カテゴリー「映画・テレビ」の544件の記事

2012.01.19

追悼 グスタフ・レオンハルト…映画『Chronik der Anna Magdalena Bach』

 の音楽人生に多大な影響を与えた「神」、グスタフ・レオンハルトさんがお亡くなりになりました。本当に残念です。
 彼の多くのレコードによって古楽に目覚めた私が、衝撃を受け大興奮をした映画を、久し振りに観賞して、冥福を祈りたいと思います。
 この映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 (公開時「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」)」を観たのは、たぶん1984年くらいだったと思います。どこでどういうメディアで観たのか記憶はないのですが、その感動は今でも忘れません。誰かにビデオを見せてもらったのかなあ。それとも劇場で観たのかなあ。
 いずれにせよ、あまり古楽器演奏の映像に触れる機会のなかった当時としては、非常に刺激的で貴重な体験であったと思います。
 ただの古楽演奏記録映画ではないですからね。バッハのクロニクルであり、現代の名演奏家たちがバロック時代の楽器、舞台、そして扮装で、往時を忠実に再現しているのです。もちろん主人公バッハは油の乗り切ったレオンハルトが演じています。
 もちろん、現代の古楽演奏に比べれば、この映画が製作された1967年当時の演奏は、ある意味精度が低かったり、ある種の間違いもあったりするわけですが、なぜか今どきの演奏よりも感動を催すんですよね。なんなんでしょうか。
 きっと、そこに「発見」の喜びや興奮があったからでしょう。先駆者たちのエネルギーに満ちていると思います。
 マニアックな映画ファンには、ストローブ&ユイレの監督作品としてもたまらない魅力がありますね。ある意味斬新というか、久々に観ると、このスタイルでこの感動的な作品を作ってしまうのだから、おそるべしです。結局はバッハの音楽を「映画」が邪魔していないということでしょうかね。これって大変なことです。
 この映画に刺激され、この頃から私はグレゴリオ音楽院でアンサンブルを習い、都留音楽祭でスタッフを務めるようになり、どんどん人脈が広がり、そして今に至っています。
 この映画で演奏されている曲もずいぶんと自ら演奏する機会を得ました。そして、3月にはとうとうマタイ受難曲をオリジナル楽器で演奏します。こんな日が来ようとは…夢のようですね。
 これも本当にグスタフ・レオンハルトさんのおかげです。ありがとう心の師匠。安らかにお眠り下さい。そして、天国でもバッハを演奏し続けて下さい。

Amazon アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 (公開題「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.13

