« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »

2020.08.31

【竹内久美子】皇統とY染色体のヒミツ【WiLL増刊号#244】

 

 日の河野大臣のライブで、大臣が「女系天皇」の可能性について言及していましたね。それについて、私が何も書かなかったので、どうお考えですかというご質問を頂戴しました。

 あの時はあえてそれには触れなかったのですが、今日は竹内久美子さんの説明を援用して、というか、そのまま使って私の考えを表明しておこうと思います。

 どうしても感情論になりがちな問題ですので、こうして科学的に説明していただいた方が良いと思います。

 女系天皇がいかに「やばい」か、「こわい」か、命がけの歴史をないがしろにするものか、よく分かると思います。

 天皇家は男系でなければなりません。女性天皇はありですが、独身を貫かねばならないので、たしかに現代では現実的ではありませんね。

 結局、旧宮家の皇籍復帰という「正常へ戻す」ことが第一ということです。

| | コメント (0)

2020.08.30

『ピクニック』 ジャン・ルノワール監督作品

Th_71cca5cdrml_ac_ul320_ 象派の巨匠ルノワールの次男、ジャン・ルノワールの名作。

 今日、そのジャンに来日を促した川添紫郎の手紙の原稿を目にする機会がありました。

 結局、ジャンの来日は叶いませんでした。しかしジャンは、フランスで川添の妻であるピアニストの原智恵子や画家の藤田嗣治と交流を持ち、日本への興味は尽きなかったようです。

 言うまでもなく、父ルノワールも日本の絵画、特に浮世絵の影響を受けています。特に色彩の面において、それが顕著でした。

 次男のジャンのこの映画はモノクロですが、不思議ときらびやかな色彩を感じさせます。おそらく、父と同様に「光」を重視したからでしょう。結局、白と黒には全ての色が入っているということです。

 これまた言うまでもなく、モノクロの写真や映画、そしてマンガなどが持つ、無限の可能性というものですね。

 そして、この映画のなんとも切ないストーリーも、そしてこの映画自体の数奇な運命も、どこか能のような象徴性、写実ではないリアリズムを感じさせます。

 それこそ「印象」なのでしょう。そう、息子の映画を鑑賞することによって、父の絵画の見方も変わります。絵に命が吹きこまれ、躍動し、時間が流れ出し、ドラマが生れます。

 そして、その数奇な運命の結果でもある唐突な場面転換や時間の経過が、結果としてですが、功を奏しているようです。何かあの時代の残酷さをも象徴しているある種奇跡的な作品と言えるでしょう。

 たった40分あまりの作品です。その中に、あの時代のフランスの光と影が全て表現されていると言っても過言ではありません。

 そんな時代を生き抜き、そんなジャン・ルノワールと交流のあった日本人たちの知られざる人生を発掘することは、私にとっては実に楽しく感動的なことです。まるで、いくつもの優れた作品を鑑賞するがごとくに。

 そうそう、川添の手紙に『ミカド』という言葉が出てきました。ジャン・ルノワールは天皇に興味を持っていたようですね。

ピクニック公式

| | コメント (0)

2020.08.29

G.V.ヴィターリ 『バラバーノ』

Giovanni Battista Vitali Barabano

 

 二次世界大戦に関する新発見史料を読んでおります。

 仲小路彰は「平和のためには戦争を研究しなければならない」とし、戦前には「戦争文化研究所」を創設し、また戦後にも客観的、科学的、総括的、未来的な視点で第二次世界大戦を研究しました。

 そのほんの一部を読んでいるわけですが、なるほど私たちが「学校」で教わってきた、戦争の「一面」だけでは、平和の招来は難しいですね。

 そして、戦争と平和を対義語としている限り、平和と平和が衝突して戦争が起きるという本質をつかめない。

 というわけで(?)、今日はヴィターリのバラバーノという曲を紹介します。

 ヴィターリというと、あの妙ちくりんなシャコンヌが有名ですよね。これは、今日紹介するG.B.ヴィターリの息子、T.A.ヴィターリの作品とされていますが、後世の偽作です。その辺の事情に関しては、こちらが分かりやすいのでどうぞ。

 で、お父さんのヴィターリは、21歳年下のコレッリに多大な影響を与えた作曲家です。その後のヨーロッパ全土におけるコレッリの影響を考えると、バロック音楽の基礎を築いた人とも言えますね。

 さて、そんなお父さんヴィターリは器楽の小品をたくさん書いているのですが、その中でも個性的で魅力的なのが、この「バラバーノ」です。

 「Barabano」とは、エミリア地方のフォーク・ダンスの名前だそうですが、曲調や言葉の響きからすると、バルバロイやバーバリアンに通じる、つまり、「未開」や「野蛮」を表す言葉だったかもしれません。

 当時のヨーロッパは、常にオスマン帝国(トルコ)の脅威にさらされており、彼らの文化や音楽を「野蛮」なものとして感じつつ、どこか屈折した憧憬も伴って受け入れていたようです(トルコ行進曲もその例ですね)。

 まあ、ヨーロッパは何百年も常に戦争状態だったとも言えるわけで、そういう中から、まさに「戦争文化」が育っていったわけですよね。そして、それに付随する形で、音楽や美術や文学や科学も発達したと。

 そんなことを考えながら、ぜひこの「荒魂」音楽をお聴きください。

| | コメント (0)

2020.08.28

安倍総理辞意表明に思う

Th_-20200829-101256 倍総理が辞意を表明しました。まずはお疲れ様と申し上げます。

 このタイミングでの辞任ということについては、当然批判もあるでしょう。

 しかし、政治は「まつりごと」。「今、ここ、自分」だけの価値判断で正しく評価できるものではありません。

 反対に言えば、「今、ここ、自分」の私で思考すれば、安倍総理をいくらでも批判することができます。それは難しくありません。

 しかし、ここのところ、「今、ここ、自分」とはかけ離れた情報に触れている私としては、このタイミングこそベストだと感じています。

 全く理解されないでしょうし、一笑に付していただいて全然構いません。また、お怒りになる方がいてもおかしくないのですが、8年前の8月11日、この第二次安倍政権のスタートに不思議なご縁で関与させていただいたのは事実です。

 今年の8月11日にも8年前のことを思い出してくださり、夫人自らがわざわざメッセーをくださりました。その時には、すでに総理は辞任を考えておられたのでしょうか。

 8年前のその日から、何が起きたのか、「今、ここ、自分」ではない視点での真実は、このブログに散りばめて書いてあります。100年後くらいに、だれかが一つのストーリーにまとめていただけるのではと思っています。つまり100年後に、ようやく「今、ここ」で何が起きていたのか、客観的に解釈されると信じているのです。

 この8年間を振り返りますと、世の中ではSNSが興隆し、多くの「今、ここ、自分」が吐き出される時代になったと感じます。

 これは、我々人類の苦しい修行です。個人の「戦争」状態であり、その集合としての社会の、世界の「戦争」状態であると感じています。

 75年前の戦争もそうでしたが、やり尽くすところまでやって、ようやくその無意味さ、空虚さに気づくというのが人類の歴史です。

 自我に囚われた、つまり「コト」世界で勝手なことを言って自己満足していた私たちが、コロナという「モノ」に突如襲われ、不安になることによってますます他者に対して攻撃的になる。これは心の戦争の極限状況です。

 それをどう乗り越えてゆくのか。私たちに課された難題です。

 もうこれからは、誰かに頼ってばかりいたり、あるいは誰かのせいにしてばかりはいられません。そういう新しい時代の始まりの日だと思います。

 総理、まずはお体をお大事に。その点でも微力ながらお手伝いさせていただきます。お元気になられたら、また違った立場で「レガシー」を構築してまいりましょう。本当にお疲れ様でした。

| | コメント (0)

2020.08.27

バッハ 『前奏曲とフーガ 変ホ短調(嬰ニ短調)BWV 853』

 

