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2019.02.28

「逃げ恥」の原理

Th_images いっきり時代遅れな話ですみません(笑)。
 実はあのドラマ観てないんですよ。原作の漫画も読んだことがない。昨日、老師さまとお話していて、なんと「逃げ恥」の話が出ました。私の観ていないあのドラマをなんとご覧になったのだとか(たまたま一部を観たとのこと)。
 しかし、ただ観ただけでは終わらないのが、さすが老師さま。そこからいろいろな深い人生論につながっていきました。あの「逃げるは恥だが役に立つ」ということわざのルーツであるハンガリーにまで行かれて、その奥深い御法話をなさってきたのだとか。さすがです。
 さて、その御法話の内容はここでは控えるとしまして(著作権の関係?)、ハンガリーのことわざとしての「逃げ恥」について書きましょう。
 ハンガリーと言えば「ジプシー」ですよね。まさに「逃げる(走る)」というのは、ジプシーの本質を示す動詞です。ハンガリーは「ハン」は「フン族」の「Hun」でもあり、マジャールは「モンゴル」とも同源とされています。フン族も一説では匈奴であるとも言われています。フィンランドの「フィン」も同系の言葉ですよね。
 すなわち、彼らはアジア系の遊牧民といいますか、コーカソイドとモンゴロイドの混血とも言えると思います。いわばゲルマン民族らに追われて、移動せざるを得なかった民族ですね。
 この前演奏したバッハのカンタータ18番には、トルコに対する恐怖と嫌悪が露骨に表現されていました。バッハのルーツはハンガリーなのに(笑)。
 面白いのは、フン族の末裔や血脈と言われる民族の言語の多くが、膠着語であり、また開音節構造であり、語順も日本語流です。
 日本も極東という、それこそ逃げて逃げて背水のところまで来てしまった民族ですからね。やはり同系の民族である可能性は十分あります。ですから、「逃げるは恥だが役に立つ」がヒットしてもおかしくありません。
 追いやった民族の原理(一神教的な原理)と、追いやられた民族の原理とは大違いで当然です。「逃げる」とは「戦わない」ということでもありますし、自我や財産にこだわらないということでもあります。それは非常に仏教的であるとも言えますね。
 なんだかまとまらない話になってしまいましたが…さて、21世紀、22世紀の価値観はどちらになるのでしょう。逆転なるのか。老師さまともそんな話をいたしました。
 二月は逃げていく。本当にそうですね。今日は高校の卒業式でした。明日から三月です。三月も去るのがはやいのでしょうね。

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2019.02.27

和合僧

 日は岐阜正眼寺師家、山川宗源老大師さまと夕餉をともにしながら、いろいろお話をさせていただきました。
 おいしいお酒の勢いで、老師さまを相手に図々しく偉そうなことを語ってしまったと後悔しております(苦笑)。
 しかし、その図々しさのおかげさまで、本当に稀有なる教えをいただきました。中でも、聖徳太子の十七条憲法についての意見交換は楽しかった。
 私は、仲小路彰流の第一条の「和」を「和魂(にぎみたま)」とする考えをお伝えしましたが(こちら参照)、老師さまからは「和合僧」のことであるとのご意見をいただきました。なるほど。
Th__20190301_144340 和合僧というと、この写真のように某新興宗教教団たちがよく使う「破和合僧」というネガティブな表現が有名です。たしかに「破和合僧」は小乗で説く五逆罪の一つであり、さまざまな教団において、ある意味裏切り者を断罪する便利な言葉でもあります。
 そのもとになる「和合僧」とは、まさに「和合するサンガ」という意味です。そして、それを破ってはいけないということです。たしかに十七条憲法の第一条「以和為貴、無忤為宗」の「忤」は「破」と同じ意味だとも言えますね。
 老師さまもおっしゃっていましたが、そういう「真理」はそれぞれ違う土地で同時に生まれるものだというのはたしかです。違う言葉で表現されるから、ある意味次元が低くなってしまっていて、それで別のものに見えてしまう。いつも言うように、「コト」より「モノ(物質ではないですよ)」の方が高次元なのです。
 言葉にこだわるのではなく、言葉の向こう側にある本質を観るべき。これこそ禅の教えでありましょう。老師さま、ありがとうございました。
 

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2019.02.26

二・二六事件から83年

Th_img_3599 日は2月26日。二・二六事件から83年経ちました。
 私たち夫婦と二・二六事件との不思議すぎる因縁については、こちらの記事にある程度詳しく書いてありますが、全てをこのブログに書くわけにはいきません。それはあまりに荒唐無稽な、いやあまりに安っぽい三流小説のようなストーリーだからです。しかし事実は事実でしかありません。もしお知りになりたい方は、ぜひ我が家にいらしてください。たっぷりお話いたします。
 さて、先ほどの3年前の7月12日の記事で紹介した、安藤輝三の次男であられる日出雄さんのお宅で、1年少し前になりますか、輝三さんの外套とサーベルが見つかりました。
 それが先日23日に岐阜で公開されたのですが、残念ながら都合で行くことができませんでした。
 この外套には、星三つの肩章があることから大尉時代のものであることがわかります。さらに血痕も残っているということで、おそらく二・二六事件当日に着用していたものと思われます。つまり、血痕は、自害未遂の際のものでありましょう。
 そうしますとサーベルも事件当日に帯刀していたものでしょうか。いずれにせよ、80年経った今、こうして新しい御代になろうかという日本に現れたことには、なにか大きな意味があるような気がします。
 単なる過去の事件として考えるとどうにも煮え切らない二・二六事件。その未来的意味とはなんなのでしょうか。あらためて考えてみたいと思います。

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2019.02.25

追悼 ドナルド・キーンさん

Th_k10011826371_1902241336_19022413 ナルド・キーンさんがお亡くなりになりました。震災をきっかけに日本人になったキーンさんは、愛する日本の土に還ることになりました。
 現代のどの日本人よりも、ある意味深く日本を理解し愛していたキーンさん。日本人として少し恥ずかしくもあります。
 だいたいですね、今回キーンさんにについて書こうかと思ったのですが、実際書こうとしたら何も書けなかったのです。自分でも意外なほどに、キーンさんの本を読んでいなかった。なんとなく尊敬していたというだけで、その功績もよく知らなかったというわけです。
 つまり、私なんかよりずっと日本文学、日本文化に詳しかったのはたしか。川端康成や三島由紀夫と懇意だったのは、ある意味キーンさんが外国人だったからでしょう。川端や三島のレベルになりますと、これは意外に感じられるかもしれませんけれども、決して「日本的」ではないのです。地球的であり、宇宙的なのです。
 それがたまたま日本という国の風土文化の中で、日本語を使って表現されたから、まるで「日本的」であるように見えるのです。
 ドナルド・キーンさんもそういう意味では地球人であり、宇宙人であったということですね。決してアメリカ的ではないし、ご先祖のロシアやユダヤの感じでもない。
 それこそたまたま日本語、日本文学、日本文化を通じて、その先にある地球的な、あるいは宇宙的なスケールでの本質を観ていたのでしょう。
 「鬼怒鳴門」という当て字がなんとも象徴的です。「鬼怒」で「キーン」、「怒鳴門」で「ドナルド」。「怒」が「掛漢字」になっているところが素晴らしいですね。
 ご冥福をお祈りしながら、遅ればせながら著作を読んでみたいと思います。

