カテゴリー「育児」の44件の記事

2010.02.06

病院 vs 権現さま

B0da0e000000f78k 梨県立中央病院に、下の娘とカミさんを迎えに行ってきました。下の娘が鼠径ヘルニアの手術で2泊3日の入院をしていたのです。
 まあ、「脱腸」ってやつですね。女性の鼠径ヘルニア率は2〜3%だといいますが、上の娘も手術しましたし、私の姉もそうでしたから、けっこう我が家系の脱腸率は高い方だと思います。ちなみに男性の鼠径ヘルニア率はなんと25%以上だとのこと。4人に一人ですよ。知りませんでした。
 ちょっとした設計ミスという程度ですから、手術と言っても軽く切って貼るようなものです。私も別に心配もしていませんでしたし、娘本人もママとのお泊まりということで、なんだか非常に楽しみにしていました。
 手術はもちろん問題なく終わったのですが、麻酔で寝ていた娘は寝ぼけて、というか全然記憶がないらしく、術後「手術は?今から?」と言っていたそうです(笑)。
 鼠径ヘルニアは病気というより、先ほども書いたように設計ミスのようなものですから、自然治癒はしません。ごくまれにそれが原因で面倒な病気になることもあるようなので、幼いうちに修繕しておいた方がいいですね。場所が場所ですから、大人になるとなんとなく躊躇されますし。
 で、そんなことをカミさんのお母さんに報告したところ、驚くべき事実が判明いたしました(笑)。
 以下、電話の内容を復元します(秋田弁のまま)。カ=カミさん 母=カミさんの母

カ「○○(娘の名)、しゅじゅつするがら、にゅういんさねねぐなった」
母「あら、なしてよ?」
カ「だっちょうだど。ひゃぐにんにふたりしかならねなだど」
母「あら、おれもだ」
カ「え〜しらねがった、いづしゅじゅつしたなよ」
母「しゅじゅつなさねえ。べってじぎ、ばあちゃんどもんぜんのごんげんさまさおがんできた…」
カ「え〜、しゅじゅつさねぱ、ぜったいなおらねんだど」
母「あや、おれなばえおの。おしてやればひっこむがら…」

Sany0033 お分かりになりますか?簡単に言えば、実は義母も鼠径ヘルニアであったと。そして、病院には行かず、村の権現様に拝みに行った。今でも出っ張ったら押して引っ込めているということです(笑)。
 いやあ、「権現様」ですか!?こっちは最新のホテルのような病院で至れり尽くせりの入院、最新医療の手術をしました(上の娘は静岡のこども病院でした)。それに対して、なんと古典的な対処法でしょう。素晴らしい!
 考えてみれば、昔の日本にはそんな手術はありませんでした。出たら手で引っ込めるしかなかったわけですよね。あとは、神仏にお願いするしかありません。みんなそうやっていたはずです。
 もう少し前なら、病気やケガは「物の怪」のしわざでしたから、それこそ祈るしかありません。貴族なら、医者を呼ぶかわりに坊さんや修験者を呼んで加持祈祷したわけです。庶民は村の社や祠に行って拝むしかありません。
 たしかに、今でも、あの神社は「目の神様」、あの地藏さんは「皮膚病の神様」などと、分業の痕跡が残っています。大きな寺や神社ですと、総合病院よろしくいろいろな「科」が集められていたりしますね。
 カミさんの実家があったあたりは、本当に時代を超えた田舎、絵にかいたような日本の原風景が広がるところです。いまだに「もののけ姫」の世界ですから。
 しかし、なんでも、科学や医療で片づける(すなわちお金で解決する)のではなく、そういう神仏に自分の運命を託す気持ちというのも大切なような気がします。我々現代人はすっかりそれを忘れてしまっていますね。子どもたちもそうです。「想像」や「妄想」、「祈り」、そして「畏怖」というモノから遠ざかっているのが、よくわかります。その結果、ウチの娘たちも「感謝」の気持ちが不足しているように感じます。
 「コト(自己・内部・情報・随意・不変)」と「モノ(他者・外部・現象・不随意・無常)」のバランスが崩れているんですよね。特に、デジタル化による「コト」化の行き過ぎは、たとえば病気やケガに対する人間の抵抗力、あるいは自然治癒力を奪っているように思えてなりません。今こそ、「権現さま」パワーを見直す時なのかもしれません。
 この笑い話は、実は深刻な問題をはらんでいるのでした。

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2010.01.27

『メイド・イン・ジャパンの命運』 (NHKスペシャル)

