カテゴリー「ペット」の33件の記事

2009.05.27

『ネコ好き自分の取扱書』 Chien Chat (イーストプレス)

78160000 る教室に、いわゆる「説明書シリーズ」「説明書系」と言われるたぐいの書籍が山積みになっていたので、テキトーに拾い読みしてみました。
 全部似たような装丁に似たような構成、紙面。そして似たような価格設定。しかし、出版社はみんな違っていたりして、この業界の厳しさ(すなわち、なりふり構わないプライドのなさ)が垣間見られ面白かった。
 みんな似たような感じとは言いましても、それなりに、いや、それだから、ライターやデザイナーやイラストレーターの技量の違いが明確にわかるという利点(なんの?)もあります。もちろん、同じテーマを扱っておきながら、互いに内容に矛盾があるところなんかも、まるで分裂、分派した教団の教義を見るようで楽しい。
 ま、そんなどうでもいいことを考えながら読んでる人もいないと思いますけどね。たぶん、こういう説明書系を読むのは女性が多いと思われますから、作る側はこんなオタクな男なんか、ハナっから想定していないのでしょう。
 そう言えば、オタクオヤジついでに言っておくと、こういうシリーズって、その存在自体矛盾がありますよね。だって、もともと女性って説明書、取説、マニュアルっていうのが大の苦手でしょ?ウチのカミさんなんかも、もうそういう説明書とか読む以前に見るのもいやだと申しております。
 ま、私も基本取扱説明書なんか熟読しませんけどね。男は違った意味で取説読みません。読まなくてもわかるわけです。
 そう考えると、取説って可哀想な存在ですよね。だって、いろいろと企業には責任がありますから、そうプロダクト・ライアビリティーっていうんですか、そういう面倒なこと(法律)がありますから、重箱の隅に至るまでちゃんと説明しとかないといけない。説明責任を果たしとかないと、責任逃れできませんからね。なのに誰にも読んでもらえない(一部の取説マニアを除いて)。
 話を元に戻します。我々男子は、「コト」にこだわりますので、結局他を支配するというか、コントロールすることに喜びを覚えます。車を操ったり、パソコンを改造したり。
 そうか、女性は、いわゆる製品としての「モノ」よりも、まず自分という「モノ」の取扱いに興味があるのかな。女性は他をコントロールする以前に、自分のコントロールが難しいのかもしれません。自分に興味がある、自己愛が強いとも言えますかね。母性というのも、基本は自己愛です。母親にとって、子どもは自分の分身ですから。
 で、こういうシリーズは、ほとんどが女性の興味をそそるものです(最近の草食系男子も読んでるかも)。ですから、そこんとこを突いた企画なのかもしれませんね、説明書シリーズ。普通に考えれば、他者の取扱いのために取説を熟読すると思いますけど、こういう本の読者って、ほとんどが自分にあてはまるのを読むわけでしょ?誰かの扱いに困って、その誰かの属性にあてはまる本を購入している例は少なそうです。
 そういう私もご多分にもれず、「ネコ好き」やら「AB型」やらの本をまず手に取りました。そして、読んでみました。なんだ、これら、全然説明書じゃないじゃん。説明書、取説の体を為してない。取説って、こういう時はこうしろ、ここを押すとこうなる、つまり使い方の説明のはずじゃないですか、この本たちは、そういう内容じゃなくて、スペックとか特徴(特長)とか、そういうのの羅列ですね。
 それも、けっこう「そりゃ違うよ」とか「え?そうか?」っていうのが多い。もし、電化製品の取説がこんな感じだったら、それこそ説明責任を問われちゃいますね。ま、結局この手の本は、昔からある心理テスト(エセだけど)の最新ヴァリエーションってことになりそうですね。
 文句言ってるわけじゃないですよ。面白かったから。でも、一冊15分で読み切れてしまうのに税込み1050円は高いよなあ。
 それでも、別の視点から見ると、それなりに価値があったものもありました。もちろん微妙な共感と反発、疑問という、本来の文学的意味からしましても。それが、この本でした。「ネコ好き自分の取扱書」。これはもうちゃんと「自分」って言ってるとこが良心的と言えば良心的。例によって取扱書にはほとんどなってませんが、ポエムとしては面白かった。
 独特の視点と感性と、そして文体が、読んでいてなかなか心地よかった。これを詩集と言えるかは微妙ですけど、ある種の文学性は感じられましたね。リズムの強弱、あるいは緩急が絶妙でした。そう、好きな音楽を聴いているような感覚で読めましたね。
 結局、自分は単純に猫が好きで、そして、そういう自分が好きなのでしょう。これは私に限らず、皆がそうなんだと思います。結局自分が好き。ま、それでいいんじゃないですか。
 こういったシリーズのブームがどこまで続くか分かりません。そろそろ市場には飽きが来ているように見受けられます。次はどうやって、ナルシストたちの心をくすぐるか…実は、古典の世界からずっと、文学というものは、自己愛の充足のために存在してきたのでした。他者への変身願望や、現実からの逃避願望なんてのも、単に自己愛の裏返しであるということです。
 なにかと不安な世の中、こういう時こそ、頑張れ文学界、出版業界!

