『25絃箏によるバッハのシャコンヌ』 木村麻耶
私も40年も前から箏でバッハを弾いておりました。都留音楽祭でいったい何曲披露したことでしょう(宴会芸ですが…笑)。
大学時代、山田流箏とバロック・ヴァイオリンを弾き始め、本当に運命的に3年生の時、「東西古楽の祭典 都留音楽祭」が自分の通う大学を舞台に始まりました。爾来30年以上にわたり同音楽祭の運営に携わりました。
これは偶然ではありませんよね。私の講演では別の分野での都留文科大学での運命的な出会いの話をしているのですが、実はこれも大きな出会いでした。
ただ、私は普通の13絃箏しか弾いたことがなかったので、とても一人でシャコンヌを弾こうとは思わなかったなあ。二人でというのは試しましたが、技術的に追いつきませんでした。
木村麻耶さんの演奏、すごいですね! 泣いちゃいました(涙)。
25絃の箏の迫力もですが、彼女の鬼気迫る演奏も素晴らしい。25絃の難しさは想像できないほどですが、右手の爪と左手の素手の使い分けや、弾く位置の選択による音色づくりが、音楽的に理にかなっています。
なるほどこんなに曲中で柱(じ)を動かすんですね。こういう発想はなく、ひたすら押手でやろうとしたのが若かりし私の間違いでした。
それにしても、ちょっと発見だったのは、この編曲が音的にいうとオリジナルとほとんど変わらない、つまり余計な音を足していないことです。
チェンバロやピアノ、あるいはハープやギター、オケでやる時は、どうしてもその音世界に厚みを必要とするために、いろいろ音を足すんですよね。
それがヴァイオリンだとなぜ、あんなに少ない音でその深み厚みが出るのか不思議に思っていたのですが、箏でも余計な音を足さなくよいのだと気付かされました。
ヴァイオリンはもちろん、箏における演奏上の制約が、実は重要なのでしょう。これって楽器論における重要な課題だと思いますよ。
基本的に西洋楽器の世界は、やれることを増やしていく方向に進化(?)しました。電子楽器やデジタル打ち込み音楽、AI音楽はその最たるものでしょう。しかし、それらが必ずしも感動を呼び起こさないことは、私たちは体験的に知っています。
特に本来の音楽がそうであったように、こうして演奏者の姿を見ながら音を聴く体験においては、その制約の中での人間の没頭や格闘が重要な感動のファクターになるのです。歌の世界がその象徴でしょうね。
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