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2018.06.07

玄関とは…

Th_img_1770 日は、岐阜は美濃加茂市伊深の古刹、正眼寺さんに参拝いたしました。本校の名誉校長をお務めいただいている山川宗源老大師さまが住職をされている修行道場。
 その玄関に、かつての住職、名僧として名高い梶浦逸外老師の書がどんと構えて、私たちを迎えてくれています。
 いや、迎えるというよりも、ある意味睨みを利かせていると言ったほうが良いでしょうか。
 「誠和」…なんと深い言葉でしょう。「誠」は嘘偽りのないこと。禅的に言えばありのまま。素直な心とも言えます。そして「和」にはいろいろな意味があります。禅で言えば、やはり調和というイメージでしょうか。
 素直な心で他者と和するという、最も私たちには難しい言葉でお出迎えというわけです。
 ご存知のとおり、修行道場では、入門に際し、この玄関がまず最初の関門となり、庭詰といういわば最初の問答が行われます。要はそう簡単には道場には入れない、ほとんど嫌がらせのような(笑)やりとりがあるのです。
 入門、入山するということは、もちろん世を捨てることですから、その覚悟があるのか確かめるわけですね。嫌がらせではありません。今ならまだ帰れるよという慈悲の心です(笑)。
 そう、「玄関」こそ、まさに「関所」なのです。なんの関所なのかというと「玄」の関所というわけです。では、「玄」とは何か。
 「玄」という字は、もともと意図を束ねて黒く染めたものの象形文字です。「玄人」は「くろうと」ですよね。「玄米」は「黒い米」。そこから「深み」を表すようになり、たとえば「玄妙」とか「幽玄」というような熟語を生むに至りました。
 ですから、「玄」の「関」ということは、まさに「さの先はとんでもなく深い玄妙なる世界であるが、本当にそこに行くだけの覚悟と素質がお前にはあるのか」と聞かれていることになりますね。
 そう考えると、逸外老師の「誠和」という言葉にも大変深みがあることがわかります。禅という、宇宙の真理に近づくための玄妙なる世界に入るためには、まずはありのままの素直な自分になりきり、それを器として他者を受け入れつつ、新しい自分と他者と世界を作り出していかなければならないのです。
 それができるのか?と聞かれた自分は、その答えを保留したまま、本堂奥の開祖関山慧玄さまの像の前に立ってしまいました。
 雲水さんがおっしゃりました。ここに立つことは怖いと。老大師さまも、今でも恐ろしいと感じるそうです。
 また7月に夏期講座でお世話になります。その時には、ほんの少しでも「玄」の世界を垣間見ることができればと思っています。実際は難しいでしょうけれども。
 

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