Slashgear_cellregza2540x405 本のメイドさんの話じゃありませんよ(笑)。そっちは順調です。
 「日本は何を作るべきか」「日本で何を作るべきか」…日本のお家芸であったはずの「モノづくり」の危機のお話です。
 ここでは日本のモノづくりの象徴「テレビ」が取り上げられていましたが、事情は自動車でもその他の家電でも全く同じです。
 デジタル化、ソフト化、コンピュータ化によって、我々が培ってきた、そして得意としてきた「職人技」が通用しなくなってきているということですね。
 そんな中、日本はどのように生き残っていかなくてはならないのか。東芝では100万円もするテレビの開発に奔走(迷走?)し、JVCではソフトの開発販売でなんとか窮地をしのごうとしていました。
 いやあ、本当に大変だと思います。私の仕事(学校教育)のように、いまだにアナクロにアナログな業界は全然幸せですよ。おそらく100年後もほとんど事情は変わっていないでしょうから。「人づくり」の現場ですから。
 「モノづくり」の現場の変化については、実は今日も実感しまして、生徒や先生方と呆れるやら、おかしいやら、思わず笑ってしまったことがありました。
 職員室のコピー機の調子が悪かったんです。というか、生徒が何か縮小やら両面印刷やら、いかにもデジタルな技を駆使してコピーをしていたら、どうも写像が右だか左だかにずれていて、字が入りきらなくはみ出てしまうと。
 で、だいたい機械やパソコンの不具合については、みんな私のところに来るんですね。なぜか、国語のセンセイが一番機械に強かったりする(…それこそ学校の変なところですな)。
 で、状況を聞くと先ほど述べたような感じだといいます。なるほど、いろいろなデジタル技術を駆使した結果、こうなったんだなと、私は判断しました。生徒もそう思ったから私のところに来たのでしょう。
 さあそれで、今までの経験を活かし、いろいろやってみたんですよ。最後の手段「再起動」はしませんでしたけど、考えられるいろいろな作業(操作だな)をしてみました。しかし、どうもうまく行かない。
 で、小一時間からかったけれどもダメでして、「こりゃあきらめるしかないな」と言った途端、私はあることに気づいたんです。「もしかして!?まさか…」。
 そしたら、まあ案の定というか、馬鹿馬鹿しいというか、情けないというか、やっぱりそうでした。
 単にトレイの中のコピー用紙がちゃんとピッタリ入っておらず、ある方向にずれていたのです!
 はあ?…でしょう(笑)。
 そう、これが昔のコピー機や、普通の印刷機だったら、一番最初に疑うべき点でしょう。それが人間的な、機械的な、アナログ的な発想です。発想以前の常識ですよね。
 それが、生徒も私も他の教員も、みんな「デジタル」的世界に冒されて、こんな子どもでも分かることが分からなくなってしまっていたんです。もう笑うしかないですよね。
 つまり、機械のブラックボックス化が進んでいて、我々は日常的に「ソフト的な問題だ」、「これはどうしようもない」、「たたいても治らない」と思ってしまう習慣がついているようです。
100124_b 正直私も情けなかった。私も少年時代はエンジニアを目指すような、いわゆる「モノづくり」人間でして、そういう目に見える機械的な構造やシステムをイメージするのに比較的長けていると思っていたものですから、こんな単純な、単純すぎることが分からなかったことに愕然とするというか、もう苦笑するしかなかったわけですよ。
 と、これは笑い話でありますが、業界ではとても笑えません。東芝の技術者、それも世界をリードしてきた「職人」たちが、もう真っ暗な画面の前でただ茫然とするしかない姿、ケータイでソフト屋さんにおうかがいをたてる姿は、もうなんというか、残酷というか悲哀というか、とにかく辛いものがありましたね。
 自動車なんかも、20年前までは、エンジンだろうがなんだろうが自分で修理調整しちゃってましたが、今は車屋さんでさえ、部品を注文してアッセンブルするのが仕事みたいになっちゃってます。
 はたして、これは「モノづくり」と言えるのでしょうか。コンピュータのソフトというのは、疑似的な脳です。脳は私の言い方ですと「コト」です。そして「コトづくり」の末、そのコトが暴走すると、それはいきなり「モノ(モノノケ)」になります。手が付けられない「他者」になってしまうのです。恐ろしいことだと思うのですが…。
 同僚が言っていました。これは第二のラッダイト運動が起きそうですねと。コンピュータ打ち壊し。
 いや、そうした方がいいのかもしれませんよ。自分たちの脳よりも優秀で一途で根性のある別の「脳」を作り出してしまったことが、私たちを滅亡に追いやるかもしれないからです。

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2009.12.18

『独創力。−人間「桜庭和志」から何を学ぶのか』 桜庭和志 (創英社/三省堂書店)