 う30年以上前になりましょうか。当時私はある廃寺に住んでいたのですが、そこになぜか世界的に高名なチェンバロ製作家のデヴィッド・レイさんが一人で遊びにきました。

 彼とこの曲の私の演奏を聴きまして、まあお世辞でしょうけれど、「Excellent!」と言ってもらいました…ってホント?って感じですよね。

 実はこういうことなんです。

 デヴィッド・レイさんが来たのはホントです。今からすると考えられないことですが、ある方の紹介でふらっと遊びに来たんです。

 で、当時20代の私は、今以上に古楽にはまっていると同時に、MIDIでいろいろ遊んでいたので、1988年でしょうか、世界で初めて発売されたデジタル・チェンバロであるローランドのC-20をボーナスはたいて買ったんですね。

 で、これまた懐かしいローランドのシーケンサーMC-300で半年くらいかけて、この曲を1音1音打ち込みまして、かなりリアルな演奏データを作ってあったのです。

 つまり、自分は全く鍵盤が弾けないけれど、この曲はどうしても「こう弾きたい」というのがあって、それを打ち込みで作っちゃったというわけです。

 それをレイさんにも聴いてもらったと。考えてみると、なんと図々しいことか(笑)。なにしろ、彼はヒストリカルな楽器にたくさん触れ、そして、演奏家でいえば、あの伝説のスコット・ロスや、日本人でいえば曽根麻矢子さんらと一緒に仕事していたわけですから(!)。

 今となっては、そのデータが入っているフロッピーもどこかにいってしまいました。なんか、自分でもどんな演奏だったのか、聴いてみたい気がするんですがね。まあ、若気の至りということで。世界的にかなり恥ずかしいことをしてしまったかなと(笑)。

 ま、そんなどうでもいい話はいいとして、この曲、プレリュードもフーガも非常に深い。バッハの名曲の中でも特に優れた作品だと、私は思っています。

 ちなみに前奏曲は変ホ短調で、フーガは嬰ニ短調で書かれています。第二巻では嬰ニ短調に統一されており、この曲だけが、このように異名同調の組み合わせになっています。これは単に、フーガは元々ニ短調だったとかいう次元の話ではなく、深い意味があると考えています(結論は出ていませんが)。

 

| | コメント (0)

2020.08.26

『変質する世界 ウィズコロナの経済と社会』 (PHP新書)

Th_51wechuofll ィズコロナになるのでしょうか。世界は変質するのでしょうか。

 今、60年以上前に書かれた「予言書」を読んでいます。まだ世に出ていませんが、近いうちに出さねばならないと思っています。

 そこには「20世紀後半」の予言が書かれているのですが、実際は「今」にあてはまることばかり。

 すなわち、私たちは21世紀になったと思っているけれども、実はまだ20世紀(的世界)が続いているのです。

 世界史を繙けばわかるとおり、前世紀的世界を変えるのは、疫病(感染症)と戦争です。

 今回はそれが同時に来たということですから、それは世界は変質するでしょう。変化なんて甘っちょろいものではない。変質でもまだ弱いような気がします。

 つまり、ウィズコロナなんていう狭い了見で考えてはダメなのです。しばらくはウィズウォーであることも想定すべきです。

先ほどの「予言書」では、すでに第三次世界大戦は朝鮮戦争からずっと続いていることになっています。

 つまり、第二次世界大戦で「核兵器」が登場した結果、戦争の形態は大きく変わったということです。朝鮮戦争、ベトナム戦争はまだ第二次大戦的要素をひきずっていましたが、またその反省の下に、ダラダラと続く、まさに「ウィズウォー」的な戦争状態が続いており、その文脈上に今回のウイルス兵器としてのコロナが存在するということです。

 そんなトンデモな文献を読み込んでいるだけに、この本は全く面白くありませんでした。スミマセン。

 あまりに次元が違うのです。60年前に書かれたものの方が、ずっと未来的なのでした。かつ、同じ射程距離で過去の情報も書かれているのですから、もう大変です。私の頭では追いつきません(笑)。 

Amazon 変質する世界

| | コメント (0)

2020.08.25

寺内克久 『富士山とピアノ即興曲/識と造形〜氷雲の夢』

 

 日はまた素晴らしい出会いがありました。友人とその友人とオンラインでいろいろお話ししました。それが実に素晴らしい波動を伴ったものになりまして、ただただご縁に感謝であります。

 話は多岐にわたったわけですが、基本その中心にあったのは、やはり「富士山」ではなかったでしょうか。

 さて、こちらも素敵なご縁をいただいた「不定調性論」を構築中の音楽家、寺内克久さんの富士山にまつわる作品です。

 こちらのご縁も間に入ってくれた友人がおります。その友人が寺内さんにご自身が日々撮影した富士山の写真を送り(送りつけ?)、それらから得た印象、クオリアを音楽として表現したものです

 寺内さんの解説を読んでみましょう。素敵な文章ですね。解説ではなく随想的な作品です。

 私の言葉で言うなら、「造形」は外部・他者としての「モノ」、「識」は内部・自己としての「コト」ということになるでしょうが、「コトを窮めてモノに至る」という、二つ目の「モノ」すなわち「モノ'」が音楽なのでしょう。

 今日のオンライン問答の中の延長線上にも、そんな世界がありました。今、仲小路彰のある文書を活字化しているのですが、そこには「自己の超越=利他の徹底=自己の完成」という文脈があります。

 寺内さんが、旧来の音楽理論や音楽常識の中で苦しみながら作曲していた時、結局それはありもしない自己を楽譜という「コト」にしなければならなかったのでしょう。

 しかし、そこで悩んだからこそ、その自己(コト)を超越し、モノの世界に身を委ねることができた、そして、結果として「自他不二」の境地に至って、本当の自己が完成した(まだまだとおっしゃるでしょうが、もうその道をしっかり前進しておられると思います)と。

 いずれにせよ、音楽は、そうしてモノとコトのあわいを行ったり来たりできる世界であり、それはほとんど音楽だけに許された次元移動の作法です。クオリアとはその感覚でしょう。

 それが「不二」の写真の上に展開されていることに、私は感動しました。特に、よくある写真集やカレンダーのよそ行きの富士山ではなく、私もよく知っている富士山の、否、一つとして同じ表情のない不二山の姿が音楽になった悦びは、それこそ言葉では表現できません。

 あえて言うなら、ありがとうございます…でしょうか。

| | コメント (0)

2020.08.24

【河野太郎のLIVE配信】河野太郎と語ろう

 

 沢直樹にぶつけてきましたね、河野太郎(笑)。

 まあすごい時代になりましたな。ここでも本人が繰り返しておりましたが、本気で総理の座を狙っているとのこと。そして、総理になってもツイッターを続けると。あのノリで、ぜひ!楽しみですよね。

 さて、この生中継の中にも出てきました大臣の「奥さん」ですが、いつかも書いたとおり、私、小学校の同級生なんですよ。隣のクラスでしたがね。そうそう、あのクラスですよ(笑)。

 帰国子女で英語ペラペラのスーパー美人でした。まさに高嶺の花。彼女の住んでいたマンションを下から天体望遠鏡で垣間見たりしてました(笑)。

 まったく私は芥子粒のような田舎教師ですが、まあ人生とは面白いもので、今の総理夫人とはちょうど8年前の8月からの友人(オトモダチではない)ですし、もしかすると同級生が未来の総理夫人になるかもしれないわけですからね。面白いものです。

 それにしても、たしかに大臣、面白いですね。いくらこういう時代になったからと言って、こんな感じで現役防衛大臣がおしゃべりしてくれるなんて…。

 太郎大臣、頭はキレッキレにいいし、ユーモアもある、そして英語堪能。たしかに総理大臣の器だと思いますよ。安倍さんもけっこうユーモアありますが、ちょっとタイプが違う。大臣はオタク的な要素があるので、インターネットの世界とは親和性が高いんですよね。

 ですから、ネット上では圧倒的に人気がありますが、実際の選挙となると、これは案外難しいかもしれない。ただ、同様な属性を持つ麻生さんよりは、リベラル層も許してくれそうな雰囲気がありますね。失言ないし。庶民的(オタク的)なユーモアで発言の棘をくるんでいるとも言えるか。

 安倍さんの体調不安説がありますが、私の知っているかぎりは、まあお疲れではありますが、基本元気でいらっしゃいますよ。

 世間ではもう次の総理はだれかという話題になっていますね。菅、麻生、石破、河野、岸田…いやいや、伏兵現るかも、ですよ。

| | コメント (0)

