「ら(ra)抜き」か「ar抜き」か
ツイッターを眺めていたら、「ら抜き言葉」は実は「ar抜き言葉」だという説が流れてきました。まるで大発見のように騒ぎになっている。
二松学舎大学の島田泰子教授の発表の画像(上)が騒ぎの発端のようですね。
実はそういう説は最近出てきたわけではありません。私は、もう20年くらい前に東京外国語大学の井上史雄先生の本で読んだ覚えがあります。
つまりこういうことですね。
書かれる(kakareru)→書ける(kakeru)
というような可能表現の変化と同様に
見られる(mirareru)→見れる(mireru)
というような過程を通じて、いわゆる「ら抜き言葉」ができたと(つまり言葉の乱れとかではない)。
これはいかにも外国語大学の言語学の先生たちらしい発想です。音素で見ている。
(旧)国語学者にとっての最小単位は「文字」なので、「ら抜き」という発想になった。私もどちらかというとこちら側の人間です。
つまりワタクシとしてはですね、「ar抜き」というのは、なんだかしっくり来ないわけです。生活感として(笑)。音素とかローマ字表記とか絶対考えてないし感じてない。語頭ならまだしも語中の、それも二つの仮名をまたいでの音素の連続はなあ…。
たしかに結果としてそうなっていますが、仕組みというかプロセスとしては、もうちょっと原始的というか、庶民的なのではないかと思うわけです(笑)。
ずいぶん前になりますが、私はこちらに可能動詞の発生について書いています。「書き+得る=書ける」説ですね。
ら抜き言葉はそれに引かれて、「見れる」とか「食べれる」とかになったと。つまり、「書く→書ける」のように、終止形の語尾の最後の音をエ段にして「る」につなげた(見る→見れる、食べる→食べれる)という説であります。
こっちの方がずっと身近な感じがしませんか?
実際のところ、これに限らず日本語の文法や音韻については、言語学と日本語学(旧国語学)で全然違うことやっていて、相変わらず相手を認めないようなところがあるんですよね。ま、もしかするとどっちも正しい、あるいはどっちも間違っているのかもしれませんが。
それにしても「ra」と「ar」じゃ、裏返しというか逆さまですよね(笑)。なんとも面白い。
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