カテゴリー「スポーツ」の284件の記事

2012.02.05

『迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 』 ネルケ無方 (新潮新書)

51fvctgyxll 日の話題「方便」も出てきました。へえ〜、僧堂ではこういうのを「方便」と言うのか。
 今日は東京にてマタイ受難曲の練習。鞭打ちのシーンの付点はもっと鋭く…と言われても、仏の慈悲心からかどうしても甘くなってしまう…いやいや、単に技術がないからです(苦笑)。
 実は練習の合間にこの本を読み進んでいたのですが、まあまたまた驚きの偶然、いや必然がその後起きました。
 練習が終わって、私は高円寺に向かいました。真のプロレスリング伝導者にして、IGFの現場監督(GM)宮戸優光さんに会いに行くためです。
 大晦日の「元気ですか!! 大晦日!! 2011」や2.17の興行のこともいろいろお聞きしたかったし、昨年はいろいろプライベートでもお世話になっていたので、お礼かたがたいろいろお話をしようと思っていました。
 私たち二人が話を始めると、ちょっと不思議な雰囲気になります。おそらく周囲の人たちはついてこられない世界ではないでしょうか(笑)。すなわち、プロレスや教育の話をするのですが、それが非常に「禅」的な内容とスケールになっていくのです。
 そして、なんとも摩訶不思議なことに、私は何も言っていないのに、宮戸さんの方からこの本の話が出たのには驚きました。それ、まさに今日読んでいる本ですよ!もうこれは偶然ではないですよね。あまりにマニアックにピンポイントすぎます。仏縁でしょう。
 いやあ、本当に宮戸さんは私にとって、アントニオ猪木という神(仏?老師?怪物?)の良き右腕としてのみならず、一人間として尊敬すべきプロレスラーであり指導者であり、そして、これはおこがましいかもしれませんが、良き修行仲間という感じがするのです。
 なかなか言葉では説明できませんが、互いに「仕事」や「鍛錬」を通じて、共通する「何か」の存在を予感し、いや確信しているんですね。そこに大きな共感があるんです。
 だから、今日のような不思議なシンクロが生まれるのでしょう。
 正確にいうと、この本が直接出てきたのではなく、この本で紹介されているオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」の話から、この本の話になったのです。まさに今日のお昼にその「弓と禅」が紹介されているところを読んで、私自身も「ああ、そう言えば『弓と禅』読んでないな」と思った矢先だったので驚いたというわけです。
 さて、そんなわけで、帰宅してからまずはこの本を一気に読み終えました。ものすごいスピードで読めたのは、宮戸さんとの会話のおかげで、この本に書かれている内容の理解が…いや理解ではないな…腑に落ち方が尋常ではなかったからです。
 これぞまさに「師匠」の力であり、「縁起」そのものでありましょう。ありがたいことです。
 そういう意味も含めまして、この本、今まで読んだどんな禅に関する本よりも、すうっと心に、いや体に入って来ましたね。「私が座禅するのではなく、座禅が座禅するのだ」…この境地は予感できます。いや、理屈や言葉によらずに「確信」できます。
 ネルケさん、いや無方禅師の、その境地まで至る過程もまたよく分かるものでした。
 私もかなり徹底した「野狐禅」「野狸禅」の実践者でして、最近ではいろいろな老師様とお話する機会をもいただいております。普通の雲水さんではとてもお話できないような方々ですよ。野にあるからこそ可能なことです。ずうずうしいだけとも言えますがね。また、上司や同僚、教え子や友人に僧堂での経験者が多いこともありまして、日本の仏教そのもののあり方や禅の修行の問題点や奇妙なところをけっこう知っている方だと思います。
 それをドイツ人であるネルケさんが実に客観的に、そしてある意味批判的に包み隠さず書いている点(もちろん仮名が使われたり、寺名は伏せられたりしていますが)、非常に貴重な「資料」だとも言えます。なかなか内部の人、特に日本人にはこうは書けませんね。
 そういう意味では、以前紹介した「食う寝る坐る 永平寺修行記」とも一線を画していると言えます。かの著者は日本人でしたし、僧侶になったわけではありませんから。
 「禅」に興味がある方はもちろん、東西の比較文化論に興味がある人、あるいは「迷える者」たちにもぜひ読んでもらいたい本です。
 最後に道元禅師による「現成公案」の一部を、著者が現代語訳したものを引用させていただきます。ここに禅のエッセンスが表されていると感じました。

 私たちの日常生活も、それをはるかに越えた宇宙全体も、様々な側面がある。しかし、私たちに見えているのはそのほんの一部分でしかない。それぞれの視野に収まる範囲の物事を見聞きし、各々が受けてきた教育や人生体験で処理しているだけだ。物事の本当のあり方が知りたければ、自分のメガネを通して物事に『◯╳』をつける以前に、物事にはこの頭で割り切れない側面のあることを理解しなければならない。周りの人々(山・川)にはまだ気づいていない徳もあろうし、自分が想像してもいない世界が他にもあるということを、よく承知していなければならない。これは他人事ではない、自分の足下の話なのだ。

Amazon 迷える者の禅修行


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.01.27

「リリジョンフリー」というアイデンティティ

Store 道家でもある我が校の校長から宮脇磊介氏の講演録のコピーをいただきました。拝読して感銘を受けましたので紹介させていただきます。
 リージョンフリーならぬ「リリジョンフリー」という発想はなかなか面白いし、日本人のアイデンティティの根幹をうまく表した言葉だと思います。
 「宗教」という言葉や概念からの解放ということで言えば、出口王仁三郎の思想もこれに近いかもしれませんね。
 私は「武士道」という言葉にある種の違和感を抱いてきた者なのですが、今回の宮脇さんの解説により自分なりに腑に落ちるところがありました。
 その他、「武道」ではなく「武芸」、「見」でなく「観」、さらに「観」でなく「映」、スポーツとして勝つために何が必要か…などなど、非常に興味深いお話が盛りだくさんです。
 結局植芝盛平が最強ってことでしょうか。ということは、やっぱりその師である王仁三郎はとんでもない大化物だったということですね。そんなことも再確認しました。
 では、縦書きでどうぞ。

 宮脇磊介 「日本のアイデンティティとは何か」を考える 「国際化する武道」と日本文化に連綿と流れる「普遍的価値」  全日本剣道連盟剣道文化講演会 2011.12.10

(はじめに、の部分は省略させていただきます)

 武道の国際化

 みなさまご存じのように、日本の武道が国際化しております。柔道も合気道も国内の参加人口よりもはるかに多い人たちが、海外で稽古に励んでいます。剣道もまた、海外人口が増えてきて、世界選手権大会がもたれるに至っています。そうした状況下で、特に近年、柔道、なかでも男子柔道が国際試合で金メダルを取ることが難しくなってきました。怪力の選手や巨大な選手に、力で振り回されて、技が出せない哀れな姿がテレビで報じられるようになりました。日本のお家芸であった柔道が、世界各国のレベルに追い付かなくなってきますと、国際団体の中での主導権が日本から離れて行く状況が見られるようになりました。本来の日本の柔道が長年受け継いできたルールが変更され、否定されてきました。白ではなくて、青い柔道着も現れました。日本は、当初、こうした日本流のルールを変えられることに反対しました。
 しかしながら、武道をスポーツ化した以上、また、国際的に広まってきた以上、「テレビ向け」と「コマーシャリズム化」は、必然的であり宿命的であります。オリンピックや世界選手権大会で、世界中の視聴者に分かりやすく楽しんでもらうためには、柔道着の色で識別してもらうのが、最も適当です。普段柔道の試合を見たことも無い視聴者、選手の名前も知らない視聴者が、両方とも白い柔道着を着ていては、興趣(きょうしゅ)が湧いてきません。世界の流れに従わざるを得ません。
 でも、100%国際柔道連盟が決めたことに従ってよいのでしょうか。決してそうではありません。また、国際柔連としても、いかにスポーツ化したからといって、世界の人々から支持されている「柔道」が求める精神面での意味が否定されては、柔道ではなくなってしまう。国際化された「JUDO(じゅうどう)」にも限界があることが次第に分かってきました。海外で柔道に魅力を感じて稽古に励む人たちが求めるものは、「礼に始まって礼に終わる」ことを始め、「謙虚な心」で相手に対峙すること、などの「求道」でした。それまで否定するわけにはいかないことに気付いてきました。皆様方ご案内のとおりです。一方、日本の柔道界には、ぎりぎり最後まで守り抜かなければならない価値は何か、譲ってはならないものは何か、が厳しく問われてくることになりました。
 「日本柔道の真髄」とは何か。それは、「日本文化の本質」にかかわるものであります。言葉を換えて言えば、「日本のアイデンティティ」が問われてきたのです。剣道でも、全く同じ傾向が見受けられるようになりました。武道とは異なる日本文化でも、俳句などでは、国際俳句連盟の方が、海外各国に向けて影響力を持つようになってきています。

