カテゴリー「育児」の104件の記事

2023.05.11

追悼 のっぽさん

Th_b552b6371472ddcb80d2e4acf8c42eba_1 ろいろありまして、更新が途絶えておりました。ちなみに私は元気です。生きてます。

 さて、この日は「のっぽさん」こと、高見映(嘉明)さんのことをいろいろ思い出しておりました。

 実は昨年9月に亡くなっていたとのこと。

 のっぽさんらしく、あまり人にそのことを語りたくなかったのかな。

 教育者の端くれとしての私は、のっぽさんの子どもに対する接し方に感心していました。のっぽさんの著書、『五歳の記憶 ノッポ流子どもとのつき合い方』はバイブルの一つです。

 子どもを「小さいひとたち」と呼び、話しかける時は敬語を使う。決して見下したりしないし、いばらない。傲慢なの大人が一番嫌いだといいます。

 この世の中では、それはちゃんと意識しないとできない。特に日本は年長者を敬う習慣があるために、逆に子どもへの敬意を忘れがちです。

 私も、のっぽさんが言うように、自分の人生のピークは5歳の時だったと思います。あとはダメになるばかり。ですから、今の私の目標、憧れの人は5歳の自分なのです。私の講演やセミナーでは、そのことを違う言葉で表現しているのでした。

 そう考えると、私の人生を形作ってくれた恩人とも言えるのっぽさん。本当にありがとうございました。どうぞ、ゆっくりお休みください。

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2023.04.26

柳沢正文 vs 落合陽一 『睡眠の謎』

 っと「昨日」に追いついた!w(27日に書いてます)

 昨日はですね、朝まで飲んでいたのでやや二日酔いでしたが、朝イチで学校に関する仕事、大きな企業さんと打ち合わせをしてきました。

 それにしても甲府って渋いいい飲み屋街がありますね。昭和レトロは富士吉田の特権かと思ったら違った。ある意味もっとすごかった。

 あいにくの雨でしたが、打ち合わせのあと、酔い醒ましも兼ねてしばし甲府の街を散歩しました。

 そして、酔いもさめた午後は、また違う会社を訪問。こちらでも楽しい打ち合わせができました。そして帰宅。なんか久しぶりに家に帰ったような気がしました。

 で、死んだように1時間ほど眠ってしまいました。あの「死ぬ」感じ、たまりませんね。どういう睡眠物質が出ているのでしょうか。

 睡眠といえば、以前観たこの動画が面白かった。ブレークスルー賞受賞の睡眠の世界的権威、柳沢正史先生と、ショートスリーパー落合陽一さんの対談。

 私は夜は10時に寝てしまい、朝6時ごろなんとなく起きるという生活をしています。途中3時には必ず自然に起きて、プロスピをやってまた寝ます(笑)。

 まあ、8時間以上寝ているので普通の人間ですね。日本人としてはよく寝ている方かもしれません。結構びっくりされるんですよね。なんか寝ないで本とか読んで勉強でもしているようなイメージがあるようで(笑)。

 私は睡眠学習専門家です。起きている時の勉強は過去のウンコの詰め込みになりますが、睡眠学習は未来の情報のインストールなんですよ。寝れば寝るほど賢くなれる(笑)。

 そう考えると、授業中寝ている生徒は正しいってことですよね。寝ること眠いことが罪のように言われるのが現代社会。はたしてそれは正しいのか。

 夢にも興味がありますが、やっぱり学問的には難しい分野なんですね。学問の対象ではないということでいいと思いますが。

 

 

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2023.02.24

「や〜だ」はどこから来るのか

Th_ebqcdkuvuaaxidc うでもいいことが気になったので書いておきます。

 昨日、東京からの帰り、中央道のパーキングのフードコートで夕飯を食べました。

 すぐ近くに家族連れがいました。2歳くらいの可愛い男の子が、なんのきっかけかグズりはじめ、お母さんやお父さんが何を言ってもやっても「や〜だ」「や〜だ」しか言いません。

