カテゴリー「育児」の101件の記事

2022.09.26

田嶋陽子が説く人権・男女

 

 

 ん、これは面白かった。勉強になった。

 田嶋さん、教え方うまいわ。毒舌のあとの笑顔に「愛」を感じますね。

 テレビではああいうキャラを演じていますが、本当は優しく「女性らしい」人です(本人はこの言い方嫌いですけど)。

 実はウチの家内と田嶋さんの歌のお師匠さんが共通でして、なんとなく身近に感じるところもあるのです。

 ここで「生徒」たちが納得しているように、たしかに時代がようやく田嶋陽子に追いついてきた感じがありますね。

 何十年も前から、未来を予測し、見えていた未来をしっかり導いてきたその功績は計り知れないものがあると思います。

 いわゆる過剰なフェミニストたちとは明らかに一線を画していますよね。

 私も比較的保守的な男女観を持っており、かつて担任したクラスの目標を「男は男らしく、女は女らしく」と決めていた時代もありました。

 それが今では私は家内のもとに生きております(しかし、家事は全くやらず怒られています)。

 一方、我が家の女衆はいわゆるフェミニストを毛嫌いしており、これはいったいどういう心理なのか、興味深く観察しているところです。

 たしかに田嶋さんや舛添さんがおっしゃるように、そして若者たちが自然に思っているように、男女だけでなく、社会的な「区別・差別」をいったんチャラにして、多様性からスタートして整理しなおすのが良いでしょう。

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2022.09.05

ひろゆき&成田悠輔 in東大…ヤバすぎる日本の教育

 

 

 日は高校にて勤務。私の担当は(なぜか)仏教。座禅指導やら法話っぽいことやら、エセ坊主がそれらしくやっております(笑)。

 ウチの学校はまさに社会の縮図のように、多様な生徒が共存しております。

 偏差値というつまらない基準で語ってしまうと、それこそピンからキリ。

 そんな、ある意味理想的な環境ですから、教育…いや学習、ということを広く大きな視点で考察することができます。

 この、ひろゆきさんと成田さんと、元文科大臣の討論もよくわかります。すなわちエリートによるエリート教育についての論点ですね。

 これについても、私は今、某大学の元学長さんや、外国人大学教授の皆さんと具体的に対策を考えています。その基本中の基本は、絶対に文部科学省の傘下に入らないこと。

 いわゆる旧来の「学校」のシステムでは、そうしたエリート層(学力だけなく)の能力を伸ばすことはできません。

 もちろん、旧来の「学校」にも存在価値はあります。平均的な中間層、国力の中心となる労働者を作る意味では、これからも重要な存在となるでしょう。

 近代教育によって、かつての Slave は Labor や Worker にたしかに格上げされましたが、しかしそこでは Creator は育ちません。

 なぜなら、そこで扱う情報はすべて過去のものだからです。

 創造力とは、すなわち未来の情報をいかにダウンロードするかという能力のことです。

 最近の私は、その方法をまずは大人の皆さんに伝授する仕事をしています。それは大人でもできることであるし、そういう大人が増えることによって、子どもたちへの教育の内容も変わると信じているからです。それはアートやスポーツの世界でも全く同じです。

 21世紀の半ばまでにはなんとかしたいなあ。あと30年か。生きているうちになんとかします。

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2022.08.08

誡太子書(花園天皇)現代語訳(5)

 たとえ学問の道に入るといっても、なおこのような失敗が多い。深く自らこれを慎み、有益な友を得て切磋されるべきである。学問でさえ誤りがあれば、道に遠い。ましてやその他のことは言うまでもない。深く誡めて必ずこれを防ぎなさい。そして、近ごろあなたが親しくするところ、すなわちつまらぬ人の慣れ親しむことはただ俗事のみで、本性は相近くとも、習いはすなわち遠い。たとえ生来の徳を備えるといえども、なお感化されることがあることを恐れる。ましてや上智に及ばないことを恐れないでよかろうか。徳を立て学識を成す道は、かつてより由るところがない。ああ、悲しいかな。先皇の諸業績は、今時たちまち堕落してしまうだろう。

