カテゴリー「育児」の57件の記事

2011.09.26

『おりがみ仏像をおる−豊彰流おりがみ』 河合敦子 (誠文堂新光社)

41630909 学の総合の時間で今「折り紙」を教えております。
 本校の総合的な学習の時間は、日本文化をたっぷり教えています。茶道、能楽、座禅、礼法などなど。その一つとして2年生の2学期は「折り紙」に挑戦中です。
 昔取った杵柄…まさにそれですね。私が折り紙にはまっていたのは、なんと40年以上前(笑)。つまり、幼稚園に通っていた頃です。
 そうそう、最近実家で当時の私の作品が発見されたのだとか。私はまだ見ていませんが、なんでもクジャクやら飛び立つツルやらサイやら、ずいぶんと高度な折り紙を作っていたようです。そう、前に紹介した笠原邦彦さんのシリーズを端から作っていたらしいんですね。
 ちなみに今、小3と小6の娘がその本にはまっていて、ヒマさえあれば折り紙をしています。小学生にとっても結構難しいようで、「パパは天才だった!」とビックリしてくれています(笑)。ま、はたち過ぎればタダの人ですが…。
 ちなみに今学校で使っている教材も笠原邦彦さんのこちらの本です。
 いやあ、折り紙を折らせるといろいろなことが分かります。生徒の性格や能力というか、適性でしょうかね、いろいろなものが見えてきます。
 実際折り紙というのは非常に高度な抽象的思考と具体的行動が要求されますよね。だから世界でも有名であり、人気があり、代表的な日本文化だと言われるのでしょう。
 まず、ちゃんと折り図が読解できるか。記号や図と文字の情報を、自分の手に持つ実際の上で具現化できるかという部分で、大きな壁がありますね。
 あとは手先の器用さや繊細さ几帳面さも作品にすぐに現れます。もちろん折り紙における「折れない心」も。つまり、途中であきらめずに何度も試行錯誤できるかどうか。そして、集中力。
 本当にいい教材だと思います。もちろん、一つでも折り方を覚えておけば、必ずや将来、育児の場や国際的な場面で役立つことでしょう。そういう意味も含めて勉強中ということです。
 さてさて、今日紹介するのは、最近自分のために買った折り紙の本です。笠原さんとはまた違った個性を持つ、河合豊彰さんの折り紙です。
 河合さんは日本を代表するオリガミストの一人ですね。特に「面」の折りに関しては世界的に有名な方です。ミスター・マスクと呼ばれるほどに、「面」すなわち「顔」の折りを極めた方です。
 残念ながら数年前にお亡くなりになってしまいましたが、彼の業績は今後も「文化」として語り継がれていく、そして折り継がれていくことでしょう。
 私も仏教に関心があり、日々を修行だと思って生活している者ですが、なかなか実際のところ座禅したり読経したり写経したりはできません。理想としては仏像でも彫りたい気分ですが、もちろんそんなこともなかなかできません。でも、折り紙なら紙一枚あれば、筆も彫刻刀もいりませんね。
 そうそう、生徒たちも普通にあるコピー用紙から正方形を作るところからやるんです。実は個の世の中には正方形の紙ってそんなにないんですよね。まずは正確な正方形を作るところからです。
 長方形の紙なら本当に世の中に溢れています。そして毎日とんでもない数の長方形の紙が捨てられていますよね。そのほんの一部でも折り紙にしてあげたらいいと思うんです。特に仏像を折ったりすれば、それこそ捨てる「紙」が拾う「仏」になるわけですから、なんか御利益もありそうじゃないですか。
 実際のところ、けっこう豊彰流の折り紙は面倒な部類に入るのですが、その絶妙ハードルこそが、折り紙という修行の醍醐味だと思います。ぜひ、皆さんも挑戦してみてください。

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2011.07.06

『かわいい!かっこいい!美しい! 動物折り紙BOOK』 笠原邦彦 (朝日出版社)

Book 我が家ではちょっとした折り紙ブームです。
 私、以前こちらの記事に書きましたように、少年時代かなりの折り紙マニアでした。幼稚園の時からオリジナルな作品を考案して折り図とか書いてましたから(汗)。外で遊ばないで折り紙ばっかりやってた。もうその頃から男子の草食化が進んでいたのか。あるいはワタクシのオタク化が進んでいたのか(笑)。
 で、最近娘たちがようやく笠原折り紙の世界に目覚め始めまして、ワタクシもずいぶんと久しぶりに(40年ぶり!)にそれらを復習するようになりました。
 うん、やっぱり大人になってからだと、また違った世界が見えてくる。面白い。
 笠原先生は今でも旺盛に新たな作品や分野に挑戦し続けています。ユニットや長方形折り紙など新しい世界を開拓しています。しかし、それでもやっぱりそれぞれの作品は「笠原流」なんですよね。
 私はその根本的なデザインセンスが好きなんです。創作折り紙って最終的にはデザイナーとしての仕事が一番大事だと思います。デフォルメし省略し、それこそ「モノマネ」的なアナロジー世界を構築するわけじゃないですか。1枚の紙、基本直線のみという制約の中での究極の「らしさ」を表現しなければならないのです。
 その最後の(いや、最初の?)匙加減こそ、笠原流の醍醐味です。
 そして、その最近作がこの本。これは実にバランスがいいですね。笠原流を継承しつつ、新たな領域も加味され、そして子どもに適度な難易度であり、大人にとっても達成感と発見のある作品が並んでいます。
 40年前の、あの名作を彷彿とさせるものもたくさんありますし、時代の流れとでも言いましょうか、あの頃は「パンダ」という動物は日本では認知されていませんでしたからね、作品としてパンダやレッサーパンダはありませんでした。そして当然この近作にはそれらがあります。
110707_9_41_35 とりあえず一つ作ってみました。マンモスです。これもなかなか折り甲斐のある作品でしたね。慣れないと子どもにはけっこうキツイかもしれません。いや、ちょうどいいチャレンジ・レベルでしょうか。
 我が中学校の総合的な学習の時間、2学期は折り紙をやってみようかと思っています。真の国際化のための自国文化理解・体験、「自分を知ることは世界を知ること」がモットーですから、この素晴らしい伝統文化、そしてニュー・カルチャーとしての折り紙を子どもたちに体験させることは意味のあることでしょう。
 それにしても最近本業で「昔とった杵柄」がやたらと役に立ってますな。というか、ほとんど自分の趣味で学校を運営してるでしょ!っていう声が聞こえてきそうです(笑)。
 
