« 2022年4月 | トップページ

2022.05.25

『仏教は宇宙をどう見たか』 佐々木閑 (化学同人 DOJIN文庫)

アビダルマ仏教の科学的世界観

Th_311nmc1xmfl 「間は未来から過去へと流れている」ということを私もずっと言ってきているわけですが、同様の捉え方をしていた人たちは無数にいます。

 特に昔はそういうふうに感じるほうが一般的であったようで、たとえば仏教の倶舎論(アビダルマ)の中にも、未来が向こうからやってきて去っていくというようなことが記述されています(ただし因果関係は過去→未来)。

 非常に難解なその倶舎論を、おそらく最大限に優しく易しく語ってくれているのが、佐々木閑先生のこの本ではないでしょうか。

 その独特な時間論についても、映写機を比喩としてわかりやすく説明してくれています。

 そのおかげさまで、やはりアビダルマの時間観と私の時間観は似て非なるものだなと確認できました。私のトンデモ時間論は全く論理化、言語化できていないので、どう違うかの説明すらできないのですが。ただ、違うことだけはたしか。

 いったいいつになったら言語化できるのか。昨日の話ではないが、もしかすると、それは科学者がやってくれのかもしれません(そうだと助かる!)。

 そうした、文系と理系のコラボというか、より高い次元での止揚というか、そんなある種の理想世界を体現してくれているのが、京都大学で化学と仏教を学んだ佐々木先生ですね。

 佐々木先生の世界観との出会いは14年前。知り合いの和尚様から「犀の角たち」をお借りしたのがきっかけ。それから著書や動画を通じて先生からは本当にいろいろなことを学んでおります。

 直接お会いする機会がありそうだったのが3年前。当時の花園大学の学長さんからチベット旅行に誘われた時です。佐々木先生も同行するはずでした。

 しかし、その夢のような旅行はコロナで中止。いまだお会いする機会はありませんが、いずれご縁があるでしょう。

 それにしても、この世界一わかりやすい「倶舎論」も、やはり難解でした(私の頭では)。

 お釈迦様後の仏教論には、どこか行き過ぎた知的遊戯的なところもあって、私のような無明の凡夫はそういう意味で、それってお釈迦様が一番嫌ったことじゃないの!?とツッコミを入れたくなってしまうのでした。

 そしてもう一つ思うのは、2500年前の天才の考えに近づこうとするのもいいけれども、この現代にふさわしい新しい哲学や宗教が生まれてもいいのではないかなということです。

 そのヒントとなるのが、近過去の天才、出口王仁三郎や仲小路彰の残したモノたちであると思うのです。科学万能となった現代においては、そういう思索が、カルトやスピ扱いされてしまう傾向がありますが、やはりそこを乗り越えていかねばならないと思う今日この頃であります。

 少なくとも、お釈迦様や王仁三郎、仲小路が21世紀の今生きていたら、いったいどんな考え方をし、どんな言葉を発するのか、そういう想像力を働かせることは大事でしょうね。

 この本に関するこの動画をぜひご覧ください。後半の「ワクチン陰謀論」と「宗教」に関するところも興味深いです。そのとおりだと思いますよ。

 

 

Amazon 仏教は宇宙をどう見たか

| | コメント (0)

2022.05.24

現在の観測が過去を変える?!

 日の記事が思いのほか好評だったので、続きを書きます。

 実は「ある科学者」との対話には、もう一つ面白い話題がありまして、それがこちら、理研と日立などが行なった新しい「二重スリット実験」の結果についてです。

V字型二重スリットによる電子波干渉実験
-「波動/粒子の二重性」の不思議の実証を一歩進める-

 読むだけではよくわからないので、上手に説明してくれている動画をご覧ください。

 

 

 つまり、現在の観測が過去を書き換える可能性があるということですね。

 これについて科学者の方は、私の「時間は未来から過去に向かって流れる。よって原因は未来にある」というトンデモ理論(哲学)にかなり近いものがあるとおっしゃるのです。なるほど。

 「未来に原因があって現在その結果が出ている」あるいは「現在に原因があって過去が結果として変化する」という私の(宇宙人的)感覚は、たしかに先日動画でも話したとおり、「コト」世界における時間の流れを前提としていますよね。

 科学で言うところの「観測」というのは、まさに私の言う「コト」ですし、「観測」されないということは「モノ」世界のことです。

 そう考えると、やはり私が前世(?)宇宙で学んだことは地球の未来の科学の成果だったのかもしれません。ということは、私は宇宙人というより、未来地球人?ww

 まあ、それはいいとして、こうして超文系の私の言葉が最先端の科学と結びついてくるというのは面白いことです。楽しい!

 私に数学や物理学の才能があったら、今ごろ…な〜んてね(笑)。

| | コメント (0)

2022.05.23

この世界を支配する“もつれ”

 

 昨日の核融合発電の記事に登場した「ある科学者」のご専門はこちらの分野です。当然、このエンタングルメントの話も出ました。

 私は数式という言語に全く疎い人間なのですが、なぜかいつも話は噛み合うのです。それは、もちろんその科学者の方が私の言語を深く理解してくださっているからです。

 いや、もしかすると理解ではなく、それこそエンタングルメント(「量子もつれ」という訳語はあまり好きではありません)で共鳴しているのかもしれませんね。

 私自身はよくわからないのですが、どうも私の「モノ・コト論」が量子力学の別表現らしいのです。すなわち、「モノ」が波で「コト」が粒。無意識と意識ですね。そこに最近、私は双方向性を持ったトキを重ねているのですが、それもまた最新の量子力学と親和するらしい…なるほど。

 さらにその方が興味を持ったのは、私のお預かりしている出口王仁三郎の耀わんの情報伝達システムです。

 たしかに、茶碗表面の穴に記述された情報が、茶碗内部にホログラム的3次元世界を投影しているとも言えます。そう、この動画でも紹介されている大栗さんのホログラフィック理論ですよ。

 ようやく東大の物理学が王仁三郎に追いついてきたということですか(笑)。

 私は、ホログラフィックに投影されているというよりは、私たちの脳みそが勝手にそのように「展開」しているととらえています。その辺については自然科学的な宇宙の見方と、物語的な宇宙の見方の違いがありますから、今後も対話を重ねていこうと思っています。

 私はいわゆるスピリチュアルの中の「なんちゃってスピ」「勘違いスピ」「金儲けスピ」は完全否定派なのですが、中にはホンモノも紛れていると実感しており、それがこれからの新しい世界構築のカギを握る存在であると信じています。

 いずれにしても、世の中に溢れるウンコみたいな情報に洗脳…いや、染脳(汚脳)されることなく、未来からやってくる波をしっかり捉えて、自分なりにそれを粒子化していくことが大切かと思います。それが、モノのコト(カタ)化、すなわち「モノガタリ」なのであります。

| | コメント (0)

2022.05.22

『ウルトラ音楽術』 冬木透・青山通 (集英社インターナショナル新書)

Th_61pwssfx3rl 日観た「シン・ウルトラマン」、音楽はなかなか良かった。

 宮内國郎のオリジナルの音楽と鷲巣詩郎の新曲のバランスがよく、それぞれのシーンで「懐かしさ」と「新しさ」に基づく興奮を味わうことができました。

 しかし、ウルトラシリーズの音楽と言えば絶対にセブン。つまり、冬木透さんの音楽ですね。

 青山通さんによるウルトラセブン&冬木透論については、以前こちらに書きました。

 ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた

 そして、いよいよお二人がコラボして、より核心に迫る良書が完成しました。

 いちおうクラシック畑にもいるワタクシとしては、冬木透、そして蒔田尚㚖としての音楽歴や音楽観、そしてお好みを知れて嬉しかった。

 キリスト教音楽家としての蒔田尚㚖もしっかり評価したいですね。

 ご自身も書いていますが、代表歌曲「ガリラヤの風かおる丘で」は、いかにも蒔田さんらしい優しい愛に溢れた佳曲です。この親しまれている国産賛美歌の作曲者が、ウルトラセブンの音楽の作曲者だと知らない人も多いのではないでしょうか。

 

 

 パイプオルガン大好きな私としては、蒔田さんのオルガン作品をたくさん聴いてみたいところです。なにしろ、実相寺昭雄映画「曼荼羅」の音楽でしか聴いたことがないので(!)。

 この本全体を通じて印象に残ったのは、想定外の仕事や、自分では納得いかなかった仕事が、のちに高く評価されるということ。人生とは案外そなんものですね。自我が強すぎるとそこに違和感を抱いたり、不快に思ったりしてしまうのでしょうが、冬木さんは全然そんなことなく、逆にそこに価値を見出し楽しんでさえいるように感じました。

 それはある意味自分の中での満足がないとも言えるわけで、それが結果として自身の進化を促しているのかもしれません。そう考えると、一番怖いのは、自分でも満足した創造物が他者にも受け入れられることかもしれません。それは行き止まりを意味するのです。

Amazon ウルトラ音楽術

| | コメント (0)

2022.05.21

「核融合発電の時代はくるの?」専門家に聞いてみた

Th_20220427gizasks_fusionenergyw1280 いうギズモードの記事を読みました。

「核融合発電の時代はくるの?」専門家に聞いてみた

 ちょうど今日、ある日本人科学者とリモートでお話をしたのです。話題は多岐にわたりましたが、核融合も重要トピックの一つでした。

 その方の見解でも、すでにブレイクイーヴンは突破したが、実用化ということになると今度は科学者の領域ではない部分の壁が高いとのことでした。

 つまり「発電所を建設する」という現実的なフェーズに入りつつあるということですね。今まではあまりそういう話題になりませんでしたから。

 グローバルな視点でいうと、各国がそれぞれに核融合炉を持つのではなく、ヨーロッパはヨーロッパ、アジアはアジアでというように、一定の地域で共用する形の核融合炉を建設することになりそうだとのこと。

 そう、これまではエネルギーの確保が戦争の種になってきたわけですが、これからはエネルギーの「分かち合い」が平和の礎になっていくということでしょう。

 宇宙太陽光発電の構想とともに研究が進んでいるマイクロ波電力伝送システムがここに応用されるのではないでしょうか。

 戦後すぐに仲小路彰は「21世紀は核融合の時代」と予測していました。その頃はもちろん、つい最近までそれは夢物語のように感じられていたにちがいありません。

 それがここへ来て一気に現実化への勢いを増しているようです。

 日本人は「核」という言葉に何重もの嫌悪感を持っています。それは歴史的にしかたない。しかし、だからこそ、それを乗り越えて、未来平和のリーダーにならなければなりません。

| | コメント (0)

2022.05.20

『頭のよさとは何か』 和田秀樹・中野信子 (プレジデント社)

Th_b09wmyzcpt01_sclzzzzzzz_sx500_ 日は、アメリカ人と中国人の大学の先生方と「新しい学校」「本当の教養」について協議しました。

 夢のような話がどうも実現しそうです。

 彼ら彼女らは世界のランキング上位に位置する大学の出身。私は日本の田舎の目立たぬ公立大学出身。

 一見、同じ地平にいないように思えるでしょう。しかし、実際はそんなことはありません。私は学歴に関して全くコンプレックスを持っていません(今は)。

 それはもちろん、彼ら彼女らが、私に偏見を持っていないからです。謙虚に私の話を聞いてくれるのです。

 東大出身の友人もたくさんいます。私は彼ら彼女らからたくさんのことを学びますが、一方、彼ら彼女らの方から私のところに教えを請いに来ることもあります。

 この本で、和田さんが「頭の良さとは、能力ではなく態度である」と述べていますが、つまりそういうことなのです。

 私や彼ら彼女らは学歴を気にして遠慮することはありません。わからないことはわからないと互いに学び合います。

 今日の討論で、「知性」「教養」とは「connectedness」「bridge」であるという話が出ました。そのとおりだと思います。

 個別の知識をいかにつなげて、より本質に、より高次元的価値に近づくかが、「頭の良さ」の条件でしょう。つまり、偏見や思い込み、既成概念にとらわれないこと。すなわち「自由」であること。リベラル・アーツの基本です。

 日本の教育システムでは、そのようなことが全く考慮されていません。この本にも書かれているとおり、ただ仮設された「正解」をバラバラに暗記させるだけです。

 「知性とは誰も知らないことを知ろうとする熱意である」…この本のクライマックスはこの言葉に象徴されるでしょう。

 私は「変わった先生」ですので、皆が知っていることにあまり興味がありません。ググって出てくる情報には興味がないのです。

 これは、本当のことを言うと、過去の情報の蓄積(暗記)を要求される「学校」において、劣等感を感じたおかげなのですが。ですから、それこそ「学校」には感謝しており、またその経験から「先生」になったわけですが、いよいよそんな悠長なことを言っていられない時代になってきました。

 長年「学校をぶっ壊す」を標榜しつつ、それがぶっ壊れないほどに堅固な守旧システムになっている内部現実に直面し、それではと今度は外からそれを脅かそうと、今様々な思考と試行を試みているところです。

 大人の修学旅行、富士山合宿もその一つですし、このたびの文科省傘下に入らない「新しい学校」のプロジェクトもその一つなのです。

 面白いもので、いや当然といえば当然ですが、私のチャレンジに興味を持ってくれるのは、日本人ではなく外国人のことが多い。とは言え、やはり中からも大きなムーブメントを作らないといけないので、ぜひ興味を持った日本人の方はご協力ください。

Amazon 頭のよさとは何か

| | コメント (0)

2022.05.19

『シン・ウルトラマン』 庵野秀明 脚本・樋口真嗣 監督作品

Th_5f5eee6954a11325924c24a43da2fb2c9c285 てきましたよ。昨日の仏像トークにも登場したウルトラマン。

 早くも大ブームが起きているようですが、平日の昼間ということでさすがにガラガラでした。

 賛否両論があるというのは、どんな作品であれ当然のこと。

 しかし、その賛否が自分の中にこんなにも自然に共存するというのは初めての体験でした。

 一言で言えば、物足りない。しかし、やっぱり現代にウルトラマンが再臨するのを目撃できたという意味では感激。

 そう、結局はウルトラマン世代の私たちは、その思い入れが熱く、そして熟成しているだけに、「新」ウルトラマンへの期待はそれぞれであり、それが完全に満たされることもそれぞれありえないので、こういう結論に至らざるを得ないのでしょう。

 では、ワタクシの極私的な期待は何かというと、まさに現在のワタクシのテーマでもある「人類のために命を捧げる」ことの表現への期待でした。

 そういう意味では、あまりにあっさり描かれており、いや私の期待するレベルからいうと描かれてさえおらず、正直がっかりでありました。

 もちろん、それはこうしたヒーローものの宿命、「人類は結局神頼み」という問題提起につながっているわけで、描ききれないのは仕方ありません。

 最終的に何ものにも依存できない、自分たちで解決しなければならない人類究極のテーマですから、まあ今回もまた原点に引き戻されたとも言えますがね。

 その他、オタク的な観点や現代の社会問題的観点での考察は、私以外の無数の人たちがやってくれるでしょうから割愛します(語りたいことだらけですが)。

 追記 でもどうしても一言だけ。「大きな春子ちゃん」!

 

| | コメント (0)

2022.05.18

みうらじゅん×山田五郎 『仏像トーク』

 

 

 岡市の実家におります。そういえば山田五郎さんのご両親は静岡市の出身でしたね。

 ご本人の生まれは東京ですが、少年青年期を大阪で過ごされたので関西弁は流暢です。みうらじゅんさんは京都市の出身ということで、この対談は関西弁で始まりますが、最後の方はお二人とも東京弁(標準語)になっているのが面白かった。

 お二人は、私にとって「独自研究」の師匠であります。昨年みうらじゅん賞を獲った竹倉史人さんもそうですが、「独自研究」とアカデミズムのバランスというのは難しい。

 対談前半の関西弁パートは「独自研究」というより「自分語り」が全開ですが、後半の仏像に関する「独自研究」に至ると、そこはアカデミズムへの挑戦的な意味合いも出てくるので、標準語モードになっていくのでしょう。

 私は残念ながら母語が標準語なので(どこの方言も話せないので)、話の次元(レイヤー)によって言語を使い分けることができず面白くありません。幼少期までは宇宙語話せましたけどね(笑)。

 この対談を見て聴いて思ったんですけど、文系の学問って全部「独自研究」でいいんじゃないですかね。暴論でしょうか。

 結局のところ、文化に普遍的な意味や価値やシステムを見出すことって無理でしょう。それぞれの時代のそれぞれの人間が関わっているわけですから。そして、それらをそれぞれの時代のそれぞれの人間が研究するわけですから。

 その固定化されない「ゆるさ」こそが、文化の人間の生命力そのものなのではないでしょうか。

 それにしてもこのトーク面白かった。元気をもらいました。

 そう、仏像って最終的に人を元気にするものなんじゃないでしょうかね。

| | コメント (0)

2022.05.17

マカロニえんぴつ 『星が泳ぐ』

 日の「島唄」に続き、山梨発の音楽を一つ。

 宮沢和史さん、藤巻亮太くん、志村正彦くんと、叙情的な歌詞と旋律が印象的な山梨のソングメーカーたち。やはり、独特の自然環境と風土、生活文化が反映しているのでしょう。

 今日紹介するマカロニえんぴつのリーダーはっとりくんは、鹿児島生まれだそうですが、育ちは幼少期から高校時代まで山梨。彼もまた独特な感性を持っているように感じます。

 特に志村くんへのリスペクトは大きいようで、曲作りだけでなくその歌唱にも影響を感じます。

 さて、この最新曲「星が泳ぐ」は、現在放映中のアニメ「サマータイムレンダ」のオープニング曲となっています。「サマータイムレンダ」は和歌山の離島を舞台にしたSFホラー(なのかな)。日本的な風景と文化の中に潜む見えない「影」がテーマということで、特に「影」の濃い山梨発の音楽がぴったりマッチしています。

 なんとなくクセにてなる曲ですよね。シンプルですが、ちょっとしたベースの半音進行が明るさの中に「影」を感じさせます。

 やっぱりJ-Rockって世界的に得意な進化を遂げちゃいましたね。つまり「和歌」や「私小説」の文化、日本文学の正当進化型がそこにあるということです。もっと言うと日本の目に見えない「宗教性」の発現でもあると。

 ですから、アニメと一緒に世界に出ていくのです。40年後にはきっとこれが世界の大きな潮流になると信じています。

| | コメント (0)

2022.05.16

THE BOOM 『島唄』

Th_-20220517-73402 日は沖縄返還から50年の日でした。

 沖縄と山梨、遠く離れ、特に深い関係はないかのように思われますが、実はそうでもないのです。

 まず、50年前の沖縄返還に際しては、山中湖に蟄居していた仲小路彰が大きな影響を与えています。

 仲小路と佐藤は五高時代の同級生。総理となった佐藤はことあるごとに山中湖へ通い、仲小路から重要な情報・アイデアを授けられました。

 この写真は山中湖での貴重な二人の写真です。

 佐藤のノーベル平和賞は非核三原則と沖縄返還が主たるその受賞理由でしたが、その裏には(密約部分も含めて)仲小路の助言があったのでした。

 そうした助言の具体的な内容については現在研究中です。

 さて、時代は移り、返還から20年経った1992年、発表されたのがTHE BOOMの「島唄」です。

 作詞・作曲の宮沢和史さんは山梨県甲府市出身。

 発表当初は、現地の人たちには「なんちゃって沖縄音楽」と揶揄され批判されましたが、今では本土の人たちにとっても、沖縄の人たちにとっても大切な歌の一つになりました。

 この曲の画期的というか巧みなのは、さまざまな音楽的要素が融合・和合しているところです。

 メロディーで言えば、沖縄音階と、本土のヨナ抜き音階と、西洋音階が絶妙にミックスされています。また和音で言えば、冒頭ではノンコード、そして続いてディミニッシュを効果的に使い、またサビではいわゆるカノン進行をベタに使う。それこそ沖縄と本土とヨーロッパ(アメリカ)を見事に組み合わせたと言えましょう。

 そしてそこに乗る歌詞ですね。いや、歌詞が先にあって、そこにそれぞれの「国」の音楽が乗ったのでしょう。たしかに見事です。「和」を基調とする日本らしい音楽なのです。

 

| | コメント (0)

2022.05.15

笑点神回…木久蔵さん司会回

 

 日の「笑点」に、立川志らくさんが登場してましたね。「笑点なんかなくなればいい!」とまで批判していたのに、ちゃんと出演させてあげる番組もすごいが、ちゃんと出ちゃう志らくさんもすごい。

 というか、本来そういうものでしょう。笑いの世界なのですし。ありえないけれど、ロシアとウクライナなんかも、こうして笑いに変換できませんかね。不謹慎を承知の上で真剣にそんなふうに思ってしまいましたよ。

 さて、「笑点」と言うと、ひねくれ者の私はどうしてもこの神回を思い出してしまうんですよね。今日もいいボケ味を出していた木久扇師匠が司会をやった回。

 言うまでもありませんが、キクちゃんは本当はキレッキレに頭いいし、瞬発力あるんですよね。それが期せずして証明されてしまったのがこの回です。

 もう、言葉はいりませんね。素晴らしいジャズのセッション、それもジャム・セッションのようですよ。全体のスイング感の上に展開する変幻自在なリズムやメロディの応酬。なにより本人たちが楽しそう(笑)。エンターテインメントの基本はそこですよね。

 完璧なライヴ作品と言えましょう。さて、志らく師匠はこのセッションに参加できるのでしょうか。そんなことを想像しながら見直すと面白いですよ。

| | コメント (0)

2022.05.14

出口王仁三郎 「天災と人震」(『惟神の道』より)

Th_-20220515-154433 このところ、各地で地震が頻発しております。特に注目は京都の亀岡周辺を震源とする群発地震です。

 3月31日のM4.3震度4に始まり、ほぼ同じところを震源とする地震が続いております。

 亀岡周辺には三峠・京都西山断層帯が走っており、1968年、1972年にはM5を超える中規模の地震が発生していますし、古記録に残る京都盆地に被害を及ぼした大地震のいくつかの震源は亀岡周辺とも考えられています。

 気象庁も注意を促しました。気をつけたいところです。

 さて、亀岡といえば大本の天恩郷。出口王仁三郎は地震についてどんなことを述べているのでしょう。今日はいくつかある言及のうち、昭和10年刊の「惟神の道」から抜粋して紹介しましょう。「天災と人震」という文章です。

 なるほど、我が国の文化は「地震の花」であり、日本は自然(神)の恩寵を多く受けるからこそ、それに背くと天災が起きるというわけですね。そして、天災がなければ「人震」が起きるというのも面白い考え方であります。

 冒頭の部分も含めて、なかなか良い文章ですので、ぜひお読みください。

(以下引用)

 日本の国民は古来抱擁性に富み、世界の文化をことごとく吸収して同化し精錬して更により以上美はしきものとしてこれを世界に頒与する所に日本人の生命があり、使命があり、権威があるのである。しかして緯に世界文化を吸収してこれを精錬すればするほど、経に民族性が深めらるべきはずだのに、現代の日本は外来文化の暴風に吹きつけられるほど固有の民族性の特長を喪ひつつある状態は、あだかも根の枯れたる樹木に等しいものである。日本人は日本人として決して何れのものによっても冒されない天賦固有の文化的精神を持ってをるのである。それが外来文化の侵食によって失はれむとする事は、祖国の山河が黙視するに忍びざるところで無くてはならぬ。
 かくの如き時に際して天災地妖が忽焉として起こり国民に大なる警告と反省を促したことは今代に始まつたことでなく、実に建国以来の災変史が黙示する所の真理である。近くは元和、寛永、慶安、元禄、宝永、天明、安政、大正に起った大地震と当時の世態人情との関係を回顧するも、けだし思ひ半ばに過ぐるものがあるではないか。
 さて、我が国の記録に存するもののみにても大小一千有余の震災を数へることが出来る。その中で最も大地震と称されてゐるものが、百二十三回、鎌倉時代の如きは平均五年目ごとに大地震があったのである。覇府時代には、大小三十六回の震災があった。しかも我が国の発展が何時もこれらの地震に負ふところが多いのも不思議な現象であるのだ。奈良が滅び、京都が衰へ、そして江戸が発展した歴史の過程を辿ってみれば、その間の消息がよく窺はれるのである。
 全体我が国の文化そのものは全く地震から咲き出した花のやうにも思はれる。天祖、国祖の大神の我が国を見捨て給はぬ限り、国民の生活が固定して、腐敗堕落の極に達したたびごとに地震の浄化が忽焉と見舞って来て一切の汚穢を洗浄するのは、神国の神国たる所以である。
 古語に「小人をして天下を治めしむれば天禄永く絶えむ、国家混乱すれば、天災地妖臻る」とあるのは、自然と人生の一体たることを語ったものである。人間が堕落して奢侈淫逸に流れた時は、自然なる母は、その覚醒を促すために諸種の災害を降し給ふのであった。しかも地震はその極罰である。
 我が国に地震の多いのも、神の寵児なるが故である。自然否天神地祇の恩寵を被ることの多いだけ、それだけにその恩寵に背いた時の懲罰は、一層烈しい道理である。もし地震が起らなければ人震が起ってその忿怒を漏らすに至る。近くは天草四郎や由良民部之介、大塩平八郎乃至西郷隆盛の如き、みなこの人震に属するものである。

| | コメント (0)

2022.05.13

ジャンボ鶴田さん23回忌

Th_img_9094 日は山梨が誇る最強プロレスラージャンボ鶴田さんの命日。

 偶然、塩山向嶽寺に用事がありましたので、ついでと言ってはなんですが、牧丘の慶徳寺さんに立ち寄り、本当に久しぶりにお墓参りをすることができました。

 「人生はチャレンジだ!!」

 この言葉にどれだけ励まされてきたことでしょう。迷ったらやめていた自分が、「迷ったらやる」自分に変わったのは、鶴田さんのおかげです。

 そして、今の充実した人生があります。本当に感謝しかありません。

 23回忌の命日にちなんで、鶴田最強説を裏付ける名勝負を紹介します。

 ジャンボ鶴田が新日本プロレスのリングに上った試合。谷津嘉章と組んで、木戸修・木村健悟組と対戦した1990年2.10東京ドームの映像です。

 う〜む、一人だけ次元が違いますね。受けに受けまくり、相手の良さをすべて引き出しての完勝。全く息が上っていないし、最後の余裕の笑顔は、殺伐としがちな対抗戦、それも新日本のリングへのある種のアンチテーゼです。

 鶴田は鶴田。いつもどこでも明るく、楽しく、激しい鶴田。あらためて「最強」を確認できる試合ですね。

 

 

 さて、この日の興行について、谷津嘉章さんが最近語ったのがこの動画。

 糖尿病で片足を切断し、義足になりながらレスラーを続けている谷津さんの、朴訥とした語りが味わい深いですね。義足も「おりゃ」もそうですが、マイナスをプラスに転じて「人生を楽しむ」姿勢には、プロレスという「神事」の世界ならではの物語的魅力を感じますね。

 もちろん、馬場さんと坂口さんの「困った時は助け合う」という関係性にも感動です。まさに「荒魂」の裏側にある広大なる「和魂」ですね。

| | コメント (0)

2022.05.12

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その10・完)

Th_images_20220513080001本脱出と蒙古進軍

 王仁三郎の表情は、どの写真を見ても明るい。極端に云うなら、いつも、得意絶頂の顔である。

 だが、王仁三郎が心の底から最も痛快さを味わったのは、大正十三年の蒙古入りのときではなかろうか。

 このとき、王仁三郎は、第一次弾圧事件による保釈中の身であったが、ひそかに日本を脱出、奉天に赴いた。そこには、蒙古軍の将軍盧占魁が待っていた。張作霖の了解の下で、日月地星の大本の神旗をひるがえし、蒙古に向って進軍する。

 盧の軍隊には掠奪暴行を禁じ、王仁三郎らは武器を持たず、米塩を与えながら、宣教と医療をつづける。蒙古人たちは、救世主の再来として歓迎してくれた。

 果てしもない曠野を行く大本の神旗――それは演技ではなかった。宗教上の必要とともに、「『狭い日本にゃ住みあきた』というような、貧乏と縄張りと天皇と警察の日本を離れて『広い満蒙に進出』し、アジアの精神的統一をはかりたいというような「『大陸浪人』式の夢」(乾・小口・佐木・松島共著『教祖』)もあったであろう。

 取り巻きにわずらわされることなく、そうした夢を現実の曠野の上に踏みしめて行く。

 そのとき、彼ははじめて、自分自身が無限に自由になって行くのを感じたであろう。風雲児であることの実感を、しみじみ噛みしめたことであろう。

 だが、それも四カ月間のことであった。盧の西北自治軍の評判が上るにつれ、張作霖は心変りし、パインタラに於て盧軍を討ち、盧以下三百人を銃殺。王仁三郎も、足枷をはめられ銃殺寸前まで行ってから、日本領事館に救出された。

 他愛のない夢ともいえる。このとき、王仁三郎は、すでに五十四歳。

 そういう他愛なさが、最後まで失われなかったのも、人間王仁三郎の魅力であろう。

 晩年は、黄・青・赤と思い切った色を使って型紙破りの茶碗を焼くのをたのしみにしていた。その茶碗を少しでも人がほめると、やってしまう。「あんたには、いちばんいいのをあげるで」と云って。

 雀や魚をとらえるのが得意であり、沢蟹をとらえて口の中で歩かせながら、そのまま噛み砕いてしまったりした男。童心と見るのも、演出と見るのも、自由である。とにかく、人間くさい男、人一倍人間くさく生れた男に思える。

 大本教徒には不満ではあろうが、教義についての門外漢であるわたしは、作家として理解できる限りの人間像の秘密を追ってみた。

 そして、世間的には怪物であるかも知れぬが、怪物という言葉の持つ非情さとはおよそ程遠い人物をそこに見たのである。

(完)

 

 いかがでしたか。城山三郎による出口王仁三郎伝。気宇壮大な人物像と人生を短くまとめるのは難しいと思いますが、文学者ならではの視点で上手に「予告編」を作ってくれましたね。

 そう、出口王仁三郎は本当にいくつもの「入口」を私たちに提供してくれるのです。本編はその先、それぞれの方々の人生に投影されて現出します。

 私もそんな体験をしている一人。最近、羽賀ヒカルさんと対談でその一端をお話しましたので、どうぞご覧ください。

 

| | コメント (0)

2022.05.11

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その9)

Th_0049(文中のM氏については、過去記事「柳原白蓮と出口王仁三郎」をお読みください)

像だった女性関係

 彼についての虚像の中で最も大きなものは、女性関係である。

 弾圧事件で逮捕後、梅毒と噂されたり、彼の居室はダブル・ベッドが寝乱れたままで春画が置かれていたなどと流布されたのは、すべて、でっち上げであった。王仁三郎の虚像を、弾圧当局がたくみに利用したのだ。

 王仁三郎の周辺に、いつも美女数多(?)がいたことは事実である。四六版三百頁の本を二日で口述したり、一夜三百首といった勢いで書きまくる彼には、常時、秘書が必要であった。特殊な関係に陥る危険を避けるためには、一人でなく、三人四人と控えさせた。

 ただ、彼は早朝などの面会客に素裸で美女たちを引き連れて会ったりした。晩年になっても、彼は往々一物を人前で隠さなかった。

 性がタブー視されている陰湿な風土では、それがかえって信徒の心をとらえる。天衣無縫な感じであるが、別の人たちの眼には演技過剰であり、別種の憶測を生むことになった。

 虚像に輪をかけたのが、隠し子事件である。王仁三郎の親分肌を見こんだ共産党員のM氏(後に転向)が、妻に去られて非合法活動ができず、生れたばかりの女児の養育を王仁三郎にたのんだ。

 王仁三郎は、それを自分の子供ということにして、教団幹部の一人に預けたのだ。終戦後M氏が迎えに来るまで、教団内部においても、隠し子説は信じられていた。

 家庭生活は決して幸福なものとは云えなかったようである。だいいち、多勢の人が毎日出入りする家の中にあっては"家庭"と呼ばれる生活を営みようがなかった。

 ナオの在世中は、ナオと王仁三郎は度々はげしい衝突をくり返した。ナオの没後には、教団運営の全責任が王仁三郎にかかり、彼はほとんど家庭に落着けなくなる。

 彼の超人的な多種多面にわたる活動。もし彼が超人でないとすれば、その皺よせがいちばんひどかったのが、家庭生活である。そして、働き盛りの王仁三郎には、むしろ、意識的に家庭生活を無視する傾向があった。それもまた、非凡さの一つのあらわれと感じて。

  家のこと妻にまかせて世のために尽すは夫の誠なりけり

  家のうち始めまもりて背の君の心いやさむ妻ぞかしこき

  家の内ゆたかに平和にをさまるも妻の心の梶ひとつながる

 王仁三郎の歌集の中の「五倫五常」の分類の中にある歌であるが、あまりにも一方通行的で、祖父の遺言を連想させるものがある。「母が、父と夫婦らしい幸福を味わったのは、若いころ、父といっしょに荷車をひいて、柴刈りにいっていた頃と、晩年、未決から帰ってからしばらくの、父の周囲に人垣の去った、夫婦きりの暮しの時であったでしょう」

 と、娘も見ている。

 子供運にも恵まれなかった。男の子は全部育たず、この長女に迎えた婿は、弾圧事件のショックで精神障害を起し、以後、世間的には癈人の生活に入る。

 家庭を無視してきた王仁三郎も、この衝撃だけには耐え切れなかった。娘が、婿とともに家を去って療養地に向う日、

「父は二階に上り、私の姿が見えなくなるまで、あっちへいったり、こっちへいったりして、しまいには泣いておられた」

 弾圧も、一つの法難として淡々として受け流そうとしていた王仁三郎ではあったが、このときばかりは、無法そのものの弾圧当局に対して、またその命令者に対して、やり切れない憤怒を感じたにちがいない。

(その10に続く)

| | コメント (0)

2022.05.10

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その8)

Th_seishisama分肌と抱擁力

 宗教関係だけでなく、また国内だけに限られたものでなかった。「万教同根」を説く教義の関係もあって、各国の新興宗教団体と提携し、さらに、大本が中心になって、北京に世界宗教連合会もつくった。(こうしたことも、おそらく既成教団の反感を買ったにちがいない)第一次大本弾圧事件の無罪判決を聞いて、二十カ国の人々によって、王仁三郎をたたえる「賛美集」が発刊されたりもした。

 だが、親分肌であり抱擁力があるということは、時には弊害も生む。心にもないつき合いをし、取り巻きが生れる可能性である。

 王仁三郎の娘出口直日は、こう書いている。

「父はどんな人でも迎え入れ、たのまれれば断りきれず、どこかのよいところを育てようと努力し、どんな辛抱でもしていたようでした。性来が磊落で、冗談ばかりいっていて、何だか雲をつかむようなところがありました)(続・私の手帖)

 そして、その反面、

「父は気が弱くて、それらの人を抑えきれないで、バカげた責任までも負わされてしまったという人です。それでいて、人を責めるでなし、過ぎたことをくやむでなし……」

 取り巻きの害について、彼女が耐えかねて父に注意の手紙を送ったところ、王仁三郎はその手紙を「娘がこう云って来たよ」と、そのまま取り巻きたちに見せてしまったというエピソードが紹介される。つまり、娘の手紙にかこつけてしか苦言の云えなかった弱さがあったというわけである。

 浅野和三郎が、大正十年立て替え立て直し説を機関紙に発表するといったとき、王仁三郎は反対したが、おさえ切れなかった。その結果、大正十年には大本信徒は一大動揺に見舞われることになったが、実際には、世の立て替え立て直しは起らなかった。谷口雅春らは、それを理由に大本を去るという事態も起る。

 心にもないことが、流れの泡のように、次から次へと湧いては消える。そして、それがそのたびに、王仁三郎の身から出たことになる。

 だが、王仁三郎は、陣を退くことなく、戦線を収縮することも好まない。虚像の上に虚像が重なり、一つの怪物像がそれらしく出来上って行くのを眺めている。怪物像を否定して「小さな自分」になるよりも、誤解を浴びたまま「大きな自分」にとどまることを好んだのかも知れない。茶目気と侠客気質という老い銹びた細い柱の上に支えられて。

 にぎにぎしく人々に取り巻かれながらも、王仁三郎の心中には、いつも空洞が穴をあけていた感じである。

(その9に続く)

| | コメント (0)

2022.05.09

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その7)

Th_0518完の映画「王仁三郎一代記」

 法的には何の根拠もない大本弾圧の烽火はそうした人々の中からも燃え上ったようである。事実「出口王仁三郎一代記」は、その年の大弾圧によって、遂に未完成に終った。

 多分に王仁三郎の道楽といった感じのするそうした芝居や映画も、教義の普及宣伝にとっては、新しい強力な媒体となった。媒体として義務感でつくったものでなく、王仁三郎がいわば無償の情熱を注ぎこんだだけに、信徒にとっては迫力があった。(教団幹部も信徒も一つになって素人芝居に打ちこむ習慣は、今日まで続いている)

 自己表現欲の一つの変型であろうが、活字文化の利用についても、王仁三郎は積極的であった。

 機関誌を創刊し、ついで、それを旬刊にする。印刷所をつくり、自分も植字や組版に先頭に立って働いた。

 後には、輪転機十台を持つ当時の大新聞「大正日日」を買収。さらに「人類愛善新聞」を発刊。一時は発行部数が百万部を越えた。既存の新聞社をおびやかすに十分な数字である。

 時代に先んじてのマスコミ利用は、彼の先見性を示すものだが、同時にそれはマスコミのすべてを敵に廻すことになった。弾圧直後全国各紙がほとんど筆をそろえて大本邪教説を流したのも、取材の制限という障害のためばかりではなかったようだ。

 ぎりぎり歯ぎしりしながら生きるわけではない。超人的に動き廻りながらも、人生に"遊び"を失わない柔軟な生き方――幡随院長兵衛を夢見たこともある王仁三郎は、人を生かして使うことも心得ていた。

 入信した海軍教官で英文学者の浅野和三郎を十分に活躍させて、軍人層知識層の信者をひろげ、谷口雅春(生長の家)には雑誌編集に腕をふるわせた。世界メシヤ教主の岡田茂吉も、当時は大森の支部長として活躍していた。

 一人の能力では、いかに非凡であっても、成長には限度がある。企業がある程度大きくなれば、多数の人材の能力をフルに発揮させることがトップの仕事になる。

 苦労人で頭がよく、人の心を読むのがうまい。変性女子と言われるほどの柔軟さ、侠客的な親分気質――人を使うには、申し分ない性格であった。

 人を使う能力とは、云いかえれば、組織づくりの能力でもある。

 人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会・昭和神聖会・エスペラント普及会・ローマ字普及会等々、王仁三郎の組織した団体の名前は、列挙にいとまがない。

(その8に続く)

| | コメント (0)

2022.05.08

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その6)

Th_0086性男子と変性女子

 出口ナオは、教祖にまつり上げるには打ってつけの人物であった。

 貧しい酒のみの大工の子として生れ、十一歳で年季奉公。結婚した夫(大工)も酒のみで、三年間脳出血で寝こんだ後で死ぬ。残されたのが三男五女(その他に乳児のとき死んだ子が三人)。

 糸引きとボロ買いをしながら、ようやく八人の子供を女手一つで育てた。ところが、折角育てた長女も二女も家出。長男は自殺未遂後、行方不明。いちばんたよりにしていた三男は戦死というみじめな有様――艱難辛苦をなめつくして生き抜いてきた女である。それだけに、その意志の強さや生活力は信徒たちの心をとらえた。

 性格ははげしく戦闘的で、自らを変性男子(女性の形をとった男)と呼んだ。これに対し、王仁三郎は変性女子(男性の形をした女)というわけで、王仁三郎はまたその女役や女房役を実にたくみにこなした。

 王仁三郎の性格の中には、多分に女性的な柔軟な(時に弱い)ものがある。それに、祖父から受けついだしゃれっ気も加わって、彼は大本に祭典などがあるごとに、進んで、女神とか乙姫とか、女装してふるまった。神示によって王仁三郎を変性女子ときめつけたナオにしてみれば、悪い気はしないであろう。

 もちろん、王仁三郎はただナオに気に入られようとして、女装したわけではない。彼は、大本の中に、明るくおおらかな"お芝居"を持ちこむことの必要を感じたのだ。ただ、かたくなに神のお告げを伝えるだけでは、信者の心のつかめないことを。

 王仁三郎は、また、芝居が好きであった。芝居とは、自分と遊び、世間と遊ぶことである。祖父のしゃっ気にも通じる。

 芝居はまた、現実の自分を解放し、さまざまな自分の姿を演ずることである。爆発しそうな自己拡張欲を、そうした形で慰めることもできる。そして、その中で、彼の演出家としての才能も育って行く。

 大本では、王仁三郎が入ってから、次々とあちこちの無人島を買収し、そこを聖地として、教祖以下打ちそろって参拝に出かける。神学上の解釈を別とすれば、これは、教勢伸長の演出に他ならない。

 王仁三郎の芝居好きは、晩年まで続く。神聖劇や神聖歌劇を自ら演出するばかりでなく、主役として出演し、還暦を過ぎた身で布袋・弁財天・恵比寿など、「昭和の七福神」に扮したり、素盞嗚尊(すさのおのみこと)などに扮したりした。

 現在の写真を見ると、扮装もうまく、とにかく一応、役柄をこなしている。しかも、それが還暦過ぎの老人ということになると、何となく気持の悪くなる人もあろう。まるで三十台の女のようなやわらかな肉つき、下り眉、細い目、とても老人とは思えぬ精力的な顔――。

 王仁三郎と"芝居"との結びつきを知らぬ者は、酔興さを感じるよりもまず異様さを感じてしまう。

 王仁三郎は、結構、そうした芝居をたのしみ、また、自信を持っていた。その自信は二重の意味がある。役者としての自信と、そうした芝居をやらせる自分自身の力への自信である。

 昭和十年、王仁三郎は大江山太郎の名で自ら「原作・監督・主演」して、「出口王仁三郎一代記」の撮影にかかる。自信は、二重の意味で頂点に達したわけである。

 王仁三郎が早くから白虎隊(少年隊)など人目をひく組織をつくり、さらに青年隊の大会には白馬にまたがって閲兵するなどということをやったことにも、彼の"芝居"好き、しゃれっ気を感じずにはいられない。(白馬は、元憲兵将校である信徒がすすめてくれたものだが、それがいかにも御料馬白雪に似せているというので、王仁三郎が攻撃される口実の一つになった。後に述べるように、彼には気が弱く、人のすすめを断り切れぬところがある。親分肌のせいとも云えるが……。それに、たとえ誤解を招くとしても、それをおそれて小さくなっているよりも、少しでも大きく振舞いたいという欲求も強かったようだ。自分をいつも自分以上に大きくし、また大きく見せよう、少くとも、自分と等価の表現だけでは満足できないものが、彼にはあった。それを彼の超人的なエネルギーのせいにしてもよいし、自己拡張欲のためと考えてもよい。そして、彼がそうしたエネルギーを奔出させればさせるほど、それがそのまま大本の教勢拡張に役立っていった。発展期の組織には、何よりそういう要素が必要であったのだ)

 王仁三郎の演技は、彼等にとっては余りにも型破りであり、オーバーなものに映った。「チンコウも焚かず」式の生き方こそ宗教者の権威づけと思っていた彼等には、王仁三郎の振舞は、当てつけがましい感じさえする。王仁三郎も時には、それを意識してやっていたきらいもある。そして、いっそういまいましいのは、そうした王仁三郎の振舞がそれなりに抑圧されていた大衆の心をつかんで行ったことである。

(その7に続く)

| | コメント (0)

2022.05.07

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その5)

Th_kaisosama792x1080挙にトップマネジメント

 まず、喜三郎個人としては、弁も立ち、ユーモアもあり、人気もある。稲荷教師としてある程度、手広くやって行ける自信はあったであろう。だが、それとともに、喜三郎には、キツネツキを払い落すことばかりで潰れてしまう自分の人生といったものへの反撥もあったにちがいない。どれほど有名になろうと、稲荷おろしだけではどうしようもない。さし当っては稲荷教師としてしか行く道がないとしても、いずれは広く世間を相手に活躍できる道を選びたかったにちがいない。

 新興の教団とはいえ、正式には何ひとつ認められていない金明会の側では、稲荷教師の免状持参者を抱えることは便利である。ましてその男がとくに稲荷講を信じているのではないとあれば。

 第二に喜三郎は、出口ナオのエクセントリックな性格、それなりに教祖として創業者としてこの上ない魅力の持主であることを見抜いた。宗教団体としての成長性も期待できる。

 貧民の娘でしかなかったナオが、どうしてこれほど人の心をひきつけるのか。ナオから吸いとれる限りのものは吸いとって自分を成長させよう。その成長の秘密を身近に接して吸収しよう。

 そして、最後に、ナオについて、また金明会について納得が行けば、その発展の中に自分を投げ入れようと考えたことであろう。ひとり細々として稲荷おろしを営むよりも、のび盛りの教団の中堅幹部として迎えられることを、青年の野心が選ばぬはずがない。青年の才能も博識も弁舌も親分肌の気質も、そこではすべてが花開くことが予想された。

  足乳根の親の名迄も世にあげて身を立つるこそ子の務めなれ

  名位寿富これぞ神賦の正欲ぞ働かざれば名も富もなし

 出口ナオと結んだ後の大本のめざましい発展については、順を追って説明するまでもあるまい。

 喜三郎は、金明会入りした翌年の正月、競争者を出し抜いて、ナオの末娘すみ子と結婚した。社長の娘と結婚することによって、中堅幹部どころか、一挙にトップマネジメントに滑りこんだわけである。

 やがて、名も王仁三郎とあらためた。神示に導かれたためということだが、世間的に見て、「喜三郎」ではありふれていて安っぽい。「王仁三郎」なら、威厳もあり、高貴にひびく。事実、王仁三郎は、「三郎」と省略して、「王仁」と署名することも少くなかった。天皇の名に類似することのプラスマイナスを十分考えていたことであろうが。

(その6に続く)

| | コメント (0)

2022.05.06

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その4)

Th_300px0215は空行く鳥なれや

 二十七歳のとき、父親が重い病気になった。

 弟はバクチ打ちになって家出しており、乳牛の仕事を追われた喜三郎は、山に薪を伐りに出る余裕もなく、庭にある椋の木を伐って薪にした。鬼門の方角に当る木であった。

 その後間もなく父親は死んだ、いっしょに荷車をひき、貧苦の明け暮れの中に死んで行っただけに、喜三郎は身にこたえた。

 木を伐った祟りだと口々に云われ、喜三郎は近隣のいろいろな教会に出入りし、また、毎夜十二時から三時まで産土神社参りもした。

 だが、それで解決が与えられるわけがない。いったんは神に近づこうとして、また背を向けた。

 しゃれっ気がふくらんだ。わい談が上手になり、妙な焼物を焼いて人にやったりした。

 弟がバクチ打ちということもあって、ケンカの仲裁に入ったりしている中に、ミイラとりがミイラになり、侠客気分になってくる。

 もともと弁が立ち、度胸もいい。侠客の家に養子に招かれそうにもなった。

 貧しく蔑まれてきた生活への反感――反逆精神は、手軽なところに捌け口をみつける。

 弱きをたすけ強きをくじくことで、自分の非凡な力を現そうとする。明治の幡随院長兵衛になろうと真剣に思い、一年間に九回も大きな衝突をした。

 そのあげく、弟ともども袋だたきにあい、大けがをする。祖母には、神をないがしろにした報いだと、懇々と説諭された。

 喜三郎は、「懺悔の剣に刺し貫かれて、五臓六腑をえぐらるる様な苦しさを成し」(『自叙伝』)、富士山へ行くつもりで、

  吾は空行く鳥なれや

  ………………………

  遥に高き雲に乗り

  外界の人が種々の

  喜怒哀楽にとらはれて

  身振り足ぶりするさまを

  われを忘れて眺むなり

  げに面白の人の世や

 といったユーモラスな書置きを残して家出する。(祖父の辞世と共通する精神である)

 ところが、富士に向ったはずが、翌朝、家から二キロ離れた高熊山という高台に坐っていることになる。

 旧暦二月のことであるが、彼はここで一週間、襦袢一枚のまま岩の上に坐って断食修業。『聖師伝』の説明では、「天眼通、天耳通、自他心通、宿命通の大要を心得し、過去現代未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは数百年、数千年の後までことごとく知ることが出来」るようになる。

 だが、こうして「霊界探検」をして悟りを開いたつもりの喜三郎も、村に帰れば、「キツネがついた」というわけで、体の回復するのを待って、静岡県清水にある稲荷講社の本部に行かされる。キツネツキを払い落すためである。

 講社の総長は、長沢という霊学の大家であった。勉強好きの喜三郎は、この長沢老人について、熱心に心霊学を学んだ。そして、鎮魂帰神の得業免状も得た。

 鎮魂帰神とは、両手の指を組み静坐瞑目している中に神がかりの状態となり、しゃべったり、とび上ったり、ころげ回ったりする。後でこれは大本教にとり入れられ、大道場で数十人の人がそうして飛びはねたりころげ回ったりすることによって、インテリをふくめ、多くの信者の心をとらえることになった。

 この鎮魂帰神の免状とともに、稲荷教師の免状ももらった。キツネツキを払い落しに行ったのに、逆に、キツネツキを払い落す稲荷おろしの資格を持って帰郷することになったのである。あらゆる機会を受身ではなく前向きにつかんで行こうとする姿勢がここにも出ている。

 当時、文化のおくれた山村地帯には、キツネツキの病人が多かった。急激な社会の変化に対応できぬノイローゼ状態の人々をも、すべてキツネツキという形で整理していたためでもあろう。キツネツキを払い落す稲荷教師の仕事は、職業としても成り立った。

 青年喜三郎の前には、おそらくは彼自身もそれまで思ってもみなかった生計の道が開けた。

 「艮(うしとら)の金神」を信じる金明会(後の大本教)の出口ナオと出会ったのは、こうした時である。二人の結びつきは、それぞれが神託を受けて、求め合ったことになっている。

 喜三郎の心の中に、いかなる内的(霊的)な必然性があったのか、神学上の問題については、わたしには説明する資格がない。

 問題をごく人間的に見てみると、こういうことになる。

(その5に続く)

| | コメント (0)

2022.05.05

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その3)

Th_o0222030014815003858閑坊喜楽」

 (僕の人生はどこにある)とうたった喜三郎ではあるが、もちろん、インテリ青年のようにただ感傷的な懐疑にふけっていたわけではない。

 日がな一日のはげしい労働。その後でも、時間を見つけ機会のあり次第、勉強を続けた。

 夜学に通って漢籍を習い、近くの寺に国学者が滞在すると聞けば、夜毎訪ねて教えを受けた。

 歌会に出席し、宗匠について冠句を学んだ。村で出している『あほら誌』という雑誌に、狂歌、狂句、都々逸、戯文と、いくつも、いく通りも投稿して、村人たちの眼をみはらせた。

 自分の非凡さを、あらゆる戸をたたいてためしてみたいという青年の客気で、はち切れそうであった。とにかく、無我夢中で勉強した。

 獣医の従兄について、牧場で酷使されながらも獣医学をマスターし、獣医試験に合格した。

 そして、二十六歳のとき、金を借り集めて乳牛を買い、精乳館という牛乳屋を開いた。

 現存の写真の中で、喜三郎つまり出口王仁三郎の最も若いときの面影を伝えるのが、この当時の写真である。

 経営者パッカードによれば、現代の重役タイプとは、「『隣家の青年』型のごく普通の顔だちの謙虚な、穏健円満な好青年タイプ」だそうだが、写真の中の喜三郎は正にその条件にぴったり。素朴で働き好き、見るからにすがすがしい好青年である。

 黒っぽいハッピに股引、草鞋ばき。強いて何か異常をさがすとすれば、そのハッピの襟の片側に「上田牧牛場」、片側に「穴太精乳館」と大きな字で白く染め抜かれていることである。

 わたしは最初説明を読まずにこの写真を見たとき、喜三郎が上田牧牛場という大牧場で働いていたのか、穴太精乳館(?)という商館(?)の従業員であったのかと思った。二十五歳の青年ひとりで牛を飼い、その乳を売り歩いているという姿とはほど遠い。

 たった一人分のハッピに大きく染め抜かれた「上田牧牛場」「穴太精乳館」の文字は、自分の事業を大きくしようと決意したその決意のあらわれとも見えるし、また、見せかけだけでも大きく見せようとしたという風にもとれる。野心のひらめきと見るのも、はったりと見るのも、自由である。いずれにせよ、おだやかな好青年の顔と、その文字との不調和さが、見る者の心を落着かなくさせる。

 一方、喜三郎は、ただ馬車馬のように名をあげ才能を現そうとしたのではない。山村で、小学校もまともにおえていない身に、当時の立身出世コースとの懸隔が、うすうすわかったのであろう。それに、祖父ゆずりのしゃれっ気も働いてか、ほどほどに遊びを心得ていた。女遊びというような意味ではない。人生に向う態度の中に遊びがあった。まっすぐ驀進してポキリと折れるというのではなく、驀進する自分をぶらりと横道に逸れて眺める余裕である。

 彼がこの当時用いたペンネームが、「安閑坊喜楽」。迷惑をかけ通しながら、死ぬときまでのんきにしゃれのめして行った祖父の血を思わざるを得ない。

(その4に続く)

| | コメント (0)

2022.05.04

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その2)

Th_unknown_20220505142201獄耳」と「八つ耳」

 少年は名をあげることを夢見る。円山応挙と肩を並べるほどの偉人になろうと。

 少年は七歳になるころまで、どこへ行くにも、小さなお爺さんが自分といっしょについてくるのを見たという。

 また、あやまっていろりの中へ落ちこんだとき、その爺さんが走りこんできて救い出してくれたともいう。

 これは、大本の神話の伝えるところである。

 田舎には話題が少い。変り者で目のさめるようなあざやかな遊び人であった祖父の話は、少年のまわりでくり返し語られたことであろう。そのため少年は、幻の祖父をいつも肌近く感じたのかも知れない。

 いずれにせよ、こうした神話が伝えられるほど、祖父の影響が強かったことに注目してよいと思う。

 少年に弟が生れると、その弟がまた祖父そっくりの顔つきで、四歳のとき、畑の雑草を口にくわえて畑の外に捨てるということをやって、皆をおどろかせた。それは、祖父がやったのと、そっくり同じ奇癖であったのだ。心配されていたバクチ癖の方も、やがてこの弟に現れてくることになる。

 少年は、「地獄耳」とか「八つ耳」とか云われた。耳も大きかったが、子供に似合わず、頭がさとかったためであろう。

 小学校入学の直前、父親に連れられて、産土神社に参拝に行き、その帰りに、無病息災のためというので、お腹へ十数点の漆をさした。(乱暴な話だが、当時はまだこうした迷信が大手でまかり通った時代。大本教の誕生も、そうした土壌を無視しては考えられない)

 漆の毒は体一面にひろがり、瘡になってしまった。そのため、学校にも上れず、祖母について勉強することになる。

 

僕の人生はどこにある

 この祖母というのが、当時では有名な言霊学者の娘で、いろはや読み書きを教えるとともに、言霊なるものについても、幼い孫に説明する。門前の小僧どころではない。直接の、しかも、家を同じくしての個人教授であるから影響力は強い。言霊の研究というので奇妙な大声を発して、笑われたり、いぶかられたりした。

 喜三郎少年が漆にかぶれず、そのまま順調に小学校に上っていたならば、祖母の影響もうすく、喜三郎はまた別の秀才少年の出世コースをたどったのかも知れない。

 海綿のように何事も吸収してやまない幼い頭脳の中に、祖父の幻と、祖母の神がかりな神霊学がこもごも流れこむことで、喜三郎の特異な後半生が準備されて行くことになる。

 喜三郎少年は、頭のよい上にまじめな勉強家であった。十歳の春、おくれて小学校に入学したが、すぐ追いつき、二、三級ずつ進級して行った。

 こうした小学生生活からも、喜三郎は自らの非凡さを意識せずにはおられなくなる。

(おれは他人とはちがうんだ。円山応挙の七代目。おれには神さまが……)

 柴を刈り、荷車に積んで父とともに、六、七里も先の京都まで売りに行く――そうした貧苦の中で、少年の自意識だけがいよいよ冴え返って行くのが眼に見えるようである。

 修身の時間。大岡越前守忠相の名が出てきた。受持教師は、それを「タダアイ」と読んだ。

「タダスケが真実です」

 喜三郎が注意した。

「先生に注意するとは何事だ」

 というわけで、先生はまっ赤になって、喜三郎に打ってかかろうとした。

「校長先生!」

 喜三郎は思わず助けを呼んだ。

 小さな田舎の小学校のことである。隣りの教室から校長先生が飛び出してきた。

 理由を聞けば、校長も喜三郎少年に軍配をあげざるを得ない。このため受持教師はすっかり顔をつぶしてしまい、以後ことごとく喜三郎につらく当たるようになった。

 一語でも読みちがえると、麻縄でしばったり、大きな算盤の上に一時間も正坐させたりする。

 喜三郎の父や家のことを、コジキだとかボロ屋だとか云って、ののしった。

 喜三郎は泣き寝入りはしなかった。子供心に反抗心を燃え立たせ、ある日、帰校途中の受持教師に、クソをつけた竹槍を突き立てるという騒ぎをひき起した。

 そこまでに至る事情が事情であるだけに、受持教師は免職。喜三郎も退校処分になったが、それから数日後、今度はその教師の代用教員として招かれ、低学年相手に教壇に立つことになった。数え年、十四歳のことである。

 当時の教員制度がどうなっていたのか知らぬが、少年の身でありながら代用教員に立てるだけの知識と能力を備えていたことが証明される。

 代用教員生活は一年ほど続いたが、僧侶出の教員と神道のことで衝突して辞職した。そして、隣りの豪農の家に奉公に出る。

  朝夕にこき使はるる百姓の下僕のわれの牛ににしかな

 貧苦をふたたび身にしみて味うようになる。

  麦米とのたきまぜ飯も

   ろくに食えない百姓のせがれ

  足袋は目をむき着物は破れ

   寒さ身にしむ片田舎

  わしの人生はこんなものか

      ○

  僕の人生はどこにある

   小作の家のせがれぞと

  地主富者にさげすまれ

  父の名なども呼び捨てに

  こされてもかへす言葉なし

   待て待てしばし待てしばし

  僕にも一つの魂がある。

 こうした少年の眼に、ただ一つ慰めになったのは、明智光秀の居城のあった亀山の城址である。

  いとけなき頃は雲間に天守閣白壁映えしをなつかしみけり

  旧城址落ちたる瓦の片あつめ城のかたちを造りて遊びぬ

 光秀の手植えと云われる大銀杏(年代は合わぬ)こそ亭々とそびえてはいるが、石垣もくずれ、荒れるに任せた城址。その荒廃したさまが一層少年の心をとらえるということもある。

 訪う人もなく草の茂るままの城址の一隅で、少年喜三郎は逆臣明智光秀について、どんな感懐を浮べたことであろうか。

(その3に続く)

 

| | コメント (0)

2022.05.03

『教祖・出口王仁三郎』 城山三郎(その1)

Th_deguchionisaburo2 日は東京にてYouTubeの撮影がありました。二つの有名チャンネルにお呼びいただきまして、その場でダウンロードしたままをお話いたしました。

