カテゴリー「ペット」の38件の記事

2012.01.03

弥右衛門 帰幽のお知らせ

↓昨年の3月の寝姿
Img_1809 日、我が家の黒猫トリオのうち、最も巨大にして偉大であったヤエ(正式名称…山口大和守弥右衛門)が天寿を全うし土に還りました。享年十五。
 この写真のように、いつも死んだように寝ていたヤエが、今日は寝ているように死んでいました(さすがにバラは抱いていませんでしたが)。
 その場所は南側の窓の際でしたから、おそらく午前中いつものように日だまりで豪快ないびきをかいて午睡をむさぼっていたのでしょう。夕方、本当にいつもの寝姿で冷たくなっておりました。
 思えば彼は本当に素晴らしい猫でした。
 黒猫、デブ、鍵しっぽ、金の目玉、月夜に吠える…など、世界中で言われる「猫の王」の条件を全て備えた立派な男でした。
 性格もとにかくファンキーで、いわゆる猫らしくしれっとしたようなところは全くなく、どちらかというと犬のような、いや明るいオヤジのようなヤツでした。
 なんと言っても、人間とお話ができるというところが素晴らしかった。私もどれだけ彼にグチを聞いてもらったことか。こちらがどんなに落ち込んでいても、ヤエはいつもファンキーでマイペース。本当に日々救われてきました。
 ワタクシにとっては本当に心の友でした。もちろん、そんなヤツですから、家族にはもちろん、多くのお客様、猫マニアに圧倒的に可愛がられました。人が好きで(特に若い女性)、そのいかにもオヤジ然とした外見に似合わず甘え上手で、人が話をしていれば、必ず輪の中に入ってきました。電話をしていても受話器をよこせとしつこく絡んできましたっけ。
 それから、彼の特技はマッサージでした。彼の8キロに及ぶかという体重と、前脚による絶妙なモミモミ、そしてあの温熱効果は最高でした。私もよく背中に乗ってもらって凝りをほぐしてもらいました。
Img_0600 この写真は、なぜかトイレの中でくつろぐ弥右衛門です。素でやっているのか、ウケを狙っているのか、よく分かりませんが、とにかくすっ頓狂なことをやって皆を笑わせてくれました。
 本当に直前までいつものように、食べ過ぎるほど食べて(そして吐いて)、寝て、巨大なウンコをして、他の二匹の猫と遊んでいましたから、おそらくは睡眠中に心不全か何かを起こしたのでしょう。
 もう15歳ですし、あれだけ太っていましたから、そういうこともあろうかと思いましたが、それにしても天晴れな弥右衛門らしい最期でありました。漢だ。
 ああそうそう、それから将軍様…いやいや弥右衛門様の偉大なる功績として挙げておかねばならないことがありました。それはミーの世話役としての功績です。
 4年ほど前に拾われてきた下半身不随黒猫ミー。彼女は子猫の時に脊椎を損傷し、下半身が動かず、自力排尿もできないようなハンディーを背負っていました。動物病院のお医者さんも、もう回復の見込みはないし、命もそんなに長くないかもしれないとおっしゃっていました。
 そんなミーは今、まさに奇跡を起こし、後の片足で踏ん張って立てるようになり、また、ここ半年くらいで、ちゃんと自力でおトイレで排泄ができるようになりました。まさにお医者さんもビックリの奇跡です。
 実は彼女がここまで奇跡的な回復を見せたのは、ほかでもない弥右衛門のお陰なのです。
 彼は彼女がウチに来たその日から、ある意味オヤジらしさを発揮し、この若くておてんばな小娘と真剣につき合ってくれました。まさに「レスリング」です。レッスルする中で、彼女は年々運動機能を取り戻し、今私たち人間の手を煩わすことなく自活するようになりました。
 これは本当にすごいことです。愛なくしては為し得ない奇跡だったと思います。
 そんなミーは今、最後にヤエが寝ていたところを何度も行き来し、哀しそうな目をして、大好きだった兄貴、いやオヤジを探しています…。
Slideshow1 まあ、病気らしい病気やケガらしいケガは一度もなく、最後の最後まで明るく元気に生を全うした弥右衛門は、とっても幸せであったと思います。それは間違いないですし、私たちにとっても大きな救いであります。
 ケンカにも負けたことありませんし、ご覧のようにお犬様をも制圧しておりました。
 娘たちもさすがに最初は号泣しておりましたが、そのうちヤエの亡骸をなでながら笑顔で歌を歌うようになりました。これこそヤエの不思議な力です。
 夜、庭のこぶしの木の根元の凍った土を家族で掘り、弥右衛門を葬って円墳を作り、神社と為しました。三が日で何度も初詣での機会があったのに実現せず、結果として家族の今年の初詣でがこの弥右衛門神社となったのは、何かの導きだったかもしれません。
 「自分が幸せになるためには、人を幸せにするしかない」というお釈迦様の教えを、そのまま体現していたような猫でした。
 結婚してすぐに引き取った弥右衛門。思えば娘たちより長いつきあいでした。今までも我が家を明るく照らし、守ってくれた「猫の王」。きっと、これからも私たちに幸せを与え続けてくれることでしょう。私たちもあなたの生き方に学び、人を幸せにできるよう頑張ります…いや、生き物として自然に生きていきたいと思います。
 今まで彼を愛してくれた多くの皆様、本当にありがとうございました。
 最後に一言…この前のタコ八郎の記事に書いたタモリの弔辞をまねれば、こんなふうになるかなあ。

「ヤエが日だまりで死んだ。何も悲しいことはない」…涙
 
 


