カテゴリー「育児」の80件の記事

2018.09.04

ウルトラ警備隊マグネットエンブレム

Th_31uqvmrmsvl 実の生活、主に仕事におきましては、いろいろと重い重い課題に襲われておりますが、心はいつも軽やかにいきたいと思います。重い荷物をずっと背負っていると大変ですが、その上に座って休んだり、場合によっては他人や宅配便に頼んだり、荷物を勝手に開いてその一部を見つからないように捨てたり(笑)、そんなふうにすると案外楽しいものです。
 で、そういうずるい方法の一つとして、スケールをめちゃくちゃデカくするというのがあります。
 日常の仕事の憂いなんていうのは、宇宙のレベルから見れば塵以下の存在。つまりそういうことです。
 というわけで、さっそく最近やったのが、自分の車にとんでもないステッカーを貼ること。みんなにバカにされています(笑)。
 それは…そう、番組ウルトラセブンにおける、地球防衛軍の極東基地に所属する精鋭部隊ウルトラ警備隊のあのマークです。
 ウルトラセブンの様々なデザインが秀逸であることは万人の認めるところでありますが、このウルトラ警備隊のマークも非常にかっこよく美しい。私の世代の男の子たちにとって憧れのマークであったと言えます。
 なんでこんなものを今更自分の車に恥ずかしげもなく貼ることにしたのかというと…よく皆さんに言うんですけど、私って永遠の中二病どころか、年中病なんですよ。年中病、すなわち幼稚園の年中さんのまんまってことです(笑)。
 そこに大きく関わってきているのがウルトラセブンです。ウルトラセブンが放映されたのが、1967年から1968年、私が4歳になる年です。つまり年少さんの時だったんですね。
 年中さんになる頃というのは、番組が再放送されたり、様々なグッズや書籍が発売されたり、また後継番組がより大人向けな怪奇大作戦だったりしたこともあって、私なりにウルトラセブンを消化する時代になったんですね。
 で、まじめな話、その時に今の私が形成されてしまった。すわなち、ウルトラセブン最終回のメッセージ「この地球は我々地球 人が自分たちの手で守らなければならないのだ!」が人生のテーマになってしまったと。
 いや、宇宙人を自称するワタクシですから、もしかして自分が地球のために戦っているウルトラセブンだと思っているのかも(笑)。
 まあ、いずれにせよ、宇宙の中の一つの星「地球」を意識するようになったのは事実です。世界ではなく地球。
 そうして最近になって、仲小路彰に出会い、再び世界ではなく「地球」を意識するようになった。仲小路彰も「地球」をデザインして、ある種のマーク、アイコンをいくつか考案しています。
 このウルトラ警備隊のエンブレムも、中央に地球が描かれていますよね。なんだか子どもの時のバカみたいなスケールの発想が、今よみがえっている感じがするんですよ。恥ずかしげもなく。
 で、そういう話をある人たちにしたら、じゃあみんなでこのエンブレムを貼ろう!ということになったんです。けっこうすごい人たちですよ。永遠の少年。永遠の年中病。自分の車がポインター○号であると思いこんで運転している。
 いや、大人がもう一度そういうスケールの発想を取り戻すことが、実は大切な気がしているのです。バカにしてくれても全然かまいません!
 趣旨に賛同していただける方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただかなくとも、このステッカーを貼っていただければそれでOKです。街中にこれが広がる日がきっときますよ。

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2018.08.07

暴力・威圧による教育の時代は終わるのか?