想像力と倫理

20120114_75327 日のBSフジプライムニュースに、哲学者、環境倫理学者の加藤尚武さんが出演されていました。
 氏の環境倫理学の本は何冊か読んだことがあります。何が書いてあったか全く覚えていないので(笑)、このブログに書いたであろう記事で思い出そうと思ったのですが、検索してみたらありませんでした。
 あっそうか、たしか高校入試の問題で使ったので、それで記事にしなかったんだ。記事見ると何が出るか分かっちゃいますからね。たしかにこれは倫理的に許されませんな。
 その代わりに「子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える」という本の記事が出てきました。これもまた読んだことすら覚えておらず、またこんな記事を書いたことも全く覚えていないという、非常に情けない事実(苦笑)。やはりこのブログは個人的な備忘録としても機能しておりますな。
 さてさて、今日の加藤さんのお話、原発問題を哲学で斬る!ということで、なかなか興味深い内容でした(哲学というより倫理学でしたけど)。しばらくはこちらで見られますのでぜひどうぞ。13日分の後半の方です。
 このムービーに採用されなかった「確率」と「期待値」の話も面白かったですよ。科学の限界の一端を示す話だと思いました。
 すなわち…「1/1万×1/1万=1/1億」という確率計算から原発は安全だと言われてきた。しかし、それぞれの1/1万は独立事象に関することである。しかし独立事象というのは理論上のことであり、現実にはありえない。特に地震や津波による原発事故の場合、それぞれのシステムが「独立」であることはありえない…と。
 また…「10年に1回、10億円の損害」と「100年に1回、100億円の損害」というのは、期待値的には同じだが、我々の生活感、倫理観からすると全く違う…と。
 この話を聴きながら再確認しましたね。数学が象徴するように、科学は人間の想像力(感情)を排除するところから始まるんだなと。
 つまり、基本的に顔が見えないんですよ、人間の。ここのところ何回か書いてきたと思いますが、私たちは相手の顔が見えないと倫理を失います。
 たとえば、今回ですね、こういう事故が起きて、自分や自分の子どもが被曝すると、これだけ大きな騒ぎになる。これは当然です。
 しかし、加藤さんも言うとおり、核廃棄物が自然状態に還るには10万年かかるわけで、じゃあ、それに対しては我々は「感情的」「倫理的」になるかというと、まったくならないわけですね。
 ずばり言ってしまうと、私なんかも、自分の娘たちの将来、娘たちが住む世界の状態を心配できますが、その娘たちの子ども、すなわち孫のこととなると、途端に無関心になり、あるいは悪人にすらなってしまいます。とても10万年後のことなんか想像できませんよね。
 これは大きな人間の欠陥です。加藤さんの言う「世代間責任」「世代間倫理」が欠落しているんですね。特に、カネ、経済性が優先されると、その傾向は強まります。
 では、どうすればその「想像力」を持つことができるのか、あるいは鍛えることができるのか。
 私はそこに必要なのは、感情や想像力、個人の顔を排除する「科学」ではなく、それらを統合する「宗教」だと思っています。「宗教」という名で呼ぶと、我々は経験科学的に(笑)具体的な宗教を思い浮かべてしまうので、本当はその言葉は使いたくないんですけどね。
 ホントしつこくて申し訳ありませんが、私の「モノ・コト論」的に言いますと、科学は「コト」の権化ですから、そっちではなくて「モノ」的世界に生きよということです。「物語」世界とも言っていいでしょう。
 実は人間の脳ミソはそちらの世界に対応するようにできているんですが、今、我々はそちら側をほとんど使っていないようです。コト的な世界、言語によって分析、分節する機能ばかり使っている。数字や言葉やカネはそちら側に麻薬的に働きます。
 もちろん、そちらも必要なのですが、バランスが悪いんですよ、他の動物と比べても。
 実は「倫理」「道徳」「モラル」「良心」というのは、言語の領域、科学の領域で生まれ育つものではありません。教育界ではその逆のことをずっと教えてきちゃいましたね。人間は言語や数字で考えられるから動物より優れていると。間違ってましたね。
 まずは、顔が見える者どうしの「思いやり」、そして、次に今ここにいない顔見知りへの「思いやり」、さらに顔を知らないけれども、確実に存在している無数の他者に対する「思いやり」…こうして我々は「想像力」を鍛えていかなければならないのです。
 難しいですね。我々教師の責任も重大です。教科書を教えながら、科学や論理や言語を教えながら、その補集合(モノ世界)の存在に気づかせなければならないわけですから。
 厳しい道のりが想像されますが、一歩一歩進むしかありません。

Amazon 環境倫理学のすすめ 新・環境倫理学のすすめ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.01.11

究極の不安克服法…?

