カテゴリー「アニメ・コミック」の124件の記事

2009.12.02

平山郁夫と「萌え」

K_img_renderphp 山郁夫画伯が亡くなりました。アフガニスタンへの増派のニュースが流れる中、どんな思いで天界に召されたのでしょうか。
 アフガンでの遺跡保存活動をはじめとした、シルクロードをメインストリートとするボランティア活動だけでなく、本職である画業でももちろん国際的な活躍をされました。また東京芸大学長職を務めるなど教育においても、そして、ある意味商売の面でも活発に腕を振るわれました。
 芸術家としての絶対条件である「異様なほどのバイタリティー」をお持ちであったと、改めて思います。
 今日は、そんな平山さんを、ちょっと(だいぶ?)違った視点から見てみたいと思います。決して失礼にはあたらないと思いますので。
 そう思ったのは、たまたま今夜、NHKのクローズアップ現代で「故郷(ふるさと)に“美少女”が来た」と銘打ち秋田県の羽後町での取り組みが紹介されたのがきっかけです。
 羽後町については、私は、このような全国レベルでの話題になる以前から注目してきました。右の「人気検索ワード」をクリックしていただければ、このブログでもずいぶんといろいろな視点で語ってきたのがお分かりになるでしょう。
 今夜の番組ではいわゆる現代的な「萌え」と豊かな自然しか取り上げませんでしたが、私としては、土方巽&細江英公の「鎌鼬」…新版が出るようですね…や、先日紹介した白井晟一の建築(現存しませんが)、そして佐藤信淵などにも触れてほしかった。そこには、現代的な「萌え」以前のもっと大きく深い「萌え」要素があるからです。
 他称(…なぜかWikipediaの「萌え」に私が登場している!?)「萌え」研究家である私からしますと、「萌え」の基本的な性質はネオテニーにあると考えています。すなわち「子ども性」です。一般に文明(大人性)は「子ども性」を刈り取ることによって成立しますので、そうした「侵略」や「略奪」から逃げるために、子どもは辺縁にどんどん移動していきます。あるいは、辺縁には文明が到達しないという言い方もできますが。
 そうして、辺縁に文明化していない「モノ」が凝結していきます。それを文明側からは「文化」と呼ぶ場合もあるわけですね。本人たちはそんな対抗意識はないことも多いのですが。
 そして、その「文化」は、「自然」という強力な後ろ盾をもって逆襲に転ずる時もあります。まあ、ここでも、人も自然もそんな意識はなく、現実には、文明側からの「憧憬」という形をとることが多いのですが。
 たとえば、この前も書いた、西洋美術における「浮世絵」の影響などがいい例です。江戸までの日本は、まさに世界の辺縁中の辺縁、極東であったわけで、そのうえ島国という特殊な好条件をも得て、ある意味孤高の「子ども文化」を醸成していたわけです。そこに、「大人」たる文明国の人間たちは大いに驚き、そして憧れ、不思議な郷愁まで感じて、それまでの自分たちが積み上げてきた「写実」や「科学」や一部「宗教」までかなぐり捨てて、「回帰」を試みたわけです。
1akiduki1 で、話を秋田に戻しますが、まさに秋田と東京の関係などは、そうした構造の相似形になっているわけですね。ちなみに私は東京育ち、カミさんは羽後町育ちですから、我が夫婦の間にも、そういう関係が成り立っているんですよ。
 それをカミさんは、最初全然理解できなかったようです。「子ども」側だからです。しかし、「大人」がそういうことをしつこく言い、自分以上に「故郷」にこだわり、そして、ついにはNHKという国家的メディアがそれを発信するに及んで、ようやくコトの重要性というか、自らの無意識に沈殿していたモノの重要性に気づいたわけです。
 スケールを変えてみると、それが西洋と日本の関係になるというのは、もうお解りでしょう。ですから、この前書いた「世界カワイイ革命」もそうなんですが、これからは、「辺縁」「地方」「子ども」側が発信していく時代なのです。「大人」は自縄自縛で疲れ果てていますからね。
 子どもは凝り固まっていませんので、なんでも受け入れて自分のものにしていきますね。日本という国もそれが大得意です。しかし、一方で大人社会に対するなんとはなしの「畏怖」や「謙遜」や、あるいはそこから生じる「自己卑下」のようなものがあるわけです。そこがいろいろな面で障壁になってきたのも事実ですね。
 で、平山郁夫さんにようやく話が到達しますが、彼の作品を見れば分かるとおり、彼の美術史における一つの功績は、やはり東西の融合だと思うんですね。彼の嗜好や指向が西に回帰した、つまりシルクロードを遡ったというのも象徴的ですが、それ以上に、絵画の技術としての東西の融合にその大きな意味があると思うのです。
 だいぶ前、平山さんと高階さんの『世界の中の日本絵画』を紹介しましたね。あれなんか、私は思わず笑ってしまったのですが、今思えばまさに平山さんの境界なき「子ども性」を表している業績かもしれませんね。
 そして、もう一つ重要なことは、彼がそうした西からの憧れを「商売」にしてしまったことです。つまり、それが「萌え」と同じなんですよ。「萌え」のファクターというのは、自然や子どもの中に昔から常に存在していましたが、それが意識されて、そして都会や大人がそれをカネで買うようになって初めて「萌え」という言葉が生まれたのです。
 実は日本はそうやって経済大国になったのでした。その美術界での象徴が平山郁夫さんだと言えますし、また、今日のクローズアップ現代のテーマ「地方の時代」のヒントも実はそんなところにあるのでした。
 中心と辺縁を結ぶ線。それは自然の中に人が作った道。「萌え」もまた、その道の一つなのです。
 山梨にある平山郁夫シルクロード美術館、そんな平山さんの多方面でのご活躍を象徴する存在です。これを機に拝観し、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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2009.11.28

