カテゴリー「育児」の77件の記事

2017.01.05

「普通」とは「健常者」とは?

Th_img_22f1b52335568a94877bb99a80f8 日の「ヤクザ」の話ともつながっていますが、ここのところ「普通」とか「健常者」とか、それってなんなんだろう、自分は普通なのか健常者なのか、それとも異常なのか、などと考えてばかりいます。
 特に学校教育に携わっている者として、最近なぜか増加している「発達障害」などについて、正直違和感を持ち続けているわけです。
 今の学校、特に公教育にあっては、「普通」や「健常者」が心地よい環境のみ整えられ、そこからはみ出る者についてはまるで異物のように扱うという傾向があります。
 もちろん私はその対極にある「異常」な教育者であるわけです(笑)。だから私もここ教育界においては行きづらい部分もある。
 そんなことを考えている中で、非常に面白いネット記事に出会いました。武術家の光岡英稔さんとしょうぶ学園施設長福森伸さんの対談『自分は健常者だと思っている私たち全員が抱える「ある重い障害」』です。
 内容は読んでいただくのが一番ですから、ここではなぞりませんが、私は非常に共感する部分がありました。
 特に面白かったのは、アメリカの自閉症協会によるニューロティピカル(定型発達)の定義です。皆さん、どのくらいあてはまりますか。私もそれなりにあてはる部分もありますよ。なんだかんだ言って、私も「普通」派「健常」派になってしまいっている(?)のだなあと痛感いたしました。

・ニューロティピカルは全面的な発達をし、おそらく出生した頃から存在する。

・非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。

・社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。

・テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。

・特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向がある。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。

・ニューロティピカル症候群は社会的懸念へののめり込み、妄想や強迫観念に特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。

・自閉症スペクトラムを持つ人と比較して、非常に高い発生率を持ち、悲劇的にも1万人に対して9624人と言われます。

 まあ、「定型発達という障害」という表現自体がパラドックスを含んでいるわけですが、そういう視点を持ち込むことによって、私たちの常識を揺るがす意味はあると思います。
 定型とはなんなのか、社会性とはなんなのか、障害とはなんなのか、それ以前に発達とは本当に発達なのか…少なくとも教育者は一度は自問自答してみるべきだと思います。
 光岡英稔さんの『教育すると、人間は「弱く」なる!』もぜひ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.09.27

復活!よい子の花火大会 in 月江寺

20150929_6_24_48

 の日曜日(10/4)、いよいよ「よい子の花火大会」が復活します。
 かつて地元の恒例行事として大いに盛り上がっていた、富士吉田市下吉田月江寺の「よい子の花火大会」。
 地域の子どもたちに非日常的(ハレの)楽しさと夢をもう一度!ということで、地元の若い教え子たちが中心となって復活させることとなりました。
 場所も私の奉職する学園の母体であるお寺ですし、教え子からも相談を受けていましたので、陰ながら協力させていただいています。ちなみにJJパラダイスというバンドに助っ人で参加します(ボーカルはカミさんです)。我が校のジャズバンド部もオープニングで演奏します。
 言うまでもなく、子どもたちにとって「祭」は、社会教育的な意味を持つものです。地域の祭の復活が、日本の復活につながると、私は真剣に考えてきましたので、こうして足元でそうした動きが出てきたことは、非常にうれしいことです。
 かつて月江寺界隈には正統なヤクザ(興行師)さんもいて、たとえば境内でプロレスの興行なども行われていました。先日、地元出身のプロレスラー武藤敬司さんに会ったのも、実はそうした文化を吉田に復活させるための第一歩です。
 先日も書きましたとおり、ここ下吉田月江寺界隈は、太宰治、李良枝、志村正彦といった夭逝の天才たちの作品を生んだ土壌です。
 ぜひ、他地方からもそうした「聖地」の磁場を感じにいらしてもらいたいと思います。あっそうそう、磁場と言えば「ジバニャン」も来ますよ(笑)。
 多くの方々の来訪をお待ちしております!

