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2021.04.30

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論~』 妹尾武治 (光文社新書)

Th_b08z3gg65b01_sclzzzzzzz_sx500_ 日のプロレスリング・ノア名古屋大会、抜群に面白かった!プロレスの楽しさ、激しさ、深さを堪能いたしました。

 私と同様プロレス・マニアを標榜している気鋭の心理学者、妹尾武治さんの自称「トンデモ本」。これがまた抜群に面白く、あっという間に読了。アカデミック味だけれども、ぷんぷんサブカル臭がするという絶品(笑)。

 タイトルの通り、「未来はビッグバンから全て決まっており、私たちの意志では変えられない」というお話です。

 たしかに全てが物理法則(宇宙法則)に則っているならば、そのとおりですよね。宇宙人である(?)私もそう思っています。

 しかし、人間(地球人)の感覚からすると、どうもそれだと納得いかない。そして、虚しさすら感じてしまう。

 その私たちの「意志」こそ幻であるというのもわかります。ワタクシの「モノ・コト論」で解釈するところの、「もののあはれ」こそ真理。まさに「意志」「意識」「情報」「言語」を表わす古い日本語「コト」はフィクションなのです。宇宙の法則たる「モノ=不随意」のみが真理。

 お釈迦様もそれにお気づきになったのです。

 ということで、私にとっては全然「トンデモ本」ではありませんでした。著者の言うとおり「トンデモなく面白い本」ではありましたが。

 さて、その面白さは読んでいただけばわかるわけですが、「モノ・コト・トキ論」を展開し、まさにアマノジャク的なトンデモ理論「時間は未来から流れてくる」を訴え続けている私にとって大きな発見は、妹尾さんの専門分野「ベクション」についてでした。

 「ベクション」とは、あの電車や車に乗っていて、並走している車輌が動くと、自分か反対方向に動いているかのように感じてしまう錯覚のことです。

 この空間的なベクションが、時間においても起きているのではないか。いや、起き続けているのではないか。つまり、本当は時間が未来からこちらに流れてきているのに、人間(地球人)は、まるで自分が人生の主役になって、人生の道のりを歩いていると錯覚していると。本当は自分が止まっていて、時間が動いているのに。

 ぜひ、この辺に関しまして、妹尾さんといつか直接お話してみたいと思います。

 最後に、もう一度プロレスについて。妹尾さんは「人生はプロレスである」と書いています。納得です。最初から勝敗が決まっていても、つまり決定論でもこれだけ楽しめるわけですから、同様に人生の結末が決まっていても、あるいは過程(筋書)が決まっていても、全然いいじゃないですか。楽しみましょうよ。その一つの方法として、私の「モノ・コト・トキ論」もあるのでした。

Amazon 未来は決まっており、自分の意志など存在しない。

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2021.04.29

日本の象徴ー天皇ー日を嗣ぐものの伝統

20210501-134110 日は昭和の日。昭和天皇のお誕生日です。今年は昭和天皇御生誕120年の年。

 それにちなみまして、同年に生れた仲小路彰の天皇に関するある文献の一部を紹介します。

 両巨人の生誕120年ということもありますので、今年中になんとか全文を公開できるよう、私もお勤めさせていただきたいと思っております。

 

 ◎ 日本の象徴

 

 古代帝国の絶対者でもなく

中世における神権的統治者でもなく

近代国家の主権的国王でもなく

まして 現代の独裁者や

大統領的存在とは異るもの

かかる天皇とは

いかなる本質をもっているか

 

 天皇は日本文化の最高の象徴である

長い文化の流れは 幾度か曲折したり

激したり 滝となり またよどみながら

いつも一条の光を反映している

 そこには 幾多の断層があり 苦難があり外からの重圧もありながら やがて一つの統合の中に発展し来ったのは やはりこの光の歴史によるのである

 日本人は その国土とともに天皇と悲喜をともにしつつ 文化を創造して来た

その文化の断絶や矛盾をよく超克し得たのは その一つなるものに生命的に固く結び合ったからである

 ややもすれば それは神秘な雲に閉されたり 菊のま垣にへだてられたりしつつも いつも民族の深い普遍的な潜在意識の中に投影されて いささかもはなれることはなかった

 そして それがあまりに意識の底にひそむために なかなか客観的に表現することを許されなかった

 

 ◎ 科学者天皇

 

 日本の皇室は自然の中に根源的に生成してゆく象徴として 日本の国土の存在とともに生命的な発展を示すのである

 生命への畏敬……生きとして生けるものへのあまねき愛情……そこに太陽のくまなき光の愛があり……日を嗣ぐものの真の伝統を見出すのである

 

 ◎ 未来への光

 

 日出ずる国の朝の光は 日々に新しく

また美しい

その光の中にこそ愛が生れ

善がのびゆき

そして神々の誕生を祝うのである

 かくて国生みの神話は

永遠の今にあっても

くり返されていると観じるのが

日を嗣ぐものの伝統である

 かつてはるかな古に

氷河時代の苦しみを避けた原始人が

洞窟の中で死をまぬがれ

ようやくに新しい太陽の光を仰いで

新生の喜びをうけた時以来

人類は太陽を崇拝して来た

 しかし 氷河は去って気候が激変し

エジプトやアラビア等文化地帯が

熱帯砂漠化するとともに

太陽を恐れて

他の神を信じはじめる

 これは どこの文化の発展の

歴史にあっても同様であるが

ひとり日本のみは

はるかな太陽信仰が

やさしい女性の

アマテラス信仰となって

国土を豊かに恵み

人々を光の中に 生かすのであった

 そして その正統の流れの中に

アマツヒツギとしての高貴な

純粋性をいささかの曇りもなく

光のままに生きゆくものの実在を

日の御子として

日嗣の御子として

今 日

ここに明らかに見るのである

 

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2021.04.28

「ヤスクニの思想」の起源

Th_-20210429-80550

 日は主権回復の日。ワタクシごとですが、期せずして今日、未来の主権回復に関わる一つの大きな仕事が終りました。偶然とは言え、何か歴史的な運命を感じている次第です。

 その仕事の結果はのちのち紹介できると思います。今日はそれにも関係していますところの、主権回復の近代的象徴の一つとなっている靖国神社について私見を書きます。

 私は、靖国神社には比較的親しんでいる方です。近くを通れば必ず参拝しますし、子どもたちを遊就館にも何度か連れていきました。

 では、ガチガチの保守かというと、ご存知のとおり全然そんなことはありません。

 変な話で恐縮ですが、私は多少霊感というか、いわゆるチャネリング的なことができるところがあります(もちろん単なる思い込みかもとも思っていますが)。

 それで何度か書いたとおり、私は靖国に行くと、とにかく厖大な多様な声を聴くのです。

 それをやや斜めから一言で言えば、「俺たちいろいろな思いがあるのだから、英霊、英霊って一絡げにしないでくれ」というものです。

 つまり、多くの参拝者の思いとズレのある思いを抱いている「英霊」もたくさんいらっしゃるということです。

 もちろん霊界では現界のように、それで英霊たちが喧嘩することはないわけですが、現界的な分類をすれば、「英霊」の皆様には保守もリベラルも中立派もいろいろいるわけで、たとえば彼らの大東亜戦争についての評価もまちまちなのです。