88142188 やあ勉強になった。これは新しい中学の保護者に必読本として読ませなきゃ。まじで。私の思っていることがたくさん書いてある。
 一見草食系でありながら、実は…。昨日の記事の写真にもありましたけど、「ギャップ」というのは「萌え」や「燃え」にとって非常に重要な要素であります。
 桜庭和志選手はまさにそれを体現しているプロレスラーです。ある意味勝ち負けが全てとも言える総合格闘技の世界で、40過ぎてもまだ多くのファンを惹きつけ続ける彼は、本当に特別な存在です。
 一見、ぬ〜ぽ〜としていて恥ずかしがり屋…典型的な秋田男の彼が、リング上では獲物を狙う「マタギ」に変身する。たしかにぞくぞくします。10月の試合は、まだまだ彼がそういう意味で全く衰えていないことを証明していました。
 そんな彼に、ウチのカミさんが突如はまったのが、あの3年前の大晦日。ヌルヌル事件(対秋山戦)の夜のことでした。
 それからどういわけか、八郎神社のお導きまであって、この本にも重要な人物として登場する桜庭選手の御両親と懇意になり、さらに今年とうとう私もスネークピット・キャラパンで御本人とお会いしていろいろ勉強させてもらう機会を得ました。全く不思議なご縁であります。
 今回、カミさんはもちろん出版記念サイン会に出かけていったわけでして、私が読んだこの本にもちゃんとサインが入っております。いったい何枚のサインがあるんだ?ウチには(笑)。
 ほとんどストーカーのように追っかけしているウチのカミさん。まあ、私も大好きな選手ですから、全然いいんですけどね。そうじゃなかったら、ちょっと夫婦間に亀裂が入るよな(苦笑)。
 なんだか桜庭選手、ウチの夫婦のことはしっかり覚えてしまっているようです。すみません。
 今回はおみやげにまんさくの花を持っていきました。カミさんの郷里のお酒です。翌日の彼の日記に「飲みすぎた」みたいなことが書いてありましたが、もしかしてウチのせい?w
 なんだかんだ、桜庭選手に日本酒差し入れするの3回目だもんな。格闘家に酒ばっかり送っていいんでしょうか(笑)。
 さて、そんな話は置いておいて内容に行きましょう。
 まず、彼の御両親や彼自身の「教育論」が素晴らしい。まさに現代の子育てに欠けているものが、そこにしっかりあります。
 単純なことです。「やってはいけない」と「やってみたら」を言う勇気と責任です。すなわち「ダメなものはダメ」と言うことと、「やめとけ」と言わないことです。
 これは私の仕事の上でも、案外難しいことです。適当に見て見ぬふりをしたり、(自分に降りかかる)リスクを想定して「やめとけ」と言うのは簡単なことであり、ある意味そういう先生になるのは楽です。しかし、それが本当の教育になるかというと、もちろんそんなことはありません。
 実はこの楽な生き方は、ワタクシの「モノ・コト論」で言いますと、自己中心的で随意的な「コト」を判断基準とした考え方でして、そこからは何も創造されないんですね。
 一方、その時の自分にとっては負担となる桜庭家流の考え方は、まさに他者本意で不如意的な「モノ」を判断基準とするものです。これにはまさに他者の未来や自己の未来に対する責任を負う勇気と覚悟が必要です。
 彼の説く「独創力」は、実はそういう所から発しているように思えました。
 雪国秋田の「何もない」自然の中で育った彼。ウチのカミさんと全く一緒のことを言っているので面白かった。何もないから、何でも遊び道具やおもちゃになり得る。実際、カミさんは今でも遊び道具や遊びを創造する天才だと思います。特に自然を相手にした時はすごい。私や娘たちはひたすら感心するばかりです。そして、それはゲームやテレビなんかに振り回されているよりも、ずっと楽しい時間を提供してくれます。
 これもまた、「コト」より「モノ」なんですね。いつも言うように、私の言う「モノ」は世間一般に言う、物質や商品の「モノ」ではなく、自分の外部全体を表す語です。「コト」は内部。脳内。私から言うと、商品などは人間の脳内が作り上げる物ですから、「コト」に属します。
 桜庭選手の書く、「最近の子どもは、問題を処理する能力は長けているが、問題を創造することが不得手」というには大納得です。それこそ今の子ども(大人も)「コト」にどっぷりつかっていて、「モノ」に触れていないからでしょう。
 また、彼が、下積み時代の不条理なシゴキ(それはまさに不随意な「モノ」です)を、ある意味あっさり受け入れ、苦痛に思わないでこなしていくところなども、やはり自己の欲望や願望に強いこだわりを持っていないことを思わせます。そういう自分の思い通りにならないことをこなしていくうちに、いろいろな苦難やアクシデントという「想定外」に対処できるようになると。その通りだと思います。
 今の教育界には、そういう「若い時の苦労」がないんですよ。子どもをお客様だと思って丁重に扱っている。そんな子どもが、忍耐力のある、そして創造力のある大人に育つわけがありません。ただ、不満を漏らし、現状から逃げてしまう人間に成り下がるだけです。
 彼がいろいろなオファー…対戦相手であったり、ルールであったり…を、「いいですよ〜」と言ってどんどん受け入れ、そして、試合で想定外の展開にも焦らず対応し、さらに常に観客の反応を肌で感じながら観客のための試合をする、そんな姿はまさに「モノのふ」であります。
 そう考えると、前田日明さんが桜庭選手を「武士(もののふ)の中の武士(もののふ)」と称したのは、実に本質を見極めた至言であったということが分かります。
 私は来年度から新設なる中学の運営を担当します。私は生徒たちに、どんどん「想定外」な、「未知」な、ある場合には「不条理」な体験をさせていきたいと思っています。お仕着せや、単なる「コト」の暗記や、快適だけではいけません。中学までは「モノ」と戦うことが重要だと思っています。
 それができていれば、高校では本人に全てまかせられます。そこで初めて「自主性」が活かされます。「独創力」がなければ「自主性」もクソもありません。単なる「自由奔放」なんて絶対に許しませんよ。
 本当にいろいろ勉強になり、そして、自分の考えを強く支えてくれた良書でありました。皆さんもぜひ御一読を。

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2009.09.29

「アゲる」or「アガる」?

