カテゴリー「ニュース」の134件の記事

2010.01.28

iPad 登場

Ipad_hero_20100127 ワサされていたiPadが発表されました。はたしてこれは売れるのでしょうか。
 結論から言えば、世界的にはかなり売れるでしょう。そして世界の主流となっていくことは間違いありません。
 我々としては、ノートパソコン(MacBook)とケータイ(iPhone)の中間態を手に入れることになります。今までなんとなく「こんなのあればいいな」と思っていた脳ミソの空間に絶妙に収まり得る製品だと思います。
 ただ、先に言っておきますけども、日本人にとってはこれは少し大きすぎると思います。箱庭文化、すなわち、なんでも極小化し、操作性よりもその小ささ自体を愛でる文化を持つ日本人には、かなり大ぶりなシロモノであるとも言えます。
 電子書籍で考えても、日本のような「文庫本」が最も愛されるという特殊な状況の中においては、新刊書より大きいこのB5判くらいの大きさの「書籍」を、たとえば電車の中で広げる(?)のには、ちょっと抵抗があるのではないでしょうか。
 かと言って、家のパソコンとして使うには小さすぎるし、OSの問題もある。一方でケータイ代わりには使えない(使ってる情景を思い浮かべると面白いですね)。すなわち、ちゃんと「帯に短したすきに長し」なわけで、結果として我々は、今までのパソコンもモバイルフォンも捨てるわけにいかないわけです。
 もちろん、それこそがAppleの狙いなわけですね。今後、クラウド・コンピューティングがどんどん拡がり、いわゆるパソコンというものは絶滅していく運命にあるわけでして、そんな中、「受信機」としてのディバイス、つまり端末をどう作って行くかが、これからのメーカーの仕事になるのです。
 昨日の記事にも関連して、これからの日本の「モノづくり」が心配になります。おそらく家電もコンピュータ化、クラウド化が進むと思いますから、さあそうなると、今度は「機能」よりも「質感」「操作感」の「モノづくり」になると思うんですね。
 そのへん、Appleはうまいんですよ。アメリカとは思えない(笑)。MacもiPodもiPhoneも、とにかく操作感が楽しい。便利とか分かりやすいとかいう以前に「快感」なんですよね。あと素材やデザインの「質感」。このあたりは、本当は日本が得意としていた「職人文化」だと思うんですが。ガンバレ、ニッポン!
 まあ、いずれにせよ、このiPadはクラウド・コンピューティング端末の先駆けになるでしょう。表立ってはそういう言い方はしていませんが、未来的に見るとそういう第一歩であると感じます。
 個人的には、まあ買わないかなあ…。でも、学校教育の中で何か使えないかな、というのはありますね。もうそろそろ黒板文化というのもどうかと思いますので。うん、案外教育市場あるかもですね。
 あと、やっぱり「親指シフト」利用者としては、キーボードの問題ですね。ソフトウェア・キーボードに関しては、どなたかがいち早く開発してくれそうですけど。やはりそれが解決されないと導入には踏み切れませんね、私としては。
 あと単純に、何に使うかですね。使い道がよく分かりません(笑)。どこでどういう状況で何に使うのか。
 実は、ただ触ってみたいだけなんです。人が使ってるのを見てうらやましく思い、なんとなく買っちゃう。大人のおもちゃとして。そして、触っているうちに使い道が分かってくる。これがいつものApple流ですね。うまいなあ…。
 それから、持ち歩くことを考えると、やっぱり「落下」が恐いなあ。そんな意味も含めて、iPad周辺アクセサリー市場が活性化しそうですね。
 まあ、今後の動きに注目いたしましょう。

iPad公式

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2010.01.21

フジファブリック 『熊の惑星』

54_20100121_00002 ほど、富士吉田市の「夕方5時のチャイム」が鳴りました。今日はまた特別に胸に響きますね。
 今日は東京の中野サンプラザにおいて、お別れの会「志村會」が執り行われています。私は仕事が立て込んでいてうかがうことができませんが、知り合いの数人が駆けつけて、現地の様子などを伝えてくれました。
 悲しみは絶えません。しかし、こうしてファンの人たちの気持ちを集める場が設けられたのは、志村正彦くんにとっても、また、メンバーにとっても、親族の皆さんにとっても、そしてなんと言ってもファンの人たちのために、とてもいいことだと思います。
 何ごとにも一つの区切りというか、前に進むきっかけというのは必要です。私も今日、また新しい気持ちで彼の曲を聴くことができそうです。皆さん、ありがとうございました。
 さて、今日はそんな大切な日にちなみまして、一つエピソードを紹介いたします。
 この前記事にしました名曲「若者のすべて」のカップリングに「熊の惑星」という可愛らしく愉快なナンバーがあります。まずは、お聴きください。

