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2016.08.12

院内銀山…慰霊について考える

 12日から秋田に来ております。今日書く内容は実際には13日に体験したことですが、諸事情でこの日付けの記事に書かせていただきます。
 湯沢市(旧雄勝郡院内町)の院内銀山跡に行ってきました。

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 院内銀山を訪問するのは16年ぶりくらいのことになりましょうか。なぜこのたび再び院内銀山を訪れることになったのか。これはまた得意の(?)直観からです。人はそれを霊感とも呼びますが…。
 まあ、結果としてはたしかに霊に呼ばれたということになるのかもしれません。
 院内銀山は江戸初期から昭和29年に閉山するまで、産出量日本一を誇った「東洋一の銀山」です。かつては、その狭い山間に1万人から1万5千人の人々が生活していたと言います。今では、ほとんど人が訪れません。
 いや、今や心霊スポットとして肝試しの場所にさえなってしまっていると聞きます。

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 私が訪れた時、あと一組の参拝客(観光客ではないと思います)がいましたが、その方々もすぐにいなくなってしまい、ほとんど私一人でその場と向き合うことになりました。
 いや、本当のことを言うと、こういう霊地訪問の時には必ずご一緒する、出口王仁三郎の耀わん「十和田」をしょっていたので、それほど心細いということはありませんじた。
 さて、予備知識なしに再訪して、まず驚いたのは、寺院跡に建っていたこの碑です。本当にびっくり。なぜなら、「万教帰一」「万教同根」は、まさに出口王仁三郎の教えだからです。鳥肌が立ちました。なぜここに…。
 その碑のところに行くには、朽ちた橋を渡るか、沢まで降りて石伝いに渡るかでしたが、どうしても気になり、沢を渡ることにしました。

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 滑って転ぶことも想定に入れつつ、十和田を背負ったまま対岸に渡ると、まずそこに「水子地蔵」がありました。まずはそこに軽く拝礼してから、石碑の方へ歩いて行き、裏側を写真に撮りました。知らない人たちの名前が刻んであります。

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 帰りには、乱雑になっていた水子地蔵堂の中を少し整理して、今度はしっかりお祈りをしました。壁に詩を書いた紙が貼ってあったので写真に撮って此岸に戻ってきました。
 そして、その夜、その碑と詩に刻まれていた人の正体が分かります。それについてはあとで。
 さて、次なる目標は「御幸坑(みゆきこう)」です。ここも行ってみて分かったのですが、とんでもない場所でした。

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 なんとその「坑」は、明治天皇、有栖川宮熾仁親王、北白川宮能久親王、そして高松宮殿下、同喜久子妃殿下という錚々たるお方々が訪れている場所だったのです。
 全国でもこのような場所は珍しい。それもこのような深山の森の中。そして今ではほとんど忘れ去られている。
 明治天皇と熾仁親王、能久親王は明治14年にそこに行幸しており、その時の様子を描いた絵が、聖徳絵画館のあの一連のシリーズの中にあります。

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 そのお三人様と因縁の仲である王仁三郎の耀わんが135年後にそこを訪れたのには、いったいどういう意味があるのでしょうね。またもや鳥肌が立ちました。
 そして、高松宮様ご夫妻と言えば、有栖川家の祭事や宝物を受け継いだ方。そして、仲小路彰とも昵懇の仲であった方です。それもまた不思議なご縁であります。
 まさか、私もこの秋田の寂しい山奥で、そんな方々と場を共有するとは夢にも思っていませんでした。
 さて、家内の実家に到着してから、その話を義父にしたところ、もしかしてその寺院跡に刻まれていた名前は、「永島さん」ではないかと。

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 写真を確認すると、たしかに「永島ほうゆう」とあります。なんで義父はその方を知っているのか。なんでも今から30年くらい前に、家族で院内銀山を訪れた時、私と同じようにふっと引かれるようにお寺に敷地に行ったのだそうです。すると住職と思しき方が現れて、ゆっくり話をしたとのこと。
 その方が、永島ほうゆう(房雄)さんだったのです。永島さんは院内銀山で生まれ、小学校2年生まで院内に住んでおり、のちに愛知県に越して警察官になったとのこと。退職後、院内のことが忘れられず何度か通い、ほとんど無縁となってしまった墓地の整備や観音像の建立などをするうち、とうとう昭和58年からは廃寺となっていた正楽寺の跡を「無宗山報恩寺」として、たった一人、雪の季節を除いてそこに住み込むことになりました。
 電気も水もガスもない生活。しかし、何か特別な使命感に駆られた永島さんは、私財を投げ打ち、人生をかけて慰霊を続けました。
 そんな話に感じ入った義父は、少しばかりのお布施を置いて来たそうです。

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 永島さんは、数年前、報恩寺で亡くなっているのを発見されたそうです。
 私(というか王仁三郎)が訪ねてきたのを喜んでくださったのでしょうか。本当に今思えば不思議にその「場」に引かれて、危険も顧みず沢を渡ってしまいました。そして、その名前をしっかり記録してきてしまった。
 8月12日、13日と言えば、あの戦争もそうですが、私もその瞬間を目撃してしまった日航ジャンボ機墜落事故の慰霊の日でもあります。
 私たち、当時の人にとっての未来人は、いったいどのような慰霊をすべきなのでしょうか。いろいろ考えてしまいました。
 昨年の夏からの様々な体験は、まさに亡くなった方の霊が現代に生きており、そして決して自由ではない状況で私たちと一緒にいるということを教えてくれました。
 「慰霊」…簡単なようで実に難しい。そして、ただ祈ればいいというものではない。やはり未来的に意味のあるものにしていかねばなりません。難しい人類の課題です。

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