Th__20180808_175100 研修会での指導を終え帰宅しました。指導とは言うのものの、特に今回はこちらが学ぶことが多かった。若手教員からいろいろ教えていただきました。
 たしかに時代は変わっている。
 たとえば、「新アンガールズ」と言われる、日大田中理事長にボクシング連盟山根会長に象徴されるような、「荒魂」的世界は、教育から追いやられる時代が来ました。
 今若い先生たちは、体罰や威圧的な発言、行動によって生徒をコントロールするという旧来のやり方を自ら捨てようとしています。これは素晴らしいことです。
 愛のムチ…たとえばこういう言い方によって美化されてきた「暴力」。そういう力が働いてこそ生徒は成長するという、よく考えれば全くエビデンスのない伝説がまかり通っていたのが、学校という異常な空間です。
 150年戦争終結という言い方で、いろいろなところで話していますが、学校のそうした軍隊文化もいよいよ終わらせなければならないですね。
 いや、ホント数ヶ月前までは、「昔はよかった」「今はダメだ」的な発想をしていたんです。お恥ずかしいことですが。
 しかし難しいですよ。今日もそういう話で6時間、グループワークしましたよ。何が間違っていたのか、何を変えていかなければならないのか。そういう検証が全くされてこなかった世界なので。
 若い先生方は大変ですよ。子どもたちは基本、どの時代も変わりません。反抗や怠惰という表現方法しか知らない生徒たちは今もたくさんいます。
 今までは、それを威圧によって3秒でしっかりさせることができました。私も、若い頃そういうことが苦手だったので、自分なりに訓練して、威圧も体罰もできるようになりました。しかし、そういう方法をとっていた頃の自分は、なにか不自然で、教師という仕事に対しても違和感を抱いていたのです。
 今、面白いもので、こういうご時世になりまして、ようやく自分らしく毎日を送れるようになったのです。不機嫌にならなくて、というか不機嫌なフリをしなくてよくなった。
 私、生来の性格で本当に怒りの感情がほとんどないんです。なのに先輩方から、そんなことではダメだ、なめられる、自分はこうして生徒を静かにさせる、と聞かされ、ある意味しかたなくやってきた部分があるのです。
 では、その代替策がしっかりあるかというと、今日の若い教員たちと同じく、これというものがないのです。だからこそ、今日は指導というよりも、本当に一緒に悩みましたよ。
 ただ、本当に時代はそういう「荒魂」ではなく、「和婚」の方向に動いてるのは間違いありません。これは実にいいことなのです。
 人類はいよいよそういう次元上昇の時を迎えているのでしょう。教育とは、未来の大人、すわなち未来の社会を創る営みです。
 子どもたちが、そうした暴力的な教育の世界から解放されれば、もしかすると世界から戦争がなくなるのかもしれません。
 ちょっと前までの私を知っている人は、いったい山口はどうしちゃったのか?と思うことでしょう。しかし、これはどうしようもありません。どの瞬間だったかは分かりませんが、急に変わったのです。
 誰か言っていました。不機嫌によって人をコントロールしようとするのは、赤ん坊と教師だけだと。笑えませんね。

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2018.03.24

金閣…光の演出

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 学旅行最終日は金閣寺と嵐山散策。
 金閣すなわち鹿苑寺、朝一番だったのに外国人の長蛇の列。まあたしかにインパクトあるよなあ、あの作品は。黄金の国ジパング。
 金閣というと、それこそ金箔貼りまくりの過剰なゴージャスさが売りという感じですが、毎度訪れるたびに、どうも本当は違うのではないかと思うのであります。
 というのは、毎年天気が違うわけですよね。それで全然印象が変わってしまう。
 その一つの要因として、光の演出があるなと思った次第です。
 そう、あの池にですね、陽の光が当たるわけですよ。そうしますと、池の面の微妙な波のおかげで、あの金閣に実に動的な光の模様が現れるわけですね。
 実は動画を撮ってきたつもりが、なんだかミスってしまい、手元に残っていませんでした。そこで、YouTubeで分かりやすいものを探したんですが、全然ない!みんな大切なところを見逃している!
 写真じゃ絶対伝わらない、動的な、生命感あふれるデザインですよ。そこに皆さんあまり注目していないように思います。
 朝の時間帯に東側の壁面を見るのが一番いいのではないでしょうか。近くで見られますし。もちろん夕刻の色合いの変化も見ものですが、本来は朝のあの光の揺らぎを見るべきでしょう。
 2年前に撮った写真を見つけました。これでなんとなくイメージできるんじゃないでしょうかね。ああ、動画撮れてればなあ。スミマセン。今度はちゃんと撮ってきます。ただし晴れてないとダメなんですよね。

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2017.01.05

「普通」とは「健常者」とは?

