カテゴリー「ニュース」の294件の記事

2012.01.28

山梨県東部・富士五湖地方で震度5弱

Large すがにビックリしました。しかし、直下型だな(震源近いな)とは思いつつ、いわゆる富士山直下(すなわち我が家直下)の揺れ方ではなかったので、それほど心配はしませんでした。
 たまたまパソコンの前に座っていたので、揺れている最中からツイッターで分析・解説してしまいました(笑)。気象庁なんか1時間もかかった上に大したこと言わないし。
 以下ワタクシのツイートでこの地震について復習してみましょう。

・おっと直下型だ。
・富士山ではないか。道志かな。
・でかい。
・物が倒れた。
・余震が続くな。@富士山
・道志川より東のような気もするな。
・また揺れた。
・富士山直下ではありません。
・やっぱり道志川断層だな。よくある地震だ。
・忍野村は地盤が弱いのでよく揺れます。昔、湖底だったから。
・正直兆候はなかったなあ。ちなみに富士山は平穏です。今朝のラドン濃度も13ベクレル。
・あと数回有感余震がありますが、これはこれで収束します。
・また揺れてるな。あえて言えば昨夜強烈な頭痛に襲われた。インフルエンザかと思った。今は治ったから体感だったのかもしれない。自分でもよくわからんが。
・富士山とは直接関係のない断層帯であることはたしかです。東部富士五湖って言われると知らない人は心配するよな。
・下の娘は3回目のでようやく起きたww
・まあたしかにこれだけ連発するのは珍しいかな。広い意味での3.11の余震(誘発地震)だろう。この辺もあの大地震で10センチ以上東に動いたわけだから、活断層に影響があるのは当たり前。

 このあと、我が家は富士山から逃げるように東京へ向かいました。私は半蔵門でコンサートの練習。カミさんと娘たちは東方グッズを買うために秋葉原へ(笑)。
 いや、富士山から逃げる気は全然なかったんです。逆にそれだけ緊張感や切迫感がないということです。本当に逃げるなら、猫たちを連れて行きます。
 結局、予想通り小規模の余震を重ねつつ収束に向かっていますね。
 さて、今回の地震の前兆については最後に記載します。まずは解説。
 今回の地震は、このあたりでは最も活発な地震の巣で起きました。10〜20年に1度M5クラスが発生する地域です。いわゆる道志川断層帯。私の記憶に鮮明なのは、あれは1996年の春だと思いますけど、やはり震度5がありました。あの頃はまだ独身でボロアパートでとんでもなく荒んだ生活をしていました。もともと被災したような部屋だったので被害の詳細は不明でしたが(笑)、いろいろ物が飛び散った記憶があります。
 それから都留の大学に入学した1988年の夏休み。M6が起きています。帰省後下宿に帰ったら、やはり物が散乱していましたっけ。
 その後も震度4以下の地震は多発していましたので、その揺れ方の特徴なども体に染みついています。だから、すぐに「道志かな」と判断できたのでしょう。我ながらすごいな(笑)。
 いつも書いているとおり、このあたりは、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートの交合点です。力学的に言えば、太平洋プレートの影響も大きいので、4枚の板が押し合いへし合いしている世界的にも特殊な地域と言えます。だから富士山という素晴らしい山が出来ちゃったんですよね。
 特に道志から丹沢にかけてはフィリピン海プレートの北端ということで、当然地震活動が盛んになります。
 ちなみに伊豆半島はですね、フィリピン海プレートに乗っかってどんぶらこドンブラコと南から流れてきた島でして、ただ火山活動が盛んだったからでしょうか、ちょっと比重が軽くてですね、北米プレートの下に潜り込めなかった。それでドカンとぶつかって半島になったのです。ぶつかった時のしわ寄せが箱根です。
 ですから、道志あたりは、伊豆半島の下の方の重い岩盤が表面から分離して潜り込んでいると言えるわけです。すごいスケールの話ですね。
 そういうスケールで言うと富士山と全く関係がないとは言えないわけですが、現実的には直接富士山の噴火に結びつく地震ではありません。ツイートしたように「東部・富士五湖地方」と言うと地元の人でも「えっ?富士山大丈夫?」と思ってしまいますよね。
 今回の地震で少し意外だったのは、大きな前震があったということです。最初のM5.0が本震だと思いました。ですからその後のM5.4は想定外でした。
 これはちょうど昨年の3.9と3.11の関係に近いのではないでしょうか。本震の震源に隣接する地域で比較的大きな前震が起きうるということを再確認。逆に言えば、どんな地震でも、続いてそれ以上大きな地震か起きることを想定して行動しなければならないということです。
 さてさて、ツイートの中では「前兆がなかった」と書いてしまいましたが、それは得意の地震雲や体感についてことであって、実はある意味科学的なデータを私自身が持っていました。それは大気中のラドン濃度です。
 昨年11月に測定機器を購入し計測を始めたラドン濃度。実は今月15日をピークに異常値が現れていたんです。その後急速に数値が低下、そして発震。典型的な前兆パターンです。それを栃木の研究者様が解析しまとめてくださったので、ぜひこちらでご覧ください。1月28日夜の臨時日報です。
 ボランティア観測網に参加しはじめて1ヶ月ほどで、このような成果をあげることができて良かったと思います。今後もラドン濃度の動向に注目していきたいと思います。
 体感と言えば、昨夜すごい頭痛に襲われたんですよね。インフルエンザかと思ったんです。朝には治っていましたから、もしかすると予感していたのかもしれません。このへんも科学とは別の次元で記録と検証が必要ですね。
 というわけで、このたびの地震は順調に収束していくでしょう。ただ、これから数十年にわたって活発な地震・火山活動期は続くと思いますので、富士山の噴火も含めて、もちろんしっかり想定に入れつつ、自然の声に耳を傾けていきたいと思います。
 特にここ富士山は日本の霊的丹田です。4枚のプレートの力を集中しているという意味では、科学的にもヘソに当たるでしょう。ここでしか分からないことがあると思います。私はそれをしっかり感じ取り、皆様に伝えていければと思っています。