よい子の花火大会 Facebook


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.09.26

『アートがあなたを変える、世界を変える』 サイヒロコ (KADOKAWA)

Th__20150927_85455 界的なアーティストであるサイヒロコさんをご紹介いただき、対談させていただきました。
 国連の21世紀平和の文化シンボルアーティストであり、フランスのポンピドゥー・センターやサリーヌ・ロワイヤル世界遺産「未来都市」に住みながら創作活動や平和運動を行なってきたサイヒロコさん(詳しくはこちら参照)。
 考えてみると、とんでもない方とお話させていただきましたね。ありがたいご縁であります。
 アート、平和、未来学、教育、富士山、宇宙…王仁三郎の耀わんをはさんで話題は尽きませんでした。限られた時間の中でしたが、非常に共感する部分が多く、今後の展開が実に楽しみです。
 別れ際にこの本をいただき、さっそく拝読いたしました。サイヒロコさんが、いかに自由に自然体に生きていらしたか、そして、それが一般社会、特に日本の常識からするといかに奔放であったかが分かりました。もちろん、その自由さ、奔放さは非難されるべきものではなく、本来人間に与えられた権利です。
 特に日本の教育、あるいは社会全体が、子どもたちのそういう権利を奪っているかということを感じましたね。実は昨日、中学生のある弁論大会に引率で参加していたのですが、そのあまりに型にはまった、大人の基準でのコンペティションに寒気がしていたところでした。やっぱりおかしいですよ、日本の教育は。
 このサイヒロコさんの自伝を読みますと、やはりご両親の教育がご本人に与えた影響が大きいと感じました。
 「100%相手の立場になって考える」
 これは、アートの基本であり、平和や幸福の基本であり、仏教の自他不二の境地であり、神道の自然観でもあります。レベルは違えど、同じことを目標としてやってきた私としては、大変勉強になり、なおかつ勇気を与えられた対談となりました。
 そして、私からは出口王仁三郎の「芸術は宗教の母」という考え方や、仲小路彰の地球公園化構想や未来学、富士山の歴史などを紹介させていただきました。
 これから、ここ富士山において、大きなアートのうねりが世界に向けて、あるいは宇宙に向けて発信されることと思います。
 いや、発信の前に、富士山やそこに住む私たちが受信機(うつわ)になって、宇宙のメッセージを受け取ることから始めなければなりません。そういう準備をさせていただきたいと思います。
 「アートで世界を変える」…王仁三郎流に言えば、こちらに書いたように、「芸術」とは神(自然、宇宙)の業であり、私たち人間はそれを体現するお役目をいただいているわけで、違う言い方をすれば、「世界を変える(創る)ためにアートは存在する」ということになります。
 サイさんは、王仁三郎の耀わんを手にした時、その温かさ、明るさ、楽しさ、そして人間に対する無限の愛を感じたとのことです。
 さすが、本物のアーティストどうしはそういう次元でつながるのですね。
 さあ、これからの展開が本当に楽しみです。私にできることは協力させていただきます。ご縁に感謝です。

サイヒロコ公式サイト

Amazon アートがあなたを変える、世界を変える

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.06.24

積極的にリスクを負う

Th_e0076231_20413650 日は地域の教育関係者の集会に参加。なにかと閉鎖的なのが学校というところ。縦横の連携もお題目だけに終ることが多い中、この地域は比較的頑張っていると思いますよ。
 今日のプログラムには講演があり、その内容もなかなか興味深いものでした。「安全にリスクを負わせる」のが教師業だと思っている私にはぴったりの内容でした。
 その中で、紹介された羽生名人の言葉が印象的でしたね。