Th_img_22f1b52335568a94877bb99a80f8 日の「ヤクザ」の話ともつながっていますが、ここのところ「普通」とか「健常者」とか、それってなんなんだろう、自分は普通なのか健常者なのか、それとも異常なのか、などと考えてばかりいます。
 特に学校教育に携わっている者として、最近なぜか増加している「発達障害」などについて、正直違和感を持ち続けているわけです。
 今の学校、特に公教育にあっては、「普通」や「健常者」が心地よい環境のみ整えられ、そこからはみ出る者についてはまるで異物のように扱うという傾向があります。
 もちろん私はその対極にある「異常」な教育者であるわけです(笑)。だから私もここ教育界においては行きづらい部分もある。
 そんなことを考えている中で、非常に面白いネット記事に出会いました。武術家の光岡英稔さんとしょうぶ学園施設長福森伸さんの対談『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」』です。
 内容は読んでいただくのが一番ですから、ここではなぞりませんが、私は非常に共感する部分がありました。
 特に面白かったのは、アメリカの自閉症協会によるニューロティピカル(定型発達)の定義です。皆さん、どのくらいあてはまりますか。私もそれなりにあてはる部分もありますよ。なんだかんだ言って、私も「普通」派「健常」派になってしまいっている(?)のだなあと痛感いたしました。

・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。

・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。

・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。

・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。

・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。

・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。

・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。

 まあ、「定型発達という障害」という表現自体がパラドックスを含んでいるわけですが、そういう視点を持ち込むことによって、私たちの常識を揺るがす意味はあると思います。
 定型とはなんなのか、社会性とはなんなのか、障害とはなんなのか、それ以前に発達とは本当に発達なのか…少なくとも教育者は一度は自問自答してみるべきだと思います。
 光岡英稔さんの『教育すると、人間は「弱く」なる!』もぜひ。

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2015.09.27

復活!よい子の花火大会 in 月江寺

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 の日曜日(10/4)、いよいよ「よい子の花火大会」が復活します。
 かつて地元の恒例行事として大いに盛り上がっていた、富士吉田市下吉田月江寺の「よい子の花火大会」。
 地域の子どもたちに非日常的(ハレの)楽しさと夢をもう一度!ということで、地元の若い教え子たちが中心となって復活させることとなりました。
 場所も私の奉職する学園の母体であるお寺ですし、教え子からも相談を受けていましたので、陰ながら協力させていただいています。ちなみにJJパラダイスというバンドに助っ人で参加します(ボーカルはカミさんです)。我が校のジャズバンド部もオープニングで演奏します。
 言うまでもなく、子どもたちにとって「祭」は、社会教育的な意味を持つものです。地域の祭の復活が、日本の復活につながると、私は真剣に考えてきましたので、こうして足元でそうした動きが出てきたことは、非常にうれしいことです。
 かつて月江寺界隈には正統なヤクザ(興行師)さんもいて、たとえば境内でプロレスの興行なども行われていました。先日、地元出身のプロレスラー武藤敬司さんに会ったのも、実はそうした文化を吉田に復活させるための第一歩です。
 先日も書きましたとおり、ここ下吉田月江寺界隈は、太宰治、李良枝、志村正彦といった夭逝の天才たちの作品を生んだ土壌です。
 ぜひ、他地方からもそうした「聖地」の磁場を感じにいらしてもらいたいと思います。あっそうそう、磁場と言えば「ジバニャン」も来ますよ(笑)。
 多くの方々の来訪をお待ちしております!

よい子の花火大会 Facebook


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2015.09.26

『アートがあなたを変える、世界を変える』 サイヒロコ (KADOKAWA)

