紅葉の美しい、かつ静かな京都という贅沢を堪能しております(仕事です)。
夜、宿につきましてから、知人に会いに寺町に行きまして、その足で本能寺に立ち寄りました。
今、「麒麟が来る」で注目の明智光秀。かつては大逆賊のように言われていましたが、今や大河ドラマによって復権の時を迎えているようです。
さて、それこそ最も「逆賊」風のきつかった時代に、明智光秀は実は智将であったと力説した偉人(変人)がいました。
当時荒れ果てていた光秀の居城亀山城址を買収して大本の聖地に整備した出口王仁三郎です。
彼の「水鏡」に非常に興味深い記述があります。(以下引用)
千の利休と云ふ人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦に脆くも敗れて、遂に名もなき一土兵の為めに竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝へられてあるがあれは嘘である。天王山の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知してをつたが、光秀は将士の度々の迎へをうけながら、態とグズグズして居て、遂に勝を秀吉に譲つたのである。実は疾くに光秀と秀吉との間には妥協が成立して居たのである。聡明なる光秀は、たとへ如何なる事情があつたにもせよ、いつたん主殺の汚名を着たものが、天下の将軍となつても永続きがせぬと云ふ事をよく承知して居て秀吉に勝を譲つたのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあつて、天下の大事を論じ、謀を廻らして秀吉を太閤の地位迄押しのぼして仕舞つたのである。彼は実に秀吉の好参謀であつたのである。朝鮮征伐なども、彼の献策に出たものである。茶室に這入るには丸腰となつてにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、もつて来いの場所方法であつた。第一秘密を保つに絶好であつた。後彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝へられて居るが、全く跡形もない事である。英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分らぬ。
筆者がこのお話を伺つて、或時の事二三の方々にお話して居りました、偶座に岡山の太田栄子夫人が居られて、この話を裏書する面白い物語をせられましたので、左に御紹介致します。
太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」と云ふ事を承はつて、それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたさうです。さうすると名倉氏はそれを又家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました、すると円能斎氏の顔色がサツと変つて暫くは物も云はれなかつたさうですが、太い吐息と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分つたのですか」と云ふ事であつたと云ふ事です。そして、更に語をついで、「その事こそ、千家に伝はる、一子相伝の大秘密であつて、後を嗣ぐ長男のみが知つて、次から次へと言ひつたへ語りつぎて、世に知るものが絶えて無い筈です。どうしてそれが分つたのでせう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によつて分つたのです。丹波の国綾部町に、大神通力を供へた聖者がありましてその人の霊覚によつて、其秘事が分つて来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎氏はいたく驚き且感じ入り、遂に執事を派して綾部に参拝せしめ、次で自らも亦参拝せられたさうですが、深くこの事を秘して人に語らなかつた。名倉氏も又秘して仕舞つたのですが、不思議な事には三人が三人共、相前後して同じ心臓病の為め倒れて仕舞つたさうです。
太田夫人は「これは秘してはならぬと思ひ、皆さんにお話して居ります」と語られました。一座のものは是を聞いて、今更の如く驚き、聖師様の称へ盡せぬ御霊覚の程を感じ入りました。そして聖師様がもし、此霊覚によつて訂正さるるならば、世界の歴史も随分変つて来るかも知れないと思ひました。
(引用終了)
一見荒唐無稽な、いかにも王仁三郎らしい大風呂敷だと感じますよね。しかし、後半の弟子(信者)の話が面白い。この裏千家13代家元円能斎のエピソードについては14代も15代も、そしておそらく16代も実は知っています(…と言ってしまっていいのか)。
水鏡にあるように、円能斎は王仁三郎と懇意にしていました。今でも裏千家と大本との間には深いつながりがあります。実際裏千家は王仁三郎の耀わんを所持していますし。
ちなみにこの「水鏡」が書かれたは昭和3年。その年のちょうど今日(!)11月10日、昭和天皇は京都御所で即位礼を行いました。そのすぐ近くに本能寺はあります。
昭和3年は、王仁三郎にとって特別な年でした。彼は56歳7ヶ月の3月にみろく大祭を行い、全国巡幸に出ます。昭和天皇の即位礼、大嘗祭に重ねるがごとく。
ついでにどうでもいい話ですが、私、来年の3月に56歳7ヶ月を迎えます(笑)。
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