20120111_main01 日はめずらしく「ためしてガッテン」を観ました。テーマは「不眠ストレス緊張撃退 1日15分!脳の簡単トレ」。
 内容の詳細はこちらでご確認ください。
 番組放送中、不安症の上の娘はずっと耳をふさいでいました(笑)。「不安」という言葉、そしてそれを「克服」しなければならないということに「ストレス」を感じるのでしょう(苦笑)。
 これってよくわかりますね。上の娘は顔も性格も私に似ているところがありまして、だからか、なんとなく毎日自分の子ども時代を思い出すんですよ。
 自分も子どもの頃には「漠然とした不安」及び「截然とした不安」を抱えていましたっけ。まあ、みんなそうなんでしょう。
 我々は大人になるにつれて、それをなんとかする技を身につけ、そして最終的には子どもに「大丈夫、大丈夫」と言えるようになるわけです。
 ただ、番組でも解説されていたとおり、その技をなかなか身につけられない大人も増えていまして、それがウツやパニック障害や適応障害、そして最近では大人の発達障害なんていうような、まあずいぶんと乱暴な「名づけ」がされて、そしてそれに対して医学的な処方がなされるというような、あまり自然ではない状況になっています。
 ちなみに今の私は、これはもう自他ともに認める「不安のない人」です。たしかにないんです。それこそ障害なのではないかというくらい、不安も恐怖もない。
 ストレスはありますよ。いやなことをしなければならないとか、そういうレベルでのストレスは人並みにあります。しかし、それが不安や恐怖につながっているかというと、全然そんなことはありません。
 で、なんで不安症だった自分がこんなふうに安心症になってしまったかというと、これはやはり「禅」のおかげであると思います。あるいは自らの「モノ・コト教」のおかげ。
 そう、番組でも小野アナが坊主ヅラかぶって説明してましたね(笑)。「座禅」がいいと。全てを受け入れて受け流すのがいいと。過去や未来に執着して苦労するより、現在を受け入れろと。
 これってまんま「禅」です。モノ・コト教的に言えば、「コト」にこだわるなということです。昨日の話にもつながりますよね。
 「コト」というのは、自分の脳内の情報のことです。「モノ」というのはその補集合、つまり他人はもちろん、動植物や物(無機物)も含めての他者全てです(自分の身体もです)。
 今の私は「コト」に対する執着というのが全然ないのです。たとえばこうして自分の「コト」を「コトのは葉」に乗せて吐き出していますが、これはまさに吐き出す行為でありまして、ある意味非常に無責任な排出作業です。すんません、汚染が拡がってますね(笑)。
 外からは、これだけ文章を書いていて、どんだけ自分の頭の中にこだわってるんだと思われそうですが、実は全く反対でして、私は自分に対するこだわり、自分の考えに対するこだわりは全くないのです。
 お釈迦様のおっしゃるとおり、我々が「自己(コト)」だと思っているものは、実は「他者(モノ)」によって縁起したものです。それを悟れば、なんの執着もなくなりますし、不安も恐怖もありません。
 もっと平たく言うと、「なんとかなるさ」「困ったら人に頼もう」「不安に思ってもいいことは何もない」という気持ちですね。あとは、「困難や想定外(ストレス)だけが自分を成長させる」「困難や想定外はあればあるほど得」というのもあるな。
 こういう境地になったのは、はやり仕事で「禅」に触れ続けてきたからでしょう。この前「雲堂」のところで書いたとおり、私は別に毎日座禅したり読経したりしてるわけじゃありませんよ。普通の生活してるだけです。しかし、折に触れて座る(座らざるを得ない)仕事をしているので、そのおかげですね。
 ジョブズもそうであったように、たまに現実から逃避することも大切なのです。そこで「客観視くん」が活発化して、新しいアイデアも浮かぶし、ある種の悟りも得られる。
 そういう意味で、ためしてガッテンの言うように、一日15分でいいので、いやいや、私のように1年に数回でもいいので、じっくり座ってみることには大きな価値があることでしょう。とりあえず、今、自分(特にダメな自分)だと思っているヤツが、全然自分ではない、つまり他者によって形成されているちっぽけな存在であることを知るだけでも、ずいぶんと楽になります。
 自分がダメだろうと立派だろうと、あんまり宇宙には影響ありませんしね(笑)。
 あと、体の健康も大切ですね。体が調子悪いと「不安」です。一番の不安の原因はそこにあったりしますよね。
 その点、私はかなり安心です。自信があります。いや、それこそ体を鍛えてるとか、検診やドックで太鼓判押されてるとか、そんなことは全くありません。
 ただ続けているのは(もう7年半になりますか)、「一日一食(夕飯のみ)」だけです。
 そうそう、今気づいたんですが、今のような境地になったのは「一日一食」始めてからかもしれません。どういう因果関係があるのか、科学的なことは全く分かりませんけれども、事実としてそうなのです。
 そうか、「不安(ストレス)」を克服する最高の方法は「一日一食」か!…なんて、全く説得力ありませんね(笑)。ためしてもガッテンできないかもしれませんな。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2012.01.08

『スティーブ・ジョブズの子どもたち ~ハングリーであれ 愚かであれ~』 (NHKドキュメンタリーWAVE)

20120109_64939 年の年賀状はiPhone5でした。
 もちろんスティーブ・ジョブズへの哀悼の意も込められていますし、今年の私のテーマが「バージョンアップ」であるという気持ちも込められています。
 そして「Stay hungry. Stay foolish」もまた、これからの私や家族のテーマでもあります。
 その言葉が発せられたのが、あのスタンフォード大学でも講演でした。その講演を現場で聴いていた同大の卒業生たちのその後を追ったドキュメンタリーを観ました。
 スティーブ・ジョブズは「アメリカン・ドリーム」の象徴のように言われますが、実際には、ある意味「アメリカン・ドリーム」を実現した若者たちに、それが単なる「ドリーム」であったことを教え、そして「本当の幸せとは何か」という究極的な問答の世界に引き込んでいた…。
 たしかにジョブズは夢を実現しましたし、それなりの「金持ち」にはなりました。しかし、彼の偉業の本質は「カネ(マネー)」では計れないものでした。
 ちょうど昨日「利益(りやく・りえき)」の話を書きましたよね。彼が「りえき」を上げたのも事実ですけれども、それよりも「りやく」を我々に恵み与えたという点に注目すべきです。
 彼はテクノロジーをもって、世界の「点と点をつなぎ」、真に平和で豊かな世の中を実現すべく行動しました。
 もちろん、それが本当に正しいやり方なのかは、まだ歴史が証明するに至っていません。しかし、そういうレベルでの「夢」を実現するために、創造力を発揮して行動したことはたしかです。
 番組中、何人かの若者が投資銀行を辞めるに至ったいきさつが語られました。「他人の仕事をするな」というジョブズの言葉に刺激を受けたものです。
 誰もが「今の仕事は本当に自分の仕事なのだろうか」と考えますよね。しかし、それは、この仕事は自分に向いているのか、自分の能力が活かされているのか、というようなレベルのことですよね。
 ジョブズはもっと高い次元でこの言葉を使っていると思います。つまり、「理想の世の中を創るために、自分の役割は何なのか」というレベルです。
 おそらくジョブズの言葉を思い出して投資銀行を辞めた若者たちは、それに気づいたのでしょう。ただお金を得るだけであれば(つまり「りえき」を得るだけであれば)、投資銀行で1年目から年収1千万円以上もらえるという事実は、ある種の「アメリカン・ドリーム」の実現です。
 しかし、昨日も書いたとおり、自らが「りえき」を得るということは、他者に「りやく」を施すどころか、誰かに損をさせ、誰かを不幸に陥れることなのです。そこに想像力が及ばない状態こそが、「りやく」とは正反対の、悪魔に魅入られた、洗脳された状態だと言えるでしょう。
 ジョブズは「禅」を学んでいました。彼の生き方、言葉の使い方、製品のデザインやコンセプトには、曹洞禅の影響が色濃く見られます。
 おそらく私が彼や彼の作品に共感するのも、そういう部分があるからだと思います。
 一昨日のあの座禅アプリ「雲堂」を、ジョブズはどのように評価したのでしょうか。おそらく知っていたと思いますよ。
 「点と点をつなぐ」…これは「縁起」を積極的に生み出す行為です。我々の間にあった様々な障壁を、彼はテクノロジーで取っ払おうとしました。それはある程度実現していると感じます。
 ただ、まあ理想論は別としまして、日本よりもアメリカの高学歴就職難はひどいですね。アメリカ自身が、旧来の「アメリカン・ドリーム」がフィクションであったと気づき始めています。
 いよいよ世界のバージョンアップの時が来ているのでしょうか。あるいは、ジョブズのような「宗教者」が亡くなって、ますます世界は弱肉朝食の獣のような世界になっていくのでしょうか。
 ところで、番組を観ながら(英語を聴きながら)hire と fire が反対語だということに気づきました。
 再放送が13日(金)18:00からありますので、ぜひご覧下さい。