 作曲はベースの加藤くんです。中国風なイントロやリズムを伴ったなかなか楽しい曲ですね。もちろん志村くんの歌詞にインスパイアされての曲作りだったことでしょう。歌詞をご覧ください。
20100121_173724 不思議な「詩」ですね。まさに「夢の対決」、夢で見た光景をそのまま言葉にしたような不思議な世界が広がっています。
 「熊の惑星」と言えば、私などアメリカのSF作家R・A・ラファティの「どろぼう熊の惑星」を思い出します。あの短編集、以前図書館かどこかでチラッと眺めたことがあります。けっこう残酷な雰囲気の童話だったと記憶しています。もしかして、志村くん、このあたりからヒントを得たとか。
 軽みもあって、実は残酷でシュールというラファティの味が、この歌詞と不思議に共通していると思います。
 さてさて、そんな熊(なぜか北欧の熊)に対するのは、アジア一のワザの使い手「ひげの太極拳野郎」です。
 この正義の味方の正体について、志村くんが何かインタビューなどで語っているかどうか私は知りません。ただ、この歌詞を聴いた時に、あることをピンと思い出したのです。志村くんの理想の男がこんなところに出てきていると。
 というのは、彼の中学時代の卒業文集に「太極拳男」が登場しているのです。あまり詳しくは書けませんが、彼の目指す「太極拳男」は「効率のいい男」だそうです。
 その文集の文にも、はっきり言って他の生徒たちとは全く一線を画した芸術性(?)があり、もうすでに天才詩人の片鱗がうかがわれます。ある意味ぶっとんでいるんですよね。
 そんな理想の男がひげをたくわえて再登場したと思ったのです。
 たまたまでしょうが、ラファティの熊は北欧どころか、宇宙からやってきた盗っ人エイリアンでして、それを志村くんの目指した理想の太極拳男がやっつける光景が目に浮かんだんですよね。
 旗を取り合っていますが、いったいこの「旗」とはなんなのでしょうか。彼がこの詩について何か語っているのを知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
 繊細で抒情的な詩や、変態的で過激ともとれる詩の多かった志村くんの作品ですが、このような軽みのあるユーモアもまた彼の魅力の一つでしたね。そのへんの幅の広さも中原中也的であるとも言えそうです。
 「若者のすべて」「セレナーデ」「熊の惑星」…たしかに彼の少年時代の香りがする曲たちですね。
 今日はあえてこの曲を聴きながら、あらためてご冥福をお祈りしたいと思います。
 Rest In Peace …

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2010.01.13

稲盛和夫と出口王仁三郎

Biz1001132308048n1 盛和夫さんが日本航空の新しい最高経営責任者(CEO)になりましたね。はたして「日本の翼」は復活するのか。
 「経営の神」と言われる稲盛さんですが、彼の経営観には多分に本物の宗教色があります。
 私は、稲盛さんの考え方ややり方が好きですね。なぜなら、ワタクシ的には彼は「出口王仁三郎」の霊的世界を現界において体現していると思うからです。
 御本人はあまり意識されていないかもしれませんが、彼にはそうした霊脈が感じられます。私は最初、彼の「臨済宗妙心寺派円福寺にて得度」という経歴に注目しました。私も今、臨済宗系の学校で禅の勉強をさせてもらっているからです。しかし、のちある方からいろいろと示唆に富む情報をいただきまして、調べてみましたらたしかに王仁三郎の息吹を受け継いでいるように感じられるようになりました。
 稲盛さんは、昭和19年の末、12歳の時に結核の初期症状である肺湿潤に冒され、死の恐怖と闘っていました。その時、隣の奥さんが「読んでごらん」と言って渡してくれたのが、かの『生命の実相』でした。稲盛少年はこの本を読んで、自分の中で革命が起こるのを感じました。稲盛さんの現在の経営観、世界観は、ある意味この瞬間に出来上がったとも言えます。
 『生命の実相』は言うまでもなく、「生長の家」創立者谷口雅春の著書です。そして、谷口雅春(正春)は王仁三郎の霊界物語の筆記者の一人ですね。谷口にも、また現在の「生長の家」にも、王仁三郎の影響は実に色濃く表れています。
 昭和19年と言えば、王仁三郎が京都で、のちに「ようわん」と呼ばれる焼き物(楽焼)を祈りを込めて(ある意味狂ったように)焼いていた時期にあたりますね。
 そして昭和30年、不思議なことに、鹿児島で生まれ育った稲盛さんは、吸い寄せられるように京都に向かいます。碍子製造会社に就職するのです。そして、ニューセラミック(焼き物)の研究に携わり、のちに「京都セラミツク(京セラ)」を創業し、世界的な企業に成長させました。
 つまり、稲盛さんには、思想的(宗教的)にも、実業的にも、王仁三郎の魂が流れ込んでいるのです。
 「大本」の関係者の話によると、どうもこれは単なるこじつけではないようです。彼の著書などを読んでみると、宗派を超えた独特の宗教観、世界観を感じます。まさに出口王仁三郎(大本)の「万教同根」、谷口(生長の家)の「万教帰一」ですね。
 さて、そんな稲盛さんですが、今回CEOという仕事を通じて、きっと世界をつなぐ「日本の翼」の傷を癒してくれることでしょう。単なるお金の問題ではないのです。社員の幸福、利用者の幸福、日本の幸福、世界の幸福を見据えてのお仕事をしてくれることでしょう。
 昨日のプロレス界の話もそうなんですよね。「カミ」と「カネ」の関係。これはなかなか難しいのです。「神」が「金」をコントロールできているうちはいいのです。
 稲盛さんはもちろん、松下幸之助さんや船井幸雄さんなんかもそうですね。みんな宗教的な勉強をちゃんとしている。「カネ」という悪神の働きもよく分かっているのでしょう。
Ai そう考えると、王仁三郎の「金神」観というのも面白く感じられますね。もともと最強の祟り神である「艮の金神」を善神に転換する発想は、そのまま、貨幣経済、市場経済における「金」という「神」の両面性とその可能性を示唆しています。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、現在は「モノ」より「コト」、つまり、目に見えない不随意な「モノ」よりも、目に見える随意な「コト」に偏りすぎているんですよね。いつも書いているように、見えない価値を見える数値に換える「カネ」は、「コト」の権化みたいなものです。それが威張りすぎているのが現代というわけですね。人間の脳内のフィクションが調子に乗っているというか。
 そんなわけで、私はこれからの教育には、ある程度宗教的なものが必要だと考えています。もちろん、私は特定の宗派に属しているわけでもなく、まさに「万教同根」を信じて、「万教帰一」を目指し、いや、王仁三郎の理想、「宗教のない世界」の実現を夢見ている者ですから、変に偏った宗教教育をしようだなんて考えていませんよ。ただ、やっぱり若いうちに、そういう「目に見えない」「教科書に載っていない」世界があるということをしっかり「体感」させてあげたいとは思います。
 これからは「コト」より「モノ」の時代です。もちろん、ここで言う「モノ」は「物質」とか「商品」とかいう意味ではありませんよ。世間では、これからは「物質文明」ではなく「精神文明」の時代だという意味で、「モノ」より「コト」と言われていますが、私はあえてワタクシ的観点から「コト」より「モノ」と宣言させてもらいます。平たく言うと、「カネ」より「カミ」、「自己」より「他者」ということでしょうかね。
 結局は双方のバランスの問題、主従の問題なのでしょう。王仁三郎の言う「霊主体従」ですね。
 とにかく、その辺りをよく理解しておられる稲盛和夫さんの手腕に期待いたしましょう。