2020.08.23

Stevie Wonder 『Spain』

 

 ロナのおかげで東京の大学から出戻っている長女が、これをおススメしております。なかなかいい趣味しておりますな。

 言わずと知れた、チック・コリアの残した偉大なる名曲です。あまりにたくさんのアーティストたちにカバーされ、それらはどれも本当に素晴らしいものであるわけですが、たしかにこのスティービーのバンドのバージョンは格別に楽しいですね。

 基本的にソロ回しだけなのですが、そのソロたちがそれぞれ実にセンスよく、そして楽しそう。これはひとえに御大のお人柄のおかげでしょうね。

 私と娘は中でも、バンドリーダー、ずっとスティービーを支えているベーシスト、ネイザン・ワッツの「やりすぎない」ベース・ソロが好きです。

 それにしても、これほどカッコいい新しいスタンダード・ナンバーはありませんよね。そして、アマチュアにとっては、簡単そうで実に難しい曲です。複雑さとシンプルさの両方ともが難しい。

 だからこそ、プロの人たちもやりがいがあって、その結果たくさんの名演奏が生れているわけです。それが楽曲の力というものでしょう。音楽に乾杯!

| | コメント (0)

2020.08.22

「終戦」の未来的意味 (8/18 ニュース女子)

 

 戦の日から1週間経ってしまいましたが、この1週間の中でその終戦に関わることがいろいろありまして、いったい自分の役割とはなんなのだろうと考える日々です。

 そんな重い思索に関わる内容満載だったのが、この「ニュース女子」でした。原爆投下、ダウン・フォール作戦、そして終戦の御聖断…。

 高松宮様を通じての仲小路彰の対米・対ソ終戦工作、原爆の投下、終戦の御聖断と時の首相鈴木貫太郎(つまり、二・二六事件における安藤輝三の働き)、戦争続行を望む陸海軍を黙らせた仲小路の「我等斯ク信ズ(勝テリ)」…いずれも、期せずして「直接的」に関わることになってしまいました。

 そして、今、仲小路彰の知られざる「第二次世界大戦史研究」を有志と世に出す作業に取り組んでおります(これは正直、衝撃的にすごい内容です)。

 あの戦争は間違っていた、あの日は終戦の日ではなく敗戦の日だ、と言うのは簡単ですが、歴史とはそんな単純なもの、そして「今」の価値観だけで測れるものではありません。

 過去、その時、そして今、さらなる未来という時間軸の、なるべく向こう側に立って振り返らねばなりません。そこまで行けなくとも、とりあえず今ここで、なるべく高いところに立つべきです。より遠くの過去と未来を見通すために、高いところに立つ必要があるのです。

 その高度を上げるのが「教養」だと思っています。

 私にはそんな教養は全くありませんでしたが、いろいろ不思議なご縁によって、先人たちに「直接」学ぶことができるようになり、おかげさまで、前よりもずっと高いところに立つことができるようになりました。

 そうして見た時の「終戦」は、学校で習う、世間で言われているそれとは、全く違った意味を持ってきます。

 そして、「終戦」以前に、あの戦争は間違っていたからやらない方が良かったという人たちに対して、では、戦争をしなかったら、今の日本は、世界はどうなっていたかという視点を提供できるようになります。

 ようやくこうした番組がテレビで流れ、それをネットの動画で共有できるようになりました。もちろん、この番組の内容には、様々な意見があるのは分っていますが、戦後75年経った今だからこそ、「終戦の未来的な意味」を感情論抜きで考えることが必要なのではないかと思う次第です。

 それこそが、真の慰霊になるのではないか。

 こういう番組がそのきっかけになってくれればと思い、今日は紹介することしました。

| | コメント (0)

2020.08.21

追悼 山崎正和さん

Th_httpsimgixproxyn8sjpdsxmzo62890620210 作家、評論家の山崎正和さんがお亡くなりになりました。

 山崎さんだったら、昨日の「七つの会議」をどう評したでしょうかね。たぶん厳しい評価なのでは。

 山崎正和さんと言えば、私たち国語教師としては「水の東西」をまず思い出します。いや、ほとんどの方がおそらく高校の現代文(現代国語)の授業で教わった記憶があるのではないでしょうか。

 私もご多分に漏れず高校時代にこの文章に出会って、東西比較文化論の面白さに気づかせていただきました。

 国語教師になってからは、実はこの教材で授業をしたことがありません。

 一つの理由は…これは山崎さん自身も認めてくださって安心したのですが…これが「評論」ではなく「随筆(随想)」だということに気づいてしまったからです。

 ご本人もおっしゃっているように、たしかに評論寄りの随筆ではありますが、かなり感覚的な言葉が並んでおり、ある意味一つの解釈に収まられない面白さがある文章です。

 それは、たとえば小林秀雄の文章にも当てはまることなのですが、それを、「評論」というくくりの中で、あたかも一つの解釈が成り立つかのような授業をするのが、どうにもいやだったのです。

 ましてや、それをテストに出して、◯✗をつけるなんて…なんだかんだセンター試験や大学の個別入試に出てしまっているのですが…教師としての、ではなく、人間としての良心が許さない?!

 まあ、簡単に言えば、随筆は随筆としてそのまま味わいたい、そこからそれぞれ思索を広げればよいと思うわけで、そうだとすると、あえて授業でやる必要はないわけですね。ただそういう理由です(相変わらずの変人でスミマセン)。

 なんか最近、「学校をぶっ壊す」とかイキってる自分を客観的に見ると、つくづく(今の教育制度の)先生には向いてなかったのだなあと思うわけです。生徒は可哀想だよなあ。

 さて、それでも全然反省しないワタクシではありますが、ちょっとセンセーぶって山崎正和さんの作品をおススメするとすれば、これでしょう。「世阿弥」。劇作家、そして評論家、いや随筆家山崎正和の原点は「花伝書」にあり。

Amazon 世阿弥

| | コメント (0)

2020.08.20

『七つの会議』 福澤克雄監督・野村萬斎主演作品

Th_81xbbrwxayl_ac_ul320_ 女と鑑賞。野村萬斎さんは、次女の師匠の甥っ子さんですからね。

 その萬斎さんだけでなく、まあ豪華すぎる役者陣の「演技合戦」がすごかったなあ。

 監督がテレビドラマ界のカリスマ福澤克雄さんということもあって、ある意味、映画的ではない世界になっていましたね。

 ちょっとやりすぎな感じの演技やシーンが連続しますが、それがこの名優たちの「闘い」…それは、ストーリー的にも役者同士としても…の、ある種の滑稽さを見事に表現していたと思います。

 ジャンル的な「闘い」もありますよね。能・狂言、歌舞伎、新劇、伝統的映画、お笑い、ロック…。

 もうこのキャスティングだけで、この映画の成功はあったかと思いますが、逆にスターを集めた結果ドッチラケということもよくありますから、やはり、この映画の主役は福澤克雄さんだと思いますよ。

 ちなみに東山紀之さん主演のNHKドラマ版も一部観ましたが、あれはあれでドラマとしてはよく出来ていたと思うのですが、それをある種の壮大なエンターテインメントというか、フェスティバルにしてしまったところが、福澤さんのすごいところだと思います。

 振り切ったからこその勝利。

 まあ、そんな豊かな闘いの中で、やはり輝いてしまったのは野村萬斎さんですね。あの存在感は、普通の役者ではなかなか出せない。圧倒的なグータラ感は、さすが狂言師の表現です。

 昨日の三船にもあったように、ウチの娘的には、やはり体のバランスや足の運びに、能や狂言を感じたようです。

 そう、黒澤や小津の例を挙げるまでもなく、やはり日本の伝統的な動き、表現、間、あるいは超バロック的ともいえる過剰なデフォルメや強調こそが、海外にウケる要因なのですね。

 理屈抜きに、そして評論的視点抜きに、久々に純粋に楽しめた作品、いや「舞台」でありました。あっぱれ。

 それにしても日本という社会、困ったものですね。学校の改革は本気でやろうと思っていますが、会社がこんな感じだとすると、従来どおり学校でも「理不尽」や「忖度」や「隠蔽」を学んだ方がいいのでしょうか。いやだなあ…。

 

Amazon 七つの会議

| | コメント (0)

