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2022.05.03

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その1)

Th_deguchionisaburo2 日は東京にてYouTubeの撮影がありました。二つの有名チャンネルにお呼びいただきまして、その場でダウンロードしたままをお話いたしました。

 そう、いつものとおり、打ち合わせも原稿もなしで、未来から情報をダウンロードしてお話するので、こちらとしては楽です。今回も話しながら自分でも「なるほど〜、そうだったんだ〜」とか思っちゃいまいした(笑)。

 さてその中で、やはり登場したのが出口王仁三郎。あらためて王仁三郎の存在の歴史的意義について、私自身が私の説明によって勉強させていただきました(これが宇宙標準の学習の形態なのでした)。

 というわけで、ちょっと思い立ったことがありましたので、今日から数日かけて、戦後の文豪の一人である城山三郎の「教祖・出口王仁三郎」という文章を紹介しようと思います。

 王仁三郎の入門として、なかなか優れた名文だと思います。

 

教祖・出口王仁三郎

        城山三郎

 京都から汽車で一時間、保津川下りの起点である盆地の町亀岡――まわりの山はまだ浅いが、いつもうす黒い霧に包まれた感じで、いかにも山陰地方に入ったという気がする。

 

朝から夜までサイコロ

 その亀岡町から西南一里の農村(京都府南桑田郡曽我部村穴太)の貧農の家に、一人の男の子が生れた。明治四年、廃藩置県の年である。

 少年の名前は上田喜三郎。

 少年が生れて半歳、祖父が死んだ。少年とはすれちがいに消えた人生であり、少年の生い立ちとは何のかかわりもなさそうだが、実はそうではない。

 祖父吉松は、バクチ好きな遊び人であった。相手さえあれば、朝から夜までサイコロを振りつづけていた。

 不平を云った妻に対する云い草がふるっている。

 「気楽に思っておれ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うてござる。鳥や獣は別に明日の貯えもしておらぬが、別に餓死した奴はない。人間もその通り、餓えて死んだものは千人の中に、ただの一人か二人ぐらいのものじゃ。千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎで死ぬのじゃ……上田家は家も屋敷もなくなってしまわねば、よい芽は吹かぬぞと、いつも産土(うぶすな)の神様が枕もとに立って仰せられる。一日バクチを止めると、その晩に産土さまがあらわれて、なぜ神の申すことを聞かぬかと、大変な御立腹でお責めになる。これは私のジョウ談じゃない。真実真味の話だ」(引用は大本教学院篇『聖師伝』)。

 たいへんな理屈だが、とにかく理屈は通っている。それに、神さままで持ち出されて開き直られたのでは、妻としても黙る他にない。

 無責任もここまで徹すれば、からりとして気持がよい。しかも正直で、きれい好きと来ている。田舎には珍しい洗煉された遊び人であったとも云える。

 とにかくサイコロを振りつづけた。そして、先祖伝来の田畑はきれいさっぱり人手に渡してしまった。三十三坪というわずかな悪田が残ったが、それは買手がつかないためであった。それに、百五十三坪という宅地とボロ屋が辛うじて残った。

 死に際の辞世というのも、ふるっている。

  打ちつ打たれつ、一代勝負、可愛いサイ(妻)子にこの

  世で別れ、サイの川原でサイ拾う、ノンノコサイサイサイサイサイサイ

 息子つまり少年の父梅吉は養子であったが、養子を迎えながら、バトンタッチ前の財産をすり減らしてしまったことが多少気にかかったのか、それとも、本当に予言能力があったのか、祖父はのんきな辞世とともに、臨終の床から息子夫婦を慰めるように云い添えた。

 「上田家は古来七代目にかならず偉人があらわれて天下に名を成した。円山応挙は自分より五代前の祖先上田治郎左衛門が篠山藩士の女をめとって妻となし、その間に生れたものである。今度の孫は丁度七代目にあたるから、かならず天下に名をあらわすものになるであろう……私の命はもう終りである。しかしながら、私は死んでも霊魂は生きて、孫の生い先を守ってやる。この児は成長して名をあらわしても、あまりわが家の力にはならぬとの易者の占いであるけれども、天下に美名をあげてくれれば、祖先の第一名誉であり、また天下のためであるから、大事に養育せよ。これが私の死後までの希望である」

 自分の責任は棚上げにして、生れたばかりの孫をダシにして恩を売って死んで行ったわけである。本当に神のお告げがあったかどうかは別として、まことに天晴れな死に方という他はない。

 われわれがこの少年の生涯を考える場合、少年の七代前に本当に円山応挙(本名上田主水)がいたかどうかは、たいして問題ではない。家系図の類いによって検証する必要もあるまい。

 問題は、この遺言が息子夫婦の耳に灼きつき、やがて少年の無心な胸に灼きつけられて行ったということである。うす暗い農家の一隅、かまどの火を赤く頬に受けながら、母や祖母の口から、少年は何度となくその遺言を聞かされたであろう。

 「おまえは円山応挙以来のえらい人になる」――多感な少年の心に、それはどれほど強い自己暗示作用を営んだことか。

 少年は自信を持つ。学問について、また芸術について。

(その2に続く)

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