仲小路彰 『昭和史の批判史』より「二・二六事件」
今日は2月26日。名古屋から昼に静岡に戻り、午後、二・二六事件の青年将校側の重要人物である安藤輝三大尉(写真)のお墓参りをいたしました。
事件から87年が経ち、事件の未来的意義(こちら参照)もようやく明らかになりつつあるということでしょうか、大尉の辞世の句碑が撤去されていました。
さて、実はこの2月26日は、かの天才歴史哲学者仲小路彰の誕生日でもあるのです。
そこで、今日から三日間、仲小路の残した厖大な文献の中から、二・二六事件について書いた部分を紹介したいと思います。
おそらく昭和30年代の初めに書かれたと思われる「昭和史の批判史」という非常に興味深い文献があるのですが、そこからの抜粋となります。
世界史、日本史を過去から未来まで俯瞰していた仲小路は、この事件に対してどのような評価をしているのでしょうか。
今日紹介するのは、戦後の唯物史観に基づく「昭和史」における一般的評価としての二・二六事件について書かれた部分です。
たしかに、現代の私たちも歴史の学習でこのように学びます。まずはそれを確認いたしまして、明日とあさってにつなげていきましょう。
(以下引用)
――二・二六事件――
一九三六年二月二十六日早暁、歩兵第一・第三連隊、近衛歩兵第三連隊等の二十二名の青年将校は、千四百余名の下士官・兵をひきいて反乱をおこし、首相・蔵相・内大臣・侍従長・教育総監の官私邸、警視庁、朝日新聞社を襲撃し、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎を殺し、侍従長鈴木貫太郎を傷つけた。岡田首相は即死と発表されたが、逃れ助かった。
反乱部隊は首相官邸、議会、陸軍省、参謀本部をふくむ永田町南部を占領し、川島陸相と交渉して要求を実現しようとした。彼らの要求は、蹶起の趣旨を天聴に達すること、統制派の幹部を逮捕または罷免すること、ソ連を威圧するため荒木大将を関東軍司令官に任命すること、皇軍相激をさけることなどにとどまり、それ以上の具体的な革新政治の計画はなく、軍上層部が有利に事態を収拾することを期待していた。
クーデターの成否は三日間にわたってわからなかった。しかし二十八日になると事態は変わった。海軍は陸軍の独裁をきらい、連合艦隊を東京湾に集結して示威の態勢をとった。政界財界には軍部独裁をよろこばぬ気運が起こった。こうした動きには事件の真相を知りはじめた国民が、反乱に対する同感をまったく示さず、無言の抵抗をつづけたことが反映していた。二十九日になってようやく陸軍首脳も態度を決し、反乱部隊の鎮定を開始した。陸軍省の発表は「蹶起部隊」から「占拠部隊」「騒擾部隊」に、さらに「反乱部隊」と四転した。反乱部隊の下士官、兵の大部分は、幹部につれ出されただけで、クーデターに参加するなんの条件をもっていなかったから、反乱軍と規定されるとたちまち帰順した。
かくて日本ファシズム史上最大のクーデターである二・二六事件は、千四百余名の兵力を動員しながらあっけなく終わりを告げた。このことは日本におけるファシズム支配をうちたてる上での天皇制機構の強さ、有効さを示すものであった。
この事件直後から軍部は戒厳令を背景として、政治に対する発言権を一挙に増大させていった。広田内閣の組閣の途上、陸相候補寺内壽一は、閣僚の顔触れが「依然として自由主義的色彩を帯び現状維持的」だと強硬な反対声明を行なってこれを変えさせ、また「国防強化」「国体明徴」「国民生活安定」「外交刷新」の四大国策を要求、広田はこれをすべてうけいれた。さらに五月、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部はいつでも内閣の死命を制しうる力をにぎった。
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