この期に及んでまたですか。どんだけ自虐なんだ、東京オリンピック2020。
国立、エンブレム、コロナ、女性蔑視発言、そして小山田圭吾「いじめ自慢」…。
実はエンブレムに関しては、私も一枚かんでます。まじで。
あの最初のエンブレムのデザイナーが決まるにあたって、ちょっとある人たちから依頼されて、少し動きました。
しかし、どうにも気が進まないというか、実際うまくコトが運ばなかったのですね。それを先方が強引に実現してしまった。
結果、あれですからね。そして、シンボルたるエンブレムがその後の混乱を全て象徴、予言していたと。
ただ、それについても、いろいろ裏話や伏線というモノがあります。なかなか深いモノが。
今回の小山田圭吾問題も、単純に「いじめ自慢」をするようなトンデモナイ奴の音楽なんて聞きたくない!というような類のコトではありませんよね。
いわゆる「渋谷系」の闇というか、いやその根本のルーツというか、そのあたりを知らないと。
私は彼より少し年上ですが、やはりバブル期の非モテ族の一人でして(笑)、あの浮かれた偽善的で即物的な雰囲気にどうしてもついていけない人間でした。
結果、私も立派に「サブカル系」になりました。そして今に至る。
音楽の「渋谷系」は一周回って「オシャレ系」に行ってしまったところが難しく、また面白く、そして今回の一件を通じて実に運命的ですよね。
つまり、「オシャレ」「雰囲気」を否定しつつ、そっちで売れてしまったから、だから小山田さんも小沢健二さんも、プライベートの「汚い」部分を自慢せざるを得なくなってしまった。バランス取らないと死んじゃいますよ。
で、本来のカウンター・カルチャーとしての「渋谷系」の本質である、汚物としての人間を顕示する「鬼畜系」を言葉として残してしまった。あい頃、あんなのばっかりでしたよ、正直あの界隈では。
土偶の話ではないけれども、そうした「コト(情報)」を発掘して、それだけを現代的な視点や感覚で解釈したら、それは「ひどい!」ということで終わってしまうでしょう。結果、モノの本質から程遠いところで停滞してしまう。
実際には、上述のような歴史的背景があるわけで、それを知らずに彼を国家的祭典に採用した側も、ひたすらバッシングする側も、等しく勉強不足だとも言えましょう。
結局、昨日の「FAKE」の佐村河内さんに対するバッシングと同じなのかなあ。
あっ、もちろん、この私の記事は小山田圭吾さんを擁護するものではありませんよ(…と、こんな当たり前のことまで書かないと、言葉の向こう側の本質が伝わらないのも困ったものですが、まあリスクヘッジで)。
コトの表面だけ見るのではなく、そこを通して背後のモノの本質を見る力をつける、子どもたちにそんな教育をしないといけませんね。しかし、もう大人が全くそれを怠っている、いやそれができないので…これは大変だ。
もうすぐ始まる異例なオリンピックの「本質」も、しっかり見極めたいですね。せっかくの特異なチャンスを私たち日本人は頂いたのですから。
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