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2019.01.20

2018 センター試験国語(その1)〜翻訳論

20190121_114806 年はセンター試験評をサボりました。長女が受験したんですけどね。もうあれから1年ですか。早いものです。
 そんなセンター試験も、今回を含めてあと2回。新テスト(大学入学共通テスト)の波乱が近いということでもあります。
 さてさて、センター試験の国語については、ここ10年以上ずっといろいろ文句をつけてきましたが、ここ数年でようやく良問になってきました。あまりツッコミどころがない。
 せっかくここまで成熟してきたのに、新テストで記述問題が入ってきたりすると、またいろいろと問題が生じるんでしょうね。それについてはまたいつか書くことになるでしょう。
 さてさて、今年の国語ですが、ます第一問。評論は「翻訳論」でした。根本的に「翻訳」は成立するのか。これはたしかに古来のテーマですね。
 私はこの文章における「楽天家」に属する人種です。すなわち、奇跡は起きるという考えです。
 そう、翻訳の結果がどうのこうのというよりも、翻訳という「他者との邂逅、融和」という行為自体に、創造的な可能性があると考えているです。
 だいいちですね、翻訳以前に「言語」が奇跡的なメディアです。発信者と受信者が同一ではないというのが前提ですから、そこには少なからず、いや大規模に「翻訳」が介在しているわけですよね。
 たとえば「りんご」という言葉一つとっても、そこから想起される「りんご」はほとんど無限の可能性を持っているわけです。
 その意味では「翻訳」の成立を論ずる前に、実は原作者と翻訳者との間において言語的なやりとり、すわなち「翻訳」が行われているわけです。ゆえに、ここで問題とされる一般的な「翻訳」の成立について真剣に語るのはナンセンスであるとも言えるような気がするのです。
 昨日の話(モノ・コト論)で言うのなら、「コト」の最先端兵器である「言葉」こそが、実は意味を収斂する存在ではなく、多様な解釈へ拡散していく「モノ」の性質を帯びているのです。これは非常に面白いことです。
 人間の欲望としての「コト化」のために発明された「コトの端」、つまりエントロピーの増大という「モノ」の性質を抑制するべく生まれた言葉が、新たなエントロピーの増大を生むという皮肉。
 これこそが言語の芸術性そのものです。この豊かな世界の源泉は人間の脳みその中の「コト」にあった。まさに「はじめに言葉ありき」なのでした。
 おっと、センター試験の講評を忘れてました(笑)。基本、いい問題だったと思います。本文内に根拠が明確にあります。漢字は簡単すぎ。難しかったとすれば、問二以降は正解が「2」と「4」しかなかったことでしょうか。「2」が三つ連続するし。こういうのって、人間は迷っちゃうんですよね。AIなら迷わないのでしょう。

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