Amazon ネコ好き自分の取扱書

楽天ブックス ネコ好き自分の取扱書

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.05.08

「たたずまい」とは

猫は「たたずまい」の天才…「場」に溶け込む
Eyj 昨日、昨日と、本当にいろいろなことがありました。そのいろいろなことの中に、ある共通したテーマがあったような気がします。それが「たたずまい(佇まい)」です。
 オーケストラの練習では、音のたたずまいが非常に重要だと感じました。演奏全体のたたずまいというのももちろんですが、その中での自分の音のたたずまいですね。それがしっくり来るかどうか。
 阿修羅展での仏像たちの「たたずまい」。それは、私にとってはあまり好ましいものではありませんでした。では、阿修羅くんを取り巻くおばさんたちの「たたずまい」はどうだったでしょう。博物館前の巨樹の「たたずまい」は?
 デザイナーの教え子と話した時も、「たたずまい」がテーマでした。デザインされた「モノ」が醸し出す「たたずまい」。彼はそれを重視したいと言いました。
 そして、「王仁魂復活プロジェクト」。そこにもいろいろな「たたずまい」がありましたね。皆さん、素晴らしい「たたずまい」を持った方々でした。その点、私はかなり心細い…。桐の箱と、和綴じされた和紙の解説と、和紙の折り紙に包まれた王仁の言霊CDの「たたずまい」もまた、CDらしからぬ「たたずまい」を醸し出していました。
 さあ、この「たたずまい」とはなんなのでしょう。普通「様子・有様・雰囲気」などと簡単に訳されていますが、もっと深い「何か」があることを、私たちは実感しています。日本人はこの言葉大好きですからね。しかし、我々はこの「たたずまい」という言葉を、それこそ「雰囲気」的に使ってしまっています。今日は、私の専門分野からその本当の意味を考えてみたいと思います。
 まずは語源から考えましょうか。
 「たたずむ(佇む)」という言葉がありますね。おとといの阿修羅展の記事で私も使っています。「仏像は正面にたたずんで観るべきものです」と。
 「たたずまふ」は「たたずむ」という動詞の未然形に反復・継続を表す「ふ」という接尾語が付いたものです。それは間違いないでしょう。未然形の、未だ完成・固定されていないイメージを味わいましょう。
 では、「たたずむ(佇む)」の語源はどういうものでしょうか。一般には「立た住む」と捉えられることが多いようですが、「立つ」の未然形が「住む」という動詞につながるのはやや不自然です。イメージ的にも、「たたずむ」様子が「立っている」状態とは限らない感じがしますよね。
 そこで、古い使用例を調べてみますと、こんなことが見えてきます。10世紀後半の蜻蛉日記にこういう文があります。

 「だらにいとたうとう誦みつつ、礼堂にたたずむ法師ありき」
 陀羅尼(呪文)をとても尊く唱えながら、礼堂に「たたずむ」法師がいた。

 少しあとに書かれた源氏物語の末摘花には次のような例があります。

 「なにやかやと世つける筋ならで、その荒れたる簀の子にたたずままほしきなり」
 何やかやと色恋沙汰ではなくて、(ただ)あの荒れた簀子に佇んでみたいのだ。

 源氏が荒れた邸で琴を弾く常陸宮の姫君に会いたくて妄想しているシーンです。ま、結果、妄想は裏切られ、姫君は象の鼻の持ち主(末摘花)だったわけですが(笑)。
 この二つの例から何がわかるのでしょうか。そう、実は両者とも「場所」「ロケーション」が重要になっているんです。「礼堂」「荒れたる簀の子」ですね。そんなこと当たり前じゃないかって?そう当たり前ですが、ちょっと待ってください。次に行きます
 次に「たたずまふ」の古い例を確認してみましょう。源氏と同時期の枕草子「正月一日」から。

 「われはと思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、奥の方にたたずまふを」
 自分こそが思っている女房が、のぞきながら気合いを入れて、(部屋の)奥の方にたたずんでいるのを。

 男根の形をした棒(粥杖)で、新婦のお尻をたたくという楽しく土俗的な遊び(まじない)をしようとするシーンですね。ここでも「奥」というロケーションと「隠れている」という行為の関係が肝心です。
 続いて、「たたずまひ」という名詞形の古い例。

 平安初期の東大寺諷誦文の例です。これは古い。9世紀前半。

 「経行(たたずまひ)も吉く遠見も怜(おもしろし)」

 実はこれが重要な例なんです。「経行」という字を当てているところが大切。「経」は「たて(縦)」という意味です。「たて」「たた」は「ただ」とも語源的につながっています。「経」と同じ意味を表す「径」を「ただ」と読む例もあります。「ただ」の意味は「直」「只」「唯」という字で考えると解りやすい。「ストレート」「ダイレクト」「オンリー」「ピュア」というイメージですね。不純物や障害物がなく、直接何かと何かがつながっている感じです。
 つまりですね、「たたずむ」というのは、その「場」に相応しい状態でそこにしばらくいる、「場」の空気と一体になって存在する、そこに「しっくりはまる」という感じなんですね。ですから、その反復形の名詞形「たたずまい(たたずまひ)」の意味は、もうお分かりになると思います。
 何かの「たたずまい」と言った場合、実は単にその「何か」が雰囲気を発しているのではなくて、つまり、その「何か」が主体ではなくて、あくまでその「何か」を取り巻く「場」が主体なのです。楽器の音もそう、阿修羅もそう、デザインもそう、CDケースもそう、王仁魂の方々もそうです。「醸し出す」とは言っても、単にそれ自体がアウラを発しているのではない。あくまで全体の空気感なのです。
 その「場」というものには、もちろんいろいろな要素があります。物理的な空間としての「場」だけでなく、歴史の堆積としての「場」、そこに存在する物や者たちのアンサンブルが醸す「場」、そして、人の気持ちが創る「場」。そういう複層的、相互依存的な「場」の中で、その一つの要素たる「何か」に注目した時にですね、その「何か」がちゃんと「場」の創出に機能しているかどうか、それこそがそのモノの「たたずまい」ということになりそうです。ちゃんと正しい役割を果たしているかどうかなんです。
 古い例をもっと見てみると、だんだん自然物、たとえば山や雲などに「たたずまひ」を使うようになっていきます。自然物は自然にその役割を果たしている、自らの分をわきまえ、正しく他に活かされ、他を活かしているということでしょうかね。
 こう考えてくると、この言語化、数値化、あるいは英語化できそうにない「たたずまい」という言葉を、日本人が好んで使う意味も分かってきますね。
 「たたずまい」。早く身につけたいものです。