↓アゲアゲ
P1 々の雨でテンション下ります。いろいろ忙しいし、自分は歳とともに体力・気力が減退しているにもかかわらず、相手は常に高校生だし、けっこう無理矢理テンション上げていかないと大変です。疲れます。
 したがって、家に帰ると非常に物静かになります。家では、小学生の娘たちはもちろん、天然アゲアゲ系のカミさんも疲れを知らずいつでもハイテンションなんですが、さすがに私は帰ったら、調律ピッチをガクンと下げます。ヴァイオリンの弦を緩めてケースにしまうようなものです。そうしないとプチンと切れちゃう。
 そうしてリラックスしているうちに、私の静寂の時を破る招かれざる客が…。マンション経営の勧誘電話です。俄然テンションが上がる私。
 先方には申し訳ないのですが、私にとっての最高のストレス解消になります。今日の餌食の青年も可哀そうでした。なんかとっても面白いらしく、カミさんもわざわざ私が電話しているところに来て、笑いをこらえながら会話を聞いていました。ああ、面白かった。
 で、電話が終わるとまた虚しい時間がやってきます。もう一件かかってこないかなあ…。
 なんて、何やってるんだろ…。リラックスしたかったんじゃないのか?
 そう、それが今日の記事のテーマです。
 皆さんはどう思いますか?テンションが高い時、あるいはテンションを上げている時の自分と、低い時、あるいは下げている時の自分と、どちらが好きですか?どちらが本来の自分だと思いますか?
 最近生徒たちを見ていまして、とにかくテンションが高くないと楽しくないという奴らが多いことに気づきます。まあ、それは青春時代の特徴でしょう。若さとはそういうお祭り気分のことですから。
 しかし、なんて言いますかねえ、そのハイテンションっていうのがとっても受動的なんですよ。自分で何かを見つけて何かに燃える(萌える)っていうより、たとえばある種の音楽を聴いて気分を上げるとか、超笑えるお笑い番組を観て盛り上がるとか、そういう感じなんですよね。
 だから、そういうものを提供しないと、すぐに「つまんない。もっと面白いことしようよ」ということになる。だから、フツーの授業なんて奴らにとっては本当に「サゲサゲ」なわけです。
 で、どうも最近の子どもや若者はそういう「サゲサゲ」な状態を我慢する力に欠けていると感じるんですね。常に面白いこと、楽しいことが提供されていないと、とにかく不幸で不機嫌になる。小学生の英語教室をやっているカミさんも、しょっちゅうそういうこと言ってます。子どもたちが、すぐ「つまんねえ〜」って言うと。
 やっぱり、そういう常に楽しい環境というのも与えすぎたんですかね。学校の授業も楽しいのが一番という風潮があります。いや、楽しいのはいいんですよ。でも、その楽しさの質というのは、ゲームやバラエティー番組の楽しさとは違うはずですよね。でも、今の子どもたちは、常にそういうものを大人に、社会に期待しているような気がします。
 一方、あんまりアガってないように見えるオタクな生徒たちですが、実は彼ら彼女らも仲間内では異常にテンションが高くなっています。隠れてそういう場を作っています。そして、その様子をギャルに目撃されて、「キモい」と言われます(笑)。
 ま、それはいいとして、つまり、みんな「テンション(気分)を上げるもの」を外に求めるわけです。ですから、当然それは商売になります。金で「テンション」を買うわけですね。中にはのりピーのように、薬物を買う大人まで現れます。
20090930_92628 で、10年ほど前から、クラブで使われるようになった「アゲアゲ」という言葉に象徴されるように、以前は「アゲる」という他動詞が商品になっていましたが、どうも最近、「アガる」という自動詞が増えていたような気がするんですね。「アガるコスメ」とか「アガるアクセサリー」とか、やっぱり女性向けの商品が多い。
 これってちょっと面白い現象だと思いました。他者のおかげで「気分」や「テンション」や「女子度」や「運気」や「バスト」や「目尻」が「上がる」わけですから、事実としては「受動」なんですけどね、いちおう自動詞の「アガる」を使うと、多少能動的な雰囲気がしてきます。つまり、「アゲる」ために何かを購入するという目的的行為ではなく、それを購入して身につけたり受容したりすると、自分自身の何かが変化して、内側から上がっていくような感じがします。
 たぶん、「アゲてもらう」ことに空しさを感じ始めたのだと思います。無理矢理「アゲる」とサガった時空しいですからね。のりピーもその空しさに堪えられなかったのでしょう。
 だからって、自動詞の「アガる」を使っても、実際には何も変わりません。いや、それ以上に危険であるとも言えます。自動詞というのは、実は能動的であるというより「自律的」であることを表します。自然に、無意識的に現象することを表すんですね。
 たとえば、「運気を上げる」と言うと、それなりに「私」の意志が感じられますが、「運気が上がる」というと、運気自身が自律的に上がるという感じで、実は「私」の意志とは無関係、すなわち「私」にとっては他律的であるという、妙なことになるんです。
 開運グッズを身に着けると勝手に「運気が上がる」というやつですよ。ちょっとあやしい宗教じみたことになってくる。
 すなわち、音楽にせよ、ファッションにせよ、アクセサリーにせよ、化粧品にせよ、どんどん自らの意志が希薄になっていく。「アゲる」よりも「アガる」方が、より無意識化が進むというパラドックスが起きているわけです。空しさから逃げるために施した策が、さらなる空しさを生む。
 ま、こんなことを考えて勝手に盛り上がっているワタクシというのも、かなり空しい存在ではありますが、しかし、世の中の、特に若い女性の心理をこうして眺めてみますと、それなりに面白いことが分かってきますし、自らの反省にもつながります。
 なんて話を、天然アゲアゲ系のカミさんにしましたら、「オバサンたちは常にテンション高いよ〜!なにしろ子どもに負けないようにしなくちゃいけないからね〜!」とのこと(笑)。
 そうか。理屈抜きにそういうことか。それが健全な状態だな。子どもは金で買えないもんな。じゃあ、のりピーはいったいどうしちゃったんだろう…。
 とにかく、「ステージでアガる」と言ったら、昔なら緊張することを言いましたが、今では「ステージで気分が高揚してイケイケ状態になる」っていう意味になるんですかね。それに、昔は「男を上げる」とか「男が上がる」とか言いましたけど、今や「アゲる」も「アガる」も女性の専売特許みたいになっちゃいました。時代とともに世の中も言葉も変わりますな。