オマケ…Twitterに載せた笠原作品を三つほど。

  『おりがみ せかいのとり』より、スズメとカラス

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 『コピー用紙で折る―「白のおりがみ」で、名人技にチャレンジ! 』より、クジャクバト。

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2011.02.19

「13歳のわたし」集会

Vlcsnap2011022008h18m04s39 、涙。
 生徒の前で泣いたことのない私が、今日はたまらず号泣してしまいました。
 今日、我が中学校で、保護者の皆さんに生徒たちの成長を見ていただく「13歳のわたし」集会が開かれました。これ、実は私の思いつきで急遽催されたものなんです。
 なんと、実施を決めたのは3日前。生徒は2日間しか準備の期間がありませんでした。普通に考えれば、このような無計画な教育活動は許されざるものかもしれませんが、「機を見てアドリブで臨む」を座右の銘にしているワタクシとしては、逆に大きなチャンスだと確信していました。
 それが、こういう形で、まさに大成功、大団円で終わるというのは、これはもう、わがままな教頭の突然の思いつきに「え〜!?」とも言わず、普通についてきてくれる、生徒、保護者、そして先生方のおかげですね。
 それにしても、いったいどういう13歳、中学1年生なんだ!?こんな、ある意味メチャクチャな「事件」を実に楽しみながら準備していってしまう。そして、ほとんどいきなり本番。アドリブあり、ハプニングあり、機転あり、ユーモアありで、全く予想以上の成果をあげてしまう。
 本人たちはそれほど意識していないかもしれませんが、正直、君たちはすごいよ!
 1時間にわたり、クラス、クラブ、勉強、その他いろいろな成果を一つ一つ発表していきます。全員が主役です。もう途中から、保護者の方々も、我が子の成長ぶりにハンカチを手放せなくなっていました。和やかな笑いと感動の涙、両方がうまくミックスされた素晴らしい時間と空間でありました。
 最後の合唱と応援では、その純粋な一生懸命な生徒の姿に、私もカメラを回しながら、ついつい涙腺から塩水が…。
 いつもお世話になっている大ベテランの先生にも大感謝です。私のとんでもないタイミングでの思いつきに心から賛同してくれて、そして、ほとんど全てのプログラムをそれこそ瞬時に作ってくれました。それも、全ての生徒が主役になれるように。経験のなせるわざですね。
 そのおじいちゃん先生もおっしゃっていました。公立で37年間熱い教育活動をしてきた方ですが、こんなすごい生徒や、こんな「いいかげん」な先生は見たことがないと(笑)。
 よくその先生とも話すんです。最近の教育現場は、事前のリスクヘッジにばかりエネルギーを使っていて、臨機応変さに欠けると。相手は生き物ですから、予定通り、予想通りいかないのは当たり前なのに、生徒たちをとにかく枠にはめて、安心・安全にことを進めることばかりに専念すると。
 今日、私も泣きながら生徒と保護者に話させていただきましたが、人間の成長には条件があると思うんですね。ベースに「安心」「喜び」「平和」があって、その上に「悩み」や「苦しみ」や「葛藤」や「衝突」があった時にのみ、人は成長できるのです。
 13歳と言えば、肉体的にも最も成長をする時期です。そこには、当然「成長痛」や「筋肉痛」が伴うじゃないですか。それと一緒で、心、精神面においても、「成長痛」や「筋肉痛」が必要なのです。
 しかし、世の中の大人、特に親は、そんな心の「成長痛」や「筋肉痛」にも、過度の心配や過度のケアをしてしまう。学校もそうした「痛み」が起きないようにリスクヘッジに奔走する。それはどこか間違っていますよね。
 私たちの学校では、そこに対しては、ある意味かなり昔風な教育を施していると思います。生徒が「痛み」を感じている時こそ、チャンスだととらえています。極端な言い方をすれば、「よしよし、いいぞ、いいぞ、もっともっと悩め!そして乗り越えろ!」と、そう考えて、ある程度の距離からサポートするのです。
 これは、親や自分たち教師においても同じなんですね。人生は常にそういうものでしょう。リスクをおかさねば新しい世界は開けません。虎穴に入らずんば虎児を得ず。
 実は、今回の思いつき、ちょっと前に紹介しました、アルボムッレ スマナサーラ長老の『13歳へ〜よい親も、よい先生も、あなた次第』からヒントを得たものです。そう、そして結果として、13歳の生徒たちのおかげで、私たち親も先生もしっかり成長させていただきました。ありがとう。
 まあ、それにしても、あの涙の連鎖をなんだったのでしょうね。特に、若い担任の先生の涙には、私も保護者も、そして生徒たちも驚いたのではないでしょうか。思わず「卒業式みたいじゃん!w」と言ってしまいました。それほど、「愛」をもって生徒たちに接しているということでしょうね。
 私も、高校の担任をしていた時には、卒業式でも全く泣けなかった(キャラ的なものもあるかな?)のですが、今回はなぜか涙を抑えきれませんでした。ふむ、中学の先生のやりがいや楽しさを、まさに生徒たちに教えてもらった気がしますね。本当にありがとう!
 また、来週から頑張ります。生徒に負けないように成長するぞ!