Th__20150927_85455 界的なアーティストであるサイヒロコさんをご紹介いただき、対談させていただきました。
 国連の21世紀平和の文化シンボルアーティストであり、フランスのポンピドゥー・センターやサリーヌ・ロワイヤル世界遺産「未来都市」に住みながら創作活動や平和運動を行なってきたサイヒロコさん(詳しくはこちら参照)。
 考えてみると、とんでもない方とお話させていただきましたね。ありがたいご縁であります。
 アート、平和、未来学、教育、富士山、宇宙…王仁三郎の耀わんをはさんで話題は尽きませんでした。限られた時間の中でしたが、非常に共感する部分が多く、今後の展開が実に楽しみです。
 別れ際にこの本をいただき、さっそく拝読いたしました。サイヒロコさんが、いかに自由に自然体に生きていらしたか、そして、それが一般社会、特に日本の常識からするといかに奔放であったかが分かりました。もちろん、その自由さ、奔放さは非難されるべきものではなく、本来人間に与えられた権利です。
 特に日本の教育、あるいは社会全体が、子どもたちのそういう権利を奪っているかということを感じましたね。実は昨日、中学生のある弁論大会に引率で参加していたのですが、そのあまりに型にはまった、大人の基準でのコンペティションに寒気がしていたところでした。やっぱりおかしいですよ、日本の教育は。
 このサイヒロコさんの自伝を読みますと、やはりご両親の教育がご本人に与えた影響が大きいと感じました。
 「100%相手の立場になって考える」
 これは、アートの基本であり、平和や幸福の基本であり、仏教の自他不二の境地であり、神道の自然観でもあります。レベルは違えど、同じことを目標としてやってきた私としては、大変勉強になり、なおかつ勇気を与えられた対談となりました。
 そして、私からは出口王仁三郎の「芸術は宗教の母」という考え方や、仲小路彰の地球公園化構想や未来学、富士山の歴史などを紹介させていただきました。
 これから、ここ富士山において、大きなアートのうねりが世界に向けて、あるいは宇宙に向けて発信されることと思います。
 いや、発信の前に、富士山やそこに住む私たちが受信機(うつわ)になって、宇宙のメッセージを受け取ることから始めなければなりません。そういう準備をさせていただきたいと思います。
 「アートで世界を変える」…王仁三郎流に言えば、こちらに書いたように、「芸術」とは神(自然、宇宙)の業であり、私たち人間はそれを体現するお役目をいただいているわけで、違う言い方をすれば、「世界を変える(創る)ためにアートは存在する」ということになります。
 サイさんは、王仁三郎の耀わんを手にした時、その温かさ、明るさ、楽しさ、そして人間に対する無限の愛を感じたとのことです。
 さすが、本物のアーティストどうしはそういう次元でつながるのですね。
 さあ、これからの展開が本当に楽しみです。私にできることは協力させていただきます。ご縁に感謝です。

サイヒロコ公式サイト

Amazon アートがあなたを変える、世界を変える

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2015.06.24

積極的にリスクを負う

Th_e0076231_20413650 日は地域の教育関係者の集会に参加。なにかと閉鎖的なのが学校というところ。縦横の連携もお題目だけに終ることが多い中、この地域は比較的頑張っていると思いますよ。
 今日のプログラムには講演があり、その内容もなかなか興味深いものでした。「安全にリスクを負わせる」のが教師業だと思っている私にはぴったりの内容でした。
 その中で、紹介された羽生名人の言葉が印象的でしたね。

「積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にする」

 今の「学校」は、とにかくリスクを避ける傾向にあります。(特に公立の)センセイの仕事がリスクヘッジに終始している。全く本末転倒です。
 今日の講演にも「成長痛」が登場しましたが、成長には痛みが必要です。快適なだけの環境は人を成長させないどころか、堕落さえさせます。
 教師は、「安心・安全・信頼・自信」をベースにして、その上にその生徒、学級、学年、部員などに適切に「痛み・悩み・苦しみ・衝突・反抗」などを演出するプロでなければなりません。そういう職人であるべきです。
 そういう意味で、私たちは「リスク」をたくさん体験して、そのリスクのマネージメントができる人間である必要があります。理屈ではなく体験的に。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言いますが、今の学校は虎穴に入らないのはもちろん、虎穴には近づかない、あるいは前もって虎穴を埋めてしまうというようなことが横行しています。
 それがはたして「学校」「教育」なのか、私ははなはだ疑問に思っています。もちろん、いたずらにリスクを与えよなどと言っているのではありません。
 それにしても、特に若手の教員にある種の冒険がないのには、大変物足りなさを感じます。おそらくは世の中の風潮、特に親やマスコミの見方が変わってしまったのでしょうね。
 「体罰」という痛みについては、これは議論の分かれるところであり、やはり私は積極的に賛成できない立場ではありますが、場合によってはそういう「痛みの共有」のしかたがある可能性については、私たちの生活、人類の歴史を見れば、そうそう簡単に否定できるものではありません。
 羽生善治さんの言葉をもう少し長く引用してみましょう。

「リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋は残すことはできない。次のステップにもならない。それこそ、私にとっては大いなるリスクである。いい結果は生まれない。私は、積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすると、いつも自分に言い聞かせている」

 なるほど、この言葉には二つの解釈ができそうですね。
 まず、今のリスク体験が、未来のリスクに対する対処法、あるいは軽減法を獲得する唯一の方法であるという意味。
 そして、さらに、リスクを積極的に負うということが、自分の成長を促す、逆に言うとリスクを積極的に負わないことが、自分の成長を妨げるというリスクになるというパラドックスだという意味。
 さすが深いですね。学校でも本当にそうだと思います。日常的なリスクをなんでもかんでも避けていることが、学校の本質、教育の本質を失うリスクになっています。
 今日もあるクラスで、リスク対処の失敗談を話して大笑いになったんですが、私はけっこうリスクを負って生きていきている方ですし、その体験的対処法もけっこう知っていると思います。
 私が時々言っている「死なない力」って、そういう経験からしかつかめない。教科書にはほとんど書いてない。そういう(いろいろな意味での)「九死に一生」「起死回生」体験を伝えるのも、私の仕事の一つだと真剣に考えています。
 「死なない力」って絶対必要ですよ。一ヶ月くらい飯を食わなくても死なない。富士山が噴火しても死なない。病気になっても死なない。いじめられても自殺しない。戦争になっても死なない。経済危機が来ても死なない。「生きる力」ではなくて「死なない力」ですよ…なんて、ホント変わったセンセイですよね(苦笑)。


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2015.06.01

石神井松の風文化公園

Th_imgres 40年前の微妙な記憶が…。
 今日は素晴らしい出会いがあったのですが、その話はまた後日といたしまして、ごく個人的な「再会」について書きます。
 今日は学校の創立記念日。珍しく平日の休みでした。娘二人もウチの生徒なので休み、カミさんも仕事を休んでみんなで東京へ。
 練馬の某所で実に運命的な用事をすませ帰途につきました。ナビの言うままに車を進め、富士街道を西に向って走っていると…突然、私の脳みそはタイムスリップしました。
 この風景、少年時代に見た!ここに来たことがある。
 ん?…なんともいえない感覚。どちらかというとあまり楽しくない思い出。なんとも言えないアウェー感。
 あぁ、ここで大量の知らない子どもたちと運動会みたいなことをやったような…。
 車で通りすぎてしまったので、その濃縮された記憶の再生は一瞬でしたが、妙に明瞭な「いやな感覚」でした。
 帰宅後調べましたら、私の感覚は見事大正解でありました。なんと40年ぶりの記憶復活です。たしかに私はそこに数回行ったことがありました。
 その風景は、今では「石神井松の風文化公園」と言われています。なんでも昨年の4月に開園したのだとか。
 私の記憶の中のそこは「日本銀行石神井運動場」。
 私の父は日銀に勤めておりました。私が小学生、中学生の頃は本店勤務でした。で、その日銀本店の運動会というのが年に一回あったんですね。それに私が連れて行かれたという記憶。
 今では新しい公園に生まれ変わっているのに、記憶とは不思議なものですね、なんとなく公園(グランド)の広さや道との位置関係など、言語化されない全体の空気感が脳ミソの引出しの奥の方にしまい込まれていたわけですね。それが40年ぶりに出てきた。
 父に確認したところ、本店のそれぞれの部署で出し物などがあり、全員ではないけれども、代表が家族を連れて参加する運動会だったようです。
 親は子どもにも良かれと思ってそういうところに連れて行くのでしょう(今、親になった私もそうです)が、子どもにとってはけっこうきつい体験ですよね。知らない子どもがたくさんいる、そいつらといきなり何かをしなければならない。
 そういうアウェー感、その場にいづらい感、早く終わらなかな感(笑)、そういうのって、鮮明に記憶されますよね。
 大人になった今では、知らない人たちといきなり何かやることは、どちらかというとワクワク感を伴うものになっていますが、子どもって子どもが怖いんでしょうね。自分も得体のしれない存在だが、知らない子どもはもっと得体のしれない怪物です。
 だから逆に気心知れた「友だち」を大切にするのでしょうね。
 父の話によると、当時あったプールで水泳教室もあって、それにも連れて行かれたそうです。そちらはあまり覚えていません。基本他の子どもと関わらなくてよかったのでしょうね。
 というわけで、今度ゆっくり、新生なった石神井松の風文化公園を楽しみ、負の記憶を塗り替えたいと思います(笑)。
 

