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2024.05.07

母なる都留文科大学

Img_5800 日は第二の故郷都留でセミナー。いろいろと感慨深いものがありましたよ〜。40年前の自分に教えてあげたいですね。

 会場からは母校が見えました。本部棟、そして理科棟のてっぺんのドーム、手前に音楽棟。私の人生を変えた舞台を眺めながらの6時間にわたるトークはいつになく感動的なものでした。

 甘酸っぱくもほろ苦い思い出もたくさんあります。まさに青春の舞台ですね。

 今日はそんな記念すべき日にちなみまして、数年前、母校の同窓会誌に寄稿した文章を公開いたします。まだ普通に教員(教頭)をやっていた頃ですが、なんとなくその後の人生の転機を予感していたような内容です。よろしかったらお読みください。

 母なる都留文科大学

 富士学苑中学・高等学校 教頭 山口隆之(昭和61年度国文学科卒業)

 人生の謎解きは面白い。物語はいよいよクライマックスへ…。
 35年前の4月、私は息苦しく迫る都留の山並みをただ呆然と眺めていた。入学式当日、後悔とは違う一種の恐れを感じた私は、会場の外に出ると見知らぬ街をあてもなく歩いた。自分はこのあとどうなってしまうのだろう。
 恐れは、それを客観的に見ることができるようになって、そこでようやく「謎」となる。自分を揺るがした地殻変動を、因果関係をもって納得しようという余裕が生まれたのである。なぜ自分は都留文科大学に入ったのか。
 しかし、大学時代4年間その謎は解けずじまいだった。なぜ自分は今ここにいるのか。
 すっきりしないまま卒業した私は、縁あって富士吉田市にある私立富士学苑高校に国語科教師として奉職した。禅宗の教えに基づく教育をしている学校であった。
 教師生活を続ける中でも、何度か故郷の静岡に帰ろうと画策した。しかし、そのたび生来の特技である「怠惰」が発動し、その機を逃し続けた。天地人の働きによって、この世があるとしたら、私の功績は「怠惰」くらいのものである。天地が動き、人が動かなかったことによって、私の物語は結果として実に面白い道を歩むこととなる。
 富士学苑高校では、特進コースAとSの立ち上げを任され、またのちに付属の中学校の創設に関わり教頭職を拝命した。30年度は久しぶりに高校に席を戻し、少子化時代の苦しい環境の中で自分なりに戦っている。来年度以降は、また違った立場で学園全体の未来の舵取りをしていかなければならないだろう。
 文大が天職を与えてくれた。これだけでも文大には感謝してもしきれないわけだが、実は職業を超えた私の人生そのものを変えてしまったのもまた、文大という存在なのである。
 文大時代から私を魅了する富士山。この霊山を巡る天地人の不思議な働きに巻き込まれた私の、もう一つの物語が今ここにある。
 ひとことで言うなら、「裏の歴史」と出会ってしまったのである。宮下文書・出口王仁三郎・仲小路彰という順序で富士山の、いや日本の、いや世界の、いや宇宙のアナザーストーリーと出会ってしまった私の人生は、音を立てて大きく動き出すこととなった。
 宮下文書と王仁三郎については書籍も出ているし、ネットにも情報が溢れているが、仲小路彰という人物については、ほとんど誰も知らないだろう。
 この偉大なる天才歴史哲学者は、戦前、戦中、戦後を通じて、この日本という国を裏で動かしてきた。そんな人物が昭和19年から昭和59年まで山中湖畔に独身蟄居していたのである。
 彼の影響を受けた人物名を思いつくままに列挙する。吉田茂、佐藤栄作、松下幸之助、湯川秀樹、原節子、細野晴臣、坂本龍一、谷口雅春…政界、財界、科学界、芸術界、宗教界とあらゆる分野で彼の思想が昭和という時代を動かしていた。
 ちなみに「グローバリズム」という言葉を世界で初めて使ったのは、仲小路彰という日本人であった。昭和21年のことである。
 平成30年、この天才の偉業を発掘・整理していることがきっかけで、私の働く学園と都留文科大学文学部国際教育学科が包括的な提携関係を結ぶこととなった。禅宗を中心とする日本文化と北欧の文化の交流ということで、個人的にはグローバリズム(地球主義)の雛型だと感じている。ひたすら福田学長に感謝である。
 仲小路彰は、東京オリンピックや大阪万博、沖縄海洋博、筑波科学博などを裏で支えた。私も彼の影響を受けてか、近年政府や省庁と連携して国際的なイベントを企画、運営することが多くなってきた。富士山麓で開催した日本ASEANサミットやシルクサミットはその例である。
 国際的なイベントと言えば、もう一つどうしても書いておきたいことがある。
 私が大学4年の時、文大を舞台に「都留音楽祭」という古楽の祭典が始まった。バロック・ヴァイオリンを弾いていた私としては、まさに夢のようなことであった。
 私は第1回から一昨年第31回で最終回を迎えるまで、裏方として働かせていただいた。
 音楽監督である有村祐輔先生とのおつきあいは30年以上になる。都留音楽祭はその使命を終えたが、有村先生と私は新たな音楽祭の船出を計画中である。
 人生の謎解きは面白い。あの時の恐れ、あの時の疑問、あの時の謎が、30年以上の歳月を経てこんなふうに解かれようとしている。
 「謎」は長いこと謎のままだったが、その「謎」との長いつきあいが解答への道を示してくれた。なるほど、疑問がなければ答えもありえない。思い通りの人生には、実は答えがないのではとさえ思えてくる。
 あの時息苦しく感じた都留の山並みは今、私を優しく懐き、私にこの上ない安心感を与えてくれている。都留文科大学は、私の人生の物語を紡いでくれる、母なる大学なのであった。
 最後に。母に対して少し気恥ずかしいのだが、私は今なら素直に言える。ありがとう、都留文科大学よ。これから親孝行をするよ。

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