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2011.02.12

『大行進~中国“小皇帝”たちの孤独~』 (NHKハイビジョン特集)

Prog_110205_hvsp 週見忘れたこの番組、昼間再放送していたので、家族でじっくり鑑賞。いろいろ考えさせられる内容でした。
 急激すぎる経済発展を遂げる中国。その歪みの犠牲者となっている子どもたち。その苦悩と再生の様子がていねいに取材されていました。
 ものすごく簡単に言ってしまうと、中国版「戸塚ヨットスクール」ということでしょうか。親とのディスコミュニケーションから非行に走った子どもたち(小皇帝)が集う民間の訓練学校です。
 昭和の日本を見るようでもありましたね。私も高度経済成長の東京に育ちましたから、社会全体にそうした歪みを感じていました。子どもや若者が荒れ狂っていた時代でしたからねえ(私はフツーに育ちましたが)。
 その原因のほとんどが、経済成長に伴う、親の子どもへの無関心でした。いや、もちろん関心があるように演じてはいましたよ。「あなたのためにこんなに頑張って働いているのに」と。
 もちろん中国の新富裕層の親たちは、同じことを言っていました。ある意味日本よりも極端な言葉が聞けたかもしれません。「物は全てそろっているのに、なんで言うことを聞かないの」というような…ドラマやマンガじゃありませんよ(苦笑)。
 私も長いこと教師をやっておりまして、本当にいろいろな問題を抱えた生徒と関わってきました。そのほとんど、いや全ての原因が、親とのディスコミュニケーションでした。
 ディスコミュニケーションというのは、単に話をしないとか、一緒にいる時間が少ないとか、親が高圧的だとか、そういう単純なことではありません。たとえば両親がいない子どもでも素直にたくましく育つ場合もありますからね。
 説明するのが難しいのですが…子どもが生まれてからその時々に親に(あるいは他人に)要求することが、いろいろ変るじゃないですか。それも人それぞれ本当に違う。それらにその時々どれだけ答えてあげられたかなんですね。「今」どうのこうのではないのです。
 私も含めて、大人、親というのは、どうしても「今」の自分の基準で子どもに接してしまう。その極端な例が、最近とみに増えた「子どもを自己実現の道具と思う親」です。昔もあったかもしれませんが、ホント最近多くて子どもたちが可哀想ですよ。わかりやすい例で言えば、「(単に)自分が英語が話せないから子どもに英会話を習わせる」という親です。
 反抗期以前には、子どもにとっての「親」は「神」ですからね。神様を絶対的に信じているわけです。そんな「神」が、経済成長の中で「金(カネ)」や「欲」という「悪魔」に惑わされている。それこそ子どもにとっては最悪な状況です。
 子どもは反抗期を迎えて、そこに気づいてしまうわけですね。それで、いろいろな形の表現が始まる。非行はその一つの形にすぎません。
 そうした、反社会的な行動や暴力に対して、はたして教育は何をしえるのか。その一つの解答がこの中国の訓練学校にはあったかと思います。
 「厳しさという愛情」…たしかに、これって効果があるんですが、教育の作業としては、非常に面倒で疲れるんですよねえ(苦笑)。特に、現代日本においては「厳しさ」が「継続」の障害になることが往々にしてあります。その点、まだ中国ではそれが通用しているのかなと思いました。
 クライマックスは、2週間で400キロを歩くという「大行進」。子どもたちに「達成感」と「自信」を与えます。教育ではよくある「困難を乗り越える」というやつです。私は個人的にですが、こういう試練を無理矢理与えるのは、別に学校や教師でなくともできると思っています。それをいい教育だ、先生の手柄だと考えるのは、ちょっと違うかなと。ま、それでもさすが中国はスケールが違う。どうせやるならこのくらいじゃなきゃ。これを年数回やるというのですから、おそるべし中国の教育…いや「訓練」。
 いちおう同業者ですからね、訓練学校の先生方のご苦労、いやというほど分かりました。そうとう給料もいいのでしょう。実際、その学校の学費は日本円で言えば月20万円くらいなのでは。つまり、ここにも経済の原理が働いている。教育格差があるわけですね。
 まあ、それにしても親たちの言動には笑ってしまいましたね。荒れた子どもたちの方がずっと大人っぽく見えました。
 そうそう、現場の声としてどうしても言っておきたいことがあります。
 親とのディスコミュニケーションによって、思春期に苦悩した子どもたちが、うまく育てられた子どもよりも劣っているかというと、決してそんなことはないということです。
 ある意味特殊な経験と試練と葛藤と煩悶を経た人間には、それなりの力がつくということです。多くの芸術家などの偉人が、幼少期に特殊な家庭環境にあったりするのは、よくあることですよね。
 全てを単純化することは間違いだということですね。教育や子育てに「決めつけ」は厳禁なのです。

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2010.12.01

『「普通がいい」という病』 泉谷閑示 (講談社現代新書)