NHKドキュメンタリーWAVE公式


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.01.07

利益…「りやく」と「りえき」

Er 「NHKのアナ、ご利益をゴリエキと読みやがったww」
 思わずツイッターでつぶやいてしまった(苦笑してしまった)ローカルニュースでの誤読。ついでですから、ちょっと調べてみました。
 そう、「利益」は「りやく」と「りえき」の二つの読みがあるわけですが、この「りやく」と「りえき」って、同じ漢字なのにずいぶんイメージが違いますよね。
 「りやく」はもちろん神仏からの恵みのことであり、「りえき」は多くの場合、経済的な意味で「もうけ」のことです。
 ちなみに「益」の唐音が「やく」、漢音が「えき」ということになります。
 主に鎌倉時代の禅宗によって広まったものが「唐音」でして、漢字テストの難問は「唐音」の方が多いですね。「行脚」とか「杜撰」とか「提灯」とか。つまり、簡単に言ってしまうと、その当時の中国の方言が輸入されたということです。
 では、歴史的にどういうふうに使い分けられてきたかと言いますと、これが案外難しいのです。
 おそらくは仏教伝来と同時に「利益」という言葉は輸入されたと思いますが、その読みがどうであったかは定かではありません。時代的なことを考えると「漢音」の「りえき」だったのでは、と想像されます。
 使われた方としては、今の「御利益」のように名詞ではなく、「利益す」という動詞として使われている例が多く見られます。「(仏が衆生に)恵みを与える」という意味ですね。
 先ほど書いたように、禅宗がさかんになる鎌倉時代以降は、仏教用語としての「利益」は「りやく」と読まれるようになったと考えられます。それと同時に「りえき」の方は少し違った意味合いで使われるようになりました。
 鎌倉期の名語記(みょうごき…唐音ですね)という辞書に「えきは益也。利益、巨益の益也。ますといふよみあり」とありますから、もうこの頃には「りえき」と読むと、仏教を離れて経済的な意味での「もうけ」を表していたともとらえられますね。
 つまり、中世には「利益」は「りやく」と「りえき」の双方の読みが使われ、互いにその意味的守備範囲を手分けするようになっていたということです。
 言葉は世の中を映す鏡です。つまり、この「利益」の変化は、そのまま日本社会の変化を象徴しているとも言えます。
 明日から大河ドラマ「平清盛」が始まりますね。ご存知のように清盛は日宋貿易に積極的でした。実は清盛が日本の貨幣経済の基礎を築いた立役者だったんですよね。大河ドラマではそういう側面も紹介されるでしょうか。
 日本に宋銭が大量に輸入され、鎌倉時代には地方の一般庶民までが「お金」を持つようになりました。ちなみにここ富士北麓地方でも旧街道沿いで宋銭が大量に発掘されます。こんなド田舎(流刑地でしたから…笑)にまで、貨幣経済の波が押し寄せていたんですね。
 こうして日本国民は初めて、貨幣価値としての「富」を意識するようになります。商売をして「もうける」ことに目覚めるわけですね。
 そうなりますと、その「もうけ」を表すが必要になります。そこで使われるようになったのが「利益」でした。古くは「仏からの恵み」を表していたその言葉が、より現世的な「もうけ」の意味になっていったというのは、実に面白いことです。そして皮肉なことでもあります。
 それまでは、たとえば農産物や狩猟採集物や漁撈の収量というのものが、「神仏からの恵み」ととらえられていました。しかし、「商業」「貿易」「貨幣経済」が発達すると、「富」=「恵み」は「人間」から得るものとなっていったわけです。
 ここで、我々の「無意識的収奪」の歴史が始まるわけです。
 神仏の「りやく」の総量は無限です(たぶん)。しかし、人間から得る「りえき」の裏側には必ず「損」が存在しますよね。
 神仏からの「利益」をありがたく頂戴していた私たちは、いつのまにか経済的「利益」をただ獲得感と達成感をもって手に入れるようになり、その裏にある他者の「損」さえも想像できなくなっていったのです。
 いつも書いているとおり、「マネーというモンスター」が旧来の(本当の?)神仏を幽閉してこの世を支配するようになってしまったわけですね。
 この「利益」という言葉の歴史がそれを象徴していると考えると興味深いですよね。そして、NHKのアナウンサーまでが、「御利益」を「ゴリエキ」と読んでしまうまでになってしまった(苦笑)。まったく困ったものです。
 ま、それよりずいぶん前から(江戸時代から)、我々はお賽銭を放り込んで「現世利益」を「購入」していたわけですし、それで神社やお寺は商売していたわけですが。皆さんもお正月には初詣でという「初売り」に群がっていましたよね(笑)。
 こんなふうに、言葉の歴史を探ると、社会や人間の本質的な変化が読み取れて面白いですね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.31

