カテゴリー「育児」の39件の記事

2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2007.12.25

百人一首に見る「もののあはれ」

412hsfd9w2l_aa280_ 今日は、仕事上お世話になっている英会話スクールのクリスマスパーティーにおじゃまして、ヴァイオリンでクリスマスソングを弾いたり、皆さんと一緒に英語のゲームに参加したりして、楽しませていただきました。昔の教え子との再会など、出会い多数あり。
 さて、22日の記事に書いたとおり、ウチではちょっと早めにイヴやら偉い人の誕生日パーティーをやってしまったのですが、いちおう世間様の慣習にも従って、子どもたちへのプレゼント贈呈を行ないました(形としてはサンタさんが深夜家宅侵入したという設定)。
 子どもたち、いつもより早起きして、二つの包みを見つけました。一つはけっこう大きめ。一つは小さいけれどかなり重い。期待は膨らみます。
 そして、両親に促されるままに包みを開けると…ガ〜ン…なんか固まってます。大きいつづらはオセロゲーム。渋い。さっそくやり方を教わってゲーム開始。なんとなく盛り上がりに欠けるので、これは黒猫と白猫の勢力争いだという設定を与えましたら、少しその気になってきた…とその瞬間、ウチの本物の黒猫(下半身不随の子猫ミー)が盤面の上をズズズ〜ッといざって行きまして、全てが終了。黒猫の勝ち〜(笑)。
 で、もう一つの小さいが重いつづらはと言いますと、これがもっと渋い。渋すぎる。子どもは「何これ?」って感じ。
 そう、なんと「百人一首」なのです!
 言っておきますが、これを選んだのは私ではありません。カミさんです。自分が小さい頃オセロと百人一首をやっていたのを思い出したのでしょうね。だからってねえ、それを子どもにも押しつけるのはねえ。今日娘たち、小学校や保育所に行ってどういう会話したんでしょうね。みんなはDSだとかWiiのソフトだとか言ってるのに、ウチは…オセロと百人一首かよ。「ウチは電気で動くものは買ってくれないの」…切ないなあ(じゃあ買ってやれよ)。
 で、百人一首です。せっかくですからこれについてちょっと面白い話、というか私の最新の研究成果(?)を書いておきましょう。
 もうご存知の方もいらっしゃるでしょうね。百人一首の謎、秘密。実は壮大な歌織物が構成されていて、そこに暗号が隠されている…。
 織田正吉さんと林直道さんによる研究が有名ですね。というか、織田さんの発見を林さん(経済学者として超有名な方)が発展させたということで、二人の間に微妙な空気が漂ってます。
 お二人の本を読むとよくわかるんですが、今日はこちらのまとめサイトを紹介しておきます。上手に、そしてきれいにまとまっています。ぜひご覧ください。

百人一首に秘められた謎

 これはもう単なるこじつけではありませんよね。もしこじつけだとしたら、それはそれですごいことですよ。
 さてそんなわけで、私から見ましても、かなり駄作の多い不思議な歌集であります。で、私は私なりに私の「モノ・コト論」で百人一首を料理している最中なんですね。特に注目しているのは「もの」いう言葉です。みなさんも漠然と「もの思ふ」系の言葉がたくさん出てくるなあとお感じなったことがあるのではないでしょうか。
 単独で「もの」という名詞も出てきますし、「ものを」という助詞もよく出てくる。それから、「もがな」。これは私の考えでは「ものかな」が語源ですので、これも数に数えます。
1001 それに色を付けてみますと、右の写真のようになります。百人一首は基本的に年代順に並んでいます。この表は横書きなので、上が古いもの、下が新しいものになります。
 どうでしょう、まあ当たり前と言えば当たり前ですけど、下の方がカラフルですよね。つまり時代が下ると和歌のテーマが「もの」になっていく、ワタクシ的に言いますと、歌の内容が「不随意」への詠嘆になっていくということです。
 これこそ「もののあはれ」ですよね。何度も書いて申し訳ありませんが、本居宣長センセーはダメです。あんなにいばって「もののあはれ」論を書いておいて、肝腎の「もの」は「なんとなく付けたものだ」みたいなこと言ってごまかしてる。というか最も大切なことに気づいてない。「もの」という言葉の意味をとらえきれてないんです。あんまり神格化しない方がいいですよ、彼の「もののあはれ論」。
 というわけで、こうして百人一首を並べるといろんなことがわかるんです。まだまだいろいろ書きたいこと、あるいはそれぞれの歌の新解釈なんかたっぷりあるんですが、それはこれから小出しにして行きます。駄作へのツッコミも含めて、時々一首ずつ取り上げて紹介していこうかな。
 それにしても娘たちちょっと可哀想ですね。こんな話をしても絶対わからないしなあ。いちおう、今は「これもポケモンカードみたいなもんだ。世界で一番古いタイプかもしれない」とか言って、その気にさせてますが。彼女ら、この歳で早くも「もののあはれ」を感じてたりして(笑)。

林直道の百人一首の秘密

Amazon 絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く 百人一首の秘密 任天堂 百人一首 舞扇

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2007.12.16

『鳥獣戯画がやってきた!』(サントリー美術館)