稲盛和夫公式

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2009.12.26

志村正彦くん…追記

Img_0186 訃報から一夜明けて、富士北麓はまるでストックホルムのような雪景色です。
 残念ながら、訃報は夢ではありませんでした。

 皆さん、コメントありがとうございます。
 お互いに辛いけれども、彼の遺してくれた宝物を胸に頑張らねばなりませんね。

 志村くんは、私のいろいろな夢を実現してくれた人でした。
 それは音楽であり、文学であり…そしてこの土地を代表する人物としても。
 本当に残念なのは、私の最後の夢が叶わなかったことです。
 悔やまれてなりません。

 29歳…あまりに若すぎます。
 こうして才能を天に返すのが「天才」なのかもしれません。
 私たちはその一部をいただけただけでも、本当に感謝しなければならないのでしょう。
 あらためて御冥福をお祈りします。

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2009.12.25

志村正彦くん…

Ff080531_2 あまりに辛いクリスマスです。
 フジファブリックの志村正彦くんが、天に召されてしまいました。
 あなたに大切な頼みごとがあったんです。
 まさに明日、その話をしに御実家にうかがおうと思っていたのです。
 正直、信じられません。
 心が乱れて何がなんだかわかりません。
 辛すぎます。
 なんで。
 なんで…。
 信じたくない…冥福をお祈りするしかないのでしょうか。
 私より十何歳も若く、教え子のような存在でしたが、でも、あなたからは本当にいろいろなことを学びました。
 辛いけれど…やっぱり「ありがとう」と言わなければならないでしょう。
 本当にありがとう。
 私の人生を変えてくれた若者。
 あなたは本当に大切な人でした。

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2009.12.07

『効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』 勝間和代 (ダイヤモンド社)