元気ですか!! 大晦日!! 2011

20120101001 井慧は木村政彦にはなれなかったのか…。
 木村政彦の遺志を継ぐ岩釣兼生から、ホンモノの柔道を託された石井は、ヒョードルの強烈な打撃の前に轟沈しました。
 木村ならヒョードルの打撃を捌いて組み付き、超高速の大外刈りで倒してから、得意のキムラロックで勝利していただろう…こんなふうに妄想するのもまた楽しいものですが、現実には今の柔道にはそういう力がまだないとういことが証明されてしまいましたね。
 これはこれで現実として受けとめるべきでしょう。「当て身」とその防御術を復活させるにはとんでもない時間がかかるのではないでしょうか。
 さて、今回の大晦日興行は、アントニオ猪木率いるプロレス団体IGFの力を借りて、総合格闘技のDREAMの試合を中心に展開されるという、今までにない画期的な内容でした。
 ある意味水と油の関係になってしまっていたプロレスと総合がまぜこぜにされた上に、対抗戦まであるというのは、これは本当に夢のようなことです。
 もともとIGFは現代プロレスへのアンチテーゼとして立ち上げられた部分があるので、本当ならなじむはずなんですよね。猪木さんや、あるいは馬場さんまでもが考えていたであろう「プロレスリングこそが総合的な格闘技である」という基本に立ち返っているわけですから。
 で、実際のところどうであったか。
 私はこの大会は大成功だと思いましたね。
 あの会場のファン、そしてテレビやネットで観戦していたファンたちの多くが総合ファンであり、アンチプロレス派だったと思いますが、彼らの知っている最近のパフォーマンス色の強いプロレスと、IGFが示すプロレスリングとはかなり違っているので、ある意味驚いた部分もあったのではないかと思います。
 私はネット観戦派だったので、会場の雰囲気はよく分からないのですが、IGFルールの試合はそれなりに観客の目を引きつけていたのではないでしょうか。
 まだプロレスは死んではいないということを世間に示すことができただけでも、今年の大晦日興行は大きな意味を持っていたと思います。
20120101157 特に、我が家の知り合いどうしの闘いとも言える、ジョシュ・バーネットと鈴木秀樹の試合は、まさに本来のプロレスリング、すなわち、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを体現した好試合でした。その上で、現代的な見栄えのする(大会場でも説得力のある)大技も繰り出され、身内びいきでなく本当にバランスの取れた好試合だったと思いました。会場も「お〜」という感じでしたよね。
 特に第1試合ての所選手のアクシデントもありましたから、プロレスの受け身のすごさ、フィジカルのタフさには皆驚いたのではないでしょうか。そこも含めてプロレスの技術だと思います。ジョシュと秀樹、本当にGJ!でした。
 そして、唯一のIGFとDREAMとの対抗戦、澤田&鈴川 vs 桜庭&柴田。これは面白かったなあ。ある意味プロレスができない四人(苦笑)。いや、器用だけれども不器用というか、プロレスの奥深さに呑まれてしまっている四人が、まさに上田馬之助さんの言う「筋書きにはないドラマ」を演じてくれました。
 あの不穏な雰囲気というか、プロレスの筋書きをギリギリ超えるか超えないかの緊張感と言いますかね、なんかとっても懐かしい感じがしました。
 これで次につながるという空気が出来上がりましたが、はたして桜庭和志がそれに応ずるのか。ある意味大人になれるのか!?これは大変興味があるところです。
 それにしても、ある意味四人と濃密で微妙な関係のある宮戸優光さんが、すごい存在感を示していましたね。放送でもアップでとらえられていました。
 宮戸さんは、今プロレス界でほとんどただ一人、本物の「プロレスリング」を伝導している人です。武道や禅にも造詣が深く、精神性も含めて本当の格闘技をしっかり理解し教えることができる人です。
 そんな宮戸さんの目と心に、あの試合や興行全体がどう映ったのか、ぜひ近いうちに聞いてみたいと思います。私も一観客、一ファンの立場から感想を述べさせていただきたい。
 その他の試合についてもいろいろ語りたいところですが、あまり時間がないので割愛します。なにしろ長い長い興行でした。
 それにしても、あまりにぴったりにカウントダウンを迎えられましたね。もうそれだけでも奇跡です。そこが猪木さんの不思議な力なのでしょう。まさに昭和の化け物、物の怪が生きているという感じでした。
 今日はニコニコ生放送でプロレス&格闘技を観戦し、テレビでは紅白を観賞していました。まさに昭和のヤクザが残してくれた文化遺産ですね。暴力団排除条例のことなどもあり、ずいぶんと状況は変わってしまった今年ですが、結局日本人はこれがないと年を越せません。
 結論、やはりプロは「強さだけではダメ」ですね。いろいろな意味で、力道山や木村政彦、美空ひばり、そして田岡組長の姿を見た大晦日の夜でした。
 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.29

