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2018.06.30

中村八大作品 『黄昏のビギン』

 日は静岡の実家の近くの居酒屋で呑みました。とっても渋いお店で、なんとも昭和な雰囲気が残る中、おいしいお料理とおいしいお酒と、マスターの「軽口」を堪能いたしました。
 地方の中小都市っていいお店がありますね。大都市や極小都市だと存続が難しいんですよね。
 さて、そんな素晴らしいムードの中で、ふと頭をよぎった曲がこの曲。
 そういえば最近、ウチのカミさんがどっかで歌うとかで練習してたんだっけ。
 「黄昏のビギン」は水原弘のヒット曲「黒い落葉」のB面でした。永六輔、中村八大の黄金コンビ作品。実際は歌詞も中村が作って、名前だけ借りたのだとか。
 いかにも中村八大らしい曲ですよね。素晴らしいメロディーと、少し変則的なコード進行。そこにラテンというかカリブのダンスミュージック「ビギン」のリズムが乗って、素晴らしい異国情緒を醸し出しています。水原さん、歌うまいっすね。

 この曲、なんと言っても、ちあきなおみさんのカバーが有名ですよね。服部隆之さんの編曲。ビギン色は消えていますが、これはこれで美しい。そしてちあきなおみの歌が抜群にうまい。完全に自分の歌にしています。

 もう一人、こういうのを歌わせるとうまいのが長谷川きよしさん。これもまた違った良さがありますね。こうしていろいろなアレンジで新しい魅力が生まれるのも名曲の条件であります。

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2018.06.29

鏡の中の自分は自分なのか?

Th_00_m ールドカップの「美徳(virtue)」について書こうかと思ったけれども、本当にいろんな人がいろんな意見を述べてくれているので、私は遠慮することにしました。
 ただ、基本的にはあの作戦には賛成です。感情的には「侍らしくない!」とか、勝手なこと思いましたが、勝ちが最終目標であるスポーツの世界においては、やはり確率論的に優れた采配であったと思います。
 さてさて、というわけで、「virtue」と「virtual」の話の続きとして、今日は「鏡の中の世界」について考えてみようと思います。
 皆さんは、鏡に映った世界はリアル(ファクト)だと思いますか?それともバーチャル?あるいはフィクション?
 そんなことどうでもいい…ですね(笑)。
 でも、ちょっと考え出すと面白いですよ。答えはなくとも楽しめます。ちょっとした哲学です。
 とりあえず、そこに映っている自分は自分なのでしょうか。もしかして他人?いや、もうひとりの自分とか。
 ちなみに人間以外では、チンパンジーやイルカに「鏡像認知」の能力があることが、科学的な「ミラーテスト」で証明されています。
 これは、鏡に映っている自分を、いわば「alternative fact」だと捉えているのだと思われます。とりあえず自分自身ではないが、自分と同様の属性を持っているものであると認知するということですね。
 思いつきで書いているので、話があっちこっち行って申し訳ありません。鏡の中の世界って、なんとなく「左右逆」になるというイメージありますが、実際には「左右」は変わりません。右手はたしかに右にありますよね。
 そう、実は上下、左右は変わらず、奥行きだけが逆になっているんです。お分かりになりますよね。手前と奥とが逆になる。これが全部ひっくり返っていたら、お化粧や鼻毛切りは実に難しいでしょうね(笑)。ちなみに凹面鏡で焦点距離より遠くに立つと全部逆になります。
 では、なぜなんとなく左右が逆になっているように感じるかというと、自分が向こう側の自分(仮)に立って見た時、右手が左手になっているからです。人間はそのように高度な抽象的な思考ができるということですね。
 さて、そんな矛盾をも抱えた鏡の中の自分ははたして自分なのでしょうか。もう一度考えてみてください。
 なんだかワケが分からなくなってきますよね(笑)。
 私たちは、たとえば車のミラーに映った景色を、とりあえず本物だと思って信用して運転しています。これは、昨日の話からすれば、本物の本質を持った別物、すなわち「virtual」であると認定しているということです。そして、「alternative fact」として運用しているということですね。
 では、鏡の中の自分はオルタナティブな自分なのか…。
 結論は出ないのですが、実はこの鏡像認知こそが、時間の流れ方を「過去から未来」、「未来から過去」と切り替えつつ等価であると考えられる能力に関係していると、私は考えているのです(とか言って、今思いついた)。
 時間が流れてくるのか、自分が歩んでいくのか…未来から今の自分を眺めるのか、今の自分から未来を眺めるのか…音楽は未来から流れてくるのか、楽譜をなぞるように過去から未来へ流れのか…歴史の記述、いや全ての記録は鏡像なのか…。
 哲学はどんどん深みにはまっていき、そしてますます混沌として出口が見つからなくなるのであります(苦笑)。
 まあ、いいや。今日は鏡の自分を見ながら、彼と対話してみます。最近鏡見てないしな(笑)。ちなみに猫たちは鏡に映る自分は自分ではなく、別の猫だと思っているようです。では、鏡に映る別の猫のことを、リアルなその別の猫だと勘違いするのだろうか…猫にも聞いてみます。またいつか続きを書きますね。

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2018.06.28

バーチャルは美徳?

Th_2018062900253093nksports0009view が英語の勉強をする中で、「virtue=美徳」という単語が出てきました。
 ここで彼女にとっては意外であろう情報を提供しました。
 「バーチャル(virtual)」は「virtue」の形容詞形である。
 日本語で「バーチャル」というと、バーチャル・リアリティのイメージが強く、結果として「リアル」の対義語のように言われますが、もともと英単語としての意味は、「実質上の」です。
 ある辞書には、こんな例文が。

Argentina came to a virtual standstill while the game was being played.
アルゼンチンは試合が行われている間,実質的な停止状態に陥りました

 なんだか、今日(から明日にかけて)のワールドカップの試合みたいですね(笑)。ま、この例文ではチームではなく国がということでしょうけれど。
 つまり、ホンモノではないけれども、本質的にはそれ同様であると認定されるというイメージです。別の辞書の例文を挙げてみます。

a virtual genius
天才といって差し支えない人
the virtual head of state
実質上の国の首長
They made us a virtual promise.
彼らは我々に約束したも同然だった.

 日本では、なんとなく「バーチャル・リアリティ」の危険性みたいなことが言われているせいか、「リアル」はよくて、「バーチャル」はダメみたいな雰囲気があります。日本のある辞典の記述です。

実体を伴わないさま。仮想的。疑似的。「―な空間」「―な体験」

 なんとなくマイナスなイメージ、危険な香りがしますよね。はっきり言ってこれは偏見です。
 もともとは、「リアル」の本質(美徳)を備えている別物を指す言葉ですから、決してマイナスなイメージばかりではありません。
 いわゆくVRも、日本では諸外国よりも、「面白いけれども、あんまり深入りするな」的な捉え方をしているように感じます。
 最先端の技術開発の世界では、まさにリアルの「virtue」をいかに再現するかに挑戦しているわけです。
 考えてみれば、テレビで遠くロシアでのワールドカップを観て感動・興奮することができるのも、そうした技術者の努力の結果ですよね。もう私たちはとっくの昔から(言葉を発明した時から)、バーチャルなリアリティの中に生きているのです。
 さてさて、今日の日本の試合、そこには「virtue」はあったのでしょうか。それはまた明日にでも。

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2018.06.27

あなたの街の揺れやすさは?

20180628_95152 日に続きまして、地震防災に関することです。
 昨日は発生が予想される大規模地震の確率を確認しましたが、それとともに重要なのが、自分が住んでいる場所がどのくらい「揺れやすい」のか、あるいは「揺れにくい」のかを知ることです。
 同じ規模の地震でも、その場所の地質、土壌によって、その揺れ方はかなり違ってきます。
 私の住む近所ですと、たとえば忍野村は周辺地域よりも「揺れやすい」。実際、発表される震度も近隣よりワンランク上ということがよくあります。
 それは、同村の中心部が、かつて「宇宙湖(宇津湖…うつこ)」という湖の湖底に位置するからです。今でもそのなごりとして、有名な忍野八海の湧水があります。
 また、同村には富士山の側火山の噴火口もあり、1万年くらい前の噴火堆積物も多少影響を及ぼしているかもしれません。
 そのような地質による、その土地の「揺れやすさ」を知るのに便利なのが、こちらのサイト。

あなたの街の揺れやすさは?