2020.08.19

『MIFUNE:THE LAST SAMURAI』 (スティーヴン・オカザキ監督作品)

Th_71foo7aefbl_ac_sy445_ 日のタイガーマスクは家内と、そしてこちらの映画は次女と観ました。

 こうして家族と、かなり深いところで趣味を共有できるのは幸せなことですね。

 実際、次女から学んだこともありました。次女は能楽を志しているのですが、三船の、というか黒澤映画の動きや間の中に、「能」を感じていたようで、この作品の中で黒澤が能に理解があったというナレーションがあって、「ほらね」と大いに共感していました。

 言われてみれば、ですね。黒澤作品は何度も観ていた私ですが、そういう視点はなかったなあ。

 さて、このドキュメンタリー映画、以前私も紹介し絶賛した「ヒロシマ・ナガサキ」のスティーヴン・オカザキさんの監督作品です。

 日系3世のオカザキさん、原爆の時もそうでしたが、日本に対して「ちょうど良い距離感」でいるのがいいですね。

 もちろん、だからこそ、日本人である私たちは三船の別の側面も描いてほしかったような気もしますが、いいのではないですか、外国から見た三船の魅力をピックアップするのも。

 「能」といえば、三船が「ものまね」系の役者だったことも興味深いですね。つまり、「モノ」を「マネく」人であったということ。黒澤が演技指導などするまでもなく、する隙もないほどに、彼は「本人」を降ろすことができるミーディアムだったのでしょう。それはもう演技ではありません。

 型にはまり、型を身に着け、自分のモノにした時に初めて降りてくる「何モノ」か。それはコト(たとえば言語)を超えて、世界で共有されるべきものですね。

 さてさて、今日も娘に話したのですか、三船と黒澤を結んでいるのが「秋田」なんですよね。案外語られないことですし、秋田の方々もほとんどご存知ない。

 昨年、こんな記事を書いていますので、興味のある方はお読みください。

東京キッド

| | コメント (0)

2020.08.18

『タイガーマスク伝説〜愛と夢を届けるヒーローの真実〜』(NHKアナザーストーリーズ)

Th_img_6669 イナマイト・キッド選手の訃報を聞いた時の記事で紹介した、アナザーストーリーズ「タイガーマスク伝説」の再編集版が放送されました。

 あの時、キッドを励ましていた佐山サトルさんが、今度は原因不明の病と戦っています。やはり、佐山さん自身が、キッドを評したように、限界を超えても闘い続けた結果なのでしょうか。

 「かならずいい日はやってきます」…このコロナ禍にあって、佐山さんのメッセージはとても力強く、心に響くものでした。

 家内とも話したのですが、最近の佐山さん、さらに上の次元にいらっしゃったように感じました。

 佐山さん、今までも単なる格闘家というより、思想家、歴史家という側面もありましたが、ご病気を通じてさらなる深化を遂げたようですね。

 そんな折、息子さんが格闘技の世界に足を踏み入れ、尊敬するお父様が極めた奥義を伝承することに努めるとのこと。佐山さんご本人にとっても非常に嬉しいことでしょう。

 ぜひ、病魔にも打ち勝って、再びリングでその雄姿を見せてほしいものです。

 原因不明の難病ということですので、なおさら、私が回復のお手伝いができそうな気がしました。さっそく連絡をとってみたいと思います。

 ちなみに、新間さんらに関わる「アナザーストーリー」は、さすがに紹介されませんでしたね(笑)。

| | コメント (0)

2020.08.17

三木たかし 『さくらの花よ 泣きなさい』

 

 日の朝放送された「ザ・偉人伝 昭和歌謡のヒットメーカー 人生を変えた出会い」を家族で鑑賞。三木たかしさんと浜圭介さんの名曲オンパレード。

 そして、その裏側にある苦悩と出会い。やっぱり昭和的な苦労や理不尽って必要なのかなあと、最近それを批判している私は悩んでしまうのでした(苦笑)。

 さて、その名曲オンパレードの中で、最後の最後、心に残ったのは三木さんご自身の歌唱によるこの「さくらの花よ 泣きなさい」でした。

 新しい挑戦を続けてきた三木さんが、人生の最終ステージで到達したのが、こういうシンプルさ、ある意味での普通さ(ありがちさ)であったこと、そしてガンで声を失う寸前にこうして魂の歌を録音したことに、本当に心震えました。

 もちろん、三木さんの盟友である荒木とよひささんの歌詞も素晴らしい。番組での荒木さんの言葉が興味深かった。曰く「彫刻家が仏様を掘り出すように、三木さんのメロディーから詞を掘り出せばよかった」と。

 現在家族で準備中の「メロディーズ」という企画。すなわち国内外を問わず「美しい旋律」をテーマにしたライヴ活動なんですが、そこにまた1曲候補曲が加わりました。

 もともと三木さんや浜さんら、昭和歌謡が多かった。まあ仕方ありませんね。もう候補曲だけで100曲超えちゃってまして、ここから厳選していくのが難しい…贅沢な悩みです。

 この三木バージョンはヴァイオリンが活躍しますので、私も頑張らねばなりませんね。

| | コメント (0)

2020.08.16

伊藤庸二と仲小路彰

Th_unknown_20200817110901 日の「太陽の子」の記事に出てきた、荒勝文策、仁科芳雄、湯川秀樹を取り上げたNHKBS1スペシャル「原子の力を開放せよ ~戦争に翻弄された物理学者たち~」を観ました。

 相変わらずのNHKの資料収集・調査能力の高さには驚かされます。なかなか進まない仲小路彰研究もおまかせしたいところです。

 さて、戦前・戦中の原子核兵器、電磁波兵器の開発のことを語る時、伊藤庸二の名前を忘れるわけにはいきません。

 伊藤庸二は海軍の技術大佐。特に日本軍のレーダー開発に貢献のあった人ですが、一方で新型兵器の研究にも携わっていました。

 開戦後、すぐに理研の仁科芳雄を動かし原爆開発研究の拠点となる「物理懇談会」を設立。「太陽の子」の舞台となった京都大学の荒勝研究室にも原爆開発の指示をしました。一般には、陸軍が理研、海軍が京大と言われているようですが、実際には両者に伊藤海軍大佐が強く関わっています。

 伊藤は、昭和18年の段階で、原爆の開発は可能だが今次大戦には間に合わないという考えでした。そして、アメリカも間に合わないだろう、すなわち原爆が日本に投下されるとは思わなかったようです。

 しかし、現実には原爆が2発投下され、そして終戦を迎えることになります。それに大変なショックを受けた伊藤は高熱を出して寝込んでしまったと言います。

 終戦後1ヶ月近くたってようやく療養先の山形から帰京した伊藤大佐は、かねてより懇意にしていた富岡定俊海軍少将の仲介で、9月中旬に山中湖を訪れて、およそ1週間にわたり仲小路彰と懇談をしました。

 そこで仲小路が伊藤に語った内容は以下のとおりです(春日井邦夫「情報と謀略」より抜粋)。

 仲小路は伊藤博士の大戦下の技術開発の労苦に心から敬意を表し、その努力が本当に役立つ時代が来たのだと語った。また原子爆弾に関する質問に答えて、原爆はその悪魔的な破壊力によって逆に武力戦争を抑止する性格を持つ。アメリカの最初の原爆使用を平和の契機ととらえ戦争終結を実現した陛下の終戦の大詔こそ、やがて人類救済の大宣言となる。これからの世界は地球を一体とするグローバリズムの時代に進むが、原爆の巨大なエネルギーを地球建設の原動力に転化・活用する新技術の開発こそが、「地球の平和」への基礎となると、そのグローバリズム構想の一端を示唆している。

 終戦からたった1ヶ月後に「グローバリズム」という言葉を(世界で初めて)使っているわけで、それだけでも驚きですが、核抑止力や戦争終結の御聖断の世界史的意義、そして核エネルギーの善用といった、その後の地球の未来を的確に言い当てていることにも注目です。