 そういう、ある意味当たり前の発想もなく、ただただ「純粋」な気持ちで参拝してしまったり、「純粋」な気持ちで忌避してしまったりする現界の人が多すぎて、私は少しうんざりします。

 出口王仁三郎は戦後すぐ、有名な吉岡発言で、『ほんとうの存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた、殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった』と語っています。

 その王仁三郎の大本についても記述されている、次の記事をお読み下さい。私たちの当たり前の信仰心や善意やシンパシーや敬意というものも、それが近視眼的なものでは、価値がすっかり下がってしまうのではないでしょうか。

 佐藤弘夫さんの「日本人と神」から。

靖国神社と「神国」日本を生んだ、人を「神」に祀り上げる思想の正体

Amazon 日本人と神

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2021.04.27

「用宗」の語源からいろいろと

Th_img_7692 日は両親を連れて静岡は用宗の歯医者さんへ。

 ものすごく久しぶりに用宗で海を眺めました。

 しらすと海水浴で有名な用宗。昨年はコロナで海水浴場もクローズだったとか。ただでさえ静かな街ですが、今日もなんともゆったりとした時間が流れる異空間でした。

 静岡の市街地から安倍川を越えてすぐのところということもあり、最近ではこの静けさやまったり感を楽しむために東京からわざわざ来る人もいるとのこと。

 それから、イエモンの吉井和哉さんゆかりの地としても、ファンにとっては聖地化しているんですよね。

 静岡市時代の吉井くん(中学の後輩なので)、とは7年ほど前に某所でばったり(?)再会し、静岡市内のマニアックすぎるスポットの話で盛り上がりましたが(笑)、そこでも用宗の話が出ましたっけ。

 さてさて、そんな「用宗」ですが、これを読んでいる方、この地名読めますか?

 そう、正解は「もちむね」です。

 今日はその語源について書きましょう。地元の方はご存知と思いますが、この地にはかつてお城がありました。今川氏の居城をのちに駿河侵攻した武田氏が奪い取ったもので、その頃、港を持っていたことから「持舟(船)城」と呼ばれたようです。

 その「もちぶね」の「ぶ」が「む」に転訛したのが「もちむね」でしょう。バ行とマ行の交替はよく起きます。「さみしい」と「さびしい」とか。

 その傾向は、次の漢字の読みからもわかりますよね。

馬(ば・ま)

美(び・み)

武(ぶ・む)

米(べい・め)

母(ぼ・も)

 ちなみに「あっかんべー」は「赤目」なんですよ。これも「めー」が「べー」に転訛しています。「上達部」を「かんだちめ」と読むのもそうした現象の例です。

 たしかにバ行とマ行を発音してみると、唇の合わせ方がほぼ一緒ですよね。ですから読唇術ではこの両行の発音は見分けにくいとのことです。

 その難しい発音の使い分けですが、日本人は赤ちゃんの時に「ママ」と「バーバ」で訓練するんですよね。

 さらに似た唇の形をして発音するのがP音。つまり「パパ」も加わって、その微妙な発音の方法を覚えていくのです。

 とは言え、それは「パパ・ママ」時代、すなわち現代の話です。一昨日の「うぐひす」が「ウクィピチュ」だったところでも書いたように、かつてのハ行はP音だったのですから、奈良時代以前にはお母さんのことは「パパ(母)」と発音しておりました(!)。

 つまり、そこからの転訛(劣化?)で「ババ」という言葉が生れたのでしょう。同様に「ちち」から「ぢぢ」が、というわけです。

 「はは→ばば」「ちち→ぢぢ」と濁点がつくわけですが、なんとなく顔にシワやシミが出ているイメージと重なって面白いですね。

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2021.04.26

ジャパネットたかた創業者・高田明さん&能楽師・武田宗典さんと読む「世阿弥」

Img_67dd3f99f4a5454ea7275590fbd0bcc84796 日、「鶯」の語源について書きました。「鶯」というと思い出すのが、和泉流狂言の「鶯」です。和泉流にしか伝わらない作品。蓮如上人が好んだとも言われるこの「鶯」、たしかに笑うというより、なんとなくしんみり考えさせられる曲です。

 そして、今日の話は狂言から能へ。

 その前に昨日、うぐいすも稽古をするというようなことを書きましたが、その「稽古」とはなんなのか。以前ワタクシ流の解釈を書きました。

『稽古」とは

 そこでは「稽古は神変す」と書きましたが、一般には「稽古に神変あり」でしょうかね。無心に先人と一体化しようとしていると、突然わかる瞬間がある。自分で考えるのではなく、向こうからやってくる感覚ですよね。過去と未来が今に一体化する瞬間。

 で、そういう「稽古」って、別に能や狂言などの芸能に限ったことではありません、という話です。

 もう、とりあえず読んでいただきたいのですが、ジャパネットたかたの高田さんと、能楽師武田宗典さんの対談が実に面白かったのです。

 なるほど、伝えて、人の心を動かすという意味では、ジャパネットも伝統芸能の系譜上にありますよね。高田さんが世阿弥の言葉に共感するのも納得できるというものです。ぜひお読みください。

 そして、650年後の最先端にさえ通ずる言葉を残した世阿弥が、いかにスーパー世阿弥マシンであったか(笑)。

世阿弥の名言「初心忘るべからず」の真意、初心は老後にも持つべきものだった!

高田明さんのプレゼン術の真髄は、世阿弥の名言「離見の見」にあった!