 残念ながら私のウチの住所はありませんが、一番近くの番地で検索しましたところ、上のような結果が出ました。地形の種類は言うまでもなく「火山山麓地」。基本、溶岩流と堆積物の上に立地しています。すごく頑丈というわけではありませんが、たとえば東京23区に比べれば「揺れにくい」と言えるでしょう。
 どうぞ、皆さんお住まいの場所の「揺れやすさ」を調べてみてください。

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2018.06.26

全国地震動予測地図 2018年版

Th__20180627_84503 府の地震本部から今年版の「全国地震動予測地図が発表されました。地道な研究の成果です。研究者の皆さんに敬意を表します。
 ニュースなどで取り上げられていたのは、特に次の地図。
 
2018年版確率論的地震動予測地図

 北海道南東岸で確率が上がっています。このように新しい発見、知見により、確率が大きく変わることもありますし、当然のごとく経年変化で確率が微増していくこともあります。
 全体を見ますと、やはり太平洋側で確率が高いということがわかります。そういう意味では、日本海側は、こと地震に対しては比較的安全だと言えますが、それは非常に長期的な話であり、短期的な視点で見ると、大雪に伴う危険や困難の度合いは高い。
 どちらを選ぶかという問題ではないとは思いますが、本当の「住みやすさ」とはなんなのか、考えさせられる事実ではあります。
 ちなみに私の住んでいるところは、いろいろな震源による強震の可能性が高いうえに、それに伴う富士山の噴火という危険性も高い特殊な地域です。
 あえてそこを選んで住んでいるということもまた、人生におけるいろいろな価値観を反映しているものです。短期的、長期的、メリット、デメリット、安全、危険…。まあ「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということでしょうか。それもまた真理であります。
 さて、この地図に限らず、ハザードマップというのは、あくまで参考資料に過ぎません。それは、過去の情報の累積の上に、つまり科学的に予測されたものだからです。科学の基本は「再現性」です。そういう意味では、地学という分野の難しさ、すなわち「再現性のスパンが異常に長い」ということの難しさをも考えさせられます。
 2010年版の同地図を見てみてください。これがあの、翌年の未曾有の大震災を予測していたと言えるでしょうか。まさに未曾有であったということでしょう。科学、特に確率論の限界です。

2010年版確率論的地震動予測地図

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2018.06.25

『心を整える。』 長谷部誠 (幻冬舎文庫)

Th_81ipxewmikl ールドカップ、日本よく頑張りましたね。格上を相手にいかにも日本らしい戦い方でした。
 そうした組織的なサッカーの中心になっているのは、言うまでもなくキャプテンの長谷部誠選手です。彼の優れたリーダーシップについては、多くの方々が語っていますが、やはりそれは彼自身の人格に根ざしたものでしょう。
 それがはっきり分かるのが、この本。
 今日、学校の礼拝(らいはい)という授業で、座禅の前にこの本の話をしました。座禅は「体を整え、呼吸を整え、そして心を整える」です。
 まさにその「心を整える」というこの本。サッカー生活を通じて得た、彼なりの智慧が満載であり、まさに禅の奥義を生活レベルで語ってくれていると言えます。
 煩悩をおさえ、環境を清浄にし、規則正しい生活をする。自分を見つめつつ自我を捨て、他から多くを学ぶ。平常心(びょうじょうしん)で試合に臨む。
 これは本当に「禅」の教えそのものですね。多くの一流のスポーツ選手が座禅をしていますが、長谷部選手の場合、それこそ行住坐臥、全ての行いが修行になっているようです。
 深い禅的呼吸をすることによって、彼は一瞬で「ゾーン」に入れる境地にまでなっているようです。さすがですね。
 小難しい禅の本や、ありがちな自己啓発本を読むくらいなら、これを繰り返し読んだ方がいいかと思います。多くの人におススメです。そして、ワールドカップ、長谷部選手の見えない働きにも改めて注目しましょう。
 頑張れ日本!

Amazon 心を整える。

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2018.06.24

「みろくの世=宗教がなくなる世」は近い!?

Th_5126x5dkpvl んででしょうかね、私のところには本当にあらゆる宗教者が集まってくる。面白いほどです。
 もちろんワタクシ自身は凡夫の中の凡夫であって、ワタクシが偉いわけではない。しかし、自分では分からないのですが、どうも私の後ろにとんでもなく偉い方がいらっしゃるようで、先日もある霊能者(宗教家)にそう言われました。
 たしかに、出口王仁三郎の耀わんを所持していたり、仲小路彰の遺品を整理していたり、たしかに普通ではありえないご縁に恵まれて、いわゆる霊的な世界と身近に接する機会をいただいているのかもしれません。
 ただ一つはっきり言えることは、どこの教団にも属さないということです。あらゆる宗教とのおつきあいはありますが、実際どこの信者でもない。
 これは王仁三郎の言う「宗教のない世の中がみろくの世」ということに則っているからです。そのとおりだと思っているので、自分が先駆けてそれを体現しているのです。
 いろいろな人から、アヤシイ宇宙人と言われるワタクシではありますが、どうか怖がらないでおつきあいいただきたい(笑)。
 さて、一昨日、昨日は、学校行事の「接心」がありました。禅宗の僧侶の修行の一部をまねるだけですが、それでもいろいろと気づきがあります。生徒たちにとっては辛いだけの行事かもしれません。スマホもない、しゃべってもいけないという状況で学校に泊まるのですから。それでも何かを学んで、見つけてほしいと心から祈りながら、私も一緒に時間を過ごします。
 一昨日はその接心の前に、某神道系宗教団体の方と、かなり核心に迫る話をいたしました。さらに昨日は、その接心が終わってからすぐに三島に飛び、ある教え子の結婚式に出たのですが、そこで久々に会った教え子がいまして、彼と、「接心」を取り入れている某仏教系宗教団体の教えについて語り合いました。
 そのどちらにも共通しているのは、教団内部の変革と、富士山の存在ですね。実は最近、その他の大手(?)教団のトップの方々とも話す機会があったのですが、みな実は同じようなことをおっしゃるんですね。
 おそらくその教団どうしは、ほとんど交流がないと思います。ですから、しめし合わせたわけではない。だのに、みんな同じことをおっしゃる。
 これはやはり、いよいよそういう時代が来ているということなのだと思います。王仁三郎が予言した「みろくの世」の入り口に、私たちは来ているのではないでしょうか。
 仲小路彰のもとにも、本当に驚くほどあらゆる教団が集まってきていました。いろいろな資料が発見されています。時代的にいえば、それぞれが対立していたかと思うのですが、やはり宗教についても21世紀的なビジョンを持っていた仲小路には、それぞれの教団、教祖にとっても、学ぶところがたくさんあったのだと思います。
 違う言い方をするなら、大教団の教祖レベルであれば、実は21世紀の宗教のあり方はわかっていたと思うんですよね。しかし、巨大化し、時代の要請から集金機構、集票機構になりさがってしまった教団が、ある意味暴走してしまったあの時代は、不幸な時代だったと思います。
 どことは言いませんが、もちろんその教祖自身も狂ってしまった、そういう教団もいくつかありました。
 しかし、21世紀に入って、日本の宗教団体を取り巻く環境は大きく変わりました。伝統宗教もしかり、新興宗教もしかり。
 特に多く見られるのが、保守と革新の対立です。なんだか時代遅れなような気がしますが、特に明治以降成立した新宗教の部類は、ほとんどが今、「開祖」とその教えをどう扱うかでもめている。場合によっいては分裂している。
 もちろんそういう対立は会社などでもよくあることですが、やはり宗教の場合は難しさがあります。信者自身の人生や存在意義に直接関係してきてしまうからです。
 しかし、一昨日も昨日も皆さんと話したんですが、開祖の言葉にだけとらわれると危険です。言葉ではなく、彼らが21世紀やもっともっと未来に対して、どういう夢や理想を抱いていたかを忖度しなければならない。
 熱心な信者や弟子の方々にかぎって、言葉の呪縛にはまってしまうんですよね。
 おそらく私にできるお仕事は、そういう方々の呪縛を(いとも簡単に)解いてしまうことなのでしょう。得意のはったり力を活かして(笑)。