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009.03.12

無礼猫(なめねこ)

1 半世紀ぶりにリバイバルし、暴走族撲滅キャンペーンのポスターにまで使われるようになった「なめ猫」。
 考えてみれば、今どき、こんな格好してる人間はいませんね。でも、25年前は実際にツッパリ、スケバンはたくさんいたわけでして、そう、私が高校の教師になりたての頃は、剃り込みやアイロンパーマ、丈の長すぎるスカートの指導なんかに追われてましたっけ。
 そういうある意味で硬派な人間たちを、とってもカワイイ子猫ちゃんたちが模倣したことにより、本体の方の威厳というか、とんがったエネルギーのようなものが、すっかり削がれてしまったような気がしますね。
 ということは、実際にあの頃のなめ猫たちは、暴走族撲滅に役立ったのかもしれません。なめ猫以降、たしかにトーンダウンしましたからね。そして、今や暴走族は高齢化が進み、絶滅危惧種、保存対象にまでなっています。
 そういう中で、2006年のこのポスターというのは、実に効果的だったと思います。たぶん。25年前にこの猫たちにパワーを削がれた今40代の元暴走族のおじさんたち、このタイミングで再び自らの過去を戯画化され、子どもたちに武勇伝を語っても、「お父さん、なめ猫みたいなことやってたの?」と言われてしまう。今や、どっちが本体かわからなくなってしまっているのではないでしょうか。
 ところで、この前、生徒と古文の勉強をしてて話題になったんですけど、この「なめんなよ」の「なめる」、皆さんはどういう語源があると思いますか。
 一般には、「なめる」は「舐める・嘗める」で、いわば舌で何かをペロッとすることだと思いますよね。たしかに、「なめんなよ」と言われ、「おめえみたいなクソ舐めるわけねえだろ!このボケ!」と答えるなんてこともありました。
 「なめんなよ」を英訳すると「Don't Pelorian!」だそうで、ま、これはもちろん造語でありますが、基本「なめんなよ」の「なめる」は「舐める・嘗める」であるという意識が働いていることがわかります。
 で、実際のところはですね、「なめんなよ」の「なめる」は「舐める・嘗める」ではないようなのです。
 古語で「なめし」というのがあるのを御存知ですか。古文単語としてはけっこう重要な方ですので、なんとなく記憶に残っているという方も多いのではないでしょうか。日国で調べてみましょう。

 「なめ・し」(形ク)相手を軽んじたり、あなどったりして、無礼であるさま。失礼であるさま。

*書紀〔720〕継体二三年四月(前田本訓)「何の故か二の国の王、躬ら来集ひて天皇の勅を受けずして軽(ナメク)使を遣せる」
*続日本紀‐天平宝字八年〔764〕一〇月九日・宣命「礼無くして従はず奈売久(ナメク)在らむ人をば」
*万葉〔8C後〕六・九六六「大和道は雲隠りたり然れども吾が振る袖を無礼(なめし)と思ふな〈児嶋〉」
*枕〔10C終〕二六二・文ことばなめき人こそ「文ことばなめき人こそいとにくけれ」
*源氏〔1001〜14頃〕桐壺「なめしとおぼさでらうたくし給へ」
*栄花〔1028〜92頃〕かがやく藤壺「の給はせけるしもぞ、中々げになめう覚し召しけりなど、人々思ひける」

 日本書紀の例は、「軽」という漢字を「なめく」と誰かが訓じたわけですね。ですから、「なめく」と読むとは限りません。続日本紀の方は、万葉仮名表記なので明らかに「なめく」という言葉です。前に「礼無くして従はず」とありますので、まさに無礼で言うことを聞かないというイメージの語だったのでしょう。
 で、この「なめし」の語幹「なめ」に、動詞を作る語尾の「る」がついて、「なめる」という語になったという説があります。これはどうなんでしょうね。私の記憶では、古くは形容詞の動詞化の際用いられる語尾は「む」が圧倒的に多いような気がします。「いたし」→「いたむ」、「かなし」→「かなしむ」のように。「る」が動詞化の語尾になったのは、比較的最近なのではないでしょうか。現代語においては、「る」による名詞の動詞化が盛んに行われていますね。「事故る」「サボる」「告る」「メタボる」などなど。「ダブる」とか「トラブる」なんかは、原語の語尾の「ル」をそのまま使っていて面白いですね。
 「なめし」が動詞化した「なめる」と思われる例としては、これが一番古いようです。江戸時代ですね。案外新しい。

*歌舞伎・貢曾我富士着綿〔1793〕二幕「嬲(なぶ)るのぢゃない、なめりたいわい」

 ただ、これは「なめたい」ではなく、「なめりたい」と言ってますので、下二段ではなく四段活用のようです。そうすると、「なめんなよ」の「なめる」とはちょっと違うような気もしますね。はっきり申してよくわかりません。語感としては、どっちかというと「滑(なめ)る」に近いような…。
 いずれにせよ、「なめんなよ」の「なめる」は、無礼の意味の「なめし」と、ペロッと舐める感じとが合体して出来た比較的新しい語だということですね。
 というわけで、結局何が言いたいかというと、「なめねこ」に漢字を当てると「無礼猫」になるって、ただそれだけのことでした。