「積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にする」

 今の「学校」は、とにかくリスクを避ける傾向にあります。(特に公立の)センセイの仕事がリスクヘッジに終始している。全く本末転倒です。
 今日の講演にも「成長痛」が登場しましたが、成長には痛みが必要です。快適なだけの環境は人を成長させないどころか、堕落さえさせます。
 教師は、「安心・安全・信頼・自信」をベースにして、その上にその生徒、学級、学年、部員などに適切に「痛み・悩み・苦しみ・衝突・反抗」などを演出するプロでなければなりません。そういう職人であるべきです。
 そういう意味で、私たちは「リスク」をたくさん体験して、そのリスクのマネージメントができる人間である必要があります。理屈ではなく体験的に。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言いますが、今の学校は虎穴に入らないのはもちろん、虎穴には近づかない、あるいは前もって虎穴を埋めてしまうというようなことが横行しています。
 それがはたして「学校」「教育」なのか、私ははなはだ疑問に思っています。もちろん、いたずらにリスクを与えよなどと言っているのではありません。
 それにしても、特に若手の教員にある種の冒険がないのには、大変物足りなさを感じます。おそらくは世の中の風潮、特に親やマスコミの見方が変わってしまったのでしょうね。
 「体罰」という痛みについては、これは議論の分かれるところであり、やはり私は積極的に賛成できない立場ではありますが、場合によってはそういう「痛みの共有」のしかたがある可能性については、私たちの生活、人類の歴史を見れば、そうそう簡単に否定できるものではありません。
 羽生善治さんの言葉をもう少し長く引用してみましょう。

「リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋は残すことはできない。次のステップにもならない。それこそ、私にとっては大いなるリスクである。いい結果は生まれない。私は、積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすると、いつも自分に言い聞かせている」

 なるほど、この言葉には二つの解釈ができそうですね。
 まず、今のリスク体験が、未来のリスクに対する対処法、あるいは軽減法を獲得する唯一の方法であるという意味。
 そして、さらに、リスクを積極的に負うということが、自分の成長を促す、逆に言うとリスクを積極的に負わないことが、自分の成長を妨げるというリスクになるというパラドックスだという意味。
 さすが深いですね。学校でも本当にそうだと思います。日常的なリスクをなんでもかんでも避けていることが、学校の本質、教育の本質を失うリスクになっています。
 今日もあるクラスで、リスク対処の失敗談を話して大笑いになったんですが、私はけっこうリスクを負って生きていきている方ですし、その体験的対処法もけっこう知っていると思います。
 私が時々言っている「死なない力」って、そういう経験からしかつかめない。教科書にはほとんど書いてない。そういう(いろいろな意味での)「九死に一生」「起死回生」体験を伝えるのも、私の仕事の一つだと真剣に考えています。
 「死なない力」って絶対必要ですよ。一ヶ月くらい飯を食わなくても死なない。富士山が噴火しても死なない。病気になっても死なない。いじめられても自殺しない。戦争になっても死なない。経済危機が来ても死なない。「生きる力」ではなくて「死なない力」ですよ…なんて、ホント変わったセンセイですよね(苦笑)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.06.01

石神井松の風文化公園

Th_imgres 40年前の微妙な記憶が…。
 今日は素晴らしい出会いがあったのですが、その話はまた後日といたしまして、ごく個人的な「再会」について書きます。
 今日は学校の創立記念日。珍しく平日の休みでした。娘二人もウチの生徒なので休み、カミさんも仕事を休んでみんなで東京へ。
 練馬の某所で実に運命的な用事をすませ帰途につきました。ナビの言うままに車を進め、富士街道を西に向って走っていると…突然、私の脳みそはタイムスリップしました。
 この風景、少年時代に見た!ここに来たことがある。
 ん?…なんともいえない感覚。どちらかというとあまり楽しくない思い出。なんとも言えないアウェー感。
 あぁ、ここで大量の知らない子どもたちと運動会みたいなことをやったような…。
 車で通りすぎてしまったので、その濃縮された記憶の再生は一瞬でしたが、妙に明瞭な「いやな感覚」でした。
 帰宅後調べましたら、私の感覚は見事大正解でありました。なんと40年ぶりの記憶復活です。たしかに私はそこに数回行ったことがありました。
 その風景は、今では「石神井松の風文化公園」と言われています。なんでも昨年の4月に開園したのだとか。
 私の記憶の中のそこは「日本銀行石神井運動場」。
 私の父は日銀に勤めておりました。私が小学生、中学生の頃は本店勤務でした。で、その日銀本店の運動会というのが年に一回あったんですね。それに私が連れて行かれたという記憶。
 今では新しい公園に生まれ変わっているのに、記憶とは不思議なものですね、なんとなく公園(グランド)の広さや道との位置関係など、言語化されない全体の空気感が脳ミソの引出しの奥の方にしまい込まれていたわけですね。それが40年ぶりに出てきた。
 父に確認したところ、本店のそれぞれの部署で出し物などがあり、全員ではないけれども、代表が家族を連れて参加する運動会だったようです。
 親は子どもにも良かれと思ってそういうところに連れて行くのでしょう(今、親になった私もそうです)が、子どもにとってはけっこうきつい体験ですよね。知らない子どもがたくさんいる、そいつらといきなり何かをしなければならない。
 そういうアウェー感、その場にいづらい感、早く終わらなかな感(笑)、そういうのって、鮮明に記憶されますよね。
 大人になった今では、知らない人たちといきなり何かやることは、どちらかというとワクワク感を伴うものになっていますが、子どもって子どもが怖いんでしょうね。自分も得体のしれない存在だが、知らない子どもはもっと得体のしれない怪物です。
 だから逆に気心知れた「友だち」を大切にするのでしょうね。
 父の話によると、当時あったプールで水泳教室もあって、それにも連れて行かれたそうです。そちらはあまり覚えていません。基本他の子どもと関わらなくてよかったのでしょうね。
 というわけで、今度ゆっくり、新生なった石神井松の風文化公園を楽しみ、負の記憶を塗り替えたいと思います(笑)。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.07.18