Amazon みろくの世

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2018.06.23

『あさき夢みし』 実相寺昭雄監督作品

Th_91obrgbmahl_sy445_ の娘と観ました。ますますマニアックになっていくな(笑)。
 ある意味全く面白くない作品でしょう。今なら絶対に作られない映画。ATGの作品はみんなそうか。
 芸術を目指したのでしょうね。古典文学を読むような、現代的な意味での退屈さや困難さがうまく表現されている映画とも言えます。
 しかし、よく観ると、見どころ聞きどころが満載でもあるのです。
 まずはもちろん実相寺昭雄的映像世界。どアップ、歪んだ構図、不思議な光の効果。それが映画的非現実世界を作り出しています。意識して観ると実に面白い。作り手の視点で観るべきでしょう。
 そして今回改めて感心したのは、大岡信の脚本の見事さですね。ストーリーはどうでもいい感じですが、一つ一つの日本語の選び方がお見事。
 もちろん平安時代の日本語ではないわけですが、現代人の理解可能なかぎりでの「疑似古語」が実に美しい。これは本当にすごい。さすが現代語、古語に通じている大岡さんです。
 それから廣瀬量平の音楽。これも「疑似古語」と同様「疑似古典音楽」ですね。うまい。実にいい。
 ちなみに笛全般で名演奏をしている上杉紅童さんですが、今、ウチの娘が野村四郎先生に弟子入りしているのは、ある意味上杉さんのおかげです。私の教え子が能を志すことを決めたとき、上杉さんが山本邦山さんを介して野村先生を紹介してくれたのです。不思議なご縁です。感謝。
 役者さんでいうと、岸田森の坊主頭がエロですね(笑)。耳もとがっていて、ちょっと私は親近感を覚えました。
 あっ、それから能といえば、観世栄夫さんがちょい役で出ています。いい味出してます。
 こういう映画は、実は海外で評価が高いんですよね。YouTubeにあったトレーラーも海外からアップされたものでした。
 独身時代よく観ていたATG作品。久しぶりにいろいろ観てみようかと思います。

Amazon あさき夢みし

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2018.06.22

追悼 ベイダー選手

 ッグバン・ベイダー選手がお亡くなりになったとのこと。昨年は久々に来日し、試合もしたのに。たしかにその時、リング上で倒れたりして、ちょっと心配でしたが。
 ベイダー選手といえば、猪木さんや三沢さんとの死闘も印象に残っています。しかし、なんと言っても衝撃的な記憶になっているのが、不沈艦スタン・ハンセン選手との肉弾戦でしょう。
 こういう人間離れした、そしてテクニックを超えた肉体のぶつかり合いは、日本の相撲にも通じ、世界的な神事とも思えるものでしたね。
 ベイダーがまだレオン・ホワイトと名乗っていた頃の動画がありました。この頃はまだハンセンの貫禄勝ち。

 そして、1990年東京ドームでの伝説の戦い。最強外人対決、そして新日本対全日本の代理戦争。本当に興奮した記憶があります。あらためて観ますと、本当に本当に肉弾戦ですね。
 両者リングアウトという結末にも、ある意味納得させられてしまいます。勝敗を超えた戦いです。お互いのタフさを信頼しあっての全力ファイトでしょう。

 この日本での対決がアメリカに逆輸入されたのが、翌年WCWで行われた「WRESTLE WAR 1991」での対決。これまたすごいですねえ。まさにスーパーヘビー級どうしの肉弾戦。こちらは両者反則という裁定でした。それもまた不完全燃焼どころか、妙な説得力さえありますね。

 のち、全日本で二人はタッグを組みました。そりゃあ強すぎますよ。1998年の世界最強タッグ優勝戦。最後は負けてしまいますが、逆に二人の強さを印象付けられた試合でした。本当にプロレスは勝敗だけではないんですね。

 あらためてベイダー選手のご冥福をお祈りします。本当に感動を、そして御神事をありがとうございました。感謝いたします。

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2018.06.21

『ツィゴイネルワイゼン』 鈴木清順監督・原田芳雄主演作品

Th_51gjcfrcybl_sy445_ 〜む、すごい…。今さらながらではあるが、本当にすごい。久しぶりに理性が崩壊しました。
 この映画を観るのは実は二十数年ぶり。まさか自分の娘と一緒に見入ってしまう日が来るとは思いませんでした。
 将来映画に関わる仕事をしたいと言い出した下の娘。洋画やアメリカのドラマも好きですが、最近は邦画を静かに観たいと言い出した。いいことです。まあ、彼女は能、箏曲、剣道と、伝統的な稽古の日々を送っていますから、当然の成り行きでありましょう。
 ちなみに、決してそれらを強制したことはありません。紹介もあまりしませんでした。勝手にそっちに進んでいきました。たぶん。
 で、いちおうそこそこ昭和の邦画を観てきた父親としては、タイミングを見て、徐々に名作を引っ張り出してきて見せようと思っているわけです。
 ちょっと早いかなと思いつつ、今回引っ張り出してきたのが、この「ツィゴイネルワイゼン」。
 なぜなら、娘は「恐怖劇場アンバランス」が好きでして(ってその時点でマニアックだし親の影響がある)、アンバランスと言えば、鈴木清順、藤田敏八が監督をし、田中陽造が脚本書いてるじゃないですか。そうすると自然と「ツィゴイネルワイゼン」を観なきゃならなくなりますよね。
 で、観たわけですが、親子で目が点になっちゃいました。私も初めて観たかのような衝撃に打たれました。久しぶりに、盤石だった日常が崩壊しました。それが実に快感。
 意味や因果関係を拒否し、ただただイメージとしての「美」と「エロス」を描ききった作品。たぶん現代の映画やドラマしか知らない娘にとっては、非常に未来的に感じられたことでしょう。いや、能をやっているので、中世的とも思ったようです。つまり時空を超えて美しいし、カッコいい。
 大人になったワタクシの新発見としましては、「美」と「エロス」の双方の底辺に、「嫉妬」があるということでした。なるほど、そうか。
 そして、夢こそが本体であり、現実こそが虛構だということ。あるいは死が本体で生が虛構であるということ。なるほど、これは普遍的な魅力を備えた完璧な映画だ。
 それにしてもなあ、主演の四人の魅力的なこと、この上ない。原田芳雄は言うまでもなく、ある意味シロウトの藤田敏八がいい味を出しすぎている。原田に対して藤田を選んだことがまず成功だし、すごい。両方達者な役者だったら…。
 原田と藤田、そして清順監督は亡くなってしまいましたが、大谷直子と大楠道代は健在でいらっしゃる。やっぱり女は強いのだなあと、この夢と現実をつなぐ映画を観たあと、ふと思いました。最初に死んだのは藤田か。
 原田芳雄が亡くなった時、そして昨年鈴木清順が亡くなった時には、追悼記事を書きましたっけ。

追悼!原田芳雄 『原子力戦争 Lost Love』 (黒木和雄監督作品)
追悼 鈴木清順監督

 あらためて昭和の男三人のご冥福をお祈りします。あなたたちは永遠です。


 
Amazon ツィゴイネルワイゼン

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2018.06.20

草食動物は究極の偏食?

Th_images 日は地域の教育関係者の会合があり、河口湖畔にお住まいのアウトドア・エッセイスト木村東吉さんの講演を拝聴しました。
 私と同様、外からこの土地を選んで住み、ここが世界的にも特別な場所であることを認識されているようで嬉しかった。地元の方々の気づかない(忘れてしまった)魅力を発信してくださっていることに敬意を表します。
 自然の中で不便な生活をして分かる、都会の便利さの危険。都会は、私たちの煩悩を誘発する誘惑に満ちています。
 食についてのお話の中で、お知り合いの栄養士さんが「本来、食べたいものを食べたいだけ食べていればよい」という言葉がありました。
 これはよく分かります。私はもう15年ほど一日一食です。そうなりますと、体が何を欲しているか、よく分かります。野菜が食べたいとか、肉が食べたいとか、甘い物がほしいとか…。
 これは好き嫌いではなく、体が本能的に欲しているのです。それに従っていればいいだけであって、おかげさまで私はとっても健康ですし、体重の増減もほとんどありません。
 一日三食食べなければダメとか、毎日30品目とか、いろいろな「強迫(脅迫)」が飛び交っていますよね。これってとんでもない間違いですよ。
 去年の今ごろも、こんな記事書きました。

牛は草しか食べないのに、なぜ「肉」の塊なのか?