 追記 これを機にラドン濃度の測定値を毎日朝晩2回ツイッターで公表します。よろしかったらフォローどうぞ(左上の黒猫の足元に入り口があります)。

 30日追記 すっかり地震活動が収束しました。富士山もいつもどおりです。もし心配があるとすれば、道志川断層群の南側にあたる、神縄・国府津-松田断層帯ですね。あそこはM7以上の地震を起こすパワーを持っています。もちろん、東側の立川断層なども同様に活性化している可能性があります。いずれにせよ、東日本を中心にかなり歪みがたまっている(すなわち今までのストレスを解放するきっかけが増えている)状態ですから、いつでもどこでも注意が必要でしょう。

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2012.01.26

秋入学?

201201192216066fb 大がいきなりぶち上げた「秋入学」構想。野田首相も賛意を表したとの報道がありました。早慶も基本的に同調する姿勢を見せました。
 正直全く理解できません。あえて「全く」と言いましょう。あえて売国行為だ!と言いましょう。あえて極論を述べさせていただきましょう。
 国の最高学府の頂点に立つべき東京大学がこういうことを言い始めたら、もうおしまいですよ。本当に頭がいい人たちというのは困ります。
 そこまでして優秀な留学生がほしいのでしょうか。外国人に頼らなければ東大の復権はありえないのでしょうか。誰のための国立大学なのでしょうか。
 外に頼る前に中身をなんとかしようと考えないのでしょうか。いや、もちろん考えているとは思いますが、それをなんで先にアピールしないのでしょうか。がっかりです。
 たしかに日本の受験文化は特殊であり、国際化とは正反対の価値観にあるとも言えます。
 前も書きましたとおり、この極寒の季節に人生を決する入試を行うのは、たしかに変なことです。どう考えてもおかしい。
 センター試験に雪の影響があること一つとっても、絶対に地域による不平等が生じていますよね。インフルエンザが猛威をふるう最盛期でもあります。もっといい季節に最高の条件で受験させるべきです。
 しかし、しかし、それが崩れなかった理由には、とっても根深い文化的な側面があります。
 厳しい冬を乗り越えて、そして春の萌す頃に合格が決まり、桜咲く頃に入学する。まさに人生の縮図のような体験をするのが、日本文化としての受験です。
 それがたしかに国際的な価値観からするとナンセンスだというのも十分理解できますけれども、やはり日本人が、理論や理屈や科学的見地や経済性をも無視してきた「文化」には、それなりの意味、言葉にはできないかもしれないけれども、もっと深いところでの意義があったのだと信じます。それをいとも簡単に崩すのはどうかと。
 いや、それ以前に、このたびは入試の季節は変えずに入学だけ秋にするところから始めようとしていますよね。それ自体とっても不自然なことです。人生の重要な半年間をどうするんですか。今挙げれられているようなアイデアのためだったら、とんでもないムダな中途半端な期間となってしまいます。最近増えている推薦入試やAO入試で合格してしまうと約1年無駄になりますよ。
 最終的には全てが欧米流になって、秋入学、秋入試、秋卒業、秋入社のようになれば良いと考えているのかもしれませんが、たとえそうだとしても、あまりに自己中心的というか、独善的というか、唐突というか…。
 そうして論議を巻き起こそうとしているというのも分かりますがね。しかし、もう少し「頭の良い」アピールの仕方というのがあるでしょう。がっかりしました。そこに私学の雄や首相までも迎合するこの国の情けなさたるや。
 秋入学文化への社会全体への移行ということになれば、これは国家の大計とすべき重要問題です。一大学の思いつきのような発言に惑わされることなく、国民全体で本質的な論議をしなければなりません。
 個人的に私は「国際化」のブームは去ったと思っています。グローバリゼーションという名の「顔の見えない」専制、中央集権化が進めば進むほど、再び「顔の見える」ローカルの時代が来ると予感しています。
 そういう時代を迎えるからこそ、今は私たちは自国のアイデンティティを守るべきだと考えています。
 時代遅れ、頭の硬い保守と言われようとかまいません。実際には時代の先の先を読み、柔軟に発想していると自負しているからです。