 けっこう大きな声で泣き叫んでいたのですが、小さな子どもにはよくあることですから特に気にならなかったどころか、困り果てているご両親に同情の念を禁じえませんでした。

 で、ふと思ったのですよ。この「や〜だ(頭高アクセント)」って、幼児にとってはほとんど共通語になっていますが、いったいどこでどうやって覚えるのでしょうか。

 一般的に幼児は親の真似をして言語を習得していきます。では、大人は「や〜だ」と言いますでしょうか。言いませんよね(笑)。

 それならテレビとかネット動画から学ぶのかというと、それらの中でもほとんど「や〜だ」は見聞きしません。

 不思議ではないですか?

 たまたま一緒にいた家内や家内のママ友にも聞いてみたのですが、「そう言われるとたしかに…」と首をかしげていました。

 一つ考えられるのは、どこかで、たとえばこのフードコートのようなところで、別の幼児が「や〜だ」と叫んでいるのを見聞きして、そして「これをいつか使ってやろう(親を困らせてやろう)」と思い記憶しておく…なんてことあるのかな(笑)。

 冒頭の画像は「アンパンマン」に出てくるキャラ「ヤーダ姫」です。この影響かとも思ったのですが、この可愛いキャラは映画版にした出てこないし、「ヤッダー」とは言うけれど「や〜だ」とは言いませんよね。

 えっ?ヤーダ姫って二人(2種類)いるんだ!別キャラなのか!知らなかった。

 もちろん、アンパンマン以外のアニメ作品に、子どもが駄々をこねるシーンというのはあると思いますが、基本それはダメなものとして表現されていると思いますし、親もそこにいれば「ダメだね」とか「はずかしいね」とか「○○ちゃんはこんなことしないもんね」とか言いそうですよね。

 しかし、結果、幼児の共通語(標準語)となっている事実からすると、これは最初の反抗期アイテムなのかもしれませんね。

 いったいいつ頃(どの時代)から幼児はこの言葉を使い始めたのか、という歴史的研究もしてみたい気がしますし、何歳くらいで使わなくなるのかという発達史的なことも考察してみたい。ちなみに高校生(女子)は使いますよ(笑)。

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2022.09.26

田嶋陽子が説く人権・男女

 

 

 ん、これは面白かった。勉強になった。

 田嶋さん、教え方うまいわ。毒舌のあとの笑顔に「愛」を感じますね。

 テレビではああいうキャラを演じていますが、本当は優しく「女性らしい」人です(本人はこの言い方嫌いですけど)。

 実はウチの家内と田嶋さんの歌のお師匠さんが共通でして、なんとなく身近に感じるところもあるのです。

 ここで「生徒」たちが納得しているように、たしかに時代がようやく田嶋陽子に追いついてきた感じがありますね。

 何十年も前から、未来を予測し、見えていた未来をしっかり導いてきたその功績は計り知れないものがあると思います。

 いわゆる過剰なフェミニストたちとは明らかに一線を画していますよね。

 私も比較的保守的な男女観を持っており、かつて担任したクラスの目標を「男は男らしく、女は女らしく」と決めていた時代もありました。

 それが今では私は家内のもとに生きております(しかし、家事は全くやらず怒られています)。

 一方、我が家の女衆はいわゆるフェミニストを毛嫌いしており、これはいったいどういう心理なのか、興味深く観察しているところです。

 たしかに田嶋さんや舛添さんがおっしゃるように、そして若者たちが自然に思っているように、男女だけでなく、社会的な「区別・差別」をいったんチャラにして、多様性からスタートして整理しなおすのが良いでしょう。

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2022.09.05

ひろゆき&成田悠輔 in東大…ヤバすぎる日本の教育

 

 