 私は本性が拙く、智恵は浅いといえども、ほぼほぼ典籍を学び、徳義を成し、王道を興そうとしている。それはただ宗廟の祭祀を断絶させないためである。宗廟の祭祀を絶やさないかは、太子の徳にかかっている。だから、今あなたが徳を捨てて修めないならば、学ぶべき所を一旦溝に埋めて再び用いないようにしてしまうことである。これは私が胸を撃たれて号泣し、天に叫んで大きく嘆息するところである。五刑のたぐいは数多くあるが、罪として不孝よりも重大なものはない。その不孝の中でも、祭祀を断絶させることよりも甚だしいものはない。慎まねばならない。恐れねばならない。もし学問の功績が現れ、徳義を成就すれば、ただ帝の御業績を現世で盛んにするだけではなく、また美名を来世に残し、上は先祖に大孝を致し、下は庶民に厚徳を与えるだろう。そうすれば、高くしてしかも危うからず、満ちてしかも溢れない。なんと楽しいではないか。一日の屈辱を受けて、百年栄えを保つなら、忍従することができる。ましてや積み重なる古典に心を遊ばせれば、つまらない束縛もなく、本の中で故人に遭えば、ただ聖賢との交流がある。小さな部屋を出ずして千里を思い、あっという間に万古を旅する。楽しみに最も甚だしいものは、これに過ぎるものはない。道を楽しむと乱に遭遇するのと、憂い喜びの異なること、日を同じくして語ることはできない。あなた自身どちらを択ぶべきか、よく審らかに考えるべきである。

(完)

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2022.08.07

誡太子書(花園天皇)現代語訳(4)

 詩書礼楽をもってせずしては世は治めることができない。これを手段として寸陰を大切にし、夜も昼に続いて、精しく研究するのがよろしい。たとえ学問が百家にわたり、六経を暗誦するとしても、儒教の奥義を得ることはできない。ましてや、大学・中庸を学ばずして、治国の術を求めるのは、蚊や虻が千里の遠きを思い、鷦鷯(みそさざい)が九天の広きを望むよりも愚かである。だからこそ考えて学び、学んで考え、経書に精通し、日々自己を省みれば、そのようなことに似ることはないだろう。学問の要たる万物の智を身につけ、まだ起きていないことを先に知り、天命の終始を理解し、時運の難易を区別し、もしくは過去と今を比較し、先代の興廃の道筋を斟酌するなど、変化すること際限がない者である。諸子百家の文を暗誦し、巧みに詩賦を作り、議論を為すことができ、多く官僚が皆それぞれを掌握する所があれば、君主がどうして自らこれらを労する必要があろうか。だから、宇多天皇の遺誡に「天子、雑文に入りて日を消すべからず云々」とあるが、近ごろ以来の愚かな儒学者は、それを学ぶというとただ仁義の名を守ってばかりで、いまだ儒教の本質を知らない。苦労は多いが功はない。司馬遷の言う「博くして要寡きもの」である。また、最近一群の学徒がおり、わずかに聖人の一言を聞いて、自らの臆測の説を用い、仏陀や老子の言葉を借りて、みだりに中庸の意味に取り、湛然虚寂(豊かに落ち着いているさま)の道理をもって儒教の本質となし、まったく仁義忠孝の道を知らず、法度に従わず礼儀をわきまえず、無欲清浄は取るべきものに似ているといえども、ただこれは老荘の道であり、孔孟の教えではない。これは同時に儒教の本質を知らないことであり、これを取るべきではない。

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2022.08.06

誡太子書(花園天皇)現代語訳(3)