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2012.01.19

追悼 グスタフ・レオンハルト…映画『Chronik der Anna Magdalena Bach』

 の音楽人生に多大な影響を与えた「神」、グスタフ・レオンハルトさんがお亡くなりになりました。本当に残念です。
 彼の多くのレコードによって古楽に目覚めた私が、衝撃を受け大興奮をした映画を、久し振りに観賞して、冥福を祈りたいと思います。
 この映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 (公開時「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」)」を観たのは、たぶん1984年くらいだったと思います。どこでどういうメディアで観たのか記憶はないのですが、その感動は今でも忘れません。誰かにビデオを見せてもらったのかなあ。それとも劇場で観たのかなあ。
 いずれにせよ、あまり古楽器演奏の映像に触れる機会のなかった当時としては、非常に刺激的で貴重な体験であったと思います。
 ただの古楽演奏記録映画ではないですからね。バッハのクロニクルであり、現代の名演奏家たちがバロック時代の楽器、舞台、そして扮装で、往時を忠実に再現しているのです。もちろん主人公バッハは油の乗り切ったレオンハルトが演じています。
 もちろん、現代の古楽演奏に比べれば、この映画が製作された1967年当時の演奏は、ある意味精度が低かったり、ある種の間違いもあったりするわけですが、なぜか今どきの演奏よりも感動を催すんですよね。なんなんでしょうか。
 きっと、そこに「発見」の喜びや興奮があったからでしょう。先駆者たちのエネルギーに満ちていると思います。
 マニアックな映画ファンには、ストローブ&ユイレの監督作品としてもたまらない魅力がありますね。ある意味斬新というか、久々に観ると、このスタイルでこの感動的な作品を作ってしまうのだから、おそるべしです。結局はバッハの音楽を「映画」が邪魔していないということでしょうかね。これって大変なことです。
 この映画に刺激され、この頃から私はグレゴリオ音楽院でアンサンブルを習い、都留音楽祭でスタッフを務めるようになり、どんどん人脈が広がり、そして今に至っています。
 この映画で演奏されている曲もずいぶんと自ら演奏する機会を得ました。そして、3月にはとうとうマタイ受難曲をオリジナル楽器で演奏します。こんな日が来ようとは…夢のようですね。
 これも本当にグスタフ・レオンハルトさんのおかげです。ありがとう心の師匠。安らかにお眠り下さい。そして、天国でもバッハを演奏し続けて下さい。

Amazon アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 (公開題「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」