『世界カワイイ革命』 櫻井孝昌 (PHP新書)

なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか
56977535_2 このところ、BUMP OF CHICKENやレミオロメンを通じて、日本のロックについて、いや非西洋的音楽について熱く語ってしまいました。これにはいろいろと理由がありまして、実は今日のこの本の内容とも重なってくるんですよね。
 どうも戦後教育にどっぷり浸かっていたせいか、自分もどこか西洋礼賛的な発想をしていたことに、案外最近になって気づき始めたのです。遅いよ!と言われてもしかたありませんね。
 でも、やっぱり日本人って自分たちの文化を卑下しすぎだと思いますよ。それってなんなんでしょうね。そういう性質の民族なんでしょうか。それとも、やはり教育のせいなんでしょうか。自虐史観とかよく言いますけれど、実はそれ以前に自虐文化観というのもあるような気がするんですよね。
 まあ、ワタクシ流に簡単に言ってしまえば、近代以降の日本では「モノ」より「コト」の方が優れていると思われてきたということです。
 感覚より論理、混沌より整然、多神教より一神教…。
 日本で素直に流行るモノは、全て「サブカルチャー」としてくくられ、どこか低俗で恥ずかしいものだとされてしまう。
 ここ10年くらいでしょうかね、そういう常識に、私も何かものすごい違和感を抱くようになったのは。ちょっと待てよと。じゃあなんで「本場」ヨーロッパでこんなにもてはやされてるんだ?と。
 この本で取り上げられている女の子のファッション、いわゆる「東京リアル・クローズ」もそうです。それ以前に、マンガやアニメ。もっともっと以前に「浮世絵」。 
 「浮世絵」などの江戸文化については、どこかにも書きましたね。とにかく、江戸の庶民の文化、今風に言えばそれこそサブカルチャーになるんですけど、それが、たとえばヨーロッパに渡って、あの印象派を、そしてその後の様々なアートシーンを用意したというのは、これはまあ常識です。
 考えてみれば、ダ・ヴィンチ以来の「写実」を根底から覆したわけですから、それはもう本当に世界にとっての革命的契機なわけです。そういう事実も、いちおう逆輸入により今では日本でも学問的に評価されていますが、実はもっともっと我々が誇りに思っていいことなのではないかと思いますよ。
 ご存知のように、リアル・クローズはとにかく自由です。パリコレ的なモードや作られた流行としてのファッションはそこにありません。着たい服を着たいように着こなすのがその唯一のルールと言っていいかもしれない。
 もちろん、値段やブランドなんていうコトにはこだわりません。いかにチープな素材をデフォルメしアレンジするか。そう、まさに「リ・クリエイション」がそこにあるわけです。価値の創造の喜び。
 その結果は、西洋的基準からすれば、単なるカオスです。まるで、新宿や秋葉原の混沌とした電飾広告群のようです。そこには、「景観」はありません。しかし、その多様な全体が醸すエネルギーたるや、誰もが圧倒される。
 それこそが、私の言う「コト」化されていない「モノ」の生命力なのです。「コト」は、言葉です。つまり言語。全ての人間の枠組みは「言語化」によって構成されます。法律なんかは一番わかりやすい例ですね。
 それによって、いわゆる「近代社会」が成り立っているというのは、よくわかります。しかし、その枠組みゆえの限界点というのも見えているのが実情ではないでしょうか。
 それをぶち壊していく、つまり、言語(結局は固定化した思考ということですが)を超えた、想像力、そして創造力のエネルギーに期待したいのです。私たちは、いや「私は」なのかな、そろそろ、言葉という人間の開発した道具に飽きてきているのかもしれません。
 いずれにせよ、著者の言うように、もっと我々はそうした混沌とした、多様な、そして自由な「日本文化」、あるいは「日本精神」というものを、積極的に海外にアピールし、あるいは売り込んでもいいと思います。
 最近、ある国際教養系のAO入試を受けた生徒と一緒に、「禅」と「日本文化」と「言語」について勉強しました。なかなか面白い結論が出たのですが、それを武器に闘っての結果はどうだったか。もし、合格したら、ちょっとその辺についても書こうと思っています。
 教外別伝、不立文字…「言語化」しにくいモノ、あるいは「論理」を超えたモノを、結局「言語」というコトでアピールし、売り込まなければならない矛盾…それが、昔は苦痛でしたし、ある種の諦めを生む原因になっていたのですが、どうも最近はそこが面白くなってきたようです。私もちょっとはステージが上がっているんでしょうか。

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2009.11.20

太宰治短編小説集「トカトントン」 (NHK BS2)

