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2022.05.04

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その2)

Th_unknown_20220505142201獄耳」と「八つ耳」

 少年は名をあげることを夢見る。円山応挙と肩を並べるほどの偉人になろうと。

 少年は七歳になるころまで、どこへ行くにも、小さなお爺さんが自分といっしょについてくるのを見たという。

 また、あやまっていろりの中へ落ちこんだとき、その爺さんが走りこんできて救い出してくれたともいう。

 これは、大本の神話の伝えるところである。

 田舎には話題が少い。変り者で目のさめるようなあざやかな遊び人であった祖父の話は、少年のまわりでくり返し語られたことであろう。そのため少年は、幻の祖父をいつも肌近く感じたのかも知れない。

 いずれにせよ、こうした神話が伝えられるほど、祖父の影響が強かったことに注目してよいと思う。

 少年に弟が生れると、その弟がまた祖父そっくりの顔つきで、四歳のとき、畑の雑草を口にくわえて畑の外に捨てるということをやって、皆をおどろかせた。それは、祖父がやったのと、そっくり同じ奇癖であったのだ。心配されていたバクチ癖の方も、やがてこの弟に現れてくることになる。

 少年は、「地獄耳」とか「八つ耳」とか云われた。耳も大きかったが、子供に似合わず、頭がさとかったためであろう。

 小学校入学の直前、父親に連れられて、産土神社に参拝に行き、その帰りに、無病息災のためというので、お腹へ十数点の漆をさした。(乱暴な話だが、当時はまだこうした迷信が大手でまかり通った時代。大本教の誕生も、そうした土壌を無視しては考えられない)

 漆の毒は体一面にひろがり、瘡になってしまった。そのため、学校にも上れず、祖母について勉強することになる。

 

僕の人生はどこにある

 この祖母というのが、当時では有名な言霊学者の娘で、いろはや読み書きを教えるとともに、言霊なるものについても、幼い孫に説明する。門前の小僧どころではない。直接の、しかも、家を同じくしての個人教授であるから影響力は強い。言霊の研究というので奇妙な大声を発して、笑われたり、いぶかられたりした。

 喜三郎少年が漆にかぶれず、そのまま順調に小学校に上っていたならば、祖母の影響もうすく、喜三郎はまた別の秀才少年の出世コースをたどったのかも知れない。

 海綿のように何事も吸収してやまない幼い頭脳の中に、祖父の幻と、祖母の神がかりな神霊学がこもごも流れこむことで、喜三郎の特異な後半生が準備されて行くことになる。

 喜三郎少年は、頭のよい上にまじめな勉強家であった。十歳の春、おくれて小学校に入学したが、すぐ追いつき、二、三級ずつ進級して行った。

 こうした小学生生活からも、喜三郎は自らの非凡さを意識せずにはおられなくなる。

(おれは他人とはちがうんだ。円山応挙の七代目。おれには神さまが……)

 柴を刈り、荷車に積んで父とともに、六、七里も先の京都まで売りに行く――そうした貧苦の中で、少年の自意識だけがいよいよ冴え返って行くのが眼に見えるようである。

 修身の時間。大岡越前守忠相の名が出てきた。受持教師は、それを「タダアイ」と読んだ。

「タダスケが真実です」

 喜三郎が注意した。

「先生に注意するとは何事だ」

 というわけで、先生はまっ赤になって、喜三郎に打ってかかろうとした。

「校長先生!」

 喜三郎は思わず助けを呼んだ。

 小さな田舎の小学校のことである。隣りの教室から校長先生が飛び出してきた。

 理由を聞けば、校長も喜三郎少年に軍配をあげざるを得ない。このため受持教師はすっかり顔をつぶしてしまい、以後ことごとく喜三郎につらく当たるようになった。

 一語でも読みちがえると、麻縄でしばったり、大きな算盤の上に一時間も正坐させたりする。

 喜三郎の父や家のことを、コジキだとかボロ屋だとか云って、ののしった。

 喜三郎は泣き寝入りはしなかった。子供心に反抗心を燃え立たせ、ある日、帰校途中の受持教師に、クソをつけた竹槍を突き立てるという騒ぎをひき起した。

 そこまでに至る事情が事情であるだけに、受持教師は免職。喜三郎も退校処分になったが、それから数日後、今度はその教師の代用教員として招かれ、低学年相手に教壇に立つことになった。数え年、十四歳のことである。

 当時の教員制度がどうなっていたのか知らぬが、少年の身でありながら代用教員に立てるだけの知識と能力を備えていたことが証明される。

 代用教員生活は一年ほど続いたが、僧侶出の教員と神道のことで衝突して辞職した。そして、隣りの豪農の家に奉公に出る。

  朝夕にこき使はるる百姓の下僕のわれの牛ににしかな

 貧苦をふたたび身にしみて味うようになる。

  麦米とのたきまぜ飯も

   ろくに食えない百姓のせがれ

  足袋は目をむき着物は破れ

   寒さ身にしむ片田舎

  わしの人生はこんなものか

      ○

  僕の人生はどこにある

   小作の家のせがれぞと

  地主富者にさげすまれ

  父の名なども呼び捨てに

  こされてもかへす言葉なし

   待て待てしばし待てしばし

  僕にも一つの魂がある。

 こうした少年の眼に、ただ一つ慰めになったのは、明智光秀の居城のあった亀山の城址である。

  いとけなき頃は雲間に天守閣白壁映えしをなつかしみけり

  旧城址落ちたる瓦の片あつめ城のかたちを造りて遊びぬ

 光秀の手植えと云われる大銀杏(年代は合わぬ)こそ亭々とそびえてはいるが、石垣もくずれ、荒れるに任せた城址。その荒廃したさまが一層少年の心をとらえるということもある。

 訪う人もなく草の茂るままの城址の一隅で、少年喜三郎は逆臣明智光秀について、どんな感懐を浮べたことであろうか。

(その3に続く)

 

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