なめねこ公式
なめんなよ公式ブログ

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009.01.11

『こねこ〜旅するチグラーシャ〜』 イワン・ポポフ監督作品

Котёнок
Koneko 句なしの名作猫映画!だいたい猫の映像作品は痛いものが多いのですが、これは別格。素晴らしすぎです。
 昨日、今日とBS11で放映されていました。私は7年くらい前でしょうか、秋田のディスカウントショップで500円で売っていたVHSビデオを買ったんです。それで初めて観まして、その時も本当に感動しました。猫の可愛さ、素晴らしさも当然だったんですけど、なにしろロシア映画のあの雰囲気ですね、あれが良くてものすごく切なくなったのを覚えています。その時、ちょうど秋田は冬でして、なんとなくあの雪景色というか、あの重たい曇り空というか、そういう雰囲気も手伝ったのかもしれませんが。
 その500円の格安ビデオを買った時は、どうせ子猫がたくさん出てくるイメージビデオだと思ったんです。現代(ソ連崩壊後の)ロシア映画なんて観たことなかったし、なにしろディスカウントショップで500円ですから。そしたら、まあなんとも素晴らしい映画ではないですか。思わず見入ってしまったんです。
 でも、今日久々に観ましてね、ちょっと意外だったのは、案外明るいイメージだったということです。実はそのVHSの映像は妙に暗くて、ああ、ロシア映画ってこんな感じなのかな、なんかあまりに映像が暗くて何が起きてるか分からないシーンがたくさんあって、これは独特の表現だな、なんて思ってたんですけど、あれは単に商品化の際の映像調整に失敗してたんですね、きっと。
 あと、そのビデオは吹き替えではなくて、字幕でした。ロシアの役者さんたちの淡々としたセリフ回しもきっとそういう雰囲気を醸すのを手伝っていたのかもしれません。吹き替えは普通に日本人風に明るい感じですので。
 それにしても、この映画に出てくる猫たちの個性的なキャラクターとその演技、本当にいいですね。単にカワイイだけではありません。自然に、しかし雄弁に猫の魅力を語り尽くしています。猫好きにはもちろん、そうでない人の心にも、さすがに響くと思いますよ。
Koneko1 主役(?)の子猫チグラーシャ(タイガー…トラちゃんってことですかね)、ワーシャ、ジンジン、シャフ、イザウラ、プショーク、ペルシーク…本当に素晴らしい演技です。なぜ猫がここまで演技できるか。それは、この猫たちが、人間の主役フェージンを演じるアンドレイ・クズネツォフと絶対的な信頼関係で結ばれ、そして見事にトレーニングされているからです。
 というのは、このクズネツォフは実世界において、世界的に有名な猫のサーカス劇場を主催する人。世界一のネコ使いとして有名な方です。このサーカス団、何度か日本にも来てますよね、たしか。ぜひ一度生で観たいものです。
 で、このクズネツォフさんが役者としてまた最高です。淡々と、しかし実に味わい深く、ちょっと切ない役を見事に演じています。おそらくご本人そのままのキャラクターだと思います。猫たちに対する温かい愛情はもちろん、売店のお姉さんへのほのかな恋情など(実は、私はそこに感動というか、切なくやるせなくなったんですが)、本当に心に残る演技をしています。
 1996年に製作されたこの映画では、ソ連崩壊後のロシアが次第に変化していく、そんな様子も街の風景から少し読み取れます。少しずつですが西欧諸国、あるいはアメリカの文化が流入し、それまでの伝統が崩れていったのでしょうか。
 低予算で作られたからでしょうか、決して派手さはありませんが、それがまた我々西側の映画に親しんだ者には新鮮に映りますね。ちなみに子猫の帰りを待つ姉弟役はポポフ監督の実の子どもさんだそうです。
 全編を通じて流れるマルク・ミンコフの音楽が郷愁を誘い、これまた実によろしい。短調の中に温かさを表現しています。温かさ、愛情の裏側にある切なさ、それは「もののあはれ」だと思いますが、それが音楽にも表れていますね。ショパンに通ずるものを感じたのは私だけではないでしょう。そして、ちょっとひょうきんなお父さんが演奏するヴィヴァルディのフルート協奏曲「夜」がまたそれらとよきコントラストをなしています。お見事な選曲。
 ところで、この映画、外国作品としては珍しく、文部科学省選定映画となっています(ついでに財団法人日本動物愛護協会推薦にも)。でも、よく観ていると、猫たちによる詐欺、家宅侵入、暴力、窃盗、器物損壊など犯罪行為満載ですね(笑)。

Amazon こねこ 「こねこ」とロシア映画のいま

楽天ブックス こねこ 旅するチグラーシャ

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.12.11

『プニッとやみつき にゃウンド肉球』 (エポック社)