子煩悩とは

Th_profissao_09 煩悩…よく使う言葉ですよね。たいがいの親は子煩悩です。
 今日はこの言葉の本質について考察してみます。ブッダが語る子煩悩とは…。
 ブッダは人間の煩悩(執着)の中でも、「子」と「財」へのそれを最もいけないものとして戒めています。分かりやすく言えば「子ども」と「お金」ですね。
 そうそう、さっき久しぶりにマンション経営の会社から電話がかかってきました。丁重にお断りすると、「子どものために財産を残したいと思いませんか?」と聞いてきましたので、次のような話をしてさし上げました(笑)。
 ブッダの言葉を集めたといわれる「ダンマパダ(真理の言葉)」に次のような一節があります。

「愚かな人」より抜粋。
 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

「賢い人」より抜粋。
 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪(よこしま)なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないがあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。

 また、「ウダーナヴァルガ(感興のことば)」の中には次のような一節もあります。

 子どもや家畜のことに気を奪われて心が執着している人を、死は捉えてさらって行く。眠っている村を大洪水が押し流すように。

 ここで言う「家畜」とは財産のことでしょう。今風に言えばやはりお金やお金に換算できるもの。
 このように、人類史上最も頭が良く、宇宙の真理を悟ったお釈迦様は、子どもと財産への執着を離れることを説きました。そして、自身も実際、妻子や王子の座を捨てて出家しました。
 ということで、私たちが日常的に使っている「子煩悩」という言葉は、もともと仏教における「子どもへの執着によってもたらさらる煩悩」から生まれたものと思われます。
 日国を引いてみると、「子煩悩」の用例は近代以降のものしか載っていませんが、おそらく話し言葉としては江戸時代以前から使われていたものと想像されます。おそらくお寺のお坊さんの法話の中にでも出てきたのでしょう。
 こう考えてみますと、たいがいの親が「子煩悩」であるということは、やはり人類はお釈迦様の時代からあまり変わっていないということですよね。
 それどころか、最近では子煩悩度が上がっているような気が…(特に学校現場では強く感じる)。
 ちなみに私は全く子煩悩ではありません。仏教を勉強してから意識し始めたわけではなく、生まれつきあまり親族に愛着がないのです。
 こんなことを言うと、なんと冷たい人なんだと思われるかもしれませんが、周りの人たちを見ているとたしかに自分はそうだと思わずにいられません。自分の親や兄弟に対してもけっこう淡白なのです。
 かと言って、親族に迷惑をかけているわけではありませんよ。ただ執着がないのです。特に自分の子どもに対しては、もちろん愛情はありますけれども執着はない。
 ましてや、子どもが命!とか、子どもの成長、活躍こそが喜び!などという気持ちはほとんどありません。どちらかというと子どもはライバル。成長、活躍すると何クソと思う(笑)。
 子どもは子どもで勝手に人生を楽しみ、たくましく生きていくと信じているとも言えます。親としてやってやれることは、まあ十数年、彼女たちが自立するまで飯を食わせてやって、あとは学費を払うくらいのことです。
 仕事柄もあってか、どちらかと言うと自分の子どもよりも他人の子どもに愛情を注ぐことが多いかもしれません。長女は私の学校に通っていますし、下の娘も来年にはたぶん入学していきます。彼女たちにとっても、私の淡白さが、学校での居心地の良さにつながっているのかもしれません。
 子どもは子どもで別に愛情不足や無関心だとは思っていないようです。きっと子どもも親に似て、親族への執着があまりないのでしょう(苦笑)。
 そのおかげでしょうか、おそらく我が家はあまり悩み苦しみがない。お互いに執着があまりないからです。
 とか言って、実はそれぞれ「我執」は人一倍強かったりして(笑)。