 これに加えて、昔から武力革命が続き、皇室の権威はついに衰えている。なんと悲しいことではないか。皇太子よ、かつての皇室の興廃する理由をよく観察するがよい。手本は近くにあり、明らかに目に見えるものである。ましてや、時は流れ、人が皆暴悪になるに及び、智慧が万物にあまねく広がり、才能が世の太平と波乱を経験する以外に、どうやってこの乱れた俗世間を治めることができるであろうか。そうして凡庸な人々は太平の時に慣れてしまい、かつてのその時の世の乱れを知らない。時代が太平ならば、すなわち庶民と君主といえども治めることができる。でから、堯舜が生まれて庶民の上にいるならば、十の桀紂がいたとしても、世は乱れるはずもない。勢いが治まっているからである。

 現在、いまだ大きな乱に及ばないといっても、乱の勢いがきざしてからすでに久しい。一朝一夕といった少しの時の話ではない。聖主が位にあれば、すなわち平穏であろう。賢主が国政に当てれば、すなわち乱はないだろう。もし主君が賢聖でなければ、すなわち恐ろしいことに乱はたった数年の後に起こるだろう。そして、一旦乱が起きれば、すなわちたとえ賢哲のすぐれた君主といえども、数ヶ月で治めることはできない。必ず数年を待つ必要がある。ましてや凡庸な君主がこうしためぐり合わせのもとに立つならば、国は日に日に衰え、政治は日に日に乱れ、国勢は必ず土崩瓦解するに至る。愚人は時の変化に気づかず、かつての泰平をもって、今日の衰乱を判断する。なんとも誤った考えではないか。近い代の君主はいまだこのような運命には際会していないが、おそらくはまさに皇太子が即位する際、この衰乱の運命の時に当たるのではないか。内に賢明な聴く耳を持ち、外に各方面に通ずる優れた策があるのでなければ、乱国に立つことはできない。これが私が強く学問を勧める所以である。現在の凡庸なあなたはいまだかつてこのような時機というものを知らない。よくその思いをめぐらし、この悪い風習の時代の上に加えなさい。

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2022.08.05

誡太子書(花園天皇)現代語訳(2)

 秦の政治が強かったといっても、漢と並ぶところとなり、隋や煬が盛んだったといっても、唐がそれを滅ぼすところとなった。しかし、へつらう愚人は次のように考える。我が朝廷は万世一系で、かの外国(中国)の、徳を以て政権交代し、武力を以て政権を争うのと同じではない。だから徳が少なくても、隣国がすきを窺う危険性はなく、政治が乱れるといっても、他民族に政権を奪われる恐れはない、これは我が国が守られているのであって、他国にまさっている点である、と。であれば、わずかにでも先代の威光を受けて、最悪の国にしなければ、伝統の法制を守った良い君子として充分であろう。必ずしも徳が堯舜に及ばず、教化すること栗陸氏に等しくないことを心配する必要はない、と。無知な庶民は、こうした言葉を聞いて、皆そのとおりだと思ってしまう。私はこれは深く間違っていると思うのである。

 なぜならば、釣り鐘は響きを蓄えているが、それを叩かなければ、いったい誰がこれを音がないと言うだろう。澄んだ鏡はそこに影像を含んでいるが、すべて鏡の前に立たなければ、いったい誰がこの鏡は映らないと言うだろうか。結果はいまだ顕れずといえども、物の道理はすでに明らかである。よって孟子は紂王を逆賊とし、武王を責めることはなかった。少ない徳で神器を保持しようとして、どうして理の当たるところとなるだろうか。もしそのようにしようと思うなら、累卵が崩れる岩の下にあるよりも危険で、腐った縄が水底の上にあるよりもひどい。たとえ吾が国を他民族からの侵略から守ったとしても、皇位の交替が多くなるのは、そのためである。

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2022.08.04

誡太子書(花園天皇)現代語訳(1)

Th_-20220807-180640 皇陛下がたびたび言及されている「誡太子書」。

 花園天皇が自らの皇太子に対しての大変厳しい言葉を綴った文書です。代々の天皇、皇太子に対する永遠のメッセージとも言えましょう。

 また、私たち庶民の生き方に対する一つの指標であります。

 原文は厳格な漢文で、なかなか読みにくいので、私なりに書き下したのち、わかりやすく現代語訳してみました。

 あくまでもワタクシ流の解釈です。細かい質問などにはお答えできません。あくまでも御参考までに。

 数日に分けて公開します。

 