47800203 ればせながら読んでみました。1年遅れ。
 もちろん、私の仕事にも応用できる点はありますが、教員という基本アナクロでアナログな仕事をしていますから、その根本の部分というか、この本の目的とする「効率」というのがあんまり私にとっては実利的ではないのですね。
 しかし、こうしてブログという媒体でアウトプットすることを修行の一つとしている者といたしましては、こうした up to date なデジタルな技術というにも当然興味があるわけです。まあある意味彼岸の出来事として観察している部分もありますが。
 ちょっと話がそれますけれど、今日「Google 音声検索」のリリースがニュースになっておりました。その前には、無料の日本語IME「Google日本語入力」が出ましたよね。
 この「Google日本語入力」、さっそく導入してみました。なるほど面白い。それこそ up to date な単語や2ちゃん風なネット文の変換に関しては最強でしょう。
 しかし、私はすぐに使用をやめてしまいました。自分の文章というか言葉世界にGoogleが土足で踏み込んでくるような気がしたからです(些末な不便としては、まっくがMacと変換されなかったり、ぐーぐるがGoogleと変換されなかったりする点が挙げられますが)。
 この土足感覚こそが、私のGoogleに対する嫌悪感や恐怖感の原因なんですよね。それは今までも何回か書きましたでしょうか。世界を全てインデックス化しようとするGoogleは敵だと。「コト」化の権化だと。
 もちろん、技術的なこと、それからそのクリエイティビティー、会社の気風やモットーなんかには、ちょっとした憧れさえ抱きますよ。私もGoogleの社員だったら(絶対入れませんが…笑)、なにか面白いことできるという気がします。
 しかし、こうした彼らが差し出してくれる様々な「無料」の贈り物たちには、どうしても生活感覚として「悪意」の存在を感じてしまうのです。タダより高いものはない、ということでしょうか。
 Google的には、最終兵器であるクラウド・コンピューティングのための独自OSへの布石を打っているということなのでしょうかね。雲の上からの世界征服に「悪意」がないと、いったい誰が純粋にそんなこと言えるのでしょう。世界の「みコト」になろうとしている。目に見えない「モノ」を使って。
 いつかも書いたとおり、私にとってのネット世界は「自然」そのものです。多様性があって、玉石混交、善意も悪意も混在していて、しかしどこかで自然淘汰(今では自然選択というのか)の法則も稼働している。そんな、自然状態を、まさに「言語」という「コト」によってインデックス化(社会化、都市化)しようとしているGoogleは、はたして、神なのか悪魔なのか…。
 というわけで、この本で語られる、「自分をグーグル化する」というのは、ある一面においては、自分の神化になるでしょうし、私のような世界観を持っている者にとっては、単に自己の「悪魔化」を表しているとも言えます。
 そこまでして、我々は「効率」を求めるべきなのか。はなはだ疑問です。
 しかし、一方で、この本では案外アナクロでアナログな話も多々出てきます。特に人脈作りに関する部分は非常に古典的というか保守的というか、結局は人間関係が円滑でないと「効率」も下がるということなんでしょうかね。ここんとこだけは、さすがにグーグル化するだけでは、どうにもならないのか。ちょっと安心したりして(笑)。
 あと、妙に勝間さんに親近感を覚えたのは、「親指シフト」のことです。これもいつか書きましたね。「ローマ字入力」によって、いったいどれほどの経済的損失が生じているか(笑…いや、笑えない)。単純計算して、「親指シフト入力」に比べて、「ローマ字入力」は1.7倍の時間と労力がかかっているのです(!)。それをほとんど全ての日本人がやってるわけですからねえ。Google的な発想からすれば、最初に見直すべき「非効率」でしょう。
 まあ、そんなムダこそが、Googleという悪魔の侵攻を防いでいるのかもしれませんが。
 