Img55610402 んだかとんでもなく忙しいので、今日は非常に軽めに行きます。今、とってもほしいものです。
 ウチには黒猫が3匹おりますので、都合12個(?)のリアル肉球があるわけですが、それらはそんなにしょっちゅうプニプニするわけにもいきませんし、外に持ち歩くわけにはいきませんよね。でも、携帯できるなら携帯して、そして癒されたい…
 そんな時、とっても重宝しそうなのがコレです。
 まあ、これはいわゆる「萌え」の対象というわけですね。で、私の「萌え」の定義は「國文學」に書きましたように、基本「所有欲」でありますからして、このような製品が生まれ、そして人気を博すというのはごもっともなことであります。
 なんでも、こだわりの素材&設計により、非常にリアルに肉球感を出しているとのこと。肉球部分はTPE(熱可塑性エラストマー)を使用し、周辺の短毛の生えた部分は同社がシルバニアシリーズで培ったフロッキー加工を施しているとか。
 そこまでこだわるなら、押した時の猫の鳴き声とやらもリアル猫の鳴き声をサンプリングしたものかと言いますと、なぜかそこはヴァーチャルというかフィクショナルでして、あの初音ミクの声優さん、リアル藤田咲さん(?)の声をサンプリングしたものだそうです。
 ま、そのへんが、絶妙なさじ加減ということでしょうかね。完全なリアルを目指すと、逆にリアル感に欠けるというパラドックスが生じるんです。リアル感、特に愛すべきものへのリアル感というのは、その当事者の主観によって形成されるものなので、人それぞれの萌えスポットはどんどん狭まってしまい、ちょっと的が外れただけで、非萌え(萎え)になってしまう。ですから、わざと、リアリズムから距離感を保って、万人がある程度満足する作品を提供するというのは得策です。
 日本ではそういう、西洋的なものとは違った、別のリアリズムが発達しました。皆さん御存知の通りです。それが例えば西洋で印象派を生むきっかけになったりしましたね。つまり、人それぞれのこだわりや愛情の部分を、逆説的に利用して、妄想的、想像的にフィクションのすき間を埋めるという方法です。フィクションからリアルを喚起させる。これは昨日の「能」なんかにも言えます。もちろんプロレスにも。
 おっと、また理屈っぽくなってしまった。そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、これが今ほしいのです。で、この「ほしい」、「こちらに招きたい」、「所有したい」というのが「萌え(=をかし)」であると、私は実感的にも日本語学的にも文化史的にも信じているわけであります。
2 そうだなあ、一番ほしいのは、やっぱり黒猫飼いとしてのこだわりで、黒猫の黒肉球バージョンでしょうか。
 ちなみに、ガチャガチャに入っているのはフロッキー加工をしていない廉価版ということです。

にゃウンド肉球 公式

Amazon にゃウンド肉球レアセット

今話題!やみつき触感!ネコボイスが鳴る!にゃウンド肉球


不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.09.21

様々な闘い(ときどき猫)

0156 日は朝から晩までいろいろな闘い模様が…。疲れましたが楽しい一日でした。
 まずは古武道に精通する友人と車で東京に向かいます。車中でも濃〜い会話が…。日本古来の武道やプロレス、そして音楽における相対性について。相手あっての自分。重力とは。「踏む」とは…。
 日本独特の口伝文化の話から、私は「温暖化の原因は実は情報の浪費」などというトンデモ説を語り出します。世間では「モノ」の消費のことばかり言われますが、実は現代は「コト」が爆発的に生産・消費・複製されるようになった時代なんですよね。情報ってエネルギーじゃないんでしょうか。地球の滅亡は、実は目に見えない「コト」の蓄積によって起こったりして。原油なんかの資源の心配する以前に、情報濫費の心配した方がいいんじゃないのかなあ。これについては、またいつか書きます。
 さて、東京に着くと国立に車を置いて、電車を乗り継いで葛飾は立石に向かいます。古楽器オーケストラwith合唱団の練習です。ここでは言葉と格闘。声と合わせることによって明らかになる、言葉と音楽の関係。この二者は融合しそうで融合しない微妙な関係にありますね。もっと幸せな結婚になるのかと思っていましたが、案外せめぎ合っている。
0158 物の音(もののね)と歌(ことのは)は、日本でも対立関係にあったんですよね。今日練習した曲はキリスト教音楽なわけですが、その両者の融合を目指したのは、ヨーロッパのキリスト教音楽くらいかもしれません。たしかにキリスト教的発想ですね。でも、やっぱり現実はせめぎ合いますよ。そこが面白い。神の思し召し通りにはなりませんね。
 さて、練習の合間に私はある場所へ。立石と言えばここでしょう!そう、練習場所のすぐに近くにですね、あの内藤大助選手の所属する宮田ジムがありまして、私はまあ内藤選手にも会えたらいいなとは思いましたが、それよりあの猫たちに会いたいじゃないですか(笑)。で、行ったらいましたよ。いや、内藤選手はお休み。猫ちゃんがいました。
 私がずうずうしく「猫ちゃんの写真撮らせて下さい」なんて、戦いの場に乗り込んでいったら、ジムの皆さんは本当に明るく元気に親切に「どうぞどうぞ」と言って下さいましてね。いやあ、ホント下町風情でいい雰囲気でしたよ。世界チャンピオンが練習してるとは思えない(失礼)なんとも庶民的なムードのジムのそのリングの上に鎮座ましましているお猫様「チャトラン」。可愛いよりも、なんというか神さびてましたな。実際福を招いたわけですし。
 もちろんボクシングは厳しい格闘技であります。しかし、それを囲むこのほのぼのとした雰囲気は本当に素晴らしいですねえ。それがあるからこそ厳しさも引き立つし、その厳しさに耐えられるんでしょうね。そういうバランス、相対性、闘いの裏側の愛みたいなものを強く感じました。
080921 さて、ジムから帰って再び練習。左の写真は帰り道に出会った猫。バイクの上でまったりしているお猫様です。
 夕方、練習が終わりまして再び電車で国立へ。ものすごい雨。雨との戦い。駅前でタクシーを拾います。タクシーの運転手さんも「今日は危ないから仕事は休む」というくらいひどい雨。逃げるに如かず。自然とは戦わないのが日本流です。やりすごす。
 次なる戦いの場は、モダン楽器のオーケストラの練習です。私は古楽器だし、相手はベートーベンだし、これはほとんど異種格闘技戦ですな。フリーのプロレスラーが総合格闘技に参戦するようなものです。実際、かなり苦戦しましたね。でも不思議なもので、やっぱりその場の空気を読んで、相手に合わせる脳ミソモードにすると、だんだん分かってくる。その感覚ってやっぱり面白い。自分がいかに他者になれるかっていうことでしょう。
 練習が終わってからは猫好きが集まって猫談義。猫のあの自然体な生き方こそ理想ですなあ。人間みたいにですね、変に不自然に協調を目指すわけでもなく、無駄な闘いをするわけでもなく、環境に、自然に、他者に合わせて生きている。合わせている意識すらない。かっこいいなあ…いや、やっぱりカワイイなあ。そういう自然体なところがツンデレでまた萌えなわけですね。
 で、夜11時に帰宅しまして、テレビをつけてらサラリーマンNEOが始まりました。出ました!プロレスネタ。サラリーマン体操に「土下座ブレーンバスター」が。あいかわらず笑えますな…しかし疲れすぎて最後まで観る根性がない…。つづきと深夜のプロレスは録画にて。やはり、眠気との闘いには勝てませんね。おやすみなさい。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.05.15