Amazon ブッダの 真理の言葉 感興の言葉

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.06.23

年中病?

6157e3fe3cc845d5 日は「保護者の勉強会」がありました。ウチの中学では夜に保護者に集まってもらい、それぞれの学年でテーマを決めてお勉強をいたします。
 テーマはPTAさんの方で決めまして、教員や外部の方が講師を務めるという形でおよそ90分の講義を行います。自由参加ですが、けっこうな数の保護者が学びに(遊びに?)いらっしゃいます。
 毎年この時期、2年生の保護者に対しては「中二病学概論」と称してワタクシがお話をいたします。
 中二病(厨二病)の病態(?)と原因、そしてその功罪(特に素晴らしさ)について、中二病歴35年を誇るワタクシが講義するわけですから、まあけっこう深面白い内容であると思います(笑)。
 さて、そんな中、今日は「年中病」という言葉を使いました。
 「中年病」じゃないですよ(笑)。また、「年中(ねんじゅう)」病気ということでもありません。
 「年少」「年中」「年長」の「年中」です。すなわち「年中さん病」ということです。
 そう、私は中二病をこじらせたと思っていたんですが、最近カミさんと話していて、いやもっと前に罹患してそのままなのではないかと。それはいつかというと「年中さん」。
 実際には私は「年少」「年長」の2年保育時代に育ったので「年中」は体験していませんが、まあ年齢的には4歳とかそのくらいの感じ。
 その頃、私はまさにウルトラセブンにはまっていました(ちょうど本放送があった)。そして、今でも大好きです。
 そう、実は今日保護者の皆さんに「ナイショですけど」と言ってカミングアウトしたのですが、ワタクシ、今でも「自分は地球を救うためにやってきた宇宙人」だと思っているんです(あっ!言っちゃったw)。
 これ、50歳近い教頭先生としてはかなりヤバイですよね(笑)。そして、ナイショと言いながら、こうして発信してしまっている(最終回じゃないんだから!)。
 この前、偶然「こどもこそミライ」という映画を観る機会がありました。
 そこで山梨県にあるある「ようちえん」が紹介されていたのですが、その代表の方が「子どもたちが地球を救おうと思っている」というようなことをおっしゃっていました。これって、幼稚園児(特に男の子)だったら当然のことですよね。テレビでかっこいいヒーローを見て憧れていますから。
 ところが、小学生くらいになるとその熱も冷めてくる。そして中学、高校、社会人になるに従って、あの頃の純粋な情熱はどこかに行ってしまう。そんな子どもじみた妄想は実生活に役立たないと思ってしまう。
 そんなこと人前で口走ったら、馬鹿にされるか怖がられてしまう(笑)。ですよね?
 しかし、よく中二病の話の中でも言うとおり、ずっと諦めずに馬鹿みたいに思い続けていると、どんどんライバルが減ってくるので、案外実現することがあるんですよ。
 年中の頃には、地球を救うヒーローがたくさんいて(ほとんど全員)なかなか自分が活躍する機会がないのだけれども、50歳になっていまだにそういうふうに言っている、あるいは行動している人はほとんどいないものです。
 だからチャンスだと、私は思っているのです。
 4歳の頃、私は宇宙から電波のようなものを受信して、それを謎の文字にして記録していました。あの頃はその意味がよく分かっていたのですが、今ではその文字すらも思い出せませんし、たとえそれが実家の押入れの奥から出てきても解読できないに違いありません。
 しかし、正直気持ちは全く変わっていないのです。それこそ馬鹿にしたり、あきれたり、危険人物だと思っていただいてけっこうですよ。気にしませんから(笑)。
 まあ、今日の話というのは、私たち大人ももう一度そういう「夢」を持って生きてもいいのではないか、そういう姿を子どもたちに見せるのもいいのではないかと、そういう結論になりました。
 少なくともウチの夫婦はかなりの中二病、いや年中病であります。子どもの方が現実をしっかり見ているかもしれません。でも、しょうがないですね。これは無理にそうしているわけではありません。脱落していくライバルたちを尻目にやれることをやっていくだけです。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.06.06