日本のアイデンティティ

 さて、ちょうどこの頃、日本の社会でも、武道の国際化とは関わりなく、「日本のアイデンティティとは何か」が、日本の文化人や学者などの間で、にわかに論議されるようになりました。
 武道に限りませず、あらゆる分野に亘って日本のアイデンティティが問われるようになってきたのでした。それには、東西冷戦の終結に伴う「グローバリゼーション」が関わっているように思われます。
 それぞれの国は、言葉の相違だけではなく、それぞれ異なる文化を持っています。お互いの国、相手の国の文化を知り、それと自国、日本の文化との違いを知ることが、国際的な交際や折衝に欠くべからざる要素となってきたのです。文化とは、それぞれの国や民族の「アイデンティティ」と表裏をなすものです。その国の文化の本質・文化の精髄が、その国の「アイデンティティ」に他ならないからであります。
 さようなことからでしょう。文化人はじめ多種多様な人たちが「日本のアイデンティティ論」を取り上げるようになりました。そこで等しく「日本のアイデンティティ」として取り上げられたのは、「武士道」でした。新渡戸稲造氏が英文で著した「BUSHIDO」が、なにかと引用されて、「武士道が日本のアイデンティティである」かのように、喧伝されるようになりました。
 みなさま。武士道を日本のアイデンティティと考えてよろしいのでしょうか。とんでもない話です。ちょっと考えればわかることです。「武士道」という言葉が歴史上、現われたのは、いつごろでしょうか。そうです。戦国時代の後期、武道をおやりの皆様ご存じの「甲陽軍鑑」からです。「武士道」が、武士の行動規範として主張され、広まったのは、江戸時代に入ってからのことです。たかだか400年前のことではありませんか。
 日本の歴史は、神話の時代に始まります。日本の神話を初めて綴ったのは、皆様ご存じの「古事記」です。そこに、「武の文化」ともいうべき「日本文化の源流」が明瞭に示されています。日本人としての価値観も示されている。現在においても、それが連綿と受け継がれている。しかも、途切れることなく、です。「日本のアイデンティティ」が、そこに見出されるのです。にもかかわらず、たかだか400年前からの「武士道」を、1300年ほど前から示された、「武の文化」の長い歴史があるにもかかわらず、「日本のアイデンティティ」とすることは、いかにおかしいことか。子供にでも分かることです。そんなことが、堂々と横行する日本の現状は、嘆かわしい。賢明なる皆様方には、そう御感じであろうかと存じます。
 このようにして、日本は、そして日本人は、日本のアイデンティティを見詰め、日本のアイデンティティを心の中に据えておくことが求められるようになった。そう考えてよろしいのではないでしょうか。  
 「アイデンティティ」と言う言葉は、日本人には分かり難い言葉です。「アイデンティティ」を平たく申しますと、「自分で見つけた自分」「自分自身の個体(個人・民族・国家など)の価値」と考えてよいでしょう。したがって本論では、「日本人自身で見つけた日本ないし日本人」「日本本来の日本の価値」「日本人であることの価値」などと、大まかに理解しておけばよいと考えています。定義にこだわると、「神学論争」に嵌まってしまいがちです。
 日本は、島国です。たしかに、「黒船ショック」がありました。「明治維新」という無血革命も、成し遂げました。しかしながら、これまで、日本ないしは日本人は、「世界の中の日本」「世界の中の自分自身の価値」をあまり考えないでも、なんとかやってこられました。「自分が何であるか」とか「アイデンティティは何か」を問いかけなくても、今まではそれで済んできた。そう思ってきたのでした。それが、日本が国際化から後れをとる大きな原因のひとつにもなっていたのです。
 さて、きょうのお話のタイトルは、「日本のアイデンティティとは何かを考える」とさせていただきました。「考える」としましたのは、「日本のアイデンティティ」について、わたくし自身の考えを申し上げようとしているのではなく、みなさまと一緒に「日本のアイデンティティとは何か」を考えて参りたい、それについて、わたくしとして出来ることは、みなさまと考えるに当たって「ヒント」になるであろうことを提供させていただきたい。さような考えからにほかなりません。この点、あらかじめご理解賜りたい。心からお願い申し上げたい、さように存じております。

 武芸を体験しない文化人

文化人が語る新渡戸稲造氏の「BUSHIDO」を引用する「日本のアイデンティティ論」で痛切に感じられますことは、日本の文化人たちが日本の「武芸」に馴染んでいないことであります。剣道・柔道など「武道」の稽古をした経験が無い人が殆どです。武道への「関心」といっても、せいぜいオリンピックや世界選手権大会でのテレビを見るくらいの程度です。そんな人たちが、「武士道」や「日本のアイデンティティ」を論じて本や随筆を書いたりしているのです。
 さきに申し上げたように、日本の文化の底流をなすものに、「武の文化」があります。日本文化を論じる時、欠かすことの出来ない重要な要素です。
 日本の歴史は、豊葦原瑞穂国(とゆあしはらみずほのくに)の生成に始まります。古事記などが記す神話の時代から、日本人の祖先は、タケミカズチノ神を「武の神」としたように、武を尊び、刀剣に格別の権威を抱いていました。神代(かみよ・神話の時代)にあって、刀剣の持つ力への崇敬の念は、日本人の精神性の柱をなしていました。また、「心身の在り方」として、「明らけく清らけくあること」が尊ばれ、「禊ぎ(みそぎ)」「祓い(はらい)」が、穢れのない清澄な精神に導く手段でした。
 その後の日本の歴史は、武芸におきまして、世界の他の国々や地域で発達した武術と異なって、「相手を殺傷しないあり方」を求めるところに特徴を示すようになりました。「平安な心のありよう」を追及する茶道・華道・能楽など、日本の伝統文化には、日本古来の「武」が尊んできた、「高い精神性」から生まれる「平和な心・清冽(せいれつ)な心」のありようが、底流をなしてきたのであります。
 このように、古事記の時代からの日本にあった「武の文化」が、日本文化の底流をなし、あるいは、直接間接に影響を及ぼしてきたのでした。したがいまして、「日本の文化」を論じる時、この「武の文化」を抜きにして語ることは出来ないのであります。
 また、最近の傾向として、茶道、華道、俳句、柔道、合気道などの伝統文化の中には、日本国内よりも、海外の愛好者人口の多い所も出てきました。また、昨今は、アニメやマンガなどのサブカルチャーと言われるものが、日本の人びとの理解を越えて、世界の人びとの心をとらえるようになっているのです。日本の人びとが、自らの文化の本質への理解を欠いているために、その本質を海外の人たちに解説も出来ない。そんな状態が、許されなくなってきているのです。ここに、きょうのテーマである「日本のアイデンティティ」ですとか「武の文化」への国民挙げての理解が求められるゆえんであります。
 なお、すでにお気づきの方もおられるでしょうが、きょうのお話では、日本古来の武に関する体技を、「武芸」と呼称させていただいております。「武道」「武術」「武芸」と三つの言葉を、使い分けいたしております。「武道」という言葉は、皆様ご存じのように、明治時代に入ってから一般化しました。「武術」という言葉には、技術・技(わざ)に重きが置かれている印象がございます。そこで、日本古来からの「精神性」と併せて「心のありよう」を含めた「武芸」を適当と考えました。