Works_tokatonton 田秀樹の朗読と渋江修平のアニメーション。そして言葉、太宰治。これは最強でしょう。
 実際実に面白かった。この前紹介した「女生徒」、そして続く「雪の夜の話」、「キリギリス」、どれも良かった。でも、それらの主役は太宰の言葉でした。もちろん、それでいい…というか、普通そうなるでしょう。太宰に対抗するのは、実務上も難しいし、精神上もかなり難しい。だから、ああして現代メディアによる太宰言語の焼き直しで、もう充分に価値があると思いました。
 しかし、今回の野田&渋江の挑戦、いやいやもしかして彼らは挑戦したのではないかもしれない、軽く太宰で遊んだのかもしれない、そんな感じさえする彼らの作品は、見事太宰と相並んだ感がありました。彼を凌駕するのは、まあ現実的には無理だとしても、一瞬でも彼を脇役に追い込んだのは、これはお見事。高く評価したいと思います。
 「トカトントン」って、いろんな意味で難しい作品です。太宰作品の中でも、特に人気のある作品ですし、私もどちらかというと好きな作品です。彼らしさがとっても出ていると同時に、何か読後に感じる虚無を超えた「空」感。「空」間。これは最高です。
 「トカトントン」という音はいったい何なのか。これを哲学することも、あるいは教室の授業で扱うこともできるでしょう。しかし、最近の私はもうそんなことは諦めています。というか、なるべくこの作品は読まないようにしています。
 なぜなら、あまりに「禅」な気分になってしまうからです。太宰お得意の、掉尾の聖書引用…実際のところは、彼の頭の最初の最初にその一節があるのですが…は、なんとなくお説教くさい。それって、いつもいつも彼の彼自身へのお説教に違いないのですが、このたびのマタイ伝は、どこか嘘臭く、とってつけたような印象を与えていますね。おそらく、書き始めた途端に、物語が、小説が、勝手に動き出して、虚無の無限ループを起こしてしまったのでしょう。だから、「虚無(ニヒル)をさえ打ちこわしてしまう」ような「虚数世界」が立ち上がってしまうんですよね。
 「虚数」ってまさに「虚」というか「嘘」っていう感じがするじゃないですか。人間の考えすぎなんじゃないのかって。「トカトントン」という音にももそういうところがある。
 で、結局、そこを乗り越えてしまって、いや諦念してしまって、あるいはぶち壊してしまって、そうして到達する境地が、私は「禅那」だと思うんですよね。
 だから、この小説…それは太宰の独言、あるいは太宰に語らせた誰か(神か仏か)の独言とも言えますが…って、結果としてキリスト教の敗北のような感じも与えるし、それ以前に我々の生活というか、思想というか、言語というか、いずれにせよ私たち自身の敗北のような感じも与える。
 そこが私にはまだ不快なので、つまりまだまだ悟っていないので(悟ったら仏陀になっちゃいますけど)、ちょっと避けてる部分があるんですね。
 それをこういう形でドカンと、もしかしてそんな悩みもなく抵抗もなく、実に面白く表現してしまった野田&渋江は、やっぱりおそるべしですよ。いじわるな考えを起こせば、いやいや彼らも困ってああいう手法をとったのかも、とも言えるかもしれませんが、しかし、実際問題としてああやって作品化してしまったのは、単純にすごいと思いますよ。
 だって、この人気作品をああいうふうに料理すると、怒る人がたくさんいるわけじゃないですか。哲学したり、教材研究したりしてる人にとっては、ある意味(自分に対する)冒瀆だと感じられるでしょうからね。
 まあ、そういう次元で、たとえば聖書なんかをパロディーにして、あるいは食いぶちにして生きていたのが、太宰治であったわけですが。
 天才たち、おそるべし。

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2009.09.01

『こぐまレンサ 完全版』 ロクニシコージ  (講談社BOX)

06283698_2 々にコミックネタ。ちょっと気分転換にと思ったら、なんだか余計に気が重くなっちゃった。
 基本マンガ世界に疎い私ですが、いやあ、本当にこの世界も変わりましたね。この作品もとても子どもには読ませられません。暗いというか、重いというか、グロいというか。
 それ以前に絵が下手すぎます。いつごろからでしょうかね、絵が下手でも内容が面白ければいいというようになったのは。
 つまり、求められるものが変ってしまったのでしょう。どの世界でもそうです。本来基本であるところをなおざりにして、本来二次的であるはずの部分で勝負する。
 いや、この作品も絵が下手なのに目をつぶれば(それが非常に難しいのですが)、そのストーリーや演出は、そのへんの小説なんかよりずっと面白いですよ。見事な伏線によって、それぞれの短編が一つの物語に収斂していく。ホントよく出来ています。言葉の選び方も素晴らしいセンスを感じさせます。
 でも、なんでこれをマンガで表現しなければならないのでしょうか。小説でいいのではないでしょうか。いやいや、これこそが「MANGA」や「ANIME」の世界に誇るべきところであり、麻生さんの世界戦略であったとも言えるでしょう。それはよくわかります。
 ただ、そうして、いろいろな世界で今までの価値観やジャンル分けが崩壊していって、たとえば絵のシロウトでも、プロとして週刊誌や月刊誌に連載でき、単行本を発行できる。これは新しい分野の開拓のためには大いに役立つ可能性がありますが、逆に本来伝えるべき文化を喪失させてしまう可能性もあると思います。
 先ほど、本物のプロレスリング伝承に命をかけている方と電話でお話ししたんですが、まさにプロレスの世界もそうです。シロウトが神聖なリングに上がる、本来演劇やサーカスと呼ばれるものさえ「プロレス」と呼ばれてしまう、そんなことに心を痛めておられました。
 この前のSLSで若手のバンドに感じたこともそうです。みんな歌詞の世界で勝負しようとしている。本来文学でやるべきことを、音楽に乗せてやろうとしている。音楽の才能はシロウトに毛が生えただけなのに。なかにし礼さんが言っていますが、文学の詩と歌の詩とは全く違うものであるべきです。それがごっちゃになってしまっている。
 もちろん、そうしてプロの敷居が下がることには、いいこともたくさん付随してくると思います。それこそ新しい何かが生まれる可能性もあるし、実際本流に飽きた消費者たちが、新しい刺激を求めてそれらを楽しむことも多い。
 政治の世界もそうです。今回の選挙で民主党の初当選者は143人にのぼります。初任者です。シロウトです。そんな集団で政治ができるわけないじゃないですか。民主党の約半数ですよ。全体でも4分の1を超えている。
 私のいる教育界でですね、4分の1が初任者、いや教育実習生みたいな教師集団で、まともな学校運営なんかできるわけありませんよ。
 と、なんか違う話になってしまいましたが、いや、さすがに世の中全体が本質を見失っているような気がしてならないんですよね。もちろん自分もですよ。
 結局、マンガにしても、音楽にしても、プロレスにしても、政治にしても、教育にしても、面倒でかったるい地道で地味な努力が足りない、いやいや、もっと言ってしまうと、本来生まれ持った「タレント」がなくても、そうした神世界(あの神世界じゃありませんよ…笑)に足を踏み入れることができるようになっちゃったということでしょうかね。
 それはそういう市場があり、需要があるからでもあります。電話の先のプロレスラーさんもおっしゃってました。客も本物を知らなすぎると。そのとおりですね。我々もホンモノを見きわめる力を失っているのです。
 「こぐまレンサ」に話を戻しましょう。ロクニシコージさん、ある意味素晴らしい才能を持っていらっしゃると思うし、この作品も革命的な力を持っているかもしれません。でも、もうちょっとでもいいから、絵の勉強するなり、絵は誰かにまかせるなりしたら、もっと力のある、歴史に残る作品になったのではないかと思うんです。
 でも、高校生に言わせると、このくらいの画力なんていうのは、全然日常的であって、別に気にならないというんですね。うまい人のはうまいと思うけれど、下手な人のも気にならないと。それはそれでそういう時代になった、自分がその時代についていけないということで、それでファイナルアンサーにしてしまってもいいんですが。なんとなく寂しい気もしますね。
 面白い作品だっただけに、もったいない気がしたんです。ま、この気持ちも、オジサンの「昔は良かった」的感慨にすぎないのでしょうか。