いくつになっても「花」のある人は何が違うか、世阿弥『風姿花伝』に学ぶ

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2021.04.25

「うぐいす」の語源

Th_unknown_20210428085501 士山麓はウグイスが盛んに鳴く季節となりました。いわゆる街場での「初音」の季節とは違い、かなり鳴き方もうまくなっており、いよいよ繁殖期の本番という雰囲気であります。

 ホーホケキョ(宝法華経)のあとの「ケキョケキョケキョ…」はライバルを威嚇する鳴き声。富士山麓ではその「華経」の部分もたくさん聴かれます。まさに実戦モードですね。

 ちなみに「鳴き方がうまくなる」というのは、実際そうでして、先輩たちの鳴き方を真似しているうちに上手になっていくという「口伝」「稽古」のシステムがあるのです。

 ですから、ハワイに持ち込まれたうぐいすはホーホケキョとは鳴かないとのこと。いわば方言的にだいぶ簡略化されているそうです。

 そういえば、こんな話もありました。次女が今、上野の寛永寺のすぐそばに住んでいるのですが、ある時、お寺の偉い関係者が「上野の森のうぐいすは訛っていていかん」と、京都から大量のうぐいすを運びこませたそうで、それ以来京風な「正しい」鳴き声になったと。

 それで、あのあたりを「鶯谷」と呼ぶのだそうです。面白いですね。

 さて、ホーホケキョが宝法華経であることは、まあ分かるわけですが、では「うぐいす」という名前はどこから来たものでしょうか。

 実はこれも鳴き声から来たという説があるのです。そして、私はそれを支持しています。

 古い表記では「うくひす」です。そして、古い発音を現代風に書けば「ウクィピチュ」となります。つまり、うぐいすの鳴き声を「ウ〜クィピチュ」と昔の人は聞いたのではないかということです。ちょっと声に出してやってみてください。けっこうリアルですよ。ホーホケキョよりも。

 「はひふへほ」の発音の変化は非常に複雑なのですが、一番古いところではP音であったことがわかっています。

 ですから、たとえば鳥で言うのなら、「ひよこ」は「ピヨピヨ」鳴くので「ピヨコ」ですし、おそらく「ひな」も「ピーピー」鳴くところから「ピナ」であったと思います。

 また、サ行は「チャチィチュチェチョ」だったこともわかっていますので、たとえば「すずめ」は「チュンチュン」鳴くところからついた名前だと言えます。

 このように鳴き声がそのまま名前になることは、「かっこう」の例などを考えても普通なことであったことがわかりますね。

 ちなみに、繁殖期以外のうぐいすや、うぐいすの子供のことを「ささご(笹子)」と呼ぶのですが、それは藪の中で「チャッチャッ」と鳴くからだと思われます。「ちゃちゃご」ということですね。山梨県の笹子峠、笹子トンネル、笹子駅の「笹子」はこれです。

 それにしても、これほどメジャーな鳴き方をする鶯ですが、基本日本にしかいないんですよね。朝鮮半島や満州にも分布していますが、やはり鳴き方が違うそうです。

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2021.04.24

追悼 レスリー・マッコーエン (BCR来日ライヴ)

 

 う開き直って、昭和の話ばっかりのブログにしましょうか(笑)。なんだか、自分が年寄りになったような気がして複雑な気持ちなのですが、しかたないですよね、実際すごい時代だったと思いますし、私自身、微妙に嫉妬のようなモノすらありますので。

 で、今日はベイ・シティ・ローラーズのレスリー・マッコーエンの訃報に触れ、なんだか自分の人生の終りも実は近いのではないかと思ってしまったのでした。

 レスリーはまだ65歳、一昨年でしたか来日したばかりですよね。昨年亡くなったイアン・ミッチエルは62歳でしたっけ。私よりちょっとだけ先輩の皆さんですから、なんだか自分のことのように感じてしまいますよね。

 それにしても、彼らが日本で一大ブームを起していたのが、1976年、77年あたりでしょう。細野さんは中華街ライヴとかやってた時ですよね。YMO前夜。

 私は小学校から中学校に上がるあたりでして、姉の影響でビートルズを聴き始めた頃。ある意味、ビートルズの一面である、ブリティッシュ・ポップ・ロック、あるいはそのアイドル的の側面においても、正統的な継承者であったかもしれませんね、BCRは。

 実際、アメリカのチャートでも1位を取っていますし、そのバンドとしての完成度もそれなりだったと思います。

 私はその後、そうしたポップ・ロックの系統としてのELOにどっぷりハマっていくわけですが、そのきっかけを作ってくれたのが、このBCR、そしてレスリーだったのかもしれません。

 この映像、なんとも懐かしい時代感がありますね。この日本人女性たちの熱狂ぶりも、10年前のビートルズに匹敵するものがありました。まさに新時代のビートルズとして受け入れられていましたからね。

 あらためて彼らの残したきらめくような名曲たちを聴きながら、レスリーのご冥福を祈りたいと思います。

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2021.04.23

『細野晴臣と彼らの時代』 門間雄介 (文藝春秋)

Th_img_7686 日のユーミンのお宝ライヴでベースを弾いていたのは細野晴臣さん。

 先日、友人を通じて細野さんがこの本にサインしてくれました。細野さんが私の名前を記すなんて、まさに夢のようなことです。ありがたや。

 今、私がやっている仕事が細野さんにとっても興味深いものであるようでして、こうして応援していただいたおかげで、ますますやる気満々になっているところです。ありがたや。

 この門間さんの評伝、たしかに決定版と言っていい内容ですね。細野晴臣という一人の人間の評伝が、これほどに日本の現代史を反映し、そして人生論にもなっており、ある種の宗教書、哲学書でもある…これは本当に感動的なことです。

 どこか飄々としており、好きなことを好きな人と好きな時にやってきたというイメージもある細野さん。

 実際には、「無我」な存在であり、未来から流れてきたモノをただキャッチし続けてきた人であったことが理解できます。

 「無我」「空」であるということは、自他不二ですから、結果として自我が世界にまで、あるいは宇宙にまで拡張するというパラドックス、いや真理を体現してくださったのです。

 その真理に関して、心に残った言葉を二つだけ。

 細野さん「パーソナルな曲は作ったその人でないと歌えない。自分の曲はほかの誰かでも歌うことのできる作品であってほしい」

 松任谷正隆さん「普通は音楽って、誰もが正面から聴くことしかしないんです。なぜならそうやって聴こえてくるから。でも細野さんは音楽を斜めから聴いたりできる。音楽にちがうかたちを見ることができるんです」

 私もこの歳になり、ちっぽけですが私なりの転機を迎えている今、この本に出会えたことに本当に感謝です。細野さん、門間さん、そして友人に心から感謝したいと思います。

 もう一つ、今取り組んでいることも、どこかで細野さんとつながるかもしれません。それは絹絃です。シルク・ストリングス。この本を読んで、はっと思い出しましたが、細野さんの「絹街道」…これが私の古くて新しいテーマ・ソングになりました。今後の展開が実に楽しみです。

Amazon 細野晴臣と彼らの時代

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2021.04.22

1976 荒井由実 NHKホールコンサート

 

 日の作業BGM。まさにユーミンやティン・パン・アレイに関係する作業を行っております。おかげさまで調子よく進捗しております。

 それにしても、この音源はたしかにお宝ですね。

 1976年の私は、ようやくビートルズを聴き始めたくらいであり、まだ脳内にユーミンは存在しておりませんでした。このFM放送も聴いていませんでしたから、今回が初めてのライヴ体験でありました。