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2008.11.21

モンスターのお話

Pm 変わらずウチの娘たちのポケモン熱は冷めません。ポケモンの、作品としてのモンスターぶりについてはこちらに書いたとおりです。子どもに世の本質を見せないところが、あの作品の人気の秘密であり、長続きする秘訣であると書いたような気がします。そうですね、モノ心つかない子どもたちにとっては、ポケットモンスターこそが信頼すべき友人であり、現実の人間はまだまだモンスターにしか見えないのではないでしょうか。
 monsterの語源を遡ると、ラテン語のmonēreに行き当たります。monēreは警告するという意味だそうです。やはりかの国でもmon-という音は、日本語の「モノ」と同様、不随意、想定外を表したのでしょうか。調べてみる価値はありますね。
 ところで、ポケモンならぬチリモン御存知でしょうか。今ひそかに子どもたちに人気だとか。チリモンとは「チリメンモンスター」の略で、「ちりめんじゃこの中に紛れ込んでいる小さなエビやカニ、タコ、ヒトデなど」のこと。和歌山県のカネ上さんという水産加工業社が紹介して評判になったんだそうです。なるほど、ちりめんじゃこやシラスの釜揚げなんかに、時々小さなタコとか入ってて、ラッキーと思うことがありますね。ふつうはあれは除去するんだそうです。それをあえてそのまま出荷して、モンスター探しを楽しんでもらうというコンセプトなんですね。面白い。
 やはり、このモンスターたちも、本体のちりめんじゃこからすると、外部、異物ですよね。それが興味をひくというのは、やはり私たちが本体(標準・日常)だけでは飽き足らないものであるということを証明していますね。平坦で均質的な日常に、ちょっとした変化と刺激を求めるのは、子どもも大人も一緒です。
 でも、やっぱり非日常が日常を侵食するようでは困りますね。私のような仕事をしていると、様々なモンスターに出会います。まあ世間的に一番有名なのは、モンスター・ペアレントでしょうか。こんなひどい例もありましたっけ。でも、残念ながら(?)私の周囲にはほとんどいないんですよ。いや、個性的で楽しいある意味でのモンスターはたくさんいますけど、皆さん愛すべき方々です。まあ、ポケモンみたいな感じ?なんて言ったら失礼ですね(笑)。とすると、実は私はポケモンマスターとか、あるいはブリーダーとか。馴化させる技術を持っているのかも…なんてね。
 あ、そうそう、このモンスター・ペアレントという言葉、かの向山洋一が命名したんですよねえ。私からしますと、彼こそが忌むべきモンスターでした。体でっかいし。そして、隣の教室では、彼に洗脳された多くのモンスター・スチューデントが製造されていましたっけ(笑)。今や教育界の神扱いされてますけど、まあ、日本では怪物と神の境界線はかなり曖昧ですからね。それはそれでいいか。
 ところで、モンスター・ペアレントは日本独特の種かといいますと、そうでもないらしい。アメリカなんかでも、子ども離れできない過保護な親が増えていて、特に大学などでその対応に頭を悩ませているらしい。で、そういう親を、英語ではヘリコプター・ペアレントっていうんだそうです。何かあればすぐに飛んでくる。常に子どもの上空を旋回していて、何かあると急降下してくる。そんなイメージなんでしょうか。
 ところで、最近、ウチもモンスター・ペアレントだと思われているフシがあるんです。いや、ウチの下の娘が通っている村の保育所なんですけどね、とっても平和で素朴で素晴らしいんですけど、最近けっこうクレーマーな親が多くて大変らしいんです。
 世のご多分にもれず、学芸会とか運動会の演目の内容や子どものポジションに文句を言ったりする親が増えてきたと。運動会ではやりの「羞恥心」ネタをやったり、あるいは発表会で「うる星やつら」をやったり、あるいはビデオ鑑賞の時間に「天才バカボン」を観たりすると、必ず文句を言う親が出てくる。もっと高尚なことをやれ!と(笑)。
 ウチなんか、子どもの教育は「うる星」と「バカボン」と「ドリフ」だけにまかせているので、全然OKなんですけどね。もっと低俗にして本質的、ゲージツ的なものをやってもらいたいくらいです。で、こういうことをヘーキでほかの親たちに言うと、みんな呆れるというか、苦笑するというか、引くというか。ちなみに、保育所にバカボンのDVDを持って行ったのはウチです(笑)。ま、たしかに子どもたちの口調が全員「バカボンのパパ」になっちゃったらしいから、問題と言えば問題ですが。で、ウチこそモンスターということになっている(たしにか)。
 ま、そんなわけで、世の中、モンスター・ベアレントだけでなく、モンスター・ペイシェントとか、モンスター・コンシューマー(クレーマー)とか、モンスター・ドクターとか、モンスター・ティーチャーとか、モンスター・ポリティシャンとか、モンスター・プレジデントとか…つまり、あらゆる分野にモンスターが出現していまして、いったいどっちが普通なのか、どっちが日常でどっちが非日常なのか、まったく分からない状況になっていますね。いや、ある意味この世にはモンスターしか生息していなくて、その覇権争いが起きているだけかもしれませんね。冷静に考えれば、私もかなりなモンスター・ティーチャーですわ。もしかして、あなたもモンスターじゃないですか?というか、自分がモンスターでないと言い切れますでしょうか。

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2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2007.12.25

百人一首に見る「もののあはれ」

412hsfd9w2l_aa280_ 今日は、仕事上お世話になっている英会話スクールのクリスマスパーティーにおじゃまして、ヴァイオリンでクリスマスソングを弾いたり、皆さんと一緒に英語のゲームに参加したりして、楽しませていただきました。昔の教え子との再会など、出会い多数あり。
 さて、22日の記事に書いたとおり、ウチではちょっと早めにイヴやら偉い人の誕生日パーティーをやってしまったのですが、いちおう世間様の慣習にも従って、子どもたちへのプレゼント贈呈を行ないました(形としてはサンタさんが深夜家宅侵入したという設定)。
 子どもたち、いつもより早起きして、二つの包みを見つけました。一つはけっこう大きめ。一つは小さいけれどかなり重い。期待は膨らみます。
 そして、両親に促されるままに包みを開けると…ガ〜ン…なんか固まってます。大きいつづらはオセロゲーム。渋い。さっそくやり方を教わってゲーム開始。なんとなく盛り上がりに欠けるので、これは黒猫と白猫の勢力争いだという設定を与えましたら、少しその気になってきた…とその瞬間、ウチの本物の黒猫(下半身不随の子猫ミー)が盤面の上をズズズ〜ッといざって行きまして、全てが終了。黒猫の勝ち〜(笑)。
 で、もう一つの小さいが重いつづらはと言いますと、これがもっと渋い。渋すぎる。子どもは「何これ?」って感じ。
 そう、なんと「百人一首」なのです!
 言っておきますが、これを選んだのは私ではありません。カミさんです。自分が小さい頃オセロと百人一首をやっていたのを思い出したのでしょうね。だからってねえ、それを子どもにも押しつけるのはねえ。今日娘たち、小学校や保育所に行ってどういう会話したんでしょうね。みんなはDSだとかWiiのソフトだとか言ってるのに、ウチは…オセロと百人一首かよ。「ウチは電気で動くものは買ってくれないの」…切ないなあ(じゃあ買ってやれよ)。
 で、百人一首です。せっかくですからこれについてちょっと面白い話、というか私の最新の研究成果(?)を書いておきましょう。
 もうご存知の方もいらっしゃるでしょうね。百人一首の謎、秘密。実は壮大な歌織物が構成されていて、そこに暗号が隠されている…。
 織田正吉さんと林直道さんによる研究が有名ですね。というか、織田さんの発見を林さん(経済学者として超有名な方)が発展させたということで、二人の間に微妙な空気が漂ってます。
 お二人の本を読むとよくわかるんですが、今日はこちらのまとめサイトを紹介しておきます。上手に、そしてきれいにまとまっています。ぜひご覧ください。