 牛だけでなく、草食動物って、めちゃくちゃ偏食ですよね(笑)。草だけ食べていてもめっちゃ健康です。
 なんで人間だけ、そんな30品目も食べなきゃいけないんですか。変な話でしょう。人間だけ退化しちゃったんですか?
 食べたいもの、そこにあるものを、ありがたくいただいていれば、おそらく健康でいられるのです。余計なもの食べるようになってから、成人病やらガンやらが増えた。これは事実です。
 というわけで、私の理想はかの横山大観。日本酒とつまみだけで84まで生きて、そしてあれだけの作品を残した。今からでもそういう食(?)生活にしたいのですが、誰かお酒のスポンサーになってくれませんか(笑)。

The GreatLife at 5LAKES | 木村東吉のすべての情報がここに

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2018.06.19

生誕109年・没後70年…太宰治 『右大臣実朝』

Th_unknown 日は桜桃忌。今年は太宰治、没後70年、生誕109年にあたる年です。
 それにちなみ、今日は改めて一つ作品を読んでみようと思いました。時間もないので短編を、と思いつつ、結果としてはちょっと長めな作品を選んでしまいました。
 というのは、ここのところの地震のことを考えていた時、そういえば「右大臣実朝」には地震の話がたくさん出てきたなと、ふと思い出したからであります。
 検索してみたら、28箇所「地震」という文字がありました。そう、実朝の生きた12世紀から13世紀にかけては、関東や関西で大きな地震が相次ぎました。
 たしかな記録としては残っていませんが、地質調査の結果、1200年ごろには、今も発生が予測されている南海トラフ巨大地震も発生したと言われています。ちなみに鎌倉の大仏の大仏殿が津波で流されたのは、室町時代の明応の大地震です。
 この「右大臣実朝」は、吾妻鏡を資料として引用し、その無味乾燥な記述から、実朝の人間性を生き生きと描き出すという、太宰得意の小説制作技法をとっています。そう、太宰は原資料をたくみに翻案、換骨奪胎するテクニック、才能に異常なほど恵まれた作家です。
 正直、ちょっとずるいと思ってしまうくらい、うまい。この「右大臣実朝」もまた実にずるい作品と言いいたい。
 執筆時期がまた微妙です。昭和17年から18年。まさに明治維新から現在までの150年の、ちょうど折り返し地点。戦局も暗転していく時期ですね。
 そういう時局だからこそ、歴史物をもって人間を描くという方向に向かったとも言えます。最終的には甲府で作品を仕上げたというのも、私にとってはこの作品を身近にしている原因です。太宰には、山梨の風土が色濃く影響を与えています。
 皆さんも、ぜひこの機会にこの名作を読んでみてください。いつものことですが、内容よりも、その文章のリズム感の良さに、私は惹かれてしまいます。なんとも音楽的です。吾妻鑑と対比によって、それがまた際立っているのです。

青空文庫 右大臣実朝

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2018.06.18

大阪で震度6弱

Th_img_1863 く想定外でした。今日は昨日の群馬の地震について、そして房総半島沖のスロースリップについて書こうかなと思っていた矢先に、まさかの大阪の内陸で大地震。
 本当に地震予知というのは難しいと改めて実感いたしました。考えてみると、東北にせよ、熊本にせよ、全く想定外でしたね。結局、ロバート・ゲラーさんの言う通り、「地震予知は不可能」なのでしょう。
 ただ、これだけは言えます。今朝の地震後にツイートしましたが、「この地震が前震である可能性がある」と。
 言うまでもなく、東北3.11M9の二日前3.9には、三陸沖M7.3が起きていました。また、熊本4.16M7.3の二日前4.14には、同地方でM6.5が発生していました。
 これは予知でも予測でもなく、経験則として「大規模な地震が発生した場合、数日以内にさらに大きな地震が起きる可能性がある」ということが言えるということです。
 東北と熊本の時に、私は警鐘の意を込めて次のような記事を書きました。ぜひお読みください。

2011年3月9日三陸沖地震M7.3を忘れてはいけない。

熊本でM7.3

 さすがにここ数年の2件の実例は無視できなかったのか、地震研も国もはっきりその可能性を言うようになりました。それだけでも大変な進歩です。これだけ多数の犠牲を払って、ようやくそうなったとも言えますが…。
 特に、今回の大阪の地震は内陸であり、複雑に活断層が入り組んだところですから、熊本のように、周辺の断層に影響を与えたと考えるべきです。全く影響がないということはありえません。
 今回の震源は、狭い視点からすると想定外でありますが、広い目で見ますと、いわゆる新潟神戸のひずみベルト上にあります。先日書いた白川郷「帰雲城」の悲劇を生んでしまった天正大地震もそうですね。
 また、東北の時がそうであったように、内陸の大規模地震のあとに海溝型の巨大地震が起きる流れもあります。当然南海トラフ巨大地震の発生は日に日に近くなっているのは事実なので、そちらも要注意ということになります。
 いずれにせよ、日本中どこでも、日々の準備と警戒を怠ってはいけないということです。
 

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2018.06.17

優れた演奏とは…「記録」と時間の流れ

Th__20180618_114326 日の続きとなります。
 未来から過去へと流れている(と認識していた)はずの時間を、なぜ私たちは過去から未来へと勘違いしてしまったのでしょうか。
 その原因となっているのは、「文字(文)」や「音符(楽譜)」や「録音」という「記録」です。記録するということは、本来流れていくモノを、この現在に固定することです。
 音楽と楽譜の関係で考えてみましょう。音楽は未来から流れてくるモノです。たとえばそれを楽譜に記録したとすると、それを再生するには、1小節目の1拍目から右に向かって演奏していくことになります。
 つまり、音楽を聴く際には客体であった自分が、今度は演奏する側に立つと主体になる。そうすると、記録の古い方、すなわち過去から順に再生していくことになります。
 それはあくまで演奏、再生の方向であって、音楽が聞こえてくる(流れてくる)方向とは違います。その主体と客体の逆転が、時間の流れの認識においても起きました。
 つまり、自分が止まっていて「時間が向こうから流れてくる」のではなく、時間の道のりを「自分が過去から未来へ歩んでいく」というように捉えるようになってしまったのです。
 ここには西洋近代がたどり着いてしまった、個人主義、主観主義が大いに影響しています。ちなみに日本語で「人生を歩む」という言い方をするようになったのは明治時代からです。それまでは、自分が止まっていて時間が未来から流れてくると感じていた…これについては今まで何度も書いてきました。
 しかし、こういう近代的感覚は単純に間違いだとは言えません。なぜなら、自分と時間との関係は相対的であって、どちらを固定するかによって、二種類の解釈ができるからです。
 わかりやすく空間で話をすると、たとえば自動車のナビや、飛行機、電車の運転シミュレーターのように、自分が動いていなくても、自分が動いているように感じますよね。時間においても同じことが言えるのです。
 しかし、相対的に同じと言っても、その本質は明らかに違います。車を運転してどこかに行くのと、ナビの中でどこかに到着するのとでは、もちろん意味が違いますよね。
 実はそこが肝心なのです。たとえば音楽で言えば、完全に即興の音楽というのは、自分が止まっていて向こうから来る音楽をキャッチしていく感じで、楽譜通り演奏するというのは、記録された情報を過去から順に正確に再生していく感じ。明らかにその質は違ってきます。
 あくまでも、本来音楽は未来からやってくるモノ。それを前提にすると、たとえばクラシックの演奏において、優れた演奏とはなんなのか、一つの考えが浮かびます。
 そう、記録された情報を過去から順に再生していくのだけれども、それを聴く人たちには、まるで今生まれたばかりの音楽が、向こう(未来)から流れてくるように感じる…それが優れた演奏なのではないでしょうか。
 いくら完璧にデータ通りに再生したとしても、それが感動を呼ぶとは限らない。いくら完璧なテクニックでミスタッチなく曲芸的に達者に演奏されたところで、ちっとも面白くない、なんてことはしょっちゅうあります。
 上の写真はマタイの自筆譜です。私もかつてマタイ受難曲全曲演奏に参加させていただきましたが、その際の体験が非常に象徴的でした。私はとにかく間違いのないように音符を正確に再生していくことに努めていたのですが…そこで演奏家であるはずの私に奇跡が起きました。向こうから予想しないモノがやってきて私を突き動かしたのです。
 その時のことを記録した「残酷で愚かな自分を発見…マタイ受難曲全曲演奏」という記事をお読みください。この体験は私にとって非常に大きな転機となりました。
 おそらくバッハ自身、向こうからやってくる音楽をキャッチして、そしてこの楽譜を残したのでしょう。きっと涙しながら、感動しながら、神のメッセージを受け取っていたに違いありません。
 そのバッハの感動を「今ここ」に再現できたら、きっと最高の演奏になるのでしょう。難しいけれども、実に興味深い人間の営みではありませんか。