 誡太子書

 私(花園天皇)が聞くところによれば、天が庶民を生み、君子を立てて民を養うのは、人や物をうまく利用するためである。民は愚かであり、これを導くのに仁義をもってし、凡俗の無知を治めるのに政治を以てする。もしその才能がなければ、君子の位についてはならない。人民の一つの官職でさえも、これを失うと、やはり天下は乱れるという。すきを狙う鬼の災いは逃れることができないのだ。ましてや、君子の大切な仕事については、必ず慎み、恐れなければならない。

 それなのに、皇太子は宮中の人たちの手によって成長し、いまだ庶民の苦難を知らず、常に華やかな衣服を着て、糸を紡ぎ布を織る大変さを思うことがない。いつまでも庶民の供した穀物のおいしい料理を腹いっぱい食し、いまだ種植えや刈り取りの苦労を知らず、国に対してかつて少しの功もなく、民に対してほんの少しの恵みもなかったではないか。

 ただ先帝の残した威光というものをもって、何も考えず君子の政務の重責を遂げようとする。徳がないのに誤って王侯に託し、功もないのにもし庶民の中に赴くならば、これほど恥ずかしいことがあろうか。また、詩書礼楽という庶民をまとめる四術をどうやって習得するのか。皇太子自ら反省してほしい。もし(詩経にあるがごとく)温かみと誠実さの教えをを身につけ、諸事に通じる見識で世の意味を悟れば、それは善いことである。とはいえ、やはり足りないことがあることを恐れ、ましてやいまだ自らが道徳を身につけず、少しでもかの重い位を期待するのであれば、これは求めることと為すべきこととが違っていることになる。たとえば、まるで網を捨てて魚がかかるのを待ち、耕さないで穀物が熟すのを期待するかのようである。これらを得ることは決して難しくない。たとえ勉強してこれらを得たとしても、おそらくはそれは自らのものになっていない。

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2022.06.30

人間の知性について 〜ひとくくりにできない才能と広がる未来への可能性〜 (COTEN RADIO)

 

 岡から山梨に戻る車の中で聴きまして、運転しながら思わず膝を打ってしまいました。

 そう、これって最近私がいろいろなところで語っているところです。

 こうして若い人たち、それもいわゆる言語的、論理的な頭の良い人たちが、ある意味自己否定的に問題提起するのは素晴らしい。

 ワタクシのモノ・コト論的に言いますと、いわばコト的な頭の良さだけではなく、モノ的な頭の良さがようやく再評価されてきているということです。

 最近私は言語、中でも文字に対する不信感を訴え、結果として古代日本のような無文字社会の優位性について語ることが多い。あるいは絵画、多くの音楽のように言語によらない芸術の価値、また言語をあえて混乱させた無意味性について考えることも多い。

 ようやくですよ。近代が終わろうとしているわけです。近代の洗脳から解放された若者たちが生まれてきたのは大きい。

 ここで否定されるべきなのは、やはり「学校」でしょう。学校、近代教育こそが、知性の意味を矮小化してしまった。この動画でも語られているように、スポーツをしたり楽器を演奏したり、つまり体を動かすのも「脳」ですから、「頭の良さ」は言語・論理、いわばお勉強だけではないはずです。

 そして、直観や社交性もまた「頭の良さ」の基準となってもいい。そうすると、おそらくどんな人たちもそれぞれの「頭の良さ」を持っているはずであり、現代日本のような偏った基準によるカーストなど意味がないことがわかるはずです。

 もちろん「知性」の「知」が、「知識」すなわち過去の情報の記録を意味することも確かですが、そういう狭義の「知性」の時代は終りつつあるとも言えましょう

 狭義の「知性」において、かなり強いコンプレックスを持ってきたワタクシとしては、やっと自分の時代が来たのだとも感じます。未来の情報の直観に関しては自信がありますので。