国宝『鳥獣人物戯画絵巻』の全貌
Giga1 昨夜、両国国技館でのライヴ終了後、上北沢にて車中泊。ふとんを積み込んで行ったんで、けっこうぬくぬく暖かかったっす。ちょっと呑み過ぎて、朝はやや二日酔いぎみ。
 午後から新宿でバロック・バンドの練習がありまして、さてそれまでどうしようかな、どっか美術館でも行ってくるかなと思い、コンビニで情報誌を見たら、あららなんと今日までじゃないですか!鳥獣戯画。これは行かねば…ということで行ってきました。
 鳥獣戯画については、今までも『鳥獣人物戯画』と『無伴奏チェロ組曲』『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』という記事の中で書いてきましたね。その実物に会える。これは一つの夢の実現であります。
 六本木のサントリー美術館に着くと、さすが最終日、入場に30分近くかかりました。人気ありますね。中も大変な混雑で、最初から順に全部見ていくとこれは何時間もかかってしまう。いや、全体的な時間よりも何より、止まって観たいところも自動的に流れていかねばなりません。それはいやです。行列に従って自分がベルトコンベアみたいになって順に見ていくというのは、もちろん本来の絵巻物の観賞法ではないわけですね。
 そこで、私は列の後ろからのぞき見ですませました。これが案外面白い。で、私は自分を固定して、目の前の前の人垣のスリットから絵巻物をちらっと観るわけです。普通ならけっこういらいらする状況かもしれませんね。じっくり観られませんから。
 ところがですね、ものは考えようでして、瞬間的に見える絵は、それこそまるでアニメのセル画みたいなもので、脳内でその前後を補って案外ダイナミックな動きを感じさせるんです。行列に参加していたら、きっと単なる静止画にしか見えなかったでしょうね。もちろん、こんなのぞき見も本来の絵巻物観賞法ではありませんけど。ま、本物を前にこんな実験的なことできるのも、ぜいたくな話ですよね。
9882 ちなみに本物の上には写真版が掲示されていて、それは常に見えるわけですよ。でも、やっぱり複製はだめですね。全然躍動感が違う。ちょうど音楽のライヴと録音の違いみたいなもので、筆致の生命感があまりにも違う。これは予想以上でした。この作品の作者の天才性はもう分かりきったことですが、1本1本の線がここまで生々しいメッセージを持っているとは…。
 運筆のリズム感、これはもうほとんど舞踏のようでした。それがスリットからぐいぐい伝わってくる。ウサギやカエルがどうのということではなく、線自体が擬人化している。うん、そうだ。これは動物の擬人化なんかではない。逆なんじゃないかな。いや逆以上に、人間や動物が「線化」してるのかもしれない。
 今までは、それが芸術であれ記録であれ報道であれ、人間が表現するものは全て「モノ」の「コト」化だとしてきましたが、最近どうも違う気がしてきました。芸術に関しては「モノ」の「モノ」化じゃないのか。コト=情報はスルメと同じで死んでいます。変化しません。しかし、芸術は御存知のとおり、非常に生き生きして生々しいものです。作者の意図(コト)以上に、受け取り手の側でどんどん成長していってしまう。どうにも抑えられないモノです。
 すなわち、芸術家たる作者はあくまで作者(クリエイター)であって、記録者ではない。自らと世界との接点に生まれるいかんともしがたい「モノ」を「物」を通じて表現し、そこに新たな「モノ」を生み出していく。縁が縁を生み、どんどんいろいろな「コト」や「モノ」を吐き出していく。優れた作品はそれをほとんど無限に続ける。時間軸も空間軸も超えて、気味が悪いほどにその根を広げ、そこに新たな幹や葉を増やしていく。
 上に掲げられた写真版は、いわば記録であって、それは「モノ」の「コト」化されたものです。それなりの意味はありますが、やはり本家の繁殖力(生殖力)にはかないません。昨日のライヴもカメラクルーが入って記録されていました。いつかテレビで放映されるようですね。しかし、それもやはり所詮は「コト」であって、生(ライヴ)の生命感(ライヴ)はないわけです。
 やはりそうしますと、お釈迦さまの悟られた「コト(不動の真実)」である「無常(もののあはれ)」というのは世の中のどうしようもない本質であり、それは決して空虚なものではなく、逆に豊かなものであることが、自然と首肯されるのでありました。
 …と、また私の頭の中がもののけ状態になってきましたので、このへんにしておきます。ところで、このブログの文章というのは「コト(記録・情報)」なんでしょうか、それとも「モノ(芸術)」なんでしょうか。なんかどっちでもないなあ(笑)。ちょっと不安だ。
(今日ホントは戯画の中の猫に関して書こうと思ったんですけど、話が勝手にそれてしまいました)

サントリー美術館

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2007.11.05

『少食の実行で世界は救われる』 甲田光雄 (三五館)

88320364 1日1700キロカロリー、腹七分目の少食、あるいは断食によって、風邪をひかなくなった、花粉症がなおった、肝臓の状態がよくなった、精神的にも健康になった…この本に書かれている様々な実例は私の実感と全く一緒でした。こういう体験をしている人はけっこういるんだなと思っただけで、私は心強い気持ちなりました。
 いつも読んでくださっている方にはしつこくて申し訳ないのですが、私は「一日一食」です。もうそろそろ3年半になります。おかげさまで、体調も精神もすこぶる健康であり、冗談でなく人生が大きく変わりました。
 体重もベストをキープしています。というか、ちょっと最近太ったんですよ。一日一食でも多いとなると…。二日一食ってものいいかもしれませんけど、まあ疲れて帰ってさらに断食じゃあね、精神的に辛いかも。あの24時間ぶりの食事、すなわち夕飯がうまいのなんのって。カミさんのメシのうまさに感激できるだけでも一日一食の効果はあったというものです(どういう意味?)。
 さて、そんなわけで、人になんと言われようと自分が経験しているので、私の「主義」は揺らぎません。現代の様々な問題はどこかで「飽食・過食」とつながっていると信じています。だから、世界中が少食になればいい、あまったものは不食の人たちに分け与えればいい、と本気で思っています。
 もちろん私以外にもそういうことを考えている人はたくさんいまして、そんな中でも特に有名なのが、「甲田式健康法」「甲田メソッド」で有名な甲田光雄博士ですね。甲田さんはその道50年近い超エキスパートであります。
 甲田さん自身も慢性の病気に苦しんでいたそうで、西洋医学を修めながらその限界を身をもって体験し、そして医学界、栄養学会の常識、というか戦後日本の社会の常識を破る「少食療法」を自ら実行するようになったと言います。今ではさまざまな難病を「少食」のみで治す甲田医院の院長としても大変忙しい毎日を送っておられる。ご自身今でももちろん超少食でいらっしゃるのですが、御とし83でバリバリにお元気です。そう言えばあの日野原重明先生も夕食のみの一日一食イストなんですよね。96歳でしたっけ。それであのバイタリティーですからねえ、もうお二人のお医者さんを見るだけでも、いかに夕飯だけ食べる食習慣が素晴らしいか御解りになるでしょう。
 さて、甲田先生、たくさん本を書いていらっしゃいますが、この本は「『甲田メソッド』の決定総集篇」と銘打たれていまして、たしかに様々な角度から少食の効能が語られていまして、初めて読む方にもおススメできます。
 ただどうでしょうかねえ、私はそっちの道に慣れている人なので、えっ?と思うような(社会的)「非常識」が出てきても、あるいは仏教の言葉が出てきても、西式健康法が出てきても、そしてそして「世界人類が平和でありますように」という白光真宏会のネタが出てきても、全然抵抗ないんですけど(というか序からして西園寺昌美さんが書いてるし…)、フツーの方にはなんか異様な感じがするかもしれませんね。ま、とかく本当のことを言うと胡散臭くなるものです。
 興味を持った方、メタボが気になる方、健康になりたい方、心を病んでいる方、劇的に人生を変えたい方は、そういう胡散臭さもひとまず呑み込んで、とにかく読んでいただくしかないわけですが、結論としては世の中で言われる、特に最近は「食育」とかふざけた言葉でそれらしく語られる「一日三食しっかり食べましょう」「一日30品目食べましょう」みたいな暴力的盲目的な食に対する「常識」がいかに危ういかということですね。自らの健康のためにも、他人のためにも、地球のためにも。
 特に「朝食」の弊害は大きい。生徒にもとにかく便秘のやつらが多いんですが(特に女子)、そういうやつらにはまず朝食を抜いてごらんって言います。そうするとあら不思議宿便が解消することが多い。やっぱり起きがけは排泄の時間であって、食事の時間じゃないんだよな。
 まあ、こんなことばっかり言ってると、そっちの方が非常識暴力的盲目的だ!と非難されそうですが、自ら経験していることしか信じられませんからお許しを。そして、自分のためかどうかは死ぬときになってみなきゃ解らないかもしれませんけど、とりあえず地球のためには少食の方がいいでしょ。それだけはたしかです。
 さて、この本、私にとって痛快だったのは、少食以外の話の部分でした。もう冒頭からして少食はそっちのけで子どもの躾の話が始まるんですよ。朝の挨拶、返事、はきものを揃える、便所に行ったら手を洗う…いいことです。その通りです。ウチでも実はちゃんと出来ていないことが多いのでちょっと反省しつつ、やっぱりそうだよなあ、と教育の原点を思い出しておりました、ハイ。