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2014.07.18

子煩悩とは

Th_profissao_09 煩悩…よく使う言葉ですよね。たいがいの親は子煩悩です。
 今日はこの言葉の本質について考察してみます。ブッダが語る子煩悩とは…。
 ブッダは人間の煩悩(執着)の中でも、「子」と「財」へのそれを最もいけないものとして戒めています。分かりやすく言えば「子ども」と「お金」ですね。
 そうそう、さっき久しぶりにマンション経営の会社から電話がかかってきました。丁重にお断りすると、「子どものために財産を残したいと思いませんか?」と聞いてきましたので、次のような話をしてさし上げました(笑)。
 ブッダの言葉を集めたといわれる「ダンマパダ(真理の言葉)」に次のような一節があります。

「愚かな人」より抜粋。
 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

「賢い人」より抜粋。
 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪(よこしま)なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないがあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。

 また、「ウダーナヴァルガ(感興のことば)」の中には次のような一節もあります。

 子どもや家畜のことに気を奪われて心が執着している人を、死は捉えてさらって行く。眠っている村を大洪水が押し流すように。

 ここで言う「家畜」とは財産のことでしょう。今風に言えばやはりお金やお金に換算できるもの。
 このように、人類史上最も頭が良く、宇宙の真理を悟ったお釈迦様は、子どもと財産への執着を離れることを説きました。そして、自身も実際、妻子や王子の座を捨てて出家しました。
 ということで、私たちが日常的に使っている「子煩悩」という言葉は、もともと仏教における「子どもへの執着によってもたらさらる煩悩」から生まれたものと思われます。
 日国を引いてみると、「子煩悩」の用例は近代以降のものしか載っていませんが、おそらく話し言葉としては江戸時代以前から使われていたものと想像されます。おそらくお寺のお坊さんの法話の中にでも出てきたのでしょう。
 こう考えてみますと、たいがいの親が「子煩悩」であるということは、やはり人類はお釈迦様の時代からあまり変わっていないということですよね。
 それどころか、最近では子煩悩度が上がっているような気が…(特に学校現場では強く感じる)。
 ちなみに私は全く子煩悩ではありません。仏教を勉強してから意識し始めたわけではなく、生まれつきあまり親族に愛着がないのです。
 こんなことを言うと、なんと冷たい人なんだと思われるかもしれませんが、周りの人たちを見ているとたしかに自分はそうだと思わずにいられません。自分の親や兄弟に対してもけっこう淡白なのです。
 かと言って、親族に迷惑をかけているわけではありませんよ。ただ執着がないのです。特に自分の子どもに対しては、もちろん愛情はありますけれども執着はない。
 ましてや、子どもが命!とか、子どもの成長、活躍こそが喜び!などという気持ちはほとんどありません。どちらかというと子どもはライバル。成長、活躍すると何クソと思う(笑)。
 子どもは子どもで勝手に人生を楽しみ、たくましく生きていくと信じているとも言えます。親としてやってやれることは、まあ十数年、彼女たちが自立するまで飯を食わせてやって、あとは学費を払うくらいのことです。
 仕事柄もあってか、どちらかと言うと自分の子どもよりも他人の子どもに愛情を注ぐことが多いかもしれません。長女は私の学校に通っていますし、下の娘も来年にはたぶん入学していきます。彼女たちにとっても、私の淡白さが、学校での居心地の良さにつながっているのかもしれません。
 子どもは子どもで別に愛情不足や無関心だとは思っていないようです。きっと子どもも親に似て、親族への執着があまりないのでしょう(苦笑)。
 そのおかげでしょうか、おそらく我が家はあまり悩み苦しみがない。お互いに執着があまりないからです。
 とか言って、実はそれぞれ「我執」は人一倍強かったりして(笑)。

Amazon ブッダの 真理の言葉 感興の言葉

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2014.06.23

年中病?