 国際試合で金メダルを取るためには、どうしたらよいか

 さて、それでは、まず第一に、日本の武道が当面抱えている国際化に伴う問題点とそれをいかに克服するか、について検討を致したい。第二に、その背景にある日本古来の武芸への関心を喚起する必要性。第三に、日本の武芸を担ってきた先人達が求めた究極のものは何だったか、について、検討を進めて参りたい。
 その上で、連綿として流れてきた「武の文化」を底流とする「日本の文化」に眼を転じて、三つのことを申し上げたい。一つは、その特徴、「日本文化の特質」を、皆様と共に確認し合いたい。二つには、その「日本文化の精髄」が、こんにち、および、これからの「世界に普遍的な価値観」として全世界に向けて提供することが、日本の役割であることを申し述べたい。そして三つめ、最後に、その中で「日本の武道家の役割」、武道家が考え、かつ、なすべきことは何か、を見詰めて参りたい。換言すれば、「日本武道の目的」とするものは何か、ということです。
 まず、当面の問題として、本来日本が元祖であり、日本のお家芸とされてきた日本武道が、各種目の国際試合で、圧倒的に金メダルを獲得するためにどうしたらよいか、について見て参りたいと思います。
 柔道に例をとってみますと、特に、男子の不振には、目を覆うものがあります。負け方の多くは、外国選手の怪力に屈して技を出せないうちに負けてしまうパターンです。「力負け」しないことは、今や、世界を目指すものにとっては、絶対的な必要条件なのです。日本選手は、いくら技が切れて、「美しく勝つこと」や「一本勝ち」を勇ましく宣言しても、外国選手の怪力に歯が立たず、惨めな結果となるパターンの連続です。世界を目指すからには、優れた技を持ち、かつ、長身や目方のある怪力外国選手を相手にして力負けしないだけの怪力と持続力とを持つことが先決です。いくら技が切れても、体力が伴わない選手は、もはや、始めから「国際試合不適格者」として国際試合へのエントリーから外してしまうことです。「国内試合優勝用選手」に甘んじさせる以外に道はありません。
 剣道でも、同様なことが言えるのでしょう。体力とその持続力、集中力とその持続力に加えて、柔道とは異質の様ざまな資質が求められることでしょう。
 怪力に加えて、技(わざ)の習得について格別の工夫があってしかるべきであります。これには二つの道があります。一つは、世界中、古今東西の格闘技の技を取り入れて、必要なものを身につけることです。もう一つは、日本古来の武道家が心血を注いで開発し、磨き上げた格闘技の技を吸収することであります。ここでは、後者について考えてみます。
 世界一を目指すからには、「世界最高の技」を習得しなければなりません。
日本古来の日本の武芸各派が、長年月をかけて、生死を賭けた勝負での「必勝」を期するために開発し、磨き上げてきた独特な技や手法がございます。近代科学では、説明のつかない、無数のノウハウが、そこにあります。
 16世紀後半に、上泉伊勢守信綱が、当時主流をなしていた、力とスピードで相手を圧倒したうえで自分の得意とする技に引き込んで勝つ、という戦い方に囚われないで、相手の動きに対応して、いかなる形の攻撃に対しても無理なく勝つ方法を体系化し、全く新しい流派を創設しました。それが、新陰流でした。また、合気道は、相手の力や心身反応を利用して、相手の態勢を崩すのが基本原理です。
 スポーツ武道の国際試合で勝利を得ようとするのであれば、日本選手は、手近なところに、海外の選手たちが直ぐには真似の出来ない、日本独特の幻妙にして多彩な技と理法が山ほどあることに着目し、その精髄を窮める修練を尽くさなければならないのであります。
 武田惣角の「壁抜けの術」ですとか、三船久蔵の「空気投げ(隅落し)」などもクリアしたいものです。前者は、目にもとまらぬ速い所作(しょさ)と催眠誘導が基礎になっているように思われます。また、相手に触れないで投げ飛ばす「隅落し」は、相手が自分自身でも感じていない心身反応のツボへの刺激と反応の活用と考えられます。夥しい魚の群れが一斉に同一方向に流れるように移動するのは、何百万年という長い年月のなかで、身の危険をかわす必要から、一般の人間からすれば、一瞬としか感じられない時間が、魚群にとっては、身をかわすのに十分な時間となっているからだと思うのです。「凝縮された集中力による時空のスパンの変化」といってよいものでしょう。植芝盛平が屡しば口にしたと言われる、戦地で鉄砲玉が見えるから当たらない、と言ったことは、ある程度合点がいくところです。なお、植芝盛平の十人掛け・十人飛ばしのフイルムを見ると、座位のまま、目にもとまらぬ早業で、前後左右に移動して、体さばきをしていることが分かります。人並み外れた修行の賜物が、そこに明瞭に映し出されているのです。
 勝負での必勝法を見出そうとする時、欠かせないのは、宮本武蔵の「平常心」です。皆様ご存じのように、武蔵は、「平常心」と言う言葉は使いませんでした。「兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に変わることなかれ」と説くのを、一般に「平常心」と呼んでいるわけですね。俗な解釈では、「緊張せずに、平素と同じようなリラックスした気持ちで試合に臨め」と理解されています。そんな気持ちで真剣勝負に臨んでは、たちどころにバッサリやられてしまいます。武蔵が言わんとするものは、「必勝は、真剣勝負で相手に負ける事のない最高の精神状態を、日常平素から持ち続けていることによって得られる」と言うことにあるのでしょう。皆様に申し上げるまでもないことです。
 宮本武蔵は、「見(けん)」でなく「観(かん)」と説きました。これについて、植芝盛平が、「観(み)る」でなく「映(うつ)る」じゃ、武蔵はまだ完成していなかった、と評しました。「映る」という捉え方は、柳生家の一大事(秘伝)である「西江水(せいごうすい)」の中にも出てきます。「心が何物にも煩わされることが無くなり、心が明らかとなってすべての道理が分かるような状態である。この状態になると、自ずと敵の心が自分の心に映ってくる」と解説されています。

 武芸を担ってきた先人たちが求めた究極のものは何だったのか

 このように、日本には、他の諸国、特に西欧諸国の近代科学では、到底及びもつかない幻妙な技(わざ)が山ほど開発されてきました。「小宇宙」とされる、人間の経穴や無意識の反射反応を自在に操ることにより、手を触れなくても相手のバランスを崩し、相手の力で相手を無力化する技までも、伝習されているのであります。人体構造における心身の玄妙な働きのメカニズムに、厳しい修行を通じて迫った結果、習得された貴重な文化遺産であります。
 日本の武芸諸流派が共通して鍛錬するものに、「呼吸法」があります。意義の説明の仕方や鍛錬の手法は、まちまちですが、言わんとするところは皆同じです。「心身の働きを自在にする」「集中力を高める」「丹田に気を集める/気を練る/気を蓄える」と、心身の全ての感覚が総動員され、かつ、状況に応じて最も有効に機能する状態を作り上げる効果を期待します。
 森羅万象ことごとく「宇宙のリズム」に随って生成し、消滅します。呼吸の加減は「宇宙のリズム」に則したものであることでなければなりません。結局、諸流派が「極意」「奥儀(おうぎ)」として求めるものは、「無形の位(くらい)」「轉(まろばし)」「無構え(構えあって構え無し)」その他様ざまな表現がありますが、いずれも、「いかなる状況にも対応できる心身の状態」に尽きます。それが「自然のありのままの心身の姿」であり、「宇宙のリズムに適ったあり方」などと表現されるのであります。
 武技が高度なものに磨かれてきますと、重点は「力」よりも「技」へと移ります。次いで「心のありよう」が、修練の目標として見えてきます。さらに進むと「相手を殺傷しないで制圧する」「相手と力によるバトルをしないで勝つ」「気位(きぐらい)/高度な精神力を相手に感応させて戦意を喪失させる」といったことを尊し、とするようになります。
 日本の武の文化は、西欧での武のありようと異質であります。刀剣については、日本では古来から権威あるものとして受け止められ、精神性が尊重されます。天皇の天皇としての証しである三種の神器には「草薙の剣(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)」があります。海外では、どうでしょうか。ダガーナイフや青龍刀など、精神性の無い「殺傷の用具」でしかありません。また、戦国時代から江戸時代にかけて「武士道」「士道」など武士の行動規範が武家社会の中に広まりました。日本の「武士道」と西欧の「騎士道」もまた、質を異にします。日本では「死生観」を見詰める精神性が強い。これに反して、西欧の「騎士道(chivalry)」では、「勇気」「婦人尊重」などを看板にしていますが、本質は「カッコよさ」の顕示というスノビズム(俗物主義)に過ぎないのです。

 武芸に求めていた究極の目標

 ところで、では、先人が武芸に求めていた究極の目標・究極の理念は、何だったのでしょうか。植芝盛平は、「武技は、天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至る業(わざ)であり、道程である」(「合気道の精神」)と説いています。「宇宙との一体感/一体化」「宇宙の理法に適った心身の働き」「宇宙のリズムとの調和」などとも説かれています。この場合の「宇宙」という言葉は、「自然」「山川草木・森羅万象」「天」などと置き換えることが出来るでしょう。
 「身心一如(しんしんいちにょ)」と説かれるように、日本では心身は、キリスト教文明で考える二つの別々のものではなく、一つであります。五感や経穴、あるいは、それら以外に未だに発見されていない心と身体の反応・感応のメカニズムは、心身一体のものとして捉えられなければなりません。そうでないと、日本の諸武芸の理法や、それらの奥にある究極の目標である「宇宙の理法」は、理解できません。

「世界に平和をもたらす理念」への集約

 武芸の先人達が、後世に残そうとしたものは、何であったのでしょうか。
日本の武芸は、殺傷の技術から出発しながら、その中に「神武不殺(しんぶふさつ)」すなわち「殺すなかれ、破るなかれ」を理想としてきました。そして、「相討ち」から「相抜け」へと脱皮するなど、相手を殺(あや)めたり、傷つけたりする世界から、相手を生かし合う世界へと転化を進めて参りました。
 日本の武芸の中で、代表的なものは、剣術と柔術でした。剣術は、本来、刀剣という「武器」によって相手を殺傷する技術であります。しかしながら、日本では、やがて、相手を活かして勝つことを求めるようになりました。柔術は、もともとから、武器を持たないで、「無手」「空手・空拳」で、場合によっては武器を持つ相手にも勝つ、という技術を目指してきました。 
 柳生新陰流の流祖、上泉伊勢守信綱は、真剣勝負での必勝法を極めようとして、その極意に達しました。しかしながら、上泉伊勢守は、自分が極めきれなかった「無刀の位」を工夫することを、兵法者として名をなしていた大和の国の柳生宗厳(やぎゅう・むねとし)に託したのでした。宗厳は、「無刀の位」を極めることに成功しました。武器を持たないで、武器を持っている相手を制圧する手法を編み出したのでした。これは、塚原卜傳(つかはら・ぼくでん)が、「一の太刀(ひとつのたち)」を考案して、その開発した木刀使いの威力を発揮して、すべての相手を、パワーとスピードで捩じ伏せたのと対照的であります。上泉伊勢守が目的とした哲学は、この卜傳流のやり方を乗り越えることにあったのでした。
 合気道になりますと、これまた、殺傷の技術から出発しながら、次第に、「神武不殺」へと、相手を生かし合う世界へと転化しました。技法、技の出し方も、決して自分自身から先制攻撃をしないことを練磨の基本とし、これを「武の究極の理法」としました。そして、「人と争わず、自然を損なわず、力でのぞまず、対すれば相和す。宇宙との和合を目指す愛の武道(、それ)が、合気道である」(植芝盛平)としたのでした。
 講道館の創設者、嘉納治五郎師範は、「柔道とは、心身の力を最も有効に使用する道」であって、かつ、「相助相譲自他共栄の道」であるとしました。「精力善用」「自他共栄」の理念であります。これは、今日これまで述べてきました日本武芸が長い年月の中で求めてきたものの集大成であると言えるのでしょう。また、日本から世界に向けて、「発信」を意識した一つの体系化された理念でもありました。事実、国際的な武道界で、こんにち膾炙されているところであります。なお、嘉納師範は、「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を極む」と説きました。上泉伊勢守・柳生宗厳の「無構え」から進めて、「無心」に到達したのでした。宮本武蔵の五輪書「空の巻」の最後の締めくくりの言葉は「心(しん)は空(くう)なり」とあります。相通じるものがみえてきます。