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2011.02.22

猫の日にちなんで

Photo_2_23_7_04_57 の日。毎年この日には、ウチの黒猫3匹の1年分のエサが届きます。これです。これで1年分。ま、時々ほかの物もつまみ食いしますが、基本このエサしか食べません。食卓の上の刺し身なんかを食べたがるのは、ノラ出身の末っ子ミーだけですね。古参の2匹は、ほとんど見向きもしません。
 これで、約8250円。1年で8250円かあ。まあ、1日20円強というところですかね。私が1日1食しか食べないので、その分そっちに回ってると考えれば、まあ安いもんだ。
 ところで、「猫の日」ですが、これって、このエサの会社も入っているであろう「ペットフード協会」が1987年に制定したものです。ニャンニャンニャンで2月22日と。
 1987年と言えば、おニャン子クラブが解散した年ですね。たぶん、そんな社会現象もあって、猫と言えば「ニャン」だったのではないかと思われます。
 日本語史的に言いますと、「ニャンコ」に「お」という接頭辞をつけたのは、たぶん「おニャン子」が初めてではないかと思われます。違うかな?もっと前からあったような気もするような…。
 いずれにせよ、当時「おニャン子」は、「目立ちたがりの女子高生」という意味で使われ始め、そのうち、一つのブランドのようになり、社会現象となり、また現在のAKBなどにつながる、「素人コンテンツ」の先駆けとなったのでありました。
 文化史的に考えますと、おニャン子の語源であろう「ねこ」は、長いこと芸妓や娼婦のことを差していましたから、ちょっとそういった若い女性の色気のようなものを、秋元康がうまいこと現代化したとも言えますね。
 「ニャンコ」という言葉自体は、たとえば1968年の「いなかっぺ大将」の「ニャンコ先生」を例に出すまでもなく、古くから使われていたと思われます。
 「にゃん」は、古くは17世紀江戸の書物にも見えますので、猫の鳴き声として、「にゃあ」とともにかなり昔から一般的だったのではないでしょうか。
 今でも「ネコババ(猫糞)」という言葉がありますが、江戸時代には「にゃんがばば」とか「にゃあがばば」とも言われていましたので、つまり、「ねこ」=「にゃん」「にゃあ」だったのでしょうね。
 そこに今でも東北弁などに残る、親愛を表す接尾辞「こ(子)」がついて「にゃんこ」と言われてきたのでしょう。
 もしかすると、「御ねこ様」と同様に、「おにゃんこさま」、あるいは「おにゃんこ」のような言い方が、もう江戸時代にはあったかもしれませんね。
Gedc05491 「ねこ」という言葉自体の語源も、おそらくは鳴き声の擬音「ね」+愛称の「こ」だと考えられます。源氏物語の若菜の巻に、「いといたくながめて、端近く寄り臥したまへるに、来てねうねうといとらうたげになけば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほ笑まる」とあります。「ねうねう」の当時の発音は明らかではありませんが、「にゃう」に近いのではないかと思われます。
 ですから、「にゃんこ」という言葉は、基本「ねこ」のなまった形、いや、本来の形に非常に近いということになりますね。
 先ほど書いたように、「ねこ」には、色っぽい女性を表すような用法もありました。「寝子」というイメージと、猫自体が持つ、甘え上手だったり、またちょっと悪女っぽい様子、そしてしなやかな姿態が、そういう連想をさせたのでありましょう。
 ウチの3匹の黒猫。上の2匹(弥右衛門と新之介)は元男性(去勢済み)ですので、まあニューハーフというかオカマというか、そっち系ですね。新参者のミーは女性ではありますが、脊椎損傷のため下半身不随で、いつまでたっても大きくならず、今もやんちゃ盛り。まあ、「おニャン子」みたいなものですかね。なぜか、私はそのおニャン子に嫌われております。父親に対する反抗期なんでしょうかね(笑)。