「自分を取りもどす」10講
M_untitled1 晴らしい本。必読。ここ数年で読んだ本の中では間違いなくベスト3に入ります。
 全ての人に読んでいただきたいですね。医療、教育、福祉関係のお仕事をしている方にはもちろん、親としても大変有益ですし、なんといっても、今、この「不自然」な現代社会の中で、「違和感」を抱きながら何かと日々闘っている、つまり生きにくさに苦しんでいる人たち(実はほとんど全ての現代人がそれに当てはまるでしょう)に読んでいただきたい。
 そして、みんなで、本当の自分のあり方と、正しい世の中のあり方について、しっかり考え、そして手を取り合って、あきらめずに、自分を他者を世界を変えていきたいものです。
 ちょうどおとといディスレクシア(失読症)について書きましたね。いったい、何が「普通」で何が「正常」なのか。私たちが「普通」とか「正常」とか「健全」とか言っているもの、「異常」とか「〜症」とか「心の病」とか言っているものって、本当は…。
 細かい内容の紹介や一般的な評価については、ぜひ Amazon のレビューをご覧下さい。実際非常に評価が高く、またたしかにたくさんの方に読まれたようですね。
 ここでは、私は私なりの紹介のしかたをしたいと思います。かなり個人的な内容ですが。
 この本には、私が教師をやりながら、日々現実と格闘する生徒たちと共に学んできたこと、独自の日本語論、日本文化論である「モノ・コト論」を通じて考えてきたこと、出口王仁三郎の語る日本古来の「一霊四魂」や「霊主体従」、あるいは幽閉された「艮の金神」の復権などを通じて考えてきたこと、禅を通じて体感してきた「不二」「無我」「空」「他力」、音楽を通じて学び考えてきた世界観など、いろいろなものが全て見事に凝縮され、わかりやすく解説されていたように感じました。
 特に、ワタクシ流に言う「コト(脳で処理された世界)よりもモノ(脳で処理される以前の世界)」、「コトを窮めてモノに至る」という茫漠とした世界観、時代観が、ものすごく鮮明に(もちろん私とは全く違う表現ですが)描かれていたことに驚きました。
 ですから、勉強になったという感動よりも、「共感」「共鳴」「共振」の感動が大きかったのです。そして、泉谷さんの「智慧」、「徳」のようなものに感心させられました。
 私がワケも分からず、あるいは分かってもらおうともせずに、このブログに書き散らしてきたことが、こうして一般性、普遍性をもって示されるとは…悔しいよりも、とてもうれしいのです。
 平易簡明にして至り尽くした文体、見えないモノを見せる様々な図、そして豊かで的確な引用。本というのは、いやプレゼンテーション全ては、こうあるべきでしょうね。
 そう、この方はただ頭がいいだけではない。もちろん、この難しいこと、目に見えにくいことを、これだけわかりやすく語ることができるのは、彼の優れた認識力と表現力、豊かな学識と経験がベースとなっていることでしょう。
 しかし、それにとどまらず、人と人の心や魂と接する仕事をする者としての、本質的な魂のあり方、志の持ち方、そういうものが、そこに加わっていることが、この本の魅力を倍増させているのです。
 さてさて、ここで意外の事実を書きましょう。私がこの本と出会うきっかけとなったことです。全くいろいろ不思議なことが起きます。
 実は、私が泉谷さんに興味を持ったのは、ある音楽がきっかけだったのです。その曲を聴いた時、この作曲者(泉谷さん)はタダモノではない!と直感したのです。
 その曲とは、なんと「横手市民歌」です。秋田県の横手市が市町村合併で大きくなり、新横手市になったのを記念して、新しい「市民歌」を作ることになりました。その歌詞は公募されまして、応募総数230点の中から選ばれたのが、なんと、私のカミさんのお父さんの「詩」だったのです。
 義父は長くお隣の羽後町で暮らしていましたが、いろいろな事情から、数年前に新横手市に含まれた十文字町に引っ越しました。そこで、豊かな自然や産業、そして当地の温かい人たちに囲まれる中で、横手の四季を読み込んだ詩を作って応募したというわけです。それが見事最優秀になったと。これはこれですごいことです。
 そして、その詩に曲を付けたのが、十文字出身で、現在東京で精神科医として御活躍の泉谷閑示さんだったのです。
 いちおう音楽をずっとやってきた私としては、義父の詩にどんなメロディーが乗せられるのか、非常に興味がありました。そして出来上がった曲のCDを電話口で聴かせてもらった時、「おお!これはいい曲だ!」と思ったのです。ある意味、期待を裏切る、期待以上の、想定以上の音楽でした。
 その後秋田の両親がCDを送ってくれまして、またじっくり聴いてみましたが、やはりなかなか素晴らしい。いったいどんな経歴の持ち主なのだろう、音楽をどのように勉強した方だろうと思い、調べてみると…。
 そして、この本との出会いに至ったわけです。これはもう運命ですね。そうなるべくして、そうなったとしか思えません。このタイミングで、この本に出会えたのは、奇跡ではなく、運命、必然です。
 自分自身の自分なりの成熟度からしても、このタイミングしかなかったと思います。本当に不思議ですし、なんといっても、素晴らしい詩を書いてくれた義父に感謝したいと思います。
 ちなみに泉谷さんは、精神科医としての仕事を投げ打って、フランスの音楽院に留学した経歴をお持ちでした。この本を読んで、彼が単なる精神科医でも単なる音楽家でもない、とても聡明で豊かて「人」であることが確認できました。
 きっと、私は彼の音楽の中に、それを直感的に聴き取ったのでしょう。きっと、私の中の「本当の自分」が、泉谷さんの「本当の自分」とつながったのでしょうね。それがまた音楽の魅力でもあるわけです。
 私は間違っていなかったのだ…本の方からも、私の中の「本当の自分」は勇気づけられました。とにかく一読をおススメします。もう私がなにをか言わんや。いつかご本人にお会いしてお話してみたいものです。ちなみに義父らは、記念式典でお会いしたとのことです。

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横手市民歌のページ

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2010.11.29

ディスレクシア(失読症)