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2019.02.24

バッハ 『カンタータ18番』

Th__20190225_173945 日は久しぶりに、杉並の本郷協会でバッハのカンタータを演奏しました。
 ピンチヒッターでの急遽参戦でしたが、かつてよく一緒に演奏した音楽仲間との再会とともに、あいかわらずの淡野太郎さんのお見事な解釈と解説によって、自分自身も大変勉強になりました。
 写真は長女が撮った「空気を読まず5弦ヴィオラを調弦中の異教徒」です。そう、長女の大学からすぐ近くなんですよね。長女もキリスト教系の女子大で勉強しているので、ようやくこういう世界に興味を持ったようです。珍しく私の演奏会に来てくれた。
 今回演奏したのは、カンタータ18番「天より雨くだり雪おちるがごとく」。それもリコーダーを加えたいわゆるライプツィヒ版でした。
 YouTubeに桜田亮さんの名唱がありましたので、ぜひご覧ください。

 それから淡野さんの解説が抜群なのでシェアします。ぜひお読みください。

解説1
解説2

 この解説にありますとおり、なんと言ってもこの曲の特徴はヴァイオリンのパートがなく、そのかわりにヴィオラ4挺という変則的な編成です。
 4という数字に対するこだわりがかなり強いわけですが、私は全く不勉強のKYでして、5弦のヴィオラを持っていってしまいました(笑)。なるほど、弦4本のヴィオラが4本というのが狙いだったわけですね。
 ま、私はキリスト教会には不似合いな坊主頭に左手首に数珠を巻いた出で立ちでしたから、ちょっとした異教徒が混ざっていたという感じでしょうか(失礼いたしました)。
 しかし、こうして教会暦に従って毎月のように、カンタータや受難曲などがしっかり演奏されているというのはすごいことですね。ヨーロッパでもそういう習慣はどんどん減っていると聞いていますから、この地理的にも歴史的にも遠く離れた現代日本で、こうしてオリジナルに近い形で演奏されていることに対して、どうでしょう、バッハ自身も霊界から感慨深く聞き入っているのかもしれませんね。

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2019.02.23

太陽系最大の火山(日本の東方沖)

 日は富士山の日。来年からは天皇誕生日となります。まさに二つの日本の象徴が一つになるわけです。あまり指摘されませんが、これはすごいことですね。
 今上天皇のお誕生日があの日と重なっているのとは大違いです。(こちら参照)。
 さて、ある意味最後となる純粋な富士山の日に、富士山を遥かに上回る自然の驚異の話をしましょう。
 富士山は言うまでもなく活火山ですが、火山としては決して大きい方ではありません。とっても若々しい成長過程にある火山です。
 たとえば阿蘇山は火山としては富士山よりもかなり大きいし、比較にならないほど大きな噴火を起こしています。
 では、地球上で最大の火山はというと、一般的にはハワイのマウナ・ロア火山だと思われていますが、それはあくまで地上に出ている火山ではということで、海底に隠れている火山まで含みますと、実は日本の東方沖1600キロ(近い!)にあるタム山塊(火山)が最大ということになります。
 このタム山塊は海底の台地の一つであるシャッキー海台の南部にあり、実は火山としての総体的な規模では、あの火星のオリンポス火山をしのぎ、現在確認されている中では、なんと「太陽系最大」の火山だということです。
 そんな火山が噴火したら日本は…と思ってしまいますが、その心配はほとんど無用です。1億4400万年前に短期間(と言っても数百万年)活動し、その後は静かだとのこと。つまり活火山である可能性はかなり低い(しかしゼロではない?)そうです。
 しかし、そうしたダイナミックなエネルギー放出の痕跡が日本のすぐ近くにあるというのは象徴的です。ある意味、現在の地球、生命のルーツはそこにあるとも言えるからです。
 日本に世界の火山活動や地震の1割が集中しているというのは、ある意味ではこのタム山塊の名残だとも言えましょう。
 日本の様々な神話体系において、火の神や水の神が重視され、またその両者がある種の格闘を繰り広げるのも、そうした太古の記憶が影響しているのかもしれません。火と水が出会うところに巻き上がる水蒸気が「龍」であるということも間違いないでしょう。
 富士山はそうした火と水のエネルギーの象徴として存在しています。来年以降、2月23日はますます重要な日となることでしょう。
 あっそうそう、ちなみに「火」と「水」で「カミ」と読ませる俗説が横行していますが、音読みと訓読みを組み合わせている時点で問題外です。どちらかというと「ヒミコ」の方がそういう考えに近いかと。

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2019.02.22

『ねことじいちゃん』 岩合光昭監督作品

Th_640 の日です。
 観てない映画をおススメすることはまずないのですが、これは例外です。
 世界的に猫ブームの昨今、猫映画も多数ありますね。それら全てが猫マニアにとって幸せな映画かどうかは微妙です。やはり作られた感というか、やらせ感が出てしまうと、本来の不如意な猫の自然な姿とはかけ離れてしまう。
 その点、この映画には大いに期待できます。なぜなら、監督が岩合光昭さんだからです。世界ネコ歩きを観ればわかるとおり、彼の映す猫は、まさに自然体。おそらく岩合さんは世界で最も猫を猫らしく撮るカメラマンです。
 そんな彼の初監督映画作品がこれ。予告を観るだけで、もうやられた感がありますね。さすがです。
 そんな猫にとって自然な映画において、人間がどのように描かれるのか。非常に興味があります。立川志の輔さんもやり甲斐ありまくりだったでしょう。俳優ではない人を選んだところは、なるほどですね。

 猫だらけの特別映像も観てみましょう。岩合さんは「動物写真家」ですよね。動物の中には人間も入っているのですね。猫と人間の関係性を描くことにもおいても、間違いなく世界一の人です。

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2019.02.21

北海道地震は人災か?

