菩薩の心
今日は恒例の塩山向嶽寺接心。中学2年生を連れての宿泊座禅研修です。
この素晴らしい修行道場(非公開寺院)で座禅させていただくのも8回目となります。
美しく清らかな環境の中での座禅は格別。毎回自分や世界に対する発見があります。本当にありがたいご縁です。
また、管長猊下直々のご法話も毎年大変勉強になることばかり。中学生相手に優しく易しくお話くださり、私にとってもまたちょうど「いい加減」のご垂言となります。
今年のご法話で印象に残ったのは、「菩薩の心」でした。一言で言うなら「自分より相手」「自分より他者」を優先する心。
一般に「菩薩のような人」とは善良で優しい人のことを指す言葉ですが、「菩薩の心」となると、もう少し深みがあるような気がします。
相手の喜びや苦しみを自分のことのように感じるというのも難しいけれども、菩薩心はそれよりもさらに高い次元です。そう、「自分のことのように」というような自我もないわけですから、自分を一度通過するような過程も踏まず、ストレートに相手と一体化する、いや、相手と一体化というと彼我の二元になってしまいますから、自他不二、無我というか…いやそこにも「自」や「我」という字(概念)があるからだめですね、やはり「空」なんでしょうか、そういう最高の悟りの境地にならないといけません。
もちろん、ワタクシのような俗人がそのような境地に至ることは無理ですが、しかし、そういう目標というか理想があるのは悪いことではないと思います。
今日の管長さまのお話にも目標という言葉が何度も出てきました。その目標達成のために「型」にはまってみなさいと。なるほど、型とは「自我」にとっては他人が作り出した「モノ」。そこにどっぷりはまることによって、すわなち他者の経験的カタ(=コト)を利用して、自我を去る経験をするわけですね。
管長さまのおっしゃるように、だいたい人間の発達、進化を妨げるのは「自我」です。それを捨て去らざるを得ない状況を作るのが、たとえば禅におけるあの窮屈極まりなく、理不尽極まりない「型」なのです。
しかし、私たちの自我もなかなか強情ですから、そのカタからはみ出てしまうモノがある。それこそが、その人の自我のエッセンス、いわば「個性」というものでしょう。
教育活動として考えても、こうして型に生徒をはめてみて気づくその生徒たちの個性というのがある。なんでも自由にしたところで、個性なんか一つも現れてきやしない。そのあたりを戦後の一部の教育は誤ってしまったのでしょう。
そして、「型」にはまりきった時、完全に自我は消え去ります。それが座禅の目的です。もちろんそこまで行ける人は少ないでしょうが、目標、理想、もっとわかりやすく言えば「予感」を抱くことは大切なことですね。
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