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2011.02.13

満員御礼!山手の丘に香る≪コーヒーカンタータ≫

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 来場くださった皆さま、ありがとうございました。そして、それと同時にこのような素晴らしい演奏会の演奏者としてお誘いいただき、本当にうれしく思います。
 いやあ、コーヒーの香りもさることながら、横浜は山手のあの文化の香りは素晴らしいですね。正直、田舎とは違います。ここでいう「文化」というのは、ある種の「余裕」であり、それは開放から生まれるものであって閉鎖からは生まれないことを再確認いたしました。つまり、横浜には他者を受け容れる土壌があるんですよね。
Gedc0164 今回の演奏会はそうした横浜山手地区を中心に行われた「横濱・西洋館de古楽2011」のファイナル・コンサートで、歴史的な建造物であるべーリック・ホールで催されました。
 お客様には本格的なコーヒーを飲んでいただきながら、バッハの「コーヒー・カンタータ」を聴いていただくという洒落た企画です。プロの演奏家の皆様に交じって演奏させてもらう、それも声楽の方々との演奏は、本当に勉強になります。本当にありがたいことですね。
Asaoka2008 また、アナウンサーとしてプロ中のプロである、朝岡聡さんの軽妙かつ的確なおしゃべり(&演奏)にも感心しきり。演奏者にもいい影響があります。コンサートやライヴでのMCの重要性の再確認はもちろん、私の仕事へのヒントもたくさんいただきました。いずれにせよ、プロの皆さんはすごいですね。
 熱心なお客様の中にも何人かプロの方々が。特に、チェンバロ、フォルテピアノの御大渡邊順生さんとバロック・チェロのエマニュエル・ジラールさんが来られたのにはびっくり!とんでもないプレッシャーですぞ。こんな経験もそうそうできるものではありませんね。
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 今回の演奏会場となったべーリック・ホール(旧ベリック邸)ですけれども、私は二回目でしょうかね、ここで演奏するのは。昭和5年にアメリカ人建築家モーガンによって設計されたこの建物には、アメリカやイギリス、スペイン、イスラム、そして日本と、本当にいろいろな様式が見て取れました。スパニッシュ・スタイルは当時アメリカ西海岸で流行っていたものですが、ここ日本で様々な進化を遂げたとも言えますね。
Gedc0170 ベリックはイギリス人貿易商。当時かなりの財力を誇っていたようですね。特に「和紙」の輸出ではかなりの業績を上げていたとのこと。で、最近分かったんですが、ウチのご先祖様は当時横浜に住み、「和紙」関係の仕事をしていたらしいんです。ということは、ベリック商会とも関係があったかもしれないんですね。不思議な縁を感じました。
 なぜか人のウチの歴史を調べることが多い私ですが(最近も頼まれています)、そろそろ自分のウチについてもちゃんと調べないとなあ。
 そんな調査の第一歩として(?)、練習の合間にちょっとした山手探訪をしてみました。
Gedc0176 まずはお隣のエリスマン邸へ。ワタクシ的にはベリック邸よりも、こっちの方が好きですぞ。なにしろ、設計者はあのレーモンドです。ライトのお弟子さんですね。「ナチュラル」・「シンプル」の中に、和の精神と技術を昇華させたなかなかの作品でした。実は私、レーモンドとも縁があると言えばあるのです。ものすごく間接的ですが。これもまた最近分かったことです。不思議な縁を感じます。
Gedc0186 お散歩の最中、たくさんの猫に出会いました。横浜の猫はなんとなく違いますね。ノラでも品があるというか、余裕があるというか、文化的というか(笑)。猫の美術館の入り口にいたこの猫は大あくびしてましたが、そんな姿にもどこか品格が…ないか。
 いろいろなところに「猫の街」というのがありますが、それぞれ猫の顔つきや動き、たたずまいが違うのは面白いですねえ。まあ、人間といっしょということか。
Img_1670 猫で思い出して四半世紀ぶりに訪れたのが「大佛次郎記念館」。大佛次郎と言えば、無類の猫好きとしても知られる文豪ですね。そうそう私は、大佛次郎本人よりも、お兄さんである野尻抱影の方から入ったんですよね。少年時代の私は、猫よりも星が好きだったので、野尻抱影さんの本は片っ端から読んでいました。
 大佛次郎が実弟だった知ったのは大学生の時ですね。猫と星ということで、私はこのご兄弟に妙な親近感を覚えております。野尻抱影は山梨は甲府の中学の英語の先生やってましたし。あっそうそう、この兄弟、ショコタン(中川翔子)の親戚にあたるんですよ。そんなところにも縁を感じます(笑)。ウチの母親、ショコタンのおばあちゃんと知り合いだし。
Gedc0198_2 今日はちょうど「日日是猫」という企画展をやってまして、いつにもまして大佛次郎の猫馬鹿ぶりを感じることができましたよ。大佛次郎の人生の最終目標は猫になることだったとか。いいですねえ。きっと今頃、兄は星に、弟は猫になっていることでしょう。おみやげに、「猫のいる日々」とコースターを買いました。
Img_1672 と、こんな感じで、個人的にとっても充実した一日を送らせていただきました。演奏会が始まる少し前、外人墓地のあたりを歩いていましたら、夕陽の隣に富士山が見えていました。ああ、今日はあそこから来て、そしてまたあそこに帰るんだな。遠いけれど不思議と近く感じます。ものすごいランドマークだなあ。
 外人墓地に葬られた皆さんも、こうしてずっと富士山を眺めているのでしょうね。皆クリスチャンであったに違いありませんが、しかし、彼らの信じる神とは別に、この富士山に日本の霊性を感じていたのではなないでしょうか。だからこそこうして富士山に対峙してお墓が作られたのでしょう。


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2011.02.11

ハンディキャップ猫ミー、雪のお散歩

 が降りました。今年初めての本格的な積雪です。これほど雪が降らない冬は珍しいですね。そのかわりと言ってはなんですが、カミさんの実家のある秋田は大変な大雪。生まれ故郷の積雪は3メートルを超える勢いだそうです。
 カミさんは、こちら太平洋側に嫁に来て、毎日青空という明るい冬を体験しながら、なんとなく申し訳なさを感じているようです。
 今日も、雪とは言ってもせいぜい10センチくらいですからね、これで「大雪」とかニュースで言われたりして、たしかに向こうの方々からすると、おいおいっていう感じでしょうね。
 子どもたちも久々の雪に大喜び。友達と思いっきり外で遊んでいました。私も今日は一日のんびり。
 雪が降って喜ぶのは人間だけではありません。ウチの黒猫軍団も雪が大好きです。特にミーちゃん。ミーちゃんはウチの黒猫3兄弟の末っ子(ミーは血はつながっていませんが)。下半身不随の障害猫です。
 たぶん子猫の時にどこかから落下して脊髄を損傷したのでしょう。下半身はほとんど動きません。しかし、自分にハンディがあるなんて、よく分かっていないのか、あるいは気にしないのか、とにかく元気いっぱいな猫です。
 今日も上の動画のように、元気いっぱいにウチの周りをお散歩。すごいスピードで走り回って(匍匐前進して)いました(笑)。カワイイというか、なんともユーモラスですよね。
 犬は喜び庭駆け回り、猫はコタツで丸くなる…というのは、人間の勝手なイメージでして、実は寒さに弱いのは犬の方です。猫って実は寒さにめっちゃ強いんですよね。
 ここ富士山のノラ猫たちだって、マイナス20度の中、雪の上で平気で寝てたりしますからね。たくましいですよ。
 ま、ウチの黒猫たち、晴れた日の昼間は、陽当たりのいい出窓でこのように固まって寝ておりますが。たしかに寒がりに見えますね。なんか幸せそうですなあ。ぬくぬく。