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2012.01.12

藤巻亮太 『光をあつめて』

 日は宮中で歌会始の儀が行なわれました。それにちなんで、本校でも冬休みの宿題で作った短歌でプチ歌会を開きました。
 中学生は初めて短歌を作るので、お題はなしですが、「比喩表現を使う」ということだけは条件としました。
 結果としてなかなか立派な秀歌がそろい、先生たちもビックリ。私自身も、芸術にとっての比喩の重要さを再認識しました。
 あと、面白かったのは、やはり歌の内容が「もののあはれ」になるということですね。つまり、「時間」にまつわるものが多いということです。
 特にそういう指導や鑑賞をしたわけではなかったので、彼らは日本人としての自然の感性で、そのような歌を作ったのでしょう。あるいは「比喩」と「時間」の関係というのもあるかもしれません。
 いずれにせよ、「もののあはれ」=「(時の流れに代表される)不随意に対する嘆息」こそが、日本人にとっての最重要テーマだと痛感しましたね。教え、教わらなくとも、これは我々の遺伝子に受け継がれているものなのですね。
 さて、今日はレミオロメンの藤巻亮太くんの誕生日であり、また、彼の初ソロシングル「光をあつめて」の先行配信の日でありました。
 彼がバンドを離れてソロ活動を開始するということに対しては、私もまあいろいろな思いがあります。それこそ「もののあはれ」ですね。時の流れと、全てのモノの変化の一部と考えれば、別に残念に思う必要はありません。
 「もののあはれ」とはここに明記したように、決して本居宣長の言うようなボンヤリしたものでもジメジメしたものでもありません。ただ「想定外」「不随意」なだけであって、プラスの変化という側面もあるのです。
 そう、この曲の歌詞にもあるとおり、「時の無常の中に花が咲く」こともあるのです。
 生徒たちの「歌」の中には、そういうプラスの「もののあはれ」が満ちあふれていました。つまり、無常、変化というのは、破壊であると同時に再生、成長の物語の源泉でもあるわけです。
 藤巻くんの変化については、私は、まあなんとなくではありますが理解できるところもあるんですよね。あの3人の中では、唯一彼だけが持っているメンタリティーというか、スピリットがあるなと思っていたんです。
 これはある種の宗教性とも言えます。彼の遺伝子にはそういうモノが実際ありますし。私も半分そういう世界で生きていますから、彼の詩やメロディーや声や行動から、そういうモノを感じ取ってきたわけです。
 これは誤解されたくはないのですが、そのどちらが上とか下とかではなくて、とにかく違う次元で生活している人とは、なかなか「仕事」ができないのも事実です。
 誤解しないでくださいよ。ものすごく分かりやすく言ってしまえば、これは「趣味」の問題です。魂の趣味の問題なんです。それを偽って仕事をすることに疲れてしまうことは、実は誰にでもあることではないでしょうか。
 彼がここに至るまでには、いくつかのきっかけがあったと思います。バンドが10年続いてきたというのももちろん最大の理由でしょう。どんな仕事でも10年目はマンネリや商業化の完成期ですから。
 それから、こちらで紹介した「Your Song」にまつわる体験、すなわち志村正彦くんの存在と不在というのも絶対に影響していると思います。
 志村くんは、ある意味アルバム「CHRONICLE」において、バンド内ソロ活動をしてしまったのだと思います。彼が命を賭してそれをやった。藤巻くんはそれを聞き込んだんです。
 そして、その後、あの震災や原発事故がありました。これらの外的な体験、すなわち想定していなかった外からの力こそが、藤巻くんにとっての「もののあはれ」そのものであったのでしょう。
 レミオロメンはフジファブリックと違って、メンバー間の距離が非常に近い。それはそうです。幼なじみバンドなのですから。その良さと弊害という両面は当然ありますよね。藤巻くんは、バンド内ソロ活動はとてもできなかったのでしょう。
 それにしても、フジファブリックはそのフロントマンを突然失ってもバンドは活動を続け、新しい世界を切り拓きつつあり、レミオロメンはそのフロントマンがソロとしてデビューする形でバンド活動は一旦休止…とは、まさに「もののあはれ」ですね。
 そう考えると、世界の長老バンドやBUMP OF CHICKENはすごいな。逆に心配なほどです。誰かがとんでもない我慢をしてるんじゃないかと(笑)。
 さて、楽曲「光をあつめて」ですが、たしかに見事な、躊躇のない藤巻節が展開していますね。素直にいい曲だと思います。単なる幸せの共有という次元を超えたメッセージがこめられていますね。
 ピアノが小林武史さん。結局藤巻くんのスピリッチュアルな部分を理解し支えられるのは、コバタケだったということでしょうか。きれいなピアノを聴かせてくれています。ドラムがあらきゆうこさんというのはやや意外でした。オサのドラムよりも男らしい(決然としている)気が(笑)。ベースは元Syrup16gのキタダマキさん。前田くんとはずいぶんと違ういい味を出していますよ。
 たしかにこうして違うメンバーの音の上に乗る藤巻くんの声というのは、新鮮というか、こちらにも想定外の発見があるというか、とにかくこのソロプロジェクトの始動を純粋に喜びたいと思いました。
 これに伴って、治くんと前田くんもどんな活動をしていくのか、それも楽しみですね。そして、進化した3人が再び音楽を奏でる日に期待したいと思います。

