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2020.11.10

明智光秀=千利休!?

Th_img_7037 葉の美しい、かつ静かな京都という贅沢を堪能しております(仕事です)。

 夜、宿につきましてから、知人に会いに寺町に行きまして、その足で本能寺に立ち寄りました。

 今、「麒麟が来る」で注目の明智光秀。かつては大逆賊のように言われていましたが、今や大河ドラマによって復権の時を迎えているようです。

 さて、それこそ最も「逆賊」風のきつかった時代に、明智光秀は実は智将であったと力説した偉人(変人)がいました。

 当時荒れ果てていた光秀の居城亀山城址を買収して大本の聖地に整備した出口王仁三郎です。

 彼の「水鏡」に非常に興味深い記述があります。(以下引用)

 (せん)利休(りきう)()(ひと)は、明智(あけち)光秀(みつひで)()れの()てである。明智(あけち)光秀(みつひで)山崎(やまざき)一戦(いつせん)(もろ)くも(やぶ)れて、(つひ)()もなき一土兵(いちどへい)()めに竹槍(たけやり)にてつき(ころ)されたと、歴史(れきし)(つた)へられてあるがあれは(うそ)である。天王山(てんのうざん)一戦(いつせん)勝敗(しようはい)(けつ)することは、(はじ)めからよく承知(しようち)してをつたが、光秀(みつひで)将士(しやうし)度々(たびたび)(むか)へをうけながら、(わざ)とグズグズして()て、(つひ)(かち)秀吉(ひでよし)(ゆづ)つたのである。(じつ)()くに光秀(みつひで)秀吉(ひでよし)との(あひだ)には妥協(だけふ)成立(せいりつ)して()たのである。聡明(そうめい)なる光秀(みつひで)は、たとへ如何(いか)なる事情(じじやう)があつたにもせよ、いつたん(しゆ)(ごろし)汚名(をめい)()たものが、天下(てんか)将軍(しやうぐん)となつても永続(ながつづ)きがせぬと()(こと)をよく承知(しようち)して()秀吉(ひでよし)(かち)(ゆづ)つたのである。そして(かれ)(あたま)(まる)めてお(ちや)坊主(ばうず)となり、(はぎ)枝折戸(しをりど)四畳半(よでふはん)(なか)にあつて、天下(てんか)大事(だいじ)(ろん)じ、(はかりごと)(めぐ)らして秀吉(ひでよし)太閤(たいこう)地位(ちゐ)(まで)()しのぼして仕舞(しま)つたのである。(かれ)(じつ)秀吉(ひでよし)好参謀(かうさんぼう)であつたのである。朝鮮(てうせん)征伐(せいばつ)なども、(かれ)献策(けんさく)()たものである。茶室(ちやしつ)這入(はい)るには丸腰(まるごし)となつてにじり(ぐち)より()らねばならぬ。元亀(げんき)天正(てんしやう)時代(じだい)荒武者(あらむしや)制御(せいぎよ)操縦(さうじう)するに、もつて()いの場所(ばしよ)方法(はうはふ)であつた。第一(だいいち)秘密(ひみつ)(たも)つに絶好(ぜつかう)であつた。(のち)(かれ)(むすめ)美貌(びぼう)(わざはい)(いん)をなして自殺(じさつ)余儀(よぎ)なくせしめられたと、()(つた)へられて()るが、(まつた)跡形(あとかた)もない(こと)である。英雄(えいゆう)英雄(えいゆう)()諸般(しよはん)機微(きび)消息(せうそく)俗人(ぞくじん)には(わか)らぬ。
 筆者(ひつしや)がこのお(はなし)(うかが)つて、或時(あるとき)(こと)二三(にさん)方々(かたがた)にお(はなし)して()りました、(たまたま)()岡山(おかやま)太田(おほた)栄子(ゑいこ)夫人(ふじん)()られて、この(はなし)裏書(うらがき)する面白(おもしろ)物語(ものがたり)をせられましたので、()御紹介(ごせうかい)(いた)します。