Gedc0408


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2010.03.03

サビ猫

Uni_3792 日はひなまつり。上巳の節供。今までもこの日にちなんでいろいろな記事を書いてきました。
 でも、そろそろネタが切れてきたので、今年は軽く。でも、今年しか書けない内容です。たぶん。
 ひなまつりと言えば女の子の節句。ウチは厳密に言えば男は私一人しかいません。まず、カミさん。典型的な女です。あと娘が二人。これも観察する限り(体も心も)女のようです。そして、猫たち。新入りのメスの黒猫が一匹と、あとは古株のおかま黒猫が二匹。もとはオスですが、去勢しているのでほとんどメスのようになっています。
 このような状況だけ考えても、男の私はかなり孤立というか四面楚歌というか孤軍奮闘していることがわかりますね。
 そこに最近ですね、さらにもう一人、いやもう一匹女の子が増えたんですよ。メスのサビ猫。サビちゃん。
 実は今、サビちゃんはウチに居候しているのです。たぶんもうすぐどこかにもらわれていきます。ちょっと寂しいなあ。
 なにしろ、ものすごくいい猫なんです。まず「サビ猫」というだけで、猫マニアは垂涎します。雑巾猫と言われて捨てられることも多いけれども、だからこそか、猫好きにはたまらない魅力のある種です。べっこう柄だからべっこう猫とも言いますね。
 そんなサビがウチに来るようになったのは、数カ月前のことです。玄関先でニャーニャー鳴いてました。それを見て、ウチの黒猫同盟、いや自宅警備隊が「ウ〜」とか「シャー」とか言っていたんです。
 でも、サビは全然動じることなく、また妙に人懐こい。郵便屋さんが来ても、セールスマンが来ても、とにかくスリスリしてしまうくらい。
 そのうちに、ウチの娘たちもとっても気に入り、また仲よくなりまして、いつのまにか家の中で遊ぶようになってしまったのです(って、家に入れちゃったのは親の方ですが)。
 家の中では、案外自宅警備員たちはおとなしく(まあ、自宅警備員の特徴でしょう。自分に直接害の及ばないネット上では妙に攻撃的だったりして)、いちおう小さめに「ウ〜」とか言ってみたりはしていますが、基本的にはケンカにはなりません。どちらかというと興味を持っているようです。
Uni_3746 で、サビの方はもうすっかりウチでくつろいでしまい、いつのまにか自宅警備員たちのトイレを借用、いや占拠して用を足すようになってしまったり、それこそもうすっかりまったりモードに入ってしまっています。
 実は首輪をしていたんです。それで、しつけもしっかりできていて、人の膝にはすぐに乗ってきますが、椅子やテーブルには絶対に上がりません。食べ物についても、こちらがあげるまではしっかり座って待ってますし。決して物を破壊したりしませんし、爪研ぎも決められた物でしかしません。もちろん避妊手術もしてありました。どこかのお宅でかなり可愛がられていたのでしょう。
 とにかく、これはどこかの家から迷子になったか、あるいは捨てられたかしたのだと思い、いちおうポスターを作って飼い主を探したんですけれど、誰も連絡をくれません。
Uni_3747 まあ、ホントにとってもいい猫ちゃんなので、このまま飼ってもいいんですけどね、いちおう黒猫三匹のストレスやら、猫の食費やらを考えると、そういうわけにもいかない、誰かにもらってもらおうと考えています。というか、どうも教え子にもらってもらえそうな気配です。
 実は新入りの下半身不随黒猫ミーちゃんは、私に全然懐かないんです。それに比べてこのサビは私に一番懐いてるんですよ。だからなあ、なんとなく別れは辛いのですが、ま、これ以上一緒にいるとホントに情が移っちゃうんでこのへんでお別れしましょう(涙)。
 よく言われているとおり、サビ猫や黒猫は性格がおとなしく、そして聡明です。ですから飼うにはとっても楽ですね。まさに人は、いや猫は外見では分からないということでしょうか。いやいや、人間もだいたい見た目と内面の美しさは反比例する…?
 
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2009.05.27

『ネコ好き自分の取扱書』 Chien Chat (イーストプレス)