私の「少食」「一日一食」については「心と体」カテゴリーで探してみてください。

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2007.10.31

「学習」と「教育」〜『アンデス 神の糸を刈る日(シリーズ 天涯の地に少年は育つ)』(NHKハイビジョン特集)

Ck01 何気なく観たこの番組、地味でしたが何かとても感じるところがありました。ちょっと前に紹介した「天空の民 ブロックパ」と同じようなことを思いましたね。
 アンデスの高地、標高4500メートルの村で年に一度だけ行われる「チャク」という狩り。ビクーニャという野生動物を生け捕り「神の糸」を紡ぐ毛を刈ります。男も女も、そして子どもたちもそれぞれ役割を与えられて、神からの恵みを得るために、皆で協力します。子どもたちはそんな中でいろいろなことを学んでいきます。
 共同体における教育、いや学習ですね、学習の本来のあり方。ブロックパのところでも書きましたとおり、日本に一番欠けている部分です。日常の生活や仕事ぶりを通じて、いったい私は娘たちに何を伝えているのだろうか。非常に心もとない。情けないことです。
 「学習」は「学んで習う」ということです。「学ぶ」は「真似ぶ」、「習う」は「慣らう」、すなわち本来の学習とは「真似をして慣れていく」ことです。子どもにとってまず真似るのは、言うまでもなく親でしょう。親の真似をしていろいろやってみて、そして慣れていく。
 今の日本ではその点どうなんでしょうね。欲望を満たすことに奔走する大人(親)の真似をして、その文明的生活に慣れていくというのが実情ではないでしょうか。誤った「学習」ですよね。
Ck02 番組の中では「学校」も登場しました。けっこう、学級崩壊してました(笑)。まあ、あんなもんでしょう。いかにもな先生が「教育」にいそしんでましたね。「教え、育てる」っていうやつです。ああ、ここにも近代化の波が…。もちろん、こういう世界になっているわけですから、彼らにも教育を受ける権利や義務はあるでしょう。それはかまいません。ただ、日本のように、家庭や地域での「学習」の機会が減って、学校での「教育」ばかりになってしまわないか、なんとなく心配になりました。ブロックパの時もそうでしたね。
 つまり、「学習」は子どもの主体的な活動であり、「教育」はあくまでも大人からの押しつけだということです。「学習」と「教育」は、同じことを違う視点で言ったものにすぎないと考える方もいるかもしれません。でも、どうなんでしょう。本当にそう言って片づけていいものでしょうか。本当はどちらが先にあるべきなんでしょうか。
 自分はいちおう教育者と言われてしまう仕事をしているので、この点に関しては常に気をつけています。たとえば大学受験の指導にしても、「俺はこうやって解いてるんだよ。真似したきゃ真似してくれ」とよく言います。ま、場合によっては生徒の方が自分よりできる時もありますから、その時は私が「学習」させていただいてますけど(笑)。今、ちょうどそういう時期でしてね。3年生の「真似したい、慣れたい」という気持ちが盛り上がっています。そういう時が一番伸びます。だからこちらも忙しいけれど楽しい。
Ck03 番組では、父親、母親、近所のおっちゃん、おばちゃんが、見事な技術と知恵と連携でビクーニャを捕まえていました。子どもはそれを見て「よし来年はオレも…」とか思うのでしょう。素晴らしい「学習」の場だと思いました。そう考えると、私も受験という1年に一度の「狩り」とか「刈り」を一緒にやってるようなものですね。一見全然違うような気がしますが、実は同じようなことをやってるのかもしれない。「○○大学」という獲物…いや神からの恵みをゲットするために、技術と知恵と連携を駆使しているとも言えますね。来年春の猟果はどんなもんでしょう。ペルーの彼らもビクーニャを一頭も捕れない年もあるとか…いやいや、そんなことは考えないようにしよう(笑)。
 いやあ、チャクの独特の雰囲気には静かに興奮してしまいました。特にお母さんたちのたくましさにはびっくり。ビクーニャと思いっきり格闘してました。母は強しですねえ。そんなところからも子どもたちはいろいろ学ぶのでしょう。教えずとも教えることはできるわけですね。そうするとですね、「教育」なんてものは、「自然」が語らずともやってくれるわけで、大人もまた子どもにとって「自然」であればいいのかなあ、とも思えてきます。今の私たち、日本の大人、親たちは、子どもにとって全く「自然」ではないのでしょう。じゃあ何なんでしょう。子どもの方がずっと「自然」ですよね。なんかいやになってしまいますね。

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2007.10.29

『里山保育が子どもを変える』 (NHK ETV特集)

Img1028_02s NHK教育の「教育フェア2007」、興味深い番組が目白押しです。しかし、どうにも忙しすぎてなかなか観ることができません。録画して時々HDDレコーダの早見機能でちょこちょこと観るのが精一杯。
 さて、今日は寝る前に90分の番組を60分で早見しました。なんだか現代人っぽくていやだなあ、こういう時間を圧縮するっていうのは。ま、しょうがない。
 「里山保育が子どもを変える」…千葉県の木更津社会館保育園(私立)で実践されている里山保育の様子を1年間追ったドキュメンタリー。
 子どもに(親に)神経質なほど気を遣う学校や幼稚園、保育所が多い中、この保育園では全く逆の教育が行われていました。毎日どろんこ、刃物を使って怪我はする、ケンカもするする、自然の木の実やなんやかや食べる食べる。
Img1028_03s ものすごく面白かった。面白かったというのは、子どもたちの様子がです。彼らと同い年の子どもを持ち、田舎に住んでいる私としては、特に彼らが特別な感じはしません。どちらかというと、ああこういうヤツいるよな、こういうことあるよな、という面白さです。子どもはみんな一緒だなって。自分もあんなんだったし、つまりどの時代も子どもはあんな感じなんだよなって。
 この園の保育を手放しで賛美するつもりは全くありません。あのやり方を、素晴らしい、本来こうあるべきだ、と単純に言うこともできますが、反面、集団的幼児教育として考えれば、欠けている点もあると思いました。もちろん理想的な教育現場とか学校というものはありえないというのを前提にしていますから、そこに野暮なツッコミはしませんが。
 そういう意味でちょっと想像されたのは、この園のやり方については、地元では本当に賛否が分かれているんではないかということです。特に母親たちは。それが、大人社会や、ひいては小学校に入学して他と合流した子どもたちに、悪影響を及ぼしていないかということです。
 こと子どもの教育に関して、母親は盲目的になりがちです(父親はもともと関心がない…ポーズだけはとりますが)。愛情(もしくは世間的義務感)が理性を越えてしまうからです。はっきり言ってしまうと、本当の親「バカ」になってしまいがちです。特に女性は敵対するものを作りたがりますから(失礼)、男性不在になりがちな子育て世界において、女親どうしのアホくさい抗争がどれほど子どもたちを不幸にしていることか。
Img1028_04s おっと、全然関係ない話になってしまったぞ。いや、別にウチのまわりにそういう事例があるということではありません。ここは田舎ですので基本的に平和です(笑)。ただ、この番組を観て、また両極端な原理主義的母親が出てくるんじゃないかと心配なんです。
 で、田舎ということで言えば、ウチのカミさんは世界に誇る里山に育ちましたので、この番組を観ながら、まだまだ甘い!みたいなことを言っていました。ハハハ。田植えのシーンを観ながら、「はぁ?田植えはレクレーションじゃない!泣きながら怒られながらヒルに血を吸われながらやるんだよ!」とか吠えてました(笑)。たしかにウチの子は平気で山のものを食べたりしてるな。だいいちここは里山どころか富士山だし。
 私は高度経済成長の東京都大田区に育ちました。たしかにカミさんに比べれば十分都会だったわけですが、それでも子どもたちは常に自然の中を探検していましたね。案外森や小山や草むらや空き地がたくさんありましたからね。多摩川の河川敷も面白かったし。ヘビなんかもけっこういました。だから、私もこの園の保育はそれほど特別には思えませんでした。
 つまり、こういうことは家庭で、近所でやるべきなんですよ。ただそれだけ。で、幼稚園や保育園では、ちゃんとした集団生活、じっと椅子に座っていることとか、不条理な勉強というものへの抵抗力とかを身につけるべきなんです。それで、バランスが取れると思うんですが。
 はたして、あの子どもたちが普通の小学校に入ってどうなるのか。ちょっと興味がありますし、不安でもありました。まさか同じ千葉県のこんな小学校みたいになってないでしょうねえ。そこまで追いかけてくれると、子どもがどう「変わった」のか、ホントのところが分かるのかもしれませんね。無理を承知でそんなことを思ってしまいました。