Amazon 光をあつめて

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2012.01.10

「コピー教」に思う…

Copy and Seed.
Kopimi_nietzche_zarathustra_2 日、こんなニュース(ネタ)を見つけて、しばし考え込んでしまいました。

 「ファイルコピーを神聖な行為だとする「コピー教」がスウェーデン公認宗教に

 これは笑い話のようですが、案外鋭いことを指摘しているのではないかと感じます。
 もちろん、「過剰な著作権保護は文化を衰退させる」というまっとうな意味でも鋭いと思いますよ。
 たとえば最近こんなことがありました。
 年末年始に静岡の実家に帰っておりました時、どうしても録画したい番組を見つけたんですね。で、父親に頼んでハードディスクレコーダーで録画してもらい、DVDに焼いてもらいました。
 父所有のレコーダーは、いわゆるコピーワンス時代のものでして、DVDにムーブすると本体からはデータが消えてしまうわ、当然VRモードなのでMacでは認識すらされないわ、バックアップを取ろうとしても一筋縄では行かないわ、学校で見せようとしたらプレーヤーが対応していないわ、まあいいことなんて一つもありませんでした(その辺の事情については、こちらの記事に詳しい)。
 実際のところ、こうした著作権保護のテクノロジーによって、従来認められていた教育の機会が奪われつつあります。このように、文化の創造と伝承の基礎機関である学校が大きなダメージを受けているのを見ても、「コピー教」の主張することは間違いではないとも言えましょう。
 まあ、それを「宗教」にするというのもどうかと思いますけど…しかし、考えてみると、「宗教」や「教育」という、いわゆる「啓蒙」という行為が正当化されている世界は、ある意味「コピー」の大量生産だとも言えますよね。つまり、私のやっている仕事も「コピー」であるとも言えるわけです。
M だいたいが、我々生物の根源的な仕事は、遺伝子をコピーし続けることであり、そういう意味でも、もしかすると、これは宗教としてふさわしいのかもしれない、なんて思われてくるわけです。
 ちなみに、私の「モノ・コト教」(笑)によりますと、コピーは「コト」の権化です。転変し無常である「モノ」世界に対抗する、生命の「意志」です。自然の法則(エントロピー増大則)に対するはかない抵抗です。
 で、私は「コトよりモノの時代」ということをさかんに言っておりますから、ある意味アンチコピー教ということにもなりますよね。「モノのあはれ」です。ま、それはお釈迦様の教え、仏教に近くなるわけですけれども。
 本来ですね、私たちが「神」だとか「仏」だと認識する実在というのは、そうした人知の及ばないモノであったわけで、その、私たちの「コト」の達し得ない「モノ」を一段高いステージに置いて、それでもって、ある種の「絶対性(コト性)」を持たせたものなんですね(だから日本では「ミコト」と言う)。
 ちょっと複雜になりますが、そんなわけで、私の教義(?)は「コトを窮めてモノに至る」なのであります(誰も理解してくださりませんが…苦笑)。
 おっと、自分の話はいいとして、ええと、あと「コピー」で気になるのはですね、前もどこかで書きましたでしょうか、「情報」がどんどんコピーされてですね、世の中に充満してくるとどうなるのかということです。
 つまり、いわゆる物(物質)はどんどん増えるということはないわけじゃないですか。人間が作り出した物(製品)はどんどん地球を埋め尽くしていきますが、その代わりにたとえば石油は枯渇していく。
 基本、モノ世界はエネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則で出来ているわけです。
 しかし、コト世界はどうなんでしょう。情報はエネルギーを持っていないのでしょうか。あるいはエネルギーを生み出したりしないのでしょうか。
 もし、エネルギーを持つとしたら、それが大量に生産され、あるいはコピーされていったら、どうなるのでしょうか。その辺について、実は誰も言及していないような気がするのです。
 先ほど書いたように、モノ世界の法則に対抗するのがコト(情報・データ・思念)世界だとしたら、今後起こることは、私たちが「科学」では知り得ないものになりますよね。なぜなら、科学では、情報もデータも思念も最終的には物理的な現象としてしかとらえられないからです。
 DVDをコピーすれば、メディアとしての円盤はどんどん増えていきます。これは物理的な世界での話です。では、そこに記録されている情報自体は無限に増やすことができるのか、あるいは先ほどの製品と原料の話のように、どこかで消えていく情報というのがあるのでしょうか。
 これだけ人間が増えているわけですから、何億年前よりも人間が認知する情報はどんどん増えています。一方で何かが減っているということを予感することもできるのですが、ではそれは具体的になんなのかというと、よく分かりません。
 このように、コト世界は結局のところモノ世界に、意識は無意識に、想定は想定外に、知は不可知に収斂していくので、この私の問い(悩み)は永遠に解決されないのかもしれませんね。
 それをこうして文字(言語)としてコト化している私自身、いったい何モノなのか…これは「宗教」の世界、霊的な世界、補集合の世界になっていきますね。
 う〜ん、気になる。だから私は出口王仁三郎や仏教の遺した情報に興味があるんだろうなあ。彼とお釈迦様は知っていたような気がするんですよね。彼らこそコトを窮めてモノに至ったと。
 いっそのこと、生きている限り、仕事でもプライベートでもコピーし続けて、その結果を確かめるしかないのか。あるいは「死」によって全てが「無」、いや「空」に還るのか。
 そうか、スティーブ・ジョブズも分かっていたのかもしれないな。