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2009.07.23

『青春鉄道』 青春 (メディアファクトリー)

84012579 女子生徒が貸してくれました。これはなかなか面白い。
 鉄道擬人化マンガ。トーマスのような車両の擬人化ではありません。各鉄道のキャラクター(特性・個性)のキャラ化です。
 うん、これぞ日本文化の醍醐味でしょう。日本の伝統文化における擬人化は、これはもう神話時代にまで遡りますから、今日はそのあたりの解説は割愛します。いずれじっくり語りましょう(てか、じっくり語ったら、立派な学術論文になっちゃいますよ、膨大な量のね)。
 世界標準ですと、こうした擬人化は子供っぽいと評されがちです。しかし、考えようによっては、非常にメタなレベルでの思考作業です。私の「モノ・コト論」的に申しますと、外界のモノを脳内で処理してコト化するのが単純な「リアリズム」のあり方です。西洋科学はその最たるものですね。それに対し、外界のモノを処理してコト化したところから、さらに別のモノを作り出す、それをまた誰かが別のモノに展開していく、いわばそういう「モノガタリ」こそが、日本的なリアリズムなんですよね。
 ま、それは簡単に言っちゃえば、単に妄想好きっていうことなんですけどね(笑)。妄想世界が現実世界より楽しいんですよ。今まで、私はオタクは「コト」に執着すると言ってきたんですけど、実はもう少し上の次元での出来事のようですね。
 で、こういう「物語」指向というのは、ある意味とってもエコなんですよね。エコノミーですし、結果としてエコロジーなんです。一般的な経済の世界、つまり西洋経済学的な世界観では、いかに新しい物を生産し消費するかが勝負です。それはワタクシ流に言いますと、外界のモノを自己のコトにする行為にほかならず、モノの再生産ではなくてモノを殺していく行為です。
 その点、物語世界は、いわば無限の命の再生産です。死なないから何度でも楽しめます。自己更新性があるから、どんどん成長、増殖していきます。結果カネがかからない。
 また、こういう物語は現実世界でも役立ちます。たとえば、このマンガのように電車を擬人化すると、電車が遅延しようが、混雑しようが、それを自分の中で消化(昇華)できるようになるわけですよ。苦痛が楽しみに変わってしまうわけですから、これはもう素晴らしい知恵と言えるでしょう。
 私は首都圏に住んでいませんから、ここに登場する鉄道キャラたちの、そのキャラクターはあまりよく分かりません。でも、大昔いちおう鉄道マニアだったので、それぞれの鉄道にキャラがあることはよく分かります。ですから、なんとなく妄想しながらニヤニヤ楽しみましたよ。今度東京に行って電車に乗った時、どういう気持ちになるか、今から楽しみです。
 YouTubeにあるこのマンガのPVを貼っておきますので、ぜひご覧下さい。どういう物語世界か、よく分かると思います。
 

 東京の路線でも、このマンガに登場しないものがまだまだあります。私が昔よく乗ってたあの電車はどういう人間として描かれるかな…。また、他の地方の鉄道なんかもどう擬人化がされるだろうかと興味がわきます。そういう意味では、東京に住み、電車で通勤通学している人しか楽しめないマンガとも言えますが。
 私のお世話になっている富士急行線なんかどういう男なんだろう。かなりキャラ濃いっすよ。そういう物語も無限に派生していくわけです。面白いですね。どうでもいいこと言えばどうでもいいことですし、大の大人が何を妄想してニヤニヤしてるんだ、ということにもなりかねません。でも、それが平和で楽しいんですよね。日本はホントいい国です。
 このマンガでは、新幹線の方が在来線よりいばってますけど、そこんとこにはちょっと違和感を持ちました。ま、現実の収益からすればそうでしょうけど、物語世界ではどうなんでしょうね。
 あと、なんで全部男性なのだろうか、ということ。なんか女っぽいのもいますけど、あれはオカマキャラなんでしょ?違うかな。女性がいてもいいと思ったんですけど、これ(東武東上線と西武池袋線は幼馴染でした)を見たら納得しちゃった。おそるべし腐女子の妄想力(笑)。さすがについていけない…。