 「武の文化」を始めとする日本文化を生み出すことができた「環境」

 これまで皆様に申し上げてきた事柄は、異論はありましても、日本人にとりましては、格別の違和感なく理解でき、受け入れられることだと思います。ところが、海外、なかでも白人支配のキリスト教文明諸国の人びとにとっては、なかなか理解されないのです。どうしてでしょうか。理由は、はっきりしているのです。そして、この点は、日本文化の特質、および、その発生の源を考える上でとても大事なことであります。
 日本人は、長い歴史上、ほとんど「宗教」と「イデオロギー」の呪縛を受けてきませんでした。それは、日本にとりまして、とても恵まれた環境だったと言えます。そうした拘束の無い中で、日本人は、自由闊達に精神活動を展開することが出来、様ざまな文化を育てることが出来たのでした。
 海外では、そうはいきません。17世紀以来、世界は、白人によるキリスト教文明支配に覆われました。キリスト教は、一神教の宗教です。人間が創ったフィクションに基づく一神教や一神教文明は、人間が生まれ持った自由で無垢な心と行動を、宗教上の戒律によって、ときには強制的に、一つの方向に、人間を加工してしまいます。
 こうした、ヤーヴェ信仰に基づく、唯一絶対の神への服従を説き、天国と地獄、それに悪魔の存在を心底信じさせられてきた「一神教のユダヤ教(旧約聖書)やキリスト教の世界」は、日本に存在しないと言えるくらい、影響力を持っていません。そのために、日本では、古事記の昔から今日まで、「明らけく清らけく」ある心を、切れ目なく保持しつつ、日本独特の自由な環境の中で、絢爛たる文化が育ってきました。自由で平等な人間性を謳歌し、闊達な神話や芸術作品を産んだギリシャの環境は、キリスト教によって断絶しました。
 この「一神教の拘束から自由な環境」を「リリジョンフリー(religion free)」と呼ばせて頂きたいと思います。英語として、必ずしも正確な表現とはいえないかもしれません。また、もう一つ、一神教の宗教だけからの自由ではなく、他の諸々のイデオロギー上の精神的制約を受けない自由までを含めている。ほぼ完全な「自由環境」を意味しております。その「リリジョンフリーの環境」によって、「日本文化」があるのです。
 「日本人の信仰心」は、学問的には、「アニミズム」として捉えられてきました。西欧キリスト教文明からは、やや軽侮の意味が籠められていました。「日本人は、無宗教だ。野蛮人だ」とする見方です。しかしながら、むしろ、日本が「リリジョンフリー」であることを、誇ってよいことだ。そう強調したいのです。欧米の人から「神(GOD)の存在を信じるか」と、問われることがあります。 日本人の宗教観を確かめたいのでしょう。その時は「一神教の神(GOD)は信じません。宇宙に存在する万物を支配している“宇宙の理法”の存在を信じます。そして、“宇宙の理法/宇宙のリズム“に適った、心身の在り方、呼吸の仕方、物の捉え方、考え方をすることが、”人間本来の姿“と考えています。それが、人に”幸せ”をもたらせもします」と答えればよいのです。
 また、キリスト教文明諸国からは、日本は「神道の国」とか「儒教の国」とか言われてきました。しかしながら、神道には教義も無ければ経典も無い。また、布教行為もありません。宗教の定義は無数にあります。けれども、こうした神道までキリスト教と肩を並べて宗教とはとても言えるものではありません。また、儒教についても、本来、生活上・処世上の指針のようなものでしたし、日本では、中国や韓国よりも遥かに宗教的色彩が薄まっているばかりか、江戸時代に儒学者の手によって加工されて、「武士の行動規範」として、変形・変質されたものになっていました。仏教は、キリスト教・イスラム教と並んで、世界の三大宗教の一つとされてきました。しかしながら、仏教は、もとより一神教ではありません。さまざまな宗派がありますが、教義も、一言でいえば、困った人に投げられる「筏(いかだ)」と説明されています。このようなことから、日本を「リリジョンフリーの国」と表現することが適当でしょう。

 リリジョンフリーの国であることの恩恵

 日本が「リリジョンフリーの国」であることが、どれだけ日本人自身に幸せをもたらせているか、計り知れないものがあります。皆さんにも、お考えいただきたいと存じます。
 リリジョンフリーの日本の環境のもとで、絢爛多彩な文化の花が、長い歴史の中で、いつの時代にも、咲き匂い、咲き誇ってきました。海外からも「日本文化の特徴」と指摘されてきたのは、「わび」「さび」「もののあはれ」「いつくしみ」など、「繊細で洗練された美意識と感性」であります。和歌や俳句には、「人間以外のものの心」を詠(よ)むものが多く見られます。日本人は、人間以外の生命体、動物・植物、ですとか、石や岩のような無機質の物体、ロボット、人工衛星はやぶさなどですね、そういうものを含めて森羅万象すべてに「心(こころ)が存在している」と感じているところから生まれる発想です。何とでも心が通じるのです。ですから、和歌・俳句にあらゆるものの心が詠みこまれるのです。
 日本の文化には、「より高い精神性を求める」という特質があります。その「精神性の希求(追い求める)」は、日本文化の全ての領域に亘って浸透しています。茶道、華道を始め、野球道からマンガ道など、何でもかんでも「道(どう」」をつけてしまいます。また、何でもかんでも「神様」にしてしまいます。千葉幕張には、ロッテを優勝に導いたバレンタイン監督を祀った「バレンタイン神社」があります。東電本社の屋上には、エジソンを電気の神様にした「エジソン神社」があるそうです。地方では、あちこちに〆縄を巻いた大きな岩が、神様として祀られています。
 また、「感謝」の気持ち。なかでもはっきりしているのは、「自然に対する感謝の気持ち」です。キリスト教文明諸国では、「人間は万物の霊長」であり、「人類が自然を征服」する、とされているのとは、正反対です。キリスト教文明諸国での「感謝」は、神が人間に求めるものです。日本人が持つ「感謝」は、本来自然に生まれてくる感情です。では、どういうところから自然に感謝の気持ちが生まれるのでしょうか。それは、「畏敬の念」のあるところに生まれてくるのです。自然に対する畏敬の念が、日本人の「感謝の気持ち」の根源なのです。
 「自由」「人権」などの価値観・概念も、キリスト教文明諸国と日本とでは、異質です。欧米では、「束縛から解放された自由の状態」です。日本の場合は、「人間としてありのままの心の状態」が「自由」な状態です。また、「人権」も、神が人間に付託されたものとされるのに対して、日本ではもともとそれと比較される概念がみあたりません。人も動植物も森羅万象ことごとく平等だからなのです。多くの日本人に気付いてもらいたいことです。「日本は、欧米先進諸国と価値観を共有する」と言われます。なにも相違を積極的に強調する必要はありません。しかしながら、日本人/日本国民としては、心の中では、きちんと整理して、そのアイデンティティを堅持していて頂きたい。そうお願いしたいのです。
 ただいま、「自由」について申し上げました。日本では「とらわれない心」「無心」という言葉でも置き換えられます。そして、これらは、「武の文化」が求めてきたもの、そのものであります。これが、「リリジョンフリーの環境」の下で、初めて存在できる、そして、自分自身で認識できる「人間の本来の姿」なのです。そうした「リリジョンフリーの環境」の中で、日本人の「洞察力」「直観力」が研ぎ澄まされます。また、「想像性(イマジネーション)」「創造性(クリエイテイヴィテイ)」が伸び伸びと発揚されます。世界トップを行くファッションデザイナ―や建築家が日本から生まれるわけです。国家の支援ではなく、文化のお蔭なのです。
 日本の時代劇と米国の西部劇との間に決定的な違いが見られます。日本の時代劇では、武芸の達人が、道角(みちかど)の向こうに潜む敵、あるいは、背面から足音を忍ばせて近付いてくる敵を、「気配(けはい)」で察知します。これに対して、西部劇では、拳銃王といえども分かりません。危険地帯に入って、きょろきょろしたり、石を投げて反応を引き出したりするにとどまります。
 「道徳」にしても、キリスト教文明諸国では、宗教上、神が示すもので、道徳教育は宗教教育の一環です。日本では、躾(しつけ)のように様ざまな価値観などを混然と取り入れた社会行動規範と併せて、個々人の価値観にゆだねられています。日本の武道の目的が、「人格形成」という、日本人の感覚からすれば宗教色の無い道徳的なものとされていることも、「リリジョンフリーの環境」のしからしむところでありましょう。
 近年、日本武道の国際化によって来日して修行する海外選手とは別に、欧米はじめ、海外諸国から日本古来の武芸や文化に強い関心を寄せて遥々来日する人が増えてきました。強くなるための修行だけでなく、日本の武芸や文化の本質は何かを、宗教とは離れて、自ら哲理的(「理」に照らして)かつ体系的に求めます。また一方、アニメやマンガなど日本のサブカルチャーに熱狂する世界の若者が増えています。なぜでしょうか。キリスト教文明の傲岸さやイスラム教諸国との宗教を異にする対決構造。同じ宗教内での宗派の対立など、血を血で争う戦争や紛争に倦(あぐ)んだ人たち、そしてまた、キリスト教の「人間が自然を支配する」とする考えが、自然破壊をもたらし、人類の生存に危機感を抱き始めてきた人たちが、自由な「リリジョンフリーの国・日本の文化」に魅力を感じるようになってきた。そう考えて当たらずといえども遠からず、でしょう。

