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2022.02.15

映画『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道』 岩間玄監督作品

 

 レ・ブレ・ボケと形容されるが、とてもそんな言葉の領域には収まりきれない写真を撮る人。天才写真家、森山大道の世界を追った映画です。

 森山さんは細江英公さんの助手をやっていたことがあります。二人の写真に共通の「モノ」を感じるのは私だけではないでしょう。

 細江さん自身もカッコよく絵になる男ですが、より映画向きなのは森山さんかもしれません。それは見た目とかの問題ではなく、なんというか、自身がモデルであるという意識がより強いように感じるからです。

 実際、この映画では、彼のパワフルすぎるはずの写真でさえも本人のアウラにやられてしまっています。

 作品よりも作家の方に目を奪われるという例をいくつも思い起こせますでしょう。そして、それが作品にとって、あるいは作家にとって幸せかどうか、そんなことをこの映画を観ながらつい考えてしまいました。

 「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」…この言葉は、私の「時間は未来から過去へと流れる」理論や、それに伴う「未来の記憶」「懐かしい未来を思い出す」に通底する部分があります。

 そう、写真というのは、向こうからやってくる光を捉える作業。光は時間であるからして、写真はやはり向こうからやってくる時間を捉える作業。

 これを西洋科学の観点から解釈してしまうと、「まだ来ていない光は過去に発せられたものだから、写真は過去を捉えるものではないのか」ということになってしまいます。

 違うんです。単純に「まだ来ていない」のだから「未来」なのです。音楽もそうです。私たちは向こうからやってくる音を聴いている。それは未来の音。過去に発せされた音かもしれませんが、あくまで私たち生命にとっては「未来」なのです。

 そう、全ての未知の情報は「まだ来ていない」わけで、もう来ないかもしれないけれども、来たらその瞬間に現在になり、そして過去になっていくのです。

 その無数の「未来」のどれをどのタイミングでどういう関係性の中で捉えるか。それが写真家の才能であり、そしてそれをいかに現在に写像し、過去に印紙していくかが、その写真家のテクニックとなるわけで、「アレ・ブレ・ボケ」は森山さんのテクニックにすぎないというわけです。

 そんなことを感じ、考えながらこの映画を観ていると、宇宙と生命の関係性の意味、そして宇宙の真理というものに少し近づけたような気がしました。

 写真…たしかに「真理」を写すアートなのです。

 

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