 う〜ん、荒井由実は天才ですねえ。恐ろしい。この時代にこの楽曲群。まさにニュー・ミュージックであり、それは今でも「ニュー」であります。

 近いうちにご本人にお会いする予定(勝手な予定)ですので、いろいろお話をうかがいたいと思います。どういう音楽的ルーツがあるのだろう…もちろんご本人も、あるいは他人もいろいろ語っていますが、どうもそれだけだと納得いかないのです。

 もしかすると私の「作業」がそのヒントになるのではないかと思いまして…単なる妄想ですが。

 バンドも言うまでもなく素晴らしい。素晴らしすぎます。ライヴの楽しさが録音でも伝わってくる。みんな楽しそうに演奏しているのが目に浮かびますね。

 なんだか、コロナのせいもあって、私も家族も大好きなライヴから遠ざかっております。久々になんかやりたいなあ。ユーミン特集もいいなあ。

 本当にこんな素晴らしい音楽を共有できる時代に生れて良かったと思います。ありがとう。

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2021.04.21

PINK CLOUD 『SMOKY』

 年度になって非常に忙しくなりまして、一日14時間くらい働き詰めです。なかなか本も読めないし、テレビも映画も観る余裕がなく、ブログを書く時間も取れません。

 そんなわけで、すっかり音楽動画紹介ブログになってしまっていますが、スミマセン、許して下さい。仕事中に聴いた音楽の紹介になるということです。

 さて、今日は久しぶりにこのバンドを聴いてノリノリで作業しました(笑)。うん、やっぱりすごいわ。究極のスリーピースバンドですよね。

 もっと高く評価されていいでしょう。若い人たちにもぜひ聴いてもらいたいですし、憧れて楽器の練習してほしい。私も中学時代にちょろっとギターの練習しましたよ。でも、無理そうだったのでヴァイオリンに逃げました(笑)。

 当時はCharさんのギターにばかり耳が行っていましたが、この歳になってから聴くと、ベースとドラムスのすごさにも気づきますね。

 

 

 およそ30年後のCharさんの同曲の演奏です。変らないなあ。より尖鋭になっているような気さえする。かっこええ〜!

 

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2021.04.20

Keith Jarrett 『Paris / London (Testament)』

Th_unnamed_20210421214701 ース・ジャレットの即興ソロの名作。2009年の作品。

 「Testament」というと、やはり「遺言」というイメージがありますね。2時間40分以上にわたるこの天からやってくる音楽を聴くと、たしかに死の向こう側にある世界を想像してしまいますし、難病克服後のキースはもしかすると集大成的な作品と位置づけているのかもしれません。

 キースのこうしたソロ・ワークスには、あるパターンがありますが、このアルバムでも、無調性風な楽曲とクラシカルな調性音楽、民族音楽的なドローン系やブルージーなジャズっぽい作品などがバランス良く聞けます。

 個人的には、調性音楽の中でもオスティナート&フォークな感じなものが好きなので、パリのパート7やロンドンのパート12はヘビロテしていますね。自分でもこういうのが弾きたい。

 

Paris part Ⅶ

 

London part Ⅻ

 

Amazon Paris / London (Testament)

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2021.04.19

保守の重鎮 伊藤隆先生(静かに)吠える

Th_-20210421-84957 、日本の戦後史を総括することにつながるであろうお仕事をしております。

 この件に関して、かつて伊藤隆先生に電凸し、のちに実際にお会いしていろいろご意見をうかがう機会がありました。それ以来、密かに心の師のお一人とさせていただいています。

 その伊藤先生が、文春オンラインで辻田真佐憲さんのインタビューを受けていて、それがとっても面白かったので紹介いたします。

前編 「僕は左翼の人たちに聞きたいんだよ」保守の歴史家・伊藤隆88歳が“令和の日本”に苛立つ理由

後編 保守論壇の重鎮・伊藤隆88歳が振り返る“つくる会”騒動「こういうところにはいたくないと思った」

 辻田さんもかなり思い切って切り込んでいますが、さすがそれを飄々と受け流しています。そう、実際こんな感じで飄々とされている。そして、そこにとんでもない重みと、ある種の軽みというか軽やかさというか、ユーモアというものさえ感じるんですよね。

 おそらくは、戦後の日本の歴史論壇と孤軍奮闘してきた、その経験から、その重みと軽みを身につけられたのでしょう。もちろん素人のワタクシは、もうそれらに対して(思わず)笑っちゃうしかないという情けない状況になってしまうのでした。

 そう、自分で自分を分析して、それこそ笑っちゃうのは、とんでもない重鎮と対峙すると、私ふざけちゃうんですよね(笑)。おそらく命乞いなのでしょう。勝ち目なんかありっこないので。自分の言葉を笑いというオブラートで包んで発するんです。そうすると、反撃されないから(笑)。

 このインタビューでもおっしゃっているとおり、そして辻田さんが納得いっていないように、伊藤先生は「日本大好き」をベースとして、一方で客観的な実証主義的な研究をされているのです。そこがすごい。凡人にとっての矛盾、対立を、ご自身の中で見事に揚棄している。

 歴史教育と歴史研究をごっちゃにしない。たったそれだけのことなのに、それができない人が多い(私も含めて)。そして、なぜか日本近現代史学だけ、その研究の動機として、「その研究対象(日本)が好き」と言ってはいけないことになっている。たとえば生物学をやる人は「生物が好き」と言っていいのに。

 というわけで、そんな重鎮伊藤先生でさえお手上げな「研究対象」に取り組んでいるワタクシでありました。乞うご期待。がんばります。

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2021.04.18

バッハの適正律をジルバーマン・ピアノで

 

 日に続いてジルバーマンのピアノを聴いていただきましょう。バッハの平均律…いやいや、演奏者の武久源造さん流にいうと「適正律」の有名な第1番です。

 平均律という訳にもたしかに問題ありですよね。今でいう平均律ではなく、純粋にその曲、その調性に合った正しい調律という意味かもしれません。

 ここでは武久さんは「平均律」を採用し、しかしそれをあえて「適正律」と訳し直しているようですね。

 それにしても、この楽器の音はそれぞれの音程で非常に個性的ですよね。さらにこの演奏は非常に「不均等」であり、やりすぎなくらいの自由な波動を発しています。

 武久さんは目が不自由でいらっしゃるので、私たちのように楽譜に頼って演奏するわけではありません。おそらくは向う(未来)から流れ来る音の波動をピックアップして音にしているのでしょう。だからこれが自然なのです。

 ジルバーマン・ピアノは、ある時はクラヴィコードのようであり、またある時はチェンバロのようであり、そしてフォルテピアノのようです。そういうマルチ・キャラクターの楽器は、のちに消えてゆく運命にあるわけですね。

 しかし、考えてみると、そのまたのちに、グルっと一周回ってシンセサイザーが生まれ、ワルター・カーロスがああいうレコードを出した。たしかにあの演奏もかなり「不均等」「不均質」でした。