コピー教公式
 


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2012.01.07

利益…「りやく」と「りえき」

Er 「NHKのアナ、ご利益をゴリエキと読みやがったww」
 思わずツイッターでつぶやいてしまった(苦笑してしまった)ローカルニュースでの誤読。ついでですから、ちょっと調べてみました。
 そう、「利益」は「りやく」と「りえき」の二つの読みがあるわけですが、この「りやく」と「りえき」って、同じ漢字なのにずいぶんイメージが違いますよね。
 「りやく」はもちろん神仏からの恵みのことであり、「りえき」は多くの場合、経済的な意味で「もうけ」のことです。
 ちなみに「益」の唐音が「やく」、漢音が「えき」ということになります。
 主に鎌倉時代の禅宗によって広まったものが「唐音」でして、漢字テストの難問は「唐音」の方が多いですね。「行脚」とか「杜撰」とか「提灯」とか。つまり、簡単に言ってしまうと、その当時の中国の方言が輸入されたということです。
 では、歴史的にどういうふうに使い分けられてきたかと言いますと、これが案外難しいのです。
 おそらくは仏教伝来と同時に「利益」という言葉は輸入されたと思いますが、その読みがどうであったかは定かではありません。時代的なことを考えると「漢音」の「りえき」だったのでは、と想像されます。
 使われた方としては、今の「御利益」のように名詞ではなく、「利益す」という動詞として使われている例が多く見られます。「(仏が衆生に)恵みを与える」という意味ですね。
 先ほど書いたように、禅宗がさかんになる鎌倉時代以降は、仏教用語としての「利益」は「りやく」と読まれるようになったと考えられます。それと同時に「りえき」の方は少し違った意味合いで使われるようになりました。
 鎌倉期の名語記(みょうごき…唐音ですね)という辞書に「えきは益也。利益、巨益の益也。ますといふよみあり」とありますから、もうこの頃には「りえき」と読むと、仏教を離れて経済的な意味での「もうけ」を表していたともとらえられますね。
 つまり、中世には「利益」は「りやく」と「りえき」の双方の読みが使われ、互いにその意味的守備範囲を手分けするようになっていたということです。
 言葉は世の中を映す鏡です。つまり、この「利益」の変化は、そのまま日本社会の変化を象徴しているとも言えます。
 明日から大河ドラマ「平清盛」が始まりますね。ご存知のように清盛は日宋貿易に積極的でした。実は清盛が日本の貨幣経済の基礎を築いた立役者だったんですよね。大河ドラマではそういう側面も紹介されるでしょうか。
 日本に宋銭が大量に輸入され、鎌倉時代には地方の一般庶民までが「お金」を持つようになりました。ちなみにここ富士北麓地方でも旧街道沿いで宋銭が大量に発掘されます。こんなド田舎(流刑地でしたから…笑)にまで、貨幣経済の波が押し寄せていたんですね。
 こうして日本国民は初めて、貨幣価値としての「富」を意識するようになります。商売をして「もうける」ことに目覚めるわけですね。
 そうなりますと、その「もうけ」を表すが必要になります。そこで使われるようになったのが「利益」でした。古くは「仏からの恵み」を表していたその言葉が、より現世的な「もうけ」の意味になっていったというのは、実に面白いことです。そして皮肉なことでもあります。
 それまでは、たとえば農産物や狩猟採集物や漁撈の収量というのものが、「神仏からの恵み」ととらえられていました。しかし、「商業」「貿易」「貨幣経済」が発達すると、「富」=「恵み」は「人間」から得るものとなっていったわけです。
 ここで、我々の「無意識的収奪」の歴史が始まるわけです。
 神仏の「りやく」の総量は無限です(たぶん)。しかし、人間から得る「りえき」の裏側には必ず「損」が存在しますよね。
 神仏からの「利益」をありがたく頂戴していた私たちは、いつのまにか経済的「利益」をただ獲得感と達成感をもって手に入れるようになり、その裏にある他者の「損」さえも想像できなくなっていったのです。
 いつも書いているとおり、「マネーというモンスター」が旧来の(本当の?)神仏を幽閉してこの世を支配するようになってしまったわけですね。
 この「利益」という言葉の歴史がそれを象徴していると考えると興味深いですよね。そして、NHKのアナウンサーまでが、「御利益」を「ゴリエキ」と読んでしまうまでになってしまった(苦笑)。まったく困ったものです。
 ま、それよりずいぶん前から(江戸時代から)、我々はお賽銭を放り込んで「現世利益」を「購入」していたわけですし、それで神社やお寺は商売していたわけですが。皆さんもお正月には初詣でという「初売り」に群がっていましたよね(笑)。
 こんなふうに、言葉の歴史を探ると、社会や人間の本質的な変化が読み取れて面白いですね。


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2011.12.28

『ビートたけしのガチバトル2011』に思う…

20111229_130356 年に続き年末のガチバトルを観ました。
 ま、本物の格闘技界では、とうとう年末恒例だった「総合格闘技」というガチ(?)での単独興行は不可能になり、プロレスという「物語世界」に力を借りることになりましたが、こちらはどうでしょうか。
 「ガチバトル」に私たちは納得、満足するのでしょうか。
 特に今年は重いテーマに関する激しいバトルが予想されました。もちろん震災、原発事故という未曾有の悲劇が日本を襲ったからです。そういう状況において真っ向から論をぶつけ合うことが、どれほど意味を持つのか、ある意味興味深く観始めました。
 番組ホームページから引用すると、今回のバトルのテーマと概要はこんな感じ。

 <1:放射能汚染はどこまで深刻か?深刻でないか?>
政府が決めた被ばく限度量「年間20ミリシーベルト」は本当に安全なのかを巡り、「1ミリシーベルト以上の場所に住んではいけない」とテレビでもお馴染みの専門家・武田邦彦(中部大教授)が主張すれば、「そんな話は現実的に不可能!」と、澤田哲生(東工大助教)がすかさず反論。そこに大槻義彦(早大名誉教授)が「武田先生の過激な危険論のせいで家庭崩壊したお母さんもいるんです…」と加わり、冒頭からスタジオは大荒れに…。

<2:原発は日本に必要か?不要か?>
続いては、『地震列島ニッポン』に存在する54基の原発を今後どうするべきかを巡る議論に。「常に隠蔽体質の現在の『原子力村』の人間を追い出すべき」と河野太郎(衆議院議員)が声をあげると、脱原発を明確に主張している山本太郎(俳優)も、チェルノブイリの事故を引き合いに出し「日本政府がやっていることがどれだけ非人道的か!」と原発継続派に食って掛かる。山本が福島第一原発の30キロ圏内に暮らす人々へ取材したVTRも見所のひとつ。テレビではこれまで、この問題について十分語る機会が無かった山本太郎が今、その想いを熱く語る。

