« 『永続敗戦論 戦後日本の核心』 白井聡 (講談社) | トップページ | 田中英道 『徐福・来日伝説は本当だった』 »

2020.02.23

『全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~ 完全版』(NHK BS1スペシャル)

Th_-20200224-125932 皇誕生日にして富士山の日。2月23日は安藤輝三にとって大変重要な日でもあります。

この日にふさわしい、すごい番組でした。完全版。

 8月に放送された時も、かなりの衝撃でしたが、この完全版にはさらなるメッセージを感じました。自分の人生が動かされます。動きます。決起します。

 完全版に加えられた、関係者の言葉たちの重さ。特に「教育は恐ろしい」という言葉。そして、安藤輝三大尉のご次男日出雄さんも登場され、あのことについて語っておられました。

 2月26日午後7時から再放送があります。皆さん、ぜったいに観てください。

 今日は、ここに昨年8月の放送時に書いた記事と、日出雄さんが語ったことについての昨年4月の私の記事を転載しておきます。お時間のある方にはお読みいただきたいと思います。

 2019年8月17日の記事

 送当日観ることができなかったこの番組を今日観ました。これは「やばい」ですね。本当に驚きですし、ある意味初めて納得できた部分もありました。

 まさか海軍がここまで情報を持っていたとは。しかし結果としては、事件後に陸軍の力が強くなってしまった。正直、海軍は情報を持ちすぎていたために道を誤ったのかもしれません。

 だいたい、事前に詳細な予測ができていたのに、それを止めることができなかった。いや、あえて止めなかったのか。陸軍内を分裂させるつもりだったのか。本気で陸軍と市街戦をやるつもりだったのか。国会議事堂を長門が砲撃していたら…。

 私としては、やはり安藤輝三の自決未遂の前後の描写が辛かった。ある意味、あの自決が陸軍の分裂も、陸海軍の衝突をも回避させたのかもしれません。

 そして、この事件をきっかけに日本は戦争に向かっていったというのは簡単です。表面的にはたしかにそうでしょう。しかし、本質はもっと深く高いところにあるような気がします。

 事件が決行され、失敗し、鎮圧され、天皇と陸軍の権威が増し、開戦、そして壊滅的な終戦。冒頭語られているとおり、天皇の心に「終戦の聖断」と「二・二六事件」が特別な影を落としているとすると、その二つの「決断」の裏に鈴木貫太郎がいることを忘れてはいけません。

 二・二六事件においては間接的ではありながら天皇に決断させ、聖断においては直接的に天皇に決断をさせたのが鈴木貫太郎です。つまり、あの暗黒と思われる日本のある時代を生み出したのも終わらせたのも鈴木貫太郎であったとわけです。

 いわゆる一般的な時間観、因果論で言うなら、たしかに二・二六事件がのちの戦争の原因になっていると言えましょうが、私の宇宙人的(?)時間観、因果論で言うと、あの終戦の聖断のために開戦があり、その開戦のために二・二六事件があったことになるのです。

 そして、今回、その聖断の原因がさらに未来にあることを確信したのは、今回の「最高機密文書」が、あの富岡定俊所有であったという事実です。

 そう、実は富岡定俊は、仲小路彰を心から慕い尊敬し、戦後も含めて多くの影響を受けていた人物なのです。

 昭和14年ごろでしょうか、総力戦研究所に「天才的頭脳を有す」として仲小路彰を推薦したのは富岡定俊です。そして、昭和19年に仲小路を山中湖に疎開させたのも富岡定俊。また、この番組の冒頭にも紹介されていたミズーリ艦上での降伏文書調印後、富岡の自決を思いとどまらせたのは仲小路彰です。

 そして、戦後、仲小路彰は自らの大著「ロシア大革命史」を富岡定俊の名前で刊行しました。また、仲小路が戦後展開した「未来学」を、経済などの実学の面で具体化したのも富岡でした。

 その富岡が、この二・二六事件に関する海軍の「最高機密文書」を保管していたという事実は何を意味するのでしょう。そしてそれがこの「未来」に白日の下にさらされることになった意味は。

 奇しくも、二・二六事件のその日は、仲小路彰35回目の誕生日でした。

 ついでに今日は私の誕生日…それは関係ないか(笑)。

 

 2019年4月11日の記事

 わず涙してしまうニュースでした。本当に本当に良かったと思います。なにか自分の中でも一つの区切りができたような気がしました。
 二・二六事件での、襲撃した側と襲撃された側とが、こうしてようやく一つになった。いずれも天皇のことを、日本という国のことを、国民のことを真剣に考えていたのに、あの時代の中でああいう結果になってしまった。
 しかし、それがのちの「開戦」と「終戦」を生むことになる。ここにさらに未来的な意味を見出さねばと思っていた私と家内にとって、このたびのこのニュースは一つの結論、ゴールを示すものとなりました。
 そう、こちらに書きましたとおり、私たち夫婦は3年前、安藤輝三大尉の墓前で偶然に、このニュースでも紹介されている安藤日出雄さんに出会いました。
 そして、そこで、まさに安藤輝三と鈴木貫太郎の話、さらに仲小路彰の話、出口王仁三郎の話をしました。二・二六事件がいかに未来的な事件であったか。安藤大尉も鈴木侍従長も、自らの命をかけて「天命」を全うしたのです。人間の微視的な感覚ではとても評価できるものではありません。
 私たちと日出雄さん夫妻とのお話が、その後の遺品発見、そして今回の奇跡的な和解、融合につながったとは申しません。ただタイミングが合っただけでしょう。しかし、巨視的に見れば、ここにも仲小路や王仁三郎の天からの意志が働いたとしか思えません。私たち夫婦もあの時は完全に動かされていました。
 本当に嬉しいことです。ぜひ、鈴木貫太郎記念館に赴き、安藤大尉の遺品を拝見しながら、天皇を中心とする「融和」「融合」「和解」がキーワードとなる、「令和」の未来について思いを馳せたいと思います。
 日出雄さんの、そして鈴木家の皆さんのご英断に心より感謝申し上げます。

|

« 『永続敗戦論 戦後日本の核心』 白井聡 (講談社) | トップページ | 田中英道 『徐福・来日伝説は本当だった』 »

映画・テレビ」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『永続敗戦論 戦後日本の核心』 白井聡 (講談社) | トップページ | 田中英道 『徐福・来日伝説は本当だった』 »