 

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2018.06.16

音楽は未来からやってくる…マタイ受難曲序曲を「観る」

Th__20180617_162522 近、「時間」のことばかり考えています。
 いろいろなところで「時間は未来から過去へと流れている」という話をさせていただいているのですが、実はその先がありまして、その「先」については、この前こちらに少し書きました。
 またまた宇宙から目線で申し訳ないのですが、地球人が正しい(楽しい)生き方をするには、二つの壁を乗り越えなければなりません。
 まず、「時間は過去から未来へと流れている」という近代的常識(誤謬)から逃れることです。つまり、「未来から過去」感覚に戻れということです。
 そして、その先が、「時間こそが存在である」という、いわば道元やハイデガーが到達しようとした真理を体感することです。違う言い方をしますと、「時間は認識(存在)の手段である」ということを悟るということ。あるいはこの瞬間、刹那に過去、現在、未来すべての時が重層的に同時に存在していることを知るということです。
 まずは、第一のステップ、すなわち時間の流れを「過去→未来」ではなく「未来→過去」と修正しなければ、その先、第二ステップには行けません。
 第一ステップについて考える時に、大きなヒントとなるのは「音楽」です。そう、音楽は未来からやってくるのです。
 それをイメージするのに最適なのが、以前紹介した「MidiTrail」というソフト(アプリ)です。
 実は最近、毎日のようにいろいろてバッハのマタイ受難曲を聴いているのですが、今日はこの8bit音源風を聴きました。いや、観たのかな。これを観ると、音楽が向こう(未来)からやってくるということが、はっきり理解できると思います。
 もちろん、音楽は時間芸術ですから、最終的には上記の第二ステップが関わってくるので、単純に「未来から」とは言い切れない部分もあります。しかし、今日はとりありず単純化して、まず、楽譜を読むように「過去から未来へ」ではなく、あくまでも自分が「今」に止まっていて、音楽(時間)は向こうからやってくるのだというイメージをしてみてください。
 しっかし、すごい曲だよなあ。こうして視覚化するとさらにそれを痛感しますね。バッハは宇宙人ですよ。

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2018.06.15

武井壮 『大人の育て方』

 日も他人様のお言葉を拝借いたします。今日は武井壮さんのお言葉。
 最近どういうわけかスポーツの世界に関わることが増えまして(自分はプレーしません)、日本のスポーツの特殊性、特に問題点について語り合う機会が増えています。
 ですので、武井さんのこのスピーチの内容には、実に強く共感しますね。
 学校で働いており、またちょっとした体の調整をする仕事(趣味)をやり始めたので、スポーツをする青少年に出会うことが多いワタクシ。
 正直ですね、親が自分の満足のために息子、娘にスポーツをやらせている家庭が多いことに驚きます。もちろん本人たち、つまり親たちはそんなこと思っていないと思っていると思いますが(すごい日本語だな)。
 武井さんが言うように、あまりに無責任に、子どもたちの大切な時間をスポーツに捧げさせている大人が多い。時間だけでなく、体も酷使していて、その後の人生に支障をきたすようなストレスを与えていることもある。あるいは精神的にも。
 子どもたちも、自分がそのスポーツを好きだ、得意だ、楽しいと思って始めたとしても、いつのまにか、それが嫌いだ、そんなに得意なのではないのではないか、苦しい辛いと思うようになってしまっている。そういうケースも多々見受けられます。
 言うまでもなく、誰もがプロ選手を目指すわけではないし、日々の練習の中でかけがえのないものを学ぶことは事実です。しかし、現状の日本スポーツ界では、ほとんどの青少年、学生スポーツはマイナス面が大きすぎます。
 日本では、スポーツ、特に学生スポーツは「お金がかかって、かつ理不尽」が普通です。アメリカでは、逆に学生スポーツは「お金を生み、かつ科学的」。
 ようやく日本版NCAAが誕生しそうな雰囲気になってきましたが、おそらく日本版は日本的ということに落ち着いてしまうでしょう。
 その理由にはいろいろなことがあります。歴史的、文化的背景があるので、そう簡単には崩れないと思います。しかし、ここのところの、アメフトやレスリング界での「事件」が、日本スポーツを世界標準化するチャンスを与えてくれているようにも感じます。
 おっと、武井さんのお話から、ちょっとずれてしまいましたかね。この講演の要点は、そこよりも、彼の生き方、勉強の仕方にあるのではないでしょうか。

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2018.06.14

孫正義 『就活生よ、君たちはどう生きるか』

20180615_85851 日に続き、超一流の方の講義(スピーチ)を味わってみましょう。
 ソフトバンクの孫正義さんのスピーチ。今日、記事として公開されました。

孫正義「就活生よ、君たちはどう生きるか」感動のスピーチを公開

 「夢」と「志」は違う。よく分かりますね。「感動したら即行動」。そうです、心が動いたら、次は体を動かさないと意味がない。感動した!で終わってしまう人が多いのです。というか、私も含めてほとんどの人がそうですよね。
 「死」を意識した瞬間、欲がなくなってしまう。誰もがそれを体験できるわけではありません。しかし、本気で行動していれば必ずあるのが「絶望」というものでしょう。その「絶望」こそが私たちを強くし、また純化する。もちろん、その逆に陥ってしまう人もたくさんいるでしょう。
 情報革命は人々の笑顔のため。スティーブ・ジョブズにも通じる考え方、感じ方でしょう。利他、布施の最大化に、テクノロジーは大いに役立ちます。見ず知らずの、地球の裏側の人々に対しても、テクノロジーを駆使すれば、布施することができます。
 見ず知らずだからこそ、お互いに匿名であり、個人は抽象化され、一対一のギブ・アンド・テイク関係ではない、純粋な贈与と感謝の感覚を持つことができる。もちろん、そこには金銭が絡むわけですが、高度に抽象化されているので、結果として我欲は個人間には働かなくなる。
 そういう意味で、今、人類は本当に新しいステージに入りつつあると感じます。テクノロジーが近代的経済の観念をぶち壊そうとしている。いいことだと思います。
 若者に負けないように、私も「志」を持って、地球のために尽力したいと思います。それが私自身の幸福でもあるのですから。
 

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2018.06.13

島田紳助 伝説のNSC講義

 日前にネットで評判になっていました。たしかにこれはすごい内容ですね。さすがとしかいいようがない。
 今、個人的にいろいろ考えていること、勉強していることがあるのですが、そのためにもなった。なるほど!と腑に落ちたのは、そういうことを自分なりに考えていたからでしょう。いいタイミングで聴くことができました。
 それぞれの方が、それぞれの仕事や趣味や志において感じることがあるでしょう。だから、自分なりの納得ポイントや解釈については書きません。
 超一流の皆さんの言葉は、結局みんな同じなんですよね。表現は違うけれども。
 ちなみにこの素晴らしい講義(授業)を文字起こししてくれた方がいます。ありがとうございます。
 ああ、こういう授業ができたらいいですねえ。一方的な講義でけっこう。これだけの内容があれば。
 最近、人前でしゃべる機会が多いのですが、これはそういう意味でもとっても勉強になりました。
 心で覚える。心で感じる…か。遊べと。うろうろしろと。結構やってるよな(笑)。良かった。

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2018.06.12

米朝首脳会談とプロレス

Th_2018061300000019reut0004view 当に「あっけなく」実現してしまいました。あまりのあっけなさに、感動はあまりありません。それもこの役者二人ですから(笑)。
 私も一度は米朝首脳会談中止という記事を書いてしまったことからも分かるとおり、すっかり二人にだまされました。
 いや、だまされて腹が立つとかではなく、変な話ですが、やっぱりプロレスってすごいなと感心した次第です。
 この「歴史的」な試合と和解、まるでプロレスじゃないですか。もちろん、プロレス信者の私は、悪い意味でそう言っているのではなく、「歴史的」な名場面というのは、ことごとくこのようなプロレス的な世界で展開しているのではないかと。
 昨日の朝日新聞のプロパガンダもそうですよ。今見ればバカバカしていけれども、あの時はそれで何百万の命が奪われたわけじゃないですか。
 だからそういう歴史もプロレス自体も、ぜったいにバカにできないんですよ。そういう「物語」こそがリアルであるというのは実に面白い。
 いわゆる正々堂々のスポーツ的な世界は、実はリアルではないということです。もちろん、今回のプロレスは三流の試合でしたよ。それはプロレスの名誉のために言っておきます。
 もうちょっとピリピリした雰囲気を作ってから、歴史的な和解に持っていくとか、プロレスのストーリーとしてはもっとやりようがあったでしょう。二人がそこまでの役者ではなかったというか…。
 そうそう、これも言うまでもありませんが、かつて「トランプとプロレス」に書いたとおり、トランプは(リンカーンも!)かつてはプロレスラーでした。それがアメリカという国の前近代性を象徴しています。神話の世界なんですね。
 そういう意味では、トランプにとっては、金正恩はヒールとして強力なライバル。その二人が初めて対戦して、まあ予想どおりタッグを組んだわけですよ。あの中身のない同意書を見れば、これはある種の共闘と言っていい。
 それにしてもですね、超ヒールの二人がノーベル平和賞候補のベビーフェイスになって、国際的にはベビーフェイス(赤ちゃんという意味でも)の安倍さんが、ますます国内ではヒールになっていくという、このパラドックスが面白いし、まさに神話的で楽しいですね。
 さて、脇役になってしまったヒール軍団、プーチン、習近平、ドゥテルテ…その他の、今後のプロレス的振る舞い方はどうなっていくのか、非常に楽しみです。