『発達障害と呼ばないで』 岡田尊司 (幻冬舎新書)

Th__20140608_90615 達障害に関する研修に参加しました。
 まず言語的な側面から一言。その研修、タイトルが「発達障がい…」となっていました。「害」を使わないようにしようという動きのことはよく知っていますが、だったら「障」はいいのかと純粋に思いました。非常にナンセンスだなと。
 これこそ文字に対する相対的差別ですよね。
 それから、これも昔からずっと言っていることですが、「名づけ」の功罪について改めて考えさせられました。
 「いじめ」とか「モンスターペアレント」とかもそうですけれど、この「発達障害」もそうして名付けることによって実在化してしまうという部分がある。
 今日はそれについて語ることがメインではないのでこのくらいにしておきますが、教育現場において「名づけ」が教師や親の思考停止や行動停止を助長している事実は指摘しておきたいと思います。
 さて、今日の研修は、非常に一般的、すなわち初心者対象の内容でした。結論的には「発達障害は遺伝的要因によって発生するので、本人はもとより、親にも責任はない。社会が支援すべき」というもの。
 それはそれでいいし、正しいとも思います。それをスタートにすることに私も異論はありません。
 しかし、立場上様々なケースに遭遇する私たち教育者は、その結論一言で片付けられない多様性を日々感じざるを得ません。
 また「教育」や「支援」がはたして彼ら彼女らにとってベストであるのか、常に考えさせられるのが実情です(というか、実情であるべきです)。
 たとえばこの本を読むと、現場の人間としては非常に腑に落ちるところが多い。つまり、発達障害と愛着障害が混同されていたり、両者の関わりあいが無視されていたり、そういう現状があることはよく分かります。
 しかし、一方で「愛着障害」という言葉(名づけ)にも傷つく親御さんがいらっしゃるのもよく分かるし、ではこれからどうすればいいのかということに私たちも悩んでしまうことも事実です。
 また、この本の後半で述べられているように、「発達障害=天才」のように言い切ってしまうことにも抵抗があります。そういう可能性はあると知りつつも、それを全体に敷衍することは危険だと思います。
 つまり、「正常」「標準」とされる領域の人間にも無限の多様性があるように、ややそこから外れたところにいる人たちにも無限の多様性があるので、やはり一絡げに「名づけ」で片づけられないということですね。
 教育、特に近代学校教育の目的は「標準化」にあります。社会性の獲得、常識・教養の獲得という名目の上に、標準化を促していきます。個性や自主性の尊重などという言葉も聞きますが、それは案外教師の怠慢を隠すための詐欺的なスローガンにすぎないことが多いものです。
 また、その教育が支えている、そしてその教育を生んだとも言える「近代社会」そのものが、「標準化」を目指してきましたよね。
 特に平成に入ってからは、標準を外れたモノどもが実に住みにくい、生きにくい社会になってきたような気がします(プロレスやヤクザの世界を見てもそう思う)。
 私も、ある意味「異形」のモノなので、たとえばそうしたモノどもの世界を霊的に捉えるという異常な思考や行動をします(笑)。たとえばこの前、諏訪の御柱祭に関わる人々と交流しましたが、そこでもそのようなモノどもと神とのつながりを強く感じました。
 こうなってくると、まさにコト化(言語化・名づけ)のできない様相を呈してくるわけであり、また、それでもまだそんな世界でもがき続けることにこそ価値があるような気さえしてきますね。
 つまり結論は出ないということです。そして、どれが正常であるか、標準であるか、異常であるか、障害であるかなどという、二分法的な思考自体が馬鹿らしいものだということに気づくべきだということです。
 本当に難しい。難しくて当たり前。名づけによって、その難しさを安易に単純化するのは、どうも気に入らない。
 私、教師として、標準を外れた子ども、学校価値観的に問題を起こす生徒たちの個性をうまく伸ばし、社会に貢献できる(すなわち自己肯定感をも得る)ように導くことに関して、思考的にも、技術的にも、愛情的にもけっこう得意な方だと自負していますが、それでも全てがうまく行くわけではありません。当たり前ですけどね。
 ふぅ、本当に難しい。難しいから仕事なのでしょうね。この苦悩と闘っているから給料もらえているのでしょう。
 なんだか今日は妙な文章になってしまいましたね。でも、これが私の本当です。

