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2020.08.25

寺内克久 『富士山とピアノ即興曲/識と造形〜氷雲の夢』

 

 日はまた素晴らしい出会いがありました。友人とその友人とオンラインでいろいろお話ししました。それが実に素晴らしい波動を伴ったものになりまして、ただただご縁に感謝であります。

 話は多岐にわたったわけですが、基本その中心にあったのは、やはり「富士山」ではなかったでしょうか。

 さて、こちらも素敵なご縁をいただいた「不定調性論」を構築中の音楽家、寺内克久さんの富士山にまつわる作品です。

 こちらのご縁も間に入ってくれた友人がおります。その友人が寺内さんにご自身が日々撮影した富士山の写真を送り(送りつけ?)、それらから得た印象、クオリアを音楽として表現したものです

 寺内さんの解説を読んでみましょう。素敵な文章ですね。解説ではなく随想的な作品です。

 私の言葉で言うなら、「造形」は外部・他者としての「モノ」、「識」は内部・自己としての「コト」ということになるでしょうが、「コトを窮めてモノに至る」という、二つ目の「モノ」すなわち「モノ'」が音楽なのでしょう。

 今日のオンライン問答の中の延長線上にも、そんな世界がありました。今、仲小路彰のある文書を活字化しているのですが、そこには「自己の超越=利他の徹底=自己の完成」という文脈があります。

 寺内さんが、旧来の音楽理論や音楽常識の中で苦しみながら作曲していた時、結局それはありもしない自己を楽譜という「コト」にしなければならなかったのでしょう。

 しかし、そこで悩んだからこそ、その自己(コト)を超越し、モノの世界に身を委ねることができた、そして、結果として「自他不二」の境地に至って、本当の自己が完成した(まだまだとおっしゃるでしょうが、もうその道をしっかり前進しておられると思います)と。

 いずれにせよ、音楽は、そうしてモノとコトのあわいを行ったり来たりできる世界であり、それはほとんど音楽だけに許された次元移動の作法です。クオリアとはその感覚でしょう。

 それが「不二」の写真の上に展開されていることに、私は感動しました。特に、よくある写真集やカレンダーのよそ行きの富士山ではなく、私もよく知っている富士山の、否、一つとして同じ表情のない不二山の姿が音楽になった悦びは、それこそ言葉では表現できません。

 あえて言うなら、ありがとうございます…でしょうか。

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