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2009.12.02

平山郁夫と「萌え」

K_img_renderphp 山郁夫画伯が亡くなりました。アフガニスタンへの増派のニュースが流れる中、どんな思いで天界に召されたのでしょうか。
 アフガンでの遺跡保存活動をはじめとした、シルクロードをメインストリートとするボランティア活動だけでなく、本職である画業でももちろん国際的な活躍をされました。また東京芸大学長職を務めるなど教育においても、そして、ある意味商売の面でも活発に腕を振るわれました。
 芸術家としての絶対条件である「異様なほどのバイタリティー」をお持ちであったと、改めて思います。
 今日は、そんな平山さんを、ちょっと(だいぶ?)違った視点から見てみたいと思います。決して失礼にはあたらないと思いますので。
 そう思ったのは、たまたま今夜、NHKのクローズアップ現代で「故郷(ふるさと)に“美少女”が来た」と銘打ち秋田県の羽後町での取り組みが紹介されたのがきっかけです。
 羽後町については、私は、このような全国レベルでの話題になる以前から注目してきました。右の「人気検索ワード」をクリックしていただければ、このブログでもずいぶんといろいろな視点で語ってきたのがお分かりになるでしょう。
 今夜の番組ではいわゆる現代的な「萌え」と豊かな自然しか取り上げませんでしたが、私としては、土方巽&細江英公の「鎌鼬」…新版が出るようですね…や、先日紹介した白井晟一の建築(現存しませんが)、そして佐藤信淵などにも触れてほしかった。そこには、現代的な「萌え」以前のもっと大きく深い「萌え」要素があるからです。
 他称(…なぜかWikipediaの「萌え」に私が登場している!?)「萌え」研究家である私からしますと、「萌え」の基本的な性質はネオテニーにあると考えています。すなわち「子ども性」です。一般に文明(大人性)は「子ども性」を刈り取ることによって成立しますので、そうした「侵略」や「略奪」から逃げるために、子どもは辺縁にどんどん移動していきます。あるいは、辺縁には文明が到達しないという言い方もできますが。
 そうして、辺縁に文明化していない「モノ」が凝結していきます。それを文明側からは「文化」と呼ぶ場合もあるわけですね。本人たちはそんな対抗意識はないことも多いのですが。
 そして、その「文化」は、「自然」という強力な後ろ盾をもって逆襲に転ずる時もあります。まあ、ここでも、人も自然もそんな意識はなく、現実には、文明側からの「憧憬」という形をとることが多いのですが。
 たとえば、この前も書いた、西洋美術における「浮世絵」の影響などがいい例です。江戸までの日本は、まさに世界の辺縁中の辺縁、極東であったわけで、そのうえ島国という特殊な好条件をも得て、ある意味孤高の「子ども文化」を醸成していたわけです。そこに、「大人」たる文明国の人間たちは大いに驚き、そして憧れ、不思議な郷愁まで感じて、それまでの自分たちが積み上げてきた「写実」や「科学」や一部「宗教」までかなぐり捨てて、「回帰」を試みたわけです。
1akiduki1 で、話を秋田に戻しますが、まさに秋田と東京の関係などは、そうした構造の相似形になっているわけですね。ちなみに私は東京育ち、カミさんは羽後町育ちですから、我が夫婦の間にも、そういう関係が成り立っているんですよ。
 それをカミさんは、最初全然理解できなかったようです。「子ども」側だからです。しかし、「大人」がそういうことをしつこく言い、自分以上に「故郷」にこだわり、そして、ついにはNHKという国家的メディアがそれを発信するに及んで、ようやくコトの重要性というか、自らの無意識に沈殿していたモノの重要性に気づいたわけです。
 スケールを変えてみると、それが西洋と日本の関係になるというのは、もうお解りでしょう。ですから、この前書いた「世界カワイイ革命」もそうなんですが、これからは、「辺縁」「地方」「子ども」側が発信していく時代なのです。「大人」は自縄自縛で疲れ果てていますからね。
 子どもは凝り固まっていませんので、なんでも受け入れて自分のものにしていきますね。日本という国もそれが大得意です。しかし、一方で大人社会に対するなんとはなしの「畏怖」や「謙遜」や、あるいはそこから生じる「自己卑下」のようなものがあるわけです。そこがいろいろな面で障壁になってきたのも事実ですね。
 で、平山郁夫さんにようやく話が到達しますが、彼の作品を見れば分かるとおり、彼の美術史における一つの功績は、やはり東西の融合だと思うんですね。彼の嗜好や指向が西に回帰した、つまりシルクロードを遡ったというのも象徴的ですが、それ以上に、絵画の技術としての東西の融合にその大きな意味があると思うのです。
 だいぶ前、平山さんと高階さんの『世界の中の日本絵画』を紹介しましたね。あれなんか、私は思わず笑ってしまったのですが、今思えばまさに平山さんの境界なき「子ども性」を表している業績かもしれませんね。
 そして、もう一つ重要なことは、彼がそうした西からの憧れを「商売」にしてしまったことです。つまり、それが「萌え」と同じなんですよ。「萌え」のファクターというのは、自然や子どもの中に昔から常に存在していましたが、それが意識されて、そして都会や大人がそれをカネで買うようになって初めて「萌え」という言葉が生まれたのです。
 実は日本はそうやって経済大国になったのでした。その美術界での象徴が平山郁夫さんだと言えますし、また、今日のクローズアップ現代のテーマ「地方の時代」のヒントも実はそんなところにあるのでした。
 中心と辺縁を結ぶ線。それは自然の中に人が作った道。「萌え」もまた、その道の一つなのです。
 山梨にある平山郁夫シルクロード美術館、そんな平山さんの多方面でのご活躍を象徴する存在です。これを機に拝観し、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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2009.11.22

ホッキョクグマ「ロッシー」は可哀想?