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2018.06.11

『勝たずして何の我等ぞ』 (昭和19年朝日新聞社)

Th_117815219_o1 日の続き。結局、RADの野田くんは謝罪してしまいました。
 なんと息苦しい世の中なのでしょう。これこそ、ある種の言論弾圧でしょう。一見逆のように見えますが、実際にはこの「勝たずして何の我等ぞ」の頃の日本と同じような状況とも言えますね(もちろん、全然違うのもわかりますが、あえて)。
 そう、なにしろですね、あの、あの朝日新聞社でさえこういうプロパガンダ本を出版していたわけですね。いや、朝日新聞の戦後の変節(?)を指弾しようとは思いませんよ。なにしろ、そういう時代の変化の中で、一企業としてやってきたわけですから、人間個人でもそうであるように過去との矛盾というのはお互いに目をつぶらなければならない。
 それにしても、あらためてこの本というか、写真集でしょうかね、これを見ると大変な時代だったなあ、今風に言えばフェイクニュースしかない時代だったのだなあと思います。
 昭和19年といえば、もう大東亜戦争も完全に下り坂、明治維新から現在までの150年戦争で考えても、ちょうと折り返し地点を過ぎたあたりです。
 未来の私たちからすると、本当にアホくさい状況ですが、それはあくまで未来から見ての話。当時の彼らにとっては、これこそがリアルであったわけです。だから「間違っていた」とは言えない。
 これに比べればですね、「HINOMARU」なんて、まさに子供のおもちゃレベルのことですよ。めくじら立てることもないし、謝るべきことでもない。
 というわけで、この時代の「リアル」をぜひ御覧ください。国会図書館のデジタルコレクションで読めますよ。

勝たずして何の我等ぞ

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2018.06.10

RADWIMPS 『HINOMARU』

Th_51nejr2hnl_ss500 ックのネタを続けます。こちらは男のロック。男のロックだから、政治だ、歴史だ、思想だという、芸術よりも低い次元で物議を醸しております。
 まあ、もともとロックというものは(フォークも)、政治的であり、歴史的であり、思想的なものでした。だから全然いいのです、本当は。
 特に歌詞というのは言語ですから、純粋な音楽よりも次元が低い(科学的な意味です)。そこにこだわるのは、ある意味J-ROCKのそれこそ伝統であり、文学と音楽を同列に配置する「和歌」の文化そのものです。
 さて、この曲どうでしょうね。聴いてみましたけれど、作家本人の意図は別として、音楽としてはとても「軍歌」とは言えないと感じました。逆にこれを「軍歌」と感じてしまうサヨク的感性の方がずっとアブナイのでは(笑)。
 いつも言うように、戦争反対を唱える人たちの方が、ずっと「あの」戦争を意識していて、つまりある意味では過剰に保存してくれているんですね。「あの戦争を忘れない」って。
 最近それが実に滑稽に見えてきた(失礼)。もちろん、逆の意味で流行っている「ホシュ」「右翼ごっこ」はもっと滑稽ですけれど。
 さて音楽(曲)は良いとして歌詞はどうか。これもある意味「滑稽」です。私も完全なる戦後ノンボリ世代でありますが、しかし、どういうわけか知られざる戦前、戦中、戦後の大量の歌たち、すなわち仲小路彰の作った歌曲をたくさん「読む」機会を得てしまい、もともと国語の教師であるし、またいちおう歌詠みの端くれであって文語を駆使していますから、この野田洋次郎くんのなっちゃってな日本語には、正直噴飯してしまいました。
 もちろん、こういう口語・文語の交錯し混濁する日本語が、今の若者にとって、その正誤がどうであるか以前に、ある種の「雰囲気」を持っていて、かえって新しく、カッコよく響くということもわかります。
 うん、たしかに、近代短歌の世界でもそんなことはしょっちゅうあるし、比較的近いところでは、たとえば松任谷由実の「春よ、来い」なんかも、結構なんちゃってだったりします。もちろん椎名林檎嬢にもたくさんある。
 それでも、なにかオジサンとしては、猛烈な違和感を抱かざるを得ないのは、「御国」とか「御霊」とかいう核心すぎるワードのセレクトセンスや、「日出づる国」だけ歴史的仮名遣いだというところなど、ある意味作者に悪意がなさすぎてですね、なんだか残念を通り超えて、ちょっといい加減にしろよ!と感情が動かされてしまうからでしょう。
 と、自分の日本語もちょっと破綻してきてしまいました。ロックなんだから細かいことはいいのだ!という自分もいますけれど、そんなこと言ったら、ホンモノの軍歌だってロックだぜ!という自分もいたりで、もう大変です(笑)。
 どうせやるなら、もっと本格的に「らしく」創るという選択肢もあったのではないでしょうか。う〜ん、どうなんでしょうねえ。
 いざゆかん!ということでは、仲小路彰の「スメラ民の歌」を思い出しますね。こちらからお聴きください。こっちはホンモノ?いや、ちょっと待てよ、こっちはこっちで…(笑)。

 追記…ホンモノの専門家、辻田真佐憲さんが期待通りの論評をしてくれました。似たこと感じてますね。

RADWIMPS衝撃の愛国ソング「HINOMARU」を徹底解剖する

 追追記…あらら謝っちゃんだ。軍歌もだけど、ロックも終わってんだな。

RAD野田「HINOMARU」歌詞について謝罪 「軍歌だという意図は1ミリもない」

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2018.06.09

SHISHAMO 『私の夜明け』

 ックの日。NHKの「シブヤノオト」でSHISHAMOのリクエスト・ライヴを堪能いたしました。
 今まであんまりちゃんと聴いたことがなかったSHISHAMO。なるほど、なかなか魅力的なバンドですね。
 スリーピースのライヴでここまで聞かせるのは、演奏技術もさることながら、やはり楽曲が優れているからだなと思いました。
 初めて聴く曲も多かったのですが、どれもその独特な歌詞世界と、それにマッチしたちょっと不思議なコード進行やリズム感、メロディーセンスに思わずひきこまれました。
 特に印象に残ったのが、この「私の夜明け」。たまたまMVが最近公開されたとのことですので、ここに紹介します。
 ライヴではチェロのオブリガートがなかったので、純粋なギターポップバラードとして聴きましたが、こちらのスタジオ録音版もいいですね。
 歌詞はたしかに共感を生みそうな内容。そして、ちょっと凝った(しかしありがちな)コード進行をベースにしながら、時々おっと思わせるイレギュラーな展開があり、その割合が絶妙なんですね。本当にいいタイミングで心にちょっとした波を起こすというか。
 上の娘がSHISHAMOのコピーバンドのベースをお手伝いをしたようですが、ギターヴォーカルの人は正直大変だろうなあと思いました。宮崎朝子さん、地味にギターうまいですよ。
 この林響太朗さんによるMV、ワンカット(?)超長尺、照明だけで見せる意欲作ですね。なるほどなあ。

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2018.06.08

バックキャスティング(未来から現在を観る)