 それはもしかすると最先端ではなく、先祖返りだったのかもしれませんね。

 今日もシルク絃に関わる会合がありました。めちゃくちゃ「だし」の効いた音を出しましたよ。最高に気持ち良かった。

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2021.04.17

ピアノのピアノ

Th_img_7670 なタイトルですね。でも、とっても大切な話です。

 今日はある友人の紹介で、ヴァイオリニストの志村寿一さんと飲みながら大いに盛り上がりました。

 倍音にこだわりを持つ志村さんには、いきなり私の持参したシルク絃ヴァイオリンを弾いていただきました。そして、そこから酔っぱらいながらも非常に重要な楽器の、音楽の話をしました。

 その中で「ピアノ」の話が出たんですよね。そう、なぜあの楽器が「ピアノ」なのかという話。なぜ「弱音」という名前が与えられたのか。

 というわけで、今日はこの演奏を聴いていただきましょう。バッハの「音楽の捧げもの」から3声のリチェルカーレ。

 この曲はプロイセンのフリードリヒ大王に捧げられたもの。そして、ちょうどその頃フリードリヒ大王はジルバーマンのピアノを購入したばかり。

 それまで主流だったチェンバロに比べ、より小さい音、弱い音、すなわち「ピアノ」を出すことができるという意味で、フォルテピアノと呼ばれたのが、この楽器でした。

 

 

 バッハもこの「ピアノ」を演奏し、大いに気に入ったようです。すなわちバッハの愛したクラヴィコード並みに繊細な発音ができると感じたからです。

 この最初期の「ピアノ」、お聴きになってわかるとおり、高音部はまるでチェンバロのような音がします。そういう意味では「不均等」な楽器です。調律ももちろん平均律ではありませんから、まさに「ゆがんだ真珠」(バロック)の時代を引きずっていますね。

 その後、西洋楽器は工業化、すなわち均質化し、また「雑味」のない音の方向に進化(退化)していってしまいました。

 ヴァイオリンで言うなら、シルク絃からガット絃へ、そしてスチール絃へという進化(退化)です。

 そんなわけで、変わり者の私(や志村さん)は、忘れ去られた原点、シルク絃へ回帰しようというのです。ヴァイオリンも弱音と雑味(出汁)の楽器なのです!

 そしてそれが人間の大脳を変える…本気でそんなことを考えています。

 

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2021.04.16

Keith Jarrett 『All The Things You Are』(楽譜付き)

 

 日「鬼」(モノ)の話をしました。これもまさに「モノ」ですよ。どうなっているのか全くわからない世界。

 キース・ジャレットのインプロヴィゼーション(即興演奏)の世界、こうして音になり、そして楽譜にしてくれて目に見えるようにしてくれているわけですが、それで「分かる」すなわち「コト」になるかというと逆でして、余計にわからなくなる。信じられなくなる。

 こういうインプロヴィゼーションというのは、もちろん過去の「コト」(記憶)の蓄積でもあるわけですが、そこからこうして生命ように、今までなかった世界が生れるわけですから、まさに「生きモノ」です。

 本当にキース・ジャレットの演奏を聴く(感じる)と、人間ってすごいなあ、神に限りなく近づける存在なんだなあと思います。

 ブートレグなので、この演奏、初めて聴きました。トリオでのこの曲の名演は多数ありますが、このソロ・パフォーマンスもまた格別に素晴らしいですね。

 「ケルン・コンサート」もそうですが、いくら精確にトランスクリプションしても、そしてそれを精確に演奏しても、インプロヴィゼーションの生命力は生まれないんですよね。それこそコトとモノの違いです。

 古い日本語では、音楽のことを「もののね」と呼びました。おそらくほとんどが即興演奏だったのでしょう。

 そう考えると、即興を認めない楽譜(コト)の再生という構造を造った、西洋近代音楽の演奏の方がずっと難しいとも言えます。なにしろ、既存の曲(コト)を、今まさに生まれたかのごとく(モノのように)演奏しなければならないからです。

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2021.04.15

「鬼-人はなぜ鬼になるのか?〜日本人の闇・1500年物語〜」 (NHK BS ダークサイド・ミステリー)

Th_-20210417-72300 「」の時代の再来ですね。

 この番組は個人的にも大変面白かった。私の「モノ・コト論」を間接的に説明してくれていましたね。

 そう、「目に見えないモノ」「コントロールできないモノ」を古い日本語では「もの」と言ったのです。

 かつては「もの」という和語に、「鬼」「霊」「神」という漢字を当てていました。

 その反対が「コト」なのです。単純な話なんですよ。モノはあっち側、コトはこっち側。

 番組では説明されていませんでしたが、「おに」の語源は漢語の「隠(おぬ・おん)」だと言われています。まさに「隠れて見えない」ということですね。

 コロナはそういう意味で「おに」なわけで、だから今「鬼ブーム」「鬼退治ブーム」なのです。

 ただ、日本ではそういうモノ的な存在を単純に敵視することはなく、「慰め」の気持ちをもって接してきました。能(や本来の相撲)はそういう機能の形式化、芸術化したものですね。だから御神事なわけです。

 それにしても、この番組中、何度「もの」という言葉が出てきたことか。それらはすべて「何か」に置き換えられると思いながら鑑賞しておりました。20日のお昼11時45分から再放送がありますから、未見の方はぜひ御覧ください。

 そうそう、ポケモンの話も出てきましたが、「モンスター」の「モン」と「もの」はなんと同源なんですよ。ちなみにお金の「マネー」もです。

 

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2021.04.14

タモリ vs マイルス・デイヴィス

 

 日は、昭和の名勝負、麒麟児 vs 富士桜を紹介しました。両者の実力が拮抗した名勝負でしたよね。

 今日は、ちょっと違った意味での名勝負、圧倒的な実力差(?)の対戦を御覧いただきましょう。

 タモリさんと、かのマイルス・デイヴィスさんとの対談です。

 う〜ん、これって、それこそ天覧試合の解説をすることになった元双葉山のような状況ですかね。タモリさん。いや、違うか(笑)。

 とにかく、神として遠く崇め奉っていた方とお会いして、こうして会話できてしまったのですから、まあそれは緊張するでしょう。

 対談においては横綱級のタモリさんが、ガチガチになって、手のひらの上で遊ばれている。これはこれで珍しい対戦です。

 それにしても、神のジョーク攻撃の破壊力すごいですね。

 後日譚も含めて、次の動画も興味深いのでぜひ。

 

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2021.04.13

追悼 麒麟児関

 