<3:日本は財政破綻するのか?安泰なのか?>
1000兆円もの借金を抱えた日本経済。それでも国際的に見て日本の財政は安全水準と主張する高橋洋一(嘉悦大学教授)や舛添要一(参議院議員)ら「安泰派」に対し、早ければ3年後には経済破綻すると予想する経営コンサルタントのジェームス・スキナーや元財務省主計局長の片山さつき(参議院議員)ら「破綻派」が牙を向く。

 最初は私もそのガチバトルフィールドに自らの言葉をも投げ入れながら観ていましたけれども、なんか後半はどんどん空しくなってきてしまいました。
 論戦が白熱すればするほど、つまり「専門家」の「言葉」が乱舞すればするほど、たとえばスタジオに招かれていた福島の漁師や農家の方々は置いていかれる。つまり現実からどんどん乖離していってしまうのです。
 これはおそらく皆さんも感じたことでしょうし。番組の最後の最後に福島の方が「一言言わせて下さい」と手を挙げて、そうして発せられた「言葉」。両「言葉」の違いは、なんとも絶望的に大きなものでした。
 そう、「言葉」って本当に「自我」への「執着」の道具なんですよね。もちろん、「言葉」は人と人をつなぐメディアでもあるのですが、それはある意味では、それぞれが「個」として孤独であることの裏返しでもあるわけです。バラバラだから「絆」という意識が必要だと。
 番組を見終った時、私はやはりお釈迦様の教えは正しいなと思いました。言葉にこだわるな。自我にこだわるな。
 そして、もう一つ、今回の議論の基礎にあるのが、全て「カネ」だということ。自分も結局そうなので、本当にこれにはうんざりしてしまいました。
 「貨幣」と「言葉」は似た存在です。どちらも対象に(ある限られた時空で通用する)社会的な価値を与えます。そしてそれは、社会に対する自己の価値を担保するための道具でもあるのです。私のモノ・コト論からすると「コト」世界ですね。
 それらにこだわるというのは、まさに自我に執着することです。ブッダはそれをいさめました。言葉やカネにこだわってもしかたないのです。
 ここから少し(だいぶ?)飛躍した考えを述べさせていただきます。つまりわがままな「言葉」を弄させていただきます。
 たとえばこういう災害が起き、これだけ多くの情報が流れ、我々は同朋が苦しんでいることを知っていますよね。想像力を働かせれば、いつでも被災者の苦労を忖度することができます。その想像力こそが人間の人間たる所以ですから。
 そうしてまずは、政府がお金をどう分配するとか、そういうことでなく、単純に自分たちにとって余っているものを分け与えればいいと考えるべきなのです。仏教で言う「布施」という行為です。「利他」の心です。「慈悲」の心です。
 この期に及んでも、自らの貨幣的な富を追いかけるのではなく、また他人事のように政府に全てを任せたり、ある特定の会社の責任にしたりせず、「無財の七施」や「有財でも七施」を心掛けるべきなのです。
 と言いつつ、私もそれができないで苦しんでいるのです(つまり修行中なのです)。
 仏教経済学というのがあるのをご存知ですか。まさに「布施」「利他」「慈悲」によって成り立つ経済です。これは私の解釈では、成熟した心を持ったものが為す社会主義経済です。
 心の成熟がないのに、富の平等、分配を語ったから、近現代の社会主義や共産主義は負けました。かと言って資本主義が正しいかというと、全くそんなことはありません。それはただ成熟していない人間の心にマッチしていたから勝ったというだけです。
 だから、本当に理想論で申し訳ないのですが、こういう時こそ、そういう「心の成熟」を促す政治家や教育者や、専門家が出てきて論議してもらいたいのです。
 仏教経済学だけでなく仏教政治学というのも、もっと研究されていいのではないでしょうか。
 もう成長はけっこうです。成熟したいものです。まずは自己に執着しないこと。そのための第一歩として言葉や貨幣の価値を疑うことです。
 こういう話は、それこそ現代においては「物語」として一笑に付されるのでしょうかね。私はいよいよ「物語」が復権すると感じているのですが。2012年、コトよりモノの時代は到来するのか。

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2011.12.21

追悼! 森田芳光&上田馬之助

 た哀しいお知らせが届きました。昨夜の「望年会」 でたまたま話に出たお二人が、まさか亡くなるとは…。
 映画監督の森田芳光さんには、私は多大な影響を受けました。私が作る映像作品には森田さん風の、たとえば長回しが多用されていたりするんです。
 本当に残念です。ここのところ、森田さんらしい作品に出会えずにいたので、ますます寂しいところです。いつか、またあの「間」を感じたかったなあ。
 今日は追悼の意を表して、私の大好きな「それから」をどうぞ。これは静止画によるオマージュ作品ですが、雰囲気はそのままという感じです。