『チーズスイートホーム』 こなみかなた (モーニングKCDX)

07139507 近ウチの家族がはまっているマンガ。猫好きにはたまらない一冊。
 私もかなりの猫好きですけど、やっぱりウチのカミさんや子どもたちにはかなわないな。とにかく三度のメシよりネコという感じ。
 今ウチには三匹の黒猫がいます。10年前から一緒にいる大和守弥右衛門と丹後守新之助に、最近子猫のミー(いきなり普通の名前だな)も加わりました。これがねえ、なんとも可愛いんですよ。どうもどこからか落ちたかなにかしたらしく、脊髄を損傷していて、下半身が不随なんです。で、当然もらい手がいなかったのをちょっと預かったら、これもまた当然ずっと預かることになっちゃったと。
 私は最初反対しました。ハンディーキャップ猫を育てるのは大変だからです。自分たちの生活だけでなく、ヤエとシンの生活も脅かされると思ったからです。でも、カミさんや子どもたちは、まあ母性本能を刺激されちゃったのか、責任やら運命やらを感じちゃったのか、もう泣いて「飼う」と言い張るわけです。
 私もかなり強硬に抵抗しましたけれど、しかししばらく一緒にいるうちに、様々な心配が杞憂であったことが判明してゆき、今では全く自然に家族4人黒猫3匹の幸せな生活が続いています。
 ということで、迷子の子猫と、それを飼うことになってしまう家族をテーマにしたこのマンガには、たしかに共感するところが多い。
 で、私はそれほどでもないんですけれど、カミさんなんて毎日何度も読んで泣いてる。可愛いと思って、つまり「萌え〜」と思って読んでるのかと思いきや、そうではなくて「切ない…」と思いながら読んでるらしいのです。つまり、古語で言えば、「をかし」ではなく「あはれ」で読んでるんですよね。
 こういうことらしい。このマンガの主人公猫のチーは、最初はママのところに一生懸命帰ろうとしてるんですね。本来のおうちへ。ところが、拾われて人間の家に住み始めて、だんだんとママのことや本来のおうちのことを忘れていってしまう。そして、次第に人間を親だと思ったり、人間の家をおうちだと思うようになってしまう。そのへんの描写がとても上手なんですね。
 時々ふとしたことから思い出すんだけれども、だんだん本当のママの姿や感触が薄れていってしまう。「あれ?なんだったっけ…」という感じで。何か大切なものを思い出しかけるんだけれど、そこは猫だし子どもだから、だんだん「…まあ、いいか」という感じになってしまう。つまり、チーのスイートホーム(ママ、おうち)の変化がテーマなわけです。
 そういう姿をウチのミーやおじさん猫たちに重ねているんです。まあたしかにそういう大切なことを忘れていく、親子の別れというのは、古今東西を問わず文学の重要なファクターでした。「もののあはれ」というやつですね。時間の流れに従って、淡々と悲しむべきことが進んでいく。桜の花が散るように。特に日本人はそこに「切ない美」を感じてきましたからね。ただ悲しいとういことでなく。
 作者もかなりの猫好きですね。猫の表情、動作、人間の様子も非常にリアルです。逆に言えば、猫があまり好きでない人、猫を飼ったことがない人には、ほとんどその微妙なニュアンスはわからないでしょうね。
 このマンガを読んで、猫を飼うようになる人も多いと聞きます。いいことですね。最近、世間は猫ブームです。景気がいい時は犬がはやり、景気が悪いと猫がはやる。なんとなく分かりますね。いつかも書きましたが、私たち人間にとって、犬は生活のためのパートナー、猫は文学のためのパートナーですから。
 今年春からアニメも始まりました。おかげで子どもたちも早起きになりましたよ。

Amazon チーズスイートホーム1

楽天ブックス チーズスイートホーム(1)