番組紹介

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2007.10.25

最近の若者は…

↓この粘土板は本文とは関係ありません。
Amaruna_letters 「最近の若者は…すばらしい、偉い」と断言します。今日小論文の指導をしながら、ふと気づきました。こいつら偉いなって。
 「最近の若者はダメだ」「最近の若いもんはなっとらん」というようなことが3000年くらい前の粘土板に彫り込まれていたとかいうネタが、もうだいぶ前ですけどネットに流れてましたね。なんだか眉唾です。プラトンだか誰かが「最近の若者は…」と愚痴ったという話も同じくらい眉唾ものですが、まあ今の大人たちを見るかぎり、昔もそういうこと言う人はたくさんいたと想像されることはたしかです。いや、たぶんネアンデルタール人あたりもそんなこと言ったんじゃないかな。最近のクロマニョン人とやらは…まったくぅ、どんだけ〜(とは言わねえよ!)。
 そうすると、1万年以上にわたって我々は悪くなり続けたわけでして、ずいぶんと人類というのは悪いヤツになってるはずですよね。で、実際はですね、まあ多少問題はあるけれど、いちおう当時より豊かで平和になってますから、どうも人類史上大量に生産された「最近の若者は…」という言葉の信憑性というのは、十分疑われるに値することがわかります。つまり、歴代の大人たちは自分たちのことを棚に上げて、愚痴り続けてきたわけでして、それはそれでなんとなく共感できるような気もしますが。
 さて、今日私が珍しく自分のことを棚に上げず「最近の若者は偉い!」って思ったのはですね、ある重要なバカバカしいことに気づいたからです。
 小論文の指導をしてますとね、現代の様々な社会問題を扱うことになるんです。「年金問題」「環境問題」「地域格差」「グローバル化」「いじめ」「ニート」「ネット社会」「少子高齢化」「偽装・捏造」…で、それらの解決法なんかを高校生に書かせるというパターンが多い。まあ、ありそうな話ですよね。普通のことです。
 でも、ちょっと考えてみてください。これらの問題って、全部全部私たち大人が用意した問題ですよね。用意したというのは、問題を作った、問題を作ったというのは小論文の問題を作ったということではなくて、その社会問題自体を作ったってことです。私たち大人が自分たちの欲望の実現に躍起になった結果生じた問題ばかりです。
 自分の娘たちのことを考えてみても、実に話は単純です。彼女らに関わる心配事、たとえば交通事故、変質者、ゲーム、ケータイ、ネット、アレルギー、いじめ、学級崩壊…どれもこれも大人や親が自ら用意してしまった危険ばかりです。本当に子どもたちのことを思えば、たとえば車に乗らなければいいし、ケータイも廃止すればいい。化学物質は使わなければいい。家でちゃんと道徳を教えればいい。そういうことです。でも、それはできない。する気がない。だいいちそういう発想がない。自分たちで自分たちの最も大切にすべきものを危険にさらしている。
 で、こうやって大人な人類は自分たちの集団的罪を反省せず、つまり棚に上げて、恥ずかしいことに、理論的になんの罪もないはずの若者、すなわち自分の子どもたちに対してグチリ続けてきたわけです。
 なんで、こういうホントのことを誰も言わないのでしょうね(笑)。
 それでですねえ、話をもとに戻しますが、小論文の課題って、そう考えるとものすごく変ですよね。
 だって、大人たちが作り出してしまった問題を提示して、若者たちに解決策を考えろ!って言うんですから。おいおい、なんだよ、その責任転嫁は。責任転嫁じゃないな。責任放棄ののち、しりぬぐいお願い、って言ってようなもんじゃないですか。その問題の解決策はあなたが考えるべきでしょう!?
 まったくひでえ話です。もちろん自分も含めてね。私もふだんは自分のこと棚上げしっぱなしですが、たまには棚卸ししますよ。てか、皆さんもたまには棚卸ししましょうよ。
 これほど多くの、大人が用意した誘惑があるこの世の中で、ホントに若者はそれに流されることなく、あるいは振り回されることなく、よく頑張ってますよ。もし、我々の世代の若い頃、こんなに誘惑があったらどうなっていたでしょう。だいいち、あの頃、今よりひどい犯罪や非行ばっかりじゃなかったですか。今の方がずっと平和ですよ。親殺し、子殺し、少年の犯罪、暴走族、シンナー吸引、喫煙、スケバン(笑)…今よりずっと盛りだくさんでした。もし、今の世の中に彼ら(私たち)がいたら、もっと道をはずれてますよ、きっと。
 というわけで、今日はホント反省しちゃいました。だから、生徒に心から「今どきの若者は偉い!おもえらはホントに立派だ!」って言ってやりました。やつらは「また変なこと言ってる」って感じで大笑いしてました。私は珍しくまじめだったんですけどね(笑)。まあ、ホントほめてやりたいです。少なくとも私の高校時代よりずっと勉強してるし…。