Th_a6e1f_1405_9fe592fcfb7d1bb9806a8 海道でまた大きな地震がありました。被害が小さいことを願います。
 この地震について、鳩山由紀夫元総理がこんなツイートをしました。

 先ほど北海道厚真町の地震は苫小牧での炭酸ガスの地中貯留実験CCSによるものではないかと書いたばかりの本日、再び厚真町を震源とする震度6の地震が起きてしまった。被災された方々にお見舞いを申し上げると同時に、本来地震に殆ど見舞われなかった地域だけに、CCSによる人災と呼ばざるを得ない。

 たしかに寸前にこんなツイートをしていますね。

 先日昨年の北海道厚真町地震が高圧でCO2を地下に貯蔵するCCSにより人工的に引き起こされたのではないかと書いた。実際、北大の研究者が5年前にその可能性があるとする論文を発表していた。日本では地震の影響を考慮するとCCSは非現実とも述べている。政府は決して認めないだろうがCCSは再考すべきだ。

 ここでの「先日」のツイート内容は以下のとおり。

 CCSの実験は最初長岡で行われたが、中越地震、中越沖地震と続き長岡での実験は中止となった。その後、いわき市沖と苫小牧沖でCCSの実証実験が続けられたが、ご案内の通り東日本大地震と北海道地震が起きている。これらの巨大地震とCCS実験が無関係と言い切れるのか。少なくとも徹底検証が必要だ。

 私は、この鳩山説を完全に否定しようとは思いません。CCSが地震発生のトリガーになった可能性はあるでしょう。
 しかし、だからこそ別の視点もあることを忘れてはいけません。すなわち、人工的に地震を早期に発生させ、その規模を小さくする、つまり地震を小出しにして巨大地震を防ぐという考え方です。
 地震を発生させる歪みは、基本的には時間の経過とともに蓄積されていきます。ですから、ためこめばためこむほど、発生時期が遅くなればなるほど、その規模は大きくなります。
 ですから、その発生時期を意図的に早めるのが減災につながるという考え方があります。いまだその技術は確立したとは言えませんが、理論的には十分可能となっています。
 CCSはその目的で実験されているわけではありませんが、同様に地下に何かを充填したり、あるいは地下構造を人工的に破壊して、大難を小難にしようという研究は実際進んでいます。
 それこそ不謹慎と言われかねませんが、考え方によっては、今回の地震も「小出し」の一つとなった可能性が高いのです。
 難しいですね。自然をコントロールするのは。

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2019.02.20

Benks iPhone7/8 液晶保護フィルム

Th_41c7hsuepdl iPhoneの液晶保護フィルムを買いました。以前貼っておいたものが、傷だらけになったので、覗き見防止タイプで一番安いものを買って貼り替えました。
 これがなかなか良かった。まず、覗き見防止タイプにしては暗くならないところがよい。覗き見機能はそれほど強力ではありませんが、まあ別に見られたくないようなモノを見ているわけではないので、これで十分です。
 それから貼りやすかった。気泡やゴミがゼロというのは、今までの保護フィルム経験(けっこう多数)の中では初めて。位置も合わせやすかったし、とにかく一発できれいに貼れて大満足。今まではストレスだったからなあ。
 タッチの反応も大変よいし、全面タイプでありながら、それほど重さも感じません。あとは耐久性だと思いますが、まあ1000円そこらでいろいろ付属品もついて、パッケージもしっかりしているので、とりあえずはコスパ最高と言っておきましょう。
 説明書は中国語と英語しかありませんが、別にそんなに難しい作業をするわけではないので問題ありませんね。おススメです。
 ちなみにケースはこちらです。これがまたとってもいい製品でした。耐久性も今のところ全く問題ありません。全然へたったり汚れたりしていません。お風呂に一緒に入ったり(湯船に落としたり)してるのに大したものです。本当に中国の製品は質が高くなりましたね。

Amazon Benks iPhone7/8覗き見防止液晶保護フィルム


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2019.02.19

ジャイアント馬場没20年追善興行

Th_679x960xe2d54bd5828d874826fa7ac5 日2月19日は「プロレスの日」。1954年、力道山とシャープ兄弟が蔵前国技館だ戦った日です。
 そんな記念すべき日に、両国国技館で素晴らしい興行が行われました。ジャイアント馬場没20年追善興行です。
 団体を超え、新旧大物レスラーが一同に集い、多くのプロレスファンとともにジャイアント馬場さんの偉大さを共有した日となりました。
 平日ということもあって、私は行くことができませんでしたが、もう参加選手の名前を見るだけでも、ワクワクしドキドキし、本当にプロレスファンでよかった、ジャイアント馬場ファンでよかったと思いました。
Th_img_c07f6fc53421e7677f5382e0a59d それぞれの入場曲がかかっただけでも、もう大興奮でしたでしょう。プロレスがこうして世代、時代を超え、20代から70代までが同じリングで戦える芸術であるということが、これほどまでに見事に表現された興行があったでしょうか。まさにアート。スポーツのくくりにはとても収まりませんね。
 もう理屈はどうでもいい。物語がこうして紡がれていくことに感動を覚えます。勝ち負け、強い弱いなどという、ある意味この世を支配している二元論的な価値観を、いとも簡単にふっ飛ばしてしまうのが、このプロレスの魅力であります。それはどちらかというと音楽に近い。
 そう考えますと、ますますジャイアント馬場さんのレスラー人生は奥深いものだったと再認識されます。今日会場にかけつけてくれた永遠のライバルであるアントニオ猪木さんも、あらためて馬場さんの奥深さを痛感したことでしょう。
 あの昭和の時代を超え、総合格闘技に押されたあの時代を超え、今、世界で高く評価されている日本の最前線のプロレスは、やはり馬場・猪木がその基礎を作り上げたと言えるでしょう。そして、今や、大人気の新日本も、どちらかといえば馬場さん寄りのプロレスをやっている。そこが面白いところだと思います。
 明るく・楽しく・激しく。殺伐とした世界観ではなく、どこか調和した美しさのあるプロレス。日本の神話の世界でいえば、荒魂と和魂がせめぎ合った結果、和魂が荒魂を包み込み、より高次な和魂になったという感じです。
 これからも私はずっとプロレスファンであり続けます。馬場さん、そしてたくさんのレスラーの皆さん、本当にありがとう。


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2019.02.18

そろそろ純米酒 (諏訪大津屋本家酒造)

03990503 しいので軽めの記事で。
 生協で届けてもらった格安紙パック日本酒です。いろいろな紙パック酒を試しております。特に純米酒や米だけの酒。
 その中でも、この「そろそろ純米酒」は結構高評価の方ですよ。日々飲む酒は基本辛口好みなので、このさっぱりとした辛口感はいいですね。安い酒にありがちないやらしい甘さは全くありませんし、同じく安い酒にありがちな無味乾燥な「さっぱり感」とは違い、しっかりお酒の味がする「さっぱり感」です。
 いわば、コクがあるけどキレがあるという感じでしょうか。
 お値段も安いし、届けてもらえるし、しばらくこれで行こうかな、と思っています。
 ちなみに友人がよく大津屋本家の高級酒を買ってきてくれます。言うまでもなく別次元で素晴らしくおいしいですよ。
 諏訪大津屋本家酒造株式会社と言えばダイヤ菊。ダイヤ菊と言えば蓼科雲呼亭の小津安二郎ですよね。野田高梧と100本飲んで1本脚本を書くというのがパターンだったそうです。