たこ八郎 『たこでーす。』

 曲・編曲は久石譲。私は久石さんの音楽ダメなんですが、この曲だけはいい曲だと思いました(笑)。なかなかセンスの良いテクノポップ歌謡に仕上がっていますね。久石さんのチープな(失礼)感覚が見事に昇華しています。
 テクノにソウルフルなコーラス、そして実にブルージーなたこ八郎さんのボーカル。この独特のリズム感、音程感、これは意識してできるものではない。間違いなく隠れた名盤。カラオケで歌いたいけど、ないだろうな。
 カミさんが突然はまったんです。あんまりはまって、ほとんど泣きそうなくらいなので、今日の記事にしてあげることにしました。
 なんで突然…?
 実は、年末恒例の「今年亡くなった人」追悼番組を観ていたら、細川俊之さんと一緒にたこさんがちょっと映ったんですね。それを観て、急にカミさんに何かが降りてきたらしい(たぶん、タコ…笑)。
 カミさんはたこさんのこと、あんまり知らなかったらしく、その後ずっとネットで調べていました。そして調べれば調べるほど、彼のすごさ、深さにはまっていったというワケです。
 なんで年末のこの忙しい時(カミさんは大掃除しながらお節料理を作っている)に、たこ八郎なんだ?wwww
 しかし、たしかに久々に彼のことを思うと、なんとも切ない気持ちになりますね。昭和は遠くなりにけり。
 天才ボクサー、フライ級チャンピオン、ピンク映画俳優、普通の映画俳優、コメディアン、そして「現代の妖精」…。本当にいろいろな側面を持っていた人物ですね。 
 師匠の由利徹さんはもちろん、赤塚不二夫さんやタモリ、たけしなど、大物に愛されました。昭和の芸人さん、スポーツ選手、芸術家は、みんなこんな感じに自由で奔放でした。古き良き時代です。
 人気絶頂の中、海で心臓マヒを起こし亡くなりました。タモリは葬式で「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と言ったそうです。
 そんなたこ八郎さんの才能と魅力の一面を垣間見られる映像があったので紹介します。ビートたけしもお手上げという感じですね。ボクサー斉藤清作(河童の清作)の貴重なフィルムも紹介されています。
 なんか泣けますね。本当の笑いにはこういう哀愁が必要なのではないでしょうか。先ほどやっていた某お笑い番組とはあまりに違いますね…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.27