百人一首に秘められた謎

 これはもう単なるこじつけではありませんよね。もしこじつけだとしたら、それはそれですごいことですよ。
 さてそんなわけで、私から見ましても、かなり駄作の多い不思議な歌集であります。で、私は私なりに私の「モノ・コト論」で百人一首を料理している最中なんですね。特に注目しているのは「もの」いう言葉です。みなさんも漠然と「もの思ふ」系の言葉がたくさん出てくるなあとお感じなったことがあるのではないでしょうか。
 単独で「もの」という名詞も出てきますし、「ものを」という助詞もよく出てくる。それから、「もがな」。これは私の考えでは「ものかな」が語源ですので、これも数に数えます。
1001 それに色を付けてみますと、右の写真のようになります。百人一首は基本的に年代順に並んでいます。この表は横書きなので、上が古いもの、下が新しいものになります。
 どうでしょう、まあ当たり前と言えば当たり前ですけど、下の方がカラフルですよね。つまり時代が下ると和歌のテーマが「もの」になっていく、ワタクシ的に言いますと、歌の内容が「不随意」への詠嘆になっていくということです。
 これこそ「もののあはれ」ですよね。何度も書いて申し訳ありませんが、本居宣長センセーはダメです。あんなにいばって「もののあはれ」論を書いておいて、肝腎の「もの」は「なんとなく付けたものだ」みたいなこと言ってごまかしてる。というか最も大切なことに気づいてない。「もの」という言葉の意味をとらえきれてないんです。あんまり神格化しない方がいいですよ、彼の「もののあはれ論」。
 というわけで、こうして百人一首を並べるといろんなことがわかるんです。まだまだいろいろ書きたいこと、あるいはそれぞれの歌の新解釈なんかたっぷりあるんですが、それはこれから小出しにして行きます。駄作へのツッコミも含めて、時々一首ずつ取り上げて紹介していこうかな。
 それにしても娘たちちょっと可哀想ですね。こんな話をしても絶対わからないしなあ。いちおう、今は「これもポケモンカードみたいなもんだ。世界で一番古いタイプかもしれない」とか言って、その気にさせてますが。彼女ら、この歳で早くも「もののあはれ」を感じてたりして(笑)。

林直道の百人一首の秘密

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2007.12.16

『鳥獣戯画がやってきた!』(サントリー美術館)

国宝『鳥獣人物戯画絵巻』の全貌
Giga1 昨夜、両国国技館でのライヴ終了後、上北沢にて車中泊。ふとんを積み込んで行ったんで、けっこうぬくぬく暖かかったっす。ちょっと呑み過ぎて、朝はやや二日酔いぎみ。
 午後から新宿でバロック・バンドの練習がありまして、さてそれまでどうしようかな、どっか美術館でも行ってくるかなと思い、コンビニで情報誌を見たら、あららなんと今日までじゃないですか!鳥獣戯画。これは行かねば…ということで行ってきました。
 鳥獣戯画については、今までも『鳥獣人物戯画』と『無伴奏チェロ組曲』『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』という記事の中で書いてきましたね。その実物に会える。これは一つの夢の実現であります。
 六本木のサントリー美術館に着くと、さすが最終日、入場に30分近くかかりました。人気ありますね。中も大変な混雑で、最初から順に全部見ていくとこれは何時間もかかってしまう。いや、全体的な時間よりも何より、止まって観たいところも自動的に流れていかねばなりません。それはいやです。行列に従って自分がベルトコンベアみたいになって順に見ていくというのは、もちろん本来の絵巻物の観賞法ではないわけですね。
 そこで、私は列の後ろからのぞき見ですませました。これが案外面白い。で、私は自分を固定して、目の前の前の人垣のスリットから絵巻物をちらっと観るわけです。普通ならけっこういらいらする状況かもしれませんね。じっくり観られませんから。
 ところがですね、ものは考えようでして、瞬間的に見える絵は、それこそまるでアニメのセル画みたいなもので、脳内でその前後を補って案外ダイナミックな動きを感じさせるんです。行列に参加していたら、きっと単なる静止画にしか見えなかったでしょうね。もちろん、こんなのぞき見も本来の絵巻物観賞法ではありませんけど。ま、本物を前にこんな実験的なことできるのも、ぜいたくな話ですよね。
9882 ちなみに本物の上には写真版が掲示されていて、それは常に見えるわけですよ。でも、やっぱり複製はだめですね。全然躍動感が違う。ちょうど音楽のライヴと録音の違いみたいなもので、筆致の生命感があまりにも違う。これは予想以上でした。この作品の作者の天才性はもう分かりきったことですが、1本1本の線がここまで生々しいメッセージを持っているとは…。
 運筆のリズム感、これはもうほとんど舞踏のようでした。それがスリットからぐいぐい伝わってくる。ウサギやカエルがどうのということではなく、線自体が擬人化している。うん、そうだ。これは動物の擬人化なんかではない。逆なんじゃないかな。いや逆以上に、人間や動物が「線化」してるのかもしれない。
 今までは、それが芸術であれ記録であれ報道であれ、人間が表現するものは全て「モノ」の「コト」化だとしてきましたが、最近どうも違う気がしてきました。芸術に関しては「モノ」の「モノ」化じゃないのか。コト=情報はスルメと同じで死んでいます。変化しません。しかし、芸術は御存知のとおり、非常に生き生きして生々しいものです。作者の意図(コト)以上に、受け取り手の側でどんどん成長していってしまう。どうにも抑えられないモノです。
 すなわち、芸術家たる作者はあくまで作者(クリエイター)であって、記録者ではない。自らと世界との接点に生まれるいかんともしがたい「モノ」を「物」を通じて表現し、そこに新たな「モノ」を生み出していく。縁が縁を生み、どんどんいろいろな「コト」や「モノ」を吐き出していく。優れた作品はそれをほとんど無限に続ける。時間軸も空間軸も超えて、気味が悪いほどにその根を広げ、そこに新たな幹や葉を増やしていく。
 上に掲げられた写真版は、いわば記録であって、それは「モノ」の「コト」化されたものです。それなりの意味はありますが、やはり本家の繁殖力(生殖力)にはかないません。昨日のライヴもカメラクルーが入って記録されていました。いつかテレビで放映されるようですね。しかし、それもやはり所詮は「コト」であって、生(ライヴ)の生命感(ライヴ)はないわけです。
 やはりそうしますと、お釈迦さまの悟られた「コト(不動の真実)」である「無常(もののあはれ)」というのは世の中のどうしようもない本質であり、それは決して空虚なものではなく、逆に豊かなものであることが、自然と首肯されるのでありました。
 …と、また私の頭の中がもののけ状態になってきましたので、このへんにしておきます。ところで、このブログの文章というのは「コト(記録・情報)」なんでしょうか、それとも「モノ(芸術)」なんでしょうか。なんかどっちでもないなあ(笑)。ちょっと不安だ。
(今日ホントは戯画の中の猫に関して書こうと思ったんですけど、話が勝手にそれてしまいました)