 ただ、ここでいう「グローバリズム」とは、現今の経済的なグローバリズムではなく、あえて言うなら「八紘為宇(八紘一宇)」の言い換えですので、誤解なきように。

 ちなみに、これより前、8月28日には、1948年のオリンピックを日本で(富士山麓で)開催することを提言しています。恐るべし仲小路彰。

 伊藤はこの仲小路の言葉に感銘を受け、2年後に株式会社光電製作所を設立。海軍の優れた科学技術、特に電波技術を、戦後の漁業におけるソナー、レーダー、GPS、デジタル技術の開発に活かしました。

| | コメント (0)

2020.08.15

『太陽の子』 (NHK 国際共同制作 特別ドラマ)

Th_unknown_20200816100401 戦の日。このドラマ、いろいろなシーン、いろいろな言葉に考えさせられました。

 特に「未来」という言葉。言うまでもなく、私にとっても大切な言葉です。

 仲小路彰の未来学に学び、未来からの逆視法によって、「今」や「過去」の意味を知るようになりました。戦前の学生時代、アインシュタインの相対性理論を1ヶ月で理解したという仲小路は、湯川秀樹とも親交がありました。当然、「原子核」エネルギーについて深く考えてきた人物です。

 まさに「未来」的な意味において仲小路は、「21世紀は太陽の時代」と喝破しました。つまり、原子力の「開裂」により平和が訪れると信じていたのです。

 特に、核分裂の時代から核融合の時代、すなわち本当の意味での「太陽エネルギー」「宇宙エネルギー」の時代が到来することを予見した点は注目に値します。

 二つの原子爆弾が、アメリカの手によって日本に落とされたことは、たしかに非常に不幸なことでした。

 しかし、未来的な意味においては、日本がその使用者、加害者にならなくて良かったとも言える。不謹慎の誹りを恐れず言えば、そういうことです。

 原発事故からそろそろ10年。私たちは、そろそろまた立ち上がらねばならないのではないでしょうか。荒勝文策、仁科芳雄、湯川秀樹らが真剣に夢想した「未来の平和」のために。

 三浦春馬くんの演技にも心打たれました。彼が入水自殺を果たせず、特攻で命を散らしていくというストーリーは、何か象徴的でもありました。

 自死した方が良かったのか。特攻で敵の命を奪った方が良かったのか。裕之が乗り越えてしまった「恐怖」とはなんだったのか。

 それこそ、春馬くんが命を懸けて遺してくれた「未来へのメッセージ」を、私たちはしっかり受け継がねばなりませんね。おそらく、彼の中には、裕之の魂が残っていたのでしょうから。

 突然命を絶たれた全ての皆さんのご冥福をお祈りしつつ、私たちもしっかり未来を夢想していきたいと思います。

 

| | コメント (0)

2020.08.14

「楢山節考碑」 (境川町大黒坂)

Th_-20200815-81209 日は、一昨日書いた「楢山節考」についてのプチ・フィールドワークをしてきました。

 記事にも書いたとおり、深沢七郎は山梨の人ですし、「楢山節考」のアイデアのベースは、現在の笛吹市、旧境川村の「大黒坂」での聞き取りにありました。

 今日は、その「大黒坂」に行ってきました。そこに「楢山節考碑」があると聞いたからです。

 山梨のど田舎(失礼)に、カンヌの大賞を獲った作品の碑があるというのは、なんとなく面白いじゃないですか。

 河口湖大石から若彦トンネルをくぐって境川へ。上の地図ですと赤い線です。

 先に書いときますが、帰りは青い線。これはどういう旅かといいますと、俳句・短歌の旅です。

 境川といえば、飯田蛇笏・龍太のふるさと。そして、お隣、今は甲府市の右左口は山崎方代のふるさと。この甲府盆地の南辺、御坂山塊の北面の坂の村が、日本を代表する俳人、歌人を生み出したことに、とても興味があります。これについてはいつか書きますね。

 そして、「楢山節考」という名作も生み出した。実に不思議な土地です。

 ちなみに「楢山節考碑」の場所は非常にわかりにくい。ネットにもその場所が載っていないので、ここにストリートビューを貼っておきます。

 

Th_img_6653 道から少し入ったところにあるので普通ですと見逃してしまいそうですが、近くのつり堀さんがこのように達筆で示してくれているので助かりました(笑)。

 そして、なんと肝心な碑の写真は、帰ってみてみたら見事なピンぼけ!なんということでしょう(笑)。

 というわけで、写真はこちらのサイトが鮮明かつ詳細ですのでご覧くださいませ。

 30年ほど前にできた碑ですが、あまり訪れる人もいないのでしょう、けっこう草や蜘蛛の巣に覆われておりました。

 ちなみに映画撮影の舞台になった信州安曇野の限界集落のような雰囲気は全くない、なんとなく明るい空気を持った集落でした。

Th_img_6648 近くにある臨済宗向嶽寺派の聖応寺にも参拝しました。とても立派なお寺さんでした。本堂や開山堂のほかにも、山門、猿橋と同形式かつ屋根付きの珍しい反り橋、立派な三門(祥雲閣)、茅葺きの鐘楼など見るべきところがたくさんありました。

| | コメント (0)

2020.08.13

『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』 青山透子 (河出書房新社)

Th_51drbvy4rl_sx334_bo1204203200_ 35年前の今日は、前日12日からの富士山4合目でのペルセウス座流星群観測を終え、朝6時半ごろに都留に帰ってきました。

 そこで見たのは、新聞の「524人乗せ日航機墜落」の文字。その時の戦慄は忘れられません。

 なぜなら、私たちはその「瞬間」をこの目で見てしまっていたからです。

 それについては、10年前、詳細に書いています。

 あの日から25年

 毎年ペルセウス座流星群を見ると、あの日のことを思い出し、望まずして突如天空の流れ星になってしまった方々のご冥福を祈らずにはいられません。

 昨年11月、事件(事故)当時の首相だった中曽根康弘さんが101歳で亡くなりました。

 そして、今年になって横田めぐみさんのお父様横田滋さんも亡くなってしまいました。

 そう、3年前の、青山透子さんの著書に関するこちらの記事に書きました、「私がどうして解決したい二つの事件」の双方の重要な人物が亡くなってしまったのです。

 二つの事件には「アメリカ」が深く関わっています。

 日航機墜落に関しても、「真実は墓場まで持っていく」という発言の真偽は別として、中曽根さんしか知り得ない「何か」があったことは確かでしょう。

 それは当然「アメリカ」との関係の中の「何か」です。機体がボーイング社製ですから、当然と言えば当然です。

 そして、その「何か」を象徴するのが、この「圧力隔壁説」ということになります。

 圧力隔壁説と引き換えに「何か」が隠蔽された…そうしたある種の「陰謀論」は跡を絶ちません。青山さんのこの本も、そうした広義の「陰謀論」に含まれます。

 いや、「陰謀論」がダメだと言っているのではなく、こうした、35年も経ってもまだ真相がつかめないことこそが「陰謀」であって、世間でよくある「バレバレの陰謀論」とは違う、本当の「陰の謀略」にこそ真実、真相、真理があると思うのです。

 もちろん、結論ありきの牽強附会だと、真実を隠そうとする方と同じ思考回路になってしまいますので注意は必要です。思い込みは怖い。

 この本での外務省文書上の「事件」に関する解釈も気をつけなければならないなと感じました。

 私は、仲小路彰研究の過程で多くの「機密文書」に触れる機会がありますが、そこでの用語や言い回しには独特のものがあって、日常的な言語感覚でそれを読んでしまいますと、いわゆる「トンデモ」な解釈に陥る危険性があります。

 これから、アメリカでこの事件(事故)に関する公文書が公開される可能性もあります。そこにはどんな「不都合な真実」が書かれているのでしょうか。不都合を感じたのはいったい誰なのでしょうか。

 他の歴史的事件がそうであるように、私たちは永遠に真実に到達できないのかもしれません。しかし、私の記憶に鮮明に残っている、あの「2回の閃光」は間違いのない事実です。そして、そこに真実に迫るヒントがあるのではないかと、最近思い始めているのです。

Amazon 日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす

| | コメント (0)

2020.08.12

『楢山節考』 深沢七郎原作・今村昌平監督作品

Th_71zqnvqyusl_ac_sy445_ 崎のキリシタンの話から、突然これを思い出して久しぶりに鑑賞しました。

 言わずと知れた日本映画の傑作中の傑作。カンヌのパルムドール受賞も納得です。その年、受賞確実と言われた「戦場のメリークリスマス」も名作ですが、やっぱり今観てもこちらに軍配が上がりますね。