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2007.10.06

『おはなし迷路ポスター 赤ずきんちゃん』 作 杉山亮 絵 中川大輔

P_akazub これは面白い!
 今日カミさんと子どもが、近くの図書館で行われた杉山亮さんの講演会に行ってきまして、これをお土産に買ってきました。
 私、不勉強で杉山亮さんのこと知らなかった。肩書きはおもちゃ作家さんでよろしいのでしょうか。最近は児童書の執筆も多いようですが。小淵沢にお住まいなんですね。「本っておもしろい」という講演の内容も、読書と教養とか、教養と笑いとか、江戸の文化や教育に関することだったようで興味を持ったんですけど、このお土産もまた実に面白かった。たしかに江戸のセンスだな、こりゃ。おもちゃ絵ですね。
 とにかく彼女たちが買ってきたお土産を紹介しましょうか。←こんな感じです。
 とは言っても、この画像じゃ何がなんだかわかりませんね。
 これは迷路になってるんですけど、正しい道をたどっていくと、そこには正しい赤ずきんちゃんのお話が展開していくわけですね。それで、間違った道に行きますと、別の物語になっていってしまいまして、で、普通の迷路と同じで途中で行き止まりになっちゃうんですね。つまりお話が変な方向に行ってしまって、突然終わってしまうわけです。
 そのお話のはずれ具合、終わり方がなんとも面白い。絶妙なセンスなんですよ。これははまりますね。最初の部分だけ見ていただきましょうか。
Meiro12 ちょっと小さく見にくいと思いますが、冒頭部分なんか、「むかし、あるところに…」と行くべきところ、「むか…」の分岐点で道を間違うと「むかでだぁ!」でお話が終わってしまいます。「あるところに…」のところには「赤ずきんという名の女の子がいました」と「赤ずぼんという男の子がいました」と「キンという名の女の子がいました」の三つの分岐がありますね。ちなみに「キン」の方に行きますと、彼女は「赤津(あかづ)さん」と結婚して「あかづきん」という名前になってお話が終わりです(笑)。
 まあ、こんな感じで無数の分岐点から無数のメチャクチャなお話生まれ、そして突然終わってしまうわけですね。そのはずし具合がホント絶妙なんです。違う昔話になったり、現代日本の光景になってしまったり、おばあさんがおしりに花火をつっこまれてロケットにされたり(笑)、とにかく正しい道なんかどうでもよくて、全ての間違った道を歩みたくなるわけです。
 こういうセンスの中にナンセンスを生んでいくというのは、まさに江戸の笑いの文化であります。パロディーですね。オリジナルを知っていなければ楽しめないという意味では、まさに教養を必要とする笑いです。そして、このたった1枚の紙の中に、本当に無数の笑いがあり、この1枚の紙で何時間も何日も楽しめるわけです。こういうことは、今の子どもの文化にはなかなかないですね。その場の刺激だけ。はい次、はい次って感じで。
 講演の中にもそういう話があったようですが、とにかく今の子どもを見ていますと、一つの物を繰り返し楽しんだり、味わったりすることが少ない。なんでも二度目だと「知ってる〜」「つまんない〜」「新しいのがいい〜」ということになってしまいます。高校生でもそうだよなあ。これはいかんでしょ。
 つまりよく言われるように、彼らは自分から何かを発見することがないんですよね。与えられたもの、情報をただ受け取るだけ。飽きたらおしまい。
 昔は飽きてからが勝負でしたよね。そこにいかにオリジナルな意味や価値を見出すか。つまり何もないところに「物語」をつくるということです。私の「モノ・コト論」でいいますと、なんだかわからない外部の「モノ」を「カタル」ことによって「コト」化していくわけです。今の子どもたちは「モノ」を感じることすらできない。だから「カタル」こともないし、新しい「コト」も生まれない。ただ、大人がお金もうけのために作った「コト(いわゆる物もほとんどがコトに属します)」を受け取るだけ。ちっとも創造的じゃない。
 で、このおはなし迷路、とっても面白いので、これは生徒やウチの子どもにも作らせてみようかなと思ったのです。パロディーというのは、元があるだけに、何もないところから何かを生み出すよりもとっつきやすい。もちろん、そこにはパロディーならではの特別なセンスが必要ですから、本当は難しいんですけどね。
 とにかく言葉遊びとしても、物語づくりとしても、実際のゲームとしても実に面白いと思います。高校生くらいなら昔話じゃなくて、短編小説なんがでもいいかもしれないし、古文でやったりしたらかなり高度な勉強ができますね。
 まずは自分でやってみようかな。杉山亮さんのアイデアをちょっと拝借させていただきます。

Nekomeiro ps とりあえず全部のストーリーを追ってみようと思って床にポスターを広げていましたら、ウチのバカ猫がこんなふうにドカンと…。なんで、猫って人が見たり読んだりしてるものの上にドカンと来るんでしょうね。新聞なんか絶対読めませんよね(笑)。大事なものにソソウをしたりするのも得意ですし、どうも人の視線とか、愛情線みたいなものを感じるようですね。なんなんでしょう、いつも不思議に思います。

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杉山亮のなぞなぞ工房 on the web

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2007.09.08

運動会(!?)