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2009.07.15

こ、これは…

ぶ、仏壇(神棚?)が…
2009071218 始まったなの震源地「羽後町」。カミさんの生まれ故郷です。
 昨年6月には、とうとう私たちもその聖地で一つのイベントを仕掛けましたっけ。イマン・カフェでのコンサートです。ちょうどかがり美少女イラストコンテストの日でしたから、たくさんのオタクの皆さんとも交流でき、私も負けじとスティックポスターをゲットしてきましたっけ。
 で、今年はどうだったかと言いますと、残念ながら全く関わりを持つことができませんでした。かがり火天国自体が7月11日に行われたんですよね。その日は私は歌舞伎町で別のイベントに出席していましたので、ま、物理的にも参加不可能だったということです。
 羽後町とその周辺は、その後もいろいろと「萌え」による町おこしを推進しておりまして、もう、なんというか、ちょっと着いていけないというか、なんともこそばゆいというか、痛がゆいというか…(笑)。
 ただ全国的にもずいぶんと注目されるようになって、本が出版されたり、テレビで紹介されたり、ネットで評判になったりしています。これは考えようによっては画期的なことですよね。
 カミさんいわく、日本の秘境、田舎の中の田舎、なんもない所。そんな所がこうして現代メディアでもてはやされるというのは、たしかに信じられないことです。そういうムーヴメントを作り出した皆さんの、アイデアと勇気と努力には心から感服いたします。
 しかし…ううん、これはどうなんでしょうか(笑)。
 実は今回、かがり火天国第3回かがり美少女イラストコンテストの開催に合わせてまして、もう一つのイベントが行われたようなのです。それは「秋田おたくオフ会」。
 イベントの内容は、羽後町の文化財である古いお屋敷でコスプレしよう!ついでに萌え米食べちゃいましょう!という、実にファンタジックかつカオスなものだったようです。
 まずは、こちらの公式ブログでその概要をご覧いただきたい。かがり美少女イラストコンテスト公式ブログでも告知されていますね。
 これはですね、正直、その場に行ってみたかった。いや、私はコスプレしませんよ(笑)。いったいどういう空気の中で、どういうプレイの応酬があったのか、そのシュールな状況をこの目で確認したかったのです。
 気になっていろいろ検索していましたら、参加者のブログがありまして、そこに掲載されている写真を見てビックリ!な、なんじゃ、こりゃあ。皆さんもご覧になってください。

 ハナコさんのブログ(上の写真勝手にいただきました)

 正直やられましたね。やるな、秋田のオタクたちよ。
 おそらく、参加者の皆さん、主催者の皆さんも知らないと思うんですけど(知ってたらごめんなさい)、あの旧長谷山邸って、もちろん歴史学的、民俗学的、建築学的価値も高いんですが、実はそれ以上にですね、ある芸術的観点、いやある種の「萌え」的な観点からしても、すでに非常に価値が高いんですよ。世界レベルです(!)。
Uni_2788 だって、だって、あの土方巽&細江英公の「鎌鼬」の撮影場所の一つなんですから!!
 つまりですね、もうすでに40年以上前にですね、あそこである種のコスプレをしてパフォーマンスをした男がいたってことです。それが、あの土方巽だったんですよ。そこで、君たちはああやってディスプレイして、コスプレして、萌え米食っちゃったんですよ。その歴史的な重み…というか軽みかも…解りますか?
 ちなみに私だったら、wktkじゃなくてガクブルしちゃって、そんなことできません(笑)。
 でも、でもですね、少し考え直してみますと、またちょっと違う気持ちにもなります。
 土方の存在というのも、ある種サブカルの象徴みたいなものですし、今やあれは芸術と称されますが、当時はかなり先鋭的前衛的なパフォーマンスにすぎませんでした。細江さんの写真のテクニックも、ある意味かなりフィクショナルなものです。ま、両方ともオタク文化の原点とも言えなくもない。
 いや、もっと遡れば、秋田、羽後の国、いや陸奥、いやいや縄文の大地は、そうしたオタク的な血が流れている場所であるとも言える。
 だいいち、なまはげだって、ありゃあコスプレですし、一種の神話性の象徴とも言えます。実にファンタジーとヒューマニティーあふれた物語世界です。
 美少女萌え的には、もちろん小野小町の存在を忘れてはなりませんね。最近でも、美女がいそうな県で、東京に次ぐ第2位になってましたっけ。
Uni_2789 その他、思いつくままに書き出しますと、菅江真澄や平田篤胤、佐藤信淵らもかなりオタク的だし、狩野亨吉に至ってはいつのまにかエロ画収集家になっちゃうし、ま、さきほどの土方巽なんかも、かなりエロチックですよね。羽後町自慢の国の重要無形文化財西馬音内盆踊りも、見事全ての萌え要素を含んでおります。
 つまり、そういう風土なんですよ。だからこうなるべくしてなったのかなあ…。
 ま、私自身、「萌え=をかし論」を展開して、Wikipediaにまで載ってしまうような(苦笑)思考してますからね、人のこと言えないんですけどね。高尚な(?)ものとオタク文化を結びつけて語ってますから。
 田代の人々にとっては、土方が訪れた時も、のちに土方の弟子たちが聖地巡礼した時も、そして今回も、ただただ「あんら〜、おがしなのが来た」という感じなのでしょう。やっぱり同レベルでの出来事なのか。マレヒトの来訪。「おがし」はもちろん「をかし(招きたい)」、すなわち「萌え」ですからね。
 あらためて、おそるべし秋田、おそるべし羽後町。
 というわけで、今回の騒動(?)に全然関与できなかったのは、ちと残念でした。
 お盆にはまた羽後町を訪ねます。今回はですね、さらに新たな目的ができました。またまた地元の皆さんのお忘れになっていることかもしれませんよ。ある人物の作品をたくさん見てこようと思っています。その名は、「白井晟一」です。楽しみだぞ。
 