 まとめ

 さて、きょうの皆様へのご報告も、終わりに近づいてきました。ここで、これまで申し上げてきたことを、かいつまんで、整理させていただきたいと思います。
まず、日本の武道が国際化してきて、国際試合で、海外の選手の方が、日本のお家芸である剣道や柔道を脅かす存在になってきた。その結果、日本の武道が守り抜かなければならない価値は何か、すなわち、「日本武道のアイデンティティ」が問われることになってきた。ということでした。
 次に、それでは、「日本の武道の本質」をなすものは何か。それを、武芸の達人といわれた人びとを始め、先人達が武芸の求めてきた究極のものは何だったのか、に目を向けることを通じて、探り当てようと試みました。そして、極意とか奥儀と言われているもの、および、その周辺にある考え方、すなわち、心の在り方、ものの捉え方が、「古来の日本文化の本質」と重なり合う、あるいは、「日本文化の本質」そのものであることが、理解されてきました。
 その「日本文化の特質」とされる多彩な美点は、ことごとく、「リリジョンフリー」ともいうべき、日本独特の自由で自然な精神環境の中で生まれ、そして、育ってきたものである、という姿が浮かび上がってきました。
 そして今、海外の人たちが、日本古来の武芸や、日本に新しく生まれてくるサブカルチャーまでの、幅広い分野に亘って、日本の魅力を感じ、心を寄せるようになってきた。それは、すなわち、日本文化の本質の中に、「世界に共通する新しい価値」、それを背景にした「世界全体に広まるであろう普遍性のある理念」。普遍的理念であります。海外からの関心の高まりは、それが世界に平和をもたらせる理念であることを予感させる現象、と考えてよいものであることが言えるようになってきた。
 つまり、「リリジョンフリーの環境」への憧憬(しょうけい)か芽生えつつある中、海外から日本の武道や文化、サブカルチャーまで、それらの本質を追究しようと人たちは、日本の文化、なかでも「武の文化」が究極的に見出した、「世界に平和をもたらすであろう理念」が、「リリジョンフリーの環境」の中からでこそ、生まれるものであることに、気付いてくることになるのでしょう。そして、そのことが、日本で生まれ育った理念を世界に広める素地になって行くことでありましょう。

 武道家の役割

 そこで、次に考えなければならないことは、「武道家の役割」です。「世界の中の日本」を視野に入れた、日本の武道家の役割です。日本の武道家がこんにち目指すべき目標は、なになのでしょうか。
 日本の武道界では、日本の伝統文化である「武道の目的」を、心技体の一体的な修練を通して「人格形成/人間形成」を図ること、としています。1987年(昭和62年)4月23日に日本武道協議会が制定した「武道憲章」には、その第1条に、「目的」として「武道は、武技による心身の鍛練を通じて人格を磨き、識見を高め、有為(ゆうい)の人物を育成することを目的とする」とあります。
ですが、人格形成/人間形成を図る程度のレベルを目指すことが、いまや、「世界の中の日本武道の目的」として留まったままでいてよいのでしょうか。
 また、新しい技法や心の在り方を開発する動きが見られないことも、大変気になるところです。私は、柳生新陰流について、昭和38年、内務省の柏村信雄先輩に連れられて、参宮橋の道場に行って二十世柳生厳長先生の講道を受けました。落合の養神館道場に変わって柳生延春先生に、そして現在は、二十二世の耕一厳信先生について学んでいます。古武道一般に言えることですが、もっぱら、奥儀を開発した先人の教えを学び、継承するばかりで、更に新たな奥儀・極意を開発しようとする気配が見られないことに物足りなさを感じざるを得ないのです。つい明治・大正そして昭和の初期までは、種目にもよりますが、開発努力の厳しい修行がありました。いまでは、そこそこの心技の継承にとどまっているのです。それはそれで貴重なことです。けれども、それでよいのでしょうか。教えていただきたいのです。
 一方、スポーツ化した武道種目では、試合に勝つことに集中する。これはやむを得ないことですが、経営の厳しい道場はともかく、大学などでは何とかならないものでしょうか。「武道の目標」について、小学生以下には「躾(しつけ」「礼」を、中学生には「人格形成」を、高校生には「武の文化」を、大学生には「リリジョンフリーの国・日本の文化」を、そして、大学研究室、学校・職場・道場指導者などの武道専門家には「日本ないし日本武道のアイデンティティ」「世界を平和に導くに普遍的な理念」を、といった形で整えるなどの工夫があってよいのではないでしょうか。
 「武道と日本文化とのかかわり」については、本日論考をしたところです。この点について、気になることは、海外から武道や文化に強い関心を持って日本に来て修行をし、文化を学ぶ人たちの貪欲な努力です。彼等/彼女らの方が、本家本元の日本の武道家に先んじて「日本武道のアイデンティティ」に到達しかねない懸念です。
 先人たちの厳しい修行の積み重ねの上に築かれた「世界平和実現に向けた普遍性のある理念」、その背景をなす「リリジョンフリーの精神環境」、そこから次々に生まれてくる「繊細にして洗練された日本文化」と「自由闊達な発想力と創造力に富んだ日本文化」を、海外の人たちと十分議論し合えるだけの説得力と、いつでも海外に発信できる力とを涵養することとあわせて、自らが、先人達が見出した極意・奥儀を超える心技の開発を目指すことが、いま、日本の武道家に求められているのではないしょうか。
 時間が参りました。以上を持ちましてご報告に代えさせて頂きます。ご清聴有難うございました。以上


 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.31

元気ですか!! 大晦日!! 2011

20120101001 井慧は木村政彦にはなれなかったのか…。
 木村政彦の遺志を継ぐ岩釣兼生から、ホンモノの柔道を託された石井は、ヒョードルの強烈な打撃の前に轟沈しました。
 木村ならヒョードルの打撃を捌いて組み付き、超高速の大外刈りで倒してから、得意のキムラロックで勝利していただろう…こんなふうに妄想するのもまた楽しいものですが、現実には今の柔道にはそういう力がまだないとういことが証明されてしまいましたね。
 これはこれで現実として受けとめるべきでしょう。「当て身」とその防御術を復活させるにはとんでもない時間がかかるのではないでしょうか。
 さて、今回の大晦日興行は、アントニオ猪木率いるプロレス団体IGFの力を借りて、総合格闘技のDREAMの試合を中心に展開されるという、今までにない画期的な内容でした。
 ある意味水と油の関係になってしまっていたプロレスと総合がまぜこぜにされた上に、対抗戦まであるというのは、これは本当に夢のようなことです。
 もともとIGFは現代プロレスへのアンチテーゼとして立ち上げられた部分があるので、本当ならなじむはずなんですよね。猪木さんや、あるいは馬場さんまでもが考えていたであろう「プロレスリングこそが総合的な格闘技である」という基本に立ち返っているわけですから。
 で、実際のところどうであったか。
 私はこの大会は大成功だと思いましたね。
 あの会場のファン、そしてテレビやネットで観戦していたファンたちの多くが総合ファンであり、アンチプロレス派だったと思いますが、彼らの知っている最近のパフォーマンス色の強いプロレスと、IGFが示すプロレスリングとはかなり違っているので、ある意味驚いた部分もあったのではないかと思います。
 私はネット観戦派だったので、会場の雰囲気はよく分からないのですが、IGFルールの試合はそれなりに観客の目を引きつけていたのではないでしょうか。
 まだプロレスは死んではいないということを世間に示すことができただけでも、今年の大晦日興行は大きな意味を持っていたと思います。
20120101157 特に、我が家の知り合いどうしの闘いとも言える、ジョシュ・バーネットと鈴木秀樹の試合は、まさに本来のプロレスリング、すなわち、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを体現した好試合でした。その上で、現代的な見栄えのする(大会場でも説得力のある)大技も繰り出され、身内びいきでなく本当にバランスの取れた好試合だったと思いました。会場も「お〜」という感じでしたよね。
 特に第1試合ての所選手のアクシデントもありましたから、プロレスの受け身のすごさ、フィジカルのタフさには皆驚いたのではないでしょうか。そこも含めてプロレスの技術だと思います。ジョシュと秀樹、本当にGJ!でした。
 そして、唯一のIGFとDREAMとの対抗戦、澤田&鈴川 vs 桜庭&柴田。これは面白かったなあ。ある意味プロレスができない四人(苦笑)。いや、器用だけれども不器用というか、プロレスの奥深さに呑まれてしまっている四人が、まさに上田馬之助さんの言う「筋書きにはないドラマ」を演じてくれました。
 あの不穏な雰囲気というか、プロレスの筋書きをギリギリ超えるか超えないかの緊張感と言いますかね、なんかとっても懐かしい感じがしました。
 これで次につながるという空気が出来上がりましたが、はたして桜庭和志がそれに応ずるのか。ある意味大人になれるのか!?これは大変興味があるところです。
 それにしても、ある意味四人と濃密で微妙な関係のある宮戸優光さんが、すごい存在感を示していましたね。放送でもアップでとらえられていました。
 宮戸さんは、今プロレス界でほとんどただ一人、本物の「プロレスリング」を伝導している人です。武道や禅にも造詣が深く、精神性も含めて本当の格闘技をしっかり理解し教えることができる人です。
 そんな宮戸さんの目と心に、あの試合や興行全体がどう映ったのか、ぜひ近いうちに聞いてみたいと思います。私も一観客、一ファンの立場から感想を述べさせていただきたい。
 その他の試合についてもいろいろ語りたいところですが、あまり時間がないので割愛します。なにしろ長い長い興行でした。
 それにしても、あまりにぴったりにカウントダウンを迎えられましたね。もうそれだけでも奇跡です。そこが猪木さんの不思議な力なのでしょう。まさに昭和の化け物、物の怪が生きているという感じでした。
 今日はニコニコ生放送でプロレス&格闘技を観戦し、テレビでは紅白を観賞していました。まさに昭和のヤクザが残してくれた文化遺産ですね。暴力団排除条例のことなどもあり、ずいぶんと状況は変わってしまった今年ですが、結局日本人はこれがないと年を越せません。
 結論、やはりプロは「強さだけではダメ」ですね。いろいろな意味で、力道山や木村政彦、美空ひばり、そして田岡組長の姿を見た大晦日の夜でした。
 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.30