78160000 る教室に、いわゆる「説明書シリーズ」「説明書系」と言われるたぐいの書籍が山積みになっていたので、テキトーに拾い読みしてみました。
 全部似たような装丁に似たような構成、紙面。そして似たような価格設定。しかし、出版社はみんな違っていたりして、この業界の厳しさ(すなわち、なりふり構わないプライドのなさ)が垣間見られ面白かった。
 みんな似たような感じとは言いましても、それなりに、いや、それだから、ライターやデザイナーやイラストレーターの技量の違いが明確にわかるという利点(なんの?)もあります。もちろん、同じテーマを扱っておきながら、互いに内容に矛盾があるところなんかも、まるで分裂、分派した教団の教義を見るようで楽しい。
 ま、そんなどうでもいいことを考えながら読んでる人もいないと思いますけどね。たぶん、こういう説明書系を読むのは女性が多いと思われますから、作る側はこんなオタクな男なんか、ハナっから想定していないのでしょう。
 そう言えば、オタクオヤジついでに言っておくと、こういうシリーズって、その存在自体矛盾がありますよね。だって、もともと女性って説明書、取説、マニュアルっていうのが大の苦手でしょ?ウチのカミさんなんかも、もうそういう説明書とか読む以前に見るのもいやだと申しております。
 ま、私も基本取扱説明書なんか熟読しませんけどね。男は違った意味で取説読みません。読まなくてもわかるわけです。
 そう考えると、取説って可哀想な存在ですよね。だって、いろいろと企業には責任がありますから、そうプロダクト・ライアビリティーっていうんですか、そういう面倒なこと(法律)がありますから、重箱の隅に至るまでちゃんと説明しとかないといけない。説明責任を果たしとかないと、責任逃れできませんからね。なのに誰にも読んでもらえない(一部の取説マニアを除いて)。
 話を元に戻します。我々男子は、「コト」にこだわりますので、結局他を支配するというか、コントロールすることに喜びを覚えます。車を操ったり、パソコンを改造したり。
 そうか、女性は、いわゆる製品としての「モノ」よりも、まず自分という「モノ」の取扱いに興味があるのかな。女性は他をコントロールする以前に、自分のコントロールが難しいのかもしれません。自分に興味がある、自己愛が強いとも言えますかね。母性というのも、基本は自己愛です。母親にとって、子どもは自分の分身ですから。
 で、こういうシリーズは、ほとんどが女性の興味をそそるものです(最近の草食系男子も読んでるかも)。ですから、そこんとこを突いた企画なのかもしれませんね、説明書シリーズ。普通に考えれば、他者の取扱いのために取説を熟読すると思いますけど、こういう本の読者って、ほとんどが自分にあてはまるのを読むわけでしょ?誰かの扱いに困って、その誰かの属性にあてはまる本を購入している例は少なそうです。
 そういう私もご多分にもれず、「ネコ好き」やら「AB型」やらの本をまず手に取りました。そして、読んでみました。なんだ、これら、全然説明書じゃないじゃん。説明書、取説の体を為してない。取説って、こういう時はこうしろ、ここを押すとこうなる、つまり使い方の説明のはずじゃないですか、この本たちは、そういう内容じゃなくて、スペックとか特徴(特長)とか、そういうのの羅列ですね。
 それも、けっこう「そりゃ違うよ」とか「え?そうか?」っていうのが多い。もし、電化製品の取説がこんな感じだったら、それこそ説明責任を問われちゃいますね。ま、結局この手の本は、昔からある心理テスト(エセだけど)の最新ヴァリエーションってことになりそうですね。
 文句言ってるわけじゃないですよ。面白かったから。でも、一冊15分で読み切れてしまうのに税込み1050円は高いよなあ。
 それでも、別の視点から見ると、それなりに価値があったものもありました。もちろん微妙な共感と反発、疑問という、本来の文学的意味からしましても。それが、この本でした。「ネコ好き自分の取扱書」。これはもうちゃんと「自分」って言ってるとこが良心的と言えば良心的。例によって取扱書にはほとんどなってませんが、ポエムとしては面白かった。
 独特の視点と感性と、そして文体が、読んでいてなかなか心地よかった。これを詩集と言えるかは微妙ですけど、ある種の文学性は感じられましたね。リズムの強弱、あるいは緩急が絶妙でした。そう、好きな音楽を聴いているような感覚で読めましたね。
 結局、自分は単純に猫が好きで、そして、そういう自分が好きなのでしょう。これは私に限らず、皆がそうなんだと思います。結局自分が好き。ま、それでいいんじゃないですか。
 こういったシリーズのブームがどこまで続くか分かりません。そろそろ市場には飽きが来ているように見受けられます。次はどうやって、ナルシストたちの心をくすぐるか…実は、古典の世界からずっと、文学というものは、自己愛の充足のために存在してきたのでした。他者への変身願望や、現実からの逃避願望なんてのも、単に自己愛の裏返しであるということです。
 なにかと不安な世の中、こういう時こそ、頑張れ文学界、出版業界!

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2009.05.08

「たたずまい」とは

猫は「たたずまい」の天才…「場」に溶け込む
Eyj 昨日、昨日と、本当にいろいろなことがありました。そのいろいろなことの中に、ある共通したテーマがあったような気がします。それが「たたずまい(佇まい)」です。
 オーケストラの練習では、音のたたずまいが非常に重要だと感じました。演奏全体のたたずまいというのももちろんですが、その中での自分の音のたたずまいですね。それがしっくり来るかどうか。
 阿修羅展での仏像たちの「たたずまい」。それは、私にとってはあまり好ましいものではありませんでした。では、阿修羅くんを取り巻くおばさんたちの「たたずまい」はどうだったでしょう。博物館前の巨樹の「たたずまい」は?
 デザイナーの教え子と話した時も、「たたずまい」がテーマでした。デザインされた「モノ」が醸し出す「たたずまい」。彼はそれを重視したいと言いました。
 そして、「王仁魂復活プロジェクト」。そこにもいろいろな「たたずまい」がありましたね。皆さん、素晴らしい「たたずまい」を持った方々でした。その点、私はかなり心細い…。桐の箱と、和綴じされた和紙の解説と、和紙の折り紙に包まれた王仁の言霊CDの「たたずまい」もまた、CDらしからぬ「たたずまい」を醸し出していました。
 さあ、この「たたずまい」とはなんなのでしょう。普通「様子・有様・雰囲気」などと簡単に訳されていますが、もっと深い「何か」があることを、私たちは実感しています。日本人はこの言葉大好きですからね。しかし、我々はこの「たたずまい」という言葉を、それこそ「雰囲気」的に使ってしまっています。今日は、私の専門分野からその本当の意味を考えてみたいと思います。
 まずは語源から考えましょうか。
 「たたずむ(佇む)」という言葉がありますね。おとといの阿修羅展の記事で私も使っています。「仏像は正面にたたずんで観るべきものです」と。
 「たたずまふ」は「たたずむ」という動詞の未然形に反復・継続を表す「ふ」という接尾語が付いたものです。それは間違いないでしょう。未然形の、未だ完成・固定されていないイメージを味わいましょう。
 では、「たたずむ(佇む)」の語源はどういうものでしょうか。一般には「立た住む」と捉えられることが多いようですが、「立つ」の未然形が「住む」という動詞につながるのはやや不自然です。イメージ的にも、「たたずむ」様子が「立っている」状態とは限らない感じがしますよね。
 そこで、古い使用例を調べてみますと、こんなことが見えてきます。10世紀後半の蜻蛉日記にこういう文があります。