 続きまして、こちらも大ショック…。尊敬するレスラーの一人であった上田馬之助さんが亡くなりました。事故で体が不自由になって苦労されながらも、プロレス界のために、あるいは地域のために尽力されている姿、あるいは明るくたくましく前向きに生きておられる姿に心打たれておりました。
 上田さんと言うと、タイガージェットシンさんと肩を組んで入場するシーンに象徴されるように、悪役レスラーの代表のようなイメージですが、彼が日本プロレスの道場である意味最強だったことは有名な話です。
 そんな彼の実力が垣間見れるこの試合、私もドキドキしながら観た記憶があります。UWFとの交わりだからこそ現れた上田馬之助の本当の怖さ。猪木さんが彼を抜擢した理由がよく分かります。
 特に前田との絡みは見ものですね。今見ても興奮します。
 ご冥福をお祈りします。


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2011.12.19

1942年4月19日(ヒトラー誕生日前日)…フルトヴェングラー指揮『第九』

96958a88889de1e5e6e2e0e4e2e2e3ebe3 日の第九演奏会。ちょっと違った角度からとらえてみましょう。
 今日の重大ニュース「将軍様逝去」とどういう関係があるのか(笑)。あると言えばあるかな。
 昨日の演奏会では、第九の前に地元の子どもたちを中心としたリコーダー・アンサンブルが披露されました。
 「ふむ、日本はいまだに戦前の文化を引きずってるな。ま、いいけど」…リコーダーと第九、この組み合わせでこんなこと思うのは私だけでしょうね。
 つい最近こちらにも書いたとおり、日本のリコーダー教育(それもジャーマン式運指という特殊なもの)は、ナチス文化の模倣が今でも続いているものです。
 そして、ベートーヴェンの第九がヒトラーのお気に入りだったのは有名な話ですよね。フルトヴェングラーのかの有名な「御前演奏」は動画もありますよ。1942年4月19日、ヒトラーの誕生日前日の第九です。すごいな。いい演奏。

 というわけで、1936年のベルリンオリンピック、そして1942年の第九御前演奏が、昨日都留市で再現されたわけです…って、オレってヒトラーか(?)。
 そうそう、今日とうとう偉大なる将軍様がお亡くなりになったという報道がありましたよね。驚きました。
 今年は震災や原発事故はもちろんのこと、世界的に見ると、ビンラディンとカダフィの殺害、そして金正日の急死と、いわゆる反米勢力のドンたちがこの世から消えました。これは歴史的に大きな出来事ですよね。
 中国のネットでは、2006年に処刑されたフセインも加えて、4人でマージャンができるなどという不謹慎な書き込みもあるようですが(笑)、ある意味冗談でなく、さらに世界のアメリカ化が進むとも言えます。
 私はもちろんナチスの信奉者ではありませんよ。しかし、もうすでにあの頃、つまり100年近く前には、アメリカの世界進出は進みつつあり、その対抗勢力としての、ドイツや日本という図式があったことを忘れてはいけないでしょう。
 本国ドイツでは戦前の(ナチスの)空気を消すことに躍起になりましたが、日本には上述のように色濃くそれが残っているというのも、まあ面白いと言えば面白いことです。日本はつくづく不思議な国です。

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2011.12.13

未来へのキオク

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 Yahoo!ニュースなどでも紹介されていましたとおり、Googleのストリートビューで被災地の様子が公開されました。
 ストリートビューについては、いろいろな問題も取り沙汰されていましたが、こういう形で被災地の「今」と「昔」を記憶として残すという意味においては、たしかに画期的なことであり、また高く評価されるべきものであると感じました。
 ぜひ皆さんも海岸線を中心に「歩いて」みてください。私も今日、小一時間辺りを見回しながら歩いてみました。
 7月の風景がほとんどでした。いまだ津波の爪痕が克明に残っている中、多くのトラックやパワーショベル、そしてたくさんの作業員の方、住民の方が復興へ向けて必死に働いている様子がうかがえます。
 新聞やテレビで取りあげられる、あるいはネットの動画や写真などで見る光景とはまた違った「リアル」な現地の姿が(ほんの少しではありますが)分かったような気がしました。
 このストリートビューのみならず、Googleらしい情報収集力で被災地の様子を記録し、後世に伝えようとするのが、サイト「未来へのキオク」です。
 こうして、時間だけでなく空間をも超越して、このたびの大震災の記憶が世界中に刻印されていくのは、実に意味のあることだと思います。
 もちろん、視覚だけでは伝わらないモノもたくさんあるでしょう。あるいは興味本位で見られることに抵抗のある被災者の方もいらっしゃるでしょう。
 しかし、私たちの歴史が証明してしまっている、「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉に象徴されるような人類のある意味での愚かさを克服していくために、このGoogleのテクノロジーと思想は決して無意味ではないでしょう。
 今日はこのくらいにして、今からまた東北を旅してみたいと思います。

未来へのキオク ストリートビュー


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