善悪不二・正邪一如 (出口王仁三郎)
昨日の「ジョーカー」にも書きましたが、何が善で何が悪かという問いに答えはありません。
全ての争いごとにおいて、こちらの善はあちらの悪です。また、あの時の善が今の悪であったりするのも歴史の必然。正邪もまた同じ。
それを悟ることが宗教や哲学の目的であるはずなのですが、それまた逆転してしまって、自らを正善、他者を邪悪と決めつけることに終始してしまっている。
そのような誤りを正すために、近代に現れた聖者である出口王仁三郎が、こんな文章を残しています。
「霊界物語」の第一巻第二篇第十二章「顕幽一致」からの抜粋です。
実はこの文章を含む、霊界物語の冒頭部分は、第一次大本事件の直前に書かれた「回顧録」をそのまま使用する予定だったのですが、当時の幹部たちのご都合(善悪正邪判断)によって削除、あるいは改竄されてしまったいわくつきのものです。
もう21世紀になって久しいわけですから、そのような当時の(今でも続いている)善悪、正邪を乗り越えるためにも、しっかり読んでおきたいですね。
今日はあえて「回顧録」に従って引用しておきます。当時の時勢から「霊界物語」では削除された部分もあります。
(「回顧録」第十二章より抜粋)
凡て宇宙の一切は、顕幽一致、善悪一如にして、絶対の善も絶対の悪も無い。従って又、絶対の極楽も無ければ、絶対の苦艱も無いと謂って良いのである。歓楽の内に艱苦があり、艱苦の内に歓楽の在るものである。故に根の国、底の国に堕ちて、無限の苦悩を受けるのは、要するに、自己の身魂より、産出したる報いである。亦顕界の者の霊魂が、常に霊界に通じ、霊界からは、常に顕界と交通を保ち、幾百千万年と雖も、易ることは無いのである。『神諭』に示されたる如く、天国も地獄も皆自己の身魂より顕出するのである。故に世の中には、悲観を離れた楽観は無く、罪悪と別立したる、真善美も無いのである。苦痛を除いては、真の快楽は求めらるゝものでない。又凡夫の他に、神はない。言を換えて曰ば、善悪不二にして、正邪一如である。佛典に曰う「煩悩即菩提。生死即涅槃。娑婆即浄土。佛凡本来不二」である。神の道から謂えば「神俗本来不二」が真理である。
佛の大慈悲と云うも、神の道の恵み幸わいと云うも、凡夫の欲望と云うのも、其の本質に於ては、大した変りは無いのである。凡俗の持てる性質その儘が、神であると謂って良い。神の持って居らるゝ性質の全体が、皆悉く凡俗に備わって居ると謂って良いのである。
天国浄土と、社会娑婆とは、其の本質に於て、毫末の差異も無いのである。斯の如く本質に於ては、全然同一のものでありながら、何故に神俗、浄穢、正邪、善悪が分るゝので在ろうか。要するに此の本然の性質を、充分に発揮して、適当なる活動をすると、せぬとの程度に対して、附したる仮定的の、符号に過ぎないのである。
善悪と謂うものは、決して一定不変のものでは無く、時と処と位置とに因て、善も悪と成り、悪も善と成る事がある。人を殺すのは悪に相違ないが、一朝宣戦の詔勅が降って、勇士が戦場に出て敵を殺傷しても、是を以て大悪と云う事は出来ない。寧ろ軍功者として賞賛されるようなものである。
(後略)
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