 「だらにいとたうとう誦みつつ、礼堂にたたずむ法師ありき」
 陀羅尼(呪文)をとても尊く唱えながら、礼堂に「たたずむ」法師がいた。

 少しあとに書かれた源氏物語の末摘花には次のような例があります。

 「なにやかやと世つける筋ならで、その荒れたる簀の子にたたずままほしきなり」
 何やかやと色恋沙汰ではなくて、(ただ)あの荒れた簀子に佇んでみたいのだ。

 源氏が荒れた邸で琴を弾く常陸宮の姫君に会いたくて妄想しているシーンです。ま、結果、妄想は裏切られ、姫君は象の鼻の持ち主(末摘花)だったわけですが(笑)。
 この二つの例から何がわかるのでしょうか。そう、実は両者とも「場所」「ロケーション」が重要になっているんです。「礼堂」「荒れたる簀の子」ですね。そんなこと当たり前じゃないかって?そう当たり前ですが、ちょっと待ってください。次に行きます
 次に「たたずまふ」の古い例を確認してみましょう。源氏と同時期の枕草子「正月一日」から。

 「われはと思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、奥の方にたたずまふを」
 自分こそが思っている女房が、のぞきながら気合いを入れて、(部屋の)奥の方にたたずんでいるのを。

 男根の形をした棒(粥杖)で、新婦のお尻をたたくという楽しく土俗的な遊び(まじない)をしようとするシーンですね。ここでも「奥」というロケーションと「隠れている」という行為の関係が肝心です。
 続いて、「たたずまひ」という名詞形の古い例。

 平安初期の東大寺諷誦文の例です。これは古い。9世紀前半。

 「経行(たたずまひ)も吉く遠見も怜(おもしろし)」

 実はこれが重要な例なんです。「経行」という字を当てているところが大切。「経」は「たて(縦)」という意味です。「たて」「たた」は「ただ」とも語源的につながっています。「経」と同じ意味を表す「径」を「ただ」と読む例もあります。「ただ」の意味は「直」「只」「唯」という字で考えると解りやすい。「ストレート」「ダイレクト」「オンリー」「ピュア」というイメージですね。不純物や障害物がなく、直接何かと何かがつながっている感じです。
 つまりですね、「たたずむ」というのは、その「場」に相応しい状態でそこにしばらくいる、「場」の空気と一体になって存在する、そこに「しっくりはまる」という感じなんですね。ですから、その反復形の名詞形「たたずまい(たたずまひ)」の意味は、もうお分かりになると思います。
 何かの「たたずまい」と言った場合、実は単にその「何か」が雰囲気を発しているのではなくて、つまり、その「何か」が主体ではなくて、あくまでその「何か」を取り巻く「場」が主体なのです。楽器の音もそう、阿修羅もそう、デザインもそう、CDケースもそう、王仁魂の方々もそうです。「醸し出す」とは言っても、単にそれ自体がアウラを発しているのではない。あくまで全体の空気感なのです。
 その「場」というものには、もちろんいろいろな要素があります。物理的な空間としての「場」だけでなく、歴史の堆積としての「場」、そこに存在する物や者たちのアンサンブルが醸す「場」、そして、人の気持ちが創る「場」。そういう複層的、相互依存的な「場」の中で、その一つの要素たる「何か」に注目した時にですね、その「何か」がちゃんと「場」の創出に機能しているかどうか、それこそがそのモノの「たたずまい」ということになりそうです。ちゃんと正しい役割を果たしているかどうかなんです。
 古い例をもっと見てみると、だんだん自然物、たとえば山や雲などに「たたずまひ」を使うようになっていきます。自然物は自然にその役割を果たしている、自らの分をわきまえ、正しく他に活かされ、他を活かしているということでしょうかね。
 こう考えてくると、この言語化、数値化、あるいは英語化できそうにない「たたずまい」という言葉を、日本人が好んで使う意味も分かってきますね。
 「たたずまい」。早く身につけたいものです。

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2009.03.12

無礼猫(なめねこ)

