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2018.02.10

【討論】追悼・西部邁と日本

 本が足りない。なるほどそこが寂しがり屋の原点なのかもしれない。
 西部先生がお亡くなりになって、あっという間に3週間になります。
 自裁された日、私は全然かっこよくないですよ!と書きました。
 その気持ちは、正直今でも変わっていません。
 佐藤健志さんが、弟子であるからこそ直截的に、自殺は自分以外をも全て殺す行為である、と言っていますが、そのとおりだと思います。自分を消すということは、自分の肉体で感じ、記憶し、予感している世界、他者を全て抹殺することなのです。
 しかし、一方で、西部さんがお亡くなりになっても、この世はなくならないどころか、あまり大きな影響を受けていません。これはまさに、思想や批評や言論の虚しさにつながる。
 もちろん、この討論に参加されている西部さんの申し子のような方々には、大きな影響を与えていることでしょう。しかし、それも死ではなく生が影響を与えているわけですね。そこには今度は死、自裁の虚しさを感じざるを得ません。
 国家とは何か。母国とは。祖国とは。
 これもまた虚しい事実ですが、実は日本人にとっての国家観などというものは、たかだかここ150年の、それも西洋から押し付けられて、無理やり作り上げようとした思想にしかすぎませんでした。
 だから、結局、国ではなく「母」に帰っていった。母というか母性でしょうかね。だから、亡くなった奥さんに対する、まるで小さな子供のような甘えが現れてしまった。奥さんやお母さんという「女」に帰っていったのでしょうね。
 日本が足りない…それは結果的には母性に対する渇望だったのかもしれません。西洋は父性の原理、東洋特に日本は母性の原理。
 あえてそういう見方をすると、西部さんを一つの象徴とする、日本人の寂しさが分かるような気もしますね。
 仲小路彰が「21世紀は太陽の世紀」と言った意味は深い。

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