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2009.07.06

『理系クン』&『理系クン結婚できるかな?』 高世えり子 (文藝春秋)

16370510 かいの席の理系チャンにお借りしました。理系チャン、いよいよ理系クンとゴールインかという現状でして、そんな中このコミック・エッセイは、ものすごくツボにはまったようです。あまりに状況が似ているとのこと。
 ま、このコミックでは、女性は文系チャンですからね、正確にはかなり違う状況とも言えるわけですが、ある意味、相手が理系であろうと文系であろうと、理系クンのアイデンティティーは揺らがないということでもあります。
 前に、理系の人々を紹介したところに書きましたように、いわゆる理系クンとオタクとは重なる部分が多いと言えます。私の「モノ・コト論」的に申しますと、理系クンもオタクくんも、両者とも「コト」にこだわり、全てを数値的、あるいは集合的に処理し、世界を理路整然と分析、整理、インデックス化していく傾向を持っています。
 それがこうしてコミックになるということは、その「コト化」の行為自体が、とってもコミカルだということですね。そう、世界史上、人類史上、「コト化」は全て「ギャグ化」の連続だったとも言えるのです。
 つまり、我々が、学問だの、科学だの、社会だのと叫び続けてきたことは、実は自然(モノ)の法則…というか実態…に反することであり、宇宙規模で見れば、すなわち「モノ・スケール」で測れば、まったくのギャグであるということです。残念でした(笑)。
 この前の椎名林檎ではありませんが、結局、そうしたモノ・スケールを持っていて、一言、一挙、一瞥のもとに、その構築された「理(コト)」をぶっ壊してしまう本質的パワーをですね、女性は皆持っているわけですよ。ニーチェが言う通りです。
16371320 で、そうした神のレベルから見ますと、理系クンやオタクという宇宙に名だたる種は、とっても可愛らしく見えたりするわけです。一生懸命ちょこまかちょこまか自然に対抗しようとしている彼らが、なんだかとっても愛しいのです。つまり、母性をくすぐられるんでしょうね。
 そうした、女性から見た「萌え」ポイントがですね、理系クンにはあるんですよ。そういう可愛らしさとともに、モノノケたる女性の最も苦手な「コト化」の産物、たとえばパソコンとか、メカとかに対する強さを持ってますからね。それはたしかに女性から見ると魅力的に見える(こともある)でしょう。
 最近はやりの「草食系男子」と重なる部分も多い。基本肉食系は自然(モノ)的ですから。アウトドアだし、ある種暴力的だし、ある意味では知的じゃないし(失礼)。
 で、まるで他人事のように言っているワタクシですが、さて、私は何系でしょうか。学問的には理系崩れの文系ですし、まあ外見は完全に草食系ですけど、実態は文理雑食系でしょうかねえ。よくわかりません。
 とにかく男が読んでも「ある、ある」という感じだったり、案外自分もそうだったり、充分楽しめますよ。女性の反応は「カワイイ!」か「無理!」でしょうね。さすがモノノケ。一刀両断。
 それにしても時代は変わったなあ。かっこいい男はいずこへ。男はカワイイものになっちゃったのかなあ。


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2009.06.20

『星座・天文』 星座天文萌研究会・渡部潤一 (PHP研究所)

56970896 部潤一さん…。こんなことやってていいんですか(笑)。ま、まえがきで結構辛そうにしてますので、彼自身はこういう趣味はないのでしょう…たぶん。
 いちおう星座・天文萌え歴40年になろうかというワタクシであります。そして、どういうわけか「萌え」研究家の称号を頂いているワタクシであります。それでも、この「萌え星座・天文」にはちょっと、いやかなり引いちゃったなあ。
 以前紹介したエレメント・ガールズでもかなり困惑しちゃいましたが、あれはある意味初のキャラクター化でしたから、おお、こういうやり方もありか、と感心した部分もあったんですよ。
 しかし、考えてれば、星座や太陽系の星々については、太古の昔からそういうことをやってきたわけじゃないですか。だいいち「星座」という概念からしてそうなわけです。そして、その分類に従って萌えキャラ化してるわけですから、これは当然無理があるわけですよ。
 というか、そのオリジナルな、つまりギリシャ神話的なキャラクターをあまり知らなければいいわけですが、ある程度知ってますからね、そりゃあキツいっすよ。
 一番違和感があるのはですね、たとえばオリオンのような男性キャラさえも女性になってしまっているところです。いちおうそれらは「ボクっ娘」という設定なんでしょうかね(笑)。
 まえがきで渡部さんが苦笑している(たぶん)ように、たしかに入門としてはいいのかもしれません。いやいや、入門にこれはまずいんじゃないかなあ。オリジナルに対する冒瀆っていう気もしてきます。
 ちなみに日本にも日本独自の星座というものがあります。あの野尻抱影さんに多くの研究があります。そちらをキャラクター化した方がまだ良かったかも…って、それじゃ売れないか。
 今年は世界天文年ですし、日本で久しぶりの皆既日食があります。そのブームに便乗した商品とも言えるのかな…と思いましたら、購入者はあんまりそういう意識はないようです。実際に星に興味を持つ人は買いませんよね(私も買ったんじゃなくて借りたんですよ)。では、どういう人が買うのかと言いますと、やっぱり「萌え絵」好きなんですよ。
 私はよく分かりませんが、そういうのに詳しいオタク女子生徒によりますと、ここで仕事している絵師さんたち、けっこう充実のラインナップなんだそうです。彼女は表紙も描いているナントカさんの絵が好きだそうで、ついつい手にとってしまったと言っています。そして、こういう本を買うとしたら、それは絵の指南書として、参考書としてだそうでして、なるほどその方が健全と言えば健全だな、と思った次第です。
 というわけで、ちょっとPHPさんも調子に乗りすぎという感じがしないでもない。たしかに、理系の人々の嗜好とオタクの人々の嗜好は重なる部分が多い、というか、理系とオタクはほとんど重なっているというのも事実ですけれど、なんでもかんでもこうして萌え化するのは、ちょっとねえ。一般人からしますと、まさに痛い状況ですし、ホンモノの理系の人々からすれば、どの内容も中途半端、全然物足りないというのが実態でしょう。
 また、Amazonのレビューの人も言ってますけど、二色刷りというところも中途半端。平成の浮世絵として観るならば、やはりフルカラーじゃなきゃ。絵師だけじゃなくて、摺師の技も観てみたいところですよ。多少高くなっても、その方が売れたんじゃないでしょうか。
 まあ、江戸時代にもこういう二番煎じというか、二匹目どぜう商売というか、そういうどうでもいいシリーズものがた〜くさんありますよね。それが大衆文化であり、そして後世伝統文化、あるいは国際的に認められる芸術になっていったわけですから、これはこれでいいのかな。うん、なら、やっぱり「画集」にしてしまった方が良かったかもなあ。

