« バッハ 『幻想曲ト長調(BWV 572)』 | トップページ | テレマン 『ヴァイオリンとチェロ、通奏低音のためのトリオ・ソナタ』 »

2022.11.22

法華経は誰のための教えか

 日のバッハの幻想曲の中間部は、仏教的に言うと(?)「阿弥陀如来来迎」ということになります。いや、まじめな話、そういう宗教的なイメージをもって作曲されていると信じます。

 先日、比叡山延暦寺に行きましたが、そこで修行した私の知人の僧侶に言わせると、正直難行苦行の連続であり、汚い言葉でいうなら「いじめ」が横行しているとのこと。これは延暦寺に限らず修行寺ではよくあることです。

 難行苦行を経て、その無意味さに気づかれたお釈迦様の教えと根本からして矛盾しているのは、ある意味面白くさえありますね。

 最近、法華経に触れる機会が多いのですが、その法華経も大変素晴らしい内容であると感じる一方で、反面凡夫には厳しすぎる、ある種のいじめだなと感じるのも事実であります。

 比叡山に20年もこもっていた親鸞もそれを感じたようで、結果として山を下り、ダメ人間でも救われるという浄土真宗を開きました。

 そのあたりの事情について、わかりやすく解説された動画がありますので紹介します。

 私は既成仏教を超える未来仏教を研究しているので、最澄派でも親鸞派でも日蓮派でも栄西派でもないのですが、この仏教の矛盾には興味があります。それをどう乗り越えるか。私はおそらく阿弥陀様にすがることはないでしょう。

 では、どうすればよいのか。バッハの音楽には、そのヒントがあると思っています。

 

|

« バッハ 『幻想曲ト長調(BWV 572)』 | トップページ | テレマン 『ヴァイオリンとチェロ、通奏低音のためのトリオ・ソナタ』 »

音楽」カテゴリの記事

心と体」カテゴリの記事

歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« バッハ 『幻想曲ト長調(BWV 572)』 | トップページ | テレマン 『ヴァイオリンとチェロ、通奏低音のためのトリオ・ソナタ』 »