サントリー美術館

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2007.11.05

『少食の実行で世界は救われる』 甲田光雄 (三五館)

88320364 1日1700キロカロリー、腹七分目の少食、あるいは断食によって、風邪をひかなくなった、花粉症がなおった、肝臓の状態がよくなった、精神的にも健康になった…この本に書かれている様々な実例は私の実感と全く一緒でした。こういう体験をしている人はけっこういるんだなと思っただけで、私は心強い気持ちなりました。
 いつも読んでくださっている方にはしつこくて申し訳ないのですが、私は「一日一食」です。もうそろそろ3年半になります。おかげさまで、体調も精神もすこぶる健康であり、冗談でなく人生が大きく変わりました。
 体重もベストをキープしています。というか、ちょっと最近太ったんですよ。一日一食でも多いとなると…。二日一食ってものいいかもしれませんけど、まあ疲れて帰ってさらに断食じゃあね、精神的に辛いかも。あの24時間ぶりの食事、すなわち夕飯がうまいのなんのって。カミさんのメシのうまさに感激できるだけでも一日一食の効果はあったというものです(どういう意味?)。
 さて、そんなわけで、人になんと言われようと自分が経験しているので、私の「主義」は揺らぎません。現代の様々な問題はどこかで「飽食・過食」とつながっていると信じています。だから、世界中が少食になればいい、あまったものは不食の人たちに分け与えればいい、と本気で思っています。
 もちろん私以外にもそういうことを考えている人はたくさんいまして、そんな中でも特に有名なのが、「甲田式健康法」「甲田メソッド」で有名な甲田光雄博士ですね。甲田さんはその道50年近い超エキスパートであります。
 甲田さん自身も慢性の病気に苦しんでいたそうで、西洋医学を修めながらその限界を身をもって体験し、そして医学界、栄養学会の常識、というか戦後日本の社会の常識を破る「少食療法」を自ら実行するようになったと言います。今ではさまざまな難病を「少食」のみで治す甲田医院の院長としても大変忙しい毎日を送っておられる。ご自身今でももちろん超少食でいらっしゃるのですが、御とし83でバリバリにお元気です。そう言えばあの日野原重明先生も夕食のみの一日一食イストなんですよね。96歳でしたっけ。それであのバイタリティーですからねえ、もうお二人のお医者さんを見るだけでも、いかに夕飯だけ食べる食習慣が素晴らしいか御解りになるでしょう。
 さて、甲田先生、たくさん本を書いていらっしゃいますが、この本は「『甲田メソッド』の決定総集篇」と銘打たれていまして、たしかに様々な角度から少食の効能が語られていまして、初めて読む方にもおススメできます。
 ただどうでしょうかねえ、私はそっちの道に慣れている人なので、えっ?と思うような(社会的)「非常識」が出てきても、あるいは仏教の言葉が出てきても、西式健康法が出てきても、そしてそして「世界人類が平和でありますように」という白光真宏会のネタが出てきても、全然抵抗ないんですけど(というか序からして西園寺昌美さんが書いてるし…)、フツーの方にはなんか異様な感じがするかもしれませんね。ま、とかく本当のことを言うと胡散臭くなるものです。
 興味を持った方、メタボが気になる方、健康になりたい方、心を病んでいる方、劇的に人生を変えたい方は、そういう胡散臭さもひとまず呑み込んで、とにかく読んでいただくしかないわけですが、結論としては世の中で言われる、特に最近は「食育」とかふざけた言葉でそれらしく語られる「一日三食しっかり食べましょう」「一日30品目食べましょう」みたいな暴力的盲目的な食に対する「常識」がいかに危ういかということですね。自らの健康のためにも、他人のためにも、地球のためにも。
 特に「朝食」の弊害は大きい。生徒にもとにかく便秘のやつらが多いんですが(特に女子)、そういうやつらにはまず朝食を抜いてごらんって言います。そうするとあら不思議宿便が解消することが多い。やっぱり起きがけは排泄の時間であって、食事の時間じゃないんだよな。
 まあ、こんなことばっかり言ってると、そっちの方が非常識暴力的盲目的だ!と非難されそうですが、自ら経験していることしか信じられませんからお許しを。そして、自分のためかどうかは死ぬときになってみなきゃ解らないかもしれませんけど、とりあえず地球のためには少食の方がいいでしょ。それだけはたしかです。
 さて、この本、私にとって痛快だったのは、少食以外の話の部分でした。もう冒頭からして少食はそっちのけで子どもの躾の話が始まるんですよ。朝の挨拶、返事、はきものを揃える、便所に行ったら手を洗う…いいことです。その通りです。ウチでも実はちゃんと出来ていないことが多いのでちょっと反省しつつ、やっぱりそうだよなあ、と教育の原点を思い出しておりました、ハイ。