 原作の深沢七郎は山梨の人。この姨捨伝説も境川の老婆からの聞き取りがベースになっています。

 撮影の舞台は信州安曇野ですが、使われている言葉はコテコテの甲州弁。私たちにはなじみのある響きです。

 この今村版「楢山節考」は、深沢の同名原作と「東北の神武(ズンム)たち」を元に作られました。つまり、東北の寒村の風習(特に性風習)と、甲州の姨捨伝説(棄老伝説)が見事にブレンドされており、結果として、「生まれ、繁殖し、死んでいく」というエロティシズムが表現されています。

 頻繁に挿入される動物の生態が、それを象徴しています。また、原作のように暗く重くならず、どちらかというと明るく描かれている(と私は感じます)ところに好感を抱きます。ある種のたくましさ、そして共同体的愛の強さ、美しさ。

 そのあたりが、キリスト教的とも言えるような気がします。深沢が「おりん」の人物造形に、釈迦とキリストをイメージしたというのも納得できます。死と赦しの美学とでも言いましょうか。

 

 

 ちなみに、我が鳴沢村にも棄老伝説はあります。なにしろ青木ヶ原樹海を抱える貧しい村でしたから。私も樹海の洞窟潜りを趣味にしていた時がありますが、樹海内には「婆穴」「バンバ穴」と称される洞穴がたくさんあり、一通り入ってみました。動物のものと思われる(?)骨が散在している穴もありました。

 今や、ゴルフ場、別荘地(総理の別荘もある)と華やかな村になっていますが、昭和40年代までは水もない(川がない)寒冷な溶岩台地の村、文字通りの寒村だったのです。

 キリシタン大名の有馬晴信が甲州に流されたのは、当地にキリスト教がほとんど広まっていなかったからと言われていますが、実はキリスト的な原罪意識や犠牲、殉教的な意識(無意識)の強いところだったのかもしれません。さすが生黄泉の国です。

 こちらで鑑賞することができます。アラビア語の字幕がつきますが(笑)。これをエジプトの人はどんな感慨をもって観るのでしょうね。案外、砂漠の一神教との共通点を感じるのかもしれません。

 そうそう、ちまたで怖いと評判のスウェーデン映画「ミッドサマー」も、棄老伝説とエロティシズムに基づくものですよね。私はこの「楢山節考」の影響を受けているのではと思っています。

 

 

 ついでと言ってはなんですが、いや、結構この映画の「明るさ」をしっかり捉えたものとして、これも紹介しておきます。志村けんさん、素晴らしい。こうして復活してほしい。そう、キリストの復活とはこういうことだったのでは…。

 

| | コメント (0)

2020.08.11

千々石ミゲルは転んだのか…

 

 正遣欧少年使節の話が続きます。

 「その後」も含めてよくまとまった動画がありましたので紹介します。

 動画にもありますとおり、近年千々石ミゲルが棄教していなかったのではないかという説が浮上しました。

千々石ミゲル墓所発掘調査

 発掘された墓自体はミゲルの妻のものだったようですが、その隣にもう一人が埋葬されていて、それがミゲルであるようですね。

 妻の墓からにせよ、ロザリオのようなキリスト教の神具が出てきたというのは、ミゲルが実は棄教していなかった可能性を物語るものであって、非常に興味深いことです。

 ミゲルはたしかに「イエズス会がキリスト教布教を侵略の手段としていた」ことや、欧州の奴隷制に疑問を抱いていたことはたしかでしょう。しかし、一方で聖書の読み込み、また音楽などの文化を通じて、キリスト教自体に対する信頼は持ち続けていたと。

 単純に「棄教」「転ぶ」という概念では捉えきれない、複雑な人間の心理、信仰というものの本質を、そこに見るべきなのかもしれません。

 つまり、表面的(政治的)には、たしかにイエズス会への不信はあったが、イエスに対する信仰は持ち続けた可能性があるということです。

 隠れキリシタン(潜伏キリシタン)への理解には、当然そのような視点が必要です。隠れて密かに信仰していた、というだけでなく、実際生活上は全くキリスト教の作法に則っていなくとも、信仰は可能だということです。

 考えてみると、私もいわゆるキリスト教の歴史には大いに疑問や違和感を抱いていますが、しかし、もしかすると、社会的にキリスト者に分類されている人たちよりも、ある部分ではイエスに対して理解が深いかもしれません。

 そんな観点から、千々石ミゲルを見直してみたいなと思っています。

 話が前後しますが、聚楽第での秀吉に対する謁見演奏。秀吉が感動して3回繰り返させたという幻の演奏。それを復元した「400年前の西洋音楽と古楽器」の一部がYouTubeにありましたので、ぜひお聴きいただきたいと思います。

 

 

| | コメント (0)

2020.08.10

『MAGI 天正遣欧少年使節』

 

 

 日の長崎の話の続きというか、そのルーツ。

 こちらにも書いたとおり、私は「千々石ミゲル」のことが気になってしかたありません。有馬晴信との関係や音楽のことだけでなく、彼は本当に棄教したのかという謎…。

 さて、ミゲルも含めた天正遣欧少年使節団の4人の物語。いつか映画化されるといいなと思っていましたが、こういう形でそれが実現するとは。

 いろいろとツッコミどころはありますが、そんな外面のことではなく、やはり純粋に少年らの過酷かつ豊かな旅自体について、こうしてイメージ化してくれたこと、そしてキリスト教や西洋文化の矛盾、日本という国の本質をかなりきわどいところまで描いてくれたことには感動いたしました。

 キリスト教が内包する「死」への憧れと「赦し」の構造が、隠れキリシタンの悲劇を生み、のちには長崎原爆の悲劇を生み、昨日紹介した「浦上燔祭説」を生んだとも言えますね。そのあたりをこのドラマからも考えさせられました。

 彼らが音楽理論を学び、多くの楽器の演奏技術を習得し、貴重な楽器を持ち帰ったこと、そして聚楽第にて秀吉に演奏を披露したことには触れられていませんでした(それは後日譚なのでシーズン2で?)。古楽ファンとしては、そこは少し残念でしたが、実は音楽はその一面に過ぎず、本当に多様な分野において彼らは本当によく学び、それを伝えたと思います。

 ミゲルが、帰国後どのように棄教に至ったのか(あるいは最近の説のように実は棄教していなかったのか)、関ヶ原の戦いから江戸開幕、そして有馬晴信の刑死などが、ミゲルにどんな影響を与えたのか。

 明治以降の日本と西洋との関係、そして未来の日本人のあり方を考える時、彼のキリスト教体験の変遷は大きなヒントとなるような予感がするのです。

 ちょっと私も研究してみます。独自の視点で。

MAGI 天正遣欧少年使節 公式サイト

400年前の西洋音楽と古楽器

| | コメント (0)

2020.08.09

浦上燔祭説

Th_unnamed_20200810071501 崎原爆忌。

 毎年思われるのは、なぜキリストの名の下において、隠れキリシタンの里浦上に原爆が落とされたのかということ。

 牧師によって祝福された「ファットマン」は、長崎に投下されたというより、浦上に落とされました。

 あの日、第1目標だった小倉が曇天だったため、第2目標の長崎が犠牲になることになったことは周知の事実です。

 そこの運命も含めて、浦上に原爆が落ちたのは、神の意思であるという考え方があります。被爆後すぐにその考え方は生まれました。

 放射線を研究した医師であり、隠れキリシタンの末裔で自身もキリスト者であった永井隆。彼の唱えたのが「浦上燔祭説」。

 「燔祭」とは「ホロコースト=生贄祭」です。つまり、長崎の被爆者は神への生贄であるということです。

 クリスチャンでない者からすると「生贄」という概念は受け入れがたく、死者に失礼な考えのように受け取られますが、クリスチャンにとっては「崇高」な「行為」ともなります。