1 半世紀ぶりにリバイバルし、暴走族撲滅キャンペーンのポスターにまで使われるようになった「なめ猫」。
 考えてみれば、今どき、こんな格好してる人間はいませんね。でも、25年前は実際にツッパリ、スケバンはたくさんいたわけでして、そう、私が高校の教師になりたての頃は、剃り込みやアイロンパーマ、丈の長すぎるスカートの指導なんかに追われてましたっけ。
 そういうある意味で硬派な人間たちを、とってもカワイイ子猫ちゃんたちが模倣したことにより、本体の方の威厳というか、とんがったエネルギーのようなものが、すっかり削がれてしまったような気がしますね。
 ということは、実際にあの頃のなめ猫たちは、暴走族撲滅に役立ったのかもしれません。なめ猫以降、たしかにトーンダウンしましたからね。そして、今や暴走族は高齢化が進み、絶滅危惧種、保存対象にまでなっています。
 そういう中で、2006年のこのポスターというのは、実に効果的だったと思います。たぶん。25年前にこの猫たちにパワーを削がれた今40代の元暴走族のおじさんたち、このタイミングで再び自らの過去を戯画化され、子どもたちに武勇伝を語っても、「お父さん、なめ猫みたいなことやってたの?」と言われてしまう。今や、どっちが本体かわからなくなってしまっているのではないでしょうか。
 ところで、この前、生徒と古文の勉強をしてて話題になったんですけど、この「なめんなよ」の「なめる」、皆さんはどういう語源があると思いますか。
 一般には、「なめる」は「舐める・嘗める」で、いわば舌で何かをペロッとすることだと思いますよね。たしかに、「なめんなよ」と言われ、「おめえみたいなクソ舐めるわけねえだろ!このボケ!」と答えるなんてこともありました。
 「なめんなよ」を英訳すると「Don't Pelorian!」だそうで、ま、これはもちろん造語でありますが、基本「なめんなよ」の「なめる」は「舐める・嘗める」であるという意識が働いていることがわかります。
 で、実際のところはですね、「なめんなよ」の「なめる」は「舐める・嘗める」ではないようなのです。
 古語で「なめし」というのがあるのを御存知ですか。古文単語としてはけっこう重要な方ですので、なんとなく記憶に残っているという方も多いのではないでしょうか。日国で調べてみましょう。

 「なめ・し」(形ク)相手を軽んじたり、あなどったりして、無礼であるさま。失礼であるさま。

*書紀〔720〕継体二三年四月(前田本訓)「何の故か二の国の王、躬ら来集ひて天皇の勅を受けずして軽(ナメク)使を遣せる」
*続日本紀‐天平宝字八年〔764〕一〇月九日・宣命「礼無くして従はず奈売久(ナメク)在らむ人をば」
*万葉〔8C後〕六・九六六「大和道は雲隠りたり然れども吾が振る袖を無礼(なめし)と思ふな〈児嶋〉」
*枕〔10C終〕二六二・文ことばなめき人こそ「文ことばなめき人こそいとにくけれ」
*源氏〔1001〜14頃〕桐壺「なめしとおぼさでらうたくし給へ」
*栄花〔1028〜92頃〕かがやく藤壺「の給はせけるしもぞ、中々げになめう覚し召しけりなど、人々思ひける」

 日本書紀の例は、「軽」という漢字を「なめく」と誰かが訓じたわけですね。ですから、「なめく」と読むとは限りません。続日本紀の方は、万葉仮名表記なので明らかに「なめく」という言葉です。前に「礼無くして従はず」とありますので、まさに無礼で言うことを聞かないというイメージの語だったのでしょう。
 で、この「なめし」の語幹「なめ」に、動詞を作る語尾の「る」がついて、「なめる」という語になったという説があります。これはどうなんでしょうね。私の記憶では、古くは形容詞の動詞化の際用いられる語尾は「む」が圧倒的に多いような気がします。「いたし」→「いたむ」、「かなし」→「かなしむ」のように。「る」が動詞化の語尾になったのは、比較的最近なのではないでしょうか。現代語においては、「る」による名詞の動詞化が盛んに行われていますね。「事故る」「サボる」「告る」「メタボる」などなど。「ダブる」とか「トラブる」なんかは、原語の語尾の「ル」をそのまま使っていて面白いですね。
 「なめし」が動詞化した「なめる」と思われる例としては、これが一番古いようです。江戸時代ですね。案外新しい。

*歌舞伎・貢曾我富士着綿〔1793〕二幕「嬲(なぶ)るのぢゃない、なめりたいわい」

 ただ、これは「なめたい」ではなく、「なめりたい」と言ってますので、下二段ではなく四段活用のようです。そうすると、「なめんなよ」の「なめる」とはちょっと違うような気もしますね。はっきり申してよくわかりません。語感としては、どっちかというと「滑(なめ)る」に近いような…。
 いずれにせよ、「なめんなよ」の「なめる」は、無礼の意味の「なめし」と、ペロッと舐める感じとが合体して出来た比較的新しい語だということですね。
 というわけで、結局何が言いたいかというと、「なめねこ」に漢字を当てると「無礼猫」になるって、ただそれだけのことでした。