6157e3fe3cc845d5 日は「保護者の勉強会」がありました。ウチの中学では夜に保護者に集まってもらい、それぞれの学年でテーマを決めてお勉強をいたします。
 テーマはPTAさんの方で決めまして、教員や外部の方が講師を務めるという形でおよそ90分の講義を行います。自由参加ですが、けっこうな数の保護者が学びに(遊びに?)いらっしゃいます。
 毎年この時期、2年生の保護者に対しては「中二病学概論」と称してワタクシがお話をいたします。
 中二病(厨二病)の病態(?)と原因、そしてその功罪(特に素晴らしさ)について、中二病歴35年を誇るワタクシが講義するわけですから、まあけっこう深面白い内容であると思います(笑)。
 さて、そんな中、今日は「年中病」という言葉を使いました。
 「中年病」じゃないですよ(笑)。また、「年中(ねんじゅう)」病気ということでもありません。
 「年少」「年中」「年長」の「年中」です。すなわち「年中さん病」ということです。
 そう、私は中二病をこじらせたと思っていたんですが、最近カミさんと話していて、いやもっと前に罹患してそのままなのではないかと。それはいつかというと「年中さん」。
 実際には私は「年少」「年長」の2年保育時代に育ったので「年中」は体験していませんが、まあ年齢的には4歳とかそのくらいの感じ。
 その頃、私はまさにウルトラセブンにはまっていました(ちょうど本放送があった)。そして、今でも大好きです。
 そう、実は今日保護者の皆さんに「ナイショですけど」と言ってカミングアウトしたのですが、ワタクシ、今でも「自分は地球を救うためにやってきた宇宙人」だと思っているんです(あっ!言っちゃったw)。
 これ、50歳近い教頭先生としてはかなりヤバイですよね(笑)。そして、ナイショと言いながら、こうして発信してしまっている(最終回じゃないんだから!)。
 この前、偶然「こどもこそミライ」という映画を観る機会がありました。
 そこで山梨県にあるある「ようちえん」が紹介されていたのですが、その代表の方が「子どもたちが地球を救おうと思っている」というようなことをおっしゃっていました。これって、幼稚園児(特に男の子)だったら当然のことですよね。テレビでかっこいいヒーローを見て憧れていますから。
 ところが、小学生くらいになるとその熱も冷めてくる。そして中学、高校、社会人になるに従って、あの頃の純粋な情熱はどこかに行ってしまう。そんな子どもじみた妄想は実生活に役立たないと思ってしまう。
 そんなこと人前で口走ったら、馬鹿にされるか怖がられてしまう(笑)。ですよね?
 しかし、よく中二病の話の中でも言うとおり、ずっと諦めずに馬鹿みたいに思い続けていると、どんどんライバルが減ってくるので、案外実現することがあるんですよ。
 年中の頃には、地球を救うヒーローがたくさんいて(ほとんど全員)なかなか自分が活躍する機会がないのだけれども、50歳になっていまだにそういうふうに言っている、あるいは行動している人はほとんどいないものです。
 だからチャンスだと、私は思っているのです。
 4歳の頃、私は宇宙から電波のようなものを受信して、それを謎の文字にして記録していました。あの頃はその意味がよく分かっていたのですが、今ではその文字すらも思い出せませんし、たとえそれが実家の押入れの奥から出てきても解読できないに違いありません。
 しかし、正直気持ちは全く変わっていないのです。それこそ馬鹿にしたり、あきれたり、危険人物だと思っていただいてけっこうですよ。気にしませんから(笑)。
 まあ、今日の話というのは、私たち大人ももう一度そういう「夢」を持って生きてもいいのではないか、そういう姿を子どもたちに見せるのもいいのではないかと、そういう結論になりました。
 少なくともウチの夫婦はかなりの中二病、いや年中病であります。子どもの方が現実をしっかり見ているかもしれません。でも、しょうがないですね。これは無理にそうしているわけではありません。脱落していくライバルたちを尻目にやれることをやっていくだけです。
 

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