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2009.06.10

『日本人の知らない日本語』 蛇蔵&海野凪子 (メディアファクトリー)

84012673 たまた、向かいに座っている理科の先生からお借りしました。彼女、まあいろいろネタになる本を貸してくれること。
 この本(マンガ)、かなり売れているようですね。たしかに面白い。外国人との言語をめぐるすれ違いというかディスコミュニケーションというか誤解というかミスマッチングというか、そういうネタのマンガという意味では、こちらに近いかもしれません。
 これはある国民にとっての言語や文化や習慣という「モノ」、すなわち彼らが「ものにしている」ところのモノが、外国人にとっては「コト」であるという現象そのものを扱ったマンガと言えます。
 ですから、たとえば私がカミさんの実家である秋田という外国に行って、そこの言語や文化や習慣に面食らい、それを学ぼうとトンチンカンな質問をしている状況を、そのままマンガにしても、たぶんこれと同じくらい面白い作品になるでしょう。というか、そういうたぐいのものは実はいくらでもありました。
 しかし、この作品が特に面白いものとなった原因は、そのモノとコト、すなわち無意識と意識のズレを表現しただけでなく、本来「ものにしている」はずのモノが、全然「ものになってない」コトを教えてくれるからです。これは、モノとコトの逆転の面白さとも言えます。ま、この本に即して言うなら、外国人の方がマニアックな日本語を知っている、あるいは、類似表現の微妙な差異を意識的に使い分け、使いこなしているということです。
 実はこれもまた、私もしょっちゅう体験することです。逆の立場でね。
 たとえば、これはどこかにも書きましたけれど、私はバロック音楽なんかやってますからね、17世紀のフランスの音楽については、近所のフランス人より詳しかったりするわけですよ。
 私みたいに、どう見ても坊さん風情な日本人が、まじめな顔してフランスバロックのキリスト教音楽をやってたりする姿なんか、向こうから見れば、それこそこのマンガに出てきた、仁侠映画でヤクザ言葉を覚えてしまったフランスのご婦人と同じくらい笑える姿でしょう。
 あるいは、私は信仰とは違う立場から聖書を読んだり、仏教聖典を読んだりしています。それを元にその道の専門家に、やたらマニアックな質問をして困らせるなんてこともあります。
 あと、これは自分ではありませんけど、最近もプロレスのマニアの方々が、レスラーご本人よりもその方の過去の試合結果や内容に詳しいなんてこともありましたっけ。
 今日、この本の話が出たので、生徒にも話したんですが、受験で覚えるような英単語や、あるいは読まされる長文なんか、あれはネイティヴでも知らなかったり、難しかったりします。留学生なんかに、大学入試の英語の問題やらせると、たいがいお手上げになるものです。
 そう言えば、漢字なんかもそうですね。日本人の方が圧倒的に本国中国人より漢字をよく知っています。漢文もそうです。中国の古典に最も詳しく親しんでいるのは、日本の高校生ですよ。これはまじで。
 この前紹介したドナルド・キーンさんなんかも典型ですね。彼は尊敬されて、文化勲章までもらってますけど、私がこちらで最後に書いたことなんか、ホントは笑っちゃっていいことなんです。というか、私は昔からマンガチックだなって、不謹慎にも思っていたんですよ(笑)。もちろん、それは、このマンガの原案者と同じく、彼らへの愛情と尊敬の念をベースにした「笑」なんですが。
 というふうに、幼少からその環境にどっぷり浸かって、「ものにした」モノと、大人になってから客観的に学習したコトとでは、その性質や方向性が全く違うわけです。そこに齟齬や逆転現象が起きて、それでこういう笑える本が生まれたり、あるいは場合によってはケンカになり、戦争になるわけです。
 ずいぶん前にこちらで書きましたっけ。「異文化理解」というのはおかしいと。理解できないから、ズレが生じるから「異文化」なのであって、「異文化理解」という言葉自体が自家撞着を起こしていると。
 変に「異文化」体験を美化したり、理想化したりするのではなく、このマンガのように、そのすれ違いやディスコミュニケーションや誤解やミスマッチング自体を愛し、可愛がり、面白がり、互いに学び合って楽しんでいけばいいんじゃないでしょうかね…と、充分に美化、理想化してますが(笑)。
 ちなみに、このマンガのタイトル「日本人も知らない日本語」ですけど、まあいかにもその通りですね。ここで我々ネイティヴが試される多くの問題、あるいはマンガ自体のネタになっている日本語については、いちおう日本語が専門で、それなりにマニアックだと自負している私でも、半分くらいしか分かりませんでした。だから、これを読んで、「やばい、全然知らない」と思ってしまった皆さん、全然心配しなくていいですよ。知っていても全く意味がないことばかりですから。いわゆる雑学、小ネタ、一口メモ程度のものです。
 ま、そんなの大きなお世話で、こうして「知らない」ことを楽しみ、ちょっと心配し、一時的に勉強意欲を増し、「日本語ブーム」を作り上げてしまうのもまた、いかにも日本人らしい文化現象であると言えますね。
 最後に、このマンガでもやり玉に上がっていた最近の「日本語の乱れ(?)」については、私は非常に寛容です。それについても、今までいやというほど書いてきましたので、ここでは割愛します。