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 (新潮社)

Img_4277 さまじい労作。日本ノンフィクション史に残る傑作。まずは著者の取材力、構成力、筆力、そして「思い入れ」に敬意を表したいと思います。
 ある意味、昨日の「たこ八郎」とも通ずるかもしれませんね。昭和の格闘家の人生です。そして、「異形の時代」としての「昭和」そのものの研究書とも言えましょう。
 実は発売後すぐにさらっと読んでいたのですが、その時はなんとなく「不快」な感じしか残らなかったのです。それは、単純にこの700ページに及ぶ超大作をゆっくり読む余裕がなかったからであり、そのためにこの本の神髄に触れることなく、表面的な「アンチプロレス」的な物言いに浅薄な反応をしただけのことでした。
 年末になり、ようやくゆっくり読む機会を得て、一字一句逃さないように丸三日かけて読み終えた今、感動と言うよりは、なんと言いましょうか…感心というか、得心というか、そういう「腑に落ちた」感覚を覚えています。
 伝説の柔道家にして、悲劇のプロレスラーであった木村政彦。彼自身と本物の柔道の強さに焦点を当てて語られたこの「昭和史」は、まさに歴史書の趣を持っています。ある種歴史小説の迫力と言いますか、南朝秘史、哀史という感じでしょうかね。
 もちろん単純に、柔道史、プロレス史、ブラジリアン柔術史、総合格闘技史の貴重な史料、研究書としての価値もあります。多くの新事実が発掘されています。
 しかし、それ以上に、あの戦争を挟んで、この日本という国の文化がどのように激変したかを考えさせられましたね。
 私は今、戦後教育がアメリカによっていかに骨抜きにされたか総復習しているところですが、たとえば柔道の世界もそういう流れがあって今に至っているわけですね。
 実はそのへんは私にも誤解がありました。オリンピック競技となってJUDOになってしまったことを、このブログでも何回か憂えてきましたが、コトの本質はそんな表層的なことではなかったのですね。JUDO以前に柔道自身が自らの骨を抜いてしまっていたとは…。
 私は少し変わった視点から昭和史を見ています。たとえば「骨抜き」の「骨」の部分に、一般にはオカルトと片づけられてしまうような、「モノ」世界が存在していると考えています。科学という「コト」の名のもとに、心霊世界や宗教世界が代表する「モノ」世界が幽閉されていったと。
 かつての柔道や空手などが西欧で恐れられた理由の一つには、そういう「もののけ」的な恐ろしさがあったものと思われます。もちろん、日本という国自体が「得体のしれない気味悪さ」を持っていた原因もそこにありました。
 それは「精神性」とも言えますが、実は現代の感覚でそう説明してしまうのにも無理があります。もっと奥深い、もっと根源的な何かです。おそらくそれは我々の「存在」自体に関わるモノだと思います。言葉以前の次元なのです。
 そうそう、この本でも慎重に扱われている「合気道」なんか、その最たるものですね。結局植芝盛平が最強ともなりかねません。そして、その植芝が足下にも及ばないと自覚していた出口王仁三郎が人類史上最強であるとも…笑。
 まあ、そこに言及してしまうと筆者の意図とは違うところに行ってしまうので、軌道修正しましょう。
 武道が競技になり、スポーツになっていくということは、まさにその「モノ」を削いでいくことだと思います。その中で、木村政彦という物の怪は苦悩します。
 それでも、昭和はまだ良かったんですよ。昨日のたこ八郎、いや斉藤清作がそうであったように、物の怪の受け皿としてのスポーツ界、芸能界というのが存在したんですよね。もちろん、そこにはヤクザ世界というこれまた大きな受け皿がありました。
 そういう意味では、私は現代のプロレス界というのは最後の砦であるようにも思えるんですね。まあ、それもずいぶんと崩れてしまいましたが。
 筆者は、プロレスを徹頭徹尾「八百長」「フェイク」「ビジネス」であるとして語るに足りないと書きます。それは当然です。この本の説得力は、徹底的にリアルな強さに基づくそのスタンスから発しているからです。
 純粋なプロレスファンである私は、最初そこにカチンと来たわけですよね。私自身の存在に関わることですから(笑)。
 しかし、今しっかり読み終えてみて全く逆の感覚を持ったのは、実に筆者のそういう姿勢のおかげであったと気づいたわけです。
 増田さんが、リアルな強さを語り、本来の柔道の、木村政彦の強さを語れば語るほど(つまりプロレスや力道山を否定するほど)、「強さだけでは勝てない」という現実が起ち上がってきて、私たちの目の前にぬぐいようがなく広がっていくんですね。
 世の中、人生そのものがプロレス的であるわけですね。つまり、物語的であると。それは勝ち負け、強い弱いという二元論ではとても語り尽くせない「モノ」ワールドなわけです。
 実際に木村政彦は幸福な人生を送ったとは言えません。強いがゆえの弱さも露呈した一生だったとも言えましょう。
 この本の、感動的と評されるあのラストも、ある意味では「結局表世界では評価されない」という現実を確認させるとどめの一撃であるとも取れます。残酷ですね。
Img_4275 私はこの本を読み終えて、すぐに1年前に発売されたkamiproを引っ張り出してきました。
 そこには先日亡くなった上田馬之助さんの最後のインタビューが載っています。彼のこの言葉を読みたかったのです。
 「(プロレスは)筋書きにはないドラマ」
 もちろん「筋書きのないドラマ」論に対する上田流の反撃です。深い言葉です。私は、人生も世の中も「筋書きにはないドラマ」にこそ本質があると思います。だからプロレスが好きなんです。
 明日は大晦日。総合格闘技単独の興行ができなくなり、今年はプロレス(IGF)に呑み込まれての開催となりました。何か象徴的ですね。いったいどういう興行になるのか…。
 この本のラスト近く、筆者と、木村政彦の強さを継ぐ柔道家岩釣兼生と、そして石井慧の三人が木村の仏前に参るシーンがあります。
 その石井慧は、明日皇帝ヒョードルと闘います。はたして石井は木村政彦になれるのか、いや、なろうとするのか、あえてならないのか。大きな意味でプロレスに復讐するのか、プロレスに呑まれるのか、返り討ちにされるのか。歴史的な瞬間が近づいています。
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」…「殺さなかった」ではなく「殺せなかった」が正しいのかもしれない…そんなことを予感しつつ、石井対ヒョードル、そしてIGF対DREAMを観戦したい思います。

Amazon 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.29

たこ八郎 『たこでーす。』

 曲・編曲は久石譲。私は久石さんの音楽ダメなんですが、この曲だけはいい曲だと思いました(笑)。なかなかセンスの良いテクノポップ歌謡に仕上がっていますね。久石さんのチープな(失礼)感覚が見事に昇華しています。
 テクノにソウルフルなコーラス、そして実にブルージーなたこ八郎さんのボーカル。この独特のリズム感、音程感、これは意識してできるものではない。間違いなく隠れた名盤。カラオケで歌いたいけど、ないだろうな。
 カミさんが突然はまったんです。あんまりはまって、ほとんど泣きそうなくらいなので、今日の記事にしてあげることにしました。
 なんで突然…?
 実は、年末恒例の「今年亡くなった人」追悼番組を観ていたら、細川俊之さんと一緒にたこさんがちょっと映ったんですね。それを観て、急にカミさんに何かが降りてきたらしい(たぶん、タコ…笑)。
 カミさんはたこさんのこと、あんまり知らなかったらしく、その後ずっとネットで調べていました。そして調べれば調べるほど、彼のすごさ、深さにはまっていったというワケです。
 なんで年末のこの忙しい時(カミさんは大掃除しながらお節料理を作っている)に、たこ八郎なんだ?wwww
 しかし、たしかに久々に彼のことを思うと、なんとも切ない気持ちになりますね。昭和は遠くなりにけり。
 天才ボクサー、フライ級チャンピオン、ピンク映画俳優、普通の映画俳優、コメディアン、そして「現代の妖精」…。本当にいろいろな側面を持っていた人物ですね。 
 師匠の由利徹さんはもちろん、赤塚不二夫さんやタモリ、たけしなど、大物に愛されました。昭和の芸人さん、スポーツ選手、芸術家は、みんなこんな感じに自由で奔放でした。古き良き時代です。
 人気絶頂の中、海で心臓マヒを起こし亡くなりました。タモリは葬式で「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と言ったそうです。
 そんなたこ八郎さんの才能と魅力の一面を垣間見られる映像があったので紹介します。ビートたけしもお手上げという感じですね。ボクサー斉藤清作(河童の清作)の貴重なフィルムも紹介されています。
 なんか泣けますね。本当の笑いにはこういう哀愁が必要なのではないでしょうか。先ほどやっていた某お笑い番組とはあまりに違いますね…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.27