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2019.02.17

香道を初体験

Th_img_3577 日は千葉と東京で、人生初の体験をしました。千葉で体験したのは「香道」。
 いやあ、面白いですねえ。全く当たりませんでしたよ(笑)。
 正直、嗅覚には自信があったんですけどね。主人もおっしゃっていたように、とにかく理屈で考えたらもう駄目ですね。昨日までの話じゃないけれども、やはり言語(知性)よりも感性の方が高次元というか、間違いなく集合の規模が大きい。モノがコトを包括している。
 やはり記憶しようとすると、つい言語が発動してしまうんですね。それが結局じゃまになる。「これが来たらこれ」みたいな「1対1対応」こそ、言語の本質ですよね。それで対応しようとしてしまう。学校のテスト対策みたいに。学校教育の弊害ですな。
 今日いきなり挑戦したのは「組香」でしたが、面白いのは、言語を超えているはずなのに、「言葉遊び」は豊富にあるんですよね。組み合わせの名前がしゃれてるじゃないですか。比喩というか、いや、もっと高次元だな。言葉の意味を一度わざと壊すというか。
Img_3590
 やはり禅的だなとも思いました。だいたい「香りを聞く」というのが、観音みたいに言語的矛盾を含んでいる。しかしそこに本質が見え隠れする。感じられる。
 コトに支配されているこの現代社会に、忽然とあらわれた「モノ」世界。なんとも新鮮でしたし、ある種の不安というか、非日常的なドキドキもあって、なんとも貴重な体験でありました。
 専門家の皆さんの作法の美しさにも、不思議なドキドキを感じましたね。なんとも贅沢な時空間でありました。
 終了後、東京では正反対のコトの権化のような世界を初体験。とはいえ、やっぱりその向こう側にはモノ世界がありました。面白いですね。

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2019.02.16

オックスフォード白熱教室「数学が教える”知の限界”」

 リーズ最終回。
 昨日までの流れで言いますと、「数学が教える”知の限界”」とは、まさに「コト」の限界のことですね。人間の小さな脳ミソで認識されることが「コト」ですから、それは限界があって当然です。
 しかし、コトを超えた高次元世界(宇宙)とつながることはできます。いわゆる言葉にならない世界ですね。本当の意味の「言語道断」。あるいは「得も言われぬ」というやつですね。芸術の本質はそこにありますから、やはり芸術の方が数学よりも、感性の方が知性よりも高次元ということでしょう。
 そうそう話がそれますが、最近「エモい」っていう言葉がはやってるじゃないですか。これは「emotion」「emotional」が語源だと思うんですが、偶然にも「えもいわれぬ」の最初の三文字と一致しています。これは実に面白い偶然ですね。「エモい」はまさに「得も言われぬ」ですから。
 「得も言われぬ」は言うまでもなく、古文で習う「え…ず」という不可能表現の名残です。「言うことができない」「言葉では言い表せない」ということですから、まんま「言語道断」な「モノ」世界への直接的な共感です。
 そう、古い日本語では「もの」はまさにそういう意味でした。「もののあはれ」が一番わかりやすい。言葉にできない、したくない時には、日本語ではたとえば「ものす」という動詞のように、「もの」を使いました。あきらかに「こと(言・事)」と対比される存在として「もの」がある。
 だから、なんでも「エモい」と言ってしまう若者は素晴らしいんですよ。逆に西洋近代的思考にとらわれた老人は、なんでも言語化したがる。実はそっちの方が低次元なんです。
 なんて、自分も老人ですからね、こうして「コト化」して喜んでいるわけです(苦笑)。ただ言えるのは、あらゆる芸術家は、職人的に「コト」を極めていこうとします。そして「モノ」世界に至る。ここが面白いところです。私がいつも「コトを窮めてモノに至る」と言っているのは、そういうコトです。世の中、人生はそういうモノなのです。
 ペレリマンがポアンカレ予想を解いたあと世捨て人になった(きのこ狩りをしている?)のも、そういうことでしょうし、ガロワの死ももしかするとそういうことだったのがもしれません。
 数学が宗教的であり、どこか「死」を予感させるものであるのもうなずけますね。

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2019.02.15

オックスフォード白熱教室「隠れた数学者」

 日の記事の最後で、「私の数学への憧れ、音楽への憧れというのは、まさにモノがコトを憧れるということなのです」と書きましたが、さっそく訂正します(笑)。
 正確に言いますと、数学と音楽とでは次元が違います。音楽の方が次元が高い。数学は言語です。ですから「コト(ノハ)」です。
 音楽の古名は「もののね」。モノの音なんですね。しかし、そのモノ世界を私たちに理解できる形で表現するためには、すなわち「コト」として認識するためには、仲介役(メディア)が必要。それが、たとえば神事で使われた「琴」であります。「コト」なんですよ。
 というわけで、結論から言いますと、この世界(宇宙)総体は「モノ」です。それを言語やルールなどの人間用メディアで認識可能にしたのが、「コト」世界なのです。
 つまり、どう考えても、モノの領域の方が広い。コトはモノの一部であるとも言えます。
 この講義の中で、数学を音楽にしたり、ダンスにしたり、いろいろな試みが紹介されていますが、それがどこかあまり美しくなく感動的でないのは、コト次元をコトで表現しているからですね。
 ちなみに美しいと感じるとか感動的とかいうのは、言語を超えています。すなわちコトを超えている。だからモノ領域です。高次元なんですね。
 近い内にそのあたりをまとめてみたいと思っているんですが、なにしろ現実世界が忙しすぎて(笑)。またいつか。

 

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2019.02.14

オックスフォード白熱教室「シンメトリーのモンスターを追え」

 ーカス・デュ・ソートイの数学講義2回目。シンメトリー(対称性)の面白さ。
 特にバッハと徒然草の話は面白いですね。私たちがシンメトリーに気づくのは、たしかにそれが崩れた時です。私たちの日常は、数学的、あるいは図形的なシンメトリーだけでなく、社会的、心理的なシンメトリーの中で生活しています。
 いわゆる日常生活というのは、ほとんどシンメトリーに進行していきます。時間というか時間割、時刻表によって進行しているというのが一番わかりやすい例でしょう。
 それが崩れる時、すなわち自然災害などによってそれが崩れた時に、たしかに日常=シンメトリーのありがたさが再認識されたりする。よくありますよね。
 およそ秩序と言われるものは、全てシンメトリーなのです。ワタクシの言語で表現するなら、シンメトリーは「コト」、アシンメトリーは「モノ」ということですね。神はコト(みこと)、人間はモノ(者)です。
 私の数学への憧れ、音楽への憧れというのは、まさにモノがコトを憧れるということなのです。