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2009.05.04

『ねこ耳少女の量子論〜萌える最新物理学』 竹内薫ほか (PHP研究所)

今日の記事は壊れ気味です。ご注意を。
56970560 またまネット上で佐野量子さんの懐かしい映像を観ました。そこでふと思ったのが「佐野量子の量子論」ってのを出したらどうかな、というどうでもいいこと。今では武豊騎手の奥さんですから、「武量子(たけかずこ)の量子論」が正しいな、なんてさらにどうでもいいことを考えていました。ついでに、量子さんが漁師…じゃなくて量子のようにふるまったら、豊さんは大変だろうな、いや、全ての女は量子的存在である…なんてことまで瞬時に考えてしまった。
 量子論に関して、そして、こういう「どうでもいいこと」と「重要なこと」が同時に存在し得ることに関して、私は1月に「二重スリット実験」に思うという記事を書きました。
 そこに、これもたまたまですが、「そういう(量子論のような)非日常的な刺激(それはとっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的なんですが)…」と書いています。そう書いたちょうど1週間後くらいにこのマンガが出たわけですから、私の独言にも実は科学的予測性があったのかもしれません。
 いや、私のそうした意識の前に、量子がふるまいを変えて、そうしてこの本が出たのかもしれない。あの時、瞬間あんなふうに思ったから、今のこの私を取り巻く世界があるのかもしれない。そうして無限に重層的な世界を、私たちは無限選択的に歩んでいるのかもしれない。量子論は究極的にはそんな世界観をも創出しますね。
 私の量子論に対する結論は、その記事にも書いたとおり、「言葉」が悪いのだ!量子は量子!これでいいのだ!という、実に哲学的、バカボンのパパ的なものです。それは今も変りませんし、絶対に正しいと信じています。この世は漫画的、あるいは夢的、妄想的であるべきです。
 さてさて、話を本題に導かねば。そんな漫画的な世界をマンガにしてしまったのが、この本です。私の前に座っている、いつもいろいろなネタを提供してくれる理科の先生(女性)が持っているのを見つけて、借りて読んでみました。
 結論。やっぱり量子論は「とっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的」でした。量子さんはやっぱり豊さんを苦しめていたっていうことです(笑)。そう、そういう量子の存在の仕方やふるまいを、女性の「萌え」要素と重ねて表現するという究極の方法、さらに、シュレディンガーの猫に対する我々猫ヲタのシンパシーを露骨に利用するという禁断の手法を、この本は恥ずかしげもなく披露してしまっています。なんということでしょう。
 その理科の先生の蔵書の一つである『元素周期 萌えて覚える化学の基本』をお借りした時と同じことを叫ばせてもらいます。
 PHP研究所よ!これでいいのか?!Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)!!松下幸之助さん!これでいいんですか!?(笑)
 まあ、いいのでしょう。昨日の記事にも関係しますが、「繁栄」と「平和」と「幸福」という絶対矛盾を実現するには、たしかにオタク的生き方をするしかありませんからね。世界はオタク化すべきです。非核化なんて無理なことはあきらめて、オタク化を推進すべきです。六者協議は北朝鮮の非核化を目指すのではなく、オタク化を目指すべきです。オタク三原則、オタク平和都市宣言、東南アジアオタク地帯条約…ああ、頭がおかしくなってきた(笑)。
 まあ、これほど、この本には破壊力があるってことですよ。今までいろいろな萌え系の学習書を紹介してきましたが、これほど自然なものはありませんでした。素材を無理矢理萌え風に料理しているのではなく、素材自体が萌え的なんです。量子のふるまいはツンデレなんです。
 そう考えてくると、「萌え」というものは、まさにこの世の萌え出づる原点「量子」への共鳴なのでしょうか。では、私の「萌え=をかし論」からすると、枕草子は量子文学ということですか!?ww
 もうわけがわかりません。やっぱりこの世は漫画的です。バカボンの世界です。やっぱり霊界物語は正しかった。最新物理学がやっと霊界物語に追いついたってことですかね。
 最後に一言。やっぱり「超ひも理論」って、訳し方のセンスがバカボンしてますよ。もう、この世は粒でも波でもひもでも何でもいいような気がしてきます。
 全ての女はツンデレな「量子」であり、全ての男はその「超ひも」である…これでいいのだ!これでノーベル賞とれないかな(笑)。

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