 日は富士五湖青年会議所の例会にお呼びいただき、皆様と当地方の観光、国際交流の未来について語り合いました。こちらで告知したイベントです。
 客席の皆様からも多くの建設的なご意見をいただき、なかなか充実した会となったと思います。
 私としては、やはり前キヤノン副社長であり東大名誉教授の生駒さんのお話が刺激的でしたね。スケールが大きくて素晴らしい。完全同意です。
 特にお話の中に出てきた「バックキャスティング」は、今ちょうど自分にとっても重要なキーワードの一つです。
 というのは、私がずいぶん前から言っている「時間は未来から過去へと流れている」という考え方に近いからです。
 そうそう、最近プロ無職のるってぃさんが、ワタクシとの対談を上手に編集してくれまして、YouTubeに動画をアップしてくれました。こちらです。

 この動画をご覧になっても分かるとおり、ワタクシの時間観と「バックキャスティング」は本質的には似て非なるものです。だいいち、未来から現在を観ることを「バック」と言っていること自体、根本の時間の流れ方が逆ということですよね。
 しかし、結果としては、フォアキャスティングよりもバックキャスティングの方が、「未来に原因を作って、現在に結果を出す」という意味では(宇宙人的には)正しいわけです。
 言うまでもなく、バックキャスティングとは、もともと環境問題において持続可能な未来を想定し、その未来から現在を観て解決策、やるべきことを決定するという思考方法です。
 実際それをしていなければ、人類は20世紀中に滅亡していたでしょうね。
 この視点、立点の置き方というのは、仲小路彰の「光を背にして立って観る」という考え方と近いかもしれません。生駒さんにも仲小路の「未来学原論」を差し上げましたところ、さっそく興味深く読んでくださっているとのこと。少しお話しただけですが、さすがもうあの難解な書のテーマ、エッセンスは理解されているようでした。
 今後も地域の若者たち、そして世界のトップを走ってきた方々と、いろいろな話をしていきたいと思います。本日はありがとうございました。

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2018.06.07

玄関とは…

Th_img_1770 日は、岐阜は美濃加茂市伊深の古刹、正眼寺さんに参拝いたしました。本校の名誉校長をお務めいただいている山川宗源老大師さまが住職をされている修行道場。
 その玄関に、かつての住職、名僧として名高い梶浦逸外老師の書がどんと構えて、私たちを迎えてくれています。
 いや、迎えるというよりも、ある意味睨みを利かせていると言ったほうが良いでしょうか。
 「誠和」…なんと深い言葉でしょう。「誠」は嘘偽りのないこと。禅的に言えばありのまま。素直な心とも言えます。そして「和」にはいろいろな意味があります。禅で言えば、やはり調和というイメージでしょうか。
 素直な心で他者と和するという、最も私たちには難しい言葉でお出迎えというわけです。
 ご存知のとおり、修行道場では、入門に際し、この玄関がまず最初の関門となり、庭詰といういわば最初の問答が行われます。要はそう簡単には道場には入れない、ほとんど嫌がらせのような(笑)やりとりがあるのです。
 入門、入山するということは、もちろん世を捨てることですから、その覚悟があるのか確かめるわけですね。嫌がらせではありません。今ならまだ帰れるよという慈悲の心です(笑)。
 そう、「玄関」こそ、まさに「関所」なのです。なんの関所なのかというと「玄」の関所というわけです。では、「玄」とは何か。
 「玄」という字は、もともと意図を束ねて黒く染めたものの象形文字です。「玄人」は「くろうと」ですよね。「玄米」は「黒い米」。そこから「深み」を表すようになり、たとえば「玄妙」とか「幽玄」というような熟語を生むに至りました。
 ですから、「玄」の「関」ということは、まさに「さの先はとんでもなく深い玄妙なる世界であるが、本当にそこに行くだけの覚悟と素質がお前にはあるのか」と聞かれていることになりますね。
 そう考えると、逸外老師の「誠和」という言葉にも大変深みがあることがわかります。禅という、宇宙の真理に近づくための玄妙なる世界に入るためには、まずはありのままの素直な自分になりきり、それを器として他者を受け入れつつ、新しい自分と他者と世界を作り出していかなければならないのです。
 それができるのか?と聞かれた自分は、その答えを保留したまま、本堂奥の開祖関山慧玄さまの像の前に立ってしまいました。
 雲水さんがおっしゃりました。ここに立つことは怖いと。老大師さまも、今でも恐ろしいと感じるそうです。
 また7月に夏期講座でお世話になります。その時には、ほんの少しでも「玄」の世界を垣間見ることができればと思っています。実際は難しいでしょうけれども。
 

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2018.06.06

白川郷「帰雲城」の悲劇

Th_siru05_01_kaerikumo490x336 日は高山のあと白川郷に行きました。しばらく記事の時間軸が前後しますが、過去も未来も現在に内包されていることを考えれば、日付にこだわる必要はありませんね。
 で、白川郷で驚くべき偶然(必然)の出会いがあって、おかげで研修旅行団の団長であるワタクシが集合に遅刻するというギャグをやらかしてしまいました。
 そのご縁の今後の展開については、動き出したら報告します。
 さて、白川郷と言えば…もちろん合掌造り集落なわけですが、ある意味それ以上にインパクトがあるのが、一夜にして消えた幻の「帰雲城」のお話ではないでしょうか。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますけれども、足利義政の名を受けた内ヶ島氏が、信州松代から入植して一時代を築きました。おそらく内ヶ島氏は鉱山の知識・技術を持っていたのでしょう。
 昨日うかがった中にも、「火薬」の話がありました。それは蚕の糞に関わる話でしたが、金にせよ火薬にせよ、戦の基礎になるものですから、この秘境に多くの財が集まった可能性は当然あります。埋蔵金伝説があるのもうなづけるところですね。
 さて、その、権勢を誇った内ケ島氏ですが、まさに一瞬にして全滅してしまいました。
 というのは、天正13(1585)年11月29日(新暦1月18日)の午後11時ころ、あの天正の大地震が発生、帰雲城を見下ろす帰雲山が山体崩壊を起こし、山津波と川の氾濫となって城はもちろん、町ごと壊滅させてしまいました。生き残った者は数名。ポンペイもびっくりの一瞬の悲劇でした。
 天正地震は謎に包まれています。東海・北陸・近畿の広い地域で津波を含む大きな被害を出しました。おそらく複数の断層が動いた地震なのでしょう。日本海側を太平洋側、両方で津波も観測されたようです。
 今でも震源さえ特定されておらず、その被害規模からしてマグニチュードは8を超えていた思われます。直下型のM8は大変です。
 若狭湾から伊勢湾にかけて、日本を完全に東西に分断するような動きがあったということでしょう。今、東京直下地震や東南海地震などの可能性が騒がれていますが、このような、ある意味想定外の震域での大地震も起こりうるということを忘れてはなりません。
 ちなみに壊滅した「帰雲城」やその城下町の位置は特定されていません。山体崩壊の傷あとは、430年たった今でも、はっきり残っています。それが上の写真です。

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2018.06.05

高山昭和館

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 日から岐阜へ研修旅行。高山での散策の時間、昨年は福来博士記念館に行きました。今年はそこまで行かずとも多少マニアックに「高山昭和館」を訪れました。
 規模のわりに入場料800円は高いと思われそうですが、その内容の充実ぶりからすると割安かもしれません。ぜひ高山に行った際にはお立ち寄りいただきたい。
 ようは昭和の商店街や一般家庭、小学校などを再現したのもですが、再現というのはちょっと間違いで、そこに置かれている様々なモノは全て本物です。
 すなわち、県内外から集めたリアル昭和グッズが満載なんですね。それを一つひとつ見ているととっても時間がかかる。規模が小さいだけにその密度が高すぎて楽しいどころか大変でさえあります。
 ところで、「昭和」と一言で言っても、もちろん60年以上あるわけでして、展示はまさにごった煮状態。戦前から平成にひっかかるところまでのモノが、雑然と置いてあります。
 ですから、ある意味では全くリアルな昭和ではなく、イメージとしての昭和なんですけど、そのごった煮見世物的な感じが、まさに「昭和」していて、案外に好感を持ちました。
 以下、そんな「昭和」感を味わっていただきたく撮ってきた写真の一部を羅列します。趣味が偏っているのは、まあご容赦ください。プロレスのポスター一つとっても、まさに「ごった煮」ですね(笑)。
 ある意味歴史や思い出とはこんな「イメージ」で形作られているのでして、ちっともリアルではないのかもしれません。
 ちなみに私以外にお客さんがいなくて、「昭和」を独り占めさせていただきました。静かでいいですよ。写真撮影自由ですし。また昭和好きな家族と一緒にぜひ行きたいと思います。