 関脇麒麟児の垂澤和春さんが67歳という若さでお亡くなりになったとのこと。

 麒麟児関といえば、やはり心に残っているのは、昭和50年夏場所の中日の天覧相撲ですね。伝説の富士桜戦。

 両者の素晴らしい回転のつっぱり合いに、私と同様、先帝陛下も身を乗り出して興奮されていました。

 当時は横綱北の湖や大関貴ノ花らが人気で、小学生の間でも大の相撲ブーム。私も小学校の砂場で毎日相撲取っていました。

 友人の中にも、つっぱりを得意としているやつがいて、そいつとの取り組みでは私もムキになってつっぱりました。それが次第に本気になってきて、しまいには取っ組み合いのケンカになり、土俵がプロレスのリングに変わってしまうなんてこともありましたっけ(笑)。

 今、こういう相撲ないですよね。水入りもほとんど見ないし。スタイルが変わったというより、まあいろいろ八百長問題等があって、いわゆる興行的な部分…それは天皇陛下をも喜ばせる神事でもあるのですが…がなくなってしまったということでしょうかね。残念です。

 それにしてもこの一番、本当に久しぶりに観ましたが、立ち合いからしてすごいですね。そして二人の息遣い。最後の麒麟児の上手投げのタイミングも見事ですし、単なるつっぱり合いとしてだけではなく、見るべきところがたくさんあります。古き良き時代かあ。

 余談になりますが、富士桜関は山梨出身です。当時の私は東京に住んでいましたが、まさか未来に山梨県人になろうとは思いませんでした。そして、住んでいるところは「富士桜高原」ですからね。不思議な感じがします。

 ということで、様々な感慨とともに、麒麟児関のご冥福をお祈り申し上げます。

 

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2021.04.12

Keith Jarrett Trio 『I Fall In Love Too Easily』

 年亡くなってしまった偉人の一人が、ベーシストのゲイリー・ピーコックさん。

 キース・ジャレットのトリオのベーシストとして、私も何度も生で彼の演奏を聴きました。

 最後は、8年前の東京公演。その時、すでにゲイリーの衰えは隠すべくもありませんでしたが、このトリオならではの理屈ではないシンクロニシティには感動しました。

恐るべきシンクロニシティの群れ〜キース・ジャレット・トリオ

 そんな彼らの油が乗り切っていたころの名演を一つ。東京での「I Fall In Love Too Easily」です。このベース・ソロも実に内省的で美しい。

 

 

 そして、そのソロに刺激を受けたかのような、キースのアウトロの美しさは絶品です。私は、バロック的なキースのインプロヴィゼーション、大好きです。

 その部分の楽譜つきの動画がありましたので、あらためてどうぞ。バッハもこんな感じで即興演奏したのでしょうね。

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2021.04.11

コント 『従軍看護婦』〜由紀さおり 『空の神兵』

 

 日紹介の大林監督の遺作でも、多くの「軍歌」が流れておりました。今ではテレビで流れることはほとんどなくなった軍歌。

 私が子供のころは比較的身近な存在であり、実際私も軍歌が好きで歌本も持っておりました。

 ドリフターズも軍歌のレコードを出したりしていましたし、コントでも兵隊ものは人気がありましたよね。

 やっぱり反戦、厭戦とノスタルジーの矛盾の空気が漂っていたんですね。それをコントなどの笑いに変えたり、高校野球甲子園のようにスポーツに見せかけたりして、なんとなく昇華していたのでしょう。

 で、今日はそんな文化の一つドリフのコントの紹介です。とはいえ、ドリフの兵隊さんものではなく、女性ゲストによるショート・コントです。

 まあ観て、聴いてみてください。コントを超えたコント。軍歌の名曲をこれほどじっくり聴かせるとは。特に由紀さおりさんの「空の神兵」。素晴らしいですね。

 「空の神兵」は、軍歌の中でも特に明るく華やかな歌で、今でも陸上自衛隊の第1空挺団のテーマソングになっており、富士山でもよく鳴り響いております。

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2021.04.10

『海辺の映画館 キネマの玉手箱』 大林宣彦監督作品

Th_movieposter_ja 日は4月10日。昨年の今日、大林宣彦監督が亡くなりました。

 今日鑑賞したのは、監督の遺作です。

 これはすごい映画ですね。いよいよ映画の域を超えたかもしません。

 夢のごとき時空を行き来する急展開と矛盾。それがいつの間にかリアルに感じられるようになるから面白い。

 正直、死の直前の走馬灯ってこんな感じなのでは、と思ってしまいました。いや、きっとそうなのだろう。

 ウソから出たマコト…映画の域を超えたと書きましたが、映画の機能を考えると、これこそが映画なのかもしれません。

 悲劇が喜劇に、喜劇が悲劇に。戦争が平和に、平和が戦争に。ウソがマコトに、マコトがウソに。

 大林監督が戦争にこだわるのは、単純に「反戦」が目的ではないでしょう。

 変な言い方ですが、好きでないとここまでここまでこだわれないですよ。そこもある意味矛盾なのでしょう。

 なんか最後は、寺山修司の実験映画を観ているような気がしてきました。そう、戦争自体が壮大なる実験なのでしょう。

 実験映画の名作を遺して大林監督はあちらの世界に旅立ったのでした。おそらく向こうから見ると、私たちのこの実生活こそハチャメチャな悲喜劇に見えるのでしょう。

 

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2021.04.09

冬木透(蒔田尚昊)『君が代 パラフレーズ』

 

 日のバッハからの「君が代」です。

 というか、ここ一連の記事の流れです。ウルトラセブンの劇中曲を担当した冬木透さん。

 やはり、昨日紹介したあのセブンの十字架のシーン、冬木さん自身やはりパイプオルガンでキリスト教的音楽をつけたかったのだそうです。

 冬木さんはクリスチャンでして、実際優れた宗教曲も多数作曲されています。

 そんなクラシック音楽(と言っていいのか?)作曲家としての冬木さんは、本名の蒔田尚昊(まいたしょうこう)名義での活動が多いのですが、最近は冬木透名義でも素晴らしい作品を発表しています。

 今日はそのうちの一つ、2007年に作曲された「ピアノのための君が代パラフレーズ」を紹介します。

 お聞きのとおり、国家「君が代」をテーマにした自由な変奏曲というか、パラフレーズ(言い換え)ですね。素敵な曲です。君が代もこうして聴くと悪くないな(笑)。

 君が代といえば、今となってはなんだか変な懐かしさがありますが、2016年リオ五輪の閉会式でのあの君が代。三宅純さんアレンジの、あのブルガリアン・ヴォイス風のあれですね。あの頃は東京オリンピック、本当に楽しみだったのですが…。

 その三宅さんのヴァージョン、ピアノ用の楽譜もあるようです。

 

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2021.04.08

バッハ 『復活祭オラトリオ BWV 249』

Th_49d6a7e0853df326dcca916279e3b4ef 日はお釈迦様のお生れになった日。降誕会。花まつり。降誕は「こうたん」ではなく「ごうたん」と読みます。