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2019.02.13

オックスフォード白熱教室「素数の音楽を聴け」

 っとまだ13日づけの記事か…実は今は21日の早朝です。
 人生史上最大に忙しくなっておりまして、さすがにこちらでは手抜きをさせていただきます。とは言え、日々書きたいことがたまっているのは事実、いやよくあるように忙しい時こそ違うことをしたくなるものです(笑)。
 こんな時も、ある意味どうでもいいこと、しかし人生の本質に迫るとも言えること、たとえば現在の苦難の現れ方(突発的であり連続的である)にもつながるような、世の中の法則というか不思議の象徴である「素数」。相変わらず気になってしかたありません。
 そこで、「素数」を入り口に、まず4日分の記事を「白熱教室」で埋めたいと思います。数学者マーカス・デュ・ソートイによる本当にいい講義です。
 音楽家としての教授もなかなかですね。そしてもちろん教育者としても。


 

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2019.02.12

Dream HEART 『吉本ばなな ✕ 茂木健一郎』

Th_20190202dream_heart2019_2_21 ょっと大変なことが続いておりますが、そんな中、嬉しいこともありました。
 敬愛するお二人のお話の中にワタクシの話題が出てきまして、びっくりいたしました。2月2日放送のTOKYOFM「Dream HEART」のvol.305、ゲストは作家の吉本ばななさんです。
 このブログでも紹介しました、ばななさんの『違うこと」をしないこと』の内容を中心とした対談に、例の「時間は未来から過去へと流れる」の話題が出てきます(12分くらいから)。Podcastで聴くことができますよ。

Dream HEART vol.305 作家 吉本ばななさん

 茂木さんも吉本さんも、私にとっては憧れの人。遠い遠い世界の人だと思っていましたが、まさかこんなご縁ができるとは…人生面白いですね。
 後半も、お二人の素敵な感性が響き合う魅力的な内容になっています。ぜひお聴きください。

Dream HEART vol.306 作家 吉本ばななさん

Dream HEART 公式

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2019.02.11

Piccadilly Circus 『Never Cry Butterfly』

Th_61fbgv0lz6l_sx425_ 日、竹内まりやさんの「家に帰ろう」を紹介しました。あれはAメロの入りがサブドミナントというのが珍しいと書きましたが、竹内さんの曲にはそういう非トニック入りのものがいくつかあります。
 「家に帰ろう」以外の曲でサブドミナント入りといえば、この「Never Cry Butterfly」があります。しかし、ご存知のとおり、この曲はカバーであり竹内さんのオリジナルではありません。編曲も含めてものすごくよくできた曲です。まずは竹内まりやバージョンを聴いてみましょうか。

 たしかに竹内まりやさん山下達郎さんの好みとはちょっと違う、ブリティッシュ・ポップのテイストがありますね。私はどちらかというとこちら寄りです。
 そう、この曲のオリジナルは、日本のビートルズとも言えるピカデリー・サーカスの楽曲なのです。作詞は杉真理さん、作曲は伊豆田洋之さん。まさに日本のジョン&ポール。
 では、オリジナルで聴いてみましょう。

 竹内バージョンはアレンジも含めてほとんどオリジナルどおりだということが分かりますね。職人山下達郎さんも手のつけようがなかったのでしょう。たしかに入りだけでなく、各所のコード進行にいい意味での「作られた感」があります。研究の末の新発見というか、やっぱりビートルズ的。つまりなんだかんだ言って、近代西洋音楽の上に成り立っている、まあ言うなればピアノ的楽曲(作曲)なんですね。ギター的ではない。
 作曲者の伊豆田洋之さんの弾き語りを聴くと、その感はますます強くなります。ピアノもいいけれども、やっぱり声がいいなあ。

 ヨーロッパでも多くのビートルズ・フォロワーが生まれましたよね。私の音楽のルーツであるジェフ・リン(ELO)なんかその代表格です。日本ではやっぱりPiccadilly Circusですね。
 私はやっぱり、ブルースやロックンロールやフォークよりも、こういう構築系の音楽が好きなんですよね。これはもう「血」でしょう。自分はどこから来たのかなあ(笑)。

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2019.02.10

寺神戸亮・若松夏美ほか 『J.S.バッハ〜その音楽と歓び〜』

20190210

 ちゃくちゃ久しぶりに東京文化会館小ホールに行きました。実を言うと、今日は別件で上野公園に行く予定だったのでした(恒例の大日本プロレス観戦です)。
 ところがこのお二人のヴァイオリンでバッハのドッペルを聴けるということで急遽こちらに参戦!
 たぶんですが、東京文化会館は高校生の時、授業をさぼって新幹線に乗ってフェリックス・アーヨを聴きに行って以来ですよ。37年ぶり!?
 まずは演奏の素晴らしさについて。1曲目でいきなり管弦楽組曲2番。私もヴィオラを何度も演奏したことがありますので、その音楽的構造の素晴らしさというか複雑さというかカッコよさをよく知っている方だと思うのですが、いやあ今日の演奏はレベル高かったなあ…なんて、当たり前か。メンバーがメンバーですからね。
 ただ会場の性質からして、前田りり子さんのトラヴェルソの音が上に抜けてしまって前に出てこなかったのは残念でした。ただそのおかげと言ってはなんですが、弦楽パートの先ほど言った構造というのが浮き彫りになってきて良かった。そう、あのヴィオラパート、めちゃくちゃ難しくかっこいいんですよ。私は密かにヴィオラのベスト・レパートリーだと思っています。
 ソプラノのアンネ・ファン・グランベーレンさんのカンタータは、やはりその歌のレベルの高さに驚きましたね。知り合いとも話したのですが、やはりアリアよりもレチタティーヴォでその巧拙がわかる。まさに、ちあきなおみ的うまさでしたよ。と言ってもドイツ語わからないんですが(笑)。
 そしてそして、なんといっても2つのヴァイオリンのための協奏曲ですよ!いやあ、本当にぜいたくな音世界でした。寺神戸さんのグァルネリは、本当に言葉が明瞭に発音されていました。だからちゃんとしゃべれる人じゃないと使いこなせないなと思いましたね。
 対照的に若松さんのカッパでしょうか、あれは言葉よりも情感を伝える楽器で、それが若松さんの演奏スタイルにぴったりで、それはそれはゾクゾクさせられました。まさに女性的な魅力。
 特に2楽章は涙がちょちょぎれました。お二人の音楽世界が豊かに響きあう。そこに浮かぶ様々な情景…なんかいろいろなことを思い出しました。
 寺神戸さんとは昨年秋に初めてご縁ができての再会。若松さんとは数十年ぶりの再会…。
 そう終演後、若松夏美さんにもめちゃくちゃ久しぶりにお会いしておしゃべりしましたよ。年賀状のやりとりはかれこれ30年くらい続いているのですが、なかなかお会いする機会がなくて。若松さん開口一番「今年の年賀状はちょっと手抜きだったでしょ!?」でした(笑)。
 あの頃はお互い二十代(!)。いろいろ楽しい思い出が蘇ってきましたね。なぜか富士山の樹海の洞窟にまで一緒に行ったっけな(笑)。
 また、楽しい音楽祭でもやりましょう!ということで、お二人の期待に応えられるよう、私も頑張ってみます。古楽界への恩返しですね。
 あらためて、ちゃんとバロック・ヴァイオリン弾こうかなと思ったワタクシでした。最近5弦ヴィオラばっかりで、愛器デイヴィッド・ルビオ、眠ってるからなあ。
 