サンドラ・ブロック主演作品 『しあわせの隠れ場所』

20111228_71432 2年生の担任の先生が生徒に見せていたのを少し盗み見しまして、なかなかいい話だったので改めてお借りして観賞いたしました。
 うむ、教育者としていろいろ考えるところがありましたね。感動もありましたが、憂いや迷いも生まれました。
 この映画の内容は実話です。あの天才アメフト界のスーパースター、マイケル・オアーの成功譚、いわばアメリカンドリームのお話、シンデレラストーリーとも言えます。
 しかし、サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲ったところからも分かるとおり、この映画の主役はオアー自身ではなく、そのオアーをサポートした女性リー・アン・デューイということになります。
 黒人差別の激しい、そして貧富の差の激しいメンフィスが舞台。白人の富豪と黒人のホームレスというある種アメリカンリアルを象徴するような両極どうしが出会い、そして夢を紡いでいく。
 これはたしかに美しい愛と絆の物語です。しかし、その裏に現実を感じなければ、この映画を観た価値がないでしょう。
 デューイ自身も悩んでいるように、こうした献身的なサポートは、金持ちの「自己満足」なのかもしれません。実際金持ちでなければ、あのようなサポートはできないのですから。
 そして、たまたまオアーは救われ、そして成功したけれども、それは本当に特殊なケースであって、この話に感動して涙して終わってしまってはいけないのです。
 原作名「THE BLIND SIDE」にはいろいろな意味が含まれていると思います。
 なんともセンスのない(笑)邦題のような意味もたしかにあるでしょうが、それ以上に、いろいろな意味での「死角」が表現されていますよね。
 もちろんアメリカンフットボールのポジション的な意味。そして、白人と黒人、富裕層と貧困層、それぞれに見えないそれぞれの生活や人間性。ある種の障害が実は大きくプラスに働く可能性があること。
 そして、なんて言いますかねえ、私も含めて日本人にとっては、こういう「ノーブレス・オブリージュ(豊かなる者の義務)」の発想と言うか行動と言うか、そういうものさえもある意味「盲点」ですよね。
 それこそ、「ノーブレス・オブリージュ」自体が「自己満足」の表現、手段、産物であると言えますが、やはり何もしないよりも、絶対に何かした方がいいに決まっているじゃないですか。たまたま出会った人しかサポート出来ませんが、その一つ一つの善行を集めるしかないんですよね、本当に幸せな世の中を創るためには。
 結局、お釈迦様の説く、「布施」「利他」の心なのかなあと思いました。単純に経済的物質的な満足を得るためでなく、「布施」「利他」のために裕福になるということもありなのかな、そんなことを思いました。
 アメリカは経済的物質的な満足を目指して突っ走って来ました。しかし、その裏では、(もちろんキリスト教的な発想のもと)人間としての心のバランスを取るために、こういう「善意」も発達させてきたと思います。
 日本は、アメリカの表面的な豊かさだけを輸入し、そうした裏側の、まさにブラインド・サイドを真似ようとは思いもしませんでした。もちろん、そこには日本における宗教の形骸化、無力化という背景があります。
 そんな我々日常の「死角」「盲点」も考えさせられました。
 そういう意味で、何度観てもいろいろ感じるところがある作品ではないでしょうか。サンドラ・ブロックの演技のすごいところは、そういういろいろなメッセージを感じさせるところですね。単なるいい人、強い女の表現ではありません。
 皆さんもぜひご覧下さい。

Amazon しあわせの隠れ場所


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.25

ロカテッリ クリスマス協奏曲

 日はクリスマスです。たぶん(?)仏教徒である私にとっては、仏教の伝道師としてのイエスのお誕生日をお祝いしましょう。
 ずいぶん前にも書いたとおり、イエスが当時「東方」からやってきた新思想に触れていた可能性は大です。そして、触れたからには影響も受けていることでしょう。
 ま、それはいいとして、今日はクリスマスにちなんで1曲紹介しましょう。
 クリスマス協奏曲としてはコレッリのものが最も有名ですね。しかし、今日はコレッリの音楽的後輩である(ま、ほとんどのバロックの作曲家は彼の後輩ですが)ロカテッリの作品です。合奏協奏曲集作品1の第8番ヘ短調。
 まずは聴いてみてください。いい曲です。