20101130_81454 カソの未発表作品が271点も見つかったとか。さすがにビックリですね。
 それもピカソ家に出入りしていた電気工が所有していたと。事件性があるにしろないにしろ、それらがこうして世に出たのはめでたいことです。しっかし、すごい数だな。
 ところで、ピカソと言えば、彼がディスレクシアだったということを思い出します。
 ディスレクシア…日本では「失読症」などと訳されていますが、あまり注目もされず、また研究も進んでいません。
 他の能力は普通に(あるいは普通以上に)あるのに、字を読んだり書いたりすることに、非常な困難を伴う人がいますね。
 それを「症」として片付けるのには、ちょっと抵抗がありますねえ。たしかに現代社会においては、「識字」の能力は「文明」「文化」の象徴のように捉えられていますから、まあ一面ではしかたないにしても、ちょっと気をつけてほしい表現ではあります。もちろん、その他の「症」や「症候群」についても。それについてはこちらに少し書きましたっけ。
 ディスレクシア一つとっても、とんでもない才能の源泉である可能性があるんですよね。参考までにディスレクシアの有名人を挙げてみましょう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ、パブロ・ピカソ、オーギュスト・ロダン、アンディ・ウォーホル、ベートーヴェン、モーツァルト、トーマス・エジソン、マイケル・ファラデー、ジャック・ホーナー、ジョン・レノン、スティーブ・ジョブズ、ジョン・アーヴィング、トム・クルーズ、ウーピー・ゴールドバーグ…。
 すごいですねえ。日本では研究が進んでいないので、日本人についてはまだよくわかっていませんが、きっととんでもない名前が並ぶことでしょう。
 この事実は何を示しているのか。
Detail_image3 ちょっと話がそれますが、数週間前に、南アルプス市のふるさと文化伝承館に行ってきまして、縄文の「芸術品」を観てまいりました。その時の興奮と感動たるや、まさに「筆舌に尽くし難い」ものがありました。
 あそこはおススメですよ。世界に誇る「芸術品以前の芸術品」が、さりげなく、大量に展示してあって、その上観覧者がほとんどいない(苦笑)。本当にゆっくりと、そしてじっくりと、5千年前の人々の「魂」と交流できます。
 御存知のように、彼らは「文字」を持っていませんでした。文字を持っていないということが、「非文明的」「原始的」だと思われていたのは、もうずいぶん前の話ですよね。「縄文」と言えば、世界でほとんど唯一1万年以上にわたって同一の生活様式およびコミュニティーが継続した、神懸かり的な(いや、実際神懸かっていたのでしょう)、そして理想的な「文化」として語られるようになりました。
 私はその奇跡がなぜ可能になったのか、いろいろと考えてみましたが、やはり「文字がない」ということが非常に重要なファクターであると思い至りました。
 あの土器や土偶から感じられる「言葉で表現できない」エネルギーや喜び、そう「喜び」ですよ「喜び」、あの生きている喜びは、文字以上の力を持って、5千年の時をいとも簡単に飛び越えています。
 その言語を超えた生命の喜びこそ、上記の現代の天才たちに通ずるモノなのではないでしょうか。
 たとえばピカソのあの視点や発想の転換は、まさに縄文の自由さと重なるような気がしますね。もちろん単純に言い切れない部分はあるとは思いますけれど、しかし一方で、「言語(ことば)」という文明に洗脳されていない、つまり現象としては「失読症」や「学習障害」を持った彼らが、時代を超える偉業を成し遂げているという事実には注目すべきだと思うのです。
 ワタクシ流に言えば、ここでもまた「コトよりモノ」なんですよ。私たち凡人は、自分自身の脳内で作り出した様々な「コト」の虜囚になってしまっているのです。そこからの自由を得た彼らの作品や事業が、私たちの根源的な部分と共鳴するのは、これは偶然ではないでしょう。すなわちコトに幽閉されたモノの起こり、気づきこそが、私たちの感動の正体なのです。
Image_mini ウチの子どももそうでしたが、まあ、小さいうちはよく「鏡文字」を書きました。ひらがなやカタカナや数字が裏返しになっちゃうんですよね。これは本当によくあることです。実は、この「症状」が大人になっても続くのが、ディスレクシアの特徴の一つなんですね。
 縄文(無文字社会)→子ども→ディスレクシア
 こう考えてみますと、たとえば私のような学校のセンセイの仕事なんてものはですね、まさに「文字」「言語」「ことば」「コト」を教えたたき込み、子どもを「文明化」「社会化」し、ディスレクシアを蔑視するような空気を作る、ずいぶんと罪作りな「シゴト」だということにもなりますね。
 教室という現場には、本当にいろいろな個性があふれています。中には一般的に「学習障害」などと呼ばれてもしかたがないような個性を持った子どももいます。
 しかし、それを単純に差別化して見たり、あるいは矯正したりするのではなく、本来的、本能的、原初的な「人間性」の発現であるととらえ、それをどう活かしていくかを考えていきたいと強く思います。
 なにしろ、教育現場では、たとえば「〜症」などという「言葉」を得て、それで片付けて満足してしまう困った先生が横行しているんで。教育界だけじゃないな、世の中みんなそうかもしれません。
 ピカソの絵が発見されたことから、こんなことをいろいろと考えました。

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2010.11.25

トイレの神様=金勝要神

 年も紅白の出場メンバー発表の季節になりましたね。全体としてはどうでしょうか。今一つ話題性に欠けるような…ところで、BUMP OF CHICKENが出るっていう話は?ww
 毎年いろんなところで話題にはなりますが(たとえばここ)、裏紅白っていうのをやってほしいですね。実力派、怪奇派、マニアック派いろいろ集めて、日本の歌謡史を裏側をおさらいしたいものです。
 あっそうそう、マニアック派と言えば、今日、日本のロック・フォーク・ブルース史にその名を轟かせた某バンドのリーダー(作詞・作曲・ヴォーカル・ギター)の方から、突然大量の曲が入ったCDと楽譜が送られてきました。未発表の最新曲も含めて数十曲!
 で、お礼のお電話をしたら、春にライヴをやるからヴァイオリンをやってくれとのこと!わ〜ぉ!なんということでしょう。ありえない展開。アレンジも全部任されてしまった…すごいプレッシャー…でもないか。とにかく楽しみです!
 さてさて、裏の話は置いといて、表の話を一つ。あれです。「トイレの神様」。
 あの長い曲、フルコーラスでやるんですって?たしかにカットできないストーリー性がありますからね。しかし、一人で10分というのはさすがに前代未聞でしょう。まあ、いい曲だとは思いますが。
 で、あの曲を聴いた時、私はハッと思いました。トイレの神様…それも女神…ってことは…。
 そうです!便所の神で女神と言えば「金勝要神(きんかつかねのかみ)」でしょう。と言ってもほとんどの方は知らないと思いますが。
 一般に厠神と言えば、サスガミ、センツー、カイナデ、あるいはここでも紹介した水の神様であるミヅハノメ(罔象女命)などが有名でしょうか。このミヅハノメは女神ですね。イザナギの小便から生まれた女神です。
 それらは半分妖怪のような扱いをされ、ケツや頭をなめられるとか、なでられるとか、便器から手が出るとか言いまして、子どもがトイレをこわがる要因の一つになっていたりします。
 あるいは便所掃除をしっかりする女性は美しい子どもを授かると言ったような、いわば道徳的なアイテムの一つとして扱われたりしていますね。今回の「トイレの神様」はその亜流と言えそうです。
 つまり、非常に民間信仰的、民間伝承的なものでして、正統の神話などにはそういう「厠の神」としての記述はありません。
 しかし、もう一つの壮大な神話、出口王仁三郎の霊界物語には、まんま「トイレの女神様」が現れるんですよね。だから、今回ちょっとびっくりしたと。植村花菜さんのおばあさん、大本の信者だったのかも…。
 霊界物語の該当箇所の一部を見てみましょう。