この写真についてはのちほど説明します
Undokai1 今日は娘の小学校の運動会。子どもたちにとっても、先生方にとっても、また役員の皆さんや、あるいは親たちにとっても、まさにハレの日であります。
 私は仕事が終わってから少し遅れて行ったのですが、もうその頃にはすっかりお祭りムードになっておりました。ここは田舎ですので、まあ運動会は村をあげてのそれこそお祭りであります。子どもたちの競技、演技は、スポーツとか教育とか、そんな次元を簡単に超えていまして、まあ神様への奉納ですね。それを村中で執り行う。子ども自身も神、あるいは神に近い存在ですし、その成長ぶりを祝い感謝するという意味合いもあると思います。
 親たち(自分も含めて)はいわゆる場所とりから始まり、豪華弁当合戦(笑)、ビデオ撮影大会(撮影機器グレード対決?)、そして自らの子どもへの応援はもちろん、小さな村ならではの「あのウチの○○ちゃん」への応援と、子どもたち以上に気合いが入り、また忙しいわけです。そうやって老若男女のエネルギーを結集して、神々へ何かを奉納する。このへんでしたら、運動場の向こうにそびえる富士山に対してでしょうかね。あの青空や入道雲、厳しい日差しやありがたい日かげや涼しい秋の風に対してでしょうかね。皆さん無意識でしょうけれど、自分たちの最も大切な財産である子どもたちを育む自然への感謝の気持ちがあると思いますよ。
 なんとなく形式的なというか、あるいは軍隊式ともとれる集団演技(実際何人かの外国から来た親たちは「これはアーミーだ」と言ってました)や、親たちの過剰とも言える熱意というか、昼間っから酒飲んで騒ぐあの雰囲気とか、自分の子どもだけをズームアップして撮影するビデオ隊(つまりお父さんだな)には、ちょっと抵抗があったんですけど、これは「祭」だと思ったら、実に面白くなった。これこそ日本だなと。運動会なんて外国にはないもんな。これは伝統的な祭の新形態であると。
 というわけで、今年の運動会は心から楽しめましたし、感動もいたしました。皆さん、お疲れさまでした。
 さてさて、で、充実したけれどつっかれて帰宅いたしまして、私とカミさんはもうとにかく眠くて仕方なかったんですが、当の本人すなわち長女はなんだか祭ムード冷めやらぬらしく、テンションが上がったままです。神が憑依してるのか!?と思わせるほどに運動したがっている。
 しかたなく、ウチの近くの裏山…てか、富士山ですな…おそらくそこで溶岩流が止まったのであろうと思われる小山がありましてね、そこに遊びに行きました。夏から秋へ移り変わろうとしている微妙な自然の変化の具合がいろいろ楽しめましたねえ。本人は大木からぶら下がる自然のツルにぶら下がってにわかターザンをやったり、やぶをかきわけて道なき道を行ったり、日没まで楽しんでいました。私は夕食の冷や奴用に香ばしい山椒の葉を何枚か摘んで帰りました。
 さて、それで子どもたちはさすがに寝るかと思いきや、なんとまあ、また運動会を始めたではありませんか!なんたるパワー。お祭りエネルギーいまだ衰えず。
 しかし、よく観察してみるとですねえ、彼女らはどういう立場を演じているかと言いますと、どうも観る立場のようです。つまり、まずは場所とりをしてシートを広げ、弁当や酒を用意して、ビデオも用意して何かをさかんに応援している。アナウンスなんかも兼任している。先生役もやっている。
Undokai2 で、何を応援しているかと思ってよく観察してみますと、それはなんとウチのクワガタとカブトムシらしいのです。虫たちの運動会か。これは面白い。「最初の競技はふんころがしです」とか言って、クワガタくんにピンポン玉を押させている。
 ああ、子どもたちは楽しかった運動会を復習再現するだけでなく、別の視点立場から追体験しているわけですね。面白いわ、こりゃ。観られる立場から観る立場へ。視点の転換かあ。なるほどこういう復習の仕方もあるんだなあ。ウチはおじいちゃんがビデオ係だったので、ビデオによる復習は今日はできません。でも、こういう心の、頭のビデオによって、観る立場からの再現をしている。面白いなあ。こうして今日の自分を客観的に処理してるんだろうな。
 ということは、ホントは親である私たちが演技しなければならないのかもしれませんが、さすがにそれは無理というか、変だと思ったのでしょう、虫たちにその役割を与えたんですね。
 子どもの発想と行動は面白いなあ。では、おやすみなさい。疲れましたが、楽しかったなあ。

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2007.08.11

『せかいでいちばんつよい国』 デビッド・マッキー/なかがわちひろ (光村教育図書)

Sekaide 先に言っとこ。これ、逆説的おススメです。
 今日は1ヶ月ぶりくらいの完休…かと思ったら、なんかとっても大事な用事が入っていました。私は完全に忘れていました。
 地元の図書館でのイベント「パパの絵本タイム」に参加することになっていたんです。つまり、図書館に集まった子どもたちに絵本の読み聞かせをしなければならなかったんですよ。うわぁ〜、聞いてないよう。えっ?なんの本読めばいいの?
 当日の朝こんな感じですから困ったものです。結局私はものすごくシンプルな絵本を担当することになりましたので、いろいろと演出を加えまして、どちらかというと得意のお笑い系に持っていってしまいました。まあ、ウケたからいいか。
 ほかに二人のパパさんが一緒だったんですけど、お二人とも小学校の先生でいらした。さすが子どもの心をつかむのがお上手でしたね。ちなみに私、そのお一人の読み聞かせに即興で音楽をつけるという役もおおせつかりまして、ぶっつけ本番でキコキコやりました。テレビカメラも回っていたので、妙に緊張したなあ。
 さて、その後反省会と称した飲み会がありまして、そこでとんでもないビートルズマニア(コピーバンドのジョージ役担当)の方と知り合い、意気投合してカラオケでビートルズ歌いまくりという、なんとも予想外の展開になりました。いやあ、ものすごいわ。ちょっとついていけないくらいのマニアであります。私も勉強しなおさないと…。
 さてさて、そこから無理矢理本日のおススメに持っていきます。ビートルズと言えばイギリス。イギリス、ビートルズと来れば、アイロニーですよね。で、アイロニカル、シニカルなイギリスの絵本と言えばこれでしょう。「The conquerors」。
 これがですねえ、なんと小学2年生の課題図書なんですよ。これを読んで感想文を書くというのが、娘の宿題の一つなんです。で、とりあえず買ってみた。で、それこそ娘に読み聞かせたんですが、途中でこれはやばいぞ、これを課題図書にするというのはどうなんだ?と思い始めたんです。
 この「The conquerors」、日本版ではタイトルが「せかいでいちばんつよい国」になっています。まず、ここに非常な違和感を抱きます。絵本に限らずこういうことはいくらでもありますが、これでは全然違う読みを要求することになりますよねえ。
 内容的には非常にシンプルです。ネタばれになってしまうので、あんまり書けませんが、まあアメリカの横暴をイギリス人が皮肉ったものと言えるでしょう。軍事的征服者が文化的には征服される立場になる、というパラドクシカルなオチ。たしかに、今のアメリカを見ても、たとえば黒人文化に半分は征服されてますね。音楽とかスポーツとか。それだけでなく、あらゆる面でアメリカ的でないことこそアメリカ的ですよね。世界をアメリカにしようとしたら、アメリカが世界になるという逆説。
 この絵本はそういうことを表現しているとしか思えないんですが、そんなこと小学生には分かりませんよねえ。少なくともウチの娘には分かりません。
 「せかいでいちばつよい国」というタイトル、そして学校の課題図書ということになりますと、当然違う読みが要求されます。実際、日本版の感想や、課題図書紹介の文には、「大きい国と小さい国、どちらが本当に強い国だったのでしょう」みたいな、あちゃちゃな文が並んでいます。小学校の先生的にはそういう感想文を期待してるんでしょうね。
 それはそれで別にいいんですが、大人の事情で著者の意図が曲げられるのには、私はちょっと抵抗があります。
 というわけで、どうせなら英語版を買って読んでみようかな。
 ビートルズカラオケから帰ってくると、ちょうどBSアニメ夜話スペシャル 「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」が佳境に入っていました。もう、みんな語る語る。めっちゃ面白かったんですけど、ここでも制作者の意図を完全に越えた妄想的解釈が暴走していました。それこそがまさに「物語」の基本的な性質なんでしょうね。だから、絵本もいろいろな解釈があって当然です。でもなあ、子どもを洗脳するのはなあ…。

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2007.07.24

『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』 松永和紀 (光文社新書)