 ちょうどこの頃、キリスト教でもお祝いがあります。イースターですね。復活祭。

 そういえば、ウルトラセブンは人類のために犠牲となり昇天しました。十字架にも架けられましたし、キリスト的ですよね。

 ところで、昨年の4月5日に、こんな記事を書いておりました。

コラール「おお人よ、 汝の罪の大いなるを嘆け」(バッハの編曲いろいろと)

 昨年の今頃、まさに世界は未曾有の「受難」に見舞われはじめていたのでした。記事にもあるように、その時は「復活」を祈りましたが、あまり状況は変わっておらず、世界は「受難節」が続いているようです。

 今年の復活祭は4月4日でした。コロナ禍は続いており、世界の真の復活、再生はまだ先のようですね。

 今日は真の「復活」を祈りまして、バッハの隠れた名曲「復活祭オラトリオ」を紹介します。

 オラトリオというとバッハでは「クリスマス・オラトリオ」が有名ですが、こちらのイースター・オラトリオもなかなかの名曲です。私はけっこう好きです。

 

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2021.04.07

交響詩「ウルトラセブン」より「第3楽章 ウルトラホーク発進」 / 冬木透

 

 たこのネタでスミマセン。半世紀経って改めてこの番組の影響の大きさを痛感しております。

 音楽面でも大きな影響を受け、今に至っていますね。冬木透さん。彼の音楽については、2月にこちらで少し書きました。

 私が初めて聴いた「大人の音楽」がウルトラセブンの劇中曲でした。今聴いてもとんでもないクオリティです。

 ウルトラセブンが未だに高く評価されているのは、言うまでもなく、子供向け番組でありながら、大人が手抜きせず「未来の大人」のために仕事をしているからです。

 音楽もそう。全く子供に媚びることなく、思いっきり高品質な音楽をぶつけてきました。そういう空気だったんでしょうね、制作現場が。

 ここで紹介した「ウルトラホーク発進」の音楽。このイントロ、テーマ、そして展開部と再現部、全てがまさにドラマチック。ドラマの典型という意味でも、子供はもちろん、大人も魅了されてしかるべき内容でした。

 特にこのイントロ。子供当時の私も異常なほどに好きすぎまして、しょっちゅう口ずさんでました(笑)。いやあ、いいイントロですよね。完璧。

 今さらながらではありますが、冬木透さん、いや蒔田尚昊さんの偉業を知っていただきたく紹介させていただきました。蒔田さんも満州生まれなんですよね。満州生まれの偉大な芸能関係者多すぎ。

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2021.04.06

ウルトラセブン 第38話 『勇気ある戦い』

 

 日の岩井俊二監督の映画からのウルトラセブンです。当然の流れですね(笑)。

 今、円谷プロの公式チャンネルでセブンの第38話が観られるんですよ。昨日の映画の主演でもあった斎藤工さんが変身するシン・ウルトラマンへの流れですね。

 この「勇気ある戦い」、佐々木守脚本、飯島敏宏監督回です。たった24分弱の中で、これだけの要素を盛り込むわけですから、すごいですよね。

 当時の社会問題を含みつつ、宇宙人とセブンの戦いのみならず、人間ドラマ、ヒューマニズムも盛り込むというのが、セブンの特長でしょう。「葛藤」というのが必ず入りますよね。

 こういうところから、無意識の中で学んだことが、今の私の人生を作り上げています。

 昨日の映画でも音楽を担当していた冬木透さんの曲がいいですねえ。途中、最終回につながっていくクラシック音楽(だれの曲かな?)も挿入されています。

 エンディングではダンとアンヌの関係性もさりげなく描かれていますね。

 クレージーゴンの造型や、ミニチュア、そして光学合成も充実しており、たしかにこうして代表作として公開しても恥ずかしくない作品に仕上がっています。

 さて、シン・ウルトラマンはどういう作品になっているのでしょうか。このウルトラセブンのように、半世紀を超えてもいろいろな世代に共有されるような作品がどんどん生れてほしいですね(ウチの娘たちもウルトラセブンマニアですし、幼稚園の園児たちにもいまだにマニアが多いのでした)。

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2021.04.05

『8日で死んだ怪獣の12日の物語』 岩井俊二監督作品

Th_unknown_20210406202801 4月からNHKのBSでウルトラセブンの放映が始まりました。

 こちらに書いたとおり、私の人生はウルトラセブンで始まり、今でもそれが続いています。

 すごい展開の早い、詰め込み感満載の第1回を観まして、あらためてカプセル怪獣(ここではウィンダム)って弱いよなと思っていたところに、実にタイムリーにこの映画を観る機会がありました。

 かなり面白かったですよ。コロナならではの作品。コロナのおかげで映画の方程式も崩れましたよね。崩れて、また新しい方程式が発見される予感がありました。

 岩井俊二監督らしい作品とも言えますよね。同世代としての共感もあり、そしてそれを超える現代性というか未来性というものが提示されて、かなり刺激を受けました。

 ウルトラセブン世代だからこそ楽しめる部分もありつつ、カプセル怪獣を知らなくても充分に見入ってしまう内容だと思います。いや、ウルトラセブンやカプセル怪獣の存在に普遍性があるのかもしれません。

 たしかにコロナは現代の怪獣みたいなものですよね。ゴジラが戦争や核兵器の象徴だとすれば、これから何年かのちに、コロナをモチーフとした怪獣が登場するのでしょうか。

 実際、ウイルスは宇宙からの訪問者、あるいは宇宙人による兵器だという説もありますし。

 個人的には、のんさんがやっぱり宇宙人だなと感じました(笑)。

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2021.04.04

島津亜矢 『SINGER7』より「全力少年」

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 が家で尊敬されている歌手は、美空ひばり、島津亜矢、松浦亜弥、初音ミクです(笑)。

 なぜかといえば、どんな歌でもしっかり自分のものとして歌える人たちだからです。

 特にいい年してまだ歌手になることを諦めない(?)ウチのカミさんは、この人たちをどうもライバルだと思っているらしい(笑)。

 というわけで、そのライバルの中でもかなり強力なのが、この島津亜矢さん。

 先月末に出た「Singer7」もすごい!本当に感動しました。

 どの曲も素晴らしいのですが、ちょっとこれ聴いてみていください。私も大好きなスキマスイッチの「全力少年」です。

 カミさん曰く、この曲、いろいろな意味で難しいそうですが、実にうまい。うますぎる…という難しさもありますが(苦笑)。

 

 先程挙げたライバルたち、みんな何がうまいかというと、音程が正確だというのはもちろん、大きな単位でのリズム感の良さですね(初音ミクはちょっと違うけど)。

 島津亜矢さん、えらいなあ。この一連のカバーアルバム、選曲はスタッフにまかせているそうです。自分が歌いたい歌ではなく、島津亜矢に歌ってほしい歌を歌っていると。だから、知らない曲もあるのだそうです。