サンドラ・ブロック主演作品 『しあわせの隠れ場所』

20111228_71432 2年生の担任の先生が生徒に見せていたのを少し盗み見しまして、なかなかいい話だったので改めてお借りして観賞いたしました。
 うむ、教育者としていろいろ考えるところがありましたね。感動もありましたが、憂いや迷いも生まれました。
 この映画の内容は実話です。あの天才アメフト界のスーパースター、マイケル・オアーの成功譚、いわばアメリカンドリームのお話、シンデレラストーリーとも言えます。
 しかし、サンドラ・ブロックが主演女優賞を獲ったところからも分かるとおり、この映画の主役はオアー自身ではなく、そのオアーをサポートした女性リー・アン・デューイということになります。
 黒人差別の激しい、そして貧富の差の激しいメンフィスが舞台。白人の富豪と黒人のホームレスというある種アメリカンリアルを象徴するような両極どうしが出会い、そして夢を紡いでいく。
 これはたしかに美しい愛と絆の物語です。しかし、その裏に現実を感じなければ、この映画を観た価値がないでしょう。
 デューイ自身も悩んでいるように、こうした献身的なサポートは、金持ちの「自己満足」なのかもしれません。実際金持ちでなければ、あのようなサポートはできないのですから。
 そして、たまたまオアーは救われ、そして成功したけれども、それは本当に特殊なケースであって、この話に感動して涙して終わってしまってはいけないのです。
 原作名「THE BLIND SIDE」にはいろいろな意味が含まれていると思います。
 なんともセンスのない(笑)邦題のような意味もたしかにあるでしょうが、それ以上に、いろいろな意味での「死角」が表現されていますよね。
 もちろんアメリカンフットボールのポジション的な意味。そして、白人と黒人、富裕層と貧困層、それぞれに見えないそれぞれの生活や人間性。ある種の障害が実は大きくプラスに働く可能性があること。
 そして、なんて言いますかねえ、私も含めて日本人にとっては、こういう「ノーブレス・オブリージュ(豊かなる者の義務)」の発想と言うか行動と言うか、そういうものさえもある意味「盲点」ですよね。
 それこそ、「ノーブレス・オブリージュ」自体が「自己満足」の表現、手段、産物であると言えますが、やはり何もしないよりも、絶対に何かした方がいいに決まっているじゃないですか。たまたま出会った人しかサポート出来ませんが、その一つ一つの善行を集めるしかないんですよね、本当に幸せな世の中を創るためには。
 結局、お釈迦様の説く、「布施」「利他」の心なのかなあと思いました。単純に経済的物質的な満足を得るためでなく、「布施」「利他」のために裕福になるということもありなのかな、そんなことを思いました。
 アメリカは経済的物質的な満足を目指して突っ走って来ました。しかし、その裏では、(もちろんキリスト教的な発想のもと)人間としての心のバランスを取るために、こういう「善意」も発達させてきたと思います。
 日本は、アメリカの表面的な豊かさだけを輸入し、そうした裏側の、まさにブラインド・サイドを真似ようとは思いもしませんでした。もちろん、そこには日本における宗教の形骸化、無力化という背景があります。
 そんな我々日常の「死角」「盲点」も考えさせられました。
 そういう意味で、何度観てもいろいろ感じるところがある作品ではないでしょうか。サンドラ・ブロックの演技のすごいところは、そういういろいろなメッセージを感じさせるところですね。単なるいい人、強い女の表現ではありません。
 皆さんもぜひご覧下さい。

Amazon しあわせの隠れ場所


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.21

追悼! 森田芳光&上田馬之助

 た哀しいお知らせが届きました。昨夜の「望年会」 でたまたま話に出たお二人が、まさか亡くなるとは…。
 映画監督の森田芳光さんには、私は多大な影響を受けました。私が作る映像作品には森田さん風の、たとえば長回しが多用されていたりするんです。
 本当に残念です。ここのところ、森田さんらしい作品に出会えずにいたので、ますます寂しいところです。いつか、またあの「間」を感じたかったなあ。
 今日は追悼の意を表して、私の大好きな「それから」をどうぞ。これは静止画によるオマージュ作品ですが、雰囲気はそのままという感じです。

 続きまして、こちらも大ショック…。尊敬するレスラーの一人であった上田馬之助さんが亡くなりました。事故で体が不自由になって苦労されながらも、プロレス界のために、あるいは地域のために尽力されている姿、あるいは明るくたくましく前向きに生きておられる姿に心打たれておりました。
 上田さんと言うと、タイガージェットシンさんと肩を組んで入場するシーンに象徴されるように、悪役レスラーの代表のようなイメージですが、彼が日本プロレスの道場である意味最強だったことは有名な話です。
 そんな彼の実力が垣間見れるこの試合、私もドキドキしながら観た記憶があります。UWFとの交わりだからこそ現れた上田馬之助の本当の怖さ。猪木さんが彼を抜擢した理由がよく分かります。
 特に前田との絡みは見ものですね。今見ても興奮します。
 ご冥福をお祈りします。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.12.03

「悩み」は「愛」の権現

↓タカ・クノウの「愛」に完敗の定アキラ、再び立ち上がれ!
20111203084 仕事が一つ終わってホッとしています。しかし、その結果新たな「悩み」が…ま、なんとかなるっしょ(笑)。
 少しのんびりして、夜(夜中)に家族で昨日のIGF両国大会「INOKI BOM-BA-YE 2011」をサムライTVで観賞。いやあプロレスはいいなあ。
 プロレスって単純な勝敗の世界ではありません。ある意味「負け」から物語が始まる世界です。負けたところからどう立ち上がって成長していくか。それこそが「闘魂」であります。
 というわけで、今日は人生の「負け」とも言える「悩み」の有用性について書きましょう。
 「悩み」というと、どうしてもマイナスのイメージがありますよね。しかし、悩んでいるだけでいい方向に行くことなんかありません。
 今日の大仕事の中でも語っちゃいましたが、いつも書いているように、人間は「ストレス」や「想定外」や「悩み」と言われる状況がないと成長しないのです。「快適」や「安逸」というのは、今日の自分が昨日の自分と同じだということのサインです。
 学校現場におりますと、日々そういうことを感じるわけですよ。自分だけでなく、成長期の中高生の様子を目の当たりにしているわけですからね。ウチの学校では、そういう意味でかなり生徒にストレスをかけています。一人一人、あるいはクラスに課題を与えることが多いのです。
 もちろんそれは単なる「宿題」とか「罰則」とか、そんな低次元のアイテムということではありませんよ。生徒も人間ですし、先生も保護者も人間ですから、まあいろいろあるのは当たり前。その当たり前の「ストレス」をどう解決するかという課題こそが、いわば新たな「ストレス」となっているのです。
 そして、そのストレスを乗り越えるために何をどう考えるべきなのか、具体的にどういう行動をとればいいのか、一緒に話し合います。そこには絶対的な「愛情」と「信頼」とがあります。
 世間全体もそうなんですが、いい人間関係、いい世の中というのは、「安心して悩める」環境のことなんですよね。案外私たちはそのことを忘れています。
 ウチの学校ではそれほどありませんが、今の親はとにかく我が子にかかるストレスを解消することばかりを望む。解消以前にストレスが発生しないことを望む。つまり、「快適」や「安逸」こそが子どもたちにとって幸福だと思ってしまうんですよね。そして、当たり前に発生してしまったストレスに対して、「学校が悪い」「友達が悪い」というようなことを言い出す。それこそが「モンスター・ペアレント」ということになります。
 誰も成長痛や筋肉痛は悪いことだと思いませんよね。不快ではあるけれども、それが解決することを知っているし、それが成長や筋力アップにつながることを知っていますからね。
 心にもそういう「痛み」があるのです。それが「悩み」ですね。もちろん体の痛みにケガや病気のように心配すべき種類のものがあるのと同様、心の痛みにもいろいろな種類があります。
 私たちはいちおう学校教育のプロ集団ですから、それぞれのストレスの見極めはかなり得意なんです。そのストレスが本人の成長にとってどういう意味を持つのか、あるいは逆に沈滞を招く可能性があるのか。治癒するのにどれくらいの時間がかかるのか。どういう処方をすべきなのか。とりあえず鎮痛薬を与えるべきなのか。周囲のどういう協力が必要なのか。お医者さんの見立てと同じですよね。
 そして、その裏側には、「勝ち」や「成功」や「克服」が促す「成長」という観点があるのはもちろんです。というか、その両者は不即不離の関係、いや表裏一体ですよね。当たり前です。
 ちょっとここから話のスケールが大きくなりますよ。なんていうかなあ、我々って「重力」の上に生きてるじゃないですか。でも、日々それを意識することはあまりない。
 でも、この前宇宙飛行士の古川聡さんが久し振りに地球に還ってきて、その重力の存在を改めて感じていましたよね。約半年、その重力というストレスから解放されて、ずいぶんと筋力や骨密度が落ちたそうですよね。
 なんていうかなあ、重力というストレスは、これは地球の「愛」だと思うんですよ。その上に私たちは立っている。赤ちゃんは立とうとしている。そのために筋力はつき、骨密度は高まる。木々や草もそう。あるいはビルでさえも。
 絶対的な「愛」から自立しようとしているわけですね。それが「成長」そして「生きる」ということだとも思うのです。
 そう考えると、寝たきりの老人は、ある意味その地球の「愛」に身をまかせることになったとも言えますね。大地の「愛」に還ったのだと。充分に頑張って成長して生きてきたので、やっとその懐に抱かれることを許されたと。
 私たちの心の「悩み」も、実はこうした大きな「愛」なのかもしれないと思うのです。それは実は常に存在しているのだが、それを「やだなあ…」とか「ストレスだ」とか感じるのは、何かそういうきっかけがあるのであって、それは私たちが「重力」を意識する時のように、自分が成長する時、あるいは何かを達成しようとしている時なのかもしれない…。
 今日はなんとなくそんなことを思いました。相変わらず能天気でいいね!と言われそうですけど、実際私は毎日こう感じて生きていて、そしてこんな感じなのですから、まあしかたないですね(笑)。これからも、この世の全ての「愛」に甘えて、そのおかげさまで生きていくことでしょう。「悩み」は「愛」の権現様(仮の姿)なのでした。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.12.02