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2018.06.04

グアテマラ フエゴ火山噴火

Th__101863517_mediaitem101863514 米グアテマラのフエゴ火山が噴火し、大きな被害が出ているようです。
 フエゴ山は毎年のように噴火している活発な火山ですが、今回は特に規模が大きいとのこと。
 標高は富士山とほぼ同じ。富士山もこのような噴火を起こしてもおかしくありません。
 特に今日配信されたこの映像はけっこう怖いですね。火砕流のスピードがいかに速いかがわかります。雲仙普賢岳の時もそうでしたが、まだまだ遠いと思っていると一気に呑み込まれる。

グアテマラで火山が噴火 火砕流に飲込まれるパトカー

 富士山でも火砕流が発生する確率が高い。もちろんどの方向に流れ出すかで私たちの運命は大きく変わるわけですが、少なくとも我が家のように中腹にある家はあっという間に呑み込まれてジ・エンドです。
 津波よりも切迫していますから、噴火の兆候があったらとにかく逃げるしかありません。正直、溶岩流はそれほど怖くありません。やっぱり噴石と火砕流ですね。
 そんなわけで、私も富士山のラドン濃度を測定しているわけです。環太平洋火山帯という意味でも、対岸の火事と思っていてはいけません。我が身のことと思い、それぞれに覚悟と準備をしておきたいものです。

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2018.06.03

ララ・ファビアン 『アダージョ』

Th_img_1673 日は河口湖円形ホールでのバンド・ライブに参加いたしました。富士五湖地区最強のおじさんハンド「JJパラダイス」の第3回ライブです。「JJ」とは「ジジイ」のこと(笑)。私も「ジジイ」ということです。
 ハンドのメインボーカルはウチのカミさんなんですが、実はここ一週間ほど、なぜか全く声が出なくなってしまい、大ピンチだったのです。はっきり言って演奏の方はいろいろ(楽しい)アクシデント満載のバンドなので、ボーカルがちゃんとしてないと大変なことになる。
 で、一昨日東京へ未来医療を受けに行ってきました。時々このブログにも登場している宇宙から(未来から)降りてきた「薬壷」型デバイスでの施術です。
 まあ、そうしたら、なんと10分くらいで治った!治っただけでなく、今までよりも調子がいいときた(笑)。おそるべし「薬壷」。
 いちおう保険をかけて、東京にいる上の娘にもピンチヒッターの可能性ありと伝え来てもらいました。結果として数曲歌ってもらうことになり、なんだかんだ我が家としては3人でステージに上がる良い機会をいただきました。
 写真はリハーサルの様子です。おかげさまでたくさんのお客様に来ていただき、(おそらく)存分に楽しんでいただけたと思います。皆様、ありがとうございました。
 というか、本番のライブよりも、打ち上げの方が倍の時間歌いっぱなしですごいことになりました(笑)。お疲れ様でした。
 さて、そんな打ち上げの中、マニアックな音楽趣味をお持ちのベーシストの方から教えていただいた歌手が、このララ・ファビアン。
 本当に勉強不足でこんなすごい歌手がいるとは知りませんでした。たしかにヨーロッパでは大変な人気のようですね。言語もジャンルもかなり横断的です。たしかにうまいし、心を打つ歌を歌う人ですね。
 日本ではあまり知られていないようですし、ブレイクのチャンスとなりそうだった一昨年の来日公演が中止になってしまったとのこと。
 それでも、この実力をもってすれば、いずれ日本でも認知されるようになることでしょう。
 さっそくいくつかの動画で彼女の歌を楽しんだのですが、1曲選ぶとすれば、私はこの「アダージョ」でしょうかね。あのアルビノーニのアダージョに歌詞をつけて歌っています。
 アルビノーニのアダージョについては、こちらに書きましたね。もともと「作り物」なので、こうして歌詞をつけても問題はありません。

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2018.06.02

告知 6/8 「YouとWin-Win!」国際交流で相互発展

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 週のイベントの告知です。
 富士五湖青年会議所さんがご縁をつくってくださりまして、ワタクシも登壇させていただきます。
 ここ、富士北麓地方は、富士山の世界文化遺産登録を機会に、爆発的に外国人観光客が増えまして、昼間街で見かける人の半数以上が外国人なのではないかと見紛うほどです。
 世界から注目されていることは、地元にとっても大変うれしいことで、また、インバウンドによってこの地方が多少なりとも潤うというのはもちろん悪いことではありません。
 しかし、ただ観光で通り過ぎる人たちを対象に宿泊や物品販売で儲けようというのでは、本当の交流にはなりません。やはり、人と人が実際に交わって、そしてお互いの国の現状や歴史や文化を知り、未来的な互恵関係を創るよう努めねばなりません。
 とはいえ、現実にはそれはなかなか難しいことであります。やはり自治体や公的な団体が中心に;なって大きな旗を振らなくてはなりません。
 そういう意図で開催されるのが、このイベント。
 講演とトークセッションのスペシャルゲストとして、元テキサス・インスツルメンツ社長、キヤノン副社長、キヤノン財団理事長、そして現東京大学名誉教授であられる生駒俊明さんにおいでいただくこととなりました。
 今日、初めて生駒さんにお会いし、JCの皆さん、そして一緒に登壇するふじよしだ定住促進センターの代表理事滝口さんと打ち合わせをしました。
 さすが生駒さん、世界を股にかけて活躍されてきた方ですので、スケールが大きい。宇宙人の(?)ワタクシとしては、そのスケール感がぴったりでして、初対面ながらも大変共鳴させていただきました。
 地元の皆さんはちょっと引き気味だったかもしれませんが、こういうスケールでものごとを進めないと、本当のイノベーションは不可能です。
 ですから、当日の話はとっても面白くなると思いますよ。もちろん、地元の皆さんが「得する」話をします。どうぞお越しくださいませ。
 ところで、生駒さん、ウチのご近所にお住まいでして、音楽、特にオペラの話で大盛り上がりしてしまいました。帰りにはご自宅までお招きいただきまして、仲小路彰の話などもさせていただきました。もちろん技術者、科学者、教育者としてのお話も、実に深みがある。勉強になりました。これからのご縁の展開が非常に楽しみです。
 
 
 

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2018.06.01

2018.05.31 DeNA × 楽天 試合ハイライト

 日遅れの話題でスミマセン。何度見ても感動するのでここに記録として残しておきます。
 本当に久しぶりに(20年ぶりに)プロ野球熱が再燃しております。プロ野球熱というよりも野球熱というべきか。
 なにしろ野球やってる夢まで見るんですから(それもかなりリアルに緊張して打席に入ったりする)、我ながらホンモノだと思います。
 もともとは正月休みに始めたゲーム、プロ野球スピリッツAが発端だったんですが、最近になってそのブーム再燃の意味が分かってきました。実際にいくつかのプロジェクトが進行中です。
 そんな中、昨日の試合は本当にしびれましたねえ〜。プロ野球観て泣いたのは、それこそ20年前の横浜の優勝のとき以来じゃないでしょうか。
 本当に素晴らしい試合でした。相手楽天もあっぱれ。ゲームでも自軍で大活躍してくれていますが(笑)、岸というピッチャーは本当にすごいですね。失投が少ない。精神的にも安定感がある。
 その名投手に対して、決して投げ負けていなかったDeNAルーキー東もただ者ではありません。あのチェンジアップは芸術的でさえあります。
 そして劇的な逆転劇については、もう説明するまでもありませんね。あそこで岸から必要なホームランを打てる筒香はもちろん、延長10回、選手層が厚く厳しい生存競争にさらされている桑原、そして山下が殊勲打を重ねるあたり、まさにプロ野球の醍醐味という感じでしたね。
 サヨナラ安打を打って号泣する山下には、まるで高校野球のような純粋さを感じました。苦しさの末の涙。悔しさと不安の末の涙。
 しかしプロは厳しい。1回の結果だけではだめです。実際今日は山下は全く打てませんでしたね。
 野球はドラマが生じやすいスポーツです。実力差だけでなく運も勝敗を左右しますし、考える時間が多い競技の分、精神的なものの影響が大きい。
 それが面白いのでしょうし、プロとしては難しいところなのでしょう。最近の野球はデータによる科学的な戦い方が主流となり、そういう意味では昭和の時代とは大きく違ってきています(打順や配球など)。ですから、久しぶりに観るようになった私にとっては、けっこう新しい発見や新鮮な感動があるんですよね。今まで寝かせておいてよかったのかもしれません。
 とにかくこの野球熱再燃を単なる自分の趣味ではなく、地域や学校のために活かせるよう頑張ります。

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