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2009.01.11

『こねこ〜旅するチグラーシャ〜』 イワン・ポポフ監督作品

Котёнок
Koneko 句なしの名作猫映画!だいたい猫の映像作品は痛いものが多いのですが、これは別格。素晴らしすぎです。
 昨日、今日とBS11で放映されていました。私は7年くらい前でしょうか、秋田のディスカウントショップで500円で売っていたVHSビデオを買ったんです。それで初めて観まして、その時も本当に感動しました。猫の可愛さ、素晴らしさも当然だったんですけど、なにしろロシア映画のあの雰囲気ですね、あれが良くてものすごく切なくなったのを覚えています。その時、ちょうど秋田は冬でして、なんとなくあの雪景色というか、あの重たい曇り空というか、そういう雰囲気も手伝ったのかもしれませんが。
 その500円の格安ビデオを買った時は、どうせ子猫がたくさん出てくるイメージビデオだと思ったんです。現代(ソ連崩壊後の)ロシア映画なんて観たことなかったし、なにしろディスカウントショップで500円ですから。そしたら、まあなんとも素晴らしい映画ではないですか。思わず見入ってしまったんです。
 でも、今日久々に観ましてね、ちょっと意外だったのは、案外明るいイメージだったということです。実はそのVHSの映像は妙に暗くて、ああ、ロシア映画ってこんな感じなのかな、なんかあまりに映像が暗くて何が起きてるか分からないシーンがたくさんあって、これは独特の表現だな、なんて思ってたんですけど、あれは単に商品化の際の映像調整に失敗してたんですね、きっと。
 あと、そのビデオは吹き替えではなくて、字幕でした。ロシアの役者さんたちの淡々としたセリフ回しもきっとそういう雰囲気を醸すのを手伝っていたのかもしれません。吹き替えは普通に日本人風に明るい感じですので。
 それにしても、この映画に出てくる猫たちの個性的なキャラクターとその演技、本当にいいですね。単にカワイイだけではありません。自然に、しかし雄弁に猫の魅力を語り尽くしています。猫好きにはもちろん、そうでない人の心にも、さすがに響くと思いますよ。
Koneko1 主役(?)の子猫チグラーシャ(タイガー…トラちゃんってことですかね)、ワーシャ、ジンジン、シャフ、イザウラ、プショーク、ペルシーク…本当に素晴らしい演技です。なぜ猫がここまで演技できるか。それは、この猫たちが、人間の主役フェージンを演じるアンドレイ・クズネツォフと絶対的な信頼関係で結ばれ、そして見事にトレーニングされているからです。
 というのは、このクズネツォフは実世界において、世界的に有名な猫のサーカス劇場を主催する人。世界一のネコ使いとして有名な方です。このサーカス団、何度か日本にも来てますよね、たしか。ぜひ一度生で観たいものです。
 で、このクズネツォフさんが役者としてまた最高です。淡々と、しかし実に味わい深く、ちょっと切ない役を見事に演じています。おそらくご本人そのままのキャラクターだと思います。猫たちに対する温かい愛情はもちろん、売店のお姉さんへのほのかな恋情など(実は、私はそこに感動というか、切なくやるせなくなったんですが)、本当に心に残る演技をしています。
 1996年に製作されたこの映画では、ソ連崩壊後のロシアが次第に変化していく、そんな様子も街の風景から少し読み取れます。少しずつですが西欧諸国、あるいはアメリカの文化が流入し、それまでの伝統が崩れていったのでしょうか。
 低予算で作られたからでしょうか、決して派手さはありませんが、それがまた我々西側の映画に親しんだ者には新鮮に映りますね。ちなみに子猫の帰りを待つ姉弟役はポポフ監督の実の子どもさんだそうです。
 全編を通じて流れるマルク・ミンコフの音楽が郷愁を誘い、これまた実によろしい。短調の中に温かさを表現しています。温かさ、愛情の裏側にある切なさ、それは「もののあはれ」だと思いますが、それが音楽にも表れていますね。ショパンに通ずるものを感じたのは私だけではないでしょう。そして、ちょっとひょうきんなお父さんが演奏するヴィヴァルディのフルート協奏曲「夜」がまたそれらとよきコントラストをなしています。お見事な選曲。
 ところで、この映画、外国作品としては珍しく、文部科学省選定映画となっています(ついでに財団法人日本動物愛護協会推薦にも)。でも、よく観ていると、猫たちによる詐欺、家宅侵入、暴力、窃盗、器物損壊など犯罪行為満載ですね(笑)。

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2008.12.11

『プニッとやみつき にゃウンド肉球』 (エポック社)

Img55610402 んだかとんでもなく忙しいので、今日は非常に軽めに行きます。今、とってもほしいものです。
 ウチには黒猫が3匹おりますので、都合12個(?)のリアル肉球があるわけですが、それらはそんなにしょっちゅうプニプニするわけにもいきませんし、外に持ち歩くわけにはいきませんよね。でも、携帯できるなら携帯して、そして癒されたい…
 そんな時、とっても重宝しそうなのがコレです。
 まあ、これはいわゆる「萌え」の対象というわけですね。で、私の「萌え」の定義は「國文學」に書きましたように、基本「所有欲」でありますからして、このような製品が生まれ、そして人気を博すというのはごもっともなことであります。
 なんでも、こだわりの素材&設計により、非常にリアルに肉球感を出しているとのこと。肉球部分はTPE(熱可塑性エラストマー)を使用し、周辺の短毛の生えた部分は同社がシルバニアシリーズで培ったフロッキー加工を施しているとか。
 そこまでこだわるなら、押した時の猫の鳴き声とやらもリアル猫の鳴き声をサンプリングしたものかと言いますと、なぜかそこはヴァーチャルというかフィクショナルでして、あの初音ミクの声優さん、リアル藤田咲さん(?)の声をサンプリングしたものだそうです。
 ま、そのへんが、絶妙なさじ加減ということでしょうかね。完全なリアルを目指すと、逆にリアル感に欠けるというパラドックスが生じるんです。リアル感、特に愛すべきものへのリアル感というのは、その当事者の主観によって形成されるものなので、人それぞれの萌えスポットはどんどん狭まってしまい、ちょっと的が外れただけで、非萌え(萎え)になってしまう。ですから、わざと、リアリズムから距離感を保って、万人がある程度満足する作品を提供するというのは得策です。
 日本ではそういう、西洋的なものとは違った、別のリアリズムが発達しました。皆さん御存知の通りです。それが例えば西洋で印象派を生むきっかけになったりしましたね。つまり、人それぞれのこだわりや愛情の部分を、逆説的に利用して、妄想的、想像的にフィクションのすき間を埋めるという方法です。フィクションからリアルを喚起させる。これは昨日の「能」なんかにも言えます。もちろんプロレスにも。
 おっと、また理屈っぽくなってしまった。そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、これが今ほしいのです。で、この「ほしい」、「こちらに招きたい」、「所有したい」というのが「萌え(=をかし)」であると、私は実感的にも日本語学的にも文化史的にも信じているわけであります。
2 そうだなあ、一番ほしいのは、やっぱり黒猫飼いとしてのこだわりで、黒猫の黒肉球バージョンでしょうか。
 ちなみに、ガチャガチャに入っているのはフロッキー加工をしていない廉価版ということです。

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