QuickTime Player でストリーミングを録音・録画

↓録画した動画のスクリーンショットです。
Vlcsnap2011120309h51m26s244_2

 夜は大切な用事が三つ重なってしまいました。そのうちの一つが「プロレス観戦」。IGFの両国大会「INOKI BOM-BA-YE 2011」です。
 そう、ここのところ、IGFのGM宮戸さんやEP蝶野さんに、いろいろと個人的にお世話になっておりましたし、選手の皆さんともなにかと交流がありましたから、本来ならば会場に駆けつけて応援をしなければならない立場です。しかし、今回ばかりはさすがに江戸に上ることができませんでした。
 ところが、まあ現代というのは実にありがたい便利な時代ですね。テレビではなくネットでこの大会の模様が生放送されるのです。
 今やテレビの影響力を脅かす存在になりつつあるドワンゴ社の「ニコニコ生放送」。私もけっこう国会やら東電の記者会見やら見てますよ。もうそういう時代なんですよね。あの一種の身軽さは、異様に巨大化(肥大化)してしまったテレビ業界にとっては大変な脅威でしょう。
 しかし、今日はその生放送もリアルタイムでは観ることができませんでした。その時間に大切な「会合」があったのです。それはこちら(動画あり)でコラボした仲間との再会の場でした。
 というわけで、ニコ生を録画しなければならないことになったのですね。パソコン上のストリーミング動画を録画するのに、皆さんはどうされていますか?
 専用のソフトもありますが、Mac使いにとっては純正のQuickTime Player10を使うのが最も手っ取り早く経済的なんですよね。これって意外に知られていない機能なので、今日はそれを紹介します(肝心のプロレスや会合の内容については、またしっかり復習してから書きます)。
 Mac OSX 10.5 Snow Leopard から標準搭載されたQuickTime Player10は、プレーヤーと名乗りながら、なかなか優秀なレコーダーとしても機能します。
 ファイルメニューにある「新規ムービー収録」「新規オーディオ収録」「新規画面収録」ですね。
 「ムービー収録」は基本的にMac搭載のカメラとマイクで動画を撮影するためのものですから、選択するといきなり自分の顔が画面に出てきてビックリします(自分の顔というのはいつ見てもいやなものです)。
 「オーディオ収録」も内蔵マイクやライン入力音声を記録するものと考えてよいでしょう。
 そして、「画面収録」はMacの画面上の様々な動き(たとえばマウスポインターの動きや文字入力の様子)を動画として記録します。記録する範囲も指定できるので、たとえば今日のニコ生の画面だけを指定することもできます。基本今日の録画はこの方法をとりました。
 ただし、ストリーミングの音楽を録音したり、番組を録画するとなると、重大な問題が発生します。それは、Mac上で鳴っている音を直接録音できないということです。つまりデフォルトではマイク入力とライン入力からしか音声は記録できないということです。
 そこで必要なのは、Soundflowerというフリーソフトです(使い方はこちら参照)。これはMacで鳴っている音を全て仮想オーディオデバイスに出力するためのソフトで、インストールすると、たとえば先ほどの各種「収録」でマイクとして「Soundflower」を選択できるようになり、実際選択するとMacで鳴っている音を直接録音できるようになります。
 結果として、ストリーミングラジオの音声や、ニコ生やYouTubeのようなストリーミング動画を録音、録画できるようになります。
 ちなみに今日のプロレス中継ですが、高画質で番組画面のみ2時間半録画(&録音)した結果、ファイルサイズは1.5GBでした。画質音質は全く問題なし(劣化は感じられません)。
 簡単かつ無料でここまでできるのはとってもありがたいことです。ただし、当然のことながら権利問題がありますので、あくまで自己使用目的、自己責任でご利用くださいませ。
 
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.11.23

追悼 バイソン・スミス & 立川談志

 んということでしょう。まさか今日このお二人の訃報を聞くことになろうとは。
 プロレスラーのバイソン・スミスさん、ついこの前20日には札幌のノアのリングで元気な姿を見せていたのに。信じられません。まだ38歳。プロレスラーとしてはまさにこれからという時でした。
 第17代・20代GHCタッグ王者ではありましたが、三沢さんの最後の試合の相手であったり、パートナーが来日できず王座を返上したり、この前のシリーズ、グローバル・リーグ戦では、小川選手に大けがを負わせてしまったり、なんか暗い影を感じていたのも事実です。そして、まさかの急死。プエルトリコで心不全を起こしたとのこと。
 日本を主戦場とし、また純粋に日本を愛してくれたレスラーに心から哀悼の意を表します。
 彼の日本での評価を上げた一戦、2007年の三沢光晴さんとのGHC戦を紹介します。お二人ともこの世にいないなんて…本当にプロレスは命懸けの仕事ですね。

 そして、すぐあとに立川談志師匠の訃報も届きました。ずいぶんと体調が悪い、声が出ないという話は聞いていましたが、まさかここ3週間意識がなかったとは。
 また昭和の天才がこの世を去ってしまいましたね。この世の荒廃とは対照的にあの世はどんどん充実していきます。皮肉なことです。
 「立川流」というと、私は「真言宗立川流」を先に思い出すほどですから、それほど談志さんに興味があったわけでもありませんし、彼の落語のファンというわけでもありませんでした。しかし、彼の言動にはなぜか惹かれる部分があり、また、どこか「この人は孤独なんだな」というような一種の哀愁を感じていたのは事実です。
 いわゆる天才であり、だからこそ敵も多く作る人だったようですね。彼自身「落語は非常識の肯定、人間の業の肯定」と言っていましたが、つまりは談志さん自身が落語に救われていたわけでしょう。
 そう、どんな分野でも、天才というのは、彼らの生み出す作品に彼ら自身が救われているという部分があるのです。
 実は天才の主体は本人にあるのではなく、彼らの生み出した作品にあるのです。また、逆に言えば、結果として他者に救われる才能を持っているのが天才だとも言えます。
 この世は「純粋」な者にとっては実に住みにくい構造物です。だから私たちはその構造物に合わせてどんどん「不純」になっていくのですが、一部その「純粋」さを持ったまま正しく生きることが許される人たちがいます。それが「天才」たちです。社会的な意味での免罪符を与えられているんですね。
 それが与えられるのにももちろん条件が必要です。それは「伝統」と「歴史」を理解することです。談志さんについては言わずもがなですね。「古典」を知り尽くし、愛し尽くし、結果としてそれらに愛されて守られるんです。
 天才と称されるにはエポックメイキングな業績が必須です。エポックを作るということは、それまでの「伝統」や「歴史」や「古典」を破壊して、新しい価値観を創造することだと思われがちです。もちろん表面的にはそのとおりなのですが、破壊をするには、破壊すべき対象を理解し、自分のものにしていないいけません。
 そういう意味では、天才の仕事自体が、他者の存在に基づくものであり、無数の他者に守られているものなのです。
 世の中と戦い、伝統と戦うということは、実は世の中に愛され、伝統に愛されるということなのですね。
 彼の名演はたくさんありますが、今日はこれを紹介します。この話術、教員としても学ぶところ満載です。
 75歳。天才としては決して「短命」ではなかったかもしれません。いや、天才は何歳で亡くなっても、やはり我々にとっては「短命」なんでしょうか。全て天才の死は残念です。


| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