 太田(おほた)夫人(ふじん)は、大正(たいしやう)九年(くねん)(ころ)聖師様(せいしさま)から「(せん)利休(りきう)明智(あけち)光秀(みつひで)である」と()(こと)(うけたま)はつて、それを師匠(ししやう)(お(ちや)先生(せんせい))の名倉(なくら)某氏(ぼうし)(はな)されたさうです。さうすると名倉(なくら)()はそれを(また)家元(いへもと)当時(たうじ)第十三代(だいじふさんだい)円能斎(ゑんのうさい)())に(はな)されました、すると円能斎(ゑんのうさい)()顔色(かほいろ)がサツと(かは)つて(しばら)くは(もの)()はれなかつたさうですが、(ふと)吐息(といき)(とも)(くち)()いて()言葉(ことば)は、「まあどうしてそれが(わか)つたのですか」と()(こと)であつたと()(こと)です。そして、(さら)()をついで、「その(こと)こそ、千家(せんけ)(つた)はる、一子相伝(いつしさうでん)大秘密(だいひみつ)であつて、(あと)()長男(ちやうなん)のみが()つて、(つぎ)から(つぎ)へと()ひつたへ(かた)りつぎて、()()るものが()えて()(はず)です。どうしてそれが(わか)つたのでせう」と()くので、名倉(なくら)()は「霊覚(れいかく)によつて(わか)つたのです。丹波(たんば)(くに)綾部町(あやべちやう)に、大神通力(だいじんつうりき)(そな)へた聖者(せいじや)がありましてその(ひと)霊覚(れいかく)によつて、(その)秘事(ひじ)(わか)つて()たのです」とて、聖師様(せいしさま)(くわん)するお(はなし)をせられました。円能斎(ゑんのうさい)()はいたく(おどろ)(かつ)(かん)()り、(つひ)執事(しつじ)()して綾部(あやべ)参拝(さんぱい)せしめ、(つい)(みづか)らも(また)参拝(さんぱい)せられたさうですが、(ふか)くこの(こと)()して(ひと)(かた)らなかつた。名倉(なくら)()(また)()して仕舞(しま)つたのですが、不思議(ふしぎ)(こと)には三人(さんにん)三人(さんにん)(とも)(あひ)前後(ぜんご)して(おな)心臓病(しんざうびやう)()(たふ)れて仕舞(しま)つたさうです。
 太田(おほた)夫人(ふじん)は「これは()してはならぬと(おも)ひ、(みな)さんにお(はなし)して()ります」と(かた)られました。一座(いちざ)のものは(これ)()いて、今更(いまさら)(ごと)(おどろ)き、聖師様(せいしさま)(たた)(つく)せぬ御霊覚(ごれいかく)(ほど)(かん)()りました。そして聖師様(せいしさま)がもし、(この)霊覚(れいかく)によつて訂正(ていせい)さるるならば、世界(せかい)歴史(れきし)随分(ずいぶん)(かは)つて()るかも()れないと(おも)ひました。
(引用終了)

 一見荒唐無稽な、いかにも王仁三郎らしい大風呂敷だと感じますよね。しかし、後半の弟子(信者)の話が面白い。この裏千家13代家元円能斎のエピソードについては14代も15代も、そしておそらく16代も実は知っています(…と言ってしまっていいのか)。

 水鏡にあるように、円能斎は王仁三郎と懇意にしていました。今でも裏千家と大本との間には深いつながりがあります。実際裏千家は王仁三郎の耀わんを所持していますし。

 ちなみにこの「水鏡」が書かれたは昭和3年。その年のちょうど今日(!)11月10日、昭和天皇は京都御所で即位礼を行いました。そのすぐ近くに本能寺はあります。

 昭和3年は、王仁三郎にとって特別な年でした。彼は56歳7ヶ月の3月にみろく大祭を行い、全国巡幸に出ます。昭和天皇の即位礼、大嘗祭に重ねるがごとく。

 ついでにどうでもいい話ですが、私、来年の3月に56歳7ヶ月を迎えます(笑)。

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