バッハ 『トリオ・ソナタ(音楽の捧げもの)』
最近、「構造」としての音楽に批判的な記事をいくつか書いてしまいましたが、皆さんおわかりのように本当はそういう「音楽」が大好きです。
一方で、その「構造」はある種の「わかりやすさ」でもあって、その「わかりやすさ」に潜む危険というのも感じるようになったわけです。
昨日の山川宗玄老師のお言葉で言うなら、そこに「困難」があるのかということです。
「構造」とは「言語」であるとも言えます。最近の私の傾向は、多分に仏教の、禅宗の影響を受けているわけです。
「構造」や「言語」、そして「音楽」には、「過去の記憶」と「未来の予感」が関与するんですよね。「今ここ」の存在感が薄れているのです。
そういう視点からして「困難な構造」をもつ不思議な「音楽」があります。それがバッハの「音楽の捧げもの」です。
ちょっと分かりにくいかもしれませんが、コト(構造・言語・音楽)を窮めてモノ(非構造・非言語・非音楽)に到達した作品だと思います。
これもまた、修行という「カタ」を窮めて悟り(モノのあはれ)に到達するのと同じです。
おそらくバッハの修行者だったのでしょうね。そして、バッハの残した「言葉(音楽)」は、まさに対機説法として、現代や未来にも生きているのでしょう。
さて、そんな「音楽の捧げもの」の中で最も現実的な楽曲、すなわち楽器指定のあるのがこのトリオ・ソナタ。私も何回か演奏しましたが、本当に弾きにくい。まさに「困難」に満ちています。修行アイテムとしては最高でしょう(笑)。
この演奏では、チェンバロではなくジルバーマンのフォルテピアノが使用されています。不思議な響きになりますね。新鮮な発見がいくつかありました。まさに今に生きている作品です。
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