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2019.02.09

東京コミックショウ〜猪狩定子さん

 笑い演芸館を観ていたら、懐かしい東京コミックショウのビデオが流れました。三蛇調教ですね。ショパン猪狩さん。
 このNHKの映像も実に面白い。奥さんを使った後半のマジックがまた小粋。何度観ても笑っちゃいます。
 戦後の米軍キャンプやキャバレーで鍛え上げてきた、ある意味命がけ(ハングリー精神)の芸。たくましかったなあ、当時の人たちは。
 で、ご存知の方もおられると思いますが、このショパン猪狩さんはプロレスのプロデューサーでもありました。お兄さんのパン猪狩さんと、妹さんの日本初の女子レスラー猪狩定子さんの三人で、三鷹に道場を開いて女子プロレスの端緒を作りました。
 猪狩定子さんはリリー猪狩のリングネームで活躍。当初はキャバレーなどで進駐軍相手のガーターマッチ(ガーターを取られると負け)をやっていましたが、その後は力道山らと組んで、男子プロレスの前座として現在の女子プロレスの基礎を築いていきました。
 ちょうど去年、今でもお元気な猪狩定子さんのトークショーがありまして、私は行けなかったのですが、ここで動画を紹介いたします。これは面白い。実に興味深い話に満ちています。
 ちなみに司会をされている小泉悦次さんは私の友人でもあり、彼の雑誌で対談させていただいたこともありますし、プロレスだけでなく諏訪学でも大いにお世話になりました。
 力道山や木村政彦、そしてその二人のあのセメントマッチの話も出てきます。それにしても、定子さんお元気というか、まさに芸人さんのしゃべくりですね(笑)。すごいとしかいいようがありません。たくましいなあ。全三回ということで、まだ途中ですが、ぜひ御覧ください。

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2019.02.08

落合陽一×宮台真司 『次の時代をどう生きる』

 の対談は面白かった。本来の「アカデミック」な存在であるお二人、こうして会うのは初めてだというのはちょっと意外でした。
 お二人の意見には多くの部分で同意。身体性を失いつつあることを、より抽象的なところで虚しく埋め合わせていく現代。はたして人類は、いや人類の幸福はどちらに向かって動いていくのでしょうか。
 宮台さんのおっしゃる、偶発性、未規定性というのは、ワタクシの「モノ・コト論」で言うところの「モノ(他者・不随意・想定外」と完全に一致します。私が「コトよりモノの時代」というのは、まさにそういう意味です。
 そして、自己(コト)が自己で完結するのではなく、他者(モノ)にとって、いかに「他者性・偶発性・エンカウンター」になりうるかというのが、それこそ「ニーズを作り出す」ということなのでしょう。
 そして、それはお釈迦様の語る「縁」と同義になってくる。縁という関係性こそが、私たちの存在そのものなのです。つまり私たちはそれぞれ「自己(コト」であり、「他者(モノ)」であるという、まさに中動態的な存在であることを知るべきです。
 そういう意味で、テクノロジー(機械だけでなく制度なども含む)が「優劣」の「劣」を補助する方向で発達する傾向があるのは、ちょっと問題があると思います。なぜなら、その前提である「優劣」という概念自体が、私たちの社会的な価値観から生まれたものだからです。
 それはたとえば自己の中にも内在します。自己の中の他者(モノ)であるとも言える身体。私たちにとって、最も身近な、自分の思い通りにならない不如意、不随意なモノは、自らの身体です。それを社会的感情に基づいて「劣」とし、脳みその中の言語的情報(コト)を優としてしまったのが、この近代そのものでありましょう。
 その価値観に従ってモノを封じ込め、コトを祭り上げた結果が、この現代です。ですから、これからのテックは、やはり「目が合う」「目を合わせる」「見る、見られる」の関係性を生み出す方向に進化すべきでしょう。
 一方では、最近のファーウェイの話ではないですが、私たちは無意識的に、たとえばスマホに「見られている」状態ですよね。昨日も「あなたがスマホでエロサイトを見ているところを録画しました、ばらされたくなければビットコインでいくら払え」的な迷惑メールが来ましたが、あながちそれもウソではない状況になっています。
 つまり、見られないように、目が合わないようにと、私たちが求めてきた極プライベートな時空間が、実は全世界に見られているかもしれないという、笑ってしまうようなパラドックスを生んでいるわけで、そういう意味では、テクノロジーというのも自然界と同じように、ある種のバランスを勝手にとっていくものなのかなとも思います。
 人間ごときにはどうしようもない、絶対的な他者に対する想像力を鍛えていかなければならない時代が、もう目の前まで来ているのでしょう。それはまさにモノの復権、宗教以前の超古代的なアニミズムのような世界への回帰なのかもしれません。実に楽しみです。

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2019.02.07

ハーブ・アルパート 『RISE』


に忙しくなっておりますので、またまた懐かしい名曲を。今日は洋楽。インストゥルメンタル。
 とは言え、なんと1979年のビルボード一般チャートで10月20日と27日の2週連続の1位を果たすという、考えられない大ヒットになった曲です。
Th__20190209_145517_2  この曲が入っているアルバム「RISE」、中学3年生の時に買いまして聴きまくりました。その年はこのアルバムとマイケル・ジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」をよくかけてました。
 というのは、当時私はスピーカーの自作に凝ってまして、とにかくいかにして低音を出すかということに熱中しておりました。大口径のユニットは買えなかったので、もともと家にあった「ステレオ」のスピーカーをバスレフ仕様に改造しておりました。なんだか訳も分からず計算式に数字を代入して設計図を書いてましたね。
 で、このアルバムとオフ・ザ・ウォールは、ディスコブームもあって低音が充実していましたから、スピーカーのテスト音源としては最高だったわけです。
 ハーブ・アルパートはA&Mの創設者の一人。AはアルパートのAです。当時A&Mは日本ではアルファレコードが契約していましたから、私の持っているアナログLPはもちろんアルファレコードが発売元です。何度も書いていますが、アルファレコード創設者の一人川添象郎さんのお父さん、キャンティのパパ川添浩史(紫郎)さんは、仲小路彰の弟子というか親友というか実働隊というか、とにかく非常に近い存在でした。象郎さんももちろん仲小路とは面識がありましたし、アルファレコードのミュージシャンたちは皆、キャンティで未来学原論を紹介され読んでいたようです。
 もちろん私はそんなことも知らず、こうしてハーブ・アルパートやらYMOやらユーミンやらカシオペアやらを聴いていたわけですね。
 それらに共通しているのは、やはり「未来」ではないでしょうか。当時はそれが「都会的」だと思いましたが、言葉を変えれば近未来的ということになるでしょう。つまり21世紀。
 実際、久しぶりにこのアルバムも聴いてみましたが、今でも全く古臭くない。それどころか新しい。驚きです。
 ちなみにYMOのあの1980年のロサンゼルス、チャップリン・メモリアル・スタジオでのライブで、彼らを紹介したのはハーブ・アルパートでした。
 いやはや、すごい時代。アルファレコード恐るべしですねえ。せっかくですからアルバム全体も聴いてみてください。かっこいいですよ!最後のアランフェスは圧巻ですな。