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2022.03.06

シューマン 『ピアノ協奏曲イ短調』より(ウルトラセブン最終回にちなんで)

 

 ルトラセブンの最終回が放送されました。もう何度目でしょうか。また号泣してしまいました。

 一昨日、あるところで講演をさせていただきました。その時、「地球を守る」という天命を知るきっかけとなったのはウルトラセブンだという話をしましたところ、私以上のセブンマニアの方がいらっしゃって、すっかり意気投合してしまいました。昨日も「明日はいよいよ最終回ですね」と、その話でもちきり。

 そして今日、最終回「史上最大の侵略」の後編が再放送されたわけです。もうあまりに多くの方々が語り尽くしていますから、私が今更語る必要もありませんね。本当に名作です。私はまた改めて自分の人生の意味を噛みしめたのであります。

 作品の中でも、特に名高い「あのシーン」のBGMは、ご存知シューマンのピアノ協奏曲イ短調、リパッティとカラヤンによる演奏です。

 セブンの音楽を担当した冬木さんについては、今までも何度か書いてきました。最近ではこちら

 教会オルガニストだったこともあるという冬木透さんは、クラシック音楽を知り尽くした作曲家。そんな彼がこのシーンでこの曲のこの演奏を選んだことで、私のその後の人生(もちろん音楽人生を含む)が決定されたといっても過言ではないでしょう。

 子どもに見せる番組、そして聞かせる音楽は良質であってほしい。そんなことを改めて感じながら号泣していた私でした。

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2020.12.21

Kenko 天体望遠鏡 Sky Explore SE-AT90M

Th_61pdmtywc5l_ac_sl1200_ 日は幼稚園の年長さん親子を対象とした「グレート・コンジャンクション観望会」を行いました。

 大成功、大盛況でした。やっぱり星の世界はいいですねえ。

 今回使ったのはこの望遠鏡。今回のために買いました。

 セレストロンの28センチのシュミカセも持っているのですが、なにしろデカくて重い。持ち出すのがおっくうで、地下室に眠ったままになっています。そこで持ち出し用として、こいつを新規購入しました。

 昔から考えますと、こんなお値段でまあそこそこの天体望遠鏡が買えるようになったわけですから、夢のような話ですね。

 それもカタディオプトリックですよ。これはマクストフカセグレン。口径90mm。経緯台ですが、自動追尾装置がついています。

Th_img_7235 光学性能も想像よりずっと良かった。今日は気流も安定し、おかげで木星の縞はもちろん、土星のカッシーニの間隙もばっちり見えました。

 もちろんファインダーほかプラスチックの部品も多く、それなりの質感ですが、まあ軽さや安さのためにはしかたないでしょうね。とは言え、架台のできはなかなか良くて、鏡筒の短さ、軽さとも相まってなかなか安定しています。

 経緯台の電動での微動もスムーズで快適でした。

 これなら、車の助手席に乗せてでも、いろいろなところに持っていけますね。そしてさっと設置してさっと設定してさっと観測を始められる。

 一つ気になったのは、やはりこうしたカタディオプトリック式の望遠鏡は筒内気流の影響を受けやすいですね。結局今日の1時間半の観望会の中で最後まで安定しませんでした。

Th_img_7234 なお、左の写真はiPhoneを手持ちで接眼レンズに近づけた、なんちゃってコリメート法での撮影ですので、こんな感じになってしまいました。まあ、それでもこれだけ撮れるのですから、昔からすると考えられないお気楽さですね。

 こうして子どもたちと星を観るとですね、私の中二病の原点、宇宙人の原点である、天文少年時代を思い出しますね。そして、再び大きな夢が動き出すのを感じます。

 やっぱりたまには星空を眺めなければ。これからこの望遠鏡を抱えていろいろなところに行ってみたいと思います。

 【Amazon限定ブランド】Kenko 天体望遠鏡 Sky Explore SE-AT90M

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