 こうした価値転換は、殉教を伴う多くの宗教に見られることです。この原爆に関しても、被害者、加害者双方の悲劇を救う手段、方便としてありえることです。

 ですから、この「浦上燔祭説」を単純に否定も肯定もできないわけですが、ただこれを通じて、キリスト教が戦争において果たしてきた役割を思い出すことは重要だと考えます。

 もとより、日本にキリスト教がもたらされたのは、スペイン、ポルトガルの植民地政策の結果であり、よく言われる「左手に聖書、右手に銃」というのはまぎれもない事実です。

 キリスト教に内在する、そうした「荒魂」の要素が、「和魂」の国日本を舞台に、自己矛盾の中で自己崩壊を起こしていく物語を現出したと考えると、より深い歴史的真実が浮かび上がってきます。

 永井隆はこの「燔祭説」だけでなく、原子力の「光」の部分、すなわち科学における原子力のプラスの要素についても強調をしました。それは、ちょうど仲小路彰の考え方にも共通します。これもまたある種の「方便」「価値転換」とも言えますが、日本文化における「荒魂」の意義の上に展開しますと、一般的な感覚とはまた違った真理を見出すきっかけにもなると感じます。

 さて最後に、長崎原爆とキリスト教ということでいうと、山梨との関係から「有馬晴信」のことも思い出されます。たしかに「荒魂」が音楽という「和魂」を生むことがありますね。キリスト教とは非常に複雑かつ深い宗教です。

有馬晴信終焉の地「甲斐大和」

第31回都留音楽祭 最終日(都留と古楽の因縁)

| | コメント (0)

2020.08.08

武田邦彦 「天皇」について語る

 

 日は午前、午後、夜、連続して3つの会合(リアル or オンライン)がありました。それぞれ本当にいろいろな気づきを与えていただく素晴らしい機会でした。

 午後の勉強会では「天皇制」の話も出ました。

 出口王仁三郎は天皇制を肯定したのか、否定したのか。そんな疑問が発端でした。

 この答えは非常に難しい。あえて言うならば、「天皇」という文化は肯定したが、「天皇制」というシステムは否定した、となるでしょうか。

 つまり「現人神」は否定したというわけです。

 武田先生のこのお話には、なるほどと頷ける部分もありますが、正直首をかしげるところもあります。難しいですね。

 毎年、夏になると、先の大戦のことを思います。そこではどうしても「天皇陛下万歳」というキーワードを避けて通れません。

 戦後、ほとんどの場合、それを否定する形で語られてきました。もちろんその気持ちも分からないではないのですが、そうすると、そう叫んで散っていった無数の兵士たちのことも否定するようで、正直心が痛みます。

 もちろん、その反対の感慨もあります。つまり、「天皇陛下万歳」に反対だったが命を落とした人たちもたくさんいるからです。

 いつかも書きましたとおり、たとえば靖國神社に関連しても、右、左、両方ともに極端な見方しかできていない気がします。私は靖國の神域に足を踏み入れると、本当に多様な「気持ち」を感じることができます。そして「迷い」を感じるのです。

 ですから、少なくとも、どちらにせよあなたたちの判断と行動は、未来的な意味において間違っていなかったと、そこは全肯定するところから始めないといけないと思うのです。

 ちょっと伝わりにくいかもしれませんね。昨日の夜もオンラインでの会合があり、そこでも全部お話しましたが、ウチの夫婦が、時を超えて二・二六事件の核心に(信じられいないほど、恐ろしいほど)関わることになってしまった、その体験から分かったことなのです。

 彼らが、いまだに自分たちが何者か分からず、敵か味方かも分からず、すぐ隣の世界で真っ黒な「塊」になっているということを知ってしまった今、それを丁寧にほどいて差し上げることを後回しにして、自分たちの次元で歴史解釈と思想を戦わせても仕方ないのです。

 私は、それをする、その中心に「天皇」の祈りがあると信じています。あの時代の「天皇制」「現人神」には、それができなかった。そこに強烈な違和感を抱き、問題提起したのが、出口王仁三郎であり、またある意味では二・二六事件の青年将校たちだったのです。

| | コメント (0)

2020.08.07

ラインケン 『「結婚の話はやめて」による変奏曲』

 休みに入ってからの方が忙しい。今年はいろいろとイレギュラーですので仕方ありませんね。

 さて、そんな時は仕事をしながら音楽を聴きます。いや、音楽をしながら仕事をする…かな。BGMにはやはりバロック音楽が一番。もともと、そういう音楽ですし。

 今日流していたのがこれ。ドイツバロック音楽の巨匠、ラインケン。

 ラインケンの合奏曲集はずいぶん演奏しました。かなり好きな作曲家です。ブクステフーデとラインケン、この二人はバッハがいなければ間違いなく音楽の教科書に載ったことでしょう。

 仕事をしながら心に残ったのは、「Partite diverse sopra l’Aria “Schweiget mir von Weiber nehmen」です。この「結婚の話はやめて」という俗謡をテーマにした変奏曲、なんか懐かしさを感じさせますね。

 冒頭のコード進行が(ハ長調で言うと)C→G→Am→Fという「LET IT BE」進行(実はこれはあんまりない)。つまり、クラシックとフォークの折衷的、中間的な進行なんですよね。

 この前のフィッシャー同様に、バッハほど複雑ではなく、シンプルに、しかしとてもセンスよく変奏されていきますね。BGMには最高です。

 ちなみにこの「結婚の話はやめて」は当時かなり有名だったらしく、フローベルガーも変奏曲を書いています。こっちもいいですね〜。

 

| | コメント (0)

2020.08.06

75回目の広島原爆忌に思う

Th_as20200806000672_comml 年もこの日がやってきました。

 本来なら、東京オリンピックが開催されている最中での平和祈念式典となるはずでした。

 平和の祭典たる五輪の開催中に、この75回目という特別な機会はあるべきでした。残念なことです。これはどのような天意なのでしょう。

 新型コロナウイルスという新しい「兵器」によって、この機会が奪われたというのは象徴的でもあります。

 先日も書いたとおり、これからの戦争はドンパチではなく、静かに進行していきます。ドンパチ戦争を終わらせたのが、この原爆投下であったというのも皮肉です。

 ある意味不謹慎と思いながらいつも考えるのですが、いつか被爆者や戦争体験者がゼロになってしまう日が来るわけで、それもかなり近い将来の話です。75年というのが一つの節目になると思うのはそういう意味もあります。100年ではもう完全に「歴史」になってしまう。

 もちろん、全ては「歴史」となっていくわけですが、生きた歴史にするためには、やはりその未来的な意味、意義を考えねばなりません。特にこのような悲劇については。

 私は、仲小路彰という天才に出会うことによって、そのヒントを得ることができました。今日はそうした幸運の中で、原爆忌に思索した記事を振り返ってみたいと思います。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の意味(2014.8.6)

原爆と理研と天皇と仲小路彰と(2014.8.8)

70年目の広島原爆忌に思う (2015.8.6)

抑止力としての被爆&特攻隊(2015.8.8)

『広島、長崎戦跡善後処置緊急具体案」 (仲小路彰)(2018.8.6)

広島原爆忌にもう一度(2019.8.6)

 

| | コメント (0)

2020.08.05

山梨は首都圏?それとも…

Th_img20160428_1 年、夏は秋田(家内の実家)に行くのですが、今年は自粛することにしました。

 ちょうど一昨日、秋田県知事がこんな会見をしました。

お盆帰省 秋田知事「首都圏から」自粛要請

 首都圏…ん?山梨県は首都圏なのか?

