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2018.05.27

案因運縁恩…完(金)

20180528_94806 然ですが、宇宙人の地球での人生訓を(笑)。
 ここのところ、素晴らしいご縁のおかげさまで、「良き未来をイメージせよ」という記事がプチ人気になっております。
 5年以上も前に書いた記事が、今ごろになって多くの皆様に読んでいただけるというのは、それこそ5年前に投げたボールが流れてきたという、まさに「時間は未来から過去へと流れている」ことの証左でありましょう。
 ちなみに、宇宙人的に申しますと(笑)、「時間が未来から過去へと流れている」というのは、「地球人は便宜上そのように時間というのものを認知するように進化している」という意味であり、宇宙における時間の実態とは違っています。
 最近地球科学の世界でも「ブロック宇宙論」などが提唱され、現在も未来も過去も同時に重層的に存在していると説明されるようになりました。
 ワタクシの知っている限り、それが正しい。最強の宇宙人たるお釈迦様もそのようにおっしゃっておりますし、日本の神道の「今中」の考え方もそれに近い。未来も過去も現在のこの一点に同時に存在しておると。
 いわば一編の映画のフィルム全体がここに存在しており、それぞれのコマにどういう順番で光を当てて認知していくかということなんですね。
 自分が固定された光点となったと想像すれば、フィルムのコマが未来から過去へと流れていくというのは分かると思います。
 さて、上から(宇宙から)目線で申し訳ないのですが(笑)、地球人がそのように正しく時間の流れを認識したとすると、そこで「夢を実現する」ために必要な作法というのがありまして、その一つがたとえば「未来にボールを投げる」というようなことなのですね。
 で、それを最近まとめてみましたところ、上の図のようになったわけです。ちょうど「あいうえおかき」になっていて覚えやすい(日本人には)。参考にしてみてください。
 まず「案」。これはアイデアです。ふとひらめく場合もあるし、じっくり考えて見つかることもある。いずれにせよ、今までなかったモノ(何か)であるべきです。未来がこうあってほしいという願望と言ってもよい。ここがスタート。
 次に「因」です。ここが「ボールを投げる」に当たります。「案」は「案」のままでは何も動きません。「案」を「因」にするために、未来に投げます。未来にその「案」がどうなっているか、こうなっているに違いないとイメージするのです。
 案外、これをやらない人が多い。「案」はあってもそこに命を吹き込まないんですね。だからここを強調してきました。
 さて、うまく未来に原因をつくりますと、ここからはある意味楽です。逆の言い方をすると、自我を捨てて他者性、不随意性を信頼するのです。ここも人間には難しい。自意識が強すぎるからです。未来を強くイメージした人こそが、それを手放すことができないというのはよくあること。
 お釈迦様が「自我を捨てよ」と言ったのはそういうことだと思います。一度手放すのです。難しいからいろいろな修行方法が編み出された。それでもまだ難しい。
 たとえば「目標」を明確にすることは悪いことではないのですが、それにこだわりすぎると、結局はそれを設定した過去の自分に執着していることになってしまう。だから、ボールを投げたら、とっとと次の「案」を考える方がいいのです。ここが難しい。
 それでも、うまく自我を捨てることができると、投げられた「因」は時間の川の流れにのって「運」んでもらえるようになります。「運」は「運命」でもあります。運命にまかせる。
 そうしますと、「因」は「縁」を得ることになります。流れてくる最中に、ほかの人たちが投げた多くの「因(もとは案)」とぶつかったり、すれ違ったりしながら、お互いに影響を与え合います。私たちの手を離れたところで、形を変えていくわけですね。それを「縁」といいます。お釈迦様の言う「因縁」とはそういうことだと解釈しています。
 そして、いよいよその「因縁」が自分の近くの未来にまで「運」ばれてきます。もうすでに私たちにはその予兆が感じられ、いろいろなことが起き始めます。
 そこで、しっかりご縁の「恩」を感じ、誰にともなく感謝をし、そのご恩に報いるよう、すなわち利他的なまた新しい「案」生み出せるよう生きていると、過去の自分の「案」を「因」たるべくイメージしたのとは違った…たいがいが想定以上に素晴らしい…「果(結果)」を自らの手でキャッチできるようになります。
 これで一つの「夢実現事業」が「完(まっと)」うされます。完成、成就ですね。これが一つのサイクルです。「完」のためには「案・因・運・縁・恩」の一つでも欠けることは許されません。
 もうお分かりと思いますが、そのプロセスで重要なのは、一度「手放す」ということなんですね。自我を捨てる。矛盾しているように感じるかもしれませんが、自分の夢にあまり執着しすぎるのはいけないのです。私から見て、大きな志があるのにそれが実現できない人は、あまりに強い意志で自分の目標を達成しようとしすぎているように感じられるのです。
 ここが「修行」のしどころでしょう。ワタクシ流に言いますと「コト(自我・意識)」を捨てて「モノ(他者・無意識)」に任せよということです。それについてはまたいつか書きます。
 さて、最後に。「完」が成ると、自然に必要な「金」はついてきます。( )をつけたのは、そこは自動支払いなので意識しなくていいということです。勝手に必要なだけついてきます。決して、最初から、あるいは途中も最後もそこを意識しない方がいい。そこを意識すると自我が強くなり失敗します。お釈迦様が「財産」に対する執着を捨てよと言ったのは、そういう意味でしょう。
 今日はここまでにしましょうか。
 

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