 ロカテッリはイタリア人ですが、後半生はアムステルダムで過ごしました。ヴァイオリンの演奏技巧を発達させた功績は大です。
 それにしても、なんで当時のクリスマス関係の曲は「暗い」んでしょうね。コレッリもそうですし、トレッリもそうですし、ビーバーやブクステフーデやバッハもそうです。
 特に不協和音を強調するところが特徴ですね。つまり、イエスが誕生するまでの世界観が暗くて不協和なのでしょう。
 そういうところに明るいスターが誕生するから価値があるのです。全て救世主というのはそういう存在ですよね。もともとの世が明るくて協和しているなら、メシアの出番はありません。
 このロカテッリの曲でも、前半は上方飛躍の音型と半音進行を伴ったモチーフが繰り返され、不協和音を織りなしていきます。どんより重い空気が漂いますね。
 そんな中、3楽章の5声のフーガは短いながらカッコイイですね。地味に派手な(?)転調してたりして、なんとなく不穏な感じが表現されています。
 そして、最後はお決まりのパストラーレ。一気に明るく快活になって大団円。
 そのあたりのコントラストこそバロックの神髄ですね。
 今日はTBSの「報道の日」を観ていて、それこそどんよりな気持ちになってしまいました。こういう空気の中では、やはり我々は救世主を待望してしまうものです。
 しかし、本当の救世主は自分の中にあるのだと思います。ただ待っているだけではいけない。変わるのは自分自身。その集合体こそがメシアの本体であって、たとえばキリストの物語というのは、バロック的な演出に過ぎないとも言えるのです。もちろんイエス自身もそう言っています。あくまで主体は自分自身であると。
 今年の日本のクリスマスはいつもと違うはずです。実際のところどうだったんでしょう。いつものようにただ消費されただけだったら残念ですね。配慮とか自粛とか謹慎とか、そういう次元でなく違いがあって当然だと思うのですが。
 そういう意味において、今日の「報道の日」は価値があったなと思った次第です。
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.12.11

追悼!市川森一さん…『私が愛したウルトラセブン』 (NHK)

20111212_91224_2 の人生に多大な影響を与えた(であろう)脚本家の市川森一さんが昨日お亡くなりになりました。
 訃報を聞く前に、本当に偶然市川さんのことを思い出していたのです。不思議なタイミングでした。
 というのは、昨日、来春の受難節に演奏するバッハのマタイ受難曲(初期稿全曲)の練習に初めて参加しまして、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんけれど、あの曲に「バラバ!」と合唱が叫ぶシーンがあるじゃないですか。そう、イエスと極悪人バラバとどちらを釈放すべきかというシーンです。その「バラバ!」という民衆の不協和音を聴いた瞬間、あの「殺し屋超獣バラバ」を思い出したのです。
 そのウルトラマンAの第13話「死刑!ウルトラ5兄弟」&第14話「銀河に散った5つの星」については、5年前のイースターの日に詳しく書いていますね。私はそこでも市川さんがクリスチャンであることに言及しました。
 たとえばこんなところにも、私の奥深い所にある市川さんの影響が感じられますね。ウルトラマンシリーズ、特にウルトラセブンに育てられた私たち世代にとって、市川さんの残したメッセージは、心や体の無意識の領域にまでしっかり染みついています。
 さあ、そんな市川さんに感謝と追悼の気持ちをこめて、今日は「私が愛したウルトラセブン」を紹介しましょう。
 多くの市川作品の中で、私はこれが一番好きです。名作です。放送当時も感動した覚えがあります。
 市川さん、上原正三さん、金城哲夫さんら脚本家を含め制作スタッフとキャストの皆さんの作品にかける情熱、葛藤、愛憎…歴史的作品が生まれる瞬間の人間模様が見事に表現された脚本です。
 ほとんど全てが実名ですが、ストーリーはフィクション。しかし、フィクションが真実をリアルに語るという「作品」というものの本質を、最も素晴らしい形で実現した「作品」であると思います(内容や注目点はAmazonのレビューなどをご覧下さい)。
 私もそうだったんですけれども、往年の熱いウルトラセブンファン、特に「アンヌ」ファンにとっては、「痛い」作品になる可能性大であり、正直期待していなかったというか、観るのも怖いというほどの作品だったんですね。しかし、大方の予想を裏切って非常に感動的な作品になっていたわけです。
 そうしたファンの「思い入れ」から来る危険というのは、なかなか乗り越えられないのが現実です。それで失敗した作品は枚挙に暇がありませんよね。いわゆる実写版なんかほとんどそうしたリスクに負けて沈没しています。
 そんなジンクスを越えてこの作品が名作たりえたのは、やはり脚本によるところが大きい。もちろん、役者さんたちの努力や演出(マニア的なこだわりが各所に見られました)も高く評価できます。しかし、なんと言っても市川さんの「思い入れ」がファンの「思い入れ」を凌駕したことが、この奇跡を生みだした大きな要因だと思います。
 そういう方だったんですよね、市川さん。ワイドショーのコメンテーターとしての姿からはなかなか想像できなかったかも…。
 今の私の大切な部分を占めている思想というのがあります。このブログにも比較的はっきり現れているのではないでしょうか。異端や異教徒や異境人、国つ神に対する天つ神、被征服者、歴史的敗者へのシンパシーや愛情…これらの源泉は、実は市川さんの「言葉」にあったのでは、と思うこの頃であります。
 この作品にも、そうした視点が多分に含まれています。私も久しぶりにビデオをお蔵から引っ張り出してこようかと思います。そして、また遠くなってしまった昭和を懐かしみつつ、市川さんのご冥福をお祈りしたいと思います。

Amazon 私が愛したウルトラセブン(DVD)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