 答えから言いますと、「山梨県は首都圏」です。関東7都県に山梨県を加えた8都県が「首都圏」であると正式に定義されています。

 山梨県民的には悪い気はしないのですが、他の都県からすると、「あのクソ田舎が首都圏なんて納得できない!」となるのではないでしょうか(笑)。

 山梨県(甲斐国)は昔から微妙な立ち位置にありました。古く奈良時代には「生黄泉の国」なんて言われて、この世とあの世の境と思われたり(笑)。「かひ」という国名からして「境界」という意味の「峡」の意味だと言われていますし。

 しかし、鎌倉時代には幕府に近くなってちょっと存在感が変わり、江戸時代にたまたま江戸の隣、近代には東京の隣になってから、ますますその立ち位置は微妙になってきました。

 上の地図でもわかるとおり、たしかに一見すると東京の隣ですし、その距離もたとえば栃木や群馬より圧倒的に近い。

 しかし、地理的に見ると、関東平野には属しておらず、「山成し」というだけあって山に囲まれた「田舎」です。関東の人たちからすると、関東に入れたくないでしょうね。

 かと言って、中部地方にも入れてもらえないし、入る気もない。私は静岡の出身、東京育ちの山梨県民ですので、そのあたりの感覚は両方向からよく分かります。

 一方、甲信越と言った場合にも、特に新潟県とはあまりに意識的に遠い。日本語学(方言学)的に言うと、いちおう「なやし方言」というのがあって、すなわち「長野・山梨・静岡」に共通する性質があるのも事実なのですが、特に山梨の郡内地方(富士東部地域)においては、関東方言もかなり混入していて違和感もあります。

 そんな微妙な「境界」の独立国山梨ですが、そこに住む人々の中には、近世から、つまり江戸や東京の隣という意識が出てきてから、「首都圏に入りたい」願望が強くなっていったようです。

 たとえば、雨宮敬次郎ら甲州財閥が、東京や関東圏から山梨への交通ルートの開拓に尽力したこと、近くは金丸信がリニアを山梨に持ってきたことなどはその発露でしょう。

 では、現在、山梨は首都圏に参入できたのかというと、実際は奈良時代とそんなに変わっていないと思うのです。相変わらず微妙な位置で微妙な立場のまま。これはもう地政学的にしかたがないことだと思います。

 逆に言えば、富士山をはじめとする霊山の懐に抱かれた「山成し」は、これからもずっと「生黄泉」の国でいいような気もするわけです。どちらかというと私はそれを望みますし。

 いずれにしても、この豊かな自然と東京の隣という地理的好条件を、いまだ本当の意味でうまく活用しているとは思えません。それをなんとかするのも、私のライフワークの一つですね。

| | コメント (0)

2020.08.04

ロバート・ヒル(鍵盤奏者)

 

 日紹介したフィッシャーの組曲から前奏曲とシャコンヌ。演奏しているのは、アメリカ出身のチェンバロ奏者(いちおうそう言っておきます)ロバート・ヒル。

 私が彼を知ったのは、ラインハルト・ゲーベル率いるムジカ・アンティクヮ・ケルンで通奏低音やソロを担当していた頃ですから、もう30年近く前になりましょうか。

 今はドイツを中心に活躍しているようですね。一昨年には来日してコンサートやセミナーを行いました。私の知り合いもレッスンを受けて、とても面白かったと言っていました。

 そう、彼は非常にユニークなんですよね。まず、弾く楽器の幅が広い。クラヴィコードからチェンバロ、フォルテピアノ、モダンピアノ、さらに最近では電子楽器まで、まあ鍵盤ならなんでも弾くという感じ。MIDIを使った「partimento mashup」なんていう今風なことにも挑戦しています。

 相当に頭の柔らかい人なんでしょうね。これなんか、どう評価してよいやら(笑)。

 

 

 ヒルさんの演奏の特徴は、自由自在なアゴーギクでしょう。たえとば、フォルテピアノによるこの3声のシンフォニア、非常に魅力的ですよね。バッハがフランスバロックに聞こえる。けっこう好きです、こういうの。

 

 

 彼のYouTubeチャンネルは、本当に多彩な演奏満載ですので、ぜひ覗いてみてください。

 最後にクラヴィコードの演奏を。バッハのあのシャコンヌをクラヴィコードで演奏しています。珍しい。たぶん、バッハ自身もこうして弾いたのではないかと思わせる演奏です。

 

| | コメント (0)

2020.08.03

J.F.C フィッシャー 『エウテルペ組曲』

 

 日はバロック音楽の隠れた名曲を紹介します。

 ドイツバロック音楽でフィッシャーというと、二人の作曲家がいます。ヨハン・フィッシャーとヨハン・カスパール・フェルディナント・フィッシャーです(ややこしい)。

 二人はほぼ同時期に活躍し、ともにフランスのリュリの影響を強く受けた音楽を残しています。

 今日紹介するのは名前が長い方のフィッシャーです。彼の曲で比較的有名なのが「シャコンヌ ヘ長調」。現代ピアノでも演奏される小品です。

 その「シャコンヌ」は本来は組曲の最終曲。その組曲がこの「エウテルペ組曲」です。

 エウテルペとはギリシャの女神の名前。実は、フィッシャーはギリシャの神々をモチーフにした組曲集を書いているのです。

 エウテルペは「喜びをもたらす」神で、アウロスを吹いている絵が残っていることからもわかるとおり、音楽にもゆかりのある女神のようです。

 この組曲「エウテルペ」も、まさに「喜びをもたらす」ような明るさ、軽快さを持つ佳曲ですね。特に最後の「シャコンヌ」はまさにリュリ風の豊かな和声展開をする魅力的な音楽です。

 大バッハも両フィッシャーの音楽を愛していたようです。そう、バッハってテレマンやヘンデル、そして諸先輩方の音楽を高く評価していますが、それって「こんなシンプルな曲、オレ書けないなあ…」っていう気持ちだったのでは(笑)。

 バッハもいいのですが、ちょっと続けて聴くと疲れるので、時々こういう「軽音楽」を挟みたくなりますね。

 神々の組曲の楽譜はこちら。ただし、普通のト音記号ではありませんのでご注意を(第1線がドのハ音記号です)。

| | コメント (0)

2020.08.02

「赤池」出現

Th_050110121672300x211 チの近所なのですが、樹海の中に幻の湖「赤池」が久しぶりに出現しております。2011年以来の珍事。

 2011年といえば、東日本大震災の年。コロナのこともあって、人々がいろいろと「モノ」に対する恐れを抱いていますので、たとえばこういう記事が出たりします。

富士山噴火の前兆!?「幻の富士六湖」9年ぶりの出現に地域住民が戦々恐々

 2011年は、震災のあとに「赤池」が出現しました。ですから前兆でもなんでもありません。しかし、後出しでやはり恐怖をあおるような本が出たり、テレビ番組が放映されたりしました。

 私は、かなり厳しい口調で苦言を呈しています。

正直呆れます…木村政昭著「富士山の噴火は始まっている!」のウソとこじつけ

 まあひどいものです。

 一方、今回も冷静な記事を書いてくれる人もいます。たとえば、あのお天気おじさん森田正光さん。

異例づくめ、7月に出現「幻の池」 秋にも出現するか?

 いずれにせよ、気象性の現象と地学的な現象をむやみに混同することはあってはいけません。

 もちろん、両者が完全に無関係ではありませんし、「天変地異」という言葉があるとおり、なぜか天地が呼応するような場合もあります。しかし、だからこそ、やたら恐怖を煽るようなことはせず、冷静に分析する必要がありますね。

| | コメント (0)

2020.08.01

動画編集ソフト 『Filmora9』

Th_unknown_20200802103401 日はオンライン・オープンスクール本番の日でした。生徒や先生方のご協力により、なんとか間に合いました。ライブ配信ではいろいろとアクシデントもありましたが、ギリギリ乗り切りました。このギリギリ感、なんか懐かしいな。学園祭的な感じ?

 さて、そんなワタクシ、なんちゃってYouTuberはお金がありませんので、動画編集ソフトもプロ用は使えません。

 そこで私がMacBook Proで使っているのが、このFilmoraです。これまた中国製。まあ普通のYouTube動画レベルなら、これで十分ですよ。動画の世界はあんまり本格的にやり出すと大変なことになりますから、この程度でちょうど良い。

 そう、逆に言うと、やっぱりiMovieだとちょっと物足りないんですよね。

 このFilmoraなら、タイトルのモーションやトランジションも豊富にあり、まあそこそこのものはすぐに作れます。操作がシンプルかつ分かりやすく、動作も軽いので快適に編集作業ができます。

 無料でダウンロードできるフォントもたくさんあって個性豊か。

 中華ソフトという先入観とは違い、案外(失礼)上品な動画を作ることができますよ。「仕上がり想像以上」というキャッチフレーズに偽りはありません。

 私は教員なので学割が適用されます。そうしますと永久ライセンスが7,980円です。まあ、利用価値を考えれば十分安い価格と言えるでしょう。これからもちょいちょいお世話になります。 

 Filmora公式

| | コメント (0)

« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »