カテゴリー「映画・テレビ」の1000件の記事

2019.04.10

もう一つの富士山(その12)…松竹映画の「富士山」

Th_que12117966987 年ぶりの「もう一つの富士山」シリーズ。以前のものはこちらからどうぞ。
 松竹映画のオープニング富士山。だれもが一度は目にしたことがあるでしょう。2015年に松竹創立120年と、富士山の世界遺産登録を記念して、新しいものになるまで、この映像が使われていました。
 富士山の近くに住んでいる私はもちろん、そうでない方でも、この富士山、リアル富士山ではないということは分かるでしょう。実はこの富士山、大船のスタジオに作られた模型であることが、こちらに書いてありました。

下地に石膏で形作られた1m80cmの富士山のミニチュアは、30cm高の台上に置かれ、その廻りを浅い水槽で取り巻き、ドライアイスを流し、その手前に移動レールの上に1m80cm幅に綿を置き、キャメラと綿雲の間にフォグメーカーでスモークを流すという三重構造で雲を作った

 違う話だと、この富士山は「絵」とのことで、私も「絵」だと思っていたんですが、どうなんでしょうか。もっと古いモノクロのものは模型なのでしょうか。
 いずれにせよ、稜線の角度が実物より急なのは明らか。これは太宰治も指摘しているとおり、本物の富士山の稜線は意外になだらかなのですが、私たちの頭の中の富士山はもっと急なのです。ですから、子供でも大人でも、富士山の絵を描かせると必ず急になる。
 そういうイメージに合わせて作られたのが、この松竹富士ということです。もちろん北斎も横山大観もかなり急に描いていますね。それが「日本流リアリズム」ですね。西洋の印象派を生んだ「脳内リアリズム」です。
 しかし時代の流れというのもあります。私たちはたしかに富士山の映像を観る機会が増えました。結果として、ある意味西洋的なリアリズム、すなわち現実の富士山に記憶が近づいてきた。
 そういうこともあって、2015年に新ロゴが作られたというのもあるでしょう。よりリアルになった松竹の富士山。旧松竹富士は山梨県側忍野の富士山をモデルにしているそうですが、今度は河口湖ですね。新道峠。忍野の富士山よりもスマートに見えるスポットです。

 リアルなだけでなく、最新のデジタル技術によって映画にふさわしい「物語性」を生み出していますね。いいと思います。
 一方、日本の伝統的「脳内リアリズム」をさらに未来的にした、別のロゴも作られました。これはこれでかっこいいですね。

 ブルーライン用もあります。

 皆さんにとっての「リアル」な富士山とはどんな姿でしょうか。日本の象徴は、このようにそれぞれの人たちの心の象徴でもあるのでした。そういう意味では「もう一つの富士山」は無数にあるということですね。
 

| | コメント (0)

2019.04.05

美空ひばり 『東京キッド』

 球中継のあと、美空ひばりさんの番組が始まりました。何年か前に偶然見つかった、ひばり13歳の時のアメリカ公演の音源を紹介する番組でした。
 1950年、美空ひばりは師匠川田晴久とともに「東京キッド」をレコーディングし、のちに二人を主役にした映画「東京キッド」に出演しています。これがきっかけで、天才少女美空ひばりの人気は不動のものとなりました。
 実はその年、レコードや映画が発表される前の5月から7月、二人は戦後間もないアメリカを旅しています。その際のサクラメントでの秘蔵音源が見つかったのです。
 その録音の中には「東京キッド」はありませんが、まあその素晴らしさ、天才ぶりには舌を巻きます。もうどうしようもない。
 さて、「東京キッド」のオリジナル盤、また1970年台の再録音とは違い、晩年のライヴではこの曲を上手にいじって、さらに歌の魅力を倍増させています。
 それこそ説明の必要はないでしょうが、まあ、節回し、声色の使い分け、リズムの崩し、そして表情や動きまで、本当にすごいとしか言いようがありませんね。特に私が好きなのは「右のポッケにゃ…」の部分で「ブルーノート」を使うところです。原曲とは違った大人のムードが一瞬漂いますね。
 いや、正確に言いますと、これはブルーノートとは違います。ジャズの影響と言うよりも、日本古来の歌、たとえば端唄や小唄の影響でしょう。ドレミで言うなら、ミの♭とミの間の音だったり、あるいはレとミ♭の間の音。これは日本の音楽では当たり前に行ったり来たりする節回しです。
 というか、ブルーノートと称されるものも、無理やり西洋音階の中で表現しようとしているだけで、そのルーツは日本の節と同じような、自由で連続的な「節」でしかありません。
 実は、最近高く評価している松浦亜弥さんは、その「節」を上手に回すことができるんですよ。ひばりさんと同様、おそらく意識していないと思うんですけどね。実は日本人の歌姫の絶対条件なのでした。

| | コメント (0)

2019.03.28

追悼 萩原健一さん

Th_-20190330-122316 ョーケンが亡くなりました。まだまだ若いのに…。
 ショーケンと言えば、ちょうど10年前に下吉田駅のベンチという記事を書きました。
 そう今から40年ほど前、富士吉田でオールロケした「祭ばやしが聞こえる」で、萩原健一さんといしだあゆみさんは共演し結婚することになりました。
 結局、結婚生活は4年ほどで終わってしまいました。このたび、いしださんは「ご冥福をお祈り致します」とコメントを発表していますが、きっと出会った街のことを思い出したにちがいありません。
 ある意味、富士吉田、特に下吉田は40年前と変わっていないかもしれません。つまりそのまま劣化してしまったとも言えます。しかし、下吉田駅は残念ながら(?)水戸岡デザインで新しくなってしまい、あのベンチももうありません。
 こうして、昭和はまた遠くなっていくのでした。当たり前といえば当たり前ですが、昭和の申し子である私の人生もそろそろ終盤にさしかかろうとしているのだということを認識させられますね。
 ご冥福をお祈りします。YouTubeにあった「祭ばやしが聞こえる」です。下吉田、月江寺界隈、西裏、ミリオン通りなどが出てきます。


| | コメント (0)

2019.03.17

田原総一朗の全力疾走スペシャル (BSAsahi)

 覧になりましたか?非常に面白かった。平成を振り返るにはいい番組でしたね。
 なんだかんだ言って、田原さんが平成に与えた影響は大きかった。いろいろ毀誉褒貶ある方ですが、結局与野党問わず政治家、特に宰相たちに大きな影響力を持った「一般人」ですよ。すごいと思います。
 そして萩本欽一さんがまた違った意味で立派だなと思いました。お二人とも昭和の人であると言えるわけですが、ちゃんと平成に、そしてその次の時代にまで適応しているというか、その最先端を走っている。尊敬すべきご両人です。老害とか言ってる人、大丈夫ですか?w
 やはり心に残ったのは、田原さんの揺るがぬ信念の二本柱ですね。

・言論の自由は体を張って(命をかけて)守る。
・戦争は絶対に起こしてはいけない。

 まさにこれが揺らいでいる現代です。昨日の続きで言いますと、天皇陛下はこの戦後の二本の柱をご自身が守ろうとしているのですね。民主、平和こそが日本のあるべき姿です。それを祈り、そして実現せんとしてきたのが、日本の皇室です。
 田原さんは右からも左からも批判されることが多いわけですが、実は天皇、皇室への敬意を強く持った方で、それは揺らぎません。それも本来の天皇、皇室に対する敬意なのです。ですから、近代天皇制、近代の皇室のあり方には苦言を呈すこともある。そこを見間違えてはいけませんね。
 欽ちゃんの「勝つか逃げるか」も良かったですね。これってこの前書いた「逃げ恥の原理」そのものですね。
 それから「これからは修行の時代」というのも説得力があった。学ぶではなく気づくという方法。
 若い人たちが、この両巨人から良い影響を受けることを祈ります。なにしろ、両巨人は若者から謙虚にいろいろ気づきを得ていますから。私たちも含めて次の世代も負けてはいられません。

| | コメント (0)

