み寺のような、あるいは教会のような、無料生活相談所のような、そんな様相になります。
 この本で語られる「国家論」や「政治論」や「人間論」も、ワタクシからしますと、まったく同じ次元の憂いに思えますね。みな、「自分」に思いっきり縛られ、その結果とってもさみしがり屋なことになっている。
 この激熱(ゲキアツ)な本は、そういう意味でとても面白かった。みな、壮大な論を唱えているように見えて、実はとっても「パーソナル」な次元にいる。まあ、それは一種のフラクタル構造であって、別になんの不思議もないのですが、しかし、言葉という「フィクション」を通してその真理を見せられると、なんとも人間の所業の空しさというか、ちっぽけな所でちょこまかしてるなと、そんな風にさえ思えるのでした。
 こんなことを書くと、それこそ「売国の徒」だと指弾されそうですね。くわばらくわばら。
 しかし、相変わらずアマノジャクであるワタクシからしますと、「売国」というその言葉自体が、とってもパーソナルな感覚に則っているものに思われます。
 すなわち、日銭を稼ぐために自らを売っていいのか、「売春」は是か非か、というような次元に感じるのです。それも社会的な次元ではなく、自分自身の生理的感覚に依拠している。だから、激熱になるし、ヤクザ言葉になるし、仲間とは徒党を組むし、開き直るんですね。
 昔は逆の立場の人たちがそうでした。左翼活動家のノリです。今は右、いやいや「保守」だな、保守がこうしてブームになり、商売になる時代になったのですね。感慨深いものがあります。
 自分という一点に立ってモノゴトを見ますと、表と裏しかなくなる。見える部分と、見えない部分しかありません。ワタクシの「モノ・コト論」で申しますと、まさに「モノ(自己の外部)」と「コト(自己の内部」というデジタル的に世界を二分することになります。
 それが「憂い」の元凶なんですよね。自分、つまり「コト」にこだわりすぎ、そして、他者、つまり「モノ」を愛するのを忘れてしまう。
 しかし、世の中はそんなに単純ではありません。二分してすむような、そんな人間にやさしい構造にはなっていません。
 だから、右派と左派、保守と革新なんていう古びた区分も見事に通用しなくなっています。昔はそれが成り立ちましたけれど、世の中も言葉も人の心もエントロピー増大則(すなわちそれがお釈迦様の悟った無常であるわけですが)に逆らえず、再びカオスな様相に還っていきます。
 民主党を見れば、それがよく分かります。あそこはある意味健全な原初状態です。右も左も保守も革新も資本主義も社会主義もごっちゃです。それを憂えることもできれば、また、それを喜ばしいと思うことも、そして面白がることもできます。
 この本でやり玉に上がっている「売国政治家」の名前を見るだけでもよく分かりますよね。もう自分の生理に合わない人間だったら、それがどこに属そうと、何派であろうと、こうしてランキングしてしまう。その基準であるところの「自己」が既に崩壊してカオスになっている証拠です。
 それでも人は、こうして敵を作って、相対的に自己の立ち位置を確認して、また、仲間どうし慰めあって、初めて「憂い」を脱することできる、いやできたような気がするのです。
 まだまだ、日本人は、いや人類は「悟り」からほど遠いですね(苦笑)。
 と、こんなレビューも珍しいでしょうが、私も実はいろいろあるんですよ。立場やら何やらね。一般的な感想はAmazonのレビューをどうぞ。
 で、私は結局、人類みんなを敵に回して、こうして自己の優位性を保とうとしているんでしょうか(笑)。

Amazon 日本を貶めた10人の売国政治家

楽天ブックス 日本を貶めた10人の売国政治家

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