   女神の出現
 不思議に堪へずして、自分は金色燦爛たる珍玉の明光を拝して、何となく力強く感じられ、眺めてゐた。次第々々に玉は大きくなるとともに、水晶のごとくに澄みきり、たちまち美はしき女神の御姿と変化した。全身金色にして仏祖のいはゆる、紫摩黄金の肌で、その上に玲瓏透明にましまし、白の衣裳と、下は緋の袴を穿ちたまふ、愛情あふるるばかりの女神であつた。女神は、自分の手をとり笑を含んで、
『われは大便所の神なり。汝に之を捧げむ』
と言下に御懐中より、八寸ばかりの比礼を自分の左手に握らせたまひ、再会を約して、また元のごとく金色の玉となりて中空に舞ひ上り、電光石火のごとく、九重の雲深く天上に帰らせたまうた。
 その当時は、いかなる神様なるや、また自分にたいして何ゆゑに、かくのごとき珍宝を、かかる寂寥の境域に降りて、授けたまひしやが疑問であつた。しかし参綾後はじめて氷解ができた。
教祖の御話に、
『金勝要神は、全身黄金色であつて、大便所に永年のあひだ落され、苦労艱難の修行を積んだ大地の金神様である。その修行が積んで、今度は世に出て、結構な御用を遊ばすやうになりたのであるから、人間は大便所の掃除から、歓んで致すやうな精神にならぬと、誠の神の御用はできぬ。それに今の人民さんは、高い処へ上つて、高い役をしたがるが、神の御用をいたすものは、汚穢所を、美しくするのを楽んで致すものでないと、三千世界の大洗濯、大掃除の御用は、到底勤め上りませぬ』
との御言葉を承はり、かつ神諭の何処にも記されたるを拝して、奇異の感に打たれ、神界の深遠微妙なる御経綸に驚いた。

 金勝要神は、国祖国常立命(クニトコタチノミコト)を支えるスサノヲの分霊なのですが、敵神の謀略によってトイレに幽閉されているという設定です。
 昨日の話で言えば、拝金主義の悪神によって放逐された、正しい魂を持った善神ということになります。
 ですから、こういうタイミングで、この曲がこうして日本の国家的神事とも言える紅白歌合戦に登場するというのには、なにか深い意味があるのかもしれません(考えすぎですかね…笑)。
 霊界物語の別の場所には、次のような記述もあります。この曲の歌詞(すなわち植村花菜さんのおばあさんの言)と合わせて読みますと、より深いメッセージが読み取れるような気もしてきます。

   金勝要大神  天は男系、地は女系と云ふは、霊界のこの消息を洩らせしものなり。神諭に、 『大地の金神、金勝要神』 とあるは、これの表示なり。また、 『この大神は、雪隠の中に落された神』 とあるは、総ての地上の罪悪を持ち佐須良比失ふ所の鳴戸の意味なり。  天教山は口に当り、鳴戸は地球の肛門に当るが故なり。神の出口、入口といふは、この富士と鳴戸の御経綸の意なり。大地の金神を金勝要神と称するは、大地の金気の大徳によりて固成され、この神の身魂に依りて凝縮保維されてゐるが故なり。

 とにかく、植村花菜さんの歌う「トイレの神様」は、実はとんでもない立派な神様なのです。そして、その女神がトイレを出て再びこの世に現れる時、世の中は大きく変わるのです。
 だから、この曲が広まって、みんながトイレを磨くようになるのは、とてもいいことなのです。さてと、私も今日からしっかりトイレを磨くぞ(笑)。

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2010.10.14

二人いるから一人になれる

Donald Woods Winnicott
Donald_winnicott567 よいよ中学1年生も本格的な思秋期(岩崎宏美)…ではなくて思春期を迎えはじめまして、まあいろいろな変化が現れてまいりました。
 昨年までは高校生とウン十年つきあってきましたからね、いわゆる高二病(?)のような冷めた変化というのは毎年たくさん見てきましたが、こういう熱い(!)変化を目の当たりにするのは初めてです。ウチの子はまだ小学生ですしね。
 自我に目覚め、自分を客観視するようになり、親に反抗し、秘密を持ち、性に興味を持ち、なんとなく世の中や他者に対して不満を持ち始め、自分や友人が今までと違う人間のような気がしてくる。ある場合には「小学校時代は良かった」と言う場合もある。嫉妬心による他者批判も顕著になります。
 この前書いた「中二病」の始まりです。
 自分のそういう時代を思い出して懐かしくも思いますよね。私の人生のピークは中一でしたから(笑)。変革のエネルギーを自ら実感していたんでしょう。不安もあったけれども、大きな期待や夢もありました。自分はなんでもできるという妄想もありましたし。
 そういう生徒を見ていて、そして自分を振り返って思い出されるのは、昔ちょっとかじった発達心理学の中に出てきたウィニコットの言葉です。

