キース・ジャレット 『パリ・コンサート』
Keith Jarrett – Paris Concert
1988年10月17日のライヴですから、今から29年前になるんですね。
なんか突然聴きたくなったんです。で、冒頭から泣いてしまった。こんな素晴らしいアルバムだったのか。
無性に楽譜を見たくなって調べたら、下の動画がありました(冒頭だけですが)。便利な時代ですね。
バロック音楽、特にバッハ好きにはたまらない一品ですよね。この頃のキースは実際バッハにはまっていました。このパリ・コンサートの前後に、平均律全曲やゴルトベルク変奏曲を録音しています。
作曲技法的にバッハに寄せているところもありますが、そういう次元ではなくて、精神というか、意識というか、そうした一段高い、いわば音楽の天井の部分で、キースとバッハは共鳴しています。
さて、このアルバム全体を未聴の方はぜひ「体験」してみてください。
冒頭のバロック的インプロヴィゼーション(おそらく半即興)から、キースの音楽の根底にあるのであろう、バロックよりもっと古いタイプの即興音楽、すなわち固定低音上に展開する激しい民族的音楽も素晴らしい。
そして訪れる静寂。しかし固執低音の呪縛からは抜けきれない。まるで、古代が近代を拒否するかのように。
しかし、いつしかまたバロック風な、一つのモチーフの変形と重層が多様な和声を発見していくような音楽に落ち着く。
さらに古典派的に展開していくが、再び究極のオスティナートである固定(固執)低音が侵入してくる。近代への不安や懐疑が表現され、しまいにはある時間帯には「ファ」だけになってしまう。それははたして音楽と言えるのか。
しかし、そうした原始の地平から生命が生まれ出るかのように素粒子は激しく振動しはじめる。
なるほど宇宙の生命、存在とは振動であった。音楽はそういうモノなのです。
そうか、コトは振動していないけれど、モノは振動しているのか。だから、古くは音楽のことを「もののね」と言ったのだしょう。
まるで地球誕生の瞬間を見るかのような音楽。そしてなぜか美しい孤独が現れて、長大なインプロヴィゼーションは終わります。
バッハを出発点として、時間を自由に行き来し(結果としてバッハは折り返し点となっている)、音楽の、人類の歴史を聴かせてくれる、とんでもない楽曲ですね。
続く2曲は、キースの「今」ですね。ジャズやブルースが、音楽史の上にどのように配置されるのか。このアルバムは明らかにしてくれているような気がします。
私たちは何から解放されて、何から逃れられないのでしょうかね。解放されても縛られても、なぜか淋しいのが人間なのでありました。
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