2019.03.13

是枝裕和「ヌガー」

 稲田出身の是枝監督の文章が東大の国語の問題として出題されました。あっ、大学院は東大なんだ。「ヌガー」の全文。対談集に所収のエッセイです。
 これがまたいい文章でして。さすがですね。映像的です。そのまま映画のワンシーンになりそうな文章。風景と味覚が心の動きを象徴する。人間の存在や成長、邂逅と別離を実に端的に共有してくれます。
 昭和の天才たちと比べて、平成の天才たちは文才がない…などと、自分のことは棚に上げてかこちておりましたが、いやとんでもない。こういう人がちゃんといるのだなと思いました。すみません。
 というわけで、これも数分で読めてしまう「短編映画」ですから、ぜひお読みください。
 こういう文章についての問題を解くのは野暮でしょう。東大に入りたいのでなければ。

T0131a

T0131p

「誰も知らない是枝先生」世界的映画監督から学ぶ、物の見方・考え方


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019.03.10

「うわさのチャンネル」より タモリの中国語講座(追悼 ザ・デストロイヤーさん)

Th__20190311_133320 日は日テレG+で「ジャイアント馬場没20年追善興行」の放送をたっぷり堪能させていただきました。
 いろいろ感慨深いシーンの目白押しでしたが、特にアブドーラ・ザ・ブッチャーさんの引退セレモニーは泣きましたね。スタン・ハンセン、ドリー・ファンク・ジュニアをはじめ、往年のライバルたちが勢揃い。また、かつての馬場さん関係の興行では考えられないゲストが登場し、本当に馬場さんの、そしてブッチャーさんの人柄の素晴らしさを感じさせる名シーンでした。
 最後、ブッチャーさんのファンへのメッセージが「親を大切にしろ!」だったので、心から感動してしまいました。なるほど、レスラー生活の最後に伝えたかったことはそれだったのか。
 セレモニーの中で、ザ・デストロイヤーさんからメッセージが紹介されましたね。動画がありましたのでぜひ。このあと1ヶ月もしないうちに旅立たれてしまいました。

 さて、往年のデスといえば、テレビのバラエティーでの人気者という一面もありましたね。私もどちらかというと、そちらのデスさんの方から入った少年でした。
 和田アキ子さんや徳光和夫さんとの「うわさのチャンネル」の貴重な映像がありましたので、こちらもぜひ御覧ください。デスさんの出番はそれほどありませんが。
 まあメジャー・デビューしたばかりのタモリさんの恐るべき才能には舌を巻きますね。やばいでしょう。それをいなすあべ静江さんの美しさも異常(?)です。そのほか、松本ちえこさんの可愛らしさ、いや和田アキ子さんの可愛さにも唖然です(笑)。いい時代でしたね。ひどい時代とも言えますが。ハラスメントだらけですよね。それが笑いで昇華されていた時代なのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019.03.04

ポインター号(地球防衛軍)

Th_2019030400268697toyo0002view 日はもう3月10日です。忙しくて全然更新できませんでした。少々疲れていますが、よく寝ているので元気です。
 さて、ようやく時間ができましたので、一気に一週間分記事を書きます。よって手抜きになります(笑)。短めにどんどんいきましょう。ネタはいろいろありますので。
 3月4日づけの記事は、何にしましょうか。月曜日ですね。あっそうそう、この日はこんな記事を読んで感激しましたっけ。