Amazon RISE

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2019.02.06

ちあきなおみ 『かもめの街』

 たまた急に忙しくなりましたぞ。こういう時こそ頑張ろう。
 ということで、今日も古い名曲、名唱を一つ。美空ひばりと同レベルの数少ない天才歌手、ちあきなおみ。最近ますますその魅力がわかるようになってきました。
 小学生の時、学級の何かイベントで、ふざけて「喝采」を歌った(演じた)、あの頃には全くわからなかった世界。うん、年取るのもいいものですね。
 しっかし、この曲、本当にすごい曲ですね。まずは曲。杉本眞人さん、こちらも天才だ。
 このレチタティーヴォとアリアの交錯する、つまり語りと歌いとの連続的な変化。楽譜にしたんでしょうかね。てか、ちあき哲也さんの歌詞もすごいなあ。
 編曲的に言うとですね、サビの「かもめよ〜」のところで、オブリガート・ギターが上昇音階を奏でるじゃないですか。それが歌の旋律とぶつかって、まるで波が消波ブロックに砕け散るような感覚を覚えます。ゾクッとしますよ。
 もう、ちあきなおみさんの歌唱については、私がどうこう言う世界ではありません。歌と一体化している、歌になりきっている。こういう人はそうそういません。ひばりさんもそうですが、もう「うまい」とかいう次元ではありませんね。
 この前、珍しく次女がカミさんを誘ってカラオケに行きました。たまたまカミさんがこの曲を歌ったそうで、それを聴いた娘が「これいい曲だね」と言ったとか。大人だな!高校1年生のくせに。あっ、日常的に能の「謡」と格闘しているから、この世界がわかるのでしょうね。
 ちなみにカミさんはこの曲の終わり方が大好きだそうです。なるほど、もったいぶらず潔い終わり方かも。そういうことかな?

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2019.02.05

竹内まりや 『家に帰ろう (マイ・スイート・ホーム)』

 日も懐かしい名曲を1曲紹介しましょう。これもアルファレコードつながりですね。
 山下達郎さんと竹内まりやさんのレーベル、ムーン・レコードの前身は、アルファレコードから1982年に派生したアルファ・ムーンです。
 私、今まであんまり竹内まりやさんを聴いてきませんでした。いや、別に嫌いとかではなく、どちらかというと好きなんですが、正直に言いますと、山下達郎さんのコーラスが出てくるとですね、まりやさんのバックいっぱいに「山下達郎合唱団」の姿が見えてしまい(笑)、なんとも言えない不思議な(?)感覚に陥ってしまっていたのです。
 最近ようやくそれを克服しまして(笑)、けっこうヘビーローテーションしております。
 いろいろ名曲はあるわけですが、今日はこの曲。バブル崩壊のど真ん中に発表された「家(うち)に帰ろう」。
 この頃、私はテレビもあまり見ていませんでしたし、邦楽もほとんど聴いていなかったので、この曲ももちろん耳にしたことは何度もありながら、意識的にその音楽性や歌詞の世界を味わってきませんでした。
 今、こうしてあらためて聴いてみますと、たしかにいい曲ですね。バブルで浮かれて外で遊んでいた人たちが、「家」に帰ろうかと思い始めた時代ですよね。忘れかけていた「家」、家族や友人、恋人との関係を思い出していた。
 歌の入りがサブドミナントというのが、すでに懐かしさを催しますね。Dメジャーの曲なのにGから始まる。これでFメジャーだったら完璧だったわけですが、まだバブルの明るさが残っているのでD…かな。
 しかし、サビはマイナー・コードの連続で、いわば祭りのあと的な落ち着いた感じがあります。たまたまかもしれませんが、なんか時代を象徴しているようで、平成も終わろうとしている今聴くと、なんとも感慨深いものがありますね。
 ちなみに上のフルコーラスMVは、「第35回日本レコード大賞」のために制作されたものだそうです。この曲を含むアルバム『Quiet Life』が、1993年度のアルバム賞を受賞したんですね。

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2019.02.04

サーカス 『Mr.サマータイム』

Th__20190205_185406 トリーミングで古い曲を聴けるようになりまして、懐かしい曲たちを40年ぶりに聴いております。
 私の音楽のルーツはビートルズですけれども、最も印象に残っているのは、1978年中学2年の時の洋楽と邦楽です。中二病ってやっぱりありますよね。
 洋楽だけかと思ったら、けっこう邦楽でも大好きな曲があることに気づきつつあります。てか、1978年の邦楽のチャートもすごいですよ!調べてみてください。あの曲もあの曲もです。
 さて、今日久しぶりに聴いて、あの中二の夏の日を思い出したのが、このサーカスの「Mr.サマータイム」です。
 いやあ、素晴らしい曲ですね。それこそ今ではフランスの原曲も簡単に聴けますが、全く違う世界観に生まれ変わってますね。
 サーカスもアルファ・レコードだったんだ!つまり仲小路彰とつながっている。川添象郎さんを通じて。
 そして、この素晴らしすぎる大人の編曲をした前田憲男さんが、昨年11月に亡くなってしまいました。残念ですが、こういう編曲を無数に残してくれたことに感謝です。
 まず1978年バージョンを聴いてみましょう。

 私は個人的にバイオリンを持ちながら自転車に乗っている、あの静岡の夏の午後を思い出します。当時は雰囲気しかわからなかった大人な歌詞。竜真知子さんなんですね。なるほど。
 そしてそして、1978年3月発売から40年の昨年2018年、サーカスの新旧メンバーが勢揃いして、さらに大人度を増した「Mr.サマータイム 2018」が発売されました。
 これがまたいい!最高です。基本、前田憲男さんの編曲そのままに、さらにコーラスが厚く熱くなっていますね。
 1978年当時のアルファのスタジオAのトラックリストも映っています。感動です。

