三島の水と吉田の水〜太宰治「富嶽百景」より
三島での合宿、大盛況のうちに終了いたしました。
静岡出身、そして今は富士山の北麓に住む者でありながら、こうして三島でゆっくり時間を過ごしたのは初めてでした。
そこで実感したのは、やはり三島が「水の都」であること。そして思い出したのが、太宰治の「富嶽百景」の一節。
そう、教科書ではカットされている「悪口」の部分です。何に対する「悪口」かというと、富士吉田に対する「悪口」です。読んでみましょう。
いちど吉田に連れていつてもらつた。おそろしく細長い町であつた。岳麓の感じがあつた。富士に、日も、風もさへぎられて、ひよろひよろに伸びた茎のやうで、暗く、うすら寒い感じの町であつた。道路に沿つて清水が流れてゐる。これは、岳麓の町の特徴らしく、三島でも、こんな工合ひに、町ぢゆうを清水が、どんどん流れてゐる。富士の雪が溶けて流れて来るのだ、とその地方の人たちが、まじめに信じてゐる。吉田の水は、三島の水に較べると、水量も不足だし、汚い。
これはたしかに教科書には載せにくい。たまたまか必然か、私は富嶽百景の舞台の一つ、富士吉田の月江寺界隈で高校生にこの作品を読んで聞かせることになったわけですが、当然この省略された部分もちゃんと読みました。
一見不名誉な記述のように感じられますが、いやいやどうして、太宰にここまで言われるのは逆に名誉なことですよ(笑)。
今回再確認しましたけれど、たしかに三島の水の方が圧倒的に水量が多く、そしてきれいでした。しかし、その「裏富士」の裏たるコンプレックスが、太宰のそうした性質とマッチして、あの歴史的な名作、名文を生んだのだと思います。
逆に言えば三島ではあの名作は生まれなかった。この名文は生まれなかった。特に私の学校のすぐ横を舞台とするこの部分は、世界の文学の中でも格別なる名文であると信じます。
路を歩きながら、ばかな話をして、まちはづれの田辺の知合ひらしい、ひつそり古い宿屋に着いた。
そこで飲んで、その夜の富士がよかつた。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰つていつた。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だつた。富士が、よかつた。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。富士が、したたるやうに青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだつた。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないやうに、他の生きもののやうに、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そつと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでゐる。私は溜息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思つた。ちよつと気取つて、ふところ手して歩いた。ずゐぶん自分が、いい男のやうに思はれた。ずゐぶん歩いた。財布を落した。五十銭銀貨が二十枚くらゐはひつてゐたので、重すぎて、それで懐からするつと脱け落ちたのだらう。私は、不思議に平気だつた。金がなかつたら、御坂まで歩いてかへればいい。そのまま歩いた。ふと、いま来た路を、そのとほりに、もういちど歩けば、財布は在る、といふことに気がついた。懐手のまま、ぶらぶら引きかへした。富士。月夜。維新の志士。財布を落した。興あるロマンスだと思つた。財布は路のまんなかに光つてゐた。在るにきまつてゐる。私は、それを拾つて、宿へ帰つて、寝た。
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