33403398 (ココログメンテナンスのため更新が遅れました)
 私は全く先生らしくない(いわゆる先生らしい自意識を持たない)先生らしいのですが、いちおう先生という名前の仕事をしている者として、これだけは教えておきたいということがあります。また、私は全く国語の先生らしくない(いわゆる国語の先生らしい授業をしない)先生らしいのですが、いちおう国語の先生という名前の仕事をしている者として、これだけは教えておきたいということがあります。
 それは、「だまされない人になりなさい」ということです。今風に言えば情報リテラシーを身につけろってことにもなりますかね。世の中の「言葉」を鵜呑みに資するなということでもあります。
 たとえば、この本でも糾弾されている「みのもんた」の言葉。まあ、みのさんの言葉はいかにも胡散臭いのでまだ罪はない方かも。バラエティーですからね、存在自体が。それより罪なのは、やっぱり新聞やテレビでしょう。いわゆるマスコミの言葉です。生徒は、新聞やテレビのニュースは本当のことを語っていると信じています。てか、それ以前に学校の先生の言うこと、あるいは教科書に書いてあることが正しいと思っていますね。
 ということで、まずは私の言うことを信じるな、疑えというところから始まりますが、私はどういうわけか初めから信用されてないので、そこんとこは軽くクリアーです(笑)。次は小学校、中学校の先生の言うことを検証します。続いて、テレビのニュースや新聞記事、ネット上の情報やなんかを俎上でぶった切ります。と言いますか、つまり同じ話題にしてもいろいろな視点や表現の仕方があるということを教えるわけですね。そして、なんでそういうふうにいろんな「コト化」が行われているかを教えます。
 特に女子生徒には、そこんとこを強調します。みんなが大好きなアレやコレは実はね…って。そうすると、女の子たちはなんか怒りだすんですよね。面白いことです。つまり、彼女らが信用し切っていた、あるいはそれを越えて信仰していたことから、突然ウサンナ(ポルトガル語…怪しいの意)の臭いがプンプンしてくるからですね。
 うん、確かに最近のテレビ番組やら、広告やら、CFやら、つまり様々な情報は、女性をだますことを目的にしていものが多い。なにしろ、今や女性は男性よりもお金持ちですからね。欲望が強い上に金持ちですから、それは金もうけをたくらむ男どもの餌食になりますよ。ダイエットにアンチエイジングにスピリチュアルにコスメにファッションに育児に恋愛に。いろんなウサンナ餌がばらまかれてます。
 そういう餌をしかける男は、単に市場の原理に則って行動してるだけですから、そんなに責められません。でもやっぱり、それにだまされて食いつく女性にしっかりしてほしいと思うのは私だけではないでしょう。
 この本でまな板に乗せられている、「白インゲンダイエット」「納豆ダイエット」「寒天ブーム」「レタスの快眠作用」「タマネギが糖尿病にいい」「シナモンが糖尿病にいい」「リンゴダイエット」「環境ホルモン」「ダイオキシン」「化学物質過敏症」「添加物」「化学物質無添加」「有機栽培」「オーガニック」「無農薬」「マイナスイオン」「水からの伝言」「遺伝子組み換え大豆」…これらは、たしかに女性が敏感に反応するコトノハばかりですね。
 しかし、この本の矛先は女性たちには向かいません。あくまでもマスコミや科学者など発信者に向かっています。筆者自身が女性ですし、記者生活の長かった方ですので、そのへんは微妙と言えば微妙でして、あくまで矛の向かう先にも表向きと裏向きがあって、それこそメディア・バイアスがかかっているかもしれませんけどね。
 だからという訳ではありませんが、この本は生徒に、特に女子生徒に読んでもらいたいわけですけれど、また逆に彼女たちにはこの本の内容もまた鵜呑みにしてほしくないわけです。つまり、最終的にはいろいろな立場からの情報(コト)を仕入れて、しっかり仕分けして、自分の「コトノハ」「コトワリ」で判断してほしい。そして、もちろんその自らの「コトノハ」「コトワリ」にも懐疑的であってほしい…。
 私自身も、いつも「原理主義はいかん」と言いつつ、でも、いつまでも懐疑論者でいるわけにもいかず、線引きというか、妥協際というか、視座の置き場というか、そういったいつもフラフラして固定されないモノとのつきあい方に苦労しているわけでして、最近もいろんな人に指摘されていますが、このブログの記事の言葉もどこか歯切れが悪かったりする(この文自体かなり気味悪い)。
 こんなことを繰り返していると、結局お釈迦さまのおっしゃる「空」という究極の 「ことわり方」、すなわち「事割・言割」を否定する「ことわり方」に至ってしまうような気もするんですね。でも、またそれが人として(特に現代日本人として)逃避になっていないかという検証も必要なような気もする…と、またまたずいぶんと話が飛んで、トンデモナイことになっていますが、えっと、つまりは、「だまされない人になりなさい」、しかし「上手にだまされる人にもなりなさい」ということかな?そうじゃないと大好きなプロレスも音楽も映画も演劇もコントもトンデモ世界も楽しめませんからね。
 「世俗の人として生きるなら、真に賢いだまされ役も引き受けなさい」ということでしょうか。う〜む、悩める日々の繰り返しでつ。
 すんません、なんか変な独り言になってしまいました。とにかくいい本でした。皆さん読みましょう!

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楽天ブックス メディア・バイアス

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2007.06.06

ディズニーランド○○○完全制覇!!