Peace60 い夫婦の日。私は久々に家族みんなで静岡の実家へ。ウチの夫婦や私の父母が「いい夫婦」か、実に微妙でありますが、96歳になる祖母を施設に見舞いに行った時は、さすがに祖父母はなんだかんだ言って「いい夫婦」であったと思いました。祖父は93で亡くなりましたが、本当に大往生。祖母も施設のベッドの上にいるとはいえ、体に痛いところなど一つもなく、久々の孫との会話にもユーモアを忘れず、元気と言えば元気。結局、こうしてお互い健康に長生きして、ケンカしながらでも、とにかく長く連れ添うのが一番「いい夫婦」ですね。
 さて、今日は「いい夫婦」とは全然関係ない話。
 夜は母と嫁の合作料理をいただきながら、父が用意してくれていたおいしい日本酒をいただきました。テレビでニュースを見ながらの食事だったのですが、例によって最後は私と父の大げんかで終わりました(笑)。どうも思想的に敵対するんだよなあ…父子ってそういうものなんでしょうね。ある意味ライバル。
 …って、その話がメインではありません。ホッキョクグマの話です。
 静岡のローカル局でこんなニュースが流れました。
ロッシー誕生日に温暖化考える 静岡・日本平動物園で22日フェスタ
 ロッシーというのは、昨年日本平動物園にやってきた人気者、子どものホッキョクグマ(しろくま)です。
 ニュースでは、来園者の子どもがインタビューを受け、「温暖化でホッキョクグマの住むところがなくなってしまうので、温暖化はいけないことだと思います」とか、なんとも言わされた感のあるコメントをしておりました。いや、彼は彼で純粋にそう思って言っているのですから、それはそれでいいのです。
 しかし、そういう言葉の出てくる背景にある、教育現場での指導やら、こういうメディアでの物言いというのには、ちょっとこわいものがありますね。
 もちろん、ホッキョクグマにとっては、温暖化は多少の問題はあります。長期的に見てある程度の移動をしなければならないからです。
 でも、そんな程度の気候変動は地球の歴史の中ではごく普通のことで、そのたびに我々はいろいろな所へ移動して生き延びてきたのです。そちらの話もしなければ。
 それから、これはいつも言っていることですが、ちょっと考えれば分かる通り、気温が上がって二酸化炭素濃度が上がるということは、ほとんど全ての植物にとって望ましいことです。光合成の勉強をした時、そういうふうに教わっているはずです。晴天時など充分な光がある条件下では、現在の地球上の二酸化炭素濃度は低すぎるくらいです。温度についても同じようなことが言えます。
 植物が元気なら動物も元気になります。食べ物が増えますからね。草食動物が増えれば肉食動物も助かります。
 ですから、温暖化すると困るというのは、人間にとって「困る」ということなのです。人間は国家という檻の中にいますので、簡単に移動もできませんし。
 もちろん、これもまた一面的なものの見方であって、極端な論であるわけですが、しかし、そういう視点も持たねばならないと思います。そういういろいろな視点を提供して、クリティカルでロジカルな思考を促すのが、教育や報道の本来の仕事だと思うのですが。
B47 そんな人間の愚かさをまだ2歳にならないシロクマのロッシーは憂えているのでしょうか。この前、遊具のブイを放り投げて、お客さんの頭に直撃させてしまったそうです。怪我をされた方には同情申し上げますが、これによって大好きな遊び道具であるブイを撤去されてしまったロッシーは、ある意味もっと可哀想なような気がしませんか。
 さらに、今日の「温暖化」の話ですけれど、考えてみると、ホッキョクグマの棲み処が暑くなるとかいう問題ではなく、ずっと昔から「温暖」で、さらに「温暖化」している日本の中の「南国」静岡に、こうして親から引き離されて連れてこられたロッシーって、それこそ「温暖化」以前にとっても可哀想だと思いませんか?ww
 …と、こういうことを言いましたら、また親父とケンカになりました。彼は、徹底した温暖化反対論者なのであります。彼は、人間の、欲望に任せた経済活動に異議を唱えているんです。それもわかります。日本の金融の中枢に長く勤めた父親の、せめてもの償いなのでしょう。
 というわけで、親子でもこれだけ意見がぶつかるんですから、世界中からいろんなケンカが絶えないのは、これはしかたありませんな。みんなわがままですこと。

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2009.11.17

邪馬台国はどこにあったのか?