 こうして時を超えて楽しめる、音楽って本当に素晴らしいですね。

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2019.02.03

宇津保物語の「国譲り」

Th_img_3523 年の節分は楽しい仲間と急遽飲み会。節分で幽閉されるオニの象徴でもある耀わん三つを囲んで大いに盛り上がりました。
 昨年の節分の日、節分と国譲り(譲位)という記事を書きました。国譲りという言葉は本来、天皇の譲位を表す言葉だったというお話。昨日紹介の討論で、水島さんがおっしゃった「出雲の国譲り」を国譲りというようになったのは、実は近代になってからなのです。
 あっという間に1年が経ち、本当に「国譲り(譲位)」の年が来ました。はたして何がどのように譲られるのでしょうか。それは私たち庶民には分かりません。
 さて、「国譲」というと、あの枕草子にも、その言葉が出てきます。有名な「物語は」の段です。

物語は住吉(すみよし)。宇津保(うつほ)。殿うつり。国譲りはにくし。埋れ木。月待つ女。梅壺(うめつぼ)の大将。道心すすむる。松が枝。こまのの物語は、古蝙蝠(ふるこうもり)さがし出でて、持て行きしが、をかしきなり。ものうらやみの中将、宰相に子うませて形見(かたみ)の衣など乞ひたるぞ、にくき。交野(かたの)の少将。

Th_utsubo_monogatari_1809edition 「国譲りはにくし」というのは、その前に出てきている宇津保物語の「国譲の巻」のこと、あるいはその内容を指します。殿うつりのシーンは、その巻の冒頭に出てきますので、つまり、「宇津保物語の国譲の巻の殿うつりと国譲りの話はきらい」ということでしょう。
 どうして嫌いなのかというと、おそらく、「国譲の巻」がつまり天皇の譲位にからむ醜い立太子争いがリアルに描かれているからでしょう。
 実は私は宇津保物語はちゃんと読んでいないのですが、ちょこっと覗いたかぎり、結構ドロドロな権力争いのようですね。物語全体はペルシャの琴のお話で、なかなかロマンチックなんですが、国譲の三巻はちょっと現実に引き戻されるようで、それで清少納言は「にくし」と言ったのではないでしょうか。
 このたびの平成の「国譲り」には、そんなドロドロはないと思いますが、私たちの見えないところのいろいろも、スムーズに進むことを祈ります。

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2019.02.02

表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」

 校の先輩でもある水島総さんをファシリテーターとした、チャンネル桜の「闘論!倒論!討論!」。いわゆる保守の「今」を知るために時々拝見しています。
 今回は「日本の自死」という過激なタイトルで、まさに自死した西部邁さんの後継者たちの討論を聴くことができました。
 私も「(過去と現在の)人間の知性を疑う」という意味では保守なのですが、一方で「(未来の)人間の知性を信じる」という意味では革新、いやお花畑だ言われることもよくあります。
 実際両面、両翼を持っていて、その先の融合、統合、和合された世界を信じているので、そういう意味では都合のよい夢想家なのかもしれません。
 途中、京都大学大学院の川端さんが「皇統の歴史を守ることが世界を救う」と言って笑いを誘っていましたが、どうでょう、本当にそうなのではないでしょうか。
 私の尊敬する出口王仁三郎も仲小路彰も、究極はそう言っています。それは一見、極右的思考に見えますが、私からしますと、私も含めてですが、なにかとってもロマンチックなセンスなのではないかとも思えるのです。
 科学や経済や政治や言語といった「コト」領域よりも上位次元の「モノ」領域での感覚です。
 実のところ、「自死」もとってもロマンチックな言葉です。西部さんも痛いほどのロマンチストでした。彼を慕うこの討論の参加者たちも皆、文化や芸術、そして歴史という文学を愛するロマンチストです。
 個人よりも「家(国家を含む)」を大切にするというのも、これは明らかに情緒の産物です。生物の中でも人間だけに与えられた「情緒」。それがあるからこそ、この物質界や情報界を超越した「モノ」世界、「物語」世界とつながることができる。
 酒が好きで、歌が好きで、女が好きで…そういう男どもが、こうして元気であることはいいことですね。彼らは男の弱さも知っているのです。それこそが、彼らが、近代という男の世界を信用しない根源的な理由なのです。母の胎内への回帰を夢見ているとも言えましょう。
 最後にこんなことを言ってしまっては本当はいけないのでしょうが、思わず一言。自ら死んでいくのもロマンチックなことだとすれば、まあ日本が静かに消えていくのもまた、一つの浪漫的物語なのではないでしょうか。究極的に、人間の存在が地球のためにならないという結論は、もうとっくの昔に出ているのですから。
 ならば問われるのは、やはり死に様なのかもしれません。

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2019.02.01

富士山の乱(政治編)再び?

Th_plt17102008080004m3 日、嵐の活動休止会見の日、山梨県知事選が行われ自民党の長崎幸太郎知事が誕生しました。
 私の住む山梨2区では、宏池会の流れをくむ岸田派堀内詔子さんと、二階派の長崎さんが長年にわたって仁義なき戦いを繰り広げてきました。
 その中で、不肖ワタクシは自民党トップの意向も受けつつ、なんとか両者を和解させようと御本人にも不躾ながら直言してまいりました(その節はいろいろご迷惑をおかけしました)。
 結果として、「富士北麓の乱」は終息の方向に向かうことになりまして、正直ホッとしていると同時に、複雑な気持ちにもなっております。
 まあ、ちょっと独特な保守王国山梨で、久しぶりに自民党系知事になったことにより、改革が進むことでしょう。そう、山梨という「生黄泉(なまよみ)の国」は浮世離れしてますから、たとえば保守、改革という二元論はずっと昔から意味を持っておりません。それがいいことなのか、悪いことなのか…。
Th_plt1710180032p1 さてさて、富士山の北側ではこのように岸田派と二階派の手打ちが行われたわけですが、ななななんと、今度は富士山南麓で「嵐」の予感です。
 ニュース等でご存知のとおり、あの細野豪志さんが二階派に入ると!まったく何を考えているのか、細野さんも二階さんも。
 山梨では二階派が譲った形になりましたから、ある意味二階派の反撃でしょうか。細野さんは静岡5区。まんま富士山の南側です。まさに「富士山の乱〜南麓編」。静岡では南麓とは言わず「岳麓」ですから岳麓編ですかね。いや、やっぱり北と南と言った方がいいか。岳麓だと北麓も入ってしまいますから。
 私が訴えてきたのは「富士」は「不二」であるということ。融合、和合の象徴であると。
 同じく、日本の象徴である天皇家も700年間南北に分かれていました。それが今年御世代わりで合流します。そういう意味では、この南北の「富士山の乱」もまた、大きな歴史的意味、霊的意味があるのかもしれません。対立、分裂の物語がないと、和合、融合もないわけですから。
 静岡でも対立、分裂を超えた止揚(次元上昇)が起きることを祈ります。いや、信じます。
 
 


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