 日は高校にて勤務。私の担当は(なぜか)仏教。座禅指導やら法話っぽいことやら、エセ坊主がそれらしくやっております(笑)。

 ウチの学校はまさに社会の縮図のように、多様な生徒が共存しております。

 偏差値というつまらない基準で語ってしまうと、それこそピンからキリ。

 そんな、ある意味理想的な環境ですから、教育…いや学習、ということを広く大きな視点で考察することができます。

 この、ひろゆきさんと成田さんと、元文科大臣の討論もよくわかります。すなわちエリートによるエリート教育についての論点ですね。

 これについても、私は今、某大学の元学長さんや、外国人大学教授の皆さんと具体的に対策を考えています。その基本中の基本は、絶対に文部科学省の傘下に入らないこと。

 いわゆる旧来の「学校」のシステムでは、そうしたエリート層(学力だけなく)の能力を伸ばすことはできません。

 もちろん、旧来の「学校」にも存在価値はあります。平均的な中間層、国力の中心となる労働者を作る意味では、これからも重要な存在となるでしょう。

 近代教育によって、かつての Slave は Labor や Worker にたしかに格上げされましたが、しかしそこでは Creator は育ちません。

 なぜなら、そこで扱う情報はすべて過去のものだからです。

 創造力とは、すなわち未来の情報をいかにダウンロードするかという能力のことです。

 最近の私は、その方法をまずは大人の皆さんに伝授する仕事をしています。それは大人でもできることであるし、そういう大人が増えることによって、子どもたちへの教育の内容も変わると信じているからです。それはアートやスポーツの世界でも全く同じです。

 21世紀の半ばまでにはなんとかしたいなあ。あと30年か。生きているうちになんとかします。

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2022.08.08

誡太子書(花園天皇)現代語訳(5)

 たとえ学問の道に入るといっても、なおこのような失敗が多い。深く自らこれを慎み、有益な友を得て切磋されるべきである。学問でさえ誤りがあれば、道に遠い。ましてやその他のことは言うまでもない。深く誡めて必ずこれを防ぎなさい。そして、近ごろあなたが親しくするところ、すなわちつまらぬ人の慣れ親しむことはただ俗事のみで、本性は相近くとも、習いはすなわち遠い。たとえ生来の徳を備えるといえども、なお感化されることがあることを恐れる。ましてや上智に及ばないことを恐れないでよかろうか。徳を立て学識を成す道は、かつてより由るところがない。ああ、悲しいかな。先皇の諸業績は、今時たちまち堕落してしまうだろう。

 私は本性が拙く、智恵は浅いといえども、ほぼほぼ典籍を学び、徳義を成し、王道を興そうとしている。それはただ宗廟の祭祀を断絶させないためである。宗廟の祭祀を絶やさないかは、太子の徳にかかっている。だから、今あなたが徳を捨てて修めないならば、学ぶべき所を一旦溝に埋めて再び用いないようにしてしまうことである。これは私が胸を撃たれて号泣し、天に叫んで大きく嘆息するところである。五刑のたぐいは数多くあるが、罪として不孝よりも重大なものはない。その不孝の中でも、祭祀を断絶させることよりも甚だしいものはない。慎まねばならない。恐れねばならない。もし学問の功績が現れ、徳義を成就すれば、ただ帝の御業績を現世で盛んにするだけではなく、また美名を来世に残し、上は先祖に大孝を致し、下は庶民に厚徳を与えるだろう。そうすれば、高くしてしかも危うからず、満ちてしかも溢れない。なんと楽しいではないか。一日の屈辱を受けて、百年栄えを保つなら、忍従することができる。ましてや積み重なる古典に心を遊ばせれば、つまらない束縛もなく、本の中で故人に遭えば、ただ聖賢との交流がある。小さな部屋を出ずして千里を思い、あっという間に万古を旅する。楽しみに最も甚だしいものは、これに過ぎるものはない。道を楽しむと乱に遭遇するのと、憂い喜びの異なること、日を同じくして語ることはできない。あなた自身どちらを択ぶべきか、よく審らかに考えるべきである。

(完)

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2022.08.07

誡太子書(花園天皇)現代語訳(4)

