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2020.02.02

能 『弱法師・春日龍神』

Th_-20200203-113221 日は昨日とは打って変わって日本の音楽にどっぷり。

 次女の師匠である人間国宝野村四郎先生出演の、観世会定期能を鑑賞いたしました。

 昨日バッハやヴィヴァルディをたっぷり体験したおかげで、東西音楽の対比がより明瞭に感じられました。

 いやはや、どちらもすごい。ただ、最近、私が歳をとったせい(おかげ)もあると思うのですが、やはり日本の「もののね」の世界が面白くてしかたないのです。

 少なくとも、東西音楽で脳みその全く違うところを使っているし、刺激されていることがよくわかって、つまり、両者は全く違う次元で展開していることがわかって面白いのです。

 今回、野村先生シテの「弱法師」は、あらかじめそのストーリーを知った上での鑑賞でした。それは、私の「モノ・コト論」で言うと、ストーリーや言葉という「コト」をインプットした上での鑑賞。

 その「コト」がどのように「モノまね」に取り込まれていくのか、あるいは凌駕されていくのか、それを感じることができましたが、ある意味そうした意識(コト)が邪魔をして、モノの世界に没入できなかったところがありました。西洋音楽を鑑賞するように鑑賞してしまったとでも言いましょうか。

 その点、関根知孝さんシテの「春日龍神」は、その内容をほとんど知らないで臨んだために、大変な鑑賞体験となってしまいました(いい意味で)。

 いやあ、初めての体験でした。死にそうになったんですよ(笑)。眠いのとは違う。あっちの世界に連れて行かれた感じ。意識が飛んでいるのですが、寝ているわけではない。死ぬ時ってこんな感じ?という感じ。

 実は座禅をしている時に、ときどきそういう境地に至ることがあるんですよ。眠ってしまうとフラフラするじゃないですか。あるいはガクッとか。それがないんです。しっかり背筋が伸びて、微動だにしない。自分が仏像にでもなった感じ。あの感じに近かった。

 座禅というのも、そういう次元に至るためのテクノロジーというかメソッドですが、もしかすると、世阿弥という宇宙人は「能」をそういう意味で完成させたのかもしれない。単なる演劇とかミュージカルとかオペラとは違う。

 能のテーマの多くが「あの世(霊界)」とこの世との交流というのも象徴的ですね。やはり、私たちは脳波のコントロールによって高次元とつながれるのですね。

 今日は、特に囃子方の皆さんの集中力によって、私はそちらの世界に引き込まれたような気がしました。そして、何度も、半分あの世(生黄泉)で、あの大鼓が満月に見えた。なんだか分からないけれども、「なるほど!」と思ってしまったわけです。

 薬物とかいりませんよ、こりゃ(笑)。

 うん、これはバッハよりもずっと深い世界なのかもしれない。そんな気がしました。西洋音楽は楽譜にせよ、楽器にせよ、音程やリズムにせよ、「コト」を窮めて「モノ」に至ろうとしている。日本の音楽は「モノ」そのものを招こうとする。「物学(ものまね)」ですよ。

 いや比較してはいけないのかな。比較こそ「コト」の出発点ですからね。

 まあとにかく、次女はとんでもない世界に足を踏み入れてしまったなと。本人も当然それに気づいているわけですが。

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