 そう、いつものとおり、打ち合わせも原稿もなしで、未来から情報をダウンロードしてお話するので、こちらとしては楽です。今回も話しながら自分でも「なるほど〜、そうだったんだ〜」とか思っちゃいまいした(笑)。

 さてその中で、やはり登場したのが出口王仁三郎。あらためて王仁三郎の存在の歴史的意義について、私自身が私の説明によって勉強させていただきました(これが宇宙標準の学習の形態なのでした)。

 というわけで、ちょっと思い立ったことがありましたので、今日から数日かけて、戦後の文豪の一人である城山三郎の「教祖・出口王仁三郎」という文章を紹介しようと思います。

 王仁三郎の入門として、なかなか優れた名文だと思います。

 

教祖・出口王仁三郎

        城山三郎

 京都から汽車で一時間、保津川下りの起点である盆地の町亀岡――まわりの山はまだ浅いが、いつもうす黒い霧に包まれた感じで、いかにも山陰地方に入ったという気がする。

 

朝から夜までサイコロ

 その亀岡町から西南一里の農村(京都府南桑田郡曽我部村穴太)の貧農の家に、一人の男の子が生れた。明治四年、廃藩置県の年である。

 少年の名前は上田喜三郎。

 少年が生れて半歳、祖父が死んだ。少年とはすれちがいに消えた人生であり、少年の生い立ちとは何のかかわりもなさそうだが、実はそうではない。

 祖父吉松は、バクチ好きな遊び人であった。相手さえあれば、朝から夜までサイコロを振りつづけていた。

 不平を云った妻に対する云い草がふるっている。

 「気楽に思っておれ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うてござる。鳥や獣は別に明日の貯えもしておらぬが、別に餓死した奴はない。人間もその通り、餓えて死んだものは千人の中に、ただの一人か二人ぐらいのものじゃ。千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎで死ぬのじゃ……上田家は家も屋敷もなくなってしまわねば、よい芽は吹かぬぞと、いつも産土(うぶすな)の神様が枕もとに立って仰せられる。一日バクチを止めると、その晩に産土さまがあらわれて、なぜ神の申すことを聞かぬかと、大変な御立腹でお責めになる。これは私のジョウ談じゃない。真実真味の話だ」(引用は大本教学院篇『聖師伝』)。

 たいへんな理屈だが、とにかく理屈は通っている。それに、神さままで持ち出されて開き直られたのでは、妻としても黙る他にない。

 無責任もここまで徹すれば、からりとして気持がよい。しかも正直で、きれい好きと来ている。田舎には珍しい洗煉された遊び人であったとも云える。

 とにかくサイコロを振りつづけた。そして、先祖伝来の田畑はきれいさっぱり人手に渡してしまった。三十三坪というわずかな悪田が残ったが、それは買手がつかないためであった。それに、百五十三坪という宅地とボロ屋が辛うじて残った。

 死に際の辞世というのも、ふるっている。

  打ちつ打たれつ、一代勝負、可愛いサイ(妻)子にこの

  世で別れ、サイの川原でサイ拾う、ノンノコサイサイサイサイサイサイ

 息子つまり少年の父梅吉は養子であったが、養子を迎えながら、バトンタッチ前の財産をすり減らしてしまったことが多少気にかかったのか、それとも、本当に予言能力があったのか、祖父はのんきな辞世とともに、臨終の床から息子夫婦を慰めるように云い添えた。

 「上田家は古来七代目にかならず偉人があらわれて天下に名を成した。円山応挙は自分より五代前の祖先上田治郎左衛門が篠山藩士の女をめとって妻となし、その間に生れたものである。今度の孫は丁度七代目にあたるから、かならず天下に名をあらわすものになるであろう……私の命はもう終りである。しかしながら、私は死んでも霊魂は生きて、孫の生い先を守ってやる。この児は成長して名をあらわしても、あまりわが家の力にはならぬとの易者の占いであるけれども、天下に美名をあげてくれれば、祖先の第一名誉であり、また天下のためであるから、大事に養育せよ。これが私の死後までの希望である」

 自分の責任は棚上げにして、生れたばかりの孫をダシにして恩を売って死んで行ったわけである。本当に神のお告げがあったかどうかは別として、まことに天晴れな死に方という他はない。

 われわれがこの少年の生涯を考える場合、少年の七代前に本当に円山応挙(本名上田主水)がいたかどうかは、たいして問題ではない。家系図の類いによって検証する必要もあるまい。

 問題は、この遺言が息子夫婦の耳に灼きつき、やがて少年の無心な胸に灼きつけられて行ったということである。うす暗い農家の一隅、かまどの火を赤く頬に受けながら、母や祖母の口から、少年は何度となくその遺言を聞かされたであろう。

 「おまえは円山応挙以来のえらい人になる」――多感な少年の心に、それはどれほど強い自己暗示作用を営んだことか。

 少年は自信を持つ。学問について、また芸術について。

(その2に続く)

| | コメント (0)

2022.05.02

『フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集』 ユアン・シェン(クラヴィコード)

 

 国のピアニストにして、バロック期のオリジナル楽器演奏にも卓越したセンスを感じさせるユアン・シェン。

 こんな言い方は失礼かもしれませんが、いよいよ中国にもこういう奏者が現れたかという感じですし、いつのまにか中国に抜かれた的なことが、この分野でも起きつつあるのだなと思いました。

 このフリーデマン・バッハのための練習曲集は、父バッハが長男の「作曲」の勉強のために編集したものです。当時ヴィルヘルム・フリーデマンは10歳から13歳くらい。長男に対する父親の英才教育を知る上でも、また、その後の改編に見るそれこそ父バッハの「作曲術」を知る上でも、大変貴重な曲集です。

 まあよくあることですが、長男は父親の偉大な才能に圧迫され妙な人生を歩むことになり、次男以降の息子たちの方が、ずっと自由に音楽界で羽ばたき音楽史にも名を残したのは皮肉です。

 私はそんなちょっと可哀想な長男の作品が好きでして、その原点となったこの曲集にもまた特別な思い入れがあるのでした。

 それにしてもユアン・シェンのクラヴィコードの素晴らしいこと。たしかに父バッハのことですから、長男にはクラヴィコードで弾きなさいと言ったかもしれませんね。そうだとすると、単に「作曲」のための練習曲集ではなく、「演奏」のためのそれだったとも言えそうです。

| | コメント (0)

2022.05.01

NHKスペシャル 『東京ブラックホールⅢ 1989-90魅惑と罪のバブルの宮殿』

Th_wkqp7n549yeyecatch_8d404a52fb1519154c ょっと聴いてください!今日はビックリな日でしたよ!

 今日の夜放送されたこの番組に主役級で登場する川添象郎さんと、偶然昼間に直接お電話でお話したんですよ!そして、LINEでつながらせていただき、さらに我が家に遊びにいらしてくれると!

 このありえない、全く想定外のご縁を作ってくれたのは、これまた夢のような話ですが、ファンモンやケツメイシ、BoAなんかのプロデュースをしてレコード大賞3回受賞、2000万枚のCDを売り上げたYANAGIMANさんでした。

 なんと今日はYANAGIMANさんがウチに遊びにいらっしゃったのです。初対面だったのですが、お会いして3分でお互いにトップギアに入ってしまい、そのままお互いに「うわ〜、いや〜、やば〜」しか言えないほどいろいろシンクロしてしまいまして、しまいには我が家の家族バンドの生演奏まで聞かせてしまうという図々しさにも程がある状況になりました(笑)。

 そんな中、青山テルマさんなどで川添さんと一緒にお仕事をしたことのあるYANAGIMANさんが、私を川添さんに紹介してくれたのです。もちろんそれは私が、仲小路彰と、象郎さんのお父様である川添紫郎(浩史)さん、そしてお母様である原智恵子さんの資料を整理しているからです。

 そんな奇蹟が起きた日に、まあタイミングよくこの番組が放送されたのでさらにビックリ。

 ちなみにこの番組に出てくる、トランプのライバル柏木昭男については、私がこちらに書いていましたし、オウム真理教の元信者の野田さんとは、こちらでやはり意見交換しておりました。

 なんだか、私のブログの世界を凝縮したような番組でしたね。つまり、このブログはバブルの光と影だったのか(笑)。

 この番組、ドラマ仕立てでなかなか面白かった。私もいちおうバブル体験世代ですが、あの頃の私に今の私から言ってやりたいことがあります。「バブルの蚊帳の外で良かったね!」と。

 あさって(3日)の朝9時から再放送があります。未見の方はぜひ御覧ください。

 NHK公式

 NHK+

| | コメント (0)

« 2022年4月 | トップページ