↓ディズニーランドを上から見た図(Google Earth)
Disneyland 今日は仕事でディズニーランドに行きました。もう何回目なんだろう。正直辟易。あっ、ちなみに昨年のディズニーランド記事はこちら。耳についての考察でした。今年はその耳は激減していたように見えたんですが。やっぱり一時的なブームだったんでしょうか。
 昔は生徒たちと走り回ったり、また何時間も並んだり、全然平気だったんですけどね、歳でしょう。そこで、今日は基本単独行動、自分のペースでマニアックな楽しみ方に徹しました。
 最初のテーマは「ディズニーランドのわびさび」だったんですけど、これはどうも無理そうだとすぐにあきらめちゃった。普通どんな遊園地も、アトラクションの裏側とか、あるいは別に裏側に行かなくても、そのアトラクション自体まさにサビてたりしてですねえ、かなり「侘び寂び」なことになるんですが、ディズニーは全然そういう風情がない。いや、あえてそれを封印している。封印することにお金をかけてるんですね。ほぼ完璧でしょう。悔しいけれど敵もなかなかスキを見せてくれません。
 ああ、こりゃあ無理だし、だいいちネクタイ締めて、変な帽子かぶってまるでディズニーに出てくる探偵みたいな格好の私が、核(各)施設の裏側を覗こうとしていたんでは、冗談でなく捕まってしまう。そう判断して、すぐに諦めた次第です。そして、尿意を催したんでトイレに行ったんですね。そしたら…
 ありましたよ、ちょっぴりわびさびが。いや、今まで気づかなかったんですが、ディズニーランドのトイレって、全然普通なんですね。高速道路のSAのトイレとなんら変らない。ミッキー柄のタイルが配されていたり、それらしい音楽がかかっているわけでもない。いかにもなアイボリー色を基調とした普通の壁と便器と洗面台なんですよ。ついでに臭いもごく普通の公衆便所であります。おお、これはわびさびを感じるぞ。
 というわけで、私ひらめいたんです。そうだ!今日はディズニーランドのトイレを全部制覇しよう!って(なんなんだ?)。さっそく入り口でもらうあのマップの、今入ったトイレのマークに○をつけました。さあ、次はトゥーンタウンのところだ…。
 と、こんな感じでいちおうマップに出てるトイレには全部行きましたよ。もちろんそんなにたくさん排泄できませんから、入場とともに個室に入り写真を撮ったり(おいおい…)、手を洗うだけで出てきたりしました。で、私の観察によりますと、それぞれのトイレのデザインはそれぞれ違うんですが、基本は最初に書いたようにごく普通の公衆便所風情なんですね。ちょっと意外でした。ああ、ここは異次元だ。
 そう、そうなんですよ。異次元なのはトイレではなくて、トイレの外なんですよ。あの、ゴミはおろか、カラスすら電磁波によって排除されている(ホンマか?)非日常的人工的空間こそが異次元なのであって、トイレはそこにポッカリ空いた日常への小さな穴のようなものなんです。
 その証拠に、そこに集うお父さんたちの憔悴した、しかしどこか安堵にも満ちたあの表情を見よ。そう、彼らはその非日常的空間において、はしゃぎ回る幼い子どもたちや、その子どもたちに負けず劣らずハイテンションな妻を満足させるべく、優しくアクティブで太っ腹な「ディズニーランドに連れていってくれるいいパパ」を演じているんですよ。そして、そんな自分にちょっぴり酔っていることも事実。しかし、実は肉体も精神も疲れ切っているんです。そんな彼らの唯一の癒しの場は「トイレ」しかありません。「ちょっとトイレ行ってくる」と言って解放された彼らは、便器の前にたたずみ、大きくため息をつきます。ふぅ〜。
 もし、そんな癒しの空間であるべきトイレすら非日常だったら…ため息をつこうとしたその目の前にミッキーがそれこそハイテンションでこっちを見て笑っていたら…便座のフタを開けるとスティッチが憎々しげにあの歯をむいていたら…あの小さな憩いの世界に「It's a small world」が大音声で流れていたら…。
 残念ながら女性用のトイレについては知るべくもありませんけれど、とりあえず男性用トイレは非常に日常的であるということは確かだと感じました。もしディズニーランドが意図的にああいう空間を作っているのだとしたら、それは大したものです。ま、私の考え過ぎかもしれませんけどね。
 というわけで、ディズニーランドのトイレ完全制覇した人はとりあえず今日は私だけでしょう。中にはそういう変わり者もいるかもしれませんが(いないか)。あっそうそう、アトラクションや乗り物には一切関わらないつもりだったんですけど、トムソーヤ島に二つトイレがあるんで、仕方なくいかだには乗りました。いや、最初間違えて船に乗っちゃったんですが。
Splash はい、では最後に記念写真を。クラスのギャルどもがスプラッシュ・マウンテンで記念撮影しているその横(同施設の出口の横)のトイレで一人スプラッシュです。あえて和式です。ね?普通すぎるでしょ?…って、ああ、何やってんだか。バカみたいですね…こんなことしてる自分の方がずっと非日常的…というか非常識というか…はっきり言って変態ですね(笑)。
 こんなことしてるヒマがあったら、家族をディズニーランドに連れて行きなさい!なにしろ、上の子はクラスで唯一ディズニーランドに行ったことがない希少種らしい…ゴメン。

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2007.02.15

『ブッダは、なぜ子を捨てたのか』 山折哲雄 (集英社新書)

T5438 今日は涅槃会。お釈迦さまのお亡くなりになった日です。ウチの学校は禅宗のお寺さんが母体になっておりますので、1時間目に特別の礼拝(らいはい…ですよ)をいたしました。
 その中で、校長先生がお釈迦さまの子捨ての話をしました。お釈迦さまは、16歳で結婚しまして、29歳で初めての子に恵まれます。しかし、その子に「ラーフラ(障碍)」という名前をつけた上に、しばらくして家出をしてしまいます。出家というよりも家出ですね。で、家族も仕事もほっぽり出して、自分の趣味(修行)に専念してしまいます。ある意味ネグレクトですな。
 なんでこんなことをしたのか。それはお釈迦さまにしか分からない。だから、正直、山折哲雄さんにも分かっていない。タイトルだけを見ると、その答えがそれなりに提示されていそうですが、それについての当時の文献があるわけでもなく、しょせんは「思いを巡らす」ことしかできないと思います。まあ、その思索の低徊の積み重ねが、仏教徒の生活の基本といえば基本とも言えますけど。
 というわけで、山折さんのこの本のことを思い出しまして、今こうして記事にしております。読んだのは去年の夏ですね。その時はあんまり印象に残らなかったし、なんかいかにも売るためのタイトルだな、と感じたりもして、おススメするのはやめたのでした。でも、今日、校長先生のお話を聞いてちょっと思うところがあったので、この本もついでに紹介しておきます。
 なぜ我が子に「ラーフラ(山折さんは悪魔と訳しています)」という名をつけたのか。校長先生は、子どもこそ親にとって執着の対象になるんだということを力説しておりました。なるほど、そうか。たしかに自分も含めて普通の親は、子どもをまるで自分の所有物のように扱っています。小さい時からいろいろと習い事をさせたり、いろんな物を買い与えたり、おまえの為だという言葉を切り札に、様々に自分の思いを実現していこうとします。そう、もうみんな気づいているはずなんですが、親の「おまえの為」というのは「自分の為」なんですよね。
 で、反抗期が訪れたり、あるいは親が思うほど才能がなかったりして、「思い」が裏切られていくわけです。そうすると、今度は不機嫌になる。よくありますよね。
 これはまさに「執着」そのものです。また、私の得意技が出てしまいますが、とにかく自分の思い通りを欲するというのは「コト」に対する執着です。逆に不随意で変化するのが当たり前な存在が「モノ」でした。日本と日本語という狭い領域で考えると、こういうことになるわけです。で、考えてみれば「子」も昔から「コ」でした。私の音義説によれば、カ行音は「不変」「固定」「随意」を表す音です。ということは、やはり自分の子どもというものに、本来的に自分の思い通りにしたい、変化する(死ぬ=モノ)自分の何か(遺伝子ですかね)を託したいという気持ちがこめられているのでしょうか。意識しなくともね。
 まあ、時間の一方通行性からしまして、これは子どもにとってはエラい迷惑な話ですよね。あくまで自分の意志でなく「生まれた(迷惑の受身)」わけで、でも生まれちゃったら生んだ方の事情なんて関係なく、自分は自分なわけでして。
 そんなふうに考えていましたら、ああそうか、お釈迦さまは結局ラーフラのためになることをしたんだな、と思えるようになります。自分が自らの執着から解放されるのと同時に、ラーフラは親の愛というずいぶんと身勝手な、ありがた迷惑なものから解放されるんですからね。カルマからの解脱でしょうか。
 実際ラーフラはのちに仏陀となったお父さんの弟子になります。十大弟子の一人になるんです。普通に王家の子どもとして成長したらどうなっていたんでしょうね。
 というわけで、私も妻子を捨てて家出するかと言いますと、そんな勇気もありませんし、第一お釈迦さまのように結果として立派な父親(仏陀)になれるわけもなく、まあ放蕩オヤジで終わるのがオチでしょうから、そんなことはしません。せめて、自らの執着心だけは抑えつつ、そして、子どもを捨てるのではなく、子どもに捨てられる覚悟だけはちゃんとして生きていこうと思いました。できるかな。

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