Amazon 発達障害と呼ばないで

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014.03.05

『ガンバリ先生に贈るママとの正しいつきあい方 ~教育現場の危機管理と信頼関係~』 星幸広 (マイナビ)

Th__20140306_113342 日は実用的な本。教師のための本ですが、案外他の職業の方にも、あるいは親業に従事している立場の方にも有用なのではないでしょうか。
 私は、基本的に生徒の保護者の方々との様々な話し合いや折衝を楽しめる人間だと思います。
 世の中では、モンスターペアレントとか、クレーマーとか言って片付けてしまうような方々のことが、心から好きです(笑)。
 いや、本当に。なぜなら、そういう方々はとにかく「愛」が深いのです。子どもを愛したいし、学校を愛したいし、先生を愛したい、そして、その反面、ご自身も愛されたいという気持ちが強い。
 つまり、とっても人間的なのです。
 私はそれが自然な人間の姿だと思っています。まさに「自然」なのです。自然は「愛」に満ちています。愛したいし、愛されたいのが自然です。
 自然の場合は、その「愛」が恵みだけでなく、災害として表れることもある。それを日本古来の神道では、「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」と言います(最近、よく出てきますね、この二つの言葉)。
 私にとっては、その荒魂も「愛」の表現ですから、その「愛」に気づき、こちらも「愛」をもって接して、荒魂を和魂に変えるようにすればよいのです。
 先日もどこかに書きましたが、「荒魂」はなくなれば良いわけではありません。おそらく西洋近代文明はそれを抑えこむように発達してきたと思います。災害や病気や犯罪のことを考えればよく分かります。
 しかし、結果として「戦争」という最も忌むべき荒魂を発動させてることになってしまったのは、皮肉というか、いや当然のことですね。
 だいぶ話が教育現場から離れてしまうようですが、実はこの「荒魂」のコントロールが「祭」であり、「まつりごと」なのでした。
 私にとっては、生徒のケンカも問題行動も、親子の軋轢も、そしてモンスターやクレーマーも、愛すべき「荒魂」であり、それに対する現場というのは、まさに「祭の場」なのであります。
 こんなこと言うと、いったいどんなセンセイなんだと心配されてしまいそうですが、実際そう思ってそうやってきて、まあうまく「教育」システムが(生徒にも親にも先生にも)働いているので、これはこれで自信を持っているところです。
 そういう意味で、「何かあったらチャンスと思え」「何かあった時のみが成長のチャンス」といつも職員室で言っております。
 さてさて、この本もまた、基本私と同じような視点に立っていますね。とても共感できました。もちろん、言葉は違いますが。
 紙の本にしてたった35ページですから、誰でもすんなり読めますし、なにしろその中に非常に本質的なことと、実用的な技術が書いてあるのでおススメです。
 モンスター・ペアレントという言葉を発明したある方とは、私はある意味犬猿の仲(すなわちホントは相思相愛?w)で、あなたこそモンスターでしょと言いたいわけですが(笑)、考えてみると「モンスター」の「モン」と日本語の「モノ」の語源は一緒かもしれないんですよね(こちらの記事参照)。
 私は「コトよりモノ」とずっと言ってきているし、結局モンスターが好きなんですよね。まさに「モノ好き」っていうことですか(笑)。