私の「少食」「一日一食」については「心と体」カテゴリーで探してみてください。

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2007.10.31

「学習」と「教育」〜『アンデス 神の糸を刈る日(シリーズ 天涯の地に少年は育つ)』(NHKハイビジョン特集)

Ck01 何気なく観たこの番組、地味でしたが何かとても感じるところがありました。ちょっと前に紹介した「天空の民 ブロックパ」と同じようなことを思いましたね。
 アンデスの高地、標高4500メートルの村で年に一度だけ行われる「チャク」という狩り。ビクーニャという野生動物を生け捕り「神の糸」を紡ぐ毛を刈ります。男も女も、そして子どもたちもそれぞれ役割を与えられて、神からの恵みを得るために、皆で協力します。子どもたちはそんな中でいろいろなことを学んでいきます。
 共同体における教育、いや学習ですね、学習の本来のあり方。ブロックパのところでも書きましたとおり、日本に一番欠けている部分です。日常の生活や仕事ぶりを通じて、いったい私は娘たちに何を伝えているのだろうか。非常に心もとない。情けないことです。
 「学習」は「学んで習う」ということです。「学ぶ」は「真似ぶ」、「習う」は「慣らう」、すなわち本来の学習とは「真似をして慣れていく」ことです。子どもにとってまず真似るのは、言うまでもなく親でしょう。親の真似をしていろいろやってみて、そして慣れていく。
 今の日本ではその点どうなんでしょうね。欲望を満たすことに奔走する大人(親)の真似をして、その文明的生活に慣れていくというのが実情ではないでしょうか。誤った「学習」ですよね。
Ck02 番組の中では「学校」も登場しました。けっこう、学級崩壊してました(笑)。まあ、あんなもんでしょう。いかにもな先生が「教育」にいそしんでましたね。「教え、育てる」っていうやつです。ああ、ここにも近代化の波が…。もちろん、こういう世界になっているわけですから、彼らにも教育を受ける権利や義務はあるでしょう。それはかまいません。ただ、日本のように、家庭や地域での「学習」の機会が減って、学校での「教育」ばかりになってしまわないか、なんとなく心配になりました。ブロックパの時もそうでしたね。
 つまり、「学習」は子どもの主体的な活動であり、「教育」はあくまでも大人からの押しつけだということです。「学習」と「教育」は、同じことを違う視点で言ったものにすぎないと考える方もいるかもしれません。でも、どうなんでしょう。本当にそう言って片づけていいものでしょうか。本当はどちらが先にあるべきなんでしょうか。
 自分はいちおう教育者と言われてしまう仕事をしているので、この点に関しては常に気をつけています。たとえば大学受験の指導にしても、「俺はこうやって解いてるんだよ。真似したきゃ真似してくれ」とよく言います。ま、場合によっては生徒の方が自分よりできる時もありますから、その時は私が「学習」させていただいてますけど(笑)。今、ちょうどそういう時期でしてね。3年生の「真似したい、慣れたい」という気持ちが盛り上がっています。そういう時が一番伸びます。だからこちらも忙しいけれど楽しい。
Ck03 番組では、父親、母親、近所のおっちゃん、おばちゃんが、見事な技術と知恵と連携でビクーニャを捕まえていました。子どもはそれを見て「よし来年はオレも…」とか思うのでしょう。素晴らしい「学習」の場だと思いました。そう考えると、私も受験という1年に一度の「狩り」とか「刈り」を一緒にやってるようなものですね。一見全然違うような気がしますが、実は同じようなことをやってるのかもしれない。「○○大学」という獲物…いや神からの恵みをゲットするために、技術と知恵と連携を駆使しているとも言えますね。来年春の猟果はどんなもんでしょう。ペルーの彼らもビクーニャを一頭も捕れない年もあるとか…いやいや、そんなことは考えないようにしよう(笑)。
 いやあ、チャクの独特の雰囲気には静かに興奮してしまいました。特にお母さんたちのたくましさにはびっくり。ビクーニャと思いっきり格闘してました。母は強しですねえ。そんなところからも子どもたちはいろいろ学ぶのでしょう。教えずとも教えることはできるわけですね。そうするとですね、「教育」なんてものは、「自然」が語らずともやってくれるわけで、大人もまた子どもにとって「自然」であればいいのかなあ、とも思えてきます。今の私たち、日本の大人、親たちは、子どもにとって全く「自然」ではないのでしょう。じゃあ何なんでしょう。子どもの方がずっと「自然」ですよね。なんかいやになってしまいますね。

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