ウルトラセブン「ポインター号」造った男の情熱

Th_5ca2fe4ds ポインター号。私もめっちゃ好きです。ウルトラセブンのキャラクターデザインは全般的に本当に素晴らしいですよね。中でもこのポインター号のかっこよさは尋常ではありません。
 私、ポインター号を2回この目で見たことがあります。たぶん、1回目は撮影用の車体だったと思います。いつだったか正確な記憶はありませんが、1970年台はじめ、小学校低学年の時かなあ、近所の二子玉川園に父親と一緒に自転車で行って、間近で見た記憶があります。砧も近いし、二子玉川園ではよく怪獣大集合みたいなイベントをやっていました。
 そして大学生の時ですから、1985年くらいでしょうか、山梨県内おそらく上野原あたりの国道20号線を東京に向かって走行中、レプリカとすれ違ってびっくりした記憶があります。まあびっくりしました。
Th_img_3620 それにしても、上掲記事の方、すごいですねえ。執念というか愛情というか。私もお金と時間と家族の理解があれば挑戦してみたい…いやいや、それらがそろってもやっぱり無理だな。本当に素晴らしいと思います。尊敬します。
 私ができるのは、こんな感じでウルトラ警備隊のマークを車に地味に貼ることくらいです(笑)。

ウルトラセブン放送開始から51年!ポインター号(TDF PO-1型)はいつの時代も未来を感じさせるメカだ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019.02.28

「逃げ恥」の原理

Th_images いっきり時代遅れな話ですみません(笑)。
 実はあのドラマ観てないんですよ。原作の漫画も読んだことがない。昨日、老師さまとお話していて、なんと「逃げ恥」の話が出ました。私の観ていないあのドラマをなんとご覧になったのだとか(たまたま一部を観たとのこと)。
 しかし、ただ観ただけでは終わらないのが、さすが老師さま。そこからいろいろな深い人生論につながっていきました。あの「逃げるは恥だが役に立つ」ということわざのルーツであるハンガリーにまで行かれて、その奥深い御法話をなさってきたのだとか。さすがです。
 さて、その御法話の内容はここでは控えるとしまして(著作権の関係?)、ハンガリーのことわざとしての「逃げ恥」について書きましょう。
 ハンガリーと言えば「ジプシー」ですよね。まさに「逃げる(走る)」というのは、ジプシーの本質を示す動詞です。ハンガリーは「ハン」は「フン族」の「Hun」でもあり、マジャールは「モンゴル」とも同源とされています。フン族も一説では匈奴であるとも言われています。フィンランドの「フィン」も同系の言葉ですよね。
 すなわち、彼らはアジア系の遊牧民といいますか、コーカソイドとモンゴロイドの混血とも言えると思います。いわばゲルマン民族らに追われて、移動せざるを得なかった民族ですね。
 この前演奏したバッハのカンタータ18番には、トルコに対する恐怖と嫌悪が露骨に表現されていました。バッハのルーツはハンガリーなのに(笑)。
 面白いのは、フン族の末裔や血脈と言われる民族の言語の多くが、膠着語であり、また開音節構造であり、語順も日本語流です。
 日本も極東という、それこそ逃げて逃げて背水のところまで来てしまった民族ですからね。やはり同系の民族である可能性は十分あります。ですから、「逃げるは恥だが役に立つ」がヒットしてもおかしくありません。
 追いやった民族の原理(一神教的な原理)と、追いやられた民族の原理とは大違いで当然です。「逃げる」とは「戦わない」ということでもありますし、自我や財産にこだわらないということでもあります。それは非常に仏教的であるとも言えますね。
 なんだかまとまらない話になってしまいましたが…さて、21世紀、22世紀の価値観はどちらになるのでしょう。逆転なるのか。老師さまともそんな話をいたしました。
 二月は逃げていく。本当にそうですね。今日は高校の卒業式でした。明日から三月です。三月も去るのがはやいのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019.02.22