テレビ東京 チーズスイートホーム

YouTubeで観る

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.11.19

黒猫

R なに〜!?黒猫を年間6万匹も殺しただと〜!!許さん。
 Yahoo!ニュースに『「黒猫は縁起悪い」は迷信、イタリアで啓発イベント』というのがありまして、読んでみてびっくり。
 黒猫が縁起が悪いだなんて、いったい誰が言い出したんでしょうか。黒猫は福猫だというのは日本では古くからの定説ですよねえ。日本では神話の時代から烏や黒猫は縁起のいい動物なんですよ!しっかり勉強せよ、イタリア人よ(笑)。
 なんて、イタリアに限らず、欧米では魔女狩りの対象になったりして、ずいぶんとひどい目に遭ってきましたよね。かわそうに。日本でも向こうの影響でずいぶんと嫌われるようになってしまいました。
 一方で、黒猫を愛する人もたくさんいます。漱石の猫が黒猫だったことは有名な話ですね。あの吾輩も黒猫であるとの解釈が一般的です。
 もうお気づきと思いますが、私も黒猫を格別に愛玩する一人であります。このブログにも黒猫のMaukieが鎮座しておりますね。
Kuroneko で、ですねえ。もともとウチには大和守弥右衛門と丹後守新之助という二匹の黒猫がいたのですが、最近もう一匹の黒猫が加わったんですよぉ。
 いちおう通称「みーちゃん」であります。いずれ正式な名前を付けたいと思っていますが、こいつはメス猫ですので、ちょっとカワイイ名前をつけてやりたいな。
 実はこの新しい家族、脊椎を損傷しており、下半身が不随なんです。まだ生後2ヶ月くらいの子猫ちゃんなんですが、腰から下が動きません。
 ちょっと縁があってウチにやってきたんですけど、もうすっかり情が移ってしまってですね、ずっと飼うことになりそうなんです。下半身が不随であるため、排泄などは介助してやらないとできません。大変といえば大変ですが、私はさておいて、カミさんや娘たちはよけいに可愛いらしく、一生懸命世話をしています。
 まあ、これも何かの運命、何かの縁なのでしょう。実際、黒猫がいることによってウチにはずいぶんと福が舞い降りましたので、さらにパワーアップということで、ちょっと楽しみでもあります。
 黒猫だけ3匹、それも狙ったわけでなくたまたまウチにその3匹がやってきたわけでして、これはもう何かの思し召しでありましょう。黒猫の館と言われようと別に気にしません。
 黒猫はたいてい大人しく人懐っこいですので、扱いも楽。知性も他の猫よりも高いように感じるのは私だけではないでしょう。
 ちなみに出口王仁三郎も「玉鏡」の中で、『猫は魔の王であるから、家に猫を飼うておくと悪魔が来ない。猫を抱いておれば、おそわれるようなことはない』と述べています。そして真っ黒な烏は霊鳥だとも言っていますから、カラスネコとも呼ばれる黒猫は最強だということです。
 最近は寝室で家族四人黒猫三匹で寝ております。これじゃあ、夢にすら悪魔は入ってこれませんね。いいことです。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.11.02

「葛飾区立石・世界チャンピオン内藤大助選手を育てた街」(NHK ゆうどきネットワーク)

Miyataneko 仕事から帰ったら、カミさんが「ちょっと大変、大変」というので、録画してあった「ゆうどきネットワーク」を観たら、ああ確かにこりゃ大変だ。NHKいつもながらグッジョブ!久々にツボにはまったっす。
 見事亀田家を成敗した内藤大助選手。今や国民的人気でありますが、皆さんもご存知の通り、彼の人気は彼のキャラのおかげであります。民放でもさかんにそこんとこを取り上げていますが、いやあ、やっぱりNHK、それも首都圏放送センターですねえ。見事に内藤選手の「素」を引き出していました。あの地味で自然な演出が、彼らしさにマッチしていたわけです。これは民放にはできない技ですね。民放は亀田家がお似合いです(笑)。
 さて、「葛飾区立石・世界チャンピオン内藤大助選手を育てた街」と題されたこのコーナー。もういきなり(と言っても途中から録画されていたので、この前にも何かあったと思いますが)宮田ジムの猫が登場して、萌え〜であります。ウワサには聞いていましたが、なんすか、この癒しなムード。とても「男の闘い」の世界とは思えません。神聖なリングでエサ喰ってるな!(笑)。いかにも下町風情のドラ猫ですなあ。可愛いなんてもんじゃないですね。
 その後、内藤選手はWBCのチャンピオンベルトを出してきますが、なんだかビニールの袋に入れて、雑然と戸棚に置いてあったりして、これもまたいいですねえ。「周りの人たちのおかげでとれたベルトだから、みんなに持ってもらう」ということでした。持たせてもらいに行ってこようかな。
Tateishi1 そして、レポーターと二人で立石駅通り商店街と立石仲見世商店街に出向きます。本当に東京の下町の風情っていいですねえ。この前、西落合を散策した時にも思いましたが、地方の人たちが抱いている東京のイメージって絶対間違ってますよ。ある意味田舎より昔の生活が残ってますからね。江戸の風情や濃密な人間関係がいまだにあります。内藤選手は寅さんやマンガの世界で知った葛飾に憧れていたと言っていました。彼が言うように本当に昭和が残ってますね。実にあったかい雰囲気でした。
7rt4 さてさて、最初に立ち寄った洋品店で偶然(?)奥さんの真弓さんが買い物していました。今や一部の人たちには内藤選手以上に人気だという真弓さん。私は初めて拝見いたしましたが、たしかにそのアニメ声と天然なキャラにやられましたね。面白過ぎ。なんなんだこの夫婦漫才は!?洋品店で子どものために399円のズボンを買う真弓さん。着ている服もそこで2000円で買ったものだとか。さらに物色していた靴下?は150円。世界チャンピオンの奥さんとは思えない質素さです。すかさず内藤選手のジャブ(ツッコミ)が入っていました(笑)。ホントいいわ、この夫婦。二人とも天然ほっこり系ですね。超庶民派。
Naito85 最後に内藤選手、「ぼくは周りのおかげで世界チャンピオンになれた」「環境も良かったし、周りの人たちもすごい良かったし、ぼくは運がいい」「あの奥さんじゃなかったら獲れなかった」ってしみじみ語ってます。たまたま来た町が彼の人生を変えていったんですよね。ダイエットのためにジムに来ていた奥さんと出会ったのも偶然ではなかったのかもしれません。
 とにかくなんだかツボにはまった番組でした。格闘家から発するゆる〜い脱力感がたまりませんでした。これが平日の夕どきにさりげなく流れる日本というのもまた平和でいいですなあ。
 今回亀田家の方は大変なバッシングの嵐です。たしかに悪いところは悪いわけですが、もうこうなると集団いじめみたいになってますよね。まあ、そうしたものの裏返しとしての内藤人気というのも当然あるわけでして、ちょっと複雑な気持ちにもなります。いずれにせよ、日本人はこういう分かりやすい構図、コントラストというのが好きだということかもしれませんね。今回はたまたまですが、東と西のダウンタウンということもありますし…。微妙な問題もはらんではいるわけですが。
 ああ、しっかし面白かったなあ。この面白さは観ていただかないと分からないと思います。再放送のリクエストをしましょう。私も最初から観てみたいっす。猫がなあ。もっと観たいなあ。