↓この盛り上がりに陳寿さんも困惑気味?
200911149464031l きなりストレートなタイトルで自分でもびっくり。で、そんなの分かりきっているじゃん!と。答はただ一つ。「あなたの心の中にある」(笑)。
 ふざけたこと言いやがって!と憤慨された方、ちょっと待ってください。実はこれって正解なんですよ。根拠は後でお話します。
 最近ニュースで、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡が、邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿の可能性があると報じられましたね。大学のエライ先生たちもなんか興奮気味に語っていました。もちろん、近畿地方の大学の先生ですけどね。
 ちょっと前には同じ桜井市の箸墓古墳が「卑弥呼の墓」だ!と興奮していた人たちです。どうだ!と言わんばかりのはしゃぎっぷりですね。そりゃそうだ。
 第一、ああやってCGまで駆使して、建物の内部まで復元(?)して、それで「ここで卑弥呼が祭祀を行なった」とかまじめに言っていいんでしょうか。アニメ作品の脚本家じゃないんだから(笑)。もうはっきり言って学問ではありません。ファンタジーです。
 もちろん、それはそれで「夢」があるし、物語万歳派の私としては楽しい状況ではあるんですが、いくらなんでもなあ…。
 一方、九州にある大学の先生方は、みんな冷めきってました。当然です。そりゃそうです。
 というか、どっちもどっちですね。第一、なんで畿内説と九州説しか問題にされないんでしょうか。私なんか琉球説や、エジプト説(尊敬する木村鷹太郎センセイ説です)あたりが好きなんですけどね。
 そうそう、我が富士山北麓にもその比定地はあるんですよ。なにしろ、富士王朝がありましたからね。私はいちおう地元の肩を持って、富士北麓説を支持します!…っていうのが、関西や九州の学者さんの心境でしょう。ご当地物の一つというわけです。だから「心」。
 ま、それはちょっと言いすぎというか、失礼でしょうが、多少は真相(深層)を突いているとも思いますよ。
 だいたいですね、「魏志倭人伝」って何ですか?御存知ですか?そんなものありませんよ。「三国志」です。「ヤマタイコク」って何ですか?そんな読みの国はありません。またあの「無責任男」本居宣長翁の戯言の呪縛ですよ。
 私、何度も書いているように、本居宣長センセイが好きになれないんです。ある面ではお世話になっているし、尊敬申し上げている面もあるんですが、こと「もののあはれ」論とこの「ヤマタイコク」論に関しては絶対許しません(笑)。
20091118_93303 そう、私たちって、本当にいろいろな呪縛(それはだいたい学校で習うことなんですけどね)にとらわれています。心を「無」や「空」や「純」にして、ものごとに臨むのが非常に難しいのです。
 で、そんな時、私はどうするかと言いますと、御本人に聞くことにしてるんです。だってそれが一番じゃないですか。
 たとえば、枕草子の「春はあけぼの」については清少納言さんに聞きましたし(こちら参照)、「走れメロス」についてはもちろん太宰治さんに聞きました(こちら参照)。
 もちろん、これって言い方としては冗談半分なんですけど、実は半分は本気なんですよ。だって、それしか真相を知る方法はないんですから。
 私は霊媒師ではありませんが、しかし一方で、私の遺伝子(ゲノム)がどこかで、彼女や彼とつながっているのも事実ですから、そういうルートで聞くというのもありだと思うんです。
 そんなことできるのか?
 そうです。それが具体的には、つまり、先ほど書いた「無」「空」「純」になって、原点(原典)に立ち返ってみるということです。その比喩としての「御本人に聞く」なんですよ。
 で、この「邪馬台国問題」を御本人にうかがってみようと、そういうわけです。そうしたら、こんな答が返ってきたんで、ちょっとそれを書こうかどうか、今とっても悩んでいます。ある意味ショックなんだよなあ、ちょっと予感はしていたんだけど…。え〜い、書いちゃえ!
 陳寿さん曰く。
 「ああ、あれね。あれはねえ、いちおう資料に従って書いたのよ。当時我が国では、東海上の国に関する伝説が流布していてね、ちゃんと書き物としても残っていたのよ。それを見て書いたわけ。だから、あれに間違いがあるとしたら、それは私の責任じゃありませんよ。だいいち、あの当時、その東海上の島国、今言うところの日本だな、あんなところへ行った人は、とりあえず私の周辺にはいなかったのよ。だから、言い伝えで書くしかないじゃんね。だいたい、私は魏の素晴らしさを記録しようとしたわけで、そんな東夷のことなんか、どうでも良かったわけ。なんとなくそれらしく、つまりちゃんとした国家らしく書いて、そいつが魏に朝貢したってことさえ表現できれば良かったわけよ。それは北夷も西夷もいっしょ。だから、あれは全部似たような感じでしょ。特に東夷、つまり倭なんてのは、ほとんど誰も知らないから、ああやって、北方や西方の異民族と同様に、いかにもエキゾチックな雰囲気を彼し出せれば良かったわけだから、今なんだか日本でエライ学者さんから在野の趣味人まで巻き込んで、私が書いたものの解釈を巡って侃々諤々やってるのは、なんとも面白いというか、いや申し訳ないとういかねえ…。だいいち、私はとっても大きな間違いを犯してしまっていたのよ。そう、その資料とした書き物が『臺』を『壹』と書き間違えていたのを、そのまま写しちゃったの。あれはねえ、当時の日本人たちが自らの国を『ヤマト』と呼んでいて、それを『邪馬臺』と漢字表記していたのの、書き間違いだったのよね。我々も漢字はしょっちゅう間違えるのよ。『臺』と『壹』なんか序の口よ。女王卑弥呼っていうのも、私も死んでから知ったんだけど、ヤマトに伝わっていた『ヒノミコ』伝承から勝手に作ったキャラクターだったみたいね。あれでしょ、今言うところの『アマテラス』と、それから弟の、なんだっけ、そうそう『スサノヲ』だったっけ、そのあたりの話が遠く大陸に伝わって、あんな具体的な話になっちゃったんでしょ。そういう例なんて、世界中いくらでもあるよ。なにしろ、当時はインターネットもなんもないからね。しかたないあるよ。最近、蓬莱山、今言う富士山ね、富士山の麓に残ってる、我が先輩徐福さんが書き残したという宮下文書ってのをちょこっと見たけどね、ずいぶんといい加減なこと書いてあったよ。でもね、立場を逆にすれば、私もそれとおんなじようなことしてたのね。しかたないね。それを真に受けちゃだめよ。それからねえ…」
 と、まだまだ続いたわけですが、とりあえずここでやめときます。
 夢を奪うようなことを書いて申し訳ありません。いや、これもまた、壮大な夢物語なのかもしれませんね。ただ、これはあくまでも、いわゆる「学問」ではありませんので、野暮なツッコミは入れないでください(と、私もまた陳寿さんと同様逃げる逃げる…笑)。