『ねことじいちゃん』 岩合光昭監督作品

Th_640 の日です。
 観てない映画をおススメすることはまずないのですが、これは例外です。
 世界的に猫ブームの昨今、猫映画も多数ありますね。それら全てが猫マニアにとって幸せな映画かどうかは微妙です。やはり作られた感というか、やらせ感が出てしまうと、本来の不如意な猫の自然な姿とはかけ離れてしまう。
 その点、この映画には大いに期待できます。なぜなら、監督が岩合光昭さんだからです。世界ネコ歩きを観ればわかるとおり、彼の映す猫は、まさに自然体。おそらく岩合さんは世界で最も猫を猫らしく撮るカメラマンです。
 そんな彼の初監督映画作品がこれ。予告を観るだけで、もうやられた感がありますね。さすがです。
 そんな猫にとって自然な映画において、人間がどのように描かれるのか。非常に興味があります。立川志の輔さんもやり甲斐ありまくりだったでしょう。俳優ではない人を選んだところは、なるほどですね。

 猫だらけの特別映像も観てみましょう。岩合さんは「動物写真家」ですよね。動物の中には人間も入っているのですね。猫と人間の関係性を描くことにもおいても、間違いなく世界一の人です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019.02.08

落合陽一×宮台真司 『次の時代をどう生きる』

 の対談は面白かった。本来の「アカデミック」な存在であるお二人、こうして会うのは初めてだというのはちょっと意外でした。
 お二人の意見には多くの部分で同意。身体性を失いつつあることを、より抽象的なところで虚しく埋め合わせていく現代。はたして人類は、いや人類の幸福はどちらに向かって動いていくのでしょうか。
 宮台さんのおっしゃる、偶発性、未規定性というのは、ワタクシの「モノ・コト論」で言うところの「モノ(他者・不随意・想定外」と完全に一致します。私が「コトよりモノの時代」というのは、まさにそういう意味です。
 そして、自己(コト)が自己で完結するのではなく、他者(モノ)にとって、いかに「他者性・偶発性・エンカウンター」になりうるかというのが、それこそ「ニーズを作り出す」ということなのでしょう。
 そして、それはお釈迦様の語る「縁」と同義になってくる。縁という関係性こそが、私たちの存在そのものなのです。つまり私たちはそれぞれ「自己(コト」であり、「他者(モノ)」であるという、まさに中動態的な存在であることを知るべきです。
 そういう意味で、テクノロジー(機械だけでなく制度なども含む)が「優劣」の「劣」を補助する方向で発達する傾向があるのは、ちょっと問題があると思います。なぜなら、その前提である「優劣」という概念自体が、私たちの社会的な価値観から生まれたものだからです。
 それはたとえば自己の中にも内在します。自己の中の他者(モノ)であるとも言える身体。私たちにとって、最も身近な、自分の思い通りにならない不如意、不随意なモノは、自らの身体です。それを社会的感情に基づいて「劣」とし、脳みその中の言語的情報(コト)を優としてしまったのが、この近代そのものでありましょう。
 その価値観に従ってモノを封じ込め、コトを祭り上げた結果が、この現代です。ですから、これからのテックは、やはり「目が合う」「目を合わせる」「見る、見られる」の関係性を生み出す方向に進化すべきでしょう。
 一方では、最近のファーウェイの話ではないですが、私たちは無意識的に、たとえばスマホに「見られている」状態ですよね。昨日も「あなたがスマホでエロサイトを見ているところを録画しました、ばらされたくなければビットコインでいくら払え」的な迷惑メールが来ましたが、あながちそれもウソではない状況になっています。
 つまり、見られないように、目が合わないようにと、私たちが求めてきた極プライベートな時空間が、実は全世界に見られているかもしれないという、笑ってしまうようなパラドックスを生んでいるわけで、そういう意味では、テクノロジーというのも自然界と同じように、ある種のバランスを勝手にとっていくものなのかなとも思います。
 人間ごときにはどうしようもない、絶対的な他者に対する想像力を鍛えていかなければならない時代が、もう目の前まで来ているのでしょう。それはまさにモノの復権、宗教以前の超古代的なアニミズムのような世界への回帰なのかもしれません。実に楽しみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