ゆうどきネットワーク公式

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007.10.06

『おはなし迷路ポスター 赤ずきんちゃん』 作 杉山亮 絵 中川大輔

P_akazub これは面白い!
 今日カミさんと子どもが、近くの図書館で行われた杉山亮さんの講演会に行ってきまして、これをお土産に買ってきました。
 私、不勉強で杉山亮さんのこと知らなかった。肩書きはおもちゃ作家さんでよろしいのでしょうか。最近は児童書の執筆も多いようですが。小淵沢にお住まいなんですね。「本っておもしろい」という講演の内容も、読書と教養とか、教養と笑いとか、江戸の文化や教育に関することだったようで興味を持ったんですけど、このお土産もまた実に面白かった。たしかに江戸のセンスだな、こりゃ。おもちゃ絵ですね。
 とにかく彼女たちが買ってきたお土産を紹介しましょうか。←こんな感じです。
 とは言っても、この画像じゃ何がなんだかわかりませんね。
 これは迷路になってるんですけど、正しい道をたどっていくと、そこには正しい赤ずきんちゃんのお話が展開していくわけですね。それで、間違った道に行きますと、別の物語になっていってしまいまして、で、普通の迷路と同じで途中で行き止まりになっちゃうんですね。つまりお話が変な方向に行ってしまって、突然終わってしまうわけです。
 そのお話のはずれ具合、終わり方がなんとも面白い。絶妙なセンスなんですよ。これははまりますね。最初の部分だけ見ていただきましょうか。
Meiro12 ちょっと小さく見にくいと思いますが、冒頭部分なんか、「むかし、あるところに…」と行くべきところ、「むか…」の分岐点で道を間違うと「むかでだぁ!」でお話が終わってしまいます。「あるところに…」のところには「赤ずきんという名の女の子がいました」と「赤ずぼんという男の子がいました」と「キンという名の女の子がいました」の三つの分岐がありますね。ちなみに「キン」の方に行きますと、彼女は「赤津(あかづ)さん」と結婚して「あかづきん」という名前になってお話が終わりです(笑)。
 まあ、こんな感じで無数の分岐点から無数のメチャクチャなお話生まれ、そして突然終わってしまうわけですね。そのはずし具合がホント絶妙なんです。違う昔話になったり、現代日本の光景になってしまったり、おばあさんがおしりに花火をつっこまれてロケットにされたり(笑)、とにかく正しい道なんかどうでもよくて、全ての間違った道を歩みたくなるわけです。
 こういうセンスの中にナンセンスを生んでいくというのは、まさに江戸の笑いの文化であります。パロディーですね。オリジナルを知っていなければ楽しめないという意味では、まさに教養を必要とする笑いです。そして、このたった1枚の紙の中に、本当に無数の笑いがあり、この1枚の紙で何時間も何日も楽しめるわけです。こういうことは、今の子どもの文化にはなかなかないですね。その場の刺激だけ。はい次、はい次って感じで。
 講演の中にもそういう話があったようですが、とにかく今の子どもを見ていますと、一つの物を繰り返し楽しんだり、味わったりすることが少ない。なんでも二度目だと「知ってる〜」「つまんない〜」「新しいのがいい〜」ということになってしまいます。高校生でもそうだよなあ。これはいかんでしょ。
 つまりよく言われるように、彼らは自分から何かを発見することがないんですよね。与えられたもの、情報をただ受け取るだけ。飽きたらおしまい。
 昔は飽きてからが勝負でしたよね。そこにいかにオリジナルな意味や価値を見出すか。つまり何もないところに「物語」をつくるということです。私の「モノ・コト論」でいいますと、なんだかわからない外部の「モノ」を「カタル」ことによって「コト」化していくわけです。今の子どもたちは「モノ」を感じることすらできない。だから「カタル」こともないし、新しい「コト」も生まれない。ただ、大人がお金もうけのために作った「コト(いわゆる物もほとんどがコトに属します)」を受け取るだけ。ちっとも創造的じゃない。
 で、このおはなし迷路、とっても面白いので、これは生徒やウチの子どもにも作らせてみようかなと思ったのです。パロディーというのは、元があるだけに、何もないところから何かを生み出すよりもとっつきやすい。もちろん、そこにはパロディーならではの特別なセンスが必要ですから、本当は難しいんですけどね。
 とにかく言葉遊びとしても、物語づくりとしても、実際のゲームとしても実に面白いと思います。高校生くらいなら昔話じゃなくて、短編小説なんがでもいいかもしれないし、古文でやったりしたらかなり高度な勉強ができますね。
 まずは自分でやってみようかな。杉山亮さんのアイデアをちょっと拝借させていただきます。

Nekomeiro ps とりあえず全部のストーリーを追ってみようと思って床にポスターを広げていましたら、ウチのバカ猫がこんなふうにドカンと…。なんで、猫って人が見たり読んだりしてるものの上にドカンと来るんでしょうね。新聞なんか絶対読めませんよね(笑)。大事なものにソソウをしたりするのも得意ですし、どうも人の視線とか、愛情線みたいなものを感じるようですね。なんなんでしょう、いつも不思議に思います。

Amazon おはなしめいろせかいのたび イソップものがたり

杉山亮のなぞなぞ工房 on the web

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (1)

より以前の記事一覧