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2009.11.12

「天皇陛下御即位から二十年」記念DVD

20091113_85652 主党小沢幹事長の「キリスト教やイスラム教は排他的」発言が物議を醸しております。一神教は当然そういう性質を持つものであり、いちおう宗教に興味を持ち、日常的に禅に接し、また「排他的」の対照位置にあるとも言える出口王仁三郎を研究している者としては、この発言はある意味では間違っていないと思います。
 ただ、こういう問題は、それらの教義自体、実際の信仰上の心情、そして政治的な活動など、ちょっと考えただけでもいろいろな側面があるわけで、そういう多面的な問題を、ああいう場で簡単に一言で断言してしまうのは、それはたしかにまずかった。空気読めないにもほどがあります。さすが目の前の利権にすり寄る小沢教の教組であります(笑)。
 こちらのDVDも同じような問題をはらんでいるんですよね。皆さんのお宅のお子さんが通う学校では、今日このDVDは披露されたのでしょうか。どうなんでしょう。
 まあ、民主党政権になり、日教組の天下になった今の世で、公立学校においてこのDVDが上映されたところはほとんどなかったと予想されます。それ以前に記念式典などをやったところはあるのでしょうか。特に輿石東のお膝元であるここ山梨では、そんな気配すらないようですが(笑)。
 ニュースによれば、奈良市の教育委員会が実施上映状況を調査したということでして、これまた物議の対象になりそうです。これなんか特殊な例なのではないでしょうか。
 ということは、この数千万円かけて作られ、全国の学校に配布されたDVDはほとんど日の目を見ず、そしてどこかに葬られてしまったということでしょうかね。
 ウチの学校は、1校時に記念式典と称して全校生徒を体育館に集め、このDVDを放映しました。そして、午前中で授業は打ち切り、生徒も職員も思わぬ半ドンにちょっとラッキーという感じでした。
 もちろん、ウチの学校が特別にそちら寄りということではありません。DVDを観賞した生徒たちも、興味深々の者もいれば、寝ていた者もいるし(たぶん)、いろいろとツッコミを入れているのもいたし、半分冗談ぽくですが異議を唱える者もいました。つまり、学校としては「排他的」「一神教的」でなく、非常にフラットな雰囲気であったということです。先生たちも同様。
 私はというと、正直感動してしまいました。私は自分のことをソフトな右派のように言うことが多いのですが、最近は単純にそうとも言えない状況、心情になっておりまして、どんな気持ちになるか自分でも楽しみだったのです。そうしたら、いろいろと心の中でツッコミを入れつつも、ちょっとジーンとしてしまった。
20091113_85728_2 いや、思想的なこととか、近未来ならぬ近過去の歴史とかではなくてですね、やっぱり同じ王室がとだえることなく2600年以上続いている(それ自体物語ではあっても)ということはとんでもないことだなあと純粋に思ったのです。世界にそんな国はありません。王家の交代こそが世界史であり、そこに付随する戦争こそが世界史であると言ってもいいのですから。
 ですから、本当に単純に「日本国の象徴及び日本国民統合の象徴」だよなあと。いろいろな意味で平和な歴史の象徴であって、それはそれで実にありがたいことだと思ったのです。
 こういうことを学校のセンセイが言うと、すぐに噛みつかれるのは承知の上です。でも、そういう方々とは、正直思考の空間や時間がちょっと違うんですよね。私は「排他的」でも「一神教的」でもありませんから、そういう方々の言い分も痛いほどよく解ります。私も立地点がそこなら、そう言います。しかし、それこそいろいろな立地点があるわけで、今日の私は先ほど述べたようなところに立って目の前に広がる風景を眺めたわけです。ただそれだけのことです。
 それにしても、このDVD、最初からヘンデルの水上の音楽が流れたりして、いきなり英国王室なのには笑いました。さすが懐が広く深い(笑)。ちなみに次はヴィヴァルディでした。
 それから、このDVDが制作された時期や事情からしてですね、当然登場人物に哀愁が漂っていました。特に麻生前総理のあの「礼」のしかたはどうでしょう(笑)。福田さんもなんか泣きそうだったし。
 このDVDの内容にも、また、天皇陛下即位20年の記念式典での天皇の発言にも、「平和」「家族」という大きなテーマがあったと思います。そうしたイメージの天皇制が構築されるあたって、キリスト教の影響が非常に大きかったということも忘れてはなりませんね。世の中は、そう簡単に二分できません。「排他的」なんていう言葉も本来ありえません。
 なぜなら、お釈迦様が言う通り、「自己」=「他者」であるからです。

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