 このアルバムの最後の、King Gnuの「白日」もなんだかすごいことになってますね。オリジナルとはまた違ったこの曲の良さ、深さ、歌曲としての質の高さがわかりました。そうそう常田くんって東京芸大のチェロ科だったんですね。たしかにクラシックの要素満載です。納得。

 この曲なんか、美空ひばりもめちゃくちゃうまく歌いそうだな。

 

 

Amazon SINGER7

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2021.04.03

和歌の予言力

 日は次女の引っ越しで東京は上野へ。寛永寺のすぐ南にアパートを借りることになりまして、その素晴らしい環境にただただ羨ましくてしかたないワタクシでありました(笑)。

 さて、本当にまさかの上野住まいになった次女、そしてまさかの出戻り(?)で今年度も富士山麓の自宅でリモート大学生をやることになった長女。

 さらに私もまさかの…そう、いろいろと変化がありました。変わらないのはカミさんだけですな。まさに相変わらずです(笑)。

 で、いろいろと予想外なことが多い最近の我が家ですが、昨年の年賀状になんとなくその予兆というか、予言めいたことが書いてあることに気づきました。

 あの時は、本当に時間がなかったので、テキトーに30分くらいで四首の和歌を作って年賀状にしてしまったのですが、そういうテキトーなというか、火事場のクソ力的な創造力って、多分に他者性が強く、その結果期せずして予言的になることがあるんですよね。なにしろ過去の記憶とかによらないので。

 ちょっと他人事のように読み直してみましょうか。

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 私(隆之法師)の歌。これは実は八雲琴のことを詠んだものなのですが、実はここのところ、その糸、絹絃に関するちょっとした(大それた)企画に携わっていまして、これがとっても面白いことになりそうなのです。まさに富士山にて天地(世界)を揺るがす画期的な動きをあるかもしれません。乞うご期待。

 家内(珍彦母陽子)はいつも通りなので、まあいいや(笑)。相変わらず歌を歌っています。

 長女(紗季内侍)は、武蔵野の大学の寮を出ることになったのは大当たりです。その後、どういうわけか、インターネットという大海において音声配信などやるようになりまして、人々と交流するようになりました。大当たりですな。

 そして、次女(琴少納言)。「忍の岡」すなわち「忍ヶ岡」は上野の旧地名。この歌では辛いことを我慢する意味を掛けています。まさに伝統芸能の継承を志して上野に行くことになりましたから、これは的中も的中。おそろしや、和歌の力、言霊の力。

 最近、短歌を作っていないので、久しぶりに頑張ってみます。作るというより降ろせるようにしなくちゃ。

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2021.04.02

南海トラフ地震や首都直下地震、富士山噴火。天災リスクのリアル

 

 このところ、富士山ラドン濃度が乱高下しております。10年の経験上、このような時は比較的近場の地下で何か動きがある可能性があります。

 富士山本体の火山活動ですともっと高い数値になると思いますので、どこかの地震活動の予兆かもしれません。

 先日、駿河湾震源の地震があり、当地もドンと揺れました。もう半世紀近く言われている東海大地震も含んだ東南海地震の発生も、いよいよ秒読みになってきたと感じます。

 まあ、富士山噴火にせよ、東南海・南海地震にせよ、首都圏直下地震にせよ、私が生きているうちに起きる可能性は(自分が明日にでも死なないかぎり)100%に近い。

 これほど確度の高い未来の事象なのですから、当然その準備をすべきです。たとえば、今乗っている車が数分後に事故を起こすことがわかっていたら、みなシートベルトをしますよね。

 それなのに、自然災害に関しては、なぜか私たち人間はある種の諦めというか、みんなで見て見ぬふりをするというか。

 そんなことをこの番組では厳しく指摘してくれています。多少脱線しているところもありますが、そこも含めて日本人の問題点が浮かび上がっていますね。

 自然の脅威に関してある種の諦めを持つことは、昨日の内田さんや先日の鈴木大明神が語っているように、一方では美徳になりうると思いますが、それが行き過ぎると弱点に転じます。

 この対談の中でもどなたかが言っているように、私たちの生活がテクノロジーによって「平時」は非常に便利で、快適で、不安が少なくなっています。では、「非常時」はどうでしょうか。平和ボケではありませんが、どうにも私たちは意図的に忘れようとしているようです。

 10年前の、あの大災害でさえ、すっかり過去のこと、他人事になってしまっていないでしょうか。

 天災は忘れた頃にやってくる。その「忘れた」は、記憶が薄れるという意味ではなく、見て見ぬふりをするようになったという意味なのです。

 最後に、私は鎌田浩毅さんのファンです(笑)。以前紹介したこの本おススメですよ。

 地学ノススメ

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2021.04.01

『日本習合論』 内田樹 (ミシマ社)

Th_41rifxmlql の本のクライマックスに登場する、次の一節こそ、この本で内田さんがおっしゃりたかった「可能性」でしょう。

 「氷炭相容れず」というほどに隔たったものを「水波の隔て」に過ぎないと見立てること、遠いものを近づけ、異質なもののうちの共生可能性を見出すこと、僕はそれが「できる」というところに日本人の可能性があると思っています。

 先日の鈴木孝夫先生の「日本の感性が世界を変える」に深くつながる本。そして、三島由紀夫と東大全共闘の話もでてきます。

 内田先生のいう「習合」「雑種」「ハイブリッド」等は、ワタクシのモノ・コト論ではもちろん「モノ」に属し、作られた「純粋」や「純血」は「コト」に属しますね。

 「これからはコトよりモノの時代」という、一般論とは一見逆に感じられる私のスローガンも、こうして解釈すれば多少は理解されることでしょう。

 私の言説は内田先生に比べるとかなり乱暴で粗悪ですが、言いたいことは完全に一致していると感じました。私は日本語のモノ、コト、トキを通して、いつか日本論、日本人論、日本文化論を書いてみたいと思います。

 「モノ」という言葉が持つそうした深い性質、論理では説明できない性質は、「物語」「物の怪」「物寂しさ」「もののあはれ」さらには「〜なんだもん(の)」に至るまで、私たちのよく知る日本語に生きています。

 さらに言えば、物部氏が信仰した「大物主」にも、そしてその神が象徴する「和魂(にぎみたま)」ともつながってきます。また、その物部氏を倒してしまった聖徳太子が憲法の第一条に置かざるを得なかった「和」に、そのエッセンスが凝縮しているとも言えます。そして、それが「習合」の起点とも言える。

 この本を読みながら、私自身がずっと考えてきた、いや感じてきた何か(=モノ)がはっきりとコト化されたような気がしました。おそらくはそれこそが内田さんの「物語」そのものの機能であるのでしょう。

 実に楽しかった。私もぜひ「頭がでかい」人間になりいモノです(このモノも他者性を表していますね)。

Amazon 日本集合論

 

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