 詩書礼楽をもってせずしては世は治めることができない。これを手段として寸陰を大切にし、夜も昼に続いて、精しく研究するのがよろしい。たとえ学問が百家にわたり、六経を暗誦するとしても、儒教の奥義を得ることはできない。ましてや、大学・中庸を学ばずして、治国の術を求めるのは、蚊や虻が千里の遠きを思い、鷦鷯(みそさざい)が九天の広きを望むよりも愚かである。だからこそ考えて学び、学んで考え、経書に精通し、日々自己を省みれば、そのようなことに似ることはないだろう。学問の要たる万物の智を身につけ、まだ起きていないことを先に知り、天命の終始を理解し、時運の難易を区別し、もしくは過去と今を比較し、先代の興廃の道筋を斟酌するなど、変化すること際限がない者である。諸子百家の文を暗誦し、巧みに詩賦を作り、議論を為すことができ、多く官僚が皆それぞれを掌握する所があれば、君主がどうして自らこれらを労する必要があろうか。だから、宇多天皇の遺誡に「天子、雑文に入りて日を消すべからず云々」とあるが、近ごろ以来の愚かな儒学者は、それを学ぶというとただ仁義の名を守ってばかりで、いまだ儒教の本質を知らない。苦労は多いが功はない。司馬遷の言う「博くして要寡きもの」である。また、最近一群の学徒がおり、わずかに聖人の一言を聞いて、自らの臆測の説を用い、仏陀や老子の言葉を借りて、みだりに中庸の意味に取り、湛然虚寂(豊かに落ち着いているさま)の道理をもって儒教の本質となし、まったく仁義忠孝の道を知らず、法度に従わず礼儀をわきまえず、無欲清浄は取るべきものに似ているといえども、ただこれは老荘の道であり、孔孟の教えではない。これは同時に儒教の本質を知らないことであり、これを取るべきではない。

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2022.08.06

誡太子書(花園天皇)現代語訳(3)

 これに加えて、昔から武力革命が続き、皇室の権威はついに衰えている。なんと悲しいことではないか。皇太子よ、かつての皇室の興廃する理由をよく観察するがよい。手本は近くにあり、明らかに目に見えるものである。ましてや、時は流れ、人が皆暴悪になるに及び、智慧が万物にあまねく広がり、才能が世の太平と波乱を経験する以外に、どうやってこの乱れた俗世間を治めることができるであろうか。そうして凡庸な人々は太平の時に慣れてしまい、かつてのその時の世の乱れを知らない。時代が太平ならば、すなわち庶民と君主といえども治めることができる。でから、堯舜が生まれて庶民の上にいるならば、十の桀紂がいたとしても、世は乱れるはずもない。勢いが治まっているからである。

 現在、いまだ大きな乱に及ばないといっても、乱の勢いがきざしてからすでに久しい。一朝一夕といった少しの時の話ではない。聖主が位にあれば、すなわち平穏であろう。賢主が国政に当てれば、すなわち乱はないだろう。もし主君が賢聖でなければ、すなわち恐ろしいことに乱はたった数年の後に起こるだろう。そして、一旦乱が起きれば、すなわちたとえ賢哲のすぐれた君主といえども、数ヶ月で治めることはできない。必ず数年を待つ必要がある。ましてや凡庸な君主がこうしためぐり合わせのもとに立つならば、国は日に日に衰え、政治は日に日に乱れ、国勢は必ず土崩瓦解するに至る。愚人は時の変化に気づかず、かつての泰平をもって、今日の衰乱を判断する。なんとも誤った考えではないか。近い代の君主はいまだこのような運命には際会していないが、おそらくはまさに皇太子が即位する際、この衰乱の運命の時に当たるのではないか。内に賢明な聴く耳を持ち、外に各方面に通ずる優れた策があるのでなければ、乱国に立つことはできない。これが私が強く学問を勧める所以である。現在の凡庸なあなたはいまだかつてこのような時機というものを知らない。よくその思いをめぐらし、この悪い風習の時代の上に加えなさい。

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2022.08.05

誡太子書(花園天皇)現代語訳(2)

