討論 『もし大東亜戦争の開戦が無かったら」
戦後の日本にとっての「夏」は、戦争の反省の季節でした。
もちろん戦争は悲惨ですが、いつまでその戦後は続き、私たちは反省をし続けなければならないのでしょう。
というような皆さんの意見もよ〜く分かります。私も感情的にはそういう気がします。
しかし、一方で、やはり忘れてはならない、二度と過ちを繰り返してはいないという方々の意見ももっともだと思います。
正直双方ともセンチメンタリズムに基づくもので、そこが私にはいかにも日本的に映るのであります。
いつも書いているように、たとえば靖国の御魂も私たちと同様に十人十色。勝手に「英霊」と十把一絡げにするのは間違っています。心を無にして靖国をお参りすれば、それこそ様々な声が聞こえてくるはずです。
さて、そんな夏。平成最後の夏。そして、150年戦争最後の夏。いよいよこの夏の意味も来年あたりから大きく変わってくるものと思われます。
変な話で恐縮ですが、その「最後の夏」がこれだけ暑く、甲子園の、すなわち高校生の野球を通じた軍隊文化ノスタルジーまでもが灼熱地獄となっているのは、これは偶然ではないと思っています。本当にこれで終わるのかもしれません。
さて、そんな折、タイムリーな討論企画。「もし大東亜戦争開戦がなかったら」。たしかに漠然としたテーマであり、また歴史に「もし」は認められないとするなら、根本的に無理のあるテーマでありますが、だからこそ、保守派の皆さんの、歴史でなはい「物語」が全開していくことになっています。
ちょうど、先日、国際関係論を学んでいる娘が、同様のテーマを大学のゼミかなにかで提起したようです。まあ、私がさしむけたわけですが(笑)。そこではいったいどういう議論になったのでしょう。あんまり盛り上がらなかったとの報告だけ受けていますが。
よく「あの戦争は間違っていた」と言う人がいますが、では、はっきり言って避けられたのか。開戦しないでいたらどうなっていたのか。日本は日本でいられたのだろうか。
また、「あの戦争に勝っていたら」という妄想も広がりますが、そうすると、今ここは大日本帝国ですか?
結果としては、歴史は全て必然です。まるで、ほんの七十数年前の、祖父の時代の日本人が、今の我々よりも愚かだったような言い方だけは、私は許したくありません。
一方で、人類の歴史を俯瞰して分かるとおり、大方の面においては、私たちは確実に進化してきており、戦争のみらなず命を奪われる機会というのは、ぐんと減っていると思います。
また、あとからいろいろ言うのは、後出しジャンケンのようなもので、あの時グーを出したから負けたんだ、パーを出していればというのと同じです。
そう、歴史というか、私たちの「今ここ」の生活のほとんどは、ジャンケンのような運を天にまかせるような選択の連続でもあるのです。常に相手のあること、縁の中で自身が生起してくるものであり、ある意味常に賭けをしているようなものです。
ここのところいろいろなところで言っていますが、歴史を見る時に、「こういう選択をしたからこうなった」という因果関係で捉えるのではなく、その時の選択者がどのような未来を想定したのかという、逆因果で捉えるのことが大切です。
なぜなら、「今ここ」の自分自身がそうやって生きているからです。その集合体をのちに過去から現在という、ある意味フィクションである時間軸の上に並べ直したのが、「歴史」という記録です。
さてさて、そういう視点をもって、この討論を聞きしますと、なるほど保守派の皆さんの思考の限界というのが見えてきますね。大変面白いことです。
当たり前ですが、さまざまな側面から「開戦がなかったら」と突き詰めていくと、「開戦しかなかった」ということが分かるでしょう。もちろん、その後の作戦ミスや、情報戦での敗北は、相手のある中での縁起ですから、やはり間違いだとは言えないでしょう。
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