 「二人いるから一人になれる」
 「自立とは二人いて一人でいられる能力」
 「依存のない自立は孤立にすぎない」

 ドナルド・ウィニコットはイギリスの小児科医で精神分析家です。そちらの世界ではいわゆる中間派に属する方でしょうか。
 彼のこれらの言葉は、思春期の生徒たちを見る私たち教師に大きな示唆を与えてくれます。
 少し前まで、とかく世の中では、「早く自立しろ」とばかり叫ばれがちでした。私たち教師もついそういう発想で突き放してしまい、あるいは極端な場合「早く世話の焼けない生徒にならないかな」と考えがちだったのです。「自己責任」ブームの時代です。
 親はどうかというと、自分の子どもはそれまで自分の分身、いや自分の一部だったわけで、なかなか突き放すことができません。子離れできない親というわけですね。
 だから、ちょっと前(今20代後半から30代前半くらいの人が高校生くらいだった頃)の親子関係についてはこんなことを感じていました。
 当時の子どもは「自立」をむやみに促されるために、その障壁となっていると思われがちな「依存」を意識的にやめるように努めました。誰も頼りにしないで、全部自分でやってやると意気込むわけです。親も社会も学校も、やれ「なんでも自己責任だ」とか、やれ「国際化してるから自分の意見をちゃんと持たなきゃダメだ」とか言ってましたから。
 一方、親はいつまでも自分に依存してもらいたいという潜在意識が強く働きますから、それまでどおり過干渉になりがちでした。どの時代も「本能」は変わりません。
 そうしますと、当然不自然な親子関係が成立してしまいますね。これは親子関係よりも、恋人関係で考える方が分かりよいくらいに、顕著な不自然さとして現れます。つまり、片思いのストーカーとそれを極度に嫌悪するその相手という関係です。
 それが過度にねじれた親子関係につながり、別居願望になったり、あるいは双方の極度な孤独感につながったりしました。ある意味では、この世代の晩婚化や失業・貧困問題はここに端を発しているとも言えるかもしれません。あるいはこの世代のロックや文学における「孤独感」「寂しさ」も。つまり、彼らはまじめに社会のかけ声に答えてしまったと。私はちょっとそんな気もしています。
 最近の親子関係はどうかというと、親の側は本能なので以前とそんなに変わりませんが、子どもの方がなかなか「自立」に踏み切れないという部分が見受けられます。世の中が「自立」の推奨を自重するようになったからでしょうか。我々が資本主義市場経済に疲れ、「共同体」を見直しているからでしょうか。
 そうしますと、今度は親子の利害がある意味一致してしまいますから、「共依存」の状態が持続してしまいます。ある種「お友だち」のような関係が続く場合もあります。特に母親と娘の関係。
 一見平和そうですが、それはそれで、本来家族の中に境界線を引くことによって形成されるべきだった「社会性(他者意識)」が芽生えるのを阻害しますから、いずれ必ず面倒な問題として発露します。
 最近の高校生なんか見ていても、私なんか信じられないのですが、卒業しても家にいたいとか、家から通える大学に行きたいとか言うんですよ。ま、いつまでも自立しないで寄生していたいんですね。これはこれで重篤化すれば、不登校やひきこもりやパラサイトシングルになってしまいます。
 昔から反抗期、思春期の子どもを持つ親は、多かれ少なかれそういう関係に苦しみ、悩み、ある意味あきらめてきたわけですが、そこに社会の雰囲気や論調が大きく働くようになったのが現代なのだと思います。
 昔だったら、世間の理屈よりも、じいさんばあさんの「独自の子育て論」が優先したりしましたからね。というか、それが正常な姿だったのだと思います。社会的に「頑迷な」「理不尽な」ことを言う個人には、当然それなりの体験的確信や、そこから生じる「責任」も存在したからです。
 世論というのは、実体のないものです。だからそこに依拠すると、誰にも責任をとってもらえない結末になります。
 ウィニコットの言葉や思想を紹介している臨床心理士の氏原寛さんも、そうした間違った世論によって、我々が「かけがえのある自分」になってしまっていると説いていました。自分にとっての「かけがえのない他者」がいないために、結果として自分も他者にとっていくらでも代わりのいる「かけがえのある」存在になってしまっていると。
 そうしますと、上記のウィニコットの言葉から分かるのは、自立のためには適度な距離を保った他者、すなわち依存の対象が必要だということです。
 幼い子どもは、母親がいれば一人でおとなしく遊ぶことができます。母親がいないと不安で泣き出してしまうでしょう。それと同じようなことが、私たちには、どの年代であっても、誰に対しても常に起きているのです。
 「二人いて一人になれる」…非常に深く本質的な言葉だと思います。
 私も、親として教師として、子どもたちに対して「あるべきもう一人」になれるよう意識、努力していこうと思っています。
 それ以前に、私は本当に「自立」しているのか、「依存」ばかりになっていないか、いや反対に「孤立」していないか、自己検証していかねばなりませんね。
 いざという時に「依存」できる他者がどれほどいるのだろう…。
 

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2010.10.11

千葉市美術館開館15周年記念 『世界の絵本がやってきた ブラティスラヴァ世界絵本原画展とチェコの人形劇』

Bib_a4_1 夜は東京にお泊まり。今日は午前中時間があったので、千葉市美術館に行ってみました。今ここでは、チェコとスロヴァキアにちなんだ展覧会が開催されています。
 チェコと言えば、まず音楽のことが頭に浮かびますでしょうか。最近もチェコで活躍したピアニストの方とお話しをする機会がありました。もうだいぶ前になりますが、どういうわけかチェコ・フィルのメンバー数人がウチに遊びに来たこともありました。
 それからチェコ語にもなんとなく親しみを覚えます。担任をした教え子二人が、東京外国語大学のチェコ語専攻に行ったからです。
 そんなところが入り口になって、チェコ・アニメの世界にも少し興味を持っていました。ザフラドニークとかポヤルとか、有名どころしか知りませんけれど。
 そしてそのチェコ・アニメの源流となったチェコの絵本や人形劇。これらも独特の世界があります。
 あっそうそう、あの BUMP OF CHICKEN の名作人形劇「ギルド」ってチェコ・アニメみたいですよね。今気づいた。
 ギルドもそうですが、そうした子ども向けでありながら大人の心をも打つ独特の世界があるじゃないですか。最近、そこに興味があったりもするのです。
 すなわち、子どもの視線こそが「本質」を見きわめることができるという、まあ当たり前と言えば当たり前の真実を、この歳になって再確認する作業に入っているということでしょうか。
 この前の柳田邦男さんの講演にも刺激を受けました。それから、もちろん、バンプの藤原くんや、フジファブリックの志村くんの独自の視点によるロックにも影響を受けていますかね。
 さて、そんなわけで今回注目してみたこの美術展。非常に興味深く、また心の奥底の方で深い共感を感じました。皆さんもぜひご覧になってみてください。
 この美術展は、スロヴァキアで行われているブラティスラヴァ世界絵本原画展の入賞作品を中心とした展示(8F)と、チェコの伝統的な人形の展示(7F)の二部に分かれており、けっこう贅沢な内容となっています。私はあまり時間がなかったので、ちょっと消化不良気味でした。
 先ほど書いたように、社会的な抑圧に対する抵抗としての「子ども」という側面もあります。「子ども」という社会化していない存在をメディアとして使う「大人」のずるさということもできます。
Bib_a4_2 しかし、一方で、社会化されていない、すなわち近代的な意味で「芸術」になっていないこうしたメディアにこ、それこそ「芸術」以前の「芸術」が存在していることも事実です。
 私は今まで、それを日本の文化の中にたくさん見てきました。このブログでも、日本画の伝統や、最近のマンガやアニメを、そういう視点で語ってきたつもりです。最近、それが実はヨーロッパをはじめとする「近代国家」にも存在するということを再認識させられました。その一つが「絵本」という文化です。
 たとえば「リアリズム」一つとっても、絵本のそれは、近代芸術のそれとは一線を画しています。そのいびつにデフォルメされた造形は、決して近代のキュビズムやアヴァンギャルドとは違います。あくまでも、大人による、子どもの脳内での「リアリズム」の復元、再構成なのだと思います。
 つまり、近代的な「理論」や「技術」や「システム」や「デザイン」という「コト」を通過していない、「モノ」としての「形」なのだと思うんですね。
 日本では、それを普通にやってきた。だからこそ、たとえば、浮世絵が印象派を生んだわけでしょう。ショックだったのだと思います。
 ある意味、そんな流れの中で大人の世界においても復権したのが、「絵本」であり、「人形劇」であり、そして「アニメーション」だったのです。
 だからでしょうか、今回強く想像されたのは、日本画と絵本の親和性です。教え子にも何人か日本画家を志している者がいますので、そんな話もしてみようかなと思いました。なにしろ、今、日本画界はグラフィック・アートに毒されていますの(苦笑)。
 特に智内兄助さんの《 ぼくのうまれた音 》の原画(完全に「絵」を超えていましたが)は興味深かったし、新鮮でもありました。ちょっと涙が出てしまった。彼は洋画家でありながら、日本画の影響を強く受けています(たぶん)。
 もちろん、同級生であるジャズトランペッターの近藤等則さんの生い立ちの物語としても感動的だったけれど、それ以上に作品としての完成度の高さ、絵自体が物語になっている、そのまさに渦潮のようなエネルギーにすっかりやられてしまいました。
 「子ども」の目、耳、頭、皮膚、肺…私もこんな大人になってしまい、すっかり社会的な動物というより機械のようになってしまいましたが、改めて自分にも存したその壮大な「物語」のメディアを思い出してみようかと思っています。
 今、中学生と共に日々を送るようになり、かたや「子どもの大人化計画」を実行しつつ、かたや「大人の子ども化計画」も着々と進めようかなと(ニヤッ)。