 秦の政治が強かったといっても、漢と並ぶところとなり、隋や煬が盛んだったといっても、唐がそれを滅ぼすところとなった。しかし、へつらう愚人は次のように考える。我が朝廷は万世一系で、かの外国(中国)の、徳を以て政権交代し、武力を以て政権を争うのと同じではない。だから徳が少なくても、隣国がすきを窺う危険性はなく、政治が乱れるといっても、他民族に政権を奪われる恐れはない、これは我が国が守られているのであって、他国にまさっている点である、と。であれば、わずかにでも先代の威光を受けて、最悪の国にしなければ、伝統の法制を守った良い君子として充分であろう。必ずしも徳が堯舜に及ばず、教化すること栗陸氏に等しくないことを心配する必要はない、と。無知な庶民は、こうした言葉を聞いて、皆そのとおりだと思ってしまう。私はこれは深く間違っていると思うのである。

 なぜならば、釣り鐘は響きを蓄えているが、それを叩かなければ、いったい誰がこれを音がないと言うだろう。澄んだ鏡はそこに影像を含んでいるが、すべて鏡の前に立たなければ、いったい誰がこの鏡は映らないと言うだろうか。結果はいまだ顕れずといえども、物の道理はすでに明らかである。よって孟子は紂王を逆賊とし、武王を責めることはなかった。少ない徳で神器を保持しようとして、どうして理の当たるところとなるだろうか。もしそのようにしようと思うなら、累卵が崩れる岩の下にあるよりも危険で、腐った縄が水底の上にあるよりもひどい。たとえ吾が国を他民族からの侵略から守ったとしても、皇位の交替が多くなるのは、そのためである。

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2022.08.04

誡太子書(花園天皇)現代語訳(1)

Th_-20220807-180640 皇陛下がたびたび言及されている「誡太子書」。

 花園天皇が自らの皇太子に対しての大変厳しい言葉を綴った文書です。代々の天皇、皇太子に対する永遠のメッセージとも言えましょう。

 また、私たち庶民の生き方に対する一つの指標であります。

 原文は厳格な漢文で、なかなか読みにくいので、私なりに書き下したのち、わかりやすく現代語訳してみました。

 あくまでもワタクシ流の解釈です。細かい質問などにはお答えできません。あくまでも御参考までに。

 数日に分けて公開します。

 

 誡太子書

 私(花園天皇)が聞くところによれば、天が庶民を生み、君子を立てて民を養うのは、人や物をうまく利用するためである。民は愚かであり、これを導くのに仁義をもってし、凡俗の無知を治めるのに政治を以てする。もしその才能がなければ、君子の位についてはならない。人民の一つの官職でさえも、これを失うと、やはり天下は乱れるという。すきを狙う鬼の災いは逃れることができないのだ。ましてや、君子の大切な仕事については、必ず慎み、恐れなければならない。

 それなのに、皇太子は宮中の人たちの手によって成長し、いまだ庶民の苦難を知らず、常に華やかな衣服を着て、糸を紡ぎ布を織る大変さを思うことがない。いつまでも庶民の供した穀物のおいしい料理を腹いっぱい食し、いまだ種植えや刈り取りの苦労を知らず、国に対してかつて少しの功もなく、民に対してほんの少しの恵みもなかったではないか。

 ただ先帝の残した威光というものをもって、何も考えず君子の政務の重責を遂げようとする。徳がないのに誤って王侯に託し、功もないのにもし庶民の中に赴くならば、これほど恥ずかしいことがあろうか。また、詩書礼楽という庶民をまとめる四術をどうやって習得するのか。皇太子自ら反省してほしい。もし(詩経にあるがごとく)温かみと誠実さの教えをを身につけ、諸事に通じる見識で世の意味を悟れば、それは善いことである。とはいえ、やはり足りないことがあることを恐れ、ましてやいまだ自らが道徳を身につけず、少しでもかの重い位を期待するのであれば、これは求めることと為すべきこととが違っていることになる。たとえば、まるで網を捨てて魚がかかるのを待ち、耕さないで穀物が熟すのを期待するかのようである。これらを得ることは決して難しくない。たとえ勉強してこれらを得たとしても、おそらくはそれは自らのものになっていない。

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