学校の先生におススメする関係図書
 小野田正利『悲鳴をあげる学校』
 星 幸広『実践 学校危機管理―現場対応マニュアル』

Amazon ガンバリ先生に贈るママとの正しいつきあい方

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013.10.15

『つくることば いきることば』 永井一正 (六耀社)

20131016_94925 本を代表する、いや世界を代表するグラフィック・デザイナー永井一正さんの珠玉の銅版画と言葉たち。
 シンプルであり複雑であるというこの世界がそのままこの本に封入されている…だからこそ、心打たれました。ぐんぐん響いてくる。
 あえてこの銅版画や言葉も「デザイン」だと言いたいと思います。
 私たちは世界の全てを意匠化して認識しています。言語であれ、絵画であれ、音楽であれ、全てそうです。その技法が違うだけ。
 そういう意味の上で、私は究極的に「デザイン」に興味があります。というのは…では、その意匠化の主体たる私たちをデザインしたのは誰なのか、つまり、人間や動物や植物や、あるいは富士山をデザインしたのは誰で、どんな意図をもってそういう形にしたのか、そこに最終的な興味があるのです。
 もしかすると、永井さんの視線が抽象から動物や植物に向いたのは、そういう意味があるのかもしれない…この本を眺めながら、そんなことを思いました。
Img_7405 まったく不思議なもので、実は、私にとっては憧れ以上の存在であった永井一正さんが、私たち夫婦のためにサインまでしてこの本をくださったのです。
 ご縁というのはあっという間に自分を取り囲む環境のデザインを変えるものです。たった一滴の雨水であっても、その落ちた場所が大河であれば、一瞬にして自分も大河の一部になる。
 畏れ多いことでありますが、こんなご縁を作ってくださったのは、これまたご縁でつながった絵本作家の仁科幸子さん。永井一正さんの仕事仲間であり、この本の企画者でもある方です。本当に感謝です。
 そんな不思議なご縁をとりもってくれたのは、「芸術は宗教の母」と言った出口王仁三郎の耀わん「十和田」です。おそらくはあの十和田のデザインは、地球そのものなのでしょう。あるいは宇宙。まさに神の造形。
 王仁三郎の「物語」は、まさに「モノをカタる」、すなわちモノのコト化です。私の中では、未分化な「モノ」をデザインして「コト(カタ)」にはめていくことが、そのまま「デザイン」だと思っています。
 驚いたのは、この永井さんの本の中に、たくさんの「モノ」への憧憬が表現されていることでした。特にこれだ!と思ったのは、

 わたしが変なあり得ない動物を描いたりするのは、
 動物というこれだけはっきりとした種の中にも、
 境界線のない割りきれないものがあるからで、
 目に見えない未分化の部分を描けなければ、
 真理は見えてこないように思う。

 という言葉でした。ここにこそ、「デザイン」の本質、私の言う「モノを窮めてコトに至る」の本質、そして、世界の人生の本質が表現されています。
 そのほかにも、禅に通ずるページ、また、時間は未来から過去へと流れているという私の仮説を証明してくれるようなページも多々ありました。
 もちろん、私だけでなく多くの人たちの心に、そして生命に響く銅版画や言葉が満載です。
 きっと、こんなにこの本に力があるのは、永井さんの空洞のような「飢餓感」が満ちているからだと思います。空洞のような飢餓感という言葉は一見暗くマイナス方向に響きそうですが、決してそうではありません。
 私はこの本を読み終え、そして眺め終えて、ああ、永井さんの飢餓感とは「人のためになりたい」という欲求そのものなんだなと感じました。
 もしかすると来春、永井さんにお会いできるかもしれません。もし、神様のデザインがそうなっているとしたなら。

追伸 ちょうど仁科幸子さんがブログで耀わんとワタクシのことを紹介してくださりました!

Amazon つくることば いきることば

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