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2022.02.10

細野晴臣らが語る…『民謡ルネサンス~新しい日本の音と心を求めて』

 

 国もいつのまにか「民謡」スピリットを忘れてしまったということを、昨日の記事では暗に表現しました。

 あの頃、日本のポップス界が、たとえば「シティ・ポップ」のような方向に行ったことは、まさに「シティ」…もちろん、それがフィクションの「シティ」だったので、結果として今、それはまるで「民謡」のごとく世界でもてはやされているわけですが…にとらわれてしまった当時のバブル日本人の象徴でありました。

 それが20年ほど遅れて、韓国の「都市化」とともに、あのようなK-POPを生んでいったわけですね。非常に表面的な例になりますが、たとえばBTSの初期の作品はかなり「韓国民謡」的です。それがアメリカで一番になるために、あんなふうになってしまった。

 そういう意味では、以前紹介したNCT127の「Sticker」は面白かった。また、キム・ヨンジャの「アモール・ファティ」もそうでしたね。

 ひるがえって、日本はどうなのか。ここは私も最近真剣に考えているところです。

 この番組は1998年の放送だそうです。その後のJ-POPは「歌詞」の面ではどこか回帰的なところがありましたが、音楽面ではある意味迷走し、今もそのただ中にあるような気がします。

 一方で、アメリカの音楽シーンは急速に「民謡的」になりつつあるのです。ラップという語りが一度西洋音階を破壊してくれたおかげで、今やペンタトニック(五音音階)や六音音階(カタカナ語で何ていうのかな?)が、「カッコいい」ということになってきたのです。

 そして、「ループ」の一般化、多用による循環和音の復権ですね。これは非常に顕著であり、その結果、即興性も取り入れられやすくなった。

 こういう動きは非常に面白いと思っています。

 今までは、多数が少数を包含するという数学的な感覚から、西洋音楽が東洋音楽(民族音楽)を取り込んでいくものだと考えられていました。

 どうもそれは違うみたいですね。この番組で細野晴臣さんがするどく指摘しているとおり、民謡は「宇宙的」であって、制約や決め事が多く、デジタル的でもある「西洋音楽」を簡単に呑み込んでしまうものなのでした。

 たとえば「和声」「和音」という、ある種定型的な因果関係を生み出すルールのおかげで、いかに西洋音楽は未来に向かって限定的になっていることか。

 そんなわけで、私もいろいろな音楽をやってきまして…特にヴァイオリンという極度に民族的でありながら、西洋音楽の花形のように祭り上げられてしまった不幸な楽器をやってきて…いよいよその本質的な改革、進化に挑みたくなってきたのです。

 とはいえ、私のようなシロウトには限界がありますので、今、非常に強力な音楽職人さんたちに協力を仰ごうとしているところです。これからの展開が楽しみです。

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