宮下文書と三河〜三河富士5峰
本日は豊橋にて講演会。たくさんの方々に熱心に聴いていただき感激でした。感謝。
右の写真は石巻山。三河富士の一つであり、ピラミッド伝説のある山です。
講演の導入で三河と宮下文書の関係をのちほどお話しますといいながら、別の話題で盛り上がり結局語るのを忘れてしまいました。よくあることです(笑)。
ここに詳しくは書きませんが、三河と宮下文書の関係は、大きく二つの時代に分けられます。
一つは紀元前の弥生時代。徐福伝説です。徐福渡来伝説は全国に多数ありますが、三河地方にも比較的色濃くその伝承が残っています。
当地方で17世紀末に成立したと見られる「牛窪記」にも、「徐福が熊野から三河に来て子孫は秦氏を名乗り本宮山麓に住んだ」というようなことが書いてあります。
まあ、あの時代は全国的な徐福ブームもあったので、そこら中で子孫を名乗る人が出てきたり、お墓を作ってしまったりということが多数ありましたが、ある程度信憑性のある文書である「牛窪記」に書き残されているのは重要なことです。
もう一つの時代は南北朝時代。三河吉野朝説、つまり後醍醐天皇の崩御後、半世紀ほどにわたって南朝の御所が三河にあったという説があります。
こちらは当地方で15世紀前半に成立したとされる「青木文献」という史書に詳細に書かれています。同文献も学術的に認められているものです。
つまり、ぶっちゃけてしまうと、三河の徐福伝説も南朝伝説も、「偽書」宮下文書による富士北麓伝承よりもずっと信憑性が高いということです。
研究者の中には、宮下文書(富士古文献)の内容を無理やり三河に比定している方もいらっしゃいますが、さすがにそれは行き過ぎで、現実的な可能性としては、明治期の宮下文書の成立に三河人が関わっていると考える方が良いのではないでしょうか。
あるいは秦氏(羽田氏)ネットワークの中で各地の情報が交換されて、それが宮下文書に反映しているとか。
一方で、ちょっと面白い事実もあります。それは富士山と三河の関係そのものです。
三河地方からも富士山を望むことができます。ただし、前景に山があるので八合目から上くらいしか見えません。チラ見せ(笑)だからますます富士山への憧れが増したのでしょうか、富士山を地元に仮設してしまう「郷土富士」がたくさんあるのです。
つまり「三河富士」が複数あるということです。全国的には「◯◯富士」というのはだいたい一つずつなのですが…。
地元の方はおそらく分かると思いますが(実は私はわからない)、次の五つの山が「三河富士」と称されています(一つは正真正銘の「三河富士」)。
・本宮山
・宮路山
・三河富士
・村積山
・石巻山
ほかの県で五つ以上となると、丹波富士と讃岐富士くらいでしょうかね。
今回は初めて三河地方に降り立ちましたが、昨日の長浜(富士山と出雲大社のレイライン上にある)、一昨日の尼崎(出雲大物主関連)と、どうも自分自身の意志とは関係なく神縁深い土地を回っているように感じますね。富士山と出雲か…。
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