千葉市美術館公式

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2010.09.16

『みんな、絵本から』 柳田邦男(文)・石井麻木(写真) (講談社)

06215158 研修会1日目。700人以上が集まっているわけですから、なかなか大規模な研修ですよね。参加するのは5回目。うち3回は発表という、はっきり言って何かの陰謀としか思えない状況です(笑)。一生のうちに1回当たればかなり不運と言われるのに、この研修で10年で3回というのはたぶん世界記録だと思います。
 まずは基調講演を拝聴しました。ノンフィクション作家の柳田邦男さんの講演「ケータイ・ネット社会と子どもの心〜絵本・読書の新しい意味〜」。
 なかなか興味深かった。内容的にはそのタイトルから想像されるとおり、ケータイやゲームやパソコンやiPadなんかより、絵本や読書、特に絵本がいい、子どもにとっても大人にとっても、というお話でした。発想としては特に目新しいものではないと思います。しかし、実際の絵本をスライドで示しながらのご講演でしたので、その作品世界に私も感動してしまいました。
 最近の「大人も絵本」ブームの牽引役でもある柳田さん。特に「読み聞かせ」による親子の対話や触れ合いの重要性を訴えておられました。たしかに、読むだけでなく読み聞かせることによる大人への効用もありますね。私も父親による読み聞かせグループに入っていますが、たしかに子どもにだけでなく、父親側にも発見がたくさんありますよ。
 絵本とは、子どもにとっても大人にとっても「モノガタリ」世界であるわけです。日常の「コト」から一気に「モノ」世界へ飛翔する機会を与えるメディアです。たしかに最もシンプルな媒体であるかもしれまはんね。大人は語り部になることによって、子どもたちと一緒にそうした「モノ」世界に向かうことができるわけです。大人が絵本を読んで涙する時、そこには懐かしい「モノ」世界が広がっているのですね。
 そんな柳田先生の講演を聞いて、以前図書館で読んだ(見た)この本を思い出しましたので紹介させていただきます。今日の講演内容はほとんどこの本とかぶっていると思います。興味を持たれた方はぜひこの本をお読み下さい。
 また、資料として配られた柳田先生おススメの絵本リストを期間限定で置いておきます。ぜひ参考にしてみてください。
リスト(pdf)
 さて、基調講演が終わって、いよいよ自分の発表です。3回目ともなると、もう緊張もしませんし、逆に楽しみなくらいです。ちなみに今日私のあとに発表された先生は、6年前、伊勢で私と一緒に発表された方でして、つまり2回目。二人で「いったいなんなんでしょうね」と慰め合いました(笑)。
 今日は実は自分の発表の前にも一仕事ありました。助言講師の某大学教授との対談。内容は「宮澤賢治」でした。私、いつかも書いたとおり、あまりにも自分と重なることの多い賢治に対して、微妙な距離を保ってきていまして、実はあんまり詳しくありません。
 そこで急場しのぎのためにカミさんに助け舟を頼みました。昨夜、東北弁から見た賢治の有名作品の新解釈を伝授してもらったのです。これは面白かった。いつかここにも書こうと思いますが、けっこう革命的な発見だと思います。とりあえず、教授をはじめ、会場にいた人たちにはかなり新鮮(衝撃的)だったようです。
 今回の我が部会の研究主題は「地域に根ざした国語教育」でした。ちなみにこれは私が決めたものです。いろいろな思いをこめて(自分の趣味で)決めさせていただきました。対談での、賢治と山梨、賢治と岩手、賢治と方言というのも、そこからの発想です。
 私の発表は「方言を活用した古典文法指導」。このブログで書いてきたことのまとめみたいなものですね。それなりに面白かったのでは。ある意味私の発表は奇を衒ったようなもの(ま、今まで誰も気づかなかったこととも言えるかな)が多いので、皆さんドン引きしちゃうのか、だいたい質問や意見が出ないんですよねえ(苦笑)。
 どちらかいうと、本題から少しはずれた「センター古文が異様に難しい件」と「活用表を覚えない古典文法勉強法」の方に興味を持たれた先生方が多かったのでは。それらについては4回目の発表で!ww

Amazon みんな、絵本から

楽天ブックス みんな、絵本から

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